ふいと見た夢のように私は幾度もそれを思い出す。私はその思い出の来る心の青い谿《たに》そこを幾度となくのぞき見してみる、まばたきにも、虹のひかりにも、その思い出は消えてしまう。それが私の霊の中から来る翼ある栄光《ひかり》であるか、それとも、幼い日に起った事であったか、よく見極めようとして近よる時――それは、昼のなかに没するあけぼのの色のように、朝日に消える星のように、おちる露のように、消えてしまう。
しかし私は忘れることが出来ない。けっして、けっして、青草の静かさが私の眼の上にある時まで、あの夕方を忘れはしない。
子供の涙はにがい。私たちが空しい言葉でいい現わすすべてを子供は湧きあふれる苦痛のしずくに依って語る。その日私は悲しかった。見なれた羊歯《しだ》の葉の中にも不思議な争闘がひそんでいるように見え、今まで友として見ていた樹々のなかに風のひゅうひゅう鳴る音も自分のそばを流れる水のながれも恐怖の声にきこえ、草の上のしずかな光さえ火焔がもえるかと見えた。
暗いかげに隠れている激しい人たちが私の頼りなさを見ているらしかった。暗黒が来た時、私は正体の知れない恐しいものに喰われて死んでしまいそうな気がした。窓のなかのやさしい蝋の灯のような眼つきをした母が、いつになっても救いの手をのばして来てくれないのかとも思った。
足音が聞えて来たので、私はすすり泣きを止めた。あわれな小さい幼児の私は、野の方から来る人をおそるおそる眺めた。それは背が高くやせて疲れ果てた人で、顔に長い髪がかかっていた。暗い野原の月にひかる小屋のように蒼じろい顔をして、声は低く優しかった。その人の眼を見た時に私はすこしも恐れを感じなくなった。私はその眼の灰いろの影のなかに母の持つような優しみを見いだした。
「お前だったか、アルトよ」そう言ってその人は身を屈めて私を抱きあげてくれた。
もう怖くはなくなった。私の眼のしめりもなくなっていた。
「何を聴いていたのか、小さい子」彼は、私が身をよりかからせて熱心に自分でも分らない何かを聴こうとしているのを見て、私に訊いた。
「私にも分りません、ただ向うの森の中の方で音楽がきこえるように思ったのです」
たしかに私はそれを聞いた、月の夜に生れたという笛ふきカルム・ダルの笛の音もこれには勝るまいと思われて、夢の中で弾く歌のように、ふしぎな優しい音であった。
「小さいアルトよ、今夜お前は私と一緒に来ないか」その人は私の額に脣をつけて私の心に落ちつきを与えながら言った。
「行きますとも」私は言った。
それから私は眠ってしまった。
私が目を覚ましたところは「まぼろしの谷」の向うの端にある猟人の小舎だった。
そこには荒けずりの長い卓があって、その上にいくつかの皿と大きな乳入れと小麦の菓子を積みのせた皿と、その側に、らい麦の黒パンとがあった、私は目を大きくして見つめた。
私を連れて来た人が言った「小さいアルトよ、お前は私を知っているかい」
「きっとあなたは王子でしょう」はにかみながら私が言った。
「そうだ、ほんとうにそうなのだ。私は平和の王と言われている」
「だれがこれを食べるのです」私が訊いた。
「これは最後の晩餐だ」その人はやっと聞えるほどの低い声で言った「私は毎日死ぬ、死ぬ前に、十二人が私と一緒にパンを裂くのだ」
そのとき私が気がついたのは、卓の片側に六つの粥の皿があり片側にも六つあった。
「王子よ、あなたのお名は」
「ヤソ」
「それだけしかあなたのお名はないのですか」
「私はヤソ・マノク・デイ――神の子ヤソ――と呼ばれている」
「あなたはこの家に住んでいらっしゃるのですか」
「そうだ、おさなごアルトよ、私はお前の眼に接吻して、どんな人が私と一緒に食事をするか見せて上げよう」
ヤソと呼ばれた人は私の目に接吻した、私は見ることが出来た。
「お前は今後見えなくなることはないだろう」彼がささやいた、そのためか私の一生の長い月日のあいだにも私の霊は歓びを感じている。
私が見たのは珍らしい不思議な光景だった。十二人の人たちが卓のまわりに腰かけて、みんなが愛の眼を以てヤソを見ていた。その人たちはふだん私が見なれた人たちとはまるで違っていた。あら野の朝のように、みんなが背の高い髪の黄ろいすばらしい人たちだった、ただ、その中に一人、髪が黒く、その身のまわりにも狂わしい眼の中にも影を持っている人がいた。
みんなが輝く霧の衣につつまれているように見えた。その人たちの眼は霧のなかに透く星のようだった。
一人一人が自分の前にある粥の皿に匙を入れたりパンをちぎったりする前に三本の梭《ひ》を卓の上に置いた。
私は長いことじいっと一同を見ていた、ヤソが私を抱いていたから、怖いとは思わなかった。
「この人たちは誰だと思う」ヤソが私に訊いた。
「神のお子たちでしょう」おさなごの私は自分のいう言葉を知らないで言った。
ヤソは微笑した。彼は卓の十二人に向いて言った「見よ、見よ、このおさなごの方がお前たちの中の最も賢いものよりも賢い」
そう言われて一同は、一人を除いて、みんな歓びの微笑をした、影にいた一人は笑わなかった、その人は私の方を見た、その眼に私は山かげの二つの暗いさびしい沼を思い出した、底にいる水魔の恐れにまっくろく見える沼を。
「この人たちは誰でしょう」私は惶《おそ》れのために震えながら訊いた。
「小さい子アルトよ、これは十二人の織手だ」
「何を織るのでしょう」
「この人たちは私の父のために織っている、私がその機《はた》なのだ」
私はヤソを見た、機は見えなかった。
「あなたは王子ヤソではありませんか」
「私は生命の機だ、わが子アルトよ」
「みんなの織手のそばにある三本の梭は何でしょう」
その梭の上におさない眼を向けた私はその時気がついた、梭は生きた不思議な梭で、見る間にいろいろに変って見えた。
「三本の梭は、美と不思議と神秘と名づけられている」
やがて神の子ヤソは腰かけて十二人と話をした。黒い眼からそっとぬすみ見していた彼の一人を除いては、みんな類いなく美しかった、一人を見るごとに、その一人がほかのどの人よりも美しく思われた、しかし私はヤソの両わきに腰かけていた二人を最も好ましくながめた。
ヤソが言った「この子はこの世の人たちの中で夢みる人となるだろう、お前たちが何者であるか、この子にきかしてやれ」
ヤソの右に坐していた人が私の方を見た。私はその人の眼つきと輝く髪と、その人の衣の青ぞらのような火焔とを嬉しく思いながら、低い声で笑ってその人の方に身をよせかけた。
「私は、歓びの織手」その人が言った。そう言ってその人は、美と不思議と神秘と名づけられた三本の梭を取り上げて無限の形を織り出した、織り出されたものはその室を出て、歓びの優しい歌をうたいながら、青い世界に出て行った。
生命のヤソの左にいた一人が私を見た、私の心が躍った。その人もやっぱり輝く髪を持っていた、その眼の中のかがやきのために、どんな色の眼であるか私には分らなかった。
「私は、愛の織手、私はヤソの胸のそばにいます」その人が言った。
そう言ってその人は美と不思議と神秘と名づけられた三本の梭《ひ》を取って無限の形を織り出した、織り出されたものは、歓びの優しい歌をうたいながら、その室からそとの青い世界に出て行った。
子供の私は、その時、もうほかの人たちを見たいと思わなかった。歓びの織手と愛の織手にまさる美しい人たちがあろうとは思わなかったから。
しかし、その時不思議なやさしい歌が私の耳にきこえて、すずしい柔かい手が私の頭にのせられた、そして、いま口をきいた美しい気だかい人が言った「私は、死の織手」
やさしい美しい囁きごえで私の心をしずめ落ちつかせた人が言った「私は、眠りの織手」そう言って二人は美と不思議と神秘の梭を取って織った、二人のどちらが優って美しいか私には分らなかった「死」は「愛」のようにも見え「夢」の眼のなかに私は「歓び」を見たのであった。
この二人が織り出した美しく不思議な形を私はいつまでも見ていた――眠りの織手が織り出したのは星の眼をした「静」の無限の形であり、死の織手が織り出したのはひそやかな火焔の心を持つ美しい「暗《やみ》」であった――そのとき私は十二人のなかの別の二人の声をきいた。その声は麦の中に笑う風の笑い声にも似て、麦の上の黄金の光りにも似ていた。一人が言った「私は、情の織手」そう言った時その人は同時に「愛」であり「歓び」であり、「死」であり「生」でもあるように思われて、私は両手をその人にさし伸べた。
「私は『力』を与える」そう言ってその人は私を抱いて接吻してくれた。ヤソが再び私を膝の上にのせてくれた時、情の織手は隣りに坐している真しろい栄光《ひかり》の姿の方に向いた、ヤソは私にあの人こそは世界の秘密の、若さの織手であると教えてくれた。その時どこから来たともなく空の鳥のうた声がきこえて、二人は美と不思議と神秘の梭《ひ》を取っておのおのが無限の形を織り出し、その室からそとの青い世界に出て行かせた、永久にいつまでも人間の耳に歓びのたのしい歌をうたわせるために。
「おおヤソ、この人たちはみんなあなたの兄弟ですか、みんながあなたのように美しく、あなたの胸にある白い火がみんなの眼に燃えていますから」私が訊いた。
ヤソが物を言わないうちに、室内は音楽に満たされた。私はよろこびでいっぱいになった、その楽の音はそれ以来私の耳に残っていて、永久に消えないだろうと思う。音楽ときこえたのは、ヤソが十二人と呼んだその星の眼の使たちの七人目と八人目と、九人目十人目の人々の息の音だった。その人たちの名は、笑いの織手、涙の織手、祈りの織手、それから、平和の織手であった。おのおのが立って私に接吻した。「小さいアルトよ、私たちはいつまでもお前と一緒にいるよ」みんなが言った。私はその中の一人の手を取って叫んだ「おお美しい人、どうぞ私の母である人とも一緒にいてやって下さい」すると、涙の織手のささやきが私にきこえた「おわりまで、一緒にいるよ」
私はおどろいて見上げると、その人は同じようで刻々に変る梭を取り上げて無限の形を織った。この「涙」のたましいが室を出て行った時、よろこばしい優しい歌をうたっているのは私の母の声であると思った、私はその声によびかけた。
うつくしい霊は振り返って私に手を振って見せた「小さいアルトよ、私は決してお前から遠くは行かない」そう言って溜息した、木の葉に降る夏の雨のように「しかし、いま私は女たちの心のなかの私の家にゆく」
まだ其処には十二人の中の二人がいた。生命のヤソの顔を見つめていた一人の顔を見た時の私のよろこび! その人は美と不思議と神秘の三本の梭《ひ》を上げて、その室内に「虹」の靄《もや》を織り出した、その栄光《ひかり》の中にかの影を持つ十二人目の人さえも眼をあげて微笑するのが見えた。
「おお、あなたの名は」私はうつくしく気高い人に両手をさし伸べて訊いた。その人は聞いていなかった、彼は自分の織った栄光の靄の中からなおいくつもいくつもの「虹」を織り出して、青い世界に送り出していた、永久に人間の眼の前にあらせるために。
「この人は、望みの織手」神の子ヤソが囁いた「この人は、ここにいるみんなの人のたましいなのだ」
私は十二人目の人の方に向いて言った「眼に影を持つ気だかい人よ、あなたはどなたですか」
その人は答えなかった、室内に沈黙が来た。そこにいるすべてが、歓びの織手から平和の織手に至るまでみんな首を垂れて何も言わなかった、ただ望みの織手が一つの虹を織り出した、虹はうごいて十二人目のさびしい織手の心にはいって行った。
「おお神の子ヤソよ、この人は誰ですか」私がささやいた。
「この子に答えてやれ」ヤソが言った、その声がかなしかった。
その時、織手が答えた。
「私は、……」彼は言いかけたが、ヤソが彼を見た、その人はあとを言わなかった。
平和の王子が言った。
「小さいアルトよ、この人は、永久にわたしに裏切る人だ、ユダと呼ばれて、恐れの織手なのだ」
十二人目である悲しい影ある眼のその人は自分の前にある三本の梭を取り上げた。
「おおユダよ、この梭はなに」私は熱心に訊いた、三本の梭は黒かったから。
ユダは返事しなかった、十二人の中の一人が前に身をのり出してユダを見た。それは死の織手であった。
死の織手が言った。
「おお小さいアルトよ、恐れの織手なるユダの三本の梭は神秘と失望と墓と名づけられている」
やがてユダは立って室を出て行った。ユダの織り出したものがユダの影のごとく一緒について行った、それは一つ一つに暗い世界に出て行って「影」が人間の頭にも心にも入りこみ、平和の王ヤソに裏切りするのであった。
ついに、ヤソは立って私の手をひき室を出た。もう一度ふり返って見ると、そこには十二人の中のただひとり望みの織手だけがい残って、歓びの織手から教えられた狂わしく美しい歌をうたっていた、彼は虹の靄《もや》の中に坐してうたいながら、太陽のようにまぶしく輝く栄光《ひかり》を織っていた。
そこで私の目がさめた、私は母の胸によりかかっていた、母は私の上に涙をおとしながら、祈りに脣《くちびる》をうごかしていた。
底本:「かなしき女王 ケルト幻想作品集」ちくま文庫、筑摩書房
2005(平成17)年11月10日第1刷発行
底本の親本:「かなしき女王 フィオナ・マクラオド短編集」第一書房
1925(大正14)年発行
※訂正注記に際しては、底本の親本を参照しました。
入力:門田裕志
校正:匿名
2012年5月23日作成
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