ベートーヴェンの生涯       VIE DE BEETHOVEN ベートーヴェンの生涯     ロマン・ロラン Romain Rolland   —–片山敏彦訳

    序

 すでに今から二十五年ほど前、私がこの小さな『ベートーヴェンの生涯』を書いたあの頃、私は音楽学(ミュジコロジー)的な著作をしようとしたのではなかった。それは一九〇二年であった。破壊し更新する幾多の嵐に富む、紆余曲折の一時期を私はくぐり抜けつつあった。私はパリから飛び出して、十日のあいだ、ベートーヴェンのもとに隠れ家を求めに行った。私の子供のとき以来、彼は私の生活のための道づれであり、生の戦いの中で私は一度ならず彼によって支えられて来ていた。私はボンのベートーヴェンの家を訪れて、そこで、亡き彼のおもかげに触れ、彼の親友らと相まみえた。コブレンツのヴェーゲラー家をおとずれて、ベートーヴェンの親友だったヴェーゲラーの孫たちに会い、マインツでは、ヴァインガルトナーの指揮するベートーヴェン・シンフォニー諸曲の音楽祭 Musikfest を聴いた。雨しげき四月の灰いろの日々に、霧に包まれたラインの川岸で、ただベートーヴェンとだけ、心の中で語り合い、彼に自分の思いを告白し、彼の悲しみと彼の雄々しさと、彼の|悩み《ライデン》と彼の歓喜《フロイデ》とによってまったく心を浸され、ひざまずいている心は、彼の強い手によって再び立ちあがらされた。彼の強い手、それは、生まれたばかりの幼な児、私のジャン・クリストフを祝福し、この子に洗礼を与えてくれた。それゆえ私の心は鼓舞されて、生との新しい貸借契約に私は署名し、癒やされて再び立ちあがる者の、神への感謝の歌 Dankgesang をうたいながらパリへの帰途についたのであった。――その「感謝の歌」がこの『ベートーヴェンの生涯』なのである。これは最初まず「ルヴュー・ド・パリ」(パリ誌)に発表されて後、ペギーによって出版された。この書の語る声が、友らの小さな圏の外にまでも聴かれるようになろうとは私は予期していなかった。しかし habent sua fata……「書物らは、書物ら自身の運命を持つ。」〔―habent sua fata libelli. 詩人であり文法学者であったテレンティアヌス・マウルスのいった格言〕
 私自身のことをくだくだしく述べたのを許していただきたい。それは、このベートーヴェン賛歌の中に、歴史学の厳密な方法に従っている一つの学問的な著述を求めようとする今日の人々の要求に対して私は答弁をしておかなければならないからである。私は歴史家である。しかしそれは私が歴史家であるべき時においてのことである。いくつかの著述によって私は音楽学のために厳正な貢を支払った。すなわち、私の『ヘンデル』や、オペラに関する私の著述の中で。しかしこの『ベートーヴェン』は学問《シアンス》のために書かれたわけでは全然ない。これは、きずついている魂から生まれた一つの歌であった。これは、息のつまっている魂が呼吸を取りもどし、再び身を起こして、その「救済者」にささげる感謝の歌であった。私がこの「救済者」を描きながらその姿を変容させていることは、私みずからよく心得ている。しかし、信仰と愛との証しというものはすべてそのようなものである。そして私のこの『ベートーヴェン』は、そういう信仰と愛との証しであった。
 世界がこの『ベートーヴェン』をつかんだ。このささやかな本が少しも予期しなかった一つの幸運を、世界がこの本に与えた。この本が世に出た当時には、フランスの数百万の人々からなる一世代――自己の理想精神が抑圧されているのを感じている一世代が存在していて、この人々は、彼らの精神に解放の力が来るのを心待ちに待っていた。そういう解放の言葉を、彼らはベートーヴェンの音楽の中に見いだして、彼らはそれをこの本にも求めに来たのである。あの当時を体験して今も生き残っている人々は誰しも、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の音楽会の印象を今も思い出すであろう。それはまるで、アグヌス〔訳注――神の仔羊――万人のための犠牲を象徴するキリスト〕の祈りがいわれる瞬間の教会のようであり、聴衆の悲痛な表情は、ベートーヴェンの音楽が辿る悲しみの聖なる道筋について行きながら、その道筋の意味の啓示から来る反映に照り輝かされていた。今生きている人々は、昨日生きていたあの人々から遠ざかっている。(しかし昨日のあの人々は、明日生きるであろう人々に、かえっていっそう近しいのではあるまいか?)二十世紀初頭のあの世代の人々の多数が薙ぎ倒された。戦争が一つの淵を掘り、その淵の中に、彼らと、そして彼らを継承していた最良の人々が消え失せたのである。私のこの小さな『ベートーヴェンの生涯』の中には、消え失せた彼らの魂のおもかげが宿っている。一人の孤独者によって書かれたこの本は、この本自身少しもそうだとは意識しないままに、あの人々に似ていた。そしてあの人々は、この本の中に彼ら自身を認めた。無名の著者によって書かれ名もなき出版所から出た小冊子が、まもなく手から手へと渡された。そして今ではもうこの本は私の所有《もの》ではなくなっている。
 この本を私は再読してみたところである。そして私は、この本の不完全さを認めるにもかかわらず、少しもこれを書き変えはしないであろう*。なぜならこの本は、当初の性格と、そしてあの偉大な一世代の神聖なおもかげとを保存していなければならないから。今、ベートーヴェン百年祭に際会して、生きることと死ぬこととを私たちに教えてくれた彼、廉直《れんちょく》と誠実との「師」ベートーヴェン――あの偉大な一世代の人々のために「伴侶」であってくれたベートーヴェンを頌《ほ》める私の言葉に添えて、私は、あの一世代への追憶を記念する。
  一九二七年三月
                          ロマン・ロラン

  * 著者はベートーヴェンの芸術および彼の創造的人格についての研究へ、
   いっそう正確な史的および技術的性格を持つ別の著作を献げるつもりである。

   ベートーヴェンの生涯(ロマン・ロラン)

         善くかつ高貴に行動する人間はただその事実だけに拠っても
       不幸を耐え得るものだということを私は証拠だてたいと願う。
                          ベートーヴェン
            一八一九年二月一日・ヴィーン市庁宛の書簡より

 空気は我らの周りに重い。旧い西欧は、毒された重苦しい雰囲気の中で麻痺する。偉大さの無い物質主義が人々の考えにのしかかり、諸政府と諸個人との行為を束縛する。世界が、その分別臭くてさもしい利己主義に浸って窒息して死にかかっている。世界の息がつまる。――もう一度窓を開けよう。広い大気を流れ込ませよう。英雄たちの息吹を吸おうではないか。
 生活は厳しい。魂の凡庸さに自己を委ねない人々にとっては、生活は日ごとの苦闘である。そしてきわめてしばしばそれは、偉大さも幸福も無く孤独と沈黙との中に戦われている憂鬱なたたかいである。貧と、厳しい家事の心配と、精力がいたずらに費える、ばかばかしくやりきれない仕事に圧しつけられて、希望も無く悦びの光線もない多数の人々は互いに孤立して生き、自分の同胞たちに手を差し伸べることの慰めをさえ持っていない。その同胞たちも彼らを識らず、彼らもまたその同胞たちを識らない。彼らはただ自分だけを当てにするのほかはない。そして最も強い人々といえども、その苦悩の下に挫折するような瞬間があるのである。彼らは一つの救いを、一人の友を呼んでいる。
 善のために悩んだ偉大な魂の人々、雄々しい「友ら」の一群を人々の周りに据えようと私が企てるのは人々に助力を贈るためである。「卓越せる人々の生涯」のこの一群は、野心家たちの慢心へ語りかけるためではない。これらの伝記は不幸な人々に捧げられる。しかも煎じ詰めればいったい誰が不幸でないであろうか? 悩める人々に、聖なる苦悩の香油を捧げようではないか。われらは戦いにおいて孤独なのではない。世界の闇は神々しい幾つかの光によって照らされた。今日でも我らの身の近くに、最も浄らかな二つの炎、正義の炎と自由の炎とが燦《きらめ》くのを我らは先頃見た――ピカール大佐と、そしてブール国民とがそれである。それらの炎が厚い闇を焼きつくすことはできなかったにせよ、それらは我らの行くべき道を閃光に照らして示したのである。
 彼らに従って前進しよう。またあらゆる国々あらゆる世紀の中で、彼らのごとく孤立して散在しつつ戦うあらゆる人々にしたがって前進しよう。時間の障壁を取り除こう。英雄たちの種属を復活させようではないか。
 思想もしくは力によって勝った人々を私は英雄とは呼ばない。私が英雄と呼ぶのは心に拠って偉大であった人々だけである。彼らの中の最大な一人、その生涯を今ここに我々が物語るところのその人がいったとおりに「私は善《ボンテ》以外には卓越の証拠を認めない。」人格が偉大でないところに偉人は無い。偉大な芸術家も偉大な行為者もない。あるのはたださもしい愚衆のための空虚な偶像だけである。時がそれらを一括して滅ぼしてしまう。成功はわれわれにとって重大なことではない。真に偉大であることが重要なことであって、偉大らしく見えることは間題ではない。
 ここにわれわれが物語ろうと試みる人々〔[#割り注]訳注――ベートーヴェン、ミケランジェロ、トルストイ、画家ミレーらの伝記が書かれた[#割り注終わり]〕の生涯は、ほとんど常に永い受苦の歴史であった。悲劇的な運命が彼らの魂を、肉体的なまた精神的な苦痛、病気や不幸やの鉄床《かなとこ》の上で鍛えようと望んだにもせよ、あるいはまた彼らの同胞らが悩まされている隠れたさまざまの苦痛と屈辱との有様を彼らの心情が感じ識ったことによって引き裂かれ、その故に彼らの生活が荒寥たる観を呈したにもせよ、とにかく彼らは試練を日ごとのパンとして食ったのである。そして彼らが力強さによって偉大だったとすれば、それは彼らが不幸を通じて偉大だったからである。だから不幸な人々よ、あまりに嘆くな。人類の最良の人々は不幸な人々と共にいるのだから。その人々の勇気によってわれわれ自身を養おうではないか。そしてわれわれ自身があまりにも弱いときには、われわれの頭をしばらく彼らの膝の上に載せて憩わせようではないか。彼らがわれわれを慰めるだろう。これらの聖なる魂から、明澄な力と強い|親切さ《ボンテ》の奔流が流れ出る。彼らの作品について問い質《ただ》すまでもなく、彼らの声を聴くまでもなく、われわれが彼らの眼の中に、彼らの生涯の歴史の中に読み採ることは、――人生というものは、苦悩の中においてこそ最も偉大で実り多くかつまた最も幸福でもある、というこのことである。

      [ ※ アステリズム、1-12-94]

 この雄々しい軍団の先頭にまず第一に、強い純粋なベートーヴェンを置こう。彼自身その苦しみの只中にあって希念したことは、彼自身の実例が他の多くの不幸な人々を支える力となるようにということであり、「また、人は、自分と同じく不幸な一人の人間が、自然のあらゆる障害にもかかわらず、人間という名に値する一個の人間となるために全力を尽したことを識って慰めを感じるがいい」ということであった。超人的な奮闘と努力との歳月の後についに苦悩を克服し天職を――その天職とは彼自身の言葉によれば、憐れな人類に幾らかの勇気を吹き込むことであったが――天職を完うすることができたときに、この捷利者《しょうりしゃ》プロメテは、神に哀願している一人の友に向かって「人間よ、君自身を救え!」と答えたのであった。
 彼のこの誇らしい言葉からわれわれ自身の霊感を汲み採ろう。彼の実例によって、人生と人間とに対する人間的信仰をわれわれ自身の内部に改めて生気づけようではないか。
  一九〇三年一月
                         ロマン・ロラン

    Woltuen, wo man kann,
   〔Freiheit u:ber alles lieben,〕
    Wahrheit nie, auch sogar am
   Throne nicht verleugnen.
          BEETHOVEN.
            (Albumblatt 1792.)

   能うかぎり善を行ない
   何にも優りて不羈《ふき》を重んじ
    たとえ王座の側にてもあれ
   絶えて真理を裏切らざれ
          ベートーヴェン
            (一七九二年、記念帳)

 彼は広い肩幅を持ち力士のような骨組みであったが、背が低くてずんぐりしていた。顔は大きくて赭《あか》かった。ただし晩年に近づいてからは顔の色が病人じみた黄色味を帯びて来た。とりわけ冬、田園を歩くことが少なく、家に閉じ籠もって暮らさなければならなかった時にはなおさらそうであった。額はがっしりと強く盛り上がっていた。はなはだ黒い、異常に厚い髪の毛――櫛の歯がとうてい梳けなかったかのように見える髪の毛は、思いのままにあらゆる方向へ逆立って、まるで「メドゥーサの頭の蛇ども」のようであった(1)。眼光が強い熱を持っていて、彼に逢った人は誰しもその力を感銘させられた。だがその瞳の色については多くの人々が思い違いをしたものである。陰鬱な悲劇的な相貌の中からほの暗い輝きを帯びてその瞳がきらめくときには瞳の色は黒だという印象を人々に与えがちであったのだが実はそれは青みを帯びた灰色なのであった(2)。その眼は小さくて深く沈んでいたが、情熱や怒りに憑かれると突然大きく見ひらいて、内部のあらゆる考えを、みごとな誠実さをもって映し示すのであった(3)。また、ときどきは、一種憂鬱な眼つきをもって天の方へ向けられた。鼻は短くて角張っていて、大きかった。そして獅子の鼻先に似ていた。口は精緻にできていた。しかし下唇が上のよりもやや突き出ている気味だった。顎《あご》こそは、胡桃《くるみ》をも噛み砕きそうな強い顎であった。頤《おとがい》の、右へ片寄った深い凹みは、顔全体に一種奇妙な不均衡を与えていた。モーシェレスがいっているが――「彼は親切な微笑《わら》いかたをした。そして人と話しているとき、時々愛情ぶかく励ますような様子をした。その代わり、声を出す笑いときたら、不愉快な荒っぽい、顰《しか》め面《つら》の笑い方で、それにまたいつでも短くとぎれてしまう笑いであった。」――それは悦ぶことの習慣を持たない人の笑いなのであった。彼の習慣的な平素の表情は憂鬱《メランコリー》であった。「医し難い悲しみ」であった。レルシュタープが一八二五年にいっている、ベートーヴェンの「優しい眼と、その眼が示している深い悲しみ」とを見て泣き出したくなったのを我慢するため一生懸命で感情を抑制しなければならなかった、と。ブラウン・フォン・ブラウンタールはその一年後に、あるビーヤ・ホールでベートーヴェンに出会ったが、そのときベートーヴェンは片隅に坐って長いパイプで煙草を喫いながら眼をつぶっていた。これは彼が死に近づくにつれて次第に募った彼の癖なのであった。一人の友が話しかけると彼は悲しげに微笑し、ポケットから小さな「会話のための手帳」を取り出した。そして、聾疾の人が出しがちな鋭い金切声を立てていった、彼に話したいことを手帳に書いてくれ、と。往来を歩いている彼にとつぜん襲いかかって、通行人らをもびっくりさせた急激な霊感の発作のときや、ピアノに向かっている彼に突如作曲の発想が生まれたようなとき、彼の顔は変貌するのであった。「彼の顔面筋肉は緊張して盛り上がり、血管は膨れた。荒々しい眼は倍も恐ろしい様子になり、口はブルブルふるえていた。自分で呼び出した魔神《デーモン》たちの力に圧倒されている魔術師のような有様だった。」まさにシェイクスピアの描いた一人物に似ていた(4)。ユーリウス・ベネディクトはいった――「リア王だ」と。

      [ ※ アステリズム、1-12-94]

 ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンは一七七〇年十二月十六日に、ケルン市に近い、ライン河畔ボン市の貧しい家の見すぼらしい屋根裏部屋に生まれた。先祖はフランドルの家系であった(5)]。彼の父は不聡明な、そしていつでも酒に酔っぱらっている次中音《テノール》の歌唱者であった。母は召使い階級の婦人だった。料理人の娘であったが始めある|部屋つき従僕《ヴァレ・ド・シャンブル》と結婚してその夫に先立たれたのだった。
 つらい子供時代――そこには、いっそう幸運なモーツァルトの幼時を取り巻いていたような家庭的な愛情の雰囲気が無かった。最初からすでに彼にとっては人生は悲しく冷酷な戦いとして示された。父は彼の音楽の才を利用して、神童の看板をくっつけて子供を食いものにしようとした。彼が四歳になると父は日に数時間もむりやりにクラヴサンを弾かせたり、ヴァイオリンを持たせて一室に閉じ込めておいたり、過度な音楽の勉強を強いた。子供はもう少しで徹頭徹尾音楽が嫌いになるところだった。ベートーヴェンにそれを習わせるには暴力を用いねばならなかった。少年時代は物質上の心配、パンを稼ぐ工面《くめん》、――年齢の割にあまりにも早く課せられたそんな仕事のために憂鬱なものとなっていた。十一歳の時に劇場のオーケストラの一員となり、十三歳でオルガン弾《ひ》きとなった。一七八七年には彼の大事な母が亡くなった。「母は僕のためにはほんとによい母、愛すべき母、僕の最良の友であった。お母さんという懐しい名を僕が声に出して呼びかけることができ、またその呼びかけが聴かれていたあの頃の僕は、人間の中の最も幸福な人間であった(6)」母は肺結核で亡くなった。そしてベートーヴェンも同じ病気に罹っていると思い込んでいた。彼の健康はすでに絶えまなく悩んでいた。そして彼は自分の病気にみずから憂鬱症を付け加え、実際の病状よりもその憂鬱症の方がさらにひどかった(7)。十七歳のとき一家の主《あるじ》となり、二人の弟の教育の責務を負わされた。一家の主たるの能力のない、酒呑みの父を無理に隠退させ、父を差しおいて自分がその役を引き受けるということは、彼には恥ずかしいことだった。父が受け取る年金を浪費してしまわないようにするために、父の年金が息子の手に支払われるようにした。こんなさまざまの悲しみの痕はベートーヴェンの心に深く刻みつけられた。しかしその間に、彼はボンの一家庭の中に親切な支持を得た。それは彼に対してその後かわらぬ真情を持ちつづけたブロイニングの家庭である。善良な優しい「ロールヒェン」――エレオノーレ・フォン・ブロイニングは彼より二歳|年下《としした》であった。彼は彼女に音楽を教え、彼女は彼を詩の理解へみちびいた。彼女は彼の少年時代の伴侶《とも》だった。二人の間に、優しい感情さえ生まれていたということも有り得なくはなかろう。エレオノーレは後年、ベートーヴェンの親友の一人である医師《ドクトル》ヴェーゲラーにとついだ。そしてベートーヴェンの生涯の最後の日に至るまで、三人の間には静穏な友誼がつづいていた。ヴェーゲラーとエレオノーレとの、価値のあるそして情愛のこもった手紙と、「忠実な旧友」alter treuer Freund から「善き、なつかしきヴェーゲラー」guter lieber Wegeler への手紙とが、そのことを証明している。三人の間の愛情は、三人が共に年老いてしかも心情の若々しさを冷却させていないが故に、それだけますます感動的である(8)。
 ベートーヴェンの幼時がそんなに悲しいものであったにもせよ、彼は常にその幼時に対して、またその幼時の日々が過ごされた幾多の場所に対して、優しさとメランコリーとの籠もった追憶の思いを持ちつづけていた。ボンを離れて、ほとんど全生涯をヴィーンで――軽佻なこの大都会とその陰気な場末で暮らさなければならなかったとはいえ、彼は、ラインの谷間を、威容のある父親らしい大河、彼がそう呼び慣れていた「われらの父ライン」unser Valter Rhein をけっして忘れはしなかった。実際この河はほとんど人間のように生きており、さまざまの思想や無数の精力がそこを横切る雄大な一つの魂に似ているのであるが、しかもラインは精美なボンの町においてこそ最も美しく強くかつ優しい。翳《かげ》と花々とに富んだこの町の幾多の丘の斜面を、ラインは愛撫する一つの力をもって浸しているのである。そこでベートーヴェンは生涯の初めの二十年を送った。そこで彼の若い心のさまざまの夢想は形成された。――霧に包まれた白楊樹《ポプラ》やこんもりした茂みや柳の樹のある牧場は憧れ心地をもって河の水を泳いでいるように見える。またその牧場の果樹は、無言な速い水流にその根を浸している。――そして水辺に、悠然たる好奇の心を持つ者のように身を差し出している村落と教会堂とそして墓場。そして地平には蒼い「|七つの峯《ジーベンゲピルゲ》」がその重畳として変化の多い横顔を空に描き出しており、それらの峯の頂には、廃趾となった幾つかの古い城の寥《さび》しく奇妙な影絵が浮き出ている。この土地に対してベートーヴェンはかわらぬ真情を持ちつづけた。ついに再びそこへ帰来するを得ることなしに、彼は最期の日に至るまでも、そこを再び見ることを夢みていたのである。「ふるさとよ、美しい土地よ。この世の光をそこで初めて私が見たその国は、私の眼前に浮かんで常に美しく判然《はっきり》と見えている――私がそこを立ちいでた日の姿のままに(9)。」

      [ ※ アステリズム、1-12-94]

「革新」が勃発していて、次第にそれは西欧を浸し始めていた。それはまたベートーヴェンの心をとらえた。ボン大学はあたらしい考えの炉であった。ベートーヴェンは一七八九年の五月十四日にこの大学の聴講生となる届を出してドイツ文学の講義を聴いた。教授は有名なオイロギウス・シュナイダーであった。(後に低部ライン地方検察官。)バスチーユ占領の報がボンにつたわったときシュナイダーは講壇で熱烈な詩を朗読して学生たちを感激させた。翌年彼は革新的な詩集を出したがその予約申込者の中に、ホーフムージクス・ベートーヴェンの名とブロイニング家の名があった。
 一七九二年十一月にベートーヴェンがボンを発ったのはちょうど戦乱がボンへ侵入して来たのと入れ違いだった。彼は、当時のドイツの音楽首都であったヴィーン市に落ちついた(10)]。ヴィーンへ赴く途次、彼は、フランスに向かって進軍するヘッセンの軍隊に行き遭った。彼は確かに愛国的感情に憑かれた。一七九六年と九七年とに、彼はフリートベルク作の二つの戦争詩を作曲した。一つは『出征に際してのヴィーン市民への告別の歌』であり、他は合唱歌『われらは偉大なるドイツの民』である。しかし彼が「革新」の敵たちを歌おうとする努力は甲斐なきことであった。「革新」は世界を征服し、またベートーヴェンをも征服したからである。一七九八年以後、オーストリアとフランスとの関係は緊張していたにもかかわらずベートーヴェンはフランス人たちとの、フランス大使や、ちょうどヴィーンへ到着したばかりのベルナドット将軍との親密な関係に入った。ベルナドットの一行中に提琴家のクロイツァーがいた。それが後年あのすぐれた『クロイツァー・ソナータ』をベートーヴェンが献呈した提琴家なのである。こんな交遊からベートーヴェンの心には共和主義的な感情が形作られ始めた。そしてその感情の強大な展開を、われわれは彼のその後の全生涯の中に見るのである。
 この時期の彼を描いたシュタインハウザー作の素描画像は当時の彼の姿をかなり良く示している。その後のさまざまなベートーヴェンの肖像に比較してみるとあたかもゲラン作のボナパルトの肖像、あの野心的情熱に噛まれている鋭い表情の画像が他のいろいろなナポレオン像に対して持つ関係と似通うところがある。この像ではベートーヴェンは年齢よりも若く見え、痩せて、首を真直ぐにして、高い襟飾りの中で硬ばり、油断の隙を見せぬ緊張した眼つきをしている。彼は自分の価値を自覚している。彼は自己の力を信じている。一七九六年に手帳の中にこう書いた――「勇気を出そう。肉体はどんなに弱くともこの精神でかって見せよう。いよいよ、二十五歳だ。一個の男の力の全部が示さるべき年齢に達したのだ(11)。」フォン・ベルンハルト夫人およびゲーリンクのいっているところによると、彼ははなはだ尊大で、がむしゃらで憂鬱で、それにまたひどい国なまりで話していた。しかし最も親密な友人たちだけは、ベートーヴェンの霊妙な親切さを――尊大に見える不器用な態度の背後に隠れていた親切さを識っていたのである。あるとき彼がヴェーゲラーに自分の音楽会の大きな成功の模様を知らせたとき、まず第一に彼の思いついた考えというのはこうであった――「たとえば今、一人の困窮している友に僕が出逢うとする。僕の財布が即座に彼を助力してやれないとすれば僕は自分の机に向かって坐りさえすればいい。たちまちにその友人は助かるわけだ。……これは素敵な状態だといえるではないか……(12)」また、同じ手紙の少し先でこういっている。「僕の芸術は貧しい人々に最もよく役立たねばならぬ。」Dann soll meine Kunst sich nur zum Besten der Armen zeigen.
 悲哀はすでに彼の扉をたたきつつあった。それはベートーヴェンの内部に住みかを定め、そしてもはや再び立ち退こうともしなかった。一七九六年と一八〇〇年の間に聾疾はその暴威を振いはじめた(13)。夜も昼も耳鳴りが絶えなかった。そして彼はまた腸の疾患に始終なやまされた。聴覚はしだいに弱くなって行った。数年のあいだは、誰にも、最も親しい友人にも、彼はそれを打ち明けなかった。自分の致命的な病患を人に気づかれないために人々を避けて、この恐るべき秘密をひた隠しにかくしていた。しかし一八〇一年に至ってもはや隠し切れなくなった。彼は絶望をもって、医師《ドクトル》ヴェーゲラーと牧師アメンダとの二友人に打ちあけた――
「親しい、善良な、親切なアメンダ……君が僕の傍にいてくれたらと僕はどんなにたびたび願うか知れない。君の友ベートーヴェンは自然と造物主とからの不遇のためひどく不幸になっているのだから。僕の最も大切な部分、僕の聴覚が著しくだめになって来たのだ。君が僕の傍にいた頃、僕は実はすでにその兆候を感じてはいたがそれを口に出さなかった。ところがますますわるくなるばかりだ。癒るだろうか? むろんそれを期待してはいるがよほどむつかしい。こんな病気は最も癒りにくい。僕は何と悲しく生きなければならないことか! 僕の愛する親しい者の一切を避けながら、くだらない利己的な人々の中で生きなければならないとは! 悲しい諦念――それを僕は自分の隠れ家としなければならないのだ。これら一切の不幸を超越した立場へ自分を置こうとしてもちろん僕は努めてはみた。しかしどうしたらそれが僕にできるだろうか……(14)」
 またヴェーゲラーに宛てて――「……僕は惨めに生きている。二年以来、人々の中へ出ることを避けている。人々に向かって、僕は聾なのだ、と告げることができないために。僕の職業が他のものだったらまだしもどうにかいくだろうが、僕の仕事では、これは恐ろしい状況だ。僕の敵たちが知ったらどんなことをいうか知れはしない。しかも敵の数は少なくはないのだ!……〔僕の聾のひどさを君に知らせるために一例を挙げてみるなら〕僕は劇場で役者の言葉を聴くためにはオーケストラにくっついた座席にいなければならない。少し離れているともう楽器や歌声の高い調子の音は聞こえない。低い声で話す人の声もときどきほとんど聞こえないことがある。――しかも誰かが叫び声を立てると、それも僕には耐え難いのだ。……すでにたびたび僕は造物主と自分の存在とをのろった。……プルタークを読んで僕は諦念へみちびかれた。できることなら僕はこの運命に戦い克ちたいのだが、しかし僕は自分をこの世で神の創った最も惨めな人間だと感じる瞬間がたびたびあるのだ……諦念! 何という悲しい避難所だろう! しかもこれが僕に残されている唯一の避難所なのだ(15)!」
 この悲劇的な悲しみは、その時期の幾つかの作品にあらわれている『悲愴奏鳴曲《ソナータ・パテティック》』(作品第十三番、一七九九年)の中に、またとりわけ作品第十番(一七八九年)の、『ピアノのための第三のソナータ』の緩徐調《ラルゴ》の中に。しかも、同じ時期のその他の作品、たとえば笑い声を立てている『七重奏曲《セプテット》』(一八〇〇年)や明朗な『第一交響曲』(一八〇〇年)が少年の日の暢《のど》かさを反映しているということは――すなわち同期の作の皆が皆まで悲痛の痕跡を留めているのではないということは、不思議なことである。確かに魂が悲哀に馴れるまでには時間のかかるものである。魂は、それが歓喜を持たぬときにはみずからそれを創《つく》り出さねばならないほどに歓喜を必要とするものである。現在があまりに辛《つら》ければ、魂は過去の追憶によって生きる。過ぎた幸福の日々が一撃のもとに消滅しはしない。それらの日々の輝きはすでにそれらが無くなっている現在にもなお永く残って照りつづける。ヴィーンにいて孤独な不幸なベートーヴェンは生まれ故郷の追憶の中にその隠れ家を求めたのである。当時の彼が音楽に示した思想にはことごとく、そういう追憶が沁み込んでいる。『七重奏曲《セプテット》』中の「変調するアンダンテ」の主要旋律はライン地方の民謡《リート》から来ている。『第一交響曲』もラインから生まれた作品であり、自分の回想のまぼろしに向かって微笑している若者の詩である。この交響曲は快活で憧れ心地に充ちている。そこには人を楽しませたい欲求と、楽しませ得るという希望とが感じられるのである。しかしある楽節、たとえば導入節《アインライツング》や幽暗な或る低音《バス》の明暗や幻想的なスケルツォーにおいて、われわれはまことに大きな感動をもって、やがてきたるべき天才的精神のひらめきを、この若い姿の中に感取する! それらのひらめきは、ボッティチェリの描いた『聖家族』の中の、幼児《バンビーノ》キリストの眼の輝きである――早くも近づいて来ている悲劇を人がそこに確かに認め得るところの幼な児の眼の輝きである。
 肉体の苦痛にさらに別の厄災がつけ加わった。ヴェーゲラーはいっている、彼が知るかぎりにおいてベートーヴェンは絶えまなく恋愛の熱情につかまれていた、と。これらの恋愛は常にきわめて純潔なものであったようである。情熱と逸楽との間に何の関係もなかった。この両者を今日《こんにち》人々が混同して考えることは、大多数の人々が情熱というものについては実に無智なのだということおよび真の情熱はいかにも稀有の現象だということの証明にほかならない。ベートーヴェンはその魂の中に清教徒《ピューリタン》的な或るものを持っていた。卑猥な思想や談話は彼を身顫《みぶる》いさせた。恋愛の聖性については強硬な考えをもっていた。モーツァルトが『ドン・ジョヴァンニ』を書いてその天才を濫用したことをベートーヴェンは赦さなかったといわれている。彼の親友だったシンドラーは確言している――「彼は一種の処女的な羞《はにか》みをもって生涯を過ごし、弱点に負けて自己を責めるような羽目に陥ることは無かった」と。しかもこんな人間が恋愛の熱情の、欺かれやすい犠牲となるのにはあつらえ向きにできていた。彼はまさにそういう犠牲であった。絶えまなく熱烈に恋心にとらわれ、絶えまなく恋の幸福を夢みながら、たちまちその幸福の夢の果敢《はか》なさを悟らされ、苦《にが》い悲しみを味わわされていた。彼の天性の激しさがやがて憂鬱を帯びた諦めの静かさに行き着く年齢に達するときまでは、恋ごころとそれへの誇らしい反抗との交互作用の中にこそ、ベートーヴェンの霊感の最も強大な源泉が見いだされるのである。
 一八〇一年に彼の情熱の対象はジュリエッタ・グィッチャルディであったらしい。彼は、いわゆる「月光曲」と呼ばれる作品二十七番の有名なソナータ(一八〇二年)をこの人に捧げることによってこの女性を不滅化した。「僕の生活は今までよりも優しみのあるものになった」とヴェーゲラーに宛てて書いた。「僕はいっそう人々になじむようになった。……一人のなつかしい少女の魅力が、僕をこんなふうに変わらせたのだ。その人は僕を愛しているし、僕もその人を愛している。二年この方はじめての幸福の幾瞬時を僕は持っている(16)。」ところで彼はこの幸福の幾瞬時に対してやがて辛い代償を支払うことになる。最初からこの恋は彼に、自分の病身の惨めさと、そして愛する人との結婚を不可能にする不安定な生活状態とをますます痛感させた。それにジュリエッタはコケットで幼稚で利己主義であった。彼女は残酷にベートーヴェンを苦しませた。そして一八〇三年の十一月にガルレンベルク伯爵と結婚してしまった(17)。こんな熱情は魂を蹂躙《じゅうりん》する。ベートーヴェンのばあいのように魂が病気のために弱っているとき、こんな種類の熱情は魂を破壊する危険がある。これは彼の生涯中で、彼がまさに破滅しそうにみえた唯一の瞬間であった。彼は絶望の危機を突破していた。一つの手紙がわれわれにそれを告げている。すなわち『ハイリゲンシュタットの遺書』がそれである。これは彼の二人の弟カルルとヨーハンとに宛てた手紙であって「私の死後に読み、私の意志どおり取り計らってくれ(18)」という表示が書かれている。これは運命への抵抗とはげしい悲しみとの叫びである。憐愍《れんびん》に胸をつらぬかれることなしには、人はこの叫びを聞き得ない。当時彼は自ら命を絶とうとする危険の淵に臨んでいた。ただ彼の不屈な道徳感だけが彼を引き留めたのである(19)。快癒への最後の望みも消えていた。
「私を支えて来た最も高い勇気も今では消え失せた。おお、神のみこころよ。たった一日を、真の歓喜のたった一日を私に見せて下さい。真の悦びのあの深い響きが私から遠ざかってからすでに久しい。おお、わが神よ。いつ私は再び悦びに出遭えるのでしょう?……その日は永久に来ないのですか?……否、それはあまりに残酷です!」
 これは絶体絶命の呻きである。しかもベートーヴェンはその後なお二十五年生きながらえるであろう。彼の生来の頑強さは、試練の重みの下に圧しつぶされることを承服しはしなかった。「僕の体力も知力も、今ほど強まっていることはかつてない。……僕の若さは今始まりかけたばかりなのだ。一日一日が僕を目標へ近づける、――自分では定義できずに予感しているその目標へ。おお、僕がこの病気から治ることさえできたら、僕は全世界を抱きしめるだろうに!……少しも仕事の手は休めない。眠る間の休息以外には休息というものを知らずに暮らしている。以前よりは多くの時間を睡眠に与えねばならないことさえ今の僕には不幸の種になる。今の不幸の重荷を半分だけでも取り除くことができたらどんなにいいか……このままではとうていやりきれない。――運命の喉元をしめつけてやる。断じて全部的に参ってはやらない。おお、人生を千倍にも生きられたらどんなにいいか(20)!」
 この愛情、この苦悩、この意志力、そして失意と誇りとのこの交替、内心のこれらの悲劇が、一八〇二年に書かれた大きい作品の中に現われている。すなわち、『葬送曲のついたソナータ』(第二十六番)、第二十七番の二つのソナータ(幻想風のソナータと月光曲)、また、絶望に向かっての広大な独白のような感じのする劇的な宣叙調《レチタティーフ》の付いている作品第三十一の第二番のソナータ、アレクサンダー皇帝にささげられたハ短調のヴァイオリン・ソナータ(第三十)、第四十七のクロイツァー・ソナータ、ゲルラートの詩に付けた六つの雄々しくて感銘的な宗教歌曲(第四十八)がそれである。しかし一八〇三年にできた『第二交響曲』はかえって彼の悦ばしげな恋の感情を反映する。そして意志の力が決然として勝を制しつつあることが感じられる。抗し難い一つの力が悲しい想いを吹き払う。生命の奔騰がこの作品の終曲《フィナーレ》を昂揚させる。ベートーヴェンは幸福でありたいと望んでいる。彼は自分の疾患を不治だとは信じたくない。彼は快癒をのぞんでいる。愛を望んでいる。彼は希望に溢れている(21)。

      [ ※ アステリズム、1-12-94]

 人はこれらの作の大多数を聴くときにベートーヴェンの行進的な旋律と戦闘的な旋律との強さと迫力とに打たれる。とりわけ『第二交響曲』のアレグロとフィナーレとの中に、さらにまた『アレクサンダー皇帝にささげたソナータ』のはなはだ雄々しい第一楽章の中にそれが感じられる。この音楽の特性である或る種の戦士的性格は、この音楽の生まれ出た時期を思わせるものがある。革新がヴィーンにまで到達していた。ベートーヴェンはそれに心をさらわれていた。「親しい人々のあいだで」と、士爵《シュヴァリエ》フォン・ザイフリートがいっている、「ベートーヴェンは政治的な出来事について話すのを好んだが、彼の意見はなかなか聡明で、明確な着眼点を持っていた。」彼の同感は全部的に、革新的な考えに味方していた。「共和主義的な諸原理を彼は愛していた」とシンドラーはいっている。シンドラーはベートーヴェンの晩年に彼を最も深く識っていた親友であった。「彼は無限の自由と国家的独立との主張に加担していた。……誰しもが国の政治に携わり得ることをのぞんでいた。彼はフランスのために普通選挙法を望み、ナポレオン・ボナパルトがそれを実施して人類の幸福の基礎を置くのであろうと期待していた。プルタークの精神にやしなわれたローマ的な革新主義者だった彼は、「勝利の神」最初の執政官(ナポレオン)に基底を置かれた一つの英雄的な共和国を夢みていたのである。その故に彼は彼の『英雄交響曲《エロイカ》』を「ボナパルト(22)」という傍名のもとに(一八〇四年)、少しずつ打ち鍛えながら作っていた。――これはローマ帝政的な「イリアード」である。彼はまた、一八〇五年から一八〇八年までのあいだに『第五交響曲』の終曲を作った。これは光栄を歌う叙事詩的、英雄的な楽章である。これらは音楽の中に初めて生まれた真に革新主義的な音楽である。大きい歴史的事件が、もろもろの偉大なそして孤独な人々の魂の中に惹き起こす印象の緊張と純粋とをありのままに示しつつ、時代の魂が、そこに生き生きと再現せられており、しかも内生活の力を感銘させる度合は、現実的事件への関与によっても少しも弱められてはいない。ベートーヴェンの風貌はこれらの作品においては戦闘的叙事詩の反映に彩られている。おそらく彼自身はそれと気づかずして現われているそんな反映は、同時期のさまざまの作品の中に看取せられる。『コリオラン序曲』(一八〇七年)の中には嵐が吹き渡っており、作品第十八の『第四の弦四重奏曲』の第一楽章は『コリオラン序曲』と非常に似通っている。作品第五十七の『情熱奏鳴曲《ソナータ・アパッショナータ》』(一八〇四年)についてはビスマルクがこういった――「これを私がたびたび聴けたら、私は常にはなはだ勇敢であるだろうが(23)」と。『エグモント』の音楽にも同様の特徴が看取せられるし、さらにまた『ピアノ協奏曲《コンツェルト》』のうち、作品第七十三の『変ホ長調の協奏曲《コンツェルト》』(一八〇九年)の中では、軍勢の行進の響きがきこえ、そこでは音楽技巧そのものが英雄的な性質をもっている。――しかしそれに何のふしぎがあろう? ベートーヴェンが『一英雄の死のための哀悼行進曲』(奏鳴曲《ソナータ》、作品第二十六)を作ったとき、ボナパルトよりもいっそう彼の英雄交響曲の理想に近い立派な英雄オッシュ将軍がライン河畔の土地で没してその奥津城はコブレンツとボンとの間の丘の上からラインの土地を見おろしているのだということを彼が全然知りはしなかったとしても、――しかし彼自身ヴィーンにいて「革新軍」の勝利を二度までも眼のあたりに見たのであった。一八〇五年十一月に『フィデリオ』の初演を聴きに来たのはフランスの士官たちであった。バスチーユの勝利者ユラン将軍はロブコヴィッツ家に泊まっていたが彼はベートーヴェンの友であり擁護者であり、『エロイカ』と『第五交響曲』とが彼に献呈せられた。一八〇九年の五月十日にはナポレオンがシェーンブルンに泊まる(24)。ベートーヴェンは間もなくフランスの勝利者たちを憎むようになるが、しかし彼らの英雄詩的行為に対する熱情を彼は依然として感じつづけていた。この熱情をベートーヴェンほどに感じ得ない者は、彼の行為的な、そして堂々たる凱旋の調子を持つ音楽を、半分しか理解できないであろう。

      [ ※ アステリズム、1-12-94]

 ベートーヴェンは突如『第五交響曲』の作曲を中途で停滞させた。それは、下書きを幾つも作る彼の平生のやり方をしないで一気呵成に『第四交響曲』を書くためであった。幸福が彼の前に現われかけていた。一八〇六年の五月に、彼はテレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(25)と婚約したのである。テレーゼはずっと以前から彼を愛していた。――それはベートーヴェンが初めてヴィーンに来た頃、ピアノの稽古を彼から受けていた少女時代以来のことである。ベートーヴェンは彼女の兄、フランツ伯の友人であった。一八〇六年にハンガリアのマールトンヴァーザールで彼はブルンスヴィック家の客となったが、その時期にベートーヴェンとテレーゼとの間の愛情は深まった。幸福なこれらの日々の思い出は、テレーゼ・フォン・ブルンスヴィックの書いた二、三の話の中に記されてある(26)。「或る日曜日の夕方、食後、月の光の中でベートーヴェンはピアノに向かって坐った。まず最初手を鍵盤の上に平たく置いた。フランツと私とはこれがベートーヴェンの習慣であることを良く識っていた。彼は弾き始めるときいつでもそうするのであった。それから低音の幾つかの和音《アコード》を敲《たた》いた。その後でゆっくりと深い荘重な調子で彼はセバスチァン・バッハの一つの歌(27)[#行右小書き終わり]を弾いた……『おんみの心をわれに与えんとならば、まずひそやかに与えよかし。われら互《かた》みに持てる想いを、何人《なにびと》もさとらぬぞよき。』私の母と牧師とは居眠りをしていた。兄は重々しく前方を見つめていた。私はベートーヴェンの歌と眼なざしとに心をつらぬかれて、生命《いのち》が豊かに湧き上がる思いがした。――翌朝、私たちは庭園で出会ったがそのときベートーヴェンはいった『私は今、歌劇《オペラ》を書いています。主役の人物の姿が私の心に浮んでいて、どこへ行っても、どこにいても、それが心にありありと見えています。今ほど心が高められているように感じていることはありません。一切が光です、清浄です、明るさです。今までの私は、小石ばかりを拾い集めていて、自分の路に咲いている輝かしい花に気づかない、あのお伽話の中の子供みたいなものでした。……』私が親身《しんみ》に愛していた兄フランツの即座な同意を受けてベートーヴェンと婚約したのは、一八〇六年の五月のことであった。」
 この年に書かれた『第四交響曲』は、彼の全生涯の最も静穏なこれらの日々の薫りをとらえて漂わせている浄らかな一つの花である。そこに人が「先人たちから手渡された音楽諸形式の中で広く知られかつ好まれているものと彼自身の独自の天才とをできるかぎりよく調和させたいと思う当時のベートーヴェンの意向(28)」を見て採ったことは正当なことである。恋愛に起因して生まれたこの調和的な意向は、また彼の動作や生活ぶりにも影響を及ぼしていた。イグナッツ・フォン・ザイフリートとグリルパルツァーとのいうところによると、ベートーヴェンは陽気さに充ち溌剌として嬉しげで、才気煥発の風を示し、社交界の中で慇懃であり、面倒くさい連中に対しても気永に応対し、身装《みなり》を凝っていて、彼の聾疾を彼らがまったく気がつかない程度にまで彼らにイリュージョンを与えていた。弱くなっている視力(29])以外は健康状態はなかなか良好だった。その頃画家メーラーの描いた一肖像画――ローマンチックに洒落《しゃれ》てやや気どっている一肖像画もまたそんなふうな感じをわれわれに与える。ベートーヴェンは他人の気に入りたがっている。また他人の気に入っていることを意識している。獅子が恋をしているのである。獅子は爪を隠す。しかもこんな戯れの背後に、『第四交響曲』の幻想と情愛との背後《うしろ》にさえ、恐るべき力、変わりやすい気分、激しい気性の伏在が感じられる。
 この深い静穏も永続する運命を持たなかったが、それでも恋愛の幸福な影響力は一八一〇年に至るまでつづいていた。彼の天才からその頃の最も完璧な幾つかの果実を作らせたところの自己統御のちからを確かにベートーヴェンはあの恋愛に負うている。すなわち古典的悲劇というべき『第五交響曲』や、夏のひと日の神々しい夢想である『田園(第六)交響曲(30)』やが、その果実であり、そして、また、シェイクスピアの『嵐《テムペスト》』に霊感され(31)て生まれ、彼自身が自作の奏鳴曲《ソナータ》のうち最も強いものだと見なしていた『熱情奏鳴曲《アパッショナータ》』は一八〇七年に世に現われて、テレーゼの兄に捧げられたのであった。テレーゼ自身へは作品第七十八の夢幻的で不思議な感じのする奏鳴曲《ソナータ》(一八〇九年)をささげた。日付のない、そして「不滅の恋人に宛てて」書かれた一通の手紙(32)は、『熱情奏鳴曲《アパッショナータ》』に劣らず彼の恋ごころの烈しさを示している。――
「わが天使、わが全《すべ》て、わが自己そのものである人よ、
私の心はあなたに伝え得ないほど満ち溢れている……おお、私がどこにいても、あなたは私と共にいる。……おそらく日曜日が来るまでは私からの消息をあなたがお受け取りにはなるまいと考えると私は泣けてくる。――あなたが私を愛して下さるだけ、いや、それよりもずっと強く私は貴方を慕っている……ああ! あなたに逢わずに生きているこの生活は味気無い!――(あなたは)こんなに近いのに、こんなに遠い!――……私の想いはあなたに向かって飛ぶ、不滅の、わが恋人よ(meine unsterbliche Geliebte)私の想いはときおり歓ばしくてやがて悲しくなり、運命に問いかけ、運命が私たちの望みを叶えてくれるかと尋ねながら飛ぶ。――私はあなただけと共に生きるか、まったく生きないかどちらかだ。……あなた以外の女性《ひと》が私の心を占めることは絶対に、絶対に、絶対に有り得ない。――おお、こんなに慕いながらなぜ別々に生きなければならないのか? しかも、ヴィーンでの私の今の生活はまったくわびしい。あなたへの愛が私を人間の中の最も幸福なものにしたと同時に最も不幸なものにした。――安心していて下さい――安心していて下さい――私を愛して下さい――今日も――昨日も――あなたへの、あなたへの、あなたへの、憧れの涙をどんなに流したことか!――わが生命《いのち》よ、わが一切よ――さようなら――おお、いつまでも私を愛して下さい。――あなたの愛するLのかわらぬ心を誤解しないで下さい――この心は永久にあなたのもの、永久に私のもの、永久に私たちふたりのもの(33)。」

 どんな秘かな原因が、愛し合っているこの二人の幸福への道を妨げることになったのであろうか?――おそらくは、ベートーヴェンの側の財産の欠如、二人の身分の相違。おそらくはまた、ベートーヴェンがいつまでも待ちぼけを喰わされて、愛を秘密にしておかねばならぬ屈辱に業《ごう》を煮やしたためかも知れない。
 おそらくはまた、がむしゃらで病身で厭人的な彼が不本意にも、愛する彼女を苦しめて、みずから絶望に陥ったのかも知れない。――婚約は破棄された。しかも、二人ともにいつまでもその愛情を忘れることができなかったように見える。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィックは(一八六一年まで存命していたが)その生涯の最期の日までベートーヴェンを愛していた。
 ベートーヴェンも一八一六年にいった――「彼女のことを考えると、僕の心臓は、初めて逢った日と同じくらいに強く搏《う》つ。」この年に「はるかな恋びとに」捧げる An die ferne Geliebte 六つの歌謡曲《リーダー》(作品第九十八)が作られたが、これらの歌は実に感動的なまた実に深みのある性格を持っている。彼は手記の中に書いている「このすばらしい自然の風光を眺めながら私の心は漲《みなぎ》り溢れる。しかも私の傍《そば》に彼女はいない!」と。――テレーゼは自分の肖像をベートーヴェンに贈ったがその献辞に「稀有の天才、偉大な芸術家、善き人に。T・B・(34)」と記《しる》した。ベートーヴェンの晩年に一友人がたまたま彼を訪ねてみるとベートーヴェンは室に独りいて、テレーゼの肖像を接吻しながら泣いていた。そして彼の流儀どおりの大きな声でこんなことをいっていた――「あなたはほんとうに美しくて偉大だったね。まるで天の使いたちのようだったね。」その友はベートーヴェンに気づかれないようにそっとそこから立ち去って少し後《のち》にまた来てみると、ベートーヴェンはピアノの前に坐っていた。友人が彼にいう――「おい、今日《きょう》こそは君の顔つきから、悪霊がまったく退散してるじゃないか。」ベートーヴェンは答える――「僕の天使が訪ねて来てくれたんでね。」――心の傷手《いたで》は深かった。「あわれなベートーヴェンよ」と彼は独白した「お前には此の世の幸福はまったく無い。お前はただ理想の領域の中でのみ、友らを見いだすだろう(35)。」
 彼は手記の中に書いた――「忍従、自分の運命への痛切な忍従。お前は自己のために存在することをもはや許されていない。ただ他人のために生きることができるのみだ。お前のために残されている幸福は、ただお前の芸術の仕事の中にのみ有る。おお、神よ、私が自己に克つ力を私にお与え下さい!」

      [ ※ アステリズム、1-12-94]

 かくして彼は恋愛に見捨てられた。一八一〇年には彼は孤独になっていた。しかし名声がやって来た。そしてまた自己の力への自覚も来た。彼は屈強な力を身内に感じる年齢に達した。もはや世間にも習慣にも他人のおもわくにも気兼ねせず、何ごとをも頓着せず、荒く烈しい自己の天性のままに振舞った。何を危懼《きく》し、何を遠慮する要があろう? もはや恋愛をも野心をも持ってはいないではないか。今彼に残っているものは、自己の実力だけである、その実力の自覚の喜びである、そして、その力を用いようとする――ほとんど濫用しようとする要求である。「実力、これこそ己れを一般から卓越させる人々の道徳だ。」彼の身装《みなり》は再びぞんざいになった。処世の態度の自由さは以前に増して大胆になった。世に最も高名の人々に向かってさえ何でも平気で話す権利が自分にはあると彼は感じた。「心の善というもの以外には、私は人間の卓越性の証拠を認めない(36)。」と彼は一八一二年七月十七日に書いている。その頃彼に逢ったベッティーナ・ブレンターノは、「どんな帝王や王様でも彼ほどに自己の力を実感してはいなかった」といっている。彼女はベートーヴェンの力に魂を魅了されていた。ゲーテへの手紙にこう書いている――「私が初めてベートーヴェンに逢ったとき、私は全世界が残らず消え失せたように思いました。ベートーヴェンが私に世界の一切を忘れさせたのです。そしてゲーテよ、あなたをさえも……。この人は今の文明よりはるかに先んじて歩いている人だと私が確言しても、自分の考えが誤っているとは思えません。」そこでゲーテはベートーヴェンを識ろうと努めた。ゲーテとベートーヴェンとは、一八一二年にボヘミアの温泉場テプリッツで逢ったのだが互いによく理解し合うことができなかった。ベートーヴェンの方ではゲーテの天才を熱烈に尊敬していた[(37)のに、彼の性格があまりに不羈《ふき》で烈しいためにゲーテの性格と調和が取れず、必然にゲーテの心を傷つける結果になった。二人が共に散歩をし、そのときこの一徹な共和主義者が、ヴァイマール大公の枢密顧問官(ゲーテ)に人間の威厳に関する教訓を与えた(これをその後、ゲーテは決してベートーヴェンに赦さなかったのだが)ときのことを、ベートーヴェン自身が物語っている――
「王様や君侯は教授先生や枢密顧問官を作って、彼らに肩書や勲章やをたくさんお与えになることはできる。しかし偉大な人物を、――うごめく人間群から抜きん出ている精神を、拵えるというわけにはいかない。――私とゲーテのような二人の人物が一所《いっしょ》にいれば、われわれ二人において偉大な価値として認められるそのものにこれらの紳士たちも、注目すべきである。――昨日われわれは帰り途で大公家全部の方々に出くわした。その方々が向こうの方から近づいてこられるのをわれわれは気付いたが、そのときゲーテは私の腕を離して道の脇へ退いて、私が何といっても彼を一歩だに前へ歩かせることはできなかった。私は帽子をしっかりとかぶって、フロックコートのボタンをはめて、両腕を背中に組んで、雑沓している人波の真中を進んで行った。――君侯たちと侍臣たちとは列をつくって並ばれ、ルードルフ公は私に向かって帽子を取られ、大公妃も私に先んじて御挨拶をなさった。――大公家の方々は私がどんな人間かを御存知なのだ。――ゲーテの方を眺めると、一行が彼の前を通り過ぎて行かれるとき、帽子を脱ぎ低く腰を屈めて脇の方に立っているので私は可笑《おか》しくなった。後《あと》で私はゲーテをたしなめた。私は彼を容赦しなかった(38)。」そしてゲーテの方でもそのことを以後こんりんざい忘れはしなかった(39)]。
 この時期に(一八一二年)『第七』と『第八』の交響曲が、テプリッツ滞在中に数カ月間に書かれた。『第七』は「律動《リトム》の大饗宴」であり、『第八』は軽快なユーモラスな気分の交響する作品である。この両作品にはおそらく最も自然な、(彼自身のいったとおり)「ボタンをはずしている」aufgeknopft 飾り気無い素地が現われている。そこには夢中な陽気さと狂熱とがあり、気分の突如たる対照《コントラスト》があり、錯雑する、大規模な、電光のような思いつきと巨人的な爆発とがある、これらはゲーテとツェルターとに恐怖を感じさせたところの特徴である(40)。北ドイツでは『第七』は酔っぱらいの作品だと評された。――確かに酔っぱらいには相違ない、ただし自己の天才の実力に酔っているのである。彼は自分自身についていった――「俺は人類のために精妙な葡萄酒を醸す酒神《バッカス》だ。精神の神々しい酔い心地を人々に与える者はこの俺だ。」ベートーヴェンが第七交響曲の終曲《フィナーレ》でディオニソスの祝典を描写しようとしたと書いているヴァーグナーの説が正しいかどうか私は知らない(41)。私自身はむしろ、この激しいオランダ的祝祭ケルメスの中に、彼のフランドル的血統の印を認める。――訓練と服従との国において、誇らしげにあらゆる額縁からはみ出てしまうような彼の表現と動作との大胆さの中に私が彼のこの血統の特徴を認めるのと同様に。しかも、この『第七交響曲』の中には他の作に類例がないほどに率直で自由な力が現われているのである。それは超人的精力の無方途な濫費――濫費の楽しみである。横溢し氾濫する大河の楽しみである。『第八交響曲』においては、力はそれほど雄大ではない。しかし、またそこにはこの人間のいっそう奇妙な特徴が示される、すなわちそこでは悲劇がふざけと溶け合い、勇士ヘラクレスのような力強さが幼な児の無邪気な遊戯と軽やかな気まぐれとに溶け合っているのである(42)。
 一八一四年はベートーヴェンの名声が高潮に達した年であった。ヴィーン会議において、彼は全ヨーロッパの一光栄として遇せられ、祝祭には積極的に参与して、王侯たちは彼に頌敬を贈り、彼自身は誇りかに(それをシンドラーに向かって自慢したとおりに)人々がもてなすがままになっていた。
 彼は独立戦争に心を奪われていた(43)。一八一三年には一交響曲『ウェリントンの戦勝』(作品第九十一)を書き、一八一四年の初めには、『ゲルマニアの復活』の戦闘的な合唱を書いた。一八一四年十一月二十九日には王侯たちを聴衆として、愛国的な声歌曲《カンターテ》『栄誉に充ちたる瞬間』を指揮し、一八一五年にはパリ占領を祝して合唱曲『一切は成し遂げられたり!』を作曲した。これらの第二義的な臨時の作品は、他の全作品にもまして彼の名声を高からしめた。フランス人ルトロンヌの素描のスケッチによってブラジウス・ヘーフェルの作った版画と、一八一二年にフランツ・クラインが取った猛々しいライフ・マスクとは、ヴィーン会議の頃のベートーヴェンの現身の姿を良く伝えている。引き緊《しま》った両顎と、憤り及び悲哀の皺とを持つところのこの獅子のような相貌を支配している特徴は、まさに意力である。――ナポレオン的意力である。イエナの戦の後にナポレオンについて次のようにいった人間の性格を確かにわれわれはこの顔の中に感じることができる――「私が音楽について知っているほどに戦略について知らないとは何と残念なことか!――ナポレオンをやっつけてやるはずなのに!」とはいえ、ベートーヴェンの王国はこの世のものではなかった。「私の国は大気の中にある」(Mein Reich ist in der Luft.(44))と彼はフランツ・フォン・ブルンスヴィックに宛てて書いた†。


† 訳者注――「大気の国」を、ロランは最近(一九三八年三月)の研究の中では songe(夢想)の国とフランス語訳している。そして、このベートーヴェン的ソンジュ、魂の夢、いわば内面性の特徴は、ロランが最近のベートーヴェン研究において最も力を入れている題目の一つであって、たとえば作品第百六番のピアノ・ソナータの解釈などにそれが現われている

      [ ※ アステリズム、1-12-94]

 この光栄の時期に相継いで、最も悲しく最も惨めな時期が来る。
 ヴィーンの町がベートーヴェンに対して真の同感を持ったことは、実は一度も無いのであった。彼のように衿恃を持った不羈《ふき》の天才は、末梢的な技巧に耽りやすい、世俗的で凡庸な精神のこの都――ヴァーグナーが侮蔑をもって厳しく批評した(45)この都に調和するはずはなかった。彼は、そこを離れるあらゆる機会を逃すまいとしていた。一八〇八年頃には、オーストリアを去って、ウエストファリアの王ジェローム・ボナパルト(46)の宮廷の招きに応じようと本気で考えていた。しかしヴィーンには彼の音楽を支持する多くの力があったことも事実である。そこには、ベートーヴェンの偉《えら》さを認めて、彼をオーストリアから失うことの恥辱を自国に与えないように取り計らったところの、音楽を熱愛する一団の貴族がいた。一八〇九年に、ヴィーンの最も富裕な三人の貴族ルードルフ大公(彼はベートーヴェンの弟子であった)とロプコヴィッツ公とキンスキー公とが協力して、ベートーヴェンがオーストリアを去らないというだけの条件のもとに、彼に四千フローリンの年金を与えるように計らった。(彼等のいわゆる「官庁指令《デクレート》」の中で彼らはいっている)「能うかぎり後顧の憂いなき者にして始めて己れの専門の仕事に専心するを得、他の一切の業務にわずらわされずして始めて、偉大にして崇高なる作品、芸術を品位あらしむる作品を創作し得るは明瞭なるが故に、左の署名人らは、ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン氏に、彼が生活に必須なる条件のために煩わさるることなくその天才力の勇躍を挫折せしめざるに足るだけの生活保証を提供すべく決議したり。」
 遺憾ながら実現が約束に呼応しなかった。この年金の支払いはつねにはなはだ不規則であった。そして間もなくまったく停止された。それにまた一八一四年のヴィーン会議ののち、ヴィーンの特徴も変化した。人々は政治に心を奪われて芸術を忘れた。音楽への好みはイタリア派のために毒せられた。そして、すっかりロッシーニにかぶれた新流行が、ベートーヴェンを固陋な理窟屋《ペダン》だといい出した(47)。
 ベートーヴェンの味方であり擁護者であった人々は、そのあいだに散り散りになったり死んだりした。キンスキー公は一八一二年に、リヒノフスキーは一八一四年に、ロプコヴィッツは一八一六年に歿した。ベートーヴェンが作品第五十九番のすばらしい弦四重奏曲《クワルテット》をその人のために書いたラズモフスキーは、一八一五年二月の演奏会が彼の最後の演奏会となった。一八一五年(48)にベートーヴェンは、幼な友だちであり、エレオノーレの兄であったシュテファン・フォン・ブロイニングと仲違いをして以来、まったくの独りぼっちになってしまった(49)。「自分は一人も友を持たない。世界中に独りぼっちだ」と一八一六年の「手記」の中に書いている。
 聾疾は完全に進んでしまった(50)。一八一五年の秋からは、他人と筆談で語るよりほか仕方がなくなった。筆談帳の最初のものは一八一六年である(51)。一八二二年の、歌劇『フィデリオ』上演のときの、シンドラーの書いたあの悲しい物語は有名なものである――
「ベートーヴェンは総試演を指揮することを望んでいた。……しかもはや最初の二重唱《ドゥエット》で、歌唱者の声が全然きこえないことは明瞭になった。彼はテンポを著しくゆるめた。オーケストラは彼の指揮棒に従って進んでいるのに、歌い手たちはずんずん先へ駆け出した。〔戸口にノックの聴こえる箇所まで進んだときに、〕全体が混乱に陥った。平生のオーケストラ指導者ウムラウフが理由はいわずに一瞬の停止を命じた。そして歌唱者たちと数語を交したのち、再び演奏がつづけられた。すると前のと同じような混乱がまたしても生じた。二度目の停止をしなければならなくなった。ベートーヴェンの指揮のもとに演奏をつづけるのは不可能だということが明白になった。しかしどうしてそれを彼に了解させることができるだろう? 『退場なさい。気の毒なベートーヴェン、君には指揮はできないのだ』と彼にいえる勇気はだれにもなかった。ベートーヴェンは不安を感じ落着きを失《な》くして、右に向いたり左に向いたりしながら、人々の顔のさまざまな表情を読み採ろうと努め、支障の原因がどこにあるかを解ろうと努めた。どちらを見ても、あるのは無言だけだった。とつぜん彼は圧倒的な調子で私を呼んだ。私が側へ近寄ると彼は手帳を差し出して、書いてくれ、と合図をした。私は次の文句を走り書きした『演奏をつづけないで下さい。理由《わけ》は家へ帰ってから。』ひと飛びに彼は指揮台から飛び降りて私に叫びかけた『早く外へ出よう!』まっしぐらに自家《うち》へ駆けて帰り、室に入ると長椅子の上にぐったり身を投げ出して、両手で顔を蔽い、食事の時刻までそのままの状態でジッとしていた。食卓でも、彼は一言も口に出すことができず、最も深い悲哀と落胆との表情を示しつづけていた。食後彼の許を立ち去ろうとしたら、独りだけにしないでくれといいながら私を引き留めた。私が帰るときに彼は、評判のいい耳の医者へ明日行くから同行してくれと私に頼んだ。ベートーヴェンと私との交際の全部の経歴中で、この十一月のせっぱ詰まった一日に比較され得るどんな日をも私は他には見いだせない。……彼はあの日、性根《しょうこん》まで打撃を受けていた。そして彼の死ぬ日に至るまで、あの日の恐ろしい光景の記憶は、彼の心につき纏っていた(52)。」
 二年のちの一八二四年五月七日に、『第九交響曲』すなわち『合唱を伴える交響曲』を指揮したとき(むしろ、その時のプログラムに書いてある言葉によれば「演奏の方針に参与した」とき)彼に喝采を浴びせた会場全体の雷鳴のようなとどろきが、彼には少しも聴こえなかった。歌唱者の女の一人が彼の手を取って聴衆の方へ彼を向けさせたときまで、彼はまったくそのことを感づきさえしなかった。突然彼は、帽子を振り拍手しながら座席から立ち上がっている聴衆を眼の前に見たのだった。――一八二五年頃に、ベートーヴェンがピアノを弾いているのを見た英国の一旅行者ラッセルのいうところによると、ベートーヴェンが静かに弾いているつもりのとき、音は少しも鳴ってはいなかった。そして、ベートーヴェンを生気づけている感動の様子を、彼の表情と力をこめている指とに見つめつつ、しかも音楽は少しも鳴っていないその光景の中にいると、胸をしめつけられるような気持がしたという。
 自己の内部へ閉じこもり(53)、一切の人々から切り離された彼は、ただ自然の中に浸ることだけを慰めとした。「自然がベートーヴェンの唯一の友であった」とテレーズ・フォン・ブルンスヴィックはいっている。自然が彼の安息所であった。一八一五年に彼を識ったチャールズ・ニートがいっているが、彼は、ベートーヴェンほどに花や雲や自然の万物を完全に愛する人間を見たことがなかった(54)。自然はベートーヴェンが生きるための不可欠条件のようだった。「私ほど田園を愛する者はあるまい」とベートーヴェンは書いている「私は一人の人間を愛する以上に一本の樹木を愛する……」〔「……森や樹々や巌が返し与える木魂《こだま》は人間にとってまったく好ましいものだ……」〕彼は毎日のようにヴィーンの郊外を散策した。暁から夜まで帽子もかぶらず日光の中または雨の中を、独りで田舎を歩き廻っていた。「全能なる神よ!――森の中で私は幸福である――そこではおのおのの樹がおんみの言葉を語る。――神よ、何たるこの壮麗さ!――この森の中、丘の上の――この静寂よ――おんみにかしずくためのこの静寂よ!」
 彼を圧しつけていたいろいろな窮迫から、彼はこんな散歩によって息をついた(55)。彼は金のための苦労に悩まされていた。一八一八年に彼は書いた「ほとんど乞食をしなければならないほどになっているが、困っていないかのようなふうを装わねばならぬ。」さらにいっている――「作品第百六番の奏鳴曲《ソナータ》は、こんな窮迫した状態の中で作った。パンを稼ぐために作曲するのはつらい」と。シュポールのいっているところによると、ベートーヴェンは靴が破れて穴があいているために外出できないことがたびたびあった。楽譜出版所に大きい借金をしているし、作曲を出しても金は入ってこなかった。予約注文で出した『荘厳な弥撒《ミサ》曲』の譜は七人しか注文者がなかった。(その中に音楽家は一人もいなかった(56)また、一つ一つの作曲が三カ月の仕事を費やした彼の立派な奏鳴曲《ソナータ》に対して、彼はせいぜい三十ドゥカーテンか四十ドゥカーテンを受け取っただけだった。ガリツィーン公は彼に依嘱して作品第百二十七、百三十、百三十二の四重奏曲《クワルテット》を作らせた。これらはおそらく彼の最も深い作品であり、血をもって書かれたように見える音楽なのであるが、ベートーヴェンはそれに対してまったく支払われなかった。家事の困窮と、そして、いつまで待っても支払ってもらえない年金のための、また一人の甥の後見役を引き受けようとするためのほとほと埒の明かない訴訟沙汰とのために彼は疲れ切った。この甥というのは一八一五年に結核で死んだ弟カルルの息子だった。
 彼は心に溢れていた父親らしい愛情を、この甥の上にそそぎかけた。そしてそこでもまた大きい苦労を味わわされた。それはあたかも一種の恩寵が、彼に不幸を絶え間なく新しく与えつつ、それを募らせつつ、畢竟彼の天才がつねに滋養分に事欠かないように摂理しているかのようにも見えるのである。――ベートーヴェンから少年カルルを取り上げようとしたやくざな母親からその少年を取られないために彼はまず争わねばならなかった――
「おお、わが神よ」と彼は書いている「わが砦、わが護り、わが無二の隠れ家よ! おんみには私の心の底がお判りになっています。私から、私の宝を、私のカルルを取り上げようと(57)している人々を今私が止むを得ず苦しめねばならぬこの悲しさはおんみが御存じです! 私が何と名づけていいか知らない実在者よ。私に耳を傾けて下さい、おんみが造られた人間の中の最も不幸な者のこの祈りをお聴き取り下さい!」
「おお神よ、私を救いに来て下さい! 私が不正と妥協したくないために、私があらゆる人間から見捨てられている有様はごらんの通りです! 私の祈りをお聴き下さい、せめてこの後《のち》私が愛するカルルといっしょに暮らせますように!……ああ、無慈悲な、厳しい運命! いな、いな、私の不幸が終わることはあるまい!」
 しかるに、彼がこんなに愛着したこの甥たるや、伯父の信頼に価しない証拠を示すようになるのである。ベートーヴェンと甥との文通はミケランジェロとその弟たちとの文通に似て痛ましく腹立たしい調子のものであるが、しかもいっそう素樸な感動的なものである。
「わしはまたしてもこれほどひどい忘恩を報いられねばならないのか? よろしい。わしたちの間のつながりが断たれるよりほか仕方がないならそうなるがいい! 誰でも公平な人間はお前の忘恩を知ったらお前を憎むだろう。わしらを結んでいる愛の絆がお前には重荷になり過ぎるというなら、わしは神の名において神のみこころにお任せする他はない。神の摂理にお前をおまかせする。できるかぎりのことは尽して来たつもりだ。わしは甘んじて神の審判《さばき》の前に出よう……(58)」
「お前がだめな人間になっているとはいえ、今からでも、正直な人間になろうと決心してみてはどうか? わしに対するお前の狡いやり方のため、わしの心は実に苦しんだのだ、それを忘れてしまうことはなかなかできぬほどだ。わしがお前と、やくざな弟と、恥知らずな家庭からすっかり縁を切ってしまいたいという気持になることは神さまが御存じだ。――わしはお前をもう信用しない。」そして彼は署名する「残念ながらお前の父なる、むしろお前の父ならざるベートーヴェン(59)」と。
 しかしその後で彼はたちまちに赦す――
「わしの愛する息子よ、もう何もいわぬ。わしの両腕の中へ還って来ておくれ。もうお前に何も厳しい言葉は聞かせはしない。……いつもにかわらぬ愛情をもってお前を迎えるよ。お前の将来についてのことを、打ちとけて話し合おう。――けっして叱らないことを約束する。そんなことはもう何にも役には立たないからね。お前はわしから最も親身《しんみ》な心配と助力とだけを期待していいのだよ。どうぞ来てくれ!――お前の父親ベートーヴェンのかわらぬ愛情へ帰って来てくれ! この手紙を見たらすぐにわしの所へ帰ってくれ!」――さらにフランス語で封筒の上に――〔Si vous ne viendrez pas, vous me tuerez su^rement.〕「お前がこないと、お前はきっとわしを殺すことになるよ(60)。」
「どうか欺してくれるな」と彼は切願する。「いつもわしの愛する良い息子であってくれ! 人がわしにそう思い込ませようとすることがほんとうで、もしもお前がわしの目をごまかしているとすると、それは何という恐ろしい過ちだ!――今日はこれだけにする。お前の生みの父親ではないとはいえ、確かにお前を育てて来、お前がよい人間になるようにとできるかぎりの面倒をみて来たこのわしは、生みの親にもまさる愛情をもって心の底からお前に頼む、どうか正しい善い道だけを歩いてくれ(61)!」
 知能が足りないわけではなかったので、ベートーヴェンが大学教育の過程を踏ませたいと考えていたこの甥の将来にありとあらゆる希望の夢をはぐくんだのちに、彼は甥を商人にすることに同意せざるを得なくなった。しかしカルルは賭博に入りびたって借金をした。
 人が想像する以上にしばしば起こる悲しい事実であるが、この場合、伯父の大きい道義性は、甥に幸いせずかえってわざわいしたのである。それは甥を自棄的にさせ、ついには反抗心を起こさせるに到った。甥自身がいった次の恐るべき言葉には、この惨めな魂の真相があらわに示されている――「伯父が僕を善人にしようとしたために、僕はかえって悪人になった。」一八二六年の夏にカルルは自分の脳天へピストルの弾を撃ち込む事態にまで立ち到った。カルルはそれによって命を落とさずに済んだが、そのために致死的な打撃を受けたのはベートーヴェンであった。この恐ろしい激動から彼は再び立ち直ることができなかった(62)。カルルは全快した。彼は生き延びて最後まで――ベートーヴェンの死ぬ日まで――彼を悩ましつづけた。そしてベートーヴェンの死の原因に対しても決して無縁とはいえないこの男は、ベートーヴェンの臨終のときにもその側にいなかった。――「神はこれまでわしを見棄て給わなかったのだから」とベートーヴェンは、死に先だつ数年前に甥に宛てて書いた「わしが死ぬときにも、わしの瞼を閉じてくれる人間が誰か一人はいてくれるだろう。」――この誰か一人の人間は、彼が「自分の息子」と呼び慣れたその者ではついに無かったのである(63)

      [ ※ アステリズム、1-12-94]

 ベートーヴェンが歓喜を頌《ほ》めようと企てたのは、こんな悲しみの淵の底からである。
 それは彼の全生涯のもくろみであった。まだボンにいた一七九三年からすでにそれを考えていた(64)。生涯を通じて彼は歓喜を歌おうと望んでいた。そしてそれを自分の大きい作品の一つを飾る冠にしようと望んだ。生涯を通じて彼は頌歌の正確な形式と、頌歌に正しい場所を与える作品とを見いだそうとして考えあぐねた。『第九交響曲』を作ったときでさえも、究極の決定を与えかねて「歓喜への頌歌」は、これを第十か第十一の交響曲の中へ置き換えようという気持を、最後の決意の瞬間まで持ちつづけていた。われわれは、『第九』が世に普通呼ばれるごとく『合唱を伴える交響曲』と題されてはおらず、『シルラーの詩「歓喜への頌歌」による合唱を終曲《フィナーレ》とせる交響曲』と題されていることをよく注目しなければならない。どうかすると、この交響曲はまったく別の終曲を持つようになったのかも知れなかった。なぜなら、一八二三年の七月にはまだベートーヴェンは、この作品に器楽だけの終曲を与えるつもりだったのである。そのために考えていた主題《テーマ》はその後作品第百三十二番の弦四重奏曲《クワルテット》の中へ転用せられた。一八二四年五月の『第九』演奏の後でさえも(ツェルニーとゾンライトナーの説によると)ベートーヴェンは終曲《フィナーレ》の作りかえの意図を全部的には抛棄していなかったという。
 交響曲へ合唱を入れるということには幾多の技術上の大きい困難があった。ベートーヴェンの手記や、また、いろいろな試作――すなわち人間の歌声をこの作の現在入れられてある箇所とはたぶん別な箇所へ、別なやり方で入れるつもりで、あれこれとやって見たいろいろな試作が、これらの大きい困難をわれわれに確証している。『第九』の緩徐調《アダジオ》の第二の主題のための草案(65)の中に「おそらく合唱をここに用《つか》ったら歓喜がいっそう美しいだろう」と記してある。しかも彼は彼に対して忠実なオーケストラを見限る決心がつかないのであった。彼はいっている――「一つの楽想が心に来るとき、私には常にそれが器楽の音で聴こえる。けっして歌声によってではない。」彼はまた、人間の歌声をつかう瞬間をできるかぎり先へ延引していた。初めのうちは終曲《フィナーレ》の(66)宣叙調《レチタティーフ》のみか「歓喜」の主題《テーマ》そのものをさえ器楽とすることに決めていた。
 けれどもこの不決断と延引との理由をさらに詳細に理解してみることが緊要である――その原因はいっそう深いところにあるのだから。絶えず憂苦に心を噛まれていたこの不幸な人間は、またつねに「歓喜」の霊妙さを頌《ほ》め歌いたいと欣求した。そして歳から歳へ、その課題をくりかえし採り上げては、またしても、情熱の旋風と憂愁との囚《とりこ》になるのであった。生涯の最後に到って初めてこの目的を達成することができた。しかも何たる偉大さをもって彼はそれを達成したことか!
 歓喜の主題《テーマ》が始めて現われようとする瞬間に、オーケストラは突如中止する。急な沈黙が来る。歓喜の歌の登場へ、この沈黙が一つの不思議な神々しい性格を与える。実際、この主題《テーマ》は一個の神ともいえるのである。超自然的な静けさをもってひろがりながら、歓喜は空から降りて来る。その軽やかな息のそよぎで、歓喜は悩みを愛撫する。苦悩から力を恢復して立ち上がる心の中へ喜びが辷《すべ》り入るときに、それが与える第一の感銘は情愛の深さである。――「その優しい眼を見つめていると泣けて来る」とベートーヴェンの友が彼についていった感情を今ここにわれわれも感じさせられる。その音楽の主題がやがて声楽となって現われると、まずそれは、非常にまじめな、そしてやや抑制された特質を持つ低音で示される。しかし、少しずつ歓喜は全体を手に入れる。それは一つの征服である。悲哀に抗する戦である。さてここに行進のリズムが来る。進軍する軍勢である。次中音《テノール》の熱烈な喘ぐような歌。それはわれわれがベートーヴェン自身の息の音を聴いているかと思うようなうち顫える部分である。――それは嵐の中を駆けめぐる老いたるリア王のように、デーモン的な心熱に憑かれながら野の中を作曲しながら駆けめぐるときの彼の呼吸と、霊感された叫びとのリズムである。戦士的な歓喜ののちに、宗教的恍惚感がやって来る。それから聖なる大祝祭、愛の有頂天。全人類が腕を天へ差し出して強い歓声を挙げて、歓喜に向かって飛びかかり、胸の上にそれを抱きしめる。
 凡庸なヴィーンの聴衆もこの巨人的作品にはさすがに圧倒せられた。ヴィーンの朝三暮四流もそのため一時は熱狂した。しかし彼らの口には結局ロッシーニとイタリア歌劇の味の方が適していた。ベートーヴェンは屈辱と悲しさとを感じてロンドンへ住みに行こうとした。彼はそこで『第九』の演奏をさせるつもりであった。一八〇九年の場合と同様に今一度、ベートーヴェンがオーストリアを去らないようにと彼に懇願したのは、彼の味方である数人の貴族たちであった。――彼らは書き送った――「あなたが一つの新しい宗教音楽曲(67)を作曲せられ、あなたが深い宗教的信仰から霊感されていられる感情をその作によって表現せられたことをわれわれは承知しています。あなたの偉大な魂を貫流するこの世ならぬ輝きがお作を照らしています。さらにまたわれわれは感じています。まだ完成していないすばらしい幾多の交響曲の花の鎖のなかには、さらに一つの新しい不朽の花が咲き出ようとして輝いていることを。……万人の眼が待望の中にひたすらあなたに向けられていることは今さら申すまでもありません(68)。また、われわれが音楽の領域でだれにも優る至高者と呼ばざるを得ないその人が、目下の音楽界の実状を――すなわち、外来の音楽がドイツの土地、名誉あるドイツ音楽の領土に陣取り、ドイツの音楽が外来の甘ったるい音楽の影法師にしか過ぎなくなっているようなこの現状を無言をもって(あなた御自身の作品を示されずに)眺めていられるのを知ってわれわれの心が悲しみの念に打たれていることもまた申すまでもないことです。……祖国の芸術は現下の流行がいかにあれ、新しい開花と若返る生命と、そして真実なるもの美しきものの新しい征服的支配力とを、正にあなたからこそ待ち望んでいるのです。……まもなくわれわれの待望は充たされるという希望《のぞみ》をわれわれにお与え下さい。……新しい歳の春が、われわれのためまた世の中のため、あなたの新作品の開花の故に、どうか二重の開花を持つこととなりますように(69)!」この気高い志向の表明は、ベートーヴェンが当時のドイツの選良《エリート》の上に及ぼしていたところの、芸術的のみならずまた精神的《モラール》な影響力がどんなに深いものであったかを証明している。彼の賛嘆者たちが彼の天才力をたたえようとするとき、まっさきに口に出す言葉は、知識についての語でも芸術についての語でも無くして、まさに信仰についていおうとする言葉なので(70)ある。
 これらの言葉を読んでベートーヴェンは深く感動した。彼はヴィーンに留まった。一八二四年五月七日にヴィーンにおいて『荘厳な弥撒《ミサ》曲』と『第九交響曲』とが初演せられた。成功は凱旋的であった。それはほとんど喧騒にまで陥った。ベートーヴェンがステージに現われると、彼は喝采の一斉射撃を五度までも浴びせかけられた。儀礼的なこの国では宮廷の人々の来場に際しても三度だけ喝采するのが習慣であった。警官が喝采の大騒ぎを鎮めなければならなくなった。『第九交響曲』は気狂いじみた感激を巻き起こした。多数の聴衆が泣き出していた。ベートーヴェンは演奏会のあとで、感動のあまり気絶した。人々は彼をシンドラーの家に搬んで行った。彼は着のみ着のまま飲まず食わずその夜と次の午前中をうつうつと眠り通した。しかし勝どきも束《つか》の間であった。その物質的効果はベートーヴェンにとっては、まるで無かった。音楽会は少しも儲かっていなかった。金銭上の窮迫は、彼の生活の中でちっとも改まらなかった。依然として彼は貧しくて病身で(71)孤独であった。――とはいえ彼は今や勝利者(72)であった。――彼は人々の凡庸さを征服した勝利者であった。自己自身の運命と悲哀とに打ち克った勝利者であった。
「生活の愚劣な瑣事を常におんみの芸術のために犠牲とせよ! 神こそ万事に優れる者!」(〔O Gott u:ber alles!〕)

      [ ※ アステリズム、1-12-94]

 かくて彼はその全生涯の目標であったところのもの、すなわち歓喜[#「歓喜」に傍点]をついにつかんだ。――多くの嵐を統御するこの魂の絶頂に、彼は永くとどまることができるであろうか?――確かにさらに幾度も、彼は旧知の悩みの中へずり落ちねばならなかった。確かに、彼の最後の幾つかの弦四重奏曲《クワルテット》は奇妙な翳《かげ》に充ちている。とはいえ『第九交響曲』の勝利は彼の衷《うち》に、消えざる輝きの刻印を残したようである。彼が将来作ろう(73)と考えていた計画『第十交響曲(74)』と『バッハの名に拠る序曲』とグリルパルツァーの劇詩『メルジーネ』の為の音楽(75)と、ケルナー作の『オディセウス』およびゲーテの『ファウスト』の為の音楽(76)と、旧約聖書の『サウルとダヴィデ』の物語に拠る宗教楽《オラトリオ》とは、バッハやヘンデルのような昔のドイツの巨匠らが示したあの強大な清澄さ《セレニテ》に向かって――さらにまた、地中海的南方の明るさと、南方フランス、および彼が遍歴することを夢みていたあのイタリアとに向かって(77)、ベートーヴェンの心が引き寄せられていたことを証拠立てている。
 一八二六年に彼に逢ったシュピラー博士は、ベートーヴェンの様子が悦ばしげで晴れやかになっていたといっている。グリルパルツァーがベートーヴェンと最後に語ったのもその同じ年のことであるが、そのとき落胆している詩人の心を鼓舞したのはベートーヴェンだった。グリルパルツァーは嘆いていった――「ああ、あなたの千分の一の力と不屈さを私が持てたらいいのだが!」と。苦しい時代であった。復古的な勢力が人々の精神を抑圧していた。「検閲が私を殺した」とグリルパルツァーは呻いた――「自由に語ったり考えたりしようと思えば、北アメリカへ移住するほかはない。」しかしベートーヴェンは、自分の考えをぶちまけていた。「言葉はつながれている。しかし幸いに音は今も自由です」と詩人クッフナーは彼に宛てて書いた。ベートーヴェンは偉大な、とらわれない声である――おそらく当時のドイツ思想の中では唯一の。彼はそれを自覚していた。彼は自己に課せられていると感じた義務についてしばしば語っている、それは、自己の芸術を通じて「不幸な人類のため」「未来の人類のため」〔der ku:nftigen Menschheit〕 に働き、人類に善行を致し、人類に勇気を鼓舞し、その眠りを揺り覚まし、その卑怯さを鞭打つことの義務である。甥への手紙にも書いている――「今の時代にとって必要なのは、けちな狡い卑怯な乞食根性を人間の魂から払い落とすような剛毅な精神の人々である」と。ミュラー博士は一八二七年にいった「政府や官憲や貴族やについてベートーヴェンは常に公々然と意見を述べた。官憲はそれを知っていたが彼の批評や諷刺やを罪のない夢物語だとして大目に見ていた。ベートーヴェンが非凡な天才であるがために放任しておいた(78)。」
 この不撓の力を屈せしめることは何者にも不可能であった。そしてこの力は今や悲哀と戯れているかのように見える。最晩年に書かれた作品は、それらが作られた境遇の惨めさ(79)にもかかわらずしばしばまったく新しいふざけ心や、雄々しく楽しげな無執着の性格を持っている。死に先だつ四カ月のとき、一八二六年十一月に書き上げた最後の楽章、すなわち作品第百三十の弦四重奏曲《クワルテット》の書き直された終曲《フィナーレ》ははなはだ快活なものである。もとよりこの快活さは世の常のものではない。モーシェレスがそれについていったことのある厳しく荒く突発的な笑いであるかと思えばしかしまたそれは、悩みを克服した人間の示す感銘深い微笑でもある。いずれにせよ、ベートーヴェンは勝っている。もはや死の存在を彼は信じない。
 とはいえ死は近づいて来た。一八二六年の十一月の末に彼は肋膜炎性の風邪をひいた。甥の将来の安定を配慮するためにした冬の旅から帰ってヴィーンで病床についた(80)。友人たちは近くにいなかった。医者を招いてくれと甥に依頼した。このやくざ男はその用向きを忘れてしまい、二日の後にやっと思いついた。医者はあまりにも遅れて来て、ベートーヴェンをぞんざいに取り扱った。三カ月間彼の頑強な体質は病気と戦った。一八二七年の一月三日に彼は最愛の甥を全部の遺産相続者に指定した。ベートーヴェンは今一度、ライン河畔の幼な友だちらの上を偲び、ヴェーゲラーに宛てて書いた――「どんなに多くのことを僕はもっと君にいいたいか知れないのだが、もう弱り過ぎた。僕は君と君のロールヒェンとを、心の中で抱くことしかできない。」英国の数人の友らの寛宏な親切心がなかったら、彼の最後の瞬間すら悲惨の暗さに包まれたのかも知れなかった。彼は非常に柔和になり、非常に辛抱づよくなっていた(81)。死が迫って来た床の上で一八二七年二月十七日に彼は三度目の手術の後に四度目(82)のを待ちながら朗らかな調子でこう書いた――「辛抱しながら考える、一切の禍は何かしらよいものを伴って来ると。」
 その「よいもの」は、このたびこそは死の解放なのであった。臨終の彼自身の言葉によれば「喜劇の大団円」なのであった。――われわれはむしろいおう「彼の全生涯の悲劇の終結」と。
 彼が息を引き取ったときは嵐と吹雪の最中であり、雷鳴が鳴り渡っていた。そして彼の瞼を閉じてやったのは行きずりの見知らぬ人(83)り]の一つの手であった。(一八二七年三月二十六日)

      [ ※ アステリズム、1-12-94]

 親愛なベートーヴェン! 彼の芸術家としての偉大さについては、すでに十分に多くの人々がそれを賞賛した。けれども彼は音楽家中の第一人者であるよりもさらにはるかに以上の者である。彼は近代芸術の中で最も雄々しい力である。彼は、悩み戦っている人々の最大最善の友である。世の悲惨によって我々の心が悲しめられているときに、ベートーヴェンはわれわれの傍へ来る。愛する者を失った喪神の中にいる一人の母親のピアノの前にすわって何もいわずに、あきらめた嘆きの歌をひいて、泣いている婦人をなぐさめたように。そしてわれわれが悪徳と道学とのいずれの側にもある凡俗さに抗しての果《はて》のない、効力の見えぬ戦のために疲れるときに、このベートーヴェンの意志と信仰との大海にひたることは、いいがたい幸《さきわ》いの賜《たま》ものである。彼から、勇気と、たたかい努力することの幸福と(84)、そして自己の内奥に神を感じていることの酔い心地とが感染して来るのである。彼はあらゆる瞬間に自然と融合する体験を重ねることによって、ついにもろもろの深い精力と融け合った[#行右小書き](85)かのように見える。一種の恐怖を交えた賛嘆をベートーヴェンに対して持っていたグリルパルツァーは彼についてこういった――「彼は、芸術が自然の本然的な気まぐれな諸要素と溶け合うような恐るべき点まで達した」と。シューマンも『第五交響曲』について同じようなことを書いている――「この作をたびたび聴いていると、それは、生起するたびごとにわれわれの心を恐怖と驚嘆で充たすような自然現象の力に似た避けがたい力をわれわれの上に影響させる。」また、ベートーヴェンが心をうち明けていた友シンドラーは――「彼は自然の霊をつかんだ」といっている。まさにその通りである。ベートーヴェンは自然の力の一つである。そして、この元素的な一精力が自余の自然を対手にして戦うありさまは、まことにホーマー的な偉大さを感銘させるところのすばらしい見物《みもの》である。
 彼の全生涯は嵐の一日に似ている。――最初にはさわやかに澄んでいる朝。もの倦いかすかな微風《そよかぜ》が吹く。しかし早くも不動の大気の中に、ひそかな威嚇があり、重苦しい予感がある。突如、大きな幾つもの影が横切り、悲劇的な雷鳴と、凄いざわめきに充ちた沈静と、猛烈な風の打撃が来る。――すなわち、『英雄曲《エロイカ》』と『第五』とがそれである。しかし昼の光の明澄さはまだそのために傷つけられてはいない。歓喜は依然として歓喜であり、悲しみも希望を保ちつづけている。けれども一八一〇年以後、魂の平衡は破れる。照らす光が奇妙なものになって来る。最も明るいさまざまの思想からあたかも水蒸気のようなものが発《た》ちのぼるのが見られる。それらは散ったり再び集結したりしながら、憂鬱な気まぐれな曇りとなって心を翳らせる。音楽的な意想《イデー》は、靄の中から一度二度浮かび出たかと思うと再び靄に呑まれてまったく消滅したかのように見えることもしばしばである。そしてそれがもう一度現われ出るのはただ楽曲の終わりに突風的にである。快活さそのものが一つの厳しく野生的な特性を持ち始める。あらゆる感情へ苦味がまじり込む(86)。夕闇が降りてくるにつれて、嵐は集積する。そして今や、稲妻を荷って膨脹している重い真黒な雲の団塊、――それが『第九交響曲』の最初の部分である。――大旋風の最高潮において急に闇が裂けて、無明が天空から追い出され、意志の行為によって昼の光の明澄さが取り戻される。
 どんな勝利がこの勝利に比肩し得るだろうか? ボナパルトのどの勝利、アウステルリッツのどの赫々たる日がこの光栄に――かつて「精神《エスプリ》」が果《はた》し得た最も輝かしい光栄、この超人的努力とこの勝利との光栄に匹敵し得るだろうか? 不幸な貧しい病身な孤独な一人の人間、まるで悩みそのもののような人間、世の中から歓喜を拒まれたその人間がみずから歓喜を造り出す――それを世界に贈りものとするために。彼は自分の不幸を用いて歓喜を鍛え出す。そのことを彼は次の誇らしい言葉によって表現したが、この言葉の中には彼の生涯が煮つめられており、またこれは、雄々しい彼の魂全体にとっての金言でもあった――
『悩みをつき抜けて歓喜に到れ!』
 Durch Leiden Freude.
         (一八一五年十月十九日・エルデーディー伯夫人に)

     原注

(1) J・ラッセル(一八二二年)――カルル・ツェルニーは、その幼時(一八〇一年に)、ベートーヴェンが幾日もの不精ひげを伸ばして髪ぼうぼうで山羊の毛の胴着とズボンとを着けている姿を見たとき、ロビンソン・クルーソーに逢ったのかと思った。
(2) 画家クレーバーが一八一八年頃ベートーヴェンの肖像を描いたときそれに気付いた。
(3) W・C・ミュラー博士はいっている「或るときは親愛で優しく、あるときは荒く威嚇的で畏怖を感じさせた美しく雄弁な彼の眼」と。(一八二〇年)
(4) クレーバーは「オシアンの描いた人物」といっている。彼の容貌のこんな細部《デテイル》はすべて彼の友人たちおよび彼を見た旅行者たちの記録から借りた。すなわち、ツェルニー、モーシェレス、クレーバー、ダニエル・アマデウス・アッターボーム、W・C・ミュラー、J・ラッセル、ユーリウス・ベネディクト、ロホリッツら。
(5) 彼の祖父ルートヴィッヒは彼の家族の中で最も有為な人物でかつ最もベートーヴェンに似たところのある性格を持っていたが、この祖父はもとアントワープの生まれであって二十歳頃に初めてボンに定住して選挙公に仕える楽長となった。これは、ベートーヴェンの性格にある勁《つよ》い不羈《ふき》性やその他本来ドイツ的でない他のいろいろな彼の性質を理解しようとするとき忘れてはならないことである。
(6) 一七八七年九月十五日、アウグスブルクのシャーデ博士宛(ノール編『ベートーヴェン書簡集』第二。以下、ノールと略記)
(7) その後(一八一六年に)彼はいった――「死ぬ術《すべ》を悟らぬ人間は気の毒だ。私は十五歳ですでにそれを悟っていた。」
(8) 二、三の手紙をこの巻の付録として添える。彼の教師であった卓抜なクリスチァン・ゴットロープ・ネーフェ Neefe をベートーヴェンは自分の知己であり導きてであると感じていた。この人の精神的高貴性と、博大な基礎の上に築かれている芸術的知性との両方が、いずれ劣らずベートーヴェンに感化を与えた。
(9) ヴェーゲラー宛、一八〇一年六月二十九日(ノール・第十四)
(10) 一七八七年の春にすでに一度ヴィーンへ短い期間の旅行をしたことがあった。そのときベートーヴェンはモーツァルトに会ったのだが、モーツァルトは彼にほとんど注意を払わなかったらしい。

  一七九〇年十二月にベートーヴェンがボンで近づきになったハイドンは彼に幾度か稽古をつけた。ベートーヴェンはまたアルブレヒツベルガーとサリエーリをも師として稽古を受けたことがある。

(11) 彼はまだ初演奏《デビュー》をしたかしないかだった。ヴィーンにおける初めての演奏はピアニストとして一七九五年三月三十日に行なわれた。
(12) ヴェーゲラー宛、一八〇一年六月二十九日(ノール・第十四)

「僕が幾らかでも持っているあいだは、僕の友人の誰かがまったく窮するということはあり得ない。」と一八〇一年頃リースに宛てて書いている。(ノール・第二十四)

(13) 一八〇二年の「遺書」の中でベートーヴェンは、六年以前から(すなわち一七九六年以来)耳の病気が始まったと書いている。ベートーヴェンの作品表を見ると一七九六年以前にできた作品は作品第一番の三つの三重奏曲《トリオ》だけである。作品第二すなわち最初の三つのピアノ奏鳴曲が発表されたのが一七九六年の三月である! それ故ベートーヴェンはその全作品を聾者として作ったのだといえるのである。彼の聾疾については一九〇五年五月十五日の「医学時報」〔Chronique me’dicale〕 に載っているクロッツ・フォレスト博士の論文を読まれるがいい。この論文を書いた学者の確信によるとベートーヴェンの病気の原因は遺伝性(母の肺患)の中に求めらるべきものである。一七九九年頃に烈しい中耳炎を起こす原因となった一七九六年の病気を耳の喇叭管カタルと診断している。手当を怠っていたため中耳炎は慢性になってそのあらゆる結果を引き起こすに至った。ベートーヴェンは調子の高い音よりも低い音のほうがよく聞き取れた。人の伝えるところによるとベートーヴェンは晩年には一本の木製の棒を用いて、その一端をピアノの箱の上にのせ、他の一端を自分の歯のあいだにくわえていたといわれる。作曲するときにもこんな聴覚橋の方法で音を聴いた。

(この問題については次の文献参照――C. G. Kunn: Wiener medizinische Wochenschrift 一八九二年二月・三月号――Willibald Nagel: Die Musik 一九〇二年三月――Theodor von Frimmel: Der Merker 一九一二年七月)
 ボンのベートーヴェン博物館《ハウス》には、一八一四年頃に機械師メルツェルがベートーヴェンのために作製した聴音器が保存されている。

 (14) ノール・第十三
  (15]) ノール・第十四
 (16) ヴェーゲラー宛、一八〇一年十一月十六日(ノール・第十八)
 (17) その後彼女はベートーヴェンとの以前の恋を、自分の夫のために利用することをあえてした。ベートーヴェンはガルレンベルクに助力を与えた。「彼は僕の恋仇だった。僕が彼のためにできるかぎり助力を惜しまなかったのは正にそのためだ。」と、一八二一年の筆談においてシンドラーに語っている。この談話は部分的にベートーヴェン流のフランス語でなされている。彼はガルレンベルク伯夫人を軽蔑していた。――「ヴィーンに来ると彼女は泣きながら私に頼って来た。しかし私は彼女を軽蔑した。」〔Arrive’e a
Vienne, elle cherchait moi, pleurant, mais je la me'prisais.〕     (18) 一八〇二年十月六日(ノール・第二十六)        (19) 「お前たちの子供らに徳を奨めよ。徳だけが人間を幸福にする。金ではない。私は自分の経験からこれをいう。私の不幸な状態の中で私を支えて来たのは徳の力だ。私が自殺によって自分の生活を終わらさずに来たのは芸術のおかげであるとともにまた徳のおかげなのだ。」そしてヴェーゲラーに宛てた一八一〇年五月二日の手紙には――「人間がまだ善行をする可能性を持っているかぎりは自ら欲して人生から去ってはならぬ、という言葉を、僕がどこかで読んでいなかったとしたら、僕はもうとっくにこの世にはいなかったろう――疑いも無く自分自身の行為によって。」        (20) ヴェーゲラー宛(ノール・第十八)           (21) 一八〇二年に画家ホルネマンの描いたベートーヴェンの細画像《ミニアチュール》は当時の流行的服装をした彼を示している。顳《こめかみ》の鬚を生やし長髪でバイロンの描いた人物のような悲劇的な様子をしている。ただしナポレオン的な眼なざしの不屈な強さは少しも失われていない。 (22) 『英雄交響曲《エロイカ》』がボナパルトのために、また彼について書かれ、最初の草稿が「ボナパルト」という題名を持っていることは周知のとおりである。その後ベートーヴェンはナポレオン戴冠の報道を耳にした。彼は憤激していった――「彼もやはり凡人に過ぎなかったか!」感情を害した彼は献呈辞を引き裂いた。そして意趣ばらしであると同時にしかしまた感動力のある題名を書いた――「一人の偉人の追憶を讃えるための英雄的交響曲」。(Sinfonia Eroica composta per festeggiare il souvenire di un grand Uomo.)シンドラーの語ったところによるとその後ナポレオンに対するベートーヴェンの侮蔑はやや緩和した。彼はナポレオンを同情に値する一個の不幸な人物、天から墜ちたイカルスとしてのみ考えるようになった。一八二一年にセント・ヘレナの破局を彼が識ったときにいった――「今日《こんにち》のこの哀れな出来事に相応する音楽を、僕はすでに十七年前に書いておいた」と。エロイカの葬送曲の中に、征服者の悲劇的終局への予言を認めて彼はみずから興がっていた。――だから『英雄交響曲』が、とりわけその第一楽章がベートーヴェンの考えの中で一種のボナパルト像だったということは大いにありそうなことである。その像はたしかにモデルとは相違してはいるが、しかしそれはベートーヴェンが思い浮かべていたままの姿、彼が理想的に夢想していたような姿、すなわち「革新の天才」の像である。それにまた、ベートーヴェンは『エロイカ』の終節の一主題を一八〇一年の作品から取っている。その作品というのは、真に革新的な半神、自由の神への恭敬から書かれた作品『プロメトイス』(一八〇一年)である。  (23) ローバート・フォン・コイデル(ローマに派遣されていた元ドイツ大使)の著書『ビスマルクとその家庭』そのフランス語訳 Bismarck et sa famille (1901) は E. B. Lang の訳。 ローバート・フォン・コイデルはこの奏鳴曲(アパッショナータ)を一八七〇年十月三十日にヴェルサイユで一台のわるいピアノでひいてビスマルクに聴かせた。この作品の最後の部分についてビスマルクはいった――「これは人間の全生活の奮闘と嗚咽だ。」彼は一切他の音楽家よりもベートーヴェンを好んだ、そして一度ならず確言した――「私の神経にはベートーヴェンが一番ぴったりする」と。   (24) ベートーヴェンの家は、ナポレオンがヴィーン市占領の後に爆破させた市砦の付近にあった。「何と殺風景な廃墟が僕の生活を取り巻いていることだ!」と彼はブライトコップフ・ウント・ヘルテルに宛てて一八〇九年七月二十六日に書いている。「太鼓の音と砲声とあらゆる種類の悲惨以外には何もない。」                            この時期のベートーヴェンの一肖像的叙述が遺っている。描いたのは、一八〇九年にヴィーンでベートーヴェンに会う機会をもった一フランス人ド・トレモン男爵である。彼は国会陪審官であった。彼はベートーヴェンの住居を占めていた乱雑さを絵画的に叙述している。彼とベートーヴェンとの話題は哲学のこと宗教のこと政治のこと、「そしてとりわけベートーヴェンが崇拝しきっていたシェイクスピアのこと」であった。ベートーヴェンはパリへトレモンに同行する気持にもかなり成っていた。パリの音楽学校《コンセルヴァトワール》が彼の交響曲をすでに演奏したことを彼は知っていたし、また彼は熱心な賛嘆者たちをパリに持っていた。――(一九〇六年五月一日の Mercure musical 中の 〔Une visite a Beethoven, par le baron de Tre’mont; publie’ par J. Chantavoine〕 を参照)
(25) 正確に書くと Therese von Brunswick よりもむしろ Therese Brunsvik。一七九六年と九九年とのあいだにヴィーンでベートーヴェンはブルンスヴィック家の人々と識り合った。ジュリエッタ・グィッチャルディはテレーゼの従妹《いとこ》であった。ベートーヴェンはしばらくのあいだテレーゼの妹ジョゼフィーヌにも心を惹かれていたらしい。ジョゼフィーヌはダイム伯に嫁し後にシュタッケンベルク男爵と二度目の結婚をした。――ブルンスヴィック家についての最も生き生きとした詳しい記述を人は 〔Andre’ de Hevesy〕 氏の一論文 〔Beethoven et l’Immortelle Bien-aime’e〕『ベートーヴェンと「不滅の恋人」』の中に見いだすだろう。(Revue de Paris 誌、一九一〇年三月一日および十五日号)ド・エヴジー氏は、ハンガリアのマールトンヴァーザールに保存されているところのテレーゼ自筆の手記の原稿をこの研究論文のために用いている。氏はブルンスヴィック家の人々とベートーヴェンとの親密さを十分証明しながらも、テレーゼに対する彼の恋愛に関しては、これを疑問として残している。しかし氏の論証だけではまだ足りないものがあるようである。

〔訳者注――ロマン・ロランは一九二八年の著作 〔Beethoven (Les grandes e’poques cre’atrices〕『盛んな創作の時期のベートーヴェン』の中でこの問題を詳論している。その中に引用されているテレーゼ自身の「日記」の数行をここに訳出しよう。ロランによればこれらの言葉の中には「ベートーヴェン的なもの」が響いている――
「……もはや私は善良さを弱さと混同したくないと思う。真の善良さは強さと同盟しているものだと信じてみれば、私は今までけっして善良でなかった……」
「硬化した善良さは実は、精神と性格との薄弱さなのだ。……もしもそんな硬化した善良さに自ら満足すれば人間はお人好しの動物になってしまう。しかもそこへ気取りが付け加わったりすると、その人間は最も憐れな気の毒な者だ……」(未発表の『日記』――一八〇九年)〕

(26) マリアム・テンガー著『ベートーヴェンの「永遠の恋人」』Mariam Tenger: Beethoven’s unsterblichte Geliebte, 1890.
(27) この優れたアリアはヨーハン・セバスチァン・バッハの二度目の妻アンナ・マグダレーナの記念帳《アルバム》の中にあって Aria di Giovanni (Edition Peters, 2071.) という題が付いている(一七二五年)。これが実際バッハの作曲かどうかについては多くの論議がなされた。
(28) ノール著『ベートーヴェン伝』
(29) 事実ベートーヴェンは近視眼であった。イグナッツ・フォン・ザイフリートのいうところに拠ると、ベートーヴェンの視力は天然痘に罹ったために弱くなって、ごく若い頃から眼鏡をかけねばならなかった。この近視眼のために彼の眼の焦点の狂っているような表情が習慣づけられたに違いない。一八二三年―二四年の書簡の中で彼は絶えず眼に悩まされていることを書いている。――クリスチァン・カリシャーの論文『ベートーヴェンの眼と眼病』Beethovens Augen und Augenleiden(Die Musik 誌、一九〇二年三月十五日および四月一日号)参照。
(30) ゲーテの戯曲『エグモント』の場面《シーン》のための作曲は一八〇九年に始められた。――彼はシルラーの戯曲『ヴィルヘルム・テル』のための作曲をもしたかったのであるが、その作曲家としては、彼ではなしにギローヴェッツが採用せられた。
(31) シンドラーとの談話。
(32) 日付のない「不滅の恋人へ」の手紙はコロンパのブルンスヴィック家で書かれたものと推定される。
(33) ノール・第十五。〔訳者注――A. Leitzmann: L. v. Beethoven (1921) ライツマン編『ベートーヴェン』第二巻第八十三頁。以下、ライツマンと略記〕
(34) この肖像は今ではボンの「ベートーヴェンの家《ハウス》」〔彼の生家・現在は博物館に保存されている。フリンメル著『ベートーヴェン伝』の第二十九頁および Musical Times 誌の一八九二年十二月十五日号にその複製が出ている〕
(35) グライヒェンシュタイン宛(ノール・第三十一)〔訳者注――ライツマン・第二巻第六十一頁〕
(36) 〔Der Gemu:t ist der Hebel zu allem Tu:chtigen.〕「すべて価値ある行ないを起こす槓杆は心情《ゲミュート》である。」(ヴィーン市の学校長ジャンナタジオ・デル・リオ宛――ノール・第百八十)〔訳者注――ライツマン・第二巻第百三十六頁〕
(37) 「……私が『エグモント』のために音楽を作ったのはひたすらゲーテの詩作品への敬愛からです。彼の詩は私を幸福にしてくれるのです。」と、一八一一年二月十日にベッティーナ・ブレンターノに宛てて書いている。〔訳者注――ライツマン・第二巻第七十一頁〕

 さらに――
「……ゲーテとシルラーの完全な作品集を私にお送り願えないものでしょうか。この二人は私の最も愛読する詩人たちです。また私はオシアンとホーマーとが好きですが、しかしこの詩人たちは私には翻訳でしか読めません。」(ブライトコップフ・ウント・ヘルテル宛、一八〇六年八月八日――ノール・第五)。〔訳者注――ライツマン・第二巻第五十九頁〕
 ベートーヴェンが大して教育を受けてはいなかったにもかかわらず、彼の文学上の趣味のいかにも確実であったことは注目さるべきことである。「偉大で堂々として常にDドゥア(ニ長調)だ」と彼の感じていたゲーテと並べて、否ゲーテ以上に、ベートーヴェンはホーマーとプルタークとシェイクスピアの三人を愛読した。ホーマーの中では『オディセー』を好んだ。シェイクスピアを絶えずドイツ語訳で読んでいた。そして彼がいかに悲劇的な偉大さをもって『コリオラン』と『嵐《テムペスト》』とを音楽に訳出したかをわれわれは知っている。プルタークについては、「フランス革命」時代の多くの人々と同様に彼もプルタークに養われていた。ブルーツスは、ミケランジェロにとってと同様にベートーヴェンの英雄であった。彼の好きなこの英雄の小さな像を自分の室に置いていた。彼はまたプラトンを愛して、プラトンの考えたような共和国を全世界にもたらすことを夢想していた。「ソクラテスとイエスとが私の模範であった」と彼はどこかでいっている。(談話・一八一九年―一八二〇年)。〔訳者注――ライツマン編の『ベートーヴェン』に収められている彼の「手記」の中には、ゲーテの『西東詩篇』シェイクスピアの『オセロ』や『ロメオ』や『ヴェニスの商人』ホーマーの『オディセー』などからベートーヴェンがした書き抜きが集まっている〕

(38) ベッティーナ・ブレンターノ(フォン・アルニム)宛(ノール・第九十一)――ベートーヴェンからベッティーナ宛の手紙の真偽についてはシンドラー、マルクス、ダイタースはこれを疑い、モーリッツ・カリエール、ノール、カリシャーはこれを真実のものとして弁護している。ベッティーナはベートーヴェンの手紙の内容を幾らか「美化した」には相違なかろうがしかし手紙の内容の本質は変えられてはいないと思われる。

 〔訳者注――ベッティーナ・ブレンターノ(後にアルニムの妻)はドイツ浪漫主義時代の問題的な性格と見なされて来た。彼女がゲーテとの文通を発表して以来、この文通の内容が、ゲーテとの交誼の親密さを誇大した捏造のものだという意見がかなり有力であった。しかし近年その手紙のオリジナルが世に発表されてからは、もはや疑う余地は無くなった。ロランはその後の著作『ゲーテとベートーヴェン』の中で、新しい文献に基づいたベッティーナ論を発表した。――ベートーヴェンの音楽の価値をゲーテに説いたのは彼女であった〕

(39) ゲーテはツェルターに語った――「ベートーヴェンは残念ながらまったく無制御な性格だ。彼が世の中を厭うべきものと観ることは無理もないが、しかしそういう考え方によって自分のためにも他人のためにも世の中をいっそう住み心地のいいものにすることはできはしない。だが彼は聴覚を失っているのだから、ああなることも寛大に考えてやるべきだし、同情してもやるべきだ。」――その後ゲーテはベートーヴェンに抗う何事をもしなかったが、しかしまた彼のために何事かをしてやるということもまったく無かった。ベートーヴェンの作品、いなその名前の上にすら完全な沈黙を置いた。――心の底ではゲーテはベートーヴェンの音楽に賛嘆を感じていたがしかしまたそれに恐れを感じていた。その音楽がゲーテの心の安定を奪ったからである。ゲーテが幾多の苦労の代償を支払ってようやく獲得していた魂の静朗さを、ベートーヴェンの音楽が彼に失わせはしないかとゲーテは危懼したのである。――一八三〇年にヴァイマールに滞在した若いフェリックス・メンデルスゾーンの一通の手紙は無邪気にもゲーテの魂の底を人々に示している――その魂は、強大な知性が制御しているところの惑乱せる情熱的な魂であった。(ゲーテ自身がいったとおりに「激しい嵐と惑乱との魂」leidenschaftlicher Sturm und Verworrenheit であった)

 「最初のうち(とメンデルスゾーンは書いている)ゲーテはベートーヴェンについての話を聴くのを望まなかった。しかし私は彼にいった、どうしてもベートーヴェンのことをいわずにはいられないと。そして彼の前で『第五交響曲』の最初の楽章を弾いて聞かせた。これがゲーテをまったく異様に感動させた。――初めのうちゲーテはいっていた『まるで心を感動させるところがない。ただ人をびっくりさせるだけだ。大がかりだ』と。その後ぶつぶついいつづけていたが、やがてしばらく経った後に――「こいつは偉大だ。無鉄砲なしろものだ。家がくずれ落ちはしないかと思うようだ。」そして食事中ゲーテは考え込んでいたが話題がベートーヴェンのことになった瞬間から彼は私にベートーヴェンのことをしきりに問い質し始めた。効《き》き目がそろそろ出て来たことを私は看て取った……」
 ゲーテとベートーヴェンとの関係についてはフリンメル Frimmel の幾つかの論文参照。〔訳者付記――ロマン・ロランの一九三〇年の著作 Goethe et Beethoven (Editions du Sablier, Paris) 『ゲーテとベートーヴェン』は二人の関係を取り扱っている。ことに「音楽者としてのゲーテ」の章において、ゲーテと音楽との関係が精妙に取り扱われている。「|眼の人《アウゲンメンシュ》ゲーテは音楽を理解しなかった」と簡単に片づけがちな問題は実は複雑な立体的なかつ戯曲的な事実を含んでいることをロランが示している〕

(40) ゲーテからツェルターへの手紙(一八一二年九月二日)。――ツェルターからゲーテへの一八一二年九月十四日の手紙に――「私もまた彼を驚愕をもって(mit Schrecken)賛嘆します。」一八一九年にツェルターからゲーテへ「人のいうところによると彼は狂人だそうです。」
(41) ディオニソス的祝祭の音楽を書くということはとにかくベートーヴェンが考えていた題目ではあった。われわれは彼の手記の中に、とりわけ『第十交響曲』の草案の中にそれを見いだすのだから。
(42) ベルリンの若い婦人の歌唱者アマーリエ・ゼーバルトはテプリッツで一八一一年と一二年とにベートーヴェンを識った。彼女との非常に深い情愛による友情がベートーヴェンにこれらの作品を書く霊感を与えたということはあり得ることである。
(43) この点彼と非常に相違していたシューベルトは一八〇七年に|機会的な作品《ウーヴル・ド・シルコンスタンス》『ナポレオン大帝への恭敬』を書いた。そしてそれを自ら「皇帝」の前で指揮した。
(44) 「われわれの君侯たちや君主政のことについては私は何事も貴方に申し上げません」と彼はヴィーン会議開期中にカンカに宛てて書いた――「私にとっては精神の国こそ最も親愛なものです。それは宗門的なまた世俗的なあらゆる邦土のうちの最高のものです。」Mir ist das geistige Reich der Liebste, und der Oberste aller geistlichen und weltlichen Monarchen.〔訳者注――ライツマン・第二巻第九十七頁〕
(45) 「或る人がヴィーンに生活してヴィーンだけを識っていた。――とこういえばすべてがいいつくされている。ドイツ・プロテスタンティズムの消滅ののちローマ・ジェスイット教の学校で育て上げられたオーストリア人は自国語の正しいアクセントをさえ失って、あたかもわれわれにとっての古代世界の古典的な名前か何かのように彼にとっては自国語が非ドイツ的に変えられて発音されていた。ドイツ精神とドイツ的な風習とがイタリアとスペインの舶来品で解釈せられていた。……歴史も科学も宗教も歪曲されたものとなっている地盤の上に育てられたため、元来は明朗で快活な素質のあの国民は懐疑主義者になってしまい、その懐疑主義はまったくの軽佻浮薄者流となりおおせて、真理と品位と不羈《ふき》独立の精神に対する敬愛の念を葬り去ってしまったのだ!……」(リヒアルト・ヴァーグナー著『ベートーヴェン』一八七〇年)
[#ここから1字下げ]
 グリルパルツァーは自分がオーストリア人として生まれたことを一つの不運だといっている。十九世紀の末葉にヴィーンに生活した作曲家たちは俗臭のつよいブラームス崇拝に身をゆだねたこの町の精神のため痛く悩まされた。そこにおいてブルックナーの一生は一箇の永い受難であった。憤激して身をもがいたフーゴー・ヴォルフは力尽きて斃れる以前に、ヴィーンについて苛烈な判断を表明した。

(46) 王ジェロームは金貨六百ドゥカーテンの年金と銀貨百五十ドゥカーテンの旅行補助費とを与えた。それに対するベートーヴェンの義務は、ときどき王の御前で演奏すること、また、長時間にわたらず、度数も少ない室内音楽の演奏会を開くことであった。(ノール・第四十九)ベートーヴェンはもう少しでヴィーンを去るところであった。
(47) ドイツ音楽の全地盤を揺るがすには、ロッシーニ作『タンクレード』の出現だけで十分だった。エールハルトの引用に拠ると、バウエルンフェルトは一八一六年にヴィーン社交界の流行語となった判断を彼の「日記」の中に記している。――「ベートーヴェンとモーツァルトは老いぼれた理窟屋《ペダンテン》だ。彼らの音楽を好んだのは前の時代の愚かしさ故だ。そしてロッシーニ以来はじめて人は旋律《メロディー》の何たるかを悟ったのだ。ベートーヴェンの歌劇《オペラ》『フィデリオ』はきたならしい音楽だ。わざわざ退屈するためにあんなものを聴きに行くなんておよそわけの判らん話さ。」一八一六年にこんな批評がヴィーンを風靡していたが、ベートーヴェンがピアニストとしての最後の演奏会をひらいたのは一八一四年である。
(48) ベートーヴェンはこの年にまた弟カルルと死別した。「私が自分の命を捨てたく思うのと同じ程度に、弟は生命に執着しています。」と彼はその弟についてアントニー・ブレンターノ〔ベッティーナ・ブレンターノの兄フランツの妻――訳者〕に書いている。
(49) ただし除外例はマリア・フォン・エルデーディー伯夫人との彼の感動的な友情である。この婦人も彼と同様に不治の病気のため絶えず悩んでいたが一八一六年にその一人息子を突然失くしてしまった。ベートーヴェンは一八〇九年に作品第七十の二つの三重奏曲《トリオ》を、そして一八一五―一七年に作品第百二の、ヴァイオリンセロのための二つの大きい奏鳴曲《ソナータ》を彼女に献呈した。
(50]) 耳の病気以外に彼の健康状態はだんだん悪くなった。一八一六年の十月以降、彼ははげしい
欣衝性《きんしょうせい》カタール 〔Entzu:ndungskatarrh〕 を病んだ。一八一七年の夏、彼の医者はそれを肺患だといった。そのため一八一七年・一八年の冬には、このいわゆる肺病のことを思いつめて苦しんでいた。一八二〇年・二一年には激烈なリウマチ、二一年に黄疸、二三年には結膜炎をやった。
(51) 筆談のはじまった一八一六年は彼の音楽に様式《スチール》の変化の生じた年であることは注目すべきことである。すなわち作品第百一が、変化した様式の最初のものである。

  一万一千頁を越える筆談帳は、今日ベルリンの国立図書館に集められてある。

(52) シンドラーがベートーヴェンと相識ったのは一八一四年であるが二人の友情は一八一九年に至って始めて親密なものになった。シンドラーに親愛を示すことが最初はベートーヴェンにとってはできにくかった。ベートーヴェンは初めのうちはシンドラーを尊大な侮蔑的態度で遇してさえいた。
(53) ベートーヴェンの聾疾に関するリヒアルト・ヴァーグナーの立派な叙述参照。(『ベートーヴェン』一八七〇年)

 〔訳者はヴァーグナーの『ベートーヴェン』からここに次の部分を訳出する――
「……かくて天才的精神はあらゆる「己れの外」から解放せられて、まったく己れにおいてあり、己れの内に在る。あらゆる現象の根柢を内的視力で見ることのできる人間が当時のベートーヴェンを視たと仮定したら、その人間には何たる奇蹟が見えたことであろう。その人間は、人々に立ち交じって歩いている一世界を見たことであろう。――換言すれば歩いている人間としての世界の本質自体 das Ansich der Welt als wandelnder Mensch を!
 今やこの音楽家の視力は内部へ向かって照った。今や彼は、彼に内在する光に照明せられて数々のすばらしい反映となって再び彼の心へ把握せられるに至るような性質の現象へも視力を向けた。今やただ諸物の本質だけが彼に語りかけることとなって、その本質は、美の静平な光に包んでそれらの事物を彼に示すようになった。今や彼は理解する、森を、小河を、牧場を、碧々とした大気を、快活な群衆を、恋し合っている男女を、鳥たちの歌を、雲の列を、嵐のとどろきを、そして浄福のうごきを持つ静かさを。そこでこの不思議な朗快が彼の観照と形成との作用へ浸徹するのであるが、この朗快は彼をまって初めて音楽の所有《もの》となった。もともとあらゆる音にあんなにも固有な特質である嘆きさえもが、軽やかになり微笑となる。世界がその子供らしい無邪気さを再び取りもどす。「今日おんみら我れと共に天国にあれ」――『田園交響曲』を聴く者は、誰しもあのキリストのことばが自分に向かって呼びかけているのだと感じないではいられまい!……」〕

(54) ベートーヴェンは動物を愛し憐んだ。歴史家フォン・フリンメルの母が語ったところによると彼女は永いあいだベートーヴェンに対して捨て切れぬ恨みの感情を感じつづけていた。その理由《わけ》は彼女が幼い頃に、捕えようとした蝶々をベートーヴェンがハンケチを振ってすっかり追い払ってしまったために。
(55) 彼はいつでも住居に住みつけなかった。三十五年間にヴィーンで三十度転居した。
(56) ベートーヴェンは「同時代の音楽家の中で彼が最も高く評価した」ケルビーニに自分の方から手紙を書いた。(ノール・第二百五十)ケルビーニは返事をしなかった。
(57) 彼は或るときナネット・シュトライヒャー夫人に宛てて――「復讐なぞということはけっして私はしない。他人に反対する行ないをしなければならないような場合には、ただ彼らに対して身を護り、また、彼らがそれ以上悪を行なうことを妨げるために、どうしてもせざるを得ないことだけをします。」
(58) ノール・第三百四十三
(59) ノール・第三百十四
(60) ノール・第三百七十
(61) ノール・第三百六十二―六十七。カリシャー氏がベルリンで発見した一通の書簡は、ベートーヴェンが、どれほど熱心に彼の甥を「国家のために有為な廉直な一市民」にしようとしたかを示している。(一八一九年二月一日)
(62) その後ベートーヴェンに会ったシンドラーは彼が急に老《ふ》けてしまって、七十歳位の衰えた虚弱な意気地の抜けた老人みたいな風采になっているといった。
(63) 好事癖《ディレッタンティスム》の盛んな今の時代には、この恥知らずの甥を洗って潔白にしたがる試みもなされたが、こんなことも別に驚くには当たらない。
(64) フィッシェンニッヒからシャルロッテ・シルラー(詩人シルラーの夫人)宛の手紙(一七九三年一月)。シルラーの詩『歓喜への頌歌』が書かれたのは一七八五年である。――ベートーヴェンが「頌歌」につけた合唱の現在の主題《テーマ》は一八〇八年の『ピアノ、オーケストラおよびコーラスのためのファンタジー』(作品第八十)さらにまた一八一〇年の歌謡曲《リート》、ゲーテの詩「小さき花や小さき花びら」〔Kleine Blumen, kleine Bla:tter〕 につけたものの中にすでに現われているのである。――ボンのエリッヒ・プリーガー博士が所蔵するところの一冊のノート・ブックの中に、『第七交響曲』の草案や『マクベスの序曲《ウヴェルチューレ》』の計画《プラン》などの中に交じって、シルラーの詩句を音楽主題へ嵌めようとする試みのあるのを私は見たことがある。この音楽主題は、その後ベートーヴェンが作品第百十五(Namensfeier『命名日の祝』)の序曲の中に用いたものである。――『第九交響曲』の器楽の主題の幾つかは一八一五年以前にすでに現われている。「歓喜《フロイデ》」の決定的|主題《テーマ》はベートーヴェンがこれを『第九』のすべての合唱の主題とともに(ただしもっと後にできた三重唱《トリオ》だけは別であるが)一八二二年に草稿によって確定したのである。それから andante moderato ができ最後に adagio ができた。

  シルラーの詩『歓喜への頌歌』および、その詩の中の歓喜《フロイデ》という語を近頃|自由《フライハイト》と読もうとしたことから生じた誤った解釈についてはシャルル・アンドレルが Pages libres「自由なページ」誌(一九〇五年七月八日)に発表した一論文を参照。

(65) ベルリン図書館。
(66) 〔Also ganz so als sta:nden Worte darunter.〕「その譜には詩句がずっと副《そ》っているかのように。」
(67) ニ長調の『荘厳な弥撒曲』(作品第百二十三)
(68) 家事の繁労、さまざまな心労に逐われて一八一六年から二一年までの五年間に彼はピアノの為の三つの作品(作品第百一、百二、百六)しか書かなかった。ベートーヴェンはもうだめだと敵たちはいった。一八二一年から彼は再び作り始めた。
(69) 一八二四年二月。署名者は、公爵C・リヒノフスキー、伯爵モーリッツ・リヒノフスキー、伯爵フリース、伯爵ディートリヒシュタイン、伯爵パルフィー、伯爵ツェルニーン、イグナッツ・エートラー・フォン・モーゼル、カルル・ツェルニー、僧《アベ》シュタットラー、A・ディアベリ、アルタリア、シュタイナー、A・シュトライヒャー、ツメスカル、キーゼヴェッターその他。
(70) 「私の道徳的性格は世間に広く承認せられているのみならず、ヴァイセンバッハのようなすぐれた文筆家がそれについて文章を書く労を惜しまなかったのであります」と、ベートーヴェンは一八一九年二月一日に、甥に対する後見の権利を取り戻すためのヴィーン市当局宛の手紙の中で誇らかに述べている。
(71) 一八二四年八月に、彼は急な発作で死にはしないかという恐れにとらわれていた。「私がよく似ている私の親愛な祖父と同じにたぶん私は急死しそうな気がします」と医師バッハに宛てて書いている(一八二四年八月一日)。彼は激烈な胃痛に苦しんでいた。一八二四年から二五年にかけての冬、容態がたいへん悪かった。二五年の五月には喀血と鼻血に苦しんだ。同年六月九日に甥に宛てて――「わしの衰弱はたびたび極度になる。大鎌を持った男(死)は、もう余裕をわしにくれまい。」
(72) 『第九交響曲』のドイツにおけるそもそもの初演は一八二五年四月一日、フランクフルト市においてであった。ロンドンで早くも同年三月二十五日に、パリでは一八三一年三月二十七日に音楽学校《コンセルヴァトワール》に拠って初演奏。十七歳のメンデルスゾーンは一八二六年十一月四日にベルリンのイェーガーハルレでこの作品をピアノで紹介した。当時ライプチッヒの大学生であったリヒアルト・ヴァーグナーは『第九』の譜の全部を自分の手で写し取った。出版者ショット宛の一八三〇年十月六日の手紙でヴァーグナーは、この作をピアノ双手奏に書き変えた譜を作ろうと申し出ている。『第九交響曲』がヴァーグナーの全生涯に決定を与えたということは断言ができる。
(73) 「アポロ神と|芸術の女神《ムーゼ》たちとがまだまだ死神に私を引き渡しはしますまい。私はあの芸術神たちに支払うべき仕事をまだたくさん持っているのですから。「霊」が私に書けと命じ、完成せよと命ずることがらを成就してその後に、私は「エリジウムの野」(「幸福なる者たちのいる仙境」)へ降りて行くでしょう。私は今までにまだ何ほどの音楽も作っていない気持がしています。」(出版者ショット兄弟宛、一八二四年九月十七日――ノール・第二百七十二。〔訳者注――ライツマン・第二巻第百九十九頁〕)
(74) ベートーヴェンは一八二七年三月十八日にモーシェレスに宛てて――「すっかり草案のでき上がった一つの交響曲が、新作の序曲《ウヴェルチューレ》といっしょに僕の机の引出しにはいっている。」この草案はその後発見せられない。――手記の中に次のように書かれてあることだけがこの作品を暗示している――

 「Adagio cantique「賛歌的な緩徐調」――古代ふうの一交響曲のための宗教歌。『主なる神よ、われらおんみを讃《ほ》めまつる――ハレルヤ(Herr Gott, dich loben wir, Alleluja)』独立的なものとするか或いは追覆曲《フーガ》の導入部とするか。この交響曲は終曲《フィナーレ》またはアダジオの中に声楽を入れることによって特徴づけられることができよう。オーケストラのヴァイオリン等は最後の楽章で十倍にする。或いはアダジオを何かの仕方によって最後の楽章で反覆して、そこに声楽が順次挿入せられる。アダジオの詩句はギリシャ神話、旧約聖書中の雅歌。急調《アレグロ》の中で酒神《バッカス》の祝祭。」(一八一八年)このように、声楽合唱を入れる終曲は本来は『第十交響曲』のために考えられていたのであって『第九』のためではなかった。
  その後ベートーヴェンのいったところによると、彼はゲーテが『ファウスト』第二部で試みたような、近代世界と古代世界と〔訳者注――キリスト教を閲した世界と、それ以前のギリシャ的世界〕の和解を『第十交響曲』の中で成就したいと望んでいた。

(75) グリルパルツァーの『メルジーネ』の筋は、美しい水の精メルジーネに恋して結婚しやがてまた、自分が失くした自由への憧れ心を感じて悩むというあの騎士の物語である。この題材とタンホイザーの問題とのあいだには確かに相似点がある。ベートーヴェンは一八二三年から二六年までのあいだに『メルジーネ』の作曲に取りかかっていた。(A. Ehrhard: Franz Grillparzer, 1900 参照)
(76) 一八〇八年以降ベートーヴェンはゲーテの『ファウスト』に拠る作曲を計画していた。(『ファウスト』第一部は一八〇七年の秋に『悲劇《トラゲーディエ》』という表題で世に出たばかりであった。)この計画はその頃の彼にとって最も大切な計画だった。〔Was mir und der Kunst das Ho:chste ist.〕「これは私にとってまた音楽にとって至上の仕事である。」
(77) 「フランスの南方へ! そこへ行こう! そこへ行こう!」〔Su:dliches Frankreich! dahin! dahin!〕(ベルリン国立図書館に在る「手帳」より)「ここを立ち去ることだけがお前自身を救う唯一の方法だ。それによってのみお前は再びお前の芸術の高みへ舞い登ることができる。――もう一つだけ交響曲を作ったら――出発だ――出発だ――出発だ。夏中仕事をして旅費をつくる……それからイタリアを、シシリー島を、二、三の芸術家たちと遍歴する。」(同じ「手帳」)
(78[#「78」は縦中横]) 一八一九年に彼はもう少しで官憲といざこざを起こすところだった。理由は彼が「キリストは結局はりつけにされたユダヤ人さ」と大声でしゃべったためである。しかるに当時彼は『荘厳な弥撒曲』を書いていたのである。このことは、彼の宗教的感激が、とらわれない性質のものだったことを十分に物語っている。(ベートーヴェンの宗教的見解については Theodor von Frimmel: Beethoven (Verlag Harmonie)第三版および Beethoveniana「ベートーヴェン資料」(〔Georg Mu:ller〕 出版所)第二巻、〔Blo:chinger〕 の章を参照。)政治的なことがらについてもベートーヴェンは政府当局の欠点と思われるところを忌憚なく批評した。とりわけ裁判の遅延によって故障を生じることの多い情実的弊害と不規律との少なからぬ裁判制度や、警察権の愚かしい濫用や、個性と活力とをそぐ非常識で無能なビューロクラシーや、最も高い地位を失わないことにのみ汲々としている堕落せる貴族階級の特権やを批評した。――当時ベートーヴェンの政治的同情は英国に向かっていたようである。
(79) 彼の甥の自殺未遂。
(80) クロッツ・フォレスト博士の論文『ベートーヴェンの最後の病気と死』参照。「医学時報」〔Chronique me’dicale〕(一九〇六年四月一日および十五日)――「筆談帳」の中にはかなり正確な示唆がある。また、ベートーヴェンを診察していた医師(ドクトル・ヴァウルーフ)自身が書いた 〔A:rztlicher Ru:ckblick auf L. v. B. s letzte Lebenstage〕『ベートーヴェンの生涯の最後の日々への医学的省察』(一八二七年五月二十日記)という一文も参考になる。(この文章は Wiener Zeitschrift(一八四二年)に所掲)
[#ここから1字下げ]
 ベートーヴェンの最後の病気の経過には二つの段階があった。第一は、肺の病状が現われて六日後にそれがおさまったらしい。「七日目に彼は大変いい気分になって、起きて歩いたり読んだり書いたりすることができた。」第二は、血液循環の障害に促進せられた消化器系統の障害。「しかし八日目に私は少なからず驚いた。午前の往診のとき、彼が全身に黄疸の症状を呈してよほど容態のわるいのを私は見た。激烈な吐瀉下痢の発作のため、その前夜は持ちこたえるかどうか心配せられたほどだったという。」このときから水腫《むくみ》が来た。
 実はこの容態悪化には詳細には判らない一つの精神的な原因が隠れていたのだ。「人から受けた或る忘恩的態度と、やくざな、礼を失した仕打ちに対するはげしい憤りと深い悲しさとが原因になってベートーヴェンの病状は悪化した。肝臓と腸との激痛に彼はブルブル悪寒にふるえながら身体をちぢめていた。それまでにかなりむくんでいた両脚の水腫がひどくなった。」と、ドクトル・ヴァウルーフは書いている。
 これらのいろいろな点から総括して、ドクトル・クロッツ・フォレストは、肺充血の発作ののち肝臓の萎縮硬化 〔Lae:nnec, Leberschrumpfung〕 が腹部と脚と足との浮腫をともなって来たのだと診断している。彼の意見ではベートーヴェンが酒精飲料を過度に飲んだこともこの症状の原因になっているという。これはすでにドクトル・マルファッティーの意見でもあった。Sedebat et bibebat「坐ると飲んだ。」
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(81) 歌唱者ルートヴィッヒ・クラモリーニは近頃出版された『回想記』の中に、彼が死に近い病床のベートーヴェンを訪れた日の感動的な思い出を書いているが、そのときのベートーヴェンの快活さと親切さとには人の胸を打つものがあった。(一九〇七年九月二十九日の新聞 Frankfurter Zeitung 参照)
(82) 手術は十二月二十日、一月八日、二月二日および二十七日に行なわれた。――死の床にいるこの気の毒な男は、おまけに南京虫に噛まれて苦しんでいた。(ゲルハルト・フォン・ブロイニングの手紙)
(83) 若い音楽家アンゼルム・ヒュッテンブレンナー。

「神は頌《ほ》むべきかな!」とブロイニングが書いている――「永い間苦労の多かったこの受難の一生を神がついに終わらしめ給うたことを神に感謝しようではないか!」
 ベートーヴェンの筆蹟原稿、蔵書、家具一切は競売によって千五百七十五グルデン〔訳者注――一グルデンは二マルク〕で売り払われた。目録には二百五十二の原稿と音楽書籍があったが、その全部の売価は九百八十二グルデン三十七クロイツァーを超えなかった。「筆談帳」と「日記」全部の売価が一グルデン二十クロイツァーであった。――ベートーヴェンの蔵書の中には次のようなものがあった――
 カント『自然科学と天文学理論』Naturgeschichte und Theorie des Himmels ボーデ『天体の知識の手引き』Anleitung zur Kenntnis des gestirnten Himmels トーマス・ア・ケンピス『キリストに倣いて』Nachfolge Christi. 検閲官が押収した書物はゾイメ Seume『シラクサへの旅』Spaziergang nach Syrakus コッツェブー Kotzebue『貴族論』フェスラー Fessler『宗教および教会についての意見』Ansichten von Religion und Kirchentum.

(84) 「困難な何ごとかを克服するたびごとに私はいつも幸福を感じました。」(「不滅の恋人」への手紙)「おお、人生を千倍も生きることはすばらしい! 寂しい生活、いな、僕はもはや寂しい生活をするに適する人間ではないことを感じている。」(ヴェーゲラー宛、一八〇一年十一月十六日)
(85) シンドラーはいっている――「ベートーヴェン先生が私に自然の知識を授けた。〔ベートーヴェン先生に同行して野原や山や谷を歩く幸福が数えきれないほどたびたび私に与えられた。〕彼は私に音楽の研究を指導したと同様に自然の研究を指導した。彼の心を魅惑したのは自然の諸法則ではなくてむしろ自然の本源的な力であった。」
(86) 「おお、この人生は美しい。しかし僕の生活にはいつまでも苦い毒が交ぜられて(vergiftet)いる。」(ヴェーゲラー宛、一八一〇年五月二日)
[#ここから1字下げ]
「悩みをつき抜けて歓喜に到れ!」Durch Leiden Freude という言葉は、一八一五年十月十九日にエルデーディー伯爵夫人に贈られた。
〔訳者注――ライツマン・第二巻第百七頁にこの手紙がある。エルンスト・ベルトラムが一九二七年にケルン大学でやった「ベートーヴェン」講演の中で用いている「無限の霊を持てるわれら有限の者たち」Wir Endliche mit dem unendlichen Geist というベートーヴェンの言葉も同じ手紙の中にある。
「……無限の霊を持っている私たち有限の人間どもはひたすら悩んだり喜んだりするために生まれていますが、ほとんどこういえるでしょう――最も秀れた人々は苦悩をつき抜けて歓喜を獲得するのだ[#「苦悩をつき抜けて歓喜を獲得するのだ」に傍点]と……」〔傍点訳者〕〕

底本:「ベートーヴェンの生涯」岩波文庫、岩波書店
   1938(昭和13)年11月15日第1刷発行
   1965(昭和40)年4月16日第17刷改版発行
   2010(平成22)年4月21日第77刷改版発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年4月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました