一 ジャン・ミシェルの死
三か年過ぎ去った。クリストフは十一歳になりかけている。彼はなおつづけて音楽の教育を受けている。フロリアン・ホルツェルについて和声《ハーモニー》を学んでいる。これはサン・マルタンのオルガニストで、祖父の友人であったが、いたって学者で、クリストフが最も好んでいる和音、やさしく耳と心とをなでてくれて、それを聞けばかすかな戦慄《せんりつ》が背筋に走るのを禁じえない種々の和声は、いけないもので禁じられてるものだと教えてくれる。クリストフがその理由を尋ねると、規則で禁じられてるからという以外には、彼はなんとも答えない。クリストフは生来わがままな子だから、そういうものがなおさら好きになる。人に崇拝されてる大音楽家の作品中にその実例を見出すのを喜びとして、それを祖父か教師かのところへもってゆく。すると祖父は、大音楽家の作品中ではかえってりっぱになるのであって、ベートーヴェンやバッハなら何をしても構わないと答える。教師の方はそれほど妥協的でないから、機嫌《きげん》を悪くして、それは彼らの作品のうちのいいものではないと苦々《にがにが》しく言う。
クリストフは音楽会や劇場にはいることができる。どの楽器でも鳴らすことを覚えている。すでにヴァイオリンにかけてはりっぱな腕前をもっている。父は管弦楽隊中の一席を彼に与えてもらおうと考えついた。クリストフはりっぱにその役目を勤めたので、数か月の見習の後、宮廷音楽団の第二ヴァイオリニストに公然と任命された。かくて彼は自活し始めてゆく。それも早過ぎるわけではない。なぜなら、家の事情はますます悪くなっているから。メルキオルの放縦はいっそうはなはだしくなっていたし、祖父は年をとっていた。
クリストフは悲しい情況をよく承知している。彼はもう大人じみた真面目《まじめ》な心配そうな様子をしている。彼は職務にほとんど興味を見出していないけれども、また晩には奏楽席で眠くなることもあるけれど、勇気を出してやってのけている。芝居からはもはや、昔の小さい時のような感興を与えられない。まだ小さかった時――四年以前――彼の最上の望みは、今のその席を占めることであった。ところが今では、ひかせられる音楽の大部分は嫌いである。まだそれらの音楽にたいする批評をまとめあげるほどではないが、しかし心の底では、馬鹿らしいものだと思っている。そして偶然りっぱなものが演奏される時には、人々の愚直な演奏に不満を覚ゆる。彼が最も好きな作品も、ついには管弦楽団の仲間の人たちに似寄ってくる。彼らは、幕が降りて、吹き立てたり引っかき回したりすることを終えると、一時間体操でもしたかのように、微笑しながら汗を拭《ふ》いて、つまらないことを平然と語り合うのである。彼はまた、昔の恋人を、素足の金髪の歌女《うたいめ》を、すぐ眼の前に見かける。幕間に食堂でしばしば出会う。彼女は以前彼から想《おも》われたことを知っていて、喜んで抱擁してくれる。けれど彼は少しも嬉《うれ》しくない。その臙脂《えんじ》や、香りや、太い腕や、貪食《どんしょく》やで、厭《いや》になっている。今ではたいへん嫌いになっている。
大公爵はその常任ピアニストを忘れてはいなかった。といって、この肩書にたいして与えられる僅少《きんしょう》な給料が、正確に支払われたというのではない――毎度それを請求しなければならなかった――しかし、時々、宮邸に著名な賓客がある時や、また単に、大公爵夫妻が演奏を聞きたいと思いつく時に、クリストフは宮邸に伺候《しこう》するようにとの命令を受けた。たいてい晩のことで、クリストフが一人きりでいたいと思う時刻だった。彼は万事を投げ出して大急ぎで行かなければならなかった。時とすると、晩餐がまだ済んでいないので、控室に待たされることもあった。従僕らは彼を見慣れていて、親しげに話しかけた。それから彼は、鏡と燈火がいっぱいの客間に案内された。そこで彼は、様子ぶった人々から、癪《しゃく》にさわるほどじろじろ眺められた。大公爵夫妻の手に接吻しに行くために、蝋《ろう》引きしすぎたその室を横ぎらなければならなかった。彼は大きくなればなるほどますます無作法になっていた。なぜなら、自分が滑稽《こっけい》なような気がして、自尊心が傷つけられるのだったから。
それから彼はピアノについた。そして馬鹿者ども――そう彼は賓客らを判断していた――のために演奏しなければならなかった。そして時々、周囲の人々の無関心さに不快を感じて、楽曲の真中でぴたりとやめたいほどだった。まわりに空気が不足していた。窒息するかと思われた。演奏が済むと、うるさくお世辞を言われ、一人一人に紹介された。大公爵の動物園の中の珍しい動物のように人々から見做《みな》されてる、と彼は考え、賛辞は自分へよりもむしろ大公爵へ向けられてる、と考えていた。自分がいかにも卑しめられたような気がし、病的なほど邪推深くなって、それを態度に示し得ないだけになおさら苦しんだ。ちょっとした他人の挙動にも、侮辱を見てとった。客間の隅で笑ってる者があれば、自分についてだと考えた。そして嘲《あざけ》られてるのは、自分の様子か、服装か、顔付か、足か、手か、いずれともわからなかった。すべてが屈辱の種となった。話しかけられなくても、話しかけられても、子供みたいにボンボンをもらっても、みな屈辱を感じた。とくに、大公爵が大様《おおよう》な無頓着《むとんじゃく》さで、彼の手に金貨を握らして帰してやる時に、彼はひどく屈辱を受けた。貧乏なのが、貧乏らしく取扱われるのが、悲しかった。ある晩、家へ帰る途中、もらって来た金を非常に重苦しく感じて、通りがかりにある穴倉の風窓へそれを投げ込んでしまった。けれどもすぐ後で、賤《いや》しい真似《まね》をしてそれをまた拾い取らなければならなかった。なぜなら、家では肉屋に数か月分の借りがあったから。
家の人々は彼のそういう自尊心の苦しみにほとんど気づかなかった。彼らは彼にたいする大公爵の愛顧に歎喜していた。人のいいルイザは、宮廷における貴顕社会の夜会に出ることが、息子にとってはこの上もなく晴れやかなことだと思っていた。メルキオルは、それを友人ら相手にたえず自慢話の種としていた。しかし最も嬉しがっているのは祖父だった。独立独歩と、不平家気質と、偉大にたいする軽蔑とを、彼はよく装っていたけれども、しかも富や、権勢や、名誉や、社会的優越にたいして、質朴《しつぼく》な賛嘆の情をもっていた。彼が無類の誇りとなすところのものは、そういう優越を有してる人々に孫が近づくのを見ることだった。あたかもその光栄が自分の上にも光被《こうひ》してくるかのように楽しんでいた。そしていくら平然と構えていようとしても、顔が輝いていた。クリストフが宮邸へ行った晩には、いつもジャン・ミシェル老人は、なんらかの口実を設けてルイザのところに留っていた。子供らしくやきもきしながら、孫の帰りを待っていた。そしてクリストフがもどってくると、何気ないふうでまず彼に言葉をかけた。つまらない問いのこともあった。
「どうだい、今夜はうまくいったかい。」
あるいは、わざとらしい遠回しの言葉のこともあった。
「さあクリストフ坊やのお帰りだ、何か珍しいことを話してくれるだろう。」
あるいは、おだてるためのうまいお世辞のこともあった。
「家の若様、おめでとう!」
しかしクリストフは、むっとして苛立《いらだ》っていて、ごく冷やかに「今晩は!」と一言|挨拶《あいさつ》を返すばかりで、隅の方へ行って口をとがらすのであった。老人はしつこく言い寄って、いっそう明らさまな問いをかけたが、子供はただはいとかいいえとか答えるばかりだった。他の者もいっしょになって、種々こまかなことを尋ねだした。クリストフはますます顔をしかめた。むり強《じ》いに返事をさせなければならなかった。しまいには、ジャン・ミシェルはじれて腹をたてて、侮辱的な言葉を発した。クリストフはあまり敬意のこもらない言葉で言い返した。そしてついには露骨な反感となった。老人は扉《とびら》をばたりとしめて帰って行った。かくてクリストフは、それらあわれな人々の喜びをそこなってしまうのだった。彼らには彼の不機嫌《ふきげん》なわけが少しもわからなかった。彼らは従僕的な魂の者であるとはいえ、それは彼らの罪ではなかった。自分らと異なった気質の者もいるということを彼らは思いもつかなかった。
クリストフは自分自身のうちに沈潜していった。そして家の者らを批判しなくても、自分と彼らとを隔つる溝渠《みぞ》を感じていた。彼は確かにそれを誇張して見ていたであろう。たとい思想は異なっていても、彼がもしうち明けて話すことができたら、おそらく彼らから理解せられたかもしれない。しかしながら、親と子とが最もやさしい愛情をたがいにもってる時でさえも、両者の間の絶対の親和ほどむずかしいものはない。一方では、敬意があるので、心の中をうち明けようという勇気がくじかれる。他方では、年齢と経験とにおいて優《まさ》ってるというしばしば誤った考えがあるので、大人の感情と時としては同じくらいに興味深くそしてたいていはより多く真摯《しんし》である子供の感情を、十分の真面目《まじめ》さで見ないようになる。
クリストフが家で見かける来客や、耳にする会話などは、なおいっそう彼と家の者との間を遠ざけた。
メルキオルの友人らがよくやって来た。多くは管弦楽の楽員らで、酒飲みで独身者だった。悪い人々ではなかったが、野卑な人々だった。その笑声や足音で室が揺れるかと思われた。音楽を愛していたが、たまらないほどの愚昧《ぐまい》さで音楽のことを語っていた。その感激の露骨な卑しさは、子供の感情の純潔さをひどく傷つけた。彼らがそうして彼の好きな作品をほめると、彼は自分が凌辱《りょうじょく》されたような気がした。彼は堅くなり、蒼《あお》くなり、冷酷な様子をし、音楽に興味をもたないふうを装った。できるならば音楽を嫌いたいほどだった。メルキオルは彼のことをいつもこういうふうに言っていた。
「此奴《こいつ》には心がない。何にも感じない。だれの気質を受けたのかな。」
時とすると彼らは、ドイツ歌謡をいっしょに歌い出した。四部合唱の――四脚の――唄《うた》で、彼らにそっくり似寄っていて、馬鹿げた崇厳さと平板な和声とをもって重々しく進んでいった。そういう時クリストフは、いちばん遠い室に逃げ込んで、壁に向かってののしっていた。
祖父もまた友人をもっていた。オルガニスト、家具商、時計商、バスひきなど、饒舌《じょうぜつ》な老人たちで、いつも同じ冗談をくり返し、文芸や、政治や、あるいは土地の者の血統などについて、尽きることのない議論を戦わした――それも、話し合ってる話題の興味より、むしろしゃべることが嬉《うれ》しく、話し相手を見出したことが嬉しくて。
ルイザの方は、ただ数人の近所の女たちに会うきりだった。彼女らは界隈《かいわい》の噂《うわさ》話をしていった。またまれには、ある「親切な奥様」に会うこともあった。その婦人は、彼女に同情してるという口実のもとに、次の晩餐会の手伝を約束しに来たり、子供らの宗教教育に勝手な干渉をしたりした。
すべての訪問客のうちで、テオドル伯父《おじ》ほどクリストフに厭なものはなかった。それは祖父の義理の子で、ジャン・ミシェルの最初の妻であるクララという祖母が、初めの結婚に設けた子であった。彼はアフリカや極東と取引をしてる商館にはいっていた。新しいドイツ人の一つの型《タイプ》を具えていた。そういう型のドイツ人らは、民族性たる古い理想主義を嘲《あざけ》って、それを脱却するようなふうを装い、また戦勝に酔って、力と成功とにたいし、自分らがそれをもちつけないことを示す一種の崇拝心をいだいている。けれども、一国民の古来の性質を一挙に変化せしむることは困難であるから、押えつけられた理想主義は、言葉や、態度や、精神上の習慣や、家庭生活の些細《ささい》な行為に引用せられるゲーテの言葉などのうちに、たえず現われ出していた。良心と功利との独得な混合であり、古いドイツ中流社会の主義の正直さと、新しい雇用店員階級の卑しさとを、たがいに一致させんための不思議な努力であった。この混合こそ、かなり嫌悪《けんお》すべき偽善の匂いをもたざるをえないものであった――なぜなら、それはドイツの力と貪婪《どんらん》と利益とをもって、あらゆる権利と正義と真理との象徴だとするにいたったから。
クリストフの公正な心はそれに深く傷つけられた。伯父《おじ》が正当であるかどうかを彼は判断することができなかったけれども、伯父を忌み嫌い、伯父のうちに敵があるのを感じていた。祖父もやはり伯父の意見を好まないで、それらの理論にたいして反感をいだいていた。しかし彼は議論になると、テオドルの快弁にすぐ言い伏せられた。老人の寛大な純朴さを嘲弄《ちょうろう》するのは、テオドルにとっては容易なことだった。ジャン・ミシェルもついには、自分の人の善《よ》さが恥ずかしくなった。そして人が考えてるほど時代おくれでないことを示すために、テオドルと同じようなしゃべり方をしようと努めた。けれども口の中でうまく調子がとれなくて、自分でも当惑していた。そのうえどういう考え方をしていても、いつもテオドルに威圧されていた。老人はたくみな処世術にたいして尊敬を感じていて、自分にまったくできないことだと知ってるだけに、いっそうそれを羨《うらや》んでいた。孫のうち一人くらいはそういう地位に立たしてやりたいと夢想していた。メルキオルもまた、ロドルフをその伯父と同じ道に進ませるつもりだった。それで家じゅうの者は皆、種々な世話を期待して、その金持ちの親戚《しんせき》につとめて媚《こび》を呈していた。向うでは、自分がなくてならない者であることを見て取り、それに乗じて優者らしく振舞っていた。彼は万事に干渉し、万事におのれの意見をもち出して、芸術や芸術家にたいする頭ごなしの軽蔑を隠さなかった。否むしろそれを看板にして、この音楽家ばかりの親戚の一家を侮辱して喜んでいた。各人について悪い冗談ばかり言っていた。それをまた人々は卑屈にも笑い興じていた。
とくにクリストフは、伯父《おじ》の嘲弄の的《まと》となっていた。そして彼は我慢強くなかった。厭な様子をして、黙って歯をくいしばった。伯父はそのむっと口をつぐんでるのを面白がった。ところがある日、食事の時テオドルから法外にいじめられると、クリストフは我を忘れて、彼の顔に唾《つば》を吐きかけた。それはたいへんなことだった。異常な侮辱だった。伯父は初めはっとして黙った。次に口を開いて悪罵《あくば》を浴せかけた。クリストフは自分の仕業にぞっとして、椅子《いす》の上に堅くなり、雨と降ってくる拳固《げんこ》を受けても感じなかった。しかし伯父の前に引据えて跪《ひざまず》かせようとされた時、彼は暴《あば》れだし、母をはねのけ、家の外に逃げ出した。息がつけなくなってからようやく野の中に立止った。遠くに自分を呼ぶ声が聞えていた。相手を河に投込むことができないとすれば、自分でそこに飛び込んだがましかもしれない、と彼は考えてみた。野の中で彼は夜を明した。黎明《れいめい》のころ、祖父の家へ行って戸をたたいた。老人はクリストフが見えなくなったことを非常に心配していたので――その夜一睡もしていなかった――彼を叱《しか》るだけの勇気もなかった。彼はクリストフを家に連れて行った。家の者もわざとなんとも言わなかった。彼がまだやはり激昂《げきこう》状態にあるのがわかったのである。そして彼を大目に見てやらなければならなかった。なぜなら彼は宮廷の晩の演奏に出ていてくれたから。しかしメルキオルは、皆の恥になるようなつまらない奴らにも、みごとな生活やりっぱな態度の見本を示してやろうと、いかに骨を折ってるかということを、ぐずぐず訴えて――それもとくにだれに向かって言うのでもないようなふうを装って――数週間の間、クリストフを厭がらした。そして伯父のテオドルは、往来でクリストフに出会うと顔をそむけ鼻をつまんで、深い嫌悪の情をありったけ見せつけた。
彼は家の者から同感されることが少なかったので、できるだけ家にじっとしていなかった。皆が自分に押しつけようとするたえざる拘束に苦しんでいた。その理由を議論することも許されないで、ただ尊敬しなければならないような、人間や事物があまりたくさんあった。しかもクリストフは尊敬心をもっていなかった。人々が彼を訓練してドイツの善良な市民に育てあげようとすればするほど、ますます彼は束縛を脱したがった。彼の楽しみとするところは、退屈な容態《ようだい》ぶった我慢できない音楽会を、劇場の奏楽席やまたは宮廷で過ごした後、子馬のように草の中に転がったり、新しいズボンのまま芝生の斜面を滑り降りたり、近所の悪戯児《いたずらっこ》らと石合戦をしたりすることだった。けれどそうしばしばやるわけではなかった。それも叱《しか》られたり殴《なぐ》られたりするのが恐《こわ》いから控えていたのではなくて、仲間がないからであった。彼は他の子供らと調子よく交わることができなかった。街頭の浮浪少年らさえ彼といっしょに遊ぶことを好まなかった。なぜなら彼は、遊びにも本気になりすぎて、あまりひどく打ち回ったからである。そして彼は同じ年ごろの子供たちから離れて、一人黙然としがちになっていた。彼は遊戯の下手《へた》なのが恥ずかしくて、皆の仲間にはいるだけの元気もなかった。そして面白くないようなふうを装いながらも、人から誘ってもらいたくてたまらなかった。しかしだれもなんとも言ってくれなかった。彼は憂鬱《ゆううつ》な気持になって、冷淡な様子で遠ざかっていた。
彼の慰安は、叔父《おじ》のゴットフリートが土地にいる時、いっしょに歩き回ることだった。彼はますます叔父に接近していって、その何物にもとらわれない気質に同感していた。どこにもつなぎ止められないで勝手に放浪することのうちに、ゴットフリートが見出していた喜びを、今では彼もよく理解していた。しばしば彼らはいっしょに、夕方、野の中を、あてもなく、ただまっすぐに歩いて行った。そしてゴットフリートはいつも時間を忘れていたから、よく遅くもどって来ては叱《しか》られた。皆が眠ってる間に、夜分にそっとぬけ出すのも、また楽しみだった。ゴットフリートはそれを悪いと知っていたが、クリストフはむりに強請《せが》んだ。ゴットフリートもその楽しみを制することができなかった。夜半のころ、彼は家の前にやって来て、約束どおりの口笛を吹いた。クリストフは着物を着たまま寝ていた。寝床から滑りぬけ、靴を手に取った。息を凝らしながら、野蛮人のような狡猾《こうかつ》さで四つ這《ば》いになって、往来に向かってる台所の窓のところまでやって行った。そこにあるテーブルの上に上った。向うからゴットフリートが、彼を肩に受け取った。そして二人は、小学校の子供のように喜びながら、出かけてゆくのだった。
時とすると彼らは、ゼレミーを捜しに行くこともあった。ゼレミーは漁夫で、ゴットフリートと仲良しだった。三人は月の光を頼りに、その小舟に乗って走った。櫂《かい》からしたたる水は、ささやかな琶音《アルペジオ》や半音階を奏した。乳色の靄《もや》が河の面《おも》に揺れていた。星がふるえていた。鶏が両岸で鳴きかわしていた。時とすると、月の光に欺かれて地から舞い上がった雲雀《ひばり》の顫律《トリロ》が、空の深みに聞えることもあった。皆黙っていた。やがてゴットフリートはある歌の節《ふし》をごく低く歌った。ゼレミーは動物の生活の不思議な話をきかした。簡単な謎《なぞ》のような調子で言われるので、なおその話が不思議に思われた。月は森の後ろに隠れてしまった。一同は丘陵の仄《ほの》暗い段々に沿って進んだ。空と水との闇《やみ》が溶け合っていた。河には波の襞《ひだ》もなかった。あらゆる物音が消え去っていた。舟は夜の中を滑っていった。いや、滑っているのか、浮かんでいるのか、じっと動かないでいるのか?……葦《あし》は絹ずれのそよぎで開いていった。音もなく岸についた。地に降りて、歩いて帰った。夜明けにしかもどらないこともあった。いつも河の縁をたどった。麦穂のような緑色や宝石のような青色をした白銀魚の群が、黎明の光にうごめいていた。パンを投げてやると、むさぼるように飛びついてきて、メデューサの頭の蛇《へび》みたいに動き回った。パンが沈むに従って、そのまわりに降りていって、螺旋《らせん》状に回り、次には、光線のようにすっと消えてしまった。河は薔薇《ばら》色と葵《あおい》色との反映に染められていた。小鳥は次から次へと眼をさましてきた。彼は急いで帰っていった。出かける時と同じように用心をして、空気の重苦しい室にもどり、寝床にはいった。クリストフは眠気がさして、野の匂いの沁《し》みたさわやかな身体のまま、すぐに眠るのだった。
かくて万事うまくいった。だれにも少しも気づかれなかった。ところがある日、弟のエルンストが、クリストフの抜け出すことを言いつけてしまった。それ以来、抜け出すことを禁ぜられ、監視された。それでも彼はやはり抜け出していた。他のどんな連中よりも、小行商人とその友人らとの方が好きであった。家の者らは外聞にかかわると思った。メルキオルは彼に下賤《げせん》な趣味があるのだと言っていた。ジャン・ミシェル老人は彼がゴットフリートを慕ってるのを妬《ねた》んでいた。そして、優良な社会に接し高貴な方々に仕えるの名誉をもってるのに、そういう卑しい人々と交わって喜ぶほど身を落すのはよくないと、いろいろ説いてきかした。クリストフには気品がないのだと人々は思っていた。
メルキオルの放縦と遊惰とにつれて家計の困難はつのってきたけれど、ジャン・ミシェルがいる間は、どうかこうか生活してゆけた。ただ彼一人が、メルキオルに多少の威力をもっていて、ある程度までその堕落を引止めていた。また彼が受けてる世間の尊敬は、酔漢《よいどれ》の不品行を他人に忘れさせるのに役だたないではなかった。また彼は一家の貧しい暮しを助けてくれた。彼は前音楽長として受けていたわずかな年金のほかに、なお音楽を教えたりピアノの調律をしたりして、いくらかの金額を手に入れていた。そしてその大部分を嫁のルイザに与えた。彼女は自分の困窮を、いくら彼の眼に入れまいとしても隠しきれなかった。老人が自分たちのために不自由をしてるかと思うと、彼女はやるせなかった。老人はいつも豊かな生活になれていて、欲望が強かっただけに、そう思われるのも無理はなかった。が時とすると、その犠牲の金でも十分でないことがあった。ジャン・ミシェルはさし迫った負債を払ってやるために、大事な道具や書物や記念品などを、秘密に売り払わなければならなかった。メルキオルは父がひそかにルイザへ補助を与えてるのに気づいていた。そしてしばしば、なんと拒《こば》まれてもそれに手をつけることが多かった。ところが老人はふとそれを知って――苦労をつつみ隠してるルイザの口からではなく、孫の一人の口から――聞き知って恐ろしく立腹した。そして二人の間には、ぞっとするような光景が演ぜられた。二人ともなみはずれて気荒かった。すぐにひどい言葉を言い合いおどし合った。今にも殴り合いが始まるかと思われた。しかし憤怒の最中にも、押うべからざる尊敬の念が常にメルキオルを制していた。そして酔っ払ってはいたが、父から浴せられる侮辱的なののしりや叱責《しっせき》のもとに、ついに頭を垂れてしまった。それでもやはり、またせしめてやろうと次の機会をねらうのであった。ジャン・ミシェルは将来のことを考えながら、きたるべき悲しいことどもをはっきりと感じた。
「かわいそうな子供たち、」と彼はルイザに言っていた、「もしわしがいなくなったら、皆どうなるだろう。……でも幸いとわしは、」とつけ加えながらクリストフの頭をなでた、「この子がどうにかやってくれるようになるまでは、まだ達者でおられるだろう。」
しかし彼は見当違いしていた。彼はもう生涯の終りに達していた。そしてまただれもそれに気づかなかった。彼は八十歳を過ぎてるのに、髪の毛もそろっており、まだ灰色の毛の交った白い頭髪はふさふさとして、濃い頤髯《あごひげ》には真黒な毛筋も見えていた。歯は十枚ばかりしか残っていなかったが、それで強く噛《か》みしめることができた。食卓についた様子を見ると心強かった。頑健《がんけん》な食欲をもっていた。メルキオルには飲酒を非難していたが、自分は盛んに飲んでいた。モーゼルの白|葡萄《ぶどう》酒をとくに好んでいた。そのうえ、葡萄酒も、ビールも、林檎《りんご》酒も、すべて神の創《つく》り出した逸品ならなんでも、それを賞美する術《すべ》を心得ていた。そして杯の中に理性を置き忘れるほど思慮に乏しくなかった。適度にとどめていた。とはいえその適度というのがまた多量で、もっと弱い理性ならその杯の中に溺《おぼ》れるだろうということも、真実だった。彼は足が丈夫で、眼がよく、疲労を知らない活動力を具えていた。六時にはもう起き上がって、細心に身仕舞をしていた。礼儀に注意し体面を重んじていたからである。家の中に一人で暮していて、みずから万事をやってのけ、嫁に手出しされることをも許さなかった。室をかたづけ、コーヒーの支度をし、ボタンをつけ直し、釘《くぎ》を打ち、糊《のり》張りをし、修繕をした。シャツ一枚になって、家の中を上下に往《ゆ》き来し、アリアに歌劇《オペラ》の身振りを伴わせて、響きわたる好きな低音《バス》で、しきりなしに歌っていた。――その後で、彼は出かけた、どんな天気にも。自分の用件を一つも忘れず果しに行った。しかし時間を守ることはいたって少なかった。知人と議論をしたり、顔を見覚えてる近所の女に冗談を言つたりしてるのが、街路の方々で見られる。愛くるしい若い女と古い友人とを、彼は好きだったのである。そういうふうにして道で手間取って、決して時間を頭においていなかった。けれども食事の時間を通り過すことはなかった。人の家に押しかけて行って、どこででも食事をした。自宅にもどるのは、長く孫たちの顔を眺めた後、晩に、夜になってからだった。寝床にはいると、眼を閉じる前に、古い聖書の一ページを寝ながら読んだ。そして夜中に――一、二時間以上は眠りつづけることができなくなっていたから――起き上がって、時おり買い求めた歴史や神学や文学や科学などの古本を、どれか一冊取上げた。そして手当たりしだいに、面白かろうと、退屈しようと、よくわからなかろうと構わずに、一語もぬかさず、いくページかを読むのであった……また眠気がさしてくるまでは。日曜日には、教会の礼拝式に行き、子供らと散歩をし、球《まり》遊びをした。――かつて病気にかかったことがなかった。ただ足指に少し神経痛の気味があって、聖書を読んでる最中に、夜を呪《のろ》うことがあるばかりだった。その調子でゆくと、百年くらいは生き存《ながら》えられそうに思われた。また彼自身も、百歳を越せないという理由を少しも認めていなかった。百歳で死ぬだろうと人に予言されると、天意による恩恵には制限を付すべきものではないと、世に名高いあの高齢者と同様なことを考えていた。彼が老いてゆくのを認められるのはただ、ますます涙もろくなることと、日に日に怒りっぽくなることばかりだった。ちょっとした我慢がしきれずに、狂気じみた憤怒の発作を起こした。その赭《あか》ら顔と短い頸《くび》とが真赤になった。恐ろしく口ごもって、息がつけないで言いやめなければならなかった。旧友でありまたかかりつけである医者が、自分で用心をするように彼に注意し、憤怒と食欲とをともに節するように注意を与えていた。しかし彼は老人の癖として頑固《がんこ》で、ますます不節制をして虚勢を張っていた。医学と医師とを嘲《あざけ》っていた。死をひどく軽蔑してるふうを装って、少しも死を恐れていないと言い切るためには、長々と弁じたててやめなかった。
ごく暑い夏のある日、たくさん酒を飲んでおまけに議論をした後、彼は家に帰って、庭で働きだした。彼は地を耕すのが好きだった。帽子もかぶらず、日の照る中で、まだ議論のために激昂《げきこう》したまま、疳癪《かんしゃく》まぎれに耘《うな》っていた。クリストフは書物を手にして、青葉|棚《だな》の下にすわっていた。しかし彼はほとんど読んでいなかった。蟋蟀《こおろぎ》の眠くなるような鳴声に耳を貸しながら、夢想に耽《ふけ》っていた。そしてなんの気もなく、祖父の動作を見守っていた。老人はクリストフの方に背中を向けていた。背をかがめて、雑草を取っていた。すると突然、すっくと立上り、両腕を空《くう》に打振り、それから一塊の物質のように、地面へ俯向《うつむ》けにばたりと倒れたのが、クリストフの眼についた。クリストフはちょっと笑いたくなった。ところがなお見ると、老人は身動きもしなかった。彼は呼びかけ、そばに駆けつけ、力の限りゆすぶった。恐ろしくなった。そこにかがんで、地面にぴったりついてるその大きな頭を、両手でもち上げようとした。頭は非常に重かったし、彼はぶるぶる震えていたので、やっとのことで少し動かせるばかりだった。けれども、血のにじんだ真白な引きつけてる眼を見た時、彼は恐ろしさのあまりぞっと寒くなった。鋭い叫び声をたてて頭を取落した。駭然《がいぜん》と立上がって、その場を逃げ、表に駆けだした。叫びまた泣いていた。往来を通りかかった一人の男が、彼を引止めた。彼は口もきけなかった。家の方を指し示した。男は家にはいっていった。彼もその後についていった。近所の人々も、彼の叫び声を聞いてやって来た。間もなく庭は人でいっぱいになった。彼らは花をふみにじり、老人のまわりに頭をつき出して、皆一度に口をきいていた。二、三の人々が老人を地面からもち上げた。クリストフは入口に立止り、壁の方を向き、両手で顔を隠していた。見るのが恐《こわ》かった。しかし見ないでもおれなかった。人々の列がそばを通りかかった時、彼は指の間から、力なくぐったりしてる老人の大きな身体を見た。片方の腕が地面に引きずっていた。頭は運んでる人の膝にくっついて、一足ごとに揺れていた。顔はふくれあがり、泥《どろ》まみれになり、血がにじんで、口を開き、恐ろしい眼をしていた。彼はふたたび喚《わめ》きたて、逃げ出した。何かに追っかけられてるかのように、母の家まで一散に駆けていった。恐ろしい叫び声をあげて、台所に飛び込んだ。ルイザは野菜を清めていた。彼は彼女に飛びつき、自棄《やけ》に抱きしめて、助けに来てくれるようにたのんだ。すすり泣きのために顔がひきつって、口もろくにきけなかった。しかし最初の一言で彼女は了解した。顔色を失い、手の物を取り落し、なんとも言わないで、家の外へ駆け出していった。
クリストフは一人残って、戸棚にとりすがっていた。彼はまだ泣きつづけていた。弟どもは遊びに耽っていた。彼にはどういうことが起こったのかはっきりわからなかった。祖父のことを考えてはいなかった。先刻見た恐ろしいありさまのことを考えていた。そしてまた無理やりに、それらのさまをふたたび見せられはすまいか、あの処へ連れもどされはすまいかと、びくびくしていた。
そして、夕方になって、他の子供たちが、家の中であらゆる悪戯《いたずら》をして倦《あ》いてしまい、退屈で腹がすいたと駄々《だだ》をこねだしたころ、果して、ルイザはあわただしくもどって来、子供らの手を取り、祖父の家へ連れて行った。彼女はごく早く歩いた。エルンストとロドルフとは、いつもの癖でぐずぐず言おうとした。しかしルイザは黙ってるようにと言いつけた。その言葉の調子に、彼らは黙ってしまった。本能的に恐怖を感じた。家にはいりかけた時、彼らは泣き出した。まだすっかり夜にはなっていなかった。夕日の名残《なご》りの光が、扉の押ボタンや、鏡や、ほの暗い広間の壁にかかってるヴァイオリンなどに、異様な反映を見せて、家の中を照らしていた。しかし祖父の室には、蝋燭《ろうそく》が一本ともしてあった。その揺めく炎は、消えかかった蒼白《あおじろ》い明るみとぶつかって、室の重々しい薄闇《うすやみ》をいっそう沈鬱《ちんうつ》になしていた。メルキオルが窓のそばにすわって、声をたてて泣いていた。医者が寝台の上に身をかがめていたから、そこに寝てる者の姿は見えなかった。クリストフの胸は張り裂けるばかりに動悸《どうき》していた。ルイザは子供たちを、寝台の足下に跪《ひざまず》かした。クリストフは思い切って覗《のぞ》いてみた。その午後の光景を見た後のこととて、いかにも恐ろしい何かを期待していたので、一目見ると、むしろ心が休まったほどだった。祖父はじっとしていて、眠ってるように思われた。クリストフはちょっと、祖父が回復したのだという気がした。しかしその押しつけられたような息遣いを聞いた時、なおよく眺めて、倒れた傷跡が大きな紫色の痣《あざ》になってる脹《は》れた顔を見た時、そこにいる人は死にかかってるのだとわかった時、彼はふるえだした。そして、祖父の回復を念ずるルイザの祈祷《きとう》をいっしょにくり返しながら、彼は心の底で、もし祖父がなおらないものなら、もう死んでしまっていてくれるようにと祈った。これから起こるべき事柄を怖《お》じ恐れていた。
老人は倒れた瞬間からすでにもはや意識を失っていた。ただ一時、ちょうど自分の容態がわかるだけの意識を回復した――それは痛ましいことだった。牧師が来ていて、彼のために最後の祈祷を誦《しょう》していた。老人は枕の上に助け起こされた。重々しく眼を開いた。その眼ももはや意のままにならないらしかった。騒がしい呼吸をし、訳がわからずに人々の顔や燈火を眺めた。そして突然、口を開いた。名状しがたい恐怖の色が顔付に現われていた。
「それじゃ……」と彼は口ごもった、「それじゃ、わしは死ぬのか!」
その声の恐ろしい調子が、クリストフの心を貫いた。その声はもう永久に彼の記憶から消えないものとなったのである。老人はそれ以上口をきかなかった。幼児のように呻《うめ》いていた。それからふたたび麻痺《まひ》の状態に陥った。しかし呼吸はなおいっそう困難になっていた。彼はぶつぶつ言い、両手を動かし、死の眠りと争ってるようだった。半ば意識を失いながら、一度彼は呼んだ。
「お母さん!」
なんと悲痛な光景ぞ! クリストフのような子供ならいざ知らず、この老人が、臨終の苦しみにおいて自分の母を呼びかけるそのつぶやき――母、そのことを彼は日ごろかつて口にしたこともなかったのである。終焉《しゅうえん》の恐怖の中における窮極のしかも無益なる避難所!……彼は一瞬間落着いたように見えた。なお意識の閃《ひらめ》きを示した。瞳《ひとみ》があてもなく揺いでるように思われるその重い眼が、恐《こわ》さにぞっとしてる子供に出会った。眼は輝いた。老人は微笑《ほほえ》もうと努め、口をきこうと努めた。ルイザはクリストフを抱いて、寝台に近づけた。ジャン・ミシェルは唇を動かした。そしてクリストフの頭をなでようとした。しかしすぐにまた昏迷に陥った。それが最後であった。
人々は子供たちを次の室へ追いやった。しかしあまり用が多くて彼らに構っておれなかった。クリストフは恐さにひかれて、半開きの扉の入口から、老人の悲壮な顔を偸見《ぬすみみ》ていた。枕の上に仰向《あおむけ》に投げ出されて、首のまわりをしめつけてくる獰猛《どうもう》な圧縮に息をつまらしてる顔……刻々に落ちくぼんでゆく顔貌《がんぼう》……ポンプにでも吸われるように、全存在が空虚のうちに沈み込んでゆく様……そして忌わしい臨終のあえぎ、水面で破《さ》ける泡《あわ》にも似たその機械的な呼吸、魂がもはやなくなっても、なお頑固に生きんとつとめる肉体の最後の息吹《いぶ》き。――それから、頭は枕から滑り落ちた。そしてすべてがひっそりとなった。
数分の後、嗚咽《おえつ》と祈祷と死の混雑との中に、子供が真蒼《まっさお》な顔をし、口を引きつらし、眼を見張り、扉のハンドルを痙攣《けいれん》的に握りしめてるのを、ルイザは見つけた。彼女は走り寄った。彼はその腕の中で、神経の発作に襲われた。家に連れて行かれた。意識を失った。寝床の中で気がついた。ちょっとの間一人置きざりにされていたので、恐怖のあまり声をたてた。新たに発作が起こった。また気を失った。その夜と翌日いっぱいとは、熱に浮かされたまま過ごした。それから心が落着いて、二日目の夜は、深い眠りに落ち、次の日の昼ごろまで眠りつづけた。室の中をだれか歩いてるような気がし、母が寝床の上に身をかがめて自分を抱いてくれてるような気がした。遠い静かな鐘の音が聞えるように思った。しかし身を動かしたくなかった。夢の中にいるようだった。
彼が眼を開いた時、叔父のゴットフリートが寝台の足下に腰掛けていた。クリストフはぐったりしていて、何にも覚えていなかった。次に記憶が蘇《よみがえ》ってきて、泣き始めた。ゴットフリートは立上がり、彼を抱擁した。
「どうした、坊や、どうした?」と彼はやさしく言っていた。
「ああ、叔父《おじ》さん、叔父さん!」と子供は彼にすがりついて泣声でうなった。
「お泣きよ、」とゴットフリートは言った、「お泣きよ!」
彼も泣いていた。
クリストフは少し心が静まると、眼を拭《ふ》いて、ゴットフリートを眺めた。ゴットフリートは彼が何か尋ねたがってるのを覚《さと》った。
「いや、」と彼は子供の口に指をあてながら言った、「口をきくもんじゃない。泣くのはいい、口をきくのはいけない。」
子供は承知しなかった。
「無駄《むだ》だよ。」
「ただ一事《ひとこと》、たった一つ……。」
「なんだい?」
クリストフは躊躇《ちゅうちょ》した。
「ああ、叔父さん、」と彼は尋ねた、「あの人は今どこにいるの?」
ゴットフリートは答えた。
「神様といっしょにおられるよ。」
しかしそれはクリストフが尋ねてることではなかった。
「いいえ、それじゃないよ。どこにいるのさ、あの人[#「あの人」に傍点]は?」
(肉体の意味であった。)
彼は震え声でつづけて言った。
「あの人[#「あの人」に傍点]はまだ家の中にいるの?」
「けさあの人を葬ったよ。」とゴットフリートは言った。「鐘の音を聞かなかったかい?」
クリストフは安堵《あんど》した。が次に、あの大事な祖父にもう二度と会えないかと考えると、また切なげに涙を流した。
「かわいそうに!」とゴットフリートはくり返して言いながら、憐れ深く子供を眺めた。
クリストフはゴットフリートが慰めてくれるのを待っていた。しかしゴットフリートは無駄だと知って慰めようともしなかった。
「叔父《おじ》さん、」と子供は尋ねた、「叔父さんは、あれが恐《こわ》くはないのかい?」
(彼はどんなにか、ゴットフリートが恐がらないことを望んでいたろう、そしてその秘訣を教えてもらいたかったことだろう!)
しかしゴットフリートは気がかりな様子になった。
「しッ!」……と彼は声を変えて言った。
「どうして恐くないことがあるものか。」と彼はちょっとたって言った。「だが仕方はない。そうしたものだ。逆らってはいけない。」
クリストフは反抗的に頭を振った。
「逆らってはいけないのだ。」とゴットフリートはくり返した。「天できめられたことだ。その思召《おぼしめし》を大事にしなければいけない。」
「僕は大|嫌《きら》いだ!」とクリストフは憎々しげに叫んで、天に拳《こぶし》をさし向けた。
ゴットフリートは狼狽《ろうばい》して、彼を黙らした。クリストフ自身も、今自分の言ったことが恐ろしくなって、ゴットフリートといっしょに祈り始めた。しかし彼の心は沸きたっていた。そして卑下と忍従との言葉をくり返しながらも、一方心の底にあるものは、呪《のろ》うべき事柄とそれを創《つく》り出した恐るべき「者」とにたいする、嫌悪と激しい反抗との感情のみであった。
新しく掘り返されて、底にはあわれなジャン・ミシェル老人が放置されてる土の上を、昼は過ぎ去り、雨夜は過ぎてゆく。その当座メルキオルは、いたく嘆き叫びすすり泣いた。しかし一週間も過ぎないうちに、彼の心からの大笑いをクリストフは耳にした。故人の名前を面前で言われると、彼の顔は伸びて悲しい様子になる。しかしすぐその後で、彼はまた活発に話しだし身振りをやりだす。彼はほんとうに心を痛めている、しかし悲しい感銘の中にとどまっていることができないのである。
消極的で忍従的なルイザは、何事をも受けいれると同様に、その不幸をも受けいれた。彼女は日ごとの祈祷に添えて、も一つ祈祷をしている。几帳面《きちょうめん》に墓地へ行き、あたかも家事の一部ででもあるかのように、墓の世話をしている。
ゴットフリートは、老人が眠ってる小さな四角な地面にたいして、非常にやさしい注意を向けている。その地へもどって来る時には、何か記念になる物や、自分の手でこしらえた十字架や、ジャン・ミシェルが好んでいた花などをもって来る。決してそれを欠かすことがなく、しかも人知れずするのである。
ルイザは時々、クリストフを墓参に連れてゆく。花や木の無気味な飾りに覆《おお》われてるその肥えた土地、さらさらした糸杉の香気に交って日向《ひなた》に漂ってる重々しい匂いが、クリストフはひどく嫌いである。しかしその嫌悪の情を口には出さない。卑怯《ひきょう》のようでもあり不信のようでもあって、気がとがめるからである。彼はたいへん不幸である。祖父の死がたえずつきまとっている。彼はずっと以前から、死とはどんなものであるか知っていたし、それを考えては恐《こわ》がっていた。しかしまだかつて実際に見たことはなかったのである。だれでも初めて死を見る者は、まだ死をも生をも、少しも知っていなかったことに気づく。すべては一挙に揺り動かされる。理性もなんの役にもたたない。生きてると信じていたのに、多少人生の経験があると信じていたのに、実は何にも知っていなかったことがわかり、何にも見ていなかったことがわかる。今まで幻のヴェールに、精神が織り出して眼を覆い、現実の恐ろしい相貌を見えなくする幻のヴェールに、すっかり包まれて生きていたのである。頭にもってた苦悩の観念と、実際血まみれになって苦しむ者との間には、なんらの連結もありはしない。死の考えと、もがき死んでゆく肉と霊との痙攣《けいれん》との間には、なんらの連結もありはしない。人間のあらゆる言葉、人間のあらゆる知恵は、ぎごちない自動人形の芝居にすぎない、現実の痛ましい感銘に比べては。――泥と血とで成った惨めな人間、いたずらな努力を尽して生命を取り止めようとしても、生命は刻々に腐爛《ふらん》してゆく。
クリストフはそのことを、夜昼となく考えていた。臨終の苦悶の記憶に追っかけられ通しだった。恐ろしい呼吸の音が耳には聞えていた。自然がすべて変わってしまった。氷のような靄《もや》が自然を覆《おお》ってるかと思われた。周囲いたるところに、どちらを向いても、盲目な「獣」の致命的な息を、顔の上に感じた。その破壊の「力」の拳《こぶし》の下にあって、どうにも仕方がないことが、わかっていた。しかしそういう考えは、彼を圧倒するどころか、かえって憤激と憎悪とに燃えたたした。彼は少しも諦《あきら》め顔をしなかった。不可能に向かってまっしぐらに突進していった。額を傷つけようと、自分の方が弱いとわかろうと、さらに意に介しないで、苦悩にたいし反抗することを少しもやめなかった。それ以来彼の生涯《しょうがい》は、許すべからざる「運命」の獰猛《どうもう》さにたいするたえざる争闘となった。
彼の心に纏綿《てんめん》してくる考えは、ちょうど生活の困苦のためにそらされた。ジャン・ミシェル一人で引止めていた一家の零落は、彼がいなくなるとすぐにさし迫ってきた。クラフト一家の者は、彼の死とともに、生活のたよりを大半失ってしまった。貧苦が家にはいってきた。
メルキオルがそれをなおひどくした。彼は縛られてた唯一の監督から解放されると、いっそうよく働くどころか、まったく不品行に身を任してしまった。ほとんど毎夜のように、酔っ払ってもどって来、稼《かせ》いだものを少しももち帰らなかった。それに稽古《けいこ》口もおおかた失っていた。ある時、まったく泥酔《でいすい》の姿をある女弟子の家に現わした。その破廉恥な行ないの結果、どの家からも追い払われた。管弦楽団の間では、父親の追懐にたいする敬意からようやく許されていた。しかしルイザは、今にもふしだらをして免職になりはすまいかと、びくびくしていた。すでにもう彼は、芝居の終るころようやく奏楽席にやって来た晩なんかは、解職すると言っておどかされていた。二、三度は、やって来ることをまったく忘れたことさえあった。それからまた、無茶なことを言ったりしたりしたくてたまらなくなる馬鹿げた興奮の場合には、どんなことでもやりかねなかった。ある晩なんかは、ワルキューレ[#「ワルキューレ」に傍点]のある幕の最中に、自分のヴァイオリン大|協奏曲《コンセルト》をひきたいと考えついた。それを止めさせるのに皆で大骨折をしたほどだった。また、開演中に、舞台の上や自分の頭の中に展開する面白い光景に魅せられて、突然大笑いをすることもあった。そして彼は一同の慰み物になっていた。そしてその滑稽のゆえに、多くのことを大目に見過ごしてもらっていた。しかしそう寛大に見られるのは、厳酷な取扱いを受けるのよりもなおいけないことだった。クリストフにはそれが恥しくてたまらなかった。
子供は今や管弦楽団の第一ヴァイオリニストとなっていた。メルキオルが浮々した気分でいる時には、それを監視したり、時によっては補助してやったり、あるいは無理に黙らしたりすることに、気を配っていた。それは楽なことではなかった。そしていちばんいいのは、まったく父に注意を向けないことだった。そうでないと、酔っ払いは自分が見られてるなと感ずるとすぐに、しかめ顔をしたり、あるいは話をやりだした。クリストフは、父が何かひどいことをやるのが見えやすまいかとびくびくしながら、眼をそらした。彼は自分の職務に我を忘れようとつとめた。しかしメルキオルの無駄口やその隣りの人々の笑い声やを、聞かないわけにはゆかなかった。眼には涙が出て来た。善良な楽手たちは、それに気づいて、彼を気の毒に思った。彼らは笑い声を押えた。クリストフに隠れて父親の噂《うわさ》をするようにした。しかしクリストフは彼らの憐れみを感知していた。自分が出て行くとすぐに嘲弄《ちょうろう》が始まるのを、メルキオルが町じゅうの笑草になってるのを、彼は知っていた。どうにもしようがなかった。それが苦しみの種であった。芝居がはねると、彼は父を家に連れて帰った。父に腕を貸し、その駄弁を聞いてやり、その危い足取りを人に知らせまいと努めた。しかし他人はだれが彼に欺《あざむ》かれる者があったろう? そしてまた、いかほど努力しても、首尾よくメルキオルを家まで連れてゆけることは滅多になかった。街路の曲り角まで来ると、メルキオルは友だちと急な面会の約束があると言いだした。なんと説いても、その約束をまげさせることはできなかった。それにまたクリストフは、ひどい親子争いをして、近所の人に窓から見られるようなことになりたくなかったので、用心してあまり言い張りもしなかった。
生活の金はすべてそちらに取られていた。メルキオルは自分で儲《もう》けただけを飲んでしまうのでは満足しなかった。妻や子が非常に骨折って得たものまで飲んでしまった。ルイザは泣いてばかりいた。家の中に彼女の物とては何にもないし、彼女は一文なしで結婚して来たのだと、昔のことを夫からきびしく言われてから、もう抵抗するだけの元気もなかった。クリストフは逆らってやった。するとメルキオルは彼を殴りつけ、悪戯《いたずら》っ児《こ》扱いにし、その手から金を奪い取った。子供はもう十二、三歳で、身体は頑丈で、折檻《せっかん》されると怒鳴り出した。けれどもまだ反抗するのが恐かった。取られるままになっていた。ルイザと彼と、二人の唯一の手段は、金を隠すことだった。しかしメルキオルは、二人が不在な時に、その隠し場所を見つけるのに不思議なほど巧みだった。
間もなく、彼はもうそれでもあきたらなくなった。彼は父から受け継いだ品物を売った。書物や、寝台や、家具や、音楽家の肖像などが、家から出てゆくのを、クリストフは悲しげに眺めた。彼はなんとも言うことができなかった。しかし、ある日メルキオルが、祖父の贈物の古ピアノにひどくつき当たり、膝《ひざ》をなでながら怒りに任してののしり、家の中が動けないほどいっぱいになってると言い、こんな古道具はすっかり厄介払《やっかいばらい》をしてやると言った時、クリストフは高い叫び声をあげた。祖父の家を、クリストフが幼年時代の最も美しい時間を過ごしたその大事な家を、売り払ってしまうために、祖父の道具をすっかりもち込んで来てからは、どの室もいっぱいふさがってるというのは、ほんとうだった。またその古ピアノは、もうたいした価値もなくなっており、音は震えるようになっていて、久しい以前からクリストフはそれを捨て、大公爵から賜わった新しいりっぱなピアノをばかりひいているというのも、ほんとうだった。しかしその古ピアノは、いかに古くいかに不具であろうとも、クリストフにとっては最良の友であった。それは音楽の無辺際《むへんざい》な世界を子供に開き示してくれた。その艶《つや》やかな黄色い鍵盤《キイ》の上で、子供は音響の王国を発見した。それは祖父の手になったもので、祖父は孫のために数か月かかってそれを修理したのだった。それは聖《きよ》い品であった。それゆえクリストフは、だれにもそれを売るの権利はないと抗弁した。メルキオルは黙れという命令を様子で知らした。クリストフは、そのピアノは自分のもので人に手を触れさせるものかと、ますます強く喚《わめ》きたてた。彼はひどい折檻を受けることと期待していた。しかしメルキオルは、厭な笑顔で彼を眺め、そして口をつぐんだ。
翌日になると、クリストフはそのことを忘れていた。疲れてはいたがかなり上|機嫌《きげん》で家に帰って来た。ところが弟たちの狡猾《こうかつ》な眼付に気をひかれた。二人とも書物を読み耽《ふけ》ってるふうを装っていた。彼の様子を見守り彼の一挙一動を窺《うかが》いながらも、彼に見られるとまた書物に眼を伏せた。きっと何か悪戯《いたずら》をされたに違いないと彼は思った。しかしそんなことに慣れていた。悪戯を見つけたらいつものとおり殴りつけてやろうときめていたので、別に心を動かさなかった。それであえて穿鑿《せんさく》しようともしなかった。そして父と話しだした。父は暖炉の隅にすわっていて、柄にもなく興味あるふうを見せながら、その日のことを尋ねだした。彼は話してるうち、メルキオルが二人の子供とひそかに目配《めくば》せしてるのを認めた。彼は心にはっとした。自分の室に駆け込んだ。……ピアノの場所が空《から》になっていた。彼は悲しみの叫び声をあげた。向うの室に弟たちの忍び笑いが聞えた。顔にかっと血が上った。彼は彼らの方へ飛んでいった。そして叫んだ。
「僕のピアノを!」
メルキオルはのんきなしかもまごついた様子で顔を上げた。それで子供たちはどっと笑った。メルキオル自身も、クリストフのあわれな顔付を見ると、我慢ができないで、横を向いてふきだした。クリストフは自分が何をしてるかみずから知らなかった。狂人のように父に飛びかかった。メルキオルは肱掛椅子《ひじかけいす》に反《そ》り返っていたので、身をかわす隙《すき》がなかった。子供はその喉元《のどもと》をつかんで叫んだ。
「泥坊《どろぼう》!」
それはただ一瞬の間だった。メルキオルは身を揺って、猛然としがみついてたクリストフを、床《ゆか》の上に投げ飛ばした。子供の頭は暖炉の薪台《まきだい》にぶつかった。クリストフはまた膝頭《ひざがしら》で起き上がり、頭を振り立て、息づまった声でくり返し叫びつづけた。
「泥坊! お母さんやぼくのものを盗む泥坊め!……お祖父《じい》さんのものを売る泥坊め!」
メルキオルはつっ立って、クリストフの頭の上に拳をふり上げた。クリストフは憎悪の眼でいどみかかり、忿怒《ふんぬ》のあまり身を震わしていた。メルキオルもまた震えだした。それから腰を降ろして、両手に顔を隠した。二人の子供は、鋭い叫び声をたてて逃げてしまっていた。騒動につづいて沈黙が落ちてきた。メルキオルは訳のわからぬことをぶつぶつ言っていた。クリストフは壁にぴったり身を寄せ、歯をくいしばりながら、じっと父をにらみつけてやめなかった。メルキオルはみずから自分をとがめ始めた。
「俺は泥坊だ! 家の者から剥《は》ぎ取る。子供たちからは軽蔑される。いっそ死んだ方がましだ。」
彼が愚痴を言い終えた時、クリストフは身動きもしないで、きびしい声で尋ねた。
「ピアノはどこにあるんだい?」
「ウォルムゼルのところだ。」とメルキオルは彼の方を見ることもできずに言った。
クリストフは一歩進んで言った。
「金は?」
メルキオルはすっかり気圧《けお》されて、ポケットから金を取出し、それを息子に渡した。クリストフは扉の方へ進んでいった。メルキオルは彼を呼んだ。
「クリストフ!」
クリストフは立止まった。メルキオルは震え声で言った。
「クリストフ……おれを蔑《さげす》むなよ!」
クリストフは彼の首に飛びついて、すすり泣いた。
「お父さん、お父さん、蔑みはしません。ぼくは悲しいや!」
二人とも声高く泣いた。メルキオルは嘆いた。
「おれの罪じゃないんだ。これでもおれは悪人じゃない。そうだろう、クリストフ。ねえ、これでもおれは悪人じゃないんだ。」
彼はもう酒を飲まないと誓った。クリストフは疑わしい様子で頭を振った。するとメルキオルは、金が手にあると我慢ができないのだと自認した。クリストフは考えた、そして言った。
「そんなら、お父さん、こうしたら……。」
彼は言いよどんだ。
「どうするんだい?」
「気の毒で……。」
「だれに?」とメルキオルは質樸《しつぼく》に尋ねた。
「お父さんに。」
メルキオルは顔をしかめた。そして言った。
「かまやしないよ。」
クリストフは説明してやった、家の金はことごとく、メルキオルの給料もみな、他人に委託しておいて、毎日かもしくは毎週かに、必要なだけをメルキオルに渡してもらうようにしたらいいだろうと。すると、メルキオルは卑下した気持になっていたので――彼は酒に飢えきってはいなかった――申出での条件をさらにひどくして、自分が受けてる給料を自分の代理としてクリストフに正規に支払ってもらうように、今ただちに大公爵へ手紙を書こうと言い出した。クリストフは父の屈辱が恥ずかしくてそれを拒《こば》んだ。しかしメルキオルは、犠牲になりたくてたまらないで、頑として手紙を書いてしまった。彼は自分の寛仁大度《かんじんたいど》な行ないにみずから感動していた。クリストフは手紙を手に取ることを拒んだ。ルイザもちょうどもどって来て、事の様子を知り、夫にそんな侮辱を与えなければならないなら、むしろ乞食《こじき》にでもなった方がいいと言い出した。彼に信頼してると言い添え、彼は皆を愛してるので、行ないを改めるに違いないと言い添えた。しまいには皆感動して抱き合った。そしてメルキオルの手紙は、テーブルの上に忘れられ、戸棚の下に落ち込んでいって、そのままだれの眼にもつかなかった。
しかし数日の後、ルイザは室を片づけながらその手紙を見つけた。ところがその時彼女は、メルキオルがまた不身持になってたので、非常に不仕合せだった。それで手紙を引裂かないで、取っておいた。それから数か月の間、苦しみを忍びながら、その手紙を使うという考えをいつも押えつけて、そのまま保存しておいた。けれどもある日、メルキオルがクリストフを殴ってその金を奪い取るところを、また見かけた時、もう我慢ができなかった。そして泣いてる子供といっしょに、手紙を取りに行き、それを子供に渡して言った。
「行っておいで!」
クリストフはまだ躊躇《ちゅうちょ》した。けれども、家に残ってるわずかなものまですっかり消費しつくされまいとすれば、もはや他に方法はないと覚《さと》った。彼は宮邸へ出かけた。二十分ほどの道を行くのに一時間近くかかった。自分のしてることが恥ずかしくてたまらなかった。この数年間の孤立のうちにつのっていた彼の高慢心は、父の不品行を公然と認定するという考えに、血をしぼるほど切なかった。妙なしかも自然な矛盾ではあったが、彼はその不品行がすべての人にわかってるということを知ってながら、しかも執拗《しつよう》にそうでないと信じたがり、何にも気づかないふうを装っていた。それを認めるよりもむしろ自分を粉微塵《こなみじん》にされたかった。そして今や、自分から進んで!……彼は幾度となく引返そうとした。宮邸に着こうとするとまた足を返しながら、二三度町を歩き回った。しかし自分一人の問題ではなかった。母にも弟どもにも関係のあることだった。父が皆を見捨てた以上は、皆を助けてゆくのは長男たる彼の役目であった。もはや躊躇したり高ぶったりすべきではなかった。恥辱を飲み下さなければならなかった。彼は宮邸へはいった。階段の途中でまた逃げ出したくなった。踏段の上にかがんだ。それから上の板の間で、扉のボタンに手をかけて、しばらくじっとしていたが、だれかやって来たのではいらざるをえなかった。
事務所では皆彼を知っていた。彼は劇場監理官ハンメル・ランクバッハ男爵閣下に申上げたいことがあると言った。白チョッキをつけ赤い襟飾《えりかざり》をした、若い、脂《あぶら》ぎった、頭の禿《は》げた、つやつやした顔色の役人が、彼の手を親しく握りしめて、前日の歌劇《オペラ》のことを話しだした。クリストフは用件をくり返した。役人は答えて、閣下はただいま多忙であるが、クリストフが何か請願書を差出すのなら、ちょうど署名を願いにもってゆく他の書類といっしょに、それを渡してあげようと言った。クリストフは手紙を差出した。役人はそれを一覧して、驚きの声をたてた。
「ああ、なるほど!」と彼は快活に言った。「いい考えだ。もうとっくにこの考えを起こしてなけりゃいけなかったんだ。こんないいやり方は彼奴《あいつ》には初めてだ。ああ、あの年|甲斐《がい》もない酔いどれに、どうしてこんな決心ができたのかな。」
彼はぴたりと言い止めた。クリストフが彼の手からその書面を引ったくったのである。クリストフは憤りに顔色を変えて叫んだ。
「許せない……僕を侮辱するのは許せない!」
役人は呆気《あっけ》にとられた。
「なあにクリストフさん、」と彼はつとめて言った、「だれがお前を侮辱しようと思うものかね。私は皆が考えてることを言ったばかりだ。お前さんだってそう考えてるだろう。」
「いいや!」とクリストフは腹だたしげに叫んだ。
「なに、お前さんはそう考えないって? 酒飲みだとは考えないって?」
「そんなことはない。」とクリストフは言った。
彼は足をふみ鳴らしていた。
役人は肩を聳《そびや》かした。
「そんなら、どうしてこんな手紙を書いたんだい。」
「どうしてって……」とクリストフは言った――(もうどう言っていいかわからなかった)、「それは、僕が毎月、自分の給料を取りに来るから、いっしょにお父さんのももらっていかれる。二人ともやって来るのは無駄だ……お父さんはたいへん忙しいんだ。」
彼はその説明の馬鹿らしさにみずから顔を赤らめた。役人は皮肉と憐憫《れんびん》との交った様子で彼を眺めていた。クリストフは書面を手の中にもみくちゃにして、出て行こうとするふうをした。役人は立上がって、その腕をとらえた。
「ちょっとお待ち、」と彼は言った、「私が取計《とりはから》ってやるから。」
彼は長官の室へ通った。クリストフは他の役人らにじろじろ見られながら待っていた。どうしたらよいか、自分でもわからなかった。返辞を伝えられないうちに逃げ出そうかと考えた。そしていよいよそう心をきめかけたが、その時扉が開いた。
「閣下が御面会くださるよ。」とその世話好きな役人は彼に言った。
クリストフははいって行かなければならなかった。
ハンメル・ランクバック男爵閣下は、頬髯《ほおひげ》と口髭《くちひげ》とをはやし、頤鬚《あごひげ》を剃《そ》ってる、さっぱりとした小さな老人であった。クリストフがもじもじして礼をするのにうなずきの礼も返さず、書きつづけてる手をも休めないで、金縁の眼鏡越しに眺めた。
「では、」とちょっと間をおいて彼は言った、「君は願うんだね、クラフト君……。」
「閣下、」とクリストフはあわてて言った、「どうかご免ください。私はよく考えてみました。もう何にもお願いしません。」
老人はそのにわかの撤回について説明を求めようとはしなかった。彼はクリストフをさらに注意深く眺め、咳《せき》払いをし、そして言った。
「クラフト君、君が手にもってる手紙を、わしに渡してごらん。」
クリストフは、知らず知らず拳《こぶし》の中に握りつづけていた書面を、監理官がじっと見つめてるのに、気がついた。
「もうよろしいんです、閣下。」と彼はつぶやいた。「もうそれには及びません。」
「さあ渡してごらん。」と老人はその言葉を聞かなかったかのように平然と言った。
クリストフはなんの気もなく皺《しわ》くちゃの手紙を渡した。しかしこんがらかった言葉をやたらに言いたてながら、手紙を返してもらおうとしてなお手を差出していた。閣下は丁寧に紙を広げ、それを読み、クリストフを眺め、やたらに弁解するままにさしておいたが、それから彼の言葉をさえぎり、意地悪そうな色をちらと眼に浮べて言った。
「よろしい、クラフト君。願いは聴《き》き届けてやる。」
彼は片手で隙《いとま》を命じて、また書き物にとりかかった。
クリストフは狼狽《ろうばい》して出て行った。
「クリストフさん、気を悪くしてはいけないよ。」とふたたび彼が事務所を通りぬける時に役人が親しげに言った。クリストフは眼をあげる元気もなく、引止められて握手をされるままになっていた。
彼は宮邸の外に出た。恥ずかしさに縮み上がっていた。言われたことが残らず頭に浮かんできた。そして、自分を立ててくれ自分を気の毒に思ってくれる人々の憐憫《れんびん》の中に、侮辱的な皮肉が感ぜられるような気がした。彼は家に帰った。ルイザから問いかけられても、今なして来た事柄について彼女を恨んでるかのように、ただむっとした二三言でようやく答えるきりだった。父のことを考えると、後悔の念に胸が張りさけそうだった。すっかり父にうち明けて、その許しを乞《こ》いたかった。メルキオルはそこにいなかった。クリストフは眠りもしないで、真夜中まで彼を待っていた。父のことを考えれば考えるほど、ますます後悔の念は高まってきた。彼は父を理想化していた。家の者らに裏切られた、弱い、善良な、不幸な人間だと、頭に描いていた。父の足音が階段に聞こえると、出迎えてその両腕の中に身を投げ出すために、寝床から飛び起きて走っていった。しかしメルキオルはいかにも厭な泥酔の様子でもどって来たので、クリストフは近寄るだけの勇気もなかった。そして自分の空《くう》な考えを苦々《にがにが》しく嘲《あざけ》りながら、また寝に行った。
数日の後、その出来事を知ると、メルキオルは恐ろしい忿怒《ふんぬ》にとらわれた。そしていかにクリストフが願っても聞き入れないで、宮邸に怒鳴り込んでいった。しかしすっかりしょげきってもどって来、どういうことがあったか一言もいわなかった。彼はひどい取扱いを受けたのだった。どの口でそんなことが言えるか――息子の技倆を考えてやればこそ給料を元どおり与えてるのであって、将来わずかな不品行の噂《うわさ》でもあれば給料は全部取り上げてしまうと、言われたのだった。で彼はその日からただちに自分の地位を是認し、みずから進んで犠牲[#「犠牲」に傍点]となってることを自慢にさえした。そういう父の様子を見て、クリストフはたいへん安堵《あんど》した。
それにもかかわらずメルキオルは、妻や子供らのために剥《は》ぎ取られてしまい、生涯彼らのために痩《や》せ衰え、今や万事に不自由しても顧みられないなどと、よそへ行って嘆かずにはおかなかった。あるいはまたクリストフから金を引出そうとつとめて、あらゆる阿諛《あゆ》や策略を用いた。それを見るとクリストフは、心にもなく笑いだしたくなるほどだった。そしてクリストフがしっかりしてるので、メルキオルは言い張りはしなかった。自分を判断してるその十四歳の少年の厳格な眼の前に出ると、不思議に気圧《けお》されるのを感じた。悪い手段をめぐらしてひそかに意趣晴しをした。酒場へ行って飲んだり食ったりした。金は少しも払わないで、息子が借りをみな払ってくれるのだと言った。クリストフは世間の悪評をつのらしはすまいかと気遣って、別に抗議をもち出さなかった。そしてルイザとともに、財布の底をはたいてメルキオルの借りを払っていた。――ついにメルキオルは、給料を手にしなくなってからは、ヴァィオリニストの職務をますます等閑《なおざり》にするようになった。そして欠勤があまり激しくなったので、クリストフの懇願にもかかわらず、しまいには追い払われてしまった。それで子供は、父と弟どもなど全家を、一人で支持してゆかなければならなくなった。
かくてクリストフは、十四歳にして家長となった。
彼は決然としてその重い役目を引受けた。彼は自尊心から、他人の恵みに与《あずか》ることを拒んだ。独力できりぬけてゆこうと決心した。母が恥ずかしい施与《せよ》を受けたり求めたりしてるのを見て、彼は幼いころから非常に心を痛めていた。人のいい母が、保護者のもとから何かの恵みを受けて、得意然と家にもどって来ると、いつもそれが争論の種となった。彼女はそれを少しも悪いことだとは思わなかったし、またその金で、少しでもクリストフの骨折りを省《はぶ》くことができ、粗末な夕食に一|皿《さら》多く加えることができるのを、喜びとしていた。しかしクリストフは顔を曇らした。その晩じゅう口をきかなかった。そういうふうにして得られた食物へは、理由も言わないで手をつけることを拒んだ。ルイザは気をもんだ。下手《したで》に息子を説きすすめて食べさせようとした。彼は強情を張った。彼女はついにいらだってきて、不愉快なことを口にのぼせた。彼もそれに言い返してやった。それから彼はナプキンを食卓の上に投げすてて出て行った。父は肩をそびやかして、彼を生意気な奴だと言った。弟らは彼を嘲《あざけ》って、彼の分をも食べてしまった。
それでもやはり生活の道を見つけなければならなかった。彼の管弦楽団員としての手当ではもう足りなくなった。彼は弟子を取った。彼の技倆、彼の好評、とくに大公爵の保護は、上流市民のうちに多くの得意を彼に得さした。毎朝九時から、彼は令嬢らにピアノを教えた。多くは彼よりも年上であって、その嬌態《きょうたい》で彼を怯《おび》えさせ、その拙劣なひき方で彼を失望さした。彼女らは音楽においてはまったくの馬鹿であったが、その代わりに、滑稽《こっけい》なことにたいする敏感を皆多少なりと具えていた。その嘲笑《ちょうしょう》的な眼は、クリストフの無作法を一つも見逃さなかった。彼にとってはそれが非常につらかった。彼女らのそばに、自分の椅子《いす》の縁に腰を掛け、赤い顔をして容態ぶり、憤りながら身動きもできず、馬鹿なことを言うまいと努力し、自分の声音を気遣い、厳格な様子をしようと努め、じろじろ横目で見られてるのを感じて、ついにすっかり平静さを取り失い、意見を述べてる最中にまごつき、おかしな様子をしはすまいかと心配し、おかしな様子を見せてしまい、すっかり腹をたてて激しく叱《しか》りつけた。しかし弟子たちにとっては、その仕返しをするのは訳もないことだった。そしてかならず仕返しをしないではおかなかった。一種妙な眼付で眺めて彼を困らした。ごく簡単な問いをかけて彼を眼の中まで真赤にならした。あるいはまたちょっとした用を――何かの上に置き忘れた物を取って来るというようなことを――彼に頼んだ。それは彼にとって最もつらいことだった。無器用な挙動を、へまな足付を、硬《こわ》ばった腕を、当惑してしゃちこばった身体を、容赦もなく窺《うかが》ってる意地悪い眼からじっと見られながら、室の中を歩いてゆかなければならなかった。
そういう稽古からつづいて、劇場の試演へかけつけなければならなかった。昼食をする隙《すき》がないこともしばしばだった。ポケットにパンと豚肉とを入れておいて、それを幕間《まくあい》に食べた。時には、音楽長トビアス・プァイフェルの代わりをした。音楽長は彼に目をつけていて、自分の代わりに時々管弦楽の下稽古の指揮をやらして練習さした。また彼は自分の腕をもみがきつづけてゆかなければならなかった。午後にはまた他にピアノを教えに行くところがあって、開演の時間までいっぱいだった。晩には幾度も、芝居が終ってから、宮邸で彼の音楽を聞きたいという仰《おお》せがあった。そこで彼は一、二時間演奏しなければならなかった。大公爵夫人は音楽通だと自称していた。彼女はいいのも悪いのもごっちゃにして、ただやたらに音楽が好きだった。即興的な愚作とりっぱな傑作とを並べ合したおかしな番組を、クリストフにひかせた。しかし彼女のいちばんの楽しみは、クリストフに即座に作曲させることだった。いつも厭味《いやみ》たらしい感傷的な主題《テーマ》を与えた。
クリストフは十二時ごろ宮邸を出た。疲れ果て、手はほてり、頭はのぼせ、腹は空《す》いていた。汗まみれになっていた。外には雪が降っていたり、冷たい霧がかけていた。家へ着くまでには、町の半分以上も通らねばならなかった。歯をがたがた震わせながら、眠くてたまらなくなりながら、歩いて行った。それにまた、一着きりの夜会服を泥濘《ぬかるみ》でよごさないように注意しなければならなかった。
彼は自分の寝室にもどっても、その室はいつも弟どもといっしょだった。そして、息づまるような匂いのするその屋根裏の室で、ようやく苦難の首枷《くびかせ》をはずすことが許される瞬間ほど、彼はおのれの生活の嫌悪《けんお》と絶望とに、孤独の感情に、ひどく圧倒されることはかつてなかった。服をぬぐだけの元気もあるかないくらいだった。ただ幸いにも、枕に頭をつけるが早いか、重い眠りに圧倒されて、自分の苦労を忘れるのだった。
けれども、夏は黎明《れいめい》のころから、冬はもっと前から、起き上がらなければならなかった。彼は自分のために勉強したかった。五時から八時までの間が、唯一の自由な時間だった。それでもなお、御用の仕事にその一部を費さねばならなかった。宮廷音楽員の肩書と大公爵の愛顧とは、宮廷の祝祭のための音楽を彼に作らせるのだった。
かくて、彼は生活の源泉まで毒されてしまった。夢想することさえも自由ではなかった。しかし普通の例にもれず、束縛はその夢想をいっそう強烈にした。何物も行動を妨げるものがない時には、魂はそれだけ活動の理由を失うものである。クリストフは、厄介事と平凡な職務との牢獄《ろうごく》のうちに、しだいに狭く圧縮さるればさるるほど、ますます彼の反抗的な心はおのれの独立を感ずるのであった。なんら拘束のない生活をしていたら、彼はおそらくその時おりの成行きに身を任したであろう。日に一、二時間しか自由を得なかったので、彼の力はあたかも岩の間の急湍《きゅうたん》のように、それへ飛びかかっていった。厳密な範囲内に努力を集中することは、芸術にとってはいい規律である。この意味において、悲惨はただに思想の主人たるばかりではなく、形式の主人であるともいうことができる。悲惨は肉体へと同じく精神へも、節制を教える。時間が制限され言葉が限定されてる時には、人は余分のことを少しも言わず、物の精髄をしか考えない習慣になる。かくて、生きるための時間が少ないだけに、倍加した生き方をする。
そういうことがクリストフの上に起こった。彼は束縛のもとにあって、自由の価値を十分に知った。そして無益な行ないや言葉によって少しも貴重な時間を浪費しなかった。真面目《まじめ》ではあるがしかし無選択な思想のおもむくがままに、ごたごたと饒多《じょうた》に書きちらす癖のある、彼の生来の傾向は、なるべくわずかな時間になるべく多く仕上げるのを余儀なくされることに、その矯正物《きょうせいぶつ》を見出した。何物も――教師の教えも傑作の模範も、それほど多くの影響を彼の芸術的精神的発達に及ぼしたものはなかった。彼はようやく性格の形造られる年ごろに、音楽は各音が一つの意味を有する精確な言語であると、考えるの習慣を得た。そして、ただ語るだけで何の意味をも言わない音楽家を忌み嫌った。
けれども、彼が書く音楽はまだ、彼自身を完全に表現するにはなかなかいたらなかった。なぜなら、彼はまだとうてい自己を完全に見出してはいなかったから。教育が第二の天性として子供に押しつける、覚ええた堆《うずたか》い感情を通して、彼は自己を捜し求めていた。あたかも雷電の一撃が覆《おお》いかぶさってる雲霧を払って空を清めるがように、個性をその借物の衣から脱却せしむるあの青春の熱情を、彼はまだ感じたことがなかったので、真の自己というものについては、ただいくらかの直覚を有するにすぎなかった。ほの暗いしかも力強い予感が、自己と関係のない旧物に、彼のうちで入り交じっていた。彼はそれらの旧物から脱しえなかった。そしてそれらの虚偽にいらだった。自分の書いてるものが、考えてることよりいかに劣ってるかを見て、憂苦に沈んだ。彼は苦々《にがにが》しくおのれを疑ってみた。しかしその愚かしい失敗で諦《あきら》めることはできなかった。もっとよくやり、偉大なものを書こうと、奮激した。そしてやはり失敗した。ちょっと感興が起こった後に、書いてる間に、書いたものがまったく無価値なのに気づいた。彼はそれを引裂き、焼き捨てた。そしてさらに恥ずかしいことには、式典用の自分の公《おおやけ》の曲が廃滅できずにそのまま残ってるのを、見なければならなかった。それは最も凡庸《ぼんよう》なものばかりで――大公爵の誕生日のために作った、大鷹という協奏曲《コンセルト》、大公爵令嬢アデライドの結婚のおりに書いた、パラスの婚礼[#「パラスの婚礼」に傍点]という交声曲《カンタータ》――多くの費用をかけ豪華版として刊行され、彼の愚鈍さを長く後世に伝えるものだった。彼は後世を信じていたのである。彼はその恥辱に泣きたいほどだった。
熱烈なる年月! なんらの猶予もなく、なんらの怠慢もない。何物もその熱狂的な勉励をさえぎらない。遊戯もなく、友もない。どうして友と遊んでなどいられよう。午後、他の子供らが遊んでる時にも、少年クリストフは額に皺《しわ》を寄せて注意を凝らしながら、埃《ほこり》深い薄暗い劇場の広間に、奏楽席の譜面台に向かってすわっている。晩、他の子供らが寝ている時にも、彼は椅子《いす》にがっくりとすわり、疲労に感覚を失いながら、なおそこに起きている。
彼は弟どもともなんらの親しみももたなかった。エルンストは十二歳になっていた。性《たち》の悪い厚かましい無頼な少年で、同じような不良の徒と終日遊び暮していた。そしてその仲間の、嘆かわしい様子にばかりでなく、恥ずべき習癖にも染んでいた。正直なクリストフは、ある日、思いも及ばない恥ずかしいことを彼がやってるのを見かけて、嫌悪の眉《まゆ》をひそめた。も一人の弟ロドルフは、テオドル伯父《おじ》の気に入りで、商業をやることになっていた。彼は行ないもよく、静かだったが、陰険であった。クリストフよりずっとすぐれてると信じていた。クリストフが稼《かせ》いだパンを食べるのは当然だと考えていながら、家におけるクリストフの権力を認めなかった。彼にたいするテオドルとメルキオルとの反感に味方して、二人が言うおかしな悪口をくり返し言っていた。二人の弟はどちらも音楽を好まなかった。ロドルフは模倣心から、伯父のように音楽を軽蔑するふうをしていた。家長の役目を真面目にやってるクリストフから、いつも監視され訓戒されるのに困って、二人の弟は反抗を試みることがあった。しかしクリストフはたくましい拳固《げんこ》を持っていたし、自分の権利を自覚していた。弟どもを服従さしてしまった。それでも彼らはやはり、彼に勝手なことをしてやめなかった。彼の信じやすい性質につけ込んで、罠《わな》を張ると、彼はきっとそれにかかった。彼らは金を欺き取り、厚かましい嘘《うそ》をつき、そして陰では彼を嘲《あざけ》った。人のいいクリストフは、いつも陥《おとしい》れられてばかりいた。彼は人から愛されたい強い要求をもっていたので、一言やさしいことを言われると、もうすっかり恨みを忘れてしまった。わずかな愛情を得るためには、なんでも許してやったに違いない。しかしある時、彼らは虚偽の愛情で彼を抱擁し、涙を流すほど彼を感動さしておいて、それに乗じて、かねてほしがっていた大公爵からの贈物の金時計を奪い取ってしまい、その後で彼の馬鹿さ加減を笑ったが、彼はその笑声を聞いてから、信頼の念はひどく動揺した。彼は弟どもを軽蔑していたが、それでもやはり、人を信じ人を愛する不可抗な性癖から、つづいて欺かれてばかりいた。彼はみずからその性癖を知り、自分自身にたいして腹をたてていて、弟どもがまたも自分を玩具《おもちゃ》にしてるのを発見すると、ひどく殴り飛ばしてやった。けれどもその後で、彼らから面白がって釣《つり》針を投げられると、ふたたびそれにすぐ引っかかるのだった。
なおそれにもまさった苦しみが彼にはあった。父が自分のことを悪く言ってるのを、おせっかいな近所の人々から聞かされた。メルキオルは初め息子の成功に得意然としていたが、後には恥ずべき弱点を暴露して、それを嫉妬《しっと》するようになった。彼は息子の成功をくじこうとした。それは嘆くも愚かなことだった。ただ軽侮の念から肩をそびやかすのほかはなかった。腹もたてられなかった。なぜならメルキオルは、自分のやってることに自覚がなかったし、失意のためにひねくれていたから。クリストフは黙っていた。もし口をきいたらあまりひどいことを言うようになるだろうと恐れていた。しかし心では恨めしくてたまらなかった。
悲しい寄合い、夕、ランプを取り囲み、汚点のついた布卓の上で、つまらない世間話や貪《むさぼ》り食う頤《あご》の音の間でする、一家そろうての夕食! しかも彼はそれらの人々を、軽侮し憐れみながらも、やはり愛せずにはいられないのである。そして彼はただ、善良な母親とだけ、たがいの愛情の覊《きずな》を感じていた。しかしルイザは、彼と同様にいつも疲れはてていた。晩には、もう気力もつきはてて、ほとんど口もきかず、食事を済すと、靴下《くつした》を繕《つくろ》いながら、椅子《いす》にかけたまま居眠りをした。そのうえ彼女は、いかにも人がよくて、夫と三人の子供との間に、少しも愛情の差をおいていないらしかった。皆を一様に愛していた。クリストフは彼女を、自分が非常に求めてる腹心の人とするわけにゆかなかった。
彼はただ自分の心のうちに閉じこもった。いく日間も口をきかないで、黙々たる一種の憤激をもって、単調な骨の折れる務めを尽した。敏感な身体の組織が、あらゆる破壊的誘因に巻き込まれて、将来全生涯の間変形されやすい、危急な年齢にある少年にとっては、そういう生活法はいたって危険なものだった。クリストフの健康は、それにはなはだしく害された。彼は父祖から、堅固な骨格と、弱点のない健《すこや》かな肉体とを、受け継いではいた。けれども、過度の疲労と早熟な憂慮とのために、苦痛のはいり込みうる割目をこしらえられると、その強健な身体も、苦痛に多くの糧《かて》を与えるのみであった。ごく早くから、神経の不調がきざしていた。まだ幼いころから、何かの障害を感ずると、気絶や痙攣《けいれん》や嘔吐《おうと》を起こした。七、八歳のころ、ちょうど音楽会に出始めた時分には、睡眠が落着いて得られなかった。眠りながら、話したり叫んだり笑ったり泣いたりした。そういう病的な傾向は、強い懸念《けねん》事があるごとにくり返された。やがては、激しい頭痛が起こって、あるいは頸窩《ぼんのくぼ》や頭の両側がぴんぴん痛み、あるいは鉛の兜《かぶと》をかぶったような気持になった。よく眼をなやんだ。時には、針先を眼孔にさし込まれたような感じがした。また眼がちらついて書物を読めなくなり、幾分間も読みやめなければならなかった。不足なあるいは不健康な食物と、食事の不規則とは、頑健な胃をいためてしまった。内臓の痛みに悩まされ、身体を衰弱させる下痢に悩まされた。しかし彼を最も苦しめたのは、心臓であった。彼の心臓は狂ったように不整であった。あるいは、今にも張り裂けるかと思われるばかりに、胸の中で激しく躍《おど》った。あるいは、かろうじて鼓動してるだけで、今にも止まってしまうかと思われた。夜は、体温が恐ろしく上下した。高熱の状態と貧血の状態とが、急激に移り変わった。身体が焼けるようになり、寒さに震え、悶《もだ》え苦しみ、喉《のど》がひきつり、首に塊《かたま》りができて呼吸を妨げた。――もとより彼の想像はおびえた。彼は自分の感ずることをことごとく家の者に語りえなかった。しかし一人でたえずそれを分析し、それに注意して、苦悩をますます大きくなし、また新しく作りだしていた。自分の知ってるあらゆる病気を、次から次へとわが身にあてはめた。盲目になりかけてるのだとも思った。歩きながら時々|眩暈《めまい》に襲われたので、突然倒れて死ぬのではないかと恐れた。――中途にしてやむ、若くして夭折《ようせつ》する、そういう恐ろしい心配が、いつも彼を悩まし、彼を圧迫し、彼につきまとっていた。ああ、どうせ死ななければならないものであるとしても、少なくとも、今はいやだ、勝利者とならないうちはいやだ!……
勝利……。みずからそれと知らずに、彼がたえず燃やしたてられてる、その固定観念! あらゆる嫌悪、あらゆる労苦、生活の腐爛せる沼沢《しょうたく》の中において、彼を支持している、その固定観念! 将来いかなるものになるかという、すでにいかなるものになってるかという、おぼろなしかも力強い意識!……彼は現在なんであるか? 管弦楽においてヴァイオリンをひき、凡庸な協奏曲《コンセルト》を書いている、病弱な神経質な一少年にすぎないのか?――否。そういう少年の域をはるかに脱しているのだ。それは表皮にすぎない、一時の顔貌《がんぼう》にすぎない。それは彼の本体ではない。彼の深い本体と、彼の顔や思想の現形との間には、なんらの関係も存しない。彼自身よくそれを知っている。鏡で見る姿を、おのれだとは認めていない。大きな赤ら顔、つき出た眉《まゆ》、くぼんだ小さな眼、小鼻がふくれ先が太い短い鼻、重々しい頤《あご》、むっつりした口、そういう醜く賤《いや》しい面貌は、彼自身にとっては他人である。彼はまた自分の作品中にはなおさらおのれを認めていない。彼は自分を判断し、現在自分が作ってるものの無価値と、現在の自分の無価値とを、よく知っている。けれども彼は、将来いかなるものになるか、将来いかなるものを作るか、それに確信をもっている。彼は時おりその確信を、高慢から出る虚妄《きょもう》として、みずからとがめる。そしてみずから罰せんがために、苦々《にがにが》しくおのれを卑下しおのれを苛責《かしゃく》して、喜びとする。しかし確信は存続し、何物からも動かされない。いかなることをなし、いかなることを考えようとも、そのいずれの思想も行為も作品も、完全におのれを含有しおのれを表現してはいない。彼はそれを知っている。彼は不思議な感情をいだいている。自分の最も多くは、現在あるがままの自分ではなくて、明日あるだろうところの自分であると。……きっとなってみせる!……彼はそういう信念に燃えたち、そういう光明に酔っている。ああ、今日によって中途に引止められさえしなければ! 今日によって足下にたえず張られてる陰険な罠《わな》へ陥《おちい》って蹉跌《さてつ》することさえないならば!
かくて彼は、日々《にちにち》の波を分けておのれの小舟を進めながら、側目《わきめ》もふらず、じっと舵《かじ》を握りしめ、目的の方へ眼を見据えている。饒舌《じょうぜつ》な楽員らの中に交って管弦楽団の席にいる時にも、家の者にとり巻かれて食卓についている時にも、高貴な愚人たちの慰みのために楽曲のいかんに構わず演奏しながら宮邸にいる時にも、彼が生きているのは、このおぼつかなき未来の中にである、一原子のために永久に崩壊されるやもしれない――それは構うところでない――この未来の中に、そこにこそ彼は生きているのである。
彼は屋根裏の室で、ただ一人、自分の古いピアノに向かっている。夜になろうとしている。消えかかった昼の光が、楽譜帳の上に流れている。光の最後の一滴があるまでは、彼は眼を痛めながら読んでいる。消え去った偉大な心の愛が、黙々たるそれらのページから発散して、やさしく彼のうちに沁《し》み通ってくる。彼の眼には涙があふれる。なつかしいだれかが後ろに立っていて、その息で頬《ほお》をなでられ、今にも両腕で首を抱かれる、かと思われる。彼は身を震わしてふり返る。自分一人きりでないことを、感じまた知っている。愛し愛されてる一つの魂が、すぐそばにそこにいる。それをとらええないで、彼は嘆息する。それでも、その憂苦の影は、彼の恍惚《こうこつ》たる情に交じって、ある秘めやかな快さをなおもっている。悲しみさえも今は晴れやかである。愛する楽匠らのことを、消え去った天才らのことを、彼は考える。彼らの魂は、それらの音楽の中にふたたび蘇《よみがえ》ってくる。愛で心がいっぱいになりながら、彼は超人間的な幸福を夢みる。それはこの光栄に満ちた畏友《いゆう》らのもっていたものに違いない、彼らの幸福の一反映ですらなおかくも燃えたっているのを見れば。彼らのようになろうと彼は夢想し、そういう愛を放射しようと夢想する。その愛の数条のかすかな光は、聖《きよ》き微笑《ほほえ》みで彼の惨《みじ》めさを照らしてくれる。こんどは自分が神となり、喜びの祠《ほこら》となり、生命の太陽となるのだ!……
ああ、もし彼が他日、愛するそれらの楽匠らと等しくなるならば、希求してるその輝く幸福に到達するならば、すべては幻にすぎなかったことがわかるであろう。
二 オットー
ある日曜日に、クリストフは楽長から、小さな別荘で催される午餐《ごさん》へ招待を受けた。その別荘はトビアス・プァイフェルの所有で、町から一時間ばかりの距離にあった。クリストフはライン河の船に乗った。甲板で彼は、同じ年ごろの少年から慇懃《いんぎん》に席を譲られて、そのそばに腰をおろした。彼は別にそれを気にも止めなかった。しかし間もなく、隣席の少年からたえず観察されてるのを感じて、彼も向うの顔を見てやった。薔薇《ばら》色の豊頬《ほうきょう》をした金髪の少年で、頭髪を横の方できれいに分け、唇《くちびる》のあたりには産毛《うぶげ》の影が見えていた。一個の紳士らしく見せかけようとつとめていたが、大きな坊ちゃんらしい誠実な顔付をしていた。とくに念を入れた服装《みなり》をしていて、フランネルの服、派手な手袋、白の半靴《はんぐつ》、薄青の襟飾《えりかざり》を結《ゆわ》えていた。手には小さな鞭《むち》をもっていた。そして牝鶏《めんどり》のように首をつんとさして、ふり向きもせず横目で、クリストフをじろじろ眺めていた。やがてクリストフの方から眺められると、耳まで真赤になり、ポケットから新聞を引出し、もったいらしく読み耽《ふけ》ってるふりをした。しかし数分たつと、クリストフの帽子が落ちたのを、急いで拾い上げてやった。クリストフはあまり丁寧《ていねい》にされるのに驚いて、ふたたびその少年を眺めた。少年はまた真赤になった。クリストフは冷やかに礼を述べた。なぜなら彼は、そういうわざとらしい親切を好まなかったし、人からかまわれるのが嫌《きら》いだったから。けれども、内心|嬉《うれ》しくないでもなかった。
間もなく彼はそのことから心をそらした。注意は景色の方に奪われた。彼は長い間町から外へ出ることができないでいた。で彼は今、顔を吹く風や、船に当たる波の音や、広い水の面を、貪《むさぼ》るように眺めた。また両岸の移り変わる光景を眺めた。灰色の平たい渚《なぎさ》、半ば水に浸った柳の茂み、ゴチック式の塔や黒煙を吐く工場の煙筒などがそびえた都市、茶褐色《ちゃかっしょく》の葡萄《ぶどう》の蔓《つる》、伝説のある岩石。そして彼がだれはばからずうち喜んでいたので、隣席の少年は、声をつまらしながらおずおずと、うまく修復され蔦《つた》にからまれてる眼前の廃虚について、それぞれ歴史的の細かな事柄を説明しだした。その様子はあたかも自分自身に向かって述べてるかのようだった。クリストフは興味を覚えて、種々と尋ねた。少年は自分の知識を示すのが嬉《うれ》しくて、急いで答えた。そして口をきくたびごとに、「宮廷ヴァイオリニストさん」とクリストフを呼びながら話しかけた。
「ではぼくをご存じですか。」とクリストフは尋ねた。
「ええ知ってますとも。」と少年は無邪気な感嘆の調子で言った。クリストフの虚栄心はそれにそそられた。
二人は話し合った。少年はしばしばクリストフを音楽会で見たことがあった。そして種々|噂《うわさ》を聞いては心を動かしていた。彼はそれをクリストフには言わなかった。しかしクリストフはそれを感じて、快い驚きを覚えた。そういう感動した尊敬の調子で話しかけられるのに慣れていなかったのである。彼はなおつづけて、途中の土地の歴史について尋ねた。少年は覚えたてのあらゆる知識を述べたてた。クリストフはその知識に感心した。しかしそんなのはただ会話の口実にすぎなかった。二人がどちらも興味を覚えていたのは、たがいに知り合いになるということだった。彼らは率直にその問題に触れはしなかった。まず問いをかけては遠回しに探り合った。がついに彼らは心を決した。そしてクリストフは、この新しい友はオットー・ディーネルという名前で、町の豪商の息子であることを知った。もとより彼らは共通の知人をももっていた。そしてしだいに彼らの舌はほどけてきた。彼らは元気よく話しだした。そのうちに、船はクリストフが降りるべき町へ着いた。オットーもそこで降りた。その偶然の一致が彼らには不思議に思われた。午餐の時間が来るまでいっしょに少し歩こう、とクリストフは言い出した。彼らは野を横ぎって進んでいった。クリストフは幼い時からの知り合いででもあるかのように、親しくオットーの腕を取り、自分の将来の抱負を語った。彼は同じ年ごろの少年と交わることが非常に少なかったので、今、教育もあり育ちもりっぱで、自分に同情をもってる、その少年といっしょにいることに、言い知れぬ喜びを感じていた。
時間は過ぎていった。クリストフはそれに気づかなかった。ディーネルは若い音楽家から信頼の念を示されてるのに得意になって、彼の午餐の時間がすでに来てるのを注意しかねていた。がついにそれを思い出させなければならないと考えた。しかしちょうど林の中の坂道にさしかかっていた時で、まず頂まで行かなければいけないとクリストフは答えた。そして二人が頂までやってゆくと、クリストフは草の上にねそべって、そこに一日を過ごそうとでも思ってるようだった。十五、六分もたってからディーネルは、クリストフが身を動かそうともしそうにないのを見て、またおずおずと言ってみた。
「午餐は?」
クリストフは頭の下に両手をやり長々と寝転んだまま、平然と言った。
「いいさ!」
それから彼はオットーの方を眺め、そのびっくりした顔付を見、そして笑いだした。
「ここは実に気持がいい。」と彼は説明した。「僕は行かないよ。待ちぼうけさしてやるさ。」
彼は半ば身を起こした。
「君は急ぐのかい。そうじゃないだろう。どうだい、こうしようじゃないか。いっしょに食事をしよう。僕が料理屋を一軒知ってる。」
ディーネルは定めし異議をもち出したかったろう。だれかに待たれてるからではないが、不意の決心がつきにくかったからである。彼はいったい几帳面《きちょうめん》なたちで、前からちゃんと予定を作っておく方だった。しかしクリストフは、ほとんど拒むことを許さないような調子で尋ねたのだった。でディーネルはそれに引きずり込まれてしまった。二人はまた話しだした。
料理屋へはいると、彼らの熱情は消えた。どちらが昼食をおごるかという重大な問題に、二人とも気をもんだ。どちらも、自分が昼食をおごって体面を見せようと、ひそかに考えていた、ディーネルは金持ちだからという理由で、クリストフは貧乏だからという理由で。彼らはその考えを露《あら》わには示さなかった。しかしディーネルは献立を注文しながらわざと主人公らしい調子を使って、自分の権利を肯定しようとつとめた。クリストフはその心持を覚《さと》って、他のこった料理を注文しながら、上手に出た。彼はだれにも劣らず懐《ふところ》ぐあいのよいことを示そうとした。ディーネルはまた新たに策をめぐらして、葡萄《ぶどう》酒を選む役目を受持とうとした。クリストフはそれをじろりとにらみつけて、その料理屋にある最も高価な地産葡萄酒を一|瓶《びん》、もって来さした。
りっぱな食事に臨むと、彼らは気がひけた。もう話すこともなかった。窮屈そうなぎごちない様子で、こそこそ食べていた。するとにわかに、たがいに他人同士の間であることに気づいて、警戒し合った。会話を活気だたせようとつとめても、なんの甲斐《かい》もなく、じきに言葉が途絶えてしまった。初めの三十分ばかりは退屈でたまらなかった。が幸いにも、やがて食事の効果が現われてきた。二人の客はいくらか親しげに顔を見合わすようになった。とくにクリストフは、そういう御馳走《ごちそう》に慣れていなかったので、妙に饒舌《じょうぜつ》になった。彼は生活の困難を語った。オットーも心を開いて、自分もまた幸福ではないとうち明けた。彼は弱くて臆病《おくびょう》で、友人らに乗ぜられがちだった。彼らは彼を嘲《あざけ》り、皆の共通な態度を難ずることを彼に許さず、意地悪く彼をからかってばかりいた。――クリストフは拳《こぶし》を握りしめて、自分の前で彼らがそんなことをしたら、思い知らしてやると言った。――オットーもまた家の者から理解されていなかった。クリストフもそういう不幸を知りつくしていた。そして二人はたがいの不運を憐れみ合った。ディーネルの両親は、彼を商人にして父の後を継がせるつもりだった。しかし彼は詩人になることを望んでいた。たといシルレルのように町から逃げ出して、困苦と戦わなければならないとしても、詩人になるつもりだった。(それにもとより、父の財産はすっかり彼のものとなるはずだったし、その財産も僅少《きんしょう》なものではなかった。)彼は顔を赤らめながら、生の悲しみを歌った詩を書いたことがあると告白した。しかしクリストフがいかに願っても、それを誦《しょう》する気にはなりかねた。けれどもついに、感動のあまりむちゃくちゃな口調でその二、三句を聞かした。クリストフはそれを崇高なものだと思った。彼らはたがいの計画を言いかわした。将来は正劇《ドラマ》や歌曲集《リーデルクライス》などを書くことにした。彼らはたがいに賛嘆しあった。クリストフの音楽上の名声、その他彼の力、彼のやり方の豪胆さなどを、オットーは感嘆した。そしてクリストフは、オットーの優美さ、その態度の上品さ――すべてがこの世においては相対的である――またその博識などを、深く感じた。その知識こそ、彼に欠けてるもので、彼が渇望してるものであった。
食事のためにぼんやりして、食卓に両|肱《ひじ》をつき、しみじみとした眼をしながら、二人はたがいに語りまた聞いていた。午後は過ぎていった。出かけなければならなかった。オットーは最後にも一度勇気を出して、勘定書を取ろうとした。しかしクリストフから荒い一|瞥《べつ》を受けると、そのまますくんでしまって、我《が》を通す望みも失った。クリストフはただ一つ心配なことがあった。持合せ以上の金額を請求されはすまいかということだった。もしそうなったら、オットーにうち明けるよりもむしろ、時計でも渡してしまうつもりだった。しかしそれまでにしないでもよかった。一月分の金を大方その食事に費やしてしまっただけで済んだ。
二人はまた丘を降りていった。夕《ゆうべ》の影が樅《もみ》の林に広がり始めていた。林の梢《こずえ》はまだ薔薇《ばら》色の光の中に浮出していて、津波のような音をたてながら厳《おごそ》かに波動していた。一面に散り敷いた菫《すみれ》色の針葉が、足音を和らげた。二人とも黙っていた。クリストフは不思議なやさしい悶《もだ》えが心にしみ通るのを感じた。幸福であった。口をききたかった。悩みの情に胸苦しかった。彼はちょっと立止まった。オットーも同じく立止まった。すべてがひっそりしていた。蠅《はえ》の群がごく高く光の中に飛び回っていた。枯枝が一本落ちた。クリストフはオットーの手を握り、震える声で尋ねた。
「僕の友だちになってくれない?」
オットーはつぶやいた。
「ああ。」
彼らはたがいに手を握りしめた。胸は動悸《どうき》していた。顔を見合わすこともかろうじてであった。
やがて彼らはまた歩き出した。二、三歩離れて歩いた。林の縁まで一言ももう言わなかった。彼らは自分自身と自分の不思議な感動とを恐れていた。足を早め、立止まりもせず、ついに木立の影から出てしまった。そこで彼らはほっと安心して、また手を取り合った。朗らかな夕暮に眺め入って、切れ切れの言葉で話した。
船に乗ると、舳先《へさき》の方に、明るい影の中にすわって、なんでもない事柄を話そうとつとめた。しかし口にする言葉を耳には聞いていなかった。快い懶《ものう》さに浸されていた。話をする必要も、手を取り合う必要も、またたがいに見合わす必要さえも、感じなかった。たがいに接近していたのである。
船がつく間ぎわに、彼らは次の日曜にまた会おうと約束した。クリストフはオットーを門口まで送って行った。ガスの光で、たがいにおずおずと微笑《ほほえ》んで、心をこめたさよならをつぶやき合った。別れるとほっとした。それほど彼らは、数時間の緊張した感情に、気疲れがしていたし、沈黙を破ろうとしてちょっとした言葉を発する骨折りに、気疲れがしていた。
クリストフは夜の中を一人でもどって行った。「一人の友をもってる、一人の友をもってる!」と彼の心は歌っていた。何にも眼にはいらなかった。何にも耳に聞えなかった。他のことは何にも考えていなかった。
家に帰るや否や、すぐに眠気がさしてきて、寝入ってしまった。しかしある固定観念に呼びさまされるかのように、夜中に二、三度眼をさました。そして「一人の友をもってる」とくり返しては、またすぐに眠りに入った。
朝になると、すべてが夢のように彼には思われた。それが現実のことであるとみずから確かめるために、前日のことをごく些細《ささい》な点まで思い起こそうとした。音楽を教えてる間にも、なおその方にばかり気がひかれた。午後になってからも、管弦楽の試演の間非常にぼんやりしていたので、そこを出る時にはもう何をひいたのか覚えていなかった。
家に帰ってみると、手紙が待ちうけていた。どこから来た手紙なのか考える要はなかった。自分の室にかけ込み、そこにとじこもって手紙を読んだ。水色の紙に、見分けにくい長めの丹念な手跡で書かれて、ごく几帳面《きちょうめん》な署名がついていた。
親愛なるクリストフ君――わが畏敬《いけい》せる友、と呼んでよろしいでしょうか。
ぼくは昨日の遊歩のことを非常に考えています。そしてぼくにたいする君の好意を、この上もなく感謝しています。君がされたすべてのことを、君の親切な言葉を、愉快な散歩を、りっぱな御馳走を、どんなにぼくはありがたく思っているでしょう! ただ、あの食事に君がたいへん金を費やされたことを、気にしているだけです。なんという素敵な一日だったでしょう! あの奇遇には何か天意がこもってはいなかったでしょうか。僕たちをいっしょに結びつけようと望んだのは、運命自身であるような気がします。日曜にまたお会いするのが、どんなにぼくは嬉しいでしょう! 宮廷音楽長の午餐《ごさん》に欠けられたについて、君にあまり不愉快なことが起こらないようにと、僕は希望しています。僕のために困るようなことになられたら、僕はどんなにか心苦しいでしょう!
親愛なるクリストフ君、僕は永遠に君の忠実なる僕《しもべ》にして友であります。
オットー・ディーネル
二伸――日曜には、どうぞ僕の家へ誘いには来ないでください。もしおさしつかえなかったら、|御殿の園《シュロスガルテン》でお会
いできれば仕合せです。
クリストフは眼に涙を浮かべてその手紙を読んだ。彼は手紙に唇をあてた。大声に笑いだした。寝台の上に筋斗《とんぼがえり》をした。それからテーブルに駆けつけ、ペンを取って、すぐに返事を書こうとした。一分も待っておれなかった。しかし彼は書き慣れていなかった。心に満ちあふれてることをどう書き現わしていいかわからなかった。ペンで紙を裂き、インキで指を真黒にした。じれて足を踏みならした。ついには、言葉をむりにしぼり出し、五、六枚下書きした後に、四方八方に曲りくねった無格好な字で、ひどい綴《つづ》りの誤りをしながら、手紙を書くことができた。
わが魂よ! 僕が君を愛してるのに、どうして感謝などと言うのか? 君を知る前ぼくはどんなに悲しく一人ぽっちだったか、君に言ったじゃないか。君の友情はぼくの最大の幸福なんだ。昨日、ぼくは嬉《うれ》しかった、ほんとに嬉しかった! 生まれて初めてのことだ。ぼくは君の手紙を読みながら、嬉し泣きに泣いた。そうだ、疑っちゃいけない、ぼくたちを近づけたのは運命だ。運命は大事をなしとげるために、ぼくたちが友だちになることを望んだのだ。友だち! なんという愉快な言葉だろう! とうとうぼくも一人の友をもつこととなったのか。ああ、君はもうぼくを捨てやしないだろうね。誠実でいてくれるだろうね。いつまでも、いつまでもだ!……いっしょに生長し、いっしょに勉強し、ぼくはぼくの音楽上の感興を、頭に浮かぶ奇怪な事柄を、君は君の知力と驚くべき知識を、二人で共有のものにするのは、どんなに愉快なことだろう! 君は実に種々なことを知ってる。ぼくは君のように頭のいい者を見たことがない。ぼくは時々心配になる。ぼくは君の友情を受くるに足りない者のような気がする。君はいかにも高尚で、ちゃんとでき上がっている。ぼくのような粗雑な者を愛してくれることを、ぼくはどんなに君に感謝してるだろう!……いやちがった。今言ったばかりだった。感謝なんてことを決して言ってはいけないんだ。友誼《ゆうぎ》においては、恩を受くる者も施す者もないんだ。ぼくは恩なんか甘受しない! ぼくたちはたがいに愛してるから、同等の者なんだ。君に会うのが待ち遠しくてたまらない。ぼくは君の家に誘いには行くまい、君がそれを好まないから。――だが、ほんとうを言えば、そういう用心をするわけがぼくにはわからない。――しかし君はぼくより賢い。たしかに何か理由があるんだろう……。
ただ一言いっておくが、これからはもう金のことを言ってはいけない。ぼくは金が嫌いなんだ、言葉も実物も。ぼくは金持ちではないったって、友に御馳走《ごちそう》をするのに困るほどじゃない。そして、自分の持ってるものをすっかり友のためにささげるのが、ぼくの楽しみなんだ。君もそうするだろう。もしぼくに必要があったら、君は君の財産全部をぼくにくれてしまうだろうね。――しかしそんなことには決してなるまい。ぼくは丈夫な拳固《げんこ》と強い頭とをもってる。食べるだけのパンは常に得られるだろう。――日曜日にね!――ああ、一週間会えないのか! そして二日前にはぼくは君を少しも知らなかったんだね。どうしてぼくはこんなに長く君なしに生きていられたんだろう?
楽長の奴、ぼくに苦情を言おうとしたよ。だが、ぼくはもちろんだが、君もそれを気にかけちゃいけない。ぼくにとって他人がなんだ! 他人がぼくのことをどう考えようと、将来どう考えることがあろうと、それをぼくは軽蔑しきってる。ぼくにとって大事なのは君ばかりだ。ぼくをよく愛してくれ、ぼくが君を愛するように君もぼくを愛してくれ! ぼくがどんなに君を愛してるか、言うこともできない。ぼくは爪先《つまさき》から眼の奥まで、すっかり君のものだ、君のもの、君のものだ。永久に君のものなんだ!
クリストフ
クリストフはその週の間、待ち遠しさに苦しんだ。彼はいつもの道を通らないで、長い回り道をし、オットーの家のある方面を彷徨《ほうこう》した――彼に会おうと考えてるのではなかったが、しかし彼の家が見えると、それでもう感動しきって蒼《あお》くなったり赤くなったりした。木曜日にはもうたまらなくなって、初めのよりもっと熱烈な第二の手紙を送った。オットーは感傷的な返事をよこした。
ついに日曜日が来た。オットーは会合の時間を正確に守った。しかしクリストフは、一時間も前から遊歩場で待ちながら、いらいらしていた。オットーの姿が見えないので苦しみ始めた。病気ではあるまいかと気をもんだ。なぜなら、オットーが自分との約を違《たが》えようとは少しも思わなかったから。彼はごく低くくり返した、「ああどうか、彼が来るように!」そして彼は細杖《ほそづえ》で、道の小石をたたいた。三度たたいて当たらなかったらオットーは来ない、しかしうまく当たったらオットーがすぐに現われるのだ、と考えていた。そしてごく念を入れてやったにもかかわらず、また容易なことではあったけれども、三度ともはずしてしまった。ところがちょうどその時、オットーの姿が眼にはいった。オットーはいつもの静かな落着いた歩き方でやって来た。彼はごく感動してる時でも常にきちんとしていたのである。クリストフは彼のそばに駆け寄り、乾ききった喉《のど》で今日はと言った。オットーも今日はと答えた。それから、天気がたいへんいいこと、また時間はちょうど十時五、六分、さもなければ、御殿の時計はいつも後《おく》れているので、十時十分くらいだろうということ、そんなこと以外にはもう何も言うべきことが見当たらなかった。
彼らは停車場へ行き、町の人々の遠足地となってる次の停車場まで汽車に乗った。途中彼らは数言しか話ができなかった。能弁な眼付でそれを補おうとつとめたが、それもうまくゆかなかった。どんなに親しい友人同士であるかたがいに言いたく思いながら駄目《だめ》だった。彼らの眼はまったく何にも語らなかった。たがいに喜劇を演じていた。クリストフはそれに気づくと恥しくなった。一時間前に心を満たしていたあらゆることを、言うこともできなければ感ずることさえできなくなったのは、どういう訳だかみずからわからなかった。オットーの方は、それほど生真面目《きまじめ》になっていなかったし、またいっそうの自尊心をもって内省していたから、その間《ま》の悪さを同様にはっきりとは意識しなかったであろうが、しかし同じような失望を感じていた。事実をいえば、この二人の少年は、一週間前からたがいに相手のいないところで、感情を非常に高調していたので、現実のうちにそれを維持することができないで、たがいに顔を合わせると、最初の印象は必然に失望的なものとなってしまったのである。それを一掃しなければならなかった。しかし彼らはきっぱりとそう是認することができなかった。
彼らは重苦しい気づまりが覆《おお》いかぶさってくるのを払いのけることができないで、終日|田舎《いなか》を歩き回った。ちょうど祭りの日で、飲食店や林の中は散歩者でいっぱいだった――小市民の連中が、方々で騒いだり食べたりしていた。それを見て彼らの不機嫌《ふきげん》さはなおつのった。そういううるさい連中のために、この前の散歩の時のように心を明け放しにすることができないのだと、彼らは考えていた。それでもたがいに話をした。話の種を見つけるのにたいへん苦しんだ。何にも話し合うことがないと気づくのを恐れていた。オットーは学校で得た知識を並べたてた。クリストフは音楽上の作品やヴァイオリンのひき方について、専門的な説明をやりだした。彼らはたがいに退屈し合っていた。たがいに話を聞きながら退屈しきっていた。そして話がとぎれるのを心配しながらやたらに話しつづけた。沈黙の淵《ふち》が開けるとぞっとしたからである。オットーは泣きたかった。クリストフはオットーを置きざりにして逃げ出そうとまでした。それほど彼は恥ずかしかったし退屈だった。
ふたたび汽車に乗る一時間ばかり前に、ようやく彼らの心は解けたのだった。林の奥で犬が吠《ほ》えていた。勝手に獲物を追いたてていた。クリストフはその通り道に隠れて追われてる獣を見ようと言い出した。二人は茂みの中に駆け込んだ。犬は遠のいたり近寄ったりした。二人は右へ行ったり、左へ行ったり、進んだり、後に引返したりした。吠声はますます激しくなった。犬はいらだちのあまり息もつまるばかりに、屠殺《とさつ》の叫び声をあげていた。犬は二人の方へ近寄ってきた。クリストフとオットーとは、小道の轍《わだち》の中に、枯葉の上に身を伏せ、息をこらして待ち受けた。吠声は止んだ。犬は獲物の足跡を見失ったのである。遠くでも一度吠えるのが聞えた。それから林の中はひっそりとしてしまった。物音一つ聞えなかった。ただ、昆虫《こんちゅう》や青虫など、たえず森をかじって破壊する無数の生物の、神秘な蠢動《しゅんどう》の音が聞えるばかりだった――決してやむことのない規則正しい死の息吹《いぶ》きである。二人の少年は耳を傾けた、身動きもしなかった。ついにがっかりして起き上がりながら、「もうおしまいだ、来やすまい、」と言おうとした。がちょうどその時、一匹の小兎《こうさぎ》が茂みから飛び出して、彼らの方へまっすぐにやって来た。二人は同時にそれを見つけて、喜びの声をあげた。兎は飛び上がって、横の方へ躍《おど》り込んだ。立木の中にまっさかさまに飛び込んでゆくのが見えた。すれ合う木の葉の戦《そよ》ぎが、水面の船跡のように消えていった。二人は声をたてたのを後悔したが、その出来事で心が愉快になった。兎のあわてた飛び方を考えながら、大笑いをした。クリストフはおかしな様子でその真似《まね》をした。オットーも同じくやった。それから二人は追っかけっこをした。オットーは兎になり、クリストフは犬になった。垣根《かきね》をつきぬけたり溝《みぞ》を飛び越したりして、林や牧場を駆け降りた。麦畑の真中に飛び込んで、百姓に怒鳴りつけられた。二人はなおやめなかった。クリストフは実にうまく犬の嗄《しわが》れた吠声を真似たので、オットーはおかしさのあまり涙を出して笑った。ついには、狂人のように叫びながら斜面を転げ降りた。もはや声も出なくなると、そこにすわって、笑ってる眼で顔を見合った。今はもうまったく幸福で、みずから満足しきっていた。もはやえらい友人のようなふうをしようとしなかったからである。あるがままの心を率直にさらけ出していた。二人の子供になりきっていた。
彼らは別に意味もない唄《うた》を歌いながら、腕を組み合わして帰って行った。けれども、町にもどりかけると、またそれぞれ様子ぶる方がいいように考えた。そして林の出はずれの木に、二人の頭字を組み合わして彫りつけた。しかしその感傷的な気分は、上|機嫌《きげん》な心にうち負けた。帰りの汽車の中では、顔を見合わすたびに大笑いをした。たがいに別れる時には、すばらしく愉快な一日を過ごしたと思い込んでいた。そして一人一人になるや否や、すぐにその確信は肯定された。
彼らは蜜蜂《みつばち》の仕事よりもさらに気長い巧妙な建設の仕事をふたたび始めた。というのは、平凡な回想のいくつかの断片で、彼ら自身と彼らの友情との霊妙な面影を作り上げることができたのである。一週間の間たがいに理想化した後で、日曜日に会っていた。そして事実と彼らの幻との間には不均衡があったにもかかわらず、彼らは少しもそれに気づかないようになった。
彼らは友だちであることを誇りとしていた。反対な性格のためにかえって近づけられていた。クリストフはオットーほど美しい者を知らなかった。その繊細な手、綺麗な髪、生々しい顔色、控目な言葉、丁寧な態度、細かく注意のゆき届いた服装、そういうものが彼の心を喜ばした。オットーはまた、クリストフの満ちあふれた力と独立的な気性とに、すっかり心服した。あらゆる権威にたいして敬虔《けいけん》な尊敬をささげる古来の因襲に染《そ》んでいた彼は、あらゆる既成の範例にたいして生まれつき敬意を欠いでいる友と交わるのに、恐れの念の交じった喜びを感じた。町じゅうのあらゆる名望家をけなしつけるのを聞き、無作法にも大公爵の真似《まね》をする言葉を聞くと、彼は快い恐れからかすかな戦慄《せんりつ》を感じた。クリストフはそういうふうにして自分が友の上に及ぼしてる幻惑に気づいた。そして攻撃的な気分をさらに誇大してみせた。あたかも老革命家のように、社会の約束と国家の法則とをくつがえす言葉を発した。オットーは眉《まゆ》をしかめまた歓喜して、それに耳を傾けた。そして調子を合わせようとこわごわながらつとめた。しかし、だれかに聞かれやすまいかと用心深くあたりを見回すのであった。
二人でいっしょに散歩していると、クリストフは禁札を見るごとにかならずその畑の柵《さく》を飛び越してはいった。あるいは所有地の壁越しに果物《くだもの》をつみ取った。オットーは人に見つかりはすまいかと心配した。しかしそういう心遣《こころづか》いは彼にとって特別な喜びだった。夕方家に帰ると、自分が勇者であるような気がした。彼はこわごわクリストフを賛美していた。彼の服従的な本能は、他人の意思に従うのみである友情のうちに、自己満足を見出していた。クリストフはかつて彼に決心する骨折りをかけなかった。彼は自分で万事をきめ、一日をどうして暮すかを決定し、なお一生をどういうふうに使うかを決定し、あたかも自分の未来にたいするがようにオットーの未来にたいして、議論を許さない断然たる計画をたてた。オットーはいつも賛成していた。時には、クリストフが彼の財産を勝手に処置して、自分の発明になる劇場をやがて建てるのだと言うのを聞くと、多少の反発心が起こることもあった。しかし抗弁しなかった。友の圧倒的な調子に気圧《けお》されていたし、また、商業評議員オスカル・ディーネル氏が蓄積した金は、それ以上に高尚な使い道を見出すことはできないという友の確信に、説き伏せられてしまっていた。クリストフにはオットーの意思を虐《しいた》げるつもりは少しもなかった。彼は本能的な専制者であって、友に自分と異なった考えがあろうとは想像だもしなかった。もしオットーが彼と違った志望を発表したら、彼は躊躇《ちゅうちょ》なく自分一己の嗜好《しこう》は犠牲にして顧みなかったろう。それ以上の犠牲をも辞さなかったろう。彼はオットーのために身を投げ出したくてたまらなかった。自分の友情が試練に会うべき機会を非常に待ち望んでいた。散歩中に何か危険に出会って、その前に突進してゆくことをねがっていた。オットーのためになら喜んで死にたかった。けれどもまずそれまでは、気がかりな注意でオットーを守ってやり、歩きにくいところでは娘の子にでもするように手を貸してやり、疲れやしないかと気遣い、暑がってやしないかと気遣い、寒がってやしないかと気遣った。木影にすわる時には、自分の上着をぬいでその肩に着せてやった。歩く時にはそのマントを持ってやった。オットー自身をも負ってやりたかった。恋人のように彼の身を見守っていた。そして実際をいえば、クリストフは彼に恋していた。
恋とはいかなるものであるか彼はまだ知らなかったので、オットーに恋してることをみずから気づかなかった。しかし彼らは時々、いっしょにいると妙な不安の情にとらえられた――樅《もみ》の林の中で初めて親しく交わったあの日、彼の胸をしめつけた感情と同じもの――激しい感動が顔に上ってきて、頬《ほお》が真赤になった。彼は恐れた。二人の少年は、本能的に同じ思いをして、おずおずとたがいに避け合い、たがいに逃げ合い、後になり先になりして途中でぐずぐずした。藪《やぶ》の中に桑の実を捜してるようなふりをした。そして彼らは何が不安なのか知らなかった。
とくに手紙の中で、二人のそういう感情は高まっていた。手紙の中では事実から裏切られる恐れがなかった。何物も彼らの幻影をそこなうものはなかったし、彼らを気後《きおく》れさせるものはなかった。今では一週に二、三度、熱烈な叙情味の文体で手紙を書き合っていた。現実の出来事を語ることはほとんどなかった。突然に感激と絶望との間を移り変わる黙示録的な調子で、重大な問題をこねまわしていた。彼らはたがいに、「わが幸福、わが希望、わが愛人、わが身自身、」などと呼んでいた。
「魂」という言葉を恐ろしく使いちらした。宿命の悲しさを悲壮な色でいろどっていた。友の生涯に運命の変転を投げ入れて心痛していた。
「わが愛よ、ぼくは君に心配をかけるのがつらい。」とクリストフは書き送った。「君が苦しむのはぼくにはたえられない。苦しんではいけない[#「苦しんではいけない」に傍点]、ぼくはそれを欲しない[#「ぼくはそれを欲しない」に傍点]。(彼は紙が破《やぶ》けるほどの太い傍線を右の言葉にほどこした。)君が苦しむなら、ぼくはどこに生きる力を見出せよう! ぼくの幸福は君のうちにしかない。どうか仕合せであってくれ! 苦しみは皆ぼくが喜んで荷《にな》ってやる。ぼくのことを考えてくれ。ぼくを愛してくれ。ぼくは愛してもらいたいんだ。ぼくを生かす熱は君の愛から来るんだ。ああ、ぼくがどんなに震えてるか君が知ってくれたら! ぼくの心の中は冬で、鋭い寒風が吹いている。ぼくは君の魂を抱きしめるのだ。」
「ぼくの考えは君の考えにくちづけしている。」とオットーは返事を書いた。
「ぼくは君の頭を両手に抱きしめている。」とクリストフは答えかえした。「ぼくが唇でしなかったことを、唇でしないだろうことを、ぼくは全身でする。かくも愛してると君を抱擁する。察してくれ。」
オットーは疑うようなふうを装った。
「ぼくが君を愛してるほど、君はぼくを深く愛してるかしら?」
「ああ!」とクリストフは叫んだ、「同じほどなもんか、十倍も、百倍も、千倍もだ! なに、君はそう感じないのか? ぼくはどんなことをしたら君の心を動かせるのか。」
「ぼくたちの友情はなんという美しいものだろう?」とオットーは感嘆した。「歴史のうちにもこれほどの友情があろうか? 夢のようにやさしく麗わしい。ただこれが過ぎ去ることのないように! もし君がぼくを愛しなくなるようなことがあったら!」
「わが愛人よ、なんと君は馬鹿だろう。」とクリストフは答えてやった。「いや許してくれ。しかし君の苦労性な弱気さにぼくは腹がたってくる。ぼくが君を愛しなくなったらなどと、どうして尋ねるんだ! ぼくにとっては、生きることがすなわち君を愛することなんだ。いや死でさえもぼくの愛をどうすることもできない。もし君自身、ぼくの愛を壊《こわ》そうと思っても、どうにもできまい。君がぼくを裏切っても、ぼくの心を引裂いても、ぼくは君から鼓吹されるこの愛について、君を祝福しながら死んでゆくだろう。だからもうこれ限り、そんな弱々しい不安の念でみずから心配しまたぼくを苦しめることを、どうかやめてくれ!」
しかし一週間もたつと、彼の方からこんなことを書き送った。
「もうまる三日、君の口から出るなんらの言葉にも接しないでいる。ぼくはぞっとする。君はぼくのことを忘れてるんじゃないかしら? そう思うと全身の血が冷えきってしまう。……そうだ、それに違いない。先日もぼくは、ぼくにたいする君の冷淡さに気づいた。君はもうぼくを愛しないんだ! ぼくから離れようと考えてるんだ!……いいか、もし君がぼくを忘れたら、もしぼくを裏切るようなことがあったら、ぼくは君を犬のように打ち殺してしまってやる!」
「わが心よ、君はぼくを迫害するのか!」とオットーは悲嘆した。「君はぼくに涙を流させる。ぼくはこんな目に会う覚えは少しもない。しかしなんでも君の言うままになろう。君はぼくにたいしてあらゆる権利をもっている。もし君がぼくの魂を破壊するにしても、ぼくの魂の一片は、君を愛するために永く生きているだろう!」
「天の神よ!」とクリストフは叫んだ、「ぼくは友を泣かした!……ぼくをののしってくれ、ぼくを殴ってくれ、ぼくを踏みにじってくれ! ぼくは惨《みじ》めな人間だ。ぼくは君の愛に価しない!」
二人は、なんでもない他人に書き送る手紙と自分たちの手紙とを区別するために、宛名《あてな》の書き方に特別なくふうをこらしていたし、また切手をはるにも、封筒の下部の右の隅《すみ》に、逆さに斜めにはりつけることにしていた。そういう子供らしい秘密は、彼らにとって、愛の楽しい神秘の魅力をそなえていた。
ある日|出稽古《でげいこ》からの帰り道に、クリストフはオットーが同じ年ごろの少年と連れだってるのを、次の街路に見かけた。彼らはいっしょに親しく談笑していた。クリストフは蒼《あお》くなって、彼らが街路の曲り角《かど》に見えなくなるまで、その後を見送った。彼らは少しもクリストフの姿に気づかなかった。クリストフは家に帰った。一片の雪が太陽の面をかすめたようなものだった。すべてが薄暗くなった。
次の日曜に会った時、クリストフは初めなんとも言わなかった。しかし三十分ばかり散歩した後に、彼はしぼるような声で言った。
「水曜日に、君をクロイツ街で見かけたよ。」
「そう!」とオットーは言った。
そして彼は赤くなった。
クリストフはつづけて言った。
「君は一人じゃなかったね。」
「ああ、」とオットーは言った、「いっしょだった。」
クリストフは唾《つば》をのみ込み、平気を装った調子で尋ねた。
「あれはだれだい?」
「従弟《いとこ》のフランツだ。」
「そうか。」とクリストフは言った。
それからちょっと後にまた言った。
「君は従弟《いとこ》のことをぼくに話したことがなかったね。」
「ラインバッハに住んでるんだ。」
「たびたび会うのかい。」
「時々こっちへやって来るよ。」
「そして君も、向うへ行くのかい。」
「時々だ。」
「そうか。」とクリストフはまた言った。
オットーは話題を変えてもかまわなかったので、嘴《くちばし》で木をつついてる一匹の小鳥をさし示した。二人は他のことを話した。十分ばかりしてから、クリストフはまた突然言い出した。
「君たちは気が合うのかい?」
「だれと?」とオットーは尋ねた。
(だれとだか彼にはよくわかっていた。)
「従弟とさ。」
「ああ合うよ。どうして?」
「いやなんでもないんだ。」
オットーはいつも悪い冗談でからかわれるので、従弟をあまり好まなかった。しかし妙な意地悪な本能から、やがてこうつけ加えて言った。
「たいへんやさしいよ。」
「だれが?」とクリストフは尋ねた。
(だれがだか彼にはよくわかっていた。)
「フランツさ。」
オットーはクリストフの言葉を待った。しかしクリストフは聞こえなかったようなふりをしていた。榛《はん》の枝を杖に切っていた。オットーはまた言った。
「面白い奴だよ。いつでもいろんな話を知ってるよ。」
クリストフは平然と口笛を吹いた。
オットーはますます言いつのった。
「そして実に頭がよくて……上品で……。」
クリストフは肩をそびやかした。こう言うがようだった。
「そんな奴がおれに何の関係があるんだ?」
そしてオットーが気を悪くして、なお言いつづけようとした時、クリストフは荒々しくその言葉をさえぎって、向うのある地点まで駆けっこを強《し》いた。
彼らはその午後じゅう、もはやこの問題に触れなかった。しかし、二人の間には珍しいことであるが、とくにクリストフにおいては珍しいことであるが、馬鹿丁寧さを装って、冷やかに争っていた。クリストフの喉《のど》には言葉がまだつまっていた。ついに彼は我慢ができなくなって、五歩ばかり後からついてくるオットーの方へ、途中でふり向いて、激しく彼の手を取り、一度に言ってのけた。
「オットー、いいかね、ぼくは君がフランツとそんなに仲よくするのを好まないんだ。なぜって……それは、君がぼくの友だからだ。君がだれかをぼくよりいっそう愛するのを、ぼくは好まないんだ。ぼくは厭《いや》なんだ。ねえ、君はぼくのすべてなんだ。そんな……できないはずだ、いけないはずだ。もし君がぼくのものでなくなったら、ぼくはもう死ぬよりほかないだろう。ぼくはどんなことをするかわからない。自殺するかもしれない。君を殺すかもしれない。いや、勘弁してくれ!……」
彼の眼からは涙がほとばしっていた。
オットーは、その脅《おびや》かすように唸《うな》ってる苦しみの真面目《まじめ》さに、感動しまた恐れて、急いで誓った、クリストフほど深くはだれも愛してはいないし、また将来決して愛しはしない、フランツは自分にとってなんでもない、もしクリストフがそう望むならもう決してフランツに会いもすまいと。クリストフはそれらの言葉を飲み込んで、心がまた生き返ってきた。笑みを浮べ、激しい息をついた。彼はオットーに真心から感謝した。自分の乱暴を恥じた。しかし非常に重苦しい胸は和《やわ》らいだ。二人は向き合って、手を取り合いながらじっとつっ立って、たがいに顔を見合った。たいへん嬉《うれ》しく、またたがいの身をはじらっていた。彼らは黙って帰りかけた。それからまた話しだして、ふたたび快活な気分になった。かつて知らなかったほどひしといっしょに結び合わされたのを感じていた。
しかしこの種のことは、それが最後のものではなかった。今やオットーはクリストフにたいする自分の力を感じたので、それをみだりに使おうとした。彼は急所を心得ていて、そこを突つきたくてたまらなかった。しかしそれは、クリストフの忿怒《ふんぬ》を面白がってるからではなかった。否反対に、彼はその忿怒を恐れていた。それでも彼はクリストフを苦しめて、自分の力を確かめるのだった。彼は意地悪くはなかったが、女の子のような心をもっていた。
で彼は約束にもかかわらず、フランツや他の友だちと腕を組合わしてるところを、なおつづいて見せつけた。彼らはいっしょに大騒ぎをし、彼はわざとらしく笑っていた。クリストフが苦情をもち出すと、彼はそれを嘲笑《あざわら》って、本気にとるような様子を見せなかった。そしてついに、クリストフが眼の色を変え、憤りに唇を震わすのを見ると、彼もまた調子を変え、心配そうな様子をし、もう二度としないと約束した。けれども翌日にはまたそれを始めた。クリストフは激しい手紙を書いて、彼にこう呼びかけた。
「下司《げす》野郎、もう貴様のことなんか聞くもんか。もう赤の他人だ。どっかへ行っちまえ、貴様のような犬どもは!」
しかし、オットーが涙っぽい一言を書き送るか、あるいは一度実際やったように、永久に変わらない心を象徴する一輪の花を送るかすれば、それだけでクリストフの心は後悔の念に解け、次のような手紙を書くのだった。
「わが天使よ、ぼくは狂人だ。ぼくの愚蒙《ぐもう》を忘れてくれ。君は最もりっぱな人だ。君の小指一本だけでも、この馬鹿なクリストフ全体より優《まさ》っている。君は賢いやさしい愛情の宝をもっている。ぼくは涙を浮べて君の花にくちづけする。花はここに、ぼくの心臓の上にある。ぼくはそれを、拳《こぶし》を固めて肌《はだ》の中に押しこむのだ。それでぼくは自分の血を流したい、君の麗わしい温情とぼくの恥ずかしい愚かさとを、いっそう強く感ずるようにと!……」
けれども彼らはたがいに倦《あ》き始めていた。小さな諍《いさか》いは友情を維持するものだというのは、誤りである。クリストフは非道な態度をとるようにオットーから仕向けられるのを恨んでいた。彼はよく反省しようとつとめ、自分の専横をみずからとがめた。彼の誠実な激越な性質は、初めて愛を味わうと、それに自分の全部を与えるとともに、また向うからも全部を与えてもらいたかった。彼は友情を分つことを許さなかった。友にすべてをささげるの覚悟でいた彼は、友の方でも自分にすべてをささげるのが、正当でまた必然のことでさえあると考えていた。しかし彼は、世の中は自分のような一徹な性質をもととして建てられてるものでないと感じ始め、事物にその与ええないものを要求してるのだと感じ始めた。そこで、彼はみずからに打ち勝とうとつとめた。彼はきびしくおのれをとがめ、みずから利己主義者であるとし、友の愛情を独占するの権利はない者であるとした。彼は真剣な努力をして、たとい自分はいかにつらかろうとも、友をまったく自由にさせようとした。謙譲な精神からわざとつとめて、フランツを疎《うと》んじないようにオットーに勧めた。オットーが自分より他の者と交わって喜んでるのを見るのが嬉《うれ》しいと、思ってるらしい様子を装った。しかしオットーはそんなことに騙《だま》されはしなかったが、意地悪な心から彼の言葉どおりを行なった。すると彼は顔を曇らせないではおれなかった。そしてにわかにまた怒りたった。
厳密にいえば、もしオットーが彼より他の友だちの方を好むとしても、それを彼は許しえたであろう。しかし彼がオットーに見逃してやることのできなかったことは、その不真実であった。オットーは偽瞞《ぎまん》家でも虚構家でもなかったが、あたかも吃者《どもり》が言葉を発するのに困難を感ずるように、真実を言うのに天性的の困難を感じていた。彼が言うことは決して、全然ほんとうでもなければ全然偽りでもなかった。自分の感情をきまり悪がっていたのかあるいはよくわかっていなかったのか、とにかく彼は、まったくはっきりと口をきくことはまれであった。彼の答えはいつも曖昧《あいまい》だった。彼は何事についても、隠しだてをしたりごまかしたりして、クリストフを怒らせた。錯誤を指摘されると、彼はそれを自認するどころか、頑固《がんこ》に否定して、馬鹿げた作りごとばかり並べたてた。ある日クリストフは、むかっ腹をたてて彼の頬《ほお》を殴りつけた。そして彼は、もうこれが二人の友情の終りであると思い、オットーは決して自分を許してくれないだろうと思った。しかしオットーは、しばらくむっつりしていた後に、何事も起こらなかったかのようにまた彼のもとにもどって来た。クリストフの乱暴を少しも恨んではいなかった。おそらくそれを面白がってるのかもしれなかった。そしてまた一方では、クリストフがいつも瞞《だま》されやすくて、どんな偽りの餌《えさ》をも口いっぱいに飲み込んでしまうのを、好ましく思ってはいなかった。そのために多少クリストフを軽蔑して、自分の方がすぐれてると信じていた。クリストフの方では、オットーが少しの反抗もしないで自分の酷遇を受けるのに、不満を覚えていた。
彼らはもはや初めのころのような眼ではたがいに眺めなかった。二人のたがいの欠点が明るみにもち出されていた。オットーはクリストフの独立|不覊《ふき》を以前ほど面白く思わなかった。クリストフは散歩中厄介な道連れだった。彼は少しも世間体《せけんてい》をはばからなかった。勝手な真似《まね》をして、上着をぬぎ、胴衣の胸をはだけ、襟《えり》を半ば開き、シャツの袖をまくり、杖の先に帽子をつっかけ、身体を風にさらした。歩きながら腕を打ち振り、口笛を吹き、大声に歌った。真赤な顔をし、汗を流し、埃《ほこり》にまみれていた。市場もどりの百姓のような様子だった。貴族的なオットーは、彼と連立ってるところを人に見られるのが、たまらなく恥ずかしかった。街道をやってくる馬車を見かけると、十歩ばかり彼の後におくれるようにして、一人で散歩してるふうを装った。
帰りに、料理屋か汽車の中などで、クリストフが話を始める時にも、オットーはやはり当惑するのだった。クリストフは騒々《そうぞう》しく話しだし、頭に浮かぶことはなんでも言ってのけ、オットーを厭になるほどなれなれしく取扱った。だれでも知ってる名高い人々について、あるいは少ししか離れていない向うにすわってる人々の風采《ふうさい》についてさえ、最も好意を欠いた意見を高言し、または自分の健康や家庭生活のごく内密な詳細にまで、話を進めていった。オットーがいくら眼配せをしたり、まごついた合図をしたりしても、甲斐《かい》がなかった。クリストフはそれに気づく様子もなく、一人でいるのと同じように、少しも遠慮をしなかった。オットーは近くの人々が顔に微笑を浮べてるのを見てとった。穴にでもはいりたいような気がした。彼はクリストフを粗野な男だと考えた。どうしてクリストフに心を奪われたのかみずからわからなかった。
最もひどいことは、クリストフが、あらゆる生籬《いけがき》や柵《さく》や塀や壁や通行止や罰金制札や各種の禁示《フェルボート》など――すべて彼の自由を制限せんとし、彼の自由に対抗して神聖なる所有権を保証せんとするもの、そういう何物にたいしても、やはり同じようにはばかりなく振舞うことだった。オットーはたえずびくびくしていた。いくら注意しても役にたたなかった。クリストフはますます悪いことをしては威張ってた。
ある日クリストフは、オットーを後ろに従えて、ガラス瓶の破片を植えた壁をも乗り越して、あるいはそんな壁があるのでなおそうしたのかもしれないが、私有林の中にはいり込んだ。そしてわが家のように勝手に歩き回ってると、番人とばったり出会った。番人は二人をののしりちらし、訴えるぞと言ってしばらくおどかした後、最もひどい取扱いで外に追い出してしまった。オットーはその憂目に会ってる間しょげきっていた。すでに牢屋《ろうや》にはいってるような心地がし、涙ぐみながら、自分はただうっかりはいり込んだのであって、どこへ行くかも知らずにクリストフの後について来たばかりだと、愚痴っぽく言いたてていた。そしてついに助かったのを知ると、面白がるどころか、同伴者に向かって苦々《にがにが》しい非難を向けた。クリストフが自分を陥れたのだと不平を並べた。クリストフはそれをにらみつけて、「卑怯《ひきょう》者」と呼んだ。彼らは激しい言葉を言い合った。オットーはもし一人で帰れたらクリストフと別れてしまったかもしれない。しかしクリストフの後について行かなければならなかった。それでも二人とも、いっしょに連立ってることを知らないふりをしていた。
雷雨になりかけていた。彼らは怒っていたので、雷雨の来るのが眼にはいらなかった。焼けるような野原は蟲の声に騒々《そうぞう》しかった。と突然、すべてがひっそりとなった。彼らは数分たってからようやくその静寂に気づいた。鳴動が聞こえていた。彼らは見上げた。空はものすごかった。重々しい鉛色の大きな雲がいっぱいになっていた。雲は騎兵が駆けるようにして四方から集まっていた。ある深淵《しんえん》に吸い込まれるかのように、眼の見えない一点に向かって駆け寄ってるかと思われた。オットーは気をもんだが、あえてクリストフにその心配をうち明けなかった。クリストフは何にも気づかないふうをして、意地悪く面白がっていた。それでも二人は、無言のままたがいに近寄っていた。野の中には他にだれもいなかった。そよとの風もなかった。ただ熱っぽい戦《そよ》ぎが、樹々《きぎ》の小さな葉を時々震わすばかりだった。するとにわかに一陣の旋風が埃《ほこり》を巻き上げ、樹木を吹きまげ、恐ろしく二人に吹きつけた。そしてまた、前よりもいっそう凄《すご》い静寂が落ちて来た。オットーは思い切って、震え声で口を切った。
「夕立だ。帰らなきゃいけない。」
クリストフは言った。
「帰ろう。」
しかしもう遅かった。眼が眩《くら》むような猛烈な一条の光がほとばしり、空が唸《うな》り、雲の丸天井がとどろいた。たちまちのうちに二人は、暴風雨にとりまかれ、電光におびえ、雷鳴に耳を聾《ろう》し、全身ずぶ濡《ぬ》れになった。平坦《へいたん》な野のまんなかで、どちらの人家へも三十分以上の距離があった、水の渦巻きの中に、ほのかな明るみの中に、雷電の巨大な光が真赤にほとばしっていた。彼らは走りたかった。しかし雨のために服がこわばりついて、思うように歩くことさえできなかった。靴《くつ》はぶくぶくしていた。全身に水が流れていた。息もつけないほどだった。オットーは歯をうち震わし、狂気のように猛《たけ》りたっていた。彼はクリストフに気を悪くするようなことを言いたてた。立ち止まりたがった。歩くのは危険だと言い張った。道にすわってしまう、畑のまんなかに地面に寝転んでやる、などと言っておどかした。クリストフは返辞をしなかった。彼はなお歩きつづけながら、風と雨と電光とに眼も眩み、響きに驚き、やはり多少不安になっていたが、それをうち明けないで我慢していた。
そしてにわかにからりとなった。雷雨はやって来たのと同じようにふいに通り過ぎてしまった。しかし彼らは二人ともあわれな様子になっていた。実際をいえば、クリストフは平素からだらしなかったので、少し服装が乱れたとてほとんど様子が変わらなかった。しかしオットーは、いつも服装をきちんと整えていたしそれに気を配っていたので、ひどいありさまだった。着物のまま風呂《ふろ》から出て来たかのようだった。クリストフは彼の方をふり向いて、その様子を見ながら、笑いがこみ上げてくるのを押えることができなかった。オットーは腹をたてる力もないほどがっかりしていた。クリストフはそれがかわいそうになって、快活に話しかけた。オットーは恐ろしい一|瞥《べつ》でそれに答えた。クリストフは彼を一軒の百姓家に連れ込んだ。彼らは盛んな火の前で身を乾かし、熱い葡萄《ぶどう》酒を飲んだ。クリストフはその出来事を面白がっていた。しかしそれはオットーの趣味には合わなかった。彼はふたたび野を歩いてる間、陰鬱《いんうつ》に黙り込んでいた。二人は口をとがらしながら帰って行き、別れる時にもたがいに手を差出さなかった。
その暴挙の後、彼らは引きつづいて一週間以上会わなかった。彼らはたがいにきびしく批判し合った。しかし日曜の散歩を一度よして、みずからおのれを懲《こら》してしまうと、非常に退屈になって、恨みを忘れた。クリストフは例のとおり自分の方から申し出た。オットーはそれを承知してやった。そして彼らは仲直りをした。
二人は気が合わないにもかかわらず、たがいに捨て去ることができなかった。彼らは多くの欠点をもっていたし、二人とも利己主義だった。しかしその利己心は無邪気なものであって、それを厭なものたらしむる成年期の打算をもたなかった。それは自覚しない利己心だった。ほとんど愛すべきものであって、彼らが真面目《まじめ》に愛し合うことを妨げなかった。彼らは非常に愛と献身とを欲していた。少年オットーは、自分を主人公にしたおおげさな献身の物語を考えながら、枕《まくら》の上で涙を流した。悲壮な出来事を想像し出して、その中で彼は、強い勇ましい大胆な者となり、想像的な敬慕の対象たるクリストフを保護してやった。クリストフの方では、麗わしいものや珍しいものを見聞きするたびごとに、「オットーがいたら!」と考えざるをえなかった。自分の全生活に友の面影を立ち交じらしていた。その面影は姿を変えて、非常なやさしみを帯びてき、彼はその実物を知ってるにもかかわらず、酔わされるような心地になった。オットーのある言葉をずっと後に思い出し、それを美化しては、情熱に駆られて身を震わした。二人はたがいに真似《まね》し合っていた。オットーは、クリストフの態度や身振りや手跡を真似た。クリストフは、影法師たる彼が、自分の言った一語一語をくり返し、自分の思想を新しい思想ででもあるかのようにもち出してくるのを、不快に思った。しかし彼は、自分もまたオットーの真似をしてることに気づかなかった。オットーの服の着方、歩き方、ある言葉の言い方、などを彼は見習った。それは一種の魅惑であった。二人はたがいに感染し合い、愛情に満ち満ちた心をいだいていた。その愛情は泉の水のように四方へあふれていた。友がその原因だと、彼らはおのおの想像していた。彼らはそれが青春期の覚醒《かくせい》であるとは知らなかった。
クリストフは人を疑えない性質だったので、物を書いた紙片をそのままにしておいた。けれども本能的な羞恥《しゅうち》から、オットーに書き送る手紙の下書きとオットーからの返辞とは、ちゃんとしまっておいた。鍵《かぎ》はかけないで、楽譜帳の中にはさんでおいた。そうしておけばだれにも捜し出されはすまいと安心していた。彼は弟たちの意地悪を予期していなかった。
彼は少し前から、弟たちが彼の方を眺めながら笑ったりささやき合ったりしてるのを、よく見かけた。彼らは切れ切れの文句を耳にささやき合っては、身をねじっておかしがっていた。クリストフにはその言葉が聞きとれなかった。そのうえ、彼らにたいするいつもの策略から彼は、彼らが言ったりしたりすることにはまったくの無関心を装っていた。ところが二、三の言葉が彼の注意を呼び起こした。身に覚えのある言葉のようだった。やがて、弟たちに手紙を読まれたことがもう疑えなくなった。そしてエルンストとロドルフとが、真面目《まじめ》くさった道化《どうけ》た様子で、「わが親愛なる魂よ、」と呼び合ってるところを、詰問してみたが、何にも聞き出しえなかった。悪賢い子供たちは、なんのことだかわからないようなふうをして、勝手な呼び方をしてもかまうものかと言った。手紙はそっくり元の場所にあったので、クリストフはそのうえ追究しなかった。
それから少し後に、彼はエルンストが盗みをしてる現場を押えた。この小さな曲者は、ルイザが金をしまってる箪笥《たんす》の抽出《ひきだし》の中を捜していたのである。クリストフは彼をひどく突つきまわし、その機に乗じて、胸にあることをすっかり言ってやった。好意を欠いた言葉で、エルンストの悪事の数々を長たらしく並べたてた。エルンストはその訓誡を悪意にとった。クリストフから叱《しか》られる訳はないと傲然《ごうぜん》と答えかえした。そして兄とオットーとの友情を、それとなくほのめかしてやった。クリストフにはわからなかった。しかし争論の中にオットーの名前がもち出されるのを聞いた時、彼はエルンストにその説明を迫った。子供は冷笑した。それから、クリストフが真蒼《まっさお》になって怒るのを見ると、彼は恐《こわ》がって、もう口をきこうともしなかった。クリストフはこういうふうでは何にも聞き出しえないのを覚《さと》った。彼は肩をそびやかしながらそこにすわり、深い軽蔑の様子を見せた。エルンストは気色を損じて、また鉄面皮な言葉を言い出した。彼は兄の心を傷つけてやろうとつとめ、ますます下賤《げせん》なことを述べたてた。クリストフはたけりたつまいと一生懸命に我慢した。がついに悪口の意味がわかると、かっと逆《のぼ》せてしまった。椅子《いす》から飛び上がった。エルンストは声をたてる隙《ひま》もなかった。クリストフは彼の上に飛びかかり、室のまんなかで彼と組打をし、床《ゆか》に彼の頭をたたきつけた。被害者の恐ろしい叫び声をきいて、ルイザも、メルキオルも、家じゅうの者が駆けつけて来た。ひどい目に会ってるエルンストを、皆で助け出した。クリストフは放そうとしなかった。放させるには殴りつけなければならなかった。皆は彼を野獣だと呼んだ。彼は実際野獣のような様子をしていた。眼をむき出し、歯ぎしりをし、ふたたびエルンストに飛びかかろうとばかり考えていた。どうしたのかと尋ねられると、彼の狂暴はますますつのった。エルンストを殺してやると怒鳴った。エルンストも訳を話すことを拒んだ。
クリストフは食べることも眠ることもできなかった。彼は寝床の中で震え泣いた。彼が苦しんでるのは、ただオットーのためばかりではなかった。彼のうちに一つの革命が起こっていた。エルンストには、兄に与えた苦悶《くもん》がどんなものであるか、ほとんど思いもつかなかった。クリストフはまったく清教徒《ピューリタン》的な一徹の心をそなえていた。その心は人生の汚辱を許すことができなかったし、それをしだいに見出してゆくごとに恐怖していた。十五歳になりながら、自由な生活をし強い本能をもっていたにもかかわらず、彼はまだ不思議なほど無邪気だった。生来の純潔さと休みなき勤労とのために、庇護《ひご》されていた。ところが弟の言葉は、彼に深淵を開いてみせた。彼は自分の身にそういう醜汚をかつて想像だもしなかった。そして今、その観念が心のうちにはいってくると、愛し愛される喜びがすべて害されてしまった。オットーにたいする自分の友情ばかりでなく、あらゆる友情が毒されてしまった。
さらにひどいことには、ある厭味なあてつけの言葉を聞いてからは、自分がこの小さな町の不健全な好奇心の的になってると、おそらく誤解ではあったろうが、彼は思い込んでしまった。とくに、それからしばらくたって、オットーとの散歩についてメルキオルから注意を受けた。おそらくメルキオルは、悪意に解釈していたのではなかったろう。しかしクリストフは、前からのことが頭にあったので、いかなる言葉のうちにも疑念がこめられてるのを認めた。そしてほとんど自分が悪いとさえ考えていた。オットーも、同時に、同じような危機を通っていた。
彼らはなお、人知れず逢っていた。しかし以前のような打ち解けた談話をすることはもうできなくなった。彼らの隔てない間柄は変わってしまった。二人の少年は、きわめてはばかりがちな愛情で愛し合っていたので、かつて親しい接吻《せっぷん》を交わしたこともなく、たがいに会ったり夢想をわかち合ったりすることを、無上の幸福だと思っていたのであるが、今や不正直な人々の邪推によって身を汚されるのを感じた。そして最も潔白な行動のうちにも、眼付や握手のうちにも、罪悪を見出すようになった。彼らは顔を赤らめ、よからぬ考えをいだいた。彼らの関係はたえがたいものとなった。
あらわにそれと言わずに、彼らはしだいに会うことが少なくなった。彼らはつとめて手紙を書いた。しかし言葉の使い方に用心した。手紙は冷やかな無味なものになった。彼らはがっかりした。クリストフは仕事を口実にし、オットーは多忙を口実にして、音信をやめた。間もなく、オットーは大学にはいるために出発した。数か月間二人の生活を輝かした友情は、まったく暗闇《くらやみ》になった。
そしてまた、この愛情が先触《さきぶれ》にすぎなかったも一つの新しい愛は、クリストフの心を奪い、そこにあるあらゆる他の光を薄らがせてしまった。
[#改ページ]
三 ミンナ
それらのことから四五か月前に、枢密顧問官シュテファン・フォン・ケリッヒの未亡人となって間もないヨゼファ・フォン・ケリッヒ夫人は、亡夫の職務のため今までとどまっていたベルリンを去って、生まれ故郷であるライン河畔の小さな町に、娘とともに移り住んだ。彼女は町に、古い伝来の家をもっていたが、その家についてる大きな庭は、ほとんど公園かと思われるほどで、丘に沿って低くなってゆき、クリストフの家から遠くないところで、ライン河まで達していた。クリストフが家の屋根裏の室から眺めると、壁の外に垂れてる重々しい木の枝や、苔生《こけむ》した瓦《かわら》屋根の真赤な高い頂などが見えた。ほとんど人通りもない小さな坂道が、庭の右に沿って通じていた。そこの標石の上によじ上ると、壁越しに覗《のぞ》き込まれた。クリストフもそれをやってみないではおかなかった。覗いてみると、草の生《は》え込んだ径《みち》や、荒れた牧場のような芝生《しばふ》や、乱雑にこんがらかってる木立や、いつも雨戸が閉《し》め切ってある家の白い正面などが、見られた。年に一、二回、植木屋が見回りに来て、家に風を通した。しかしその後で庭はまた自然のままになって、すべてが静寂にとざされるのであった。
その静寂にクリストフは心打たれた。彼はしばしばその眺め場所に人知れず上った。大きくなるにしたがって、眼が、次には鼻が、次には口が、壁の頂までとどくようになった。今では、爪先《つまきき》で伸び上がると、両腕を壁越しに差出すことができた。そういう姿勢は楽ではなかったが、彼は長くそのままの姿で、壁に頤《あご》をのせ、じっと眺めまた聴《き》いていた。夕《ゆうべ》の光は芝生《しばふ》の上に穏かな金色の波を注ぎかけ、その波は樅《もみ》の木立の影では、青みがかった反映に輝いていた。彼は街路をやって来る人の足音が聞えるまで、われを忘れてそこにぼんやりしていた。夜分には、庭のまわりに種々な香《かお》りが漂っていた、春はリラの香り、夏はアカシアの香り、秋には枯葉の香りが。クリストフは晩に宮邸から帰ってくる時、どんなに疲れていても、かならずその門のそばに立ち止まって、その快い空気を吸った。そして息臭い自分の室にもどるのが厭になった。彼はまた幾度も、ケリッヒ家の表門の前の、舗石に草のはえてる小さな広場で、遊んだ――遊ぶ時には――ことがあった。門の左右には、マロニエの老樹が一本ずつ立っていた。祖父もその根本にやって来て、パイプを吹かしながらすわった。そして子供たちには、木の実が弾丸や玩具《おもちゃ》となった。
ある朝、彼はその路次を通りかかって、いつものとおり標石によじ上った。ぼんやり眺めた。そしてまた降りようとした時、何か事変わった感じを受けた。彼は家の方へ眼を向けた。窓は皆開かれていた。日の光が家の中までさし込んでいた。人の姿は見えなかったが、その古い住宅は十五年間の眠りから覚《さ》めて微笑《ほほえ》んでるように思われた。クリストフは変な気持になりながら家に帰った。
食事の時に父は、近所の噂《うわさ》の種となってることを話した。驚くほどたくさんの荷物をもって、ケリッヒ夫人と娘とがやって来た、ということだった。あのマロニエのあたりは、馬車の荷降ろしを見に来た好奇者《ものずき》でいっぱいだったそうである。クリストフの限られた狭い生活のうちにあっては、その話は重大な出来事だったので、彼はそれがたいへん気にかかった。そして仕事に出かけながらも、父の例のおおげさな話に従って、その不思議な家の主人公たちを想像してみようとした。それから仕事に心を奪われて、すっかり忘れてしまった。けれどもその夕方、家にもどる間ぎわに、すべてのことがまた頭に浮かんだ。すると好奇心に駆られて、例の眺め場所に上り、壁の中がどういうふうになってるか覗《のぞ》いてみた。ところが眼にはいるものはただ、静かな庭|径《みち》ばかりで、そこにはじっと動かない木立が、太陽の名残の光のうちに眠ってるがようだった。しばらくすると彼は、好奇心の的をすっかり忘れてしまって、しみじみとした静けさのうちに浸っていった。その妙な位置は――標石の頂上に不安定に身を保って立つのであるが――彼の夢想には上乗の場所であった。空気のよく通わない薄暗いきたない路次から出ると、その日向《ひなた》の庭は夢幻的な輝きを帯びてるようだった。彼の精神はそのなごやかな場所のうちに漂っていった。種々の音楽が歌っていた。彼はその音楽のうちにうとうととした……。
かくて彼は、眼も口も開きながら夢想していた。そしてどれくらいの間夢想してたかみずから知らなかった。なぜなら、何にも眼にはいらなかったから。と突然、彼は駭然《がいぜん》とした。前方に、径《みち》の曲り角のところに、二人の女が立って、こちらを眺めていた。一人は――黒服の若い婦人で、ほっそりとした不揃《ふぞろ》いな顔立をし、灰色がかった金髪をもち、背が高く、優美で、取り澄さない自然の首つきをしていたが――親切そうな揶揄《やゆ》的な眼で彼を見守っていた。も一人の方は――十五歳ばかりの娘で、同じく喪服ずくめであったが――放笑《ふきだ》したくてたまらながってるような子供らしい顔付をしていた。ふり返りもしないでただ黙ってるようにと合図をしてる母親の少し後ろの方で、両手のうちに口を隠して、笑いを押えるのに一生懸命骨折ってるがようだった。色白な桃色の丸い顔をした小娘だった。心持ち太い小さな鼻、心持太い小さな口、ふっくらした小さな頤《あご》、細やかな眉毛《まゆげ》、清らかな眼、豊かな金髪。その髪は網代《あじろ》に編まれて、頭のまわりにくるりと巻きつけられ、丸い首筋と艶《つや》のいい白い額とを現わしていた。――クラナハの絵にあるようなかわいらしい顔だった。
クリストフはその出現にびっくりした。逃げ出すこともできずに、その場に釘付けになった。そして若い婦人が、そのやさしい揶揄《からか》うような微笑を浮べながら、二三歩進んでくるのを見た時、彼は初めて身を動かして、壁土をいっしょにはね落しながら、標石から飛び――転げ落ちた。「坊ちゃん」となれなれしく呼びかける親切な声と、小鳥の声のように晴々した澄みきった子供らしい笑い声とが、耳に聞えた。彼は四つ這《ば》いになって路次の中に身を潜めた。そして間もなく狼狽《ろうばい》の情が和らぐと、あたかもだれかに追っかけられるのを恐がったかのように、足に任して逃げ出した。彼は恥ずかしかった。その恥ずかしさは、家に帰って自分の室で一人になると、また激しく彼を襲ってきた。それ以来彼は、だれかに待伏せされてはすまいかという妙な恐れを感じて、もうその路次が通れなくなった。その家のそばを通らなければならない時には、壁に身を寄せ、頭を下げ、ふり向きもしないでほとんど駆けぬけた。それと同時に、あのやさしい二つの顔のことを考えやめなかった。足音を聞かれないように靴をぬいで、屋根裏の室に上っていった。そして種々くふうをしてはその軒窓から、ケリッヒ家の家と庭との方を眺めた。そのくせ彼は、木立の梢《こずえ》と屋根の煙筒しか見えないことをよく知っていた。
それから一か月後に彼は、宮廷音楽団が毎週催す定期演奏会で自作のピアノ協奏曲《コンセルト》を一つひいた。その曲の終楽章の中ほどまでひいた時、彼は偶然、前面の桟敷《さじき》に、自分の方を眺めてるケリッヒ夫人と娘とを認めた。あまりに意外だったので、茫然《ぼうぜん》としてしまって、管弦楽に調子を合わせることさえ忘れかけた。協奏曲《コンセルト》の終りまで機械的にひきつづけた。演奏が終ると、彼はその方を見まいとはしていたが、ケリッヒ夫人と令嬢とが見てくれと言わんばかりにややおおげさに拍手してるのが、眼にはいった。彼は急いで舞台を離れた。劇場から出ようとする時、廊下で、立並んでる人々に隔てられて、自分が通るのを待ち受けてるらしいケリッヒ夫人の姿を、彼は認めた。彼は夫人を見ないわけにはいかなかった。けれども目につかないふうを装った。そして後に引返しながら劇場の通用門からあわてて出て行った。その後で、彼はそれをみずからとがめた。なぜなら、ケリッヒ夫人がなんらの悪意もいだいてないことをよく承知していたから。しかし、またそんな場合になったら、自分はやはり同じようなことをするだろうと、みずから知っていた。彼は往来で夫人に会うのを恐れた。夫人に似た姿を遠くに見かけると、彼は道をそらすのであった。
夫人の方から彼を追っかけて来た。
ある朝、彼が昼食のために家へ帰ると、ルイザは得意になって、仕着せをつけた従僕が彼あての手紙を届けてきたと話した。そして黒枠《くろわく》のついた大きな封筒を彼に渡した。裏にはケリッヒ家の紋章が印刻してあった。クリストフはそれを開いて、震えながら読んだ――まさしく次のとおりに。
ヨゼファ・フォン・ケリッヒ夫人は、宮廷音楽員クリストフ・クラフト氏
に、本日五時半、自宅にて御茶を差上げたく、御招待致します。
「ぼくは行かない。」とクリストフは言いきった。
「なんです!」とルイザは叫んだ。「行くと言っておいたよ。」
クリストフは母に言い逆らった。自分の関係もないことにおせっかいするのを彼女に非難した。
「下男の人が返事を待っていたんだよ。今日はちょうどお前は暇《ひま》だと、私は言っておいた。その時間には、お前は何も用がないでしょう。」
クリストフはいたずらに怒りたって、行かないと言い張ったが、しかしもうこうなっては遁《のが》れるわけにはゆかなかった。招待の時間が来ると、顔をしかめながら身支度をした。しかし心の底では、偶然の機会で自分のひねくれた考えを枉《ま》げなければならないのを、別に厭《いや》だとも思ってはいなかった。
ケリッヒ夫人は、庭の壁の上から髪の乱れた頭をつき出していたあの粗野な少年を、演奏会のピアニストだと難なく見てとった。彼女は近くの人たちに聞きただした。そしてクリストフの健気《けなげ》な苦しい生活を知って、彼に同情を寄せ、彼と話をしてみたい好奇心を起こしたのである。
クリストフはおかしなフロックを着飾り、田舎《いなか》牧師のような様子になって、ひどくおずおずしながら夫人の家へやって来た。初めて見られたあの日には、夫人たちは自分の顔立を見分けるだけの隙《ひま》をもたなかったろうと、彼はしいて思い込もうとした。足音もしないような絨氈《じゅうたん》をしきつめた長い廊下を通って、ある室の中に召使から案内された。室のガラス戸は庭に向いていた。その日は冷たい小雨が降っていた。暖炉には盛んな火が燃えていた。霧に包まれた木立の濡れた姿が窓越しにほの見えていたが、その窓のそばに、二人の婦人はすわっていた。ケリッヒ夫人は膝《ひざ》に編物をのせ、娘は膝に書物をひらいて読んでいた。そこへクリストフははいって行った。二人は彼の姿を見て、ちらと人の悪い眼配せをした。
「あのことを知ってるんだな、」とクリストフは当惑しながら考えた。
彼は一生懸命で無格好なお辞儀をした。
ケリッヒ夫人は快活な微笑を浮べて、彼に手を差出した。
「今日は。」と彼女は言った。「お目にかかって嬉しゅう存じます。音楽会であなたの演奏をお聞きしてから、それがどんなに楽しかったか申上げたいと思っておりましたの。そしてそれを申上げるには、あなたをお招きするほかに道がなかったのですもの。そういうことをしましたのを、お許しくださいましょうね。」
それらの親切で平凡な言葉のうちには、皮肉な鉾先《ほこきき》が少し隠されてはいたけれども、たいへん慇懃《いんぎん》な調子がこもっていたので、クリストフは安堵《あんど》の念を覚えた。
「あのことを知らないんだな、」と彼はほっとして考えた。
ケリッヒ夫人は娘をさし示した。娘は書物を閉じて、クリストフをもの珍しそうに眺めていた。
「娘のミンナでございます、」と彼女は言った、「たいへんお目にかかりたがっていました。」
「でもお母様、」とミンナは言った、「初めてお目にかかったんではありませんわ。」
そして彼女は放笑《ふきだ》した。
「あのことを知られたんだな、」とクリストフはがっかりして考えた。
「ほんとに、」ケリッヒ夫人も笑いながら言った、「私どもが着きました日に、お訪ねくださいましたね。」
その言葉をきいて、娘はますます笑った。そしてクリストフがいかにもものあわれな様子をしたので、ミンナはそれを見ると、なお激しく笑った。まるで狂人笑いだった。あまり笑って涙を流していた。ケリッヒ夫人はそれをやめさせようとしたが、自分でも笑いを押えることができなかった。クリストフは当惑していたが、それでも笑いに感染してしまった。彼女らの上|機嫌《きげん》は押えることのできないもので、それを怒るわけにはゆかなかった。しかしミンナが息をつきながら、壁の上でいったい何をしていたのかと彼に尋ねた時、彼はまったく度《ど》を失ってしまった。彼女は彼の困惑を面白がった。
彼はすっかりまごついて口ごもった。ケリッヒ夫人は彼を助けて、お茶を出しながら話頭を転じてくれた。
夫人は親しげに日常のことを彼に尋ねた。しかし彼は心が落着いていなかった。どうすわっていいかもわからないし、引っくり返りそうな茶碗《ちゃわん》をどうもっていいかもわからなかった。水や牛乳や砂糖や菓子を出されるたびごとに、急いで立ち上がって、丁寧にお辞儀をしなければならないような気がした。しかも、フロックやカラーや襟飾りなどの中に、しめつけられ堅くなって、甲羅《こうら》の中にでもはいったようで、右にも左にもふり向くだけの元気がなく、また実際ふり向くことができず、ケリッヒ夫人のやたらな質問や、その繁多な作法に、すっかりおびえてしまい、ミンナの視線が、自分の顔立や手や動作や着物に、じっと注がれてるのを感じて、すくんでしまっていた。さらに彼女らは――ケリッヒ夫人はそのくだくだしい言葉で――ミンナは面白半分に媚《こび》を含んだ流し目を使って――彼を気楽にさせようとしていっそう彼をどぎまぎさせた。
ついに彼女らは、お辞儀と単語をしか彼から引出しえないので、諦《あきら》めてしまった。ケリッヒ夫人は一人で会話を引受けていたが、それにも倦《あ》きて、ピアノについてくれとたのんだ。彼は音楽会の聴衆にたいするよりもいっそうはにかみながら、モーツァルトのアダジオをひいた。しかし彼のはにかみや、二人の婦人のそばで彼の心が感じ始めていた不安や、彼の胸を満して彼を同時に嬉《うれ》しくまた悲しくなしていた純朴な情緒などは、その曲に含まれてる情愛と初心《うぶ》な羞恥《しゅうち》とに調子を合わして、その曲に青春の魅力を添えた。ケリッヒ夫人は心を動かされた。社交界の人々にありがちな誇張した賛辞で、感動した由《よし》を述べた。それでも彼女は、不真面目《ふまじめ》に言ってるのではなかった。そしてその過度の賞賛も、やさしい婦人の口から出ると快いものであった。人の悪いミンナは黙っていた。その少年を、口をきく時にはあんなにへまであるが、かくも雄弁な指をもってるその少年を、驚いて眺めていた。クリストフは彼女らの好感を感じて、元気になってきた。彼はなおひきつづけた。それから、半ばミンナの方へふり向いて、きまり悪げな微笑を浮べ、眼を伏せたまま、おずおず言った。
「あの壁の上で、こんなものを作っていたんです。」
彼は小曲を弾《ひ》いた。実際その中には、庭を眺めながらあの好きな場所にいる時、頭に浮かんできた楽想《がくそう》が、展開されていた。しかし事実をいえば、その楽想が浮かんだのは、ミンナとケリッヒ夫人とを見た夕――(彼はどういうわけかむりにそうだと思い込もうとしていたが)――ではなくて、それ以前の幾多の夕にであった。そしてこのアンダンテ・コン・モトの静かな揺ぎのうちには、夕日の平和の中にある大木の厳《おごそ》かな仮睡や小鳥の歌などの、朗らかな印象が見出せるのであった。
二人の聴き手は、恍惚《こうこつ》として耳を傾けていた。彼がひき終ると、ケリッヒ夫人は立ち上がって、例の活発さで彼の手を取り、心から熱く感謝した。ミンナは手をたたいて、「すばらしいもの」と叫び、そんな「気高い」作を彼がもっと作るために、勝手に製作できるように、壁に梯子《はしご》をかけさせようと言い出した。ケリッヒ夫人は、途方もないミンナの言うことなんか本気で聞いてはいけないと、クリストフに言った。そして、庭が好きなら、来たいだけ幾度でも来るようにと願った。そして挨拶《あいさつ》に来るのが厭なら、それにも及ばないと言い添えた。
「挨拶にいらっしゃるには及びませんわ。」とミンナはわざわざくり返して言った。「ただ、もし来てくださらないと、覚えていらっしゃいよ!」
彼女はかわいいおどかしの様子で指先を動かした。
ミンナはクリストフに来てもらいたいとも、または自分にたいして礼儀を守ってもらいたいとも、別に望んではいなかった。しかし彼にちょっと影響を与えるのが気持よかった。そういうことを彼女は本能的に面白いと思っていた。
クリストフは嬉《うれ》しくて真赤になった。ケリッヒ夫人は、彼にその母のことや、昔知っていた祖父のことなどを、巧妙に話しかけて、ついに彼の心を奪ってしまった。二人の婦人の懇篤《こんとく》な温情は、彼の身にしみ込んだ。彼はそのうちとけた好意を、その社交的な愛想を、真面目《まじめ》なものだと信じたい心から、誇大して感じた。そして無邪気な隔てなさをもって、自分の抱負や惨《みじ》めな境遇を語りだした。もはや時間の過ぎるのも気づかなかった。そして召使が食事を知らせに来た時、驚いて飛び上がった。けれども、今後仲のいい友だちになるのだから、いやすでになってるのだから、いっしょに食事をしてゆくようにと、ケリッヒ夫人に言われた時、彼の恐縮は幸福に変わった。彼の食席は母と娘との間に設けられた。ピアノよりも食卓の腕前の方がずっとまずいと、一同から判断された。この方面の彼の教養はひどく閑却されていた。食卓では、飲食が肝心なことで、作法なんかは重大なことではないと、信じてる傾きがあった。それできれい好きなミンナは、むっとしたしかめ顔で彼を眺めていた。
食事の後には彼はすぐ辞し去ることと、皆は予期していた。しかし彼は二人の後について、小さな客間にいり、いっしょにすわり込んで、帰ることは頭に浮べてもいなかった。ミンナは欠伸《あくび》をかみつぶして、母の方に合図をした。彼はそれに気づかなかった。幸福に酔ってしまって、皆も自分と同じ心地だと――なぜなら、ミンナは彼を眺めながら、やはりいつもの癖で流し目を使っていたから――考えていたし、また、一度すわり込むともう、どういうふうに立上がって暇《いとま》を告げていいものかわからなかった。もしケリッヒ夫人が、遠慮のないしかもやさしいとりなしで、彼を帰らしてやらなかったら、彼は夜通しそこに留っていたかもしれなかった。
彼は帰ってゆきながら、ケリッヒ夫人の褐色の眼とミンナの青い眼との、やさしみのある光を心にいだいていた。手の上には、花のように繊麗《せんれい》な指先の、こまやかな接触を感じていた。そしていまだかつて嗅《か》いだことのない美妙な香《かお》りに、包み込まれ、恍惚《うっとり》となり、ほとんど気を失いかけていた。
次の日に、約束のとおり、彼はミンナにピアノを教えに来た。それ以来彼は、稽古《けいこ》を口実にして、きまって一週に二回ずつ、午前中にやって来た。そして音楽をひいたり話をしたりして、夕方もどることもしばしばだった。
ケリッヒ夫人は快く彼に会っていた。彼女は怜悧《れいり》な親切な女であった。夫を失った時は三十五歳だった。そして身も心も若かったが、深くはいり込んでいた社交界から惜気《おしげ》もなく退いてしまった。おそらく彼女は、そこで非常に面白い目に会ってきたし、また、味わいつくしておいてなお味わうことはできないという健全な考えをいだいていたので、たやすく隠退することができたのであろう。彼女はケリッヒ氏の追想に愛着していた。けれども、いっしょに生活していた間、愛に似た感情を彼にたいしていだいたことがあるのではなかった。彼女には善良な友情だけで十分だった。彼女は冷静な官能とやさしい精神とをもっていた。
彼女は娘の教育に一身をささげていた。愛し愛されようという妬《ねた》み深い女の要求が、ただその子供をのみ対象とするようになると、母親というものは往々過激な病的なところを帯びてくるものであるが、ケリッヒ夫人が愛についてもっていた節度は、それをよく軽減していた。彼女はミンナを愛撫《あいぶ》していたが、しかし明確な判断をミンナにくだして、その欠点を一つも見落そうとしなかったし、実際以上の幻をかけようなどとはさらにしなかった。明敏で賢い彼女は、的確な眼をもっていて、人の弱点や滑稽《こっけい》な点を一目に見てとることができた。悪意は少しもなかったが、それを見てとるのを愉快がっていた。彼女は嘲弄《ちょうろう》的な気質と寛大な気質とをともに具えていたのである。そして人を揶揄《やゆ》しながらも、人の世話をするのが好きだった。
少年のクリストフは、彼女の親切と批評的精神とに活動の機会を与えた。彼女がこの小都会へやって来た初めのうちは、大喪《たいそう》のために社会から遠ざかっていたので、クリストフが気晴らしの種となった。第一には彼のすぐれた技倆からであった。彼女は音楽家ではなかったけれども、音楽を愛していた。音楽に肉体的のまた精神的の安楽を見出し、その安楽のうちで彼女の思念は、快い憂愁の中に懶《ものう》く浸り込んでゆくのだった。暖炉のそばにすわり――クリストフが演奏してる間――編物を手にし、ぼんやり微笑《ほほえ》みながら、機械的に編物の指を働かせることに、また、過去のあるいは悲しいあるいは楽しい面影の間に漂っている、自分の夢想の定かならぬ揺めきに、黙々たる愉悦を味わった。
しかし彼女は音楽よりも、その音楽家の方にいっそう興味を覚えていた。彼女はかなり怜悧《れいり》で、たといクリストフの真の独創の才を見分けることはできなかったにしろ、その稀有《けう》な天稟《てんぴん》を感ずることができた。彼のうちにその不思議な炎がきざしてるのを見て、それが燃え出す様子を見守ることに、好奇な快さを感じた。また彼の精神上の長所、すなわちその方正、その勇気、子供としては感嘆すべき一種の堅忍などを、彼女はすぐに見てとった。それでも彼女はやはり、精緻《せいち》な嘲弄的な眼のいつもの鋭敏さで、彼を眺めてやめなかった。彼の無器用さ、醜さ、ちょっとした滑稽《こっけい》なことなどを、面白がっていた。まったく彼を真面目《まじめ》には考えてなかった(彼女はたいていなことを真面目には考えないのであった)。そのうえ彼女は、クリストフのおかしな客気《かっき》や、乱暴や、架空的な気分などを見て、彼があまり平衡のとれた人間ではないと思っていた。りっぱな人たちでありいい音楽家でありながら、皆多少|狂気《きちがい》じみたところのあるクラフト家の一人を、彼女は彼のうちに認めていた。
その軽い皮肉は、クリストフの眼にとまらなかった。彼はケリッヒ夫人の親切のみを感じた。彼は人から親切にされることにはあまり慣れていなかった。宮邸における職務上、日々社交界に接触はしていたけれども、あわれなクリストフはいまだに訓練も教育もない荒くれた子供のままだった。利己的な宮廷の人々は、彼の才能を利用することばかり考えて、世話をしてやろうとは少しも考えていなかった。彼は宮邸へやって来、ピアノにつき、演奏し、そして帰ってゆくきりで、口先ばかりのお世辞を言われる以外には、だれからも話しかけられもしなかった。祖父が死んで以来、家でも外でも、だれ一人として、彼が物を学び世に処し一人前の男になろうとするのを、助けてやろうと考える者もなかった。彼は自分の無知と粗雑な身ごなしとを苦にしていた。血水を流して一人で修養していた。しかしうまくゆかなかった。書物、談話、実例、すべてが不足していた。自分の悩みを友にでも打明けるべきだったが、それを決行することもできなかった。オットーにさえもそれをしかねた。なぜなら、彼が少し言い出してみると、オットーは軽蔑するような優越的な調子になって、それが彼には赤熱した鉄で焼かれるような気がしたのである。
そして今、ケリッヒ夫人といっしょにいると、すべてが気楽にいった。彼女の方から、彼が尋ねる――(クリストフの自負心にとっては尋ねるのが非常につらかった)――のを待つまでもなく、していけないことを穏かに示してくれ、なすべきことを知らしてくれ、服のつけ方や、食べ方や、歩き方や、話し方などを、いろいろ注意してくれ、習慣や趣味や言葉の誤りを、一つもそのままに捨てておかなかった。彼はそれに気を悪くすることができなかった。それほど彼女の手は、少年の疑り深い自尊心を繰縦するのに、軽妙で用心深かった。彼女はまた、それとなく彼に文学上の教育を施してやった。彼の不思議なほどの無学に、驚いてるような様子は見せなかった。けれども、いかなる機会をものがさないで、しかも単純に穏かに、クリストフが間違えるのは当然ででもあるかのように、その誤謬《ごびゅう》を指摘した。衒学《げんがく》的な教え方で彼の気を害することなく、ただ晩にいっしょになるようなおりに、歴史の面白い部分や、あるいはドイツや外国の詩人のいい詩などを、ミンナに読ましたり彼に読ましたりして、時間を過ごすようにした。彼女は彼を自分の家の子供同様に取扱った。それにはいくらか、保護者的ななれなれしい調子がこもってもいたが、彼は少しも気づかなかった。彼女は彼の服装の世話までして、服を新しく縫い直してやり、毛の襟巻《えりまき》を編んでやり、こまごました化粧道具を与え、しかも彼にそれらの世話や贈物を少しもきまり悪く感じさせなかったほど、愛想よくしてやった。すべて親切な婦人は、自分の手に託された子供にたいしては、別に深い感情を感じないでも、ただ本能的に、細かな注意を向けほとんど母親らしい世話をしてやるものであるが、ケリッヒ夫人も要するに、彼にたいしてそうだったのである。しかしクリストフは、それらの愛情がとくに自分の身に向けられてるものであると信じて、感謝の念にたえなかった。彼はよく突然ののぼせきった感激に駆られた。ケリッヒ夫人はそれを多少|滑稽《こっけい》にも思ったが、それでも快い感じを受けないではなかった。
ミンナとの関係はまったく違っていた。クリストフは、前日の思い出と娘のやさしい眼付とになお心酔いながら、初めて稽古《けいこ》を授けるために、ふたたび彼女に会った時、わずか前に見たのとは全然異なった娘を見出して、非常に驚かされた。彼女は彼の言うことに耳も傾けず、ほとんど彼の顔を眺めもしなかった。そして彼女が彼の方へ眼を上げた時、彼はその中にきわめて冷酷な色を見てとって、ぞっと心を打たれた。彼はなんで彼女の機嫌《きげん》を害したか知ろうとして、長い間苦しんだ。しかし彼は少しも彼女の機嫌を害したのではなかった。ミンナの感情は、昨日も今日も同じようで、彼にたいしてよくも悪くもなかった。ミンナは昨日と同じように今日も、彼にたいしてまったく無関心だった。たとい最初には、つとめて笑顔をして彼を迎えたとはいえ、それは小娘の本能的な嬌態《きょうたい》からだった。小娘というものは、退屈してる時にやってくる者ならだれにでも、どんな不愉快な者にでも、自分の眼の力をためしてみて面白がるものである。しかしもう翌日からミンナは、あまりにたやすく征服できる彼に、なんらの興味ももってはいなかった。彼女はクリストフをきびしく観察してしまった。ピアノをひくことは上手《じょうず》だが、きたならしい手をもっていて、食卓ではたまらないフォークの持ち方をしたり、ナイフで魚肉を切ったりする、躾《しつけ》の悪い醜い少年だと、彼を判断していた。それで彼を少しも面白く思っていなかった。彼からピアノを教わりたくはあった。彼と遊ぶこともまあ承知していた。なぜなら、当時他に友だちがなかったし、また、もう子供ではないと自分で言ってる癖に、満ちあふれてくる快活な気分を放散したくてたまらないことが、時々急に起こってくるからだった。しかもその快活な気分は、母親におけると同じく、最近の喪《も》に阻《はば》まれたためさらにつのっていたのである。しかし彼女はもう、家畜ほどにもクリストフを気にかけていなかった。そしてひどく冷淡な日にも、彼にやさしい眼付をすることがまだあったとはいえ、それはまったくうっかりしてるからであって、また他のことを考えてるからであって――もしくは単に、そういう習慣を失わないためにであった。そんなふうに彼女から眺められると、クリストフの心は躍《おど》った。けれども彼女の眼には、ほとんど彼の姿が映じてはいなかった。彼女は勝手な物語を考えていたのである。ちょうどこの若い女性は、甘い快い夢想でみずからおのれの官能を喜ばすような年齢に達していた。彼女は未経験だという点だけで潔白な好奇心と、非常な興味とをもって、たえず恋愛のことを考えていた。それにまた彼女は、育ちのいい令嬢として、ただ結婚の形式においてしか恋愛を想像してはいなかった。彼女の理想は、まだなかなか形が定まっていなかった。あるいは将校と結婚することを夢み、あるいはシルレルのように崇高謹厳な詩人と結婚することを夢みた。考えがたがいにうちくずし合った。そして最終に浮かんだ考えは、いつも同じ真面目《まじめ》さと同じ確信とで迎えられた。けれどもどの考えも、何か有利な現実に出会ったら、すぐに地位を譲るようなものばかりだった。若い空想的な娘らの前に、その夢ほど理想的でなくともより確実な一の姿が立現われて来る時には、彼女らは驚くべき平然さをもって、おのれの夢想を忘れてしまうものである。
要するに、ミンナは感傷的だが冷静であった。貴族的な名前とそれから来る矜《ほこ》りの念とにもかかわらず、彼女は青春の妙齢に達すると、ドイツの小家庭の主婦らしい魂をもっていた。
クリストフはもとより、婦人の心の複雑な――実際よりも外見の方がいっそう複雑な――構造を、少しも了解していなかった。二人の美しい女友だちのやり方に、しばしば面食《めんくら》った。しかし彼女らを愛するのが非常に嬉《うれ》しかったので、多少自分を不安になし悲しませる彼女らの様子もみな許してやって、こちらと同じように向うからも愛されてると思い込もうとした。情けある一言や一瞥《べつ》に、彼は夢中になって喜んだ。時には涙を流すほど心が転倒することもあった。
静かな小さい客間の中で、ランプの光で裁縫をしてるケリッヒ夫人から数歩のところに、テーブルの前にすわっていると――(ミンナはそのテーブルの向う側で、書物を読んでいた。二人は話もしなかった。庭に向かってる半開きの扉《とびら》から、小径《こみち》の砂が月光に輝いてるのが見えていた。軽いささやきが木々の梢《こずえ》から伝わっていた……)――彼は心からしみじみと幸福を感じた。と突然、わけもなく、彼は椅子《いす》から飛び上がって、ケリッヒ夫人の膝《ひざ》に身を投げ、その手を、針をもってる時ももってない時もあったが、その手をとってやたらに接吻しながら、口や頬《ほお》や眼を押しあててすすり泣くのであった。ミンナは書物から眼を上げ、軽く肩をそびやかして、かわいらしく口をとがらした。ケリッヒ夫人は、自分の足下に転がっている大子供を微笑《ほほえ》みながらうち眺め、自由な片方の手でやさしく彼の頭をなでてやり、情けのあるまた皮肉な美しい声で言うのであった。
「まあ、お馬鹿さんね、どうしました?」
ああいかに楽しいことであるか、その声、その平和、その静寂、叫びも衝突も乱暴もないその柔い空気、辛《つら》い生活のさ中のオーシス、そして――事物や人々を金色の反映で染める霊妙な光輝――力と苦悩と愛との急湍《きゅうたん》たる、ゲーテやシルレルやシェークスピアなど、神のごとき詩人の作を読みながら浮かび出す、その玄妙なる世界の霊妙な光輝……。
ミンナは書物の上に頭を傾《かし》げ、文章に熱して軽く顔を染め、さわやかな声で読んでいた。勇士や王の言葉を読む時には、声を少し濁らして重々しい調子をしようとしていた。時とすると、ケリッヒ夫人みずから書物を手にとって、彼女本来のやさしい理知的な風情《ふぜい》を、悲壮な物語に添えることもあった。しかし多くは、人の読むのに耳を傾けながら、肱掛椅子《ひじかけいす》に仰向《あおむけ》によりかかり、いつまでもできあがらない仕事を膝の上にのせ、自分自身の考えに微笑《ほほえ》んでいた――なぜなら、どんな書物であろうと、その奥底に彼女が見出すところのものは、いつも彼女自身の面影であった。
クリストフもまた朗読しようとした。しかしそれを諦《あきら》めなければならなかった。彼は口ごもり、言葉にまごつき、句読点を飛び越し、何にもわからない様子であったが、しかも非常に感動していて、悲愴《ひそう》な部分になると、涙が出て来るのを感じて、読みやめなければならなかった。すると癇癪《かんしゃく》を起こして、書物をテーブルの上に投げつけた。二人の女はそれを見て笑った。……いかに彼は彼女らを愛していたろう! 彼はどこへ行っても、彼女らの面影を忘れなかった。その面影はシェークスピアやゲーテなどの面影と混同していた。ほとんどどれがどれであるか区別がつかなかった。彼の魂の底まで情に激した戦慄《せんりつ》を呼び起こす美妙な詩人の言葉は、初めてそれを彼に聞かしてくれた懐《なつか》しい口と、もはや彼にとっては別々のものではなかった。その後二十年もたった後でさえ、エグモント[#「エグモント」に傍点]やロメオ[#「ロメオ」に傍点]をふたたび読んだり、あるいはその芝居を見たりする時、ある句にさしかかると、かかる静かな晩の思い出が、かかる楽しい夢の思い出が、そしてケリッヒ夫人やミンナの懐しい顔が、かならずや彼の頭に浮かんでくるであろう。
彼女らの姿をうち眺めながら、彼はいく時間も過ごした、晩、彼女らが書物を読んでる時にも――夜、彼が自分の寝床の中で、眠れないで眼を開いて、夢想に耽《ふけ》ってる時にも――昼間、彼が奏楽席の譜面台につき、半ば眼瞼《まぶた》を閉じて機械的に演奏しながら、夢想に耽ってる時にも。彼は二人のどちらにも、最も潔《きよ》い愛情をいだいていた。そして恋愛の何物であるかを知らなかったので、自分は恋してるのだと思っていた。しかし彼は、母親の方に恋してるのか娘の方に恋してるのか、それがみずからよくわからなかった。真面目《まじめ》に考えてみても、どちらを選んでいいかわからなかった。それでも、どうしても決定しなければいけないらしかったので、ケリッヒ夫人の方に心を傾けてみた。そして実際、その決心をするや否や、自分が恋しているのは彼女をであることがわかった。彼女の怜悧《れいり》な眼、半ば開いた口の無心な微笑《ほほえ》み、細やかな滑《なめ》らかな髪を横の方で分けているその若々しい麗わしい額、軽い咳《せき》を交える多少曇った声音、母性的なやさしい手、優雅な動作、知りがたいその魂、それらを彼は恋していたのである。彼女がそばにすわって、わからない書物の一節を親切に説明してくれる時、彼は幸福のあまり身を震わした。彼女はクリストフの肩に手を置いていた。その指の温みを彼は感じ、自分の頬《ほお》にかかる彼女の息を、彼女の身体の快い香りを、彼は感じた。恍惚《こうこつ》として耳を傾けながら、もはや書物のことは考えもせず、何にも了解しなかった。彼女はそれに気づいた。今言ったことをくり返さした。彼は黙っていた。彼女は笑いながら怒って、彼の顔を書物に押しつけ、そんなふうではいつまでたっても小さな驢馬《ろば》だと言った。彼はそれに答え返して、彼女[#「彼女」に傍点]の小さな驢馬でさえあるならば、彼女から追い出されさえしなければ、驢馬でもかまわないと言った。彼女はわざわざ小言をいってみた。それから、彼はごく馬鹿な賤《いや》しい小さな驢馬ではあるけれども、たといなんの役にもたたなくとも、せめてただおとなしく[#「おとなしく」に傍点]さえしていれば、家に置いてやることは――そしてまたかわいがってやることをも――承知すると言った。二人とも笑っていた。彼は喜びの中に浸っていた。
ケリッヒ夫人に恋してることがわかって以来、クリストフはミンナから離れていった。人を軽蔑した彼女の冷淡さに憤り始めた。そして、彼女としばしば会っていたので、しだいに遠慮しなくなってきたから、彼はもう自分の不機嫌《ふきげん》さを隠さなかった。彼女は好んで彼につっかかり、彼はそれにきびしく応答した。彼らはいつも不快なことを言い合った。ケリッヒ夫人はそれをただ笑うばかりだった。クリストフはその言葉争いに勝目がなかったから、時には憤然として出て行って、ミンナを大嫌いだと考えることもあった。そしてまたその家へもどって行くのも、ただケリッヒ夫人がいるからだと思い込んでいた。
彼は引きつづいてミンナにピアノを教えていた。一週に二回、朝九時から十時まで、音階と練習とを監督してやった。二人のいる室はミンナの研究室《スチューディオ》だった。不思議な勉強室で、この少女の頭脳の奇妙な乱雑さを、おかしなほど忠実に反映していた。
テーブルの上には、猫《ねこ》の音楽家ら――一そろいの管弦楽団――の、あるいはヴァイオリンをひいてるのもあれば、あるいはチェロをひいてるのもある、小さな像が置いてあって、そのほか懐中鏡、化粧道具、文房具、なども整然と並べてあった。棚の上には、しかめ顔をしたベートーヴェンや、大黒帽をかぶったワグネルや、ベルヴェデールのアポロンなど、音楽家らのごく小さな胸像がのっていた。暖炉の上には、葦《あし》のパイプをくゆらしてる蛙《かえる》のそばに、紙の扇があって、その扇面にはバイロイトの劇場が描いてあった。二段になってる書棚には、リュープケ、モムゼン、シルレル、ジュール・ヴェルヌ、モンテーニュ、などの著書と、家なき子とがあった。壁には、シクスティーヌの聖母とヘルコメルの絵との大きな写真がかかっていて、青と緑とのリボンで縁取ってあった。また、銀の薊《あざみ》のついた額縁にはいってるスウィスの旅館の景色もあった。とくに、室の隅々《すみずみ》まで方々に、将校やテナー歌手や楽長や友だちなどの写真がごっちゃにかかっていた――捧呈《ほうてい》の文句がついていて、ほとんどどれにも、詩が、少なくともドイツで詩と称せられてる句が、書き入れてあった。室のまんなかには、大理石の台の上に、髯《ひげ》をはやしたブラームスの胸像が厳《おごそ》かに控えていた。そしてピアノの上には、絹綿ビロードの小猿《こざる》と方舞《コチョン》の記念品とが、糸の先にぶらさがっていた。
ミンナはまだ寝腫《ねはれ》っぽい眼をし、不機嫌《ふきげん》らしい様子をして、遅く出て来るのだった。クリストフに型ばかりに手を差出し、冷やかに挨拶《あいさつ》をし、黙って真面目にしかつめらしく、ピアノのところへ行ってすわった。一人きりの時には、しきりなしに音階をひいて喜んだ。そうしてると、半睡の状態や、みずから語ってる夢などを、心地よく長引かすことができるのだった。しかしクリストフは、むずかしい練習にしいて彼女の注意を向けさした。それで彼女は意趣返しに、できるだけ拙《まず》くひこうとくふうすることもあった。彼女はかなりの音楽家だったが音楽を好んでいなかった――多くのドイツ婦人のように。しかしまたその例にもれず、音楽を好まなければならないと思っていた。そしてかなり本気に稽古《けいこ》を受けていた。しかし時々は、教師を怒らすために、意固地《いこじ》な真似《まね》をするのだった。そのうえに、冷淡無関心な学び方で、いっそう教師を怒らした。最もいけないのは、ある表情的な楽節の中に魂をうち込まなければならないと彼女が考えてる時であった。そういう時彼女は感傷的になっていたが、何にもほんとうに感じてはいなかった。
少年クリストフは、彼女のそばにすわって、さほど丁寧《ていねい》でなかった。決してお世辞を言わなかった、お世辞を言うどころではなかった。彼女はそれに恨みをいだいて、彼から注意を受けるとかならず口答えをした。彼が言うことにはなんでも逆らった。自分が間違えた時でも、書いてあるとおりにひいたんだと強情を張った。彼はいらだった。そして二人は無作法な言葉を言い合った。彼女は鍵盤《キイ》に眼を伏せながら、クリストフの様子を窺《うかが》い、その憤りを面白がった。退屈をまぎらすために、いろんな馬鹿な策略を考えついて、稽古の邪魔をしクリストフをいじめようとばかりした。気をもませるために息づまった真似をした。またはやたらに咳《せ》き込んだり、あるいは女中に大事なことを言い忘れてるなどと言った。クリストフはそれを狂言だと知っていた。ミンナはクリストフにそう知られてることを知っていた。そして彼女はそれを面白がった。なぜなら、クリストフは自分の思ってることを彼女にそう言うことができなかったから。
ある日、彼女はそういう気晴らしをまた始めて、切なそうに咳をつづけ、顔をハンケチに埋め、あたかも息がつまりかけてるようなふうをした。そしていらだってるクリストフを横目で窺《うかが》っていた。その時彼女は、ハンケチを落してクリストフに拾わしてやろうと、うまいことを考えついた。クリストフはこの上もなく無愛想な様子で拾ってやった。彼女は貴婦人ぶった「ありがとう!」の一言をそれに報いた。彼はも少しで怒鳴り出そうとした。
彼女はその戯れをたいへん面白いと考えて、なおくり返そうとした。そして翌日それをやった。クリストフは動かなかった。憤りにむかむかしていた。彼女はちょっと待ったが、それから不満な調子で言った。
「ハンケチを拾ってくださいませんの?」
クリストフはもう我慢しきれなかった。
「私はあなたの召使じゃありません。」と彼はぞんざいに叫んだ。「自分でお拾いなさい。」
ミンナは息がつまった。にわかに腰掛から立ち上がった。腰掛は倒れた。
「あんまりだわ。」と彼女は言いながら、腹だたしく鍵盤をたたいた。そしてひどい勢で室から出て行った。
クリストフは彼女を待った。彼女はもどって来なかった。彼は自分の行ないが恥ずかしかった。無頼漢みたいなことをしたと感じた。で彼は進退きわまった。彼女からはあまりに厚かましい嘲弄を受けていたのである。彼はミンナが母親に訴えはすまいかと恐れた、ケリッヒ夫人の心が変わってしまいはすまいかと恐れた。彼はどうしていいかわからなかった。自分の乱暴を後悔はしていたが、許しを乞う気にはどうしてもなれなかった。
翌日彼は、ミンナが稽古《けいこ》を受けることを拒むかもしれないと考えてはいたけれど、とにかくまたやって来た。しかしミンナは、高慢な心からだれにも言いつけなかったし、もとより多少良心にやましい点がないでもなかったので、普通より五分ばかり長く待たしただけで、そこに出て来た。そして、クリストフのことなんか眼中にないかのように、ふり向きもせず、一言もいわず、まっすぐにつんとして、ピアノの前に行ってすわった。それでもやはり、彼から稽古を受けたし、なお引きつづいて彼から学んだ。というのは、クリストフが音楽に通じてることをよく知っていたし、また、自分がなろうと考えてるもの、すなわち生まれのよいりっぱな教育のある令嬢――それになろうとするには、ピアノをよく覚えなければならないということを、よく知っていたからである。
けれども、彼女はいかに退屈してたことだろう! 彼らは二人とも、いかに退屈してたことだろう!
霧深い三月のある朝、細かな雪が羽毛のように灰色の空中に飛び舞っていた時、二人は研究室《スチューディオ》にいた。室内はほの暗かった。ミンナは音符を一つ間違えて、いつものとおり言い争い、「そう書いてある」と言い張った。彼女が嘘《うそ》を言ってることはよくわかっていたけれども、クリストフは楽譜の上に身をかがめ、問題の楽節をまぢかに見ようとした。彼女は譜面台の上に片手を置いていて、それをのけようともしなかった。彼の口はその手のそばに近づいた。彼は音譜を読もうとしたが読めなかった。他の物を見ていたのである――花弁のようなしなやかな透き通った物を。そして突然――(どんなことが頭に浮かんだかみずから知らなかったが)彼は力いっぱいに、その愛くるしい手に唇を押しあてた。
二人ともそれにびっくりした。彼は後ろに飛びのき、彼女は手を引込めた――二人とも真赤になりながら。二人は一言も交《か》わさなかった。顔を見合しもしなかった。当惑してちょっと黙っていた後、彼女はまたピアノをひき始めた。胸が押えつけられてるように軽く喘《あえ》いでいた。やたらに音符を間違えた。彼はその間違いに気づかなかった。彼女よりいっそう心乱れていた。顳顬《こめかみ》がぴんぴんして、何にも耳にはいらなかった。そしてただ沈黙を破るために、息づまった声で、むちゃくちゃに意見を述べた。もう取り返しのつかないほどミンナから悪く思われたことと、彼は考えていた。自分の行ないに困惑してしまい、馬鹿な下等な行ないだと思っていた。稽古《けいこ》の時間が終ると、顔も見ないでミンナと別れ、挨拶《あいさつ》することさえ忘れてしまった。しかし彼女は悪く思っていなかった。もうクリストフを育ちが悪いとも思っていなかった。非常にひき違いをしたというのも、それは、驚いたそして――初めて――同情のこもった好奇心をもって、なお横目で彼の様子を窺《うかが》ってやめなかったからである。
一人になると彼女は、いつものように母のところへ行くことをしないで、自分の居間にとじこもり、その異常な出来事を考えてみた。彼女は鏡の前に肱《ひじ》をついていた。自分の眼がやさしくって輝いてるような気がした。考えに耽って軽く唇を噛《か》んだ。自分のかわいい顔を嬉《うれ》しく見入りながら、先刻の光景を描き出して、真赤になり、微笑《ほほえ》んだ。食卓についた時には、元気で快活だった。それから外出を断って、午後の一部を客間で過ごした。手には編物をもっていたが、十針も正しく編むことはできなかった。しかしそんなことはどうでもかまわなかった。室の片|隅《すみ》に、母の方へ背を向けて、彼女は微笑《ほほえ》んでいた。あるいは突然はね出したくなって、大声に歌いながら室の中を飛び回った。ケリッヒ夫人はびっくりして、気違いだと呼んだ。ミンナは身をねじって笑いながら、彼女の首に飛びつき、彼女の息がつまるほど強く抱きしめた。
その晩彼女は、自分の居間に退いてからも、長く床にはいらなかった。鏡の中ばかり覗《のぞ》き込んで、思い出そうとしたが、終日同じことばかり考えていたので、もう何にも考えられなかった。彼女は静かに着物をぬいだ。たえずぬぐ手を休めては、寝台の上にすわり、クリストフの面影を思い出そうとした。彼女に現われたのは、幻のクリストフだった。そして今はもう、クリストフがさほど醜くも見えなかった。彼女は床について、燈火を消した。十分ばかりすると、その朝の光景が突然頭に浮かんだ。彼女は笑いだした。母親は禁じておいたのにもかかわらず床の中で書物を読んでることと思って、静かに起き上がり、扉を開いた。見ると、ミンナは静かに寝ていたが、夜燈のほのかな光の中に大きく眼を見開いていた。
「どうしたんです?」と彼女は尋ねた、「何が面白いの?」
「何にも。」とミンナは真面目に答えた。「考えてるの。」
「一人っきりでおかしがるなんて、ずいぶん気楽な人ですね。だけどもう、眠らなければいけませんよ。」
「はい、お母様。」と従順なミンナは答えた。
しかし心の中では、「あっちへ行らっしゃい、あっちへ行らっしゃいよ!」とぶつぶつ言っていた。するとついに、扉がまた閉《し》まって自分の夢想を味わいつづけることができた。彼女は懶《ものう》い無我の境にはいっていった。眠りかけると、嬉しくって飛び上がった。
「私を愛してるわ。……嬉《うれ》しいこと! 愛してくれるなんて、なんとやさしい人だろう!……私、ほんとに好きだわ!」
彼女は枕《まくら》を抱きしめた。そしてすっかり寝入った。
二人がまた初めていっしょになった時、クリストフはミンナの愛想よいのに驚かされた。彼女は彼に挨拶《あいさつ》をし、ごくやさしい声で、機嫌《きげん》はどうかと尋ねた。おとなしい慎《つつ》ましい様子でピアノについた。まったく従順な天使だった。意地悪な生徒らしい悪戯《いたずら》を、もう少しもしなかった。クリストフの意見にかしこまって耳を傾け、それが正しいことを認め、一つ間違いをしても、みずから自責の声をたてて、それを直そうとつとめた。クリストフには少しも訳がわからなかった。彼女はわずかな間に、驚くべき進歩をした。ただにひくのが上手になったばかりでなく、音楽が好きになっていた。彼は少しもお世辞の言えない性質だったが、讃《ほ》めないわけにはゆかなかった。彼女は嬉しくて顔を赤らめ、感謝に濡《うる》んだ眼付を見せた。彼女は彼のために、化粧に気を配り始めた。美妙な色合のリボンをつけた。クリストフに向かって、微笑《ほほえ》みかけたりなよなよしい眼付をした。クリストフはそれを不愉快に感じ、腹をたて、心の底までむかむかした。今は彼女の方から話しかけようとつとめていた。しかしその会話には少しも子供らしい点がなかった。真面目《まじめ》くさった口をきいて、ちょっと容態《ようだい》ぶった衒学《げんがく》的な調子で詩人の句を引用した。彼はほとんど答えもしなかった。気持が悪かった。今まで知らなかったその新しいミンナに、彼は不思議な気がし、また不安を覚えた。
彼女はいつも彼の様子を窺《うかが》っていた。彼女は待っていた……何を?……彼女みずからはっきり知っていたろうか?……彼女は彼がふたたびするのを待っていたのである。――が彼はよく注意して避けていた。田舎《いなか》者のような仕業《しわざ》だと思い込んでいた。もう少しもそれを考えていないらしくも思われた。彼女はじれだした。ある日彼が、その危険なかわいらしい手を敬遠して、少し離れて平然とすわっていた時、彼女は焦燥の念にとらえられた。そして自分でも考えてみる暇《ひま》がないほど素早く、彼の唇に自分の手を押しあてた。彼は狼狽《ろうばい》し、次に憤りつつ恥ずかしかった。それでもやはり、その手に接吻し、しかもごく熱烈に接吻した。が彼女のそういう無邪気な厚かましさに腹だった。彼はミンナをそこに置きざりにして立去ろうとまでした。
しかし彼はもうそれができなかった。とらえられていた。騒然たる種々の考えが胸中に乱れていた。何にもよくわからなかった。谷間から立ち上る靄《もや》のように、それらの考えは心の底から湧《わ》き上がっていた。彼はその恋愛の狭霧《さぎり》の中を、めくら滅法にあちらこちら彷徨《さまよ》った。そしていかに努力しても、あるおぼろな固定観念のまわりを、あたかも虫にたいする炎のような、恐るべき魅惑的な、未知の「欲望」のまわりを、ただぐるぐる回るばかりだった。それは「自然」の盲目な力のにわかの沸騰であった。
二人は期待の時期を通っていた。二人ともたがいに窺い、たがいに欲求し、たがいに恐れていた。彼らは不安だった。それでもやはりちょっとした敵意や不平顔をつづけた。しかしもう彼らの間には、なれなれしい様子はなくなっていた。たがいに黙っていた。各自沈黙のうちに、おのれの恋愛を建設するのに忙しかった。
愛には不思議な溯及《そきゅう》的な作用がある。クリストフはミンナを愛してると知った瞬間に、同じくまた、前から常にミンナを愛しているのだと知った。三か月以前から、彼らはほとんど毎日のように顔を合わせていたが、彼はその愛を夢にも気づかなかった。しかし今や彼女を愛しているので、過去未来永久に彼女を愛してるのだと、どうしてもならざるをえなかった。
だれを[#「だれを」に傍点]愛してるかをついに発見したのは、彼にとっては安心だった。彼は実に久しい以前から、だれをとも知らずに愛していたのである。彼の安堵《あんど》はあたかも、全身的な漠然《ばくぜん》とした不安な病気に悩んでる病人が、その病気がしだいにはっきりしてきて、一局部に限られた鋭い苦痛となるのを見るようなものだった。一定の対象のない恋愛くらい破壊的なものはない。それはあらゆる力を腐蝕《ふしょく》し溶解する。しかしはっきりわかってる情熱は、精神を極度に緊張させる。それは人を疲らせるものではある。けれど少なくとも人はその理由を知っている。何物でも空虚よりはまだましである。
クリストフは、ミンナが自分にたいして無関心ではないと信ずべきりっぱな理由を与えられてはいたけれども、やはり気をもまないではおられなくて、彼女から軽蔑されてるように考えていた。彼らはたがいに相手についての明確な観念を得たことがなかった。しかしこの時ほど、その観念が不確かなことはなかった。それは奇怪な想像のごたごたした連続であって、どうしても全体としてのまとまりがつかなかった。極端から極端へ移り変わって、実際にない欠点や美点をたがいに与え合っていた。離れてると美点を想像し合い、いっしょになってると欠点を想像し合った。いずれの場合においても、彼らはまさしく同じように思い違いをしていた。
みずから何を欲求してるのか彼らは知らなかった。クリストフの方では、その恋愛は、専横な絶対的な愛情の渇望となって現われていた。彼はその渇望に、幼年時代からすでにさいなまれていて、他人にもそれを求め、否応《いやおう》なしにそれを他人へも押しつけようとしていた。時とすると、自己および他人の――おそらく他人の方がおもだったろうが――全部の献身を求むる専制的なその欲求に、獣的なほの暗い欲望の発作が交っていた。彼はその発作に眩惑《げんわく》したが、それがなんであるかをよく了解していなかった。ミンナの方は、とくに好奇心に富んでいて、物語《ローマンス》の主人公となるのが嬉しく、その物語《ローマンス》から、自尊心と感傷性とのありとあらゆる快楽を引出そうとしていた。自分の感じてることについて、心から自分を欺《あざむ》いていた。かくて彼らの恋愛の大部分は、まったく書物から来たものであった。彼らは書物で読んだ小説を思い出して、実際にもってもしない感情をたがいに想像し合っていた。
けれども、それらの小さな虚偽や、それらの小さな利己心などが、恋愛の聖《きよ》い光輝の前に消え失《う》せる時期は、来かかっていた。ある日、ある時、永遠なる数瞬間……。しかもきわめて不意に!……
ある夕方、彼らは二人きりで話をしていた。客間の中は暗くなりかかっていた。二人の会話は真面目《まじめ》な色合を帯びていた。無窮だの生だの死だのについて話していた。彼らの小さな熱情をはめこむには、あまりに大きすぎる額縁《がくぶち》だった。ミンナは自分の孤独を嘆いた。それにたいするクリストフの答えはおのずから、彼女は自分で言ってるほど孤独ではないということだった。
「いいえ、」と彼女は小さな頭を振りながら言った、「みんな口先ばかりだわ。だれでも各自《めいめい》自分のためにばかり生きていて、人をかまってくれる者はいないし、人を愛してくれる者はいないことよ。」
ちょっと沈黙がつづいた。
「では私は?」とクリストフは突然、感情のあまり蒼《あお》くなって言った。
一徹な娘はいきなり飛び上がって、彼の手をとった。
扉が開いた。二人は飛びのいた。ケリッヒ夫人がはいって来た。クリストフは書物に顔を伏せて、逆さのまま読み耽った。ミンナは編物にかがみ込んで、針で指をつっ突いてばかりいた。
その晩じゅう、彼らはもう二人きりにならなかった。二人きりになるのを恐れていた。ケリッヒ夫人は立上がって、隣りの室に何か捜しに行こうとした。ミンナは平素あまり人の気を迎える性質ではなかったが、その時は彼女の代わりにそれを取りに駆けて行った。クリストフはその不在に乗じて、彼女へは挨拶《あいさつ》もせずに帰って行った。
翌日、彼らはまた会った。途切れた話の続きをやりたくてたまらなかった。しかしそれはうまくゆかなかった。とはいえ事情は好都合だった。ケリッヒ夫人といっしょに散歩に出かけた。勝手に話のできる機会はいくらもあった。しかしクリストフは口をきくことができなかった。それが非常につらかったので、途中ではできるだけミンナから離れていた。ミンナはその失礼に気づかないふりをしていた。しかし癪《しゃく》にさわって、明らさまに見せつけてやった。クリストフがついに思いきって何か言おうとした時、彼女は冷かな様子でそれを聞いた。彼はその文句をしまいまで言い切るのもやっとのことだった。散歩は終りかけていた。時間は過ぎていった。そして彼はその機を利用できなかったのが残念でたまらなかった。
一週間過ぎた。彼らは相互の感情を考え違いしてると思った。先日の夕方のことは、夢ではなかつたかと疑った。ミンナはクリストフに恨みを含んでいた。クリストフはミンナ一人に出会うのを怖《おそ》れていた。彼らはいつになくますます冷淡になっていた。
ついにある日が来た。――午前中と午後少し雨が降った。彼らは家の中に閉じこもり、言葉もかわさず、書物を読んだり、欠伸《あくび》をしたり、窓から外を眺めたりした。退屈でくさくさしていた。四時ごろ空が晴れた。二人は庭に飛び出した。高壇《テラース》の手摺《てすり》に肱《ひじ》をついて、河の方へ低くなってる芝生の斜面を眼の下に眺めた。地面は湯気をたてて、生温《なまあたたか》い水蒸気が日向《ひなた》に立ち上っていた。雨の雫《しずく》が草の上に閃《ひらめ》いていた。濡れた地面の匂いと花の香りとが、いっしょに交っていた。彼らのまわりには、金色の蜂《はち》が羽音をたてて飛んでいた。彼らは相並んだまま、たがいに見向きもしなかった。思い切って沈黙を破ることができなかった。一匹の蜂が、雨に重くなってる一房の藤《ふじ》の花にうっかりとまって、ぱっと水を浴びた。二人は一度に笑いだした。するとすぐに、もうたがいに気を悪くしてるのでないことを感じ、仲のいい友だちであることを感じた。けれどもやはり顔を見合わせなかった。
突然、振向きもしないで、彼女は彼の手をとり、そして言った。
「いらっしゃいよ。」
彼女は彼を引っぱりながら、小さな木立の迷宮の方へ駆けていった。両側に黄楊《つげ》の植わってる小径《こみち》が縦横に通じていて、林のまんなかが小高くなっていた。二人はその坂を上っていった。湿った地面に足が滑《すべ》った。雨に濡れた木の枝が二人の頭の上で揺れた。頂上に着きかけると、彼女は立止まって息をついた。
「待ってちょうだい……待ってちょうだい……。」と彼女は息切れを鎮《しず》めようとしながら低く言った。
彼は彼女を眺めた。彼女は他の方を向いていた。半ば口を開いて息をはずませながら、微笑《ほほえ》んでいた。その手はクリストフの手の中にひきつっていた。彼らは握りしめた掌《てのひら》とうち震う指とに、血が脈打つのを感じた。あたりはひっそりとしていた。木々の金緑の若芽が、日の光に顫《ふる》えていた。小さな雫《しずく》が、銀の音色をして木の葉から滴《したた》っていた。そして空には、燕《つばめ》の鋭い声が過ぎていった。
彼女は彼の方へふり向いた。一|閃《せん》の光だった。彼女は彼の首に飛びつき、彼は彼女の腕の中に身を投じた。
「ミンナ、ミンナ、恋しい……!」
「あなたを愛しててよ、クリストフ、愛しててよ!」
彼らは濡れた木の腰掛にすわった。恋しさに、甘く深いやたらな恋しさに、しみ通っていた。他のことはすべて消えてしまった。もはや利己心もなく、見栄《みえ》もなく、下心もなかった。魂のあらゆる曇りは、その愛の息吹《いぶ》きに吹き払われてしまった。「愛する、愛する、」――笑みを含み涙に濡れた彼らの眼がそう言っていた。この冷淡な婀娜《あだ》な少女、この傲慢《ごうまん》な少年、彼らはたがいに身をささげ苦しみ、たがいのために死にたいという、欲求に駆られていた。彼らはもはや自分がわからなかった。もはや平素の自分自身ではなかった。すべてが変わっていた。彼らの心も顔立も眼も、痛切な温情と愛情とに輝いていた。純潔の、無我の、絶対的献身の、瞬間であって、もはや生涯にふたたび来ることのない瞬間であった。
夢中のささやきの後、永久にたがいに相手のものであるという熱烈な誓いの後、とりとめもない歓喜の言葉とくちづけの後、彼らはもう遅くなってるのに気づいた。そして手をとり合って駆けもどりながら、狭い小径《こみち》につまずき倒れるのも恐れず、木にぶっつかるのもかまわず、何にも感ぜず、ただ喜びの情に眼眩《めくら》み心酔っていた。
彼女と別れてから、彼は家に帰らなかった。帰っても眠れなかったろう。彼は町の外に出て、野を横切って歩いた。夜中を当《あて》もなく歩き回った。空気はさわやかで、野は暗く寂しかった。梟《ふくろう》が寒そうに鳴いていた。彼は夢遊病者のように歩いていった。葡萄《ぶどう》畑の中にある丘に上った。町の小さな灯《ひ》が平野の中に震えていて、星が暗い空に震えていた。彼は路傍の土壁に腰掛けた。にわかに涙がほとばしった。なぜだかみずからわからなかった。彼はあまりにも幸福だった。その過度の喜びは、悲しみと嬉《うれ》しさとでできていた。その中に彼は、自分の幸福にたいする感謝を、仕合わせでない人々にたいする憐れみを、事物の無常さから来るもの悲しい甘い感情を、生きることの酣酔《かんすい》を、交えていた。彼は楽しく涙を流した。涙のうちに眠っていった。眼を覚《さま》すと、ほのかな曙《あけぼの》になっていた。白い霧が河の上にたなびき、町を包んでいた。そこにはミンナが、幸福の笑みに心を輝かしながら、疲れに負けて眠っていた。
朝のうちから彼らは首尾よく庭で会うことができて、たがいに愛してるとまた言い交わした。しかしもうそれは、前日のような聖い無我の心地ではなかった。彼女は多少恋人らしい芝居をしていた。彼の方は、彼女よりも誠実ではあったが、やはりある役割をつとめていた。彼らは将来の生活を話し合った。彼は自分の貧困やつまらぬ身分を嘆いた。破女は鷹揚《おうよう》なふりをして、みずからその鷹揚さを楽しんだ。金銭には無頓着《むとんじゃく》だと自分で考えていた。そして実際無頓着だった。金に不自由をしたことがないので、金銭というものをほんとうによくは知っていなかったのである。彼は大芸術家になると誓った。彼女はそれをあたかも小説のように面白い美しいことだと思った。彼女は真の恋人のように振舞うのを義務だと信じた。詩を読んで感傷的になった。彼もその気分に感染した。彼は自分の服装《みなり》に心を配りだした。滑稽《こっけい》だった。口のきき方にも注意しだした。気障《きざ》だった。ケリッヒ夫人は笑いながら彼を見守って、どうしてそんな馬鹿げたふりをするようになったか怪しんでいた。
しかし二人には、えもいえぬ詩的な瞬間があった。やや蒼《あお》ざめた日々のさなかに、霧を通して日の光がさすように、その瞬間が突然輝き出すのであった。それはある眼付や身振りや言葉の瞬間で、なんの意味もないものではあるが、二人を幸福のうちに包み込むのだった。晩に薄暗い階段のところでかわす「さよなら」、薄暗がりでたがいに求め合いたがいに察し合う眼付、触れ合う手の戦《おのの》き、声の震え、すべてつまらないことばかりだった。しかし夜になって、時計の鳴る音にも眼を覚ますような軽い眠りに入っている時、小川のささやきのように「私は愛されてる」と心が歌っている時、二人にはそれらの思い出が浮かんでくるのであった。
二人は事物の魅力を見出した。春は無上の楽しさをもって微笑《ほほえ》んでいた。彼らが今まで知らなかったほどの、輝きが空にはあり、やさしみが空気にはこもっていた。町じゅうが、赤い屋根も、白い壁も、凸凹《でこぼこ》の舗石も、親しい魅力を帯びて、クリストフはそれに心を動かされた。夜、人の寝静まっている時、ミンナは寝床から起き上がり、半ば眠り心地で心を躍《おど》らせながら、長く窓にもたれていた。午後、彼がいない時には、彼女はブランコに腰をかけ、書物を膝に置き、眼を半ば閉じ、快い懶《ものう》さにうっとりとし、身も心も春の空気中に漂うような心地がして、夢想に耽っていた。今や彼女はいく時間もピアノについていて、他人の目にはたまらないほどの気長さで和音や楽節をくり返してひき、それに感動して顔色を失い冷たくなっていた。シューマンの音楽を聞くと涙を流した。万人にたいする憐れみと親切とで心がいっぱいになってる気がしていた。そして彼もまた彼女と同じ心地であった。二人は貧しい者に出会うと、ひそかに施与をして、同情にたえない眼付をたがいにかわした。親切にしてやるのが嬉しかった。
ほんとうをいえば、彼らは間歇《かんけつ》的にしか親切ではなかったのである。ミンナは、母の子供のおりから家で働いている老婢《ろうひ》フリーダの献身的な卑しい生涯が、いかにあわれなものであるか、突然気がついた。そして彼女のところへ駆けて行って首に抱きついた。台所でシャツを繕《つくろ》っていた老婢は非常にびっくりした。それでもミンナはやはり、二、三時間もたてば、呼鈴を鳴らしたのにフリーダがすぐにやって来なかったからと言って、荒々しい言葉を使った。またクリストフの方も、あらゆる人間にたいする愛情で胸をせつなくし、一匹の虫をも踏み潰《つぶ》さないようにとよけて通っていたのに、自家の者たちにたいしては冷淡きわまっていた。奇怪な反動ではあるが、あらゆる他人にたいして情け深くなればなるほど、それだけ家の者にたいしてはいっそう冷酷になっていった。家の者のことはろくに考えもせず、無作法な口のきき方をし、厭な眼付で眺めていた。二人にとっては、その親切はあまりに満ち満ちた愛情の結果にすぎなかった。その愛情は発作的にあふれ出して、だれでもぶっつかった者に利を与えるのだった。そしてその発作を除いては、二人は平素よりもいっそう利己的になっていた。二人の頭はただ一つの考えに満されていて、すべてがそこに帰着するからであった。
この少女の面影は、クリストフの生活のうちに、いかに大なる場所を占めていたことだろう! 庭に彼女の姿を捜し求めて、小さな白い長衣を遠くに見出す時――劇場で、まだ空いている彼女ら二人の席から数歩のところにすわっていて、桟敷《きじき》の扉が開くのを聞き、よく知りぬいているあでやかな声を耳にする時――まったく無関係な話の中に、ふとケリッヒというなつかしい名前が出てくる時、彼はいかに感動したことであろう! 彼は蒼《あお》くなりまた赤くなった。しばらくの間は何にも聞こえも見えもしなかった。その後ではすぐに、血の激流が全身に湧き上がり、言い知れぬ力が躍《おど》りたってくるのであった。
この無邪気な肉感的なドイツの少女は、不思議な遊戯を心得ていた。彼女は麦粉を敷いた上に指輪をのせた。二人は代わる代わる、鼻に粉がつかないようにして、その指輪を歯でくわえ上げるのだった。あるいは、彼女はビスケットに糸を通した。そして二人は糸の両端を口にくわえ、糸を食べながら、できるだけ早くビスケットに噛みつくのだった。二人の顔は近寄り、息は交じり、唇は触れ合った。二人はわざとらしく笑っていた。手は冷たくなっていた。クリストフは、向うに噛みついてやり、痛い目に会わしてやりたかった。が突然彼は後ろに飛び退《さが》った。彼女は強《し》いて笑いつづけた。二人はたがいに顔をそむけ、なんでもないふうを装っていたが、でもそっと眼を見合っていた。
それらの怪しい遊びは、二人にとって不安な魅力をもっていた。クリストフはそれを恐れて、ケリッヒ夫人かだれかがいっしょにいる窮屈な集まりの方を好んだ。どんな邪魔な人がいようと、二人の恋の心の対話を妨げることはできなかった。拘束はかえってその対話を、いっそう熱烈なものとしいっそう楽しいものとした。そういう時には、すべてが二人の間では限りなく価値あるものとなった。一つの言葉、一つの唇の皺《しわ》、一つの目くばせ、それだけでもう、日常生活の凡俗なヴェールの下から、二人の内部生活の豊富な鮮かな宝を輝き出させるに十分だった。彼らだけがその宝を見ることができた。少なくとも彼らはそう信じて、二人だけの小さな秘密に嬉《うれ》しくて、たがいに微笑《ほほえ》みかわした。彼らの言葉を聞いても、つまらない事柄についての客間話以外には、そこに何にも見てとられなかった。しかし彼らにとっては、それは恋のつきせぬ歌であった。たがいの顔付や声の最もとらえがたい色合いをも、彼らはよく読みとって、あたかも開いた書物の中で読むがようだった。また眼をつぶっていても読みとれたろう。相手の心の響きを聞くには、自分の心に耳を傾けさえすればよかったからである。彼らは、人生と幸福と自分たち自身とに、満ちあふれる信頼の念をいだいていた。彼らの希望には限界がなかった。彼らは愛し愛されて、幸福であり、なんらの陰影も知らず、疑念も知らず、未来にたいする心配も知らなかった。ああそれらの春の日のみが有する晴朗さよ! 空には一片の雲もない。何物にも弱められないほどの清新な信念。何物にも汲《く》み尽されないほどの豊富な喜悦。彼らは生きているのか? 夢みているのか? 確かに彼らは夢みているのだ。実生活と彼らの夢との間にはなんらの共通点も存しない。なんらの共通点も……ただ、その幻惑的な時期において、彼ら自身が一の夢にすぎないということ以外には。彼らの存在は恋の息吹《いぶ》きに融け去ってしまったのである。
ケリッヒ夫人は間もなく、二人の子供の素振りに気づいた。二人は巧みにやってるつもりだったが、実はごく拙劣《せつれつ》だった。ある日、ミンナが不都合なほどクリストフに近寄って話していると、不意に母がはいって来た。扉の音を聞いて、二人はへたにまごつき、あわてて飛び退《の》いた。がその時からミンナは、感づかれたのではないかと思った。しかしケリッヒ夫人は何にも気づかないふりをしていた。ミンナはかえって残念なくらいだった。彼女は母と争いたかった。それの方がいっそう小説的だったろうから。
母は彼女に争う機会をなかなか与えようとしなかった。そのことについて気をもむにはあまりに聡明《そうめい》だった。しかしミンナの前で、クリストフのことを皮肉な調子で話して、そのおかしな点を容赦もなく嘲《あざけ》った。数言でクリストフを冷評し去った。彼女は他意あってそうするのではなくて、自分の物を護《まも》りたいという女にありがちな浅はかな性質から、本能的に行なっていたのである。ミンナはそれに逆らい、不平顔をし、粗暴な言葉を使い、母の観察は嘘だと頑固《がんこ》に否定しようとしたが、無駄《むだ》であった。その観察はあまりに確かすぎていた。そしてケリッヒ夫人は、図星をさす残酷な技能をもっていた。クリストフの靴《くつ》の大きいこと、服の醜いこと、埃《ほこり》をよく払ってない帽子、田舎訛《いなかなま》りの発音、可笑《おか》しなお辞儀の仕方、高声の賤《いや》しさ、すべてミンナの自尊心を傷つけるようなことを一つも言い忘れなかった。だがそれは事のついでにもち出される意見にすぎなかった。決して非難の形をとって現われて来はしなかった。ミンナがいらだって、威丈高《いたけだか》に答え返そうとすると、ケリッヒ夫人は事もなげに、もう他のことを言っていた。しかしその刺《とげ》は残っていて、ミンナはそれに傷つけられた。
ミンナは以前ほど寛大な眼ではクリストフを眺めなくなった。彼はそれを漠然と感じて不安そうに尋ねた。
「どうして私をそんなに見るんです?」
彼女は答えた。
「なんでもないわ。」
しかしすぐその後で彼女は、彼がはしゃいでいると、あまり騒々《そうぞう》しく笑うと言ってきびしく非難した。彼は驚いた。笑うのにも彼女に気がねをしなければならないとは思いもよらないことだった。彼の喜びはすべて害された。――あるいはまた、彼がすっかり我を忘れて夢中にしゃべっていると、彼女は他に心を向けてるような様子でその話をやめさせ、彼の服装についてあまりありがたくない注意をしたり、または攻撃的な物知り顔で、彼の下品な言葉使いを指摘したりした。彼はもう口をききたくなく、時には機嫌《きげん》を損ずることもあった。がその次には、自分をいらだたせるそういうやり方も、ミンナが自分に愛情をいだいてる証拠であると思い込むのだった。そして彼女の方でもそう思い込んでいた。彼は殊勝にも彼女の注意に従って欠点を直そうとした。彼女はあまり満足しなかった。なぜなら彼はどうもうまく欠点を直せなかったから。
しかし彼は彼女のうちに起こってる変化に気づくだけの暇《ひま》がなかった。復活祭が来た。ミンナは母とともに、ワイマールの方の親戚《しんせき》の家へ、ちょっと旅をしなければならなかった。
別れる前の最後の一週間には、彼らは最初のころのような親しみをまた見出した。わずかな短気な振舞を除けば、ミンナはこれまでになくやさしかった。出発の前日、彼らは長い間庭を散歩した。彼女はクリストフを阿亭《あずまや》の奥に連れ込んで、一房の髪の毛を入れて置いた香袋《こうぶくろ》を、彼の首にかけてやった。彼らは永遠の誓いをまたくり返し、毎日手紙を書こうと約束した。空の星を一つ選んで、毎晩二人とも同じ時刻にそれを見ようと誓った。
悲しい日が来た。夜中に彼は幾度となく、「明日彼女はどこにいるだろう?」と考えたのであったが、今はこう考えた、「今日だ。今朝はまだ彼女はここにいるが、今晩は……。」彼は八時にもならない前から彼女の家へ行った。彼女は起きていなかった。彼は庭を歩き回ろうとした。がそれもできないで、またもどってきた。廊下は旅行カバンや荷物包みでいっぱいだった。彼はある室の片隅にすわって、扉の音や床板のきしる音を窺《うかが》い、頭の上の二階でする足音の主を聞き分けていた。ケリッヒ夫人が通りかかって、軽い微笑を浮かべ、立止まりもしないで、ひやかし気味にお早うと言った。ついにミンナが出て来た。蒼《あお》ざめた顔をして、眼をはらしていた。昨夜は、彼と同じに眠れなかったのである。彼女は忙しそうに召使らに用を言いつけていた。老婢フリーダに口をききつづけながら、クリストフに手を差出した。もう出発の用意ができていた。ケリッヒ夫人もまたやって来た。彼女らはいっしょに、帽子のボール箱について相談し合った。ミンナはクリストフになんらの注意も払っていないらしかった。クリストフは忘れられて悲しそうに、ピアノのそばにじっとしていた。ミンナは母とともに出て行った。それからまたはいって来た。入口でなお、ケリッヒ夫人に何やら叫んだ。彼女は扉を閉めた。二人きりになった。彼女は彼のところへ走り寄り、彼の手をとり、雨戸をしめきった隣りの小客間へ引き込んだ。そして彼女は、にわかにクリストフの顔へ自分の顔を近寄せ、力いっぱいに彼を激しく抱擁した。彼女は泣きながら尋ねた。
「約束してちょうだい、約束してちょうだい、いつまでも私を愛してくださるの?」
二人は低くすすり泣いた。人に聞かれないように、痙攣《けいれん》的な努力をした。足音が近づいて来るので、たがいに離れた。ミンナは眼を拭《ふ》きながら、召使らにたいして高慢ちきな様子にかえった。しかしその声は震えていた。
彼はうまく、彼女の落したハンケチを盗み取った。よごれた、皺《しわ》くちゃの、涙にぬれた、小さなハンケチだった。
彼は二人の女友だちと同じ馬車に乗って、停車場までついていった。二人の子供は、たがいに向き合ってすわりながら、涙にむせかえるのを恐れて、ろくに顔も見合わしえなかった。彼らの手は、たがいにそっと探り合って、痛いほどひしと握りしめた。ケリッヒ夫人はずるいお人よしの様子で二人の素振りを見守っていた、そして何にも気づかないふりをしていた。
ついにその時刻となった。クリストフは列車の入口近くに立っていたが、列車が動き出すと、それと並んで走り出し、前方に眼もくれず、駅員らをつきとばし、ミンナと眼を見合していたが、ついに列車から追い抜かれてしまった。それでもやはり走りつづけて、何にも見えなくなるまでは止まらなかった。見えなくなると、息を切らして立止まった。顧みると、プラットフォームにたたずんで他人の間に交じっていた。彼は家にもどった。幸いに家の者は出かけていた。その朝じゅう、彼は泣いた。
彼は初めて、別れていることの恐ろしい苦しみを知った。恋するあらゆる心にとってはたえがたい苦痛である。世の中は空《むな》しく、生活は空しく、すべてが空しい。もはや呼吸もできない。死ぬほどの悩みである。ことに、恋人の身にまつわった具体的な事物がなお周囲に残存している時、周囲の事物がたえず恋人の姿を描き出させる時、いっしょに暮した親しい背景の中に一人残っている時、その同じ場所に消え去った幸福を蘇《よみがえ》らせようとあせる時、それはあたかも、足下に深淵《しんえん》が開けたようなものである。身をかがめて覗《のぞ》き込み、眩暈《めまい》を感じ、まさに落ち込まんとし、そして実際落ち込んでしまう。まのあたり死を見るような心地である。そしてまさしく死を見てるのである。恋人の不在は、死の仮面の一つにすぎない。自分の心の最も大事な部分が消え失《う》せるのを、生きながら見るのである。生命は消えてゆく。真暗《まっくら》な穴である。虚無である。
クリストフはなつかしい場所をいちいち見に行って、なおさら苦しんだ。ケリッヒ夫人は彼に庭の鍵《かぎ》を渡して、留守中にもそこを散歩できるようにしてやった。彼は別れたその日に庭へまたもどっていって、悩ましい思いに息もつけないほどだった。彼はやって来る途中、出発してしまった恋人の多少の面影を、また庭に見出せるだろうと思っていた。実際来てみると、多少どころではなかった。彼女の面影は芝生の上いたるところに漂っていた。径《みち》の曲り角《かど》ごとに、彼女の姿が今にも眼の前に出て来そうだった。出て来ないことはよく承知していたが、しかしみずから苦しんでその反対を信じようとした。迷宮の林の中の小径《こみち》、藤《ふじ》のからまった高壇《テラース》、阿亭《あずまや》の中の腰掛など、恋しい思い出の跡を求めてはみずから苦しんだ。彼は執念深くくり返した。「一週間前は……三日前は……昨日は、そうだった。昨日彼女はここにいた。……今朝ほども……。」彼はそういう考えでみずから心を痛め、ついには息がせつなく死ぬほどになって、考えやめなければならなかった。――彼の悲しみには、多くの麗わしい時を利用もせず無駄に過ごしたという、自己|憤懣《ふんまん》の念が交じっていた。幾多の瞬間、幾多の時間、彼女に会い彼女の香りを吸い彼女の存在でおのれを養うという限りない幸福を、彼は楽しんできたのであった。しかも彼はその幸福の価《あたい》をほんとうには知っていなかった。わずかな瞬間をも皆味わいつくすことをしないで、うかうか時を過ごしてしまった。そして今や……。今となってはもう遅すぎた。……取り返しがつかない。取り返しがつかないのだ!
彼は家にもどった。家の者が厭《いや》に思えて仕方がなかった。彼らの顔付、彼らの身振、彼らのくだらない会話が、我慢できなかった。それらは前日と変わりなく、以前と変わりなく、彼女がいたころと少しの変わりもなかった。彼らはいつもの生活をつづけていて、かくも大きな不幸が近くに起こったことを知らないがようだった。また町じゅうの者も一人として何にも気づいていなかった。人々は笑いながら、騒々《そうぞう》しく、忙しそうに、仕事に赴《おもむ》いていた。蟋蟀《こおろぎ》は歌っており、空は輝いていた。彼はすべての者を憎んだ。世の中の利己的なのに圧倒される気がした。しかし彼は、彼一人で、世の中全体よりもいっそう利己的だった。彼にとっては、もはや何物も価値をもたなかった。彼はもはや好意をもたなかった。彼はもはやだれをも愛しなかった。
彼はいたましい日々を過ごした。自働人形のようなふうで仕事にとりかかった。しかしもう生きてゆく元気がなかった。
ある晩、彼が黙々としてうちしおれながら、家の者といっしょに食卓についている時に、郵便配達夫が戸をたたいて、彼に一封の手紙を渡した。彼はその手跡をも見ない前に、心にそれと思い当たった。四組の眼が、厚かましい好奇心をもって彼を見つめながら、いつもの退屈さから免れるような気晴らしの種をひたすら期待して、彼がその手紙を読むのを待っていた。彼は手紙を皿《さら》の横に置き、なんのことだかよくわかってるというような平気な顔をして、わざと開封もしなかった。しかし弟どもはじれだして、それを信ぜず、なおじろじろ見ていた。それで彼は食事が済むまで苦しめられた。食事が済んでから彼はようやく、自由に室の中へ閉じこもることができた。胸が高く動悸《どうき》していたので、手紙を開きながら危くそれを引裂こうとした。これからどういうことを読むかびくびくしていた。しかし初めの数語に眼を通すや否や、喜びの情が身にしみ渡った。
それはきわめて愛情のこもった文句だった。ミンナが内密に書いてよこしたものであった。「懐《なつか》しいクリスさま」と彼を呼んでいた。たいそう泣いたこと、毎晩あの星を眺めてること、フランクフルトに来ていること、大きな都会でりっぱな店があるけれども、何にも気が向かないこと、なぜなら彼のことしか考えていないからということ、などがいろいろ書いてあった。彼女にいつまでも忠実であって、彼女の不在中はだれにも会わずに、ただ彼女のことばかりを考えるようにすると、彼が先に誓ったことについて、念が押してあった。留守中たえず勉強して、名高い人になり、自分をもまた有名にしてほしいと、願ってあった。終りに、出発の朝別れを告げ合ったあの小客間を、覚えているかどうかと、尋ねてあった。いつか朝、そこへまた行ってくれと、頼んであった。自分の心はまだそこにあること、別れを告げたあの時と同じようにしているということ、などが確言してあった。「永久にあなたの私、永久に!」と終りを結んであった。そして二伸の添え書きがあって、みっともないフェルト帽をよして、麦稈《むぎから》帽を買うようにと、勧めてあった。――「ここでは、りっぱな人たちは皆それをかぶっていますのよ――広い青のリボンのついた荒い麦稈帽ですわ。」
クリストフは三、四度くり返し手紙を読んで、それで初めてよく意味がわかった。彼はぼーっとして、もう嬉《うれ》しがるだけの元気もなかった。しきりに手紙を読み返したりくちづけしたりしながら、にわかに疲労を感じて床にはいった。手紙を枕の下に置いて、たえず手で探っては、そこに手紙があることを確かめた。えもいえぬ楽しさが彼のうちに広がっていった。彼は翌日まで一息に眠った。
彼の生活はいくらかたえやすくなった。ミンナの真実な思いが身のまわりに漂っていた。彼は返事を書きかけた。しかし彼には自由に書くだけの権利がなかった。思ってることを隠さなければならなかった。それは苦しいまた困難なことだった。いつもおかしい使い方をしてる儀式ばった丁寧《ていねい》な文句の下に、恋の心を覆《おお》い隠そうとしたが、それもきわめてまずかった。
彼は手紙を出してから、ミンナの返事を待った。もはやその期待の念のうちにばかり生きていた。辛抱するために散歩や読書を試みた。しかしミンナのことばかり考えていて、ほとんど病的な執拗《しつよう》さで彼女の名をくり返し言っていた。偶像にでもたいするようにその名を愛していたので、どこへ行くにも、ミンナという名が出てるレッシングの一巻をポケットに入れていた。そして毎日、劇場から出ると、長い回り道をして、ミンナという恋しい三文字のついた看板が出てる小間物屋の店先を通った。
自分を名高い女にするために勉強してくれと彼女から切願されたので、彼はうっかりしてるのがやましかった。そういう要求の無邪気な虚栄心は、信頼のしるしとして彼の心を打った。彼はその求めに応ずるために、ただに彼女に捧呈するばかりでなく真に献《ささ》げきった一つの作品を、書いてみようと決心した。それで当分のうち他のことはいっさいできなかった。そしてその作品の構図を思いつくや否や、楽想《がくそう》は湧然《ゆうぜん》として湧《わ》いてきた。数か月来貯水池にたまっていた水量が、堤防を破って一挙に流れ出すのにも似ていた。彼は一週間の間自分の室を出なかった。ルイザは戸口のところに食事を置いていった。彼女をも室にはいらせなかったのである。
彼はクラリネットと弦楽器とのための五重奏曲《カンテット》を一つ書いた。第一部は、青春の希望と欲望との詩であった。最後の部は恋の諧謔《かいぎゃく》であって、クリストフの多少荒くれた気質がその中にほとばしっていた。しかしこの全曲は、次の曲たるラルゲットのために書かれたものであった。そこでクリストフは、熱烈素純な少女の魂を描いた。それはミンナの肖《すがた》であったし、また肖であるべきだった。だれも彼女の面影をそこに認めなかったかもしれないし、彼女自身も認めなかったかもしれないが、しかしたいせつなことは、彼がそれを完全に認めてることだった。恋人の一身をすっかりわが物にしたということを空想|裡《り》に感じて、彼は喜びの戦慄《せんりつ》を覚えた。どんな仕事も、これほどたやすくまた嬉《うれ》しいものはなかった。恋人の不在のために心にたまってる愛情を、一挙に放散させることであった。そしてまた同時に、芸術的製作への専心と、情熱を美しい明らかな形式のうちに統御し集注するための必要な努力とは、精神の健康と全能力の平衡とを彼に与えて、肉体的快感をも彼のうちによび起こした。あらゆる芸術家が知っている最上の享楽である。創作してる間、芸術家は欲望と苦悩との軛《くびき》を脱して、かえってその主人となる。彼を喜ばせるすべてのもの、彼を苦しませるすべてのもの、それらも皆自分の意志のままになるがように思われる。しかしそれも束《つか》の間である。なぜならその後では、現実の繋鎖《けいさ》がいっそう重く感じられてくるから。
クリストフは製作に従事してる間、ミンナがいないことをほとんど思う暇《ひま》もなかった。彼は彼女といっしょに生きていた。ミンナはもはやミンナの中にはなく、すっかり彼のうちにあった。しかし仕事を終えてしまうと、彼はまた孤独を感じ、前よりもいっそうの孤独を感じ、いっそうがっかりしていた。ミンナに手紙を書いたのは二週間前であること、彼女からは返事も来なかったこと、などが思い出された。
彼はふたたび手紙を書いた。そしてこんどは最初の手紙に強《し》いて守ったような遠慮を、どうしてもすっかり守ることができなかった。彼を忘れてしまったことを、冗談の調子で――なぜなら自分でもそれを信じていなかったから――ミンナに責めた。彼女の無精をからかって、やさしい揶揄《やゆ》をしてみた。非常にもったいぶって自分の仕事のことをほのめかした。彼女の好奇心を刺激したかったし、また、もどって来たらふいに喜ばしてやりたかったのである。買い求めた帽子のことを細かに述べた。その小さな専制者の命令に服従するために――彼は彼女の言うことをそっくり文字どおりに解釈していたのである――もう少しも家から出かけないで、いっさいの招待を断わるために仮病《けびょう》をつかってると、言ってやった。熱情のあまり、招かれた宮邸の夜会へも行かないで、大公爵の機嫌《きげん》を損じてるということだけは、書き添えなかった。手紙は楽しい明け放しの調子で、恋人同志にとって嬉《うれ》しい小さな内密事《ないしょごと》で満ちていた。その内密事を解く鍵《かぎ》をもってるのはミンナ一人だと、彼は思っていた。用心して恋愛の言葉をすっかり友情の言葉で置き代えたので、ごく上手《じょうず》にいったと考えた。
手紙を書き終えると、彼は一時の慰謝を感じた。第一には、手紙を書きながら不在のミンナと話をしてる気になったからであるし、次には、ミンナがすぐに返事をくれることと信じていたからである。で彼は、自分の手紙がミンナのもとへ届き、その返事が自分のもとへ届くには、三日ばかりかかると思っていたので、その間はごく気長に落着いていた。しかし四日目も過ぎてしまうと、もう生きていられないような気にふたたびなりだした。いくらか元気があり、物に興味を覚えるのは、ただ郵便が来る間ぎわの時間だけだった。そういう時彼は、待ちかねて足をふみ鳴していた。彼は迷信家になって、ちょっとしたしるし――暖炉の火のはじく音や、偶然に言われた言葉など――の中に、手紙が来るという信念を捜し求めた。その時刻が一度過ぎ去ると、また悄然《しょうぜん》としてしまった。もう仕事もしなければ、散歩もしなかった。生存の唯一の目的は、次の郵便配達夫を待つことであった。そしてそれまで我慢して待つのに、ありったけの元気を費やした。しかし晩となって、もうその日は希望がなくなると、すっかり落胆しつくした。翌日までは生きておれそうにも思えなかった。いく時間もじっとして、テーブルの前にすわり、口もきかず、考えもせず、寝るだけの力もなかったが、しまいには、わずかに残ってる意志でようやく床にはいるのだった。そして重苦しい眠りに入り、馬鹿《ばか》げた夢ばかりみて、その夜がいつまでも終らないもののように考えられた。
そういうたえざる期待は、ついにほんとうの病気になりかけた。そのためにクリストフは、手紙を受取りながら自分に隠してるのではないかと、父を疑い、弟どもを疑い、郵便配達夫をさえ疑うようになった。彼は不安の念にさいなまれた。ミンナの信実については一瞬も疑わなかった。もしほんとうに手紙をよこさなかったのなら、きっと彼女は病気であり、死にかかっており、おそらく死んでるのかもしれなかった。彼はすぐさまペンを取上げ、三番目の手紙を書いた。胸がはり裂けるような文句で、もうこんどは、自分の感情にも綴字《つづりじ》にも気をつけようと思わなかった。郵便の時刻が迫っていた。やたらに塗り消したり、ページを裏返しながら書き散らしたり、封筒を封じながらよごしたりした。それでもかまわなかった。次の郵便の時間を待てなかった。彼は手紙を出しに郵便局へ駆けて行った。それからたえがたい煩悶《はんもん》のうちに返事を待った。翌晩、ミンナの姿をはっきり幻に見た。彼女は病気で、彼を呼んでいた。彼は起き上がり、彼女のところへ出かけて行こうとした。しかしどこへ? どこへ行ったら彼女に会えるのか?
四日目の朝、ミンナの手紙が届いた――半ページほどの――冷淡な取り澄した手紙が。彼がどうしてそんな馬鹿げた懸念《けねん》を起こしたのか訳がわからないこと、自分は丈夫でいること、手紙を書く暇《ひま》がないこと、以来はあまり興奮しないように、そして音信をよしてほしいということ、などが書いてあった。
クリストフは駭然《がいぜん》とした。彼はミンナの誠実を疑ってみなかった。彼は自分自身をとがめた。軽卒な馬鹿げた手紙を書き送ったので、ミンナが怒るのはもっともだと考えた。自分を馬鹿者だと思い、拳《こぶし》を固めて自分の頭を打った。しかしなんとしても無駄であった。自分が向うを愛してるほど深くミンナは自分を愛してはいないと、感じないわけにはゆかなかった。
その後の日々は、言葉にも述べられないほど陰惨なものだった。虚無は、これを述べることができないものである。なお生存してゆける唯一の楽しみ、すなわちミンナへ手紙を書くこと、それも禁じられてしまったので、クリストフはもはや機械的に生きてるのみだった。そして唯一の生甲斐《いきがい》のある仕事は、晩寝る時に、ミンナが帰って来るまでの数多い日数の一つを、あたかも小学生徒のように、自分の暦《こよみ》の上に塗り消すことであった。
帰宅の日限は過ぎてしまった。もう一週間も前から彼女らは帰って来ていなければならないはずだった。クリストフの落胆は、ついで激しいいらだちとなった。ミンナは出発のおり、帰ってくる日と時間とを前から知らせると約束していた。彼はたえず、彼女らを迎えに行こうと待ちかまえていた。そしてかく帰りが遅れる理由を、種々思い迷った。
ある晩、隣りに住んでる人で、祖父の友であった家具商のフィシェルがいつもよくやるように、晩食後やって来て、メルキオル相手にパイプをふかしたり無駄話をしたりした。クリストフは配達夫の通るのを空しく待受けたあとで、憂いに沈みながらまた自分の室に上ってゆこうとした。その時、ふと聞いた一言に彼は震え上がった。翌朝早くケリッヒ家へ行って窓掛をつけなければならないと、フィシェルは言っていた。クリストフははっとして尋ねた。
「そんなら帰って来たんですか。」
「とぼけちゃいけない。お前だってよく知ってるじゃないか。」と老フィシェルはひやかし気味に言った。「だいぶ前のことだ。一昨日《おととい》帰って来てらあね。」
クリストフはもうそのうえ何にも耳にはいらなかった。彼は室から出て、出かける支度をした。母は先ほどからそっと彼の様子を窺《うかが》っていたが、廊下までついて来て、どこへ行くのかとおずおず尋ねた。彼は返辞もしないで出て行った。彼は苦しんでいた。
彼はケリッヒ家に駆け込んだ。夜の九時だった。彼女らは二人とも客間にいた。彼の姿を見ても別に驚いた様子はなかった。静かに今晩はと言った。ミンナは手紙を書いていたが、テーブルの上から彼に手を差出し、なお書きつづけながら、気乗りのしない様子で彼の消息を尋ねた。そのうえ、自分の失礼を詫《わ》び、彼の言葉に耳傾けてるふうをしていた。しかしちょっと彼の言葉をさえぎっては母に何か尋ねたりした。彼はその留守の間どんなに苦しんだか、それについて痛切な言葉を用意していた。けれどようやく数語をつぶやきえたばかりだった。だれも気を入れて聞いてくれず、彼は言いつづけるだけの元気もなかった。自分の言葉が妙に空《から》響きがした。
ミンナは手紙を終えると、編物を取り上げ、彼から数歩のところにすわって、旅の話を始めた。楽しく過ごした数週間、馬上の散歩のこと、別荘生活のこと、面白い交際社会のこと、などを話した。しだいに調子に乗って、クリストフの知らない出来事や人々の上に話を向け、母と彼女とはその追憶に笑いだした。クリストフはその話の中で、まったく圏外にいる心地がした。どういう顔付をしていいかもわからず、当惑したような様子で笑っていた。ミンナの顔から眼を離さず、恵みの一|瞥《べつ》を懇願していた。しかし彼女が彼を見る時――それもまれにであって、彼よりもむしろ母の方に話しかけていたが――彼女の眼はその声と同じく、愛嬌《あいきょう》はあるが心がこもっていなかった。彼女は母がいるので用心したのであろうか? 彼は彼女と二人きりで話がしたかった。しかしケリッヒ夫人は片時も彼らから離れなかった。彼は自分のことに話を向けようと試みた。自分の仕事や抱負のことを話した。ミンナが自分から逃げようとしてることを彼は感じた。そして彼女の心を引きつけようと努めた。実際彼女は、非常に注意して彼の言葉に耳傾けてるらしかった。彼の話に種々の感嘆詞を插《はさ》んだ。それはいつもうまくあてはまるとは言えなかったが、しかしその調子には心|惹《ひ》かれてるさまが現われていた。けれども、彼がそのあでやかな微笑《ほほえ》みに心酔って、また希望をいだき始めた時、ミンナが小さな手を口にあてて欠伸《あくび》をするのが眼にとまった。彼はぴたりと話をやめた。彼女は気がついて、疲れを口実に愛想よく言い訳をした。彼はまだ引止められることと思いながら立上がった。しかしだれもなんとも言ってくれなかった。彼はぐずぐず挨拶《あいさつ》を長引かし、明日また来るように言われるのを待った。がそれも問題にはならなかった。彼は帰って行かなければならなかった。ミンナは送っても来なかった。彼女は手を差出した――無関心な手を。それは彼の手の中に冷やかに託された。そして彼は客間の中で彼女と別れた。
彼は心おびえながら家にもどった。二か月以前のミンナは、彼のなつかしいミンナは、もう何一つ残っていなかった。何事が起こったのか? 彼女はどうなったのか? このあわれな少年は、生きた魂の、それも大部分は個々の魂ではなくて、たえず相次ぎ消え失せる一団の魂であるが、そういう生きた魂の不断の変化を、全部の消滅を、根本的の更新を、まだかつて経験したことがなかったので、彼にとっては、単純な事実もあまりに残酷であって、それを信じようと心をきめることができなかった。彼は恐れてその考えをしりぞけ、自分の方で見当違いをしたのであって、ミンナはやはり同じミンナであると、むりにも思い込もうとした。翌朝また彼女のところへ行って、ぜひとも話そうと、彼は決心した。
彼は眠らなかった。夜じゅう、柱時計の打つ音を一々数えた。ごく早朝から出かけて、ケリッヒ家のまわりを彷徨《さまよ》った。できるだけ早く中にはいって行った。まず眼についたのは、ミンナではなくて、ケリッヒ夫人であった。活動的で早起きの彼女は、ヴェランダの下の植木|鉢《ばち》に水差で水をやっていた。クリストフの姿を見つけると、嘲《あざけ》り気味の叫びをあげた。
「あら、」と彼女は言った、「あなたでしたか!……ちょうどいい時でした、あなたにお話したいことがあります。待ってください、待ってください……。」
彼女はちょっと家の中にはいり、水差を置いて手を拭《ふ》き、またやって来て、不幸の迫ってるのを感じてるクリストフの狼狽《ろうばい》した顔を見ながら、ちょっと微笑を浮かべた。
「庭へまいりましょう、」と彼女は言った、「あちらの方が静かですから。」
自分の愛に満ちている庭の中へと、彼はケリッヒ夫人の後について行った。彼女は少年の当惑を面白がりながら、なかなか急には話そうとしなかった。
「あすこへすわりましょう。」とついに彼女は言った。
出発の前日ミンナが彼に唇を差出したあの腰掛の上に、二人はすわった。
「なんの話だかあなたにはおわかりでしょうね。」とケリッヒ夫人は言いながら、真面目《まじめ》な様子になって、彼をすっかり惑乱さしてしまった。「私は決してそうだとは信じられませんでした、クリストフさん。私はあなたを真面目な人だと思っていました。あなたをすっかり信用していました。それをよいことにして私の娘を引きくずそうとなさろうとは、考えもしませんでした。娘はあなたの保護のもとにありました。あなたは、娘に敬意をもち、私に敬意をもち、あなた自身にたいしても敬意をもたれるはずだったのです。」
その調子には軽い皮肉が交じっていた――ケリッヒ夫人はその子供たちの愛を少しも重大には考えていなかったのである――しかしクリストフはその皮肉を感じなかった。そして何事をも悲痛に解していたように、彼女の非難をも悲痛に解して、心を刺された。
「でも奥さん……でも奥さん……(彼は眼に涙を浮かべて口ごもった)……私はあなたの信用につけこんだのではありません。……どうかそんなことは考えないでください。……私は不正直な者ではありません、誓います。……私はミンナさんを愛しています、心から愛しています。ええ、結婚したいんです。」
ケリッヒ夫人は微笑《ほほえ》んだ。
「いけませんよ、お気の毒ですが、(彼女は親切らしく言ったが、ついに彼にもわかりかけたほどほんとうは人を馬鹿にしたものだった)そんなことができるものですか。子供の冗談でしょうよ。」
「なぜです? なぜですか?」と彼は尋ねた。
彼は彼女が真面目に言ってるのではないと思い、前よりやさしくなったその声にほとんど安心して、彼女の手をとった。彼女はなお微笑みつづけて言った。
「でもねえ。」
彼はせがんだ。彼女は皮肉な控目で――(彼女はまったく彼の言うことを真面目にはとっていなかった)――彼に財産がないことや、ミンナの趣味が違ってることなどを言った。彼は言い逆らって、それはなんでもないことで、自分は金持ちにも有名にもなろうし、名誉や金や、ミンナの欲するものはなんでも手に入れようと言い張った。ケリッヒ夫人は疑わしい様子を見せた。彼女はその自負《うぬぼれ》を面白がっていた。そしてただ首を振って打消した。彼はなおも強情を張り通した。
「いいえ、クリストフさん、」と彼女はきっぱりした調子で言った、「いいえ、議論の余地はありません。そんなことができるものですか。ただ財産のことばかりではありません。いろんなことですよ。……身分も……。」
彼女は言ってしまうに及ばなかった。それは彼の骨の髄までさし通す針であった。彼の眼は開けた。彼はやさしい微笑の皮肉さを見た。親切な眼付の冷たさを見た。実子のような愛情で自分が慕ってるこの婦人、母親のような態度で自分に接してくれてるらしいこの婦人、それと自分とを隔ててるすべてのものを、にわかに彼は了解した。彼女の愛情のうちにある庇護《ひご》と軽蔑《けいべつ》とのすべてを、彼は感じた。彼は真蒼《まっさお》になって立上がった。ケリッヒ夫人はなお愛撫《あいぶ》の声で、話しつづけていた。しかしもう万事が終っていた。彼の耳には、彼女の言葉も音楽のようには響かなくなった。その一語一語の下に、その優雅な魂の無情さが見抜かれた。彼は一言も答えることができなかった。彼は立去った。まわりのものが皆ぐるぐる回った。
彼は自分の室にもどると、寝台の上に身を投げだした。幼かったころのように、憤りと傲慢《ごうまん》な反抗心とのあまりに痙攣《けいれん》を起こした。喚《わめ》き声を人に聞かれないように、枕《まくら》に噛《か》みつき、口にハンケチを押し込んだ。彼はケリッヒ夫人を憎んだ。ミンナを憎んだ。猛然として彼女ら二人を蔑《さげす》んだ。横顔を打たれたような気がした。恥ずかしさと口惜《くや》しさとに身を震わした。返報をし直接行動をしなければならなかった。復讐《ふくしゅう》ができなければ生命をも投げ出したかった。
彼は起き上がって、馬鹿に乱暴な手紙を書いた。
彼はその手紙を郵便箱に投げ込むや否や、すぐに自分のしたことが恐ろしくなった。もうそれを考えまいとした。しかしある文句が記憶に浮かんできた。ケリッヒ夫人がその乱暴きわまる文句を読むことを考えると、冷たい汗が流れた。最初のうちは絶望そのもののために気が張っていた。しかし翌日になると、手紙は自分をまったくミンナから引離してしまうほかには、なんらの結果ももたらさないだろうということを、彼は覚った。それは最大の不幸のように思われた。ケリッヒ夫人は自分の癇癪《かんしゃく》をよく知っているから、これも真面目《まじめ》にとらないで、ただきびしく叱《しか》るだけにしてくれて、そのうえ――ひょっとしたら――自分の熱情の真摯《しんし》なのにおそらく心を動かしはすまいか、などと彼はなお希《こいねが》った。ただ一言いってさえくれれば、彼女の足下に身を投げだすつもりだった。彼はその一言を五日間待った。やがて手紙が来た。彼女は次のように言ってよこした。
親愛なるお方
あなたの御意見によれば、私どもの間には誤解がありますそうですから、最も賢い方法は、もちろん、それを長引かせないことであります。あなたにとって苦痛となった御交際を、このうえあなたに求めるのは、私には心苦しく思われます。それですから、このさい御交際を絶つ方が、自然なことだと御承知ください。この後、御希望どおりあなたを評価しうるような友だちに、御不自由なさらないことを希望いたします。私はあなたの未来を疑いません。そして音楽家としての御進歩を、かげながら心から注目いたしましょう。敬白
ヨゼファ・フォン・ケリッヒ
最も辛辣《しんらつ》な叱責《しっせき》も、これほど残忍ではなかったろう。クリストフはもう手段がないのを覚った。不当な非難には答えることができる、しかしかかる丁寧な無関心さの空虚にたいしては、どうすることができよう? 彼は狂わしくなった。もうミンナには会えないだろう、もう永久に会えないだろう、と彼は考えた。そしてそれをたえ忍ぶことができなかった。いかに大なる自尊心も、少しの恋愛に比べては、実にわずかなものであると感じた。彼はあらゆる品位を忘れて卑劣になり、新たにいく本も手紙を書いて、宥恕《ゆうじょ》を嘆願した。それらの手紙は、最初の怒った手紙にも劣らず、やはり馬鹿げたものであった。なんの返事も来なかった。――そして万事終った。
彼は危く死のうとした。身を殺すことを考えた。人を殺すことを考えた。少なくともそう考えてると想像した。燃え上がるような欲望を感じた。時として少年の心を噛みさいなむ愛憎の発作は、いかに激しいか想像以上である。それはクリストフの幼年時代の最も恐ろしい危機であった。この危機のために、彼の幼年時代は終りを告げた。彼の意志は鍛練された。しかしも少しで、彼の意志は永久に破壊されるところだった。
彼はもう生きてることができなかった。いく時間も窓にもたれ、中庭の舗石を眺めながら、幼いころのように、生の苦しみをのがれる道が一つあることを、思い耽《ふけ》っていた。そこに、眼前に、直接に、慰謝があった。……直接に? それをだれが知ろう? おそらく、残虐な苦悶の数時間――数世紀――の後かもしれない。……しかし彼の幼い絶望はきわめて深いものだったので、彼はそういう考えの眩暈《めまい》のうちに滑《すべ》り込んでいった。
ルイザは彼が苦しんでいるのを見た。彼女は彼のうちに何が起こったか正確に察することはできなかったけれども、本能的に危険を覚った。彼女は息子に近づいて、慰めてやるためにその苦しみの種を知ろうとした。しかしあわれな彼女は、クリストフと親しく話し合う習慣を失っていた。もう長年の間、彼は自分の考えを心に秘めていた。そして彼女は生活の物質的な心配に没頭しすぎていて、彼の心中を推察しようとつとめる暇《ひま》がなかった。で今彼を助けてやろうと思っても、どうしていいかわからなかった。思い悩んでただ彼の周囲を彷徨《さまよ》った。彼の慰めとなるような言葉を見出そうと願いながら、彼をいらだたせることを恐れて口もきけなかった。そんなに用心しながらも、彼女のあらゆる素振は、そばにいることさえも、彼のいらだちの種となった。なぜなら、彼女はあまり気がきいていなかったし、彼はあまり寛大でなかったから。それでも彼は彼女を愛していた、彼らはたがいに愛し合っていた。しかしながら、たがいに愛し慈《いつく》しんでる人々の間をも遠ざけるには、ごく些細《ささい》なことで足りる。激しすぎる口のきき方、へまな身ぶり、ただちょっとしかめる眼や鼻、一種の食べ方や歩き方や笑い方、いちいちそれと言えないくらいの肉体的不快事……。それはなんでもないことだと考えられている。けれども大したことである。ただそれだけのために往々、ごく親しくしてる母と子とが、兄と弟とが、友と友とが、たがいに永《なが》く他人となってしまうことがある。
でクリストフは、自分が通っている危機にたいする一の支持を、母の愛情のうちに見出せなかった。そのうえ、他を顧る暇のない利己的な情熱にとっては、他人の情愛がどれだけの価値をもっていよう?
ある夜、家の者は皆眠っていたが、彼は一人室の中にすわって、何にも考えもせず、身動きもせず、危険な考えの中に膠着《こうちゃく》していた。その時、ひっそりした小さな街路に足音が響いて、そして戸をたたく音に、彼ははっと我に返った。はっきりしないささやきの声が聞えた。彼はその晩父がもどっていなかったことを思い出し、往来のまんなかに寝てるところを見つけられた先週のように、やはり酔っ払った父が連れて来られたのだと、腹だたしく考えた。メルキオルはもう少しも行ないを慎《つつし》んでいなかったのである。彼はますます身をもちくずしていた。そして他の者なら死んでしまってるかもしれないほどの放埒《ほうらつ》と不摂生にも、彼の頑強《がんきょう》な健康は害されないらしかった。彼はやたらに大食し、ぶっ倒れるまでに暴飲し、冷たい雨に打たれながらいく晩も外で明かし、喧嘩《けんか》をしては殴《なぐ》り倒され、しかも翌日になると、いつもの調子になって陽気に騒ぎたて、周囲の者も皆自分と同じように快活になることを求めていた。
ルイザはもう起き上がっていて、急いで戸を開きに行った。クリストフは身動きもせず、耳をふさいで、メルキオルの泥酔《でいすい》した声や、近所の人たちの嘲笑《ちょうしょう》的な言葉を聞くまいとした……。
突然彼は、言いがたい懸念《けねん》にとらえられた。恐ろしいことになりそうだった。……とすぐに、悲痛な叫び声がした。彼は頭を上げた。戸口に飛んでいった……。
一群の人々が、角燈の震える光に輝らされた薄暗い廊下で、ひそひそ話し合っていたが、そのまんなかに、水の滴《したた》ってる身体が、昔祖父の身体のように、じっと担架の上に横たわっていた。ルイザはその首にすがりついてすすり泣いていた。水車小屋の川にはまって溺《おぼ》れてるメルキオルが見出されたのだった。
クリストフは声をたてた。他の世界はすべて消え失せ、他の心痛はすべて吹き払われてしまった。彼はルイザの横に、父の死体の上に身を投げた。そして二人はいっしょに泣いた。
寝台のそばにすわり、今は厳格荘厳な表情をしてるメルキオルの最後の眠りを見守りながら、彼は死者の陰闇《いんあん》な安らかさが心にしみ込むのを感じた。幼い情熱は、あたかも発作の熱のように、消散してしまった。墳墓の冷やかな息吹《いぶ》きが、すべてを吹き去ってしまった。ミンナも、彼の矜《ほこ》りも、彼の恋愛も、ああ、いかにくだらないものであったか! この現実、唯一の現実、死、それに比べては、すべてはいかにつまらないものであったか! ついにはかくなり果てるのならば、あんなに苦しみ、あんなに欲求し、あんなにいらだったのも、なんの甲斐《かい》があったろう。
彼は眠ってる父を眺めた。しみじみと限りない憐れみを感じた。父の親切や情愛の些細な行ないまで思い出した。メルキオルは多くの欠点をそなえてはいたが、悪人ではなかった。彼のうちには多くの善良さがあった。彼は家庭の者を愛していた。彼は正直であった。クラフト家通有の一徹な誠実さは、道徳と名誉との問題においてはなんら非難の余地がなかったし、社会の多くの人が罪とも認めないほどのごくわずかな道徳上の汚行をも決して仮借しなかったのであるが、彼もそれを多少そなえていた。彼は勇敢だった。いかなる危険な場合にあっても、一種の楽しみをもって身をさらしていた。彼は自分のために散財してはいたが、また他人のためにも散財していた。人が悲しんでるのをたえることができなかった。途中で出会う貧しい人々にたいしては、自分の物を――また他人の物を――喜んでほどこしていた。それらのあらゆる父の美点が、今クリストフに見えてきた。彼はそれを誇張して眺めた。父を見誤ってたような心地がした。十分に父を愛していなかったことを、自らとがめた。生活にうち負かされた父の姿が、眼に映った。流れのままに押し流され、闘《たたか》うにはあまりに弱く、そして空しく失った生涯を嘆いている、その不幸な魂の声を、彼は耳に聞くような気がした。以前彼の胸をえぐる調子で言われた、あのいたわしい願いの言葉が聞えてきた。
「クリストフ、おれを馬鹿にするなよ!」
そして彼は後悔の念にたえなかった。寝台の上に身を投げて、泣きながら死者の顔にくちづけした。彼は昔のようにくり返し言った。
「私のお父さん、私は馬鹿にしやしません。あなたを愛しています。許してください!」
しかし訴える声は静まらないで、苦しげに言いつづけた。
「おれを馬鹿にするなよ! おれを馬鹿にするなよ!……」
そして突然クリストフは、死者の寝床に横たわってる自分自身を見た。それらの恐ろしい言葉が自分の口から出るのを聞いた。空しく失われた償いがたい生涯の絶望の念が、自分の心に重くのしかかってくるのを感じた。そして彼は駭然《がいぜん》として考えた。「ああ、かくなり果てるよりもむしろ、あらゆる苦悶、あらゆる悲惨の方が!」……いかほど彼はそうなり果てようとしたことだろう。卑怯《ひきょう》にも苦しみをのがれるために、生命を断つの誘惑に危く従おうとしたではないか。あたかも、あらゆる苦しみ、あらゆる裏切りは、おのれを裏切りおのれの信念を否定し死しておのれを蔑《さげす》むという最大の苦悶と罪悪とに比べても、なお子供らしい心痛ではないとでも思っていたかのように!
人生は容赦なき不断の争闘であって、一個の人間たる名に恥ずかしからぬ者となることを欲する者は、眼に見えない数多《あまた》の敵軍、自然の害力や、濁れる欲望や、暗い思考など、すべて人を欺いて卑しくなし滅びさせようとするところのものと、たえず闘わなければならないということを、彼は知った。自分はまさに罠《わな》にかかるところであったということを、彼は知った。幸福や恋愛はちょっとの欺瞞《ぎまん》であって、人の心をして武器を捨てさせ地位を失わせるものであるということを、彼は知った。そして、清教徒《ピューリタン》たるこの十五歳の少年は、おのれの神の声を聞いた。
「往《ゆ》け、往け、決して休むことなく。」
「しかし私はどこへ往くのであろう、神よ。何をしても、どこへ往っても、終りは常に同じではないか、終局がそこにあるではないか。」
「死すべき汝《なんじ》は死へ往け! 苦しむべき汝は苦しみへ往け! 人は幸福ならんがために生きてはいない。予が掟《おきて》を履行せんがために生きているのだ。苦しめ。死ね。しかし汝のなるべきものになれ――一個の人間に。」
底本:「ジャン・クリストフ(一)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年6月16日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
2009年2月13日修正
青空文庫作成ファイル:
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