モイルの荒々しい水に洗われているアルバンの南方の王であったケリルが寂しい土地にたった一疋の猟犬をつれて一人で猟している時のことであった、ケリルはその時、同じ生命を持っている二人の生命は互に触れて一つになることがあるという事を見出した。
ケリルは羊歯《しだ》のなかで牝鹿の足跡らしいのを見つけて身を屈めてそれを見ようとしたが、その時、猟犬はいきなり飛び退いてもと来た路を飛ぶように逃げて行ってしまった。
ケリルは驚いて犬の後を見ていたが、やがて自分の倚りかかっていた樫の樹から垂れ下がっていたミッスルトオのほそ枝を払いのけた。そのとき足の下で物音がした。見ると、ほそ長い秦皮《とねりこ》の枝が二つに割れていた、そして彼の足がそこに横になって眠っていた人の真しろい手を踏んでいたのだった。
その人は若かった。緑色の衣を着けて、頸《くび》のまわりには黄金の鎖をまき、胸かざりや頸かざりや青色の石の足かざりもつけていた。彼は立ち上がったが背が高くて若木のようにほっそりして、顔は若々しく少女の顔のようにすべこく、髪は日光に照らされた生木綿《きもめん》のように白っぽい黄色であった。
ケリルはその人を見ていた。
「お目にかかるのは嬉しいが、まだあなたの顔は見たことがありません」ケリルが言った。
「私はあなたの顔を知っています、ケリル・マック・ケリル。あなたは私にこんな侮辱を与えたから、私もあなたの王位に疵をつけます」
「どんな疵をつけますか、『迅き槍』のケリルに疵をつけようとするあなたは誰ですか」
「私は仙界の王キイヴァンです。私はどんな災禍でもあなたに与えることが出来ます。しかし、私は自分に対して悪意を持っていないものには決して災禍を与えないという誓いをしているのです」
「死や恥辱でなく、王者らしい礼ある相談ならばいつでも辞さないのが私の誓いです」
「けっこうです。あなたは私を足で踏んで無礼をしました。私はあなたがた人間界のものではないのです。あなたの足で踏まれたことは一年のあいだ私の傷痕になります。こんな事にしましょう。一年のあいだ私はあなたの姿になり、あなたが私の姿になる、私はあなたのケリル城にゆく、あなたは私の国にゆく、そして誰ひとりこれを知ってはなりません、あなたの妃も私の同族のものも、あなたの犬も私の犬も、あなたの剣も私の剣も、槍も、酒のむ酒杯も、琴も太鼓も、これを知ってはなりません」
「それで、何かこの事で私の恐れなければならないことがありますか」
「私は敵を持っています、フェルガルというものです。月の昇る時刻にはフェルガルに気をつけて下さい。そして私もあなたの代りに何か恐るべきことがありましょうか」
「私の愛人ドルカの愛を恐れて下さい」
キイヴァンは笑った。
「それは何処にもあることです、星に住む竜のなかにも、地に住む虫けらのなかにも」キイヴァンが言った。
「蜜の言葉のキイヴァンよ、これがただ一年のあいだの約束と信じても確かでしょうか」
「天地のなかの[#「天地のなかの」は底本では「天使のなかの」]七つの物にかけて誓いましょう。日と月と、火焔と風と水と、露と、夜と昼とにかけて誓いましょう」
二人は姿を易《か》えた。キイヴァンはケリルの城に行ったが、誰も彼をケリルとばかり思っていた、夜毎に彼と共に寝るドルカさえも彼をケリルと思った、そして彼が眠っている時、暗い顔をして彼を見ていた。仙界でもみんながケリルをキイヴァンと思っていた。キイヴァンの妻である「蜜の髪」のマルヴィンさえも彼をキイヴァンと思った。
こうして一年が過ぎたのであった。
その年の四分の三ほどの月日がすぎる頃、ドルカは苔の枕に蛇を入れた、そしてキイヴァンの傍に寝ていて彼が死ぬのを見ようとした。しかし激しい虫族《むしけら》は自分と同じ異類の彼を知っていて、キイヴァンの耳に囁いた。その囁きが夢となった。キイヴァンは目をさまして、壁から孔のある蘆《あし》を取って笛吹いた、笛が沈黙と静寂のなかにドルカを眠らせた、蛇は乳のような白い歯でドルカの白い胸を傷つけた、その小さい赤い一点のためにドルカは死んでしまった。
その一年の四分の三の月日がまだ廻って来ない頃のこと、ケリルは長い猟から帰って来て「蜜の髪」のマルヴィンの側に寝ていた、その時キイヴァンの妻は立って行ってフェルガルに相図した。月の上ぼる時であった。フェルガルは樫の大木のかげに立っていた、弓はひき絞られて虻のような声をして風に唸っていた、その弓に一本の矢がはさまれて、矢には、月の上ぼる時刻にはダナの神たちも恐れるという蝙蝠《こうもり》かずらの毒が塗られてあった。
しかし、キイヴァンの耳にささやいた蛇はこの事も囁いてきかせた、キイヴァンは笛の音に寄せてケリルの心に夢を送った、こうして漂《さす》らいの王は夢を見た、そしてその夢を神託《しらせ》と知った。彼は起き上がって自分の緑色の上着をマルヴィンに着せてやり、月の金いろが三度の変り目になったかどうか見てくれと言った。マルヴィンは外を見た。フェルガルの矢が彼女の胸ふかく入った、蝙蝠《こうもり》かずらの毒が彼女の心まではいって彼女は死んだ。
フェルガルは低い声で笑いながら近くまで来た。
「仙界《フェヤリイ》に哀哭《かなしみ》があるだろう、しかし蜜の髪のマルヴィンよ、今からあなたは私の妃だ」フェルガルが言った。
「そうだ」ケリルはマルヴィンの胸から矢を抜き取った「仙界《フェヤリイ》に哀哭《かなしみ》があるだろう」
ケリルはそう言いながらフェルガルに矢を投げつけた、矢がフェルガルの眼に当った、彼は暗黒《やみ》と静寂《しずけさ》を知って息が絶えた。
あかつきに仙界の人たちは二人を葬った、ながれる水の底のくぼ地に、下流にむけて二つの平たい石を二人の上に載せて。
その夜ケリルは一人で坐していた。過ぎ去った日の夢が彼と共にあった。彼はひどくむかしを恋しく思った。
一人の女が彼の側に来た。女は宵の明星《ほし》の光をまぜた月の輝きのように白く美しかった。髪は長い温かい午後の日の影のように濃く柔らかであった。眼はかわせみの羽よりもっと濃い青色で、眼のなかの光は草の花にかかっている露のようであった。手は真白で、その手で小さい金の琴を弾くと、それが月光のなかの海の波の泡のようだった。青い草の中に女の足がうごいた、さまよえる百合の花のように。
彼女はケリルのために一つの歌を弾いてくれた。
それが何ともいい尽されず美しかったので、ケリルの生命がもうひと息で絶えそうになった。
「この歌は何の歌」ケリルが訊いた。
「むかしを恋うる歌」女が言った。その声は白いクローバの花の上のあけ方の空気《かぜ》の渦巻のようであった。
ふたたび彼女が弾いた。その楽の音の激しさには、楯にぶつかる剣のあらしの音のように、血が彼の心に鳴りひびいた。
「この歌は何の歌」彼が訊いた。
「欲望《ねがい》の歌」女が言った。その声は深林によりつどう風のようであった。
三たび彼女が弾いた。その楽の音にケリルは聞いた、大洋の波が連山の項きの雪を浸す音を、地の白き汁と青き奇観《めずらしさ》が火焔の中にながれ入る音を、そして日と月とのあいだの雪のような星群の無限無数のあらしの音を。
「この歌は何の歌」ケリルが訊いた。
「愛の歌」女が言った。その声は一輪の花のしずかな息のようであった。
「私の名はエマルといいます、また来ましょう。あなたは私の欲望《のぞみ》、そして私のたった一つの愛です」女がささやいた。
しかしケリルはもうそれきり彼女を見ることもなくてケリルの城に帰った、キイヴァンももとの姿になって再び仙界に戻って行った。
ある日、ケリルが樫の木の円盤に短剣を投げている時、彼は一人の女を見た、彼がまだ今日まで見たことのないほど美しい女であった。彼女はちょうどエマルぐらい美しかった。しかし彼女の美は人間の女の美であって、露と月の光のかげにある人たちの美ではなかった。
「うつくしい人、あなたは誰です、そして何処から来ました」ケリルが訊いた。
「私はエマルです」彼女が言った。彼女はケリルの愛を求めた、ケリルは彼女を妃とした。
婚礼の宴で、見知らぬ人が立ち上がった。
その人は手に持っていた杯を下に置いた。物いう時、その声は壁にかけた楯の上にひびく遠い角笛の音のようであった。
「私は贈物を項きたい」その人が言った。
「よそぐにの人に求められれば、どのような贈物でも上げるのが私の誓いです」ケリルが言った。
「私は仙界《フェヤリイ》のバルヴァというもの、むかしエマルは私に愛を与えました。私は贈物としてエマルを求めます」
ケリルは立ちあがった。
「私の生命を取って下さい」ケリルが言った。
エマルは彼の側に来て「それはいけません」と言って、バルヴァの方に振りむいた。
「今日から一年経ってまた此処に来て下さい」
そう言われてバルヴァは微笑した、そしてその一年の猶予をあたえて立ち去った。
その一年にケリルとエマルは愛の深さと不思議さを知った。
「私は行かなければなりますまい、しかし、また帰って来ましょう」その日が近づいて来た時彼女はそう言った、そしてケリルに一つの方法を教えた。
バルヴァが再び訪ねて来てエマルを連れて行った日のたそがれ時、ケリルは草の露を瞼になすりつけ、榛《はしばみ》やロワンの樹のほそ枝でより曲げられた杖を造った、そして蘆《あし》の笛をふく盲目の乞食になって、月の昇ろうとする頃出て行った。
ケリルがバルヴァとエマルのところまで来ると、バルヴァが言った。
「盲人よ、うつくしい笛の音だ。もしその笛を私にくれるなら、お前の望みの物を何でもやる。これが私の誓いだ、もし私が笛にしろ鷹にしろ猟犬にしろ女にしろ人に求めた時は私は先方の望みの物を何でもやる」
ケリルは笑った。彼はつぶっていた目を見ひらいた。
「エマルをくれ」彼が言った。
その後の一年間、ケリルとエマルは深い歓びを知った。
産のくるしみが彼女に来た夜、ひと吹きの風が彼女の寝ているところを襲った。うまれた子は一枚の枯葉のように何処ともなく吹き去られてしまった。ケリルは怒りと悲しみに悶《もだ》えていたが、エマルは一言も物いわなかった。あけがたになろうとする頃、彼女は夢を見ていた。
あけがた、一人の若者が二人の傍に来た。若者はケリルが今までに見た美しい人たちの中の誰よりも美しかった、バルヴァよりも美しく、キイヴァンよりも美しかった。若者はみどりの森の中から来る春のように現われて来た。
「時が来ました」若者はエマルを見ながら言った。
「時が来ました」ふたたび彼はケリルを見ながら言った。
「この美しい年をかさねた青年は何者」ケリルが問うた。
「これは昨夜うまれた私たちの子のエイリル」エマルが答えた。
エマルは立ってケリルの脣《くちびる》に接吻した。
「愛する人間の世の恋人、さようなら……」彼女が言った。
エイリルはむかしケリルがエマルを取り返した時に吹いた蘆笛《あしぶえ》をとり出してケリルの上に老年を吹いた。ケリルは髪もしろくなって楡《にれ》の葉のようにかれがれになった。ケリルが殆ど影ばかしになった時、エイリルの笛はその影のもとの影を吹き去った、ついにはかない息が風のまにまに消えた。
「三羽の鳥」の一節
底本:「かなしき女王 ケルト幻想作品集」ちくま文庫、筑摩書房
2005(平成17)年11月10日第1刷発行
底本の親本:「かなしき女王 フィオナ・マクラオド短編集」第一書房
1925(大正14)年発行
※訂正注記に際しては、底本の親本を参照しました。
入力:門田裕志
校正:匿名
2012年7月10日作成
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