その女というのは男好きのしそうなちょっと見奇麗な娘であった。このような娘は折々|運命《なにか》の間違いであまりかんばしくない家庭に生まれてくるものである。無論、持参金というようなものもなく、希望《のぞみ》など兎《う》の毛でついた程もなかった。まして金のある上流の紳士から眼をつけられて愛せられ、求婚されるというようなことは夢にもありはしない。とかくして、彼女はある官庁の小役人の処に嫁《ゆ》くこととなった。
華美《はで》に衣飾ることなど出来ようはずがない。で彼女は仕方なく質素な服装《みなり》をしていた。けれど心中は常時《いつ》も不愉快で、自分がまさに行くべき位置《ところ》に行くことも出来ず、みすみす栄ない日々の生活を送らなければならないのかと真から身の不幸せを歎いていた。成程女は氏なくして玉の輿という、生来《うまれつき》の美しさ、優《しと》やかさ、艶《すこ》やかさ、それらがやがて地位なり、財産というものなのだ。それを他にしてなにがなる? それさえあれば下町の娘も高貴の令嬢もあまり変わりはない――道理《もっとも》なことである。
彼女は自分が充分に栄誉栄華をする資格に生まれてきたと念うと、熟々《つくづく》今の生涯が嫌になる、彼女は一日もそれを思い煩わぬ日とてはなかった。住居《すまい》の見すぼらしさ、壁は剥げている、椅子は壊れかかっている、窓掛けは汚れくさっている、このようなことは彼女と同じ境遇にいる女のあまり気にも留めなかったことであろう。けれど彼女はもうちょっとしたことにも気をエラエラさして、我れと我が身を苦しめていた。しかし、時にはプレトン辺りの農夫の妻が骨身を惜まず真っ黒になって働いている光景《ありさま》などを思い浮かべて、自分が果敢《はか》ない空想の徒なことを恥ずかしくも浅ましいことに思わないでもなかった。けれどそれもしばし、彼女はやがてまた元の夢に返った。静かな玄関の座敷、周囲には東洋で製作《で》きた炎えたつような美しい帷張《とばり》がかかっている。高い青銅《ブロンズ》で出来た燭台が置かれてある、室内は暖炉の温か味で程よくなっている、傍の肱掛け椅子には逞ましい馬丁風の男が二人睡っている。と思うと古代の絹かなにかで飾りたてられた美術室、如何程価のするか解らないような種々の珍奇の骨董品やら、書画の類が巧を尽して列べられてある、さらに居間に入れば価高い香料がプン[#「プン」に傍点]と鼻を突いて心を酔わせる。このような処で夕暮れに親しい朋友《ほうゆう》や交際場裡に誰知らぬもののない若い紳士などを集めて、くさぐさの物語に時の移りゆくを忘れたら、如何ように楽しいことであろうかと彼女はたえずこのような幻の影を追うていた。
買ってから三日も経ったかと思われる新しいテーブル掛けのかかった食卓に夫と相対《さしむかい》で座わる。夫はスープの皿をひきよせて、さも嬉しそうに「如何だ、この皿は今まで買った中では如何しても一番だ。ねえ、お前はどう思うね?」とたずねる。彼女はピカピカする銀製の食器《うつわ》、古代の人物や美しい花鳥の図の縫い取りがしてある掛け毛氈のことを夢みていた。そして、ほんのり赤味を帯びた鱒の照焼きや鶉の料理に舌鼓をうたせながら謎のような眼つきをして、自分に媚る若い男の囁きに耳を傾けていたらばなどと、例の空想をほしいままにしながら夫の言葉など上の空できき流していた。
彼女は衣服《きもの》も満足なのは持っていなかった。その他宝石|頸《えり》飾りの類、およそ彼女がこの世の中に欲しいと思うような身の周囲《まわり》の化装品は一つとして彼女のままにはならなかった。彼女は実際それらのものを衣飾に為してこの世に生まれてきたのだと考えていたのだ。如何かして世の中の人を羨ましてやりたい。男を迷わしてやりたい。そうして、自分は何時も男につき纏われてみたいと、このようなことのみ思い続けていた。
彼女には幼い頃から親しくしていた学校朋輩がある。しかし、その友人というのはかなりな財産家の娘なので、初めの内こそ二、三度訪ねてみたこともあったが、それは余計に自分を苦しませる種なので、それなり交わりを絶ってしまった。今ではその友の顔をみるさえはなはだしい苦痛なのである。
ある晩のことであった。夫はいつになくイソイソとして帰ってきた。閾を跨ぐや否や彼女に一個の封筒を指し示しながら、
「そら、お前にいいものをあげよう」
彼女は荒々しく封筒を剥して、中から印刷された一枚の紙を取り出した。それは夜会の招待状なのである。
「来る一月十八日月曜夕刻より官宅において舞踏大会相催し候ついては貴殿並びに御令閨にも万障御繰り合わせの上御出席の栄を得度右および御案内候也」
宛名は二人の名前になっている。そして麗々と官長夫妻の署名がしてある。
喜ぶと意《おもい》の外、彼女はその招待状を食卓の上に投げつけた。そして、如何にも蔑すんだ様子を面にあらわして、
「貴郎《あなた》、そんなものを私に見せて一体如何しろとおっしゃるんですの」と唸いた。
「お前がさぞ喜ぶことだろうと思ったからさ。この頃お前も滅多に外出《で》たことがないし、丁度いい機会《おり》だと思うがね、招待状を貰うにはこれでも一通りや二通りの苦心じゃあなかったのさ。同僚の者など誰一人行きたがらぬものはないが、これを貰ったのはごく少数《わずか》の人なので、たかが属官風情の私などが出席できるというのは、殆ど異例といってもよい位なものさ。とにかく官界の連中が総出というのだそうだからねえ」
彼女は焦燥《じれっ》たそうな眼つきをして、
「貴郎は一体私に何を着せて下さるおつもりです?」
夫は左様なことには一向気がつかなかったのだ。妻からこうたずねられたのでちょっとまごついて、
「芝居に行くときの服装《なり》でいいじゃないか、あれはお前に大変よく似合よ」
こういうて妻の方を視た。みると彼女は鳴咽《ない》ている。涙が頬を伝って流れている。夫は吃りながら、
「ど、どうした、オイ、どうした?」
彼女はせきくる涙を無理にとどめて、頬を拭いながらわざと声を落ち着けて、
「何でもありません。衣物がないばかり、それで如何して夜会なぞにまいれましょう。お仲間の方の奥さんが私より、ズートお召のよいのを持っていらっしゃる方があるでしょう、左様《そう》いう方に進上《あげ》たらいいでしょう――なにも……」
夫は失忘した。が気をとりなおして、
「まあ、機嫌をなおして、私のいうことも聞いてもらわなくっては困るね。夜会に行く服装というのは一体どの位で出来るものかね、せいぜい安く積もって、え?」
彼女はしばし思案にくれていた。自分の夫のような働きのない気の小さい人に衣物の価値《ねだん》を話したら、さぞ驚くことであろう。よい返事をせぬにきまっていると心では思いながら、如何にも躊躇したように答えた。
「精確《しっかり》とは存知ませんが、四百フランも御座いましたら、どうかなるでござんしょう」
夫は少しく青くなった。彼は翌年の夏あたり同僚とナンテルの方面に銃猟に行くつもりで、そのためにかねて銃を買うつもりで貯えた金が四百フランばかりあるのだ。
夫は思い切ったという調子で、
「よし、それならお前に四百フラン遣るから、好きな衣服を買ってくるがいい」
夜会の日が近づいた。が、彼女は如何したものか沈み勝ちで、何かたえず心配しているようにみえた。服装《なり》もチャント、準備《ととの》ったのである。夫は不思議にたえない。で、ある晩に彼女にたずねた。
「如何した、この二、三日おまえの様子が如何もへんだよ。また、なにか心配なことでもあるのかね?」
「衣服はこれでよいとしても、飾りになる宝石が一ツだってある訳ではないし、私いっそ、もう夜会に参ることはよしましょう」
「それなら、花でもつけてゆくさ、時節柄キットよく似合うよ。なに、十フランもあれば見事な薔薇が買えらあね」
「嫌ですよ、立派な貴婦人《かたがた》の前に出て、貧乏くさく見える位恥ずかしいことはありませんからね」
彼女は中々承知しない。
夫はなにごとか思いついたらしく、
「お前も余程馬鹿だねえ。それ、お前の親友のフオレスチャ夫人ねえ、あの人の処へ行けば飾り位如何かなりそうなものだねえ、え?」
「真実《ほんとう》に如何したらいいでしょう。私、今までちっとも気がつかなかったわ」
さも嬉しそうに彼女は叫んだ。
翌日、彼女は早速親友の処をたずねて、事情を話した。
フオレスチャ夫人は殊の外同情して、破璃戸の填っている戸棚から大きな宝石の函をとり出してロイゼルの前に開いた。
「さあ、どれでもお気に召したのを」
彼女はまず腕環をみた。それから真珠の頸飾り、ヴェネシアの十字架、その外精巧を尽くした金銀宝石の種々の飾りを一々手にとってみた。そして、鏡の前へ立って、それを身体の彼処此処《あちこち》へつけて眺めまわした。これかそれかと定めかねてしばし躊躇した。
「もうこの他に御座いませんか?」と口癖のようにいいながら、
「いいえ、ないことも御座いませんが、如何いうのが全体お好きなのやら」と夫人は曖昧な返事をする。
彼女はとうとう黒い箱の中に入っているすばらしいダイヤモンドの頸飾りを見つけだした。彼女がそれを手にした時はさすがに動気が激しくなって、手さえふるえていた。そして、頸にかけて鏡に向かった時は自分の姿につくづくと見惣《みと》れて、あまりの嬉しさに言葉も出なかった。何も彼も打ち忘れて、が、如何にも心苦しそうに、
「こればかりでよろしいのですが、如何でしょう」
「ええ、よろしゅう御座いますとも」と案外の返辞。彼女は嬉しまぎれに思わず友の頸にかじりついた。左様して数多度熱い接吻《キッス》をして、後生大事と宝を抱えながら帰った。
夜会の日が近づいてきた。ロイゼル夫人は意外な成効を博し得た。日頃の希望が達せられたのだ。胸に満ちている喜びがあふれて打ち狂える様は、実にすべての人の注目する処となった。実際、彼女は他の貴婦人連よりも遥かに優美でもあり濃艶でもあり、また一種魅するが如き力は彼女の一挙一動に供うたのである。満場の視線は等しく彼女に集められた。名前は至る処でたずねられ、交際を求むる者がひきも切らず、当夜の主人公さえ彼女に話し掛けた位であった。
彼女は物狂おしきまで舞り狂うた。自分の美しさにすべてを打ち忘れ、勝誇った色をあくまで面に顕わした。あらゆる称賛、あらゆる栄誉を一身に担うというて、これ程女の浅薄な心を満足させるものがまたとあろうか。
彼女は翌朝四時頃ようやく舞踏室を出た。夫は二、三の紳士と寂しい玄関の一室に眠《ね》ながら待っていた。その紳士の妻君達も彼女と同じように快楽に耽けっていたのである。
夫は家から持ってきた外套を彼女の背中にかけてやった。それが夜会の服装と相対して如何にも見窄しくみえたのである。彼女は温かい毛皮の外套に身を纏《つつ》んだ婦人に見られるのを嫌うて、それを着なかった。
ロイゼルは妻を止めて、
「オイ、それでは風邪をひく、今馬車を呼んでくるからちょっと待っておいで」
親切な夫の言葉には少しも耳をかさず、彼女はスタスタ[#「スタスタ」に傍点]と階段を下りて戸外へ出た。ロイゼルは仕方なく後について、間もなく二人は一諸になって馬車を探し始めた。ようやく一台見つけたので遠くからその馬車を呼んだ。二人は寒いので震えながらセイヌを側うて下って行った。辛うじて彼らは一台の馬車に追いついた。その馬車というのは二人乗りのノクタンブランで、以前にはよく白昼でも巴里の街中を歩いたものだが、今では夜にならなければ決して見られぬものなのである。
やがて馬車はルー・デ・マアラルまできた。二人はそこで下車《お》りて家路に急いだ。彼女の希望はもうまったく消え失せた。夫の方は午前の十時になるとまたコツコツ[#「コツコツ」に傍点]と役所に出かけなければならぬのかと、つくづく単調な日々の生活を今さら思いやった。
彼女は外套を脱ぐとすぐ鏡の前に彳立《た》って、美しい姿に自らを満足させようとした。鏡を見るや否や彼女はにわかに叫んだ。それも道理、彼女の頸には如何したものか今迄かけていたと思うた頸飾りが、何時の間にか失なっていたのである!
「如何した?」
彼女は眼の色を変えて夫の方に振り向いた。
「私、あの、わ、私あの頸飾りを失なしました」
「なに!――え?――そんなことが!」
夫は気も転倒して立あがった。
衣物の襞、さては外套の衣兜《かくし》、至る処手を尽して探した。けれど見つからない。
「確かに夜会の席へ置き忘れてきたに違いない、そうだろう」
こう夫は落胆しながらたずねた。
「ハイ、なんでも広間《ホール》の入口に置いたような心持ちもいたします」
「もし帰る途中で落としたとすれば、落ちた音がしなければならないはず。ヒョットしたら馬車の中じゃあないか?」
「ハイ、多分――あの馬車の番号を覚えておいでですか」
「否《いいえ》、お前も覚えておりはすまい?」
「ハイ」
二人は互いに顔を見合わせてしばし呆然としていた。呆然としていたって仕方がない。ロイゼルは今しがた脱ぎ棄てた衣物をまたひっかけた。
「私は今帰ってきた道をすっかり探してこよう。あるいは見つからないものとは限るまい」
で、彼は出かけた。彼女は夜会の服装で力なさそうに椅子によりかかった。胸の中は種々雑多な想いが乱れに乱れ、頭の中は火のようにほてっていた。
夫は七時頃ようやく戻ってきた。彼はなんにもみつけなかったのだ。
警察に訴える、新聞に広告をする、馬車会社に行く――このようなことが僅かな望を繋いだ。
彼女は終日《ひねもす》この恐ろしい災難をとやかく思い煩うて、恐ろしさにうちわなないていた。
ロイゼルは青褪めたキョトンとした顔つきをして夜遅く帰ってきた。無論、頸飾りはめっからなかったのである。
「オイ、お前はとにかく、友人の処へ手紙をやったらどうか、頸飾りの釦金《かけがね》が壊れたから直しにやってあるとでも書いて、――え、その内には如何にか工夫のたつまいものでもない」
彼女の頭は錯乱して、手紙の文句をも考えることも出来ぬ。夫がいうがままに彼女は半ば無意識にその言葉を紙に写した。
その週の終わりには二人ともまったく絶望して仕舞った。
彼女に五ツ年上のロイゼルは先口を開いた。
「如何にかしてあの飾りを返さなければならない」
で、翌日飾りの入っていた箱を持って宝玉《たま》屋に行った。幸い宝玉屋の名が箱に記してあったので――宝玉屋は帳面を色々と繰ってみた。
「その飾りをお売り申したのは私の店ではございません、箱だけは慥かにお誂え申した覚えが御座いますが!」
こう宝玉屋は無雑作に答えた。
それから二人はおよそ巴里中にある、ありとあらゆる宝玉屋の店頭《みせさき》に行立《た》った。失なした飾りに類似の品を求めて歩いた。身体は綿の如く疲れきって、胸はいうべからざる苦悶を以てみたされた。
探し廻った甲斐があって、二人はパライ・ローヤル街のある宝玉屋の店にようやくにかようたダイヤモンドの頸飾りを見つけだした。その価は四万フランであるとのことである。ようやく三万六千フランまで値切った。二人は宝玉屋に低頭平身して事情を打ちあけた。そして、三日間の猶予を乞うた。のみならずもし失なった飾りが二月の末までに見つかったなら三万四千フランで買い戻してもらうという約束までした。
それから彼は知っている限りの人々を訪ねて、ここから千フラン、あそこから五百フラン、という具合に都合をして歩いた。それでも未だ間に合わぬので高利貸しの処にまでも出かけていった。そして、すべての債主に一々証書を入れた。もう如何することも出来ぬ、恐ろしくって将来のことを考える勇気もない。まったく彼はそのために一生を犠牲にして仕舞ったのである。くるべき暗黒の光景は漸時に彼が前に展かれた。あらゆる肉体の困苦欠乏、精神の煩悶痒苦これらは如何に彼を苦しめたのであろう。彼は約束の期日に宝玉屋に行って三万六千フランを支払って新しい頸飾りを買った。
ロイゼル夫人はその頸飾りを携へてフオレスチャ夫人の処に返済すべくでかけた。フオレスチャ夫人は冷やかな態度を示しながら、
「もう少し早く返して頂きたかったですよ、これでもチョイチョイ入用なことがありますからね」
夫人は函を開きもしなかった。それを彼女は内々恐れていたのである。もしそれが換え玉であるとしれたら如何しよう、如何弁解したらよいだろう? キット[#「キット」に傍点]自分を悪人と思うに相違ない。このような思いがロイゼルの心の中を往来していたのである。
彼女は今頃貧というものの辛さをしみじみと心に味わった。けれど今となってはいたし方がない。ともすれば沈み勝な心をとりなおして、我れと我身を奮ましながら、恐ろしい負債を是非とも消却しなければならぬと考えた。まず下婢に暇をやって、今までの住居《すまい》を引き払って下層な下町の物置部屋のような一室を借りることにした。
彼女は初めて労働の苦痛を知り始めた。そして、面倒な台所仕事を不慣れな手つきでやり始めた。ほんのりと桃色をした柔らかな指先で脂ぎった茶碗や皿を洗った。汚れたリンネルのシャツ、テーブル掛け、布巾その他色々なものを洗濯して、それを一々竿にかけて干す。水はというと、勾配の急な坂の下まで汲みに行かなければならない。彼女は坂の途中で幾度となく休んでようやく水をくんでくるのである。彼女はまた長屋の連中と一緒に笊を小脇に抱えて、八百屋や果物屋や肉屋などに出かけて行く。そして、僅かばかりの銭のために色々と押し問答などして、物価の安そうな処をみつけて歩くようになった。
月の終わりになると証書の書き換えをしたり、いい訳をしたり、それは中々の大役であった。
夫は夜になると商売人の帳簿の写しを内職にやった。その外一頁五銭程にしか当たらぬ写字を夜の更けるまでやった。
このような生活がざっと十年程継続した。
十年の終わりに二人はヤット元利合わせてすっかりの負債を消却することが出来た。
ロイゼル夫人は年をとった。見るから面やつれのした世話女房になった――骨が固くなった。手足はあれて皮が剛ばった。縺れた頭をして、胸のあたりをたばけ、真っ赤な手で洗濯の水をザブザブとあたりに跳ねかしながら、彼女は大声で長屋の連中と話をするようになった。けれど時には夫の留守などに窓側へよりかかって、自分が一生に一番美しかったあの夜の光景《ありさま》を思い浮かべて果敢ない追憶に耽けることもある。
あの頸飾りさえ失なさなかったら、今頃は如何になっているだろう? ああ誰か解るものか? 世の中というものは奇妙なものだ、変遷《うつりかわり》の烈しいものだ! あのようなささいな物から、自分たちの運命が如何にも存在されるのだ!
ある日曜のことであった。彼女は一週の疲労《つかれ》を癒するためシャンゼ・リゼイの方へ散歩に出かけた。その時フト[#「フト」に傍点]小児《こども》を連れている女に逢った。それは忘れもせぬフオレスチャ夫人で、依然として若く美しく口元に微笑さえ湛えていた。
ロイゼルはなんとなく心を動かされた。今はもうまったく負債を消却した暁である、今までのことを打ち明けても差し支えはあるまい、そうだ、こう思いながら彼女は昔の友人の傍に立った。
「御機嫌よう」とまず言葉を掛けた。
一方の友人はこの見なれぬ粗末な服装の女にさも慣々しく言葉をかけられたので、一方ならず吃驚《びっくり》してあわてながら、
「あなたは!――私一向に存知ませんが、もしや人違いでは御座いませんか」
「否、私はあのロイゼルでございますよ、お見忘れですか?」
「オヤ、あなたが――あのマシルドさん、まあ大層御様子がお変わりになったこと! 一体如何なすったのです」
「ハイ、今まで私も随分と色々な苦労をいたしましたよ。これもそれも、あのいつぞやお宅に拝措物に上がったのが原因《もと》なので――つまりあなたのためなので」
「私のためですって! それはまた如何して」
「あなたはあの夜会の時、私にお借下さったダイヤモンドの頸飾りを記憶《おぼ》えていらっしゃいましょう?」
「ハイ、よく覚えております。それで?」
「実は、あれを私が失なしましたので」
「何ですって、あなたは自分で宅までお持ちになったじゃありませんか?」
「ハイ、それはよく似た代りのを差し上げたので。私共はそれを買いますのにそれはそれは大変な借財をいたしまして、ようやく十年という長い月日をかけて、ようやくそれを返済することが出来ましたので、無一物の私たちの身に取りまして、如何の位辛うどざいましたか、少しはお察しを願います」
フオレスチャ夫人はちょっと黙した、がやがて、
「それなら、あの、あなたは代りにダイヤモンドの頸飾りを買って返して下さったのですね」
「ハイ、それなら、あなたは今までそれをお気づきなさらなかったのですか、もっとも大層よく似ておりましたから」
で、彼女の傲り気は一種の無耶気な様子を示して微笑んだ。
フオレスチャ夫人は真底から動かされてロイゼルの両手をしっかりと握った。
「あ、あ、お気の毒な、マシルドさん! 私のあれは人造で、せいぜい五百フラン位なものだったのですよ!」
底本:「辻潤全集 第八巻」五月書房
1982(昭和57)年10月30日
初出:「実験教育指針」教育指針社
1908(明治41)年9月
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(大石尺)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
コメント