精  CATHAL OF THE WOOD フィオナ・マクラウド       Fiona Macleod—- 松村みね子訳

「マリヤの僕カアル」と呼ばれていたアルトの子カアルは、青い五月のある夜、心にかなしみを持って海のほとりを歩いていた。
 それは彼がイオナの島を離れてからまだ間もない時であった。聖コラムはこの青年をアラン島に送るにつけて聖モリイシャに手紙を書いて頼んでやった。聖モリイシャはアランの南端の東むきのくぼみにある小さなピイク島の岸の岩窟に住んでいる聖者であった。カアルの為には西のうつくしい島を離れることは悲しかった。はるかに遠い北の島国で父がロックリンの人の手に殺され、母が狂暴な金髪の男たちの漕いで来た櫓船に奪い去られてから後は、この島に来て彼は楽しい月日も知ったのであった。彼のただ一人のみよりは父の兄弟にあたる老僧のみであった。
 イオナの島で彼はキリストの道を教えられ、白衣を着る身となった、そして、削がれた樹の枝や海豹《あざらし》の毛のほそい束《ふさ》や野鴨や鵞鳥《がちょう》の羽じくを以て仔羊の皮や巻物に聖い御言葉をかくことも出来、御言葉のなかに散らばる大きい文字をば、土の褐色にも空の青色にも輝く緑色にも、血しおの紅色にも、陽のあたたかい海の砂の金色にもいろどることが出来た。彼はまたながい聖歌《みうた》をうたうことが出来た。コラムはそれをきくことを好んでいた、イオナの島でいちばん美しくひびく声はカアルの声であった。ちょうど彼が十九のとし、フランクのある王子が聖者コラムの祝福をうけにイオナに来た時、王子は彼を南の国につれ帰ろうとした。彼のその声のために王子はいろいろの約束をしたのであった。その時以来、ねむたい暑い午後など、いつもカアルが夢に見るのは、たやすく人を殺し得るながいしろい剣、うつくしい服を買うことのできる白くひかる貨幣、金の飾りで身をかざった大きな黒い馬、鳥の羽毛の寝床、そして白い手と白い胸と、青春の日の歌とであった。
 カアルはフランクの王子と一緒には行かなかった。しかし、その後、彼はたびたび夢を見るようになった。
 そういう夢の日の或る日彼は僧房にちかい砂丘の暑い草の上に背をのせて横たわっていた。陽の照りで島は金いろの靄《もや》に浴していた。海峡は眼もまぶしくきらきらして、やわらかい白砂に曲線をなした青い小波は金の火花を散らすかと見れば、又すぐに水泡の小さい珠にくだけたり虹のしぶきの泡と変ったりした。カアルは自分の歓びを歌に作った。その歌を作ってしまうと、心のなやみがすこし慰められた。いま、彼は横になって、フランクの王子の言った言葉を思い出したり、または異教徒のとし老いた奴隷ニイスの不思議な言葉を思い出しながら、歌をうたった。

 あわれ、北のいずこに、南のいずこに、ひがし西のいずこに
しろき花の手と白鳥の胸毛のむね持てる彼女《ひと》はすむや
もし彼女《かれ》西にあらば、もし彼女《かれ》ひがしにあらば、あるいは北か南にあらば
剣は跳び、馬は躍るべし、われその甘き口の人に到るために
彼女《かれ》は山の上の牝鹿のごとき大なる目を持つ、彼女《かれ》はあたたかく優し
ああ、甘き口のひとよ、我に来よ、かがみて我にくちつけせよ、甘き口のひと
彼女《かれ》の名は「しろき手」と名づけられ、うつくしき王侯《きみ》たちをすべ治む
しろき手は波をくぐる白鳥のごとく黒き波たつ髪の中にうごく
しろき手はわが胸を抱え、しろき手はわが息をあおぎ立たしむ
しろき手よ我よりわが心を取りさりて、われに与えよ、生か死を
しろき手は聖歌よりもなお美しき歌をつくる、しろき手はわかくなつかし
ああわれに剣を与えよ、あまき口のひと、われに脚とき馬をあたえよ
狂おしくなつかしき眼、うれしく狂おしき眼、ああ口よ、そのなつかしさ
我に来よ、あまき口のひと、われにかがみて、くちつけせよ

 うたい終った時に彼は砂丘の向うのしろい砂に人影の落ちるのを見た。眼をあげて、彼は聖者コラムを見た。
「たれがお前にその歌を教えた」しろき聖者は烈しいきびしい声でたずねた。
「たれも教えたのではありません」
「それなら、悪魔がここに来ていたのだろう、カアルよ、私はお前にもうじきに聖い名を与える約束をしたが、これでは、やることは出来ぬ。お前は麻の衣を着、頭に塵をのせ、身に痛みを与え、心に深い悲しみを持って、私のもとに来なければならぬ。そうもしたらば、私は兄弟たちの前でお前を祝福し、マリヤの僕カアルという名をお前にあたえよう」
 わかわかしい血の中に火を持っているカアルがその血に霜を加え、心のなかに湧きでる歌を黙させて待っていることは、にがい悲しい時であった。それでもその週の終りにはカアルは再び聖い僧となってコラムが教えてくれた聖歌をうたうことになった。
 コラムが兄弟たちの前で彼を祝福し、マリヤの僕という名を与えたその日の夕がた、彼は女の悪と女が与える呪いを考えながら、まだ何の意味か自分の知らないその罪から救われるように聖母に祈りながら、一人で歩いていた。彼は自分の部屋に戻って来る路で年とった奴隷のニイスとすれ違った。ニイスは嘲けるように言った。
「アルトの子カアルよ、お前が悲しむのもよい――しかし、もし殺されたお前の父親がお前の母親だったホオムにあの熱い愛を持たなかったら、お前というものがここに生きていてお前の神を讃美することも出来なかろうし、あのドルイドのかしらが神の母だと言ってきかせるその女に仕えることも出来なかったのだ」
 カアルは老人をだまらせた、黙らなければ思い知らせると言って。しかし老人の言葉が彼の心をなやました。その夜目がさめた時に、彼の脣《くちびる》は罪ふかい自分自身の言葉をくり返していた。

 しろき手は聖歌よりもなお美しき歌をつくる、しろき手はわかくなつかし
ああわれに剣をあたえよ、あまき口のひと、われにあし疾き馬を与えよ

 翌朝カアルはコラムの許に行き、悪魔が自分に平和を与えなかったことを話した。その夜、聖者は彼にアラン島にゆく仕度をするように命じた――その頃ピクト人が白衣のキリスト僧等に迫害を加えなかったのはアラン島だけであった。ピイクの小島の浜の岩窟に住んでいた聖者モリイシャの許にカアルは行くのであった。ピイクはその頃すでにモリイシャの教と奇蹟のために聖島と人によばれるようになっていた。
 コラムは思案した「モリイシャは賢い人である、曾《かつ》ては異教の外国人で、その人々の中では王侯の一人でもあったのだから、罪のあまさもよく知っていて、カアルをあぶない罠から救ってくれるだろう。断食をしながら、ひるは多くの危難を通り夜は疲れを忍んでいるうちには、青年の血はその心に悪魔が教えてくれた歌をわすれて聖い御歌《みうた》をうたうようになるだろう。マリヤの僕カアルがまだ青年でいながら聖者になることが出来れば大なる光栄である、彼は昼も夜も、夜も昼も、自分の肉体をくるしめる殉教者として生きて、やがてはその信仰のために異教徒に殺されるであろう」
 そういうわけで、カアルはコラムに祝福されて東方の野蛮なピクト人の中に送られたのであった。
 カアルは歓びを以てモリイシャに仕えた。四ヶ月のあいだにモリイシャは自分の知っている限りを彼に教えてやった。そこで老聖者はコラムに言ってやった、カアルはもうすでに聖者になって、殉教者の栄冠は確かなことであるということと、それから北の方の大きな島国の、女王スカァアの支配するミスト島へ青年をやったらばよいだろうということも親切にすすめたのであった。ミスト島の異教徒は去年の夏の船が往った時一人の僧を生きながら皮を剥いで殺したのだった。立派な幸福な最期である、カアルは今そういう最期に値した――そして、あるいは勝利を得て、ひょっとすると、あの異教徒の女王をも改宗させることが出来るかも知れない、モリイシャはそれにつけ加えた「女王は眼もまどうばかり美しく、カアルも眉目よき青年であるから」と。
 しかしコラムは、わかい僧が現在のままでいて、十字架がまだ怖がられている異教のアラン島で霊魂《たましい》を救うように努力するがよいと、返事してよこした。
 さて五月と黄金の天気が来た時にカアルの血がまた熱して来た。時には、フランクの王子とその人の罪深いあまい言葉をさえ彼はゆめみることがあった。
 そのうちにある日が来た。その日、モリイシャとカアルはピクト人の酋長が住んでいる山の砦に行って、酋長及び砦じゅうの人たちと砦のそとの部落じゅうの人たちまでもすっかり改宗させてしまった。
 その夕がた、カアルが部落そとのみどりの松のなかの寂しい路を歩いていると、酋長の女と行き会った。女は実にうつくしかった、背がたかく色白く、雲のない真ひるの海のような眼をして、髪は西になびいた麦がまた吹き返されたようであった。
「とし若いドルイドよ、あなたの名前は何といいます? わたしはエクタの女、アルダナといいます」女が言った。
「アルダナよ、あなたの美しさは見る目に快い。わたしは、海の島国から来たアルペンの族、アイの子孫アルトの子カアルというもの、ドルイドではありません。神のおん母マリヤと神の御子のしもべ、キリストを伝えるものです」
 アルダナは彼を見つめた。カアルの顔に色がさした。彼の眼にはフランクの王子がこの世の歓びの話をきかした時その眼にかがやいたのと同じ光があった。
「おおカアルよ、本当の事でしょうか、ドルイドたちは――キリストと二人の神たちの僕、わたしたちがクルディと呼んでいるあの白い衣の人達は、あなたもその一人と見ますが、あの人たちは女とすこしの交渉《ゆかり》もないということは」
 カアルはもう女を見なかった、ただ自分の足もとの地を見ていた。
「それは本当です、アルダナ」
 女は笑った。ひくい優しい、馬鹿にするような笑いであったが、その笑い声はカアルの血の中を走った。空を焔の雲が走るように。まだ彼の見なかった何ものかを現わされたような気がしたのであった。
「あなたがた聖い人たちは女を斜に見て、悪や危難の罠として見るということも、本当の事でしょうか」
「本当のことです。しかしキリストの姉妹となって天にのみ眼を向けている人たちを、そうは思いません」
「あなたの神の姉妹でない女たち、見るに美しく、恋するによく、愛するによい、ただの女たちはどうでしょう」
 カアルはまた顔をあかくした。眼はまだ地を見つめたままで、彼は返事をしなかった。
 アルダナは低く笑った。
「カアル」
「何ですか、エクタの美しいむすめ」
「あなたはまだ愛したいと思ったことはありませんか」
「童貞の誓いをしたわたしたちの為には、ただ一つの愛のほかに愛はありません」
「童貞とは、何のこと」
 カアルは眼をあげてアルダナを見た。彼女の口もとには微笑が見えていたが、濃い青い眼は清くやさしく彼を見つめていた。カアルは溜息した。
「それは、肉体の清さをいいます、アルダナ」
「わたしには解らない」彼女は単純にそう言った。
「それにしても聞かせて下さい、あわれなカアル……」
「なぜ、わたしをあわれなカアルと言うのですか」
「なぜと言って、あなたが、そんなに若い、強い、美しいあなたが、自分の男性《おとこ》を捨てているから。あなたは勇士でもなく、剣も、猟も、琴も、女も、好きでないから」
 カアルは惑った。彼はいくたびもアルダナを見た。入日のひかりが金髪の中に光って、彼女のまわりに栄光のように輝いていた。彼はこの人のうつくしい顔のように不思議なほど青じろい月を見たことがあると思った。しろい手は百合の花のようだった。眼のなかの火焔の光は彼が曾《かつ》てゆめみたことのある光であった。
「わたしは、好きです」彼が言った。
 アルダナは少し近く寄って、やや前に屈んで彼を見た。
「あなたは綺麗な人です、カアル――まだわたしが見たことのないほど綺麗な人です」
 聖僧は頬を赤くした。これこそはコラムが曾て注意してくれた魔の言葉であるのだろう。だが何という甘い言葉、ひくい声は琴の音のようだった。まことに、めさめて見る夢は、眠っていて見る夢よりは、はるかに楽しいものである。
「わたしは、好きです」彼は弱々しく繰返した。
「カアル」
 カアルは徐《しず》かに眼をあげた。その眼が上の方に進んで白い胸の上に留まった、胸は黄ばんだ海草の中から浮き出している海の水泡のように白かった。彼女は白い衣《きぬ》の上に鞣《なめ》された仔鹿の皮帯を金の釦金でしめていた、衣《きぬ》はひろがって暖かい風が胸を吹くのにまかせていた。
 それがカアルの心をなやました。彼は再び眼をおとした、くれないが顔にのぼった。
「カアル」
「アルダナ」
「あなたは女の口にあなたの接吻を与えようとは思いませんか、あなたの胸を女の胸の上に置きたいとは思いませんか、あなたは冷たい海の水から生れた人ですか――小川を流れる水でさえ陽には温められるものです。カアル、きかして下さい、あなたは僧モリイシャから離れますか――もし――」
 キリストの僕は急に女に向いて眼をかがやかした。
「もし、どうすれば、アルダナ」彼はいそいで訊いた「もし、どうすればというのです、美しいアルダナ」
「もし、わたしがあなたを愛したらば、カアル? もし、酋長エクタの女《むすめ》のわたしがあなたを愛して、あなたをわたしの男にし、あなたがわたしをあなたの女にしたらば、あなたは、それで満足しますか」
 彼は夢みている人のように女を見た。その時コラムから押しかぶせられていた凡《すべ》てのおろかしい狂熱が不意に彼から離れおちた。あんな老人たち、コラムやモリイシャが、何を知っているものか、生命のまことの意味を知るものはただ若い人たちばかりだ。かれらはもう老いている、彼等の血は凍っている。
 彼は祈りの時のように両手をあげた。それから笑った。アルダナは彼の眼の中の光を見た、その光はアルダナの心に飛び入って歌をうたい、耳の中に鳴りひびき、眼を眩ました。彼女は自分の身が非常に高いところから落ちたように感じた、まだ落ちつつあるように感じた。
 カアルはもう蒼くはなかった。赤い焔《ほのお》が双方の頬に燃えた。彼のうしろにある入日の光が彼の髪を火でそめた。眼は篝火《かがりび》のようだった。
「カアル」
「さあ、アルダナ」
 それで十分だった。もう何を言う必要がある、彼女はカアルの腕の中にいた、彼女の心臓が彼の心臓にぴったり当って動悸していた、ちょうど係蹄《わな》に陥ちた狼のようにカアルの体内に躍っている心臓に。
 カアルは身を屈めて彼女に接吻した。彼女が眼をあげると、カアルの頭がふらふらした。彼女が接吻した、彼も接吻したが、彼女は低い声を出して和らかに彼を押しのけた。カアルは笑った。
「何を笑うのですカアル」
「わたしが? 今はわたしが笑う。あの老人たちがわたしを惑わしていたのだ。もうマリヤの僕カアルではない、アルトの子カアルだ、そうではない、アルダナの僕カアルだ」
 そう言って彼はそばにあったななかまどの枝を折りとって、その葉をむしって、北に、南に、東に、西に、投げた。
「なぜそんな事をします、うつくしいカアル」
 アルダナは愛の眼を以って彼を見ながら訊いた、彼女はちょうど夏の日の朝のようだった、髪のなかの日のひかりと、野ばらのような顔の色と、山の湖のように青い眼と。
「これはコラムが教えてくれたすっかりの聖歌です、みんな返してしまう。わたしはもうちっとも覚えていない。どれもみんな、つまらない馬鹿げた唄だった」
 カアルはその枝を折って地に投げすてて踏みにじった。
「なぜそんな事をします、うつくしいカアル」アルダナが訊いた。彼女の呼ぶような眼で彼を不思議そうに見ながら。
「これはコラムが教えてくれたすっかりの智慧の枝です。奴隷の老人ニイスはかしこかった。あんなものは、みんな狂気です。ごらんなさい、もう、みんなありません、わたしの足で踏んでしまった。今わたしは男になった」
「それでも、カアル、おおカアル、日もあろうに、きょうという今日、わたしの父エクタはキリストの教の人となりました、父も父の一家も。今からは、父は何もかもモリイシャの言葉どおりにするでしょう。そしてモリイシャはきっとあなたの死を求めるでしょう」
「死はひとつの夢です」
 そう言ってカアルは前に屈んでアルダナの脣《くちびる》を二度吸った「一つは、生のため、もう一つは、死のための接吻」
 アルダナは低くわらった。「聖僧も接吻することが出来る、聖僧は、愛することができますか」彼女はささやいた。
 カアルは彼女を抱いて、二人はうす暗い黒いみどりの中にはいって行った。
 月は、森の樹々のたゆたう波の上に絶間《たえま》なく黄ろい焔を散らす青金の火の円のすがたして、徐《しず》かに昇った。星がひとつひとつ現われた。ふかい静寂が森にあった、ただ蚊吸鳥《かすいどり》が松の枝からひくく身をのり出して侶《とも》をよぶあやしい物あわれな声がした、ともの鳥はその声に胸をふくらませて、露ふかい蔭に飛び隠れることを考えた。
 風は静かだった。一点の影もない息もない動きもない樹頭の原の上を星のしろいひかりがさまよっていた。
「あの音は何」カアルの腕に寝て、くらがりの中にほの黒いかたちに見えたアルダナが訊いた。
「わたしは知らない」青年が答えた、血管のなかの熱した血が彼の耳をまぎらせる唄をうたっていたから。
「聴いて」
 カアルは聴いた。なんにもきこえなかった。彼の眼はまたも静寂のなかを見つつ夢みていた。
「あの音はなに」彼女はもう一度かれの胸にささやいた「海からでもない、森からでもない」
「天のうめき声でしょう」
 カアルは疲れたように返事した。

 人々はその森でしののめのほのあかりに二人を見つけ出した。エクタは長いこと二人を見て考えていた。それから彼はモリイシャを見た。聖者の心には涙があったが、眼にはふかい怒りがあった。
「彼を縛れ」エクタが言った。
 カアルは革紐によって目を覚まさせられた。彼の眼がモリイシャを見つけた。彼は身もうごかさず、口もきかなかったが、ただ微笑した。
「さてどうしよう、モリイシャ」エクタが訊いた。
「女を離しなさい。女はあなたの勝手にするがよろしい――助けるとも殺すとも。それはどうでもよいことです。彼女《あれ》はただ女なのだから、しかし彼女《あれ》はこの男にわざわいをもたらした。殺す方がよいかも知れない」
「あれはわたしの娘です」
「あなたが助けたいと思うなら、助けるがよろしい、しかし何処かに連れていって貰いましょう。そして何処かの男に与えるがよろしい。もう二度と彼女にこの背教者を見させてはならない」
 その言葉に、二人の男がアルダナを連れ去った。彼女はカアルの方を見たが、カアルは微笑していた。アルダナの眼には涙のかわりにほこらしげな火が輝いていた。彼女は自分の身に一人の手をも触れさせず、自由に歩み去った。
 彼女が去ってしまうと、モリイシャが言った。
「マリヤの僕カアルと呼ばれたカアルよ、なぜこんな事をしたか」
「わたしは空しい空想にあきていました。わたしは若く、アルダナは美しいから、われわれは愛しました」
「そういう愛は死だ」
「死も受けましょう、モリイシャよ、そういう死は愛とおなじく楽しい」
「神を汚すものよ、お前に普通の死にようはさせぬ。しかし、今でさえわたしは成るべくは慈悲を見せたいと思う。お前は神の御名を呼ぶか」
「わたしは自分の祖先の神々の名を呼びましょう」
「おろかもの、その神々はお前を救うことは出来ぬ」
「それでもいい、わたしはその神々の名を呼びます。おおキリストのしもべ、わたしはあなたの三人の神々に用はありません」
「お前は地獄を恐れないか」
「わたしは勇士です、わが父の子で、勇士の族に生れたものです、何を恐れましょう」
 モリイシャは暫らく考えた。
 ついに彼が言った。
「この男をつれて行き、生きながら葬れ、この男の神々が声をきいて、来て救うかも知れぬ、うつろの樹をさがせ」
 エクタが考えながら言った「ここから近くに大きな樫があります、大きなうつろの樹で、その中には五人の男が、上に上にと重なり立つことが出来るほどの樹です」
 そう言って彼はみんなを古い樹のもとに導いた。
「カアル、お前は悔いるか」モリイシャが訊いた。
 青年はにがく答えた。
「わたしは悔います。あなたとあなたの三人の偽りの神々に仕えた月日を悔います」
「神を汚すことは止めてくれ。知らないか、その三人の神々は一人の神である」
 カアルは嘲けるように笑った。
 彼は叫んだ「エクタよ、あれをお聞きなさい、このドルイドの老人は、二人の男と一人の女とがただ一人であると、あなたに信じさせようとしています! 信じられるなら、お信じなさい、わたしは、わたしは笑う」
 そのとき、モリイシャからの合図で人々はカアルをもたげて樫のうつろの中に投げ入れた、樹のふかい心の中に足から先きに滑り入るようにして。
 この制裁が終った時にモリイシャは一同に樹のまわりに輪をなして跪《ひざまず》かせた。やがて彼はほろびゆく男の霊のために祈りをした。祈り了《お》えた時、わらい声が風にゆれる高い葉の中に舞い上がった、それは眼に見えぬ鳥がそこにいて、樫鳥《かしどり》のように嘲けり鳴いているかと思われた。
 モリイシャもエクタも、一緒にいた大勢も、一人一人に首をうなだれて去った、あとには二人の青年が残るように命ぜられた。彼等は三日のあいだその場所から動いてはならぬこと、誰もそこへ近づけてはならぬこと、罪人に食いものを与えてはならぬこと、もしカアルが二人に声をかけても、耳に入れてはならぬこと――たとえ、彼が神と神のおん母または「しろきキリスト」の御名を呼んだとしても、耳に入れてはならぬこと等を命ぜられた。
 その日いちにち樹のうつろからは何の物音もきこえなかった。日の入り方に一羽の鶇《つぐみ》が樹の孔の上に垂れているほそ枝に来て、いさましい軽い歌をうたった。やがて暗黒が来て月がのぼり、星は露のすきまにきらめいた。
 真夜中ごろ月は真うえの空にあった。青金のひかりの潮が樫の枝をてらして、木の葉を輝かしいあかがね色に変えた。
 護りの人たちは夜の静寂の中にうたう声をきいた――その声は物に包まれたようにかすかに、深い穴の中の人の声のようにも、せまい山腹の洞《ほら》あなに迷い入った羊飼の声のようにも聞えた。うたの言葉もすっかりではないが聞くことが出来た、彼等の聞いたのは、こうであった。

 おお冷たく青き焔をともす月の黄なる灯よ
汝があまき光もて死と一つ穴にやどる我をてらせよ
あまりに多くを見、なお見たりぬ我が眼にいま何も見えず
おお月よ、汝が胸は昼を焼く日のむねよりも白くやわらかし
汝がしろき光に、死にたるわが父の墓を照らし
父をよび覚ませ、よび覚ませ、覚ませよ
我が母なりし女の胸に汝が和らかき輝きをのせて
母をねむりの中に身じろぎさせ、傍にねむる海賊にいわしめよ
「おん身の剣をとりて、血を舐めさせよ、剣はながき渇きにかわけば」と
おお月よ、おとめアルダナの熱き胸の上に海の凪《な》ぎの平和《なぎ》をあたえよ
彼女《かれ》にことづてよ、カアル彼女《かれ》を愛し、おもいでは生よりも甘しと
われ暗黒《やみ》と静寂《しじま》の中に彼女《かれ》の胸の鳴るをきく
その音をきけば、そのおもいであれば、われ寂しくはなしとことづてよ
おお月の黄なる焔よ、エクタの胸の血をしたたらせよ
かれ内部《うち》より打たれて、世捨てびとのごとく、名誉《ほまれ》なく死なしめよ
モリイシャの頭に火を燃やし、かれを狂わせよ
世の人かれをあざわらい、ついに彼をしてむなしく笑いつつ死なしめよ
月よわれ汝をおがむ、わがことづてをニイスにことづてよ
異国《ことくに》のとらわれ人ニイス、今はイオナに住む、コラムのしもべ
彼に伝えよ、今われなんじ月を力づよき女神としておがむと
彼は智者なりし、われは露のしたたる苔の耳もちたる愚人なりしと
おお女神よ、わが願いをゆるして、コラムににがき月の酔いをあたえよ
頭を月のうたに狂わせ、胸を月の火に狂わせよ
火焔の心に彼を焼け、炉の火に消ゆる蝋のごとく彼を消えしめよ
彼の霊を涙のなかに溺れしめ、彼の肉は砂のうえにあとなくならしめよ

 護りの人たちは互に眼を見交して何も言わなかった。二人の蒼い顔には不安と恐れがあった。もしこの新しい神の教が嘘であって、カアルが正しく、古い神々が生と死の主であったらば? 月光は二人を照らして、彼等は互の眼のうたがいを見た。二人とも白い火を眺めようとはしなかった。その輝きの中から冷たい眼が彼等をにらめるかも知れない、そしたら屹度《きっと》かれらは意味もなく笑い出して、森に跳び入って、深山のけものたちのようになるのだろう。
 日の出る一時間も前、まだ暗いうちに、二人のうちの一人が短かい眠りから目さめた。彼の眼がむなしい樹から樹にさまよった。三度ばかり彼はいくつかのほのかな形が樹の幹から幹へ繁みから繁みへ滑ってゆくと思った。不意に彼は一つの背高い姿が影のように静かに林間の路の際に立っているのを見つけた。
 彼のひくい叫び声がともの男を覚ました。
「ムルタよ、なにか」他の青年はささやいて訊いた。
「女だ」
 もう一度二人が見た時もうその人はいなかった。
「精の人たちの一人かも知れない」ムルタは落ちつかない眼を樹のやみからやみに迷わせて言った。
「お前にそれがどうして分る、ムルタ」
「女はすっかり緑色だった、緑の影のように、眼には緑の火が見えた」
「お前は、それが或る人だとは思わないか」
「だれ」
「アルダナ」
 そう言うと、青年は立ち上がってその姿が見えたところまで急いで駈けて行った。そこには誰もいなかった。地を見詰めながら彼は心に迷った、月のひかる露の中に小さい足跡を見つけたのであった。
 それから後は二人とも野山のすがたや音のほかに何も見ききしなかった。
 日の出る時二人の青年は立ち上がった。ムルタは両腕をあげて、やがて両膝で跪《ひざまず》いて首を下げた。
「なぜ禁じられたことをするのだ」つれのデルミッドが言った「あそこに死と向い合っているカアルを忘れたか、もしお前が『光』をおがんでいるところを聖者モリイシャが見つけたら、カアルにしたとおりにお前にもするだろう」
 ムルタが何とも返事をしないうちに彼等はもう一度カアルの声をきいた――しゃがれ乾からびた声ではあったが、前夜の月の昇るとき彼等をうごかした声より弱ってはいなかった。
 そのうつろの樫のなかの墓から物に包まれたような声でうたった歌はこうであった。

 剣のごとく白く黄金に、みそらより流るる熱く黄なる光よ
イオナの島のむろに祈る僧らのための火焔となれ
コラムの血管に流るる火となれ、彼の教うる地獄は彼のものとなれ
ロックリンの人々の篝火《かがりび》となれよ、彼等かの島を見いだして亡ぼし尽さんために
我このことを悟りぬ、古き神々は死なざる神々
ほかのすべては眼に見ゆるもの、夢、狂気《まよい》、おちゆく潮
おお太陽、神々のみおや、いのちのあるじ、みさかえあれ
剣も槍もなが光線《ひかり》、なが息はほろぼしつくす火
このアランの島に悲しみと死とわざわいをおくれ
われにその身を与えしアルダナをのぞくすべての者に
すべての者の一人一人に死を送れ、剣によらず徐《しず》かに来る死の呪いを送れ
岩むろのモリイシャよりわが刑の執行者ムルタとデルミッドまで

 その時ムルタは樫の樹にちかく寄って叫んだ。
「おおカアル、変りはないか」なんの返事もなかった。
「まだお前は生きているか、それとも死んだお前の霊が、その樹のうつろで歌っているのか」
「わたしの手足は死んでゆく、しかしまだわたしは死なない」太陽を讃美したあの包まれた声が返事した。
「わたしはニサの子ムルタの子ムルタだ、お前のためにわたしの心が痛む、カアルよ」
 これには何の返事もなかった。頭の上の枝にいるひよどりが羽根をひろげて、あらい美しい調子の歌をうたったが、やがて木の葉のみどりの暗黒に矢のように飛び下った。
「僧であったカアルよ、どちらが真実か、キリストか、われわれの祖先の神々か」
 静寂。三本ほどはなれた樫で喙木鳥《きつつき》がその柔らかい樹の皮に嘴《くちばし》をつき刺して、ことこと叩いた、また叩いた。
「カアル、お前はいま死のうとしているのか、その静かな暗やみで」
 ムルタは耳を立てて聞いたが、何の音もしなかった。森の上に一つの声が渡った、夢のようにあたたかく、胸のように白く、風もない光明《あかるみ》のひろ場を横ぎって涼しいみどりの蔭から蔭へと、山鳩が侶《とも》よぶ声であった。
 歌うたう人であったムルタはそのとき矢の届くぐらい離れている苔のなかの小さな沢に生えている蘆《あし》の方に歩いて行った。彼はそこに生えている去年の蘆のますぐに茶色がかった一本を抜いて、ナイフでそれに七つの孔をあけた。それからもっと細い蘆を一本とって中に通して、心をきれいに掃除した。
 やがて彼は樫の樹の根にもどって来た。デルミッドは自分たちの為にのこされてあった食物をくい始めていたが、ムルタを見まもりながら黙って坐していた。
 ムルタはからっぽの蘆を脣《くちびる》にあてて吹きはじめた。それは彼が曾《かつ》て山地で羊を守っている女から聞かされた寂しいやさしい調子であった。つぎに彼は島人の葬礼の歌を吹いた、海の洗いながす音と岸による波のさざめきとがその歌にきこえていた。つぎに彼は愛の歌を吹いたが、それには心と心の動悸がきこえ、溜息もきこえた、そしてはるかに遠い鳥の歌かとおもわれる声が揚がり又さがり聞えた。
 彼が吹き止めた時、うつろの樫から声がした――
「わたしのために死の歌を吹いてくれ、ニサの子ムルタの子ムルタよ」
 ムルタは微笑してもういちど愛の歌を吹いた。
 しばらく何の音もなかった。ムルタはまた蘆を吹いた、鷺《さぎ》が七つ目の螺旋の線にとび上がるほどの時間であった。それで彼は吹きやめると、蘆を投げすてて緑色の中にながめ入りながら真直ぐに立った。眼に不思議な輝きがあった。彼はうたった。

 ああカアルよ、あらき山辺にわれ声をきく
そは血のしたたる剣の声かと我はおもう
たが剣ぞ、われは知る、そは「殺す者」の剣
「死」とよぶ彼の剣、そのうたう歌はわれよく知る
「ああアルトの子カアルはいずこ、わが脣の渇きをいやす杯なる彼はいずこ」と
ああカアルよ、海のつめたき灰いろの中よりわれ声をきく
ふかき水底に溺れしものの声のごとき波に包まれし声をわれは聞く
たが声ぞ、われは知る、そは「影」の声
「墓」とよばるるものの声、そのうたう歌をわれは知る
「ああアルトの子カアルはいずこ、わが冷たさをあたたむる彼はいずこ」と
ああカアルよ、森の暑きみどりの中よりわれ声をきく
われはひそかなる足音をきく、目しいてつまずく人のごとき足音を
かのひそかなる足音は誰、われは知る、そは「目しいたる者」のひそかなる歩み
「静寂《しじま》」とよばるるものの歩み、そのうたう歌はわれ知る
「ああアルトの子カアルはいずこ、わが静かさを濡らす涙もてる彼はいずこ」と

 その後はただ静かであった。ムルタは歩み去った。彼はデルミッドの側に坐して食い始めたが、互に何も言わなかった。デルミッドは彼の方を見なかった、ムルタが死の歌をうたって、影がその上にあったから。デルミッドは苔の上を見つめていた、もし彼が眼をあげたら、「殺す者」または「影」または「目しいたる者」を見るかも知れないと思った。
 午が来た。たれ一人そこに近づくものはなかった。はるかに影のように遠くに見える人の顔もなかった。時々、鹿の蹄が羊歯《しだ》のなかに音をさせた。どこかの樫の根もとの穴に子狐たちの唸りあう声はあつさの中の赤い脈のようであった。時に、青い空の清らかな深淵を北の方にたゆたう鷹があった、南の空のしろい光の中には、長い間をおいて時々あらわれる渦巻く泡のような斑点が見えた、それは塘鵝《ぺりかん》が眼に見えぬ空気の絶項から見えない海にとび下りてゆく時であった。
 午後はみなぎる陽の光に眠っていた。青い葉はひかりが浸み透って黄金になった。日の入る時山鳩の群が松の中から飛び立って西の空のかがやきに輪を描いて、やがて見えなくなった、紫とばら色のほのお、水泡の白とうす桃色のほのおのように。
 たそがれが銀のように来た。露は羊歯の葉の上にも苔のくぼみにも光っていた。谷から谷にカクウがよび交した。星は、森のみどりの暗がりから輝く仔鹿の眼のように、やさしく現われた。月はまたも松と樫のひがしの方の葉のおもてを雪のように光らせた。
 だれもここに来る人はなかった。日のまひる時ムルタがうたった時から以後何の物音もその樫の樹から聞えなかった。日のしずむ頃ムルタは立ち上がり、一心に、ふとい幹に倚って聴いた。彼の敏い耳は樹皮の下を掘っている甲虫のかすれ音をきいた。ほかには物音もしなかった。
 夜に入る時、護りの人たちは遠くの饗宴のごたごたした騒音を聞いたが、それは消えてゆく風のように消えてしまった。うすい雲のヴェールが月をかくして、低い雨をふくんだ闇が地の上にかかっていた。
 こうして二日目の日と二日目の夜はすぎた。
 わびしい護りの時が過ぎて漸くあかつきが来た時、ムルタは立って石で樫の樹を打った。
 彼は呼んだ。
「カアル、カアル」
 音もなかった、うごく音も、溜息もなかった。
「カアル、カアル」
 ムルタはデルミッドを見た。やがて彼は自分の思いを友の眼に見つけた時その側に戻って来た。
「目しいた者がここに来たのだろう」デルミッドはひくい声して言った。
 ひる頃、雷が鳴って炎熱が激しかった。羽根のうごく物音が森の下生いのしげみに満ちていた。
 デルミッドは深い眠りにおちた。雷鳴が山々に旅し去ってやわらかい雨が降って来た時ムルタは樫の樹にのぼって行った。彼はうろの中を見おろしたが何も見えなかった。見えたものはただみどりのほの暗さで、その暗さは濃い色のかげとなり、そのかげはやがて暗黒《やみ》となった。
「カアル」ムルタはささやいた。
 烟《けむり》のように立ちのぼる物音の息ひとつ聞えなかった。
「カアル、カアル」
 雨の静かなしぶきが木の葉の中にすべり落ちてぱらぱらと音をさせた。陸に飛んで来る海鳥のさけび声が森の上をかなしく渡って来た。鉄床に物を打ちつけるような遠い響きが森のあなたのはげ山から響いて来た。
「カアル、カアル」
 ムルタは真すぐな枝を折って葉をむしりとり、ふとい方の端を下にむけてうろの中に真すぐに落した。
 枝はにぶい柔らかい音をさせて落ちた。ムルタはきいていたが、何の音もしなかった。
「静かにねむれ」彼は小さい声で言って、枝のあいだを滑り降りてデルミッドの側に戻った。
 夕方、雨が止んで涼しい青やかな新しさが空気の中に来た。星は樹々のいただきから上の方に風に吹きまくられた木の実のように見えた。火焔の脈を打たせて満ちたる円《まろみ》の月は世界のつち色の岸から岸にとやわらかい光の潮を敷いていた。
 まもりの人たちの見張は終った。ムルタとデルミッドは立ち上がり言葉もなく谷間を歩いて行った、二人のかすかな足音が羊歯《しだ》をうごかした、籔《やぶ》のしげみを出ると、松の中の路になった。二人の影はやがて人目もない荒野のなかに消えた。あとには、児に身の重い牝鹿が露ふかい羊歯の中に横になって、静かな落ちつきを見いだした。

 真夜中、島の全体がみなぎる月光の下にあった時、カアルは身うごきした。
 三日三晩彼はその暗いうろの中に、真すぐに、死んだ獣の口に刺さった槍のように、押し込められていた。彼は三たび死んだ、ひもじさで死に、渇きで死に、疲れで死んだ。ひもじさがその苦痛の極度になって忘れられ、渇きがその苦痛の中に消えて、疲れがもう堪え切れなくなった時に、彼は死苦にふるえた。
「わたしは死ぬ」カアルはうめいた。
「死ぬな、白い人よ」何処からともなくその囁きが浮いて来た、それは樫の重い壁がその声を出したのかとも思われた。
「わたしは死ぬ」彼はたえだえに言ったが、あの世の物と見える脣《くちびる》には泡がうき出した。それで最後の力が失せた。もう彼は頭を肩の上に持ち上げていることも出来ず、足もその身を支えなかった。打たれた鹿のように彼は沈んだ。やせ切って疲れ切っていたので、枯葉の落ちこんだ狭い隙間に滑りこんで、暗黒の底に溺れて横たわった。
 これは死か、それとも足の辺に冷たい風が吹いているのか、彼は考えていた。重い痛みを感じながら足をうごかして見た、足は樹に触らなかった――足に感じた冷たさは苔の露らしかった。狂わしい希望が心に浮んだ、彼は弱った手でさぐりながら、もっともっと深く割目に沈み込んだ。
「わたしは死ぬ、とうとう、いま、死ぬ」
「死ぬな、白い人よ」前と同じ低いやさしい囁きが聞えた、巣に寝た鳥に動かされた木の葉の音のように。
「助けて、助けて」カアルは死のしずくにしゃがれた声で言った。
 その時ひどく高いところから暗黒が彼の上に落ちかかった、彼はその空しい淵にゆられて真空の空のあなたこなたに吹き迷わされる鳥の羽のようであった。
 暗やみが消え去った時、カアルは仰向けに寝て、何の苦痛もなく静かに息していた。いま彼は不思議な好い気持の涼しさと安息とを味った。どこに来たのだろう、彼はあやしんだ。曾《かつ》てコラムやモリイシャが説いたその地獄に来たのか、琴手エイが唄にうたった極楽に来たのか、人間が永久にわかくて、胸に歓びがあり心に平和があり日夜尽きぬよろこびの神の国に来たのか、灰のように渇き熱していた口がどうしてこんなに涼しくなったのだろう、脣《くちびる》がどうしてこんなに甘苦い香でうるおっているのだろう、木の実のつゆけがまだ残っているように。
 彼は眼をつぶって考えていたが、やがて眼をあいて上を見あげた。遠くに、青ぐろくまるい天は彼のよく知っている星のいくつかの群をやどしていた。フィンの剣かざりの向うにあるのは剣と帯の星ではないか、あっちの方にきらきらかたまっているのはアルダイの足の砂と呼ばれる星の群ではないか、あの跳ぶような光に青くも浅黄にも光っているのは神々に歌をうたっているブリヂッドの琴の星ではないか。
 一つの影がまぼろしの上を横ぎった。冷たい手が彼の目にのせられた。それは休息と慰安とをもたらした。彼は血管に血のうごくのを感じた、心臓が脈を打った、咽喉がうずくようだった。
 その時カアルは自分に立つ力のあるのを知って、一生懸命に疲労を捨てるようにして、やっと立ち上がった。
 彼は低い声を出した。白いうつくしい女が側にいた。
「アルダナ」その言葉が脣を出るが早く、彼は自分のいま見ている女がピクトの女でないことを悟った。
 女は微笑した。その微笑のために彼の心が歓びに満された。女の眼の光は月の火のようにふしぎに輝いていた。きゃしゃな体はうす青いみどりで、木の葉のようにつややかで、つち色した茶色のやわらかい髪は肩からたれ下がってふくらんだ胸の上まで落ちていた、両方の胸はちょうど死者を葬った小さな青い土の山が二つあるように見えた。彼女はその美しさよりほかに身を被う物は持たなかった、月光が上衣のようにその身のまわりにはあったが。
「青い木の葉のようだ、青い木の葉のようだ」
 カアルは幾度か口のなかで繰り返した。
「あなたは、夢か」彼は驚きをいい現わす言葉を知らず、ただ簡単に訊いた。
「いいえ、カアル、わたしは夢ではありません、わたしは女です」
「女? いや……… しかし…………あなたはほかの女たちのような肉体を持っていない。あなたの胸にかがやく月のひかりがあなたのうしろの苔にも光っているではないか」
「あわれなカアル、この世界には、厚い肉体を持って日の光のなかに動いている女や男のほかに別の女や男がいないと思うのですか」
 カアルは驚いて女を見つめた。
「カアル、わたしは精の人たちの一人です。わたしたちは森に住むもの、わたしは森の女です」
「うつくしい人、あなたは名がありますか」
「わたしはデオンといいます」
「よい名だ。青い息とはあなたによく合った名だ。ここにあなたの仲間の人たちはいますか」
「ごらんなさい」そう言って彼女は身を屈めて月光の中の白い花の露を取ってカアルの目につけた。
 カアルは見廻した。彼はそこいらじゅうに背のたかい美しいうす青い生命がうごいているのを見た、あるものは雲から来る雨のように、すばやく、静かに、樹から出て来た、あるものは、影のように、静かに、すばやく、樹の中にはいって行った。みんな美しく見えた、背がたかく、ほっそりと、しなやかで、月光のなかをあちこち動いていた、しなの樹の葉のようにうす青い緑で、和らかに光って、かがやく眼と土のような茶色の柔らかい髪とを持って。
「この人たちは誰ですか」カアルは恐れを以てささやいた。
「この人たちはわたしの国のもの、森の人、精の人たちです」
「あの人たちは樹から出てくる、蜂の巣から出て来る蜂のようにあの人たちは出はいりしている」
「樹? 森のわたしたちにあなた方は樹という名を与えています。わたしたちは樹です」
「あなたが樹ですか、デオン、どうして樹なのでしょう」
「あなたの体には生命があります。体がねむる時、あるいは生命の液が胸や頭に廻らなくなり血が冷えて凍った水のようになる時、その生命はどこに行くのでしょう、あなたの体には生命がありますか」
「あります。わたしは生命を感じる」
「肉はあなたの体で、樹がわたしの体です」
「それなら、樹の青い生命があなたなのですか」
「わたしが樹の青い生命です」
「この人たちは」
「この人たちはわたしと同類のものです」
「男と見えるもの、女と見えるもの、その子供と見えるのもいる」
「あの人たちはわたしと同じ身の上のものです」
「中には青じろい花の冠をつけているものも見える」
「あの人たちは恋をしています」
「あなたは冠をつけていない、それほどに美しいあなたが」
「あなたも冠をつけていませんね、カアル、あなたの顔はうつくしいけれど。あなたの体はわたしには見えません、あなたは殻を身につけているから」
 カアルは低い笑い声を出して自分の衣服を取りはずした。彼の体の真白さはそこらの月光の中の花のようだった。
「こんな物でわたしの邪魔はさせない。もうわたしは人間ではない、もしあなたとあなたの仲間の人たちがわたしを森の精の一人として受けいれてくれるなら」
 そこでデオンは呼んだ。たくさんの緑の影が樹々の中からすべり出て来た、ほかにも、花の冠をして、手に手を取って谷間を渡って来るのもあった。
 女は白樺の枝に起る風の歌のように、やさしい木の葉の囁き声を立てて言った。
「御らんなさい、青い生命の人たち、ここに人間がいます。わたしがこの人の生命を助けたからこの人の生命はわたしのものです。わたしは月の光る露をこの人の目につけてやったから、この人はわたしたちが物を見るとおりに見ることが出来ます。この人はわたしたちの中の一人となりたいと言います、樹の体は持っていず、赤い上に真白い肉の体を持ってはいますが」
 一本の古い樫の樹からここへ抜け出して来た一人がカアルを眺めて言った。
「人間、お前は精の仲間になりたいか」
「なりたいと思います、たしかに、たしかに、そう思います、樹のなかの聖者よ」
「お前は我々の掟を学び守ってくれるか、その掟の第一は、夕やみが来ない前には決して自分の樹から動かないこと、又、あかつきが灰色の脣をあけてすべての影を飲み去る前に自分の樹に帰って来ること、それを守るか」
「わたしは今はもう青い生命の掟のほかの掟を知りません」
「よし、お前は我々の仲間になれ。お前の同類がお前を殺そうとして捨てたそのうつろの樫をお前の家としろ。なぜあの人たちはお前にそんなひどい事をしたのか」
「わたしが新しい神々を信じなかったから」
「ここにいる青い女がカアルと呼んでいる人間よ、お前の神々はどういう神々か」
「わたしの神々は『日』と『月』と『風』と、ほかにもあります」
「お前はケイールの名をきいたことがあるか」
「ありません」
「ケイールは青い世界の神だ。その神が夢を見ると、その夢は春となり夏となり林檎の秋となる。その神が夢もなくてねむる時は、冬である」
「その地《つち》の神よりほかにあなた方に神はないのですか」
「ケイールは我々の神だ。そのほかに神はない」
「もしそれがあなた方の神なら、わたしの神です」
「デオンの眼を見れば、お前を愛しているのが分る、人間の子カアル、この女をお前の愛するものとしてくれるか」
 カアルは女を眺めた。心が光のなかに泳いだ。
「もしデオンがわたしを愛するものとしてくれるなら、わたしの愛を与えましょう」
 精の女は進み出て、ちょうど緑の樹の枝のようにやわらかく彼の体に触れた。
 カアルは彼女を抱いた。女の体はすずしい柔らかい手触りであった。彼はこの女が月光にうつる幽霊でないことを悦んだ。胸にあてられた女の胸の打つ音は音楽のように彼の耳を満した。
 デオンは身を屈めて露ふかい白い花を摘んで、カアルのために花の輪を編んだ。カアルも白い花を摘んで彼女の髪の黄ろい波のために水泡のように白い冠を編んでやった。
 それから、手に手を組んで、二人は月の照る谷間を徐《しず》かに歩いて行った。そこにもここにも華奢な青い生命が樹から樹にうごき廻っていたが、誰ひとり二人の路をさまたげるものはなかった。二人は空中に光のそよぐ岸を撫でる木の葉のさざなみのような不思議なうつくしい歌をきいた、カアルの眼にみどりの輝きが出て来た。生命の青い火が彼の血のなかに燃え出した。

 キリストの聖者モリイシャは、彼が世にあるうちから聖島とよばれていたピイクの岸にちかい洞窟内に住んでいたが、かなりの老齢になるまで生きていた。
 まだモリイシャの髪が沼地の木綿のように真白く変らないうちに彼は異教のピクト人か或いは荒々しいロックリンの海賊どもの手で殺されてしまったという事を伝える人もある。しかし、それは事実ではない。モリイシャの最後はそんなものではなかった。蝙蝠《こうもり》のたましいのような心を持った一人の僧がその真実を伝えるのを恐れて、その事実は神のほまれとなるべき事ではあったけれど、彼はオガアムにも羊皮にもモリイシャが十字架を持って北の島に行って殺されたという嘘のはなしを書き伝えたのであった。
 毎年その日になると、モリイシャはエクタの族のエクタの砦そとの山地の森にあるうつろの樫の樹まで出かけて行った。そこで彼はむかし自分の友であった青年カアルの話や、悪魔がどうしてその青年に打ち勝ったかということや、その樫の樹でその島国の青年がどんな死に方をしたかということまでながながと語りきかせた。それからモリイシャと一緒に行った人たちとで平和の聖歌をうたった、みんなは僧カアルの運命を好い気味がって、中にはその大木を切り割って焼いて罪人の身の塵を四方の風に飛ばしてしまった方がいいと言うものもあったが、これはモリイシャが固く止めた。
 ひるまの明るい時刻のあいだその樹に眠っていたカアルのためには樹が焼かれないことは幸であった。彼の眠りは深かったから、月夜の潮のような人声もきよい御歌《みうた》の揚がりさがりもまだ一度も彼の耳に聞えたことはなかった。
 しかし、カアルがその樹のうろに投げ入れられてから多くの年月を経た或る年のこと、モリイシャは炎熱に疲れ切っていたので、日の入る時分そこにやって来た。聖者はかすかに低い笑い声が、花の香りのようにほのかに、樹から出てくるのを聞いた。
 だれもほかには聞いたものがなかった。モリイシャはそれを悦《よろこ》んだ。彼はしずかに島人と帰って行った。
 月が松の上に昇って砦の中のみんなが眠った頃、モリイシャはまた起きてそうっと森に出て行った。
 モリイシャは死の樹のほとりに来て、樹の皮に耳を押しつけて、ながく聴いていた。何もきこえなかった。
 モリイシャの声はとし老いて震えてはいたが、その声がながい旅路に疲れて羽ばたきする鳥のように天に達した時、天の御堂にはわかわかしく新しく聞えた。彼は聖い御歌《みうた》をうたった。
 その時、また、彼は低い嘲けるような笑い声をきいた。モリイシャは一歩退いて震えた。
「カアル」と叫んだモリイシャの声は交り合った風のようであった。
「おおモリイシャ、わたしはここにいます」モリイシャのうしろに声がした。
 老いたるクルディ僧は矢に刺されたように振りむいた。眼の前に、月光のなかに白く、はだかで、一人の人が立っていた。
 はじめモリイシャには分らなかった。その人はたいそう背が高く強そうで、おどろくばかり美しかった。赤っぽい髪のながい捲毛がしろい肩にかかって、眼はつややかに、鹿の眼の和らかい優しい光を持っていた。身を動かすのがすばやく静かだった。山にすむ鹿もこれほど美しくはないだろう。
 徐《しず》かに、ようやく、僧のカアルが精のカアルの中に戻って来た。モリイシャはむかし知っていた彼を見ることが出来た、青い焔《ほのお》が黄ろい焔のなかに見分けられるように。
「おおモリイシャ、わたしはここにいます」
 声はふしぎな声だった、かすかな遠い調子で、それでも、それは生きてる人の声だった。
「お前は霊か、カアル」
「わたしは霊ではありません。わたしは僧のカアルだったが、今はカアルという男です」
「どうしてお前は地獄から出て来られた、もう死んでしまって、朽ちくずれた骨の塵がこの樫のうろに残されているお前が……」
「地獄はありません」
「地獄はない」聖者モリイシャは呆れ果てて精の男を見つめていた。
 もう一度モリイシャが繰りかえした。
「地獄はないと、そんなら、天もないか」
「地獄はあります、天もあります、しかし、コラムやあなたの教えた地獄と天ではありません」
「キリストは生きておいでなさるか」
「わたしは知りません」
「マリヤは」
「わたしは知りません」
「父なるおん神は」
「わたしは知りません」
「お前の脣《くちびる》の言葉はいつわりだ。カアル、たしかにお前は、神の御心により、直きに死ぬべきものだ。わたしはお前の塵を四方の風に飛ばして、お前の骨を火にやきつくし、お前が在ったところには杭をうち込ませよう」
 もう一度カアルが笑った。
「モリイシャ、あなたの洞にお帰りなさい。あなたはまだたくさん学ぶべき事があります。あなたが人を裁く前に、あなたの神のなされ方を考えて御らんなさい、神もあなたと同じように物を知らないかどうかと。あなたに不思議を見せて上げましょう。しかし、先ず、これだけ聞かして下さい、わたしの愛したアルダナはどうなりましたか」
「あの女は呪われていた、あの女は信じることが出来なかった。あの女が罪に生んだ子をエクタが十字架のしるしの水を灌《そそ》ぐために引きとってしまった後、あの女は国境の山を越えて北の方に出かけて行った。その土地で、アルギイルのピクト人の年わかい王に会った。王はあの女を恋いして自分の城に呼んだ。その後、王はまた北の方の城にあの女をつれて行って女王とした。王もあの女も、あの女の生んだ二人の王子も、今は丘の青い草の下にいる、そしてその人たちの霊は地獄にいる」
 カアルはあざけるように、低く、笑った。
「それは楽しい地獄に違いありません、モリイシャ、しかし、まず……あなたに不思議を見せて上げます」
 そう言って彼は屈んで、白い花から月の光ってる露をとって老人の目につけた。
 モリイシャは見た。
 モリイシャは見て、不思議にも恐しくも思った。そこいらじゅうに青い生命が満ちていた、うつくしい綺麗な姿で、優しい眼をした、和らかく輝いている愛らしい人たちであった。彼等は樹から樹へ滑りあるき、野の蜂が巣から飛び出すように、樹の幹から出たりはいったりしていた。
 カアルの側に一人の女が立っていた。たそがれの星のような眼をしたうつくしい人だった。体じゅうが緑色の焔のように見えたが、それでも彼女の胸が高まったり低くなったりするのを老僧はみとめた、土のいろの黄ろい髪の軽いかたまりが風の息でその胸の上にそよいで、手はカアルの手と握り合っていた。その女のうしろには優しい美しい人たちがいた、それは、男や女のうつくしい姿をした人たちで、ただ霊魂は持たないが、生を愛し死を憎むことははかない人間族と同じことであった。
「カアル、この婦人はたれか」聖者は顫《ふる》えながら聞いた。
「これは、わたしの愛する、デオン、わたしの生命を救ってくれた者です」
「その人たちは……樹の中から出たみどりの霊とも見えず、われわれ人間とも見えないその人たちは」
「わたしどもの愛の子供たちです」
 モリイシャは恐しそうに身を引いた。
 カアルは両手を上げて、よろこばしい声で叫んだ。
「おお緑色の生命の火、世界の脈、愛、青春、夢のなかの夢」
「ああ残念だ、残念だ、あの日なぜお前を殺し切らなかったろう、お前の肉に火をつけ、お前の身に杙《くい》を刺し込む――それがお前に相当した刑であったろうに。カアル、曾《かつ》ては僧であり今は森の中の精であるカアル、わたしはお前に神の呪いをかける、お前とお前の精の女と、お前らの子供の上に、恐れと悲しみの呪いをかける、ひるも呪われ、夜も呪われてあれ」
 そう言ううちに聖者は頭がふらふらして前にのめって草の上にばったり倒れてしまった。それ切り彼は何も見ず聞かず、朝日の昇る時まで何も知らなかった。
 黄ろい太陽の光が顔にあたってモリイシャは起き上がった。どこにも誰の顔も見えなかった。ゆうべ見た沢山の人たちの足あとを露の中に見ようとしたが、何の跡も見えなかった。
 聖者は跪《ひざまず》いて祈った。
 はじめの祈りに、神は聖者の心に平和を満した。つぎの祈りに、神はその心に驚きを満した。第三の祈りに、神はひそやかに囁きたまうた。モリイシャは悟った。あたらしい智慧を得てひくくされた心で彼は立った。老眼に涙があふれていた。モリイシャはうつろの樫の樹の下にゆき、その樹と、その樹にねむる精の男と、その男の愛する精の女と、その二人のなかの愛の子らとを祝福した。彼は前にかけた呪いをとり去って、神の造ったすべての物を祝福した。
 浜にゆく長いながい道をモリイシャは夢みる人のように歩いて行った。その眼には驚きと神秘があった。
 浜辺で彼は小舟に乗った、その舟は、矢の行く距離を三つほど合せた遠さの海にある聖島から毎日この浜辺にモリイシャをのせて来るのであった。
 舟の中に一人の子供が小石をもてあそんでいた。それはアルダナの子アルダンであった。
「カアルの子アルダンよ」聖者は疲れ切ってはいたが、不思議な新しいよろこびに満ちて言いはじめた。
「カアルとは、だれ」子供が訊いた。
「お前の父だった人だ。アルダン、きかしておくれ、お前はもしや森の中で何かが動くのを見たことはないか――樹の中から出るみどり色の人たちを見たことはないか」
「わたしは青い光が樹から出るのを見たことがあります」
 モリイシャは首を垂れた。
「アルダン、お前はわたしの子になれ、そして大きくなったらば、お前の好きな道を撰べ、だれにもお前の邪魔をさせるな」
 その夜モリイシャは眠れなかった。波のよせ返る大きな音を聞いて、彼は洞窟の口まで出ていった。月光の銀いろのかがやきの中に海豹《あざらし》どもが跳ねているのを彼は長いあいだ見ていたが、やがて呼んだ。
「おお、海の海豹ども、ここにおいで」
 その声に毛皮を着た泳ぎ手どもは近よって来た。
「おおモリイシャ聖者よ、またいつものように我々を呪うためか」大きな黒い海豹がなげいて言った。
「おお黒い海豹よ、お前にもお前の仲間にも呪いをかけるためではない、わたしはお前たちに祝福と平和を与えようと思う。わたしは向うの山の森の中で樹の精のむすめに依って神の不思議を教えられた。いま、わたしはお前がたに白きキリストの物語をきかせよう」
 そこで、その月光の中で、ながれる潮に膝までひたして聖者は愛の福音を説いた。海豹どもはその大きな茶いろの眼に歓びの涙をためて岩の上にねそべっていた。
 モリイシャが語り止めた時、海豹どもはみんな影ふかい海にすべり入った。その夜よもすがらモリイシャは神秘の深い智を以てカアルと精の女のことを考えてこの世界のふしぎさに驚いていた時、海豹どもが月の光にあちこち跳ねながら「我らもまた神の子である」と互に呼びあっている声をきいた。
 あかつき方、一つの影が洞窟にはいって来た。モリイシャの顔には白い霜がおかれた。少年アルダンが目さめた時、モリイシャは静かに冷たかった。ただ白い脣《くちびる》がうごいていた。いま新しく昇ったばかりの渦まく金の焔のまるみした太陽の線が海からななめに射して来た、その光線がうごいている脣の上にやさしく落ちた。やがて脣は静かになった。そこに見えた微笑を見てアルダンはその脣に接吻した。

底本:「かなしき女王 ケルト幻想作品集」ちくま文庫、筑摩書房
   2005(平成17)年11月10日第1刷発行
底本の親本:「かなしき女王 フィオナ・マクラオド短編集」第一書房
   1925(大正14)年発行
入力:門田裕志
校正:匿名
2012年7月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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