浅瀬に洗う女 フィオナ・マクラウド Fiona Macleod— 松村みね子訳

 琴手トオカルがその友「歌のアイ」の死をきいた時、彼は三つの季節、即ち青い葉の季節、林檎の季節、雪の季節のあいだ、友のために悲しむ誓いを立てた。
 友の死は彼を悲しませた。アイは、まことは、彼の国人ではなかった、しかしトオカルが戦場で倒れた時、アイは琴手の生命を救ったのであった。
 トオカルは北の国ロックリンの生れであった。トオカルの歌は海峡や不思議な神々の歌、剣といくさ船の歌、赤い血とましろい胸と、オヂンや虹の中に座をしめている夢の神の歌、星のかがやく北極の歌、極地のほとりに迷ううす青とうす紅の火焔の歌、そしてヴァルハラの歌であった。
 アイは西のあら海のとどろきの中に震え立っている南の島に生れた。母はアイルランドの王族の女であった。
 アイの歌はやさしかった。彼は愛し、うたい、やがて死んだ。
 アイの友トオカルがこの悲しみを知った時、彼は立って誓いをし、自分の住家を捨ててまたと帰らない旅路に出たのであった。
 かの戦いの日からトオカルは目しいていた。その時から彼はトオカル・ダルと世に呼ばれて、その琴は仙界の風のひびきを持つようになり、谷間を下りながら弾く時、浜辺の砂山にのぼって弾く時、風の歌を弾く時、草の葉のささやきを弾く時、樹々のひそめきを弾く時、海が夜のやみに叫ぶうつろの声を弾く時、あやしく美しい音を立てた。
 肉眼の見えないためにトオカルはよく見たり聞いたりすることが出来ると言われていた。ほかの人たちの見ない聞かない何を聞き何を見ていたのだろう、それは琴いとにためいきする或る声から見たり聞いたりするのだと人は言っていた。
 トオカルが旅に出かけようとする時、王は訊いた、彼の血のうたうままに北に向いてゆくか、彼の心の叫ぶままに南に向いて行くか、それとも、死者のゆくように西に向いて行くか、光の来るように、東に向いてゆくかと。
「私は東に行く」トオカル・ダルが言った。
「なぜ東にゆく、トオカル・ダル」
「私はいつも暗い、光の来る方に行きましょう」
 ある夜、西から風が吹いている時、琴手トオカルは櫓船に乗って出立した。櫓船は九人の人に漕がれて月光に水のしぶきを立てた。
「歌をうたってくれ、トオカル・ダル」みんなが叫んだ。
「歌をうたってくれ、ロックリンのトオカル」舵手が言った。舵手もほかの一同もみんながゲエルの人々であって、トオカルだけが北の国の人であった。
「何を歌おう、お前たちの好きな戦争の歌か、お前たちをいとしみ抱く女たちの歌か、やがてはお前たちに来る死の歌か、お前たちの怖がる神罰の歌か」
 怒りを帯びた低いうめき声が人々のひげの陰から洩れた。
 燃え立つ怒りを抑えて舵手は眼を伏せたまま答えた「琴手よ、われわれは君を無事に本土に送り届ける誓いこそしたが、君の悪口をきいて黙っている誓いをした覚えはない、風に飛んで来た矢のために君の眼は見えなくされたが、今度は不意に剣のひとえぐりで息を止められないように、気をつけるがよい」
 トオカルは低い静かな笑い方をした。
「いま私は死を恐れなければならないのか――血の中で手を洗ったこともあり、恋いもし、人間に与えられたすべてを知りつくした私ではないか、しかし、お前等のために歌をうたおう」
 琴をとり上げて彼は絃をならした。

 はるかなる、めもはるかに遠くさびしき国に、ひと筋のさびしき川あり
岸の砂しろく、しろき骨は水際に散らばる
そこに生あるものはただ躍るはだか身の剣ばかり
見よ、予言者なる我は見たり、浅瀬に洗う女のすばやく動く手を
夜と暗黒《やみ》のなかの、雲と霧のおぼろの影と女は立てり
浅瀬に洗う女
折にふれて女は笑い、手のなかの塵をまき散らす
女はそこに来る凡ての人の罪を数え、血によごれたる群を殺す
人間のあらゆる罪の幽霊は
浅瀬の女の飛び光る剣を知る
砂の上にもがく手足を見るとき、浅瀬の女は身を屈めて笑う
女はいう、浅瀬にかえりてあちこち泳げ
その時われ汝を雪のごとく洗いきよめ、手をとりて引き上げ
このまばゆき剣もて汝を殺し
汝を踏みてこの白く静かなる砂のなかの塵にまじらせむ
これこそかの浅瀬の女が
静かなる川の岸に
笑いつつうたうことば

 トオカル・ダルがその歌をうたい終って後、しばらくは誰も物を言わなかった。橈《かい》は月光をうけてそれを糸の切れた光りかがやく水晶の珠のように振り落とした。船首の浪は巻き上がり高く跳んだ。
 その時突然漕ぎ手の一人が長く引く低い調子で剣のうたを歌い出した。
 すると、みんなが漕ぐのを止めた。彼等がまっすぐに突立って星に向って橈を振りまわしながらうたう狂わしい声が夜のなかに飛びわたった。
 トオカル・ダルは笑った。彼は腰の剣を抜いて海に突き入れた。その刃を水から引き抜いて高く振った時、まっしろに光るしぶきはトオカルの頭辺にみぞれの雨と渦まき降った。
 その時舵手は舵をはなして剣を抜き、流れる浪を切った、力が入りすぎて彼は剣に引かれてよろけた、剣が艫《へさき》に坐して橈を把っていた男の耳を削いだ。船中のすべての眼に血があった。切られた男はよろめきながら自分の短剣をさぐった、短剣は舵手の胸を刺した。
 その二人は一同のなかの有力者で前から憎み合っていた、トオカルをのぞいては船中のみんながこの二人の何方かに味方していたので、やがて剣と短剣が歌をうたった。
 橈とる人たちは橈を落とした、四人が三人に対して戦った。
 トオカルは笑って自分の坐席に仰向けに寝ていた。立ちさわぐ波の中から一人一人の死が船によじのぼって冷たい息を死にゆく人に吹きかけた時、トオカルは琴をとり上げた。彼はうずまく散滴《しぶき》を顔にうけて、鼻に血の香を吸いながら、次第に増して来る血の潮に足をひたして歌った。

 おおオヂンの神にかけて、あかき血はこころよし
あかき血の深くわき出す音はこころよし
剣のわらう声をきく時
鴉は鳴き、老人はなげき、女は泣く
浅瀬に洗う女
浅瀬に立ちてせわしく動く
この殺戮のむれのすべての罪ふかき血を洗い流し
かれらの骨をこまかき白砂に踏み砕き
彼女の渇きたる剣の渇きをひそかに笑いつつ
浅瀬に洗う女

 トオカルがその歌をうたい終った時、船中に脈のある人がまだ一人いた、彼は船首の橈手であった。
「トオカル・ダル、お前を呪う」口にいっぱいになった血の中から彼がうめいた。
「お前は誰か」
「私はアルトの子ファガスだ」
「それでは、ファガス、お前の死の歌をうたおう、お前が最後の者だから」
 トオカルは琴からすすり泣きの音を立てて、うたった――
 歌なかばに、男は剣を海に投げすて、うめきながら水に落ち込んだ、彼はいま、浅瀬に洗う女の踏みくだく足の下の白砂の上に行ったのであった。

 その夜は星ぞらの下にかなりの風が吹いていた。あかつき、スカイの山々は大きな城の楼のように東方に見えていた。
 しかし盲人トオカルにはそれも見えなかった。それに、彼は眠っていた。眠りのなかでトオカルは微笑した、夢に、彼の敵である異国人の死人等が遠方の流れに近づいてゆくのが見えた。あわれにも震える霜がれの木の葉のように、瘠せ乾からびた彼等の震える音だけがその荒野にきこえる息であった。
 河の浅瀬で――彼の夢で見たことは――死人等は犬に追いつめられた鹿のように倒れてしまった。
「ここは何という河か」荒野を横ぎる雨のようにほそい声で死人等が訊いた。
「血の河」一つの声が返事した。
「この静寂の中にいるあなたは誰か」
「わたしは浅瀬に洗う女」
 そう言うと共に赤い霊魂はひとりひとり捉えられて浅瀬の水に投げ入れられた、やがて彼等が丘の上の羊の骨ほどに白くなった時、浅瀬に洗う女はそれを片手につかんで空中に投げた、空中には風もなくすべての物音が死に絶えていた、投げられた霊魂は世界の四方をめぐる剣の渦まきに切れ切れにひきちぎられた。浅瀬に洗う女は地に落ちて来るものを踏みにじった、やがて彼女の足下にはただ白い砂だけが残った、砂は白粉のようにしろく草に咲く黄ろい花の花粉のように軽かった。
 それを見てトオカルは眠りのうちに笑った。彼は海の波の音も聞かず、橈《かい》のない船をたたく水音も知らなかった。彼はまた夢みた、それは、七年前の夏の船出にロックリンに残して来た女の夢だった。女の手が彼の手のなかにあり、女の胸が彼の胸に当てられていると思った。
 トオカルは言った。
「ああいとしい美しい女ごころ、どんな悲しみがお前の上に影を落としたのか」
 眠りの中から聞いた声はやさしかった。
「トオカル、わたしの恋は待つ甲斐もない恋です」
「ああ、いとしいもの、わたしもにがい悲しみを持つ、この長いとしつきお前と別れていて」
「男の悲しみと、女の悲しみとは、ちがいます」
「神かけて、ヒルダよ、わたしはこの愛する胸からその悲しみを取り去るためには、二人の悲しみを自分ひとりのものとしたい」
「トオカル」
「いとしいもの」
「わたしたちはただ二人ではありません、暗黒《やみ》のなかにいるわたしたち二人は」
 女がそう言うと、トオカルはおさなごの両腕が彼の頸《くび》を巻き、野薔薇の二つの花びらがすずしく和らかく彼の脣にあてられるのを感じた。
「ああ、これは、何か」胸は動悸し、体内の血はよろこびの歌をうたいながら、トオカルが叫んだ。
 低い声が彼の耳にひくく歌った、甘にがい歌であった、何とも言えないほど甘く、何とも言えないほどにがく。
「ああ、かわいいもの、わが可愛い仔鹿、水泡のおさなご、うつくしい可愛い子、わたしの目をあけて、わたしの眼でありヒルダの眼でもあるお前の青い眼を見させてくれ」
 おさなごは何も言わず、より近くすり寄って来た。大きな巣のなかの雛鳥のようであった。もし神がそのおさなごの歌を聞いたら、神もその日はたのしい神であったろう。おさなごの体内の血はトオカルの体内の血に呼びかけた。トオカルは何も言えなかった。見えない目に涙があふれた。
 その時ヒルダは暗《やみ》に屈んで、トオカルの琴を取りあげて弾いた。それは遠いとおい島の何処かで聞いたことのある調子であった。
 ヒルダはうたったが、トオカルにはその歌の言葉が聞えなかった。
 すると、トオカルの生命の乾いた砂の上に冷たい波のようであった小さい脣《くちびる》が低い調子の歌をささやいた、たゆたいがちの歌が彼の頭に響いた――

 死んだもののたましいを
風が吹きあつめるところに
わたしのたましいもみちびかれた
おお、父トオカルよ
ヒルダの牧場に
投げられ、蒔きつけられた
あなたの種子から
わたしが芽を出した
わたしとヒルダの
ゆく路はどこ
丘の苔むした路
それとも灰いろの海の路
河がある
ひらめく剣がある
女が洗っている
浅瀬の水で

 トオカルは狂わしく叫んでいとしい可愛いものを抱きかかえ、彼を愛している人の胸に片手を触れた、しかし、もうそこには真白い胸もなく、ましろい幼児もいなかった、彼の脣《くちびる》に押しあてられたものは血に赤い彼自身の手であった。
「おおヒルダ」トオカルは呼んだ。
 波のはね返す音ばかり聞えた。
「おお可愛い子よ」呼んで見た。
 死人に満ちた船の上に舞っている海鳥の叫び声がトオカルに返事した。

 終日、盲目の琴手は死人の船を走らせた。西から微風が吹き出していた。船はその風のままに動いた、ゆっくりと、低い溜息に似た水音をさせながら。
 トオカルは死者の赤く開いた傷や九人のガラス珠のような眼を見ている気がした。
 彼はひとり言をいった。
「盲目でなくて死人を見る方が、盲目でいて死人を見るよりは増しである」
 舵手であった男の体がトオカルに寄りかかった。彼は震える手にその男をつかまえて海に投げ入れた。
 一時間も経ってトオカルは冷たい水に手を濡らそうとしたが、声を立てて手を引いた、さきに落ちた死人の冷たい硬ばった顔の上に手が触れたのであった。船の鉄環であけられた革の割目に死人の長い髪がひっかかっていたのだった。
 その後の一時間ばかりトオカルは右の手に頤《おとがい》を抑えて見えない目で死人を見つめながら坐していた。波にあたる波の音、しぶきにぶつかるしぶきの音、船ぞこを叩く水音、舵に添うて流れゆく死体の水を切る低い静かな音、それよりほかに音もなかった。
 日没より二時間ぐらい前、トオカルは首を上げた。耳にきこえたのは岩に打ちあたる波の音だった。
 日の入る前、彼はいそがしく橈《かい》をあちこちに動かして船について来る死体を切り離した。いま、岩の上に打ち上げる波の音は声たかく聞えた。
 太陽の最後の火がトオカルの頸《くび》に燃えて肩に垂れた長い髪を輝かした時、彼は草の青い香を嗅いだ。同時に、波の静かな港の中で、砂の上に静かに落ちる海の音をきいた。
 彼はその音の方に近寄った、人の声を聞きたいと思ってるうちに船が砂の上にあがって一方に傾いた。トオカルは琴を片手に、橈を砂に突きたてて岸に飛び上がった。岸に上がると耳をかたむけて聞いた。静かだった。遠く遠くの方に山の滝の流れおちる音がした、鷲の声がかすかに細くきこえた、日のほのおが流れる血のように赤く鷲の巣を染めたのであろう。
 トオカルは琴を上げて低くならし、古いきれぎれの歌を口ずさみながら、そこから歩き出した、もう死んだ人たちのことは考えていなかった。
 深いたそがれ時に彼は森にたどり着いた。森のつめたい青い息を感じた。
「おいで」低いやさしい声が言った。
「あなたは誰でしょう」トオカルが訊いた、静かさの中の不意の声に震えながら。
「わたしは小さい子、ここにわたしの手がある、手を引いて上げよう、ロックリンのトオカル」
 トオカルはおそれを感じた。
「こんな知らない土地で私のことを知っているあなたは誰です」
「おいで」
「おお行くとも、小さい子よ、だが、あなたが誰だか、何処から来たか、何処へ行くのか、まず教えて下さい」
 すると、トオカルの知ってる声が歌い出した。

 死んだもののたましいを
風が吹き集めるところに
わたしのたましいもみちびかれた
おお父トオカルよ
河がある
ひらめく剣がある
女が洗っている
浅瀬の岸で

 それを聞くと、トオカルは木のうえの最後の木の葉のように震えた。
「お前は船にいたのか」しゃがれた声で訊いて見た。
 今までの声とは違ったと思われる声が答えた「わたしは、船にいた」
「私は目が見えないのだから、教えてくれ、平和か」
「平和です」
「あなたは大人か、子供か、それとも精の一人か」
「私は羊飼です」
「羊飼? そんなら、あなたはきっとこの森の中を導いてくれるだろう、この森のさきの方には何がある」
「河があります」
「何という河」
「深くて恐しい河で『影』の谷間を流れています」
「その河に浅瀬はないか」
「浅瀬はあります」
「その浅瀬を、誰か手を引いて渡してくれる人があろうか」
「女がいます」
「どんな女」
「浅瀬に洗ってる女」
 それを聞くとトオカル・ダルは痛そうな声を出して引かれている手を振り放し、森の細道に逃げこんだ。
 疲れ切って横になった時、月夜になっていた。みなぎり流れる水音が耳にきこえた。
「おいで」声がした。
 トオカルは立って歩き出した。冷やかな水の息が顔にあたると思った時、彼を導いて来た人はトオカルの手に木の実を持たせた。
「おあがり、トオカル・ダル」
 トオカルは食べた。もう盲目のトオカルではなくなった、目が見え出して来た。暗黒の中から影が現われて来た、影の中から樹々の大きな枝が、枝から黒い小枝や木の葉の黒い塊りが見えて来た、枝の上に、しろい星が、枝の下に、白い花が見えた、その枝を透して向うには、月光が草の上にあり、くろい深い河のながれにも輝いていた。
「おお琴ひく人よ、琴を取って、お前の見るものをうたえ」
 トオカルは声をきいたが、人を見なかった。影もうごかなかった。彼は月に明るい草の上を歩いた、浅瀬に一人の女が身を屈めて月光を織った白い布を洗っていた、そして言葉の分らない歌を低い声でうたっていた。女はわかく、黒い長い髪がしろい岩の上の夜の影のように垂れていた。
 トオカルは琴を上げてうたった。

 神にみさかえあれ、われは剣を見ず
わが見るは河のながればかり
流れの上に影あり、とこしえに流れゆく
女あり、とこしえに衣を洗う

 トオカルがうたい止めると、女がうたった。

 みさかえあれ、いと高き神と、おん母マリヤに
ここにわれ罪びとの罪を洗う
ロックリンの人トオカル、なが赤き罪を投げすてよ、
わが洗える天衣を与えむ

 おそれ驚いてトオカルは首を下げた。彼は再びうたった。

 おお衣洗う女よ、うれし
君はわがためにひらめく剣を持たず
われすでにわが神々を失いはてぬ、君と君が神々の名を教えよ
浅瀬にあらう女よ

 女は暗い水から顔を上げもせず、月光を織った布を洗う手も止めなかった。
 流れる水の息の上に歌がきこえた。

 わが名はマクダラのマリヤ、キリストを恋いせし女
キリストは神と聖母マリヤの御子
この河は死の河、この影は逃げゆくたましい
この河に洗われずば、ほろぶるたましい

 トオカルはながれになお近く寄った。さびしい風が水の上に吹いていた。
「この世のすべての死者は何処へ行くのでしょう」
 女は答えなかった。
「最後はどうなりましょう」
 女は立ち上がった。
「琴ひく人トオカルよ、浅瀬を渡るか」
 彼は返事をしなかった、彼は聴いていた。夜のやみの何処か遠くの方にかすかに低く女の声がうたうのを聞いた。トオカルは流れになお近く寄った。
「浅瀬を渡るか、トオカル」
 彼は返事をしないで、なお聞いていた。夜のどこかに小さい子の泣き声がした。
「ああ、小さいものの寂しい心」そう言ってトオカルは溜息した、涙がおちた。
 女はふり返って彼をながめた。
 女の顔は「悲しみ」の顔であった。彼女は身を屈めてトオカルの涙を拾った。
「これは歓びの鈴の音」女が言った。かすかに美しい鈴の音が耳に響いた。
 トオカルの心に祈りが浮いた。なにとも分らない盲目の祈りであったが、神はその祈りに翼を与えた。祈りはマリヤのもとに飛んだ、マリヤはその祈りをとり上げて接吻し、それに歌を与えた。
「平和の歌であれ」マリヤが言った。トオカルはそのとき平和を得た。
「トオカルよ、どちらを選ぶ」彼女の声は樹々のなかの雨のように美しくさざめいた「何方を選ぶ、剣か、平和か」
「平和」トオカルが言った。彼はいま白髪の老人となっていた。
 マリヤが言った。
「琴をとって浅瀬に踏み入るがよい、いまお前に白衣を着せる。もし、さかまく流れを恐しく思うなら、お前の涙であった鈴の音についておいで、もし暗黒を恐しく思うなら、お前の心から出た祈りの歌についておいで」
 琴手トオカルはさかまく流れに踏み入った、彼はおさなごの笑いごえにも似た新しい不思議な調を弾いた。
 深い沈黙が来た。月はひそやかな森の上に横たわり、黒い流れは音もない暗がりを溜息しつつ流れた。
 浅瀬に洗う女はふたたび身を屈めた。やさしく低い声で、むかしも今も変らず、彼女は忘れられた古い歌を溺れるたましいの為にうたうのであった。

底本:「かなしき女王 ケルト幻想作品集」ちくま文庫、筑摩書房
   2005(平成17)年11月10日第1刷発行
底本の親本:「かなしき女王 フィオナ・マクラオド短編集」第一書房
   1925(大正14)年発行
入力:門田裕志
校正:匿名
2012年7月30日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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