ジャン・クリストフ JEAN CHRISTOPHE 第一巻 曙 ロマン・ローラン Romain Rolland 豊島与志雄訳

いずれの国の人たるを問わず、

苦しみ、闘い、ついには勝つべき、

あらゆる自由なる魂に、捧《ささ》ぐ。

          ロマン・ローラン

        昼告ぐる曙《あけぼの》の色ほのかにて、
        汝《な》が魂は身内に眠れる時……
             ――神曲、煉獄の巻、第九章――

     一

          うち湿りたる濃き靄《もや》の
          薄らぎそめて、日の光
          おぼろに透し来るごとくに……
               ――神曲、煉獄の巻、第十七章――

 河の水音は家の後ろに高まっている。雨は朝から一日窓に降り注いでいる。窓ガラスの亀裂《ひび》のはいった片隅には、水の滴《したた》りが流れている。昼間の黄ばんだ明るみが消えていって、室内はなま温くどんよりとしている。
 赤児《あかご》は揺籃《ゆりかご》の中でうごめいている。老人は戸口に木靴を脱ぎすててはいって来たが、歩く拍子に床板《ゆかいた》が軋《きし》ったので、赤児はむずかり出す。母親は寝台の外に身をのり出して、それを賺《すか》そうとする。祖父は赤児が夜の暗がりを恐《こわ》がるといけないと思って、手探りでランプをつける。その光で、祖父ジャン・ミシェル老人の赤ら顔や、硬い白髯《しろひげ》や、気むずかしい様子や、鋭い眼付などが、照らし出される。老人は揺籃のそばに寄ってゆく。その外套《がいとう》は雨にぬれた匂いがしている。彼は大きな青い上靴《うわぐつ》を引きずるようにして足を運ぶ。ルイザは近寄ってはいけないと彼に手|真似《まね》をする。彼女は白いといってもいいほどの金髪で、顔立はやつれていて、羊のようなやさしい顔には赤痣《あかあざ》があり、唇《くちびる》は蒼《あお》ざめて厚ぼったく、めったにあわさらず、浮べる微笑もおずおずとしている。彼女は赤児を見守っている――ごく青いぼんやりした眼で、その瞳《ひとみ》はきわめて小さいがいたって物優しい。
 赤児は眼を覚して泣く。その定かならぬ目差《まなざ》しは乱される。なんという恐ろしさだろう! 深い闇《やみ》、ランプの荒々しい光、渾沌《こんとん》のなかから出てきたばかりの頭脳の幻覚、周囲にたちこめている息苦しいざわめく夜、底知れぬ影、その影の中からは、まぶしい光線のように強く浮かび出してくる、強烈な感覚が、苦悩が、幻影が、こちらをのぞきこんでるそれらの巨大な顔が、自分を貫き自分のうちにはいり込む意味の分らないそれらの眼が!……赤児は声をたてる力もない。彼は身動きもせず、眼を見開き、口を開け、喉《のど》の奥で息をしながら、恐怖のために釘付《くぎづけ》にされる。その膨《ふく》れた大きな顔には皺《しわ》が寄って、痛ましい奇怪な渋面《じゅうめん》になる。顔と両手との皮膚は、栗色で紫がかっており、黄っぽい斑点がついている……。
「いやはや、なんて醜い奴だ!」と老人は思い込んだ調子で言った。
 彼はランプをテーブルの上に置きに行った。
 ルイザは叱《しか》られた小娘のように口をとがらした。ジャン・ミシェルは横目で彼女を眺《なが》めて、そして笑った。
「きれいな奴だと言ってもらおうとは、お前も望んでやすまい。お前にだってきれいだとは思えまい。だがいいさ、お前のせいじゃない。赤ん坊てものはみんなこんなものだ。」
 子供はランプの炎と老人の目差《まなざ》しとに驚き、ただ惘然《ぼうぜん》として身動きもしなかったが、やがて声をたて始めた。おそらく彼は母親の眼の中に、苦情を言うがいいと勧めるような愛撫《あいぶ》を、本能的に感じたのであろう。彼女は彼の方へ両腕を差出して言った。
「私にかしてください。」
 老人はいつもの癖で、まず理屈を並べたてた。
「泣くからといって子供の言うままになってはいけない。勝手に泣かせることだ。」
 しかし彼は子供のところへ来て、それを抱き上げ、そしてつぶやいた。
「こんな醜い奴は見たことがない。」
 ルイザはわなわなしてる手で子供を受取り、胸深く抱いた。彼女はきまり悪げなまた喜びにたえないような微笑を浮べて、子供を見守った。
「おう、かわいそうに、」と彼女はたいそう恥ずかしそうにして言った、「坊やはなんて醜いでしょう、なんて醜いでしょう、ほんとにかわいいこと!」
 ジャン・ミシェルは暖炉のそばにもどった。彼は不機嫌な様子で、火をかきたて始めた。しかしその顔に装ってる陰鬱なしかつめらしさは、軽い微笑の影で裏切られていた。
「お前、」と彼は言った、「ねえ、苦にしちゃいけない。まだまだこれから顔付は変わるものだ。それに、醜いったってそれがなんだ? この子に求むることはただ一つきりだ、りっぱな者になってくれということだ。」
 子供は母親の温かい身体に触《さわ》って心が和らいでいた。息を押えて貪《むさぼ》るように乳を吸ってる音が聞えていた。ジャン・ミシェルは椅子《いす》の上で軽く身をそらして、おごそかにくり返した。
「正直な男ほどりっぱなものはない。」
 彼はちょっと黙って、その思想を敷衍《ふえん》したものかどうか考えた。しかしそれ以上言うべきことを見出さなかった。そしてしばらく黙った後、激した調子で言い出した。
「夫がいないとは、どうしたことだ?」
「芝居に行ってるのでしょう。」とルイザはおずおず言った。「下稽古《したげいこ》がありますから。」
「芝居小屋は閉まっている。わしは今その前を通って来たんだ。それもまた彼奴《あいつ》の嘘《うそ》だ。」
「いいえ、あの人ばかりをいつもおとがめなすってはいけません。私の思い違いかもしれませんから。では出稽古に手間取ってるのでしょう。」
「もう帰って来られるはずだ。」と老人は満足しないで言った。
 彼はちょっと躊躇《ちゅうちょ》して、それから少し気恥しげに声を低めて尋ねた。
「彼奴《あいつ》は……また……?」
「いいえ、お父《とう》様、いいえ。」とルイザは急《せ》き込んで言った。
 老人は彼女を眺めた。彼女はその前に顔をそらした。
「ほんとうじゃない、お前は嘘をついてるな。」
 彼女は黙って涙を流した。
「ああ!」と老人は大声を出しながら、暖炉を一つ蹴《け》った。火掻《ひかき》棒が落ちて大きな音をたてた。
 母親と子供とはふるえあがった。
「お父様、どうぞ、」とルイザは言った、「坊やが泣き出しますから。」
 子供は泣声をたてたものかそれともやはり静かにしていようかと、しばらく躊躇《ちゅうちょ》した。しかし両方を同時にすることができないので、やはり静かにしていた。
 ジャン・ミシェルは腹立ちまぎれにいっそう太い声で言いつづけた。
「わしはどんなことをした報《むく》いで、あんな酔漢《よいどれ》を息子に持ったのか! わしのような生活をし、万事に不自由な目を忍んだのも、むだな骨折りだったのか!……だがお前は、お前は彼奴《あいつ》を制することができないというのか。なぜかって、そりゃあお前の役目じゃないか。お前が彼奴を家に引留めさえしたら……。」
 ルイザはなお激しく涙を流していた。
「このうえ私を叱《しか》ってくださいますな、私もうたいへん不仕合せですもの。私はできるだけのことはしました。ああ一人でいるとどんなに恐ろしい思いをしていますか、それを察してくださいましたら! いつでも階段にあの人の足音が聞えるような気がします。すると私は扉《とびら》が開くのを待ちます。まああの人はどんな様子で出てくるかしらと考えます。……それを思ってみるだけでも気がふさいできます。」
 彼女はすすり泣きに身をふるわしていた。老人は気をもんだ。彼は彼女のそばにやって来、その震えてる両肩に乱れた蒲団《ふとん》をかけてやり、大きな手でその頭をなでてやった。
「さあ、さあ、心配することはない。わしがついてる。」
 彼女は子供のことを思ってむりに気を鎮《しず》め、そして微笑《ほほえ》もうとした。
「あんなことを申しましたのは、私が悪うございました。」
 老人は頭をうち振りながら彼女を眺めた。
「かわいそうに、わしがお前にやった贈物はりっぱなものではなかった。」
「私の方が悪いんです。」と彼女は言った。「あの人は私みたいな者と結婚なさるのではありませんでした。自分のしたことを後悔なすっています。」
「何を後悔しているって?」
「それはあなたがよく御存じでございましょう。私があの人の妻になりましたのを、あなた御自身でも気を悪くしていらっしゃいました。」
「もうそんな話をするもんじゃない。なるほどわしは多少不満だった。あのような青年――こう言ったって何もお前の気にさわりはすまい――わしが注意して育て上げた青年、すぐれた音楽家で、ほんとうの芸術家で――まったく彼は、お前のように貧乏で、身分が違い、なんの技能もない者より、もっとほかの女を選むこともできたはずだ。クラフト家の者が音楽家でもない娘と結婚するなんてことは、もう百年あまりこの方例《ためし》がないんだ!――それでも、お前もよく知ってるとおり、わしはお前を恨んだこともないし、お前と知り合ってからはいつも好意をもっていた。それに、一度こうときまってしまえば、もう後もどりはできない。あとはただ義務を尽すことばかりだ、正直に。」
 彼は元の席へもどって腰掛け、ちょっと間をおいて、それから、いつも自分の格言を口にする時のような厳《いかめ》しさで言った。
「人生で第一のことは、おのれの義務を尽くすことだ。」
 彼は抗議を待ち受け、火の上に唾《つば》をした。それから、母親も子供もなんら異論をもち出さなかったので、なお言葉をつづけたく思った――が、口をつぐんだ。

 彼らはもう一言も口をきかなかった。ジャン・ミシェルは暖炉のそばで、ルイザは寝床にすわって、二人とも悲しげに夢想していた。老人はああは言ったものの、息子の結婚のことを苦々《にがにが》しげに考えていた。ルイザの方も同じくそのことを考えていた、そしてみずから非難すべき点は何もなかったけれど、それでも気がとがめていた。
 ジャン・ミシェルの子メルキオル・クラフトと結婚した時、彼女は女中であった。でその結婚にはだれも驚いたが、とくに彼女自身が驚いた。クラフト家には財産はなかったが、約半世紀前に老人が居を定めたそのライン河畔の小さな町では、かなり尊敬されていた。彼らは父子代々の音楽家で、その地方、ケルンとマンハイム間では、音楽家仲間に名が知れわたっていた。メルキオルは宮廷劇場のヴァイオリニストであった。ジャン・ミシェルは近頃まで大公爵の演奏会を指揮していた。でこの老人はメルキオルの結婚に深い屈辱を感じた。彼は息子に大きな希望をかけていて、自分自身ではなれなかったけれども、息子の方は高名な人物になしたいと思っていた。ところがこの無謀な結婚は、その望みを打ち壊《こわ》してしまった。それで最初のうちは盛んに怒鳴りたて、メルキオルとルイザとをののしりちらした。しかし根が正直な人だけに、嫁の気心をよく知ってくると、すぐに彼女を許してやった。そして父親としての愛情をさえ心にいだくようになった。がその愛情はたいてい冷たい素振りとなって現われていた。
 メルキオルが何に駆《か》られてそういう結婚をしたのか、だれも了解することができなかった――だれよりもメルキオル自身に訳が分らなかった。確かにルイザの美貌《びぼう》のせいではなかった。彼女は少しも人を惑わすような点をもってはいなかった。背が低く、蒼《あお》ざめて、虚弱だった。ところがメルキオルとジャン・ミシェルとは二人とも、背が高く、でっぷりして、赤ら顔の、たくましい拳《こぶし》をし、よく食い、よく飲み、笑い事の好きな、騒ぎやの大男だったので、彼女とおかしな対照をなしていた。彼女はまるで彼らに圧倒されてるかと思われた。だれも彼女へはほとんど注意を向けなかったが、それでも彼女はなおいっそう隅《すみ》っこに引込んでばかりいようとしていた。もしメルキオルがやさしい心をもってるのだったら、彼は他のあらゆる利益をうち捨ててルイザの純良な気質を選んだのだとも、考えられないことはなかった。しかし彼は最も浮薄な男だった。で結局、かなりの好男子で、自分でもそれを知らないではなく、またごく見栄坊《みえぼう》で、そのうえ多少の才能もあり、金持ちの娘に眼をつけることもでき、また彼がみずから自慢してたように、中流市民の女弟子のどれかを夢中にならせることさえもできる――たれかいずくんぞ知らんやではあるが――という、彼のような一個の青年が、財産も教育も容色もない賤《いや》しい娘を、しかも向うからもちかけても来なかった娘を、突然妻に選ぼうとは、まったく賭事《かけごと》みたいな沙汰《さた》らしく見えるのであった。
 しかしメルキオルは、他人が期待してることやまた自分みずからが期待してることとは、常に反対のことを行なうような類《たぐい》の男であった。かかる人たちは目先のきかないわけではない――目先のきく者は二人前の分別があるそうだが……。彼らは何事にも欺《あざむ》かれることがないと高言し、一定の目的の方へ自分の舟を確実に操《あやつ》ってゆけると高言している。しかし彼らは自分自身を勘定に入れていない、なぜなら自分自身を知らないから。いつも彼らにありがちなその空虚な瞬間には、彼らは舵《かじ》を打ち拾てておく。そして物事は勝手に放任さるると、主人の意に反することに意地悪い楽しみを見出すものである。自由に解き放された舟は、まっすぐに暗礁を目がけて進んでゆく。かくて野心家のメルキオルは女中|風情《ふぜい》と結婚した。とは言え、彼女と生涯の約を結んだ時、彼は酔っ払ってもいなければぼんやりしてもいなかった。また彼は情熱の誘《いざな》いをも感じてはいなかった。そんなものは非常に欠けていた。しかしわれわれのうちには、情意以外の他の力が、感覚よりも他の力が、――普通の力が皆眠っている虚無の瞬間に主権を握るある神秘な力が、おそらく存在しているのかもしれない。ある夕方、ライン河畔で、メルキオルがこの若い娘に近づき、葦《あし》の中で彼女のそばにすわり――みずから理由も知らないで――彼女に婚約を与えた時、おずおずと彼を眺めてる彼女の沈んだ瞳《ひとみ》の底で、彼はこの神秘な力に遭遇したのであろう。
 結婚するとすぐに、彼は自分のしたことに落胆したような様子をした。彼はそのことをあわれなルイザにもさらに隠さなかった。ルイザはいかにもつつましやかに、彼に許しを求めた。彼は悪い男ではなかった、そして快く彼女を許してやった。しかしすぐその後で、友人らの間に交わったり、または金持ちの女弟子の家に行ったりすると、ふたたび悔恨の念にとらえられた。女弟子らはもう軽侮の様子を見せていて、彼が鍵盤《キー》の上の指の置き方を正してやろうとして手でさわっても、もはや身を震わすようなことはなかった。すると彼は陰鬱《いんうつ》な顔付をしてもどって来た。ルイザはそれを一目見て、またいつもの非難をよみとって、つらい思いをした。あるいはまた彼は、居酒屋に立ち寄って遅くなることもあった。彼はそこで、自分自身にたいする満足と他人に対する寛容とを汲みとった。そういう晩には、からから笑いながらもどって来た。しかしそういう笑いは、いつもの口には出さない考えや胸に蓄えてる怨恨《えんこん》よりも、ルイザにはいっそう悲しく思われた。彼女は夫のそうしたふしだらにたいして、自分にも多少責任があるように感じていた。そのふしだらのたびごとに、家の金がなくなるとともに、夫の心に残ってるわずかな真面目《まじめ》さもしだいに消えていった。メルキオルは身をもちくずしていった。たえず勉《つと》めて自分の平凡な才をみがくべき年ごろに、彼はずるずると坂を滑り落ちて顧《かえり》みなかった。そして他人に地位を奪われていった。
 しかしながら、麻のような髪の毛の一女中に彼を結びつけた不可知なる力にとっては、それがなんの関係があろうぞ。彼はただ自分の役目を演じたのである。そして今や小さなジャン・クリストフが、運命の手に導かれて、この地上に足を踏み出していた。

 すっかり夜になっていた。ジャン・ミシェル老人は暖炉の前で、昔や今の悲しいことどもを考えながらぼんやりしていたが、ルイザの声ではっと我にかえった。
「お父様、あの人はきっと遅くなるでしょう。」と若い妻はやさしく言っていた。「もう

      いずれの国の人たるを問わず、

苦しみ、闘い、ついには勝つべき、

あらゆる自由なる魂に、捧《ささ》ぐ。

          ロマン・ローラン

        昼告ぐる曙《あけぼの》の色ほのかにて、
         汝《な》が魂は身内に眠れる時……
             ――神曲、煉獄の巻、第九章――

     


           うち湿りたる濃き靄《もや》の
          薄らぎそめて、日の光
          おぼろに透し来るごとくに……
               ――神曲、煉獄の巻、第十七章――

 河の水音は家の後ろに高まっている。雨は朝から一日窓に降り注いでいる。窓ガラスの亀裂《ひび》のはいった片隅には、水の滴《したた》りが流れている。昼間の黄ばんだ明るみが消えていって、室内はなま温くどんよりとしている。
 赤児《あかご》は揺籃《ゆりかご》の中でうごめいている。老人は戸口に木靴を脱ぎすててはいって来たが、歩く拍子に床板《ゆかいた》が軋《きし》ったので、赤児はむずかり出す。母親は寝台の外に身をのり出して、それを賺《すか》そうとする。祖父は赤児が夜の暗がりを恐《こわ》がるといけないと思って、手探りでランプをつける。その光で、祖父ジャン・ミシェル老人の赤ら顔や、硬い白髯《しろひげ》や、気むずかしい様子や、鋭い眼付などが、照らし出される。老人は揺籃のそばに寄ってゆく。その外套《がいとう》は雨にぬれた匂いがしている。彼は大きな青い上靴《うわぐつ》を引きずるようにして足を運ぶ。ルイザは近寄ってはいけないと彼に手真似《まね》をする。彼女は白いといってもいいほどの金髪で、顔立はやつれていて、羊のようなやさしい顔には赤痣《あかあざ》があり、唇《くちびる》は蒼《あお》ざめて厚ぼったく、めったにあわさらず、浮べる微笑もおずおずとしている。彼女は赤児を見守っている――ごく青いぼんやりした眼で、その瞳《ひとみ》はきわめて小さいがいたって物優しい。
 赤児は眼を覚して泣く。その定かならぬ目差《まなざ》しは乱される。なんという恐ろしさだろう! 深い闇《やみ》、ランプの荒々しい光、渾沌《こんとん》のなかから出てきたばかりの頭脳の幻覚、周囲にたちこめている息苦しいざわめく夜、底知れぬ影、その影の中からは、まぶしい光線のように強く浮かび出してくる、強烈な感覚が、苦悩が、幻影が、こちらをのぞきこんでるそれらの巨大な顔が、自分を貫き自分のうちにはいり込む意味の分らないそれらの眼が!……赤児は声をたてる力もない。彼は身動きもせず、眼を見開き、口を開け、喉《のど》の奥で息をしながら、恐怖のために釘付《くぎづけ》にされる。その膨《ふく》れた大きな顔には皺《しわ》が寄って、痛ましい奇怪な渋面《じゅうめん》になる。顔と両手との皮膚は、栗色で紫がかっており、黄っぽい斑点がついている……。
「いやはや、なんて醜い奴だ!」と老人は思い込んだ調子で言った。
 彼はランプをテーブルの上に置きに行った。
 ルイザは叱《しか》られた小娘のように口をとがらした。ジャン・ミシェルは横目で彼女を眺《なが》めて、そして笑った。
「きれいな奴だと言ってもらおうとは、お前も望んでやすまい。お前にだってきれいだとは思えまい。だがいいさ、お前のせいじゃない。赤ん坊てものはみんなこんなものだ。」
 子供はランプの炎と老人の目差《まなざ》しとに驚き、ただ惘然《ぼうぜん》として身動きもしなかったが、やがて声をたて始めた。おそらく彼は母親の眼の中に、苦情を言うがいいと勧めるような愛撫《あいぶ》を、本能的に感じたのであろう。彼女は彼の方へ両腕を差出して言った。
「私にかしてください。」
 老人はいつもの癖で、まず理屈を並べたてた。
「泣くからといって子供の言うままになってはいけない。勝手に泣かせることだ。」
 しかし彼は子供のところへ来て、それを抱き上げ、そしてつぶやいた。
「こんな醜い奴は見たことがない。」
 ルイザはわなわなしてる手で子供を受取り、胸深く抱いた。彼女はきまり悪げなまた喜びにたえないような微笑を浮べて、子供を見守った。
「おう、かわいそうに、」と彼女はたいそう恥ずかしそうにして言った、「坊やはなんて醜いでしょう、なんて醜いでしょう、ほんとにかわいいこと!」
 ジャン・ミシェルは暖炉のそばにもどった。彼は不機嫌な様子で、火をかきたて始めた。しかしその顔に装ってる陰鬱なしかつめらしさは、軽い微笑の影で裏切られていた。
「お前、」と彼は言った、「ねえ、苦にしちゃいけない。まだまだこれから顔付は変わるものだ。それに、醜いったってそれがなんだ? この子に求むることはただ一つきりだ、りっぱな者になってくれということだ。」
 子供は母親の温かい身体に触《さわ》って心が和らいでいた。息を押えて貪《むさぼ》るように乳を吸ってる音が聞えていた。ジャン・ミシェルは椅子《いす》の上で軽く身をそらして、おごそかにくり返した。
「正直な男ほどりっぱなものはない。」
 彼はちょっと黙って、その思想を敷衍《ふえん》したものかどうか考えた。しかしそれ以上言うべきことを見出さなかった。そしてしばらく黙った後、激した調子で言い出した。
「夫がいないとは、どうしたことだ?」
「芝居に行ってるのでしょう。」とルイザはおずおず言った。「下稽古《したげいこ》がありますから。」
「芝居小屋は閉まっている。わしは今その前を通って来たんだ。それもまた彼奴《あいつ》の嘘《うそ》だ。」
「いいえ、あの人ばかりをいつもおとがめなすってはいけません。私の思い違いかもしれませんから。では出稽古に手間取ってるのでしょう。」
「もう帰って来られるはずだ。」と老人は満足しないで言った。
 彼はちょっと躊躇《ちゅうちょ》して、それから少し気恥しげに声を低めて尋ねた。
「彼奴《あいつ》は……また……?」
「いいえ、お父《とう》様、いいえ。」とルイザは急《せ》き込んで言った。
 老人は彼女を眺めた。彼女はその前に顔をそらした。
「ほんとうじゃない、お前は嘘をついてるな。」
 彼女は黙って涙を流した。
「ああ!」と老人は大声を出しながら、暖炉を一つ蹴《け》った。火掻《ひかき》棒が落ちて大きな音をたてた。
 母親と子供とはふるえあがった。
「お父様、どうぞ、」とルイザは言った、「坊やが泣き出しますから。」
 子供は泣声をたてたものかそれともやはり静かにしていようかと、しばらく躊躇《ちゅうちょ》した。しかし両方を同時にすることができないので、やはり静かにしていた。
 ジャン・ミシェルは腹立ちまぎれにいっそう太い声で言いつづけた。
「わしはどんなことをした報《むく》いで、あんな酔漢《よいどれ》を息子に持ったのか! わしのような生活をし、万事に不自由な目を忍んだのも、むだな骨折りだったのか!……だがお前は、お前は彼奴《あいつ》を制することができないというのか。なぜかって、そりゃあお前の役目じゃないか。お前が彼奴を家に引留めさえしたら……。」
 ルイザはなお激しく涙を流していた。
「このうえ私を叱《しか》ってくださいますな、私もうたいへん不仕合せですもの。私はできるだけ

      いずれの国の人たるを問わず、

     苦しみ、闘い、ついには勝つべき、

     あらゆる自由なる魂に、捧《ささ》ぐ。

          ロマン・ローラン

        昼告ぐる曙《あけぼの》の色ほのかにて、
        汝《な》が魂は身内に眠れる時……
             ――神曲、煉獄の巻、第九章――

     一

           うち湿りたる濃き靄《もや》の
           薄らぎそめて、日の光
          おぼろに透し来るごとくに……
               ――神曲、煉獄の巻、第十七章―

 河の水音は家の後ろに高まっている。雨は朝から一日窓に降り注いでいる。窓ガラスの亀裂《ひび》のはいった片隅には、水の滴《したた》りが流れている。昼間の黄ばんだ明るみが消えていって、室内はなま温くどんよりとしている。
 赤児《あかご》は揺籃《ゆりかご》の中でうごめいている。老人は戸口に木靴を脱ぎすててはいって来たが、歩く拍子に床板《ゆかいた》が軋《きし》ったので、赤児はむずかり出す。母親は寝台の外に身をのり出して、それを賺《すか》そうとする。祖父は赤児が夜の暗がりを恐《こわ》がるといけないと思って、手探りでランプをつける。その光で、祖父ジャン・ミシェル老人の赤ら顔や、硬い白髯《しろひげ》や、気むずかしい様子や、鋭い眼付などが、照らし出される。老人は揺籃のそばに寄ってゆく。その外套《がいとう》は雨にぬれた匂いがしている。彼は大きな青い上靴《うわぐつ》を引きずるようにして足を運ぶ。ルイザは近寄ってはいけないと彼に手|真似《まね》をする。彼女は白いといってもいいほどの金髪で、顔立はやつれていて、羊のようなやさしい顔には赤痣《あかあざ》があり、唇《くちびる》は蒼《あお》ざめて厚ぼったく、めったにあわさらず、浮べる微笑もおずおずとしている。彼女は赤児を見守っている――ごく青いぼんやりした眼で、その瞳《ひとみ》はきわめて小さいがいたって物優しい。
 赤児は眼を覚して泣く。その定かならぬ目差《まなざ》しは乱される。なんという恐ろしさだろう! 深い闇《やみ》、ランプの荒々しい光、渾沌《こんとん》のなかから出てきたばかりの頭脳の幻覚、周囲にたちこめている息苦しいざわめく夜、底知れぬ影、その影の中からは、まぶしい光線のように強く浮かび出してくる、強烈な感覚が、苦悩が、幻影が、こちらをのぞきこんでるそれらの巨大な顔が、自分を貫き自分のうちにはいり込む意味の分らないそれらの眼が!……赤児は声をたてる力もない。彼は身動きもせず、眼を見開き、口を開け、喉《のど》の奥で息をしながら、恐怖のために釘付《くぎづけ》にされる。その膨《ふく》れた大きな顔には皺《しわ》が寄って、痛ましい奇怪な渋面《じゅうめん》になる。顔と両手との皮膚は、栗色で紫がかっており、黄っぽい斑点がついている……。
「いやはや、なんて醜い奴だ!」と老人は思い込んだ調子で言った。
 彼はランプをテーブルの上に置きに行った。
 ルイザは叱《しか》られた小娘のように口をとがらした。ジャン・ミシェルは横目で彼女を眺《なが》めて、そして笑った。
「きれいな奴だと言ってもらおうとは、お前も望んでやすまい。お前にだってきれいだとは思えまい。だがいいさ、お前のせいじゃない。赤ん坊てものはみんなこんなものだ。」
 子供はランプの炎と老人の目差《まなざ》しとに驚き、ただ惘然《ぼうぜん》として身動きもしなかったが、やがて声をたて始めた。おそらく彼は母親の眼の中に、苦情を言うがいいと勧めるような愛撫《あいぶ》を、本能的に感じたのであろう。彼女は彼の方へ両腕を差出して言った。
「私にかしてください。」
 老人はいつもの癖で、まず理屈を並べたてた。
「泣くからといって子供の言うままになってはいけない。勝手に泣かせることだ。」
 しかし彼は子供のところへ来て、それを抱き上げ、そしてつぶやいた。
「こんな醜い奴は見たことがない。」
 ルイザはわなわなしてる手で子供を受取り、胸深く抱いた。彼女はきまり悪げなまた喜びにたえないような微笑を浮べて、子供を見守った。
「おう、かわいそうに、」と彼女はたいそう恥ずかしそうにして言った、「坊やはなんて醜いでしょう、なんて醜いでしょう、ほんとにかわいいこと!」
 ジャン・ミシェルは暖炉のそばにもどった。彼は不機嫌な様子で、火をかきたて始めた。しかしその顔に装ってる陰鬱なしかつめらしさは、軽い微笑の影で裏切られていた。
「お前、」と彼は言った、「ねえ、苦にしちゃいけない。まだまだこれから顔付は変わるものだ。それに、醜いったってそれがなんだ? この子に求むることはただ一つきりだ、りっぱな者になってくれということだ。」
 子供は母親の温かい身体に触《さわ》って心が和らいでいた。息を押えて貪《むさぼ》るように乳を吸ってる音が聞えていた。ジャン・ミシェルは椅子《いす》の上で軽く身をそらして、おごそかにくり返した。
「正直な男ほどりっぱなものはない。」
 彼はちょっと黙って、その思想を敷衍《ふえん》したものかどうか考えた。しかしそれ以上言うべきことを見出さなかった。そしてしばらく黙った後、激した調子で言い出した。
「夫がいないとは、どうしたことだ?」
「芝居に行ってるのでしょう。」とルイザはおずおず言った。「下稽古《したげいこ》がありますから。」
「芝居小屋は閉まっている。わしは今その前を通って来たんだ。それもまた彼奴《あいつ》の嘘《うそ》だ。」
「いいえ、あの人ばかりをいつもおとがめなすってはいけません。私の思い違いかもしれませんから。では出稽古に手間取ってるのでしょう。」
「もう帰って来られるはずだ。」と老人は満足しないで言った。
 彼はちょっと躊躇《ちゅうちょ》して、それから少し気恥しげに声を低めて尋ねた。
「彼奴《あいつ》は……また……?」
「いいえ、お父《とう》様、いいえ。」とルイザは急《せ》き込んで言った。
 老人は彼女を眺めた。彼女はその前に顔をそらした。
「ほんとうじゃない、お前は嘘をついてるな。」
 彼女は黙って涙を流した。
「ああ!」と老人は大声を出しながら、暖炉を一つ蹴《け》った。火掻《ひかき》棒が落ちて大きな音をたてた。
 母親と子供とはふるえあがった。
「お父様、どうぞ、」とルイザは言った、「坊やが泣き出しますから。」
 子供は泣声をたてたものかそれともやはり静かにしていようかと、しばらく躊躇《ちゅうちょ》した。しかし両方を同時にすることができないので、やはり静かにしていた。
 ジャン・ミシェルは腹立ちまぎれにいっそう太い声で言いつづけた。
「わしはどんなことをした報《むく》いで、あんな酔漢《よいどれ》を息子に持ったのか! わしのような生活をし、万事に不自由な目を忍んだのも、むだな骨折りだったのか!……だがお前は、お前は彼奴《あいつ》を制することができないというのか。なぜかって、そりゃあお前の役目じゃないか。お前が彼奴を家に引留めさえしたら……。」
 ルイザはなお激しく涙を流していた。
「このうえ私を叱《しか》ってくださいますな、私もうたいへん不仕合せですもの。私はできるだけのことはしました。ああ一人でいるとどんなに恐ろしい思いをしていますか、それを察してくださいましたら! いつでも階段にあの人の足音が聞えるような気がします。すると私は扉《とびら》が開くのを待ちます。まああの人はどんな様子で出てくるかしらと考えます。……それを思ってみるだけでも気がふさいできます。」
 彼女はすすり泣きに身をふるわしていた。老人は気をもんだ。彼は彼女のそばにやって来、その震えてる両肩に乱れた蒲団《ふとん》をかけてやり、大きな手でその頭をなでてやった。
「さあ、さあ、心配することはない。わしがついてる。」
 彼女は子供のことを思ってむりに気を鎮《しず》め、そして微笑《ほほえ》もうとした。
「あんなことを申しましたのは、私が悪うございました。」
 老人は頭をうち振りながら彼女を眺めた。
「かわいそうに、わしがお前にやった贈物はりっぱなものではなかった。」
「私の方が悪いんです。」と彼女は言った。「あの人は私みたいな者と結婚なさるのではありませんでした。自分のしたことを後悔なすっています。」
「何を後悔しているって?」
「それはあなたがよく御存じでございましょう。私があの人の妻になりましたのを、あなた御自身でも気を悪くしていらっしゃいました。」
「もうそんな話をするもんじゃない。なるほどわしは多少不満だった。あのような青年――こう言ったって何もお前の気にさわりはすまい――わしが注意して育て上げた青年、すぐれた音楽家で、ほんとうの芸術家で――まったく彼は、お前のように貧乏で、身分が違い、なんの技能もない者より、もっとほかの女を選むこともできたはずだ。クラフト家の者が音楽家でもない娘と結婚するなんてことは、もう百年あまりこの方|例《ためし》がないんだ!――それでも、お前もよく知ってるとおり、わしはお前を恨んだこともないし、お前と知り合ってからはいつも好意をもっていた。それに、一度こうときまってしまえば、もう後もどりはできない。あとはただ義務を尽すことばかりだ、正直に。」
 彼は元の席へもどって腰掛け、ちょっと間をおいて、それから、いつも自分の格言を口にする時のような厳《いかめ》しさで言った。
「人生で第一のことは、おのれの義務を尽くすことだ。」
 彼は抗議を待ち受け、火の上に唾《つば》をした。それから、母親も子供もなんら異論をもち出さなかったので、なお言葉をつづけたく思った――が、口をつぐんだ。

 彼らはもう一言も口をきかなかった。ジャン・ミシェルは暖炉のそばで、ルイザは寝床にすわって、二人とも悲しげに夢想していた。老人はああは言ったものの、息子の結婚のことを苦々《にがにが》しげに考えていた。ルイザの方も同じくそのことを考えていた、そしてみずから非難すべき点は何もなかったけれど、それでも気がとがめていた。
 ジャン・ミシェルの子メルキオル・クラフトと結婚した時、彼女は女中であった。でその結婚にはだれも驚いたが、とくに彼女自身が驚いた。クラフト家には財産はなかったが、約半世紀前に老人が居を定めたそのライン河畔の小さな町では、かなり尊敬されていた。彼らは父子代々の音楽家で、その地方、ケルンとマンハイム間では、音楽家仲間に名が知れわたっていた。メルキオルは宮廷劇場のヴァイオリニストであった。ジャン・ミシェルは近頃まで大公爵の演奏会を指揮していた。でこの老人はメルキオルの結婚に深い屈辱を感じた。彼は息子に大きな希望をかけていて、自分自身ではなれなかったけれども、息子の方は高名な人物になしたいと思っていた。ところがこの無謀な結婚は、その望みを打ち壊《こわ》してしまった。それで最初のうちは盛んに怒鳴りたて、メルキオルとルイザとをののしりちらした。しかし根が正直な人だけに、嫁の気心をよく知ってくると、すぐに彼女を許してやった。そして父親としての愛情をさえ心にいだくようになった。がその愛情はたいてい冷たい素振りとなって現われていた。
 メルキオルが何に駆《か》られてそういう結婚をしたのか、だれも了解することができなかった――だれよりもメルキオル自身に訳が分らなかった。確かにルイザの美貌《びぼう》のせいではなかった。彼女は少しも人を惑わすような点をもってはいなかった。背が低く、蒼《あお》ざめて、虚弱だった。ところがメルキオルとジャン・ミシェルとは二人とも、背が高く、でっぷりして、赤ら顔の、たくましい拳《こぶし》をし、よく食い、よく飲み、笑い事の好きな、騒ぎやの大男だったので、彼女とおかしな対照をなしていた。彼女はまるで彼らに圧倒されてるかと思われた。だれも彼女へはほとんど注意を向けなかったが、それでも彼女はなおいっそう隅《すみ》っこに引込んでばかりいようとしていた。もしメルキオルがやさしい心をもってるのだったら、彼は他のあらゆる利益をうち捨ててルイザの純良な気質を選んだのだとも、考えられないことはなかった。しかし彼は最も浮薄な男だった。で結局、かなりの好男子で、自分でもそれを知らないではなく、またごく見栄坊《みえぼう》で、そのうえ多少の才能もあり、金持ちの娘に眼をつけることもでき、また彼がみずから自慢してたように、中流市民の女弟子のどれかを夢中にならせることさえもできる――たれかいずくんぞ知らんやではあるが――という、彼のような一個の青年が、財産も教育も容色もない賤《いや》しい娘を、しかも向うからもちかけても来なかった娘を、突然妻に選ぼうとは、まったく賭事《かけごと》みたいな沙汰《さた》らしく見えるのであった。
 しかしメルキオルは、他人が期待してることやまた自分みずからが期待してることとは、常に反対のことを行なうような類《たぐい》の男であった。かかる人たちは目先のきかないわけではない――目先のきく者は二人前の分別があるそうだが……。彼らは何事にも欺《あざむ》かれることがないと高言し、一定の目的の方へ自分の舟を確実に操《あやつ》ってゆけると高言している。しかし彼らは自分自身を勘定に入れていない、なぜなら自分自身を知らないから。いつも彼らにありがちなその空虚な瞬間には、彼らは舵《かじ》を打ち拾てておく。そして物事は勝手に放任さるると、主人の意に反することに意地悪い楽しみを見出すものである。自由に解き放された舟は、まっすぐに暗礁を目がけて進んでゆく。かくて野心家のメルキオルは女中|風情《ふぜい》と結婚した。とは言え、彼女と生涯の約を結んだ時、彼は酔っ払ってもいなければぼんやりしてもいなかった。また彼は情熱の誘《いざな》いをも感じてはいなかった。そんなものは非常に欠けていた。しかしわれわれのうちには、情意以外の他の力が、感覚よりも他の力が、――普通の力が皆眠っている虚無の瞬間に主権を握るある神秘な力が、おそらく存在しているのかもしれない。ある夕方、ライン河畔で、メルキオルがこの若い娘に近づき、葦《あし》の中で彼女のそばにすわり――みずから理由も知らないで――彼女に婚約を与えた時、おずおずと彼を眺めてる彼女の沈んだ瞳《ひとみ》の底で、彼はこの神秘な力に遭遇したのであろう。
 結婚するとすぐに、彼は自分のしたことに落胆したような様子をした。彼はそのことをあわれなルイザにもさらに隠さなかった。ルイザはいかにもつつましやかに、彼に許しを求めた。彼は悪い男ではなかった、そして快く彼女を許してやった。しかしすぐその後で、友人らの間に交わったり、または金持ちの女弟子の家に行ったりすると、ふたたび悔恨の念にとらえられた。女弟子らはもう軽侮の様子を見せていて、彼が鍵盤《キー》の上の指の置き方を正してやろうとして手でさわっても、もはや身を震わすようなことはなかった。すると彼は陰鬱《いんうつ》な顔付をしてもどって来た。ルイザはそれを一目見て、またいつもの非難をよみとって、つらい思いをした。あるいはまた彼は、居酒屋に立ち寄って遅くなることもあった。彼はそこで、自分自身にたいする満足と他人に対する寛容とを汲みとった。そういう晩には、からから笑いながらもどって来た。しかしそういう笑いは、いつもの口には出さない考えや胸に蓄えてる怨恨《えんこん》よりも、ルイザにはいっそう悲しく思われた。彼女は夫のそうしたふしだらにたいして、自分にも多少責任があるように感じていた。そのふしだらのたびごとに、家の金がなくなるとともに、夫の心に残ってるわずかな真面目《まじめ》さもしだいに消えていった。メルキオルは身をもちくずしていった。たえず勉《つと》めて自分の平凡な才をみがくべき年ごろに、彼はずるずると坂を滑り落ちて顧《かえり》みなかった。そして他人に地位を奪われていった。
 しかしながら、麻のような髪の毛の一女中に彼を結びつけた不可知なる力にとっては、それがなんの関係があろうぞ。彼はただ自分の役目を演じたのである。そして今や小さなジャン・クリストフが、運命の手に導かれて、この地上に足を踏み出していた。

 すっかり夜になっていた。ジャン・ミシェル老人は暖炉の前で、昔や今の悲しいことどもを考えながらぼんやりしていたが、ルイザの声ではっと我にかえった。
「お父様、あの人はきっと遅くなるでしょう。」と若い妻はやさしく言っていた。「もうお帰りなさいませ、道が遠うございますから。」
「メルキオルが帰るまで待っていよう。」と老人は答えた。
「いいえ、どうぞ、いてくださらない方がよろしゅうございます。」
「なぜ?」
 老人は顔をあげて、じっと彼女を眺《なが》めた。
 彼女は答えなかった。
 彼は言った。
「お前は恐《こわ》がっているね。彼奴《あいつ》にわしを会わせたくないんだね。」
「ええ、そうでございます。お会いになれば事がめんどうになるばかりでしょう。あなたはきっとお怒りなさいます。いやです。お願いですから!」
 老人は溜息《ためいき》をつき、立ち上がり、そして言った。
「よしよし。」
 彼は彼女のそばに行き、ざらざらした髯《ひげ》で彼女の額をなでた。そして何か用はないかと尋ね、ランプの火をねじ下げ、暗い室の中を椅子《いす》にぶっつかりながら出ていった。しかし階段を降り始めないうちに、息子が酔っ払ってもどってくることを頭に浮べた。彼は一段ごとに立止った。息子が一人で帰って来たらどんなことになるだろうかと、いろいろ危険な場合を想像してみた。
 寝床の中では、母親のそばで、子供がまた動きだしていた。未知の苦悩が、おのれの存在の奥底から湧《わ》き上がってきていた。彼は母親に身を堅く押しつけた。身体をねじまげ、拳《こぶし》を握りしめ、眉《まゆ》をひそめた。苦悩は力強く平然と、大きくなるばかりであった。その苦悩がどういうものであるか、またどこまで募ってゆくものか、彼には分らなかった。ただ非常に広大なものであり、決して終ることのないものであるように思われた。そして彼は悲しげに声をたてて泣き出した。母親はやさしい手で彼をなでてやった。苦悩はもうずっと和らいでいた。しかし彼は泣きつづけていた。自分の近くに、自分のうちに、その苦悩がいつもあるように感じていたからである。――大人《おとな》が苦しむ時には、その苦しみの出処を知れば、それを減ずることができる。彼は思想の力によって、その苦しみを身体の一部分に封じ込める。そしてその部分はやがて回復されることもできれば、必要に応じては切り離されることもできる。彼はその部分の範囲を定め、自分自身から隔離しておく。しかし子供の方は、そういうごまかしの手段をもたない。彼と苦しみとの最初の邂逅《かいこう》は、大人の場合よりもより悲壮でありより真正直である。自分自身の存在と同じように、苦しみも限りないもののように思われる。苦しみは自分の胸の中に棲《す》み、自分の心の中に腰を据《す》え、自分の肉体を支配してるように感ぜられる。そしてまた実際そのとおりである。苦しみは彼の肉体を啄《ついば》んだ後でなければ肉体から去らないだろう。
 母親は子供を抱きしめながら、かわいい言葉をかけている。
「さあ済んだよ、済んだよ、もう泣くんじゃありません。ねえ、いい子だからね……。」
 子供はなお途切れ途切れに、訴えるように泣きつづける。その無意識な不格好なあわれな肉の塊《かたまり》は、自分に定められてる労苦の一生を予感してるかのようである。そして何物も彼を静めることはできない……。
 サン・マルタンの鐘の音が、夜のうちに響きわたった。その音は荘重《そうちょう》でゆるやかであった。雨に濡《ぬ》れた空気の中を、苔《こけ》の上の足音のように伝わっていった。子供はすすり泣いていたが、ぴたりと声を止めた。豊かな乳が流れ込むように、美妙な音楽が静かに彼のうちに流れ込んできた。夜は輝きわたり、空気は和やかで温かだった。子供の苦悩は消えてゆき、その心が笑い始めた。そして彼は我を忘れた大きい息を一つして、そのまま夢の中におちこんでいった。
 三つの鐘が静かに鳴りつづけて、明日の祭りを告げていた。ルイザも鐘の音に耳を傾けながら、過去の惨《みじ》めなことどもを思い浮かべ、またそばに眠ってるかわいい赤子の行末などをぼんやり考え耽《ふけ》った。彼女はもう数時間前から、けだるいがっかりした身を、寝床に横たえていたのである。手先や身体がほてっていて、重い羽根|蒲団《ぶとん》に押し潰《つぶ》される思いをし、暗闇のために悩まされ圧迫されるような気がしていた。しかし強《し》いて身を動かそうともしなかった。彼女は子供の顔を眺めていた。暗い夜ではあったが、年寄じみた子供の顔立を見分けることができた。眠気《ねむけ》が襲ってきて、頭の中にはいらだたしい幻が通りすぎた。メルキオルが扉を開ける音を耳にしたように思って、胸がどきりとした。時々河の音が、獣の吼《ほ》え声のように、寂寞《せきばく》たる中に高く響いてきた。ガラス窓は雨に打たれて、なお二、三度音をたてた。鐘の音はしだいにゆるやかになってゆき、ついに消えてしまった。そしてルイザは子供のそばで眠りに入った。
 そういう間、ジャン・ミシェル老人は、雨の中に、霧に髯《ひげ》を濡らして、家の前で待っていた。惨《みじ》めな息子の帰宅を待っていた。頭がたえず働いて、泥酔《でいすい》から起こるいろんな悲しい出来事をあれこれと想像してやまなかったのである。実際そういう事が起ころうとは信じなかったけれども、もし息子がもどって来るのを見ないで帰ったら、その晩一睡もできないかもしれなかった。鐘の音を聞いて彼の心は非常に悲しくなっていた。空《くう》に終った昔の希望を思い起こしたからである。こんな時刻に、この往来の中で、自分は今何をしているか、それを彼は心に浮べていた。そして恥ずかしさのあまり涙を流していた。

 月日の広漠たる波は徐々に展開してゆく。限りなき海の潮の干満のように、昼と夜とは永遠に変わることなく去来する。週と月とは流れ去ってはまた始まる。そして日々の連続は同じ一日に似ている。
 極《きわ》みなき黙々たる日、それを印《しるし》づけるものは、影と光との相等しい律動、また揺籃《ようらん》の底に夢みる遅鈍な存在の生命の律動――あるいは悲しいあるいは楽しいやむにやまれぬその欲望、それは昼と夜とにもたらされながら、かえってみずから昼と夜とを招き出すかと思われるまでに、規則正しく波動する。
 生命の振子は重々しく動いている。全存在はそのゆるやかな波動のうちにのみ込まれる。その他は皆夢にすぎない、うごめく奇形な夢の断片、偶然に舞い立つ原子の埃《ほこり》、人を笑わせあるいは恐れさせつつ過ぎてゆく眩《めまぐる》しい旋風にすぎない。喧騒《けんそう》、揺らめく影、奇怪な形、苦悩、恐怖、哄笑《こうしょう》、夢、種々の夢……。――すべて皆夢にすぎない……。――そしてその混沌《こんとん》の中には、彼に微笑《ほほえ》みかくる親しい眼の光、母の身体から、乳に脹《は》れた乳房から、彼の身体のうちに伝わりわたる喜悦の波、彼のうちにあって自然に積り太ってゆく力、その小さな子供の体内に閉じこめられて轟《とどろ》き出す湧きたった大洋。かかる幼児の内部を読み分けうる者は、影の中に埋もれたる幾多の世界を、しだいに形を具えゆく幾多の星雲を、形成中の全宇宙を……そこに見出すであろう。幼児の存在には限界がない。彼は存在するすべてのものである……。

 月は過ぎてゆく……。記憶の島が、一生の河の流れから現われ始める。最初は、眼にもとまらぬ狭い小島で、水面とすれすれになってる巌《いわ》である。それらのものの周囲には、夜が明けゆく薄ら明りの中に、静かに大きい水脈がずっとひろがってゆく。それからこんどは、金色の日の光を浴びた新しい小島が現われる。
 魂の深淵《しんえん》から、不思議に明確な種々の形が湧き出てくる。単調な力強い波動をなしながら、永遠に同じ姿でくり返される無辺際の日の中に、あるいは歓《よろこ》びの顔をしあるいは悲しみの顔をして、たがいに手をつなぎ合してる幾多の日の丸い群が、浮び出してくる。しかしその鎖の鐶《かん》はたえず切れて、思い出は週や月……をまたぎ越してたがいにつながり合う。
 河……鐘……。思い出の届くかぎり遠くに――時の遠い曠野《こうや》の中に、生涯のいかなる時代にもせよ――それらの奥深い親しい声は、常に歌っている……。
 夜――うとうとと彼が眠る夜……。蒼《あお》ざめた明るみが窓ガラスをほの白く染めている……。河は音をたてている。その声は、寂寞の中に力強く高まってくる。あらゆる存在の上に働きかける。あるいはそれらのものの眠りを和らげ、また河波の響きのままにみずからもうとうとしてるかと思われる。あるいは噛《か》みつこうとて狂い回ってる野獣のように、いらだち咆哮《ほうこう》する。その怒号が静まると、こんどは限りなくやさしい囁《ささや》き、銀の音色、澄み切った鈴の音のようなもの、子供の笑い声のようなもの、やさしい歌声、踊り舞う音楽。決して眠ることのない大いなる母性の声! その声は子供を揺《ゆ》する、彼より以前に存在したあらゆる時代の人々を、その生から死に至るまで、幾世紀の間も揺すってやったがように。そして子供の思想の中にはいり込み、その夢の中に沁《し》み込み、澱《よど》みなき諧調《かいちょう》のマントで彼をくるんでやる。やがて彼がラインの河水に浴する水のほとりの小さな墓地に横たわる時も、そのマントはなお彼をくるんでくれるであろう……。
 鐘の音……。もはや曙《あけぼの》! 鐘の音は、憂わしげに、多少悲しげに、親しく、静かに、たがいに響き合う。そのゆるやかな声音につれて浮かび上がってくる、夢の群が、過去の様々の夢が、消え失せた人々の慾望や希望や悔恨が。子供はそれらの人々を少しも知らなかったけれども、それでもなお昔は彼らにほかならなかった、なぜなら、彼は彼らのうちに存在していたから、また彼らは彼のうちに甦《よみがえ》ってきているから。幾世紀もの思い出が、今鐘の奏する音楽の中に震えている。数多《あまた》の悲しみと数多の歓び!――そして、室の奥からでも、その鐘の音を聞いていると、軽い空気の中を流れゆく美しい音波や、自由な鳥や、風の温かい息吹《いぶ》きなどが、すぐ眼の前を通りすぎるがように思われる。青い空の一部が窓に微笑《ほほえ》みかけている。一条の日の光が、窓掛から滑り込んで寝床の上に落ちている。子供が見慣れた小さな世界、毎朝眼を覚しながら寝床から眺めるすべてのもの、自分のものにしようとして、多くの努力を払って、それと知り始め名づけ始めたすべてのもの――彼の王国が輝き出す。皆が食事をするテーブル、彼が隠れて遊ぶ戸棚《とだな》、彼がはい回る菱《ひし》形の床石《ゆかいし》、おかしな話や恐ろしい話を彼にしてくれる種々な皺《しわ》のある壁紙、彼だけにしか分らない片言《かたこと》をしゃべる掛時計。なんとたくさんのものが室の中にあることだろう! 彼はそれらのすべてを知りつくしてはいない。毎日彼は、自分に属してるその宇宙に探険に出かける――すべてが彼のものである。――一つとしてつまらないものはない。一人の人間も一匹の蠅《はえ》も、すべてが同じ価値をもっている。猫《ねこ》、火、テーブル、一筋の光の中に舞い立ってる細かな埃《ほこり》、皆同じ価に生きている。室は一つの国である。一日は一つの生涯である。そういう広漠たる中において、どうしておのれを認められよう? 世界はかくも大きい! 自分の姿が見分けられない。そして周囲にたえず渦《うず》巻いている。それらの顔、身振り、運動、音響……。子供は疲れてくる。眼は閉じて、彼は眠ってゆく。快い眠り、深い眠り、身を置くに好ましいところなら、母親の膝《ひざ》の上でもテーブルの下でも、どこであろうとまたいつであろうと、彼は突然それにとらえられる……。あたりは快い、自分自身も快い……。
 それら最初の日々《にちにち》は、大きな雲の移りゆく影を宿して風に吹かるる麦畑のように、子供の頭の中に騒々しい音をたてる……。

 影は逃げ去って、太陽がのぼってくる。クリストフは一日の迷宮の中に、自分の道を見出し始める。
 朝……。両親は眠っている。彼は自分の小さな寝床に仰向《あおむけ》に寝ている。彼は天井に踊る光の線を眺める。それは尽くることなき楽しみである。にわかに彼は声高く笑う。聞く者の心を喜ばせる子供の善良な笑い。母親は彼の方に身をかがめて言う、「まあどうしたの、坊や。」すると、見る人がいるのでなお努めて笑うのでもあろうか、彼はますます晴やかに笑う。母親はしかつめらしい様子をして、父親を覚まさないようにと、彼の口に指を一本あてる。けれども彼女の疲れてる眼は、我知らず笑っている。二人はいっしょにささやき合う……。と突然、父親は激しく怒鳴りつける。二人とも震え上がる。母親は罪を犯した小娘のように、急いで寝返りをして、眠ったふりをする。クリストフは寝床に深く身を埋めて、じっと息をこらす……。死のような沈黙。
 しばらくすると、毛布の下にかがまっていた子供は、そっと顔を覗《のぞ》き出す。屋根の上には風見《かざみ》が軋《きし》っている。樋《とい》からは点滴《しずく》がたれている。御告《みつげ》の祷《いのり》の鐘が鳴る。風が東から吹く時には、対岸の村々の鐘が、ごく遠くからそれに響きを合わせる。木蔦《きづた》のからんだ壁に群がってる雀《すずめ》が、騒がしく鳴きたてる。その中には、一群の子供の遊びに見られるように、他のよりもずっと疳《かん》高いいつも同じような三、四の声が、ひときわ高く響いている。一羽の鳩《はと》が、煙突の頂上で喉《のど》を鳴らしている。子供はそれらの音に身を任せる。彼は歌い出す、ごく低く、それから少し高く、それからごく高く、次には非常に大きな声で。するとついに、父親は声をとがらしてまた怒鳴る、「この驢馬《ろば》め、まだ黙らないのか! 待ってろ、耳を引張ってやるぞ!」そこで子供はまた毛布の中にもぐり込む。笑っていいか泣いていいか分らない。恐怖と屈辱とを感ずる。それと同時に、自分がたとえられた驢馬のことを頭に浮べると、思わず放笑《ふきだ》してしまう。寝床の奥から、驢馬の鳴声を真似《まね》る。とこんどは打たれる。彼は身体じゅうの涙をしぼって泣く。自分は何をしたというのだろう? 彼は笑いたくてたまらない、動き出したくてたまらない! それなのに身を動かすことは禁ぜられてる。どうして皆《みんな》はいつまでも眠れるのだろう! いつ起き上がったらいいのかしら?……
 ある日、彼はもう我慢がしきれなくなった。猫か犬か、なんだか珍しい音が、往来に聞えたのである。彼は寝床の外に忍び出る。小さな素足で無器用に床石《ゆかいし》をたどりながら、階段を降りて見に行きたくなる。しかし扉は閉《し》まっている。それを開くために椅子《いす》の上にのる。とたんに何もかも引っくり返る。身体を痛めて彼は泣き声をたてる。おまけにまた打たれる。いつでも打たれるのだ!……

 彼は祖父といっしょに教会堂にいる。退屈してくる。たいへん気づまりである。身動きすることも許されない。会衆は彼に分らない言葉をいっしょに言い、それからまたいっしょに黙ってしまう。皆おごそかな陰気な顔をしている。平素の顔付とは違っている。彼はおずおずと人々を眺める。隣家のリナ婆《ばあ》さんは、彼の横にすわって、意地悪そうな様子をしている。時とすると、祖父までが見違えるような様子になる。なんだか薄気味が悪い。けれどそのうちには慣れてくる。できるだけのことをして退屈をまぎらそうとする。身体を揺ったり、首をまげて天井を眺めたり、顔をしかめたり、祖父の上着を引っ張ったり、椅子《いす》につまっている藁《わら》を調べたり、指先でそれに穴を開けようとしたり、鳥の声に耳を傾けたり、また頤《あご》がはずれるような大|欠伸《あくび》をする。
 突然どっと音響がする。オルガンがひかれてるのである。彼は背筋にぞっと戦慄《せんりつ》を感ずる。ふり向いて椅子の背に頤をのせる、そしてごくおとなしくしている。彼にはその音響がさっぱり腑《ふ》に落ちない。それが何を意味するのか少しも知らない。それはただ輝き渦巻いて、何にも見分けられない。けれども快いものである。もう一時間も前から、退屈な古い家の中で、ぎごちない椅子にすわっていること、その気持がどこかへ行ってしまう。鳥のように空中に浮かんでる気がする。そして音響の大河が、いくつもの丸天井を満たし、壁にはね返されて、会堂の隅《すみ》から隅へ流れわたる時には、自分の身体もそれに運ばれ、翼を搏《う》ってあちらこちらと飛び回り、その誘いに身をうち任せるのほかはない。自由であり、幸福であり、日が輝いている……。彼はうつらうつらと居眠りをする。
 祖父は彼にたいして不満である。彼はミサに列して行儀が悪い。

 彼は家にいて、両手で足をかかえ床《ゆか》にすわっている。靴拭蓆《くつふきむしろ》を舟ときめ床石《ゆかいし》を川ときめたところである。蓆から出ると溺《おぼ》れてしまうと考えてるらしい。他の人たちが無頓着《むとんじゃく》に室内を通るのに、彼は驚きまた多少気を悪くしている。彼は裳衣《しょうい》の襞《ひだ》をつかまえて母親を引き止める。「このとおり水だよ! 橋を通らねばいけないよ。」――橋というのは、菱形の赤い床石の間につづいてる小溝《こみぞ》である。――母親は彼の言葉を耳にもかけないで通ってゆく。ちょうど戯曲作家が自作の開演中に勝手な話をしてる観客を見る時のように、彼はじれている。
 次の瞬間には、彼はもうそんなことは考えていない。床石はもう海ではない。彼は長々と床石の上にねそべって、石の上に頤をつけ、自分で作り出した音楽を口ずさみ、涎《よだれ》を垂らしながら真面目《まじめ》くさって親指を舐《ねぶ》っている。床石の間にある割目に見入っている。菱形のその列が人の顔のようにしかめる。眼にもつかないような小さな穴が、大きくなって谷になる。そのまわりにはいくつも山がある。一匹の草鞋虫《わらじむし》がはっている。それが象のように大きい。雷が落ちても子供の耳にははいらないだろう。
 だれも彼にかまってくれない。彼はだれにも用はない。靴拭蓆《くつふきむしろ》の舟、奇怪な獣のいる床石《ゆかいし》の洞窟《どうくつ》、そんなものさえもうなくてすむ。自分の身体だけでたくさんだ。身体はなんという興味の泉だろう! 彼は自分の爪《つめ》を眺めて大笑いしながら、いく時間も過す。爪はそれぞれ違った顔付をしていて、知ってる人たちに似かよっている。彼はそれらを、いっしょに話さしたり、踊らしたり、殴《なぐ》り合わしたりする。――それからこんどは身体の他の部分!……彼は自分に属するものを残らず検査しつづける。なんとたくさんの驚くべきものがあることだろう! 不思議なものが実にたくさんある。彼は珍らしそうにそれらのものに見とれる。
 時々、そういうところを人に見つけられて、彼は手荒く抱きとられた。

 時おり彼は、母親が向うを向いてる隙《すき》に乗じて、家から外にぬけ出す。初めのうちは、後から追いかけられてつかまってしまう。後になると、あまり遠くへさえ行かなければ、一人で出かけるままに放っておかれる。彼の家は町はずれにある。すぐそばから野原がつづいている。彼は窓が見える間は、時々片足で飛びながら、ちょこちょこと足をふみしめて、ちっとも立止まらないで歩いてゆく。けれども、道の曲り角を通りすぎると、藪《やぶ》に隠されてだれからも見られなくなると、にわかに様子を変える。まず立止まっては指を口にくわえて、今日はどういう話をみずから語ろうかと考える。頭の中にいっぱい話をもってるのである。もとよりその話はどれも皆似寄ったもので、また三、四行で書き終えられるくらいのものである。彼はそのどれかを選ぶ。たいていはいつも同じ話をとり上げて、それを前日話し残したところからやりだすか、または違った趣向をたてて初めからやりだす。新しい話の筋道を考え出すには、ごく些細《ささい》なことで十分である、ふと耳にした一言で十分である。
 偶然の事柄からいつもたくさんの思い付が出てきた。垣根のほとりに落ちてるような(落ちていなければ折り取ってしまうのだが)、ちょっとした木片や折枝などから、どんなものが引き出されるかは、人の想像にも及ぶまい。それらのものは妖精《ようせい》の杖《つえ》であった。長いまっすぐなものは、鎗《やり》になったり剣になったりした。それを打振りさえすれば、多くの軍隊が湧き出した。クリストフはその大将で、先頭に立って進み、模範を垂れ、斜面を進撃して上っていった。枝がしなやかな時には、鞭《むち》になった。クリストフは馬に乗って、断崖《だんがい》を飛び越えた。時とすると馬が足を滑らした。すると馬上の騎士は、溝の底に落ち込んで、よごれた手や擦《す》りむいた膝頭をきまり悪げに眺めた。杖が小さい時には、クリストフは管弦楽団の長となった。彼は指揮者でありまた楽員であった。指揮し、また歌った。それから彼は、小さな緑の頭が風に動いてる藪に向かってお辞儀をした。
 彼はまた魔法使であった。よく空を眺めながら大手を振って、大股《おおまた》に野の中を歩いた。彼は雲に命令を下した。――「右へ行け。」――しかし雲は左へ動いていた。すると彼は雲をののしって、命令を繰返した。自分の命令に従う小さなのでもありはすまいかと思って、胸を躍《おど》らせながら横目で窺《うかが》った。しかし雲は平然と左の方へ飛びつづけた。彼は足をふみ鳴らし、杖を振り上げて雲をおどかし、左へ行けと怒って命令をかけた。するとこんどは、雲はまったくその命令に服した。彼は自分の力に喜んで得意になった。お伽噺《とぎばなし》で聞いたように、金色の馬車になれと命じながら花にさわった。そして実際にはそういうことは起こらなかったけれど、少し辛抱していればきっと起こるだろうと思い込んでいた。彼は一匹の蟋蟀《こおろぎ》を捜し出して、それを馬にしようとした。蟋蟀の背中にそっと杖をあてて、一定の呪文《じゅもん》を唱えた。虫は逃げ出した。彼はその行く手をさえぎった。しばらくすると、彼は虫のそばにはらばいに寝転んで、じっと眺めた。もう魔法使の役目を忘れてしまって、そのあわれな虫を仰向《あおむけ》にひっくり返しては、それがもがき苦しむのに笑い興じた。
 彼は自分の魔法杖に古糸を付けることを考えだした。彼は真面目《まじめ》くさってそれを河の中に投げ込み、魚が食いに来るのを待った。魚というものは普通|餌《えさ》も鈎《かぎ》もない糸を食うものではないということは、彼もよく知っていたけれど、しかし一度くらいは、自分のために、魚が例外なことをするかもしれないと思っていた。そしてすっかり自惚《うぬぼ》れのあまり、ついに溝板《みぞいた》の割目から杖を差入れて、往来の中で釣《つり》をするまでになった。心を躍らせて時々その杖を引上げながら、こんどは糸が前より重いと考えたり、祖父から聞いた話にあったように、何かの宝を引き上げるのではないかと想像したりした……。
 そういうことをして遊んでる最中に、不思議な夢心地とまったくの忘却とに陥る瞬間があった。周囲のすべてのものは消え失せてしまって、もう自分が何をしているかをも知らず、自分自身をも忘れはてた。よくそんなことが不意に彼を襲った。歩いてる時、階段を上りかけてる時、突然空虚が開けてきた。彼はもう何にも考えていないようだった。そして我に返ってみると、前と同じ場所に、薄暗い階段の中ほどに、自分を見出して呆然《ぼうぜん》としてしまった。それはあたかも、一つの生涯を過してしまったようなものだった――階段の二、三段ばかりの場所で。

 祖父はしばしば夕方の散歩に彼を連れていった。子供は祖父に手を引かれて、小股《こまた》に足を早めながら並んで歩いた。彼らはいつも、快い強い匂いのする耕作地を横ぎって、小道を通っていった。蟋蟀《こおろぎ》が鳴いていた。道にはだかって横顔を見せてる大型の烏《からす》が、遠くから二人の来るのを眺めていたが、間近になると重々しく飛び去った。
 祖父はよく咳《せき》払いをした。クリストフはその意味をよく知っていた。老人は何か話を聞かせたくてたまらなかったが、まず子供の方からせがんでもらいたかったのである。するとクリストフはきっと話をせがんだ。二人の気持はたがいによく通じ合っていた。老人は孫にたいして深い愛情をいだいていた。そして孫のうちに熱心な聴衆を見出すことは、彼の喜びであった。自分の生涯中の出来事や、古今の偉人の話を、彼は好んで語ってきかした。そういう時彼の声は、調子づいてきて情に激していた。押えきれぬ子供らしい喜びに震えていた。彼は夢中になってみずから自分の言葉に聞きとれてるらしかった。語ろうとする時にあいにく言葉が見つからないこともあった。しかし彼はその失望に慣れていた。雄弁の発作と同じくらいに何度もくり返されたからである。そして話し始むればいつもその失望を忘れてしまったから、いつまでもそれを諦《あきら》めることができなかった。
 彼がよく話すのは、レギュリュスのことや、アルミニュスのことや、リューツォフの軽騎兵のことや、ケルネルのことや、皇帝ナポレオンを殺そうとしたフレデリック・スターブスのことであった。異常な武勇談を口にのぼせると、彼の顔は輝いてきた。荘重な言葉をやたらに厳《いかめ》しい調子でしゃべるので、まったく聞き分けられなくなるほどだった。そして彼は、聴手《ききて》が胸を躍らせる時分に少しじらしてやることを、上手《じょうず》なやり方と信じていた。彼は言葉を途切らし、息苦しそうなふうを装い、騒々しく鼻をかんだ。そして子供が、待遠しさのあまり息詰った声で、「それから、お祖父《じい》さん、」と尋ねると、彼の心は有頂天《うちょうてん》になった。
 その後、クリストフはだんだん大きくなって、ついに祖父の手段を見破るようになった。すると彼はもう意地悪くも、話の続きにたいして冷淡なふうを装うことを努めた。あわれな老人はそれに困らされた。――しかしまだ今のところでは、彼はまったく話手の自由になっていた。そして彼の血は、劇的な部分を聞くととくに躍りたった。もうなんという人のことやら、またそれらの手柄がどこでいつなされたのやら、あるいは祖父が果してアルミニュスを知っていたかどうか、レギュリュスというのはこの前の日曜に教会堂で見かけた人――その訳は神のみぞ知る――ではないかどうか、そんなことは彼には分らなくなった。彼の心は、また老人の心は、勇ましい手柄話になると、あたかもそれをしたのは自分たちであるかのように、自慢の念にふくれ上がった。なぜなら、老人も子供もともに等しく赤ん坊だったから。
 祖父が勇壮な話の中途に、心に大切にしまってる議論の一つをはさむ時には、クリストフはあまり嬉《うれ》しくなかった。それはおもに道徳上の意見であって、正しくはあるがやや陳腐《ちんぷ》な一つの思想にたいていつづめられるようなものだった、たとえば、「温和は過激に優《まさ》る、」――「名誉は生命よりも貴し、」――「邪悪なるは善良なるに如《し》かず、」などと。――そしてただ、それよりもずっと錯雑してるだけだった。祖父は自分の幼い聴手の批評を恐れてはいなかった。そしていつも心ゆくかぎりおおげさな調子で口をきいた。少しもはばからずに、同じ文句をくり返したり、中途で言葉を途切らしたり、また議論の途中でまごつく時には、思想の破綻《はたん》をふさごうとして、なんでも頭に浮かぶことをでたらめに言ったりした。そして言葉をいっそう力強くなすためには、その意味と矛盾する身振りをさえ添えた。子供はごくかしこまって耳を傾けていた。そして、祖父は非常に雄弁だが多少退屈だと、彼は考えていた。
 二人とも好んで、ヨーロッパを征服したあのコルシカの偉人に関する伝説的な物語に、何度も立ちもどっていった。祖父は彼を知っていた。かつてはも少しで彼と矛《ほこ》を交ゆるところだった。しかし祖父は敵の偉さをも認めることができた。幾度となくそれを口にした。あれほどの人物がラインのこちらに生まれるなら、片腕くらいくれてやっても惜しまなかったろう。しかし運命はそうは許さなかった。祖父は彼を賛美していたが、彼と戦った――言い換えれば、まさに彼と戦おうとしたのだった。けれども、ナポレオンがすでに十里ばかりの距離に迫ってき、それと会戦を期して進軍していた時、その小軍勢は突然|狼狽《ろうばい》し出して、森の中に潰走《かいそう》してしまった。「謀叛《むほん》だ!」と叫びながらだれも皆逃げ出してしまった。逃走者を引きとめようとしたが駄目《だめ》だった、と祖父は話してきかした。祖父は彼らの前に身を投げ出して、おどかしたり涙を流して説いたりした。けれども逃走者の人波に巻き込まれて、翌日になると、戦場――と祖父は潰走の場所を呼んでいた――から驚くほど遠くに来てしまっていたのである。それでも、クリストフはいつも急《せ》き込んで、その英雄の勳功談に祖父を引きもどした。そして世界じゅうを馬蹄《ばてい》にふみにじった驚くべき話に魅せられてしまった。眼の前に浮かび出すその英雄は、無数の人民を後ろに従えていた。人民らは敬愛の叫びを発していて、彼の合図一つで群がりたって敵に飛びかかってゆき、敵はいつも敗走した。それはまったくお伽噺《とぎばなし》と同じだった。祖父は話を面白くするために、余計なものまで少しつけ加えた。その英雄はスペインを征服していた。許すことのできないイギリスをもほとんど征服していた。
 時とすると老クラフトは、その熱烈な物語の中で、この英雄にたいする憤慨の語を交えることもあった。愛国の精神が彼のうちに目覚めていた。そしておそらく、イエナの戦《いくさ》の話よりも、皇帝の敗北の条《くだり》においていっそうそうであったろう。彼は言葉を途切らして、ライン河に拳固《げんこ》をさしつけ、軽侮の様子で唾《つば》を吐き、上品な罵言《ばげん》――他の下等な罵言を吐くほど彼は自分を卑しくしなかった――を発した。悪人、猛獣、不徳漢、などとその英雄を呼んだ。そしてかかる言葉がもし、子供の精神の中に正義の観念をうち立てるのを目的としていたのなら、それは的はずれのものであったというべきである。なぜなら、子供の論理は次のように結論しやすかったから。「もしあんな偉い人が徳義をもっていなかったとするならば、徳義などということは大したものではない、最も大事なのは、偉い人になるということだ。」しかし老人は、自分のそばにようやく一人立ちをしかけてる幼い思想については、露ほどの察しもなかった。
 二人はそれらの素敵な話をめいめい自己流に考え耽《ふけ》りながら、いずれも黙っていた。――ただ途中で祖父が、自分を贔屓《ひいき》にしてくれてる上流のだれかが散歩してるのに出会うと、そうはいかなかった。祖父はいつまでも立止って、低くお辞儀をし、やたらに追従《ついしょう》的なお世辞を並べたてた。子供はそれを見て、なぜともなく顔を赤くした。しかし祖父は、既成権力と「成上り者」とにたいしては、心の底に尊敬の念をいだいていた。話の主人公たる英雄らを彼があれほど好きだったのは、よく成上りえた人物を、他の者より高い地位に達しえた人物を、彼らのうちに見出していたせいかもしれなかった。
 ごく暑い時には、老クラフトはよく木蔭にすわった。そして間もなく仮睡することが多かった。するとクリストフは祖父のそばで、ぐらぐらする石積の横の方や、標石や、またどんなに不安定で変なものであろうと何か高いものがあれば、その上に腰を下した。そして小さな足をぶらぶら動かしながら、小声で歌ったりぼんやり考え耽ったりした。あるいはまた仰向《あおむけ》に寝転んで、雲の飛ぶのを眺めた。雲は、牛や、巨人や、帽子や、婆さんや、広々とした景色など、いろんな形に見えた。彼はそれらの雲とひそかに話をした。小さな雲が大きいのにのみ込まれようとするのを見ては、あわれみの念を起こした。またほとんど青いとさえ言えるほど真っ黒なのや、非常に速く走るのを見ては、恐ろしいように思った。それらの雲が人生にも大きな場所を占めてるように思われた。そして祖父や母がそれに少しも注意を払わないのが、不思議でたまらなかった。もし悪を働く意志をもってたら、恐ろしい者となるに違いなかった。が幸いにもそれらは、人のよい多少おどけたふりをして通りすぎて、少しも止まらなかった。子供はあまり見つめていたので、しまいには眩暈《めまい》がしてきた。そして空の深みへ落ち込みかかってるかのように、手足をわなわな震わした。眼瞼《まぶた》がまたたいて、眠気がさしてきた……。静寂……。木の葉が日に照らされて、静かにそよぎ震えている。軽い靄《もや》が空中を過ぎてゆく。どこともなく蝿《はえ》の群が、オルガンのような音をたてて飛び交わしている。夏に酔った蝗《いなご》どもが、激しい歓びに羽音をたてている。あたりがしいんとなる……。丸くこんもりとした木立の葉影に、啄木鳥《きつつき》が怪しい鳴声をたてている。遠く野の中には、農夫の声が牛に呼びかけている。馬の蹄《ひづめ》が白い道路の上に響いている。クリストフの眼は閉じてくる。彼のそばでは、畝溝《うねみぞ》に橋をかけてる枯枝の上に一匹の蟻《あり》がはっている。彼はうっとりと知覚を失う……。幾世紀も過ぎ去った。彼は眼を覚ます。蟻はまだ小枝を渡りきっていなかった。
 祖父は時々あまり長く眠りすぎることがあった。顔がこわばり、長い鼻が伸び、口が横長く開いていた。クリストフは不安げにそれを眺め、その頭が奇怪な形に見えてくるのを気づかった。彼はその眠りを覚まそうとして、いっそう高い声で歌ったり、大きい音をたてて石積の斜面を滑り降りたりした。またある時ふと考え出して、祖父の顔に松葉を少し投げつけておいて、木から落ちたのだと言ってやった。祖父はそれをほんとうにした。クリストフはおかしくてたまらなかった。しかし彼は不運にもまたやってみようと考えた。そして手をふり上げたちょうどその時に、見ると、祖父の眼がじっと自分を眺めていた。まったく困ったことになった。老人は厳格であって、自分が当然受くべき尊敬になんらの悪戯《いたずら》をも加えることを許さなかった。二人は一週間以上もたがいに冷かな態度をとった。
 道が悪ければ悪いほど、クリストフにはいっそう面白く思われた。どの石の在処《ありか》も彼にとっては何かの意味となった。彼はその在処を皆知っていた。轍《わだち》の跡の凹凸《おうとつ》も、彼にとっては地理的の大変化であって、タウヌス連山などとほとんど匹敵するものだった。彼は自分の家のまわり二キロメートルばかりの地域にあるあらゆる凹凸の地図を、頭の中に入れていた。それで畝溝《うねみぞ》の間にできてる秩序を少し変えるような時には、自分は一隊の工夫を引連れた技師などに劣らぬ働きをするのだと思った。一塊の土の乾いた頂を踵《かかと》でふみつぶして、その下の方に掘られてる谷間を埋める時には、一日を無駄《むだ》には暮さなかったのだと考えた。
 時には、小馬車に乗った百姓に大道で出会うことがあった。向うは祖父をよく知っていた。二人は彼の横に乗った。それはこの世の楽園だった。馬は早く駆けた。クリストフはにこにこして喜んでいた。ただ、散歩してる他の人たちとすれちがう時だけは、真面目《まじめ》なゆったりした様子をして、いつも馬車に乗りつけてる人のようなふりをした。しかし心は自慢の念でいっぱいになっていた。祖父と百姓とは、彼をよそにして話をし合った。彼は二人の膝《ひざ》の間にかがまり、二人の腿《もも》に両方から押しつぶされる思いをし、やっと腰をかけ、またしばしばまったく腰をかけないでいることもあったが、それでも、嬉《うれ》しくてたまらなかった。返辞をされようとされまいとお構いなしに、声高く話をしかけた。馬の耳の動くのを眺めた。馬の耳って実に不思議な奴だ! 右へも左へも四方へ行き、前方へつっ立ち、横へ倒れ、後ろをふり向き、しかも放笑《ふきだ》さずにはおれないほどへんてこなふうでするのであった。彼は祖父をつねって、その耳に注意させようとした。しかし祖父にはそれが少しも面白くなかった。うるさいと言いながらクリストフに取り合わなかった。クリストフは考え込んだ。大人《おとな》というものは、どんなものにも驚かず、しっかりしていて、なんでも知ってるものだと彼は考えた。そして自分もまた大人らしい様子をし、好奇心を隠し、平気なふうをしようと努めた。
 彼は黙っていた。馬車が走るにつれて彼はうとうとした。馬の鈴が踊っていた。リ、リン、ドン、リン。楽《がく》の音《ね》が空中に起こって、銀のような鈴の音のまわりに、蜂《はち》の群みたいに飛び回っていた。そして規則的な馬車の響きの上に楽しく揺《ゆら》めいていた。それは尽くることなき歌の泉だった。歌は次から次へとつづいて現われてきた。どれもこれもクリストフには素敵なものと思われた。中にも、祖父の注意を促してやりたいほど美しく思われるのが一つあった。彼は少し声を高めてそれを歌った。しかしだれも気にも止めなかった。彼はふたたびその歌をくり返した、さらに高い調子で――それからも一度、あらんかぎりの声で――するとついにジャン・ミシェル老人は、腹をたてて彼に言った、「いい加減に黙らないか! ラッパのようにわめきたてて、たまらない奴だ!」――その声に彼ははっと息をつめた。鼻の頭まで真赤になり、がっかりして口をつぐんだ。そして今の歌が実にりっぱなものであることを、天空を開き示すほどの歌であることを、少しも了解しない愚鈍な二人に向かって、軽侮の念を浴せかけた。よく見ると、二人とも一週間も髯《ひげ》を伸ばしたままでたいへん見苦しかった。二人とも臭い匂いがしていた。
 彼は馬の影法師を眺めながらみずから慰めた。それもまた実に面白い看物《みもの》だった。その真黒な獣は、横に寝たまま道を駆けていった。夕方、帰る時には、牧場の中までずっと広がっていた。積草に出会うと、頭がその上にかけ上って、通りすぎるとまた元のところにもどっていった。その顔は破けた風船玉のようにだらりとしていた。その耳は大きくて、蝋燭《ろうそく》のようにとがっていた。ほんとうに影なのかしら、それとも生物かしら? 一人だったらクリストフも、こんなものに出会いたくなかったろう。祖父の影法師ならそれを追っかけて、頭の上を歩いたり足にふみつけたりしていたが、こんなものにたいしてはそれもなし得なかったろう。――太陽が傾くと、木立の影もまた瞑想《めいそう》の種だった。それは横ざまに道をさえぎっていた。陰気な奇怪な化物のようになって、「これから先へ行くな、」と言っていた。そして軋《きし》ってる車の心棒と馬の蹄《ひづめ》とがくり返した、「先へ行くな!」
 祖父と馬車の主人とは、際限もなくしゃべりつづけて飽かなかった。彼らはしばしば声を高めた。とくにその地方の事柄や損害の話の時そうだった。子供は夢想するのをやめて、心配そうに彼らを眺めた。たがいに腹をたててるように思われたし、おしまいには殴り合いになりはすまいかと気遣《きづか》われた。しかし実際はそれとまったく反対で、共通の憤懣《ふんまん》のうちに最もよく話が合ってる時だった。けれどもたいていは、少しの憤懣も熱情ももっていないことが多かった。彼らは自分たちに関係もない事柄を話題にして、下層の者らが喜びとするところと同じように、ただわめきたてる快楽のために喉《のど》いっぱいの大声を出していた。しかしクリストフは彼らの会話の意味が分らないので、ただその激しい声ばかりを耳にし、ひきつってる顔立を眺めて、心を痛めながら考えた。「こいつは人が悪そうな様子をしてる。二人は仲が悪いに違いない。こいつはあんなに眼をぎょろつかしてる、あんなに大きく口を開いてる。疳癪《かんしゃく》まぎれに私の顔まで唾《つば》を飛ばした。ああ、お祖父《じい》さんを殺すかもしれない……。」
 馬車は止まった。百姓は言った、「さあ着きましたよ。」二人の仇敵は握手をした。まず祖父が車から下りた。百姓は彼に子供を差出した。馬に一|鞭《むち》あてると、馬車は遠ざかっていった。二人はライン河のそばの小さな凹路《くぼみち》の入口にもどって来た。太陽は野に没していった。小道は河水とほとんどすれすれに通じていた。生《お》い茂った軟《やわらか》い草叢《くさむら》が、かすかな音をたてて足の下にしなっていった。榛《はんのき》の立木が半ば水に浸って、河の上に枝を垂れていた。蝿《はえ》が雲のように群れて飛び回っていた。一|艘《そう》の小舟が、ゆったりとした平安な流れのままに、音もなく通っていった。河波はひたひたと柳の枝に口づけをしていた。光は細やかで茫《ぼう》として、空気はさわやかに、河は銀鼠《ぎんねず》の色をしていた。彼らは住居に帰ってきた。蟋蟀《こおろぎ》が歌っていた。そしてもう戸口には、母親のなつかしい顔が微笑《ほほえ》んでいた……。
 おう、楽しい思い出、慈愛深い面影、それは一生の間、美しい諧調をたてる羽音のように響くであろう……。後年に試みる旅行、大きな都会、逆巻く海、夢のような景色、愛する人々の顔なども、子供のおりのかかる散歩や、または、他になすこともなくて小さな唇《くちびる》を窓ガラスにつけ、そこにできる息の曇り越しに、毎日透し見た庭の片隅、そういうものほど正確には心の中に刻み込まれない……。

 もはや、閉め切った家の中の晩である。家……あらゆる恐ろしいもの、影、夜、恐怖、見知らぬもの、などにたいする隠れ場所。いかなる敵もその敷居をまたぐことはできないだろう……。火が燃えている。黄色い鵞鳥《がちょう》の肉が、串《くし》にささってゆっくり回っている。脂肪と歯ごたえのある肉との甘い匂いが、室の中にたちこめている。飲食の喜び、類《たぐ》いない幸福、敬虔《けいけん》な感激、喜悦の小躍《こおど》り! 快い温かさと、その日の疲れと、親しい声の響きとに、身体はうっとりと筋がゆるんでくる。消化は身体を恍惚《こうこつ》のうちに溺《おぼ》らして、そこでは物の形も、影も、ランプの笠《かさ》も、真黒な暖炉の中で火の粉を散らして踊ってる炎の舌も、皆|歓《よろこ》ばしい不可思議な様子になる。クリストフは皿《さら》に頬《ほお》を寄せて、その幸福をいっそうよく味わおうとする……。
 彼は温かい寝床の中にいる。どうして彼はそこまでやって来たのだろう? 快い疲労に彼はぐったりしている。室の中の人声の響きと、一日のありさまとが、頭の中に立ち乱れる。父親はヴァイオリンを取上げる。鋭い美しい音が夜のうちに訴えるように響く。けれども最上の幸福は、母親が自分のそばにやって来る時、うとうとしてる自分の手をとってくれる時、自分の方に身をかがめて、求めるとおりに、意味もない言葉を連ねた古い唄《うた》を小声で歌ってくれる時である。父親はその音楽を馬鹿げたものだと言うけれど、クリストフはいくら聞いても聞きあきない。彼は息をこらす。笑ったり泣いたりしたくなる。心は酔わされる。自分がどこにいるかも分らない。やさしい感情で胸がいっぱいになる。彼は小さな両腕を母親の首にまきつけて、力の限り抱きしめる。彼女は笑いながら言う。
「まあ、私を絞め殺すつもりなのかい。」
 彼はいっそう強く抱きしめる。いかほど母親を愛してることだろう! いかほどすべてを愛してることだろう! あらゆる人を、あらゆる物を! すべてがよい、すべてが美しい……。彼は眠ってゆく。蟋蟀《こおろぎ》が竈《かまど》の中で鳴いている。祖父の話が、英雄の面影が、楽しい夜の中に浮んでくる。……彼らのように英雄になる!……そうだ、自分は英雄になるだろう……いやもう英雄になっている……。ああ、生きてることはなんといいことだろう!……

 いかにおびただしい力と喜びと誇りとが、この小さな存在のうちにあることぞ! いかにみちあふれた精力ぞ! 彼の身体と精神とは、息も止まるばかりに回転する輪舞のままに、常に動いている。一匹の小さな火蛇《かじゃ》のように、彼は昼も夜も炎の中に踊っている。何物にも疲らされず、あらゆる物から養われる、一の熱誠。物狂おしい夢、ほとばしる泉、無尽蔵な希望の宝、笑、歌、不断の陶酔。人生はまだ彼を捉《とら》えない。彼はいつも人生から脱して、無限のうちに泳いでいる。いかに幸福であることぞ! 幸福であるようにできてるのだ! 彼のうちには、幸福を信ぜないものは何もなく、その小さな熱中した全力を尽して幸福を目指さないものは、何もない……。
 人生はやがて、彼を理性に従わしむることにみずから任ずるであろう。

     

           曙《あけぼの》の前に小暗《おぐら》き時は
           逃げ去りて、遠方《おちかた》に、
          海のおののき見えたりき……
               ――神曲、煉獄の巻、第一章――

 クラフト家はアンヴェルスの出であった。ところが老ジャン・ミシェルは、かつて若気の過ちと激しい喧嘩《けんか》とのすえ、その土地を去ってしまった。彼はたびたび喧嘩をしたことがあった――ひどく喧嘩好きだったから――そしてこの最後の喧嘩がいやな結果に終ったのである。で彼は、およそ五十年ばかり前に、今の大公領の小都会に移住してきた。なだらかな丘の斜面につみ重なってる頂のとがった赤い屋根と木影深い庭園とは、父なるラインの薄緑をした河の眼に映っていた。すぐれた音楽家である彼は、だれも皆音楽家ばかりであるその地方に、すぐにもてはやされるようになった。そして四十歳を過ぎてから、クララ・ザルトリウスと結婚して、その地に根をすえてしまった。彼女は大公に仕えてる楽長の娘であって、彼はその楽長の職を譲り受けた。クララは沈着なドイツ婦人で、料理に音楽という二つの熱情をもっていた。そして夫にたいしては、父親にたいするのにも劣らない深い尊敬をいだいていた。ジャン・ミシェルの方でも、妻に深く感心していた。二人は琴瑟相和《きんしつあいわ》して十五年間を過し、四人の子供をもうけた。それからクララが死んだ。ジャン・ミシェルはその死をいたく嘆き悲しんだが、五か月たってからオティーリエ・シュッツと結婚した。顔が真赤で、頑丈《がんじょう》で、いつも上機嫌《きげん》な、二十歳の娘だった。彼女はクララと同じくらいに美点をそなえていたし、ジャン・ミシェルもクララにたいしたのと同じくらいに愛してやった。ところが結婚後八年にして、彼女もまた死んだ。がそれだけの間に、七人の子供を生んでいた。合せて十一人の子供であるが、そのうち生き残ったのはただ一人きりだった。ジャン・ミシェルは非常に子|煩悩《ぼんのう》ではあったが、その幾度もの不幸も、彼の堅固な楽天的気質を変えはしなかった。最もひどい打撃は、オティーリエの死であった。それは今から三年前のことで、彼はもう、生活を立て直し新らしい家庭を作るには困難な年齢に達していた。しかし一時途方にくれた後に、彼はまた精神の平衡を回復した。いかなる不幸も、このジャン・ミシェル老人から、精神の平衡を失わしめることはできなかった。
 彼は愛情深い男であった。しかし彼のうちでは、何物よりも健康が最も力を振っていた。悲哀にたいする生理的な嫌悪《けんお》の情、フラマン人風の粗野な快活にたいする嗜好《しこう》、子供らしい大笑い、などを彼はそなえていた。どんな悲痛なことがあろうとも、杯の数を一つ減らしたこともなく、御馳走《ごちそう》を一口ひかえたこともなかった。かつて音楽を休んだことがなかった。宮廷の管弦楽は彼の指揮のもとに、ライン地方でかなりの名声を得た。そしてジャン・ミシェルは、その格闘者めいた体格と激しい疳癪《かんしゃく》とで、広く人の噂《うわさ》になっていた。彼はいかに努めても、おのれを制することができなかった。彼は元来小心で、危い破目に陥ることを恐れていたし、また礼儀を好み評判を気にしていたので、非常に努力をした。しかしいつも血気の情に負かされた。眼の前が真赤になった。突然狂猛な苛立《いらだ》ちにとらえられた。管弦楽の下稽古《したげいこ》の時ばかりではなく、公《おおやけ》の演奏の最中にもそうだった。大公の面前で、怒りたって指揮棒を投げすて、激しい急《せ》き込んだ声で楽員のだれかを詰問しながら、気でも狂ったように足を踏み鳴らした。大公はそれを面白がっていた。しかし矢面に立った楽員らは、彼にたいして恨みを含んだ。ジャン・ミシェルは自分の狂気沙汰《ざた》を恥じ、すぐその後で、おおげさなお世辞をつかって忘れてもらおうとつとめたが、徒労であった。ふたたび何かの機会がありさえすれば、ますますひどく疳癪《かんしゃく》を破裂さした。その極端な癇癖《かんぺき》は、年とともにつのってきて、ついに彼の地位を困難ならしめた。彼はみずからそれに気付いた。そしてある日、例のとおりひどく怒りたったために、全楽員の罷業《ひぎょう》が起ころうとした時、彼は辞職を申出た。けれども多年の功労の後なので、辞職聴許はむずかしかろうし、居据《いすわ》りを懇願せられることだろうと、ひそかに期待していた。ところがそうではなかった。そして申出を取消すには自尊心が許さなかったので、彼は人々の亡恩をののしりながら、悲痛な思いで職を去った。
 それ以来彼は、毎日何をして暮していいか分らなかった。もう七十歳を越していたが、まだいたって元気だった。それで、出稽古をしたり、議論をしたり、無駄《むだ》口をたたいたり、あらゆることに立交じって、相変わらず働きつづけ、朝から晩まで町中を駆け回った。彼はいたって器用で、さまざまの仕事を捜し出していた。楽器の修繕もやり出した。種々くふうをしたり、試みにやってみたり、時には改良の方法をも発見した。また作曲もし、そのために勉強もした。かつて壮厳ミサ曲というのを書いたことがあった。彼はそれをしばしば口にのぼせ、それは一家の名誉となっていた。書いてるうちに脳溢血《のういっけつ》を起こしかけたほど苦心を重ねたものだった。それを彼は天才的な作品だと無理に思い込もうとしていた。しかしいかに空虚な思想で書かれたものであるかは、みずからよく知っていた。そしてもはやその原稿を読み返すこともしかねた。なぜなら、自分の独創になったものだと信じてる楽句の中に、他の作曲家らの手になった断片が、むりやりにどうかこうか綴《つづ》り合わせられてるのを、読み直すたびごとに見出したからである。それは彼にとって非常な悲しみの種だった。時とすると、実に素敵なものだと思えるような思想が彼にも浮かんできた。すると身を震わしながらテーブルに駆け寄った。こんどこそはついに霊感《インスピレーション》をとらえたのであろうか?――しかしペンを手にするや否や、彼は静寂のうちにただ一人ぽつねんとしてる自分を見出した。そして消え失せた声を呼びもどそうといくら努力しても、結局は、メンデルスゾーンやブラームスなどの耳慣れた旋律《メロディー》が聞えてくるにすぎなかった。
「世には不幸な天才がある。」とジォルジュ・サンドが言った。「彼らには表現の方法が欠けていて、人知れぬ自分の瞑想《めいそう》を墳墓のうちに持ってゆく。著名なる唖者や吃者《どもり》の仲間の一人たる、ジォフロア・サン・ティレールが言ったとおりである。」――ジャン・ミシェルもそういう仲間に属していた。彼はもはや、言語においてと同じように、音楽においてもおのれを発表することができなかった。そしていつも幻をえがいていた。話すこと、書くこと、大音楽家になること、雄弁家になること、それをどんなにか望んだであろう! そこに彼の秘密な傷口があった。彼はそれをだれにも語らず、自分自身にも押し隠し、考えもすまいとつとめた。しかしいつも我知らずその方へ考が向いていった。そして心の中に死の種が下されていた。
 あわれなる老人! 何事においても、彼は完全に自分自身であることを得なかった。彼のうちにはいかにも多くの美しい力強い芽が存していたけれども、一つとして生長するに至らなかった。芸術の威厳と人生の精神的価値とにたいする感動すべき深い信念、しかしその信念は、往々にして誇大|滑稽《こっけい》な様子で外に現われていた。いかにも多くの貴い自尊心、しかも実生活においては、長上にたいするほとんど奴隷的な賞賛。独立|不覊《ふき》を欲するいかにも高い願望、しかも事実においては、絶対の従順。自由精神を有してるとの自負、しかも、あらゆる迷信。勇壮にたいする熱愛、実地の勇気、しかも、多くの無気力。――中途にして立止る性格であった。

 ジャン・ミシェルは自分の大望を息子の上に投げかけていた。そしてメルキオルには初めのうち、それらをやがて実現するかもしれない望みがあった。彼はすでに幼年時代から、音楽にたいする稀《まれ》な天賦の才を見せていた。きわめてやすやすと音楽を習得したし、また早くからヴァイオリニストとしてりっぱな技倆《ぎりょう》を修めえた。そのために彼は長い間、宮廷音楽会の寵児《ちょうじ》となり、ほとんど偶像のように尊ばれた。なおピアノや他の楽器をも、いたって上手《じょうず》に演奏することができた。またごく話し上手で、多少鈍重ではあるが様子がよく、ドイツにおいて古典的な美男子とさるる型《タイプ》に属していた。落着いた広い額、道具の大きな正しい顔立、縮れた髯《ひげ》、まったくライン河畔のジュピテルであった。ジャン・ミシェル老人はこの息子の成功を楽しみにしていた。彼はみずからいかなる楽器をもうまく演奏することができなかったので、達人の技芸に接するとそれに聞き惚《ほ》れるのだった。確かにメルキオルは、自分の考えを表現するのに困難を覚ゆるような男ではなかった。不幸なことといえば、何にも考えないことだった。そして彼自身はそんなことを気にもしなかった。彼はまさしく凡庸《ぼんよう》な役者と同じ魂をもっていた。凡庸な役者は、台詞《せりふ》の意味には気もかけず、ただ台詞回しにばかり注意し、聴衆に及ぼすその効果を、得々として細心に見守っているものである。
 最もおかしなことには、ジャン・ミシェルもそうであったが、彼は舞台上の自分の態度にたえず気を配っていたし、また社会的因襲を恐れ尊んでいたけれども、それにもかかわらずなお、調子はずれな突飛な軽率な様子をいつももっていた。そのために世間からは、クラフト家の者は皆多少狂人じみたところがあると言われた。そしてそんな噂《うわさ》も、初めのうちは別に彼を傷つけはしなかった。そういう風変りの性質こそかえって、彼が天才であることを証するものであると思われた。芸術家には何か独特な点があるものだということは、識者の間に認められてることだから。しかし人々はやがて、かかる突飛な行動の性質に注意を向けてきた。その原因はたいてい酒にあった。バッカスは音楽の神である、とニーチェは言った。メルキオルの本能もそれと同意見であった。しかしこの場合には、彼の神は恩知らずだった。彼に欠けてる思想を与えてくれるどころか、彼がもってるわずかな思想をも奪ってしまった。馬鹿な結婚(世間の者にも馬鹿らしく見えたし、その結果彼にも馬鹿らしく見えた)をしてしまった後、彼はますます自制がなくなった。彼は技能をないがしろにした――わずかの間に自己の優越を失ってしまったほど自惚《うぬぼ》れていたのである。他の名人らがにわかに現われてきて、彼に次いで世間の好評を博した。彼にとっては苦々《にがにが》しいことだった。しかし彼は失敗のあげく、元気を振い起こすどころか、すっかり落胆しきってしまった。そして酒場の仲間らとともに競争者の悪口を言いながら、せめてもの意趣晴しをしていた。彼は馬鹿げた高慢心のあまり、父の後を継いで楽長になれることと期待していた。ところが他人がそれに任命された。彼は迫害をこうむったような気がして、埋もれた天才らしい様子をした。老クラフトが受けていた尊敬のおかげで、管弦楽団《オーケストラ》のヴァイオリニストの地位は保ちえたが、しだいに、町の家庭教授の口をたいてい失ってしまった。そしてこの打撃は、彼の自尊心にとって最も痛切なものだったし、また彼の財布にとってはさらに痛切なものだった。数年来、種々な不幸の後を受けて、生活の方が非常に切りつまっていた。豊かな生活を知った彼に、困窮が見舞って来て、日に日に大きくなっていった。メルキオルはその方面のことは知らん顔をして、服装《みなり》や快楽のための出費を一銭も減じなかった。
 彼は悪い男ではなかった。否それよりいっそう始末におえないことかもしれないが、半ば善良な男で、弱者で、なんの策略ももたず、意気地もなく、そのうえ、善良な父であり、善良な息子であり、善良な夫であり、善良な人間であると、自信していた。もしそういうものでありうるためには、容易に動かされやすい軽率な親切心と、自己の一部分として家族の者らを愛する動物的情愛とで十分であるとするならば、彼はおそらく実際にそういう善良な者であったろう。また彼はひどい個人主義者であるともいえなかった。個人主義者たるには十分の性格をそなえていなかった。彼は実になんでもない男であった。そしてかかるなんでもない男こそ、人生においては恐るべきものである。彼らは空中に放置された重体のように、ただ下に落ちようとする。どうしても落ちざるをえない。そして自分とともにいるものをみな、いっしょに引きずって落ちてゆく。

 小さなクリストフが周囲の出来事を了解し始めたのは、家庭の状態が最も困難になってる時にであった。
 彼はもう一人息子ではなかった。メルキオルは行末どうなるか気にもかけずに、毎年妻に子供を産ました。二人の子供は幼くて死んだ。他の二人は三歳と四歳とになっていた。メルキオルはいっさい子供のことをかまわなかった。でルイザは、やむをえない用で出かける時には、もう六歳になってるクリストフに二人の子供を頼んだ。
 クリストフにはそれがつらかった。なぜならその務めのために、野原の楽しい午後の散歩をやめなければならなかった。しかしまた彼は、一人前に取扱われるのが得意になって、りっぱにその仕事をやってのけた。子供に種々なことをしてみせて、できるかぎり面白がらせた。母親がするのを聞いたとおりに真似《まね》て、子供たちに話しかけようとした。あるいはまた母親のを見たとおりに真似て、子供を代わる代わる腕に抱いてやった。小さな弟を胸から落とすまいとして、力いっぱいに抱きしめ、歯をくいしばりながらも、重いので腰がよく伸びなかった。子供たちはいつも抱かれたがって、決してあきることがなかった。そしてクリストフにもうできなくなると、いきなり泣き出してとめどがなかった。また彼は子供たちにひどく痛い目に会わされて、しばしば途方にくれた。子供たちはよごれていて、母親らしい世話もしてやらなければならなかった。クリストフはどうしていいか分らなかった。子供たちは彼にたいして勝手なまねをした。彼も時とするとその頬辺《ほおぺた》を打ちたくなった。けれどもまた考え直した、「小さいんだ、分らないんだ。」そしてつねられたり打たれたり苦しめられたりするのに、寛大に身を任していた。エルンストはつまらないことにもわめきたてた。じだんだふんだり、怒って転がり回ったりした。神経質な子供だった。でルイザは、彼の気に障《さわ》ることをしてはいけないと、クリストフに言いつけておいた。ロドルフの方は猿《さる》知恵のたちだった。クリストフがエルンストを抱いてる隙《すき》につけこんでは、いつもその後ろに回ってあらんかぎりの悪戯《いたずら》をした。玩具《おもちゃ》を壊《こわ》し、水をひっくり返し、着物をよごし、また戸棚の中をかき回しては皿を落したりした。
 そういうふうだったから、ルイザは家にもどってくると、クリストフをねぎらいもしないで、乱雑なありさまを見ながら、叱《しか》りつけはしないが顔を曇らして、彼に言った。
「困った子だね、お守《も》りが下手《へた》で。」
 クリストフは面目を失って、しみじみと心悲しかった。

 ルイザはわずかな金の儲《もう》け口も見逃さなかったので、婚礼の御馳走《ごちそう》だの洗礼の御馳走だのという特別の場合には、やはりつづけて料理女として雇われていった。メルキオルはそれを少しも知らないようなふりを装っていた。なぜなら自尊心を傷つけられることだったから。しかし彼女が自分に内密でやってることについては、別に気を悪くしてはいなかった。小さなクリストフの方はまだ、生活の困難ということが少しも分らなかった。自分の意志の拘束となるようにはっきり感ぜられるものは、ただ両親の意志のみであった。しかもそれとて、彼はほとんど思いどおりに放任されていたので、さほど厄介なものではなかった。彼はなんでも思いどおりのことができるためには、ただ大人になることをしか望んではいなかった。人が一歩ごとにぶっつかるあらゆる障害を、彼は想像だもしてはいなかった。とくに大人である自分の両親さえ万事が思いどおりにやれるものではないということを、彼はかつて考えもしなかった。人間のうちには命令する者と命令される者とがあるということを、そしてまた、家の人たちも自分もともに前者に属するのではないということを、彼が初めて瞥見《べっけん》した日、彼の心身は激しく猛《たけ》りたった。それこそ彼の生涯の最初の危機であった。
 その日、母は彼にいちばん綺麗《きれい》な服を着せてくれた。もらい物の古着ではあったが、ルイザが丹念に手ぎわよく仕立直したものだった。彼は言われたとおり、母をその働いてる家へ尋ねていった。ただ一人ではいってゆくことを考えると気後《きおく》れがした。一人の給仕が玄関にぶらぶらしていた。彼は子供を引止めて、何しに来たかといたわるような調子で尋ねた。クリストフは顔を赤くして、「クラフト夫人」――言いつけられたとおりの言葉を使って――に会いに来たのだと口籠《くちごも》りながら答えた。
「クラフト夫人だって? なんの用だい、クラフト夫人に?」と給仕は夫人という言葉に皮肉な力をこめて言いつづけた。「お前のお母さんなのかい。そこを上っておいで。廊下の奥の料理場へ行けば、ルイザに会えるよ。」
 彼はますます顔を赤らめながら歩いて行った。母がなれなれしくルイザと呼ばれたのを聞いてきまりが悪かった。一種の屈辱を感じた。もうそこを逃げ出して、親しい河岸に駆けてゆき、いつもみずからいろんな話を考えるあの藪《やぶ》の後ろに、はいり込んでしまいたいような気もした。
 料理場へ行くと、彼は他の多くの召使どもの中にはいり込んだ。皆は騒々しく囃《はや》したてて彼を迎えた。奥の方の竈《かまど》のそばで、母はやさしいまた多少困ったような様子で、彼に微笑《ほほえ》みかけていた。彼はそこへ駆け寄って、母の膝《ひざ》にすがりついた。母は白い胸掛をつけて、木の匙《さじ》をもっていた。そしてまず、顔を上げて皆に見せるがいいとか、そこにいる人たちに一々今日はと言って握手を求めなさいと言って、ますます彼を困惑さした。彼はそれを承知しなかった。壁の方を向いて、顔を腕の中に隠してしまった。しかしだんだん勇気が出て来て、笑いを含んだ輝いた眼でちょっと覗《のぞ》いては、人に見られるたびにまた首を縮めた。そういうふうにして彼はひそかに人々の様子を窺《うかが》った。母は彼がこれまで見かけたこともないほど、忙しそうなまた厳《おごそ》かな様子をしていた。鍋《なべ》から鍋へと往《い》ったり来たりして、味をみ、意見を述べ、確信ある調子で料理の法を説明していた。普通《なみ》の料理女はそれを畏《かしこま》って聞いていた。母がどんなに人々から尊敬されてるかを見て、また、光り輝いてる金や銅のりっぱな器具で飾られたこの美しい室の中で、母がどんな役目を演じてるかを見て、子供の心は得意の情にみちあふれた。
 突然、すべての話し声がやんだ。扉《とびら》が開いた。一人のりっぱな夫人が、硬《かた》い衣摺《きぬず》れの音をたててはいって来た。彼女は疑り深い眼付であたりを見回した。もう若くはなかったが、まだ袖《そで》の広い派手な長衣を着ていた。そして物にさわらないように片手で裳裾《もすそ》を引上げていた。それでもやはり竈《かまど》のそばにやって来て、皿《さら》の中を覗《のぞ》き込んだり、また味をみまでした。少し手を上げると、袖がまくれ落ちて、肱《ひじ》の上まで素肌《すはだ》だった。クリストフはそれを見て、見苦しいようなまた猥《みだ》らなような気がした。いかに冷やかなぞんざいな調子で彼女はルイザに口をきいたか、そしてルイザはいかにへり下った調子で彼女に答えたか! クリストフはそれに驚かされた。彼は見つからないように片隅に身を潜めたが、なんの役にもたたなかった。その小さな児《こ》はだれかと夫人は尋ねた。ルイザはやって来て、彼をとらえて、御覧に入れようとした。顔を隠させまいとして両手を押えた。彼は身をもがいて逃げ出したかったが、こんどはどうしても逆らえないように本能的に感じた。夫人は子供のあわてた顔付を眺めた。そしてすでに母親としての彼女の最初の素振りは、彼にやさしく微笑《ほほえ》みかけることだった。しかし彼女はまたすぐに目上らしい様子をして、行状だの信仰だのについて種々な問いをかけた。彼は少しも返辞をしなかった。彼女はまた彼の着物がよく似合うかどうかを眺めた。ルイザは急いで着物がりっぱになったのをお目にかけた。そして襞《ひだ》を伸すために上着をやたらに引張った。クリストフは非常に窮屈になって声をたてたいほどだった。なぜ母親がお礼を言ってるのか、彼には少しも分らなかった。
 夫人は彼の手を取って、自分の子供たちのところに連れて行きたいと言い出した。クリストフは困り切った眼付で母をちらと眺めた。しかし母はいかにも慇懃《いんぎん》な様子で御主人に笑顔を見せていたので、もうなんの希望もないことを彼は見てとった。そして彼は屠所《としょ》に牽《ひ》かるる羊のように、夫人の案内に従っていった。
 二人は庭にやって行った。そこには無愛相な二人の子供がいた。クリストフとほぼ同じ年ごろの男の子と女の子とだったが、何かたがいに気を悪くしてるらしかった。ところがクリストフが来たのでそれがまぎれた。彼らは近寄って来て新参者をじろじろ眺めた。クリストフは夫人から置きざりにされて、径《みち》につっ立ったまま、眼を挙げることもしかねた。二人の子供は数歩のところにじっと立って、彼を頭から足先まで見回し、肱《ひじ》でつっつき合って、嘲《あざけ》っていた。がついに思いきって、なんという名前か、どこから来たか、父親は何をしているか、などと尋ねだした。クリストフは堅くなって何にも答えなかった。彼は涙が出るほど気圧《けお》されていた。とくに、金髪を編んで下げ、短い裳衣《しょうい》をつけ、脛《すね》を露《あら》わしてる少女のために、ひどく気圧されていた。
 彼らは遊び始めた。そしてクリストフが少し安心しだした時、男の子は彼の前に立ちはだかって、彼の上着に手をふれながら言った。
「やあ、これは僕んだ!」
 クリストフには訳が分らなかった。自分の上着が他人のだというその言葉に憤慨して、彼は強く頭を振って打消した。
「僕はよく知ってる。」と男の子は言った。「僕の古い紺《こん》の上着だ。そら汚点《しみ》がある。」
 そして彼は汚点のところを指でつっついた。それからなお検査をつづけて、クリストフの足を調べ、靴《くつ》の先がなんで繕ってあるかと尋ねた。クリストフは真赤になった。女の子は口をとがらして、貧乏人の子だと兄に――クリストフにも聞えた――ささやいた。クリストフはその言葉にまたむっとした。そして、人を侮辱したその考えをやっつけてやろうと思って、むちゃくちゃに声をしぼって言いたてた、自分はメルキオル・クラフトの子で、母は料理番ルイザであると。――そういう身分は他のどんな身分にも劣らずりっぱだと彼には思えたのであるし、またそれが正当だったのである。――しかし他の二人の子供は、もとよりその報告を面白がっていて、彼を前よりも重んずるようなふうは見えなかった。かえって主人らしい調子をとった。将来何をするつもりか、やはり料理人か御者かになるつもりなのかと、そんなことを彼に尋ねた。クリストフはまた黙り込んだ。胸を氷で貫かれたような気がした。
 彼が黙り込んでるのに力を得て、二人の金持ちの子供は、突然この貧乏な子供にたいして、子供にありがちな無理由の残酷な反感を懐《いだ》いて、彼をいじめてやる面白い仕方はないかと考えた。女の子の方がとくに熱心だった。クリストフが窮屈な服を着てるので楽には走れないことを見てとった。そして障害物を飛び越させるといううまいことを思いついた。そこで、小さな腰掛で柵《さく》をこしらえて、クリストフにそれを飛び越せと迫った。かわいそうにも彼は、なぜ飛びにくいかをうち明けて言いえなかった。彼は全身の力を集めて、身を躍らしたが、地面に転ってしまった。まわりではどっと笑い声が起こった。彼はまたやり直さなければならなかった。眼に涙を浮べて、自棄《やけ》になってやってみた。するとこんどはうまく飛べた。いじめる方ではそれを快しとしないで、柵が十分高くないのだときめた。そして他の道具を積み添えて、危険なほどにしてしまった。クリストフは反抗しようとした。もう飛ばないと言い切った。すると女の子は彼を卑怯《ひきょう》者だと呼びたてて、恐《こわ》がってるのだと言った。クリストフはそれに我慢できなかった。そして転ぶことを覚悟で飛んでみると、はたして転がってしまった。足が障害物に引っかかって、何もかも彼といっしょにひっくり返った。彼は手の皮をすりむき、また危く頭を割るところだった。そしてなお不幸なことには、服の両|膝《ひざ》やその他のところが破けた。彼は恥ずかしくてたまらなかった。まわりには二人の子供の喜び踊ってるのが聞えた。彼は痛切な苦しみを受けた。そしてはっきり感じた、彼らが自分を軽蔑《けいべつ》してることを、自分をきらってることを。なぜなのか、なぜなのか? 彼にはむしろ死ぬ方が望ましかった!――他人の悪意を初めて見出した子供の苦しみ、それ以上に残忍な苦しみはない。子供は世界じゅうの者から迫害されてるように考える、そして自分を支持してくれるものは何ももたない。もう何もない、もう何もないのだ!……クリストフは起き上がろうとした。男の子は彼をまた押し倒した。女の子は彼を足で蹴《け》った。彼はも一度起き上がろうとした。彼らは二人いっしょに飛びかかって来て、彼の顔を地面に押し伏せながら背中にのしかかった。その時彼は怒りの念にとらえられた。あまりにひどかった! ひりひり痛んでる両手、裂けたりっぱな服――彼にとっての大災難――、恥辱、苦痛、不正にたいする反抗、一度にふりかかって来た多くの不幸が融《と》け合って、物狂おしい憤怒《ふんぬ》に変わった。彼は両膝と両手で四つ這《ば》いになり、犬のように身を揺って、迫害者らをそこに転がした。そして彼らがふたたび襲いかかって来ると、彼は頭を下げて突き進み、女の子の頬《ほお》を殴りつけ、男の子を花壇の中に一撃で打ち倒した。
 激しい悲鳴が起こった。二人の子供は疳《かん》高い泣声をたてて家の中に逃げ込んだ。扉のがたつく音がし、怒った叫び声が聞えた。夫人は長衣の裳裾《もすそ》の許すかぎり早く駆けつけて来た。クリストフは彼女がやって来るのを見たが、逃げようとはしなかった。彼は自分の仕業に慄然《りつぜん》としていた。それはたいへんなことだった、罪であった。しかし彼は少しも後悔はしなかった。彼は待受けた。もう取り返しがつかなかった。それだけに始末もいい! 彼は絶望あるのみだった。
 夫人は彼に飛びかかった。彼は打たれるのを感じた。激しい声でやたらに何か言われてるのを耳に聞いたが、なんのことだか少しも聞き分けられなかった。二人の敵は彼の恥辱を見物しにもどって来て、声の限り怒鳴りたてていた。召使らも来ていた。がやがや騒ぐばかりだった。最後に大打撃としては、ルイザが人に呼ばれてそこに出て来た。そして彼を庇《かば》うどころか、彼女もまた訳も分らない先から彼を打ち始め、謝《あやま》らせようとした。彼は怒って言うことをきかなかった。彼女はますます強く彼を突っつき、手をとらえて夫人と子供たちとの方へ引きずってゆき、その前にひざまずかせようとした。しかし彼は足をふみ鳴らし、わめきたて、母の手に噛《か》みついた。そしてしまいには、笑ってる召使らの間に逃げ込んでしまった。
 彼は胸がいっぱいになり、憤りと打たれた跡とで顔をほてらして、立ち去っていった。何にも考えまいと努めた。往来で泣くのがいやなので足を早めた。涙を流して心を和げるために、どんなにか家に早く帰りたかった。喉《のど》がつまり頭が逆上《のぼ》せていた。彼はわっと泣き出した。
 ついに家へ着いた。黒い古階段を駆け上って、河に臨んだ窓口のいつもの隠れ場所までやっていった。そこで息を切らして身を投げ出した。涙がどっと出て来た。なぜ泣くのか自分でもよくは分らなかった。けれど泣かずにはおられなかった。そして初めの涙がほとんど流れつくしても、なお泣いた。自分とともに他人をも罰せんとするかのように、自分自身を苦しめるために、憤りの念に駆られてやたらに泣きたかったのである。それから彼は考えた、父がやがて帰って来るだろう、母は何もかも言いつけるだろう、災はまだなかなか済みはしないと。どこへでもかまわないから逃げ出してしまって、もう二度と帰っては来まい、と彼は決心した。
 階段を降りかけてるとちょうど、もどってくる父に彼はぶっつかった。
「何をしてるんだ、悪戯《いたずら》児め。どこへ行くんだ?」とメルキオルは尋ねた。
 彼は答えなかった。
「何か馬鹿なことをしたんだな。何をしたんだ?」
 クリストフは強情に黙っていた。
「何をしたんだ?」とメルキオルはくり返した。「返辞をしないか?」
 子供は泣き出した。メルキオルは怒鳴り出した。そしてたがいにますますひどくやってると、ついにルイザが階段を上ってくる急ぎ足の音が聞えた。彼女はまだすっかりあわてきったままもどって来た。そしてまず激しく叱《しか》りつけながら、ふたたび彼を打ち始めた。メルキオルも事情が分るや否や――否おそらく分らないうちから――牛でも殴るような調子でいっしょになって平手打を加えた。二人とも怒鳴りたてていた。子供はわめきたてていた。しまいには彼ら二人で、同じ憤りからたがいに喧嘩《けんか》を始めた。子供を殴りつけながらメルキオルは、子供の方が道理《もっとも》だと言い、金をもってるから何をしてもかまわないと思ってる奴らの家に働きに出かけるからこそ、こんなことになるんだと言った。またルイザは子供を打ちながら、あなたこそ実に乱暴だ、子供に手を触れてはいけない、怪我《けが》をさしてしまったではないか、と夫に向かって怒鳴った。実際クリストフは少し鼻血を出していた。しかし彼はみずからそれをほとんど気にかけていなかった。そして母はなお叱りつづけていたので、彼女から濡《ね》れた布を手荒く鼻につめてもらっても、別にありがたいとは思わなかった。しまいに彼は薄暗い片隅に押し込まれて、そこに閉じこめられたまま晩飯も与えられなかった。
 二人がたがいに怒鳴り合ってるのを、彼は聞いた。そしてどちらの方が余計憎いか分らなかった。母の方であるような気もした。なぜならそんな意地悪い仕打をかつて母から期待したことがなかったから。その日のあらゆる災害が一度に彼の上に圧倒してきた、彼が受けたすべてのこと、子供らの不正、夫人の不正、両親の不正、それから――よく理解できないがただ生傷のように感ぜられたことであるが――彼があれほど誇りにしていた両親が意地悪い軽蔑《けいべつ》すべき他人の前に頭の上がらないこと。彼が初めて漠然と意識したその卑怯《ひきょう》さは、いかにも賤《いや》しむべきことのように彼には思われた。彼のうちにあるすべては揺り動かされた、家の者らにたいする尊敬も、彼らから鼓吹された宗教上の敬畏《けいい》の念も、人生にたいする信頼の念も、他人を愛しまた他人から愛せられようという純朴《じゅんぼく》な欲求も、盲目的ではあるが絶対的である道徳上の信念も。それは全部の倒壊であった。身を護《まも》る手段もなく、身をのがれる術《すべ》もなく、獰猛《どうもう》な力のためにおしつぶされた。彼は息がつまった。もう死ぬような気がした。絶望的な反抗のうちに全身を凝り固めた。壁に向かって拳固《げんこ》や足や頭でぶつかってゆき、わめきたて、痙攣《けいれん》に襲われ、家具に突き当って怪我しながら下に倒れてしまった。
 両親は駆けつけて来て、彼を腕に抱きとった。そしてこんどは、われ先にと彼にやさしくしてくれた。母は彼に着物をぬがせ、寝床に連れてゆき、その枕頭《ちんとう》にすわって、彼がいくらか落着くまでそばについていた。しかし彼は少しも心を和らげず、何一つ勘弁してやらず、彼女を抱擁すまいとして眠ったふりをした。母は悪者であり卑怯者であるように思われた。そして、生きるために、また彼を生きさせるために、彼女がどんなに苦しんでいるか、彼と反対の側に立って彼女がどんなに心を痛めたか、それを彼は夢にも知らなかった。
 幼い眼の中に蓄えられてる驚くべき涙の量を、最後の一滴まで流しつくした後に、彼は少し気分がやわらいだ。彼は疲れていた。しかし神経があまり緊張していてよく眠れなかった。半ばうとうとしていると、先刻の種々な面影が浮かび出てきた。とくによく見えてきたのは、あの女の子であって、その輝いてる眼、人を軽んずるようにぴんとはね上がってる小さな鼻、肩に垂れてる髪の毛、露《あら》わな脛《すね》、子供らしいまた勿体《もったい》ぶった言葉つき、などまではっきり浮かんできた。彼はその声がまた聞えるような気がして身を震わした。彼女にたいしてどんなに自分が馬鹿げていたかを思い起こした。そして荒々しい憎悪を感じた。辱《はずか》しめられたことが許せなかった。そしてこんどは向うを辱しめてやろうと、彼女を泣かしてやろうと、たまらない願望に駆られた。彼はその方法を種々考えたが、一つも思いつかなかった。彼女がいつか自分に注意を向けようとは、どこから見ても考えられなかった。しかし心を安めるために、彼は万事が願いどおりになるものと仮定した。で彼は、自分がたいへん強いりっぱな者になったこととし、同時に、彼女が自分に恋をしてるときめた。そして彼は例の荒唐無稽《こうとうむけい》な話を一つみずから語り始めた。彼はついにそういう話を、現実よりももっと実際なことのように考えてるのだった。
 彼女は恋々《れんれん》の情にたまらなくなっていた。しかし彼は彼女を軽蔑《けいべつ》していた。彼がその家の前を通ると、彼女は窓掛の後ろに隠れて彼が通るのを眺めた。彼は見られてることを知っていたが、それを気にも止めないふりをして、快活に口をきいていた。それからまた彼女の悶《もだ》えを増させるために、彼は故国を去って遠くへ旅した。彼は大きな手柄をたてた。――このところで彼は、祖父の武勇|譚《だん》から取って来たいくつかの条《くだり》を自分の話に織り込んだ。――彼女はその間に、悶々《もんもん》のあまりに病気になった。彼女の母親が、あの傲慢《ごうまん》な夫人が、彼のところへ来て懇願した。「私のかわいそうな娘は死にかかっています。お願いですから、来てください!」彼は行ってやった。彼女は寝ついていた。顔は蒼《あお》ざめて肉が落ちていた。彼女は彼に両腕を差出した。口をきくことはできなかったが、彼の手をとって、涙を流しながらそれに接吻《せっぷん》した。すると彼は、いかにもりっぱな親切とやさしさとを籠《こ》めて彼女を眺めてやった。病気は癒《なお》ると言いきかして、愛せられることを承諾してやった。そこまで話が進んでくると、その面白さを長引かし、その態度や言葉を幾度もくり返しながら、みずから楽しんでいるうちに、眠気がさして来た。そして彼は慰安を得て眠りに入った。
 しかし彼がふたたび眼を開いた時は、すっかり夜が明け放たれていた。そしてその日の光はもはや、前日の朝のように気楽に輝いてはいなかった。世の中の何かが変化していた。クリストフは不正というものを知っていた。

 家ではひどく生活に困窮することが時々あった。それがしだいに頻繁《ひんぱん》になってきた。そういう日はたいへん粗末な食事だった。クリストフほどそれによく気づく者はだれもなかった。父には何も分らなかった。彼は最初に食物|皿《ざら》から自分の分を取ったし、いつも十分に取っていた。彼は騒々しく話したて、自分の言葉にみずから大笑いをした。そして彼が食物を取ってる間、彼の様子を見守りながら強《し》いて笑顔《えがお》を見せてる妻の眼付も、彼の眼には止まらなかった。食物皿は、彼が次に回す時には、もう半ば空《から》になっていた。ルイザは小さな子供たちに食物をよそってやった、一人に馬鈴薯《ばれいしょ》二つずつを。クリストフの番になると、その三つしか皿には残っていないことがしばしばで、しかも母はまだ取っていなかった。彼はそれを前もって知っていた。自分に回ってくる前に馬鈴薯を数えておいた。そこで彼は勇気を出して、何気ない様子で言った。
「一つでたくさんだよ、お母さん。」
 彼女は少し気をもんでいた。
「二つになさい、皆《みんな》と同じに。」
「いいえ、ほんとに一つでいいよ。」
「お腹《なか》がすいていないのかい。」
「ええ、あんまりすいてはいない。」
 しかし彼女もまた一つきり取らなかった。そして彼らは丁寧《ていねい》に皮をむき、ごく小さく切り、できるだけゆっくり食べようとした。母は彼の方を窺《うかが》っていた。彼が食べてしまうと言った。
「さあ、それをお取りよ!」
「いいよ、お母さん。」
「では加減でも悪いの?」
「悪かない。でもたくさん食べたよ。」
 父はよく彼の気むずかしいのを叱《しか》って、残りの馬鈴薯を自分で取ってしまった。しかしクリストフはもうその手に乗らなかった。彼はそれを自分の皿に入れて、弟のエルンストのために取っておいた。エルンストはいつも貪欲《どんよく》で、食事の初めからその馬鈴薯を横目で窺《うかが》い、しまいにはねだり出した。
「食べないの? そんなら僕におくれよ、ねえ、クリストフ。」
 ああいかほどクリストフは、父を憎く思ったことか! 父が自分たちにたいして少しの思いやりもなく、自分たちの分まで食べて知らないでいるのを、いかほど恨めしく思ったことか! 彼は非常に腹が空いていたので、父を憎んだし、そう口に出して言ってやりたいほどだった。しかし彼は高慢にも、みずから自活しないうちはその権利をもたないと考えていた。父が奪い取ったそのパンも、父が稼《かせ》ぎ出したものだった。彼自身はなんの役にもたっていなかった。彼は皆にとっては厄介《やっかい》者だった。口をきく権利はなかった。やがては彼も口をきけるだろう――もしそれまで生きてたら。しかしああ、それ以前にはたとい空腹で死んでも……。
 彼は他の子供よりもいっそう強く、そういう残酷な節食に苦しんでいた。彼の強健な胃袋は拷問にかけられたがようだった。時とすると、そのために身体が震え、頭が痛んできた。胸に穴があいて、それがぐるぐる回り、錐《きり》をもみ込むように大きくなっていった。しかし彼は我慢した。母から見られてるのを感じて、平気なふうを装った。ルイザは、その小さな子が他の者に多く食べさせるために、みずから食を節してることに、おぼろげながら気がついて心を痛めた。彼女はその考えをしりぞけたが、しかしいつもまたそこに心がもどってきた。彼女はそれを明らかにすることをなしかねた、ほんとうかどうかとクリスフトに尋ねかねた。なぜなら、もしほんとうにそうだったら、どうしていいか分らなかったから。彼女自身も子供のおりから、食物の欠乏には慣れていた。別に仕方もない場合には、愚痴をこぼしたとてなんになろう。実際のところ彼女は、自分の弱い体質や小食から推して、子供が自分より多く苦しんでるに違いないとは、夢にも思いつかなかった。彼女は彼になんとも言わなかった。しかし一、二度、他の子供たちは往来に、メルキオルは用向に、皆出ていってしまった時、そこに残っていてくれと彼女は長男に頼んで、ちょっと用を手伝わしたことがあった。クリストフは糸の玉を持ち、彼女はその糸を巻いていた。すると突然、彼女は何もかも投げ出して、夢中に彼を引き寄せた。彼はもうたいへん重くなっていたけれど、彼女は彼を膝《ひざ》にのせて、抱きしめた。彼は彼女の首に強く抱きついた。そして彼らは、絶望に陥ったがようにたがいに抱擁しながら、二人とも涙を流した。
「かわいそうに!……」
「お母さん、ああお母さん!……」
 彼らはそれ以上何も言わなかった。しかしたがいに了解し合っていた。

 クリストフはかなり長い間、父が酒飲みであることに気付かなかった。メルキオルの放縦は、少なくとも初めのうちはある限度を越えなかった。それは決してひどいものではなかった。むしろ非常な上|機嫌《きげん》の発作となって現われていた。彼はテーブルをたたきながら、いく時間もつづけて、愚にもつかぬことを述べたてたり、大声で歌ったりした。時とすると、ルイザや子供たちといっしょにどうしても踊るといってきかなかった。クリストフは母が悲しい様子をしてるのをよく見てとった。彼女はわきに引込んで、俯向《うつむ》いて仕事をしていた。酔っ払いを見まいとしていた。そして顔が赤くなるほど露骨な戯談《じょうだん》を言いかけられると、それを黙らせようとして穏かに努めた。しかしクリストフにはその理由が分らなかった。彼は陽気なことを非常に望んでいたので、父がもどってきて騒ぎたてるのを楽しみとしていた。家の中は陰気だった。そしてそんな馬鹿騒ぎは彼にとって一種の気安めだった。メルキオルのおどけた身振りや馬鹿げた戯れを、彼は心から笑い興じた。いっしょに歌ったり踊ったりした。母が不機嫌《ふきげん》な声でそれを止めさせるのは、不都合なことだと思っていた。父がすることだから、どうして悪いことがあろう? 彼の小さな観察力は常に覚めていて、見たことは何一つ忘れなかったので、正理にたいする彼の幼い一徹な本能に合致しない多くのものを、父の行ないのうちに認めてはいたけれども、なお彼はやはり父を賛美していた。それは子供のうちにある強い欲求である。確かに永遠の自愛の一つの形であろう。人はおのれの欲望を実現しおのれの高慢心を満足させるにはあまり自分が弱いことを認める時、それらのものを他に移しすえる、子供はその両親の上に、人生に敗れた大人はその子供らの上に。かく希望をかけられた人々は、夢想されたとおりの者となっており、あるいは夢想されたとおりの者となるであろう、その選手と、その復讐《ふくしゅう》者と、なっておりあるいはなるであろう。そして、おのれのためにするかかる傲慢《ごうまん》な隠退のうちには、愛と利己心とが驚くばかりの力とやさしみとをもって相混和している。でクリストフも、父にたいするあらゆる不満をうち忘れて、父を賛美する理由を見出そうと努めていた。そして父の身体つき、その頑丈《がんじょう》な腕、その声、その笑い、その快活、などを彼は賛美した。父の妙技が賛《ほ》められるのを聞く時、あるいはメルキオル自身で人から受けた賛辞を誇張して述べたてる時、彼は得意の情に顔を輝かした。彼は父のおおげさな自慢話をほんとうだと信じた。そして天才として、祖父から聞いた英雄の一人として、父を眺めていた。
 ところがある晩、七時ごろ、彼は一人で家に残っていた。弟たちはジャン・ミシェルと散歩に出ていた。ルイザは河でシャツを洗っていた。扉が開いてメルキオルが突然はいってきた。帽子もかぶらず、胸ははだけていた。一種の跳踊《はねおどり》をやってはいって来て、テーブルの前の椅子《いす》にどっかと腰を落とした。クリストフはまた例の茶番だと思って笑い出した。そしてそばに寄っていった。しかし近寄って眺めてみると、もう笑う気も起こらなかった。メルキオルは腰掛けたまま、両腕をだらりと垂れ、眼を瞬《またた》きながら茫然《ぼうぜん》と前方を見つめていた。顔は真赤であった。口は開いていた。時々馬鹿げた喉声《のどごえ》が口から洩《も》れていた。クリストフはびっくりした。初めは父がふざけてるのだと思った。しかしじっと身動きもしないでいるのを見ると、急に恐しくなった。
「お父さん、お父さん!」と彼は叫んだ。
 メルキオルはなお牝鶏《めんどり》のように喉を鳴らしていた。クリストフは自棄《やけ》に彼の腕をとらえ、力の限り揺った。
「お父さん、ねえお父さん、返辞をして! どうぞ。」
 メルキオルの身体は、柔い物体のようにゆらゆらして、危く倒れかかった。頭はクリストフの頭の方へ傾いた。そして支離滅裂な腹だちまぎれの声をやたらにたてながら、クリストフを見つめた。その昏迷《こんめい》した眼に自分の眼を見合せると、クリストフは物狂おしい恐怖にとらえられた。彼は室の奥に逃げ出し、寝台の前に膝《ひざ》を折って、夜具の中に顔を埋めた。二人は長い間そのままでいた。メルキオルは嘲笑《あざわら》いながら、椅子の上に重々しく身を揺っていた。クリストフはそれを聞くまいとして耳をふさいで、震えていた。心のうちには名状しがたい感情が乱れた。あたかもだれかが死んだかのように、尊敬してる大事なだれかが死んだかのように、恐しい混乱、恐怖、苦悶《くもん》、であった。
 だれも帰って来なかった。二人きりであった。夜になっていた。クリストフの恐怖は一刻ごとに増していった。彼は耳を傾けざるをえなかったが、もう父の声とも覚えないその声を聞くと、全身の血が凍るかと思われた。一高一低の掛時計の音が、父の狂気じみた饒舌《おしゃべり》の調子をとっていた。彼はもうたまらなくなって、逃げ出そうとした。しかし出て行くには、父の前を通らなければならなかった。あの眼付をまた見るかと思うだけでも、クリストフは震え上がった。見ただけで死ぬかも知れないような気がした。彼は四つ這《ば》いになって、室の扉のところまで忍んで行こうとした。息もつかず、あたりに目もくれず、メルキオルがちょっとでも動くと止まった。酔っ払いの両足がテーブルの下に見えていた。その片足は震えていた。クリストフは扉のところまでたどりついた。無器用な片手でそのハンドルにすがりついた。しかし狼狽《ろうばい》のあまりまたそれを放した。ハンドルはがたりと締まった。メルキオルは見ようとしてふり向いた。すると彼がのっかって身を揺っていた椅子《いす》は平均を失った。彼は大きな音をたてて下に転がった。クリストフはおびえてしまって、逃げ出す力もなかった。彼は壁にしがみついて、足下に長々と横たわってる父を眺めた。そして助けを呼んだ。
 メルキオルは転げ落ちたので少し酔がさめた。そしてその悪戯《いたずら》を働いた椅子を、ののしったり、侮辱したり、拳固《げんこ》で殴りつけたりした後、いたずらに起き上がろうとつとめた後、ついにテーブルに背中でよりかかって上半身をすえた。そしてあたりの様子が眼にはいった。彼は泣いてるクリストフを見た。そして彼を呼んだ。クリストフは逃げたかったが、身動きもできなかった。メルキオルはまた呼んだ。それでも子供がやって来ないので、怒ってののしった。クリストフは手足を震わせながら近づいてきた。メルキオルはそれを自分の方へ引寄せて、膝《ひざ》の上にすわらせた。そしてまず子供の耳を引張りながら、呂律《ろれつ》の回らぬ早口で、子供が父にたいしていだくべき尊敬について説教を始めた。それから彼は突然気を変えて、子供を抱き上げながら訳の分らないことをしゃべり出して、笑いこけた。がふいに鬱《ふさ》ぎ込んでしまった。子供や自分自身の身の上を悲しんだ。子供を喉《のど》がつまるほど抱きしめ、やたらに接吻し、涙をそそいだ。そしてしまいには、子供を揺ぶりながら、深き淵より[#「深き淵より」に傍点]を歌い出した。クリストフはのがれるための身動きもしなかった。彼は恐怖のあまり氷のようになった。父の胸に息づまるほど抱きしめられ、酒臭い息や泥酔《でいすい》の|※[#「口+愛」、第3水準1-15-23]気《おくび》を顔に感じ、気味悪い涙や接吻に濡《ぬ》らされて、嫌悪《けんお》と恐怖とに悶《もだ》えていた。声をたてたいとも思ったが、どんな叫び声も口から出なかった。そういう恐ろしい状態のうちに彼はじっとしていた、一世紀ほども長く思われた間――とついに扉が開いて、手に洗濯《せんたく》物の籠《かご》を持ったルイザがはいって来た。彼女は一声叫んで、籠を取り落し、クリストフの方へ駆けつけ、思いも寄らないほど荒々しく、メルキオルの腕から彼をもぎ取った。
「ああ、この惨《みじ》めな酔っ払い!」と彼女は叫んだ。
 彼女の眼は憤怒《ふんぬ》の念に燃えていた。
 クリストフは父が彼女を殺しはすまいかと思った。しかしメルキオルは、妻の恐ろしい姿が突然現われたのにひどく驚いて、別に返答もしないで泣き出した。彼は床《ゆか》の上に転げ回った。そして家具に頭をぶっつけながら言った、彼女の方が道理だ、自分は酔っ払いだ、家族の者たちの不幸の種とばかりなっている、可憐《かれん》な子供たちを台無しにしている、いっそ死んでしまいたいと。ルイザは軽蔑して彼に背を向けていた。彼女はクリストフを隣りの室に連れていって、やさしくいたわり、気を落付けさせようとした。子供はなお震えてばかりいた。母から種々尋ねられても返辞をしなかった。それからにわかにすすり泣きを始めた。ルイザは水で顔を洗ってやり、腕に抱きしめ、やさしく言葉をかけ、自分もいっしょに涙を流した。やがて彼らは二人とも心が静まった。彼女はひざまずき、彼をも自分のそばにひざまずかした。彼らは祈った、神様が父の厭《いや》な癖を癒《なお》してくださるようにと、メルキオルがふたたび昔のようによい人になるようにと。ルイザは子供を寝かした。子供は彼女に、寝床のそばについていて手を握っていてもらいたがった。ルイザはその晩長い間、クリストフの枕頭にすわっていた。クリストフは熱を出していた。酔漢は床《ゆか》の上にねそべって鼾《いびき》をかいていた。
 それからしばらく後のことだった。クリストフは学校で、天井の蝿《はえ》を眺めたり、隣りの生徒を拳固《げんこ》でつっついて腰掛から転がしたりして、その時間を過していたので、いつも身体を動かし、いつも笑い声を出し、決して何一つ覚えなかったから、教師から反感をもたれていたのだが、ある日、クリストフ自身腰掛から転げ落ちた時、教師はかなり不穏当な当て擦《こす》りをして、彼はきっとある名高い人物の範に習おうとしてるのだろうと言った。生徒らは皆一度に放笑《ふきだ》した。ある者はその当て擦りの本体を明らかにしようとして、明らさまなまたひどい註釈をつけ加えた。クリストフは恥ずかしさのあまり真赤になって立上がり、インキ壺《つぼ》をひっつかみ、笑ってるのが眼についた第一の生徒の頭へ、勢い込めて投げつけた。教師は彼に飛びかかって拳固《げんこ》を食わした。彼は鞭《むち》打たれ、ひざまずかせられ、重い罰課に処せられた。
 彼は蒼《あお》ざめて、腹だちまぎれにむっつりしながら、家に帰って来た。もう学校へは行かないと、冷然と言い放った。だれもその言葉を気に止めなかった。翌朝、出かける時間だと母から注意されると、もう行かないと言っておいたんだと、落着き払って彼は答えた。ルイザがいくら頼んだり怒鳴ったりおどかしたりしても駄目《だめ》だった。どんなにしても甲斐《かい》がなかった。彼は強情な顔をして、片隅にじっとすわっていた。メルキオルは彼を殴りつけた。彼はわめき声をたてた。しかし懲戒のたびごとにいくら促されても、彼はますます猛りたって「行かない!」と答えるきりだった。理由だけなりとも言うようにと尋ねられても、彼は歯をくいしばって一言もいおうとしなかった。メルキオルは彼をひっつかんで、学校へ連れて行き、教師に引渡した。席につくと彼は、まず手の届くところにある物を皆片っぱしから壊し始めた。インキ壺やペンを壊し、帳面や書物を引裂いた――すべてを、挑戦的な様子で教師を眺めながらおおっぴらでやってのけた。彼は真暗な室に押込まれた。――しばらくたって、教師が覗《のぞ》いてみると、彼はハンケチを首に巻きつけて、その両端を力任せに引っ張っていた。みずから首を絞めようとしていたのである。
 彼を家にもどすよりほか仕方がなかった。

 クリストフは容易に病に侵されなかった。父や祖父から頑健《がんけん》な体格を受け継いでいた。一家の者は弱虫でなかった。病気であろうとあるまいと、決して愚痴を言わなかった。どんなことがあっても、クラフト父子二人の習慣は少しも変わらなかった。いかなる天気であろうと、夏冬のかまいなしに、外へ出かけ、時とすると、不注意のせいかあるいは豪放を気取ってか分らないが、帽子もかぶらず胸をはだけて、いく時間も雨や日の光にさらされ、あるいはまたいくら歩いても決して疲れる様子がなかった。そういう時あわれなルイザは、何も訴えなかったが、顔の色を失い、脚《あし》はふくらみ、胸は張り裂けるほど動悸《どうき》がして、もう歩けなくなった。彼らはその様子を、憐れむような軽蔑《けいべつ》の眼付で眺めた。クリストフも母親にたいする彼らの軽侮の念に多少感染していた。彼は病気になるということを理解できなかった。彼は倒れても、物にぶっつかっても、怪我《けが》をしても、火傷《やけど》をしても、泣いたことがなかった。ただ自分を害する事物にたいして奮激した。父の乱暴な行ない、いつも彼が殴り合いをする街頭の悪童仲間の乱暴な行ない、それが彼に強く沁《し》み込んでいた。彼は殴られることを恐れなかった。鼻血を出し額に瘤《こぶ》をこしらえてもどって来ることもしばしばだった。ある日などは、いつもの激しい喧嘩《けんか》の中から、ほとんど気絶しかかってる彼を引き出してやらなければならなかった。彼は相手に組み敷かれて、舗石の上にひどく頭を打ちつけられていた。それくらいのことはあたりまえのことだと彼は思っていた、自分がされるとおりにまた他人にも仕返しをしてやるつもりだったから。
 けれども彼は、数多《あまた》の事物を恐《こわ》がっていた。そしてだれにも気づかれなかったが――なぜならきわめて傲慢《ごうまん》だったから――しかし彼は少年時代のある期間中、それらのたえざる恐怖から最も苦しめられた。とくに二、三年の間は、それが一つの病気のように彼の内部をさいなんだ。
 彼は影のうちに潜んでる神秘を恐れた、生命に狙《ねら》い寄ってるように思われる邪悪な力を、怪物らのうごめきを。それらの怪物を幼い頭脳は、恐怖に震えながら自分のうちに描き出し、眼に見るすべてのものと混同するのである。消え失せた獣類、虚無に近い最初の日の幻覚、母胎の中における恐ろしい眠り、物質の奥底にある妖鬼《ようき》の目覚め、そういうものの最後の名残りに違いない。
 彼は屋根裏の室の扉を恐れた。それは階段の真上にあって、いつもたいてい半開きになっていた。その前を通らなければならない時には、胸の動悸《どうき》を彼は感じた。元気をつけながら見向きもしないで駆け通った。扉の後ろには、だれかがまたは何かがいるような気がした。扉が閉まってる時には、半開きの猫穴《ねこあな》から、向うで何か動いてるのがはっきり聞こえた。そこには大きな鼠《ねずみ》がいたので別に驚くにもあたらないことではあったが、それでも彼は種々なものを想像した、恐ろしい怪物、ばらばらになった骨、襤褸《ぼろ》のような肉、馬の頭、人をにらめ殺すような眼、えたいの知れない物の形。彼はそんなもののことを考えたくなかったが、それでもやはり考えた。震える手先で、掛金がちゃんとささってるのを確めた。それでもなお、階段を降りゆきながら、十遍以上も振り向かざるをえなかった。
 彼は戸外の夜を恐れた。祖父の家に止まっていたり、あるいは何かの用事で夕方そこに使にやらされたりすることがあった。老クラフトの住んでる家は、少し町の外になっていて、ケルン街道の最後の家だった。その家と町はずれの明るい窓との間は、二、三百歩の距離だったが、クリストフにはその三倍もあるように思われた。道が曲がっていて、しばらく何にも見えないところがあった。夕暮のころ、田野は寂《さび》しかった。地面は黒くなり、空は気味悪い青白さになっていた。街道の両側にある藪《やぶ》から出て、土堤によじ登ると、まだ地平線のほとりに黄色い輝きが見えていた。しかしその輝きは少しも物を照らさないで、夜の闇《やみ》よりもいっそう人の心をしめつけた。その輝きのために周囲の暗さがいっそう陰気になっていた。それは終焉《しゅうえん》の光だった。雲は地面とほとんどすれすれに降りていた。藪は大きくなってざわついていた。骸骨《がいこつ》のような樹木は変な格好の老人に似ていた。道の標石は仄《ほの》白い反映を返していた。影が動いていた。溝の中にはじっとすわってる一寸法師がおり、草の中には光があり、空中には恐ろしい羽音がし、虫の鋭い鳴声がどこからともなく聞えていた。自然界の何か異様な物|凄《すご》いものが今にも現われて来はしないかと、クリストフはたえずびくびくしていた。彼は駆け出した。胸がひどく動悸《どうき》していた。
 祖父の室の中に燈火がついてるのを見ると、彼はほっと安心した。しかしいちばん悪いのは、老クラフトがしばしば不在であることだった。そういう時にはなおいっそう恐《こわ》くなった。野の中に孤立してるその古い家は、真昼間でさえ子供をおびえさした。年老いた祖父がそこにいると、彼は恐ろしさを忘れてしまうのだったが、しかし時とすると、老人は彼を一人置きざりにして、何も言わずに出かけてしまうことがあった。クリストフはそれに気をつけていなかった。室の中は安らかだった。すべて見慣れたやさしい物ばかりだった。白木の大きな寝台があった。寝台の枕頭《ちんとう》には、棚《たな》の上に大きな聖書があり、暖炉の上に造花があって、それといっしょに二人の妻と十一人の子供との写真が置いてあった――老人はその下の方にそれぞれ、出生と死亡との日付を書いておいた。――壁には、枠《わく》のはまった聖書の文句や、モーツァルトとベートーヴェンとの粗末な着色石版画が掛かっていた。片隅には小さなピアノがあり、他の隅にはチェロがある。書物がごたごた並べてある書棚、釘に掛かってるパイプ、そして窓の上には、ゼラニウムの鉢《はち》が置かれていた。そこにいると、友だちらに取囲まれてるような気がした。隣りの室には、老人の足音が往《い》ったり来たりしていた。鉋《かんな》で削ったり釘を打ったりする音が聞えていた。老人は独《ひと》り言をいったり、馬鹿野郎と自分をけなしてみたり、あるいは賛美歌の断片や感傷的な歌曲《リード》や戦《いくさ》の行進曲や酒の唄《うた》などをごっちゃにないまぜて、太い声で歌っていた。隠れ場所にいるような気持が感ぜられた。クリストフは窓のそばに大きな肱掛椅子《ひじかけいす》にすわって、膝の上に書物をひらいていた。插絵《さしえ》の上に身をかがめて、うっとりと見とれていた。日は傾いていった。眼がぼんやりしてきた。彼はしまいに插絵を見るのをやめて、茫然《ぼうぜん》と考え込んでしまった。荷馬車の音が遠く街道の上に響いていた。野には牝牛《めうし》が鳴いていた。眠りかけてるようなものうい町の鐘が、夕の御告《みつげ》の祷《いの》りの時刻を知らしていた。おぼろな願望が、かすかな予感が、夢想に沈んでる子供の心に目覚めてきた。
 突然クリストフは、なんとない不安にとらえられて我に返った。眼をあげると、夜。耳を澄ますと、静寂。祖父は出かけたのである。彼は身を震わした。祖父の姿を見ようとして窓から覗《のぞ》き出すと、街道はひっそりしていた。すべてのものが脅《おびや》かすような様子になりだした。ああ、あいつ[#「あいつ」に傍点]がやって来でもしたら! だれが?……クリストフはだれであるかを知らなかった。ただ、恐ろしいものが……。方々の戸はよく閉まっていなかった。木の階段に、何かが上ってでも来るような音が軋《きし》った。子供は飛び上がった。肱掛椅子と二つの椅子とテーブルとを、室のいちばん奥の隅に引きずっていって、それで防柵《ぼうさく》をこしらえた。肱掛椅子を壁によせかけ、左右に椅子を一つずつ置き、前方にテーブルをすえた。中央に二重梯子を備えつけた。そしてその頂上に身をおちつけ、包囲された場合の弾薬としては、今までもってた書物と他のいく冊かの書物とを手にして、ほっと息をつきながら、幼い想像をめぐらして、敵はいかなる場合にもこの防柵を越えることはできないものと一人できめた。越えてはいけなかったのだから。
 しかし時とすると、書物から敵が出て来ることさえあった。――祖父がでたらめに買い求めた古本の中には、子供に深い印象を与える插絵のついてるのがあった。それらの插絵は、子供を惹《ひ》きつけるとともに恐れさした。奇怪な幻影の絵があり、聖アントアンヌの誘惑の絵があって、鳥の骸骨《がいこつ》が水差の中に脱糞していたり、無数の卵が腹の裂けた蛙《かえる》の中で虫のようにうごめいていた、頭が足で立って歩いていたり、尻《しり》がラッパを吹いていたり、あるいは世帯道具や獣の死骸などが、大きなラシャにくるまり、老婦人のような敬礼をしながら、しかつめらしく歩を運んでいた。クリストフはひどく厭《いや》な気がした。けれどそのためにかえってまた惹きつけられた。彼はそれらの插絵を長い間眺めた。そして時々、窓掛の襞《ひだ》の中に動いてるものを見るために、ちらりとあたりを見回した。――解剖学の書物の中にある剥皮体《はくひたい》の図は、なおいっそう忌《いま》わしいものだった。その絵がはいってる場所に近づくと、ページをめくりながら震えた。その奇妙な形をした雑色は、彼にたいして異常な強さをもっていた。子供の頭脳に特有な創造力は、取扱い方の貧弱なのを補ってくれた。その粗雑な絵と現実との間の差異が、彼には少しも分らなかった。夜になると、昼間見た生きてる物の姿よりもいっそう強く、それらのものが彼の夢想に働きかけてきた。
 彼は眠りを恐れた。いく年もの間、彼の安息は悪夢に害された。――穴倉の中を歩き回っていた。すると渋面した剥皮体《はくひたい》が風窓からはいってくるのが見えた。――一人で室の中にいた。すると廊下に軽い足音が聞えた。彼は扉に飛びかかってそれを閉めようとした。ちょうどハンドルをつかむだけの隙《すき》があった。しかしそれはもう外から引張られていた。彼は鍵《かぎ》をかけることができなかった。力が弱ってきた。助けを呼んだ。扉の向うからはいって来ようとしてるもの[#「もの」に傍点]がなんだか、彼はよく知っていた。――家の人たちの中に交っていた。すると突然、皆の顔色が変わった。彼らは変なことを始めた。――静かに書物を読んでいた。すると眼に見えない者が自分のまわり[#「まわり」に傍点]にいるのを感じた。彼は逃げようとしたが、縛られてるのが分った。声をたてようとしたが、猿轡《さるぐつわ》をはめられていた。気味悪いものが抱きついてきて喉《のど》がしめつけられた。息がつまりそうになって歯をがたがたさせながら、眼を覚した。目覚めた後もなお長い間震えつづけた。どうしても悩ましい気分を追い払うことができなかった。
 彼が眠る室は、窓も扉もない小部屋であった。入口の上の棒に掛ってる古い垂幕だけが、両親の室との仕切になっていた。立ちこめた空気が息苦しかった。同じ寝室に寝てる弟たちから足で蹴《け》られた。彼は頭が燃えるようになり、半ば幻覚のうちにとらえられて、昼間の種々なつまらない心配事が、はてしもなく大きくなって浮かび上がってきた。悪夢に近いそういう極度の神経緊張の状態の中では、些細《ささい》な刺激も苦悩となった。床板の鳴る音も、彼に恐怖を与えた。父の寝息も、奇怪に高まって聞こえた。もう人間の息とは思えなかった。その馬鹿に大きな音が彼を脅《おびや》かした。そこには獣が寝てるような気がした。彼は夜に圧倒されていた。夜はいつまでも終りそうになかった。いつまでもそのままつづきそうだった。もう数か月も寝たままのような気がした。彼はけわしい息をつき、寝床の上に半身を起こし、そこにすわって、シャツの袖《そで》で汗ばんだ顔を拭《ふ》いた。時とすると彼は、弟のロドルフを突っついて起こそうとした。しかし弟は何かぶつぶつ言いながら、夜具をすっかり自分の上に引きよせて、またぐっすり眠ってしまった。
 彼はそういうふうにして、熱っぽい悩みのうちにとらえられていると、ついに蒼白《あおじろ》い一条の光が垂幕の裾《すそ》の床《ゆか》の上に現われた。はるかな黎明《れいめい》の弱々しい明るみは、にわかに安らかな気を彼のうちにもたらした。だれもまだその明るみを闇と見分けることができないころ、彼はすでにそれが室の中に忍び込んでくるのを感じた。するとただちに、あふれた河水がまた河床のうちに引いてゆくように、彼の熱はさめ、彼の血は静まった。同じ温かさが身体じゅうをめぐり、不眠のため燃えるようになってる彼の眼は閉じていった。
 晩になると、彼はまた眠る時がやって来るのを見て震え上がった。悪夢の恐ろしさのあまり、眠りに負けず夜通し起きていようときめた。けれどしまいにはいつも疲労にうち負かされた。そしていつも思いも寄らない時に怪物がまた現われてきた。
 恐るべき夜! 多くの子供にはいかにも楽しく、ある子供にはいかにも恐ろしい!……クリストフは眠るのを恐れた。また眠らないのを恐れた。眠っていても目覚めていても、奇怪な姿に、精神から出てくる妖怪《ようかい》に、悪鬼に、彼はとりかこまれた。それらのものは、病魔の気味悪い明暗の境におけると同じく、幼時の薄ら明るみの中に浮動しているものである。
 しかしそれら想像上の恐れは、やがて大なる恐怖[#「恐怖」に傍点]の前には消え失せなければならなかった、あらゆる人に食い込み、人知がいかに忘れんとつとめ否定せんとつとめても甲斐《かい》のない恐怖、すなわち死[#「死」に傍点]の前には。

 ある日、彼は戸棚《とだな》の中をかき回しながら、見知らぬ物に手を触れた。子供の上着や縞《しま》の無縁帽があった。彼はそれらの物を得意になって母のところへもって行った。母は笑顔《えがお》を見せもしないで、不機嫌《ふきげん》な顔付をして、元のところへ置いて来るように言いつけた。彼がその訳を尋ねながらぐずぐずしていると、母はなんとも答えないで、彼の手から品物をもぎ取って、彼の届かない棚の上に押し込んでしまった。彼はたいへん気にかかって、しきりに尋ねだした。母はついに言った、それらのものは彼が生まれて来ない前に死んだ小さな兄のものであると。彼はびっくりした。かつてそんなことを聞いたことがなかったのである。彼はちょっと黙っていたが、それからもっと詳しく知りたがった。母の心は他に向いてるらしかった。けれども、その兄もやはりクリストフという名だったが彼よりもっとおとなしかった、とだけ言ってきかした。彼はなお種々のことを尋ねた。母は答えるのを好まなかった。兄は天にいて皆のために祈っていてくれるとだけ言った。クリストフはそれ以上聞き出すことができなかった。余計なことを言うと仕事の邪魔になる、と母は言った。実際彼女は縫物に専心してるらしかった。何か気がかりな様子をして、眼をあげなかった。しかししばらくすると、彼が片隅《かたすみ》に引込んでむっつりしてるのを眺め、笑顔を作りだして、外に遊びにおいでとやさしく言った。
 その会話の断片は、深くクリストフの心を動かした。してみると、一人の子供がいたのである、自分の母親の小さな男の子が、自分と同じようで、同じ名前で、ほとんど同じ顔付をして、しかも死んでしまった子が!――死、彼はそれがどんなことだかはっきり知らなかった。しかし何か恐ろしいことらしかった。――そしてだれも、そのも一人のクリストフのことをかつて話さなかった。もうすっかり忘られてしまっていた。もしこんどは自分が死んだら、やはり同じようになるのではあるまいか?――そういう考えは、晩になって、皆といっしょに食卓につき、皆がつまらないことを談笑してるのを見た時、なお彼に働きかけてきた。彼が死んでしまった後も皆は快活にしてるかもしれない! おう、自分の小さな子供が死んだ後でも母親は身勝手に笑いうるものであろうとは、彼はかつて思ってもみなかった。彼は家じゅうの者が厭《いや》になった。死なない先から、自分自身を、自分の死を、嘆き悲しみたくなった。それとともに、種々なことを尋ねたかった。しかしそれもできかねた。母親がどんな調子で黙ってくれと言ったかを、彼は思い起こした。――ついに彼はたえられなくなった。そして床についた時、接吻しに来たルイザに尋ねた。
「お母さん、やはり私の寝床に寝ていたの?」
 彼女は身を震わした。そして平気を装った声で尋ねた。
「だれが?」
「あの子供、死んでしまったあの……。」とクリストフは声を低めて言った。
 母の両手はにわかに彼を抱きしめた。
「そんなこと言うんじゃありません、言うんじゃありません。」と彼女は言った。
 彼女の声は震えていた。彼女の胸に頭をもたしていたクリストフには、その胸の動悸《どうき》が聞こえた。
 ちょっと沈黙が落ちてきた。それから彼女は言った。
「もう決してそのことを言ってはいけませんよ……。落ちついてお眠んなさい……。いいえこの寝床ではありません。」
 彼女は彼を接吻した。彼女の頬《ほお》が濡れてると彼は思った。濡れてると信じたかった。彼はいくらか心が安らいだ。彼女は悲しんでたのだ! けれども、すぐその後で、彼女がいつものとおりの落付いた声で口をきくのが、隣りの室に聞えた時、彼はまた疑いだした。今と先刻と、どちらがほんとうだろうか?――彼はその答えを見出さないで、長い間床の中で寝返りをうっていた。彼は母親に心を痛めていてもらいたかった。彼女が悲しんでると考えることはもちろん悲しかった。しかしやはり嬉《うれ》しくもあった。それだけ一人ぽっちの感じが薄らぐのだった。――彼は眠っていった。そして翌日になると、もうそのことを考えなかった。
 数週間後のことだったが、往来でいっしょに遊ぶ悪戯《いたずら》仲間の一人が、いつもの時刻にやって来なかった。彼は病気だと仲間の一人が言った。それからはもう、彼の姿が遊びの中に見えなかった。理由はわかっていた。なんでもないことだった。――ある晩、クリストフは寝ていた。時間はまだ早かった。彼の寝床のある小部屋から、両親の室の燈火が見えていた。だれかが扉《とびら》をたたいた。隣りの女が話に来たのだった。彼はいつものとおり勝手な物語をみずから自分に話しながら、ぼんやり耳を傾けていた。会話の言葉はすっかりは聞きとれなかった。ところがふいに、「あれは死にました」という女の言葉が聞えた。彼の血はすっかり止まった。だれのことだかわかったのである。彼は息をこらして耳を澄ました。両親は大声をたてた。メルキオルの銅羅《どら》声が叫んだ。
「クリストフ、聞いたか。かわいそうにフリッツは死んだよ。」
 クリストフはじっとこらえて、落着いた調子で答えた。
「ええ、お父《とう》さん。」
 彼は胸がしめつけられた。
 メルキオルはなお言った。
「ええ、お父さん、だって。お前の言うことはそれだけなのか。お前はなんとも思わないのか。」
 子供の心を知っていたルイザは言った。
「しッ、眠らしておきなさいよ!」
 そして人々は声を低めて話した。けれどもクリストフは耳をそばだてて、仔細《しさい》のことを偸《ぬす》み聞いていた、腸チフス、冷水浴、精神錯乱、両親の悲痛。彼はもう息もつけなかった。ある塊《かたま》りが呼吸をふさいで、首まで上ってきた。彼は慄《ふる》え上がった。それらの恐ろしいことが頭に刻み込まれた。とくに病気は伝染性のものであるということを耳に止めた、言い換えれば、自分もまた同じようにして死ぬかもしれないということを。そして恐怖の念に慄然《りつぜん》とした。最後に会った時フリッツと握手したことを、そして今日も彼の家の前を通ったことを、思い出したからである。――けれども彼は、口をきかなければならないような羽目に陥らないために、少しの音もたてなかった。隣りの女が帰っていった後、「クリストフ、眠ってるのか、」と父に尋ねられた時、彼は返辞もしなかった。ルイザに言ってるメルキオルの声が聞えた。
「あの子は心なしだ。」
 ルイザはなんとも答え返さなかった。けれどもすぐその後で、彼女はやって来て、静かに垂幕をあげ、子供の寝床を眺めた。クリストフはその隙《すき》に辛《かろ》うじて、眼をつぶることができ、弟どもが眠ってる時聞き知ったその規則的な呼吸を真似《まね》ることができた。ルイザは爪先《つまさき》で立去った。彼はどんなにか彼女を引留めたかった。いかに自分が恐《こわ》がってるかを話し、自分を救ってくれるように頼み、少なくとも自分を安心さしてくれるように頼むことを、どんなにか願っていたろう! けれども、笑われはしないかを、卑怯《ひきょう》者と言われはしないかを、恐れていた。それにまた、口先で言われる言葉はすべてなんの役にも立たないということを、もうあまりに知りすぎていた。そしていく時間もの間、一人でじっと悶《もだ》えながら、病気が自分のうちに忍び込んでくるのを感ずるような気がし、頭痛や胸苦しさにとらえられてるような心地がして、おびえたまま考えていた、「もう駄目《だめ》だ、私は病気だ、じきに死ぬんだ、じきに死ぬんだ!……」一度寝床の上に起き上がって、低い声で母を呼んでみた。しかし両親は眠っていた。それを呼び起こすだけの元気もなかった。
 その時以来、彼の幼年時代は死の観念で毒された。彼は神経のために、胸苦しさや、激しい痛みや、突然の息づまりなど、原因もないさまざまの軽微な症状に襲われた。彼の想像はそれらの苦悩のために狂乱して、そのたびごとに、自分の生命を奪おうとしてる猛獣を眼に見るように思った。母親の近く数歩のところにいても、すぐそのそばにすわっていても、幾度か彼は死ぬような苦しみを感じた。しかも彼女は何にも察していなかった。なぜなら、彼はそれほど臆病《おくびょう》なくせに、恐怖を自分の胸にしまっとくだけの勇気をももっていた。それは種々な感情の不思議な混合からであった、他人に頼るまいとする高慢、恐《こわ》がることの恥ずかしさ、心配をかけまいとする細やかな情愛など。しかし彼はたえず考えていた。「こんどはほんとうに病気だ、重い病気だ。ジフテリアの初めだ……。」彼はジフテリアという言葉を聞きかじっていた。「ああ神様、こんどだけは許してください!……」
 彼は宗教上の観念をもっていた。彼は母が語ってきかせることを進んで信じていた。人の死後、魂は主《しゅ》のもとにのぼってゆくことだの、信心深い魂は楽園にはいることだのを、信じていた。しかしそういう魂の旅に、彼は心|惹《ひ》かるるというよりもむしろ多く脅かされた。母の言葉によれば、いい子供たちはその褒美《ほうび》として、睡眠中に神様からさらわれてお側《そば》に呼び寄せられ、しかもなんの苦しみも受けないそうであったが、彼はそういう子供を少しもうらやましいとは思わなかった。眠る時になると、神様が自分にたいしてもそういう悪戯《いたずら》をしはすまいかと、うち震えていた。ふいに温かい寝床から引き出され、虚空《こくう》に引きずってゆかれ、神様の前に立たされるのは、思っても恐ろしいことに違いなかった。神というものを、雷のような声を出す非常に大きな太陽みたいに、彼は頭の中で想像していた。どんなにか大きな危害を受けるに違いなかった。眼をやき、耳をやき、魂をも焼きつくすに違いなかった! それから、神は罰を下すかもしれなかった。どうだかわかるものではない……。――そのうえ、他の種々な恐ろしいこともそのためになくなりはしなかった。それらの恐ろしいことを彼はよく知ってはいなかったが、しかし人々の話でおおよそは察せられた。身体を箱の中につめられ、穴の底に一人ぽっちにされ、多くの厭《いや》な墓の中にほうり出され、そこで祈らせられること……。ああ、ああ、なんという悲しいことか!……
 そうかといって、酔っ払いの父の姿を見、乱暴なことをされ、種々な苦しみを受け、他の子供たちからいじめられ、大人たちからは侮辱的な憐れみを受け、そしてだれからも理解されず、母親からも理解されずに、生をつづけてゆくということは、決して楽しいことではなかった。万人から辱《はずかし》められ、だれからも愛せられず、ただ一人で、一人ぽっちで、しかも非常に頼り少ないのだ!――正にそのとおりだった。しかしそのことがまた、彼に生きる欲望をも与えていた。彼は自分のうちに、憤激して沸きたつ力を感じていた。その力こそ実に不思議なものだ! その力はまだ何をもなしえなかった。遠くにあって、猿轡《さるぐつわ》をはめられ、手足を縛られ、痲痺《まひ》してるようだった。その力が何を望んでいるのか、やがて何になろうとするのか、彼には想像もつかなかった。しかしその力は彼自身の中にあった。彼はそれを疑わなかった。それは振い動いて、怒号していた。明日《あした》は、明日は、その力が復讐《ふくしゅう》してくれるであろう! あらゆる害悪を復讐し、あらゆる不正を復讐し、悪人を罰し、大事をなさんがために、彼は生きたいという激しい願望をいだいていた。「おう、ただ生きてさえおれば……(彼はちょっと考え込んだ)……せめて十八歳まで!」――またある時は、二十一歳までと引延した。それが極限であった。それだけで世界を支配するには十分だと彼は信じた。彼はなつかしい英雄らのことを考えていた、ナポレオンのことを、またそれより時代は遠いがいちばん好きであるアレキサンドル大王のことを。もう十二年……十年、生きてさえおれば、かならず彼らのようになるだろう。彼は三十歳で死ぬ者を気の毒だとは思わなかった。三十歳といえばもう老人だった。人生を十分に生きてしまったものだった。もし生きなかったとすれば、罪は当人にあるのだった。しかし自分が今死ぬのは、なんという絶望なことだろう! まだ子供のままで消えてしまうのは、そして、だれにでも叱《しか》ってかまわないと思われるような小さな子供のままで、人々の頭の中に永久に残ってることは、あまりに不幸すぎることである! 彼はそれを憤激しながら嘆いた、あたかもすでに自分が死んでしまったかのように。
 そういう死の懊悩《おうのう》が彼の幼年時代の数年間を苦しめた。――その懊悩はただ、生《せい》の嫌悪《けんお》によってのみ和げられるのだった。

 そういう重々しい闇《やみ》の真中において、一刻ごとに濃くなってゆくように思われる息苦しい闇夜の中において、陰暗な空間に埋もれた星のごとくに輝き出したのである、彼の生涯を照らすべき光明が、聖なる音楽が……。
 祖父は古いピアノを一つ子供たちに与えておいた。彼をひいきにしてる人々の一人が片づけてくれと頼んだ品で、気長なくふうをこらしてどうかこうか取り繕ったものだった。その贈物は皆からあまり喜ばれなかった。そんな物を置かないでも室はもうかなり狭くなってると、ルイザは思った。親父《おやじ》のジャン・ミシェルは大して金を出して手に入れたのでもないと、メルキオルは言った、焚付《たきつけ》同様の代物《しろもの》であると。ただ小さなクリストフだけは、なぜだか知らないがその新しい到来物が嬉《うれ》しかった。ちょうど、祖父が時々いくページかを読んでくれて、いつも二人で夢中になった、あのアラビア夜話の書物のように、驚くべき物語でいっぱいになってる魔法箱のように思われた。父がその音色をためすために、小雨のような琶音《アルペジオ》をひき出した時、彼はそばで聞いていた。驟雨《しゅうう》の後に暖かい一陣の風が、濡れた樹木の枝から振い落す小雨にも似ていた。彼は手をたたいて叫んだ、「もっと!」しかしメルキオルは、くだらない品だと言いながら、軽蔑《けいべつ》の様子でピアノの蓋《ふた》をしめてしまった。クリストフはそのうえせがまなかった。けれども彼はたえずその楽器のまわりをうろついた。そしてだれもこちらを見ていないと、蓋をもち上げて、鍵《キイ》を押した、あたかも何か大きな虫の青い甲羅《こうら》を指先で動かすかのように。彼はその中にはいってる動物をつつき出したかった。時とすると、気が急《せ》くあまり、少し強すぎるくらいに鍵をたたくこともあった。すると母に叱られた。「静かにしておいでったら。手を触れちゃいけません!」あるいはまた、蓋をしようとして手をはさまれた。彼は痛めた指先をしゃぶりながら、悲しそうに顔をしかめていた……。
 今や彼のいちばん大きな喜びは、母が一日雇われて出かけてゆく時か、町に用達《ようたし》に出かける時かであった。彼は階段を降りてゆく足音に耳を傾ける。足音は早くも表に出で、しだいに遠ざかってゆく。彼は一人きりである。ピアノを開き、椅子《いす》を近寄せ、その上にすわる。肩が鍵盤《けんばん》の高さになる。それだけでもう十分だ。なぜ彼は一人になるのを待つのか? あまり大きな音さえたてなければ、だれもひくのをとがめはしないではないか。しかし彼は人前を恥ずかしがっている。思い切ってやれない。それにまた、皆が話をしたり動き回ったりする。それが楽しみをそこなう。一人きりの時に限るのである!……クリストフは息をこらす、なおいっそうあたりを静かにするためである。そしてまた、大砲でも打とうとしてるかのように多少興奮してるからである。鍵《キイ》に指先をあてると、胸がどきどきする。時々、指を半ば埋めた後にまたはずして、他の鍵の上に置く。前のよりこんどのからどんなものが出て来るか、わかりはしない。突然音が高まる。深い音、鋭い音、響く音、唸《うな》る音。それらの音が一つ一つかすかになって消えてゆくのを、彼は長く聴《き》きとれる。それらは鐘の音のように揺いでいる、野の中にいる人の耳に、風がもたらしてはまた一つ一つ遠くへ吹き送る鐘の音のように。次に耳を傾けると、虫の羽音のような、入り交って渦《うず》を巻いてる他の種々な声が、遠くに聞える。人を呼びかけるようである、遠くへ誘ってゆくようである……遠くへ……ますます遠くへ、神秘な奥深いところへ。そして声はそこにはいり込んで、深くもぐり込む……もう消えてしまった!……いや、まだささやいている……小さな羽ばたき……。なんという不思議なことであろう。精霊のようである。精霊がこのとおり素直にしてるとは、この古い箱の中に囚《とら》われとなってるとは、まったく訳がわからないことだ!
 しかし最も面白いのは、同時に二本の指を二つの鍵《キイ》にのせる時である。どんなことが起こるか前から決してわかりはしない。時とすると、二人の精霊が敵《かたき》同士のこともある。彼らは怒りたち、殴り合い、憎み合い、癪《しゃく》にさわったように唸《うな》りだす。たがいの声が高まる。あるいは憤って、あるいはやさしく、叫びたてる。クリストフはそのやり方が大好きである。縛られた怪物が、鎖をかみ牢屋《ろうや》の壁にぶっつかってるようである。怪物は今にも壁を破って外に飛び出そうとしてるかと思われる。物語の書物に書かれてる怪物のようである、ソロモンの印璽《いんじ》の下にアラビアの手箱の中に閉じ込められてる悪鬼のようである。――またあるものは媚《こ》びてくる。騙《だま》し賺《すか》そうとつとめる。しかし彼らはただ噛みつくことばかり望んでいる。熱があるのだ。クリストフは彼らがどういう考えだか知らない。彼らは彼を引きつけ、彼の心を乱させる。彼にほとんど顔を赤らめさせる。――またある時は、たがいに愛し合う音調がある。人が口づけする時腕で抱き合うように、その音はたがいにからみ合う。優美でやさしい。よい精霊なのである。皺《しわ》のない微笑《ほほえ》んだ顔をしている。彼らは小さなクリストフを愛し、小さなクリストフも彼らを愛する。彼は彼らの声を聞いて眼に涙をためる。幾度呼び出しても倦《あ》きない。彼らは彼の友だちである、親しい友だち、やさしい友だちである……。
 かくて子供は音響の森の中を逍遙《しょうよう》する。自分のまわりに無数の知らない力を感ずる。それらの力は彼を待受け、彼を呼びかけ、そして彼を愛撫《あいぶ》せんとし、あるいは彼を呑噬《どんぜい》せんとする……。
 ある日、そういう最中にメルキオルが突然やって来た。クリストフは例の太い声をかけられたので恐ろしさに飛び上がった。彼は悪いことをしてたような気がして、両手で急いで耳をふさぎ、恐るべき怒鳴り声をきくまいとした。しかしメルキオルはいつになく叱りつけなかった。上機嫌《じょうきげん》で笑っていた。
「じゃあお前にも面白いんだな。」と彼はやさしくクリストフの頭をたたきながら尋ねた。「ひき方を教えてもらいたいか。」
 教えてもらいたいかって!……彼は夢中になって「ええ」とつぶやいた。そして二人ともピアノの前にすわった。クリストフはこんどは大きな書物をつみ重ねた上に身を落着けた。ごく熱心に最初の稽古《けいこ》を受けた。彼はまず、それらの大きい声を出す精霊は、一|綴《つづ》りかまたはただ一文字かの、支那にでもありそうな妙な名前をもってるのを知った。彼はびっくりした。彼はもっと違った名前を想像していた。仙女《せんにょ》物語に出てくる女王のような、やさしい美しい名前を想像していた。それらにたいする父のなれなれしい口のきき方が気に入らなかった。そのうえ、メルキオルに呼び出される時には、もう同じ精霊ではなかった。その指下から飛び出すと、冷淡なふうをしていた。それでもクリストフは、彼らの間にある関係を覚え、彼らの階級を覚え、一軍を率いる帝王に似ていたり一群の黒奴の並列に似ていたりする音階を覚えると、嬉《うれ》しくなった。各兵士は、あるいは各黒奴は、めいめい帝王にもなれるし、同じような隊列の先頭にもなれるし、また鍵盤の先から端まで、全部の隊を展開させることもできるので、彼はそれを見てびっくりした。それらを行進させる筋道をたどってゆくと面白かった。しかしそういうことも、彼が最初見たものよりずっと幼稚になってしまった。不可思議な森はもう見出せなくなった。でも彼は熱心につとめた。なぜならつまらないことではなかったから。そして父の根気にも驚かされた。メルキオルは決して倦《あ》かなかった。同じことを十遍もくり返さした。そんなに骨折ってくれる訳がクリストフにはわからなかった。では父が自分を愛してくれてるのか。なんと親切なことだろう! 子供は感謝の念で心がいっぱいになって、非常に努めた。
 師の頭にどういう考えが浮かんだかを知っていたら、彼はそれほど嬉しがりはしなかったろう。

 その日以来、メルキオルは彼を隣家に連れていった。そこでは一週間に三回、室内音楽会が催されていた。メルキオルは第一ヴァイオリンをひき、ジャン・ミシェルはチェロを弾《ひ》いた。他の二人は、銀行員とシルレル街の老時計商とであった。時々、薬剤師もそれに加わって、フルートをもって来た。五時に集まって、九時までかかるのだった。楽曲を一つ終えるごとにビールを飲んだ。近所の人々が室に出はいりして、黙って耳を傾け、壁にもたれて立ち、頭を振り、足で調子を取り、そしてたばこの煙を室いっぱいにたてた。楽譜のページからページへ、曲から曲へ移っても、演奏者らの根気は疲れることがなかった。彼らは口をきかず、注意をこらし、額に皺《しわ》をよせ、時々愉快のあまりうなり声を出していたが、もとより、楽曲の美を表現することがまったくできないばかりでなく、それを感ずることさえできなかったのである。ごく正確に弾奏してもいなかったし、拍子正しく演奏してもいなかったが、しかし脱線することはなく、印《しる》されてるニュアンスを忠実にたどっていた。わずかなことで満足する音楽上の無造作さと、世界で最も音楽的だといわれる人種のうちに充満してる完成した凡庸《ぼんよう》さとを、彼らはそなえていた。量さえ多ければ質のいかんをあまり気にしない趣味の貪欲《どんよく》性をもそなえていた。そういう健啖《けんたん》な食欲にとっては、実量が多ければ多いほどどんな音楽でも上等のものとなる。――そしてこの食欲は、ブラームスとベートーヴェンとの間に差別もつけないし、または、同じ楽匠の作品でさえあれば、空虚な協奏曲《コンセルト》と感銘深い奏鳴曲《ソナタ》との間に差別も設けない、なぜなら二つとも同じ捏粉《ねりこ》でできてるから。
 クリストフは一同から離れて、ピアノの後ろの自分だけの片隅に隠れていた。そこではだれも彼を邪魔することはできなかった。四つ這《ば》いにならなければはいれなかったから。そこは薄暗かった。そして子供には、身を縮めて床板の上に寝ておれるだけの場所があった。たばこの煙が彼の眼や喉《のど》にはいってきた。また埃《ほこり》もはいった。羊の毛みたいに大きな総《ふさ》をなした埃もあった。しかし彼はそんなものに気を留めなかった。トルコ風に膝頭ですわって、きたない小さな指先でピアノの掛布の穴を広げながら、しかつめらしく耳を傾けていた。彼は演奏される曲をことごとく好きにはなれなかった。けれども一つとして退屈になるものはなかった。彼は決して批評がましい意見をたてようとはしなかった。なぜなら、自分はまだあまり小さすぎると思っていたし、音楽のことは何にも知らないと思っていたから。ただそれを聞いていると、あるいはうとうととしたり、あるいは眼を覚ましたりした。いずれの場合にも不快な感じは受けなかった。彼はみずから気づきはしなかったが、彼を興奮させるのはたいていいつもいい音楽であった。だれにも見られっこはないと安心していたので、顔じゅうで種々な渋面《しかめつら》をした。鼻に皺《しわ》を寄せ、歯をくいしばり、舌を出し、怒った眼付や悲しい眼付をし、喧嘩《けんか》腰の元気な様子で腕や足を動かし、また、歩き出したくなり、殴り回りたくなり、世界を粉|微塵《みじん》にしてやりたくなった。そしてあまり暴れていたので、ついにピアノ越しに覗《のぞ》き込まれて、怒鳴りつけられた。「おい、お前気違いか。ピアノからどけ、手を離せ。耳を引張るぞ!」――それで彼は当惑しまた癪《しゃく》にさわった。なぜ自分の楽しみを邪魔するのか。何も悪いことをしたわけではない。いつもいじめつけられてばかりいなければならないのか! 父も小言の仲間にはいった。彼は騒がしい真似《まね》をするといって叱《しか》られ、音楽を好かないのだといって叱られた。しまいには彼自身も音楽を好かないのだと思い込んでしまった。――もし、そこにいる人たちのうちでほんとうに音楽を感じているのは、その小さな子供一人きりだと言われたら、協奏曲《コンセルト》をこね回してる善良な人々はさぞ驚いたであろう。
 もし彼に静かにしていてもらいたいのなら、なぜ人を歩かせるような曲を演奏してきかせたのか。それらのページのうちには、悍馬《かんば》、剣、戦《いくさ》の叫び、勝利の驕慢《きょうまん》、などが含まれていたのである。しかも彼らは、彼にも同じように、頭を振ったり足拍子を取ったりするだけでいてもらいたかったのである。それならばただ、のどかな夢幻の曲か、いくらしゃべってもなんの意味をも語らない饒舌《じょうぜつ》なページかを、演奏してやりさえすればよかったのだ。たとえば、ゴルトマルクの曲でもよかった。老時計商は先刻|歓《よろこ》ばしい笑顔をして、その楽曲のことを言った。「実にいい。荒っぽいところがない。どの角《かど》も丸くなってる……。」その時には子供はごく静かだった。うとうとしていた。何が弾奏されてるか知らなかった。しまいにはもう何も聞えなくなった。しかしいい気持だった。手足がけだるくなって、うつらうつら夢みていた。
 彼の夢は筋の通った話ではなかった。頭も尾もなかった。辛《かろ》うじて時々はっきりした象《すがた》を見るだけだった。菓子をこしらえながら、指の間に残ってる捏粉《ねりこ》を包丁で取ってる母親――前日河に泳いでるところを見かけた溝鼠《どぶねずみ》――柳の枝でこしらえたいと思っていた鞭《むち》……。それらの記憶がどうして今彼に浮かんできたかは、神のみが知るところである。――しかしたいていは、まったく何も見えなかった。それでもたくさんのものを感じていた。何かきわめて大切なものが山ほどあるかのようだった、いつも同じようにしてるので、またはっきり知れきってるので、口にいうことができないような、あるいは言っても無駄《むだ》なような、きわめて大切なものが。その中には、悲しいのもあった、死ぬほど悲しいのもあった。けれどそれらは、人生において出会うのと違って、なんら苦しいところをもたなかった。父から殴られた時のように、あるいは恥ずかしさで胸をしぼりながら何かの屈辱を考える時のように、醜くもなければ卑《いや》しくもなかった。ただ憂鬱《ゆううつ》な静けさで頭がいっぱいになった。それからまた、喜びをどっとふりまいてくれる輝かしいものもあった。クリストフは考えた。「そうだ、こんなに[#「こんなに」に傍点]……こんなに、私もやがてしよう。」どうしてこんなにだか、なぜそんなことを言うのか、彼は自分で少しも知らなかった。しかし、そう言わなければならない、それは白日のように明白なことだと、彼は感じていた。海の音が聞こえていた。海はすぐ近くにあって、ただ砂丘の壁で隔てられてるだけだった。その海がどういうものであるか、海が自分に何を望んでいるかは、少しもわからなかった。しかし彼ははっきり意識していた、海はやがて障害をのり越えて高まってくるだろうということを、そして、その時こそは……。その時こそは、素敵だろう、自分はまったく幸福になるだろう。海の音を聞くだけでも、その大きな声の響きに揺られるだけでも、あらゆる屈辱や小さな悲痛などは、ことごとく鎮《しず》められてしまった。それらはやはり悲しいものではあったが、もはや恥ずかしいものでもなく、心を傷つけるものでもなかった。すべてが自然らしく思われ、温和な気にほとんど充ちてるらしく思われた。
 多くは、凡庸《ぼんよう》な音楽がそういう陶酔を彼にもたらした。かかる音楽を書いたのは、憐《あわ》れむべき賤《いや》しい人々であって、彼らの考えていたことはただ、金を得んとすることばかりであり、あるいは、一般に認められた形式に従って、または――独創家たらんがために――形式を無視して、とにかく音符をいっしょによせ集めながら、おのれの生活の空虚の上に幻をうち立てんとすることばかりであった。しかし音響の中には、愚人に取扱われたものの中にさえ、非常な生命の力が潜んでいて、無邪気な魂の中に感激を起こさせることができるものである。おそらくは、愚人の暗示する幻影も、強烈な思想に吹き起こされて人を無理に巻き込む幻影にくらぶれば、いっそう神秘であり自由であろう。なぜなら、いたずらな運動と空虚な饒舌《じょうぜつ》とは、自己観照の精神を煩《わずら》わすことがないから……。
 かくて子供は、皆に忘れられ、すべてを忘れて、ピアノの隅にじっとしていた。――しまいには、蟻が足に這《は》い上がってくるのを不意に感じた。すると、自分は真黒な爪《つめ》をした小さな子供であることを思い出し、両手で足をかかえながら鼻を壁にすりつけてることに気づいた。

 メルキオルが忍び足ではいって来て、少し高すぎる鍵盤の前にすわってる子供のところへふいに現われたあの日、メルキオルは子供を観察したのだった。そしてある輝かしい思いが彼の頭に浮かんだのである。「神童だ!……どうして今まで気づかなかったんだろう。……家にとってはこの上もない仕合せだ!……こいつは母親のように百姓の子にすぎないと思い込んでいたが、しかしためしてみたって別に損するわけじゃない。運が向いてきたぞ! ドイツじゅうを連れ回り、外国へも連れ回ってやろう。面白いしかも高尚な世渡りだ。」――メルキオルはいつも、自分のあらゆる行為のうちに、隠れた高尚な点を捜さないではおかなかった。そしてたいていは高尚な点を見出すのだった。
 右のような確信を強くいだいていたので、彼は夕食の最後の一口を食い終えると、すぐにまた子供をピアノの前に押しつけ、その日教えたところをくり返さして、子供の眼が疲れに閉じてくるまでやらした。それから、翌日は三度|稽古《けいこ》をさした。翌々日も同じだった。引きつづいて毎日そうした。クリストフはじきに倦《あ》いてきた。次にはたまらないほど厭《いや》になった。ついにはもう辛抱ができなくて、逆らおうとした。やらせられることはまったく無意味なことだった。親指をちょこちょこやりながら鍵《キイ》の上をできるだけ早く飛び回ることや、二本の隣りの指の間にぎごちなくこびりついてる薬指をしなやかにすることだった。やってると神経がいらいらしてくるし、ちっとも面白くなかった。魔法めいた共鳴音も、魅惑するような怪物も、一時予感される夢の世界も……すべてなくなってしまった。音階と練習とがつづくばかりで、しかもそれは乾燥で、単調で、無味であって、いつも食物のことに、きまりきった食物のことに及んでゆく食事時の会話より、いっそう無味なものであった。子供はただぼんやりと父親の教えを聞くようになり始めた。きびしく叱りつけられると、厭々《いやいや》ながらやりつづけた。叱責《しっせき》はすぐにやってきた。彼は最も底意地悪い機嫌《きげん》をそれに対抗さした。最もいけなかったことには、ある晩、隣りの室でメルキオルが将来の計画を洩らすのを聞いてしまった。こういうふうに苦しめられるのも、毎日むり強《じ》いに象牙《ぞうげ》の片を動かさせられるのも、賢い動物として見世物にされるためであったのか! 彼はもう親しい河を訪れに行くだけの隙《すき》ももたなかった。どういう訳で自分はこういじめられてばかりいるのか。――彼は自尊心と自由とを傷つけられて憤慨した。もう決して音楽をやるまい、やるにしてもできるだけ下手《へた》にやってやろう、そして父を落胆さしてやろう、と彼は決心した。多少ひどすぎる考えかもしれなかったが、しかし彼は自分の独立を救い出さなければならなかった。
 その次の稽古の時から、彼は計画を実行しようと試みた。彼はわざと、違った鍵《キイ》をたたいて調子をはずそうとした。メルキオルは叫びたて、次には喚《わめ》きたてた。やたらに殴りつけ始めた。彼は頑丈《がんじょう》な定規をもっていた。子供が音符を間違えるたびに、定規でその指を打ち、同時に、聾にならせるほど耳もとで怒鳴りちらした。クリストフは苦痛に顔をしかめた。泣くまいとして唇《くちびる》をかみしめ、打たれそうなので首を肩に引っこめながら、じっと我慢して、むちゃくちゃに音符をひきつづけた。しかしやり方がまずかった。長くたたないうちに気づかれた。メルキオルは彼に劣らず意地張りだった。たとい二人で二日二晩やりつづけても、正確にひかれるまでは一つの音符の間違いも許さない、と彼は言い張った。クリストフの方では、正しくひくまいとあまりに念を入れすぎた。主調ごとに、明らさまな悪意で小さな手が重々しくわきへそらされるのを見て、メルキオルはその狡猾《こうかつ》な策略を勘づき始めた。定規がさらにひどく振りおろされた。クリストフはもう指の感じをも失った。黙って、嗚咽《おえつ》や涙をすすり込み飲み込みながら、いじらしく泣いていた。そして、こんなふうにつづけてもなんの得にもならないし、捨てばちな道をとった方がいいとさとった。彼はひくのをやめて、これから起ころうとする嵐《あらし》を思っては前もって震え上がりながらも、大胆に言ってのけた。
「お父さん、僕はもうひきたくない。」
 メルキオルは息をつめた。
「なに、なに!……」と彼は叫んだ。
 彼はクリストフの腕を折れるほど揺ぶった。クリストフはますます震え上がって、殴られるのを避けようと肱《ひじ》を上げながら、言いつづけた。
「もう弾《ひ》きたくない。第一、打たれたくないし、それから……。」
 彼は言い終えることができなかった。ひどく頬辺《ほおぺた》を打たれて息がつまった。メルキオルは喚きたてていた。
「うむ! 打たれたくないんだって、打たれたく……。」
 拳固《げんこ》の霰《あられ》が降った。クリストフはすすり泣きの間から絶叫していた。
「それから……音楽はいやだ!……音楽は嫌《きら》いだ!……」
 彼は席から滑り落ちた。メルキオルは手荒く彼をまたすわり直させ、手首を掴《つか》んで鍵盤にぶっつけた。彼は叫んでいた。
「ひくんだ!」
 クリストフは叫んでいた。
「いや、いや、弾《ひ》くもんか!」
 メルキオルは諦《あきら》めなければならなかった。彼はクリストフを扉のところへ引張ってゆきながら、一か所も間違えずに練習をしてしまわないうちは、一日じゅう、一月じゅう、食物を与えないと言った。後ろから彼を蹴《け》り出して、ばたりと扉を閉めきった。
 クリストフは階段の中途にたたずんだ。きたない薄暗い階段で、踏段は虫に食われていた。軒窓のガラスの壊れたところから、風が吹き込んでいた。湿気で壁がじめじめしていた。クリストフは脂《あぶら》じみた踏段に腰を降ろした。胸の中は、憤怒と激情とで心臓がどきついていた。小声で彼は父をののしった。
「畜生、まったくそうだ! 畜生!……下司《げす》野郎……人非人《にんぴにん》! そうだ人非人だ!……おれは大嫌いだ。大嫌いだ。……死んじまうがいいや、死にやがれ!」
 彼は胸がいっぱいになっていた。ねちねちした階段を、壊れた窓ガラスの上に風に揺られてる蜘蛛《くも》の巣を、絶望的に眺めていた。不幸の中に一人ぽっちで落ち込んだような気持だった。彼は手摺《てすり》の棒の間の空間を眺めた。……もし下に飛び降りたら?……あるいは窓からでも?……そうだ、懲《こ》らしめのために自殺してやったら? 彼奴《あいつ》らはどんなに後悔するだろう! 自分が階段から落ちる音が耳に響いた! 上の扉が急いで開かれた。悲痛な声が叫んでいた、「あれが落《おっ》こった! 落こった!」足音が階段をころび降りてきた。父が、母が、泣きながら彼の身体にとびついた。母はすすり上げていた、「あなたのせいです、あなたがこの子を殺したんです!」父は腕を振り動かし、ひざまずき、手摺に頭をぶっつけながら、叫んでいた、「おれが悪いんだ、おれが悪いんだ!」――そういう光景は、彼の苦しみを和らげた。彼は嘆いてる人たちを憐れもうとしかけた。しかし、彼等にはこれがちょうどいい報いだと後から考えた。そして復讐の光景を味わった……。
 自分で作り出した話を終えてしまった時、彼はまた暗い階段の上に上っていた。彼はも一度下を覗《のぞ》いた。するともう少しも飛び降りたい気がしなかった。ちょっと身震いさえして、落ちるかもしれないと思いながらその端から遠のいた。その時彼は、まったく囚《とら》われの身なのを感じた。あわれな籠《かご》の鳥のようで、永久に囚われの身であり、頭を割るか大|我怪《けが》をするかよりほかに逃げ道はなかった。彼は泣きに泣いた。きたない手で眼をこすっていたので、すぐに顔じゅう真黒になってしまった。そして泣きながらも、あたりのものを見つづけていた。それで気がまぎらされた。彼はちょっと泣声をやめて、動き出した蜘蛛《くも》を眺《なが》めた。それからまた泣きだしたが、前ほど本気ではなかった。自分の泣声に耳を澄していた。もうなぜだかよくもわからずにただ機械的な泣声をつづけていた。やがて彼は立ち上がった。窓に引きつけられたのである。彼は窓の内側に腰掛け、用心深く身体を奥の方に引込ませて、面白くもあるがまた厭《いや》な気もする蜘蛛を、じろじろ横目で見守った。
 下には家のすぐそばをライン河が流れていた。階段の窓から覗《のぞ》くと、河の真上になっていて、揺らめく空中にいるがようだった。クリストフは一段一段と階段を降りてゆく時、いつも欠かさずその河を眺めたのだった。しかしまだかつて、その日のように河を見たことはなかった。悲痛は感覚を鋭利にする。色|褪《あ》せた記憶の跡が涙に洗われた後には、すべてが眼の中によりよく刻み込まれるらしい。子供には河が生物のように見えた――不可解な生物、しかも彼が知ってる何よりもいく倍となく力強い生物! クリストフはなおよく見るために身を乗り出した。窓ガラスの上に口をあて鼻を押しつけた。彼はどこへ行こうとしているのか? 彼は何を望んでいるのか? 彼は自分の道を信じきってるような様子である。……何物も彼を止めることはできない。昼も夜もいかなる時でも、雨が降ろうと日が照ろうと、家の中に喜びがあろうと悲しみがあろうと、彼は流れつづけている。すべて何事も彼にとってはどうでもいいことらしい。彼はかつて苦しんだことがなく、常に自分の力を楽しんでいるらしい。彼のようだったら、どんなに愉快だろう! 牧場や、柳の枝や、光ってる小石や、さらさらした砂や、そういうものの間を分けて走り、何物にも気をもまず、何物にも煩わされず、まったくの自由である、そうなったらどんなに愉快だろう!……。
 子供は貪《むさぼ》るように眺めまた聴いていた。河に運ばれてるような気がした……。眼をつぶると、青や緑や黄や赤などの色が見えてき、過ぎゆく大きな影や、一面に降り注ぐ日の光が、見えてくる。……映像はしだいにはっきりとなる。それ、広い平野、葦《あし》の茂み、新鮮な草や薄荷《はっか》の匂いがする微風に波打っている畑の作物。至るところに花が咲いている、矢車草、罌粟《けし》、菫《すみれ》。なんと美しいことだろう! なんと快い空気だろう! 密生した柔かな草の中に寝転んだら、さぞ気持がいいだろう!
 ……祝いの日に、ライン産の葡萄酒《ぶどうしゅ》を少しばかり、大きな杯に父からついでもらった時のように、クリストフは心|嬉《うれ》しくて、少しぼーっとした心地になってくる……。――河は流れてゆく……。景色が変わる……。こんどは、水の上に覗《のぞ》き出た木立。歯形に切れてる木の葉は、小さな手のような形をして、河の中に浸り動き裏返っている。木立の間には、一つの村落が河に映っている。流れに洗われてる白壁の上には、墓地の糸杉や十字架が見えている。……次には、種々な岩、立ち並んだ山、傾斜地の葡萄畑、小さな樅《もみ》の林、荒廃した城《ブルク》……。それからまた、平野、作物、小鳥、日の光……。
 緑色の満々たる河水は、ただ一つの思想のように一体をなして、波も立てず、ほとんど皺《しわ》も寄せず、脂《あぶら》ぎって光ってる水形模様を見せながら、流れつづける。クリストフはもうそれを眼には見ない。彼はその音をなおよく聞くために、眼をすっかり閉じている。たえざる水音は彼の心を満たし、彼に眩暈《めまい》を与える。その覆《おお》いかぶさってくる悠久《ゆうきゅう》な夢に彼は吸い寄せられる。河水の騒々しい基調の上に、急調の律動《リズム》が激しい愉悦をもって飛び出してくる。そしてそれらの節奏《リズム》のまにまに、棚《たな》に葡萄蔓《ぶどうづる》がよじ上るように、種々の音楽が高まってくる、銀音の鍵盤から出る白銀の琶音《アルペジオ》、悩ましいヴァイオリンの響き、円《まろ》やかな音調のビロードのようなフルートの声……。景色は消えてしまった。河は消え失せてしまった。柔かな薄ら明るい大気が漂っている。クリストフの心は感動のあまり震えてくる。今や眼に見えるのは? おう麗わしい種々の面影!――栗《くり》色の髪を縮らした小娘が彼を呼んでいる、なよやかなまた揶揄《からか》うような様子で……。碧眼《へきがん》の幼い少年の蒼《あお》い顔が、憂わしげに彼を眺めている……。その他いろんな笑顔や眼付――見つめられると顔が真赤になるような、物珍らしげな挑《いど》みかかる眼――犬のやさしい眼付のような、愛を含んだ切ない眼――または厳《いか》めしい眼、または苦悶の眼……。それから、口元のしまった黒髪の蒼ざめた女の面影、その眼は顔の半ばを覆いつくすかと思われるほど大きく開かれて、苦しくなるほど激しく彼を見つめている……。それから、すべてのうちで最もなつかしいのは、澄みきった灰色の眼と、心もち開いた口と、光ってる細かな歯並とで、彼に微笑《ほほえ》みかけてくれる面影……。ああ、その寛大な愛深い麗わしい微笑み! それはやさしい愛情で人の心を溶かしてしまう。いかに人を喜ばすことか! いかに人から好かれることか! もっと! もっと微笑みかけてくれ! 消え去ってはいけない!――ああ、悲しくもそれは消え失せてしまう。しかし人の心に得もいえぬやさしみを残してくれる。もうつらいことは少しもない、悲しいことは少しもない、もう何もない……。ただ軽やかな夢ばかり、夏の麗わしい日に見られる聖母の糸(空中にかかって浮んでる蜘蛛の糸――訳者)のように太陽の光線の中に漂ってる、朗らかな楽《がく》の音《ね》ばかり……。――では今しがた通り過ぎたのはなんだろう? 胸騒がしい情熱を子供心にしみ込ませるあれらの姿はなんだろう? かつて彼はまだそれらの姿を見たことがなかった。けれども彼はそれらを知っていた。見覚えがあった。それらはどこから来るのか? 「存在」のいかなる薄暗い深淵《しんえん》から来るのか? すでにあったものからなのか、……あるいはやがてあろうとするものからなのか?……
 今や、すべては消え失せ、すべての形は溶け去ってしまう……。最後にも一度、靄《もや》のヴェールを通して、あたかも高くを翔《かけ》ってる時のように、しかも自分の上の方に、満々と湛《たた》えた河が、野を覆いながら、おごそかに流れながら、ゆるやかなほとんど不動の姿で、現われてくる。そしてはるか遠くには、地平のはての鋼鉄の光のようにして、水の平野が、震える水の一線がある――海が。河はその海へ奔《はし》っている。また海は河へ奔ってるがようである。海は河を吸い寄せる。河は海を慕う。河は海に隠れようとしている……。音楽は渦《うず》巻き、舞踊の麗わしい節奏は狂わしいまでに揺り動く。その勝ち誇った旋風の中に、すべてが巻き込まれて一掃される……。自由な魂が宙をかすめて翔《かけ》る、空気に酔いながら鋭い声を発して空を横ぎる、燕《つばめ》の飛翔《ひしょう》のように。……歓喜、歓喜! もはや何物もない! おう、限りなき幸福!……
 時間は過ぎていった。夕暮になっていた。階段は闇《やみ》に包まれていた。雨のつぶが、河の平らな面《おもて》に丸い輪を描くと、流れが踊りつつそれを運んでいった。時おりは、木の枝が、黒い樹皮が、音もなく通りかかって、過ぎ去っていった。毒蜘蛛は、餌《えさ》を食いあきて、いちばん暗い片|隅《すみ》に引込んでしまった。――そして小さなクリストフは、よごれた蒼白い顔を幸福の色に輝かしながら、いつまでも軒窓の縁にもたれていた。彼は眠っていた。

     

           太陽は闇を被《かず》きて現われぬ……
               ――神曲、煉獄の巻、第三十章――

 我意を折らなければならなかった。痛烈な反抗心を執拗《しつよう》に押し通してはみたが、ついに彼の悪意は打擲《ちょうちゃく》にうち負けてしまった。毎日朝と晩に三時間ずつ、クリストフは責道具の前に引据えられた。注意と不愉快とにたまらなくなり、頬《ほお》や鼻に大粒の涙を流しながら、彼は白や黒の鍵《キイ》の上に小さな赤い手を動かした。音符を間違えることに打ちおろされる定規の下に、またその打擲よりいっそう忌わしい師の喚《わめ》き声の下に、彼の手は寒さに凍えてることがしばしばだった。音楽は嫌《きら》いだと彼は考えていた。それでも熱心に努めていた。その熱心さは、メルキオルを恐《こわ》がってるというせいばかりでもなかった。祖父のある言葉が彼に深い印象を与えていた。祖父は孫が泣くのを見て、重々しい調子で言ってきかした、人間の慰謝と光栄とのために与えられている最高最美の芸術のためになら、多少の苦しみは忍ぶに甲斐《かい》のあることだと。クリストフは]祖父から大人並に話しかけられるのを感謝していて、その質朴《しつぼく》な言葉に内心動かされた。彼の子供らしい堅忍と生まれながらの傲慢《ごうまん》とは、その言葉をよく受けいれた。
 しかしいかなる議論よりも、ある音楽的な情緒についての深い記憶の方がより強く、彼がいたずらに反抗せんと試みていたその厭《いや》な芸術に、一生涯彼を知らず知らずのうちに結びつけ、彼を奉仕せしめた。
 ドイツの風習として、この町にも一つの劇場があって、歌劇《オペラ》、喜歌劇《オペラコミック》、軽歌劇《オペレット》、正劇《ドラマ》、喜劇《コメディー》、俗謡劇《ヴォードヴィル》、その他およそ上演できるものならいかなる種類のものもいかなる体裁のものも皆演ぜられていた。開演は一週に三度で、晩の六時から九時までだった。ジャン・ミシェル老人は一度も見物を欠かしたことがなく、どの出物《だしもの》にたいしても同じ興味を示していた。一度孫をいっしょに連れてってやった。数日前から彼にその劇の内容を長々と語ってきかした。クリストフにはそれが少しも了解できなかった。しかし恐ろしいことが起こるということを感じた。そして見たくてたまらなくなりながらも、たいへん恐《こわ》がっていた。暴風雨が起こることを知っていて、雷に打たれはしないかを恐れていた。戦《いくさ》があることを知っていて、自分も殺されはすまいかとびくびくしていた。前日、寝床の中で、彼はほんとうに苦しんだ。開演の日になると、祖父が何かさしつかえで来られなくなればいいがと願いたいくらいだった。しかし時間が迫ってくるのに祖父がやって来ないと、非常に悲しくなりだして、たえず窓から覗《のぞ》いた。ついに老人はやって来、二人はいっしょに出かけた。彼は胸がどきどきした。舌が乾ききって、一言も物をいうことができなかった。
 彼らは家でしばしば話の種になってるその不思議な殿堂に到着した。入口でジャン・ミシェルはいく人もの知人に出会った。子供は彼にはぐれるのを非常に恐れて、強くその手にすがりついていた。そしてこんな場合にどうして皆が平然と話したり笑ったりしていられるか、少しもわからなかった。
 祖父は管弦楽《オーケストラ》の後ろの第一列の定席についた。彼は手摺《てすり》によりかかって、すぐにバスひきとのべつに話をやり出した。そこは彼の得意の壇場《だんじょう》だった。彼は音楽の権威だったから人々から謹聴された。彼はそれに乗じていた。図に乗ってるともいえるほどだった。クリストフの方は何にも聞くことができなかった。彼は芝居が待ち遠しくてたまらなかったし、宮殿のように思われる広間の光景に威圧され、恐ろしいほど込み合ってる看客に威圧されていた。皆の視線が自分に向けられてるように思って、後ろをふり返るだけの勇気もなかった。小さな帽子を膝《ひざ》の間にはさんでびくびくしながら、眼を丸くして不思議な幕を見つめていた。
 ついに柝《き》の音が三つ響いた。祖父は鼻をかんで、ポケットから台本《リヴレット》を取出した。彼はいつもその台本を丹念にたどることを欠かさないで、時としては舞台で演ぜられてることを忘れるくらいだったのである。管弦楽《オーケストラ》が始まった。最初の和音を聞くや否や、クリストフは心が落着くのを感じた。その音響の世界では、自分の家のような気がした。それから先はもう、舞台にどんな不思議なことが起ころうと、すべて自然であるように思われた。
 幕が上がって、厚紙の樹木やほんとうらしくない人物などが現われた。子供は感心して口をぼんやり開きながら眺めた。しかしびっくりしてはいなかった。それでも劇は、彼が思いもつかない夢のような近東の事柄だった。劇詩の筋は荒唐無稽《こうとうむけい》で、まったく訳がわからなかった。クリストフは何にも見分けることができなかった。彼はすべてを混同し、人物を取り違え、祖父の袖《そで》を引張っては、何も理解していないことがわかるような馬鹿《ばか》げた質問をやたらにした。しかも彼は退屈してないばかりでなく、夢中になって面白がっていた。つまらない台本《リヴレット》にもとづいて、みずから一つの小説を作り上げていたが、それは演ぜられてることとまったく無関係なものだった。舞台の出来事はたえずその小説と背馳《はいち》するので、また新たに筋を立て直さなければならなかった。しかし彼はそれに困らされはしなかった。舞台の上で種々な声を出して進展してゆく人物のうちから、自分の気に入る者を選んで、それに同情を寄せながら、その運命がどうなりゆくかと胸を震わして見守っていた。とくに彼の心を悩ましたのは、中年の美しい女であって、輝いた長い金髪をもち、眼が馬鹿に大きくて、素足で歩いていた。演出の驚くべき不自然さも、彼の気を少しもそこなわなかった。大きくでぶでぶ太ってる俳優らの醜怪な様子、二列に並んでるどこから見ても無格好な合唱団、所作の幼稚さ、喚《わめ》いて充血してる顔付、毛の乱れてる鬘《かつら》、テナー歌手の高い靴《くつ》の踵《かかと》、種々な顔料で顔を彩色してるその恋女の粉飾、そういうものをも、子供の鋭い眼は見落としていた。彼はちょうど、情熱のために相手の真相が眼につかない恋人のような状態になっていた。子供に特有な驚くべき幻想の力は、不快な感覚を中途で引止めて、それを適宜に変形さしていった。
 音楽がそういう奇跡を行なっていた。音楽はすべてのものを薄靄《うすもや》の大気に包み込んで、すべてを美しく気高く快くなした。人の心に激しい愛の欲求を伝えた。と同時に、そういう心の空虚を満さしてやるために、愛の幻をさしつけてくれた。小さなクリストフは激しい情緒に駆られていた。音楽の種々な言葉や身振や文句は、彼の心を落着かせなかった。彼はもう眼をあげる元気もなかった。よいのか悪いのかもわからなかった。赤くなったり蒼《あお》くなったりした。そして額には玉の汗が出てきた。まわりの人たちから自分の悩みが気づかれはすまいかとびくびくしていた。歌劇《オペラ》の四幕目になって、テナー歌手と主役女優《プリマドンナ》にその最も鋭い声を発揮させる機会を与えんために、免れがたい破局が恋人らの上に落ちかかってきた時、彼は息がつまるような気がした。風邪《かぜ》をひいた時のように喉《のど》が痛くなった。両手で首をかかえて、唾《つば》をのみ込むこともできなくなった。涙があふれてきた。幸いなことには、祖父も大して劣らないくらいに感動していた。彼は子供のような無邪気さで芝居に見とれていた。劇的場面になると、心の動揺を隠すために何気ない様子で咳《せき》をした。しかしクリストフにはよくわかった。彼はそれが嬉《うれ》しかった。おそろしく暑かった。眠気がさしてきた。たいへんすわり心地が悪かった。しかし彼はこんなことばかり考えていた。
「もっと長くつづくかしら。おしまいにならなければいいが!」
 そして突然、すべてが片づいた。なぜだか彼にはわからなかった。幕が降りた。皆立ち上がった。感興は中断された。
 二人の赤ん坊たる老人と子供とは、いっしょに夜のうちを帰途についた。なんという麗わしい夜だろう! なんという静かな月の光だろう! 二人とも頭の中にあることを味わいながら、黙っていた。ついに老人は言った[#「言った」は底本では「言つた」]。
「どうだ、面白かったかい。」
 クリストフは返辞をすることができなかった。彼はまだ激しい情緒に打たれていたし、その魅惑を破ることを恐れて口をききたくなかった。ようやく元気を出して、大きい溜息《ためいき》をつきながら低くつぶやいた。
「ええ、ええ!」
 老人は微笑《ほほえ》んだ。程へて彼はまた言った。
「音楽家の職業がどんなにりっぱなものであるかわかったかい。あんなりっぱな光景を創《つく》り出すのは、この上もなく名誉なことではないか。それはこの世で神様になることだ。」
 子供はびっくりした。まあ、あれを創り出したのは人間だったのか! 彼は夢にもそうだとは知らなかった。彼にはほとんど、ああいうものは独《ひと》りでにできあがったかのように思われ、自然の手になったもののように思われるのだった。……それが、いつか自分がなりたいと思ってるような、一個の人間、音楽家の手で! おう一日でも、ただ一日でもいいから、そうなりたいもんだ! そしたら……その後はどうなったってかまわない、死ぬなら死んでもいい! 彼は尋ねた。
「お祖父《じい》さん、あれをこしらえたのはなんという人なの?」
 祖父はフランソア・マリー・ハスレルのことを話してきかした。ドイツの若い芸術家で、ベルリンに住んでいて、昔祖父と知り合いだった。クリストフは耳を澄してきいていた。突然彼は言った。
「そしてお祖父さんは?」
 老人は身を震わした。
「なんだい?」と彼は尋ねた。
「お祖父さんもまた、あんなものをこしらえたことがあるの?」
「あるともさ。」と老人は気むずかしい声で言った。
 そして彼は口をつぐんだ。五、六歩してから深い溜息《ためいき》をもらした。それこそ生涯の悲しみの一つだった。彼は常に芝居のために書きたいと望んでいたが、いつも霊感《インスピレーション》に裏切られたのだった。紙挾《かみばさ》みにはたえず、自己流の一幕物か二幕物がはいっていた。しかしその価値についてはあまり自信がなくて、かつて判断に供するの勇気がなかった。
 彼らはそのままもう一言も口をきかないで、家に帰りついた。二人とも眠れなかった。老人は悲しんでいた。みずから慰めるために聖書を取上げた。――クリストフは寝床の中で、その晩の出来事をくり返してみた。些細《ささい》なことまで思い出した。素足の娘がまた眼の前に現われた。うとうとしかけると、音楽の一節が耳に響いて、管弦楽がそこに奏されてるかと思うほどはっきり聞えてきた。彼はぞっと身を震わした。頭が酔わされて、枕《まくら》の上に起き上がった。そして考えた。
「僕もいつかああいうものを書いてやろう。ああ、いつになったらそれができるかしら。」
 その時以来、彼はもはや一つの願いしかもたなかった。また芝居に行くことだった。そして勉強の褒美《ほうび》に芝居へ行かしてやると言われたので、いっそう熱心に勉強を始めた。彼はもう芝居のことしか考えていなかった。一週間の半分はこの前の芝居のことを考え、他の半分は次の芝居のことを考えた。病気になって芝居へ行けなくなりはすまいかとびくびくしていた。心配のあまり三、四の病気の徴候を感ずることもしばしばだった。その日になると、食事もろくろくできず、心配ごとでもあるかのようにいらいらして、何十遍となく時計を見に行き、いつまでも日が暮れそうにないような気がし、ついには、もう我慢がしきれなくなり、席がなくなるかもしれないと気遣《きづか》って、開場の一時間も前から出かけていった。そしてがらんとしてる広間へ一番にはいって行ったので、気が揉《も》めだした。観客が十分はいらないので、役者たちは芝居をよして席料を返すことにしたことも、二、三度あったと、彼は祖父から聞いていた。彼は客がやって来るのを待受けて、その数を数え、一人で考えていた。「二十三、二十四、二十五……ああ、まだ十分でない……いつまでも十分そろわないのではないかしら?」そして桟敷《さじき》や奏楽席にある著名な人がはいって来るのを見ると、心がいくらか軽くなった。彼は考えた。「あんな人なら追い返しはすまい。きっとあの人のために芝居をやるだろう。」――しかしそれが確かかどうかはわからなかった。ようやくほっと安心するのは、楽手たちが席についてからであった。それでもまだ彼は、幕が上がって、ある晩のように、出物《だしもの》を変えると述べられはすまいかと、最後の瞬間まで心配していた。小さな眼をきょろつかして、バスひきの譜面台を覗《のぞ》き込んでは、楽譜の表題が待ち受けてる曲のそれであるかどうか見ようとした。よく見た後でも、一、二分たつとまた、見違いをしたのではないか確かめるために覗いた……。楽長がまだ席についていなかった。きっと病気かもしれなかった……。幕の向うで人々が動き回っていた。話声や忙しい足音が聞えていた。何か起こったのではないかしら、思わぬ不幸がわいてきたのではないかしら……。また静かになった。楽長が自分の位置についた。すっかり準備が整ったらしかった……。でもまだ始まらない! いったいどうしたんだろう。――彼は待遠しくてじりじりしていた。――ついに合図の柝《き》の音が響いた。彼は胸がどきどきした。管弦楽は序曲を奏しだした。そしてクリストフは数時間の間、深い幸福のうちに浸った。その幸福を煩わすものはただ、もうおしまいになりはすまいかという考えばかりだった。

 それからしばらくして、音楽上の一事件がクリストフの考えを刺激した。彼を驚嘆せしめた最初の歌劇《オペラ》の作者たるフランソア・マリー・ハスレルが、やって来ることになった。そして自作の音楽会を指揮することになった。町じゅうの者が興奮した。この若い楽匠は、ドイツで激しい議論の種となっていた。そして半月ほどの間は、町じゅう彼の噂《うわさ》でもちきった。いよいよ彼が到着するとまた特別だった。メルキオルの友人やジャン・ミシェル老人の友人らは、たえず消息をもたらしてきた。この音楽家の習慣や風変わりの点について、彼らは種々な馬鹿げた噂を伝えていった。子供は熱心な注意を傾けてそれらの話を一々聞いていた。えらい人がやって来ている、この町にいる、自分と同じ空気を呼吸している。同じ舗石を踏んでいる、とそういう考えが、彼を無言の感激のうちに投げ込んでしまった。彼はもはや、その人に会いたいという希望ばかりに生きていた。
 ハスレルは大公爵から歓待を申出られて、その宮邸に足を止めていた。彼は稽古《けいこ》の指図をするために劇場へ行くほか、ほとんど外出しなかった。クリストフはその劇場へはいることを許されなかった。またハスレルはごく無精だったので、いつも大公爵の馬車で往来していた。でクリストフには、彼をよくみる機会がなかなかなかった。ただ一度通り道で、馬車の奥にその毛皮の外套《がいとう》を見かけることができたばかりだった。しかしそれだけのことにも、街路を待ち受けていて野次馬の中の第一列を占め、そこから押し出されないようにと、左右に激しく拳固《げんこ》を振り回しながら、数時間費したのだった。また彼は、楽匠の室だと教えられた宮邸の窓を窺《うかが》いながら半日を過ごして、ようやく自分を慰めていた。たいていは雨戸ばかりしか見えなかった。ハスレルは朝寝坊で、窓はたいてい午前中閉められたままだった。そのために、ハスレルは日の光にたえられないで常に暗闇の中で生活してるのだと、物知り顔の人々は言っていた。
 ついにクリストフは、その偉人に近づくことができた。それは公演の日だった。町じゅうの人が集まっていた。大公爵と廷臣らは、大きな貴賓席を占めていた。その桟敷《さじき》の上には、豊頬《ほうきょう》の天使が二人、足を踊らして、王冠を宙にささげていた。劇場のありさまはあたかも祭典のようだった。舞台は樫《かし》の枝や花咲いた月桂樹《げっけいじゅ》で飾られていた。多少手腕のある音楽家は皆、管弦楽団に加わるのを名誉としてた。メルキオルは自分の位置につき、ジャン・ミシェルは合唱団《コーラス》を指揮していた。
 ハスレルが現われると、四方から喝采《かっさい》が起こった。婦人たちは彼の姿をよく見るために立上がった。クリストフはじっと見つめた。ハスレルは若いすっきりした顔をしていたが、それもすでに多少ふくれて疲れていた。顳顬《こめかみ》のあたりは毛が薄くなっていた。縮れた金髪の間から、頭の頂上に早老の禿《はげ》が見えていた。青い眼は眼差《まなざし》がぼんやりしていた。小さな赤い口髯《くちひげ》の下に、皮肉そうな口が、眼に止まらないくらいの種々な動きにひきつって、じっとしてることは滅多になかった。背は高かった。そして、窮屈な気持のせいではないが、疲労のせいかあるいは退屈のせいかで、姿勢がしっかりしてはいなかった。ふらふらした大きな身体を、あるいはしとやかなあるいは荒っぽい身振りとともに、ちょうどその音楽のように波動させながら、自由気ままな軽快さで指揮していた。非常な神経質であることが見てもわかった。そしてその音楽は、彼自身の反映であった。躍りたった急激な彼の生命が、通例は無味平静な管弦楽の中にまではいり込んでいた。クリストフは息をはずませた。人の注目を受けはすまいかと恐れながらも、席にじっとしてることができなかった。身体を動かしたり、立上がったりした。音楽からいかにも激しいまた意外な振動を受けて、彼は頭や腕や足を動かすのを押えることができなかった。近くの人々は非常に迷惑して、できるだけ彼の乱暴な態度を避けようとした。それにまた全聴衆は、作品そのものよりもむしろその成功の方により多く魅せられて、感激しきっていた。終りに、拍手|喝采《かっさい》の嵐《あらし》が起こって、それとともにトロンペットは、ドイツの習慣として、勝利者に敬意を表するためその揚々たる響きをたてた。クリストフはそれらの名誉が自分に向けられたかのように、得意の念に躍《おど》り上がった。ハスレルの顔が子供らしい満足の色に輝いているのを、彼は見て楽しんだ。女は花を投げ、男は帽子を振った。聴衆は群り立って舞台の方へ押し寄せた。皆楽匠と握手をしたがっていた。感激した一人の婦人が彼の手を唇にもってゆくのを、また他の婦人が楽譜台の隅《すみ》に置かれてる彼のハンケチを盗んでるのを、クリストフは眼に止めた。クリストフ自身もまた、楽壇に上ってゆきたかった。しかしそれがなぜであるかはまったくわからなかった。というのは、もしその時ハスレルのそばにいたら、彼は感動のあまりすぐに逃げ出したであろうから。でも彼は自分とハスレルとを隔てる人々の着物や足の間に、自分の頭を梃《てこ》のようにつき込んでいた。――彼はあまり小さすぎた。舞台まで行くことができなかった。
 幸いにも、音楽会がすむと、ハスレルのために催される夜曲《セレナード》へ連れてゆくために、祖父が彼を探しに来てくれた。夜になっていた。炬火《たいまつ》がつけられていた。管弦楽団の人々はみなそこに集まっていた。話は先刻聴いた霊妙な作品のことばかりだった。宮邸の前に着くと、人々は楽匠の窓下で静かに準備をした。ハスレルも他の人々も皆、これからやろうとすることをよく承知していたくせに、妙に取り澄ました様子を装っていた。夜の麗わしい沈黙のうちに、ハスレルのある名高い曲が奏し出された。ハスレルは大公爵とともに窓に現われた。人々は彼らの名誉のために歓声を揚げた。彼らは二人とも敬礼を返した。大公爵から遣《つか》わされた一人の従僕がやって来て、楽員たちを宮邸の中へ案内した。彼らはいくつかの広間を通っていった。広間には壁画が描かれていて、兜《かぶと》をかぶった裸体の男が現わしてあった。皆赤い色をして、挑戦的な身振りをしていた。空は海綿に以た大きな雲で覆われていた。また、鉄板の腰衣をまとった男女の大理石像もあった。人々は足音も聞えないほど柔かな絨緞《じゅうたん》の上を歩いていった。そしてある一つの広間にはいると、そこは真昼間のように明るくて、りっぱな飲食物ののっている食卓が並んでいた。
 大公爵はそこにいた。しかしクリストフには見えなかった。ハスレルしか彼の眼にははいらなかった。ハスレルは楽員たちの方へ進んでき、彼らに礼を述べた。彼は適当な言葉を考え、ある文句につまり、滑稽な機知でそれを切りぬけて、皆の者を笑わした。人々は食事を始めた。ハスレルは四、五人の音楽家をわきに呼んだ。彼クリストフの祖父を見つけて、少しお世辞を言った。ジャン・ミシェルは彼の作品を実演してくれた最初の人々の一人だったことを、彼は覚えていたのである。そして、祖父の弟子であった一人の友人から、技倆のほどはしばしば聞いていたと、彼は言った。祖父は感謝の言葉を夢中に述べたてていた。あまりおおげさな賛辞で応答しているので、クリストフはいくらハスレルを崇拝しているとはいえ、そばで聞いていると恥ずかしくなるくらいだった。しかしハスレルは、そういう賛辞をごく快いまた自然なことだと思ってるらしかった。ついに祖父は、めちゃくちゃな言葉に迷い込んでしまって、クリストフの手を引張って、ハスレルに紹介した。ハスレルはクリストフに微笑《ほほえ》みかけ、何気なく彼の頭をなでてやった。それから、この子供が彼の音楽を好いてることを知り、彼に会うのを待ち焦れて数日来一晩も眠らなかったことを知ると、彼は子供を両腕にかかえて、やさしく種々なことを尋ねた。クリストフは嬉《うれ》しさのあまり真赤になり、感動のあまり口がきけなくて、彼の顔を見上げるだけの勇気もなかった。ハスレルはその頤《あご》をつかまえて、無理に顔を上げさした。クリストフは思いきって眺めた。ハスレルの眼はやさしくて笑っていた。で彼も笑い出した。それから彼は、慕《したわ》しい偉人の腕に抱かれてる身を非常に幸福に感じて、この上もなく幸福に感じて、はらはらと涙をこぼした。ハスレルはその率直な愛情に心を打たれた。彼はなお情深い様子をし、子供を抱きしめ、母親のようなやさしさで話しかけた。とともにまた、おかしな言葉をいったり、笑わせようとしてくすぐったりした。そしてクリストフは、涙を流しながらも笑わずにはおられなかった。間もなく彼はすっかり慣れきって、遠慮なくハスレルに答えた。自分から進んで、年来の友人同士であるかのように、あらゆるかわいい抱負を彼の耳にささやきだした。どんなにかハスレルのように音楽家になりたいこと、ハスレルのようにりっぱなものを作りたいこと、偉い人になりたいこと。平素恥ずかしがりやだった彼も、今は心からうち解けて話した。しかも何を言ってるのか自分でもわからないで、ただ恍惚《こうこつ》としていた。ハスレルはその饒舌《じょうぜつ》を笑っていた。彼は言った。
「大きくなったら、りっぱな音楽家になったら、ベルリンへ私を訪《たず》ねておいでよ。力になってあげるから。」
 クリストフはあまり嬉《うれ》しくて答えができなかった。ハスレルは彼をからかった。
「いやなの?」
 クリストフは厭《いや》じゃないとうなずくために、五、六度強く頭を動かした。
「では約束したね?」
 クリストフはまた無言の首肯《うなずき》を始めた。
「せめて私に抱きついておくれ。」
 クリストフはハスレルの首のまわりに両腕を投げかけ、力いっぱいにしめつけた。
「やあ、着物が濡《ぬ》れるじゃないか。もう放してくれ。鼻をかんだらどうだね。」
 ハスレルは笑っていた。そして手ずから、恥ずかしがりながらも嬉しがってる子供の鼻をかんでやった。彼は子供を下に降ろし、それから手を取って、食卓のところへ連れてゆき、そのポケットにいっぱい菓子をつめ込んでやり、放しながら言った。
「さよなら! 約束を覚えておいでよ。」
 クリストフは幸福の中に浸っていた。もはや他の世界は存在しなかった。彼はハスレルのあらゆる顔付や身振りをなつかしげに見守っていた。そして彼の一言に胸を打たれた。ハスレルは杯を手にして、何か口をきいていたが、その顔がにわかにひきつった、そして言った。
「今日のような愉快な日の喜びにも、われわれは敵を忘れてはいけません。人は決しておのれの敵を忘れてはいけません。われわれが蹂躙《じゅうりん》されなかったとしても、それは敵のせいではなかったのです。敵が蹂躙《じゅうりん》されないとしても、それはわれわれのせいではないでしょう。それゆえに今私は、乾杯の辞として、われわれが……その健康を祝したくない人々も世にはあるということを申したいのです。」
 人々は皆、その独特な乾杯の辞を喝采《かっさい》し興《きょう》がった。ハスレルも皆といっしょに笑い出して、上|機嫌《きげん》な様子に返った。しかしクリストフは当惑していた。自分の偉人の行動を論議することをみずから肯《がえん》じなかったとはいえ、その晩、晴れやかな顔付と輝かしい考えしか存すべからざる時に、氏がそういう厭なことに思いを走《は》せたのは、彼の気に入らなかった。けれども彼の印象は雑然たるものであった。極度の喜びと、祖父の杯で飲んだわずかなシャンパンのために、その印象はすぐに追い払われてしまった。
 帰る途中、祖父は独語《ひとりごと》をやめなかった。ハスレルから受けた賛辞に有頂天になっていた。ハスレルこそは一世紀に一人くらいしか見られないほどの天才だと叫んでいた。クリストフは黙り込んで、なつかしい陶酔の情を心に秘めていた。彼[#「彼」に傍点]が自分を接吻してくれた。彼[#「彼」に傍点]が自分を両腕に抱いてくれた、彼[#「彼」に傍点]はなんといういい人だろう! 彼[#「彼」に傍点]はなんという偉《えら》い人だろう!
「ああ!」と彼は小さな寝床の中で、ひしと枕をかき抱きながら考えた、「私は死んでもいい、あの人のためになら死んでもいい!」

 一夜、その小都会の空を過ぎていった輝いた流星は、クリストフの精神に決定的な影響を与えたのであった。幼年時代の間、それは生きた手本となって、その上に彼は眼を据えていた。わずか六歳の少年が、自分もまた音楽を書いてみようと決心したのは、この手本に基づいてであった。ほんとうのことをいえば、彼はすでに久しい以前から、みずから知らないで作曲していた。彼は作曲するためには、作曲してるとみずから知るまで待っていなかった。
 音楽家の心にとっては、すべてが音楽である。震え揺《ゆら》ぎはためくすべてのもの、照りわたった夏の日、風の吹く夜、流れる光、星の閃《ひら》めき、暴風雨、小鳥の歌、虫の羽音、樹々の戦《そよ》ぎ、好ましいあるいは厭《いや》らしい声、平素聞きなれてる、炉の音、戸の軋《きし》る音、夜の静寂の中に動脈をふくらす血液の音――すべて存在するものは皆音楽である。問題はそれを聞くということのみに存する。存在するもののかかる音楽は、ことごとくクリストフのうちに鳴り響いていた。彼が見るものはすべて、彼が感ずるものはすべて、音楽に変わっていた。彼はあたかも騒々しい蜂《はち》の巣のようであった。しかしだれもそれに気づかなかった。彼自身も気づかなかった。
 あらゆる子供のように、彼もたえず小声に歌っていた。いかなる時でも、いかなることをしている時でも――片足で飛びながら、往来を歩き回ってる時でも――祖父の家の床板《ゆかいた》の上に転がり、両手で頭をかかえて、書物の插絵に見入ってる時でも――台所のいちばん薄暗い片隅で、自分の小さな椅子《いす》にすわりながら、夜になりかかってるのに、何を考えるともなくぼんやり夢想してる時でも――常に、口を閉じ、頬《ほお》をふくらし、唇を震わして、始終つぶやいてる単調な音が、聞こえていた。いく時間たっても彼は倦《あ》きなかった。母はそれを気にも止めなかった。けれどやがて、彼女はたまらなくなって突然怒鳴りつけるのだった。
 彼はその半ば夢心地の状態に倦きてくると、動き出して音をたてたい欲求に駆《か》られた。すると、音楽を作り出して、それをあらんかぎりの声で歌った。彼はおのが生活のいかなる場合のための音楽をも皆こしらえ出していた。朝、家鴨《あひる》の子のように、盥《たらい》の中をかき回す時のためにも、音楽をもっていた。厭なピアノの前の腰掛に上る時のためにも、音楽をもっていた――そしてとくにそれから降りる時のためにも(この方の音楽はいっそう精彩あるものだった)。また、母親が食卓にスープを運ぶ時のためにも、音楽をもっていた――その時彼は、ファンファーレを鳴らして急《せ》きたてた。――食堂から寝室へ厳《おごそ》かにやって行くためには、揚々たる行進曲《マーチ》をみずから奏した。その場合時には、二人の弟とともに行列を組立てた。三人とも順々に並んで、堂々とねって歩き、各自に自分の行進曲をもっていた。しかしクリストフは、最もりっぱな曲を当然自分のものとしていた。右の多くの音楽のおのおのは、厳密にそれぞれの場合にあてはめられていた。クリストフは決してそれらをたがいに混同しようとはしなかった。他の者ならだれでもそれを取違えるかもしれなかった。しかし彼は明確にその音色を区別していた。
 ある日彼は、祖父の家で、頭をそり返し腹を前につき出して、踵《かかと》で調子をとりながら、室の中をぐるぐる回っていた。自作の曲の一つをやってみながら、心持が悪くなるほどいつまでもぐるぐる回っていた。――老人は髯《ひげ》を剃《そ》っていたが、その手を止めて、石鹸《せっけん》だらけな顔をつき出し、彼の方を眺めて言った。
「何を歌ってるんだい。」
 クリストフは知らないと答えた。
「も一度やってごらん。」とジャン・ミシェルは言った。
 クリストフはやってみた。どうしても先刻の節《ふし》が思い出せなかった。でも祖父から注意されてるのに得意になって、自分の美しい声をほめてもらいたく思いながら、歌劇《オペラ》のむずかしい歌を自己流に歌った。しかし老人が求めてるのはそんなものではなかった。ジャン・ミシェルは口をつぐんで、もう彼に取り合わない様子をした。それでも、子供が隣りの室で一人で遊んでる間、室の扉を半ば開け放したままにしておいた。
 数日後、クリストフは自分のまわりに椅子《いす》を丸く並べて、芝居の断片的な記憶でこしらえ上げた音楽劇を演じていた。真面目《まじめ》くさった様子で、芝居で見たとおりにメヌエットの節《ふし》に合して、テーブルの上に掛かってるベートーヴェンの肖像へ向い、足取りや敬礼をやっていた。そして足先で回転をしてふり向くと、こちらを眺めてる祖父の頭が、半開きの扉から見えた。彼は祖父に笑われてると思った。たいへん極り悪くなって、ぴたりとよした。そして窓のところへ走って行き、窓ガラスに顔を押しつけて、何か夢中に眺めてるようなふうを装った。しかし老人はなんとも言わなかった。彼の方へやって来て抱擁《ほうよう》してくれた。クリストフは老人が満足しているのをよく見てとった。彼の小さな自尊心は、そういう好意を受けると動かないではおれなかった。彼はかなり機敏だったので、自分がほめられたのをさとった。しかし、祖父は自分のうちの何をいちばんほめたのか、それがよくわからなかった。戯曲家としての才か、音楽家としての才か、歌手としての才か、あるいは舞踏者としての才か。彼は最後のものと思いたかった、なぜならそれを尊重していたから。
 それから一週間たって、彼がすっかり忘れてしまった時になって、祖父は彼に見せるものがあると変な様子で言った。そして机をあけて、中から一冊の楽譜を取出し、それをピアノの譜面台にのせ、弾《ひ》いてごらんと子供に言った。クリストフはたいへん困ったが、どうかこうか読み解いた。その帳面は、老人の太い字体でとくに注意して書かれたものだった。冒頭は輪や花形で飾ってあった。――やがて、クリストフのそばにすわってページをめくってやってた祖父は、それがなんの音楽であるか尋ねた。クリストフは演奏にあまり夢中になっていて、何をひいてるやらわからなかったので、知らないと答えた。
「気をつけてごらん。それがわからないかね。」
 そうだ、確かに知ってると彼は思った。しかしどこで聞いたのかわからなかった。……祖父は笑っていた。
「考えてごらん。」
 クリストフは頭を振った。
「わからないよ。」
 ほんとうをいえば思い当たることがあった。どうもその節《ふし》は……という気がした。だが躊躇《ちゅうちょ》された……そうだと言いたくなかった。
「お祖父《じい》さん、わからないよ。」
 彼は顔を赤くしていた。
「馬鹿な子だね。自分のだということがわからないのかい。」
 彼は確かにそうだとは思っていた。しかしそうはっきり言われるのを聞くとはっとした。
「ああ、お祖父《じい》さん!……」
 老人は顔を輝かしながら、彼にその音譜を説明してやった。
「それは詠唱曲《アリア》だ。火曜日にお前が床の上に転《ころ》がって歌っていたものだ。――行進曲《マーチ》。先週、も一度やってごらんと言ってもお前が思い出せなかったものだ。――メヌエット。肱掛椅子《ひじかけいす》の前で踊っていたものだ。……ご覧。」
 表紙には、みごとなゴジック字体で書いてあった。
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少年の快楽――詠唱曲《アリア》、メヌエット、円舞曲《ワルツ》、および、行進曲《マーチ》。――ジャン・クリストフ・クラフト作品※[#ローマ数字1、1-13-21]。
[#ここで字下げ終わり]
 クリストフは眩《まぶ》しかった。自分の名、そのりっぱな表題、その大きな帳面、自分の作品、今それを見ようとは!……彼はまだ口ごもっていた。
「ああ、お祖父さん! お祖父さん!……」
 老人は彼を引寄せた。クリストフはその膝《ひざ》の上に身を投げ、その胸の中に顔を隠した。彼は嬉《うれ》しさに真赤になっていた。老人は、彼よりもなおいっそう嬉しかったが、わざと平気を装った調子で――感動しかかってることにみずから気づいていたから――言った。
「もちろん私が伴奏を加えたし、また歌のキャラクテールに和声《ハーモニー》を入れておいた。それから……(彼は咳《せき》をした)……それから、メヌエットにトリオを加えた。なぜなら……なぜなら、それが習慣だから……それに……とにかく、悪くなったとは思わないよ。」
 彼はその曲をひいた。――クリストフは祖父と共作したことがたいへん得意だった。
「では、お祖父《じい》さん、あなたの名前も入れなけりゃいけないよ。」
「それには及ばないさ。お前より他《ほか》の人に知らせる必要はない。ただ……(ここで彼の声は震えた)……ただ、後になって、私《わし》がもういなくなった時、お前はこれを見て、お前の年取ったお祖父さんを思い出してくれるだろう、ねえ! お祖父さんを忘れやしないね。」
 あわれな老人はすっかり言いきれなかった。彼は自分より長い生命があるに違いないと感じた孫の作品中に、自分の拙《つたな》い一節《ひとふし》を插入するという、きわめて罪ない楽しみを、制することができなかったのである。けれども、今から想像してるその光栄に与《あずか》りたいという彼の願望は、いたって謙譲な哀れ深いものだった。なぜなら、彼はまったく死滅してしまわないために、おのれの思想の一片を無名で残しておけば、それで満足していたから。――クリストフはいたく感動して、彼の顔にやたらに接吻した。老人はますます心を動かされて、彼の頭を抱きしめた。
「ねえ、思い出してくれるだろうね。今後、お前が立派な音楽家となり、偉い芸術家となって、一家の光栄となり、芸術の光栄となり、祖国の光栄となった時に、有名になった時に、お前を最初に見現わし、お前の将来を予言したのは、この年とったお祖父さんだったということを、思い出してくれるだろうね。」
 彼は自分の言葉を聞きながら、眼に涙をたたえていた。しかし彼はそういう気弱い様子を見せたくなかった。激しく咳払いをし、気むずかしい様子をし、原稿を大事そうにしまいながら、子供を帰した。

 クリストフは嬉《うれ》しさに我を忘れて家へ帰っていった。小石は彼のまわりに踊っていた。ところが家の者から受けた待遇は、彼の酔を少しさましてしまった。彼がすっかり得意になって、自然に急《せ》きこんで音楽上の手柄話を始めると、頭から両親に怒鳴りつけられた。母は彼をひやかした。メルキオルは、あの老人は気違いで、子供のことにおせっかいを出すより自分の身に注意する方がいい、と言い放った。またクリストフの方では、そんな児戯に類したことには取合わずに、すぐさまピアノに向かって、四時間の練習をし、父親を喜ばすのがほんとうだそうだった。まず第一に、早く弾《ひ》き方を覚ゆることに努むべきであって、作曲などということは、もうこれ以上することがないという時になって、それから取りかかっても遅くはないそうだった。
 それらの賢い言葉から考えると、メルキオルは、子供のうちに早熟な高慢心が増長するの危険を、あらかじめ防いでやるつもりでいるらしくも思われるのだったが、実はそうではなかった。むしろその反対であるのをすぐに示すことになった。しかし彼は、音楽に表現すべきなんらの観念をもかつてみずからもったことがなかったし、また表現しようという少しの欲求をももったことがなかったので、演奏の技倆に自惚《うぬぼ》れたあまりついには、作曲は第二義的のものであると考え、演奏者の手腕のみが作曲にすべての価値を与えるものだと考えるようになっていた。もちろん彼とて、ハスレルのような大作曲家によつて惹起《ひきお》こされる感激に、無感覚ではなかった。世人の歓迎にたいしては、いつも成功ということにたいして感ずる尊敬の念をいだいた――人知れず多少の嫉妬《しっと》を交えた尊敬の念を。なぜなら、それらの喝采《かっさい》を横取りされたような気がしていたから。しかしまた、偉い名手の成功も、それに劣らずはなばなしいものであって、快い媚惑《びわく》的な結果からいえば、さらに個人的なさらに豊かなものであるということを、経験上知っていた。彼は楽匠らの才能に深い敬意を表するふうを装っていたが、しかし彼らの知力と品行とに悪評を与えるようなおかしな逸話は、いつも喜んでしゃべり回っていた。彼は演奏技倆を芸術の最高点においていた。なぜなら、彼自身の言によると、舌は人体の最も高尚な部分であるということは明らかな事実で、言葉を伴わない思想はなんの役にもたたないし、演奏を伴わない音楽はなんの役にもたたないということも、知れわたった事実であった。
 がとにかく、彼がクリストフに与えた訓戒の理由はどうであったにせよ、その訓戒は、祖父の賛辞に危く失いかけていた平衡を、子供に取りもどさせるのに無益ではなかった。否それでも足りないくらいだった。クリストフはやはり、祖父の方が父よりもはるかに知力がすぐれてると判断していた。そして厭《いや》な顔をせずにピアノに向かうのも、父の言葉に従うためであるというよりむしろ、機械的に指を鍵盤の上に走らせながら、いつものとおり勝手に夢想に耽《ふけ》らんがためであった。いつまでも終ることのない練習をなしながら、彼は高慢な声が自分のうちでくり返すのを聞いていた。「おれは作曲家だ、偉い作曲家だ。」
 その日以来彼は、作曲家であったから、作曲にとりかかった。字を書くこともろくに知らないうちから、家計簿の紙をもぎ取り、四分音符や八分音符を一生懸命に書きちらした。しかし、自分の考えてることを知るために、またそれをはっきり書き現わすために、非常に骨折っていたので、ついには、何かを考えようとする時以外には、もう何も考えなくなってしまった。それでも彼はやはり楽句を組立てようと力んでいた。そして彼はもとより音楽家だったから、まだなんの意味をもなさないものではあったがともかくも楽句をこしらえ出した。すると彼は揚々としてそれを祖父のもとへもって行った。祖父は嬉《うれ》し涙を流した――彼はもう年を取ったので涙もろかった――そして素敵なものだと言ってくれた。
 彼はまったく甘やかされて駄目《だめ》になるところだった。しかし幸いにも、生まれつき聡明な性質は、ある一人の男の影響に助けられて、彼を救い上げた。その男の方では、だれかに影響を与えようなどとはみずから思ってもいなかったし、だれの眼から見ても着実の見本にしかすぎないのであった。――それはルイザの兄であった。
 彼はルイザと同じく小柄で、痩《や》せて、ひ弱で、少し猫背《ねこぜ》だった。年齢はよくわからなかった。四十歳を越してるはずはなかったが、見たところでは五十歳かその上にも思われた。皺《しわ》寄った赤味がかった小さな顔をして、人のよさそうな青い眼は、やや色褪《あ》せた瑠璃草《るりそう》のようにごく蒼白《あおじろ》かった。隙間《すきま》風が当たるのを恐れてどこででも寒そうに帽子をかぶっていたが、その帽子をぬぐと、円錐《えんすい》形の赤い小さな禿頭《はげあたま》が現われた。クリストフと弟たちはそれを面白がった。髪の毛をどうしたかと尋ねたり、メルキオルの露骨な戯言《ざれごと》に乗せられて禿《はげ》をたたくぞとおどかしたりしながら、彼らはいつもそのことで彼をからかって倦《あ》きなかった。すると彼はまっ先に笑い出して、されるままになって少しも怒らなかった。彼は小さな行商人であった。村から村へと渡り歩いていた。背にかついでる大きな梱《こり》の中には、あらゆる物がはいっていた、香料品、紙類、糖菓類、ハンケチ、襟巻《えりまき》、履物《はきもの》、罐詰《かんづめ》、暦《こよみ》、小唄《こうた》集、薬品など。家の人たちは幾度も、ちょっとした店の株を、雑貨屋や小間物屋を買い与えて、そこに落着くように勧めたことがあった。しかし彼は腰を据えることができなかった。夜中に起き上がって、戸の下に鍵を置き、梱《こり》をかついで出かけてしまった。いく月もつづいて姿を見せなかった。それからまたもどって来た。夕方、だれかが戸にさわる音がした。扉が少し開いた。そして、丁寧《ていねい》に帽子をぬいだ小さな禿頭《はげあたま》が、人のいい眼付とおずおずした微笑といっしょに、そこに現われた。
「皆さん今晩は、」と彼は言った。はいる前によく靴《くつ》を拭《ふ》き、皆に一人一人年長順に挨拶《あいさつ》をし、室のいちばん末席に行ってすわった。そこで彼はパイプに火をつけ、背をかがめて、例の悪洒落《わるじゃれ》の嵐《あらし》が過ぎ去るのを静かに待った。二人のクラフト、祖父と父とは、彼にたいして嘲弄《ちょうろう》的な軽蔑《けいべつ》をいだいていた。その矮小《わいしょう》な男が彼らにはおかしく思われた、そして行商人という賤《いや》しい身分に自尊心を傷つけられていた。彼らはそのことをあからさまに見せつけていた。しかし彼は気づかないらしかった。彼らに深い敬意を示していた。そのために彼らはいくらか和らげられた。とくに老人の方は、他人が示してくれる尊敬にいたく感じやすくて、気分を和げられた。彼らはルイザがそばで顔を真赤にするほどひどい戯言《ざれごと》を浴せかけて、それで満足していた。ルイザはクラフト家の人たちのすぐれてることを議論なしにいつも承認していたから、夫と舅《しゅうと》との方が不当だとは夢にも思っていなかった。しかし彼女は兄をやさしく愛していたし、兄も彼女に無言の敬愛をいだいていた。彼らは二人きりで他に身寄りの者もなく、二人とも生活に虐《しいた》げられさいなまれて惨《みじ》めな姿になっていた。人知れず忍んできた同じ辛苦とたがいの憐憫《れんびん》との絆《きずな》が、悲しいやさしみをもって二人をいっしょに結びつけていた。生きるために、愉快に生きるために堅固にできあがってる、頑丈《がんじょう》な騒々しい荒っぽいクラフト家の人たちの間にあって、いわば人生の外部か傍《かたわら》かに捨てられたこの弱い善良な二人は、かつて一言も口には出さなかったが、たがいに理解したがいに憐《あわ》れみ合っていた。
 クリストフは幼年の残酷な軽佻《けいちょう》さで、父と祖父とに倣《なら》ってこの小商人を軽蔑していた。おかしな玩具《おもちゃ》かなんぞのように彼を面白がっていた。馬鹿げた意地悪さで彼をからかっていた。それを彼は泰然と落着き払って我慢していた。けれどもクリストフは、みずから知らず知らずに彼を好んでいた。まず第一に、思うままになる柔順な玩具として彼を好きだった。それからまた、菓子か絵か面白い新案物か、待ち甲斐《がい》のある何かいいことがいつもあったので、彼を好きだった。その小男がもどって来るのは子供たちの喜びだった、いつも思いがけない余得があったから。彼はいかにも貧乏ではあったが、どうにか工面をして一人一人に土産《みやげ》物をもってきてくれた。そして家の人々の祝い日をそれぞれ忘れたことがなかった。祝日にはきまって姿を見せた。そしてポケットから、心をこめて選んだかわいい贈物を取出した。だれも礼をいうことさえ忘れるほどそれに慣れきっていた。そして彼は贈物をするという楽しみで十分|報《むく》われてるらしかった。しかしクリストフは、いつもよく眠れなかったし、夜の間に昼間の出来事を頭の中で反覆させるのが常だったので、時々、叔父はたいへん親切だと考えることがあった。そしてその憐《あわ》れな男にたいして感謝の念がこみ上げてきた。しかし昼になると、もう愚弄《ぐろう》することしか考えないで、少しもその様子を示さなかった。その上クリストフはまだあまり小さかったので、善良さの価値が十分にわからなかった。子供の言葉においては、善良と馬鹿とはほとんど同意義語である。叔父《おじ》ゴットフリートはその生きた証拠らしかった。
 ある晩、メルキオルが夕食をしに町に出かけた時、ゴットフリートは下の広間に一人残っていたが、ルイザが二人の子供を寝かしてる間に、外に出て、数歩先の河岸に行き、そこにすわった。クリストフはひまだったのでその後について行った。そしていつものとおり、子犬のようにじゃれついて彼をいじめたあげく、ついに息を切らして、彼の足下の草の上に身を転がした。腹這《はらば》いになって顔を芝生《しばふ》に埋めた。息切れが止まると、また何か悪口を言ってやろうと考えた。そして悪口が見つかったので、やはり顔を地面に埋めたまま、笑いこけながらそれを大声に言ってやった。なんの返辞もなかった。その沈黙にびっくりして、彼は頭をあげ、その面白い戯言《ざれごと》をふたたび言ってやろうとした。すると彼の眼はゴットフリートの顔に出会った。その顔は、金色の靄《もや》の中に消えてゆく太陽の名残《なご》りの光りに照らされていた。クリストフの言葉は喉《のど》元につかえた。ゴットフリートは眼を半ば閉じ、口を少し開いて、ぼんやり微笑《ほほえ》んでいた。彼の痛ましい顔はなんともいえぬ誠実さを帯びていた。クリストフは頬杖《ほおづえ》をついて彼を見守り始めた。夜になりかかっていた。ゴットフリートの顔は少しずつ消えていった。あたりはひっそりとしていた。ゴットフリートの顔に反映してる神秘的な印象に、クリストフも巻きこまれていった。地面は影に包まれ、空は明るかった。星が見えだしていた。河の小波《さざなみ》が岸にひたひたと音をたてていた。子供は気がぼんやりしてきた。眼にも見ないで草の小さな茎を噛《か》んでいた。蟋蟀《こおろぎ》が一匹そばで鳴いていた。彼は眠りかかるような気持[#「気持」は底本では「気待」]になった。……と突然暗い中で、ゴットフリートが歌いだした。胸の中で響くような朧《おぼ》ろな弱い声で歌った。少し離れると聞こえないくらいの声だった。しかしそれには心|惹《ひ》かるる誠がこもっていた。声高に考えてるともいえるほどだった。あたかも透明な水を通してのように、その音楽を通して、彼の心の奥底まで読み取られる、ともいえるほどだった。クリストフはかつてそんなふうに歌われるのを聞いたことがなかった。またかつてそんな歌を聞いたことがなかった。ゆるやかな簡単な幼稚な歌であって、重々しい寂しい多少単調な足どりで、決して急ぐことなく進んでいった――長い沈黙を伴って――それからまた行方《ゆくえ》もかまわず進みだし、夜のうちに消えていった。ごく遠くからやって来るようで、どこへ行くのかわからなかった。その朗らかさの中には惑乱が満ちていた。平和な表面の下には、長い年月の苦悶《くもん》が眠っていた。クリストフはもう息もつかず、身を動かすこともできないで、感動のあまり冷たくなっていた。歌が終ると、ゴットフリートの方へはい寄った。そして喉《のど》をかすらして尋ねた。
「叔父《おじ》さん!……」
 ゴットフリートは答えなかった。
「叔父さん!」と子供はくり返して、彼の膝に両手と頤《あご》とをのせた。
 ゴットフリートのやさしい声が言った。
「坊や……。」
「それはなんなの、叔父さん! 教えておくれよ。叔父さんが歌ったのはなんなの?」
「知らないよ。」
「なんだか言っておくれよ。」
「知らないよ。歌だよ。」
「叔父さんの歌かい。」
「おれんなもんか、馬鹿な!……古い歌だよ。」
「だれが作ったの?」
「わからないね……。」
「いつできたの?」
「わからないよ……。」
「叔父《おじ》さんが小さい時分にかい?」
「おれが生まれる前だ、おれのお父さんが生まれる前、お父さんのお父さんが生まれる前、お父さんのお父さんのまたお父さんが生まれる前……。この歌はいつでもあったんだ。」
「変だね! だれもそんなことを言ってくれなかったよ。」
 彼はちょっと考えた。
「叔父さん、まだ他のを知ってるかい?」
「ああ。」
「も一つ歌ってくれない?」
「なぜも一つ歌うんだ? 一つでたくさんだよ。歌いたい時に、歌わなけりゃならない時に、歌うものだ。面白半分に歌っちゃいけない。」
「だって、音楽をこしらえる時には?」
「これは音楽じゃないよ。」
 子供は考えこんだ。よくわからなかった。でも彼は説明を求めはしなかった。なるほどそれは、音楽では、他の歌みたいに音楽ではなかった。彼は言った。
「叔父《おじ》さん、叔父さんはこしらえたことがあるかい?」
「何をさ?」
「歌を。」
「歌? なあにどうしておれにできるもんか。それはこしらえられるもんじゃないよ。」
 子供はいつもの論法で言い張った。
「でも、叔父さん、一度はこしらえたに違いないよ。」
 ゴットフリートは頑《がん》として頭を振った。
「いつでもあったんだ。」
 子供は言い進んだ。
「だって、叔父さん、他《ほか》のを、新しいのを、こしらえることはできないのかい?」
「なぜこしらえるんだ? もうどんなんでもあるんだ。悲しい時のもあれば、嬉《うれ》しい時のもある。疲れた時のもあれば、遠い家のことを思う時のもある。自分が賤しい罪人《つみびと》だったから、虫けらみたいなつまらない者だったからといって、自分の身が厭《いや》になった時のもある。他人が親切にしてくれなかったからといって、泣きたくなったときのもある。天気がいいからといって、そしていつも親切で笑いかけてくださるような神様の大空が見えるからといって、心が楽しくなった時のもある。……どんなんでも、どんなんでもあるんだよ。なんで他のをこしらえる必要があるもんか。」
「偉い人になるためにさ!」と子供は言った。彼は祖父の教訓とあどけない夢想とに頭が満されていた。
 ゴットフリートは穏かな笑いをちょっと見せた。クリストフは少しむっとして尋ねた。
「なぜ笑うんだい!」
 ゴットフリートは言った。
「ああおれは、おれはつまらない者さ。」
 そして子供の頭をやさしくなでながら尋ねた。
「じゃあお前は偉い人になりたいんだな。」
「そうだよ。」とクリストフは得意げに答えた。
 彼はゴットフリートからほめられることと信じていた。しかしゴットフリートはこう答え返した。
「なんのために?」
 クリストフはまごついた。考えてから言った。
「りっぱな歌をこしらえるためだよ!」
 ゴットフリートはまた笑った。そして言った。
「偉い人になるために歌をこしらえたいんだね、そして歌をこしらえるために偉い人になりたいんだね。お前は、尻尾《しっぽ》を追っかけてぐるぐる回ってる犬みたいだ。」
 クリストフはひどく癪《しゃく》にさわった。他の時なら、いつも嘲弄《ちょうろう》している叔父《おじ》からあべこべに嘲弄されるのに、我慢ができなかったかもしれない。そしてまた同時に、理屈で自分を困らすほどゴットフリートが利口であろうとは、かつて思いも寄らないことだった。彼はやり返してやるべき議論か悪口かを考えたが、何も見当たらなかった。ゴットフリートはつづけて言った。
「おまえがもし、ここからコブレンツまでもあるほど偉大な人になったにしろ、たった一つの歌もとうていできやすまい。」
 クリストフはむっとした。
「もしこしらえたいと思ったら!……」
「思えば思うほどできないもんだ。歌をこしらえるには、あのとおりでなけりゃいけない。お聴《き》きよ……。」
 月は、野の向うに、丸く輝いてのぼっていた。銀色の靄《もや》が、地面に低く、また鏡のような水の上に、漂っていた。蛙《かえる》が語り合っていた。牧場の中には、蟇《がま》の鳴く笛の音の旋律《メロディ》が聞こえていた。蟋蟀《こおろぎ》の鋭い顫音《トレモロ》は、星の閃《ひらめ》きに答えてるかと思われた。風は静かに、榛《はん》の木の枝を戦《そよ》がしていた。河の上方の丘から、鶯《うぐいす》のか弱い歌がおりてきた。
「何を歌う必要があるのか?」とゴットフリートは長い沈黙の後にほっと息をして言った――(自分自身に向かって言ってるのかクリストフに向かって言ってるのかわからなかった)――「お前がどんなものをこしらえようと、あれらの方がいっそうりっぱに歌ってるじゃないか。」
 クリストフは幾度もそれら夜の音を聞いていた。しかしかつてこんなふうに聞いたことはなかった。ほんとうだ、何を人は歌う必要があるのか?……彼は心がやさしみと悲しみとでいっぱいになってくるのを感じた。牧場を、河を、空を、親しい星を、胸にかき抱きたかった。そして彼は叔父《おじ》ゴットフリートにたいする愛情に浸された。今は皆のうちで、ゴットフリートがいちばんよく、いちばん賢く、いちばんりっぱに思われた。いかに彼を見誤っていたかを考えた。自分に見誤られたために叔父は悲しんでいると考えた。彼は後悔の念でいっぱいになった。こう叫びたい気がした。「叔父さん、もう悲しんではいやだ! もう意地悪はしないよ。許しておくれよ。僕は叔父さんが大好きだ!」しかし彼はあえて言い得なかった。――そしていきなり、彼はゴットフリートの腕に身を投げた。しかし文句が出なかった。彼はただくり返した。「ぼくは叔父さんが大好きだ!」そして心こめてひしと抱きしめた。ゴットフリートは驚きまた感動して、「なんだ? なんだ?」とくり返し、同じく彼を抱きしめた。――それから、彼は立ち上がり、子供の手を取り、そして言った、「帰らなけりゃならない。」クリストフは叔父から理解されなかったのではないかしらと、また悲しい気持になった。しかし二人が家に着いた時、ゴットフリートは彼に言った。「もしよかったら、また晩に、神様の音楽をききにいっしょに行こう。また他《ほか》の歌も歌ってあげよう。」そしてクリストフは、感謝の念にいっぱいになって、別れの挨拶《あいさつ》をしながら彼を抱擁した時、叔父が理解してくれてることをよく見てとった。
 それ以来、二人は夕方、しばしばいっしょに散歩に出かけた。彼らは河に沿ったり野を横切ったりして、黙って歩いた。ゴットフリートはゆるやかにパイプをくゆらしていた。クリストフは少し影におびえて、彼に手を引かれていた。彼らは草の中にすわった。しばらく沈黙の後、ゴットフリートは星や雲のことを話してくれた。土や空気や水の息吹《いぶ》き、また飛んだり這《は》ったり跳ねたり泳いだりしてる、暗闇の中でうよめく小世界の生物の、歌や叫びや音、また雨や天気の前兆、また夜の交響曲《シンフォニー》の無数の楽器、それらのものを一々聞き分けることを教えてくれた。時とすると、悲しい節《ふし》や楽しい節を歌ってくれた。しかしそれはいつも同じ種類のものであった。クリストフはそれをきいていつも同じ切なさを感じた。ゴットフリートは決して一晩に一つの歌きり歌わなかった。頼まれても快く歌わないことを、クリストフは知っていた。歌いたい時自然に出てくるのでなければならなかった。黙って長い間待っていなければならないことが多かった。そして「もう今晩は歌わないんだろう……」とクリストフが考えてる時に、ゴットフリートは歌い出すのだった。
 ある晩、ゴットフリートが確かに歌ってくれそうもない時、クリストフは自作の小曲を一つ彼に示そうと思いついた。作るのにたいへん骨折ったものであり、得意になってるものであった。自分がいかに芸術家であるかを見せつけたかった。ゴットフリートは静かに耳を傾けた。それから言った。
「実にまずいね、気の毒だが。」
 クリストフは面目を失って、答うべき言葉も見出さなかった。ゴットフリートは憐れむように言った。
「どうしてそんなものをこしらえたんだい。いかにもまずい。だれもそんなものをこしらえろとは言わなかったろうにね。」
 クリストフは憤りのあまり真赤になって言い逆った。
「お祖父《じい》さんはぼくの音楽をたいへんいいと思ってるよ。」と彼は叫んだ。
「ああ!」とゴットフリートは平気で言った、「そりゃ道理《もっとも》に違いない。あの人はたいへん学者だ。音楽に通じてる。ところがおれは音楽をよく知らないんだ。」
 そしてちょっと間をおいて言った。
「だがおれは、たいへんまずいと思う。」
 彼は穏かにクリストフを眺め、その不機嫌《ふきげん》な顔を見、微笑《ほほえ》んで言った。
「他《ほか》にもこしらえた節《ふし》があるかい。今のより他のものの方がおれには気に入るかもしれない。」
 クリストフは他の節が最初のものの印象を実際消してくれるかもしれないと考えた。そしてあるたけ歌った。ゴットフリートはなんとも言わなかった。彼はおしまいになるのを待っていた。それから、頭を振って、深い自信ある調子で言った。
「なおまずい。」
 クリストフは唇《くちびる》をくいしめた。頤《あご》が震えていた。泣き出したくなっていた。ゴットフリートは自分でもまごついてるように言い張った。
「実にまずい!」
 クリストフは涙声で叫んだ。
「では、どうしてまずいというんだい?」
 ゴットフリートは正直な眼付で彼を眺めた。
「どうしてって?……おれにはわからない……お待ちよ……実際まずい……第一、馬鹿げてるから……そうだ、そのとおりだ……馬鹿げてる、なんの意味もなさない……そこだ。それを書いた時、お前は何もいうべきことをもっていなかったんだ。なぜそんなものを書いたんだい?」
「知らないよ。」とクリストフは悲しい声で言った。「美しい楽曲を書きたかったんだよ。」
「それだ。お前は書くために書いたんだ。偉い音楽家になるために、人からほめられたいために、書いたんだ。お前は高慢だった、お前は嘘《うそ》をついた、それで罰を受けたんだ……そこだ! 音楽では、高慢になって嘘をつけば、いつでも罰を受ける。音楽は謙遜《けんそん》で誠実であることを望む。もしそうでなかったら、音楽はなんだろう? 神様にたいする不信だ、冒涜《ぼうとく》だ、正直な真実なことをいうために美しい歌をわれわれに贈ってくだすった神様にたいしてね。」
 彼は子供の悲しみに気がついて、抱擁してやろうとした。しかしクリストフは怒って横を向いた。そしていく日も不機嫌《ふきげん》な顔を見せた。彼はゴットフリートを憎んでいた。――しかし、「あいつは馬鹿だ、何を知るもんか! ずっと賢いお祖父《じい》さんが、僕の音楽を素敵だと言ってるんだ」といくらみずからくり返しても甲斐《かい》がなかった。――心の底では、叔父の方が道理だと彼は知っていた。そしてゴットフリートの言葉は彼のうちに刻み込まれていた。彼は嘘をついたのが恥ずかしかった。
 それで、彼はしつこく恨みを含んでいたものの、音楽を書く時には、今やいつでも叔父のことを考えていた。そしてしばしば、ゴットフリートにどう思われるだろうかと考えると恥ずかしくなって、書いてしまったものを引裂くこともあった。そういう気持を押しきって、全然誠実ではないとわかってるある節を書く時には、注意深く叔父に隠していた。彼は叔父の判断をびくびくしていた。そしてゴットフリートが、「さほどまずくはない……気に入った……」と、ただそれだけ楽曲の一つについて言ってくれると、彼は嬉《うれ》しくてたまらなかった。
 また時には、意趣返しに、大音楽家の曲調を自分のだと偽って、たちの悪い悪戯《いたずら》をやることもあった。そしてゴットフリートがたまたまそれをけなすと、彼は小躍《こおど》りして喜んだ。しかしゴットフリートはまごつかなかった。クリストフが手をたたいてまわりを喜んではね回るのを見ながら、彼は人のよさそうに笑っていた。そしていつも例の持論に立ちもどった。「それはよく書いてあるかもしれない、しかしなんの意味ももってはいない。」――かつて彼は家で催される小演奏会に臨席するのを好まなかった。楽曲がいかほどりっぱであろうと、彼は欠伸《あくび》をやりだして、退屈でぼんやりしたふうをしていた。やがて辛抱できないで、こっそり逃げ出した。彼はいつも言っていた。
「ねえ、坊や、お前が家の中で書くものは、みんな音楽じゃない。家の中の音楽は、室内の太陽と同じだ。音楽は家の外にあるのだ、神様のさわやかな貴い空気を少しお前が呼吸する時にね。」
 彼はいつも神様のことを口にのぼせていた。彼は二人のクラフトと違って、きわめて信仰深かった。二人のクラフト、父と子とは、金曜日の斎日《さいじつ》に肉食することを注意して避けながらも、神を恐れない者だと自任していたのである。

 突然メルキオルは、なぜだかわからないが、意見を変えた。祖父がクリストフの逸品を集めてることに賛成したばかりでなく、クリストフが非常にびっくりしたことには、その原稿から二、三の写しをいく晩もかかってこしらえ上げた。それについて人から尋ねられると、彼は勿体《もったい》ぶった様子をして、「今にわかるよ」と答えるきりだった。あるいはまた、笑いながら手をこすったり、戯れらしいふうで子供の頭を強くなでたり、彼の尻《しり》をたたいたりした。クリストフはそういうなれなれしさを非常に嫌《きら》った。しかし父が満足してることはわかっていた。そしてその理由はわからなかった。
 それから、メルキオルと祖父との間に秘密な相談が行なわれた。そしてある晩クリストフは、クリストフみずから少年の快楽[#「少年の快楽」に傍点]を大公爵レオポルト殿下にささげたということを聞いて、非常に驚いた。メルキオルは、その敬意を嘉納《かのう》せられる思召《おぼしめ》しが大公爵にあるということを、前から匂わしていた。そこで、得意然たるメルキオルは、一刻も猶予《ゆうよ》なく次のことをしなければならないと宣言した。第一、大公爵に公《おおやけ》の申請をすること――第二、作品を発表すること――第三、その作品を聞かせるために音楽会を催すこと。
 メルキオルとジャン・ミシェルとは、なお長い相談をし合った。二晩三晩の間、彼らは勢い込んで論じ合った。だれも邪魔しに来ることを止められた。メルキオルは書いたり削ったり、削ったり書いたりしていた。老人は詩でも読むかのように、大声で話していた。時には二人で怒り出したり、言葉が見つからないでテーブルをたたいたりしていた。
 それから、クリストフが呼ばれた。右には父が控え、左には祖父が控えて、彼をテーブルの前にすわらし、指にペンを握らした。祖父は彼に文句を書き取らせ始めた。彼は少しも理解できなかった。一語一語を書くのに非常に骨が折れたし、メルキオルが耳もとで怒鳴っていたし、また、祖父があまり強い調子で朗読するので、言葉の響きに驚かされて、その意味に耳を傾けることを考えもしなかったのである。老人の方も劣らず興奮していた。じっとすわっておれなかった。原文の意味を身振であらわしながら、室の中を歩き回っていた。しかし絶えず、子供の書いてる紙面を見にやって来た。クリストフは背中から覗《のぞ》き込んでる二つの大きな頭におびえて、長く舌を出し、もうペンを持つこともできず、眼が曇ってき、あまり字画を引張りすぎたり、あるいはごちゃこちゃに書きちらしたりした――メルキオルは喚《わめ》きたて、ジャン・ミシェルは猛《たけ》りたっていた――そして彼は書き直し、またさらに書き直さなければならなかった。ついに紙の終りまで書いたかと思うと、無瑕《むきず》な紙面に大きなインキの雫《しずく》が落ちかかった。――すると彼は耳を引張られた。わっと泣き出した。しかし紙に汚点がつくので泣くことも許されなかった。――そして、第一行から書取をやり直させられた。一生涯そんなことがつづくのかと思われた。
 ついにはおしまいになった。ジャン・ミシェルは暖炉によりかかって、喜びのあまり震え声で、でき上がったものを読み返した。その間メルキオルは、椅子《いす》の上に反り返り、天井を眺めて、頤《あご》をゆすぶりながら、物知り顔に次の捧呈《ほうてい》文の文体を吟味していた。

    いと畏《かしこ》き、いと崇高《けだか》き殿下!

 四歳のころからして、音楽は私の幼い仕事の第一のものとなり始めました。私の魂を純なる和声《ハーモニー》へ鼓舞してくださる貴いミューズの神と、いったん交わりを結びますると、すぐさま私はミューズの神を愛するようになりました。そしてミューズの神も、私の愛情に報いてくだされたように思われまする。今私は六歳に達しております。そして先ごろから私のミューズの神は、霊感のさなかに幾度となく、私の耳へささやいてくだされました。「あえてせよ、あえてせよ! 汝《なんじ》の魂の和声《ハーモニー》を書けよ!」――私は考えました。「六歳で、どうして私はあえてなされよう! 芸術の識者たちになんと言われるであろう?」――私はためらいました。私は震えました。けれども私のミューズの神は望んでいられます。……私は従いました。私は書きました。
 そして今私は、
 いと崇高《けだか》き殿下よ!
 玉座の階段《きざはし》におこがましくも、私の幼い仕事の処女作を、ささげたいのでありまする。畏《かしこ》き御推賛の情け深き御瞳《おひとみ》を、この処女作の上にくだしたまわらんことを、厚かましくも希《こいねが》いたいのでありまする。
 それと申しまするのも、学問と芸術は常に、賢明なるメセーナとして、寛大なる擁護者として、殿下を御仰ぎ奉ったのでありますから。そして才能は、聖《きよ》き御保護の楯《たて》の下に、花を咲かせるのでありまするから。
 右の深く確かな信念をいだいておりまする私は、この幼き試作をささげましてあえてお側《そば》へ進みまする。なにとぞ私の尊敬の念の清い捧物《ささげもの》としてお受けくださりませ。そしてお恵みをもちまして、
 いと崇高《けだか》き殿下よ!
 この作品の上に御眼を垂れたまい、また恭《うやうや》しく御足下に伏し奉る幼き作者の上に、御眼を垂れてくださりませ!

   いと畏きいと崇高き殿下の
          全き謙譲忠実柔順なる僕《しもべ》、


                    ジャン・クリストフ・クラフト

 クリストフの耳には何にもはいらなかった。彼はなし終えたので夢中に喜んでいた。そしてまた書き直させられはすまいかと恐れて、野の中へ逃げ出した。何を書いたのか少

      いずれの国の人たるを問わず、

苦しみ、闘い、ついには勝つべき

あらゆる自由なる魂に、捧《ささ》ぐ

          ロマン・ローラン

        昼告ぐる曙《あけぼの》の色ほのかにて、
        汝《な》が魂は身内に眠れる時……
             ――神曲、煉獄の巻、第九章――

     
          うち湿りたる濃き靄《もや》の
          薄らぎそめて、日の光
          おぼろに透し来るごとくに……
               ――神曲、煉獄の巻、第十七章――

 河の水音は家の後ろに高まっている。雨は朝から一日窓に降り注いでいる。窓ガラスの亀裂《ひび》のはいった片隅には、水の滴《したた》りが流れている。昼間の黄ばんだ明るみが消えていって、室内はなま温くどんよりとしている。
 赤児《あかご》は揺籃《ゆりかご》の中でうごめいている。老人は戸口に木靴を脱ぎすててはいって来たが、歩く拍子に床板《ゆかいた》が軋《きし》ったので、赤児はむずかり出す。母親は寝台の外に身をのり出して、それを賺《すか》そうとする。祖父は赤児が夜の暗がりを恐《こわ》がるといけないと思って、手探りでランプをつける。その光で、祖父ジャン・ミシェル老人の赤ら顔や、硬い白髯《しろひげ》や、気むずかしい様子や、鋭い眼付などが、照らし出される。老人は揺籃のそばに寄ってゆく。その外套《がいとう》は雨にぬれた匂いがしている。彼は大きな青い上靴《うわぐつ》を引きずるようにして足を運ぶ。ルイザは近寄ってはいけないと彼に手|真似《まね》をする。彼女は白いといってもいいほどの金髪で、顔立はやつれていて、羊のようなやさしい顔には赤痣《あかあざ》があり、唇《くちびる》は蒼《あお》ざめて厚ぼったく、めったにあわさらず、浮べる微笑もおずおずとしている。彼女は赤児を見守っている――ごく青いぼんやりした眼で、その瞳《ひとみ》はきわめて小さいがいたって物優しい。
 赤児は眼を覚して泣く。その定かならぬ目差《まなざ》しは乱される。なんという恐ろしさだろう! 深い闇《やみ》、ランプの荒々しい光、渾沌《こんとん》のなかから出てきたばかりの頭脳の幻覚、周囲にたちこめている息苦しいざわめく夜、底知れぬ影、その影の中からは、まぶしい光線のように強く浮かび出してくる、強烈な感覚が、苦悩が、幻影が、こちらをのぞきこんでるそれらの巨大な顔が、自分を貫き自分のうちにはいり込む意味の分らないそれらの眼が!……赤児は声をたてる力もない。彼は身動きもせず、眼を見開き、口を開け、喉《のど》の奥で息をしながら、恐怖のために釘付《くぎづけ》にされる。その膨《ふく》れた大きな顔には皺《しわ》が寄って、痛ましい奇怪な渋面《じゅうめん》になる。顔と両手との皮膚は、栗色で紫がかっており、黄っぽい斑点がついている……。
「いやはや、なんて醜い奴だ!」と老人は思い込んだ調子で言った。
 彼はランプをテーブルの上に置きに行った。
 ルイザは叱《しか》られた小娘のように口をとがらした。ジャン・ミシェルは横目で彼女を眺《なが》めて、そして笑った。
「きれいな奴だと言ってもらおうとは、お前も望んでやすまい。お前にだってきれいだとは思えまい。だがいいさ、お前のせいじゃない。赤ん坊てものはみんなこんなものだ。」
 子供はランプの炎と老人の目差《まなざ》しとに驚き、ただ惘然《ぼうぜん》として身動きもしなかったが、やがて声をたて始めた。おそらく彼は母親の眼の中に、苦情を言うがいいと勧めるような愛撫《あいぶ》を、本能的に感じたのであろう。彼女は彼の方へ両腕を差出して言った。
「私にかしてください。」
 老人はいつもの癖で、まず理屈を並べたてた。
「泣くからといって子供の言うままになってはいけない。勝手に泣かせることだ。」
 しかし彼は子供のところへ来て、それを抱き上げ、そしてつぶやいた。
「こんな醜い奴は見たことがない。」
 ルイザはわなわなしてる手で子供を受取り、胸深く抱いた。彼女はきまり悪げなまた喜びにたえないような微笑を浮べて、子供を見守った。
「おう、かわいそうに、」と彼女はたいそう恥ずかしそうにして言った、「坊やはなんて醜いでしょう、なんて醜いでしょう、ほんとにかわいいこと!」
 ジャン・ミシェルは暖炉のそばにもどった。彼は不機嫌な様子で、火をかきたて始めた。しかしその顔に装ってる陰鬱なしかつめらしさは、軽い微笑の影で裏切られていた。
「お前、」と彼は言った、「ねえ、苦にしちゃいけない。まだまだこれから顔付は変わるものだ。それに、醜いったってそれがなんだ? この子に求むることはただ一つきりだ、りっぱな者になってくれということだ。」
 子供は母親の温かい身体に触《さわ》って心が和らいでいた。息を押えて貪《むさぼ》るように乳を吸ってる音が聞えていた。ジャン・ミシェルは椅子《いす》の上で軽く身をそらして、おごそかにくり返した。
「正直な男ほどりっぱなものはない。」
 彼はちょっと黙って、その思想を敷衍《ふえん》したものかどうか考えた。しかしそれ以上言うべきことを見出さなかった。そしてしばらく黙った後、激した調子で言い出した。
「夫がいないとは、どうしたことだ?」
「芝居に行ってるのでしょう。」とルイザはおずおず言った。「下稽古《したげいこ》がありますから。」
「芝居小屋は閉まっている。わしは今その前を通って来たんだ。それもまた彼奴《あいつ》の嘘《うそ》だ。」
「いいえ、あの人ばかりをいつもおとがめなすってはいけません。私の思い違いかもしれませんから。では出稽古に手間取ってるのでしょう。」
「もう帰って来られるはずだ。」と老人は満足しないで言った。
 彼はちょっと躊躇《ちゅうちょ》して、それから少し気恥しげに声を低めて尋ねた。
「彼奴《あいつ》は……また……?」
「いいえ、お父《とう》様、いいえ。」とルイザは急《せ》き込んで言った。
 老人は彼女を眺めた。彼女はその前に顔をそらした。
「ほんとうじゃない、お前は嘘をついてるな。」
 彼女は黙って涙を流した。
「ああ!」と老人は大声を出しながら、暖炉を一つ蹴《け》った。火掻《ひかき》棒が落ちて大きな音をたてた。
 母親と子供とはふるえあがった。
「お父様、どうぞ、」とルイザは言った、「坊やが泣き出しますから。」
 子供は泣声をたてたものかそれともやはり静かにしていようかと、しばらく躊躇《ちゅうちょ》した。しかし両方を同時にすることができないので、やはり静かにしていた。
 ジャン・ミシェルは腹立ちまぎれにいっそう太い声で言いつづけた。
「わしはどんなことをした報《むく》いで、あんな酔漢《よいどれ》を息子に持ったのか! わしのような生活をし、万事に不自由な目を忍んだのも、むだな骨折りだったのか!……だがお前は、お前は彼奴《あいつ》を制することができないというのか。なぜかって、そりゃあお前の役目じゃないか。お前が彼奴を家に引留めさえしたら……。」
 ルイザはなお激しく涙を流していた。
「このうえ私を叱《しか》ってくださいますな、私もうたいへん不仕合せですもの。私はできるだけのことはしました。ああ一人でいるとどんなに恐ろしい思いをしていますか、それを察してくださいましたら! いつでも階段にあの人の足音が聞えるような気がします。すると私は扉《とびら》が開くのを待ちます。まああの人はどんな様子で出てくるかしらと考えます。……それを思ってみるだけでも気がふさいできます。」
 彼女はすすり泣きに身をふるわしていた。老人は気をもんだ。彼は彼女のそばにやって来、その震えてる両肩に乱れた蒲団《ふとん》をかけてやり、大きな手でその頭をなでてやった。
「さあ、さあ、心配することはない。わしがついてる。」
 彼女は子供のことを思ってむりに気を鎮《しず》め、そして微笑《ほほえ》もうとした。
「あんなことを申しましたのは、私が悪うございました。」
 老人は頭をうち振りながら彼女を眺めた。
「かわいそうに、わしがお前にやった贈物はりっぱなものではなかった。」
「私の方が悪いんです。」と彼女は言った。「あの人は私みたいな者と結婚なさるのではありませんでした。自分のしたことを後悔なすっています。」
「何を後悔しているって?」
「それはあなたがよく御存じでございましょう。私があの人の妻になりましたのを、あなた御自身でも気を悪くしていらっしゃいました。」
「もうそんな話をするもんじゃない。なるほどわしは多少不満だった。あのような青年――こう言ったって何もお前の気にさわりはすまい――わしが注意して育て上げた青年、すぐれた音楽家で、ほんとうの芸術家で――まったく彼は、お前のように貧乏で、身分が違い、なんの技能もない者より、もっとほかの女を選むこともできたはずだ。クラフト家の者が音楽家でもない娘と結婚するなんてことは、もう百年あまりこの方例《ためし》がないんだ!――それでも、お前もよく知ってるとおり、わしはお前を恨んだこともないし、お前と知り合ってからはいつも好意をもっていた。それに、一度こうときまってしまえば、もう後もどりはできない。あとはただ義務を尽すことばかりだ、正直に。」
 彼は元の席へもどって腰掛け、ちょっと間をおいて、それから、いつも自分の格言を口にする時のような厳《いかめ》しさで言った。
「人生で第一のことは、おのれの義務を尽くすことだ。」
 彼は抗議を待ち受け、火の上に唾《つば》をした。それから、母親も子供もなんら異論をもち出さなかったので、なお言葉をつづけたく思った――が、口をつぐんだ。

 彼らはもう一言も口をきかなかった。ジャン・ミシェルは暖炉のそばで、ルイザは寝床にすわって、二人とも悲しげに夢想していた。老人はああは言ったものの、息子の結婚のことを苦々《にがにが》しげに考えていた。ルイザの方も同じくそのことを考えていた、そしてみずから非難すべき点は何もなかったけれど、それでも気がとがめていた。
 ジャン・ミシェルの子メルキオル・クラフトと結婚した時、彼女は女中であった。でその結婚にはだれも驚いたが、とくに彼女自身が驚いた。クラフト家には財産はなかったが、約半世紀前に老人が居を定めたそのライン河畔の小さな町では、かなり尊敬されていた。彼らは父子代々の音楽家で、その地方、ケルンとマンハイム間では、音楽家仲間に名が知れわたっていた。メルキオルは宮廷劇場のヴァイオリニストであった。ジャン・ミシェルは近頃まで大公爵の演奏会を指揮していた。でこの老人はメルキオルの結婚に深い屈辱を感じた。彼は息子に大きな希望をかけていて、自分自身ではなれなかったけれども、息子の方は高名な人物になしたいと思っていた。ところがこの無謀な結婚は、その望みを打ち壊《こわ》してしまった。それで最初のうちは盛んに怒鳴りたて、メルキオルとルイザとをののしりちらした。しかし根が正直な人だけに、嫁の気心をよく知ってくると、すぐに彼女を許してやった。そして父親としての愛情をさえ心にいだくようになった。がその愛情はたいてい冷たい素振りとなって現われていた。
 メルキオルが何に駆《か》られてそういう結婚をしたのか、だれも了解することができなかった――だれよりもメルキオル自身に訳が分らなかった。確かにルイザの美貌《びぼう》のせいではなかった。彼女は少しも人を惑わすような点をもってはいなかった。背が低く、蒼《あお》ざめて、虚弱だった。ところがメルキオルとジャン・ミシェルとは二人とも、背が高く、でっぷりして、赤ら顔の、たくましい拳《こぶし》をし、よく食い、よく飲み、笑い事の好きな、騒ぎやの大男だったので、彼女とおかしな対照をなしていた。彼女はまるで彼らに圧倒されてるかと思われた。だれも彼女へはほとんど注意を向けなかったが、それでも彼女はなおいっそう隅《すみ》っこに引込んでばかりいようとしていた。もしメルキオルがやさしい心をもってるのだったら、彼は他のあらゆる利益をうち捨ててルイザの純良な気質を選んだのだとも、考えられないことはなかった。しかし彼は最も浮薄な男だった。で結局、かなりの好男子で、自分でもそれを知らないではなく、またごく見栄坊《みえぼう》で、そのうえ多少の才能もあり、金持ちの娘に眼をつけることもでき、また彼がみずから自慢してたように、中流市民の女弟子のどれかを夢中にならせることさえもできる――たれかいずくんぞ知らんやではあるが――という、彼のような一個の青年が、財産も教育も容色もない賤《いや》しい娘を、しかも向うからもちかけても来なかった娘を、突然妻に選ぼうとは、まったく賭事《かけごと》みたいな沙汰《さた》らしく見えるのであった。
 しかしメルキオルは、他人が期待してることやまた自分みずからが期待してることとは、常に反対のことを行なうような類《たぐい》の男であった。かかる人たちは目先のきかないわけではない――目先のきく者は二人前の分別があるそうだが……。彼らは何事にも欺《あざむ》かれることがないと高言し、一定の目的の方へ自分の舟を確実に操《あやつ》ってゆけると高言している。しかし彼らは自分自身を勘定に入れていない、なぜなら自分自身を知らないから。いつも彼らにありがちなその空虚な瞬間には、彼らは舵《かじ》を打ち拾てておく。そして物事は勝手に放任さるると、主人の意に反することに意地悪い楽しみを見出すものである。自由に解き放された舟は、まっすぐに暗礁を目がけて進んでゆく。かくて野心家のメルキオルは女中風情《ふぜい》と結婚した。とは言え、彼女と生涯の約を結んだ時、彼は酔っ払ってもいなければぼんやりしてもいなかった。また彼は情熱の誘《いざな》いをも感じてはいなかった。そんなものは非常に欠けていた。しかしわれわれのうちには、情意以外の他の力が、感覚よりも他の力が、――普通の力が皆眠っている虚無の瞬間に主権を握るある神秘な力が、おそらく存在しているのかもしれない。ある夕方、ライン河畔で、メルキオルがこの若い娘に近づき、葦《あし》の中で彼女のそばにすわり――みずから理由も知らないで――彼女に婚約を与えた時、おずおずと彼を眺めてる彼女の沈んだ瞳《ひとみ》の底で、彼はこの神秘な力に遭遇したのであろう。
 結婚するとすぐに、彼は自分のしたことに落胆したような様子をした。彼はそのことをあわれなルイザにもさらに隠さなかった。ルイザはいかにもつつましやかに、彼に許しを求めた。彼は悪い男ではなかった、そして快く彼女を許してやった。しかしすぐその後で、友人らの間に交わったり、または金持ちの女弟子の家に行ったりすると、ふたたび悔恨の念にとらえられた。女弟子らはもう軽侮の様子を見せていて、彼が鍵盤《キー》の上の指の置き方を正してやろうとして手でさわっても、もはや身を震わすようなことはなかった。すると彼は陰鬱《いんうつ》な顔付をしてもどって来た。ルイザはそれを一目見て、またいつもの非難をよみとって、つらい思いをした。あるいはまた彼は、居酒屋に立ち寄って遅くなることもあった。彼はそこで、自分自身にたいする満足と他人に対する寛容とを汲みとった。そういう晩には、からから笑いながらもどって来た。しかしそういう笑いは、いつもの口には出さない考えや胸に蓄えてる怨恨《えんこん》よりも、ルイザにはいっそう悲しく思われた。彼女は夫のそうしたふしだらにたいして、自分にも多少責任があるように感じていた。そのふしだらのたびごとに、家の金がなくなるとともに、夫の心に残ってるわずかな真面目《まじめ》さもしだいに消えていった。メルキオルは身をもちくずしていった。たえず勉《つと》めて自分の平凡な才をみがくべき年ごろに、彼はずるずると坂を滑り落ちて顧《かえり》みなかった。そして他人に地位を奪われていった。
 しかしながら、麻のような髪の毛の一女中に彼を結びつけた不可知なる力にとっては、それがなんの関係があろうぞ。彼はただ自分の役目を演じたのである。そして今や小さなジャン・クリストフが、運命の手に導かれて、この地上に足を踏み出していた。

 すっかり夜になっていた。ジャン・ミシェル老人は暖炉の前で、昔や今の悲しいことどもを考えながらぼんやりしていたが、ルイザの声ではっと我にかえった。
「お父様、あの人はきっと遅くなるでしょう。」と若い妻はやさしく言っていた。「もうお帰りなさいませ、道が遠うございますから。」
「メルキオルが帰るまで待っていよう。」と老人は答えた。
「いいえ、どうぞ、いてくださらない方がよろしゅうございます。」
「なぜ?」
 老人は顔をあげて、じっと彼女を眺《なが》めた。
 彼女は答えなかった。
 彼は言った。
「お前は恐《こわ》がっているね。彼奴《あいつ》にわしを会わせたくないんだね。」
「ええ、そうでございます。お会いになれば事がめんどうになるばかりでしょう。あなたはきっとお怒りなさいます。いやです。お願いですから!」
 老人は溜息《ためいき》をつき、立ち上がり、そして言った。
「よしよし。」
 彼は彼女のそばに行き、ざらざらした髯《ひげ》で彼女の額をなでた。そして何か用はないかと尋ね、ランプの火をねじ下げ、暗い室の中を椅子《いす》にぶっつかりながら出ていった。しかし階段を降り始めないうちに、息子が酔っ払ってもどってくることを頭に浮べた。彼は一段ごとに立止った。息子が一人で帰って来たらどんなことになるだろうかと、いろいろ危険な場合を想像してみた。
 寝床の中では、母親のそばで、子供がまた動きだしていた。未知の苦悩が、おのれの存在の奥底から湧《わ》き上がってきていた。彼は母親に身を堅く押しつけた。身体をねじまげ、拳《こぶし》を握りしめ、眉《まゆ》をひそめた。苦悩は力強く平然と、大きくなるばかりであった。その苦悩がどういうものであるか、またどこまで募ってゆくものか、彼には分らなかった。ただ非常に広大なものであり、決して終ることのないものであるように思われた。そして彼は悲しげに声をたてて泣き出した。母親はやさしい手で彼をなでてやった。苦悩はもうずっと和らいでいた。しかし彼は泣きつづけていた。自分の近くに、自分のうちに、その苦悩がいつもあるように感じていたからである。――大人《おとな》が苦しむ時には、その苦しみの出処を知れば、それを減ずることができる。彼は思想の力によって、その苦しみを身体の一部分に封じ込める。そしてその部分はやがて回復されることもできれば、必要に応じては切り離されることもできる。彼はその部分の範囲を定め、自分自身から隔離しておく。しかし子供の方は、そういうごまかしの手段をもたない。彼と苦しみとの最初の邂逅《かいこう》は、大人の場合よりもより悲壮でありより真正直である。自分自身の存在と同じように、苦しみも限りないもののように思われる。苦しみは自分の胸の中に棲《す》み、自分の心の中に腰を据《す》え、自分の肉体を支配してるように感ぜられる。そしてまた実際そのとおりである。苦しみは彼の肉体を啄《ついば》んだ後でなければ肉体から去らないだろう。
 母親は子供を抱きしめながら、かわいい言葉をかけている。
「さあ済んだよ、済んだよ、もう泣くんじゃありません。ねえ、いい子だからね……。」
 子供はなお途切れ途切れに、訴えるように泣きつづける。その無意識な不格好なあわれな肉の塊《かたまり》は、自分に定められてる労苦の一生を予感してるかのようである。そして何物も彼を静めることはできない……。
 サン・マルタンの鐘の音が、夜のうちに響きわたった。その音は荘重《そうちょう》でゆるやかであった。雨に濡《ぬ》れた空気の中を、苔《こけ》の上の足音のように伝わっていった。子供はすすり泣いていたが、ぴたりと声を止めた。豊かな乳が流れ込むように、美妙な音楽が静かに彼のうちに流れ込んできた。夜は輝きわたり、空気は和やかで温かだった。子供の苦悩は消えてゆき、その心が笑い始めた。そして彼は我を忘れた大きい息を一つして、そのまま夢の中におちこんでいった。
 三つの鐘が静かに鳴りつづけて、明日の祭りを告げていた。ルイザも鐘の音に耳を傾けながら、過去の惨《みじ》めなことどもを思い浮かべ、またそばに眠ってるかわいい赤子の行末などをぼんやり考え耽《ふけ》った。彼女はもう数時間前から、けだるいがっかりした身を、寝床に横たえていたのである。手先や身体がほてっていて、重い羽根|蒲団《ぶとん》に押し潰《つぶ》される思いをし、暗闇のために悩まされ圧迫されるような気がしていた。しかし強《し》いて身を動かそうともしなかった。彼女は子供の顔を眺めていた。暗い夜ではあったが、年寄じみた子供の顔立を見分けることができた。眠気《ねむけ》が襲ってきて、頭の中にはいらだたしい幻が通りすぎた。メルキオルが扉を開ける音を耳にしたように思って、胸がどきりとした。時々河の音が、獣の吼《ほ》え声のように、寂寞《せきばく》たる中に高く響いてきた。ガラス窓は雨に打たれて、なお二、三度音をたてた。鐘の音はしだいにゆるやかになってゆき、ついに消えてしまった。そしてルイザは子供のそばで眠りに入った。
 そういう間、ジャン・ミシェル老人は、雨の中に、霧に髯《ひげ》を濡らして、家の前で待っていた。惨《みじ》めな息子の帰宅を待っていた。頭がたえず働いて、泥酔《でいすい》から起こるいろんな悲しい出来事をあれこれと想像してやまなかったのである。実際そういう事が起ころうとは信じなかったけれども、もし息子がもどって来るのを見ないで帰ったら、その晩一睡もできないかもしれなかった。鐘の音を聞いて彼の心は非常に悲しくなっていた。空《くう》に終った昔の希望を思い起こしたからである。こんな時刻に、この往来の中で、自分は今何をしているか、それを彼は心に浮べていた。そして恥ずかしさのあまり涙を流していた。

 月日の広漠たる波は徐々に展開してゆく。限りなき海の潮の干満のように、昼と夜とは永遠に変わることなく去来する。週と月とは流れ去ってはまた始まる。そして日々の連続は同じ一日に似ている。
 極《きわ》みなき黙々たる日、それを印《しるし》づけるものは、影と光との相等しい律動、また揺籃《ようらん》の底に夢みる遅鈍な存在の生命の律動――あるいは悲しいあるいは楽しいやむにやまれぬその欲望、それは昼と夜とにもたらされながら、かえってみずから昼と夜とを招き出すかと思われるまでに、規則正しく波動する。
 生命の振子は重々しく動いている。全存在はそのゆるやかな波動のうちにのみ込まれる。その他は皆夢にすぎない、うごめく奇形な夢の断片、偶然に舞い立つ原子の埃《ほこり》、人を笑わせあるいは恐れさせつつ過ぎてゆく眩《めまぐる》しい旋風にすぎない。喧騒《けんそう》、揺らめく影、奇怪な形、苦悩、恐怖、哄笑《こうしょう》、夢、種々の夢……。――すべて皆夢にすぎない……。――そしてその混沌《こんとん》の中には、彼に微笑《ほほえ》みかくる親しい眼の光、母の身体から、乳に脹《は》れた乳房から、彼の身体のうちに伝わりわたる喜悦の波、彼のうちにあって自然に積り太ってゆく力、その小さな子供の体内に閉じこめられて轟《とどろ》き出す湧きたった大洋。かかる幼児の内部を読み分けうる者は、影の中に埋もれたる幾多の世界を、しだいに形を具えゆく幾多の星雲を、形成中の全宇宙を……そこに見出すであろう。幼児の存在には限界がない。彼は存在するすべてのものである……。

 月は過ぎてゆく……。記憶の島が、一生の河の流れから現われ始める。最初は、眼にもとまらぬ狭い小島で、水面とすれすれになってる巌《いわ》である。それらのものの周囲には、夜が明けゆく薄ら明りの中に、静かに大きい水脈がずっとひろがってゆく。それからこんどは、金色の日の光を浴びた新しい小島が現われる。
 魂の深淵《しんえん》から、不思議に明確な種々の形が湧き出てくる。単調な力強い波動をなしながら、永遠に同じ姿でくり返される無辺際の日の中に、あるいは歓《よろこ》びの顔をしあるいは悲しみの顔をして、たがいに手をつなぎ合してる幾多の日の丸い群が、浮び出してくる。しかしその鎖の鐶《かん》はたえず切れて、思い出は週や月……をまたぎ越してたがいにつながり合う。
 河……鐘……。思い出の届くかぎり遠くに――時の遠い曠野《こうや》の中に、生涯のいかなる時代にもせよ――それらの奥深い親しい声は、常に歌っている……。
 夜――うとうとと彼が眠る夜……。蒼《あお》ざめた明るみが窓ガラスをほの白く染めている……。河は音をたてている。その声は、寂寞の中に力強く高まってくる。あらゆる存在の上に働きかける。あるいはそれらのものの眠りを和らげ、また河波の響きのままにみずからもうとうとしてるかと思われる。あるいは噛《か》みつこうとて狂い回ってる野獣のように、いらだち咆哮《ほうこう》する。その怒号が静まると、こんどは限りなくやさしい囁《ささや》き、銀の音色、澄み切った鈴の音のようなもの、子供の笑い声のようなもの、やさしい歌声、踊り舞う音楽。決して眠ることのない大いなる母性の声! その声は子供を揺《ゆ》する、彼より以前に存在したあらゆる時代の人々を、その生から死に至るまで、幾世紀の間も揺すってやったがように。そして子供の思想の中にはいり込み、その夢の中に沁《し》み込み、澱《よど》みなき諧調《かいちょう》のマントで彼をくるんでやる。やがて彼がラインの河水に浴する水のほとりの小さな墓地に横たわる時も、そのマントはなお彼をくるんでくれるであろう……。
 鐘の音……。もはや曙《あけぼの》! 鐘の音は、憂わしげに、多少悲しげに、親しく、静かに、たがいに響き合う。そのゆるやかな声音につれて浮かび上がってくる、夢の群が、過去の様々の夢が、消え失せた人々の慾望や希望や悔恨が。子供はそれらの人々を少しも知らなかったけれども、それでもなお昔は彼らにほかならなかった、なぜなら、彼は彼らのうちに存在していたから、また彼らは彼のうちに甦《よみがえ》ってきているから。幾世紀もの思い出が、今鐘の奏する音楽の中に震えている。数多《あまた》の悲しみと数多の歓び!――そして、室の奥からでも、その鐘の音を聞いていると、軽い空気の中を流れゆく美しい音波や、自由な鳥や、風の温かい息吹《いぶ》きなどが、すぐ眼の前を通りすぎるがように思われる。青い空の一部が窓に微笑《ほほえ》みかけている。一条の日の光が、窓掛から滑り込んで寝床の上に落ちている。子供が見慣れた小さな世界、毎朝眼を覚しながら寝床から眺めるすべてのもの、自分のものにしようとして、多くの努力を払って、それと知り始め名づけ始めたすべてのもの――彼の王国が輝き出す。皆が食事をするテーブル、彼が隠れて遊ぶ戸棚《とだな》、彼がはい回る菱《ひし》形の床石《ゆかいし》、おかしな話や恐ろしい話を彼にしてくれる種々な皺《しわ》のある壁紙、彼だけにしか分らない片言《かたこと》をしゃべる掛時計。なんとたくさんのものが室の中にあることだろう! 彼はそれらのすべてを知りつくしてはいない。毎日彼は、自分に属してるその宇宙に探険に出かける――すべてが彼のものである。――一つとしてつまらないものはない。一人の人間も一匹の蠅《はえ》も、すべてが同じ価値をもっている。猫《ねこ》、火、テーブル、一筋の光の中に舞い立ってる細かな埃《ほこり》、皆同じ価に生きている。室は一つの国である。一日は一つの生涯である。そういう広漠たる中において、どうしておのれを認められよう? 世界はかくも大きい! 自分の姿が見分けられない。そして周囲にたえず渦《うず》巻いている。それらの顔、身振り、運動、音響……。子供は疲れてくる。眼は閉じて、彼は眠ってゆく。快い眠り、深い眠り、身を置くに好ましいところなら、母親の膝《ひざ》の上でもテーブルの下でも、どこであろうとまたいつであろうと、彼は突然それにとらえられる……。あたりは快い、自分自身も快い……。
 それら最初の日々《にちにち》は、大きな雲の移りゆく影を宿して風に吹かるる麦畑のように、子供の頭の中に騒々しい音をたてる……。

 影は逃げ去って、太陽がのぼってくる。クリストフは一日の迷宮の中に、自分の道を見出し始める。
 朝……。両親は眠っている。彼は自分の小さな寝床に仰向《あおむけ》に寝ている。彼は天井に踊る光の線を眺める。それは尽くることなき楽しみである。にわかに彼は声高く笑う。聞く者の心を喜ばせる子供の善良な笑い。母親は彼の方に身をかがめて言う、「まあどうしたの、坊や。」すると、見る人がいるのでなお努めて笑うのでもあろうか、彼はますます晴やかに笑う。母親はしかつめらしい様子をして、父親を覚まさないようにと、彼の口に指を一本あてる。けれども彼女の疲れてる眼は、我知らず笑っている。二人はいっしょにささやき合う……。と突然、父親は激しく怒鳴りつける。二人とも震え上がる。母親は罪を犯した小娘のように、急いで寝返りをして、眠ったふりをする。クリストフは寝床に深く身を埋めて、じっと息をこらす……。死のような沈黙。
 しばらくすると、毛布の下にかがまっていた子供は、そっと顔を覗《のぞ》き出す。屋根の上には風見《かざみ》が軋《きし》っている。樋《とい》からは点滴《しずく》がたれている。御告《みつげ》の祷《いのり》の鐘が鳴る。風が東から吹く時には、対岸の村々の鐘が、ごく遠くからそれに響きを合わせる。木蔦《きづた》のからんだ壁に群がってる雀《すずめ》が、騒がしく鳴きたてる。その中には、一群の子供の遊びに見られるように、他のよりもずっと疳《かん》高いいつも同じような三、四の声が、ひときわ高く響いている。一羽の鳩《はと》が、煙突の頂上で喉《のど》を鳴らしている。子供はそれらの音に身を任せる。彼は歌い出す、ごく低く、それから少し高く、それからごく高く、次には非常に大きな声で。するとついに、父親は声をとがらしてまた怒鳴る、「この驢馬《ろば》め、まだ黙らないのか! 待ってろ、耳を引張ってやるぞ!」そこで子供はまた毛布の中にもぐり込む。笑っていいか泣いていいか分らない。恐怖と屈辱とを感ずる。それと同時に、自分がたとえられた驢馬のことを頭に浮べると、思わず放笑《ふきだ》してしまう。寝床の奥から、驢馬の鳴声を真似《まね》る。とこんどは打たれる。彼は身体じゅうの涙をしぼって泣く。自分は何をしたというのだろう? 彼は笑いたくてたまらない、動き出したくてたまらない! それなのに身を動かすことは禁ぜられてる。どうして皆《みんな》はいつまでも眠れるのだろう! いつ起き上がったらいいのかしら?……
 ある日、彼はもう我慢がしきれなくなった。猫か犬か、なんだか珍しい音が、往来に聞えたのである。彼は寝床の外に忍び出る。小さな素足で無器用に床石《ゆかいし》をたどりながら、階段を降りて見に行きたくなる。しかし扉は閉《し》まっている。それを開くために椅子《いす》の上にのる。とたんに何もかも引っくり返る。身体を痛めて彼は泣き声をたてる。おまけにまた打たれる。いつでも打たれるのだ!……

 彼は祖父といっしょに教会堂にいる。退屈してくる。たいへん気づまりである。身動きすることも許されない。会衆は彼に分らない言葉をいっしょに言い、それからまたいっしょに黙ってしまう。皆おごそかな陰気な顔をしている。平素の顔付とは違っている。彼はおずおずと人々を眺める。隣家のリナ婆《ばあ》さんは、彼の横にすわって、意地悪そうな様子をしている。時とすると、祖父までが見違えるような様子になる。なんだか薄気味が悪い。けれどそのうちには慣れてくる。できるだけのことをして退屈をまぎらそうとする。身体を揺ったり、首をまげて天井を眺めたり、顔をしかめたり、祖父の上着を引っ張ったり、椅子《いす》につまっている藁《わら》を調べたり、指先でそれに穴を開けようとしたり、鳥の声に耳を傾けたり、また頤《あご》がはずれるような大|欠伸《あくび》をする。
 突然どっと音響がする。オルガンがひかれてるのである。彼は背筋にぞっと戦慄《せんりつ》を感ずる。ふり向いて椅子の背に頤をのせる、そしてごくおとなしくしている。彼にはその音響がさっぱり腑《ふ》に落ちない。それが何を意味するのか少しも知らない。それはただ輝き渦巻いて、何にも見分けられない。けれども快いものである。もう一時間も前から、退屈な古い家の中で、ぎごちない椅子にすわっていること、その気持がどこかへ行ってしまう。鳥のように空中に浮かんでる気がする。そして音響の大河が、いくつもの丸天井を満たし、壁にはね返されて、会堂の隅《すみ》から隅へ流れわたる時には、自分の身体もそれに運ばれ、翼を搏《う》ってあちらこちらと飛び回り、その誘いに身をうち任せるのほかはない。自由であり、幸福であり、日が輝いている……。彼はうつらうつらと居眠りをする。
 祖父は彼にたいして不満である。彼はミサに列して行儀が悪い。

 彼は家にいて、両手で足をかかえ床《ゆか》にすわっている。靴拭蓆《くつふきむしろ》を舟ときめ床石《ゆかいし》を川ときめたところである。蓆から出ると溺《おぼ》れてしまうと考えてるらしい。他の人たちが無頓着《むとんじゃく》に室内を通るのに、彼は驚きまた多少気を悪くしている。彼は裳衣《しょうい》の襞《ひだ》をつかまえて母親を引き止める。「このとおり水だよ! 橋を通らねばいけないよ。」――橋というのは、菱形の赤い床石の間につづいてる小溝《こみぞ》である。――母親は彼の言葉を耳にもかけないで通ってゆく。ちょうど戯曲作家が自作の開演中に勝手な話をしてる観客を見る時のように、彼はじれている。
 次の瞬間には、彼はもうそんなことは考えていない。床石はもう海ではない。彼は長々と床石の上にねそべって、石の上に頤をつけ、自分で作り出した音楽を口ずさみ、涎《よだれ》を垂らしながら真面目《まじめ》くさって親指を舐《ねぶ》っている。床石の間にある割目に見入っている。菱形のその列が人の顔のようにしかめる。眼にもつかないような小さな穴が、大きくなって谷になる。そのまわりにはいくつも山がある。一匹の草鞋虫《わらじむし》がはっている。それが象のように大きい。雷が落ちても子供の耳にははいらないだろう。
 だれも彼にかまってくれない。彼はだれにも用はない。靴拭蓆《くつふきむしろ》の舟、奇怪な獣のいる床石《ゆかいし》の洞窟《どうくつ》、そんなものさえもうなくてすむ。自分の身体だけでたくさんだ。身体はなんという興味の泉だろう! 彼は自分の爪《つめ》を眺めて大笑いしながら、いく時間も過す。爪はそれぞれ違った顔付をしていて、知ってる人たちに似かよっている。彼はそれらを、いっしょに話さしたり、踊らしたり、殴《なぐ》り合わしたりする。――それからこんどは身体の他の部分!……彼は自分に属するものを残らず検査しつづける。なんとたくさんの驚くべきものがあることだろう! 不思議なものが実にたくさんある。彼は珍らしそうにそれらのものに見とれる。
 時々、そういうところを人に見つけられて、彼は手荒く抱きとられた。

 時おり彼は、母親が向うを向いてる隙《すき》に乗じて、家から外にぬけ出す。初めのうちは、後から追いかけられてつかまってしまう。後になると、あまり遠くへさえ行かなければ、一人で出かけるままに放っておかれる。彼の家は町はずれにある。すぐそばから野原がつづいている。彼は窓が見える間は、時々片足で飛びながら、ちょこちょこと足をふみしめて、ちっとも立止まらないで歩いてゆく。けれども、道の曲り角を通りすぎると、藪《やぶ》に隠されてだれからも見られなくなると、にわかに様子を変える。まず立止まっては指を口にくわえて、今日はどういう話をみずから語ろうかと考える。頭の中にいっぱい話をもってるのである。もとよりその話はどれも皆似寄ったもので、また三、四行で書き終えられるくらいのものである。彼はそのどれかを選ぶ。たいていはいつも同じ話をとり上げて、それを前日話し残したところからやりだすか、または違った趣向をたてて初めからやりだす。新しい話の筋道を考え出すには、ごく些細《ささい》なことで十分である、ふと耳にした一言で十分である。
 偶然の事柄からいつもたくさんの思い付が出てきた。垣根のほとりに落ちてるような(落ちていなければ折り取ってしまうのだが)、ちょっとした木片や折枝などから、どんなものが引き出されるかは、人の想像にも及ぶまい。それらのものは妖精《ようせい》の杖《つえ》であった。長いまっすぐなものは、鎗《やり》になったり剣になったりした。それを打振りさえすれば、多くの軍隊が湧き出した。クリストフはその大将で、先頭に立って進み、模範を垂れ、斜面を進撃して上っていった。枝がしなやかな時には、鞭《むち》になった。クリストフは馬に乗って、断崖《だんがい》を飛び越えた。時とすると馬が足を滑らした。すると馬上の騎士は、溝の底に落ち込んで、よごれた手や擦《す》りむいた膝頭をきまり悪げに眺めた。杖が小さい時には、クリストフは管弦楽団の長となった。彼は指揮者でありまた楽員であった。指揮し、また歌った。それから彼は、小さな緑の頭が風に動いてる藪に向かってお辞儀をした。
 彼はまた魔法使であった。よく空を眺めながら大手を振って、大股《おおまた》に野の中を歩いた。彼は雲に命令を下した。――「右へ行け。」――しかし雲は左へ動いていた。すると彼は雲をののしって、命令を繰返した。自分の命令に従う小さなのでもありはすまいかと思って、胸を躍《おど》らせながら横目で窺《うかが》った。しかし雲は平然と左の方へ飛びつづけた。彼は足をふみ鳴らし、杖を振り上げて雲をおどかし、左へ行けと怒って命令をかけた。するとこんどは、雲はまったくその命令に服した。彼は自分の力に喜んで得意になった。お伽噺《とぎばなし》で聞いたように、金色の馬車になれと命じながら花にさわった。そして実際にはそういうことは起こらなかったけれど、少し辛抱していればきっと起こるだろうと思い込んでいた。彼は一匹の蟋蟀《こおろぎ》を捜し出して、それを馬にしようとした。蟋蟀の背中にそっと杖をあてて、一定の呪文《じゅもん》を唱えた。虫は逃げ出した。彼はその行く手をさえぎった。しばらくすると、彼は虫のそばにはらばいに寝転んで、じっと眺めた。もう魔法使の役目を忘れてしまって、そのあわれな虫を仰向《あおむけ》にひっくり返しては、それがもがき苦しむのに笑い興じた。
 彼は自分の魔法杖に古糸を付けることを考えだした。彼は真面目《まじめ》くさってそれを河の中に投げ込み、魚が食いに来るのを待った。魚というものは普通|餌《えさ》も鈎《かぎ》もない糸を食うものではないということは、彼もよく知っていたけれど、しかし一度くらいは、自分のために、魚が例外なことをするかもしれないと思っていた。そしてすっかり自惚《うぬぼ》れのあまり、ついに溝板《みぞいた》の割目から杖を差入れて、往来の中で釣《つり》をするまでになった。心を躍らせて時々その杖を引上げながら、こんどは糸が前より重いと考えたり、祖父から聞いた話にあったように、何かの宝を引き上げるのではないかと想像したりした……。
 そういうことをして遊んでる最中に、不思議な夢心地とまったくの忘却とに陥る瞬間があった。周囲のすべてのものは消え失せてしまって、もう自分が何をしているかをも知らず、自分自身をも忘れはてた。よくそんなことが不意に彼を襲った。歩いてる時、階段を上りかけてる時、突然空虚が開けてきた。彼はもう何にも考えていないようだった。そして我に返ってみると、前と同じ場所に、薄暗い階段の中ほどに、自分を見出して呆然《ぼうぜん》としてしまった。それはあたかも、一つの生涯を過してしまったようなものだった――階段の二、三段ばかりの場所で。

 祖父はしばしば夕方の散歩に彼を連れていった。子供は祖父に手を引かれて、小股《こまた》に足を早めながら並んで歩いた。彼らはいつも、快い強い匂いのする耕作地を横ぎって、小道を通っていった。蟋蟀《こおろぎ》が鳴いていた。道にはだかって横顔を見せてる大型の烏《からす》が、遠くから二人の来るのを眺めていたが、間近になると重々しく飛び去った。
 祖父はよく咳《せき》払いをした。クリストフはその意味をよく知っていた。老人は何か話を聞かせたくてたまらなかったが、まず子供の方からせがんでもらいたかったのである。するとクリストフはきっと話をせがんだ。二人の気持はたがいによく通じ合っていた。老人は孫にたいして深い愛情をいだいていた。そして孫のうちに熱心な聴衆を見出すことは、彼の喜びであった。自分の生涯中の出来事や、古今の偉人の話を、彼は好んで語ってきかした。そういう時彼の声は、調子づいてきて情に激していた。押えきれぬ子供らしい喜びに震えていた。彼は夢中になってみずから自分の言葉に聞きとれてるらしかった。語ろうとする時にあいにく言葉が見つからないこともあった。しかし彼はその失望に慣れていた。雄弁の発作と同じくらいに何度もくり返されたからである。そして話し始むればいつもその失望を忘れてしまったから、いつまでもそれを諦《あきら》めることができなかった。
 彼がよく話すのは、レギュリュスのことや、アルミニュスのことや、リューツォフの軽騎兵のことや、ケルネルのことや、皇帝ナポレオンを殺そうとしたフレデリック・スターブスのことであった。異常な武勇談を口にのぼせると、彼の顔は輝いてきた。荘重な言葉をやたらに厳《いかめ》しい調子でしゃべるので、まったく聞き分けられなくなるほどだった。そして彼は、聴手《ききて》が胸を躍らせる時分に少しじらしてやることを、上手《じょうず》なやり方と信じていた。彼は言葉を途切らし、息苦しそうなふうを装い、騒々しく鼻をかんだ。そして子供が、待遠しさのあまり息詰った声で、「それから、お祖父《じい》さん、」と尋ねると、彼の心は有頂天《うちょうてん》になった。
 その後、クリストフはだんだん大きくなって、ついに祖父の手段を見破るようになった。すると彼はもう意地悪くも、話の続きにたいして冷淡なふうを装うことを努めた。あわれな老人はそれに困らされた。――しかしまだ今のところでは、彼はまったく話手の自由になっていた。そして彼の血は、劇的な部分を聞くととくに躍りたった。もうなんという人のことやら、またそれらの手柄がどこでいつなされたのやら、あるいは祖父が果してアルミニュスを知っていたかどうか、レギュリュスというのはこの前の日曜に教会堂で見かけた人――その訳は神のみぞ知る――ではないかどうか、そんなことは彼には分らなくなった。彼の心は、また老人の心は、勇ましい手柄話になると、あたかもそれをしたのは自分たちであるかのように、自慢の念にふくれ上がった。なぜなら、老人も子供もともに等しく赤ん坊だったから。
 祖父が勇壮な話の中途に、心に大切にしまってる議論の一つをはさむ時には、クリストフはあまり嬉《うれ》しくなかった。それはおもに道徳上の意見であって、正しくはあるがやや陳腐《ちんぷ》な一つの思想にたいていつづめられるようなものだった、たとえば、「温和は過激に優《まさ》る、」――「名誉は生命よりも貴し、」――「邪悪なるは善良なるに如《し》かず、」などと。――そしてただ、それよりもずっと錯雑してるだけだった。祖父は自分の幼い聴手の批評を恐れてはいなかった。そしていつも心ゆくかぎりおおげさな調子で口をきいた。少しもはばからずに、同じ文句をくり返したり、中途で言葉を途切らしたり、また議論の途中でまごつく時には、思想の破綻《はたん》をふさごうとして、なんでも頭に浮かぶことをでたらめに言ったりした。そして言葉をいっそう力強くなすためには、その意味と矛盾する身振りをさえ添えた。子供はごくかしこまって耳を傾けていた。そして、祖父は非常に雄弁だが多少退屈だと、彼は考えていた。
 二人とも好んで、ヨーロッパを征服したあのコルシカの偉人に関する伝説的な物語に、何度も立ちもどっていった。祖父は彼を知っていた。かつてはも少しで彼と矛《ほこ》を交ゆるところだった。しかし祖父は敵の偉さをも認めることができた。幾度となくそれを口にした。あれほどの人物がラインのこちらに生まれるなら、片腕くらいくれてやっても惜しまなかったろう。しかし運命はそうは許さなかった。祖父は彼を賛美していたが、彼と戦った――言い換えれば、まさに彼と戦おうとしたのだった。けれども、ナポレオンがすでに十里ばかりの距離に迫ってき、それと会戦を期して進軍していた時、その小軍勢は突然|狼狽《ろうばい》し出して、森の中に潰走《かいそう》してしまった。「謀叛《むほん》だ!」と叫びながらだれも皆逃げ出してしまった。逃走者を引きとめようとしたが駄目《だめ》だった、と祖父は話してきかした。祖父は彼らの前に身を投げ出して、おどかしたり涙を流して説いたりした。けれども逃走者の人波に巻き込まれて、翌日になると、戦場――と祖父は潰走の場所を呼んでいた――から驚くほど遠くに来てしまっていたのである。それでも、クリストフはいつも急《せ》き込んで、その英雄の勳功談に祖父を引きもどした。そして世界じゅうを馬蹄《ばてい》にふみにじった驚くべき話に魅せられてしまった。眼の前に浮かび出すその英雄は、無数の人民を後ろに従えていた。人民らは敬愛の叫びを発していて、彼の合図一つで群がりたって敵に飛びかかってゆき、敵はいつも敗走した。それはまったくお伽噺《とぎばなし》と同じだった。祖父は話を面白くするために、余計なものまで少しつけ加えた。その英雄はスペインを征服していた。許すことのできないイギリスをもほとんど征服していた。
 時とすると老クラフトは、その熱烈な物語の中で、この英雄にたいする憤慨の語を交えることもあった。愛国の精神が彼のうちに目覚めていた。そしておそらく、イエナの戦《いくさ》の話よりも、皇帝の敗北の条《くだり》においていっそうそうであったろう。彼は言葉を途切らして、ライン河に拳固《げんこ》をさしつけ、軽侮の様子で唾《つば》を吐き、上品な罵言《ばげん》――他の下等な罵言を吐くほど彼は自分を卑しくしなかった――を発した。悪人、猛獣、不徳漢、などとその英雄を呼んだ。そしてかかる言葉がもし、子供の精神の中に正義の観念をうち立てるのを目的としていたのなら、それは的はずれのものであったというべきである。なぜなら、子供の論理は次のように結論しやすかったから。「もしあんな偉い人が徳義をもっていなかったとするならば、徳義などということは大したものではない、最も大事なのは、偉い人になるということだ。」しかし老人は、自分のそばにようやく一人立ちをしかけてる幼い思想については、露ほどの察しもなかった。
 二人はそれらの素敵な話をめいめい自己流に考え耽《ふけ》りながら、いずれも黙っていた。――ただ途中で祖父が、自分を贔屓《ひいき》にしてくれてる上流のだれかが散歩してるのに出会うと、そうはいかなかった。祖父はいつまでも立止って、低くお辞儀をし、やたらに追従《ついしょう》的なお世辞を並べたてた。子供はそれを見て、なぜともなく顔を赤くした。しかし祖父は、既成権力と「成上り者」とにたいしては、心の底に尊敬の念をいだいていた。話の主人公たる英雄らを彼があれほど好きだったのは、よく成上りえた人物を、他の者より高い地位に達しえた人物を、彼らのうちに見出していたせいかもしれなかった。
 ごく暑い時には、老クラフトはよく木蔭にすわった。そして間もなく仮睡することが多かった。するとクリストフは祖父のそばで、ぐらぐらする石積の横の方や、標石や、またどんなに不安定で変なものであろうと何か高いものがあれば、その上に腰を下した。そして小さな足をぶらぶら動かしながら、小声で歌ったりぼんやり考え耽ったりした。あるいはまた仰向《あおむけ》に寝転んで、雲の飛ぶのを眺めた。雲は、牛や、巨人や、帽子や、婆さんや、広々とした景色など、いろんな形に見えた。彼はそれらの雲とひそかに話をした。小さな雲が大きいのにのみ込まれようとするのを見ては、あわれみの念を起こした。またほとんど青いとさえ言えるほど真っ黒なのや、非常に速く走るのを見ては、恐ろしいように思った。それらの雲が人生にも大きな場所を占めてるように思われた。そして祖父や母がそれに少しも注意を払わないのが、不思議でたまらなかった。もし悪を働く意志をもってたら、恐ろしい者となるに違いなかった。が幸いにもそれらは、人のよい多少おどけたふりをして通りすぎて、少しも止まらなかった。子供はあまり見つめていたので、しまいには眩暈《めまい》がしてきた。そして空の深みへ落ち込みかかってるかのように、手足をわなわな震わした。眼瞼《まぶた》がまたたいて、眠気がさしてきた……。静寂……。木の葉が日に照らされて、静かにそよぎ震えている。軽い靄《もや》が空中を過ぎてゆく。どこともなく蝿《はえ》の群が、オルガンのような音をたてて飛び交わしている。夏に酔った蝗《いなご》どもが、激しい歓びに羽音をたてている。あたりがしいんとなる……。丸くこんもりとした木立の葉影に、啄木鳥《きつつき》が怪しい鳴声をたてている。遠く野の中には、農夫の声が牛に呼びかけている。馬の蹄《ひづめ》が白い道路の上に響いている。クリストフの眼は閉じてくる。彼のそばでは、畝溝《うねみぞ》に橋をかけてる枯枝の上に一匹の蟻《あり》がはっている。彼はうっとりと知覚を失う……。幾世紀も過ぎ去った。彼は眼を覚ます。蟻はまだ小枝を渡りきっていなかった。
 祖父は時々あまり長く眠りすぎることがあった。顔がこわばり、長い鼻が伸び、口が横長く開いていた。クリストフは不安げにそれを眺め、その頭が奇怪な形に見えてくるのを気づかった。彼はその眠りを覚まそうとして、いっそう高い声で歌ったり、大きい音をたてて石積の斜面を滑り降りたりした。またある時ふと考え出して、祖父の顔に松葉を少し投げつけておいて、木から落ちたのだと言ってやった。祖父はそれをほんとうにした。クリストフはおかしくてたまらなかった。しかし彼は不運にもまたやってみようと考えた。そして手をふり上げたちょうどその時に、見ると、祖父の眼がじっと自分を眺めていた。まったく困ったことになった。老人は厳格であって、自分が当然受くべき尊敬になんらの悪戯《いたずら》をも加えることを許さなかった。二人は一週間以上もたがいに冷かな態度をとった。
 道が悪ければ悪いほど、クリストフにはいっそう面白く思われた。どの石の在処《ありか》も彼にとっては何かの意味となった。彼はその在処を皆知っていた。轍《わだち》の跡の凹凸《おうとつ》も、彼にとっては地理的の大変化であって、タウヌス連山などとほとんど匹敵するものだった。彼は自分の家のまわり二キロメートルばかりの地域にあるあらゆる凹凸の地図を、頭の中に入れていた。それで畝溝《うねみぞ》の間にできてる秩序を少し変えるような時には、自分は一隊の工夫を引連れた技師などに劣らぬ働きをするのだと思った。一塊の土の乾いた頂を踵《かかと》でふみつぶして、その下の方に掘られてる谷間を埋める時には、一日を無駄《むだ》には暮さなかったのだと考えた。
 時には、小馬車に乗った百姓に大道で出会うことがあった。向うは祖父をよく知っていた。二人は彼の横に乗った。それはこの世の楽園だった。馬は早く駆けた。クリストフはにこにこして喜んでいた。ただ、散歩してる他の人たちとすれちがう時だけは、真面目《まじめ》なゆったりした様子をして、いつも馬車に乗りつけてる人のようなふりをした。しかし心は自慢の念でいっぱいになっていた。祖父と百姓とは、彼をよそにして話をし合った。彼は二人の膝《ひざ》の間にかがまり、二人の腿《もも》に両方から押しつぶされる思いをし、やっと腰をかけ、またしばしばまったく腰をかけないでいることもあったが、それでも、嬉《うれ》しくてたまらなかった。返辞をされようとされまいとお構いなしに、声高く話をしかけた。馬の耳の動くのを眺めた。馬の耳って実に不思議な奴だ! 右へも左へも四方へ行き、前方へつっ立ち、横へ倒れ、後ろをふり向き、しかも放笑《ふきだ》さずにはおれないほどへんてこなふうでするのであった。彼は祖父をつねって、その耳に注意させようとした。しかし祖父にはそれが少しも面白くなかった。うるさいと言いながらクリストフに取り合わなかった。クリストフは考え込んだ。大人《おとな》というものは、どんなものにも驚かず、しっかりしていて、なんでも知ってるものだと彼は考えた。そして自分もまた大人らしい様子をし、好奇心を隠し、平気なふうをしようと努めた。
 彼は黙っていた。馬車が走るにつれて彼はうとうとした。馬の鈴が踊っていた。リ、リン、ドン、リン。楽《がく》の音《ね》が空中に起こって、銀のような鈴の音のまわりに、蜂《はち》の群みたいに飛び回っていた。そして規則的な馬車の響きの上に楽しく揺《ゆら》めいていた。それは尽くることなき歌の泉だった。歌は次から次へとつづいて現われてきた。どれもこれもクリストフには素敵なものと思われた。中にも、祖父の注意を促してやりたいほど美しく思われるのが一つあった。彼は少し声を高めてそれを歌った。しかしだれも気にも止めなかった。彼はふたたびその歌をくり返した、さらに高い調子で――それからも一度、あらんかぎりの声で――するとついにジャン・ミシェル老人は、腹をたてて彼に言った、「いい加減に黙らないか! ラッパのようにわめきたてて、たまらない奴だ!」――その声に彼ははっと息をつめた。鼻の頭まで真赤になり、がっかりして口をつぐんだ。そして今の歌が実にりっぱなものであることを、天空を開き示すほどの歌であることを、少しも了解しない愚鈍な二人に向かって、軽侮の念を浴せかけた。よく見ると、二人とも一週間も髯《ひげ》を伸ばしたままでたいへん見苦しかった。二人とも臭い匂いがしていた。
 彼は馬の影法師を眺めながらみずから慰めた。それもまた実に面白い看物《みもの》だった。その真黒な獣は、横に寝たまま道を駆けていった。夕方、帰る時には、牧場の中までずっと広がっていた。積草に出会うと、頭がその上にかけ上って、通りすぎるとまた元のところにもどっていった。その顔は破けた風船玉のようにだらりとしていた。その耳は大きくて、蝋燭《ろうそく》のようにとがっていた。ほんとうに影なのかしら、それとも生物かしら? 一人だったらクリストフも、こんなものに出会いたくなかったろう。祖父の影法師ならそれを追っかけて、頭の上を歩いたり足にふみつけたりしていたが、こんなものにたいしてはそれもなし得なかったろう。――太陽が傾くと、木立の影もまた瞑想《めいそう》の種だった。それは横ざまに道をさえぎっていた。陰気な奇怪な化物のようになって、「これから先へ行くな、」と言っていた。そして軋《きし》ってる車の心棒と馬の蹄《ひづめ》とがくり返した、「先へ行くな!」
 祖父と馬車の主人とは、際限もなくしゃべりつづけて飽かなかった。彼らはしばしば声を高めた。とくにその地方の事柄や損害の話の時そうだった。子供は夢想するのをやめて、心配そうに彼らを眺めた。たがいに腹をたててるように思われたし、おしまいには殴り合いになりはすまいかと気遣《きづか》われた。しかし実際はそれとまったく反対で、共通の憤懣《ふんまん》のうちに最もよく話が合ってる時だった。けれどもたいていは、少しの憤懣も熱情ももっていないことが多かった。彼らは自分たちに関係もない事柄を話題にして、下層の者らが喜びとするところと同じように、ただわめきたてる快楽のために喉《のど》いっぱいの大声を出していた。しかしクリストフは彼らの会話の意味が分らないので、ただその激しい声ばかりを耳にし、ひきつってる顔立を眺めて、心を痛めながら考えた。「こいつは人が悪そうな様子をしてる。二人は仲が悪いに違いない。こいつはあんなに眼をぎょろつかしてる、あんなに大きく口を開いてる。疳癪《かんしゃく》まぎれに私の顔まで唾《つば》を飛ばした。ああ、お祖父《じい》さんを殺すかもしれない……。」
 馬車は止まった。百姓は言った、「さあ着きましたよ。」二人の仇敵は握手をした。まず祖父が車から下りた。百姓は彼に子供を差出した。馬に一|鞭《むち》あてると、馬車は遠ざかっていった。二人はライン河のそばの小さな凹路《くぼみち》の入口にもどって来た。太陽は野に没していった。小道は河水とほとんどすれすれに通じていた。生《お》い茂った軟《やわらか》い草叢《くさむら》が、かすかな音をたてて足の下にしなっていった。榛《はんのき》の立木が半ば水に浸って、河の上に枝を垂れていた。蝿《はえ》が雲のように群れて飛び回っていた。一|艘《そう》の小舟が、ゆったりとした平安な流れのままに、音もなく通っていった。河波はひたひたと柳の枝に口づけをしていた。光は細やかで茫《ぼう》として、空気はさわやかに、河は銀鼠《ぎんねず》の色をしていた。彼らは住居に帰ってきた。蟋蟀《こおろぎ》が歌っていた。そしてもう戸口には、母親のなつかしい顔が微笑《ほほえ》んでいた……。
 おう、楽しい思い出、慈愛深い面影、それは一生の間、美しい諧調をたてる羽音のように響くであろう……。後年に試みる旅行、大きな都会、逆巻く海、夢のような景色、愛する人々の顔なども、子供のおりのかかる散歩や、または、他になすこともなくて小さな唇《くちびる》を窓ガラスにつけ、そこにできる息の曇り越しに、毎日透し見た庭の片隅、そういうものほど正確には心の中に刻み込まれない……。

 もはや、閉め切った家の中の晩である。家……あらゆる恐ろしいもの、影、夜、恐怖、見知らぬもの、などにたいする隠れ場所。いかなる敵もその敷居をまたぐことはできないだろう……。火が燃えている。黄色い鵞鳥《がちょう》の肉が、串《くし》にささってゆっくり回っている。脂肪と歯ごたえのある肉との甘い匂いが、室の中にたちこめている。飲食の喜び、類《たぐ》いない幸福、敬虔《けいけん》な感激、喜悦の小躍《こおど》り! 快い温かさと、その日の疲れと、親しい声の響きとに、身体はうっとりと筋がゆるんでくる。消化は身体を恍惚《こうこつ》のうちに溺《おぼ》らして、そこでは物の形も、影も、ランプの笠《かさ》も、真黒な暖炉の中で火の粉を散らして踊ってる炎の舌も、皆|歓《よろこ》ばしい不可思議な様子になる。クリストフは皿《さら》に頬《ほお》を寄せて、その幸福をいっそうよく味わおうとする……。
 彼は温かい寝床の中にいる。どうして彼はそこまでやって来たのだろう? 快い疲労に彼はぐったりしている。室の中の人声の響きと、一日のありさまとが、頭の中に立ち乱れる。父親はヴァイオリンを取上げる。鋭い美しい音が夜のうちに訴えるように響く。けれども最上の幸福は、母親が自分のそばにやって来る時、うとうとしてる自分の手をとってくれる時、自分の方に身をかがめて、求めるとおりに、意味もない言葉を連ねた古い唄《うた》を小声で歌ってくれる時である。父親はその音楽を馬鹿げたものだと言うけれど、クリストフはいくら聞いても聞きあきない。彼は息をこらす。笑ったり泣いたりしたくなる。心は酔わされる。自分がどこにいるかも分らない。やさしい感情で胸がいっぱいになる。彼は小さな両腕を母親の首にまきつけて、力の限り抱きしめる。彼女は笑いながら言う。
「まあ、私を絞め殺すつもりなのかい。」
 彼はいっそう強く抱きしめる。いかほど母親を愛してることだろう! いかほどすべてを愛してることだろう! あらゆる人を、あらゆる物を! すべてがよい、すべてが美しい……。彼は眠ってゆく。蟋蟀《こおろぎ》が竈《かまど》の中で鳴いている。祖父の話が、英雄の面影が、楽しい夜の中に浮んでくる。……彼らのように英雄になる!……そうだ、自分は英雄になるだろう……いやもう英雄になっている……。ああ、生きてることはなんといいことだろう!……

 いかにおびただしい力と喜びと誇りとが、この小さな存在のうちにあることぞ! いかにみちあふれた精力ぞ! 彼の身体と精神とは、息も止まるばかりに回転する輪舞のままに、常に動いている。一匹の小さな火蛇《かじゃ》のように、彼は昼も夜も炎の中に踊っている。何物にも疲らされず、あらゆる物から養われる、一の熱誠。物狂おしい夢、ほとばしる泉、無尽蔵な希望の宝、笑、歌、不断の陶酔。人生はまだ彼を捉《とら》えない。彼はいつも人生から脱して、無限のうちに泳いでいる。いかに幸福であることぞ! 幸福であるようにできてるのだ! 彼のうちには、幸福を信ぜないものは何もなく、その小さな熱中した全力を尽して幸福を目指さないものは、何もない……。
 人生はやがて、彼を理性に従わしむることにみずから任ずるであろう。

     二

           曙《あけぼの》の前に小暗《おぐら》き時は
           逃げ去りて、遠方《おちかた》に、
          海のおののき見えたりき……
               ――神曲、煉獄の巻、第一章――

 クラフト家はアンヴェルスの出であった。ところが老ジャン・ミシェルは、かつて若気の過ちと激しい喧嘩《けんか》とのすえ、その土地を去ってしまった。彼はたびたび喧嘩をしたことがあった――ひどく喧嘩好きだったから――そしてこの最後の喧嘩がいやな結果に終ったのである。で彼は、およそ五十年ばかり前に、今の大公領の小都会に移住してきた。なだらかな丘の斜面につみ重なってる頂のとがった赤い屋根と木影深い庭園とは、父なるライン[#「父なるライン」に傍点]の薄緑をした河の眼に映っていた。すぐれた音楽家である彼は、だれも皆音楽家ばかりであるその地方に、すぐにもてはやされるようになった。そして四十歳を過ぎてから、クララ・ザルトリウスと結婚して、その地に根をすえてしまった。彼女は大公に仕えてる楽長の娘であって、彼はその楽長の職を譲り受けた。クララは沈着なドイツ婦人で、料理に音楽という二つの熱情をもっていた。そして夫にたいしては、父親にたいするのにも劣らない深い尊敬をいだいていた。ジャン・ミシェルの方でも、妻に深く感心していた。二人は琴瑟相和《きんしつあいわ》して十五年間を過し、四人の子供をもうけた。それからクララが死んだ。ジャン・ミシェルはその死をいたく嘆き悲しんだが、五か月たってからオティーリエ・シュッツと結婚した。顔が真赤で、頑丈《がんじょう》で、いつも上|機嫌《きげん》な、二十歳の娘だった。彼女はクララと同じくらいに美点をそなえていたし、ジャン・ミシェルもクララにたいしたのと同じくらいに愛してやった。ところが結婚後八年にして、彼女もまた死んだ。がそれだけの間に、七人の子供を生んでいた。合せて十一人の子供であるが、そのうち生き残ったのはただ一人きりだった。ジャン・ミシェルは非常に子|煩悩《ぼんのう》ではあったが、その幾度もの不幸も、彼の堅固な楽天的気質を変えはしなかった。最もひどい打撃は、オティーリエの死であった。それは今から三年前のことで、彼はもう、生活を立て直し新らしい家庭を作るには困難な年齢に達していた。しかし一時途方にくれた後に、彼はまた精神の平衡を回復した。いかなる不幸も、このジャン・ミシェル老人から、精神の平衡を失わしめることはできなかった。
 彼は愛情深い男であった。しかし彼のうちでは、何物よりも健康が最も力を振っていた。悲哀にたいする生理的な嫌悪《けんお》の情、フラマン人風の粗野な快活にたいする嗜好《しこう》、子供らしい大笑い、などを彼はそなえていた。どんな悲痛なことがあろうとも、杯の数を一つ減らしたこともなく、御馳走《ごちそう》を一口ひかえたこともなかった。かつて音楽を休んだことがなかった。宮廷の管弦楽は彼の指揮のもとに、ライン地方でかなりの名声を得た。そしてジャン・ミシェルは、その格闘者めいた体格と激しい疳癪《かんしゃく》とで、広く人の噂《うわさ》になっていた。彼はいかに努めても、おのれを制することができなかった。彼は元来小心で、危い破目に陥ることを恐れていたし、また礼儀を好み評判を気にしていたので、非常に努力をした。しかしいつも血気の情に負かされた。眼の前が真赤になった。突然狂猛な苛立《いらだ》ちにとらえられた。管弦楽の下稽古《したげいこ》の時ばかりではなく、公《おおやけ》の演奏の最中にもそうだった。大公の面前で、怒りたって指揮棒を投げすて、激しい急《せ》き込んだ声で楽員のだれかを詰問しながら、気でも狂ったように足を踏み鳴らした。大公はそれを面白がっていた。しかし矢面に立った楽員らは、彼にたいして恨みを含んだ。ジャン・ミシェルは自分の狂気|沙汰《ざた》を恥じ、すぐその後で、おおげさなお世辞をつかって忘れてもらおうとつとめたが、徒労であった。ふたたび何かの機会がありさえすれば、ますますひどく疳癪《かんしゃく》を破裂さした。その極端な癇癖《かんぺき》は、年とともにつのってきて、ついに彼の地位を困難ならしめた。彼はみずからそれに気付いた。そしてある日、例のとおりひどく怒りたったために、全楽員の罷業《ひぎょう》が起ころうとした時、彼は辞職を申出た。けれども多年の功労の後なので、辞職聴許はむずかしかろうし、居据《いすわ》りを懇願せられることだろうと、ひそかに期待していた。ところがそうではなかった。そして申出を取消すには自尊心が許さなかったので、彼は人々の亡恩をののしりながら、悲痛な思いで職を去った。
 それ以来彼は、毎日何をして暮していいか分らなかった。もう七十歳を越していたが、まだいたって元気だった。それで、出稽古をしたり、議論をしたり、無駄《むだ》口をたたいたり、あらゆることに立交じって、相変わらず働きつづけ、朝から晩まで町中を駆け回った。彼はいたって器用で、さまざまの仕事を捜し出していた。楽器の修繕もやり出した。種々くふうをしたり、試みにやってみたり、時には改良の方法をも発見した。また作曲もし、そのために勉強もした。かつて壮厳ミサ曲[#「壮厳ミサ曲」に傍点]というのを書いたことがあった。彼はそれをしばしば口にのぼせ、それは一家の名誉となっていた。書いてるうちに脳溢血《のういっけつ》を起こしかけたほど苦心を重ねたものだった。それを彼は天才的な作品だと無理に思い込もうとしていた。しかしいかに空虚な思想で書かれたものであるかは、みずからよく知っていた。そしてもはやその原稿を読み返すこともしかねた。なぜなら、自分の独創になったものだと信じてる楽句の中に、他の作曲家らの手になった断片が、むりやりにどうかこうか綴《つづ》り合わせられてるのを、読み直すたびごとに見出したからである。それは彼にとって非常な悲しみの種だった。時とすると、実に素敵なものだと思えるような思想が彼にも浮かんできた。すると身を震わしながらテーブルに駆け寄った。こんどこそはついに霊感《インスピレーション》をとらえたのであろうか?――しかしペンを手にするや否や、彼は静寂のうちにただ一人ぽつねんとしてる自分を見出した。そして消え失せた声を呼びもどそうといくら努力しても、結局は、メンデルスゾーンやブラームスなどの耳慣れた旋律《メロディー》が聞えてくるにすぎなかった。
「世には不幸な天才がある。」とジォルジュ・サンドが言った。「彼らには表現の方法が欠けていて、人知れぬ自分の瞑想《めいそう》を墳墓のうちに持ってゆく。著名なる唖者や吃者《どもり》の仲間の一人たる、ジォフロア・サン・ティレールが言ったとおりである。」――ジャン・ミシェルもそういう仲間に属していた。彼はもはや、言語においてと同じように、音楽においてもおのれを発表することができなかった。そしていつも幻をえがいていた。話すこと、書くこと、大音楽家になること、雄弁家になること、それをどんなにか望んだであろう! そこに彼の秘密な傷口があった。彼はそれをだれにも語らず、自分自身にも押し隠し、考えもすまいとつとめた。しかしいつも我知らずその方へ考が向いていった。そして心の中に死の種が下されていた。
 あわれなる老人! 何事においても、彼は完全に自分自身であることを得なかった。彼のうちにはいかにも多くの美しい力強い芽が存していたけれども、一つとして生長するに至らなかった。芸術の威厳と人生の精神的価値とにたいする感動すべき深い信念、しかしその信念は、往々にして誇大|滑稽《こっけい》な様子で外に現われていた。いかにも多くの貴い自尊心、しかも実生活においては、長上にたいするほとんど奴隷的な賞賛。独立|不覊《ふき》を欲するいかにも高い願望、しかも事実においては、絶対の従順。自由精神を有してるとの自負、しかも、あらゆる迷信。勇壮にたいする熱愛、実地の勇気、しかも、多くの無気力。――中途にして立止る性格であった。

 ジャン・ミシェルは自分の大望を息子の上に投げかけていた。そしてメルキオルには初めのうち、それらをやがて実現するかもしれない望みがあった。彼はすでに幼年時代から、音楽にたいする稀《まれ》な天賦の才を見せていた。きわめてやすやすと音楽を習得したし、また早くからヴァイオリニストとしてりっぱな技倆《ぎりょう》を修めえた。そのために彼は長い間、宮廷音楽会の寵児《ちょうじ》となり、ほとんど偶像のように尊ばれた。なおピアノや他の楽器をも、いたって上手《じょうず》に演奏することができた。またごく話し上手で、多少鈍重ではあるが様子がよく、ドイツにおいて古典的な美男子とさるる型《タイプ》に属していた。落着いた広い額、道具の大きな正しい顔立、縮れた髯《ひげ》、まったくライン河畔のジュピテルであった。ジャン・ミシェル老人はこの息子の成功を楽しみにしていた。彼はみずからいかなる楽器をもうまく演奏することができなかったので、達人の技芸に接するとそれに聞き惚《ほ》れるのだった。確かにメルキオルは、自分の考えを表現するのに困難を覚ゆるような男ではなかった。不幸なことといえば、何にも考えないことだった。そして彼自身はそんなことを気にもしなかった。彼はまさしく凡庸《ぼんよう》な役者と同じ魂をもっていた。凡庸な役者は、台詞《せりふ》の意味には気もかけず、ただ台詞回しにばかり注意し、聴衆に及ぼすその効果を、得々として細心に見守っているものである。
 最もおかしなことには、ジャン・ミシェルもそうであったが、彼は舞台上の自分の態度にたえず気を配っていたし、また社会的因襲を恐れ尊んでいたけれども、それにもかかわらずなお、調子はずれな突飛な軽率な様子をいつももっていた。そのために世間からは、クラフト家の者は皆多少狂人じみたところがあると言われた。そしてそんな噂《うわさ》も、初めのうちは別に彼を傷つけはしなかった。そういう風変りの性質こそかえって、彼が天才であることを証するものであると思われた。芸術家には何か独特な点があるものだということは、識者の間に認められてることだから。しかし人々はやがて、かかる突飛な行動の性質に注意を向けてきた。その原因はたいてい酒にあった。バッカスは音楽の神である、とニーチェは言った。メルキオルの本能もそれと同意見であった。しかしこの場合には、彼の神は恩知らずだった。彼に欠けてる思想を与えてくれるどころか、彼がもってるわずかな思想をも奪ってしまった。馬鹿な結婚(世間の者にも馬鹿らしく見えたし、その結果彼にも馬鹿らしく見えた)をしてしまった後、彼はますます自制がなくなった。彼は技能をないがしろにした――わずかの間に自己の優越を失ってしまったほど自惚《うぬぼ》れていたのである。他の名人らがにわかに現われてきて、彼に次いで世間の好評を博した。彼にとっては苦々《にがにが》しいことだった。しかし彼は失敗のあげく、元気を振い起こすどころか、すっかり落胆しきってしまった。そして酒場の仲間らとともに競争者の悪口を言いながら、せめてもの意趣晴しをしていた。彼は馬鹿げた高慢心のあまり、父の後を継いで楽長になれることと期待していた。ところが他人がそれに任命された。彼は迫害をこうむったような気がして、埋もれた天才らしい様子をした。老クラフトが受けていた尊敬のおかげで、管弦楽団《オーケストラ》のヴァイオリニストの地位は保ちえたが、しだいに、町の家庭教授の口をたいてい失ってしまった。そしてこの打撃は、彼の自尊心にとって最も痛切なものだったし、また彼の財布にとってはさらに痛切なものだった。数年来、種々な不幸の後を受けて、生活の方が非常に切りつまっていた。豊かな生活を知った彼に、困窮が見舞って来て、日に日に大きくなっていった。メルキオルはその方面のことは知らん顔をして、服装《みなり》や快楽のための出費を一銭も減じなかった。
 彼は悪い男ではなかった。否それよりいっそう始末におえないことかもしれないが、半ば善良な男で、弱者で、なんの策略ももたず、意気地もなく、そのうえ、善良な父であり、善良な息子であり、善良な夫であり、善良な人間であると、自信していた。もしそういうものでありうるためには、容易に動かされやすい軽率な親切心と、自己の一部分として家族の者らを愛する動物的情愛とで十分であるとするならば、彼はおそらく実際にそういう善良な者であったろう。また彼はひどい個人主義者であるともいえなかった。個人主義者たるには十分の性格をそなえていなかった。彼は実になんでもない男であった。そしてかかるなんでもない男こそ、人生においては恐るべきものである。彼らは空中に放置された重体のように、ただ下に落ちようとする。どうしても落ちざるをえない。そして自分とともにいるものをみな、いっしょに引きずって落ちてゆく。

 小さなクリストフが周囲の出来事を了解し始めたのは、家庭の状態が最も困難になってる時にであった。
 彼はもう一人息子ではなかった。メルキオルは行末どうなるか気にもかけずに、毎年妻に子供を産ました。二人の子供は幼くて死んだ。他の二人は三歳と四歳とになっていた。メルキオルはいっさい子供のことをかまわなかった。でルイザは、やむをえない用で出かける時には、もう六歳になってるクリストフに二人の子供を頼んだ。
 クリストフにはそれがつらかった。なぜならその務めのために、野原の楽しい午後の散歩をやめなければならなかった。しかしまた彼は、一人前に取扱われるのが得意になって、りっぱにその仕事をやってのけた。子供に種々なことをしてみせて、できるかぎり面白がらせた。母親がするのを聞いたとおりに真似《まね》て、子供たちに話しかけようとした。あるいはまた母親のを見たとおりに真似て、子供を代わる代わる腕に抱いてやった。小さな弟を胸から落とすまいとして、力いっぱいに抱きしめ、歯をくいしばりながらも、重いので腰がよく伸びなかった。子供たちはいつも抱かれたがって、決してあきることがなかった。そしてクリストフにもうできなくなると、いきなり泣き出してとめどがなかった。また彼は子供たちにひどく痛い目に会わされて、しばしば途方にくれた。子供たちはよごれていて、母親らしい世話もしてやらなければならなかった。クリストフはどうしていいか分らなかった。子供たちは彼にたいして勝手なまねをした。彼も時とするとその頬辺《ほおぺた》を打ちたくなった。けれどもまた考え直した、「小さいんだ、分らないんだ。」そしてつねられたり打たれたり苦しめられたりするのに、寛大に身を任していた。エルンストはつまらないことにもわめきたてた。じだんだふんだり、怒って転がり回ったりした。神経質な子供だった。でルイザは、彼の気に障《さわ》ることをしてはいけないと、クリストフに言いつけておいた。ロドルフの方は猿《さる》知恵のたちだった。クリストフがエルンストを抱いてる隙《すき》につけこんでは、いつもその後ろに回ってあらんかぎりの悪戯《いたずら》をした。玩具《おもちゃ》を壊《こわ》し、水をひっくり返し、着物をよごし、また戸棚の中をかき回しては皿を落したりした。
 そういうふうだったから、ルイザは家にもどってくると、クリストフをねぎらいもしないで、乱雑なありさまを見ながら、叱《しか》りつけはしないが顔を曇らして、彼に言った。
「困った子だね、お守《も》りが下手《へた》で。」
 クリストフは面目を失って、しみじみと心悲しかった。

 ルイザはわずかな金の儲《もう》け口も見逃さなかったので、婚礼の御馳走《ごちそう》だの洗礼の御馳走だのという特別の場合には、やはりつづけて料理女として雇われていった。メルキオルはそれを少しも知らないようなふりを装っていた。なぜなら自尊心を傷つけられることだったから。しかし彼女が自分に内密でやってることについては、別に気を悪くしてはいなかった。小さなクリストフの方はまだ、生活の困難ということが少しも分らなかった。自分の意志の拘束となるようにはっきり感ぜられるものは、ただ両親の意志のみであった。しかもそれとて、彼はほとんど思いどおりに放任されていたので、さほど厄介なものではなかった。彼はなんでも思いどおりのことができるためには、ただ大人になることをしか望んではいなかった。人が一歩ごとにぶっつかるあらゆる障害を、彼は想像だもしてはいなかった。とくに大人である自分の両親さえ万事が思いどおりにやれるものではないということを、彼はかつて考えもしなかった。人間のうちには命令する者と命令される者とがあるということを、そしてまた、家の人たちも自分もともに前者に属するのではないということを、彼が初めて瞥見《べっけん》した日、彼の心身は激しく猛《たけ》りたった。それこそ彼の生涯の最初の危機であった。
 その日、母は彼にいちばん綺麗《きれい》な服を着せてくれた。もらい物の古着ではあったが、ルイザが丹念に手ぎわよく仕立直したものだった。彼は言われたとおり、母をその働いてる家へ尋ねていった。ただ一人ではいってゆくことを考えると気後《きおく》れがした。一人の給仕が玄関にぶらぶらしていた。彼は子供を引止めて、何しに来たかといたわるような調子で尋ねた。クリストフは顔を赤くして、「クラフト夫人」――言いつけられたとおりの言葉を使って――に会いに来たのだと口籠《くちごも》りながら答えた。
「クラフト夫人だって? なんの用だい、クラフト夫人に?」と給仕は夫人という言葉に皮肉な力をこめて言いつづけた。「お前のお母さんなのかい。そこを上っておいで。廊下の奥の料理場へ行けば、ルイザに会えるよ。」
 彼はますます顔を赤らめながら歩いて行った。母がなれなれしくルイザと呼ばれたのを聞いてきまりが悪かった。一種の屈辱を感じた。もうそこを逃げ出して、親しい河岸に駆けてゆき、いつもみずからいろんな話を考えるあの藪《やぶ》の後ろに、はいり込んでしまいたいような気もした。
 料理場へ行くと、彼は他の多くの召使どもの中にはいり込んだ。皆は騒々しく囃《はや》したてて彼を迎えた。奥の方の竈《かまど》のそばで、母はやさしいまた多少困ったような様子で、彼に微笑《ほほえ》みかけていた。彼はそこへ駆け寄って、母の膝《ひざ》にすがりついた。母は白い胸掛をつけて、木の匙《さじ》をもっていた。そしてまず、顔を上げて皆に見せるがいいとか、そこにいる人たちに一々今日はと言って握手を求めなさいと言って、ますます彼を困惑さした。彼はそれを承知しなかった。壁の方を向いて、顔を腕の中に隠してしまった。しかしだんだん勇気が出て来て、笑いを含んだ輝いた眼でちょっと覗《のぞ》いては、人に見られるたびにまた首を縮めた。そういうふうにして彼はひそかに人々の様子を窺《うかが》った。母は彼がこれまで見かけたこともないほど、忙しそうなまた厳《おごそ》かな様子をしていた。鍋《なべ》から鍋へと往《い》ったり来たりして、味をみ、意見を述べ、確信ある調子で料理の法を説明していた。普通《なみ》の料理女はそれを畏《かしこま》って聞いていた。母がどんなに人々から尊敬されてるかを見て、また、光り輝いてる金や銅のりっぱな器具で飾られたこの美しい室の中で、母がどんな役目を演じてるかを見て、子供の心は得意の情にみちあふれた。
 突然、すべての話し声がやんだ。扉《とびら》が開いた。一人のりっぱな夫人が、硬《かた》い衣摺《きぬず》れの音をたててはいって来た。彼女は疑り深い眼付であたりを見回した。もう若くはなかったが、まだ袖《そで》の広い派手な長衣を着ていた。そして物にさわらないように片手で裳裾《もすそ》を引上げていた。それでもやはり竈《かまど》のそばにやって来て、皿《さら》の中を覗《のぞ》き込んだり、また味をみまでした。少し手を上げると、袖がまくれ落ちて、肱《ひじ》の上まで素肌《すはだ》だった。クリストフはそれを見て、見苦しいようなまた猥《みだ》らなような気がした。いかに冷やかなぞんざいな調子で彼女はルイザに口をきいたか、そしてルイザはいかにへり下った調子で彼女に答えたか! クリストフはそれに驚かされた。彼は見つからないように片隅に身を潜めたが、なんの役にもたたなかった。その小さな児《こ》はだれかと夫人は尋ねた。ルイザはやって来て、彼をとらえて、御覧に入れようとした。顔を隠させまいとして両手を押えた。彼は身をもがいて逃げ出したかったが、こんどはどうしても逆らえないように本能的に感じた。夫人は子供のあわてた顔付を眺めた。そしてすでに母親としての彼女の最初の素振りは、彼にやさしく微笑《ほほえ》みかけることだった。しかし彼女はまたすぐに目上らしい様子をして、行状だの信仰だのについて種々な問いをかけた。彼は少しも返辞をしなかった。彼女はまた彼の着物がよく似合うかどうかを眺めた。ルイザは急いで着物がりっぱになったのをお目にかけた。そして襞《ひだ》を伸すために上着をやたらに引張った。クリストフは非常に窮屈になって声をたてたいほどだった。なぜ母親がお礼を言ってるのか、彼には少しも分らなかった。
 夫人は彼の手を取って、自分の子供たちのところに連れて行きたいと言い出した。クリストフは困り切った眼付で母をちらと眺めた。しかし母はいかにも慇懃《いんぎん》な様子で御主人に笑顔を見せていたので、もうなんの希望もないことを彼は見てとった。そして彼は屠所《としょ》に牽《ひ》かるる羊のように、夫人の案内に従っていった。
 二人は庭にやって行った。そこには無愛相な二人の子供がいた。クリストフとほぼ同じ年ごろの男の子と女の子とだったが、何かたがいに気を悪くしてるらしかった。ところがクリストフが来たのでそれがまぎれた。彼らは近寄って来て新参者をじろじろ眺めた。クリストフは夫人から置きざりにされて、径《みち》につっ立ったまま、眼を挙げることもしかねた。二人の子供は数歩のところにじっと立って、彼を頭から足先まで見回し、肱《ひじ》でつっつき合って、嘲《あざけ》っていた。がついに思いきって、なんという名前か、どこから来たか、父親は何をしているか、などと尋ねだした。クリストフは堅くなって何にも答えなかった。彼は涙が出るほど気圧《けお》されていた。とくに、金髪を編んで下げ、短い裳衣《しょうい》をつけ、脛《すね》を露《あら》わしてる少女のために、ひどく気圧されていた。
 彼らは遊び始めた。そしてクリストフが少し安心しだした時、男の子は彼の前に立ちはだかって、彼の上着に手をふれながら言った。
「やあ、これは僕んだ!」
 クリストフには訳が分らなかった。自分の上着が他人のだというその言葉に憤慨して、彼は強く頭を振って打消した。
「僕はよく知ってる。」と男の子は言った。「僕の古い紺《こん》の上着だ。そら汚点《しみ》がある。」
 そして彼は汚点のところを指でつっついた。それからなお検査をつづけて、クリストフの足を調べ、靴《くつ》の先がなんで繕ってあるかと尋ねた。クリストフは真赤になった。女の子は口をとがらして、貧乏人の子だと兄に――クリストフにも聞えた――ささやいた。クリストフはその言葉にまたむっとした。そして、人を侮辱したその考えをやっつけてやろうと思って、むちゃくちゃに声をしぼって言いたてた、自分はメルキオル・クラフトの子で、母は料理番ルイザであると。――そういう身分は他のどんな身分にも劣らずりっぱだと彼には思えたのであるし、またそれが正当だったのである。――しかし他の二人の子供は、もとよりその報告を面白がっていて、彼を前よりも重んずるようなふうは見えなかった。かえって主人らしい調子をとった。将来何をするつもりか、やはり料理人か御者かになるつもりなのかと、そんなことを彼に尋ねた。クリストフはまた黙り込んだ。胸を氷で貫かれたような気がした。
 彼が黙り込んでるのに力を得て、二人の金持ちの子供は、突然この貧乏な子供にたいして、子供にありがちな無理由の残酷な反感を懐《いだ》いて、彼をいじめてやる面白い仕方はないかと考えた。女の子の方がとくに熱心だった。クリストフが窮屈な服を着てるので楽には走れないことを見てとった。そして障害物を飛び越させるといううまいことを思いついた。そこで、小さな腰掛で柵《さく》をこしらえて、クリストフにそれを飛び越せと迫った。かわいそうにも彼は、なぜ飛びにくいかをうち明けて言いえなかった。彼は全身の力を集めて、身を躍らしたが、地面に転ってしまった。まわりではどっと笑い声が起こった。彼はまたやり直さなければならなかった。眼に涙を浮べて、自棄《やけ》になってやってみた。するとこんどはうまく飛べた。いじめる方ではそれを快しとしないで、柵が十分高くないのだときめた。そして他の道具を積み添えて、危険なほどにしてしまった。クリストフは反抗しようとした。もう飛ばないと言い切った。すると女の子は彼を卑怯《ひきょう》者だと呼びたてて、恐《こわ》がってるのだと言った。クリストフはそれに我慢できなかった。そして転ぶことを覚悟で飛んでみると、はたして転がってしまった。足が障害物に引っかかって、何もかも彼といっしょにひっくり返った。彼は手の皮をすりむき、また危く頭を割るところだった。そしてなお不幸なことには、服の両|膝《ひざ》やその他のところが破けた。彼は恥ずかしくてたまらなかった。まわりには二人の子供の喜び踊ってるのが聞えた。彼は痛切な苦しみを受けた。そしてはっきり感じた、彼らが自分を軽蔑《けいべつ》してることを、自分をきらってることを。なぜなのか、なぜなのか? 彼にはむしろ死ぬ方が望ましかった!――他人の悪意を初めて見出した子供の苦しみ、それ以上に残忍な苦しみはない。子供は世界じゅうの者から迫害されてるように考える、そして自分を支持してくれるものは何ももたない。もう何もない、もう何もないのだ!……クリストフは起き上がろうとした。男の子は彼をまた押し倒した。女の子は彼を足で蹴《け》った。彼はも一度起き上がろうとした。彼らは二人いっしょに飛びかかって来て、彼の顔を地面に押し伏せながら背中にのしかかった。その時彼は怒りの念にとらえられた。あまりにひどかった! ひりひり痛んでる両手、裂けたりっぱな服――彼にとっての大災難――、恥辱、苦痛、不正にたいする反抗、一度にふりかかって来た多くの不幸が融《と》け合って、物狂おしい憤怒《ふんぬ》に変わった。彼は両膝と両手で四つ這《ば》いになり、犬のように身を揺って、迫害者らをそこに転がした。そして彼らがふたたび襲いかかって来ると、彼は頭を下げて突き進み、女の子の頬《ほお》を殴りつけ、男の子を花壇の中に一撃で打ち倒した。
 激しい悲鳴が起こった。二人の子供は疳《かん》高い泣声をたてて家の中に逃げ込んだ。扉のがたつく音がし、怒った叫び声が聞えた。夫人は長衣の裳裾《もすそ》の許すかぎり早く駆けつけて来た。クリストフは彼女がやって来るのを見たが、逃げようとはしなかった。彼は自分の仕業に慄然《りつぜん》としていた。それはたいへんなことだった、罪であった。しかし彼は少しも後悔はしなかった。彼は待受けた。もう取り返しがつかなかった。それだけに始末もいい! 彼は絶望あるのみだった。
 夫人は彼に飛びかかった。彼は打たれるのを感じた。激しい声でやたらに何か言われてるのを耳に聞いたが、なんのことだか少しも聞き分けられなかった。二人の敵は彼の恥辱を見物しにもどって来て、声の限り怒鳴りたてていた。召使らも来ていた。がやがや騒ぐばかりだった。最後に大打撃としては、ルイザが人に呼ばれてそこに出て来た。そして彼を庇《かば》うどころか、彼女もまた訳も分らない先から彼を打ち始め、謝《あやま》らせようとした。彼は怒って言うことをきかなかった。彼女はますます強く彼を突っつき、手をとらえて夫人と子供たちとの方へ引きずってゆき、その前にひざまずかせようとした。しかし彼は足をふみ鳴らし、わめきたて、母の手に噛《か》みついた。そしてしまいには、笑ってる召使らの間に逃げ込んでしまった。
 彼は胸がいっぱいになり、憤りと打たれた跡とで顔をほてらして、立ち去っていった。何にも考えまいと努めた。往来で泣くのがいやなので足を早めた。涙を流して心を和げるために、どんなにか家に早く帰りたかった。喉《のど》がつまり頭が逆上《のぼ》せていた。彼はわっと泣き出した。
 ついに家へ着いた。黒い古階段を駆け上って、河に臨んだ窓口のいつもの隠れ場所までやっていった。そこで息を切らして身を投げ出した。涙がどっと出て来た。なぜ泣くのか自分でもよくは分らなかった。けれど泣かずにはおられなかった。そして初めの涙がほとんど流れつくしても、なお泣いた。自分とともに他人をも罰せんとするかのように、自分自身を苦しめるために、憤りの念に駆られてやたらに泣きたかったのである。それから彼は考えた、父がやがて帰って来るだろう、母は何もかも言いつけるだろう、災はまだなかなか済みはしないと。どこへでもかまわないから逃げ出してしまって、もう二度と帰っては来まい、と彼は決心した。
 階段を降りかけてるとちょうど、もどってくる父に彼はぶっつかった。
「何をしてるんだ、悪戯《いたずら》児め。どこへ行くんだ?」とメルキオルは尋ねた。
 彼は答えなかった。
「何か馬鹿なことをしたんだな。何をしたんだ?」
 クリストフは強情に黙っていた。
「何をしたんだ?」とメルキオルはくり返した。「返辞をしないか?」
 子供は泣き出した。メルキオルは怒鳴り出した。そしてたがいにますますひどくやってると、ついにルイザが階段を上ってくる急ぎ足の音が聞えた。彼女はまだすっかりあわてきったままもどって来た。そしてまず激しく叱《しか》りつけながら、ふたたび彼を打ち始めた。メルキオルも事情が分るや否や――否おそらく分らないうちから――牛でも殴るような調子でいっしょになって平手打を加えた。二人とも怒鳴りたてていた。子供はわめきたてていた。しまいには彼ら二人で、同じ憤りからたがいに喧嘩《けんか》を始めた。子供を殴りつけながらメルキオルは、子供の方が道理《もっとも》だと言い、金をもってるから何をしてもかまわないと思ってる奴らの家に働きに出かけるからこそ、こんなことになるんだと言った。またルイザは子供を打ちながら、あなたこそ実に乱暴だ、子供に手を触れてはいけない、怪我《けが》をさしてしまったではないか、と夫に向かって怒鳴った。実際クリストフは少し鼻血を出していた。しかし彼はみずからそれをほとんど気にかけていなかった。そして母はなお叱りつづけていたので、彼女から濡《ね》れた布を手荒く鼻につめてもらっても、別にありがたいとは思わなかった。しまいに彼は薄暗い片隅に押し込まれて、そこに閉じこめられたまま晩飯も与えられなかった。
 二人がたがいに怒鳴り合ってるのを、彼は聞いた。そしてどちらの方が余計憎いか分らなかった。母の方であるような気もした。なぜならそんな意地悪い仕打をかつて母から期待したことがなかったから。その日のあらゆる災害が一度に彼の上に圧倒してきた、彼が受けたすべてのこと、子供らの不正、夫人の不正、両親の不正、それから――よく理解できないがただ生傷のように感ぜられたことであるが――彼があれほど誇りにしていた両親が意地悪い軽蔑《けいべつ》すべき他人の前に頭の上がらないこと。彼が初めて漠然と意識したその卑怯《ひきょう》さは、いかにも賤《いや》しむべきことのように彼には思われた。彼のうちにあるすべては揺り動かされた、家の者らにたいする尊敬も、彼らから鼓吹された宗教上の敬畏《けいい》の念も、人生にたいする信頼の念も、他人を愛しまた他人から愛せられようという純朴《じゅんぼく》な欲求も、盲目的ではあるが絶対的である道徳上の信念も。それは全部の倒壊であった。身を護《まも》る手段もなく、身をのがれる術《すべ》もなく、獰猛《どうもう》な力のためにおしつぶされた。彼は息がつまった。もう死ぬような気がした。絶望的な反抗のうちに全身を凝り固めた。壁に向かって拳固《げんこ》や足や頭でぶつかってゆき、わめきたて、痙攣《けいれん》に襲われ、家具に突き当って怪我しながら下に倒れてしまった。
 両親は駆けつけて来て、彼を腕に抱きとった。そしてこんどは、われ先にと彼にやさしくしてくれた。母は彼に着物をぬがせ、寝床に連れてゆき、その枕頭《ちんとう》にすわって、彼がいくらか落着くまでそばについていた。しかし彼は少しも心を和らげず、何一つ勘弁してやらず、彼女を抱擁すまいとして眠ったふりをした。母は悪者であり卑怯者であるように思われた。そして、生きるために、また彼を生きさせるために、彼女がどんなに苦しんでいるか、彼と反対の側に立って彼女がどんなに心を痛めたか、それを彼は夢にも知らなかった。
 幼い眼の中に蓄えられてる驚くべき涙の量を、最後の一滴まで流しつくした後に、彼は少し気分がやわらいだ。彼は疲れていた。しかし神経があまり緊張していてよく眠れなかった。半ばうとうとしていると、先刻の種々な面影が浮かび出てきた。とくによく見えてきたのは、あの女の子であって、その輝いてる眼、人を軽んずるようにぴんとはね上がってる小さな鼻、肩に垂れてる髪の毛、露《あら》わな脛《すね》、子供らしいまた勿体《もったい》ぶった言葉つき、などまではっきり浮かんできた。彼はその声がまた聞えるような気がして身を震わした。彼女にたいしてどんなに自分が馬鹿げていたかを思い起こした。そして荒々しい憎悪を感じた。辱《はずか》しめられたことが許せなかった。そしてこんどは向うを辱しめてやろうと、彼女を泣かしてやろうと、たまらない願望に駆られた。彼はその方法を種々考えたが、一つも思いつかなかった。彼女がいつか自分に注意を向けようとは、どこから見ても考えられなかった。しかし心を安めるために、彼は万事が願いどおりになるものと仮定した。で彼は、自分がたいへん強いりっぱな者になったこととし、同時に、彼女が自分に恋をしてるときめた。そして彼は例の荒唐無稽《こうとうむけい》な話を一つみずから語り始めた。彼はついにそういう話を、現実よりももっと実際なことのように考えてるのだった。
 彼女は恋々《れんれん》の情にたまらなくなっていた。しかし彼は彼女を軽蔑《けいべつ》していた。彼がその家の前を通ると、彼女は窓掛の後ろに隠れて彼が通るのを眺めた。彼は見られてることを知っていたが、それを気にも止めないふりをして、快活に口をきいていた。それからまた彼女の悶《もだ》えを増させるために、彼は故国を去って遠くへ旅した。彼は大きな手柄をたてた。――このところで彼は、祖父の武勇|譚《だん》から取って来たいくつかの条《くだり》を自分の話に織り込んだ。――彼女はその間に、悶々《もんもん》のあまりに病気になった。彼女の母親が、あの傲慢《ごうまん》な夫人が、彼のところへ来て懇願した。「私のかわいそうな娘は死にかかっています。お願いですから、来てください!」彼は行ってやった。彼女は寝ついていた。顔は蒼《あお》ざめて肉が落ちていた。彼女は彼に両腕を差出した。口をきくことはできなかったが、彼の手をとって、涙を流しながらそれに接吻《せっぷん》した。すると彼は、いかにもりっぱな親切とやさしさとを籠《こ》めて彼女を眺めてやった。病気は癒《なお》ると言いきかして、愛せられることを承諾してやった。そこまで話が進んでくると、その面白さを長引かし、その態度や言葉を幾度もくり返しながら、みずから楽しんでいるうちに、眠気がさして来た。そして彼は慰安を得て眠りに入った。
 しかし彼がふたたび眼を開いた時は、すっかり夜が明け放たれていた。そしてその日の光はもはや、前日の朝のように気楽に輝いてはいなかった。世の中の何かが変化していた。クリストフは不正というものを知っていた。

 家ではひどく生活に困窮することが時々あった。それがしだいに頻繁《ひんぱん》になってきた。そういう日はたいへん粗末な食事だった。クリストフほどそれによく気づく者はだれもなかった。父には何も分らなかった。彼は最初に食物|皿《ざら》から自分の分を取ったし、いつも十分に取っていた。彼は騒々しく話したて、自分の言葉にみずから大笑いをした。そして彼が食物を取ってる間、彼の様子を見守りながら強《し》いて笑顔《えがお》を見せてる妻の眼付も、彼の眼には止まらなかった。食物皿は、彼が次に回す時には、もう半ば空《から》になっていた。ルイザは小さな子供たちに食物をよそってやった、一人に馬鈴薯《ばれいしょ》二つずつを。クリストフの番になると、その三つしか皿には残っていないことがしばしばで、しかも母はまだ取っていなかった。彼はそれを前もって知っていた。自分に回ってくる前に馬鈴薯を数えておいた。そこで彼は勇気を出して、何気ない様子で言った。
「一つでたくさんだよ、お母さん。」
 彼女は少し気をもんでいた。
「二つになさい、皆《みんな》と同じに。」
「いいえ、ほんとに一つでいいよ。」
「お腹《なか》がすいていないのかい。」
「ええ、あんまりすいてはいない。」
 しかし彼女もまた一つきり取らなかった。そして彼らは丁寧《ていねい》に皮をむき、ごく小さく切り、できるだけゆっくり食べようとした。母は彼の方を窺《うかが》っていた。彼が食べてしまうと言った。
「さあ、それをお取りよ!」
「いいよ、お母さん。」
「では加減でも悪いの?」
「悪かない。でもたくさん食べたよ。」
 父はよく彼の気むずかしいのを叱《しか》って、残りの馬鈴薯を自分で取ってしまった。しかしクリストフはもうその手に乗らなかった。彼はそれを自分の皿に入れて、弟のエルンストのために取っておいた。エルンストはいつも貪欲《どんよく》で、食事の初めからその馬鈴薯を横目で窺《うかが》い、しまいにはねだり出した。
「食べないの? そんなら僕におくれよ、ねえ、クリストフ。」
 ああいかほどクリストフは、父を憎く思ったことか! 父が自分たちにたいして少しの思いやりもなく、自分たちの分まで食べて知らないでいるのを、いかほど恨めしく思ったことか! 彼は非常に腹が空いていたので、父を憎んだし、そう口に出して言ってやりたいほどだった。しかし彼は高慢にも、みずから自活しないうちはその権利をもたないと考えていた。父が奪い取ったそのパンも、父が稼《かせ》ぎ出したものだった。彼自身はなんの役にもたっていなかった。彼は皆にとっては厄介《やっかい》者だった。口をきく権利はなかった。やがては彼も口をきけるだろう――もしそれまで生きてたら。しかしああ、それ以前にはたとい空腹で死んでも……。
 彼は他の子供よりもいっそう強く、そういう残酷な節食に苦しんでいた。彼の強健な胃袋は拷問にかけられたがようだった。時とすると、そのために身体が震え、頭が痛んできた。胸に穴があいて、それがぐるぐる回り、錐《きり》をもみ込むように大きくなっていった。しかし彼は我慢した。母から見られてるのを感じて、平気なふうを装った。ルイザは、その小さな子が他の者に多く食べさせるために、みずから食を節してることに、おぼろげながら気がついて心を痛めた。彼女はその考えをしりぞけたが、しかしいつもまたそこに心がもどってきた。彼女はそれを明らかにすることをなしかねた、ほんとうかどうかとクリスフトに尋ねかねた。なぜなら、もしほんとうにそうだったら、どうしていいか分らなかったから。彼女自身も子供のおりから、食物の欠乏には慣れていた。別に仕方もない場合には、愚痴をこぼしたとてなんになろう。実際のところ彼女は、自分の弱い体質や小食から推して、子供が自分より多く苦しんでるに違いないとは、夢にも思いつかなかった。彼女は彼になんとも言わなかった。しかし一、二度、他の子供たちは往来に、メルキオルは用向に、皆出ていってしまった時、そこに残っていてくれと彼女は長男に頼んで、ちょっと用を手伝わしたことがあった。クリストフは糸の玉を持ち、彼女はその糸を巻いていた。すると突然、彼女は何もかも投げ出して、夢中に彼を引き寄せた。彼はもうたいへん重くなっていたけれど、彼女は彼を膝《ひざ》にのせて、抱きしめた。彼は彼女の首に強く抱きついた。そして彼らは、絶望に陥ったがようにたがいに抱擁しながら、二人とも涙を流した。
「かわいそうに!……」
「お母さん、ああお母さん!……」
 彼らはそれ以上何も言わなかった。しかしたがいに了解し合っていた。

 クリストフはかなり長い間、父が酒飲みであることに気付かなかった。メルキオルの放縦は、少なくとも初めのうちはある限度を越えなかった。それは決してひどいものではなかった。むしろ非常な上|機嫌《きげん》の発作となって現われていた。彼はテーブルをたたきながら、いく時間もつづけて、愚にもつかぬことを述べたてたり、大声で歌ったりした。時とすると、ルイザや子供たちといっしょにどうしても踊るといってきかなかった。クリストフは母が悲しい様子をしてるのをよく見てとった。彼女はわきに引込んで、俯向《うつむ》いて仕事をしていた。酔っ払いを見まいとしていた。そして顔が赤くなるほど露骨な戯談《じょうだん》を言いかけられると、それを黙らせようとして穏かに努めた。しかしクリストフにはその理由が分らなかった。彼は陽気なことを非常に望んでいたので、父がもどってきて騒ぎたてるのを楽しみとしていた。家の中は陰気だった。そしてそんな馬鹿騒ぎは彼にとって一種の気安めだった。メルキオルのおどけた身振りや馬鹿げた戯れを、彼は心から笑い興じた。いっしょに歌ったり踊ったりした。母が不機嫌《ふきげん》な声でそれを止めさせるのは、不都合なことだと思っていた。父がすることだから、どうして悪いことがあろう? 彼の小さな観察力は常に覚めていて、見たことは何一つ忘れなかったので、正理にたいする彼の幼い一徹な本能に合致しない多くのものを、父の行ないのうちに認めてはいたけれども、なお彼はやはり父を賛美していた。それは子供のうちにある強い欲求である。確かに永遠の自愛の一つの形であろう。人はおのれの欲望を実現しおのれの高慢心を満足させるにはあまり自分が弱いことを認める時、それらのものを他に移しすえる、子供はその両親の上に、人生に敗れた大人はその子供らの上に。かく希望をかけられた人々は、夢想されたとおりの者となっており、あるいは夢想されたとおりの者となるであろう、その選手と、その復讐《ふくしゅう》者と、なっておりあるいはなるであろう。そして、おのれのためにするかかる傲慢《ごうまん》な隠退のうちには、愛と利己心とが驚くばかりの力とやさしみとをもって相混和している。でクリストフも、父にたいするあらゆる不満をうち忘れて、父を賛美する理由を見出そうと努めていた。そして父の身体つき、その頑丈《がんじょう》な腕、その声、その笑い、その快活、などを彼は賛美した。父の妙技が賛《ほ》められるのを聞く時、あるいはメルキオル自身で人から受けた賛辞を誇張して述べたてる時、彼は得意の情に顔を輝かした。彼は父のおおげさな自慢話をほんとうだと信じた。そして天才として、祖父から聞いた英雄の一人として、父を眺めていた。
 ところがある晩、七時ごろ、彼は一人で家に残っていた。弟たちはジャン・ミシェルと散歩に出ていた。ルイザは河でシャツを洗っていた。扉が開いてメルキオルが突然はいってきた。帽子もかぶらず、胸ははだけていた。一種の跳踊《はねおどり》をやってはいって来て、テーブルの前の椅子《いす》にどっかと腰を落とした。クリストフはまた例の茶番だと思って笑い出した。そしてそばに寄っていった。しかし近寄って眺めてみると、もう笑う気も起こらなかった。メルキオルは腰掛けたまま、両腕をだらりと垂れ、眼を瞬《またた》きながら茫然《ぼうぜん》と前方を見つめていた。顔は真赤であった。口は開いていた。時々馬鹿げた喉声《のどごえ》が口から洩《も》れていた。クリストフはびっくりした。初めは父がふざけてるのだと思った。しかしじっと身動きもしないでいるのを見ると、急に恐しくなった。
「お父さん、お父さん!」と彼は叫んだ。
 メルキオルはなお牝鶏《めんどり》のように喉を鳴らしていた。クリストフは自棄《やけ》に彼の腕をとらえ、力の限り揺った。
「お父さん、ねえお父さん、返辞をして! どうぞ。」
 メルキオルの身体は、柔い物体のようにゆらゆらして、危く倒れかかった。頭はクリストフの頭の方へ傾いた。そして支離滅裂な腹だちまぎれの声をやたらにたてながら、クリストフを見つめた。その昏迷《こんめい》した眼に自分の眼を見合せると、クリストフは物狂おしい恐怖にとらえられた。彼は室の奥に逃げ出し、寝台の前に膝《ひざ》を折って、夜具の中に顔を埋めた。二人は長い間そのままでいた。メルキオルは嘲笑《あざわら》いながら、椅子の上に重々しく身を揺っていた。クリストフはそれを聞くまいとして耳をふさいで、震えていた。心のうちには名状しがたい感情が乱れた。あたかもだれかが死んだかのように、尊敬してる大事なだれかが死んだかのように、恐しい混乱、恐怖、苦悶《くもん》、であった。
 だれも帰って来なかった。二人きりであった。夜になっていた。クリストフの恐怖は一刻ごとに増していった。彼は耳を傾けざるをえなかったが、もう父の声とも覚えないその声を聞くと、全身の血が凍るかと思われた。一高一低の掛時計の音が、父の狂気じみた饒舌《おしゃべり》の調子をとっていた。彼はもうたまらなくなって、逃げ出そうとした。しかし出て行くには、父の前を通らなければならなかった。あの眼付をまた見るかと思うだけでも、クリストフは震え上がった。見ただけで死ぬかも知れないような気がした。彼は四つ這《ば》いになって、室の扉のところまで忍んで行こうとした。息もつかず、あたりに目もくれず、メルキオルがちょっとでも動くと止まった。酔っ払いの両足がテーブルの下に見えていた。その片足は震えていた。クリストフは扉のところまでたどりついた。無器用な片手でそのハンドルにすがりついた。しかし狼狽《ろうばい》のあまりまたそれを放した。ハンドルはがたりと締まった。メルキオルは見ようとしてふり向いた。すると彼がのっかって身を揺っていた椅子《いす》は平均を失った。彼は大きな音をたてて下に転がった。クリストフはおびえてしまって、逃げ出す力もなかった。彼は壁にしがみついて、足下に長々と横たわってる父を眺めた。そして助けを呼んだ。
 メルキオルは転げ落ちたので少し酔がさめた。そしてその悪戯《いたずら》を働いた椅子を、ののしったり、侮辱したり、拳固《げんこ》で殴りつけたりした後、いたずらに起き上がろうとつとめた後、ついにテーブルに背中でよりかかって上半身をすえた。そしてあたりの様子が眼にはいった。彼は泣いてるクリストフを見た。そして彼を呼んだ。クリストフは逃げたかったが、身動きもできなかった。メルキオルはまた呼んだ。それでも子供がやって来ないので、怒ってののしった。クリストフは手足を震わせながら近づいてきた。メルキオルはそれを自分の方へ引寄せて、膝《ひざ》の上にすわらせた。そしてまず子供の耳を引張りながら、呂律《ろれつ》の回らぬ早口で、子供が父にたいしていだくべき尊敬について説教を始めた。それから彼は突然気を変えて、子供を抱き上げながら訳の分らないことをしゃべり出して、笑いこけた。がふいに鬱《ふさ》ぎ込んでしまった。子供や自分自身の身の上を悲しんだ。子供を喉《のど》がつまるほど抱きしめ、やたらに接吻し、涙をそそいだ。そしてしまいには、子供を揺ぶりながら、深き淵より[#「深き淵より」に傍点]を歌い出した。クリストフはのがれるための身動きもしなかった。彼は恐怖のあまり氷のようになった。父の胸に息づまるほど抱きしめられ、酒臭い息や泥酔《でいすい》の|※[#「口+愛」、第3水準1-15-23]気《おくび》を顔に感じ、気味悪い涙や接吻に濡《ぬ》らされて、嫌悪《けんお》と恐怖とに悶《もだ》えていた。声をたてたいとも思ったが、どんな叫び声も口から出なかった。そういう恐ろしい状態のうちに彼はじっとしていた、一世紀ほども長く思われた間――とついに扉が開いて、手に洗濯《せんたく》物の籠《かご》を持ったルイザがはいって来た。彼女は一声叫んで、籠を取り落し、クリストフの方へ駆けつけ、思いも寄らないほど荒々しく、メルキオルの腕から彼をもぎ取った。
「ああ、この惨《みじ》めな酔っ払い!」と彼女は叫んだ。
 彼女の眼は憤怒《ふんぬ》の念に燃えていた。
 クリストフは父が彼女を殺しはすまいかと思った。しかしメルキオルは、妻の恐ろしい姿が突然現われたのにひどく驚いて、別に返答もしないで泣き出した。彼は床《ゆか》の上に転げ回った。そして家具に頭をぶっつけながら言った、彼女の方が道理だ、自分は酔っ払いだ、家族の者たちの不幸の種とばかりなっている、可憐《かれん》な子供たちを台無しにしている、いっそ死んでしまいたいと。ルイザは軽蔑して彼に背を向けていた。彼女はクリストフを隣りの室に連れていって、やさしくいたわり、気を落付けさせようとした。子供はなお震えてばかりいた。母から種々尋ねられても返辞をしなかった。それからにわかにすすり泣きを始めた。ルイザは水で顔を洗ってやり、腕に抱きしめ、やさしく言葉をかけ、自分もいっしょに涙を流した。やがて彼らは二人とも心が静まった。彼女はひざまずき、彼をも自分のそばにひざまずかした。彼らは祈った、神様が父の厭《いや》な癖を癒《なお》してくださるようにと、メルキオルがふたたび昔のようによい人になるようにと。ルイザは子供を寝かした。子供は彼女に、寝床のそばについていて手を握っていてもらいたがった。ルイザはその晩長い間、クリストフの枕頭にすわっていた。クリストフは熱を出していた。酔漢は床《ゆか》の上にねそべって鼾《いびき》をかいていた。
 それからしばらく後のことだった。クリストフは学校で、天井の蝿《はえ》を眺めたり、隣りの生徒を拳固《げんこ》でつっついて腰掛から転がしたりして、その時間を過していたので、いつも身体を動かし、いつも笑い声を出し、決して何一つ覚えなかったから、教師から反感をもたれていたのだが、ある日、クリストフ自身腰掛から転げ落ちた時、教師はかなり不穏当な当て擦《こす》りをして、彼はきっとある名高い人物の範に習おうとしてるのだろうと言った。生徒らは皆一度に放笑《ふきだ》した。ある者はその当て擦りの本体を明らかにしようとして、明らさまなまたひどい註釈をつけ加えた。クリストフは恥ずかしさのあまり真赤になって立上がり、インキ壺《つぼ》をひっつかみ、笑ってるのが眼についた第一の生徒の頭へ、勢い込めて投げつけた。教師は彼に飛びかかって拳固《げんこ》を食わした。彼は鞭《むち》打たれ、ひざまずかせられ、重い罰課に処せられた。
 彼は蒼《あお》ざめて、腹だちまぎれにむっつりしながら、家に帰って来た。もう学校へは行かないと、冷然と言い放った。だれもその言葉を気に止めなかった。翌朝、出かける時間だと母から注意されると、もう行かないと言っておいたんだと、落着き払って彼は答えた。ルイザがいくら頼んだり怒鳴ったりおどかしたりしても駄目《だめ》だった。どんなにしても甲斐《かい》がなかった。彼は強情な顔をして、片隅にじっとすわっていた。メルキオルは彼を殴りつけた。彼はわめき声をたてた。しかし懲戒のたびごとにいくら促されても、彼はますます猛りたって「行かない!」と答えるきりだった。理由だけなりとも言うようにと尋ねられても、彼は歯をくいしばって一言もいおうとしなかった。メルキオルは彼をひっつかんで、学校へ連れて行き、教師に引渡した。席につくと彼は、まず手の届くところにある物を皆片っぱしから壊し始めた。インキ壺やペンを壊し、帳面や書物を引裂いた――すべてを、挑戦的な様子で教師を眺めながらおおっぴらでやってのけた。彼は真暗な室に押込まれた。――しばらくたって、教師が覗《のぞ》いてみると、彼はハンケチを首に巻きつけて、その両端を力任せに引っ張っていた。みずから首を絞めようとしていたのである。
 彼を家にもどすよりほか仕方がなかった。

 クリストフは容易に病に侵されなかった。父や祖父から頑健《がんけん》な体格を受け継いでいた。一家の者は弱虫でなかった。病気であろうとあるまいと、決して愚痴を言わなかった。どんなことがあっても、クラフト父子二人の習慣は少しも変わらなかった。いかなる天気であろうと、夏冬のかまいなしに、外へ出かけ、時とすると、不注意のせいかあるいは豪放を気取ってか分らないが、帽子もかぶらず胸をはだけて、いく時間も雨や日の光にさらされ、あるいはまたいくら歩いても決して疲れる様子がなかった。そういう時あわれなルイザは、何も訴えなかったが、顔の色を失い、脚《あし》はふくらみ、胸は張り裂けるほど動悸《どうき》がして、もう歩けなくなった。彼らはその様子を、憐れむような軽蔑《けいべつ》の眼付で眺めた。クリストフも母親にたいする彼らの軽侮の念に多少感染していた。彼は病気になるということを理解できなかった。彼は倒れても、物にぶっつかっても、怪我《けが》をしても、火傷《やけど》をしても、泣いたことがなかった。ただ自分を害する事物にたいして奮激した。父の乱暴な行ない、いつも彼が殴り合いをする街頭の悪童仲間の乱暴な行ない、それが彼に強く沁《し》み込んでいた。彼は殴られることを恐れなかった。鼻血を出し額に瘤《こぶ》をこしらえてもどって来ることもしばしばだった。ある日などは、いつもの激しい喧嘩《けんか》の中から、ほとんど気絶しかかってる彼を引き出してやらなければならなかった。彼は相手に組み敷かれて、舗石の上にひどく頭を打ちつけられていた。それくらいのことはあたりまえのことだと彼は思っていた、自分がされるとおりにまた他人にも仕返しをしてやるつもりだったから。
 けれども彼は、数多《あまた》の事物を恐《こわ》がっていた。そしてだれにも気づかれなかったが――なぜならきわめて傲慢《ごうまん》だったから――しかし彼は少年時代のある期間中、それらのたえざる恐怖から最も苦しめられた。とくに二、三年の間は、それが一つの病気のように彼の内部をさいなんだ。
 彼は影のうちに潜んでる神秘を恐れた、生命に狙《ねら》い寄ってるように思われる邪悪な力を、怪物らのうごめきを。それらの怪物を幼い頭脳は、恐怖に震えながら自分のうちに描き出し、眼に見るすべてのものと混同するのである。消え失せた獣類、虚無に近い最初の日の幻覚、母胎の中における恐ろしい眠り、物質の奥底にある妖鬼《ようき》の目覚め、そういうものの最後の名残りに違いない。
 彼は屋根裏の室の扉を恐れた。それは階段の真上にあって、いつもたいてい半開きになっていた。その前を通らなければならない時には、胸の動悸《どうき》を彼は感じた。元気をつけながら見向きもしないで駆け通った。扉の後ろには、だれかがまたは何かがいるような気がした。扉が閉まってる時には、半開きの猫穴《ねこあな》から、向うで何か動いてるのがはっきり聞こえた。そこには大きな鼠《ねずみ》がいたので別に驚くにもあたらないことではあったが、それでも彼は種々なものを想像した、恐ろしい怪物、ばらばらになった骨、襤褸《ぼろ》のような肉、馬の頭、人をにらめ殺すような眼、えたいの知れない物の形。彼はそんなもののことを考えたくなかったが、それでもやはり考えた。震える手先で、掛金がちゃんとささってるのを確めた。それでもなお、階段を降りゆきながら、十遍以上も振り向かざるをえなかった。
 彼は戸外の夜を恐れた。祖父の家に止まっていたり、あるいは何かの用事で夕方そこに使にやらされたりすることがあった。老クラフトの住んでる家は、少し町の外になっていて、ケルン街道の最後の家だった。その家と町はずれの明るい窓との間は、二、三百歩の距離だったが、クリストフにはその三倍もあるように思われた。道が曲がっていて、しばらく何にも見えないところがあった。夕暮のころ、田野は寂《さび》しかった。地面は黒くなり、空は気味悪い青白さになっていた。街道の両側にある藪《やぶ》から出て、土堤によじ登ると、まだ地平線のほとりに黄色い輝きが見えていた。しかしその輝きは少しも物を照らさないで、夜の闇《やみ》よりもいっそう人の心をしめつけた。その輝きのために周囲の暗さがいっそう陰気になっていた。それは終焉《しゅうえん》の光だった。雲は地面とほとんどすれすれに降りていた。藪は大きくなってざわついていた。骸骨《がいこつ》のような樹木は変な格好の老人に似ていた。道の標石は仄《ほの》白い反映を返していた。影が動いていた。溝の中にはじっとすわってる一寸法師がおり、草の中には光があり、空中には恐ろしい羽音がし、虫の鋭い鳴声がどこからともなく聞えていた。自然界の何か異様な物|凄《すご》いものが今にも現われて来はしないかと、クリストフはたえずびくびくしていた。彼は駆け出した。胸がひどく動悸《どうき》していた。
 祖父の室の中に燈火がついてるのを見ると、彼はほっと安心した。しかしいちばん悪いのは、老クラフトがしばしば不在であることだった。そういう時にはなおいっそう恐《こわ》くなった。野の中に孤立してるその古い家は、真昼間でさえ子供をおびえさした。年老いた祖父がそこにいると、彼は恐ろしさを忘れてしまうのだったが、しかし時とすると、老人は彼を一人置きざりにして、何も言わずに出かけてしまうことがあった。クリストフはそれに気をつけていなかった。室の中は安らかだった。すべて見慣れたやさしい物ばかりだった。白木の大きな寝台があった。寝台の枕頭《ちんとう》には、棚《たな》の上に大きな聖書があり、暖炉の上に造花があって、それといっしょに二人の妻と十一人の子供との写真が置いてあった――老人はその下の方にそれぞれ、出生と死亡との日付を書いておいた。――壁には、枠《わく》のはまった聖書の文句や、モーツァルトとベートーヴェンとの粗末な着色石版画が掛かっていた。片隅には小さなピアノがあり、他の隅にはチェロがある。書物がごたごた並べてある書棚、釘に掛かってるパイプ、そして窓の上には、ゼラニウムの鉢《はち》が置かれていた。そこにいると、友だちらに取囲まれてるような気がした。隣りの室には、老人の足音が往《い》ったり来たりしていた。鉋《かんな》で削ったり釘を打ったりする音が聞えていた。老人は独《ひと》り言をいったり、馬鹿野郎と自分をけなしてみたり、あるいは賛美歌の断片や感傷的な歌曲《リード》や戦《いくさ》の行進曲や酒の唄《うた》などをごっちゃにないまぜて、太い声で歌っていた。隠れ場所にいるような気持が感ぜられた。クリストフは窓のそばに大きな肱掛椅子《ひじかけいす》にすわって、膝の上に書物をひらいていた。插絵《さしえ》の上に身をかがめて、うっとりと見とれていた。日は傾いていった。眼がぼんやりしてきた。彼はしまいに插絵を見るのをやめて、茫然《ぼうぜん》と考え込んでしまった。荷馬車の音が遠く街道の上に響いていた。野には牝牛《めうし》が鳴いていた。眠りかけてるようなものうい町の鐘が、夕の御告《みつげ》の祷《いの》りの時刻を知らしていた。おぼろな願望が、かすかな予感が、夢想に沈んでる子供の心に目覚めてきた。
 突然クリストフは、なんとない不安にとらえられて我に返った。眼をあげると、夜。耳を澄ますと、静寂。祖父は出かけたのである。彼は身を震わした。祖父の姿を見ようとして窓から覗《のぞ》き出すと、街道はひっそりしていた。すべてのものが脅《おびや》かすような様子になりだした。ああ、あいつ[#「あいつ」に傍点]がやって来でもしたら! だれが?……クリストフはだれであるかを知らなかった。ただ、恐ろしいものが……。方々の戸はよく閉まっていなかった。木の階段に、何かが上ってでも来るような音が軋《きし》った。子供は飛び上がった。肱掛椅子と二つの椅子とテーブルとを、室のいちばん奥の隅に引きずっていって、それで防柵《ぼうさく》をこしらえた。肱掛椅子を壁によせかけ、左右に椅子を一つずつ置き、前方にテーブルをすえた。中央に二重梯子を備えつけた。そしてその頂上に身をおちつけ、包囲された場合の弾薬としては、今までもってた書物と他のいく冊かの書物とを手にして、ほっと息をつきながら、幼い想像をめぐらして、敵はいかなる場合にもこの防柵を越えることはできないものと一人できめた。越えてはいけなかったのだから。
 しかし時とすると、書物から敵が出て来ることさえあった。――祖父がでたらめに買い求めた古本の中には、子供に深い印象を与える插絵のついてるのがあった。それらの插絵は、子供を惹《ひ》きつけるとともに恐れさした。奇怪な幻影の絵があり、聖アントアンヌの誘惑の絵があって、鳥の骸骨《がいこつ》が水差の中に脱糞していたり、無数の卵が腹の裂けた蛙《かえる》の中で虫のようにうごめいていた、頭が足で立って歩いていたり、尻《しり》がラッパを吹いていたり、あるいは世帯道具や獣の死骸などが、大きなラシャにくるまり、老婦人のような敬礼をしながら、しかつめらしく歩を運んでいた。クリストフはひどく厭《いや》な気がした。けれどそのためにかえってまた惹きつけられた。彼はそれらの插絵を長い間眺めた。そして時々、窓掛の襞《ひだ》の中に動いてるものを見るために、ちらりとあたりを見回した。――解剖学の書物の中にある剥皮体《はくひたい》の図は、なおいっそう忌《いま》わしいものだった。その絵がはいってる場所に近づくと、ページをめくりながら震えた。その奇妙な形をした雑色は、彼にたいして異常な強さをもっていた。子供の頭脳に特有な創造力は、取扱い方の貧弱なのを補ってくれた。その粗雑な絵と現実との間の差異が、彼には少しも分らなかった。夜になると、昼間見た生きてる物の姿よりもいっそう強く、それらのものが彼の夢想に働きかけてきた。
 彼は眠りを恐れた。いく年もの間、彼の安息は悪夢に害された。――穴倉の中を歩き回っていた。すると渋面した剥皮体《はくひたい》が風窓からはいってくるのが見えた。――一人で室の中にいた。すると廊下に軽い足音が聞えた。彼は扉に飛びかかってそれを閉めようとした。ちょうどハンドルをつかむだけの隙《すき》があった。しかしそれはもう外から引張られていた。彼は鍵《かぎ》をかけることができなかった。力が弱ってきた。助けを呼んだ。扉の向うからはいって来ようとしてるもの[#「もの」に傍点]がなんだか、彼はよく知っていた。――家の人たちの中に交っていた。すると突然、皆の顔色が変わった。彼らは変なことを始めた。――静かに書物を読んでいた。すると眼に見えない者が自分のまわりにいるのを感じた。彼は逃げようとしたが、縛られてるのが分った。声をたてようとしたが、猿轡《さるぐつわ》をはめられていた。気味悪いものが抱きついてきて喉《のど》がしめつけられた。息がつまりそうになって歯をがたがたさせながら、眼を覚した。目覚めた後もなお長い間震えつづけた。どうしても悩ましい気分を追い払うことができなかった。
 彼が眠る室は、窓も扉もない小部屋であった。入口の上の棒に掛ってる古い垂幕だけが、両親の室との仕切になっていた。立ちこめた空気が息苦しかった。同じ寝室に寝てる弟たちから足で蹴《け》られた。彼は頭が燃えるようになり、半ば幻覚のうちにとらえられて、昼間の種々なつまらない心配事が、はてしもなく大きくなって浮かび上がってきた。悪夢に近いそういう極度の神経緊張の状態の中では、些細《ささい》な刺激も苦悩となった。床板の鳴る音も、彼に恐怖を与えた。父の寝息も、奇怪に高まって聞こえた。もう人間の息とは思えなかった。その馬鹿に大きな音が彼を脅《おびや》かした。そこには獣が寝てるような気がした。彼は夜に圧倒されていた。夜はいつまでも終りそうになかった。いつまでもそのままつづきそうだった。もう数か月も寝たままのような気がした。彼はけわしい息をつき、寝床の上に半身を起こし、そこにすわって、シャツの袖《そで》で汗ばんだ顔を拭《ふ》いた。時とすると彼は、弟のロドルフを突っついて起こそうとした。しかし弟は何かぶつぶつ言いながら、夜具をすっかり自分の上に引きよせて、またぐっすり眠ってしまった。
 彼はそういうふうにして、熱っぽい悩みのうちにとらえられていると、ついに蒼白《あおじろ》い一条の光が垂幕の裾《すそ》の床《ゆか》の上に現われた。はるかな黎明《れいめい》の弱々しい明るみは、にわかに安らかな気を彼のうちにもたらした。だれもまだその明るみを闇と見分けることができないころ、彼はすでにそれが室の中に忍び込んでくるのを感じた。するとただちに、あふれた河水がまた河床のうちに引いてゆくように、彼の熱はさめ、彼の血は静まった。同じ温かさが身体じゅうをめぐり、不眠のため燃えるようになってる彼の眼は閉じていった。
 晩になると、彼はまた眠る時がやって来るのを見て震え上がった。悪夢の恐ろしさのあまり、眠りに負けず夜通し起きていようときめた。けれどしまいにはいつも疲労にうち負かされた。そしていつも思いも寄らない時に怪物がまた現われてきた。
 恐るべき夜! 多くの子供にはいかにも楽しく、ある子供にはいかにも恐ろしい!……クリストフは眠るのを恐れた。また眠らないのを恐れた。眠っていても目覚めていても、奇怪な姿に、精神から出てくる妖怪《ようかい》に、悪鬼に、彼はとりかこまれた。それらのものは、病魔の気味悪い明暗の境におけると同じく、幼時の薄ら明るみの中に浮動しているものである。
 しかしそれら想像上の恐れは、やがて大なる恐怖[#「恐怖」に傍点]の前には消え失せなければならなかった、あらゆる人に食い込み、人知がいかに忘れんとつとめ否定せんとつとめても甲斐《かい》のない恐怖、すなわち死[#「死」に傍点]の前には。

 ある日、彼は戸棚《とだな》の中をかき回しながら、見知らぬ物に手を触れた。子供の上着や縞《しま》の無縁帽があった。彼はそれらの物を得意になって母のところへもって行った。母は笑顔《えがお》を見せもしないで、不機嫌《ふきげん》な顔付をして、元のところへ置いて来るように言いつけた。彼がその訳を尋ねながらぐずぐずしていると、母はなんとも答えないで、彼の手から品物をもぎ取って、彼の届かない棚の上に押し込んでしまった。彼はたいへん気にかかって、しきりに尋ねだした。母はついに言った、それらのものは彼が生まれて来ない前に死んだ小さな兄のものであると。彼はびっくりした。かつてそんなことを聞いたことがなかったのである。彼はちょっと黙っていたが、それからもっと詳しく知りたがった。母の心は他に向いてるらしかった。けれども、その兄もやはりクリストフという名だったが彼よりもっとおとなしかった、とだけ言ってきかした。彼はなお種々のことを尋ねた。母は答えるのを好まなかった。兄は天にいて皆のために祈っていてくれるとだけ言った。クリストフはそれ以上聞き出すことができなかった。余計なことを言うと仕事の邪魔になる、と母は言った。実際彼女は縫物に専心してるらしかった。何か気がかりな様子をして、眼をあげなかった。しかししばらくすると、彼が片隅《かたすみ》に引込んでむっつりしてるのを眺め、笑顔を作りだして、外に遊びにおいでとやさしく言った。
 その会話の断片は、深くクリストフの心を動かした。してみると、一人の子供がいたのである、自分の母親の小さな男の子が、自分と同じようで、同じ名前で、ほとんど同じ顔付をして、しかも死んでしまった子が!――死、彼はそれがどんなことだかはっきり知らなかった。しかし何か恐ろしいことらしかった。――そしてだれも、そのも一人のクリストフのことをかつて話さなかった。もうすっかり忘られてしまっていた。もしこんどは自分が死んだら、やはり同じようになるのではあるまいか?――そういう考えは、晩になって、皆といっしょに食卓につき、皆がつまらないことを談笑してるのを見た時、なお彼に働きかけてきた。彼が死んでしまった後も皆は快活にしてるかもしれない! おう、自分の小さな子供が死んだ後でも母親は身勝手に笑いうるものであろうとは、彼はかつて思ってもみなかった。彼は家じゅうの者が厭《いや》になった。死なない先から、自分自身を、自分の死を、嘆き悲しみたくなった。それとともに、種々なことを尋ねたかった。しかしそれもできかねた。母親がどんな調子で黙ってくれと言ったかを、彼は思い起こした。――ついに彼はたえられなくなった。そして床についた時、接吻しに来たルイザに尋ねた。
「お母さん、やはり私の寝床に寝ていたの?」
 彼女は身を震わした。そして平気を装った声で尋ねた。
「だれが?」
「あの子供、死んでしまったあの……。」とクリストフは声を低めて言った。
 母の両手はにわかに彼を抱きしめた。
「そんなこと言うんじゃありません、言うんじゃありません。」と彼女は言った。
 彼女の声は震えていた。彼女の胸に頭をもたしていたクリストフには、その胸の動悸《どうき》が聞こえた。
 ちょっと沈黙が落ちてきた。それから彼女は言った。
「もう決してそのことを言ってはいけませんよ……。落ちついてお眠んなさい……。いいえこの寝床ではありません。」
 彼女は彼を接吻した。彼女の頬《ほお》が濡れてると彼は思った。濡れてると信じたかった。彼はいくらか心が安らいだ。彼女は悲しんでたのだ! けれども、すぐその後で、彼女がいつものとおりの落付いた声で口をきくのが、隣りの室に聞えた時、彼はまた疑いだした。今と先刻と、どちらがほんとうだろうか?――彼はその答えを見出さないで、長い間床の中で寝返りをうっていた。彼は母親に心を痛めていてもらいたかった。彼女が悲しんでると考えることはもちろん悲しかった。しかしやはり嬉《うれ》しくもあった。それだけ一人ぽっちの感じが薄らぐのだった。――彼は眠っていった。そして翌日になると、もうそのことを考えなかった。
 数週間後のことだったが、往来でいっしょに遊ぶ悪戯《いたずら》仲間の一人が、いつもの時刻にやって来なかった。彼は病気だと仲間の一人が言った。それからはもう、彼の姿が遊びの中に見えなかった。理由はわかっていた。なんでもないことだった。――ある晩、クリストフは寝ていた。時間はまだ早かった。彼の寝床のある小部屋から、両親の室の燈火が見えていた。だれかが扉《とびら》をたたいた。隣りの女が話に来たのだった。彼はいつものとおり勝手な物語をみずから自分に話しながら、ぼんやり耳を傾けていた。会話の言葉はすっかりは聞きとれなかった。ところがふいに、「あれは死にました」という女の言葉が聞えた。彼の血はすっかり止まった。だれのことだかわかったのである。彼は息をこらして耳を澄ました。両親は大声をたてた。メルキオルの銅羅《どら》声が叫んだ。
「クリストフ、聞いたか。かわいそうにフリッツは死んだよ。」
 クリストフはじっとこらえて、落着いた調子で答えた。
「ええ、お父《とう》さん。」
 彼は胸がしめつけられた。
 メルキオルはなお言った。
「ええ、お父さん、だって。お前の言うことはそれだけなのか。お前はなんとも思わないのか。」
 子供の心を知っていたルイザは言った。
「しッ、眠らしておきなさいよ!」
 そして人々は声を低めて話した。けれどもクリストフは耳をそばだてて、仔細《しさい》のことを偸《ぬす》み聞いていた、腸チフス、冷水浴、精神錯乱、両親の悲痛。彼はもう息もつけなかった。ある塊《かたま》りが呼吸をふさいで、首まで上ってきた。彼は慄《ふる》え上がった。それらの恐ろしいことが頭に刻み込まれた。とくに病気は伝染性のものであるということを耳に止めた、言い換えれば、自分もまた同じようにして死ぬかもしれないということを。そして恐怖の念に慄然《りつぜん》とした。最後に会った時フリッツと握手したことを、そして今日も彼の家の前を通ったことを、思い出したからである。――けれども彼は、口をきかなければならないような羽目に陥らないために、少しの音もたてなかった。隣りの女が帰っていった後、「クリストフ、眠ってるのか、」と父に尋ねられた時、彼は返辞もしなかった。ルイザに言ってるメルキオルの声が聞えた。
「あの子は心なしだ。」
 ルイザはなんとも答え返さなかった。けれどもすぐその後で、彼女はやって来て、静かに垂幕をあげ、子供の寝床を眺めた。クリストフはその隙《すき》に辛《かろ》うじて、眼をつぶることができ、弟どもが眠ってる時聞き知ったその規則的な呼吸を真似《まね》ることができた。ルイザは爪先《つまさき》で立去った。彼はどんなにか彼女を引留めたかった。いかに自分が恐《こわ》がってるかを話し、自分を救ってくれるように頼み、少なくとも自分を安心さしてくれるように頼むことを、どんなにか願っていたろう! けれども、笑われはしないかを、卑怯《ひきょう》者と言われはしないかを、恐れていた。それにまた、口先で言われる言葉はすべてなんの役にも立たないということを、もうあまりに知りすぎていた。そしていく時間もの間、一人でじっと悶《もだ》えながら、病気が自分のうちに忍び込んでくるのを感ずるような気がし、頭痛や胸苦しさにとらえられてるような心地がして、おびえたまま考えていた、「もう駄目《だめ》だ、私は病気だ、じきに死ぬんだ、じきに死ぬんだ!……」一度寝床の上に起き上がって、低い声で母を呼んでみた。しかし両親は眠っていた。それを呼び起こすだけの元気もなかった。
 その時以来、彼の幼年時代は死の観念で毒された。彼は神経のために、胸苦しさや、激しい痛みや、突然の息づまりなど、原因もないさまざまの軽微な症状に襲われた。彼の想像はそれらの苦悩のために狂乱して、そのたびごとに、自分の生命を奪おうとしてる猛獣を眼に見るように思った。母親の近く数歩のところにいても、すぐそのそばにすわっていても、幾度か彼は死ぬような苦しみを感じた。しかも彼女は何にも察していなかった。なぜなら、彼はそれほど臆病《おくびょう》なくせに、恐怖を自分の胸にしまっとくだけの勇気をももっていた。それは種々な感情の不思議な混合からであった、他人に頼るまいとする高慢、恐《こわ》がることの恥ずかしさ、心配をかけまいとする細やかな情愛など。しかし彼はたえず考えていた。「こんどはほんとうに病気だ、重い病気だ。ジフテリアの初めだ……。」彼はジフテリアという言葉を聞きかじっていた。「ああ神様、こんどだけは許してください!……」
 彼は宗教上の観念をもっていた。彼は母が語ってきかせることを進んで信じていた。人の死後、魂は主《しゅ》のもとにのぼってゆくことだの、信心深い魂は楽園にはいることだのを、信じていた。しかしそういう魂の旅に、彼は心|惹《ひ》かるるというよりもむしろ多く脅かされた。母の言葉によれば、いい子供たちはその褒美《ほうび》として、睡眠中に神様からさらわれてお側《そば》に呼び寄せられ、しかもなんの苦しみも受けないそうであったが、彼はそういう子供を少しもうらやましいとは思わなかった。眠る時になると、神様が自分にたいしてもそういう悪戯《いたずら》をしはすまいかと、うち震えていた。ふいに温かい寝床から引き出され、虚空《こくう》に引きずってゆかれ、神様の前に立たされるのは、思っても恐ろしいことに違いなかった。神というものを、雷のような声を出す非常に大きな太陽みたいに、彼は頭の中で想像していた。どんなにか大きな危害を受けるに違いなかった。眼をやき、耳をやき、魂をも焼きつくすに違いなかった! それから、神は罰を下すかもしれなかった。どうだかわかるものではない……。――そのうえ、他の種々な恐ろしいこともそのためになくなりはしなかった。それらの恐ろしいことを彼はよく知ってはいなかったが、しかし人々の話でおおよそは察せられた。身体を箱の中につめられ、穴の底に一人ぽっちにされ、多くの厭《いや》な墓の中にほうり出され、そこで祈らせられること……。ああ、ああ、なんという悲しいことか!……
 そうかといって、酔っ払いの父の姿を見、乱暴なことをされ、種々な苦しみを受け、他の子供たちからいじめられ、大人たちからは侮辱的な憐れみを受け、そしてだれからも理解されず、母親からも理解されずに、生をつづけてゆくということは、決して楽しいことではなかった。万人から辱《はずかし》められ、だれからも愛せられず、ただ一人で、一人ぽっちで、しかも非常に頼り少ないのだ!――正にそのとおりだった。しかしそのことがまた、彼に生きる欲望をも与えていた。彼は自分のうちに、憤激して沸きたつ力を感じていた。その力こそ実に不思議なものだ! その力はまだ何をもなしえなかった。遠くにあって、猿轡《さるぐつわ》をはめられ、手足を縛られ、痲痺《まひ》してるようだった。その力が何を望んでいるのか、やがて何になろうとするのか、彼には想像もつかなかった。しかしその力は彼自身の中にあった。彼はそれを疑わなかった。それは振い動いて、怒号していた。明日《あした》は、明日は、その力が復讐《ふくしゅう》してくれるであろう! あらゆる害悪を復讐し、あらゆる不正を復讐し、悪人を罰し、大事をなさんがために、彼は生きたいという激しい願望をいだいていた。「おう、ただ生きてさえおれば……(彼はちょっと考え込んだ)……せめて十八歳まで!」――またある時は、二十一歳までと引延した。それが極限であった。それだけで世界を支配するには十分だと彼は信じた。彼はなつかしい英雄らのことを考えていた、ナポレオンのことを、またそれより時代は遠いがいちばん好きであるアレキサンドル大王のことを。もう十二年……十年、生きてさえおれば、かならず彼らのようになるだろう。彼は三十歳で死ぬ者を気の毒だとは思わなかった。三十歳といえばもう老人だった。人生を十分に生きてしまったものだった。もし生きなかったとすれば、罪は当人にあるのだった。しかし自分が今死ぬのは、なんという絶望なことだろう! まだ子供のままで消えてしまうのは、そして、だれにでも叱《しか》ってかまわないと思われるような小さな子供のままで、人々の頭の中に永久に残ってることは、あまりに不幸すぎることである! 彼はそれを憤激しながら嘆いた、あたかもすでに自分が死んでしまったかのように。
 そういう死の懊悩《おうのう》が彼の幼年時代の数年間を苦しめた。――その懊悩はただ、生《せい》の嫌悪《けんお》によってのみ和げられるのだった。

 そういう重々しい闇《やみ》の真中において、一刻ごとに濃くなってゆくように思われる息苦しい闇夜の中において、陰暗な空間に埋もれた星のごとくに輝き出したのである、彼の生涯を照らすべき光明が、聖なる音楽が……。
 祖父は古いピアノを一つ子供たちに与えておいた。彼をひいきにしてる人々の一人が片づけてくれと頼んだ品で、気長なくふうをこらしてどうかこうか取り繕ったものだった。その贈物は皆からあまり喜ばれなかった。そんな物を置かないでも室はもうかなり狭くなってると、ルイザは思った。親父《おやじ》のジャン・ミシェルは大して金を出して手に入れたのでもないと、メルキオルは言った、焚付《たきつけ》同様の代物《しろもの》であると。ただ小さなクリストフだけは、なぜだか知らないがその新しい到来物が嬉《うれ》しかった。ちょうど、祖父が時々いくページかを読んでくれて、いつも二人で夢中になった、あのアラビア夜話の書物のように、驚くべき物語でいっぱいになってる魔法箱のように思われた。父がその音色をためすために、小雨のような琶音《アルペジオ》をひき出した時、彼はそばで聞いていた。驟雨《しゅうう》の後に暖かい一陣の風が、濡れた樹木の枝から振い落す小雨にも似ていた。彼は手をたたいて叫んだ、「もっと!」しかしメルキオルは、くだらない品だと言いながら、軽蔑《けいべつ》の様子でピアノの蓋《ふた》をしめてしまった。クリストフはそのうえせがまなかった。けれども彼はたえずその楽器のまわりをうろついた。そしてだれもこちらを見ていないと、蓋をもち上げて、鍵《キイ》を押した、あたかも何か大きな虫の青い甲羅《こうら》を指先で動かすかのように。彼はその中にはいってる動物をつつき出したかった。時とすると、気が急《せ》くあまり、少し強すぎるくらいに鍵をたたくこともあった。すると母に叱られた。「静かにしておいでったら。手を触れちゃいけません!」あるいはまた、蓋をしようとして手をはさまれた。彼は痛めた指先をしゃぶりながら、悲しそうに顔をしかめていた……。
 今や彼のいちばん大きな喜びは、母が一日雇われて出かけてゆく時か、町に用達《ようたし》に出かける時かであった。彼は階段を降りてゆく足音に耳を傾ける。足音は早くも表に出で、しだいに遠ざかってゆく。彼は一人きりである。ピアノを開き、椅子《いす》を近寄せ、その上にすわる。肩が鍵盤《けんばん》の高さになる。それだけでもう十分だ。なぜ彼は一人になるのを待つのか? あまり大きな音さえたてなければ、だれもひくのをとがめはしないではないか。しかし彼は人前を恥ずかしがっている。思い切ってやれない。それにまた、皆が話をしたり動き回ったりする。それが楽しみをそこなう。一人きりの時に限るのである!……クリストフは息をこらす、なおいっそうあたりを静かにするためである。そしてまた、大砲でも打とうとしてるかのように多少興奮してるからである。鍵《キイ》に指先をあてると、胸がどきどきする。時々、指を半ば埋めた後にまたはずして、他の鍵の上に置く。前のよりこんどのからどんなものが出て来るか、わかりはしない。突然音が高まる。深い音、鋭い音、響く音、唸《うな》る音。それらの音が一つ一つかすかになって消えてゆくのを、彼は長く聴《き》きとれる。それらは鐘の音のように揺いでいる、野の中にいる人の耳に、風がもたらしてはまた一つ一つ遠くへ吹き送る鐘の音のように。次に耳を傾けると、虫の羽音のような、入り交って渦《うず》を巻いてる他の種々な声が、遠くに聞える。人を呼びかけるようである、遠くへ誘ってゆくようである……遠くへ……ますます遠くへ、神秘な奥深いところへ。そして声はそこにはいり込んで、深くもぐり込む……もう消えてしまった!……いや、まだささやいている……小さな羽ばたき……。なんという不思議なことであろう。精霊のようである。精霊がこのとおり素直にしてるとは、この古い箱の中に囚《とら》われとなってるとは、まったく訳がわからないことだ!
 しかし最も面白いのは、同時に二本の指を二つの鍵《キイ》にのせる時である。どんなことが起こるか前から決してわかりはしない。時とすると、二人の精霊が敵《かたき》同士のこともある。彼らは怒りたち、殴り合い、憎み合い、癪《しゃく》にさわったように唸《うな》りだす。たがいの声が高まる。あるいは憤って、あるいはやさしく、叫びたてる。クリストフはそのやり方が大好きである。縛られた怪物が、鎖をかみ牢屋《ろうや》の壁にぶっつかってるようである。怪物は今にも壁を破って外に飛び出そうとしてるかと思われる。物語の書物に書かれてる怪物のようである、ソロモンの印璽《いんじ》の下にアラビアの手箱の中に閉じ込められてる悪鬼のようである。――またあるものは媚《こ》びてくる。騙《だま》し賺《すか》そうとつとめる。しかし彼らはただ噛みつくことばかり望んでいる。熱があるのだ。クリストフは彼らがどういう考えだか知らない。彼らは彼を引きつけ、彼の心を乱させる。彼にほとんど顔を赤らめさせる。――またある時は、たがいに愛し合う音調がある。人が口づけする時腕で抱き合うように、その音はたがいにからみ合う。優美でやさしい。よい精霊なのである。皺《しわ》のない微笑《ほほえ》んだ顔をしている。彼らは小さなクリストフを愛し、小さなクリストフも彼らを愛する。彼は彼らの声を聞いて眼に涙をためる。幾度呼び出しても倦《あ》きない。彼らは彼の友だちである、親しい友だち、やさしい友だちである……。
 かくて子供は音響の森の中を逍遙《しょうよう》する。自分のまわりに無数の知らない力を感ずる。それらの力は彼を待受け、彼を呼びかけ、そして彼を愛撫《あいぶ》せんとし、あるいは彼を呑噬《どんぜい》せんとする……。
 ある日、そういう最中にメルキオルが突然やって来た。クリストフは例の太い声をかけられたので恐ろしさに飛び上がった。彼は悪いことをしてたような気がして、両手で急いで耳をふさぎ、恐るべき怒鳴り声をきくまいとした。しかしメルキオルはいつになく叱りつけなかった。上機嫌《じょうきげん》で笑っていた。
「じゃあお前にも面白いんだな。」と彼はやさしくクリストフの頭をたたきながら尋ねた。「ひき方を教えてもらいたいか。」
 教えてもらいたいかって!……彼は夢中になって「ええ」とつぶやいた。そして二人ともピアノの前にすわった。クリストフはこんどは大きな書物をつみ重ねた上に身を落着けた。ごく熱心に最初の稽古《けいこ》を受けた。彼はまず、それらの大きい声を出す精霊は、一|綴《つづ》りかまたはただ一文字かの、支那にでもありそうな妙な名前をもってるのを知った。彼はびっくりした。彼はもっと違った名前を想像していた。仙女《せんにょ》物語に出てくる女王のような、やさしい美しい名前を想像していた。それらにたいする父のなれなれしい口のきき方が気に入らなかった。そのうえ、メルキオルに呼び出される時には、もう同じ精霊ではなかった。その指下から飛び出すと、冷淡なふうをしていた。それでもクリストフは、彼らの間にある関係を覚え、彼らの階級を覚え、一軍を率いる帝王に似ていたり一群の黒奴の並列に似ていたりする音階を覚えると、嬉《うれ》しくなった。各兵士は、あるいは各黒奴は、めいめい帝王にもなれるし、同じような隊列の先頭にもなれるし、また鍵盤の先から端まで、全部の隊を展開させることもできるので、彼はそれを見てびっくりした。それらを行進させる筋道をたどってゆくと面白かった。しかしそういうことも、彼が最初見たものよりずっと幼稚になってしまった。不可思議な森はもう見出せなくなった。でも彼は熱心につとめた。なぜならつまらないことではなかったから。そして父の根気にも驚かされた。メルキオルは決して倦《あ》かなかった。同じことを十遍もくり返さした。そんなに骨折ってくれる訳がクリストフにはわからなかった。では父が自分を愛してくれてるのか。なんと親切なことだろう! 子供は感謝の念で心がいっぱいになって、非常に努めた。
 師の頭にどういう考えが浮かんだかを知っていたら、彼はそれほど嬉しがりはしなかったろう。

 その日以来、メルキオルは彼を隣家に連れていった。そこでは一週間に三回、室内音楽会が催されていた。メルキオルは第一ヴァイオリンをひき、ジャン・ミシェルはチェロを弾《ひ》いた。他の二人は、銀行員とシルレル街の老時計商とであった。時々、薬剤師もそれに加わって、フルートをもって来た。五時に集まって、九時までかかるのだった。楽曲を一つ終えるごとにビールを飲んだ。近所の人々が室に出はいりして、黙って耳を傾け、壁にもたれて立ち、頭を振り、足で調子を取り、そしてたばこの煙を室いっぱいにたてた。楽譜のページからページへ、曲から曲へ移っても、演奏者らの根気は疲れることがなかった。彼らは口をきかず、注意をこらし、額に皺《しわ》をよせ、時々愉快のあまりうなり声を出していたが、もとより、楽曲の美を表現することがまったくできないばかりでなく、それを感ずることさえできなかったのである。ごく正確に弾奏してもいなかったし、拍子正しく演奏してもいなかったが、しかし脱線することはなく、印《しる》されてるニュアンスを忠実にたどっていた。わずかなことで満足する音楽上の無造作さと、世界で最も音楽的だといわれる人種のうちに充満してる完成した凡庸《ぼんよう》さとを、彼らはそなえていた。量さえ多ければ質のいかんをあまり気にしない趣味の貪欲《どんよく》性をもそなえていた。そういう健啖《けんたん》な食欲にとっては、実量が多ければ多いほどどんな音楽でも上等のものとなる。――そしてこの食欲は、ブラームスとベートーヴェンとの間に差別もつけないし、または、同じ楽匠の作品でさえあれば、空虚な協奏曲《コンセルト》と感銘深い奏鳴曲《ソナタ》との間に差別も設けない、なぜなら二つとも同じ捏粉《ねりこ》でできてるから。
 クリストフは一同から離れて、ピアノの後ろの自分だけの片隅に隠れていた。そこではだれも彼を邪魔することはできなかった。四つ這《ば》いにならなければはいれなかったから。そこは薄暗かった。そして子供には、身を縮めて床板の上に寝ておれるだけの場所があった。たばこの煙が彼の眼や喉《のど》にはいってきた。また埃《ほこり》もはいった。羊の毛みたいに大きな総《ふさ》をなした埃もあった。しかし彼はそんなものに気を留めなかった。トルコ風に膝頭ですわって、きたない小さな指先でピアノの掛布の穴を広げながら、しかつめらしく耳を傾けていた。彼は演奏される曲をことごとく好きにはなれなかった。けれども一つとして退屈になるものはなかった。彼は決して批評がましい意見をたてようとはしなかった。なぜなら、自分はまだあまり小さすぎると思っていたし、音楽のことは何にも知らないと思っていたから。ただそれを聞いていると、あるいはうとうととしたり、あるいは眼を覚ましたりした。いずれの場合にも不快な感じは受けなかった。彼はみずから気づきはしなかったが、彼を興奮させるのはたいていいつもいい音楽であった。だれにも見られっこはないと安心していたので、顔じゅうで種々な渋面《しかめつら》をした。鼻に皺《しわ》を寄せ、歯をくいしばり、舌を出し、怒った眼付や悲しい眼付をし、喧嘩《けんか》腰の元気な様子で腕や足を動かし、また、歩き出したくなり、殴り回りたくなり、世界を粉|微塵《みじん》にしてやりたくなった。そしてあまり暴れていたので、ついにピアノ越しに覗《のぞ》き込まれて、怒鳴りつけられた。「おい、お前気違いか。ピアノからどけ、手を離せ。耳を引張るぞ!」――それで彼は当惑しまた癪《しゃく》にさわった。なぜ自分の楽しみを邪魔するのか。何も悪いことをしたわけではない。いつもいじめつけられてばかりいなければならないのか! 父も小言の仲間にはいった。彼は騒がしい真似《まね》をするといって叱《しか》られ、音楽を好かないのだといって叱られた。しまいには彼自身も音楽を好かないのだと思い込んでしまった。――もし、そこにいる人たちのうちでほんとうに音楽を感じているのは、その小さな子供一人きりだと言われたら、協奏曲《コンセルト》をこね回してる善良な人々はさぞ驚いたであろう。
 もし彼に静かにしていてもらいたいのなら、なぜ人を歩かせるような曲を演奏してきかせたのか。それらのページのうちには、悍馬《かんば》、剣、戦《いくさ》の叫び、勝利の驕慢《きょうまん》、などが含まれていたのである。しかも彼らは、彼にも同じように、頭を振ったり足拍子を取ったりするだけでいてもらいたかったのである。それならばただ、のどかな夢幻の曲か、いくらしゃべってもなんの意味をも語らない饒舌《じょうぜつ》なページかを、演奏してやりさえすればよかったのだ。たとえば、ゴルトマルクの曲でもよかった。老時計商は先刻|歓《よろこ》ばしい笑顔をして、その楽曲のことを言った。「実にいい。荒っぽいところがない。どの角《かど》も丸くなってる……。」その時には子供はごく静かだった。うとうとしていた。何が弾奏されてるか知らなかった。しまいにはもう何も聞えなくなった。しかしいい気持だった。手足がけだるくなって、うつらうつら夢みていた。
 彼の夢は筋の通った話ではなかった。頭も尾もなかった。辛《かろ》うじて時々はっきりした象《すがた》を見るだけだった。菓子をこしらえながら、指の間に残ってる捏粉《ねりこ》を包丁で取ってる母親――前日河に泳いでるところを見かけた溝鼠《どぶねずみ》――柳の枝でこしらえたいと思っていた鞭《むち》……。それらの記憶がどうして今彼に浮かんできたかは、神のみが知るところである。――しかしたいていは、まったく何も見えなかった。それでもたくさんのものを感じていた。何かきわめて大切なものが山ほどあるかのようだった、いつも同じようにしてるので、またはっきり知れきってるので、口にいうことができないような、あるいは言っても無駄《むだ》なような、きわめて大切なものが。その中には、悲しいのもあった、死ぬほど悲しいのもあった。けれどそれらは、人生において出会うのと違って、なんら苦しいところをもたなかった。父から殴られた時のように、あるいは恥ずかしさで胸をしぼりながら何かの屈辱を考える時のように、醜くもなければ卑《いや》しくもなかった。ただ憂鬱《ゆううつ》な静けさで頭がいっぱいになった。それからまた、喜びをどっとふりまいてくれる輝かしいものもあった。クリストフは考えた。「そうだ、こんなに[#「こんなに」に傍点]……こんなに、私もやがてしよう。」どうしてこんなにだか、なぜそんなことを言うのか、彼は自分で少しも知らなかった。しかし、そう言わなければならない、それは白日のように明白なことだと、彼は感じていた。海の音が聞こえていた。海はすぐ近くにあって、ただ砂丘の壁で隔てられてるだけだった。その海がどういうものであるか、海が自分に何を望んでいるかは、少しもわからなかった。しかし彼ははっきり意識していた、海はやがて障害をのり越えて高まってくるだろうということを、そして、その時こそは……。その時こそは、素敵だろう、自分はまったく幸福になるだろう。海の音を聞くだけでも、その大きな声の響きに揺られるだけでも、あらゆる屈辱や小さな悲痛などは、ことごとく鎮《しず》められてしまった。それらはやはり悲しいものではあったが、もはや恥ずかしいものでもなく、心を傷つけるものでもなかった。すべてが自然らしく思われ、温和な気にほとんど充ちてるらしく思われた。
 多くは、凡庸《ぼんよう》な音楽がそういう陶酔を彼にもたらした。かかる音楽を書いたのは、憐《あわ》れむべき賤《いや》しい人々であって、彼らの考えていたことはただ、金を得んとすることばかりであり、あるいは、一般に認められた形式に従って、または――独創家たらんがために――形式を無視して、とにかく音符をいっしょによせ集めながら、おのれの生活の空虚の上に幻をうち立てんとすることばかりであった。しかし音響の中には、愚人に取扱われたものの中にさえ、非常な生命の力が潜んでいて、無邪気な魂の中に感激を起こさせることができるものである。おそらくは、愚人の暗示する幻影も、強烈な思想に吹き起こされて人を無理に巻き込む幻影にくらぶれば、いっそう神秘であり自由であろう。なぜなら、いたずらな運動と空虚な饒舌《じょうぜつ》とは、自己観照の精神を煩《わずら》わすことがないから……。
 かくて子供は、皆に忘れられ、すべてを忘れて、ピアノの隅にじっとしていた。――しまいには、蟻が足に這《は》い上がってくるのを不意に感じた。すると、自分は真黒な爪《つめ》をした小さな子供であることを思い出し、両手で足をかかえながら鼻を壁にすりつけてることに気づいた。

 メルキオルが忍び足ではいって来て、少し高すぎる鍵盤の前にすわってる子供のところへふいに現われたあの日、メルキオルは子供を観察したのだった。そしてある輝かしい思いが彼の頭に浮かんだのである。「神童だ!……どうして今まで気づかなかったんだろう。……家にとってはこの上もない仕合せだ!……こいつは母親のように百姓の子にすぎないと思い込んでいたが、しかしためしてみたって別に損するわけじゃない。運が向いてきたぞ! ドイツじゅうを連れ回り、外国へも連れ回ってやろう。面白いしかも高尚な世渡りだ。」――メルキオルはいつも、自分のあらゆる行為のうちに、隠れた高尚な点を捜さないではおかなかった。そしてたいていは高尚な点を見出すのだった。
 右のような確信を強くいだいていたので、彼は夕食の最後の一口を食い終えると、すぐにまた子供をピアノの前に押しつけ、その日教えたところをくり返さして、子供の眼が疲れに閉じてくるまでやらした。それから、翌日は三度|稽古《けいこ》をさした。翌々日も同じだった。引きつづいて毎日そうした。クリストフはじきに倦《あ》いてきた。次にはたまらないほど厭《いや》になった。ついにはもう辛抱ができなくて、逆らおうとした。やらせられることはまったく無意味なことだった。親指をちょこちょこやりながら鍵《キイ》の上をできるだけ早く飛び回ることや、二本の隣りの指の間にぎごちなくこびりついてる薬指をしなやかにすることだった。やってると神経がいらいらしてくるし、ちっとも面白くなかった。魔法めいた共鳴音も、魅惑するような怪物も、一時予感される夢の世界も……すべてなくなってしまった。音階と練習とがつづくばかりで、しかもそれは乾燥で、単調で、無味であって、いつも食物のことに、きまりきった食物のことに及んでゆく食事時の会話より、いっそう無味なものであった。子供はただぼんやりと父親の教えを聞くようになり始めた。きびしく叱りつけられると、厭々《いやいや》ながらやりつづけた。叱責《しっせき》はすぐにやってきた。彼は最も底意地悪い機嫌《きげん》をそれに対抗さした。最もいけなかったことには、ある晩、隣りの室でメルキオルが将来の計画を洩らすのを聞いてしまった。こういうふうに苦しめられるのも、毎日むり強《じ》いに象牙《ぞうげ》の片を動かさせられるのも、賢い動物として見世物にされるためであったのか! 彼はもう親しい河を訪れに行くだけの隙《すき》ももたなかった。どういう訳で自分はこういじめられてばかりいるのか。――彼は自尊心と自由とを傷つけられて憤慨した。もう決して音楽をやるまい、やるにしてもできるだけ下手《へた》にやってやろう、そして父を落胆さしてやろう、と彼は決心した。多少ひどすぎる考えかもしれなかったが、しかし彼は自分の独立を救い出さなければならなかった。
 その次の稽古の時から、彼は計画を実行しようと試みた。彼はわざと、違った鍵《キイ》をたたいて調子をはずそうとした。メルキオルは叫びたて、次には喚《わめ》きたてた。やたらに殴りつけ始めた。彼は頑丈《がんじょう》な定規をもっていた。子供が音符を間違えるたびに、定規でその指を打ち、同時に、聾にならせるほど耳もとで怒鳴りちらした。クリストフは苦痛に顔をしかめた。泣くまいとして唇《くちびる》をかみしめ、打たれそうなので首を肩に引っこめながら、じっと我慢して、むちゃくちゃに音符をひきつづけた。しかしやり方がまずかった。長くたたないうちに気づかれた。メルキオルは彼に劣らず意地張りだった。たとい二人で二日二晩やりつづけても、正確にひかれるまでは一つの音符の間違いも許さない、と彼は言い張った。クリストフの方では、正しくひくまいとあまりに念を入れすぎた。主調ごとに、明らさまな悪意で小さな手が重々しくわきへそらされるのを見て、メルキオルはその狡猾《こうかつ》な策略を勘づき始めた。定規がさらにひどく振りおろされた。クリストフはもう指の感じをも失った。黙って、嗚咽《おえつ》や涙をすすり込み飲み込みながら、いじらしく泣いていた。そして、こんなふうにつづけてもなんの得にもならないし、捨てばちな道をとった方がいいとさとった。彼はひくのをやめて、これから起ころうとする嵐《あらし》を思っては前もって震え上がりながらも、大胆に言ってのけた。
「お父さん、僕はもうひきたくない。」
 メルキオルは息をつめた。
「なに、なに!……」と彼は叫んだ。
 彼はクリストフの腕を折れるほど揺ぶった。クリストフはますます震え上がって、殴られるのを避けようと肱《ひじ》を上げながら、言いつづけた。
「もう弾《ひ》きたくない。第一、打たれたくないし、それから……。」
 彼は言い終えることができなかった。ひどく頬辺《ほおぺた》を打たれて息がつまった。メルキオルは喚きたてていた。
「うむ! 打たれたくないんだって、打たれたく……。」
 拳固《げんこ》の霰《あられ》が降った。クリストフはすすり泣きの間から絶叫していた。
「それから……音楽はいやだ!……音楽は嫌《きら》いだ!……」
 彼は席から滑り落ちた。メルキオルは手荒く彼をまたすわり直させ、手首を掴《つか》んで鍵盤にぶっつけた。彼は叫んでいた。
「ひくんだ!」
 クリストフは叫んでいた。
「いや、いや、弾《ひ》くもんか!」
 メルキオルは諦《あきら》めなければならなかった。彼はクリストフを扉のところへ引張ってゆきながら、一か所も間違えずに練習をしてしまわないうちは、一日じゅう、一月じゅう、食物を与えないと言った。後ろから彼を蹴《け》り出して、ばたりと扉を閉めきった。
 クリストフは階段の中途にたたずんだ。きたない薄暗い階段で、踏段は虫に食われていた。軒窓のガラスの壊れたところから、風が吹き込んでいた。湿気で壁がじめじめしていた。クリストフは脂《あぶら》じみた踏段に腰を降ろした。胸の中は、憤怒と激情とで心臓がどきついていた。小声で彼は父をののしった。
「畜生、まったくそうだ! 畜生!……下司《げす》野郎……人非人《にんぴにん》! そうだ人非人だ!……おれは大嫌いだ。大嫌いだ。……死んじまうがいいや、死にやがれ!」
 彼は胸がいっぱいになっていた。ねちねちした階段を、壊れた窓ガラスの上に風に揺られてる蜘蛛《くも》の巣を、絶望的に眺めていた。不幸の中に一人ぽっちで落ち込んだような気持だった。彼は手摺《てすり》の棒の間の空間を眺めた。……もし下に飛び降りたら?……あるいは窓からでも?……そうだ、懲《こ》らしめのために自殺してやったら? 彼奴《あいつ》らはどんなに後悔するだろう! 自分が階段から落ちる音が耳に響いた! 上の扉が急いで開かれた。悲痛な声が叫んでいた、「あれが落《おっ》こった! 落こった!」足音が階段をころび降りてきた。父が、母が、泣きながら彼の身体にとびついた。母はすすり上げていた、「あなたのせいです、あなたがこの子を殺したんです!」父は腕を振り動かし、ひざまずき、手摺に頭をぶっつけながら、叫んでいた、「おれが悪いんだ、おれが悪いんだ!」――そういう光景は、彼の苦しみを和らげた。彼は嘆いてる人たちを憐れもうとしかけた。しかし、彼等にはこれがちょうどいい報いだと後から考えた。そして復讐の光景を味わった……。
 自分で作り出した話を終えてしまった時、彼はまた暗い階段の上に上っていた。彼はも一度下を覗《のぞ》いた。するともう少しも飛び降りたい気がしなかった。ちょっと身震いさえして、落ちるかもしれないと思いながらその端から遠のいた。その時彼は、まったく囚《とら》われの身なのを感じた。あわれな籠《かご》の鳥のようで、永久に囚われの身であり、頭を割るか大|我怪《けが》をするかよりほかに逃げ道はなかった。彼は泣きに泣いた。きたない手で眼をこすっていたので、すぐに顔じゅう真黒になってしまった。そして泣きながらも、あたりのものを見つづけていた。それで気がまぎらされた。彼はちょっと泣声をやめて、動き出した蜘蛛《くも》を眺《なが》めた。それからまた泣きだしたが、前ほど本気ではなかった。自分の泣声に耳を澄していた。もうなぜだかよくもわからずにただ機械的な泣声をつづけていた。やがて彼は立ち上がった。窓に引きつけられたのである。彼は窓の内側に腰掛け、用心深く身体を奥の方に引込ませて、面白くもあるがまた厭《いや》な気もする蜘蛛を、じろじろ横目で見守った。
 下には家のすぐそばをライン河が流れていた。階段の窓から覗《のぞ》くと、河の真上になっていて、揺らめく空中にいるがようだった。クリストフは一段一段と階段を降りてゆく時、いつも欠かさずその河を眺めたのだった。しかしまだかつて、その日のように河を見たことはなかった。悲痛は感覚を鋭利にする。色|褪《あ》せた記憶の跡が涙に洗われた後には、すべてが眼の中によりよく刻み込まれるらしい。子供には河が生物のように見えた――不可解な生物、しかも彼が知ってる何よりもいく倍となく力強い生物! クリストフはなおよく見るために身を乗り出した。窓ガラスの上に口をあて鼻を押しつけた。彼はどこへ行こうとしているのか? 彼は何を望んでいるのか? 彼は自分の道を信じきってるような様子である。……何物も彼を止めることはできない。昼も夜もいかなる時でも、雨が降ろうと日が照ろうと、家の中に喜びがあろうと悲しみがあろうと、彼は流れつづけている。すべて何事も彼にとってはどうでもいいことらしい。彼はかつて苦しんだことがなく、常に自分の力を楽しんでいるらしい。彼のようだったら、どんなに愉快だろう! 牧場や、柳の枝や、光ってる小石や、さらさらした砂や、そういうものの間を分けて走り、何物にも気をもまず、何物にも煩わされず、まったくの自由である、そうなったらどんなに愉快だろう!……。
 子供は貪《むさぼ》るように眺めまた聴いていた。河に運ばれてるような気がした……。眼をつぶると、青や緑や黄や赤などの色が見えてき、過ぎゆく大きな影や、一面に降り注ぐ日の光が、見えてくる。……映像はしだいにはっきりとなる。それ、広い平野、葦《あし》の茂み、新鮮な草や薄荷《はっか》の匂いがする微風に波打っている畑の作物。至るところに花が咲いている、矢車草、罌粟《けし》、菫《すみれ》。なんと美しいことだろう! なんと快い空気だろう! 密生した柔かな草の中に寝転んだら、さぞ気持がいいだろう!
 ……祝いの日に、ライン産の葡萄酒《ぶどうしゅ》を少しばかり、大きな杯に父からついでもらった時のように、クリストフは心|嬉《うれ》しくて、少しぼーっとした心地になってくる……。――河は流れてゆく……。景色が変わる……。こんどは、水の上に覗《のぞ》き出た木立。歯形に切れてる木の葉は、小さな手のような形をして、河の中に浸り動き裏返っている。木立の間には、一つの村落が河に映っている。流れに洗われてる白壁の上には、墓地の糸杉や十字架が見えている。……次には、種々な岩、立ち並んだ山、傾斜地の葡萄畑、小さな樅《もみ》の林、荒廃した城《ブルク》……。それからまた、平野、作物、小鳥、日の光……。
 緑色の満々たる河水は、ただ一つの思想のように一体をなして、波も立てず、ほとんど皺《しわ》も寄せず、脂《あぶら》ぎって光ってる水形模様を見せながら、流れつづける。クリストフはもうそれを眼には見ない。彼はその音をなおよく聞くために、眼をすっかり閉じている。たえざる水音は彼の心を満たし、彼に眩暈《めまい》を与える。その覆《おお》いかぶさってくる悠久《ゆうきゅう》な夢に彼は吸い寄せられる。河水の騒々しい基調の上に、急調の律動《リズム》が激しい愉悦をもって飛び出してくる。そしてそれらの節奏《リズム》のまにまに、棚《たな》に葡萄蔓《ぶどうづる》がよじ上るように、種々の音楽が高まってくる、銀音の鍵盤から出る白銀の琶音《アルペジオ》、悩ましいヴァイオリンの響き、円《まろ》やかな音調のビロードのようなフルートの声……。景色は消えてしまった。河は消え失せてしまった。柔かな薄ら明るい大気が漂っている。クリストフの心は感動のあまり震えてくる。今や眼に見えるのは? おう麗わしい種々の面影!――栗《くり》色の髪を縮らした小娘が彼を呼んでいる、なよやかなまた揶揄《からか》うような様子で……。碧眼《へきがん》の幼い少年の蒼《あお》い顔が、憂わしげに彼を眺めている……。その他いろんな笑顔や眼付――見つめられると顔が真赤になるような、物珍らしげな挑《いど》みかかる眼――犬のやさしい眼付のような、愛を含んだ切ない眼――または厳《いか》めしい眼、または苦悶の眼……。それから、口元のしまった黒髪の蒼ざめた女の面影、その眼は顔の半ばを覆いつくすかと思われるほど大きく開かれて、苦しくなるほど激しく彼を見つめている……。それから、すべてのうちで最もなつかしいのは、澄みきった灰色の眼と、心もち開いた口と、光ってる細かな歯並とで、彼に微笑《ほほえ》みかけてくれる面影……。ああ、その寛大な愛深い麗わしい微笑み! それはやさしい愛情で人の心を溶かしてしまう。いかに人を喜ばすことか! いかに人から好かれることか! もっと! もっと微笑みかけてくれ! 消え去ってはいけない!――ああ、悲しくもそれは消え失せてしまう。しかし人の心に得もいえぬやさしみを残してくれる。もうつらいことは少しもない、悲しいことは少しもない、もう何もない……。ただ軽やかな夢ばかり、夏の麗わしい日に見られる聖母の糸(空中にかかって浮んでる蜘蛛の糸――訳者)のように太陽の光線の中に漂ってる、朗らかな楽《がく》の音《ね》ばかり……。――では今しがた通り過ぎたのはなんだろう? 胸騒がしい情熱を子供心にしみ込ませるあれらの姿はなんだろう? かつて彼はまだそれらの姿を見たことがなかった。けれども彼はそれらを知っていた。見覚えがあった。それらはどこから来るのか? 「存在」のいかなる薄暗い深淵《しんえん》から来るのか? すでにあったものからなのか、……あるいはやがてあろうとするものからなのか?……
 今や、すべては消え失せ、すべての形は溶け去ってしまう……。最後にも一度、靄《もや》のヴェールを通して、あたかも高くを翔《かけ》ってる時のように、しかも自分の上の方に、満々と湛《たた》えた河が、野を覆いながら、おごそかに流れながら、ゆるやかなほとんど不動の姿で、現われてくる。そしてはるか遠くには、地平のはての鋼鉄の光のようにして、水の平野が、震える水の一線がある――海が。河はその海へ奔《はし》っている。また海は河へ奔ってるがようである。海は河を吸い寄せる。河は海を慕う。河は海に隠れようとしている……。音楽は渦《うず》巻き、舞踊の麗わしい節奏は狂わしいまでに揺り動く。その勝ち誇った旋風の中に、すべてが巻き込まれて一掃される……。自由な魂が宙をかすめて翔《かけ》る、空気に酔いながら鋭い声を発して空を横ぎる、燕《つばめ》の飛翔《ひしょう》のように。……歓喜、歓喜! もはや何物もない! おう、限りなき幸福!……
 時間は過ぎていった。夕暮になっていた。階段は闇《やみ》に包まれていた。雨のつぶが、河の平らな面《おもて》に丸い輪を描くと、流れが踊りつつそれを運んでいった。時おりは、木の枝が、黒い樹皮が、音もなく通りかかって、過ぎ去っていった。毒蜘蛛は、餌《えさ》を食いあきて、いちばん暗い片|隅《すみ》に引込んでしまった。――そして小さなクリストフは、よごれた蒼白い顔を幸福の色に輝かしながら、いつまでも軒窓の縁にもたれていた。彼は眠っていた。

     三

           太陽は闇を被《かず》きて現われぬ……
               ――神曲、煉獄の巻、第三十章――

 我意を折らなければならなかった。痛烈な反抗心を執拗《しつよう》に押し通してはみたが、ついに彼の悪意は打擲《ちょうちゃく》にうち負けてしまった。毎日朝と晩に三時間ずつ、クリストフは責道具の前に引据えられた。注意と不愉快とにたまらなくなり、頬《ほお》や鼻に大粒の涙を流しながら、彼は白や黒の鍵《キイ》の上に小さな赤い手を動かした。音符を間違えることに打ちおろされる定規の下に、またその打擲よりいっそう忌わしい師の喚《わめ》き声の下に、彼の手は寒さに凍えてることがしばしばだった。音楽は嫌《きら》いだと彼は考えていた。それでも熱心に努めていた。その熱心さは、メルキオルを恐《こわ》がってるというせいばかりでもなかった。祖父のある言葉が彼に深い印象を与えていた。祖父は孫が泣くのを見て、重々しい調子で言ってきかした、人間の慰謝と光栄とのために与えられている最高最美の芸術のためになら、多少の苦しみは忍ぶに甲斐《かい》のあることだと。クリストフは[#「クリストフは」は底本では「クリストスは」]祖父から大人並に話しかけられるのを感謝していて、その質朴《しつぼく》な言葉に内心動かされた。彼の子供らしい堅忍と生まれながらの傲慢《ごうまん》とは、その言葉をよく受けいれた。
 しかしいかなる議論よりも、ある音楽的な情緒についての深い記憶の方がより強く、彼がいたずらに反抗せんと試みていたその厭《いや》な芸術に、一生涯彼を知らず知らずのうちに結びつけ、彼を奉仕せしめた。
 ドイツの風習として、この町にも一つの劇場があって、歌劇《オペラ》、喜歌劇《オペラコミック》、軽歌劇《オペレット》、正劇《ドラマ》、喜劇《コメディー》、俗謡劇《ヴォードヴィル》、その他およそ上演できるものならいかなる種類のものもいかなる体裁のものも皆演ぜられていた。開演は一週に三度で、晩の六時から九時までだった。ジャン・ミシェル老人は一度も見物を欠かしたことがなく、どの出物《だしもの》にたいしても同じ興味を示していた。一度孫をいっしょに連れてってやった。数日前から彼にその劇の内容を長々と語ってきかした。クリストフにはそれが少しも了解できなかった。しかし恐ろしいことが起こるということを感じた。そして見たくてたまらなくなりながらも、たいへん恐《こわ》がっていた。暴風雨が起こることを知っていて、雷に打たれはしないかを恐れていた。戦《いくさ》があることを知っていて、自分も殺されはすまいかとびくびくしていた。前日、寝床の中で、彼はほんとうに苦しんだ。開演の日になると、祖父が何かさしつかえで来られなくなればいいがと願いたいくらいだった。しかし時間が迫ってくるのに祖父がやって来ないと、非常に悲しくなりだして、たえず窓から覗《のぞ》いた。ついに老人はやって来、二人はいっしょに出かけた。彼は胸がどきどきした。舌が乾ききって、一言も物をいうことができなかった。
 彼らは家でしばしば話の種になってるその不思議な殿堂に到着した。入口でジャン・ミシェルはいく人もの知人に出会った。子供は彼にはぐれるのを非常に恐れて、強くその手にすがりついていた。そしてこんな場合にどうして皆が平然と話したり笑ったりしていられるか、少しもわからなかった。
 祖父は管弦楽《オーケストラ》の後ろの第一列の定席についた。彼は手摺《てすり》によりかかって、すぐにバスひきとのべつに話をやり出した。そこは彼の得意の壇場《だんじょう》だった。彼は音楽の権威だったから人々から謹聴された。彼はそれに乗じていた。図に乗ってるともいえるほどだった。クリストフの方は何にも聞くことができなかった。彼は芝居が待ち遠しくてたまらなかったし、宮殿のように思われる広間の光景に威圧され、恐ろしいほど込み合ってる看客に威圧されていた。皆の視線が自分に向けられてるように思って、後ろをふり返るだけの勇気もなかった。小さな帽子を膝《ひざ》の間にはさんでびくびくしながら、眼を丸くして不思議な幕を見つめていた。
 ついに柝《き》の音が三つ響いた。祖父は鼻をかんで、ポケットから台本《リヴレット》を取出した。彼はいつもその台本を丹念にたどることを欠かさないで、時としては舞台で演ぜられてることを忘れるくらいだったのである。管弦楽《オーケストラ》が始まった。最初の和音を聞くや否や、クリストフは心が落着くのを感じた。その音響の世界では、自分の家のような気がした。それから先はもう、舞台にどんな不思議なことが起ころうと、すべて自然であるように思われた。
 幕が上がって、厚紙の樹木やほんとうらしくない人物などが現われた。子供は感心して口をぼんやり開きながら眺めた。しかしびっくりしてはいなかった。それでも劇は、彼が思いもつかない夢のような近東の事柄だった。劇詩の筋は荒唐無稽《こうとうむけい》で、まったく訳がわからなかった。クリストフは何にも見分けることができなかった。彼はすべてを混同し、人物を取り違え、祖父の袖《そで》を引張っては、何も理解していないことがわかるような馬鹿《ばか》げた質問をやたらにした。しかも彼は退屈してないばかりでなく、夢中になって面白がっていた。つまらない台本《リヴレット》にもとづいて、みずから一つの小説を作り上げていたが、それは演ぜられてることとまったく無関係なものだった。舞台の出来事はたえずその小説と背馳《はいち》するので、また新たに筋を立て直さなければならなかった。しかし彼はそれに困らされはしなかった。舞台の上で種々な声を出して進展してゆく人物のうちから、自分の気に入る者を選んで、それに同情を寄せながら、その運命がどうなりゆくかと胸を震わして見守っていた。とくに彼の心を悩ましたのは、中年の美しい女であって、輝いた長い金髪をもち、眼が馬鹿に大きくて、素足で歩いていた。演出の驚くべき不自然さも、彼の気を少しもそこなわなかった。大きくでぶでぶ太ってる俳優らの醜怪な様子、二列に並んでるどこから見ても無格好な合唱団、所作の幼稚さ、喚《わめ》いて充血してる顔付、毛の乱れてる鬘《かつら》、テナー歌手の高い靴《くつ》の踵《かかと》、種々な顔料で顔を彩色してるその恋女の粉飾、そういうものをも、子供の鋭い眼は見落としていた。彼はちょうど、情熱のために相手の真相が眼につかない恋人のような状態になっていた。子供に特有な驚くべき幻想の力は、不快な感覚を中途で引止めて、それを適宜に変形さしていった。
 音楽がそういう奇跡を行なっていた。音楽はすべてのものを薄靄《うすもや》の大気に包み込んで、すべてを美しく気高く快くなした。人の心に激しい愛の欲求を伝えた。と同時に、そういう心の空虚を満さしてやるために、愛の幻をさしつけてくれた。小さなクリストフは激しい情緒に駆られていた。音楽の種々な言葉や身振や文句は、彼の心を落着かせなかった。彼はもう眼をあげる元気もなかった。よいのか悪いのかもわからなかった。赤くなったり蒼《あお》くなったりした。そして額には玉の汗が出てきた。まわりの人たちから自分の悩みが気づかれはすまいかとびくびくしていた。歌劇《オペラ》の四幕目になって、テナー歌手と主役女優《プリマドンナ》にその最も鋭い声を発揮させる機会を与えんために、免れがたい破局が恋人らの上に落ちかかってきた時、彼は息がつまるような気がした。風邪《かぜ》をひいた時のように喉《のど》が痛くなった。両手で首をかかえて、唾《つば》をのみ込むこともできなくなった。涙があふれてきた。幸いなことには、祖父も大して劣らないくらいに感動していた。彼は子供のような無邪気さで芝居に見とれていた。劇的場面になると、心の動揺を隠すために何気ない様子で咳《せき》をした。しかしクリストフにはよくわかった。彼はそれが嬉《うれ》しかった。おそろしく暑かった。眠気がさしてきた。たいへんすわり心地が悪かった。しかし彼はこんなことばかり考えていた。
「もっと長くつづくかしら。おしまいにならなければいいが!」
 そして突然、すべてが片づいた。なぜだか彼にはわからなかった。幕が降りた。皆立ち上がった。感興は中断された。
 二人の赤ん坊たる老人と子供とは、いっしょに夜のうちを帰途についた。なんという麗わしい夜だろう! なんという静かな月の光だろう! 二人とも頭の中にあることを味わいながら、黙っていた。ついに老人は言った[#「言った」は底本では「言つた」]。
「どうだ、面白かったかい。」
 クリストフは返辞をすることができなかった。彼はまだ激しい情緒に打たれていたし、その魅惑を破ることを恐れて口をききたくなかった。ようやく元気を出して、大きい溜息《ためいき》をつきながら低くつぶやいた。
「ええ、ええ!」
 老人は微笑《ほほえ》んだ。程へて彼はまた言った。
「音楽家の職業がどんなにりっぱなものであるかわかったかい。あんなりっぱな光景を創《つく》り出すのは、この上もなく名誉なことではないか。それはこの世で神様になることだ。」
 子供はびっくりした。まあ、あれを創り出したのは人間だったのか! 彼は夢にもそうだとは知らなかった。彼にはほとんど、ああいうものは独《ひと》りでにできあがったかのように思われ、自然の手になったもののように思われるのだった。……それが、いつか自分がなりたいと思ってるような、一個の人間、音楽家の手で! おう一日でも、ただ一日でもいいから、そうなりたいもんだ! そしたら……その後はどうなったってかまわない、死ぬなら死んでもいい! 彼は尋ねた。
「お祖父《じい》さん、あれをこしらえたのはなんという人なの?」
 祖父はフランソア・マリー・ハスレルのことを話してきかした。ドイツの若い芸術家で、ベルリンに住んでいて、昔祖父と知り合いだった。クリストフは耳を澄してきいていた。突然彼は言った。
「そしてお祖父さんは?」
 老人は身を震わした。
「なんだい?」と彼は尋ねた。
「お祖父さんもまた、あんなものをこしらえたことがあるの?」
「あるともさ。」と老人は気むずかしい声で言った。
 そして彼は口をつぐんだ。五、六歩してから深い溜息《ためいき》をもらした。それこそ生涯の悲しみの一つだった。彼は常に芝居のために書きたいと望んでいたが、いつも霊感《インスピレーション》に裏切られたのだった。紙挾《かみばさ》みにはたえず、自己流の一幕物か二幕物がはいっていた。しかしその価値についてはあまり自信がなくて、かつて判断に供するの勇気がなかった。
 彼らはそのままもう一言も口をきかないで、家に帰りついた。二人とも眠れなかった。老人は悲しんでいた。みずから慰めるために聖書を取上げた。――クリストフは寝床の中で、その晩の出来事をくり返してみた。些細《ささい》なことまで思い出した。素足の娘がまた眼の前に現われた。うとうとしかけると、音楽の一節が耳に響いて、管弦楽がそこに奏されてるかと思うほどはっきり聞えてきた。彼はぞっと身を震わした。頭が酔わされて、枕《まくら》の上に起き上がった。そして考えた。
「僕もいつかああいうものを書いてやろう。ああ、いつになったらそれができるかしら。」
 その時以来、彼はもはや一つの願いしかもたなかった。また芝居に行くことだった。そして勉強の褒美《ほうび》に芝居へ行かしてやると言われたので、いっそう熱心に勉強を始めた。彼はもう芝居のことしか考えていなかった。一週間の半分はこの前の芝居のことを考え、他の半分は次の芝居のことを考えた。病気になって芝居へ行けなくなりはすまいかとびくびくしていた。心配のあまり三、四の病気の徴候を感ずることもしばしばだった。その日になると、食事もろくろくできず、心配ごとでもあるかのようにいらいらして、何十遍となく時計を見に行き、いつまでも日が暮れそうにないような気がし、ついには、もう我慢がしきれなくなり、席がなくなるかもしれないと気遣《きづか》って、開場の一時間も前から出かけていった。そしてがらんとしてる広間へ一番にはいって行ったので、気が揉《も》めだした。観客が十分はいらないので、役者たちは芝居をよして席料を返すことにしたことも、二、三度あったと、彼は祖父から聞いていた。彼は客がやって来るのを待受けて、その数を数え、一人で考えていた。「二十三、二十四、二十五……ああ、まだ十分でない……いつまでも十分そろわないのではないかしら?」そして桟敷《さじき》や奏楽席にある著名な人がはいって来るのを見ると、心がいくらか軽くなった。彼は考えた。「あんな人なら追い返しはすまい。きっとあの人のために芝居をやるだろう。」――しかしそれが確かかどうかはわからなかった。ようやくほっと安心するのは、楽手たちが席についてからであった。それでもまだ彼は、幕が上がって、ある晩のように、出物《だしもの》を変えると述べられはすまいかと、最後の瞬間まで心配していた。小さな眼をきょろつかして、バスひきの譜面台を覗《のぞ》き込んでは、楽譜の表題が待ち受けてる曲のそれであるかどうか見ようとした。よく見た後でも、一、二分たつとまた、見違いをしたのではないか確かめるために覗いた……。楽長がまだ席についていなかった。きっと病気かもしれなかった……。幕の向うで人々が動き回っていた。話声や忙しい足音が聞えていた。何か起こったのではないかしら、思わぬ不幸がわいてきたのではないかしら……。また静かになった。楽長が自分の位置についた。すっかり準備が整ったらしかった……。でもまだ始まらない! いったいどうしたんだろう。――彼は待遠しくてじりじりしていた。――ついに合図の柝《き》の音が響いた。彼は胸がどきどきした。管弦楽は序曲を奏しだした。そしてクリストフは数時間の間、深い幸福のうちに浸った。その幸福を煩わすものはただ、もうおしまいになりはすまいかという考えばかりだった。

 それからしばらくして、音楽上の一事件がクリストフの考えを刺激した。彼を驚嘆せしめた最初の歌劇《オペラ》の作者たるフランソア・マリー・ハスレルが、やって来ることになった。そして自作の音楽会を指揮することになった。町じゅうの者が興奮した。この若い楽匠は、ドイツで激しい議論の種となっていた。そして半月ほどの間は、町じゅう彼の噂《うわさ》でもちきった。いよいよ彼が到着するとまた特別だった。メルキオルの友人やジャン・ミシェル老人の友人らは、たえず消息をもたらしてきた。この音楽家の習慣や風変わりの点について、彼らは種々な馬鹿げた噂を伝えていった。子供は熱心な注意を傾けてそれらの話を一々聞いていた。えらい人がやって来ている、この町にいる、自分と同じ空気を呼吸している。同じ舗石を踏んでいる、とそういう考えが、彼を無言の感激のうちに投げ込んでしまった。彼はもはや、その人に会いたいという希望ばかりに生きていた。
 ハスレルは大公爵から歓待を申出られて、その宮邸に足を止めていた。彼は稽古《けいこ》の指図をするために劇場へ行くほか、ほとんど外出しなかった。クリストフはその劇場へはいることを許されなかった。またハスレルはごく無精だったので、いつも大公爵の馬車で往来していた。でクリストフには、彼をよくみる機会がなかなかなかった。ただ一度通り道で、馬車の奥にその毛皮の外套《がいとう》を見かけることができたばかりだった。しかしそれだけのことにも、街路を待ち受けていて野次馬の中の第一列を占め、そこから押し出されないようにと、左右に激しく拳固《げんこ》を振り回しながら、数時間費したのだった。また彼は、楽匠の室だと教えられた宮邸の窓を窺《うかが》いながら半日を過ごして、ようやく自分を慰めていた。たいていは雨戸ばかりしか見えなかった。ハスレルは朝寝坊で、窓はたいてい午前中閉められたままだった。そのために、ハスレルは日の光にたえられないで常に暗闇の中で生活してるのだと、物知り顔の人々は言っていた。
 ついにクリストフは、その偉人に近づくことができた。それは公演の日だった。町じゅうの人が集まっていた。大公爵と廷臣らは、大きな貴賓席を占めていた。その桟敷《さじき》の上には、豊頬《ほうきょう》の天使が二人、足を踊らして、王冠を宙にささげていた。劇場のありさまはあたかも祭典のようだった。舞台は樫《かし》の枝や花咲いた月桂樹《げっけいじゅ》で飾られていた。多少手腕のある音楽家は皆、管弦楽団に加わるのを名誉としてた。メルキオルは自分の位置につき、ジャン・ミシェルは合唱団《コーラス》を指揮していた。
 ハスレルが現われると、四方から喝采《かっさい》が起こった。婦人たちは彼の姿をよく見るために立上がった。クリストフはじっと見つめた。ハスレルは若いすっきりした顔をしていたが、それもすでに多少ふくれて疲れていた。顳顬《こめかみ》のあたりは毛が薄くなっていた。縮れた金髪の間から、頭の頂上に早老の禿《はげ》が見えていた。青い眼は眼差《まなざし》がぼんやりしていた。小さな赤い口髯《くちひげ》の下に、皮肉そうな口が、眼に止まらないくらいの種々な動きにひきつって、じっとしてることは滅多になかった。背は高かった。そして、窮屈な気持のせいではないが、疲労のせいかあるいは退屈のせいかで、姿勢がしっかりしてはいなかった。ふらふらした大きな身体を、あるいはしとやかなあるいは荒っぽい身振りとともに、ちょうどその音楽のように波動させながら、自由気ままな軽快さで指揮していた。非常な神経質であることが見てもわかった。そしてその音楽は、彼自身の反映であった。躍りたった急激な彼の生命が、通例は無味平静な管弦楽の中にまではいり込んでいた。クリストフは息をはずませた。人の注目を受けはすまいかと恐れながらも、席にじっとしてることができなかった。身体を動かしたり、立上がったりした。音楽からいかにも激しいまた意外な振動を受けて、彼は頭や腕や足を動かすのを押えることができなかった。近くの人々は非常に迷惑して、できるだけ彼の乱暴な態度を避けようとした。それにまた全聴衆は、作品そのものよりもむしろその成功の方により多く魅せられて、感激しきっていた。終りに、拍手喝采《かっさい》の嵐《あらし》が起こって、それとともにトロンペットは、ドイツの習慣として、勝利者に敬意を表するためその揚々たる響きをたてた。クリストフはそれらの名誉が自分に向けられたかのように、得意の念に躍《おど》り上がった。ハスレルの顔が子供らしい満足の色に輝いているのを、彼は見て楽しんだ。女は花を投げ、男は帽子を振った。聴衆は群り立って舞台の方へ押し寄せた。皆楽匠と握手をしたがっていた。感激した一人の婦人が彼の手を唇にもってゆくのを、また他の婦人が楽譜台の隅《すみ》に置かれてる彼のハンケチを盗んでるのを、クリストフは眼に止めた。クリストフ自身もまた、楽壇に上ってゆきたかった。しかしそれがなぜであるかはまったくわからなかった。というのは、もしその時ハスレルのそばにいたら、彼は感動のあまりすぐに逃げ出したであろうから。でも彼は自分とハスレルとを隔てる人々の着物や足の間に、自分の頭を梃《てこ》のようにつき込んでいた。――彼はあまり小さすぎた。舞台まで行くことができなかった。
 幸いにも、音楽会がすむと、ハスレルのために催される夜曲《セレナード》へ連れてゆくために、祖父が彼を探しに来てくれた。夜になっていた。炬火《たいまつ》がつけられていた。管弦楽団の人々はみなそこに集まっていた。話は先刻聴いた霊妙な作品のことばかりだった。宮邸の前に着くと、人々は楽匠の窓下で静かに準備をした。ハスレルも他の人々も皆、これからやろうとすることをよく承知していたくせに、妙に取り澄ました様子を装っていた。夜の麗わしい沈黙のうちに、ハスレルのある名高い曲が奏し出された。ハスレルは大公爵とともに窓に現われた。人々は彼らの名誉のために歓声を揚げた。彼らは二人とも敬礼を返した。大公爵から遣《つか》わされた一人の従僕がやって来て、楽員たちを宮邸の中へ案内した。彼らはいくつかの広間を通っていった。広間には壁画が描かれていて、兜《かぶと》をかぶった裸体の男が現わしてあった。皆赤い色をして、挑戦的な身振りをしていた。空は海綿に以た大きな雲で覆われていた。また、鉄板の腰衣をまとった男女の大理石像もあった。人々は足音も聞えないほど柔かな絨緞《じゅうたん》の上を歩いていった。そしてある一つの広間にはいると、そこは真昼間のように明るくて、りっぱな飲食物ののっている食卓が並んでいた。
 大公爵はそこにいた。しかしクリストフには見えなかった。ハスレルしか彼の眼にははいらなかった。ハスレルは楽員たちの方へ進んでき、彼らに礼を述べた。彼は適当な言葉を考え、ある文句につまり、滑稽な機知でそれを切りぬけて、皆の者を笑わした。人々は食事を始めた。ハスレルは四、五人の音楽家をわきに呼んだ。彼クリストフの祖父を見つけて、少しお世辞を言った。ジャン・ミシェルは彼の作品を実演してくれた最初の人々の一人だったことを、彼は覚えていたのである。そして、祖父の弟子であった一人の友人から、技倆のほどはしばしば聞いていたと、彼は言った。祖父は感謝の言葉を夢中に述べたてていた。あまりおおげさな賛辞で応答しているので、クリストフはいくらハスレルを崇拝しているとはいえ、そばで聞いていると恥ずかしくなるくらいだった。しかしハスレルは、そういう賛辞をごく快いまた自然なことだと思ってるらしかった。ついに祖父は、めちゃくちゃな言葉に迷い込んでしまって、クリストフの手を引張って、ハスレルに紹介した。ハスレルはクリストフに微笑《ほほえ》みかけ、何気なく彼の頭をなでてやった。それから、この子供が彼の音楽を好いてることを知り、彼に会うのを待ち焦れて数日来一晩も眠らなかったことを知ると、彼は子供を両腕にかかえて、やさしく種々なことを尋ねた。クリストフは嬉《うれ》しさのあまり真赤になり、感動のあまり口がきけなくて、彼の顔を見上げるだけの勇気もなかった。ハスレルはその頤《あご》をつかまえて、無理に顔を上げさした。クリストフは思いきって眺めた。ハスレルの眼はやさしくて笑っていた。で彼も笑い出した。それから彼は、慕《したわ》しい偉人の腕に抱かれてる身を非常に幸福に感じて、この上もなく幸福に感じて、はらはらと涙をこぼした。ハスレルはその率直な愛情に心を打たれた。彼はなお情深い様子をし、子供を抱きしめ、母親のようなやさしさで話しかけた。とともにまた、おかしな言葉をいったり、笑わせようとしてくすぐったりした。そしてクリストフは、涙を流しながらも笑わずにはおられなかった。間もなく彼はすっかり慣れきって、遠慮なくハスレルに答えた。自分から進んで、年来の友人同士であるかのように、あらゆるかわいい抱負を彼の耳にささやきだした。どんなにかハスレルのように音楽家になりたいこと、ハスレルのようにりっぱなものを作りたいこと、偉い人になりたいこと。平素恥ずかしがりやだった彼も、今は心からうち解けて話した。しかも何を言ってるのか自分でもわからないで、ただ恍惚《こうこつ》としていた。ハスレルはその饒舌《じょうぜつ》を笑っていた。彼は言った。
「大きくなったら、りっぱな音楽家になったら、ベルリンへ私を訪《たず》ねておいでよ。力になってあげるから。」
 クリストフはあまり嬉《うれ》しくて答えができなかった。ハスレルは彼をからかった。
「いやなの?」
 クリストフは厭《いや》じゃないとうなずくために、五、六度強く頭を動かした。
「では約束したね?」
 クリストフはまた無言の首肯《うなずき》を始めた。
「せめて私に抱きついておくれ。」
 クリストフはハスレルの首のまわりに両腕を投げかけ、力いっぱいにしめつけた。
「やあ、着物が濡《ぬ》れるじゃないか。もう放してくれ。鼻をかんだらどうだね。」
 ハスレルは笑っていた。そして手ずから、恥ずかしがりながらも嬉しがってる子供の鼻をかんでやった。彼は子供を下に降ろし、それから手を取って、食卓のところへ連れてゆき、そのポケットにいっぱい菓子をつめ込んでやり、放しながら言った。
「さよなら! 約束を覚えておいでよ。」
 クリストフは幸福の中に浸っていた。もはや他の世界は存在しなかった。彼はハスレルのあらゆる顔付や身振りをなつかしげに見守っていた。そして彼の一言に胸を打たれた。ハスレルは杯を手にして、何か口をきいていたが、その顔がにわかにひきつった、そして言った。
「今日のような愉快な日の喜びにも、われわれは敵を忘れてはいけません。人は決しておのれの敵を忘れてはいけません。われわれが蹂躙《じゅうりん》されなかったとしても、それは敵のせいではなかったのです。敵が蹂躙《じゅうりん》されないとしても、それはわれわれのせいではないでしょう。それゆえに今私は、乾杯の辞として、われわれが……その健康を祝したくない人々も世にはあるということを申したいのです。」
 人々は皆、その独特な乾杯の辞を喝采《かっさい》し興《きょう》がった。ハスレルも皆といっしょに笑い出して、上|機嫌《きげん》な様子に返った。しかしクリストフは当惑していた。自分の偉人の行動を論議することをみずから肯《がえん》じなかったとはいえ、その晩、晴れやかな顔付と輝かしい考えしか存すべからざる時に、氏がそういう厭なことに思いを走《は》せたのは、彼の気に入らなかった。けれども彼の印象は雑然たるものであった。極度の喜びと、祖父の杯で飲んだわずかなシャンパンのために、その印象はすぐに追い払われてしまった。
 帰る途中、祖父は独語《ひとりごと》をやめなかった。ハスレルから受けた賛辞に有頂天になっていた。ハスレルこそは一世紀に一人くらいしか見られないほどの天才だと叫んでいた。クリストフは黙り込んで、なつかしい陶酔の情を心に秘めていた。彼[#「彼」に傍点]が自分を接吻してくれた。彼[#「彼」に傍点]が自分を両腕に抱いてくれた、彼[#「彼」に傍点]はなんといういい人だろう! 彼[#「彼」に傍点]はなんという偉《えら》い人だろう!
「ああ!」と彼は小さな寝床の中で、ひしと枕をかき抱きながら考えた、「私は死んでもいい、あの人のためになら死んでもいい!」

 一夜、その小都会の空を過ぎていった輝いた流星は、クリストフの精神に決定的な影響を与えたのであった。幼年時代の間、それは生きた手本となって、その上に彼は眼を据えていた。わずか六歳の少年が、自分もまた音楽を書いてみようと決心したのは、この手本に基づいてであった。ほんとうのことをいえば、彼はすでに久しい以前から、みずから知らないで作曲していた。彼は作曲するためには、作曲してるとみずから知るまで待っていなかった。
 音楽家の心にとっては、すべてが音楽である。震え揺《ゆら》ぎはためくすべてのもの、照りわたった夏の日、風の吹く夜、流れる光、星の閃《ひら》めき、暴風雨、小鳥の歌、虫の羽音、樹々の戦《そよ》ぎ、好ましいあるいは厭《いや》らしい声、平素聞きなれてる、炉の音、戸の軋《きし》る音、夜の静寂の中に動脈をふくらす血液の音――すべて存在するものは皆音楽である。問題はそれを聞くということのみに存する。存在するもののかかる音楽は、ことごとくクリストフのうちに鳴り響いていた。彼が見るものはすべて、彼が感ずるものはすべて、音楽に変わっていた。彼はあたかも騒々しい蜂《はち》の巣のようであった。しかしだれもそれに気づかなかった。彼自身も気づかなかった。
 あらゆる子供のように、彼もたえず小声に歌っていた。いかなる時でも、いかなることをしている時でも――片足で飛びながら、往来を歩き回ってる時でも――祖父の家の床板《ゆかいた》の上に転がり、両手で頭をかかえて、書物の插絵に見入ってる時でも――台所のいちばん薄暗い片隅で、自分の小さな椅子《いす》にすわりながら、夜になりかかってるのに、何を考えるともなくぼんやり夢想してる時でも――常に、口を閉じ、頬《ほお》をふくらし、唇を震わして、始終つぶやいてる単調な音が、聞こえていた。いく時間たっても彼は倦《あ》きなかった。母はそれを気にも止めなかった。けれどやがて、彼女はたまらなくなって突然怒鳴りつけるのだった。
 彼はその半ば夢心地の状態に倦きてくると、動き出して音をたてたい欲求に駆《か》られた。すると、音楽を作り出して、それをあらんかぎりの声で歌った。彼はおのが生活のいかなる場合のための音楽をも皆こしらえ出していた。朝、家鴨《あひる》の子のように、盥《たらい》の中をかき回す時のためにも、音楽をもっていた。厭なピアノの前の腰掛に上る時のためにも、音楽をもっていた――そしてとくにそれから降りる時のためにも(この方の音楽はいっそう精彩あるものだった)。また、母親が食卓にスープを運ぶ時のためにも、音楽をもっていた――その時彼は、ファンファーレを鳴らして急《せ》きたてた。――食堂から寝室へ厳《おごそ》かにやって行くためには、揚々たる行進曲《マーチ》をみずから奏した。その場合時には、二人の弟とともに行列を組立てた。三人とも順々に並んで、堂々とねって歩き、各自に自分の行進曲をもっていた。しかしクリストフは、最もりっぱな曲を当然自分のものとしていた。右の多くの音楽のおのおのは、厳密にそれぞれの場合にあてはめられていた。クリストフは決してそれらをたがいに混同しようとはしなかった。他の者ならだれでもそれを取違えるかもしれなかった。しかし彼は明確にその音色を区別していた。
 ある日彼は、祖父の家で、頭をそり返し腹を前につき出して、踵《かかと》で調子をとりながら、室の中をぐるぐる回っていた。自作の曲の一つをやってみながら、心持が悪くなるほどいつまでもぐるぐる回っていた。――老人は髯《ひげ》を剃《そ》っていたが、その手を止めて、石鹸《せっけん》だらけな顔をつき出し、彼の方を眺めて言った。
「何を歌ってるんだい。」
 クリストフは知らないと答えた。
「も一度やってごらん。」とジャン・ミシェルは言った。
 クリストフはやってみた。どうしても先刻の節《ふし》が思い出せなかった。でも祖父から注意されてるのに得意になって、自分の美しい声をほめてもらいたく思いながら、歌劇《オペラ》のむずかしい歌を自己流に歌った。しかし老人が求めてるのはそんなものではなかった。ジャン・ミシェルは口をつぐんで、もう彼に取り合わない様子をした。それでも、子供が隣りの室で一人で遊んでる間、室の扉を半ば開け放したままにしておいた。
 数日後、クリストフは自分のまわりに椅子《いす》を丸く並べて、芝居の断片的な記憶でこしらえ上げた音楽劇を演じていた。真面目《まじめ》くさった様子で、芝居で見たとおりにメヌエットの節《ふし》に合して、テーブルの上に掛かってるベートーヴェンの肖像へ向い、足取りや敬礼をやっていた。そして足先で回転をしてふり向くと、こちらを眺めてる祖父の頭が、半開きの扉から見えた。彼は祖父に笑われてると思った。たいへん極り悪くなって、ぴたりとよした。そして窓のところへ走って行き、窓ガラスに顔を押しつけて、何か夢中に眺めてるようなふうを装った。しかし老人はなんとも言わなかった。彼の方へやって来て抱擁《ほうよう》してくれた。クリストフは老人が満足しているのをよく見てとった。彼の小さな自尊心は、そういう好意を受けると動かないではおれなかった。彼はかなり機敏だったので、自分がほめられたのをさとった。しかし、祖父は自分のうちの何をいちばんほめたのか、それがよくわからなかった。戯曲家としての才か、音楽家としての才か、歌手としての才か、あるいは舞踏者としての才か。彼は最後のものと思いたかった、なぜならそれを尊重していたから。
 それから一週間たって、彼がすっかり忘れてしまった時になって、祖父は彼に見せるものがあると変な様子で言った。そして机をあけて、中から一冊の楽譜を取出し、それをピアノの譜面台にのせ、弾《ひ》いてごらんと子供に言った。クリストフはたいへん困ったが、どうかこうか読み解いた。その帳面は、老人の太い字体でとくに注意して書かれたものだった。冒頭は輪や花形で飾ってあった。――やがて、クリストフのそばにすわってページをめくってやってた祖父は、それがなんの音楽であるか尋ねた。クリストフは演奏にあまり夢中になっていて、何をひいてるやらわからなかったので、知らないと答えた。
「気をつけてごらん。それがわからないかね。」
 そうだ、確かに知ってると彼は思った。しかしどこで聞いたのかわからなかった。……祖父は笑っていた。
「考えてごらん。」
 クリストフは頭を振った。
「わからないよ。」
 ほんとうをいえば思い当たることがあった。どうもその節《ふし》は……という気がした。だが躊躇《ちゅうちょ》された……そうだと言いたくなかった。
「お祖父《じい》さん、わからないよ。」
 彼は顔を赤くしていた。
「馬鹿な子だね。自分のだということがわからないのかい。」
 彼は確かにそうだとは思っていた。しかしそうはっきり言われるのを聞くとはっとした。
「ああ、お祖父《じい》さん!……」
 老人は顔を輝かしながら、彼にその音譜を説明してやった。
「それは詠唱曲《アリア》だ。火曜日にお前が床の上に転《ころ》がって歌っていたものだ。――行進曲《マーチ》。先週、も一度やってごらんと言ってもお前が思い出せなかったものだ。――メヌエット。肱掛椅子《ひじかけいす》の前で踊っていたものだ。……ご覧。」
 表紙には、みごとなゴジック字体で書いてあった。
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少年の快楽――詠唱曲《アリア》、メヌエット、円舞曲《ワルツ》、および、行進曲《マーチ》。――ジャン・クリストフ・クラフト作品※[#ローマ数字1、1-13-21]。
[#ここで字下げ終わり]
 クリストフは眩《まぶ》しかった。自分の名、そのりっぱな表題、その大きな帳面、自分の作品、今それを見ようとは!……彼はまだ口ごもっていた。
「ああ、お祖父さん! お祖父さん!……」
 老人は彼を引寄せた。クリストフはその膝《ひざ》の上に身を投げ、その胸の中に顔を隠した。彼は嬉《うれ》しさに真赤になっていた。老人は、彼よりもなおいっそう嬉しかったが、わざと平気を装った調子で――感動しかかってることにみずから気づいていたから――言った。
「もちろん私が伴奏を加えたし、また歌のキャラクテールに和声《ハーモニー》を入れておいた。それから……(彼は咳《せき》をした)……それから、メヌエットにトリオを加えた。なぜなら……なぜなら、それが習慣だから……それに……とにかく、悪くなったとは思わないよ。」
 彼はその曲をひいた。――クリストフは祖父と共作したことがたいへん得意だった。
「では、お祖父《じい》さん、あなたの名前も入れなけりゃいけないよ。」
「それには及ばないさ。お前より他《ほか》の人に知らせる必要はない。ただ……(ここで彼の声は震えた)……ただ、後になって、私《わし》がもういなくなった時、お前はこれを見て、お前の年取ったお祖父さんを思い出してくれるだろう、ねえ! お祖父さんを忘れやしないね。」
 あわれな老人はすっかり言いきれなかった。彼は自分より長い生命があるに違いないと感じた孫の作品中に、自分の拙《つたな》い一節《ひとふし》を插入するという、きわめて罪ない楽しみを、制することができなかったのである。けれども、今から想像してるその光栄に与《あずか》りたいという彼の願望は、いたって謙譲な哀れ深いものだった。なぜなら、彼はまったく死滅してしまわないために、おのれの思想の一片を無名で残しておけば、それで満足していたから。――クリストフはいたく感動して、彼の顔にやたらに接吻した。老人はますます心を動かされて、彼の頭を抱きしめた。
「ねえ、思い出してくれるだろうね。今後、お前が立派な音楽家となり、偉い芸術家となって、一家の光栄となり、芸術の光栄となり、祖国の光栄となった時に、有名になった時に、お前を最初に見現わし、お前の将来を予言したのは、この年とったお祖父さんだったということを、思い出してくれるだろうね。」
 彼は自分の言葉を聞きながら、眼に涙をたたえていた。しかし彼はそういう気弱い様子を見せたくなかった。激しく咳払いをし、気むずかしい様子をし、原稿を大事そうにしまいながら、子供を帰した。

 クリストフは嬉《うれ》しさに我を忘れて家へ帰っていった。小石は彼のまわりに踊っていた。ところが家の者から受けた待遇は、彼の酔を少しさましてしまった。彼がすっかり得意になって、自然に急《せ》きこんで音楽上の手柄話を始めると、頭から両親に怒鳴りつけられた。母は彼をひやかした。メルキオルは、あの老人は気違いで、子供のことにおせっかいを出すより自分の身に注意する方がいい、と言い放った。またクリストフの方では、そんな児戯に類したことには取合わずに、すぐさまピアノに向かって、四時間の練習をし、父親を喜ばすのがほんとうだそうだった。まず第一に、早く弾《ひ》き方を覚ゆることに努むべきであって、作曲などということは、もうこれ以上することがないという時になって、それから取りかかっても遅くはないそうだった。
 それらの賢い言葉から考えると、メルキオルは、子供のうちに早熟な高慢心が増長するの危険を、あらかじめ防いでやるつもりでいるらしくも思われるのだったが、実はそうではなかった。むしろその反対であるのをすぐに示すことになった。しかし彼は、音楽に表現すべきなんらの観念をもかつてみずからもったことがなかったし、また表現しようという少しの欲求をももったことがなかったので、演奏の技倆に自惚《うぬぼ》れたあまりついには、作曲は第二義的のものであると考え、演奏者の手腕のみが作曲にすべての価値を与えるものだと考えるようになっていた。もちろん彼とて、ハスレルのような大作曲家によつて惹起《ひきお》こされる感激に、無感覚ではなかった。世人の歓迎にたいしては、いつも成功ということにたいして感ずる尊敬の念をいだいた――人知れず多少の嫉妬《しっと》を交えた尊敬の念を。なぜなら、それらの喝采《かっさい》を横取りされたような気がしていたから。しかしまた、偉い名手の成功も、それに劣らずはなばなしいものであって、快い媚惑《びわく》的な結果からいえば、さらに個人的なさらに豊かなものであるということを、経験上知っていた。彼は楽匠らの才能に深い敬意を表するふうを装っていたが、しかし彼らの知力と品行とに悪評を与えるようなおかしな逸話は、いつも喜んでしゃべり回っていた。彼は演奏技倆を芸術の最高点においていた。なぜなら、彼自身の言によると、舌は人体の最も高尚な部分であるということは明らかな事実で、言葉を伴わない思想はなんの役にもたたないし、演奏を伴わない音楽はなんの役にもたたないということも、知れわたった事実であった。
 がとにかく、彼がクリストフに与えた訓戒の理由はどうであったにせよ、その訓戒は、祖父の賛辞に危く失いかけていた平衡を、子供に取りもどさせるのに無益ではなかった。否それでも足りないくらいだった。クリストフはやはり、祖父の方が父よりもはるかに知力がすぐれてると判断していた。そして厭《いや》な顔をせずにピアノに向かうのも、父の言葉に従うためであるというよりむしろ、機械的に指を鍵盤の上に走らせながら、いつものとおり勝手に夢想に耽《ふけ》らんがためであった。いつまでも終ることのない練習をなしながら、彼は高慢な声が自分のうちでくり返すのを聞いていた。「おれは作曲家だ、偉い作曲家だ。」
 その日以来彼は、作曲家であったから、作曲にとりかかった。字を書くこともろくに知らないうちから、家計簿の紙をもぎ取り、四分音符や八分音符を一生懸命に書きちらした。しかし、自分の考えてることを知るために、またそれをはっきり書き現わすために、非常に骨折っていたので、ついには、何かを考えようとする時以外には、もう何も考えなくなってしまった。それでも彼はやはり楽句を組立てようと力んでいた。そして彼はもとより音楽家だったから、まだなんの意味をもなさないものではあったがともかくも楽句をこしらえ出した。すると彼は揚々としてそれを祖父のもとへもって行った。祖父は嬉《うれ》し涙を流した――彼はもう年を取ったので涙もろかった――そして素敵なものだと言ってくれた。
 彼はまったく甘やかされて駄目《だめ》になるところだった。しかし幸いにも、生まれつき聡明な性質は、ある一人の男の影響に助けられて、彼を救い上げた。その男の方では、だれかに影響を与えようなどとはみずから思ってもいなかったし、だれの眼から見ても着実の見本にしかすぎないのであった。――それはルイザの兄であった。
 彼はルイザと同じく小柄で、痩《や》せて、ひ弱で、少し猫背《ねこぜ》だった。年齢はよくわからなかった。四十歳を越してるはずはなかったが、見たところでは五十歳かその上にも思われた。皺《しわ》寄った赤味がかった小さな顔をして、人のよさそうな青い眼は、やや色|褪《あ》せた瑠璃草《るりそう》のようにごく蒼白《あおじろ》かった。隙間《すきま》風が当たるのを恐れてどこででも寒そうに帽子をかぶっていたが、その帽子をぬぐと、円錐《えんすい》形の赤い小さな禿頭《はげあたま》が現われた。クリストフと弟たちはそれを面白がった。髪の毛をどうしたかと尋ねたり、メルキオルの露骨な戯言《ざれごと》に乗せられて禿《はげ》をたたくぞとおどかしたりしながら、彼らはいつもそのことで彼をからかって倦《あ》きなかった。すると彼はまっ先に笑い出して、されるままになって少しも怒らなかった。彼は小さな行商人であった。村から村へと渡り歩いていた。背にかついでる大きな梱《こり》の中には、あらゆる物がはいっていた、香料品、紙類、糖菓類、ハンケチ、襟巻《えりまき》、履物《はきもの》、罐詰《かんづめ》、暦《こよみ》、小唄《こうた》集、薬品など。家の人たちは幾度も、ちょっとした店の株を、雑貨屋や小間物屋を買い与えて、そこに落着くように勧めたことがあった。しかし彼は腰を据えることができなかった。夜中に起き上がって、戸の下に鍵を置き、梱《こり》をかついで出かけてしまった。いく月もつづいて姿を見せなかった。それからまたもどって来た。夕方、だれかが戸にさわる音がした。扉が少し開いた。そして、丁寧《ていねい》に帽子をぬいだ小さな禿頭《はげあたま》が、人のいい眼付とおずおずした微笑といっしょに、そこに現われた。
「皆さん今晩は、」と彼は言った。はいる前によく靴《くつ》を拭《ふ》き、皆に一人一人年長順に挨拶《あいさつ》をし、室のいちばん末席に行ってすわった。そこで彼はパイプに火をつけ、背をかがめて、例の悪洒落《わるじゃれ》の嵐《あらし》が過ぎ去るのを静かに待った。二人のクラフト、祖父と父とは、彼にたいして嘲弄《ちょうろう》的な軽蔑《けいべつ》をいだいていた。その矮小《わいしょう》な男が彼らにはおかしく思われた、そして行商人という賤《いや》しい身分に自尊心を傷つけられていた。彼らはそのことをあからさまに見せつけていた。しかし彼は気づかないらしかった。彼らに深い敬意を示していた。そのために彼らはいくらか和らげられた。とくに老人の方は、他人が示してくれる尊敬にいたく感じやすくて、気分を和げられた。彼らはルイザがそばで顔を真赤にするほどひどい戯言《ざれごと》を浴せかけて、それで満足していた。ルイザはクラフト家の人たちのすぐれてることを議論なしにいつも承認していたから、夫と舅《しゅうと》との方が不当だとは夢にも思っていなかった。しかし彼女は兄をやさしく愛していたし、兄も彼女に無言の敬愛をいだいていた。彼らは二人きりで他に身寄りの者もなく、二人とも生活に虐《しいた》げられさいなまれて惨《みじ》めな姿になっていた。人知れず忍んできた同じ辛苦とたがいの憐憫《れんびん》との絆《きずな》が、悲しいやさしみをもって二人をいっしょに結びつけていた。生きるために、愉快に生きるために堅固にできあがってる、頑丈《がんじょう》な騒々しい荒っぽいクラフト家の人たちの間にあって、いわば人生の外部か傍《かたわら》かに捨てられたこの弱い善良な二人は、かつて一言も口には出さなかったが、たがいに理解したがいに憐《あわ》れみ合っていた。
 クリストフは幼年の残酷な軽佻《けいちょう》さで、父と祖父とに倣《なら》ってこの小商人を軽蔑していた。おかしな玩具《おもちゃ》かなんぞのように彼を面白がっていた。馬鹿げた意地悪さで彼をからかっていた。それを彼は泰然と落着き払って我慢していた。けれどもクリストフは、みずから知らず知らずに彼を好んでいた。まず第一に、思うままになる柔順な玩具として彼を好きだった。それからまた、菓子か絵か面白い新案物か、待ち甲斐《がい》のある何かいいことがいつもあったので、彼を好きだった。その小男がもどって来るのは子供たちの喜びだった、いつも思いがけない余得があったから。彼はいかにも貧乏ではあったが、どうにか工面をして一人一人に土産《みやげ》物をもってきてくれた。そして家の人々の祝い日をそれぞれ忘れたことがなかった。祝日にはきまって姿を見せた。そしてポケットから、心をこめて選んだかわいい贈物を取出した。だれも礼をいうことさえ忘れるほどそれに慣れきっていた。そして彼は贈物をするという楽しみで十分報《むく》われてるらしかった。しかしクリストフは、いつもよく眠れなかったし、夜の間に昼間の出来事を頭の中で反覆させるのが常だったので、時々、叔父はたいへん親切だと考えることがあった。そしてその憐《あわ》れな男にたいして感謝の念がこみ上げてきた。しかし昼になると、もう愚弄《ぐろう》することしか考えないで、少しもその様子を示さなかった。その上クリストフはまだあまり小さかったので、善良さの価値が十分にわからなかった。子供の言葉においては、善良と馬鹿とはほとんど同意義語である。叔父《おじ》ゴットフリートはその生きた証拠らしかった。
 ある晩、メルキオルが夕食をしに町に出かけた時、ゴットフリートは下の広間に一人残っていたが、ルイザが二人の子供を寝かしてる間に、外に出て、数歩先の河岸に行き、そこにすわった。クリストフはひまだったのでその後について行った。そしていつものとおり、子犬のようにじゃれついて彼をいじめたあげく、ついに息を切らして、彼の足下の草の上に身を転がした。腹這《はらば》いになって顔を芝生《しばふ》に埋めた。息切れが止まると、また何か悪口を言ってやろうと考えた。そして悪口が見つかったので、やはり顔を地面に埋めたまま、笑いこけながらそれを大声に言ってやった。なんの返辞もなかった。その沈黙にびっくりして、彼は頭をあげ、その面白い戯言《ざれごと》をふたたび言ってやろうとした。すると彼の眼はゴットフリートの顔に出会った。その顔は、金色の靄《もや》の中に消えてゆく太陽の名残《なご》りの光りに照らされていた。クリストフの言葉は喉《のど》元につかえた。ゴットフリートは眼を半ば閉じ、口を少し開いて、ぼんやり微笑《ほほえ》んでいた。彼の痛ましい顔はなんともいえぬ誠実さを帯びていた。クリストフは頬杖《ほおづえ》をついて彼を見守り始めた。夜になりかかっていた。ゴットフリートの顔は少しずつ消えていった。あたりはひっそりとしていた。ゴットフリートの顔に反映してる神秘的な印象に、クリストフも巻きこまれていった。地面は影に包まれ、空は明るかった。星が見えだしていた。河の小波《さざなみ》が岸にひたひたと音をたてていた。子供は気がぼんやりしてきた。眼にも見ないで草の小さな茎を噛《か》んでいた。蟋蟀《こおろぎ》が一匹そばで鳴いていた。彼は眠りかかるような気持[#「気持」は底本では「気待」]になった。……と突然暗い中で、ゴットフリートが歌いだした。胸の中で響くような朧《おぼ》ろな弱い声で歌った。少し離れると聞こえないくらいの声だった。しかしそれには心|惹《ひ》かるる誠がこもっていた。声高に考えてるともいえるほどだった。あたかも透明な水を通してのように、その音楽を通して、彼の心の奥底まで読み取られる、ともいえるほどだった。クリストフはかつてそんなふうに歌われるのを聞いたことがなかった。またかつてそんな歌を聞いたことがなかった。ゆるやかな簡単な幼稚な歌であって、重々しい寂しい多少単調な足どりで、決して急ぐことなく進んでいった――長い沈黙を伴って――それからまた行方《ゆくえ》もかまわず進みだし、夜のうちに消えていった。ごく遠くからやって来るようで、どこへ行くのかわからなかった。その朗らかさの中には惑乱が満ちていた。平和な表面の下には、長い年月の苦悶《くもん》が眠っていた。クリストフはもう息もつかず、身を動かすこともできないで、感動のあまり冷たくなっていた。歌が終ると、ゴットフリートの方へはい寄った。そして喉《のど》をかすらして尋ねた。
「叔父《おじ》さん!……」
 ゴットフリートは答えなかった。
「叔父さん!」と子供はくり返して、彼の膝に両手と頤《あご》とをのせた。
 ゴットフリートのやさしい声が言った。
「坊や……。」
「それはなんなの、叔父さん! 教えておくれよ。叔父さんが歌ったのはなんなの?」
「知らないよ。」
「なんだか言っておくれよ。」
「知らないよ。歌だよ。」
「叔父さんの歌かい。」
「おれんなもんか、馬鹿な!……古い歌だよ。」
「だれが作ったの?」
「わからないね……。」
「いつできたの?」
「わからないよ……。」
「叔父《おじ》さんが小さい時分にかい?」
「おれが生まれる前だ、おれのお父さんが生まれる前、お父さんのお父さんが生まれる前、お父さんのお父さんのまたお父さんが生まれる前……。この歌はいつでもあったんだ。」
「変だね! だれもそんなことを言ってくれなかったよ。」
 彼はちょっと考えた。
「叔父さん、まだ他のを知ってるかい?」
「ああ。」
「も一つ歌ってくれない?」
「なぜも一つ歌うんだ? 一つでたくさんだよ。歌いたい時に、歌わなけりゃならない時に、歌うものだ。面白半分に歌っちゃいけない。」
「だって、音楽をこしらえる時には?」
「これは音楽じゃないよ。」
 子供は考えこんだ。よくわからなかった。でも彼は説明を求めはしなかった。なるほどそれは、音楽では、他の歌みたいに音楽ではなかった。彼は言った。
「叔父《おじ》さん、叔父さんはこしらえたことがあるかい?」
「何をさ?」
「歌を。」
「歌? なあにどうしておれにできるもんか。それはこしらえられるもんじゃないよ。」
 子供はいつもの論法で言い張った。
「でも、叔父さん、一度はこしらえたに違いないよ。」
 ゴットフリートは頑《がん》として頭を振った。
「いつでもあったんだ。」
 子供は言い進んだ。
「だって、叔父さん、他《ほか》のを、新しいのを、こしらえることはできないのかい?」
「なぜこしらえるんだ? もうどんなんでもあるんだ。悲しい時のもあれば、嬉《うれ》しい時のもある。疲れた時のもあれば、遠い家のことを思う時のもある。自分が賤しい罪人《つみびと》だったから、虫けらみたいなつまらない者だったからといって、自分の身が厭《いや》になった時のもある。他人が親切にしてくれなかったからといって、泣きたくなったときのもある。天気がいいからといって、そしていつも親切で笑いかけてくださるような神様の大空が見えるからといって、心が楽しくなった時のもある。……どんなんでも、どんなんでもあるんだよ。なんで他のをこしらえる必要があるもんか。」
「偉い人になるためにさ!」と子供は言った。彼は祖父の教訓とあどけない夢想とに頭が満されていた。
 ゴットフリートは穏かな笑いをちょっと見せた。クリストフは少しむっとして尋ねた。
「なぜ笑うんだい!」
 ゴットフリートは言った。
「ああおれは、おれはつまらない者さ。」
 そして子供の頭をやさしくなでながら尋ねた。
「じゃあお前は偉い人になりたいんだな。」
「そうだよ。」とクリストフは得意げに答えた。
 彼はゴットフリートからほめられることと信じていた。しかしゴットフリートはこう答え返した。
「なんのために?」
 クリストフはまごついた。考えてから言った。
「りっぱな歌をこしらえるためだよ!」
 ゴットフリートはまた笑った。そして言った。
「偉い人になるために歌をこしらえたいんだね、そして歌をこしらえるために偉い人になりたいんだね。お前は、尻尾《しっぽ》を追っかけてぐるぐる回ってる犬みたいだ。」
 クリストフはひどく癪《しゃく》にさわった。他の時なら、いつも嘲弄《ちょうろう》している叔父《おじ》からあべこべに嘲弄されるのに、我慢ができなかったかもしれない。そしてまた同時に、理屈で自分を困らすほどゴットフリートが利口であろうとは、かつて思いも寄らないことだった。彼はやり返してやるべき議論か悪口かを考えたが、何も見当たらなかった。ゴットフリートはつづけて言った。
「おまえがもし、ここからコブレンツまでもあるほど偉大な人になったにしろ、たった一つの歌もとうていできやすまい。」
 クリストフはむっとした。
「もしこしらえたいと思ったら!……」
「思えば思うほどできないもんだ。歌をこしらえるには、あのとおりでなけりゃいけない。お聴《き》きよ……。」
 月は、野の向うに、丸く輝いてのぼっていた。銀色の靄《もや》が、地面に低く、また鏡のような水の上に、漂っていた。蛙《かえる》が語り合っていた。牧場の中には、蟇《がま》の鳴く笛の音の旋律《メロディ》が聞こえていた。蟋蟀《こおろぎ》の鋭い顫音《トレモロ》は、星の閃《ひらめ》きに答えてるかと思われた。風は静かに、榛《はん》の木の枝を戦《そよ》がしていた。河の上方の丘から、鶯《うぐいす》のか弱い歌がおりてきた。
「何を歌う必要があるのか?」とゴットフリートは長い沈黙の後にほっと息をして言った――(自分自身に向かって言ってるのかクリストフに向かって言ってるのかわからなかった)――「お前がどんなものをこしらえようと、あれらの方がいっそうりっぱに歌ってるじゃないか。」
 クリストフは幾度もそれら夜の音を聞いていた。しかしかつてこんなふうに聞いたことはなかった。ほんとうだ、何を人は歌う必要があるのか?……彼は心がやさしみと悲しみとでいっぱいになってくるのを感じた。牧場を、河を、空を、親しい星を、胸にかき抱きたかった。そして彼は叔父《おじ》ゴットフリートにたいする愛情に浸された。今は皆のうちで、ゴットフリートがいちばんよく、いちばん賢く、いちばんりっぱに思われた。いかに彼を見誤っていたかを考えた。自分に見誤られたために叔父は悲しんでいると考えた。彼は後悔の念でいっぱいになった。こう叫びたい気がした。「叔父さん、もう悲しんではいやだ! もう意地悪はしないよ。許しておくれよ。僕は叔父さんが大好きだ!」しかし彼はあえて言い得なかった。――そしていきなり、彼はゴットフリートの腕に身を投げた。しかし文句が出なかった。彼はただくり返した。「ぼくは叔父さんが大好きだ!」そして心こめてひしと抱きしめた。ゴットフリートは驚きまた感動して、「なんだ? なんだ?」とくり返し、同じく彼を抱きしめた。――それから、彼は立ち上がり、子供の手を取り、そして言った、「帰らなけりゃならない。」クリストフは叔父から理解されなかったのではないかしらと、また悲しい気持になった。しかし二人が家に着いた時、ゴットフリートは彼に言った。「もしよかったら、また晩に、神様の音楽をききにいっしょに行こう。また他《ほか》の歌も歌ってあげよう。」そしてクリストフは、感謝の念にいっぱいになって、別れの挨拶《あいさつ》をしながら彼を抱擁した時、叔父が理解してくれてることをよく見てとった。
 それ以来、二人は夕方、しばしばいっしょに散歩に出かけた。彼らは河に沿ったり野を横切ったりして、黙って歩いた。ゴットフリートはゆるやかにパイプをくゆらしていた。クリストフは少し影におびえて、彼に手を引かれていた。彼らは草の中にすわった。しばらく沈黙の後、ゴットフリートは星や雲のことを話してくれた。土や空気や水の息吹《いぶ》き、また飛んだり這《は》ったり跳ねたり泳いだりしてる、暗闇の中でうよめく小世界の生物の、歌や叫びや音、また雨や天気の前兆、また夜の交響曲《シンフォニー》の無数の楽器、それらのものを一々聞き分けることを教えてくれた。時とすると、悲しい節《ふし》や楽しい節を歌ってくれた。しかしそれはいつも同じ種類のものであった。クリストフはそれをきいていつも同じ切なさを感じた。ゴットフリートは決して一晩に一つの歌きり歌わなかった。頼まれても快く歌わないことを、クリストフは知っていた。歌いたい時自然に出てくるのでなければならなかった。黙って長い間待っていなければならないことが多かった。そして「もう今晩は歌わないんだろう……」とクリストフが考えてる時に、ゴットフリートは歌い出すのだった。
 ある晩、ゴットフリートが確かに歌ってくれそうもない時、クリストフは自作の小曲を一つ彼に示そうと思いついた。作るのにたいへん骨折ったものであり、得意になってるものであった。自分がいかに芸術家であるかを見せつけたかった。ゴットフリートは静かに耳を傾けた。それから言った。
「実にまずいね、気の毒だが。」
 クリストフは面目を失って、答うべき言葉も見出さなかった。ゴットフリートは憐れむように言った。
「どうしてそんなものをこしらえたんだい。いかにもまずい。だれもそんなものをこしらえろとは言わなかったろうにね。」
 クリストフは憤りのあまり真赤になって言い逆った。
「お祖父《じい》さんはぼくの音楽をたいへんいいと思ってるよ。」と彼は叫んだ。
「ああ!」とゴットフリートは平気で言った、「そりゃ道理《もっとも》に違いない。あの人はたいへん学者だ。音楽に通じてる。ところがおれは音楽をよく知らないんだ。」
 そしてちょっと間をおいて言った。
「だがおれは、たいへんまずいと思う。」
 彼は穏かにクリストフを眺め、その不機嫌《ふきげん》な顔を見、微笑《ほほえ》んで言った。
「他《ほか》にもこしらえた節《ふし》があるかい。今のより他のものの方がおれには気に入るかもしれない。」
 クリストフは他の節が最初のものの印象を実際消してくれるかもしれないと考えた。そしてあるたけ歌った。ゴットフリートはなんとも言わなかった。彼はおしまいになるのを待っていた。それから、頭を振って、深い自信ある調子で言った。
「なおまずい。」
 クリストフは唇《くちびる》をくいしめた。頤《あご》が震えていた。泣き出したくなっていた。ゴットフリートは自分でもまごついてるように言い張った。
「実にまずい!」
 クリストフは涙声で叫んだ。
「では、どうしてまずいというんだい?」
 ゴットフリートは正直な眼付で彼を眺めた。
「どうしてって?……おれにはわからない……お待ちよ……実際まずい……第一、馬鹿げてるから……そうだ、そのとおりだ……馬鹿げてる、なんの意味もなさない……そこだ。それを書いた時、お前は何もいうべきことをもっていなかったんだ。なぜそんなものを書いたんだい?」
「知らないよ。」とクリストフは悲しい声で言った。「美しい楽曲を書きたかったんだよ。」
「それだ。お前は書くために書いたんだ。偉い音楽家になるために、人からほめられたいために、書いたんだ。お前は高慢だった、お前は嘘《うそ》をついた、それで罰を受けたんだ……そこだ! 音楽では、高慢になって嘘をつけば、いつでも罰を受ける。音楽は謙遜《けんそん》で誠実であることを望む。もしそうでなかったら、音楽はなんだろう? 神様にたいする不信だ、冒涜《ぼうとく》だ、正直な真実なことをいうために美しい歌をわれわれに贈ってくだすった神様にたいしてね。」
 彼は子供の悲しみに気がついて、抱擁してやろうとした。しかしクリストフは怒って横を向いた。そしていく日も不機嫌《ふきげん》な顔を見せた。彼はゴットフリートを憎んでいた。――しかし、「あいつは馬鹿だ、何を知るもんか! ずっと賢いお祖父《じい》さんが、僕の音楽を素敵だと言ってるんだ」といくらみずからくり返しても甲斐《かい》がなかった。――心の底では、叔父の方が道理だと彼は知っていた。そしてゴットフリートの言葉は彼のうちに刻み込まれていた。彼は嘘をついたのが恥ずかしかった。
 それで、彼はしつこく恨みを含んでいたものの、音楽を書く時には、今やいつでも叔父のことを考えていた。そしてしばしば、ゴットフリートにどう思われるだろうかと考えると恥ずかしくなって、書いてしまったものを引裂くこともあった。そういう気持を押しきって、全然誠実ではないとわかってるある節を書く時には、注意深く叔父に隠していた。彼は叔父の判断をびくびくしていた。そしてゴットフリートが、「さほどまずくはない……気に入った……」と、ただそれだけ楽曲の一つについて言ってくれると、彼は嬉《うれ》しくてたまらなかった。
 また時には、意趣返しに、大音楽家の曲調を自分のだと偽って、たちの悪い悪戯《いたずら》をやることもあった。そしてゴットフリートがたまたまそれをけなすと、彼は小躍《こおど》りして喜んだ。しかしゴットフリートはまごつかなかった。クリストフが手をたたいてまわりを喜んではね回るのを見ながら、彼は人のよさそうに笑っていた。そしていつも例の持論に立ちもどった。「それはよく書いてあるかもしれない、しかしなんの意味ももってはいない。」――かつて彼は家で催される小演奏会に臨席するのを好まなかった。楽曲がいかほどりっぱであろうと、彼は欠伸《あくび》をやりだして、退屈でぼんやりしたふうをしていた。やがて辛抱できないで、こっそり逃げ出した。彼はいつも言っていた。
「ねえ、坊や、お前が家の中で書くものは、みんな音楽じゃない。家の中の音楽は、室内の太陽と同じだ。音楽は家の外にあるのだ、神様のさわやかな貴い空気を少しお前が呼吸する時にね。」
 彼はいつも神様のことを口にのぼせていた。彼は二人のクラフトと違って、きわめて信仰深かった。二人のクラフト、父と子とは、金曜日の斎日《さいじつ》に肉食することを注意して避けながらも、神を恐れない者だと自任していたのである。

 突然メルキオルは、なぜだかわからないが、意見を変えた。祖父がクリストフの逸品を集めてることに賛成したばかりでなく、クリストフが非常にびっくりしたことには、その原稿から二、三の写しをいく晩もかかってこしらえ上げた。それについて人から尋ねられると、彼は勿体《もったい》ぶった様子をして、「今にわかるよ」と答えるきりだった。あるいはまた、笑いながら手をこすったり、戯れらしいふうで子供の頭を強くなでたり、彼の尻《しり》をたたいたりした。クリストフはそういうなれなれしさを非常に嫌《きら》った。しかし父が満足してることはわかっていた。そしてその理由はわからなかった。
 それから、メルキオルと祖父との間に秘密な相談が行なわれた。そしてある晩クリストフは、クリストフみずから少年の快楽を大公爵レオポルト殿下にささげたということを聞いて、非常に驚いた。メルキオルは、その敬意を嘉納《かのう》せられる思召《おぼしめ》しが大公爵にあるということを、前から匂わしていた。そこで、得意然たるメルキオルは、一刻も猶予《ゆうよ》なく次のことをしなければならないと宣言した。第一、大公爵に公《おおやけ》の申請をすること――第二、作品を発表すること――第三、その作品を聞かせるために音楽会を催すこと。
 メルキオルとジャン・ミシェルとは、なお長い相談をし合った。二晩三晩の間、彼らは勢い込んで論じ合った。だれも邪魔しに来ることを止められた。メルキオルは書いたり削ったり、削ったり書いたりしていた。老人は詩でも読むかのように、大声で話していた。時には二人で怒り出したり、言葉が見つからないでテーブルをたたいたりしていた。
 それから、クリストフが呼ばれた。右には父が控え、左には祖父が控えて、彼をテーブルの前にすわらし、指にペンを握らした。祖父は彼に文句を書き取らせ始めた。彼は少しも理解できなかった。一語一語を書くのに非常に骨が折れたし、メルキオルが耳もとで怒鳴っていたし、また、祖父があまり強い調子で朗読するので、言葉の響きに驚かされて、その意味に耳を傾けることを考えもしなかったのである。老人の方も劣らず興奮していた。じっとすわっておれなかった。原文の意味を身振であらわしながら、室の中を歩き回っていた。しかし絶えず、子供の書いてる紙面を見にやって来た。クリストフは背中から覗《のぞ》き込んでる二つの大きな頭におびえて、長く舌を出し、もうペンを持つこともできず、眼が曇ってき、あまり字画を引張りすぎたり、あるいはごちゃこちゃに書きちらしたりした――メルキオルは喚《わめ》きたて、ジャン・ミシェルは猛《たけ》りたっていた――そして彼は書き直し、またさらに書き直さなければならなかった。ついに紙の終りまで書いたかと思うと、無瑕《むきず》な紙面に大きなインキの雫《しずく》が落ちかかった。――すると彼は耳を引張られた。わっと泣き出した。しかし紙に汚点がつくので泣くことも許されなかった。――そして、第一行から書取をやり直させられた。一生涯そんなことがつづくのかと思われた。
 ついにはおしまいになった。ジャン・ミシェルは暖炉によりかかって、喜びのあまり震え声で、でき上がったものを読み返した。その間メルキオルは、椅子《いす》の上に反り返り、天井を眺めて、頤《あご》をゆすぶりながら、物知り顔に次の捧呈《ほうてい》文の文体を吟味していた。

    いと畏《かしこ》き、いと崇高《けだか》き殿下!

 四歳のころからして、音楽は私の幼い仕事の第一のものとなり始めました。私の魂を純なる和声《ハーモニー》へ鼓舞してくださる貴いミューズの神と、いったん交わりを結びますると、すぐさま私はミューズの神を愛するようになりました。そしてミューズの神も、私の愛情に報いてくだされたように思われまする。今私は六歳に達しております。そして先ごろから私のミューズの神は、霊感のさなかに幾度となく、私の耳へささやいてくだされました。「あえてせよ、あえてせよ! 汝《なんじ》の魂の和声《ハーモニー》を書けよ!」――私は考えました。「六歳で、どうして私はあえてなされよう! 芸術の識者たちになんと言われるであろう?」――私はためらいました。私は震えました。けれども私のミューズの神は望んでいられます。……私は従いました。私は書きました。
 そして今私は、
 いと崇高《けだか》き殿下よ!
 玉座の階段《きざはし》におこがましくも、私の幼い仕事の処女作を、ささげたいのでありまする。畏《かしこ》き御推賛の情け深き御瞳《おひとみ》を、この処女作の上にくだしたまわらんことを、厚かましくも希《こいねが》いたいのでありまする。
 それと申しまするのも、学問と芸術は常に、賢明なるメセーナとして、寛大なる擁護者として、殿下を御仰ぎ奉ったのでありますから。そして才能は、聖《きよ》き御保護の楯《たて》の下に、花を咲かせるのでありまするから。
 右の深く確かな信念をいだいておりまする私は、この幼き試作をささげましてあえてお側《そば》へ進みまする。なにとぞ私の尊敬の念の清い捧物《ささげもの》としてお受けくださりませ。そしてお恵みをもちまして、
 いと崇高《けだか》き殿下よ!
 この作品の上に御眼を垂れたまい、また恭《うやうや》しく御足下に伏し奉る幼き作者の上に、御眼を垂れてくださりませ!

    いと畏きいと崇高き殿下の
           全き謙譲忠実柔順なる僕《しもべ》、


                    ジャン・クリストフ・クラフト

 クリストフの耳には何にもはいらなかった。彼はなし終えたので夢中に喜んでいた。そしてまた書き直させられはすまいかと恐れて、野の中へ逃げ出した。何を書いたのか少しもわからなかったし、またちっとも気にしてはいなかった。しかし老人は、読み終った後、なおよく玩味《がんみ》するためにも一度読み直した。それが済むと、メルキオルも老人もともに、まったくりっぱな出来だと断言した。楽譜の写本といっしょにその手紙をささげられた大公爵も、同じ意見であった。彼は両方ともみごとな技功だと言ってくれた。彼は音楽会を許可し、音楽院の広間をメルキオルの勝手に使用させるよう命じ、またみずから演奏に臨む日には、その少年音楽家に会ってやると約束した。
 でメルキオルは、音楽会をできるだけ早く催すことに取りかかった。彼は宮廷音楽団の協力を確かめた。そして第一策の成功のためにますます増長していたので、少年の快楽の豪奢《ごうしゃ》な出版を同時に企てた。ピアノについてるクリストフとヴァイオリンを手にしてそのそばに立ってる自分メルキオルとの肖像を、本の表紙に刷り込みたかった。しかしこれは諦《あきら》めなければならなかった。費用のためではないが――メルキオルは入費なんかに辟易《へきえき》する男ではなかった――それだけの時日がなかったからである。彼は比喩《ひゆ》的な絵に取代えた。揺籃《ゆりかご》、ラッパ、太鼓、木馬などが、光線のほとばしり出てる竪琴《たてごと》を取巻いてる絵だった。表題には、大公爵の名前が太い字で浮出してる長い捧呈文が添えてあって、「ジャン・クリストフ・クラフト氏は六歳なりき」という説明もついていた。(実をいえば彼は七歳半だった。)楽譜の版刻にたいそう金がかかった。それを払うためには、模様彫刻のある十八世紀の古い戸棚《とだな》を祖父が売らなければならなかった。道具屋のウォルムゼルが再三申込んでも決して手離そうとしなかった品である。しかしメルキオルは、書物の売高でその償いは取れてあまりあるものだと、少しも疑わなかった。
 なおも一つの問題が彼の気にかかっていた。演奏会当日のクリストフの服装問題だった。それについて家族の会議が開かれた。四歳くらいの子供みたいに、短い上着をつけ脛《すね》を露《あら》わにして舞台に出ることを、メルキオルは望んでいた。しかしクリストフは年齢のわりにはごく頑丈《がんじょう》だった。だれもそれを知っていた。ごまかすことができようとは思いもよらなかった。するとメルキオルはうまい考えを思いついた。燕尾《えんび》服をきせて白い襟《えり》飾をつけさせようときめた。やさしいルイザは、かわいい子供を人の笑い草にするつもりかと言い逆らったが、なんの役にもたたなかった。そういう意外な姿で出ると、そのために面白みが増して成功するに違いないと、メルキオルはあらかじめ嬉《うれ》しがっていた。そうきまると、この小さな大人《おとな》の服装のために仕立屋が寸法を取りに来た。また上等のシャツや塗靴《ぬりぐつ》も必要だった。それらのものもまた眼の玉が飛び出るほど高価だった。クリストフはその新しい衣裳をつけるとたいへんぎごちなかった。それに慣らすために、何度も衣裳をつけて楽曲を稽古《けいこ》させられた。一月も前から、彼はもうピアノの腰掛を離れなかった。また挨拶《あいさつ》のしかたも教えられた。自由になる時は一瞬もなかった。彼は苛《い》ら立っていたが、しかしあえて逆らいはしなかった。晴れの業《わざ》をやるんだと考えていたから。そして得意でもあったが心配でもあった。そのうえ、皆から大事にされていた。風邪《かぜ》をひきはしないかと気遣われた。絹ハンカチで首を巻いてもらった。湿らないように靴をあたためてもらった。食卓ではいちばんいい物を食べさせられた。
 ついに晴れの日がやってきた。理髪師は身支度の指図にやって来て、クリストフの硬《かた》い髪を縮らしてくれた。羊のような巻毛をこしらえないうちは彼を放さなかった。家じゅうの者がクリストフの前に並んで、りっぱになったと言った。メルキオルは彼の顔を見調べ、方々から眺めた後、額をたたいて、大きな花を捜しに行き、それを彼のボタンの穴にさしてくれた。しかしルイザは、彼の姿を見ながら、両腕を天の方へ差上げて、猿《さる》のようだと悲しげに叫んだ。その言葉はひどく彼をがっかりさした。彼自身もその服装を誇っていいか恥じていいかわからなかった。本能的に彼は屈辱を感じた。音楽会ではなおさらであった。彼にとってはそういう屈辱の感が、この記念すべき一日のおもな感情であることになった。

 音楽会はこれから始まるところであった。坐席の半ばは空《あ》いていた。大公爵はまだ来ていなかった。こういう場合にはいつもあるとおり、一人の親切な物知りの友人がやはりいて、宮邸には評議会があるので大公爵は来られまいという消息をもたらしてきた。確かな筋から出た消息だそうだった。メルキオルは落胆し、気をもみ、行ったり来たりし、窓から覗《のぞ》き出した。ジャン・ミシェル老人の方も心痛していた。しかしそれは孫のことについてであった。彼はやたらに世話をやいていた。クリストフは家の者たちの熱心さにかぶれていた。自分の楽曲についてはなんらの不安も感じなかった。ただ公衆に向かってなすべき挨拶《あいさつ》のことを考えては、心を乱していた。そしてあまり考えてばかりいたので、それが苦悶《くもん》の種とまでなった。
 そのうちに、いよいよ始めなければならなくなった。聴衆は待ちかねていた。宮廷音楽団の管弦楽《オーケストラ》は、コリオランの序曲[#「コリオランの序曲」に傍点]を奏し出した。子供はコリオランもベートーヴェンも知らなかった。彼はベートーヴェンの曲をしばしば聞いたことがあったが、それと知らないで聞いていたのだった。かつて彼は聞いてる作品の名前を気にかけたことがなかった。自分で勝手な名前をこしらえ出してそれに名づけ、その主題に、小さな物語やあるいは小さな景色をあてはめていた。彼は作品を普通三種に分類していた。火と土と水とであった。そしてそのおのおのにまた無数のいろんな細かい差異があった。モーツァルトは水に属していた。川端の牧場や、河上に漂う透きわたった靄《もや》や、春の小雨や、あるいは虹《にじ》であった。ベートーヴェンは火であった。ある時は、巨大な炎と広大な煙とをたてる烈火であった。ある時は、燃えてる森であり、電光のほとばしり出る恐ろしい重い雲であった。ある時は、燦爛《さんらん》たる光に満ちた大空であって、九月の麗わしい夜に、一つ離れて滑り落ち静かに消えてゆく、見ても胸踊るばかりの星が一つ、そこに見えていた。この音楽会の時もまた、その勇ましい魂の熱火がクリストフを焼いた。彼は炎の急湍《きゅうたん》に巻き込まれた。その他はすべて消え去った。その他はすべて彼にたいしてなんであったか? 狼狽《ろうばい》してるメルキオル、心痛してるジャン・ミシェル、忙しそうな皆の者、聴衆、大公爵、小さなクリストフ自身、それらのものに彼はなんの用があったか? 彼は自分をさらってゆく恐ろしい意力の手中にあった。彼はその後に従ってゆきながら、息をあえぎ、眼に涙を浮べ、足をすくめ、掌《たなごころ》から蹠《あしうら》にいたるまでぞっとしていた。血潮は襲撃の譜を鳴らしていた。そして彼は震えていた。……かくて、飾り框《かまち》の後ろに隠れ、耳をそばだて、じっと聴いているうちに、彼は心の底ではっとした。管弦楽はある小節の真中でぴたりと止っていた。そしてちょっと休んだ後、銅鑼《どら》やティムパニの大きな音で、公《おおやけ》の威勢をもって軍歌を奏し出した。その二つの音楽の移り変わりがあまりに粗暴だったので、クリストフは憤って、歯をきしらせ足を踏み鳴らして、壁に拳固《げんこ》をつきつけた。しかしメルキオルは雀躍《こおどり》していた。大公爵がはいって来て、管弦楽団が国歌を奏して敬意を表したのだった。ジャン・ミシェルは震え声で、孫に最後の世話をやいていた。
 序曲がまた始まって、こんどは終りまでやられた。いよいよクリストフの番となった。メルキオルは巧妙に曲目《プログラム》を立てて、息子の妙技と父の妙技とを同時に発揮されるようにしておいた。ピアノとヴァイオリンのための、モーツァルトの奏鳴曲《ソナタ》を、二人で合奏することになっていた。効果を増すために、まずクリストフが一人で舞台へ出ることにきまっていた。人々は彼を舞台の入口に連れてゆき、楽壇の前方にあるピアノを指し示し、なすべきことを最後にも一度言ってきかせ、そして袖《そで》道具の外へ押し出した。
 彼は長い前から芝居の広間へは来つけていたから、たいしてびくついてはいなかった。しかし幾百人の眼の前で、舞台の上にただ一人立った時、にわかに気後《きおく》れがして、本能的に後へ退《さが》ろうとした。袖道具の方へふり向いてそこへはいろうとまでした。けれども、そこには父の姿が控えていて、怒った身振りや眼付をしていた。彼はつづけて進み出なければならなかった。そのうえ、もう聴衆から姿を見られていた。彼が進み出るにしたがって、好奇の叫びが起こり、ついで笑い声が起こり、それが次に広まっていった。メルキオルの見当ははずれなかった。子供の服装は望むとおりの効果を現わした。長い髪をし、ジプシーの少年のような色をし、りっぱな紳士のような夜会裳をして、小跨《こまた》におずおず歩いてる小僧が出て来たのを見て、聴衆席では大騒ぎだった。人々はなおよく見るために立上がった。やがて満堂の歓喜となった。それには少しも悪意はこもってはいなかったけれど、ごく気丈な名手をも惘然《ぼうぜん》たらしむるほどのものだった。クリストフは、騒音や眼や自分に向けられてる双眼鏡《グラス》などにおびえきって、できるだけ早くピアノのところへ行こうという考えきりもたなかった。そのピアノは海中の小島のように彼には思われた。頭を下げ、側目《わきめ》もふらず、脚燈《フートライト》に沿うて、急《せ》き込んだ足取りで歩いていった。舞台の真中まで行くと、約束どおり聴衆に挨拶《あいさつ》することもしないで、かえって背中を向け、ピアノに向かってまっすぐに進んでいった。椅子《いす》があまり高すぎたので、それにすわるには父の助けを待たなければならなかった。しかし彼は狼狽《ろうばい》のあまり父を待たないで、膝《ひざ》をかけて椅子によじ上った。そのために聴衆の歓《よろこ》びはさらに増した。しかしもうクリストフは大丈夫だった。楽器の前に向えば、もはやだれも恐るべきものはなかった。
 メルキオルがついに出て来た。彼は聴衆の上|機嫌《きげん》に得をして、かなり熱烈な喝采《かっさい》で迎えられた。奏鳴曲《ソナタ》が始まった。少年は一心になって口をきっと結び、鍵《キイ》の上に眼を据え、小さな足を椅子《いす》から垂れて、一糸乱れない確実さをもって演奏した。楽曲が展開してゆくにつれて、彼はますます落着いてきた。あたかもよく知ってる友人らの間にいるような気がした。賞賛のささやきが一つ彼のところまで聞えてきた。すべての人々が黙って聞きとれ感心してると考えながら、高慢な満足の念がむらむらと頭に上ってきた。しかし演奏を終えるや否や、また不安の念にとらえられた。喝采をもって迎えられると、嬉《うれ》しいよりもむしろ恥しかった。メルキオルから手を取られて、脚燈《フートライト》の縁までいっしょに進んでゆき、聴衆に挨拶《あいさつ》をさせられた時に、その恥ずかしさはさらに大きくなった。彼はメルキオルの言葉に従って、おかしいほど無格好にごく低くお辞儀をした。しかし彼は屈辱を感じていた。何か滑稽《こっけい》な卑しいことでもしてるかのように、自分から真赤になっていた。
 彼はまたピアノの前にすわらせられた。そして少年の快楽[#「少年の快楽」に傍点]をひいた。すると狂うがような歓喜が起こった。各楽曲の後に、聴衆は感激の叫びをあげた。も一度彼にやらせたがった。そして彼は成功に得意になり、また同時に、命令に等しいそれらの賞賛にほとんど気を悪くした。最後に、場内総立になって喝采した。大公爵は拍手喝采の合図をくだしていた。しかしこんどは、クリストフは舞台に一人きりだったので、もう椅子から身を動かす勇気もなかった。喝采はさらに激しくなった。彼は顔を真赤にして当惑の様子で、ますます低く頭を垂れ、聴衆席と反対の方ばかり見つめていた。メルキオルが彼をとらえに出て来た。彼を両腕に抱き取り、接吻を送れと言って、大公爵の座席をさし示した。クリストフは聞えないふうをした。メルキオルはその腕をとらえ、低い声でおどした。すると彼は厭々《いやいや》ながら言われたとおりの身振りをした。しかしだれの方をも見ず、眼を伏せ、やはり顔をそむけていた。彼は悲しかった。苦しんでいた。何を苦しんでるかはわからなかったが、自尊心が傷つけられていた。そこにいる人々が少しも好ましくなかった。いくら喝采《かっさい》されても駄目《だめ》だった。彼らが笑ったのが、自分の屈辱を面白がったのが、許せなかった。宙にぶら下って接吻を送ってるおかしな姿勢を見られたのが、許せなかった。喝采されたのがかえって恨めしいほどだった。そして、ついにメルキオルが腕から降ろしてくれると、彼は袖道具の方へ逃げていった。一人の婦人が菫《すみれ》の小さな花束をその通り道に投げた。それが彼の顔をかすめた。彼はすっかり狼狽《ろうばい》しきって、道にある一つの椅子を引っくり返しながら、足に任して駆け出した。走れば走るほど人々は笑った。人々が笑えば笑うほど彼はなお走った。
 ついに舞台の出口まで行くと、そこは彼の姿を見ようとする人でいっぱいになっていた。彼は頭で突き進んで、その間に道を開く、楽屋の奥に駆け込んで隠れた。祖父は大喜びをして盛んにいたわってくれた。管弦楽《オーケストラ》の楽員たちはどっと笑い出し、また彼を祝ってくれた。しかし彼はそちらを向くことも握手することも承知しなかった。メルキオルは耳を澄して、まだやまないでいる喝采を値踏みしていた。そしてクリストフをも一度舞台に連れ出そうとした。しかし子供は猛然とそれを拒み、祖父の上着にしがみついて、近寄る者を足で蹴飛《けとば》した。しまいには涙にむせんだ。彼をそのままにしておかなければならなかった。
 ちょうどその時、一人の官員がやって来て、大公爵が音楽家らを桟敷《さじき》に呼んでいられると告げた。子供をこんなありさまでどうしてお目にかけられよう? メルキオルは憤ってののしった。そして彼の怒りは、ますますクリストフを泣かせるばかりだった。その涙を止めさせるために祖父は、泣きやんだらチョコレートを一斤やろうと約束した。食いしんぼうのクリストフはぴたりと泣きやんで、涙をのみ込み、連れてゆかれるままになった。しかし不意に舞台へ連れ出しはしないということを、まず堅く誓ってやらなければならなかった。
 貴賓席にはいると、クリストフは短上衣を着た人の前にすわらせられた。それは、子犬のような顔をし、逆立った口髯《くちひげ》を生《は》やし、とがった短い頤髯《あごひげ》を生やし、背の低い、赤ら顔の、小太りの人であったが、横柄ななれなれしさでクリストフに呼びかけ、脂《あぶら》ぎった両手で彼の頬をたたき、「モーツァルトの再生」と彼を呼んだ。それが大公爵であった――それから彼は、大公爵夫人、その令嬢、随行員などの手に、順々に渡された。しかし彼は眼をあげて見ることもできなかったので、その光り輝いた一座のうちから心に止め得た唯一の記憶は、帯から足先までを見た長衣や盛装の一群であった。若い令嬢の膝の上にすわると、身動きをすることも息をつくこともできなかった。彼女は種々尋ねた。するとメルキオルが、媚《こ》びへつらいの声で、平身低頭した敬語を使いながら答えた。しかし彼女はメルキオルの言葉に耳をかさないで、子供をからかってばかりいた。彼はますます真赤になってくるのを感じた。そして自分の真赤なのがだれの眼にもついてることと考え、その理由を説明したくなって、太い溜息《ためいき》をつきながら言った。
「私は真赤になっています、熱いんです。」
 それを聞いて若い令嬢は放笑《ふきだ》した。しかしクリストフは、先刻聴衆が笑ったのを恨んだようには、その笑いを恨まなかった。その笑いは快かったから。それに彼女は彼を抱擁してくれた。それは少しも彼の気を悪くはしなかった。
 その時彼は、桟敷《さじき》の入口の廊下に、祖父が立ってるのを見つけた。祖父は嬉《うれ》しいような恥ずかしいような様子をしていた。自分もそこにはいって来て何か言いたかったのだろうが、だれも言葉をかけてくれる者がないので、あえてなしかねていた。そしてただ遠くから、孫の光栄を眺めて喜んでいた。クリストフはにわかに燃え立ってくる愛情を感じた。皆にあわれな老人を正当に判断してもらいたかったし、皆にその価値を知られてもらいたかった。彼の舌はほどけてきた。彼は新しい友となった令嬢の耳もとに伸び上がってささやいた。
「内密《ないしょ》のことをきかしてあげましょう。」
 彼女は笑って尋ねた。
「なんなの?」
「ご存じでしょう、」と彼はつづけた、「私のメヌエットの中、私のひいたメヌエットの中に、りっぱなトリオがありましたのを。……ご存じでしょう。……(彼はごく低い声でそれを歌った)……あれはね、お祖父《じい》さんがこしらえたんですよ、私じゃないんです。ほかの節《ふし》は皆私のです。けれどあれは、いちばんいいんですよ。お祖父さんです。お祖父さんはそれを人に言われたがっていません。だれにもおっしゃらないでください。……(そして老人の方を指しながら)……そら、あすこにお祖父さんが。私は大好きです。私にたいへんやさしいんです。」
 そこで、若い令嬢はままます笑って、かわいい子だと言い、やたらに接吻してくれた。ところが彼女はそのことを皆に話してしまったので、クリストフと祖父とはすっかりまごついた。皆が令嬢といっしょに笑い出した。大公爵は老人にお祝いを言った。老人はまったく当惑して、申しわけをしようとしても言葉が出ないで、あたかも罪人のように口ごもっていた。クリストフはもう若い令嬢に一言も口をきかなかった。種々からかわれても、黙り込んで堅くなっていた。約束を破ったので彼女を軽蔑していた。高貴の人々にたいする彼の考えは、この不信実によって深く害された。彼は非常に憤慨していたので、人々の言うことも、また大公爵が笑いながら彼を、常任ピアニストに、宮廷音楽員に任命したことも、もう少しも耳にはいらなかった。
 彼は家の者といっしょに出て行った。そして劇場の歩廊や、また街路でまで、人々に取囲まれて、お祝いを言われたり、抱擁されて困ったりした。なぜなら彼は、抱擁されることが嫌いだったし、許しも求めないで人を勝手に取扱うことが容認できなかったのである。
 ついに彼らは家に着いた。戸を締めるやいなや、メルキオルは彼を「馬鹿小僧」と呼びだした。トリオは自分のでないと話したからであった。子供は、それを話したのは賞賛にこそ価すれ、非難をされるいわれのないりっぱな行ないであると、みずからよく知っていたので、むっとして粗暴な言葉を言い返した。メルキオルは腹をたてて、あれらの楽曲が相当によく演奏されてなかったら殴《なぐ》りつけるべきだが、しかしそのよくできた音楽会の効果も彼の馬鹿な一言のために台なしになったと言った。クリストフは正義にたいする深い感じをもっていた。彼は隅《すみ》に引込んでふくれ顔をした。父も大公爵令嬢もすべての人を、軽蔑の中に一くるめにした。また近所の人たちがやって来て、家の者にお祝いを言いいっしょに談笑したのも、癪《しゃく》にさわった。あたかも、楽曲を弾奏したのは家の者たちであり、彼自身は彼ら皆の玩具《おもちゃ》のような調子だった。
 そのうちに、宮廷から一人の使いが来て、大公爵からの美しい金の時計と、若い令嬢からの上等なボンボン一箱とを、もって来た。どちらの贈物も、クリストフをたいへん喜ばした。どちらが余計|嬉《うれ》しいかもわからなかった。しかし彼は嬉しさを自認したくなかったほどひどく機嫌《きげん》を損じていた。横目でボンボンの方をにらみながら、やはりふくれ顔をしていた。自分の信任を裏切った人から進物を受けていいかどうか迷っていた。そしてついに我《が》を折りかけた時、父は即座に彼を机につかして、口移しにお礼の手紙を書き取らせようとした。それまでするとはあまりのことだった。その一日の興奮のせいか、あるいはまた、メルキオルの望みどおりに、「殿下の小さき僕《クネヒト》にして音楽家《ムージクス》……」という語で手紙を始めることを、本能的に恥しく思ったせいか、彼はぼろぼろ涙を流して、どうにも仕方がなかった。使の者はぶつぶつ言いながら待っていた。メルキオルが手紙を書かなければならなかった。しかしクリストフを勘弁してやったわけではなかった。さらに悪いことには、子供は時計を落して壊《こわ》した。小言の嵐《あらし》が降りかかった。メルキオルは彼に食後の菓子をやらないと叫んだ。クリストフは腹だちまぎれに、それは望むところだと言った。彼を罰するためにルイザは、まずボンボンを取上げてしまうと言い出した。クリストフは猛《たけ》りたって、彼女にその権利はないと言い、その箱は自分一人のものでだれのでもないと言い、取上げさせるものかと言った。彼は平手で打たれ、かっとなって、母の手から箱をもぎ取り、それを床《ゆか》にたたきつけ、上から踏みにじった。彼は鞭《むち》打たれ、寝室に連れ込まれ、着物をぬがせられ、寝床に寝かされてしまった。
 その晩彼は、家の者が友人らといっしょにりっぱな晩餐《ばんさん》をしてる音を聞いた。それは音楽会のために一週間も前から用意されたものだった。彼は枕《まくら》の上で、そういう不正な仕打にたいして腹だたしくてたまらなかった。他の人たちは声高《こわだか》に談笑して、杯を突き合していた。子供は疲れてるのだと客には披露されたので、だれも彼のことを気にかけてくれる者はなかった。ただ、食事の後に、客が散りかけた時、引きずるような足音が彼の室に忍び込んできた。そしてジャン・ミシェル老人が、彼の寝床を覗《のぞ》き込み、彼を感きわまって抱擁しながら、「かわいいクリストフ!……」と言ってくれた。それから彼は、ポケットに忍ばしておいたいくつかの菓子をそっとくれた後、恥ずかしい思いをしたかのように、もう一言もいわないでひそかに逃げていった。
 それがクリストフには嬉《うれ》しかった。しかし彼は一日の種々な激情にがっかりしていたので、祖父からもらったうまい物に手をつけるだけの元気もなかった。彼はすっかり疲れぬいていた。ほとんどすぐに眠ってしまった。
 彼の眠りは不整だった。電気を放つように神経がにわかにゆるんで、身体が震えた。荒々しい音楽が夢の中までつきまとってきた。夜中に眼をさました。音楽会で聞いたベートーヴェンの序楽が、耳に鳴り響いていた。序曲のあえぐような息使いで、室の中がいっぱいになってきた。彼は寝床の上に起き上がり、眼をこすりながら、自分はまだ眠ってるのかどうか考えた。……いや、眠ってるのではなかった。彼はその序曲をはっきり聞き分けた。憤怒の喚《わめ》きを、猛りたった吠声《ほえごえ》を、はっきり聞き分けた。胸の中に躍りたつ心臓の鼓動を、騒がしい血液の音を、耳に聞いた。荒れ狂う風の打撃を、顔に感じた。その狂風は、あるいは吹きつのって吠えたて、あるいは強大な意力にくじかれて突然やんだ。その巨大な魂は、彼のうちにはいり込み、彼の四|肢《し》や魂を伸長させて、非常な大きさになした。彼は世界の上を歩いていた。彼は大きな山であって、身内には暴風が荒れていた。憤激の嵐! 苦悩の嵐!……ああなんという苦悩ぞ! しかしそれはなんでもなかった。彼はいかにも強い心地がしていた。……苦しめ! もっと苦しめ!……ああ、強いことはなんといいことだろう! 強くて苦しむことは、なんといいことだろう!……
 彼は笑った。その笑声は夜の静寂のうちに響きわたった。父は眼をさまして叫んだ。
「だれだ?」
 母はささやいた。
「しッ! 子供が夢を見てるんです。」
 三人とも黙った。彼らの周囲のすべても黙った。音楽は消えた。そして聞こえるものは、室の中に眠ってる人々の平らな寝息ばかりだった。それは皆、眩《めくら》むばかりの力で「闇夜」の中を運ばれてゆく脆《もろ》い小舟の上に、相並んで結びつけられてる悲惨の仲間であった。
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いかなる日もクリストフの顔を眺めよ、

その日汝は悪《あ》しき死を死せざるべし。

底本:「ジャン・クリストフ(一)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年6月16日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
2008年9月14日修正
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