ハンス・クリスチャン・アンデルセン
ハンス・クリスチャン・アンデルセン(丁: Hans Christian Andersen、デンマーク語発音: [ˈhanˀs ˈkʁæsd̥jan ˈɑnɐsn̩](ハンス・クレステャン・アナスン)[1]、1805年4月2日 – 1875年8月4日)は、デンマークの代表的な童話作家、詩人である。デンマークでは、Andersen が非常にありふれた姓であることから、フルネームを略したH. C. Andersen(デンマーク語読みで “ホー・セー・アナスン” [hɔse ˈɑnɐsn̩])と呼ばれる。
1805年4月2日、フュン島の都市オーデンセで、22歳の病気の靴屋の父と数歳年上の母親の家で生まれる。彼の家は貧しく一つの部屋で全員が眠った。
アンデルセンは、両親の愛と母親の盲信によって育てられ、若い頃から想像力を発揮した。1816年に靴職人の父親[2]が亡くなると自分の進路を決めなければならなくなり、学校を中退する。15歳の時、彼はオペラ歌手になろうとし、1819年コペンハーゲンに行った。最初の3年間は困窮を極めた。彼が創作する劇作や歌なども認められなかった。オペラ歌手に成ることには失敗し挫折する、その後も挫折を繰り返し、デンマーク王立バレエ団のバレエ学校にも在籍していた。その後デンマーク王や政治家のヨナス・コリン(コペンハーゲン王立劇場の支配人)の助力で教育を受けさせてもらえることになり、大学にまで行くことが出来た。しかし、在学中の5年間(1822-1828年)は悲惨なものだった。文学的才能について学長から嘲笑されたりしたので、コリンは個人授業を受けさせた。
1828年大学に入学し、文献学と哲学を学んだ。[3]。
1829年には、『ホルメン運河からアマゲル島東端までの徒歩旅行──1828と1829における』[4]を自費で出版しドイツ語版も出るほどであった。
1833年4月から翌1834年8月にかけてヨーロッパを旅行した。パリに滞在したのち、スイスの山村にこもって「アグネーテと人魚」を書き上げ祖国に送って出版する。好評は得られなかったが詩人にとっては画期をなした。秋からイタリアに移り各地を訪問。ローマ滞在中に『即興詩人』を書き始める。またローマで活動していたデンマークの彫刻家トーヴァルセンと親交を結んだ。
デンマークに戻ってきた1835年に最初の小説『即興詩人』を出版する。この作品は、発表当時かなりの反響を呼び、ヨーロッパ各国で翻訳出版されてアンデルセンの出世作となった[5]が、現在は森鴎外訳を得た日本以外で顧みる者はほとんどいない。同年『童話集』を発表するが、当初はむしろ不評であったという。
1843年1月からパリを訪問する。この頃には文名が揚がっていたため、バルザック、ヴィクトル・ユーゴー、アレクサンドル・デュマ父子、ラマルティーヌ、ダヴィッド、ハインリヒ・ハイネ、ラシェル・フェリックスなどの有名人多数と交友した。またこの年、ジェニー・リンドと再会し、彼女のデンマーク初公演を援助した。
その後も死去するまでの間に多くの童話を発表しつづけた。アンデルセンの童話作品はグリム兄弟のような民俗説話からの影響は少なく、創作童話が多い。初期の作品では主人公が死ぬ結末を迎える物も少なくなく、若き日のアンデルセンが死ぬ以外に幸せになる術を持たない貧困層への嘆きと、それに対して無関心を装い続ける社会への嘆きを童話という媒体を通して訴え続けていたことが推察できる。しかし、この傾向は晩年になってようやくゆるめられていき、死以外にも幸せになる術があることを作中に書き出していくようになっていく。また極度の心配性であったらしく、外出時は非常時に建物の窓からすぐに逃げ出せるように必ずロープを持ち歩いた。さらに、眠っている間に死んだと勘違いされて、埋葬されてしまった男の噂話を聞いて以来、眠るときは枕元に「死んでません」という書置きを残していた。70歳の時に、肝臓癌のため死去する。
大学を卒業しなかったアンデルセンは、旅行を自分の学校として、多くの旅行記を書いている。グリム兄弟、バルザック、ディケンズ、ヴィクトル・ユーゴー、シュポーア、ケルビーニ、ダヴィッドなど旅先で多くの作家や学者、芸術家と交友を深めた。生涯独身(未婚)であった。
アンデルセンが亡くなった時は、フレゼリク王太子や各国の大使、子供から年配者、浮浪者に至るまで葬式に並び大騒ぎになった。世界中で愛読されていたにもかかわらず、自身は常に失恋の連続だった。要因として、容姿の醜さ、若い頃より孤独な人生を送ったため人付き合いが下手だったこと、他にもラブレター代わりに自分の生い立ちから、童話作家としてデビューしたこと、初恋に敗れた悲しさなどを綿々と綴られた自伝を送るという変な癖があったことを指摘する人もいる。この著作は死後約50年経て発見された。それらによると生涯に三度、こうした手紙類を記したことが分かっている。探検家デイヴィッド・リヴィングストンの娘との文通は有名である。
彼の肖像は、デンマークの旧10クローネ紙幣に描かれていた。首都コペンハーゲンには人魚姫の像とダンス博物館に王立バレエ団時代の資料が、彼の生まれ故郷オーデンセにはアンデルセンの子供時代の家(一般公開)とアンデルセン博物館がある。また、1956年には彼の功績を記念して国際児童図書評議会 (IBBY) によって「児童文学への永続的な寄与」に対する表彰として国際アンデルセン賞が創設され、隔年に授与が行われている。この賞は「児童文学のノーベル賞」とも呼ばれ、高い評価を得ている[6]。
フランツ・カフカ
フランツ・カフカ(Franz Kafka, ときにチェコ語: František Kafka, 1883年7月3日 – 1924年6月3日)は、出生地に即せば現在のチェコ出身のドイツ語作家。プラハのユダヤ人の家庭に生まれ、法律を学んだのち保険局に勤めながら作品を執筆、どこかユーモラスで浮ついたような孤独感と不安の横溢する、夢の世界を想起させる[1]ような独特の小説作品を残した。その著作は数編の長編小説と多数の短編、日記および恋人などに宛てた膨大な量の手紙から成り、純粋な創作はその少なからぬ点数が未完であることで知られている。
生前は『変身』など数冊の著書がごく限られた範囲で知られるのみだったが、死後中絶された長編『審判』『城』『失踪者』を始めとする遺稿が友人マックス・ブロートによって発表されて再発見・再評価をうけ、特に実存主義的見地から注目されたことによって世界的なブームとなった。現在ではジェイムズ・ジョイス、マルセル・プルーストと並び20世紀の文学を代表する作家と見なされている[2]。
出自と家庭[編集]
フランツ・カフカ[注釈 3]は、1883年、オーストリア=ハンガリー帝国領プラハにおいて、高級小間物商を営むヘルマン・カフカ(1852年 – 1931年)とその妻ユーリエ(1856年 – 1934年)との間に生まれた。両親は、ともにユダヤ人である。
父ヘルマン・カフカは、南ボヘミアの寒村ヴォセクの畜殺業者ヤーコプ・カフカの息子であった。チェコ語を母語とし、ユダヤ人向けの初等学校でドイツ語を習得したが、後年になってもドイツ語を完全に操ることはできなかった[5]。彼は、ユダヤ社会で成人の1年後にあたる14歳の時に独り立ちし、田舎の行商をしていたが、20歳の時にオーストリア軍に徴兵され、2年間の兵役を勤めた後、都市プラハに移った。1882年、裕福な醸造業者の娘ユーリエ・レーヴィと結婚し、彼女の財産を元手にして小間物商を始めた[6]。
父ヘルマンがチェコ語を母語としていたのに対し[注釈 4]、母方のレーヴィ家はドイツ風の慣習に馴染み、ドイツ語を話す同化ユダヤ人であった。レーヴィ家は、ユダヤ社会の名門であり、祖先には学識の高いラビやタルムード学者のほか変人、奇人も多く存在する。カフカは、自分の資質について、父方よりも母方の血に多くを負っていると感じており[8]、日記やメモではもっぱらこの母方の祖先について言及した[9]。母ユーリエ・レーヴィには3人の兄と2人の義弟がおり、長兄アルフレートはスペイン鉄道の支配人となりカフカの最初の就職の手助けをしている(カフカ家では「マドリードの伯父」と呼ばれていた)。上の義弟ジークフリート[注釈 5]は、学識と機知に富む変わり者であり、メーレンの田舎町トリーシュで医者をして生活していた。カフカは、この叔父を気に入り、晩年までしばしば叔父のもとを訪れ滞在している。母方の5人の叔父のうち、この2人を含む3人が独身であった[11]。
フランツ・カフカは長男であり、彼が生まれた2年後に次男ゲオルクが、さらに2年後に三男ハインリヒが生まれたが、いずれも幼くして死去している。両親には続いてガブリエル、ヴァリー、オティリーの3人の娘[注釈 6]が生まれた。幼いころは妹3人で固まってしまい、また両親はいつも仕事場にいたためカフカは孤独な幼少期を送ったが、晩年に病にかかってからは三女のオティリー(愛称オットラ)と親しくした。カフカ家には他に料理女や乳母が出入りしており、カフカは主に乳母を通じてチェコ語を覚えた。
人柄[編集]
生前のカフカについては友人、知人たちによる多くの証言が残っている。それらによればカフカはいたって物静かで目立たない人物であった。人の集まる場ではたいてい聞き役に回り、たまに意見を求められるとユーモアを混じえ、時には比喩を借りて話し、意見を言い終わるとまた聞き役に戻った[31]。職場では常に礼儀正しく、上司や同僚にも愛され、敵は誰一人いなかった[32]。掃除婦に会った際にも挨拶を返すだけでなく、相手の健康や生活を案じるような一言二言を必ず付け加えたという。掃除婦の一人はカフカについて「あのかたは、ほかのどの同僚ともちがっていました。まるきり別の人でした」と話している[33]。
晩年は年少者の人の相談や対話の相手をすることも多く、1919年にサナトリウムで出会った少女ミンツェ・アイスナーとは死の年まで文通が続いた[34]。1920年には職場の同僚の息子で作家志望の青年であったグスタフ・ヤノーホと知り合い、後々まで彼の対話の相手となった。ヤノーホは後にこの体験を回想して『カフカとの対話』(1951年)を執筆し、後のカフカ受容に影響を与えることになる。1921年からは16歳年下の医学生ローベルト・クロプシュトックとも親しくなり、作家に憧れて進路に悩んでいた彼の相談相手になった[35]。
カフカの晩年のエピソードとして、ドーラ・ディアマントより次のような話が伝えられている。ベルリン時代、カフカとドーラはシュテーグリッツ公園をよく散歩していたが、ある日ここで人形をなくして泣いている少女に出会った。カフカは少女を慰めるために「君のお人形はね、ちょっと旅行に出かけただけなんだ」と話し、翌日から少女のために毎日、「人形が旅先から送ってきた」手紙を書いた。この人形通信はカフカがプラハに戻らざるを得なくなるまで何週間も続けられ、ベルリンを去る際にもカフカはその少女に一つの人形を手渡し、それが「長い旅の間に多少の変貌を遂げた」かつての人形なのだと説明することを忘れなかった[36]。
グリム兄弟
グリム兄弟(グリムきょうだい、独: Brüder Grimm)は、19世紀にドイツで活躍した言語学者・文献学者・民話収集家・文学者の兄弟。日本では、『グリム童話』の編集者として知られる。
大人になるまで成長した兄弟としては男5人、女1人の6人兄弟であったが、通常は後世にまで名を残した長兄ヤーコプと次兄ヴィルヘルムの二人を指す(今日では後述の末弟・ルートヴィッヒも含むこともある)。
多くをヤーコプ・ヴィルヘルムの兄弟として活躍したが、グリム童話集ではルートヴィヒも挿し絵を手がけている。
ハーナウに生まれる。父は法律家のフィリップ・ヴィルヘルム・グリム(1751年 – 1796年)で、シュタイナウの伯爵領管理官兼司法官であった。
兄弟は裕福な家庭に生まれたが、1796年に父親が肺炎で死去し、困窮に陥った。しかし、伯母ヘンリエッケ・ツィンマーの援助により、ヤーコプ・ヴィルヘルムの二人は、ギムナジウムに入学し、首席で卒業、マールブルク大学法学部に進学した。大学で、新進の法学者・フリードリヒ・カール・フォン・ザヴィニー教授の影響を受け、ドイツの古文学や民間伝承の研究に目を向けるようになった。
ゲッティンゲン七教授事件
詳細は「ゲッティンゲン七教授事件」を参照
ヤーコプとヴィルヘルムは共にゲッティンゲン大学の教授だったが、大学の自治問題に関与して、1837年に他の数人の教授と自らの矜持を貫き、大学を去る。「ゲッティンゲンの七人事件」(Gottinger Sieben)とも呼ばれる。
1840年に兄はベルリン大学教授となるが、弟ヴィルヘルムは同じくベルリンで、より自由な立場で著述活動を行った。多くを兄弟として活躍し、『グリム童話集』の編集者として著名である。また、ゲルマン語の研究者としてもしられ、比較言語学を生み出した「グリムの法則」でも知られている。
ヤーコプ・グリム
ヤーコプ・ルートヴィヒ・カール・グリム(ドイツ語: Jacob Ludwig Karl Grimm、1785年1月4日 – 1863年9月20日)は、グリム兄弟の長兄。法制史・印欧語研究で名を成し、1819年から1834年にかけて発行された「ドイツ語文法」で知られる。この中の子音の推移についての法則性は、「グリムの法則」と呼ばれている。なお、ドイツ語の習得に欠かせない概念であるウムラウトや強変化・弱変化もヤーコプの造語である。
大学卒業前の1805年にザヴィニー教授の招きを受け、パリで法政史研究の助手として働く。1806年にドイツに戻ってきたが、今度はナポレオン戦争の後始末で、公設秘書として各国を飛び回り、ウィーン会議にも出席している。その後、『ドイツ語文法』を1819年から1834年にかけて発行。途中、1829年、弟と共にゲッティンゲン大学に呼ばれ、司書官兼教授として教鞭を執った。1835年、『ドイツ神話学』を刊行し、ドイツ人にも忘れ去られていた妖精や神々の神話を書物に残した。評議員にも選ばれ、宮中顧問官の称号を受けるなど大学でも彼は高く評価された。
しかし1837年、「ゲッティンゲン七教授事件」(前述)で失職し、亡命先のカッセルで、自分たちの主張をまとめた弁明書『彼の免職について』を発表、スイスのバーゼルで発刊された。兄弟は、失職の身のままドイツ語辞典の編纂にあたったが、1840年プロイセンの国王がフリードリッヒ・ヴィルヘルム4世に代わると、兄弟はベルリン大学の教授として迎えられた。1842年、ザヴィニーや歴史学者ランケと共に国家勲章プール・ル・メリトを与えられた。1846年のフランクフルトで開催されたドイツ文学者会議では、ヤーコプは満場一致で議長に選出された。また、1847年のフランクフルト国民議会でも代議員に選出され、憲法草案を提示している。
生涯を独身で過ごし、ヴィルヘルムが結婚してからは、ヴィルヘルム夫婦と共に暮らした。
ヴィルヘルム・グリム
ヴィルヘルム・カール・グリム(ドイツ語: Wilhelm Karl Grimm、1786年2月24日 – 1859年12月16日)はグリム兄弟の次兄。グリム童話の二版目以降の改訂は、ほぼ彼の手によっている。
ヴィルヘルムは、あまり体が丈夫でなかったこともあり、政治的にも目立った活躍をした兄と違い、身体をいたわりながら地道に研究を続けた。社交的な性格であったこともあり、兄弟はそれぞれの違いを認めつつ、よく補い合って活躍したと言われている。
大学を卒業後、しばらくは病身のため職に就けなかったが、1814年、カッセル大公の図書館書記となる。1825年、幼なじみのドルトヒェン・ヴィルトと結婚し、3人の子を成した。1829年、兄ヤーコプと共にゲッティンゲン大学に呼ばれ、教鞭を執った(正確には、この時点では司書、翌年から司書官兼助教授、4年後から司書官兼教授となった)。1834年、処世訓集『フライダンクの分別集』を復刻。1837年、「ゲッティンゲン七教授事件」(前述)で失職した。グリム兄弟は、失職の身のままドイツ語辞典の編纂にあたったが、1840年プロイセンの国王がフリードリヒ・ヴィルヘルム4世にかわると、兄弟はベルリン大学の教授として迎えられた。
ルートヴィッヒ・グリム
ルートヴィッヒ・エミール・グリム(ドイツ語: Ludwig Emil Grimm、1790年3月14日 – 1863年4月4日)は、グリム兄弟の末弟。兄たちと違い、大学までは進学できなかったが、カッセルの美術学校の教授をつとめるなど、画家として一定の評価を得ている。元々、グリムファンたちの間でしか知られない存在であったが、第二次大戦後、一般にも知られるようになった。
ニコライ・ゴーゴリ
ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ(ウクライナ語:Микола Васильович Гоголь[1] / ロシア語: Николай Васильевич Гоголь; 1809年4月1日(ユリウス暦3月20日) – 1852年3月4日(ユリウス暦2月21日))は、ウクライナ生まれのロシア帝国の小説家、劇作家。ウクライナ人。戸籍上の姓は、ホーホリ=ヤノーウシクィイ(ロシア語:ゴーゴリ=ヤノフスキー)である。『ディカーニカ近郷夜話』、『ミルゴロド』、『検察官』、『外套』、『死せる魂』などの作品で知られる。
生涯
ウクライナのソロチンツィの小地主の家に生まれる。ソ連時代のゴーゴリ研究によると、先祖はヤノーウシクィイ(ロシア語:ヤノフスキー)姓で、ウクライナの聖職者であったが、祖父の代(18世紀後半)に至り、婚姻によって領地を得、地主となった。1783年、エカチェリーナ2世がウクライナに農奴制を導入するに伴い、貴族の称号を持たない者には地主としての土地と農奴の所有が許されなくなったため、フメリニツキーの乱に参加したウクライナ・コサックの連隊長であるオスタープ・ホーホリ(ロシア語:オスタープ・ゴーゴリ)なる人物を、自家の系図の筆頭に据え、姓もホーホリ=ヤノーウシクィイ(ロシア語:ゴーゴリ=ヤノフスキー)と改めた[2]。父親のヴァスィーリ・ホーホリ=ヤノーウシクィイ(ロシア語:ワシーリー・ゴーゴリ=ヤノフスキー)は、アマチュア劇作家で、ウクライナ語による劇作品を2篇遺している。
1818年、弟イワンと共に親元を離れ、ポルタヴァの小学校に入学。翌年弟が死去し、深い衝撃を受ける。1821年、ネージンの高等中学校に寄宿生として入学。在学中は学業よりも絵画と文学に熱中し、また父譲りの演劇の才を発揮して、学校劇では老け役や吝嗇漢を演ずるのを得意とした。卒業後、1828年にサンクトペテルブルクに移り、長詩『ガンツ・キュヘリガルテン』をV・アロフなる筆名で自費出版するが、酷評され、失望のあまり国外へ逃亡する。同年、ペテルブルクに舞い戻り、俳優を志すが失敗し、かろうじて下級官吏の職を得る。この時期の、薄給に喘ぐ貧寒な生活の経験は、都市の下層民や小役人や俗物たちを描くのちの「ペテルブルクもの」と呼ばれる作品群に活かされることになる。1830年、『ビザヴリューク、あるいはイワン・クパーラの前夜』を匿名で発表、不遇のうちにも詩人ジュコーフスキーや、ペテルブルク大学総長で詩人・批評家のピョートル・プレトニョフの知遇を得る。1831年には愛国女学院に職を得て生活も安定し、同年5月、ジュコーフスキーの紹介でアレクサンドル・プーシキンと会う。プーシキンはゴーゴリの才能を評価し、以後、親交を持った。同年9月、当時流行のウクライナのフォークロアに取材した『ディカーニカ近郷夜話』(第1部1831年、第2部1832年)を出版し、一躍人気作家となる。1834年から1835年までペテルブルク大学で歴史を教える。その後、ウクライナ物を集めた『ミルゴロド(ロシア語版、ドイツ語版、英語版)』や、ペテルブルクを舞台にした『肖像画』、『ネフスキー大通り』、『狂人日記』、『鼻』などの中編小説(ポーヴェスチ、повесть)で文名はいよいよ高まる。1836年の戯曲『検察官(ロシア語版、ドイツ語版、英語版)』によってその名は広く一般に知られるところとなるが、その皮肉な調子は非難の対象となり、それを避けてゴーゴリはローマへ発った。途中パリでプーシキンの訃報を知り、衝撃を受ける(1837年)。これ以降彼は、教化と予言とによってロシア民衆を覚醒させ、キリスト教的な理想社会へと教え導くことこそが自己の使命であると痛感するようになる。
ゴーゴリはその残りの人生の大部分をドイツとイタリアで過ごした。その頃の手紙によって、ゴーゴリには同性愛的傾向があったと言われる[3]。1839年に恋人の突然の死を経験するが、その事件が彼の後半生にどのような影響を与えたのかについては未だ謎が多い。『死せる魂』と『外套』を書いたのはこの頃のことである。『死せる魂』第一部は1842年に刊行された。ゴーゴリにとって、第一部は克服すべきロシアの腐敗を描いた序章にすぎず、第二部・第三部において主人公チチコフの成長と魂の救済、美と調和を体現する理想のロシアが描かれる筈であった。しかし、執筆は遅々として進まず、1845年、苦悶のあまり第二部の草稿を火中に投じる。1847年、『友人との往復書簡選』[4]を出版。その頑迷で教条的な説教と、帝政と農奴制を賛美する反動思想とにより、ベリンスキーをはじめそれまでゴーゴリを高く評価してきた多くの支持者を失う。1848年、次第に信仰にのめり込んでいたゴーゴリはエルサレムへ巡礼に旅立つ。エルサレムより戻った後、聖職者コンスタンティノフスキーの影響のもと、信仰生活のために文学を棄てることを決心し、書き溜めてあった『死せる魂』の第二部をふたたび焼いてしまう。彼がモスクワで断食により歿したのはその10日後、1852年3月4日のことだった。『死せる魂』の第二部は、その一部が残されており、刊行されている。
ダンテ・アリギエーリ
ダンテ・アリギエーリ(イタリア語:Dante Alighieri、1265年 – 1321年9月14日)は、イタリア都市国家フィレンツェ出身の詩人、哲学者、政治家。
ダンテの代表作は古代ローマの詩人ウェルギリウスと共に地獄(Inferno)、煉獄(Purgatorio)、天国(Paradiso)を旅するテルツァ・リーマで構成される叙事詩『神曲(La Divina Commedia)』であり、他に詩文集『新生(La Vita Nuova)』がある。イタリア文学最大の詩人で[1][2]、大きな影響を与えたとされるルネサンス文化の先駆者と位置付けられている[1]。
誕生
1265年、イタリア中部にあるトスカーナ地方のフィレンツェで、金融業を営む教皇派(ゲルフ)の小貴族の父アリギエーロ・ディ・ベッリンチョーネ(Alaghiero(Alighieroとも) di Bellincione)とその妻ベッラ(Bella)の息子として生まれた。ダンテの先祖には神聖ローマ皇帝であったコンラート3世に仕え、第2回十字軍に参加して1148年にイスラム教徒と戦い、戦死した曽々祖父カッチャグイーダ(英語版)(1091年 – 1148年頃)がいることは『神曲』天国篇第15歌の第133行から第135行で明らかになる[3]。
ダンテは生後、聖ジョヴァンニ洗礼堂で洗礼を受け「永続する者」の意味を持つドゥランテ・アリギエーリ(Durante Alighieri)と名付けられた。なお「ダンテ(Dante)」は、ドゥランテの慣習的短縮形である。
ダンテの正確な誕生日は明らかではないが、『神曲』天国篇第22歌の第109行から第117行の中にその手掛かりが見られる。
この記述によると、ダンテがトスカーナに生を享けたのは、全ての生命の父たる太陽が黄道十二宮の金牛宮に続く双児宮のもとに懸っていた間ということが分かる。すなわち、双児宮のダンテの誕生日は、1265年の5月半ばから6月半ばにかけての間と考えられている。
アーサー・コナン・ドイル
サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル[1][注釈 1](英語: Sir Arthur Ignatius Conan Doyle, KStJ, DL, [ˈɑːrθər ɪgˈneɪʃ(i)əs ˈkoʊnən / ˈkɑnən ˈdɔɪl][9] 発音例1発音例2, 1859年5月22日 – 1930年7月7日)は、イギリスの作家、医師、政治活動家。
推理小説・歴史小説・SF小説などを多数著した。とりわけ『シャーロック・ホームズ』シリーズの著者として知られ、現代のミステリ作品の基礎を築いた。SF分野では『失われた世界』、『毒ガス帯(英語版)』などチャレンジャー教授が活躍する作品群を、また歴史小説でも『ホワイト・カンパニー(英語版)』やジェラール准将(英語版)シリーズなどを著している。
1902年にナイトに叙せられ、「サー」の称号を得た[注釈 2]。
1859年5月22日にスコットランド・エディンバラに測量技師補チャールズ・ドイルの息子として生まれた。アイルランド系・カトリックの家庭だった。大伯父から「コナン」の姓をもらい、「コナン・ドイル」の複合姓となる。祖父や伯父3人は成功者だったが、父は出世せず、後にはアルコール中毒者となって精神病院に送られたため、幼少期・青年期の生活は苦しかった(→出生と出自)。
伯父たちの支援でイエズス会系の学校を出た後、1876年にエジンバラ大学医学部に進学し、1881年に学位を得て卒業した(→学生時代)。大学卒業後、医師として診察所を開業したが、大きな成功は得られなかった(→医師として)。
患者を待つ暇な時間を利用し、副業で小説を執筆して雑誌社に投稿するようになり、1884年にはシャーロック・ホームズシリーズの第一作である長編小説『緋色の研究』を発表している(→副業としての初期の執筆活動)。1889年に出版された歴史小説『マイカ・クラーク(英語版)』、1890年に出版されたホームズシリーズ第2作『四つの署名』、1891年に出版された歴史小説『ホワイト・カンパニー(英語版)』などで小説家として成功した(→小説家としての成功)。
1891年にはこれまでの診察所を閉めて、無資格の眼科医を始めたものの、患者は全く来なかった。これをきっかけに執筆業一本に絞ることになった(→眼科への転身失敗と執筆業一本化)。
1891年から『ストランド・マガジン』で読み切りのホームズ短編小説の連載を始め、爆発的な人気を獲得した(→シャーロック・ホームズの大ヒット)。しかし彼は歴史小説を自分の本分と考えていたのでホームズシリーズが著名になり過ぎると、ホームズを倦厭するようになり、1893年発表の『最後の事件』においてホームズを死亡させた。その後、ナポレオン戦争時代を舞台にしたジェラール准将(英語版)シリーズの連載を開始した(→歴史小説を志向)。
1900年にボーア戦争が勃発すると医療奉仕団に医師の一人として参加して戦地に赴いた(→戦地医療奉仕活動)。同年10月に行われた解散総選挙(英語版)に与党自由統一党の候補としてエディンバラ・セントラル選挙区(英語版)から出馬し、戦争支持を訴えたが、落選した(→総選挙に出馬するも落選)。ボーア戦争がゲリラ戦争と化して焦土作戦や強制収容所などイギリス軍の残虐行為への国内外の批判が高まっていく中、1902年には『南アフリカ戦争 原因と行い』を発表して、イギリス軍の汚名を雪ぐことに尽力し、その功績で国王エドワード7世よりナイトに叙され、「サー」の称号を得た(→英軍擁護運動)。
1901年には久々のホームズ作品である長編小説『バスカヴィル家の犬』を発表した。この作品の事件の発生年は『最後の事件』より以前に設定され、死亡したと設定されたホームズの復活ではなかったが、1903年から再開されたホームズ短編連載ではホームズは生きていたと設定された(→ホームズの復活)。
彼は「自分にはホームズのような推理力はない」と語っていたが、「ジョージ・エダルジ(英語版)事件」や「オスカー・スレイター事件」といった事件で、警察の杜撰な捜査を暴いて、犯人とされた人物の冤罪を晴らすことに尽力した(→冤罪事件への取り組み)。
1912年4月のタイタニック号沈没事件をめぐっては乗客・船員の英雄譚の実否をめぐって否定的なジョージ・バーナード・ショウと論争した(→タイタニック沈没事件をめぐる論争)。
1912年にはチャレンジャー教授シリーズの第1作である『失われた世界』、その翌年には第2作『毒ガス帯(英語版)』を発表し、SF小説にも進出した(→チャレンジャー教授の創造と大戦前の動向)。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると政府や軍部の戦争遂行を全力で支援した。戦意高揚のための執筆活動や、各前線をまわって士気を鼓舞する演説を行うことに努めた(→第一次世界大戦をめぐって)。
一次大戦前から心霊主義に関心を持っていたが、戦中の相次ぐ身内の戦死・病死により、戦後には心霊主義への傾斜を一層強めた。晩年の活動はほぼすべて心霊主義活動に捧げられた。1925年にはチャレンジャー教授が心霊主義に目覚める『霧の国(英語版)』を発表した(→心霊主義、心霊主義活動の本格化)。
様々な分野の執筆を行ったが、推理小説シャーロック・ホームズシリーズの名声が最も高く、この作品を通じて後世の推理物の様々な原型を築いた(→評価)。政治思想面では、中世騎士道を基礎として、国家主義、帝国主義、反共主義、婦人参政権反対、離婚法改正賛成などの立場をとった(→政治思想)。クリケットをはじめとして様々なスポーツに打ち込むスポーツマンでもあった(→スポーツマン)。先妻はルイーズ、後妻はジーン。先妻との間には1男1女、後妻との間には2男1女を儲けた(→家族)
アントン・チェーホフ
アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(ロシア語Антон Павлович Чехов:アントーン・パーヴラヴィチ・チェーハフ/ラテン文字(英文表記)Anton Pavlovich Chekhov、1860年1月29日・タガンログ – 1904年7月15日・バーデンワイラー)は、ロシアを代表する劇作家であり、多くの優れた短編を遺した小説家。
生涯
アントン・チェーホフは、父パーヴェル・エゴーロヴィチ・チェーホフと、母エヴゲーニヤ・ヤーコヴレヴナ・チェーホワの3男として生まれた。兄にアレクサンドル、ニコライ、弟にイヴァン、ミハイル、妹にマリヤがいる。父方の祖父エゴールは農奴だったが、領主に身代金を支払って一家の自由を獲得した。父パーヴェルはタガンログで雑貨店を営んでいた。
1876年に一家は破産し、夜逃げしてモスクワに移住した。しかしアントンだけがタガンログに残ってタガンログ古典科中学(en)で勉学を続けた。この頃から詩や戯曲などを書いていたといわれていて、作品名こそ伝えられてはいるが、作品そのものは現存していない。
1879年に中学を卒業してモスクワに移り、モスクワ大学医学部に入学した。アントーシャ・チェホンテーなど複数のペンネームを用いて雑誌にユーモア短編を寄稿するようになった。学業と作家活動を兼ねる多忙な日々を送り、アントンの友人が家を訪れると、父であるパーヴェルが「いまアントンは忙しいから」と来訪を断ることも多々あったという。1884年には医学部を卒業し、医師としての資格を得、また実際に医師として診察などを行うようになった。こういったエピソードが伝えるとおり早熟な男子であり、母エヴゲーニヤや妹マリヤは「アントンが泣いたことは見たことが無い」と回想している。
作家として駆け出しの頃のチェーホフがユーモア短編を主に書いていたことはよく知られているが、それは生活費を得るためという現実的な要請によるものだった。いわゆる「本格的な」作家への転機となったのは1886年に老作家、ドミートリイ・グリゴローヴィチから激励と忠告を受けたことだったといわれている。グリゴローヴィチはチェーホフの文筆家としての才能を称賛しつつ、ユーモア短編の量産はせっかくの才能を浪費するものだと警告したのだった。これを機にチェーホフは文学的な作品の創作に真摯に取り組むようになり、「幸福」、「芦笛」、「曠野」、「ともしび」などの優れた作品が生まれたとみることもできよう。
1887年に書かれた初の本格的な長編戯曲『イワーノフ』は翌1888年の初演の評判こそよくなかったものの、1889年にサンクトペテルブルクのアレクサンドリンスキイ劇場での再演[1]は好評を博した。チェーホフは文壇の寵児となり、おどけて自らを「文壇のポチョムキン」と呼びさえした。当時の書簡には、ペテルブルクの道を歩くだけで花束を投げ込まれ、女性たちに囲まれたことが記されている。この頃に書かれた「退屈な話」(1889年)は、人生の意味を見失った老教授の不安と懐疑に苛まれたわびしい心情を描いた作品であるが、レフ・トルストイの短編『イワン・イリイチの死(英語版)』を下敷きにしたことをたびたび指摘されるように、当時のチェーホフがレフ・トルストイの思想に傾倒していたことが知られている。
1890年の4月から12月にかけて、チェーホフは当時流刑地として使用されていたサハリン島へ「突然」でかけ、過酷な囚人たちの生活や環境をつぶさに観察し記録を残した[2][3]。この時の見聞は旅行記『サハリン島』(露: Остров Сахалин)としてまとめられて出版されており、サハリン旅行を作家チェーホフの転機とみなす指摘は少なくない。翌1891年には新聞社を経営していたアレクセイ・スヴォーリンとともに西ヨーロッパを訪れた[4]。スヴォーリンはチェーホフの作品をいくつも出版していた人物であり、2人は長く親密な友人関係を築いていた。しかしドレフュス事件を受けてアルフレド・ドレフュスを擁護したチェーホフはスヴォーリンと対立し、両者の関係は決裂するに至る。
1892年にメリホヴォに移り住み、ここで1895年の秋に長編戯曲『かもめ』を執筆した。この作品は翌1896年秋にサンクトペテルブルクのアレクサンドリンスキイ劇場で初演されたが、これはロシア演劇史上類例がないといわれるほどの失敗に終わった、と長年いわれてきたが、最近の研究では、むしろ成功をおさめた部類なのではないかともいわれている。2年後の1898年にはモスクワ芸術座によって再演されて大きな成功を収め、チェーホフの劇作家としての名声は揺るぎないものとなった。モスクワ芸術座はこの成功を記念して飛翔するかもめの姿をデザインした意匠をシンボル・マークに採用した。
この1898年にチェーホフはヤルタに家を建て、翌1899年に同地に移り住んだ。ここで短編小説「犬を連れた奥さん」などを執筆した。またこの1899年にはモスクワ芸術座で『ワーニャ伯父さん』が初演され、1901年には同じくモスクワ芸術座で『三人姉妹』が初演された。この時マーシャ役を演じた女優、オリガ・クニッペルと同年5月に結婚した。
1904年には最後の作品『桜の園』がやはりモスクワ芸術座によって初演された。『桜の園』が初演された1月17日はチェーフの44歳の誕生日であり、チェーホフ筆歴25年の祝賀が兼ねられていた。だがチェーホフはすでに病み衰えており、舞台に立ち続けることはできなかった。同年6月に結核の治療のためドイツのバーデンワイラーに転地療養したが、7月15日に同地で亡くなった。最後の言葉はドイツ語で「私は死ぬ」であったと伝えられる。現在はノヴォデヴィチ墓地に葬られている。
シャルル・ボードレール
シャルル=ピエール・ボードレール(フランス語: Charles-Pierre Baudelaire(発音例)、1821年4月9日 – 1867年8月31日)は、フランスの詩人、評論家である。
生涯
自画像
ジョゼフ・フランソワ・ボードレールの息子としてパリに生まれる。ジョゼフはパリ大学で哲学と神学を学んだ司祭であったが、後に職を辞し、芸術家らと交わるなど、芸術に深い関心を持っていたという。第一帝政下で上院議員の議長を務めるなどした人物でもあった。晩婚のジョゼフはボードレールが6歳のときに亡くなり、その1年半後、まだ若く美しい母カロリーヌは、将来有望な軍人オーピックと再婚する。ボードレールは母の再婚に深く傷つき、生涯エディプス・コンプレックスというべき鬱屈とした感情を抱えることになる。
もっとも、ボードレールは高校まで、養父の望みに適う優等生として努力していたという。実際、彼が通ったリヨンのルイ・ル・グラン高校は、エコール・ノルマル・シュペリウールの合格者を多く出しており、いわゆるエリート高校であった。ここで彼は決して劣等生ではなかったし、しばしば成績の上位者にも入ったことがクロード・ピショワらの評伝によって確認されている。しかし最終学年、ボードレールは哲学級で教員と問題を起こし、中退する。その後、別の高校で高校卒業の認定を受け、パリ大学の法学部に籍を置く。しかし彼は法律を勉強した気配はなく、文学者になると称し、上昇志向の強い中流階級の家族を失望させる。
ボードレールは20歳になると亡父の遺産を引き継ぎ、中流の家庭にとって身分不相応な散財を行う。財産を使い果たすことを恐れた親族らによって、1841年6月、ボードレールは半ば強制的に遠洋航海に出される。アフリカの喜望峰を経由し、インド洋からアジアに向かうというものであったが、嫌気がさしたボードレールは途中で下船し、旅半ばで舞い戻ってくる。以後、晩年のベルギー旅行をのぞけば、彼が海外に足を伸ばすことはなかった。これはゴーティエやネルヴァルといった当時の文学者らの多くが旅行家であったことを考えると驚くべきことである。
ボードレールの詩作は、20代に大半が書かれたと言われる。しかし彼が最初に文壇に登場したのは、1845年、官展(サロン)の美術批評家としてである。『1845年のサロン』から『1846年のサロン』にかけて、彼は、ロマン主義画家のドラクロワを、新古典派からの攻撃に対して擁護する。もっとも、「擁護」という表現は必ずしも事実ではない。厳密に言えば、その当時すでにロマン派と新古典派の対立は下火になっていたのであり、ドラクロワはアングルと並ぶ巨匠と見なされていた。近年の研究者らはボードレールがドラクロワに庇護してもらうことを期待したのではないかとみている。以後、美術評論は『1855年の万国博覧会』『1859年のサロン』と続くが、最大の功績はコンスタンタン・ギースを論じた『現代生活の画家』において「モデルニテ」の概念を提唱したことである。ボードレール以前にも詩人が美術評論を書くということは間々あったが、彼の美術評論は後年の詩人らに影響を与え、「詩人による美術批評」はラフォルグ、アポリネールへの系譜と連るとみなされる。またエドガー・アラン・ポーを翻訳、フランスに紹介した。
ダンディとして知られ、亡父の遺産をもとに散財の限りを尽くし、準禁治産者の扱いを受ける。その後は、死ぬまで貧窮に苦しむこととなる。
ルイ・オーギュスト・ブランキの中央共和派協会に入会し、二月革命には赤いネクタイを巻いて参加レアリスト画家クールベらと友好を結び、プルードンと会う。
生前発表した唯一の詩集『悪の華』が摘発され、そのうちの6編が公序良俗に反するとして罰金刑を受ける。後に第2版を増補版として出版し、詩人としての地位を確立した。その卑猥的、耽美的、背教的な内容は、後の世代に絶大な影響を与えることとなる。特に現実と理想の溝から生じる、作品に溢れる絶望感とアンニュイは、一種の退廃的な時代の病を表徴している。
韻文詩集発表後、彼は散文詩と呼ばれるジャンルに新たな詩的可能性を目指し、執筆を続ける。生前は作品集としては陽の目を見なかったものの、後に『パリの憂鬱』(『小散文詩』)として出版された。いまなお多くの示唆にあふれる内容となっている。
マクラウド フィオナ
作家名: | マクラウド フィオナ |
作家名読み: | マクラウド フィオナ |
ローマ字表記: | Macleod, Fiona |
生年: | 1855-09-12 |
没年: | 1905-12-12 |
ギ・ド・モーパッサン
ギ・ド・モーパッサン(モパサン)(アンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサン(Henri René Albert Guy de Maupassant 発音例)、1850年8月5日 – 1893年7月6日)は、フランスの自然主義の作家、劇作家、詩人。『女の一生』などの長編6篇、『脂肪の塊』などの短篇約260篇、ほかを遺した。20世紀初期の日本の作家にも影響を与えた。
生涯
ノルマンディー、セーヌ=マリティーム県北部の沿海地域に生まれたと言われるが、詳しい生誕地については諸説ある。父はギュスターヴ(Gustave)、母はロール・ル・ポワトヴァン(Laure Le Poittevin)で、ブルジョワ階級であった。
1862年、12歳のときに不仲の父母が別居し、エトルタの別荘で母と暮らすようになった。1863年、イヴトー(Yvetot)の神学校の寄宿舎に入ったがなじめず、1868年ルーアンに移り、1869年、そこのコルネイユ高等中学(Lycée Corneille)でバカロレア資格を得た。1870年パリ大学法学部へ進んだ直後に普仏戦争の遊撃隊(Garde-mobile)として召集されるも、敗走した。敵を憎み、戦争をも憎んだ。
1872年、22歳のとき、パリに出て海軍省の小役人になった。伯父の親友で、母の知り合いでもあったフローベル(1821 – 1880)の指導を受けるようになる。フローベールの家で、ツルゲーネフ、ゴンクール兄弟、ゾラ、ドーデーらに出会い、1875年に短篇『剥製の手』を、1876年に詩『水辺にて』が雑誌に掲載された。翌1877年から先天的梅毒による神経系の異常を自覚するようになった。1878年、文部省へ転じた。
1880年、30歳のとき、ゾラを中心として普仏戦争を扱った同人作品集『メダンの夕』に『脂肪の塊』が掲載され、文豪としての地位を確立した。鋭い筆致で庶民を描いた「ゴロワ」(Le Gaulois)、「ジル・ブラス」(Gil Blas)、フィガロの3紙にも作品を載せ、のち単行本として編纂された。この年、『水辺にて』と短篇『壁』が風俗紊乱の追求を受けた。この頃から神経系の眼疾が悪化し、文部省を休職、1882年に退職した。
1883年、33歳のときの『女の一生』は、ロシアの文豪トルストイにも評価され、3万部を売り上げた。同年エトルタに別荘を構え、1885年には南仏アンティーブに別荘を買った。1886年、ヨットを持った。活発な執筆出版活動のかたわら、旅も頻繁に出掛け、海浜での水の遊びを好いた。婦人との交友はあったが、生涯結婚はしなかった。この頃になると目は更に悪化していった。
1888年、38歳、不眠症を患い奇行が目立つようになり、1889年には、麻酔薬を乱用した。この年のパリ万博に建ったエッフェル塔を嫌い、眺めずに済むからと、塔のレストランで食事した。1891年に発狂し、1892年自殺未遂を起こして、パリ16区パッシー(Passy)の精神病院に収容された。
1893年、43歳、その病院で没し、モンパルナス墓地に葬られた。
ライナー・マリア・リルケ
ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、1875年12月4日 – 1926年12月29日)は、オーストリアの詩人、作家。シュテファン・ゲオルゲ、フーゴ・フォン・ホーフマンスタールとともに時代を代表するドイツ語詩人として知られる。
プラハに生まれ、プラハ大学、ミュンヘン大学などに学び、早くから詩を発表し始める。当初は甘美な旋律をもつ恋愛抒情詩を発表していたが、ロシアへの旅行における精神的な経験を経て『形象詩集』『時祷詩集』で独自の言語表現へと歩みだした。1902年よりオーギュスト・ロダンとの交流を通じて彼の芸術観に深い感銘を受け、その影響から言語を通じて手探りで対象に迫ろうとする「事物詩」を収めた『新詩集』を発表、それとともにパリでの生活を基に都会小説の先駆『マルテの手記』を執筆する。
第一次大戦を苦悩のうちに過ごした後スイスに居を移し、ここでヴァレリーの詩に親しみながら晩年の大作『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』を完成させた。『ロダン論』のほか、自身の芸術観や美術への造詣を示す多数の書簡もよく知られている。
生い立ち
オーストリア=ハンガリー帝国領プラハにルネ(・カール・ヴィルヘルム・ヨーハン・ヨーゼフ)・マリア・リルケ(René Karl Wilhelm Johann Josef Maria Rilke)として生まれる。父ヨーゼフ・リルケは軍人であり、性格の面でも軍人向きの人物だったが、病気のために退職した後プラハの鉄道会社に勤めていた。母ゾフィー(フィアと呼ばれていた)は枢密顧問官の娘でありユダヤ系の出自であった。二人は結婚後まもなく女児をもうけたが早くに亡くなり、その後一人息子のルネが生まれた。彼が生まれる頃には両親の仲はすでに冷え切っており、ルネが9歳のとき母は父のもとを去っている。母ゾフィーは娘を切望していたことからリルケを5歳まで女の子として育てるなどし、その奇抜で虚栄的な振る舞いや夢想的で神経質な人柄によってリルケの生と人格に複雑な陰影を落とすことになる。母に対するリルケの屈折した心情はのちルー・アンドレアス・ザロメやエレン・ケイに当てた手紙などに記されている。リルケは父の実直な人柄を好んだが、しかし父の意向で軍人向けの学校に入れられたことは重い心身の負担となった。
1886年に10歳のリルケはザンクト・ペルテンの陸軍幼年学校に入学したが、周囲に溶け込めず早くから詩作を始めた。1890年にヴァイスキルヒェンの士官学校に進学したが、1891年6月についに病弱を理由に中途退学し、9月にリンツの商業学校に入学した。しかし商業学校もリルケの性にあわず、恋愛事件を起こしたこともあり1年足らずで退学してしまう(この出来事はリルケに軍人になる期待をかけていた父を失望させた)。一方1891年にはウィーンの『ダス・インテレサント・ブラット』誌に懸賞応募した詩が掲載され、翌年より各誌に詩の発表を始めている。
ロマン・ロラン
ロマン・ロラン(Romain Rolland, 1866年1月29日 – 1944年12月30日)は、フランスの作家。
理想主義的ヒューマニズム、平和主義、反ファシズムを掲げて戦争反対を世界に叫び続け、国際的に多くの知友を持った。
ロマン・ロラン(Romain Rolland, 1866年1月29日 – 1944年12月30日)は、フランスの作家。
理想主義的ヒューマニズム、平和主義、反ファシズムを掲げて戦争反対を世界に叫び続け、国際的に多くの知友を持った。
文学者
26歳であった1892年に言語学者ミシェル・ブレアルの娘クロチルド(Clotilde)と結婚するが、1901年に離婚した。1894年からアンリ4世高等中学(Lycée Henri-IV)で、翌年からルイ大王高等中学で教鞭をとる。1895年に『近代叙情劇の起源』と『16世紀イタリア絵画の凋落』により文学博士の学位を取得し、エコール・ノルマルの芸術史講師となった。この頃から、戯曲や音楽評論を発表し始める。1902年からは「社会学大学」(École des hautes étude sociales)で音楽史を担当した。
33歳であった1903年、高等師範学校時代の教え子であるシャルル・ペギーの個人雑誌『半月手帖』(Cahiers de la Quinzaine)に『ベートーヴェンの生涯』を発表した。これが反響を呼び、翌1904年にソルボンヌで音楽史を担当し始めると共に、『ジャン・クリストフ』を『半月手帖』に掲載し始め、1912年に脱稿する。同じ頃にヨーロッパ各地を旅行し、シュヴァイツァー、ヴェルハーレン、R.シュトラウス、ツヴァイク、リルケ、シンクレアらと知り合う。44歳であった1910年にレジオンドヌール勲章を受章する。1912年に『ジャン・クリストフ』を脱稿すると、文学に専心すべくソルボンヌを辞し、スイスの雑誌に芸術時評を書き始める。1913年には『ジャン・クリストフ』が『アカデミー・フランセーズ文学大賞』を受賞した。
1914年8月に勃発した第一次世界大戦については、たまたま滞在中であったスイスから、仏独両国に対し「戦闘中止」を訴える。このことから祖国への反抗と受け取られて帰国できない状態になったが、その反面、アルベルト・アインシュタインやヘルマン・ヘッセ、エレン・ケイらと意を通じ合うことになる。国際的には評価される一方で、母国では好感されぬこうした傾向は、生涯にわたることになる。50歳であった1916年に1915年度のノーベル文学賞を受賞する。1917年にロシア革命が勃発すると早くも支持を表明し、レーニンの死やロシア革命10周年に際してはメッセージを送った。白色テロに反対する『国際赤色救援会』(International Red Aid)にも参加し、『ソ連邦建設科学アカデミー』の名誉会員に選ばれるなど、ソビエト連邦や共産党への共感を鮮明にした。1934年に再婚した2度目の妻マリー・クーダチェヴァ(Maria Koudacheva)はロランがモスクワから招いた秘書であり、再婚の翌年には夫妻同道でソ連を訪問し、マクシム・ゴーリキー宅に滞在してスターリンとも会見した[2]。アンドレ・ジッドがソ連を批判した際には反批判を加えるほどだったが、独ソ不可侵条約の締結を切っ掛けとして『ソヴィエト友好協会』(L’association des amis de l’Union soviétique)を脱会し、以降は没交渉となる。
ヴィクトル・ユーゴー
ヴィクトル=マリー・ユーゴー(仏: Victor-Marie Hugo[4]、1802年2月26日 – 1885年5月22日)はフランス・ロマン主義の詩人、小説家。七月王政時代からフランス第二共和政時代の政治家。『レ・ミゼラブル』の著者として著名。
1959年から1965年まで発行されていた5フラン紙幣に肖像画が採用されていた。
私生活
共和派でナポレオン軍の軍人ジョゼフ・レオポール・シジスベール・ユーゴー[5]とソフィー=フランソワーズ・トレビュシェ[6]の三男として、父の任地だったフランス東部のブザンソンで生まれた。ユーゴー家はロレーヌの農民の出だが、父親はフランス革命以来の軍人。母親はナントの資産家の娘である[7]。本名はヴィクトル=マリー・ユーゴー[8]。アベル・ジョゼフ[9]とウジェーヌ[10]という2人の兄がいる。
生まれたときは小柄で、背丈が包丁ほどしかなく、ひ弱な赤ん坊だったといわれる。生後6週間目に一家はマルセイユへ転居した。以降、コルシカ島のバスティア、エルバ島のポルトフェッラーイオ、パリ、ナポリ、マドリード、と主に母親らとともにヨーロッパのあちこちを転々とする。というのも、生粋のボナパルト主義の父ジョゼフ・レオポールと根っからの王党派の母ソフィーの間で政治思想の違いによる確執が生じ、それが夫婦の間に不和をもたらしていたのである。この確執はのちに『レ・ミゼラブル』の、マリユスの父ポンメルシー大佐とマリユスの祖父ジルノルマンの確執の原型となる。いずれにせよ、生まれたときの状態や長きにわたる父親不在の生活のおかげで、マザーコンプレックスが非常に強かった。
1812年、母と次兄ウジェーヌと一緒に再びパリに帰る(この時は長兄アベル・ジョゼフは父とともにナポレオンに仕えるためマドリードに残ったが、同年9月には母のもとに戻っている)。1814年、次兄ウジェーヌとともにサン・ジェルマン・デ・プレ教会[11]の近くの寄宿学校に入る。その間にナポレオンによる帝政が完全に終わりを告げ、父ジョゼフ・レオポールはスペイン貴族の地位を剥奪され、フランス軍の一大隊長に没落してしまう。彼は寄宿学校に4年とどまるものの、最後の2年はリセ・ルイ=ル=グラン[12]にも通った。父親は彼を軍人にするつもりだったが、本人は詩作に夢中で[7]、1816年7月10日には詩帳にこんな言葉を残している。
――シャトーブリアンになるのでなければ、何にもなりたくない。
17歳でアカデミー・フランセーズの詩のコンクールで一位を取り、自ら詩の雑誌も発行した[7]。母ソフィーはヴィクトルの才能を認め、文学での成功を期待していたが、幼馴染であり恋人であったアデール・フシェ[13]との結婚には猛反対していた。彼は18歳のときから始めた文通を翌年に再開する。しかし、その年(=1821年)6月27日に母ソフィーが他界する。ユーゴー一家に二度と娘を逢わせないと誓っていたアデールの両親も、彼の情熱に折れてしまい、結婚を了承した。同年10月12日、アデールとサン・シュルピス教会[14]で結婚し、ル・シェルシュ・ミディ通り[15]に居を構えるに至る。1822年には、『オードと雑詠集』によって国王から年金をもらえることになり、ロマン派の旗手として目覚ましい活躍を始める[7]。
1823年7月16日、長男レオポール[16]が誕生する。すべてが順風満帆に見えたが、同年10月9日にひ弱だったレオポールが亡くなってしまう。翌年の1824年8月28日に生まれた長女にはレオポルディーヌ[17]と命名する。
1825年4月29日、23歳という若さでレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ、勲爵士)を受ける。同年5月29日にはランスで行われたシャルル10世の聖別式にも参加した。こうして少しずつ名誉が与えられてゆく中で、少年時代は疎遠であった父ジョゼフ・レオポールとの仲も親密になっていった。愛する父のために、それまで疎んじてきたナポレオンを讃える詩を書いたところ、これをきっかけにナポレオンを次第に理解し、尊敬するようになる。さらに、聖別式でウィリアム・シェイクスピアのフランス語訳詩を耳にしたことで、シェイクスピアを尊敬するようになる。
翌1826年11月2日には次男シャルル[18]が生まれ、創作熱も加速していくが、1828年1月28日、パリで父ジョゼフ・レオポールが他界する。しかし、悲しみにくれる一方で朗報もあり、同年10月31日、父の才能を受け継いだ三男フランソワ=ヴィクトル[19]が誕生する。
1830年4月、ジャン・グジョン通り[20]へ転居する。そこで七月革命の混乱が押し寄せる。たとえルイ18世から年金を貰っていた身分であっても、七月革命に参加していたのは『エルナニ』でともに文学革命に参加した仲間であったため、己に危害が加えられる心配はなかった。