桜の園 ――喜劇 四幕―― アントン・チェーホフ ——神西清訳

人物
ラネーフスカヤ(リュボーフィ・アンドレーエヴナ)〔愛称リューバ〕 女地主
アーニャ その娘、十七歳
ワーリャ その養女、二十四歳
ガーエフ(レオニード・アンドレーエヴィチ)〔愛称リョーニャ〕 ラネーフスカヤの兄
ロパーヒン(エルモライ・アレクセーエヴィチ) 商人
トロフィーモフ(ピョートル・セルゲーエヴィチ)〔愛称ペーチャ〕 大学生
ピーシチク(ボリース・ポリーソヴィチ・シメオーノフ) 地主
シャルロッタ(イワーノヴナ) 家庭教師
エピホードフ(セミョーン・パンテレーエヴィチ) 執事
ドゥニャーシャ 小間使
フィールス 老僕《ろうぼく》、八十七歳
ヤーシャ 若い従僕
浮浪人
駅長
郵便局の官吏
ほかに客たち、召使たち

 ラネーフスカヤ夫人の領地でのこと

     第一幕

いまだに子供部屋と呼ばれている部屋。ドアの一つはアーニャの部屋へ通じる。夜明け、ほどなく日の昇る時刻。もう五月で、桜の花が咲いているが、庭は寒い。明けがたの冷気である。部屋の窓はみなしまっている。

ドゥニャーシャが蝋燭《ろうそく》をもち、ロパーヒンが本を手に登場。

ロパーヒン やっと汽車が着いた、やれやれ。何時だね?
ドゥニャーシャ まもなく二時。(蝋燭を吹き消す)もう明るいですわ。
ロパーヒン いったいどのくらい遅れたんだね、汽車は? まあ二時間はまちがいあるまい。(あくび、のび)おれもいいところがあるよ、とんだドジを踏んじまった! 停車場まで出迎えるつもりで、わざわざここへ来ていながら、とたんに寝すごしちまうなんて……。椅子《いす》にかけたなりぐっすりさ。いまいましい。……せめてお前さんでも起してくれりゃいいのに。
ドゥニャーシャ お出かけになったとばかり思ってました。(耳をすます)おや、もういらしたらしい。
ロパーヒン (耳をすます)ちがう。……手荷物を受けとったり、何やかやあるからな。……(間)ラネーフスカヤの奥さんは、外国で五年も暮してこられたんだから、さぞ変られたことだろうなあ。……まったくいい方《かた》だよ。きさくで、さばさばしててね。忘れもしないが、おれがまだ十五ぐらいのガキだった頃《ころ》、おれの死んだ親父《おやじ》が――親父はその頃、この村に小さな店を出していたんだが――おれの面《つら》をげんこで殴りつけて、鼻血を出したことがある。……その時ちょうど、どうしたわけだか二人でこの屋敷へやって来てね、おまけに親父は一杯きげんだったのさ。すると奥さんは、つい昨日のことのように覚えているが、まだ若くって、こう細っそりした人だったがね、そのおれを手洗いのところへ連れて行ってくれた。それが、ちょうどこの部屋――この子供部屋だったのさ。「泣くんじゃないよ、ちっちゃなお百姓さん」と言ってね、「婚礼までには直りますよ(訳注 怪我をした人に言う慰めの慣用句)。……」(間)ちっちゃなお百姓か。……いかにもおれの親父はどん百姓だったが、おれはというと、この通り白いチョッキを着て、茶色い短靴《たんぐつ》なんかはいている。雑魚《ざこ》のととまじりさ。……そりゃ金はある、金ならどっさりあるが、胸に手をあてて考えてみりゃ、やっぱりどん百姓にちがいはないさ。……(本をぱらぱらめくって)さっきもこの本を読んでいたんだが、さっぱりわからん。読んでるうちに寝ちまった。(間)
ドゥニャーシャ 犬はみんな、夜っぴて寝ませんでしたわ。嗅《か》ぎつけたんですわね、ご主人たちのお帰りを。
ロパーヒン おや、ドゥニャーシャ、どうしてそんなに……
ドゥニャーシャ 手がぶるぶるしますの。あたし気が遠くなって、倒れそうだわ。
ロパーヒン どうもお前さんは柔弱でいかんな、ドゥニャーシャ。みなりもお嬢さんみたいだし、髪の格好《かっこう》だってそうだ。駄目《だめ》だよ、それじゃ。身のほどを知らなくちゃ。

エピホードフが花束をもって登場。背広を着こみ、ひどくギュウギュウ鳴る、ピカピカに磨《みが》きあげた長靴をはいている。はいってきながら花束を落す。

エピホードフ (花束をひろう)これを庭男がとどけてよこしました。食堂に挿《さ》すようにってね。(ドゥニャーシャに花束をわたす)
ロパーヒン ついでにクワスをおれに持ってきとくれ。
ドゥニャーシャ かしこまりました。(退場)
エピホードフ 今ちょうど明け方の冷えで、零下三度の寒さですが、桜の花は満開ですよ。どうも感服しませんなあ、わが国の気候は。(ため息)どうもねえ。わが国の気候は、汐《しお》どきにぴたりとは行きませんですな。ところでロパーヒンさん、事のついでに一言申し添えますが、じつは一昨日《いっさくじつ》、長靴を新調したところが、いや正真正銘のはなし、そいつがやけにギュウギュウ鳴りましてな、どうもこうもなりません。何を塗ったもんでしょうかな?
ロパーヒン やめてくれ。もうたくさんだ。
エピホードフ 毎日なにかしら、わたしには不仕合せが起るんです。しかし愚痴は言いません。馴《な》れっこになって、むしろ微笑を浮べているくらいですよ。

ドゥニャーシャ登場、ロパーヒンにクワスを差出す。

エピホードフ どれ行くとするか。(椅子にぶつかって倒す)また、これだ。……(得意げな調子で)ね、いかがです、口幅ったいことを言うようですが、なんたる回《めぐ》り合せでしょう、とにかくね。……こうなるともう、天晴《あっぱれ》と言いたいくらいですよ! (退場)
ドゥニャーシャ じつはね、ロパーヒンさん、あのエピホードフがあたしに、結婚を申しこみましたの。
ロパーヒン ほほう!
ドゥニャーシャ どうしたらいいのか、困ってしまいますわ。……おとなしい人だけれど、ただ時どき、何か話をしだすと、てんでわけがわからない。聞いていれば面白《おもしろ》いし、情《じょう》もこもっているんだけれど、ただどうも、わけがわからなくってねえ。あたし、あの人がまんざら厭《いや》じゃありませんし、あの人ときたら、あたしに夢中なんですの。不仕合せな人で、毎日なにかしら起るんです。ここじゃあの人のこと、「二十二の不仕合せ」って、からかうんですよ。……
ロパーヒン (きき耳を立てて)さあ、こんどこそお着きらしいぞ……
ドゥニャーシャ お着き! どうしたんでしょう、あたし……からだじゅう、つめたくなったわ。
ロパーヒン ほんとにお着きだ。出迎えに行こう。おれの顔がおわかりかなあ? なにせ五年ぶりだから。
ドゥニャーシャ (わくわくして)あたし倒れそうだわ。……ああ、倒れそうだ!


二台の馬車が表口へ乗りつける音。ロパーヒンとドゥニャーシャは急いで出て行く。舞台空虚。つづく部屋部屋で、ざわめきがはじまる。ラネーフスカヤ夫人を停車場まで迎えに行った老僕《ろうぼく》フィールスが、杖《つえ》にすがりながら、あたふたと舞台をよこぎる。古めかしいお仕着せに、丈の高い帽子をかぶり、何やら独りごとを言っているが、一言も聞きとれない。舞台うらのざわめきは、ますます高まる。「さあ、こっちから行きましょうよ……」という声。ラネーフスカヤ夫人、アーニャ、鎖につないだ小犬を連れたシャルロッタ、以上みな旅行服で、――それから外套《がいとう》にプラトークすがたのワーリャ、ガーエフ、ピーシチク、ロパーヒン、包みとパラソルを持ったドゥニャーシャ、いろんな荷物をかかえた召使たち――みなみな部屋に通りかかる。

アーニャ ここを通って行きましょうよ。ねえママ、この部屋なんだか覚えてらっしゃる?
ラネーフスカヤ (嬉《うれ》しそうに、なみだ声で)子供部屋!
ワーリャ なんて寒いんだろう、手がかじかんでしまったわ。(ラネーフスカヤに)あなたのお部屋は、白いほうもスミレ色のほうも、ちゃんと元のままですわ、お母さま。
ラネーフスカヤ 子供部屋、なつかしい、きれいなお部屋……。わたし子供のころ、ここで寝たのよ。……(泣く)今でもわたし、まるで子供みたいだわ。……(兄とワーリャに、それからまた兄にキスする)ワーリャはちっとも変らないのね、相変らず尼さんみたいね。ドゥニャーシャも、わかりましたよ。……(ドゥニャーシャにキスする)
ガーエフ 汽車は二時間もおくれた。え、どうだい? なんてざまだろう?
シャルロッタ (ピーシチクに)わたしの犬は、クルミも食べるのよ。
ピーシチク (呆《あき》れ顔で)へえ、こりゃ驚いた!

アーニャとドゥニャーシャのほか、一同退場。

ドゥニャーシャ やっとお帰りになった、……(アーニャの外套と帽子をぬがせる)
アーニャ わたし途中四晩も眠れなかったの……今じゃもう、こごえあがっちまったわ。
ドゥニャーシャ あなたがたがお発《た》ちになったのは、大斎《たいさい》のころ([#ここから割り注]訳注 復活祭に先だつ七週間の精進期間で、年によって違うが、およそ二月初めから三月初旬までの間になる[#ここで割り注終わり])で、まだ雪がふって、ひどい凍《い》てつきようでしたが、今はまあどうでしょう? 可愛いお嬢さま! (笑って、アーニャにキスする)待ち遠しかったですわ、大好きな、可愛《かわい》いお嬢さま。……早速ですけど、あたしお話がありますの。一分間だって待てませんの……
アーニャ (だるそうに)また、なんの話……
ドゥニャーシャ 執事のエピホードフが、復活祭のあとで、あたしに結婚を申込みましたのよ。
アーニャ いつも、おんなし事ばかり……(髪を直しながら)わたし、ピンをみんな落してしまったわ。……(疲れきって、よろよろしている)
ドゥニャーシャ どう考えたらいいか、困ってしまいますわ。あの人、あたしを愛してますの、とても愛してますの!
アーニャ (自分の居間のドアをのぞきこみ、なつかしそうに)わたしの部屋、わたしの窓、まるで旅行なんかしなかったみたい。わたし、うちにいるのね! あした朝おきたら、すぐ庭へ出てみよう。……ほんとに、ちょっとでも寝られたらよかったのにねえ! 道中ずっと眠らずじまい、なんだかとても気にかかって。
ドゥニャーシャ 一昨日《いっさくじつ》、トロフィーモフさんがいらっしゃいました。
アーニャ (嬉しそうに)ペーチャが!
ドゥニャーシャ お風呂場《ふろば》で寝てらっしゃいますよ、あすこに陣どってしまってね。お邪魔になっちゃ悪いからな、ですって。(懐中時計を出して見て)あのかた、お起しするといいんですけど、ワルワーラさま([#ここから割り注]訳注 ワーリャの正式の名[#ここで割り注終わり])がいけないと仰《おっ》しゃるものですから。お前、あの人を起すんじゃないよ、って。

ワーリャ登場、バンドに鍵束《かぎたば》をさげている。

ワーリャ ドゥニャーシャ、コーヒーを早く……。お母さんがコーヒーをご所望だからね。
ドゥニャーシャ はい、ただ今。(退場)
ワーリャ よかったわ、みんな無事でお着きで。あんたも、やっとまたお家《うち》ね。(優しくいたわりながら)わたしのいい子が帰ってきた! べっぴんさんが帰ってきた!
アーニャ ずいぶん辛《つら》かったわ、わたし。
ワーリャ 察しるわ!
アーニャ わたしがここを発ったのは、御受難週間([#ここから割り注]訳注 大斎期の第五週[#ここで割り注終わり])で、まだ寒いころだったわ。シャルロッタったら途中のべつしゃべりどおしで、手品までして見せるの。なんだってあんた、シャルロッタなんか付けてくれたの……
ワーリャ だって、あんたひとりで旅へ出すわけにも行かないじゃないの、アーニャ。十七やそこらで!
アーニャ パリに着いたら、あすこも寒くって、雪だったわ。わたしのフランス語ときたら、凄《すご》いものでしょう。ママは五階に部屋をとっていてね、わたしがあがって行くと、誰《だれ》だかフランス人の男だの、女だの、ちっちゃな本をもった年寄りのカトリックの坊さんだのが、つめかけていて、部屋じゅうタバコの煙でいっぱい、そりゃ厭なの。わたし急にママが可哀《かわい》そうになって、あんまり可哀そうだもんだから、ママの頭を抱いて、ぎゅっと両手でしめつけたなり、放せないの。ママはそれからいつも甘ったれて、泣いてばかりいたわ……
ワーリャ (涙ごえで)もういいわ、もう言わないで……
アーニャ マントン([#ここから割り注]訳注 南フランス、ニースに近い保養地[#ここで割り注終わり])の近くのご自分の別荘も売ってしまったし、ママにはもう、なんにも残っていないの、なんにも。わたしだって一コペイカもなくなってしまって、やっとこさで帰ってきたのよ。だのにママったら、ちっともわからないの。駅の食堂へはいると一ばん高い料理を注文するし、ボーイのチップは一ルーブリずつなのよ。シャルロッタも同じなの、おまけにヤーシャまでが、ちゃんと一人前とるの、見ちゃいられないわ。ヤーシャって、ほら、ママのボーイよ。それも一緒に連れてきたの……
ワーリャ 見たわ、いやなやつ。
アーニャ で、どうなの、その後? 利子は払えた?
ワーリャ それどころじゃないわ。
アーニャ 困るわね、どうしましょう。……
ワーリャ 八月には、この領地が競売になるわ……
アーニャ ああ、どうしよう。
ロパーヒン (ドアから覗《のぞ》いて、牛のなき真似《まね》をする)モオ・オ・オ……(去る)
ワーリャ (涙ごえで)ええ、こうしてやりたい……(拳固《げんこ》でおどす)
アーニャ (ワーリャを抱いて、小声で)ワーリャ、あの人あんたに申込みをして? (ワーリャ、否《いや》というしるしに首を振る)だってあの人、あなたを愛してるのよ。……おたがい打明けたらどうなの、何を二人とも待ってるの?
ワーリャ わたし思うのよ、これは結局どうにもならない話だって。あの人は仕事が多いから、わたしどころじゃない……見向きもしないのよ。いっそどこかへ行ってしまってくれるといいんだけど。あの人の顔、見るのがつらいわ。みんな、わたしたちの結婚のうわさをして、お祝いまで言ってくれるけれど、ほんとうは何もありゃしない。夢みたいなものなのよ。……(調子をかえて)あんたのブローチ、蜜蜂《みつばち》に似ているわ。
アーニャ (悲しそうに)これ、ママが買ってくれたの。(自分の部屋へはいって、快活な子供っぽい調子で)あたしパリでね、軽気球に乗ったわ!
ワーリャ わたしのいい子が帰ってきた! べっぴんさんが帰ってきた!

ドゥニャーシャは、コーヒー沸かしをもってすでに戻《もど》ってきており、 コーヒーを煮ている。

ワーリャ (ドアのそばに立って)わたしね、アーニャ、こうして一日じゅう家《うち》のことであくせくしながらいつも空想しているの。あんたをお金持の人のところへお嫁にやれたら、わたしも安心がいって淋《さび》しい僧院にこもれるわ。それからキーエフへ……モスクワへと、ずっと聖地めぐりをして暮すの。……聖地から聖地へめぐって行くの。きっと、すばらしいわ! ……
アーニャ お庭で鳥がないている。今なん時?
ワーリャ とっくに二時は回ったはずよ、もう寝たらいいわ、アーニャ。(アーニャの部屋へはいりながら)きっとすばらしいわ!

ヤーシャが、膝掛《ひざか》けと旅行用の信玄袋を持って登場。

ヤーシャ (舞台を横ぎりながら、いんぎんに)こちらを通っても宜《よろ》しいでしょうか?
ドゥニャーシャ まあ、見ちがえるようだわ、ヤーシャ。あんた、外国ですっかり立派になって。
ヤーシャ ふむ。……どなたでしたっけ?
ドゥニャーシャ あんたがここを発った時は、あたしまだこんなだったわ……(床からの高さを手で示す)ドゥニャーシャよ、フョードル・コゾエードフの娘よ。覚えていないのね!
ヤーシャ ふむ。……可愛いキュウリさん! (あたりを見回し、彼女を抱く。彼女はキャッと叫んで受け皿《ざら》を落す。ヤーシャすばやく退場)
ワーリャ (ドアの敷居で、不興げな声で)また何かしたの?
ドゥニャーシャ (涙ごえで)お皿を割りました。……
ワーリャ そりゃいい前兆ね。
アーニャ (自分の部屋から出てきながら)ママに言っとかなくちゃいけないわ、ペーチャが来ているって……
ワーリャ わたし、あの人を起さないように言いつけたの。
アーニャ (考えこんで)六年まえに、お父さまが亡《な》くなって、それから一月《ひとつき》すると弟のグリーシャが、川で溺《おぼ》れたんだわ。可愛い七つの子だったのに。ママは、もう辛抱《しんぼう》がならなくなって、出てらしたのだわ。……あとも振返らずに、出てらしたんだわ。……(身ぶるいする)わたしママの気持よくわかるの、それがママに通じたらばねえ! (間)あのペーチャ・トロフィーモフは、グリーシャの家庭教師だったんだから、またお思い出しになるかも知れないわね……

フィールス登場。セビロに白チョッキのいでたち。

フィールス (コーヒー沸かしのところへ行き、心配そうに)奥さまは、こちらで召し上がるとおっしゃる。……(白手袋を両手にはめる)よいかな、コッフィーは? (ドゥニャーシャに向って、きびしく)これ! クリームはどうした?
ドゥニャーシャ あら、どうしましょう……(あたふたと退場)
フィールス (コーヒー沸かしのまわりをそわそわしながら)ええ、この出来そこねえめが……(ぼそぼそ独り言をいう)パリからお帰りになった。……旦那《だんな》さまもいつぞや、パリへおいでなすったっけな……馬車でな……(声を立てて笑う)
ワーリャ フィールス、お前なに言ってるの?
フィールス はい、何と仰《おお》せで? (嬉しそうに)奥さまがお帰りになりました! お待ち申した甲斐《かい》あって。これでもう、死んでも思い残すことはありませんわい。……(嬉し泣きに泣く)

ラネーフスカヤ夫人、ガーエフ、ピーシチク登場。ピーシチクは薄いラシャの袖《そで》なし胴着に、だぶだぶのズボンをはいている。ガーエフははいってきながら、両腕と胴とで玉突きをしているような仕草をする。(訳注 原書には示していないが、ロパーヒンもこのとき登場するらしい)

ラネーフスカヤ どうするんでしたっけ? ちょっとおさらいして……。黄玉は隅《すみ》へ! 空《から》クッションで真ん中へ!
ガーエフ 薄く当てて隅へだ! ねえお前、むかしはお前といっしょに、ほれこの子供部屋で寝たもんだが、今じゃわたしも五十一だ、なんだか妙な気もするがなあ……
ロパーヒン さよう、時のたつのは早いものです。
ガーエフ なんだって?
ロパーヒン いや、時のたつのは早い、と言ったので。
ガーエフ この部屋は、虫とり草のにおいがする。
アーニャ わたし、行って寝るわ。おやすみなさい、ママ。(母にキスする)
ラネーフスカヤ わたしの可愛い子。(娘の手にキスする)おまえ、うちに帰って嬉しいだろうね? わたしは、まだほんとのような気がしないの。
アーニャ おやすみなさい、伯父さま。
ガーエフ (彼女の顔と両手にキスする)ゆっくりおやすみ。なんてお前は、お母さん似なんだろう! (妹に)ねえリューバ([#ここから割り注]訳注 ラネーフスカヤ夫人の名リュボーフィの愛称[#ここで割り注終わり])お前もこの年ごろには、この子そっくりだったよ。

     アーニャは片手をロパーヒンとピーシチクに与え、自分の部屋へ引きとってドアをしめる

ラネーフスカヤ あの子すっかりくたくたなのね。
ピーシチク 道中がさぞ長かったでしょうからな。
ワーリャ (ロパーヒンとピーシチクに)どうなすって、皆さん? やがて三時ですよ、そろそろ紳士の体面をお考えになったらどうでしょう。
ラネーフスカヤ (笑う)お前、相変らずなのね、ワーリャ。(彼女を引きよせてキスする)このコーヒーを飲んだら、それでお開きにしましょうね。(フィールス、夫人の足もとに足載せのクッションを置く)ありがとうよ、フィールス。わたし、コーヒーが癖になってね、昼も夜も飲むんですよ。ありがとう、爺《じい》や。(フィールスにキスする)
ワーリャ ちょっと見てこよう、荷物がみんな来ているかどうか。……(退場)
ラネーフスカヤ ほんとに、ここに坐《すわ》っているのはわたしかしら? (笑う)わたし飛んで跳ねて、両手を振りまわしたい。(両手で顔をおおう)これが夢だったらどうしよう! わたし神かけて、生れ故郷が好きですの、まるで母親に甘えるような気持ですの。わたし汽車の窓から、とても見てはいられなくなって、泣いてばかりいましたわ。(涙ごえで)それはそうと、コーヒーを頂かなくてはね。ありがとうよ、フィールス、ありがとう、爺や。お前が達者でいてくれて、わたしほんとに嬉しいよ。
フィールス おとといでございます。
ガーエフ 耳が遠いんだよ。
ロパーヒン わたしはこれからすぐ、今朝の四時すぎに、ハリコフへ発たなければなりません。じつに残念です! ちょっとお目にかかって、お話ししたいこともあったのですが……。しかし、相変らずご立派ですなあ。
ピーシチク (息をはずませながら)むしろ器量があがられたくらいだ。……お召物もパリ好みでな……わしらなど、どだい目がくらんで、まともにゃ拝めんほどですわい……
ロパーヒン あなたのお兄上、このガーエフさんは、わたしのことを下司《げす》だ、強欲だと言われますが、そんなこと、わたしは一向平気です。なんとでも仰しゃるがいい。ただわたしの望むところは、あなただけは元どおりわたしを信用してくだすって、そのえも言われぬ、しみじみしたお眼《め》を、従前同様わたしに注いで頂きたいということです。いやはや、思いだしてもゾッとする! うちの親父《おやじ》は、あなたのお祖父《じい》さんやお父さんの農奴だった。ところがあなたには、ほかならぬあなたという人には、わたしはいつぞや一方ならぬお世話になったことがある、それでわたしは、一切をきれいに忘れて、あなたを肉親のようにお慕いしています……いや、肉親以上にです。
ラネーフスカヤ わたし、じっとしちゃいられない、とても駄目《だめ》……(ぱっと立ちあがって、ひどく興奮のていで歩きまわる)嬉《うれ》しくって嬉しくって、気がちがいそうだ。……わたしを笑ってちょうだい、ばかなんですもの。……なつかしい、わたしの本棚《ほんだな》……(戸棚にキスする)わたしの小っちゃなテーブル……
ガーエフ お前の留守のまに、乳母《ばあや》が死んだよ。
ラネーフスカヤ (腰をおろし、コーヒーを飲む)ええ、天国にやすらわんことを。知らせをもらいました。
ガーエフ それに、アナスターシイも死んだ。やぶにらみのペトルーシカは、うちから暇をとって、今じゃ町の署長のところにいる。(ポケットから氷砂糖の小箱を取りだし、しゃぶる)
ピーシチク わしの娘のダーシェンカが……よろしくと申しました……
ロパーヒン わたしはあなたに、何かとても愉快な、楽しい話がしたいのですが……(時計を出して見る)そろそろ発《た》たなければならんので、おしゃべりをしているひまがありません……でまあ、ごくかいつまんで申しあげます。すでにご承知のとおり、お宅の桜の園は借財のカタで売りに出ておりまして、八月の二十二日が競売の日になっています。しかし、ご心配はいりません、奥さん、どうぞ、ご安心ねがいたい、打つ手はあります。……そこでわたしの案をよく聴いていただきたいのですが! あなたの領地は、町からわずか五里のところにあって、しかもついそばを鉄道が開通しました。でもし、この桜の園と川沿いの土地一帯を、別荘向きの地所に分割して、それを別荘人種に貸すとしたら、あなたはいくら内輪に見積っても、年《ねん》に二万五千の収入をおあげになれるわけです。
ガーエフ 失礼だが、つまらん話だな!
ラネーフスカヤ あなたのお話、どうもよくわからないわ、ロパーヒンさん。
ロパーヒン つまり別荘人種から、三千坪に対して最低年二十五ルーブリの割で、地代をとり立てられるわけです。もし今すぐに広告なされば、このわたしが保証しますが、秋になるまでには一っかけらの空地も残さず、みんな借り手がつきますよ。早い話が万歳です、お家ご安泰というわけです。何しろ場所がらは絶好だし、川は深いし。ただ、もちろん、そこらをちょっと掃除したり、片づけたりはしなければなりません……例えばまあ、古い建物はみんな取払ってしまう。さしずめこの屋敷なんか、もうなんの役にも立ちませんからね。それに、古い桜の園なんかも伐《き》り払ってしまう……
ラネーフスカヤ 伐り払うですって? まああなた、なんにもご存じないのねえ。この県のうちで、何かしらちっとは増しな、それどころかすばらしいものがあるとすれば、それはうちの桜の園だけですよ。
ロパーヒン そのすばらしいというのも、結局はだだっぴろいだけの話です。桜んぼは二年に一度なるだけだし、それだって、やり場がないじゃありませんか。誰ひとり買手がないのでね。
ガーエフ 『百科事典』にだって、この庭のことは出ている。
ロパーヒン (時計をのぞいて)これといった思案も浮ばず、なんの結論も出ないとなると、八月の二十二日には、桜の園はむろんのこと、領地すっかり、競売に出てしまうのですよ。思いっきりが肝腎《かんじん》です! ほかに打つ手はありません、ほんとです。ないとなったら、ないのですから。
フィールス 昔は、さよう四、五十年まえには、桜んぼを乾《ほ》して、砂糖づけにしたり、酢につけたり、ジャムに煮たりしたものだった。それから、よく……
ガーエフ 黙っていろ、フィールス。
フィールス それからよく、乾した桜んぼを、荷馬車に何台も積んで、モスクワやハリコフへ出したもんでござんしたよ。大したお金でしたわい! 乾した桜んぼだって、あの頃《ころ》は柔らかくてな、汁気《しるけ》があって、甘味があって、よい香りでしたよ。……あの頃は、こさえ方を知っていたのでな……
ラネーフスカヤ そのこさえ方が、今どうなったの?
フィールス 忘れちまいましたので。誰《だれ》も覚えちゃおりません。
ピーシチク (ラネーフスカヤ夫人に)パリはいかがでした? ええ? 蛙《かえる》をあがりましたか?
ラネーフスカヤ ワニを食べましたよ。
ピーシチク こりゃ、どうだ……
ロパーヒン 今まで田舎といえば、地主と百姓しかいませんでしたが、今日《こんにち》では別荘人種というものが現われています。どんな町でも、どんな小っぽけな町でも、ぐるり一めん別荘が建っています。このぶんでいくと、二十年もしたら、別荘人種はどえらい数になるでしょう。今でこそあの連中は、バルコンでお茶を飲むのがせいぜいですが、あに図らんややがては、あの連中もめいめい三千坪の地面で、農作をはじめるかも知れない。そのあかつきには、お宅の桜の園も、豪勢な、ゆたかな、地上の天国になるでしょう。
ガーエフ (憤慨して)じつにくだらん!

    ワーリャ、ヤーシャ登場。

ワーリャ お母さま、電報が二通きていましたわ。(鍵束《かぎたば》をより分けて、音たかく古風な本棚をあける)ほら、これ。
ラネーフスカヤ パリからね。(ろくに読まずに、二通とも引裂く)パリとは、もう縁きりだわ……
ガーエフ ねえリューバ、知ってるかい、この本棚の歳《とし》をさ? ついこないだ、一ばん下の引出しを抜いて見たらばね、焼印で年号が押してあるんだ。ちょうど百年まえにできたんだよ。どうだい、ええ? さしずめ記念祭でももよおしたいところだよ。いくら命のないものにしろ、とにかくなんと言ったって、本棚にはちがいないんだからね。
ピーシチク (びっくりして)百年……。こりゃ、どうだ! ……
ガーエフ そう。大したもんさ。……(戸棚にさわってみて)親愛にして尊敬すべき戸棚よ! 今や百年以上にわたって、絶えず善と正義の輝かしい理想をめざして進んできた、君の存在に挨拶《あいさつ》を送る。みのり多き仕事へと招く君の無言の呼び声は、百年のあいだたゆむことなく、よく(涙ごえで)わが一家代々の人びとに、未来への勇気と信念を保持せしめ、われわれのうちに、善と社会的自覚の理想を涵養《かんよう》してくれた。(間)
ロパーヒン なるほど……
ラネーフスカヤ あなた相変らずねえ、兄さん。
ガーエフ (いささか照れて)右へ押して隅へ! 薄く当てて真ん中へスポリ!
ロパーヒン (時計を出して見て)どれ、行かなくては。
ヤーシャ (ラネーフスカヤ夫人に薬をさし出す)いかがでございます、丸薬をただ今召し上がっては……
ピーシチク 薬剤なんぞ、のむことはありませんよ、奥さん……毒にも薬にもなりゃしませんや。……まあひとつ……こっちへおよこしなさい。(丸薬を受けとり、手の平へあけて、ふっと吹いて口へほうりこみ、クワスでのみくだす)この通り!
ラネーフスカヤ (あきれて)まああなた、気でもちがったの?
ピーシチク 丸薬をすっかり頂きました。
ロパーヒン なんて大食《おおぐら》いだ! (一同わらう)
フィールス このかたは、復活祭の時おいでになって、キュウリを半たる召し上がりましたよ……(ぶつぶつ呟《つぶや》く)
ラネーフスカヤ 何を言ってるのかしら?
ワーリャ もう三年ごし、あんなふうにぶつぶつ言ってますの。わたしたち、馴《な》れてしまいました。
ヤーシャ ご老体ですからな。

シャルロッタが白い服をきて、舞台をよこざる。すこぶる痩《や》せた体を、ぎゅっと緊《し》めあげるような着こなしで、バンドに柄《え》つき眼鏡をさげている。

ロパーヒン どうも失礼、シャルロッタさん、まだご挨拶をしませんでしたね。(彼女の手にキスしようとする)
シャルロッタ (手を引っこめながら)あなたに手をキスさせたら、次には肘《ひじ》とおいでなさるでしょうよ、それから肩とね……
ロパーヒン どうも運が悪い、今日は。(一同わらう)シャルロッタさん、手品を見せてくださいよ!
ラネーフスカヤ ほんとにシャルロッタ、手品を見せてちょうだい!
シャルロッタ だめです。わたし眠いんですから。(退場)
ロパーヒン 三週間したらお目にかかります。(ラネーフスカヤ夫人の手にキスする)ではそれまで、ご機嫌《きげん》よう。もう時間です。(ガーエフに)ではまた。(ピーシチクとキスをかわして)さようなら。(まずワーリャと、ついでフィールス、ヤーシャと握手して)発ちたくないなあ。(ラネーフスカヤ夫人に)別荘の件をとっくりお考えになって、決心がおつきでしたら、ちょっとお知らせを願います。五万ルーブリは作って差しあげます。慎重にお考えください。
ワーリャ (腹だたしく)さ、いい加減でいらっしゃいよ!
ロパーヒン 行きます、行きますよ……(退場)
ガーエフ 下司め。いやこれは、ごめん《パルドン》。……ワーリャはあの男のところへ嫁《い》くんだっけな、あれはワーリャのムコさんだ。
ワーリャ おじさん、余計なこと言わないで。
ラネーフスカヤ なによ、ワーリャ、わたしそうなったら本当に嬉しい。あれは、いい人だもの。
ピーシチク 人物は、じつになんともはや……よくできた人で……。うちのダーシェンカも……やっぱりその、言っておりますよ……何やかやとな。(いびきをかいて、すぐまた目をさます)いや、それにしても奥さん……恐縮ですが貸してくださらんか……二百四十ルーブリだけ……あす担保の利子を払わにゃならんので……
ワーリャ (仰天して)だめよ、だめですよ!
ラネーフスカヤ わたし、ほんとに一文もないのよ。
ピーシチク なあに出てきますよ。(笑う)決して希望は捨てませんて。いつぞやも、いよいよ駄目だ、これで破滅だと観念したら、いや驚くまいことか、――鉄道がうちの地面を通ってね……金がころげこみましたよ。まあ見ててご覧なさい、また何かありますよ、今日でないまでも明日《あす》はね。ダーシェンカが二十万あてますよ……あれは富クジを一枚もってますでな。
ラネーフスカヤ コーヒーも飲んだから、これでもう休めるわ。
フィールス (ブラシでガーエフの服を払いながら、訓戒口調で)またズボンをお間違えになった。ほんとに困ったお人だ!
ワーリャ (小声で)アーニャは寝ているわ。(そっと窓をあける)もう日が出た、寒くないわ。ご覧なさい、お母さん、なんて見事な桜の木でしょう! すばらしいわ、この空気! ムク鳥が啼《な》いている!
ガーエフ (べつの窓をあける)庭いちめん真っ白だ。おまえ忘れやしないだろう、え、リューバ? この長い並木は、ずっとまっすぐ、まるで革帯をぴんと張ったように伸びて、月夜には白々と光るのだ。ね、覚えてるだろう? 忘れはしまいね?
ラネーフスカヤ (窓から庭を眺《なが》めて)ああ、わたしの子供のころ、清らかな時代! わたし、この子供部屋に寝て、ここから庭を眺めたものよ。あの頃は幸福が、毎朝わたしと一しょに目をさましたっけ。庭もこの通りだった、そっくりそのまま。(嬉しさのあまり笑う)真っ白、一めんに真っ白ね! ああ、わたしの庭! 暗い、うっとうしい秋や、寒い冬を越して、またお前は若々しく、幸福で一ぱいだわ。天使たちが、お前を見すてなかったのね。……ああ、わたしの胸や肩から、この重石《おもし》がとりのけられたら! わたしの過去を、きれいに忘れることができたら!
ガーエフ そう、だがこの庭も、借金のカタに売られてしまう。妙な話だが、仕方がない……
ラネーフスカヤ あら、ご覧なさい、亡《な》くなったお母さまが、庭を歩いてらっしゃるわ……白い服を召して! (嬉しさのあまり笑う)たしかにそうだわ。
ガーエフ どれ、どこに?
ワーリャ しっかりなすって、お母さん。
ラネーフスカヤ 誰もいない、気のせいだったわ。右手の、あずまやへ行く曲り角に、白い若木の垂れているのが、女の影に似てたんだわ……

[#ここから2字下げ]
トロフィーモフ登場。着ふるした学生服をきて、眼鏡をかけている。
[#ここで字下げ終わり]

ラネーフスカヤ ほんとにすばらしい庭! 花が真っ白にかさなって、あの青い空……
トロフィーモフ 奥さん! (夫人は彼をふりかえる)僕《ぼく》はちょっとご挨拶だけして、すぐ引きさがります。(熱烈に手にキスする)朝まで待つように言われたんですが、とても我慢がならないもんで……

   ラネーフスカヤ夫人、けげんそうに彼を見る。
[#ここで字下げ終わり]

 ワーリャ (涙ごえで)ペーチャ・トロフィーモフよ……
   トロフィーモフ ペーチャ・トロフィーモフ、お宅のグリーシャの家庭教師でした。……僕そんなに変ったでしょうか?

    夫人は彼を抱いて、静かに泣く。

ガーエフ (当惑して)もういい、もういいよ、リューバ。
ワーリャ (泣く)だから言ったじゃないの、ペーチャ、あしたまでお待ちなさいって。
ラネーフスカヤ わたしのグリーシャ……ああ坊や……グリーシャ……可愛《かわい》い子……
ワーリャ 仕方がないわ、お母さん。神さまの思召《おぼしめ》しですもの。
トロフィーモフ (やさしく、涙ごえで)いいですよ、もういいですよ……
ラネーフスカヤ (静かに泣く)あの子は死んだ、溺《おぼ》れてしまった。……なぜなの? なぜでしょう、あなた? (声をひそめて)あすこでアーニャが寝ているのに、わたし大きな声して……うるさいわね。……まあ、どうなすったの、ペーチャ? どうしてそんなに風采《ふうさい》が落ちたの? なんだってそう老《ふ》けなすったの?
トロフィーモフ 汽車のなかでも、どっかの百姓|婆《ばあ》さんに、“ねえ、禿《は》げの旦那《だんな》”って言われました。
ラネーフスカヤ あなたはあのころ、まるで子供で、可愛い学生だったわ。それが今じゃ、髪の毛も濃くはないし、眼鏡まで。ほんとに、今でも大学生なの? (ドアのほうへ行く)
トロフィーモフ きっと僕は、万年大学生でしょうよ。
ラネーフスカヤ (兄に、それからワーリャにキスする)さあ、行っておやすみなさい。……あなたも老けたわねえ、レオニード。
ピーシチク (夫人のあとにつづく)では、これでおねんねか。……ええ、この足痛風めが。今日は泊めていただきますよ。……とにかくわしは、ねえ奥さん、あすの朝にゃ……二百四十ルーブリというものが……
ガーエフ あいつ、自分のことばかりだ。
ピーシチク 二百四十ルーブリ……担保の利子を払うんでね。
ラネーフスカヤ お金なんかありませんよ、わたし……
ピーシチク 返しますからさ、奥さん。……わずかな金高じゃありませんか……
ラネーフスカヤ じゃいいわ、レオニードにたのみましょう。……出してあげて、レオニード。
ガーエフ よし、出してやろう。ポケットをあけて待ってるがいい。
ラネーフスカヤ 仕方がないじゃないの、出したげなさいよ。……この人いるんだから……。返すと言うんだし。

 ラネーフスカヤ夫人、トロフィーモフ、ピーシチク、フィールス退場。    

 ガーエフ、ワーリャ、ヤーシャ残る。

ガーエフ 妹は、まだ金をばらまく癖が直らんな。(ヤーシャに)いい子だから、も少しあっちい行ってくれ。お前はニワトリ臭くてかなわん。
ヤーシャ (冷笑をうかべて)そういう旦那は、相変らずでらっしゃるね。
ガーエフ なに? (ワーリャに)こいつ、なんと言ったのかね。
ワーリャ (ヤーシャに)お前のおっ母さんが村から出て来て、きのうから下《しも》の部屋で待ってるよ、ちょっと会いたいって……
ヤーシャ ちえっ、うるさいったらありゃしねえ!
ワーリャ まあ、いけ図々《ずうずう》しい!
ヤーシャ 余計なこった。あすでも来りゃいいのにさ。(退場)
ワーリャ お母さんは相変らずで、ちっともお変りにならない。勝手にさせておいたら、何もかも人にやってしまうわ。
ガーエフ そうさ……(間)何かの病気にたいして、あれもこれもと、いろんな薬をすすめるような時は、つまりその病気が不治だというわけだ。わたしも、脳みそをしぼって考えてるんだが、するといろんな手が浮ぶね。あんまり沢山あるもんで、つまり本当のところは、一つもないということになる。誰かの遺産がころげこめばよし、アーニャを大金持のところへ嫁にやるのもよし、それともヤロスラーヴリへ出かけて行って、伯爵《はくしゃく》夫人の伯母さんにぶつかってみるのも悪くはあるまい。伯母さんは、とてもどえらい金持だからな。
ワーリャ (泣く)どうぞそうなればねえ。
ガーエフ 泣かないでもいい。伯母さんはとても金持なんだが、われわれ兄妹《きょうだい》がお好きじゃない。だいいち妹が、貴族でもない弁護士|風情《ふぜい》にとついだものでな……

   アーニャがドアのところに現われる。

ガーエフ 貴族でもない男と結婚した上に、行状も大いに宜《よろ》しかったとは言えないからな。あれは立派な女だ。気立てもいいし、親切だ。わたしは大好きなんだが、それにしたって、いくらヒイキ目に見たところで、やはり不身持ちなことだけは認めないわけには行かん。こいつは、ちょっとした身ぶり一つにも出ているよ。
ワーリャ (ひそひそ声で)アーニャがドアのところにいますよ。
ガーエフ なんだって? (間)おや、おかしい、何か右の眼《め》にはいった……よく見えないぞ。それで木曜にね、地方裁判所へ行ったら……

    アーニャはいってくる。

ワーリャ どうして寝ないの、アーニャ?
アーニャ 寝られないの。だめなの。
ガーエフ 可愛い子。(アーニャの顔や手にキスする)わたしの子……(涙ごえで)お前は姪《めい》どころじゃない、わたしのエンジェルだ、わたしの一切だ。信じておくれ、わたしを、ほんとだよ……
アーニャ 信じてますわ、伯父さん。みんなあなたが好きで、尊敬しています……でもねえ、伯父さん、あなたは黙ってらっしゃらなけりゃいけないわ、ただじっと黙ってね。今しがたも、わたしのママのことを、なんて言ってらしたの? ご自分の妹じゃありませんか? なんだって、あんなことを仰《おっ》しゃるの?
ガーエフ なるほど、なるほど……(彼女の片手で自分の顔をおおう)まったく、厭《いや》になるよ! いやどうも、情けないこった! おまけに先刻《さっき》は、本棚《ほんだな》の前で演説をした……ばかばかしい! 済んでからやっと、ばかげていることがわかったんだ。
ワーリャ ほんとよ、伯父さん、黙ってらっしゃるに限るわ。黙っていれば、それでいいのよ。
アーニャ 黙ってらっしゃれば、ご自分だって気が休まるわ。
ガーエフ 黙るよ。(アーニャとワーリャの手にキスする)黙るよ。ただ、ちょっと大事な話があるんだ、木曜に地方裁判所へ行ったら、偶然、仲間が寄り合っちまってね、あれやこれやと四方山《よもやま》ばなしが出たなかで、どうやらその、手形で金を借りて、銀行の利子が払えそうなんだ。
ワーリャ どうぞそうなればねえ!
ガーエフ 火曜日に出かけていって、もう一度話してみよう。(ワーリャに)泣かないでもいい。(アーニャに)ママさんはロパーヒンに相談するだろうさ。あの男は、もちろん、いやとは言うまい。……それからお前は、ひと休みしたら、ヤロスラーヴリの伯爵夫人のところへ行ってみるんだな、お前の大伯母さんだからね。といった工合に、三方から運動すれば――もうこっちのものだ。利子は払えるさ、断じてね。……(氷砂糖を口へ入れる)わたしの面目なりなんなり、なんでもかけて誓うが、この領地は売られるものかね! (興奮して)ぼくの幸福にかけて誓う! さあ、この手が証人だ(片手を相手に差出す)――もしこの僕が、ずるずる競売へまで持ちこませたら、その時こそ僕を、やくざとでも恥しらずとでも言うがいい! ぼくの全存在にかけて誓うよ!
アーニャ (気持の落ちつきが戻《もど》ってきて、彼女は幸福だ)あなたは、なんていい人でしょう、伯父さま、なんて利口な! (伯父を抱く)やっと安心したわ! わたし安心して、とても幸福!

   フィールス登場。

フィールス (咎《とが》めるように)旦那さま、ばちが当りますぞ! いつおやすみになりますので?
ガーエフ ああ今、すぐだよ。お前はさがっていい、フィールス。なあに、こうなりゃもう、わたしは一人で着かえるよ。じゃ子供たち、お寝んねだよ。……詳しい話は明日《あす》のこととして、もう行って寝なさい。(アーニャとワーリャにキスする)わたしは八〇年代([#ここから割り注]訳注 一八八〇年代。ナロードニキー運動の退潮期[#ここで割り注終わり])の人間だ。……なるほど評判のわるい時代じゃあるが、それにしたって、こうは言えるな――信念のため僕だって、少なからぬ苦痛をなめてきたもんだとね。百姓が僕を好いてくれるのも、まんざら不思議はない。農民を知らなくてはいかん! そもそも彼らが、いかなる……
アーニャ また、伯父さま!
ワーリャ 伯父さん、黙ってらっしゃい。
フィールス (腹だたしげに)旦那さま!
ガーエフ 行くよ、行くよ。……二人とも寝なさいよ。トゥー・クッションで真ん中へ! みごとなやつをな……(退場。フィールスちょこちょこと後にしたがう)
アーニャ これで安心だわ。ヤロスラーヴリへなんか、わたし行きたくない。あのおばあさま、嫌《きら》いなんだもの。でも、とにかくホッとしたわ。ありがとう、伯父さま。(腰かける)
ワーリャ もう寝なくっちゃ。どれ行きましょう。そうそう、あんたの留守のまに、厭なことがあったの。あの古いほうの下《しも》部屋には、あんたも知ってのとおり、古手の召使ばかりいるでしょう、――エフィーミュシカだの、ポーリャだの、エフスチーグネイだの、カールプだのって。あの連中、どこかの浮浪人どもを引っぱりこんで泊めだしたのよ。わたし黙っていてやった。そこへ耳にはいったんだけど、わたしがあの連中にエンドウ豆ばかり食べさせるような、そんな噂《うわさ》を飛ばしてるの。しわん坊だから、ですってさ。……それがみんな、エフスチーグネイの仕業なの。……「よし、そんならこっちも覚悟がある」と、わたしは思ってね、エフスチーグネイを呼びつけた……(あくびをする)するとやって来たから……「なんてお前は、ええエフスチーグネイ……馬鹿《ばか》なんだい」って言ってね……(アーニャを見て)アーニチカ!……(間)寝ちまった。……(アーニャの腕をかかえて)さ、ベッドへ行きましょう。……さ、行くのよ! ……(連れて行く)わたしのいい子がおねんねだ! さ、行きましょう……(ふたり行く)

   はるか庭の彼方《かなた》で、牧夫が芦笛《あしぶえ》を吹く。トロフィーモフが舞台を通りかかり、ワーリャとアーニャを見て、立ちどまる。

ワーリャ しッ……このひと寝てるのよ。……寝てるのよ。さあ行きましょうね、可愛い子。
アーニャ (小声で、夢見ごこちで)とてもくたびれたわ、わたし……まだ馬車の鈴の音がしてるわ。……伯父さま……いい人ね、ママも、伯父さまも……
ワーリャ 行きましょう、アーニチカ、行きましょうね……(アーニャの部屋へはいる)
トロフィーモフ (感きわまって)おお、ぼくの太陽! ぼくの青春!

                             ――幕――

     第二幕

野外。とうに見すてられ、傾きかかった古い小さな礼拝堂がある。そのそばに井戸。もとは墓標であったとおぼしい大きな石が幾つか。古びたベンチが一つ。ガーエフの田舎屋敷へ通じる道が見える。片側に、高くそびえたポプラが黒ずんでいる。そこから桜の園がはじまるのだ。遠景に電信柱の列。さらに遥《はる》か遠く地平線上に、大きな都会のすがたがぼんやり見える。それは、よっぽど晴れわたった上天気でないと見えないのだ。まもなく日の沈む時刻。

シャルロッタ、ヤーシャ、ドゥニャーシャが、ベンチにかけている。エピホードフはそばに立って、ギターを弾いている。みんな思い沈んで坐《すわ》っている。シャルロッタは古いヒサシ帽をかぶり、肩から銃をおろして、革ひもの留金をなおしにかかる。


シャルロッタ (思案のていで)わたし、正式のパスポートがないもので、自分が幾つなのか知らないの。それでいつも若いような気がしているわ。まだ小娘だったころ、お父つぁんとおっ母さんは市《いち》から市《いち》へ渡り歩いては、見世物を出していたの、なかなか立派なものだった。わたしは|サルト・モルターレ《とんぼがえり》をやったり、いろんな芸当をやったものよ。お父つぁんもおっ母さんも死んでしまうと、あるドイツ人の奥さんがわたしを引取って、勉強させてくれた。そう。やがて大きくなって、家庭教師になった。だが一たい自分が、どこの何者なのか――さっぱり知らないの。……両親がどういう人だったか、正式の夫婦だったかどうか……それも知らない。(ポケットからキュウリを出してかじる)なんにも知らないわ。(間)いろいろ話もしたいけれど、話相手もなし……。わたしには誰《だれ》もいないんだもの。
エピホードフ (ギターを弾きながら歌う)


  浮世を捨てしこの身には
  友もかたきも何かせん……

  マンドリンを弾くのは、いいもんだなあ!

ドゥニャーシャ それはギターよ、マンドリンじゃないわ。(ふところ鏡を見ながら白粉《おしろい》をはたく)
エピホードフ 恋に狂った男にとっちゃ、これもマンドリンさね。……(口ずさむ)

  たがいの恋の炎もて
  胸もえ立ちてあるならば……

  ヤーシャ、声をあわせる

シャルロッタ すごい歌い方だこと、この人たち……ふッ! 山犬みたいだ。
ドゥニャーシャ (ヤーシャに)それにしても、外国へ行くなんて、ほんとにいいわねえ。
ヤーシャ そりゃ、もちろんさ。あえて異論は唱えませんねえ。(あくびをして、葉巻を吸いはじめる)
エピホードフ わかりきった事さ。外国じゃ総《すべ》てが、とうの昔に完全なコンプリート(訳注 原語は Complexion に当る外来語で「体格」の意味。それを「完成」の意味に使っているおかし味。以下エピホードフの半可通ぶりは続出する)に達してますからね。
ヤーシャ もちろんね。
エピホードフ 僕《ぼく》は進歩した人間で、いろんな立派な本を読んでいるが、それでいてどうしても会得《えとく》できんのは、結局ぼくが何を欲《ほっ》するか、つまりその傾向なんですよ――生くべきか、それとも自殺すべきか、つまり結局それなんだが、にもかかわらず僕は、ピストルは常に携帯していますよ。そらね……(ピストルを出して見せる)
シャルロッタ やっと済んだ。どれ行こうかな。(銃を肩にかける)ねえエピホードフ、あんたは大そう頭のいい、大そうおっかない人だことねえ。さだめし女の子が、夢中になって惚《ほ》れこむだろうさ。ブルルル! (行きかける)才子とか才物とかいった手合いは、みんなこうしたお馬鹿《ばか》さんばかりさ。話相手なんか誰もいやしない。……しょっちゅう独り、独りぼっち、わたしにゃ誰もいないのさ……そういう私が何者か、なんで生れてきたのか、それもわかったものじゃない……(ゆっくり退場)
エピホードフ つまり結局ですな、ほかの問題はさておいて、自分一個のことに関するかぎり、ともあれ僕はつぎのごとく言わざるを得んのですよ――運命が僕を遇することの無慈悲残忍なる、あらしが小舟をもてあそぶに異ならん、とね。かりに一歩をゆずって、この僕の考えが間違っているとすれば、では一体なぜ、今朝ぼくが目をさましてみると、まあ一例として言えばですな、おっそろしく大きな蜘蛛《くも》が、僕の胸のうえに乗っかっていたんでしょう。……こんなやつがね(両手で示す)。同様にして、クワスでノドをうるおそうと思って手にとると、またしても、いやはや、たとえば油虫といったたぐいの、極度に無礼千万なやつがはいっている。(間)あんたはバックル([#ここから割り注]訳注 十九世紀イギリスの文明史家[#ここで割り注終わり])を読んだことがありますか? (間)じつはね、ドゥニャーシャさん、ほんの二言三言、御意を得たいことがあるんですがね。
ドゥニャーシャ どうぞ。
エピホードフ それが実は、さし向いでお願いしたいんですが……(ため息をつく)
ドゥニャーシャ (当惑して)そう、いいわ……でもその前に、わたしの長外套《がいとう》を持ってきてくださらない。……洋服箪笥《ようふくだんす》のそばにあるわ。……すこし、じめじめしてきた……
エピホードフ いや、かしこまりました……持って参りましょう。……さあこれで、このピストルをどうしたらいいか、やっとわかったぞ。……(ギターを取りあげ、軽く弾きながら退場)
ヤーシャ 二十二の不仕合せか! ばかなやつだよ、ここだけの話だが。(あくび)
ドゥニャーシャ ピストル自殺なんかされたら困るわねえ。(間)あたし、このごろ落ちつきがなくなって、しょっちゅう胸さわざがするの。ほんの小娘のころから、お屋敷へあがったもんだから、今じゃしもじもの暮しを忘れてしまって、手だってほらこんなに白くて、まるでお嬢さんみたい。気持まで華奢《きゃしゃ》になって、そりゃデリケートで、上品で、なんにでもびくびくするの。……とっても怖いのよ。だからヤーシャ、もしもあんたに裏切られでもしたら、あたし神経がどうかなってしまうことよ。
ヤーシャ (キスしてやって)可愛《かわい》いキュウリさん! もちろん娘というものは、自分を忘れたらおしまいだ。だから僕が何より嫌《きら》いなのは、身もちのわるい娘さんさ。
ドゥニャーシャ あたし、あんたが大好き。教養があって、どんな理屈だってわかるんだもの。(間)
ヤーシャ (あくびをして)そうさな。……僕に言わせりゃ、こうさ――娘さんが誰かを好きになったら、つまりふしだらなんだな。(間)きれいな空気のなかで、葉巻をふかすのはいい気持だなあ。……(きき耳を立てて)誰か来るぞ。……ありゃ奥さんがただ……

   ドゥニャーシャは、いきなり彼を抱擁する。


ヤーシャ うちへ帰りなさい、川へ水浴びに行ったような顔をして、こっちの小径《こみち》から行きたまえ。うっかり出くわそうもんなら、僕がさも君と逢引《あいびき》してたように思われるからな。そいつはたまらんからなあ。
ドゥニャーシャ (そっと咳《せき》をする)葉巻のけむで、あたし頭痛がしてきたわ。……(退場)


      ヤーシャは居残って、礼拝堂のそばに坐る。          ラネーフスカヤ夫人、ガーエフ、ロパーヒン登場。

ロパーヒン 最後の肚《はら》をきめて頂きたいですな、――時は待っちゃくれません。問題はなんにもありゃしない。この土地を別荘地として出すのに、ご賛成かどうか? 否《いや》か応か、一こと返事してくださればいいんです。たった一言!
ラネーフスカヤ 誰だろう、ここで嫌《いや》らしい葉巻をふかすのは! (腰をおろす)
ガーエフ 鉄道が敷けてから、便利になったものさ。(腰をおろす)こうして町へ出かけて、ひる飯をやってこられるんだからな……黄玉は真ん中へ! 何はともあれ家《うち》へ行って、一勝負やりたいもんだが……
ラネーフスカヤ まだ大丈夫ですよ。
ロパーヒン ね、ほんの一言! (哀願するように)ねえ、どうかお返事を!
ガーエフ (あくびまじりに)なんだね、そりゃ?
ラネーフスカヤ (巾着《きんちゃく》をのぞいて)昨日はお金ずいぶん沢山あったのに、今日はからっきしないわ。ワーリャは可哀《かわい》そうに、なんとか切りつめようとして、わたしたちにはミルクのスープを出し、勝手もとじゃ年寄り連中にエンドウ豆ばかり食べさせてるというのに、わたしは何やら訳もわからない無駄《むだ》づかいをしている。……(巾着をとり落す。金貨がばらばらこぼれる)あら、こぼれちまった……(無念の思い入れ)
ヤーシャ ご免ください、ただ今ひろって差上げます。(金貨をひろう)
ラネーフスカヤ ご苦労さん、ヤーシャ。それにわたし、なんだってお午《ひる》なんか食べに行ったんだろう。……あなたご推奨のあのちゃちなレストラン。音楽つきだかなんだか知らないけれど、テーブル・クロスがシャボンくさかったわ。……おまけに、なぜあんなに沢山のむことがあるの、ええリョーニャ? なぜ、あんなにどっさり食べたり、しゃべり散らしたりすることがあるの? 今日もあのレストランで、あんたは散々またおしゃべりをして、それがみんな、とんちんかんだったじゃないの。七〇年代([#ここから割り注]訳注 一八七〇年代。ナロードニキー運動の全盛時代[#ここで割り注終わり])がどうしたの、デカダンがどうのって。しかも相手は誰だったの? 給仕をつかまえて、デカダン論をなさるなんて!
ロパーヒン なるほど。
ガーエフ (片手を振って)わたしのあの癖は、とても直らんよ。とても駄目だ……(癇癪《かんしゃく》まぎれにヤーシャに)なんという奴《やつ》だ、しょっちゅう人の前をちらちらしおって……
ヤーシャ (笑う)わたしゃ、旦那《だんな》の声をきくと、つい笑いたくなるんで。
ガーエフ (妹に)わたしが出てくか、それともこいつが……
ラネーフスカヤ あっちへおいで、ヤーシャ、さ早く……
ヤーシャ (ラネーフスカヤ夫人に巾着をわたす)ただ今まいります。(やっと噴きだすのをこらえて)はい、ただ今……(退場)
ロパーヒン お宅の領地は、金満家のデリガーノフが買おうとしています。競売当日は、大将自身が出馬するという話です。
ラネーフスカヤ どこでお聞きになって?
ロパーヒン 町で、もっぱらの評判です。
ガーエフ ヤロスラーヴリの伯母さんから、送ってよこす約束なんだが、いつ幾ら送ってくれるつもりか、それがわからん……
ロパーヒン 幾ら送ってよこされるでしょうかな? 十万? それとも二十万?
ラネーフスカヤ そうね……一万か――せいぜい一万五千、それで恩にきせられて。
ロパーヒン 失礼ですが、あなたがたのような無分別な、世事にうとい、奇怪千万な人間にゃ、まだお目にかかったことがありません。ちゃんとロシア語で、お宅の領地が売りに出ていると申しあげているのに、どうもおわかりにならんようだ。
ラネーフスカヤ 一体どうしろと仰《おっ》しゃるの? 教えてちょうだい、どうすればいいの?
ロパーヒン だから毎日、お教えしてるじゃありませんか。毎日毎日、ひとつ事ばかり申しあげていますよ。桜の園も、宅地も何も、別荘地として貸しに出さなければならん、それを今すぐ、一刻も早くしなければならん、――競売はつい鼻の先へ迫っている、とね! いいですか! 別荘にするという最後の肚をきめさえすれば、金は幾らでも出す人があります、それであなたがたは安泰なんです。
ラネーフスカヤ 別荘、別荘客――俗悪だわねえ、失礼だけど。
ガーエフ わたしも全然同感だ。
ロパーヒン わたしはワァッと泣きだすか、どなりだすか、それとも卒倒するかだ。とても堪《たま》らん! あなたがたのおかげで、くたくたです! (ガーエフに)あなたは婆《ばば》あだ、まるで!
ガーエフ なんとね?
ロパーヒン 婆あですよ! (行こうとする)
ラネーフスカヤ (おびえて)いいえ、行かないでちょうだい。ここにいて、ねえ。後生だから。何か考えつくかもしれないもの!
ロパーヒン 今さら、なんの考えることが!
ラネーフスカヤ 行かないで、お願い。あなたがいると、とにかく気がまぎれるわ。……(間)わたし、しょっちゅう、何かあるような気がしているの――今にもわたしたちの頭の上に、家《うち》がどさりと崩れてきでもしそうな。
ガーエフ (沈思のていで)空《から》クッションで隅《すみ》へ。……ひねって真ん中へ……
ラネーフスカヤ わたしたち、神さまの前に、あんまり罪を作りすぎたのよ……
ロパーヒン なんです、罪だなんて……
ガーエフ (氷砂糖を口に入れて)世間じゃ、わたしが全財産を、氷砂糖でしゃぶりつくしたと言っているよ……(笑う)
ラネーフスカヤ ああ、わたし罪ぶかい女だわ。……まるで気ちがいみたいに、方図もなくお金を使いまわす癖がある上に、借金するほか能のない男にとついだんです。その夫は、シャンパンがもとで死にました――お酒に目のない人でしたからね。そのうえまた不幸なことに、わたしはほかの男を恋して、一緒になったの。すると、ちょうどその時、――これが最初の天罰で、真っ向からぐさりと来たのが、――ほら、あすこの川で……坊やが溺《おぼ》れ死んだことでした。そこでわたしは、外国へ発《た》ったの。発ちっぱなしで、もう二度と帰ってはこまい、あの川も見まい、とおもってね。……わたしが眼《め》をつぶって、無我夢中で逃げだしたのに、あの人[#「あの人」に傍点]は追っかけてきたの……情けも容赦もなくね。わたしがマントンの近くに別荘を買ったのも、あの人[#「あの人」に傍点]があそこに病みついたからで、それから三年というもの、わたしは夜《よ》も日もホッとするひまがなかった。病人にいびり抜かれて、心がカサカサになってしまいました。とうとう去年、借金の始末に別荘が人手にわたってしまうと、わたしはパリへ行きました。そこで、わたしから搾《しぼ》れるだけ搾りあげた挙句《あげく》、あの人はわたしを捨てて、ほかの女と一緒になったの。わたし毒をのもうとしました。……われながら浅ましい、世間に顔向けならない気がしてね。……ところが、急に帰りたくなったの――ロシアへ、生れ故郷へ、ひとり娘のところへね。……(涙をふく)神さま、ああ神さま、どうぞお慈悲で、この罪ぶかい女をお赦《ゆる》しくださいまし! この上の罰は、堪忍《かんにん》してくださいまし! (ポケットから電報を出して)今日、パリから来たの。……赦してくれ、帰って来てくれ、ですって。……(電報を引裂く)どこかで音楽がきこえるようね。(耳を澄ます)
ガーエフ あれは、ここの有名なユダヤ人の楽団だよ。ほら覚えてるだろう。バイオリンが四つに、フルートとコントラバスさ。
ラネーフスカヤ あれ、まだあるの? なんとかあれを呼んで、夜会を開きたいものね。
ロパーヒン (耳をすます)聞えないな……(小声で口ずさむ)「金《かね》のためならドイツっぽうは、ロシア人|化《ば》かしてフランス人に変える」(笑う)いや、きのうわたしが劇場で見た芝居といったら、じつに滑稽《こっけい》でしたよ。
ラネーフスカヤ ちっとも滑稽じゃないのよ、きっと。あんたは芝居なんか見ないで、せいぜい自分を眺《なが》めたほうがよくってよ。なんてあんたの暮しは、不趣味なんでしょう、よけいなおしゃべりばかりして。
ロパーヒン そりゃそうです。正直のはなし、われわれの暮しは馬鹿げています。……(間)うちの親父《おやじ》はどん百姓で、アホーで、わからず屋で、わたしを学校へやってもくれず、酔っぱらっちゃ殴りつけるだけでした――それも棒っきれでね。底を割って言えば、わたしもご同様、アホーで、でくのぼうなんです。何一つ習ったことはなし、字を書かしたらひどいもんで、とても人さまの前には出せない豚の手ですよ。
ラネーフスカヤ 結婚しなくちゃいけないわ、あなたは。
ロパーヒン なるほど。……そりゃそうです。
ラネーフスカヤ うちのワーリャはどう? いい子ですよ。
ロパーヒン なるほど。
ラネーフスカヤ あの子は百姓のうちから貰《もら》われてきて、あのとおりの働きもんだし、第一あなたを愛していますわ。それにあんただって、とうからお好きなんだし。
ロパーヒン そりゃまあ、わたしも嫌いじゃありません。……いい娘さんです。(間)
ガーエフ わたしを銀行へ世話しよう、と言ってくれる人があるんだがね。年収六千というんだが……。聞いたかね?
ラネーフスカヤ 柄《がら》でもないわ! まあ、じっとしてらっしゃい……


   フィールス登場。外套をもってきたのである。

フィールス (ガーエフに)さあさ、旦那さま、お召しになって。じめじめして参りましたよ。
ガーエフ (外套を着る)お前には閉口だよ、爺《じい》や。
フィールス あきれたお人だ。……今朝だって、黙ってふらりとお出かけにはなるし。(彼をじろじろ眺めまわす)
ラネーフスカヤ なんて年をとったの、お前は。ええフィールス!
フィールス なんと仰しゃいましたので?
ロパーヒン お前さんがひどく老《ふ》けたと仰しゃるんだよ!
フィールス 長生きしましたからな。いつだったか、嫁をとれと言われた時にゃ、あなたのお父さまもまだこの世に生れておいでになりませんでしたよ。……(笑う)解放令(訳注 一八六一年に公布された農奴解放令)が出た時にゃ、わたしはもう下男頭になっておりました。あの時わたしは、自由民になるのはご免だと申して、引きつづきご奉公をいたしましたよ。……(間)当時は、忘れもしませんが、みんな面白《おもしろ》おかしくやっておりましたよ。何が面白いのか、自分たちもわからずにね。
ロパーヒン 昔はまったく好《よ》かったよ。とにかく、存分ひっぱたいたからなあ。
フィールス (よく聞きとれずに)そりゃそうとも。昔は、旦那あっての百姓、百姓あっての旦那でしたものねえ。それが今じゃ、てんでんばらばらで、何がなんだかわかりはしねえ。
ガーエフ ちょっと待った、フィールス。あすわたしは、町へ出かけなければならん。ある将軍に引合わせてくれるという約束なんだ。その人が、手形で融通してくれそうなんでね。
ロパーヒン なあに物になりゃしませんよ。利子だって払えるもんですか、まあ安心してらっしゃい。
ラネーフスカヤ このひと寝言を言ってるのよ。将軍なんて、いるものですか。

    トロフィーモフ、アーニャ、ワーリャ登場。


ガーエフ さあ、連中がやってきた。
アーニャ ママがいるわ。
ラネーフスカヤ (優しく)おいで、さ、こっちへ。……二人とも、いい子ね……(アーニャとワーリャを抱く)わたしがどんなにあなたがたを愛してるか、わかってくれたらねえ。ならんでお坐《すわ》り、ほらね、こう。


   みなみな腰をおろす。

ロパーヒン わが万年大学生先生は、いつもお嬢さんがたと一緒だね。
トロフィーモフ 君の知ったことじゃない。
ロパーヒン この人は、そろそろ五十になるというのに、相変らずまだ大学生だ。
トロフィーモフ 愚劣な冗談はいい加減にしたまえ。
ロパーヒン 何を怒るんだね、変ってるなあ?
トロフィーモフ ほっといてくれったら。
ロパーヒン (笑う)ところで一つ伺うけれど、君は僕《ぼく》のことを、なんと思ってるかね?
トロフィーモフ 僕はね、ロパーヒン君。こう思ってますよ――あんたは金持だ、おっつけ百万長者になるだろう。新陳代謝の意味では、猛獣が必要だ。なんでも手当り次第、食っちまうやつがね。君の存在理由も、要するにそれさ。

   一同わらう。

ワーリャ ねえペーチャ、あんたは遊星《ほし》の話でもしたほうが似合うわ。
ラネーフスカヤ それよか、どう、きのうの話の続きをしたら。
トロフィーモフ なんの話でしたっけ?
ガーエフ 人間の誇りのことさ。
トロフィーモフ きのうは、長いこと議論したけれど、けっきょく結論は出ませんでしたね。あなたの言われる意味で行くと、人間の誇りなるものには、何か神秘的なところがありますね。まあそれも、一説として正しいかも知れません。がしかし率直に、虚心坦懐《きょしんたんかい》に判断してみるとです、そもそもその誇りなるものが怪しいと言わざるを得ない。げんに人間が生理的にも貧弱にできあがっており、その大多数が粗野で、愚かで、すこぶるみじめな境涯《きょうがい》にある以上、誇りとかなんとかいっても、なんの意味があるでしょうか。自惚《うぬぼ》れはいい加減にして、ただ働くことですよ。
ガーエフ どっちみち死ぬのさ。
トロフィーモフ わかるもんですか? 第一、死ぬとは一体なんでしょう? もしかすると、人間には百の感覚があって、死ぬとそのうちわれわれの知っている五つだけが消滅して、のこる九十五は生き残るのかも知れない。
ラネーフスカヤ なんてお利口さんなんでしょう、ペーチャ! ……
ロパーヒン (皮肉に)おっそろしくね!
トロフィーモフ 人類は、しだいに自己の力を充実しつつ、進歩して行きます。今は人知の及びがたいものでも、いつかは身近な、わかり易《やす》いものになるでしょう。ただそのためには、働かなければならない。真理を探求する人たちを、全力をあげて援助しなければならんのです。今のところ、わがロシアでは、ごく少数の人が働いているだけで、僕の知っているかぎりインテリ〔ゲンツィヤ〕の大多数は、何一つ求めもせず、何一つしもせず、差当り勤労に適しません。インテリなどと自称しながら、召使は「きさま」呼ばわりする、百姓は動物あつかいにする、ろくろく勉強もせず、何一つ真面目《まじめ》には読まず、なんにもせずに、ただ口先で科学を云々《うんぬん》するばかり、芸術だってろくにわかっちゃいない。みんな真面目くさって、さも厳粛な顔つきをして、厳粛なことばかり口にし、哲学をならべているが、そ[#「そ」に「*」の傍記]の一方かれら一人一人の眼の前では、労働者たちがひどい物を食い、一部屋に三十人四十人と、枕《まくら》もしないで寝ている。([#ここから割り注]訳注 *以下は上演当時の検閲のため削除されたので、一九〇四年の初版本には、次のようにぼかされていた。――「その一方、われわれの大多数、百中の九十九までが、野蛮人みたいな暮しをして、何かといえば――すぐぶんなぐる、罵倒する、ひどい物を食って、息のつまるような汚ない所に寝て」[#ここで割り注終わり])どこもかしこも南京虫と、鼻をつく悪臭と、ひどい湿気と、道徳的腐敗ばかりです。……で、われわれのやる麗々しい会話はみんな、ただ自分や他人の眼をくらまさんためであることは、言わずして明らかです。ひとつ教えていただきたい、――あれほどやかましく喋々《ちょうちょう》されている託児所は、一体どこにあるんです? 読書の家は、どこにあります? それは小説に出てくるだけで、実際は全然ありゃしない。あるのはただ、泥《どろ》んこと、俗悪と、アジア的野蛮だけだ。……僕は、真面目くさった顔つきが、身ぶるいするほど嫌《きら》いです。真面目くさった会話にも、身ぶるいが出る。いっそ黙っていたほうがましですよ。
ロパーヒン いや、わたしはね、毎朝四時すぎに起きだして、朝から晩まで働きづめでしょっちゅう自分や他人の金を扱っているが、見れば見るほど、まわりの人間が厭《いや》になるね。何かちょいと新しい仕事に手をつけさえすりゃ、世間に正直な、まともな人間がどんなに少ないかが、すぐにわかる。時どき、寝られない晩なんか、こんなことを考えたりしますよ、――「神よ、あなたは実にどえらい森や、はてしもない野原や、底しれぬ地平線をお授けになりました。で、そこに住むからには、われわれも本当は、雲つくような巨人でなければならんはずです……」とね。
ラネーフスカヤ まあ、巨人がご入用ですって……。お伽話《とぎばなし》のなかでこそ、あれもいいけれど、ほんとに出てきたら怖いわ。

    舞台の奥をエピホードフが通りかかって、ギターを弾く。

ラネーフスカヤ (もの思わしげに)エピホードフが歩いてる。……
アーニャ (もの思わしげに)エピホードフが歩いてる。
ガーエフ 日が沈んだよ、諸君。
トロフィーモフ そう。
ガーエフ (低い声で、朗読口調で)おお、自然よ、霊妙なるものよ、おんみは不滅の光明に輝く。われらが母と仰ぐ、美しく冷やかなおんみは、おのれのうちに生と死を結び合わす。おんみは物みなを生み、物みなを滅ぼす。……
ワーリャ (哀願するように)伯父さん!
アーニャ 伯父さま、また!
トロフィーモフ あなたは、黄玉を空《から》クッションで真ん中へ、のほうがいいですよ。
ガーエフ 黙るよ、黙っているよ。

みんな坐って、物思いに沈む。静寂。聞えるのは、フィールスの小声のつぶやきばかり。不意にはるか遠くで、まるで天からひびいたような物音がする。それは弦《つる》の切れた音で、しだいに悲しげに消えてゆく。

ラネーフスカヤ なんだろう、あれは?
ロパーヒン 知りませんなあ。どこか遠くの鉱山で、巻揚機《ウインチ》の綱でも切れたんでしょう。しかし、どこかよっぽど遠くですなあ。
ガーエフ もしかすると、何か鳥が舞いおりたのかも知れん……蒼《あお》サギか何かが。……
トロフィーモフ それとも、大ミミズクかな……
ラネーフスカヤ (身ぶるいして)なんだか厭な気持。(間)
フィールス あの不幸の前にも、やはりこんなことがありました。フクロウも啼《な》きたてたし、サモワールもひっきりなしに唸《うな》りましたっけ。
ガーエフ 不幸の前というと?
フィールス 解放令の前でございますよ。(間)
ラネーフスカヤ ねえ皆さん、うちへはいりましょうよ、日が暮れてきたわ。(アーニャに)まあ、涙なんか溜《た》めて……。どうかしたの、アーニャ? (抱きよせる)
アーニャ なんでもないの、ママ。ただ、ちょっと。
トロフィーモフ 誰《だれ》か来る。

     浮浪人が出てくる。古ぼけたヒサシ帽をかぶり、外套《がいとう》をまとい、少し酔っている。


浮浪人 ちょっとお尋ねしますが、ここをまっすぐ、停車場へ出られますかね?
ガーエフ 出られますよ。その道をお行きなさい。
浮浪人 ご親切に、おそれ入ります。(咳《せき》ばらいをして)まことによいお天気で……(朗読する)はらからよ、苦しみ悩むはらからよ。……出《い》でてみよ、ヴォルガのほとり、聞ゆるは誰の呻《うめ》きぞ。([#ここから割り注]訳注 ネクラーソフの詩より[#ここで割り注終わり])……(ワーリャに)マドモワゼル、この飢えたるロシアの民に、三十コペイカほどどうぞ……

  ワーリャおびえて、声を立てる。


ロパーヒン (憤然として)無作法にも程度というものがあるぞ。
ラネーフスカヤ (怖気《おじけ》づいて)持ってらっしゃい……さあ、これを……(巾着《きんちゃく》の中をさがす)銀貨がないわ。……まあいい、さ、この金貨を……
浮浪人 ご親切に、おそれ入ります! (退場)

     笑い。

ワーリャ (あきれて)わたし行くわ……あっちへ行くわ。……お母さまったら、うちの人たちに食べさせる物がないというのに、あんな男に金貨をやるなんて。
ラネーフスカヤ わたし馬鹿《ばか》なんだもの、仕方がないわ! うちへ帰ったら、わたしの手持ちを残らず渡すからね。ロパーヒンさん、また貸してちょうだい! ……
ロパーヒン 承知しました。
ラネーフスカヤ さあ行きましょう、皆さん、時刻ですわ。そうそうワーリャ、さっきここでね、お前の縁談をととのえましたよ、おめでとう。
ワーリャ (涙ごえで)そんなこと、冗談に仰《おっ》しゃるもんじゃないわ、ママ。
ロパーヒン オフメーリア([#ここから割り注]訳注 オフィーリアをわざわざ、オストロフスキーの有名な芝居の登場人物の名にもじったもの。この名は「一杯きげん」の意味を含んでいるおかしみがある[#ここで割り注終わり])、ささ尼寺へ……
ガーエフ どうも手がふるえてならん、久しく玉突きをやらないもんだから。
ロパーヒン オフメーリア、おお水妖《ニンフ》よ。躬《み》が上も祈り添えてたもれ!
ラネーフスカヤ 行きましょうよ、皆さん。そろそろお夜食よ。
ワーリャ あの男のおかげで、ほんとにびっくりしたわ。胸がこんなにドキドキしている。
ロパーヒン 念のため申しあげておきますが、皆さん、八月二十二日には桜の園は競売になります。お考えねがいますよ! ……よくお考えをね! ……

    トロフィーモフとアーニャのほか、一同退場。

アーニャ (笑いながら)浮浪人さん、ありがとう。ワーリャをおどかしてくれたおかげで、やっと二人きりになれたわ。
トロフィーモフ ワーリャはね、僕たちがもしや恋仲になりはしまいかと警戒して、毎日、朝から晩まで、ああして付きっきりなんだ。あの人は、自分の狭い料簡《りょうけん》で、われわれが恋愛を超越していることがわからないんだ。われわれの自由と幸福をさまたげている、あのけちくさい妄想《もうそう》を追っぱらうこと、これが僕らの生活の目的であり意義なんです。進みましょう、前へ! 僕らは、はるか彼方《かなた》に輝いている明るい星をめざして、まっしぐらに進むのだ! 前へ! おくれるな、友よ!
アーニャ (手をたたいて)すてきだわ、あなたの話! (間)今日、ここはなんていいんでしょう!
トロフィーモフ そう、すばらしい天気です。
アーニャ あなたのおかげで、わたしどうかしてしまったわ、ペーチャ。なぜわたし、前ほど桜の園が好きでなくなったのかしら? あんなに、うっとりするほど好きだったのに、――この世に、うちの庭ほどいい所はないと思っていたのに。
トロフィーモフ ロシアじゅうが、われわれの庭なんです。大地は宏大《こうだい》で美しい。すばらしい場所なんか、どっさりありますよ。(間)ね、思ってもご覧なさい、アーニャ、あなたのお祖父《じい》さんも、ひいお祖父さんも、もっと前の先祖も、みんな農奴制度の讃美者《さんびしゃ》で、生きた魂を奴隷《どれい》にしてしぼり上げていたんです。で、どうです、この庭の桜の一つ一つから、その葉の一枚一枚から、その幹の一本一本から、人間の眼《め》があなたを見ていはしませんか、その声があなたには聞えませんか? ……生きた魂を、わが物顔にこき使っているうちに――それがあなたがたを皆、むかし生きていた人も、現在いきている人も、すっかり堕落させてしまって、あなたのお母さんも、あなたも、伯父さんも、自分の腹を痛めずに、他人《ひと》のふところで、暮していることにはもう気がつかない、――あなた方が控室より先へは通さない連中の、ふところでね。(訳注 *以下は上演当時の検閲のため削除されたので、一九〇四年の初版本には、次のように言いかえられていた。――「ああ、怖ろしいことだ、お宅の庭は不気味です。晩か夜なかに庭を通り抜けると、桜の木の古い皮がぼんやり光って、さも桜の木が、百年二百年まえにあったことを夢に見ながら、重くるしい幻にうなされているような気がします。いやはや、まったく!」)……われわれは、少なくも二百年は後れています。ロシアにはまだ、まるで何一つない。過去にたいする断乎《だんこ》たる態度ももたず、われわれはただ哲学をならべて、憂鬱《ゆううつ》をかこったり、ウオッカを飲んだりしているだけです。だから、これはもう明らかじゃありませんか、われわれが改めて現在に生きはじめるためには、まずわれわれの過去をあがない、それと縁を切らなければならないことはね。過去をあがなうには、道は一つしかない、――それは苦悩です。世の常ならぬ、不断の勤労です。そこをわかってください、アーニャ。
アーニャ わたしたちの今住んでいる家《うち》は、もうとうに、わたしたちの家じゃないのよ。だからわたし出て行くわ。誓ってよ。
トロフィーモフ もしあなたが、家政の鍵《かぎ》をあずかっているのなら、それを井戸のなかへぶちこんで、出てらっしゃい。そして自由になるんです、風のようにね。
アーニャ (感激して)それ、すばらしい表現だわ!
トロフィーモフ 信じてください、アーニャ、僕を信じて! 僕はまだ三十にならない、僕は若い、まだ学生ですが、これでずいぶん苦労はして来ましたよ! 冬になると、たちまち僕は口が乾《ひ》あがって、病みついて、いらいらして、乞食《こじき》も同然の境涯に落ちこんで、――運命の追うがままに、所きらわずほっつき歩いたもんです! それでもやっぱり僕の心は、夜も昼もたえず、いついかなる瞬間にも、一種なんとも言えぬ予感に満たされていました。僕は幸福を予感します、アーニャ、僕にはもうそれが見える……
アーニャ (もの思わしげに)月が出たわ。

エピホードフが相変らず同じわびしい歌を、ギターで弾いているのが聞える。月がのぼる。どこかポプラの木のへんで、ワーリャがアーニャをさがしながら、「アーニャ! どこにいるの?」と呼んでいる。

トロフィーモフ そう、月が出ました。(間)そら、あれが幸福です。もうやって来た、人物
ラネーフスカヤ(リュボーフィ・アンドレーエヴナ)〔愛称リューバ〕 女地主
アーニャ その娘、十七歳
ワーリャ その養女、二十四歳
ガーエフ(レオニード・アンドレーエヴィチ)〔愛称リョーニャ〕 ラネーフスカヤの兄
ロパーヒン(エルモライ・アレクセーエヴィチ) 商人
トロフィーモフ(ピョートル・セルゲーエヴィチ)〔愛称ペーチャ〕 大学生
ピーシチク(ボリース・ポリーソヴィチ・シメオーノフ) 地主
シャルロッタ(イワーノヴナ) 家庭教師
エピホードフ(セミョーン・パンテレーエヴィチ) 執事
ドゥニャーシャ 小間使
フィールス 老僕《ろうぼく》、八十七歳
ヤーシャ 若い従僕
浮浪人
駅長
郵便局の官吏
ほかに客たち、召使たち
 ラネーフスカヤ夫人の領地でのこと

     第一幕



 いまだに子供部屋と呼ばれている部屋。ドアの一つはアーニャの部屋へ通じる。夜明け、ほどなく日の昇る時刻。もう五月で、桜の花が咲いているが、庭は寒い。明けがたの冷気である。部屋の窓はみなしまっている。
 ドゥニャーシャが蝋燭《ろうそく》をもち、ロパーヒンが本を手に登場。

ロパーヒン やっと汽車が着いた、やれやれ。何時だね?
ドゥニャーシャ まもなく二時。(蝋燭を吹き消す)もう明るいですわ。
ロパーヒン いったいどのくらい遅れたんだね、汽車は? まあ二時間はまちがいあるまい。(あくび、のび)おれもいいところがあるよ、とんだドジを踏んじまった! 停車場まで出迎えるつもりで、わざわざここへ来ていながら、とたんに寝すごしちまうなんて……。椅子《いす》にかけたなりぐっすりさ。いまいましい。……せめてお前さんでも起してくれりゃいいのに。
ドゥニャーシャ お出かけになったとばかり思ってました。(耳をすます)おや、もういらしたらしい。
ロパーヒン (耳をすます)ちがう。……手荷物を受けとったり、何やかやあるからな。……(間)ラネーフスカヤの奥さんは、外国で五年も暮してこられたんだから、さぞ変られたことだろうなあ。……まったくいい方《かた》だよ。きさくで、さばさばしててね。忘れもしないが、おれがまだ十五ぐらいのガキだった頃《ころ》、おれの死んだ親父《おやじ》が――親父はその頃、この村に小さな店を出していたんだが――おれの面《つら》をげんこで殴りつけて、鼻血を出したことがある。……その時ちょうど、どうしたわけだか二人でこの屋敷へやって来てね、おまけに親父は一杯きげんだったのさ。すると奥さんは、つい昨日のことのように覚えているが、まだ若くって、こう細っそりした人だったがね、そのおれを手洗いのところへ連れて行ってくれた。それが、ちょうどこの部屋――この子供部屋だったのさ。「泣くんじゃないよ、ちっちゃなお百姓さん」と言ってね、「婚礼までには直りますよ([#ここから割り注]訳注 怪我をした人に言う慰めの慣用句[#ここで割り注終わり])。……」(間)ちっちゃなお百姓か。……いかにもおれの親父はどん百姓だったが、おれはというと、この通り白いチョッキを着て、茶色い短靴《たんぐつ》なんかはいている。雑魚《ざこ》のととまじりさ。……そりゃ金はある、金ならどっさりあるが、胸に手をあてて考えてみりゃ、やっぱりどん百姓にちがいはないさ。……(本をぱらぱらめくって)さっきもこの本を読んでいたんだが、さっぱりわからん。読んでるうちに寝ちまった。(間)
ドゥニャーシャ 犬はみんな、夜っぴて寝ませんでしたわ。嗅《か》ぎつけたんですわね、ご主人たちのお帰りを。
ロパーヒン おや、ドゥニャーシャ、どうしてそんなに……
ドゥニャーシャ 手がぶるぶるしますの。あたし気が遠くなって、倒れそうだわ。
ロパーヒン どうもお前さんは柔弱でいかんな、ドゥニャーシャ。みなりもお嬢さんみたいだし、髪の格好《かっこう》だってそうだ。駄目《だめ》だよ、それじゃ。身のほどを知らなくちゃ。
[#ここから2字下げ]
エピホードフが花束をもって登場。背広を着こみ、ひどくギュウギュウ鳴る、ピカピカに磨《みが》きあげた長靴をはいている。はいってきながら花束を落す。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
エピホードフ (花束をひろう)これを庭男がとどけてよこしました。食堂に挿《さ》すようにってね。(ドゥニャーシャに花束をわたす)
ロパーヒン ついでにクワスをおれに持ってきとくれ。
ドゥニャーシャ かしこまりました。(退場)
エピホードフ 今ちょうど明け方の冷えで、零下三度の寒さですが、桜の花は満開ですよ。どうも感服しませんなあ、わが国の気候は。(ため息)どうもねえ。わが国の気候は、汐《しお》どきにぴたりとは行きませんですな。ところでロパーヒンさん、事のついでに一言申し添えますが、じつは一昨日《いっさくじつ》、長靴を新調したところが、いや正真正銘のはなし、そいつがやけにギュウギュウ鳴りましてな、どうもこうもなりません。何を塗ったもんでしょうかな?
ロパーヒン やめてくれ。もうたくさんだ。
エピホードフ 毎日なにかしら、わたしには不仕合せが起るんです。しかし愚痴は言いません。馴《な》れっこになって、むしろ微笑を浮べているくらいですよ。

   ドゥニャーシャ登場、ロパーヒンにクワスを差出す。

エピホードフ どれ行くとするか。(椅子にぶつかって倒す)また、これだ。……(得意げな調子で)ね、いかがです、口幅ったいことを言うようですが、なんたる回《めぐ》り合せでしょう、とにかくね。……こうなるともう、天晴《あっぱれ》と言いたいくらいですよ! (退場)
ドゥニャーシャ じつはね、ロパーヒンさん、あのエピホードフがあたしに、結婚を申しこみましたの。
ロパーヒン ほほう!
ドゥニャーシャ どうしたらいいのか、困ってしまいますわ。……おとなしい人だけれど、ただ時どき、何か話をしだすと、てんでわけがわからない。聞いていれば面白《おもしろ》いし、情《じょう》もこもっているんだけれど、ただどうも、わけがわからなくってねえ。あたし、あの人がまんざら厭《いや》じゃありませんし、あの人ときたら、あたしに夢中なんですの。不仕合せな人で、毎日なにかしら起るんです。ここじゃあの人のこと、「二十二の不仕合せ」って、からかうんですよ。……
ロパーヒン (きき耳を立てて)さあ、こんどこそお着きらしいぞ……
ドゥニャーシャ お着き! どうしたんでしょう、あたし……からだじゅう、つめたくなったわ。
ロパーヒン ほんとにお着きだ。出迎えに行こう。おれの顔がおわかりかなあ? なにせ五年ぶりだから。
ドゥニャーシャ (わくわくして)あたし倒れそうだわ。……ああ、倒れそうだ!

 二台の馬車が表口へ乗りつける音。ロパーヒンとドゥニャーシャは急いで出て行く。舞台空虚。つづく部屋部屋で、ざわめきがはじまる。ラネーフスカヤ夫人を停車場まで迎えに行った老僕《ろうぼく》フィールスが、杖《つえ》にすがりながら、あたふたと舞台をよこぎる。古めかしいお仕着せに、丈の高い帽子をかぶり、何やら独りごとを言っているが、一言も聞きとれない。舞台うらのざわめきは、ますます高まる。「さあ、こっちから行きましょうよ……」という声。ラネーフスカヤ夫人、アーニャ、鎖につないだ小犬を連れたシャルロッタ、以上みな旅行服で、――それから外套《がいとう》にプラトークすがたのワーリャ、ガーエフ、ピーシチク、ロパーヒン、包みとパラソルを持ったドゥニャーシャ、いろんな荷物をかかえた召使たち――みなみな部屋に通りかかる。

アーニャ ここを通って行きましょうよ。ねえママ、この部屋なんだか覚えてらっしゃる?
ラネーフスカヤ (嬉《うれ》しそうに、なみだ声で)子供部屋!
ワーリャ なんて寒いんだろう、手がかじかんでしまったわ。(ラネーフスカヤに)あなたのお部屋は、白いほうもスミレ色のほうも、ちゃんと元のままですわ、お母さま。
ラネーフスカヤ 子供部屋、なつかしい、きれいなお部屋……。わたし子供のころ、ここで寝たのよ。……(泣く)今でもわたし、まるで子供みたいだわ。……(兄とワーリャに、それからまた兄にキスする)ワーリャはちっとも変らないのね、相変らず尼さんみたいね。ドゥニャーシャも、わかりましたよ。……(ドゥニャーシャにキスする)
ガーエフ 汽車は二時間もおくれた。え、どうだい? なんてざまだろう?
シャルロッタ (ピーシチクに)わたしの犬は、クルミも食べるのよ。
ピーシチク (呆《あき》れ顔で)へえ、こりゃ驚いた!

  アーニャとドゥニャーシャのほか、一同退場。

ドゥニャーシャ やっとお帰りになった、……(アーニャの外套と帽子をぬがせる)
アーニャ わたし途中四晩も眠れなかったの……今じゃもう、こごえあがっちまったわ。
ドゥニャーシャ あなたがたがお発《た》ちになったのは、大斎《たいさい》のころ([#ここから割り注]訳注 復活祭に先だつ七週間の精進期間で、年によって違うが、およそ二月初めから三月初旬までの間になる[#ここで割り注終わり])で、まだ雪がふって、ひどい凍《い》てつきようでしたが、今はまあどうでしょう? 可愛いお嬢さま! (笑って、アーニャにキスする)待ち遠しかったですわ、大好きな、可愛《かわい》いお嬢さま。……早速ですけど、あたしお話がありますの。一分間だって待てませんの……
アーニャ (だるそうに)また、なんの話……
ドゥニャーシャ 執事のエピホードフが、復活祭のあとで、あたしに結婚を申込みましたのよ。
アーニャ いつも、おんなし事ばかり……(髪を直しながら)わたし、ピンをみんな落してしまったわ。……(疲れきって、よろよろしている)
ドゥニャーシャ どう考えたらいいか、困ってしまいますわ。あの人、あたしを愛してますの、とても愛してますの!
アーニャ (自分の居間のドアをのぞきこみ、なつかしそうに)わたしの部屋、わたしの窓、まるで旅行なんかしなかったみたい。わたし、うちにいるのね! あした朝おきたら、すぐ庭へ出てみよう。……ほんとに、ちょっとでも寝られたらよかったのにねえ! 道中ずっと眠らずじまい、なんだかとても気にかかって。
ドゥニャーシャ 一昨日《いっさくじつ》、トロフィーモフさんがいらっしゃいました。
アーニャ (嬉しそうに)ペーチャが!
ドゥニャーシャ お風呂場《ふろば》で寝てらっしゃいますよ、あすこに陣どってしまってね。お邪魔になっちゃ悪いからな、ですって。(懐中時計を出して見て)あのかた、お起しするといいんですけど、ワルワーラさま([#ここから割り注]訳注 ワーリャの正式の名[#ここで割り注終わり])がいけないと仰《おっ》しゃるものですから。お前、あの人を起すんじゃないよ、って。

 ワーリャ登場、バンドに鍵束《かぎたば》をさげている。

ワーリャ ドゥニャーシャ、コーヒーを早く……。お母さんがコーヒーをご所望だからね。
ドゥニャーシャ はい、ただ今。(退場)
ワーリャ よかったわ、みんな無事でお着きで。あんたも、やっとまたお家《うち》ね。(優しくいたわりながら)わたしのいい子が帰ってきた! べっぴんさんが帰ってきた!
アーニャ ずいぶん辛《つら》かったわ、わたし。
ワーリャ 察しるわ!
アーニャ わたしがここを発ったのは、御受難週間([#ここから割り注]訳注 大斎期の第五週[#ここで割り注終わり])で、まだ寒いころだったわ。シャルロッタったら途中のべつしゃべりどおしで、手品までして見せるの。なんだってあんた、シャルロッタなんか付けてくれたの……
ワーリャ だって、あんたひとりで旅へ出すわけにも行かないじゃないの、アーニャ。十七やそこらで!
アーニャ パリに着いたら、あすこも寒くって、雪だったわ。わたしのフランス語ときたら、凄《すご》いものでしょう。ママは五階に部屋をとっていてね、わたしがあがって行くと、誰《だれ》だかフランス人の男だの、女だの、ちっちゃな本をもった年寄りのカトリックの坊さんだのが、つめかけていて、部屋じゅうタバコの煙でいっぱい、そりゃ厭なの。わたし急にママが可哀《かわい》そうになって、あんまり可哀そうだもんだから、ママの頭を抱いて、ぎゅっと両手でしめつけたなり、放せないの。ママはそれからいつも甘ったれて、泣いてばかりいたわ……
ワーリャ (涙ごえで)もういいわ、もう言わないで……
アーニャ マントン([#ここから割り注]訳注 南フランス、ニースに近い保養地[#ここで割り注終わり])の近くのご自分の別荘も売ってしまったし、ママにはもう、なんにも残っていないの、なんにも。わたしだって一コペイカもなくなってしまって、やっとこさで帰ってきたのよ。だのにママったら、ちっともわからないの。駅の食堂へはいると一ばん高い料理を注文するし、ボーイのチップは一ルーブリずつなのよ。シャルロッタも同じなの、おまけにヤーシャまでが、ちゃんと一人前とるの、見ちゃいられないわ。ヤーシャって、ほら、ママのボーイよ。それも一緒に連れてきたの……
ワーリャ 見たわ、いやなやつ。
アーニャ で、どうなの、その後? 利子は払えた?
ワーリャ それどころじゃないわ。
アーニャ 困るわね、どうしましょう。……
ワーリャ 八月には、この領地が競売になるわ……
アーニャ ああ、どうしよう。
ロパーヒン (ドアから覗《のぞ》いて、牛のなき真似《まね》をする)モオ・オ・オ……(去る)
ワーリャ (涙ごえで)ええ、こうしてやりたい……(拳固《げんこ》でおどす)
アーニャ (ワーリャを抱いて、小声で)ワーリャ、あの人あんたに申込みをして? (ワーリャ、否《いや》というしるしに首を振る)だってあの人、あなたを愛してるのよ。……おたがい打明けたらどうなの、何を二人とも待ってるの?
ワーリャ わたし思うのよ、これは結局どうにもならない話だって。あの人は仕事が多いから、わたしどころじゃない……見向きもしないのよ。いっそどこかへ行ってしまってくれるといいんだけど。あの人の顔、見るのがつらいわ。みんな、わたしたちの結婚のうわさをして、お祝いまで言ってくれるけれど、ほんとうは何もありゃしない。夢みたいなものなのよ。……(調子をかえて)あんたのブローチ、蜜蜂《みつばち》に似ているわ。
アーニャ (悲しそうに)これ、ママが買ってくれたの。(自分の部屋へはいって、快活な子供っぽい調子で)あたしパリでね、軽気球に乗ったわ!
ワーリャ わたしのいい子が帰ってきた! べっぴんさんが帰ってきた!
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ドゥニャーシャは、コーヒー沸かしをもってすでに戻《もど》ってきており、コーヒーを煮ている。

ワーリャ (ドアのそばに立って)わたしね、アーニャ、こうして一日じゅう家《うち》のことであくせくしながらいつも空想しているの。あんたをお金持の人のところへお嫁にやれたら、わたしも安心がいって淋《さび》しい僧院にこもれるわ。それからキーエフへ……モスクワへと、ずっと聖地めぐりをして暮すの。……聖地から聖地へめぐって行くの。きっと、すばらしいわ! ……
アーニャ お庭で鳥がないている。今なん時?
ワーリャ とっくに二時は回ったはずよ、もう寝たらいいわ、アーニャ。(アーニャの部屋へはいりながら)きっとすばらしいわ!
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ヤーシャが、膝掛《ひざか》けと旅行用の信玄袋を持って登場。
[#ここで字下げ終わり]
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ヤーシャ (舞台を横ぎりながら、いんぎんに)こちらを通っても宜《よろ》しいでしょうか?
ドゥニャーシャ まあ、見ちがえるようだわ、ヤーシャ。あんた、外国ですっかり立派になって。
ヤーシャ ふむ。……どなたでしたっけ?
ドゥニャーシャ あんたがここを発った時は、あたしまだこんなだったわ……(床からの高さを手で示す)ドゥニャーシャよ、フョードル・コゾエードフの娘よ。覚えていないのね!
ヤーシャ ふむ。……可愛いキュウリさん! (あたりを見回し、彼女を抱く。彼女はキャッと叫んで受け皿《ざら》を落す。ヤーシャすばやく退場)
ワーリャ (ドアの敷居で、不興げな声で)また何かしたの?
ドゥニャーシャ (涙ごえで)お皿を割りました。……
ワーリャ そりゃいい前兆ね。
アーニャ (自分の部屋から出てきながら)ママに言っとかなくちゃいけないわ、ペーチャが来ているって……
ワーリャ わたし、あの人を起さないように言いつけたの。
アーニャ (考えこんで)六年まえに、お父さまが亡《な》くなって、それから一月《ひとつき》すると弟のグリーシャが、川で溺《おぼ》れたんだわ。可愛い七つの子だったのに。ママは、もう辛抱《しんぼう》がならなくなって、出てらしたのだわ。……あとも振返らずに、出てらしたんだわ。……(身ぶるいする)わたしママの気持よくわかるの、それがママに通じたらばねえ! (間)あのペーチャ・トロフィーモフは、グリーシャの家庭教師だったんだから、またお思い出しになるかも知れないわね……

  フィールス登場。セビロに白チョッキのいでたち。


フィールス (コーヒー沸かしのところへ行き、心配そうに)奥さまは、こちらで召し上がるとおっしゃる。……(白手袋を両手にはめる)よいかな、コッフィーは? (ドゥニャーシャに向って、きびしく)これ! クリームはどうした?
ドゥニャーシャ あら、どうしましょう……(あたふたと退場)
フィールス (コーヒー沸かしのまわりをそわそわしながら)ええ、この出来そこねえめが……(ぼそぼそ独り言をいう)パリからお帰りになった。……旦那《だんな》さまもいつぞや、パリへおいでなすったっけな……馬車でな……(声を立てて笑う)
ワーリャ フィールス、お前なに言ってるの?
フィールス はい、何と仰《おお》せで? (嬉しそうに)奥さまがお帰りになりました! お待ち申した甲斐《かい》あって。これでもう、死んでも思い残すことはありませんわい。……(嬉し泣きに泣く)

  ラネーフスカヤ夫人、ガーエフ、ピーシチク登場。ピーシチクは薄いラシャの袖《そで》なし胴着に、だぶだぶのズボンをはいている。ガーエフははいってきながら、両腕と胴とで玉突きをしているような仕草をする。(訳注 原書には示していないが、ロパーヒンもこのとき登場するらしい)

ラネーフスカヤ どうするんでしたっけ? ちょっとおさらいして……。黄玉は隅《すみ》へ! 空《から》クッションで真ん中へ!
ガーエフ 薄く当てて隅へだ! ねえお前、むかしはお前といっしょに、ほれこの子供部屋で寝たもんだが、今じゃわたしも五十一だ、なんだか妙な気もするがなあ……
ロパーヒン さよう、時のたつのは早いものです。
ガーエフ なんだって?
ロパーヒン いや、時のたつのは早い、と言ったので。
ガーエフ この部屋は、虫とり草のにおいがする。
アーニャ わたし、行って寝るわ。おやすみなさい、ママ。(母にキスする)
ラネーフスカヤ わたしの可愛い子。(娘の手にキスする)おまえ、うちに帰って嬉しいだろうね? わたしは、まだほんとのような気がしないの。
アーニャ おやすみなさい、伯父さま。
ガーエフ (彼女の顔と両手にキスする)ゆっくりおやすみ。なんてお前は、お母さん似なんだろう! (妹に)ねえリューバ([#ここから割り注]訳注 ラネーフスカヤ夫人の名リュボーフィの愛称[#ここで割り注終わり])お前もこの年ごろには、この子そっくりだったよ。

  アーニャは片手をロパーヒンとピーシチクに与え、自分の部屋へ引きとってドアをしめる。

ラネーフスカヤ あの子すっかりくたくたなのね。
ピーシチク 道中がさぞ長かったでしょうからな。
ワーリャ (ロパーヒンとピーシチクに)どうなすって、皆さん? やがて三時ですよ、そろそろ紳士の体面をお考えになったらどうでしょう。
ラネーフスカヤ (笑う)お前、相変らずなのね、ワーリャ。(彼女を引きよせてキスする)このコーヒーを飲んだら、それでお開きにしましょうね。(フィールス、夫人の足もとに足載せのクッションを置く)ありがとうよ、フィールス。わたし、コーヒーが癖になってね、昼も夜も飲むんですよ。ありがとう、爺《じい》や。(フィールスにキスする)
ワーリャ ちょっと見てこよう、荷物がみんな来ているかどうか。……(退場)
ラネーフスカヤ ほんとに、ここに坐《すわ》っているのはわたしかしら? (笑う)わたし飛んで跳ねて、両手を振りまわしたい。(両手で顔をおおう)これが夢だったらどうしよう! わたし神かけて、生れ故郷が好きですの、まるで母親に甘えるような気持ですの。わたし汽車の窓から、とても見てはいられなくなって、泣いてばかりいましたわ。(涙ごえで)それはそうと、コーヒーを頂かなくてはね。ありがとうよ、フィールス、ありがとう、爺や。お前が達者でいてくれて、わたしほんとに嬉しいよ。
フィールス おとといでございます。
ガーエフ 耳が遠いんだよ。
ロパーヒン わたしはこれからすぐ、今朝の四時すぎに、ハリコフへ発たなければなりません。じつに残念です! ちょっとお目にかかって、お話ししたいこともあったのですが……。しかし、相変らずご立派ですなあ。
ピーシチク (息をはずませながら)むしろ器量があがられたくらいだ。……お召物もパリ好みでな……わしらなど、どだい目がくらんで、まともにゃ拝めんほどですわい……
ロパーヒン あなたのお兄上、このガーエフさんは、わたしのことを下司《げす》だ、強欲だと言われますが、そんなこと、わたしは一向平気です。なんとでも仰しゃるがいい。ただわたしの望むところは、あなただけは元どおりわたしを信用してくだすって、そのえも言われぬ、しみじみしたお眼《め》を、従前同様わたしに注いで頂きたいということです。いやはや、思いだしてもゾッとする! うちの親父《おやじ》は、あなたのお祖父《じい》さんやお父さんの農奴だった。ところがあなたには、ほかならぬあなたという人には、わたしはいつぞや一方ならぬお世話になったことがある、それでわたしは、一切をきれいに忘れて、あなたを肉親のようにお慕いしています……いや、肉親以上にです。
ラネーフスカヤ わたし、じっとしちゃいられない、とても駄目《だめ》……(ぱっと立ちあがって、ひどく興奮のていで歩きまわる)嬉《うれ》しくって嬉しくって、気がちがいそうだ。……わたしを笑ってちょうだい、ばかなんですもの。……なつかしい、わたしの本棚《ほんだな》……(戸棚にキスする)わたしの小っちゃなテーブル……
ガーエフ お前の留守のまに、乳母《ばあや》が死んだよ。
ラネーフスカヤ (腰をおろし、コーヒーを飲む)ええ、天国にやすらわんことを。知らせをもらいました。
ガーエフ それに、アナスターシイも死んだ。やぶにらみのペトルーシカは、うちから暇をとって、今じゃ町の署長のところにいる。(ポケットから氷砂糖の小箱を取りだし、しゃぶる)
ピーシチク わしの娘のダーシェンカが……よろしくと申しました……
ロパーヒン わたしはあなたに、何かとても愉快な、楽しい話がしたいのですが……(時計を出して見る)そろそろ発《た》たなければならんので、おしゃべりをしているひまがありません……でまあ、ごくかいつまんで申しあげます。すでにご承知のとおり、お宅の桜の園は借財のカタで売りに出ておりまして、八月の二十二日が競売の日になっています。しかし、ご心配はいりません、奥さん、どうぞ、ご安心ねがいたい、打つ手はあります。……そこでわたしの案をよく聴いていただきたいのですが! あなたの領地は、町からわずか五里のところにあって、しかもついそばを鉄道が開通しました。でもし、この桜の園と川沿いの土地一帯を、別荘向きの地所に分割して、それを別荘人種に貸すとしたら、あなたはいくら内輪に見積っても、年《ねん》に二万五千の収入をおあげになれるわけです。
ガーエフ 失礼だが、つまらん話だな!
ラネーフスカヤ あなたのお話、どうもよくわからないわ、ロパーヒンさん。
ロパーヒン つまり別荘人種から、三千坪に対して最低年二十五ルーブリの割で、地代をとり立てられるわけです。もし今すぐに広告なされば、このわたしが保証しますが、秋になるまでには一っかけらの空地も残さず、みんな借り手がつきますよ。早い話が万歳です、お家ご安泰というわけです。何しろ場所がらは絶好だし、川は深いし。ただ、もちろん、そこらをちょっと掃除したり、片づけたりはしなければなりません……例えばまあ、古い建物はみんな取払ってしまう。さしずめこの屋敷なんか、もうなんの役にも立ちませんからね。それに、古い桜の園なんかも伐《き》り払ってしまう……
ラネーフスカヤ 伐り払うですって? まああなた、なんにもご存じないのねえ。この県のうちで、何かしらちっとは増しな、それどころかすばらしいものがあるとすれば、それはうちの桜の園だけですよ。
ロパーヒン そのすばらしいというのも、結局はだだっぴろいだけの話です。桜んぼは二年に一度なるだけだし、それだって、やり場がないじゃありませんか。誰ひとり買手がないのでね。
ガーエフ 『百科事典』にだって、この庭のことは出ている。
ロパーヒン (時計をのぞいて)これといった思案も浮ばず、なんの結論も出ないとなると、八月の二十二日には、桜の園はむろんのこと、領地すっかり、競売に出てしまうのですよ。思いっきりが肝腎《かんじん》です! ほかに打つ手はありません、ほんとです。ないとなったら、ないのですから。
フィールス 昔は、さよう四、五十年まえには、桜んぼを乾《ほ》して、砂糖づけにしたり、酢につけたり、ジャムに煮たりしたものだった。それから、よく……
ガーエフ 黙っていろ、フィールス。
フィールス それからよく、乾した桜んぼを、荷馬車に何台も積んで、モスクワやハリコフへ出したもんでござんしたよ。大したお金でしたわい! 乾した桜んぼだって、あの頃《ころ》は柔らかくてな、汁気《しるけ》があって、甘味があって、よい香りでしたよ。……あの頃は、こさえ方を知っていたのでな……
ラネーフスカヤ そのこさえ方が、今どうなったの?
フィールス 忘れちまいましたので。誰《だれ》も覚えちゃおりません。
ピーシチク (ラネーフスカヤ夫人に)パリはいかがでした? ええ? 蛙《かえる》をあがりましたか?
ラネーフスカヤ ワニを食べましたよ。
ピーシチク こりゃ、どうだ……
ロパーヒン 今まで田舎といえば、地主と百姓しかいませんでしたが、今日《こんにち》では別荘人種というものが現われています。どんな町でも、どんな小っぽけな町でも、ぐるり一めん別荘が建っています。このぶんでいくと、二十年もしたら、別荘人種はどえらい数になるでしょう。今でこそあの連中は、バルコンでお茶を飲むのがせいぜいですが、あに図らんややがては、あの連中もめいめい三千坪の地面で、農作をはじめるかも知れない。そのあかつきには、お宅の桜の園も、豪勢な、ゆたかな、地上の天国になるでしょう。
ガーエフ (憤慨して)じつにくだらん!

   ワーリャ、ヤーシャ登場。

ワーリャ お母さま、電報が二通きていましたわ。(鍵束《かぎたば》をより分けて、音たかく古風な本棚をあける)ほら、これ。
ラネーフスカヤ パリからね。(ろくに読まずに、二通とも引裂く)パリとは、もう縁きりだわ……
ガーエフ ねえリューバ、知ってるかい、この本棚の歳《とし》をさ? ついこないだ、一ばん下の引出しを抜いて見たらばね、焼印で年号が押してあるんだ。ちょうど百年まえにできたんだよ。どうだい、ええ? さしずめ記念祭でももよおしたいところだよ。いくら命のないものにしろ、とにかくなんと言ったって、本棚にはちがいないんだからね。
ピーシチク (びっくりして)百年……。こりゃ、どうだ! ……
ガーエフ そう。大したもんさ。……(戸棚にさわってみて)親愛にして尊敬すべき戸棚よ! 今や百年以上にわたって、絶えず善と正義の輝かしい理想をめざして進んできた、君の存在に挨拶《あいさつ》を送る。みのり多き仕事へと招く君の無言の呼び声は、百年のあいだたゆむことなく、よく(涙ごえで)わが一家代々の人びとに、未来への勇気と信念を保持せしめ、われわれのうちに、善と社会的自覚の理想を涵養《かんよう》してくれた。(間)
ロパーヒン なるほど……
ラネーフスカヤ あなた相変らずねえ、兄さん。
ガーエフ (いささか照れて)右へ押して隅へ! 薄く当てて真ん中へスポリ!
ロパーヒン (時計を出して見て)どれ、行かなくては。
ヤーシャ (ラネーフスカヤ夫人に薬をさし出す)いかがでございます、丸薬をただ今召し上がっては……
ピーシチク 薬剤なんぞ、のむことはありませんよ、奥さん……毒にも薬にもなりゃしませんや。……まあひとつ……こっちへおよこしなさい。(丸薬を受けとり、手の平へあけて、ふっと吹いて口へほうりこみ、クワスでのみくだす)この通り!
ラネーフスカヤ (あきれて)まああなた、気でもちがったの?
ピーシチク 丸薬をすっかり頂きました。
ロパーヒン なんて大食《おおぐら》いだ! (一同わらう)
フィールス このかたは、復活祭の時おいでになって、キュウリを半たる召し上がりましたよ……(ぶつぶつ呟《つぶや》く)
ラネーフスカヤ 何を言ってるのかしら?
ワーリャ もう三年ごし、あんなふうにぶつぶつ言ってますの。わたしたち、馴《な》れてしまいました。
ヤーシャ ご老体ですからな。
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シャルロッタが白い服をきて、舞台をよこざる。すこぶる痩《や》せた体を、ぎゅっと緊《し》めあげるような着こなしで、バンドに柄《え》つき眼鏡をさげている。
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ロパーヒン どうも失礼、シャルロッタさん、まだご挨拶をしませんでしたね。(彼女の手にキスしようとする)
シャルロッタ (手を引っこめながら)あなたに手をキスさせたら、次には肘《ひじ》とおいでなさるでしょうよ、それから肩とね……
ロパーヒン どうも運が悪い、今日は。(一同わらう)シャルロッタさん、手品を見せてくださいよ!
ラネーフスカヤ ほんとにシャルロッタ、手品を見せてちょうだい!
シャルロッタ だめです。わたし眠いんですから。(退場)
ロパーヒン 三週間したらお目にかかります。(ラネーフスカヤ夫人の手にキスする)ではそれまで、ご機嫌《きげん》よう。もう時間です。(ガーエフに)ではまた。(ピーシチクとキスをかわして)さようなら。(まずワーリャと、ついでフィールス、ヤーシャと握手して)発ちたくないなあ。(ラネーフスカヤ夫人に)別荘の件をとっくりお考えになって、決心がおつきでしたら、ちょっとお知らせを願います。五万ルーブリは作って差しあげます。慎重にお考えください。
ワーリャ (腹だたしく)さ、いい加減でいらっしゃいよ!
ロパーヒン 行きます、行きますよ……(退場)
ガーエフ 下司め。いやこれは、ごめん《パルドン》。……ワーリャはあの男のところへ嫁《い》くんだっけな、あれはワーリャのムコさんだ。
ワーリャ おじさん、余計なこと言わないで。
ラネーフスカヤ なによ、ワーリャ、わたしそうなったら本当に嬉しい。あれは、いい人だもの。
ピーシチク 人物は、じつになんともはや……よくできた人で……。うちのダーシェンカも……やっぱりその、言っておりますよ……何やかやとな。(いびきをかいて、すぐまた目をさます)いや、それにしても奥さん……恐縮ですが貸してくださらんか……二百四十ルーブリだけ……あす担保の利子を払わにゃならんので……
ワーリャ (仰天して)だめよ、だめですよ!
ラネーフスカヤ わたし、ほんとに一文もないのよ。
ピーシチク なあに出てきますよ。(笑う)決して希望は捨てませんて。いつぞやも、いよいよ駄目だ、これで破滅だと観念したら、いや驚くまいことか、――鉄道がうちの地面を通ってね……金がころげこみましたよ。まあ見ててご覧なさい、また何かありますよ、今日でないまでも明日《あす》はね。ダーシェンカが二十万あてますよ……あれは富クジを一枚もってますでな。
ラネーフスカヤ コーヒーも飲んだから、これでもう休めるわ。
フィールス (ブラシでガーエフの服を払いながら、訓戒口調で)またズボンをお間違えになった。ほんとに困ったお人だ!
ワーリャ (小声で)アーニャは寝ているわ。(そっと窓をあける)もう日が出た、寒くないわ。ご覧なさい、お母さん、なんて見事な桜の木でしょう! すばらしいわ、この空気! ムク鳥が啼《な》いている!
ガーエフ (べつの窓をあける)庭いちめん真っ白だ。おまえ忘れやしないだろう、え、リューバ? この長い並木は、ずっとまっすぐ、まるで革帯をぴんと張ったように伸びて、月夜には白々と光るのだ。ね、覚えてるだろう? 忘れはしまいね?
ラネーフスカヤ (窓から庭を眺《なが》めて)ああ、わたしの子供のころ、清らかな時代! わたし、この子供部屋に寝て、ここから庭を眺めたものよ。あの頃は幸福が、毎朝わたしと一しょに目をさましたっけ。庭もこの通りだった、そっくりそのまま。(嬉しさのあまり笑う)真っ白、一めんに真っ白ね! ああ、わたしの庭! 暗い、うっとうしい秋や、寒い冬を越して、またお前は若々しく、幸福で一ぱいだわ。天使たちが、お前を見すてなかったのね。……ああ、わたしの胸や肩から、この重石《おもし》がとりのけられたら! わたしの過去を、きれいに忘れることができたら!
ガーエフ そう、だがこの庭も、借金のカタに売られてしまう。妙な話だが、仕方がない……
ラネーフスカヤ あら、ご覧なさい、亡《な》くなったお母さまが、庭を歩いてらっしゃるわ……白い服を召して! (嬉しさのあまり笑う)たしかにそうだわ。
ガーエフ どれ、どこに?
ワーリャ しっかりなすって、お母さん。
ラネーフスカヤ 誰もいない、気のせいだったわ。右手の、あずまやへ行く曲り角に、白い若木の垂れているのが、女の影に似てたんだわ……

   トロフィーモフ登場。着ふるした学生服をきて、眼鏡をかけている。

ラネーフスカヤ ほんとにすばらしい庭! 花が真っ白にかさなって、あの青い空……
トロフィーモフ 奥さん! (夫人は彼をふりかえる)僕《ぼく》はちょっとご挨拶だけして、すぐ引きさがります。(熱烈に手にキスする)朝まで待つように言われたんですが、とても我慢がならないもんで……

  ラネーフスカヤ夫人、けげんそうに彼を見る。

ワーリャ (涙ごえで)ペーチャ・トロフィーモフよ……
トロフィーモフ ペーチャ・トロフィーモフ、お宅のグリーシャの家庭教師でした。……僕そんなに変ったでしょうか?

   夫人は彼を抱いて、静かに泣く。

ガーエフ (当惑して)もういい、もういいよ、リューバ。
ワーリャ (泣く)だから言ったじゃないの、ペーチャ、あしたまでお待ちなさいって。
ラネーフスカヤ わたしのグリーシャ……ああ坊や……グリーシャ……可愛《かわい》い子……
ワーリャ 仕方がないわ、お母さん。神さまの思召《おぼしめ》しですもの。
トロフィーモフ (やさしく、涙ごえで)いいですよ、もういいですよ……
ラネーフスカヤ (静かに泣く)あの子は死んだ、溺《おぼ》れてしまった。……なぜなの? なぜでしょう、あなた? (声をひそめて)あすこでアーニャが寝ているのに、わたし大きな声して……うるさいわね。……まあ、どうなすったの、ペーチャ? どうしてそんなに風采《ふうさい》が落ちたの? なんだってそう老《ふ》けなすったの?
トロフィーモフ 汽車のなかでも、どっかの百姓|婆《ばあ》さんに、“ねえ、禿《は》げの旦那《だんな》”って言われました。
ラネーフスカヤ あなたはあのころ、まるで子供で、可愛い学生だったわ。それが今じゃ、髪の毛も濃くはないし、眼鏡まで。ほんとに、今でも大学生なの? (ドアのほうへ行く)
トロフィーモフ きっと僕は、万年大学生でしょうよ。
ラネーフスカヤ (兄に、それからワーリャにキスする)さあ、行っておやすみなさい。……あなたも老けたわねえ、レオニード。
ピーシチク (夫人のあとにつづく)では、これでおねんねか。……ええ、この足痛風めが。今日は泊めていただきますよ。……とにかくわしは、ねえ奥さん、あすの朝にゃ……二百四十ルーブリというものが……
ガーエフ あいつ、自分のことばかりだ。
ピーシチク 二百四十ルーブリ……担保の利子を払うんでね。
ラネーフスカヤ お金なんかありませんよ、わたし……
ピーシチク 返しますからさ、奥さん。……わずかな金高じゃありませんか……
ラネーフスカヤ じゃいいわ、レオニードにたのみましょう。……出してあげて、レオニード。
ガーエフ よし、出してやろう。ポケットをあけて待ってるがいい。
ラネーフスカヤ 仕方がないじゃないの、出したげなさいよ。……この人いるんだから……。返すと言うんだし。

  ラネーフスカヤ夫人、トロフィーモフ、ピーシチク、フィールス退場。ガーエフ、ワーリャ、ヤーシャ残る。

ガーエフ 妹は、まだ金をばらまく癖が直らんな。(ヤーシャに)いい子だから、も少しあっちい行ってくれ。お前はニワトリ臭くてかなわん。
ヤーシャ (冷笑をうかべて)そういう旦那は、相変らずでらっしゃるね。
ガーエフ なに? (ワーリャに)こいつ、なんと言ったのかね。
ワーリャ (ヤーシャに)お前のおっ母さんが村から出て来て、きのうから下《しも》の部屋で待ってるよ、ちょっと会いたいって……
ヤーシャ ちえっ、うるさいったらありゃしねえ!
ワーリャ まあ、いけ図々《ずうずう》しい!
ヤーシャ 余計なこった。あすでも来りゃいいのにさ。(退場)
ワーリャ お母さんは相変らずで、ちっともお変りにならない。勝手にさせておいたら、何もかも人にやってしまうわ。
ガーエフ そうさ……(間)何かの病気にたいして、あれもこれもと、いろんな薬をすすめるような時は、つまりその病気が不治だというわけだ。わたしも、脳みそをしぼって考えてるんだが、するといろんな手が浮ぶね。あんまり沢山あるもんで、つまり本当のところは、一つもないということになる。誰かの遺産がころげこめばよし、アーニャを大金持のところへ嫁にやるのもよし、それともヤロスラーヴリへ出かけて行って、伯爵《はくしゃく》夫人の伯母さんにぶつかってみるのも悪くはあるまい。伯母さんは、とてもどえらい金持だからな。
ワーリャ (泣く)どうぞそうなればねえ。
ガーエフ 泣かないでもいい。伯母さんはとても金持なんだが、われわれ兄妹《きょうだい》がお好きじゃない。だいいち妹が、貴族でもない弁護士|風情《ふぜい》にとついだものでな……

  アーニャがドアのところに現われる。

ガーエフ 貴族でもない男と結婚した上に、行状も大いに宜《よろ》しかったとは言えないからな。あれは立派な女だ。気立てもいいし、親切だ。わたしは大好きなんだが、それにしたって、いくらヒイキ目に見たところで、やはり不身持ちなことだけは認めないわけには行かん。こいつは、ちょっとした身ぶり一つにも出ているよ。
ワーリャ (ひそひそ声で)アーニャがドアのところにいますよ。
ガーエフ なんだって? (間)おや、おかしい、何か右の眼《め》にはいった……よく見えないぞ。それで木曜にね、地方裁判所へ行ったら……


ワーリャ どうして寝ないの、アーニャ?
アーニャ 寝られないの。だめなの。
ガーエフ 可愛い子。(アーニャの顔や手にキスする)わたしの子……(涙ごえで)お前は姪《めい》どころじゃない、わたしのエンジェルだ、わたしの一切だ。信じておくれ、わたしを、ほんとだよ……
アーニャ 信じてますわ、伯父さん。みんなあなたが好きで、尊敬しています……でもねえ、伯父さん、あなたは黙ってらっしゃらなけりゃいけないわ、ただじっと黙ってね。今しがたも、わたしのママのことを、なんて言ってらしたの? ご自分の妹じゃありませんか? なんだって、あんなことを仰《おっ》しゃるの?
ガーエフ なるほど、なるほど……(彼女の片手で自分の顔をおおう)まったく、厭《いや》になるよ! いやどうも、情けないこった! おまけに先刻《さっき》は、本棚《ほんだな》の前で演説をした……ばかばかしい! 済んでからやっと、ばかげていることがわかったんだ。
ワーリャ ほんとよ、伯父さん、黙ってらっしゃるに限るわ。黙っていれば、それでいいのよ。
アーニャ 黙ってらっしゃれば、ご自分だって気が休まるわ。
ガーエフ 黙るよ。(アーニャとワーリャの手にキスする)黙るよ。ただ、ちょっと大事な話があるんだ、木曜に地方裁判所へ行ったら、偶然、仲間が寄り合っちまってね、あれやこれやと四方山《よもやま》ばなしが出たなかで、どうやらその、手形で金を借りて、銀行の利子が払えそうなんだ。
ワーリャ どうぞそうなればねえ!
ガーエフ 火曜日に出かけていって、もう一度話してみよう。(ワーリャに)泣かないでもいい。(アーニャに)ママさんはロパーヒンに相談するだろうさ。あの男は、もちろん、いやとは言うまい。……それからお前は、ひと休みしたら、ヤロスラーヴリの伯爵夫人のところへ行ってみるんだな、お前の大伯母さんだからね。といった工合に、三方から運動すれば――もうこっちのものだ。利子は払えるさ、断じてね。……(氷砂糖を口へ入れる)わたしの面目なりなんなり、なんでもかけて誓うが、この領地は売られるものかね! (興奮して)ぼくの幸福にかけて誓う! さあ、この手が証人だ(片手を相手に差出す)――もしこの僕が、ずるずる競売へまで持ちこませたら、その時こそ僕を、やくざとでも恥しらずとでも言うがいい! ぼくの全存在にかけて誓うよ!
アーニャ (気持の落ちつきが戻《もど》ってきて、彼女は幸福だ)あなたは、なんていい人でしょう、伯父さま、なんて利口な! (伯父を抱く)やっと安心したわ! わたし安心して、とても幸福!

  フィールス登場。

フィールス (咎《とが》めるように)旦那さま、ばちが当りますぞ! いつおやすみになりますので?
ガーエフ ああ今、すぐだよ。お前はさがっていい、フィールス。なあに、こうなりゃもう、わたしは一人で着かえるよ。じゃ子供たち、お寝んねだよ。……詳しい話は明日《あす》のこととして、もう行って寝なさい。(アーニャとワーリャにキスする)わたしは八〇年代([#ここから割り注]訳注 一八八〇年代。ナロードニキー運動の退潮期[#ここで割り注終わり])の人間だ。……なるほど評判のわるい時代じゃあるが、それにしたって、こうは言えるな――信念のため僕だって、少なからぬ苦痛をなめてきたもんだとね。百姓が僕を好いてくれるのも、まんざら不思議はない。農民を知らなくてはいかん! そもそも彼らが、いかなる……
アーニャ また、伯父さま!
ワーリャ 伯父さん、黙ってらっしゃい。
フィールス (腹だたしげに)旦那さま!
ガーエフ 行くよ、行くよ。……二人とも寝なさいよ。トゥー・クッションで真ん中へ! みごとなやつをな……(退場。フィールスちょこちょこと後にしたがう)
アーニャ これで安心だわ。ヤロスラーヴリへなんか、わたし行きたくない。あのおばあさま、嫌《きら》いなんだもの。でも、とにかくホッとしたわ。ありがとう、伯父さま。(腰かける)
ワーリャ もう寝なくっちゃ。どれ行きましょう。そうそう、あんたの留守のまに、厭なことがあったの。あの古いほうの下《しも》部屋には、あんたも知ってのとおり、古手の召使ばかりいるでしょう、――エフィーミュシカだの、ポーリャだの、エフスチーグネイだの、カールプだのって。あの連中、どこかの浮浪人どもを引っぱりこんで泊めだしたのよ。わたし黙っていてやった。そこへ耳にはいったんだけど、わたしがあの連中にエンドウ豆ばかり食べさせるような、そんな噂《うわさ》を飛ばしてるの。しわん坊だから、ですってさ。……それがみんな、エフスチーグネイの仕業なの。……「よし、そんならこっちも覚悟がある」と、わたしは思ってね、エフスチーグネイを呼びつけた……(あくびをする)するとやって来たから……「なんてお前は、ええエフスチーグネイ……馬鹿《ばか》なんだい」って言ってね……(アーニャを見て)アーニチカ!……(間)寝ちまった。……(アーニャの腕をかかえて)さ、ベッドへ行きましょう。……さ、行くのよ! ……(連れて行く)わたしのいい子がおねんねだ! さ、行きましょう……(ふたり行く)

   はるか庭の彼方《かなた》で、牧夫が芦笛《あしぶえ》を吹く。トロフィーモフが舞台を通りかかり、ワーリャとアーニャを見て、立ちどまる。

ワーリャ しッ……このひと寝てるのよ。……寝てるのよ。さあ行きましょうね、可愛い子。
アーニャ (小声で、夢見ごこちで)とてもくたびれたわ、わたし……まだ馬車の鈴の音がしてるわ。……伯父さま……いい人ね、ママも、伯父さまも……
ワーリャ 行きましょう、アーニチカ、行きましょうね……(アーニャの部屋へはいる)
トロフィーモフ (感きわまって)おお、ぼくの太陽! ぼくの青春!

                             ――幕――

     第二幕

   野外。とうに見すてられ、傾きかかった古い小さな礼拝堂がある。そのそばに井戸。もとは墓標であったとおぼしい大きな石が幾つか。古びたベンチが一つ。ガーエフの田舎屋敷へ通じる道が見える。片側に、高くそびえたポプラが黒ずんでいる。そこから桜の園がはじまるのだ。遠景に電信柱の列。さらに遥《はる》か遠く地平線上に、大きな都会のすがたがぼんやり見える。それは、よっぽど晴れわたった上天気でないと見えないのだ。まもなく日の沈む時刻。
   シャルロッタ、ヤーシャ、ドゥニャーシャが、ベンチにかけている。エピホードフはそばに立って、ギターを弾いている。みんな思い沈んで坐《すわ》っている。シャルロッタは古いヒサシ帽をかぶり、肩から銃をおろして、革ひもの留金をなおしにかかる。

シャルロッタ (思案のていで)わたし、正式のパスポートがないもので、自分が幾つなのか知らないの。それでいつも若いような気がしているわ。まだ小娘だったころ、お父つぁんとおっ母さんは市《いち》から市《いち》へ渡り歩いては、見世物を出していたの、なかなか立派なものだった。わたしは|サルト・モルターレ《とんぼがえり》をやったり、いろんな芸当をやったものよ。お父つぁんもおっ母さんも死んでしまうと、あるドイツ人の奥さんがわたしを引取って、勉強させてくれた。そう。やがて大きくなって、家庭教師になった。だが一たい自分が、どこの何者なのか――さっぱり知らないの。……両親がどういう人だったか、正式の夫婦だったかどうか……それも知らない。(ポケットからキュウリを出してかじる)なんにも知らないわ。(間)いろいろ話もしたいけれど、話相手もなし……。わたしには誰《だれ》もいないんだもの。
エピホードフ (ギターを弾きながら歌う)

   浮世を捨てしこの身には
   友もかたきも何かせん……

 マンドリンを弾くのは、いいもんだなあ!

ドゥニャーシャ それはギターよ、マンドリンじゃないわ。(ふところ鏡を見ながら白粉《おしろい》をはたく)
エピホードフ 恋に狂った男にとっちゃ、これもマンドリンさね。……(口ずさむ)

  たがいの恋の炎もて
   胸もえ立ちてあるならば……
  ヤーシャ、声をあわせる。

シャルロッタ すごい歌い方だこと、この人たち……ふッ! 山犬みたいだ。
ドゥニャーシャ (ヤーシャに)それにしても、外国へ行くなんて、ほんとにいいわねえ。
ヤーシャ そりゃ、もちろんさ。あえて異論は唱えませんねえ。(あくびをして、葉巻を吸いはじめる)
エピホードフ わかりきった事さ。外国じゃ総《すべ》てが、とうの昔に完全なコンプリート([#ここから割り注]訳注 原語は Complexion に当る外来語で「体格」の意味。それを「完成」の意味に使っているおかし味。以下エピホードフの半可通ぶりは続出する[#ここで割り注終わり])に達してますからね。
ヤーシャ もちろんね。
エピホードフ 僕《ぼく》は進歩した人間で、いろんな立派な本を読んでいるが、それでいてどうしても会得《えとく》できんのは、結局ぼくが何を欲《ほっ》するか、つまりその傾向なんですよ――生くべきか、それとも自殺すべきか、つまり結局それなんだが、にもかかわらず僕は、ピストルは常に携帯していますよ。そらね……(ピストルを出して見せる)
シャルロッタ やっと済んだ。どれ行こうかな。(銃を肩にかける)ねえエピホードフ、あんたは大そう頭のいい、大そうおっかない人だことねえ。さだめし女の子が、夢中になって惚《ほ》れこむだろうさ。ブルルル! (行きかける)才子とか才物とかいった手合いは、みんなこうしたお馬鹿《ばか》さんばかりさ。話相手なんか誰もいやしない。……しょっちゅう独り、独りぼっち、わたしにゃ誰もいないのさ……そういう私が何者か、なんで生れてきたのか、それもわかったものじゃない……(ゆっくり退場)
エピホードフ つまり結局ですな、ほかの問題はさておいて、自分一個のことに関するかぎり、ともあれ僕はつぎのごとく言わざるを得んのですよ――運命が僕を遇することの無慈悲残忍なる、あらしが小舟をもてあそぶに異ならん、とね。かりに一歩をゆずって、この僕の考えが間違っているとすれば、では一体なぜ、今朝ぼくが目をさましてみると、まあ一例として言えばですな、おっそろしく大きな蜘蛛《くも》が、僕の胸のうえに乗っかっていたんでしょう。……こんなやつがね(両手で示す)。同様にして、クワスでノドをうるおそうと思って手にとると、またしても、いやはや、たとえば油虫といったたぐいの、極度に無礼千万なやつがはいっている。(間)あんたはバックル([#ここから割り注]訳注 十九世紀イギリスの文明史家[#ここで割り注終わり])を読んだことがありますか? (間)じつはね、ドゥニャーシャさん、ほんの二言三言、御意を得たいことがあるんですがね。
ドゥニャーシャ どうぞ。
エピホードフ それが実は、さし向いでお願いしたいんですが……(ため息をつく)
ドゥニャーシャ (当惑して)そう、いいわ……でもその前に、わたしの長外套《がいとう》を持ってきてくださらない。……洋服箪笥《ようふくだんす》のそばにあるわ。……すこし、じめじめしてきた……
エピホードフ いや、かしこまりました……持って参りましょう。……さあこれで、このピストルをどうしたらいいか、やっとわかったぞ。……(ギターを取りあげ、軽く弾きながら退場)
ヤーシャ 二十二の不仕合せか! ばかなやつだよ、ここだけの話だが。(あくび)
ドゥニャーシャ ピストル自殺なんかされたら困るわねえ。(間)あたし、このごろ落ちつきがなくなって、しょっちゅう胸さわざがするの。ほんの小娘のころから、お屋敷へあがったもんだから、今じゃしもじもの暮しを忘れてしまって、手だってほらこんなに白くて、まるでお嬢さんみたい。気持まで華奢《きゃしゃ》になって、そりゃデリケートで、上品で、なんにでもびくびくするの。……とっても怖いのよ。だからヤーシャ、もしもあんたに裏切られでもしたら、あたし神経がどうかなってしまうことよ。
ヤーシャ (キスしてやって)可愛《かわい》いキュウリさん! もちろん娘というものは、自分を忘れたらおしまいだ。だから僕が何より嫌《きら》いなのは、身もちのわるい娘さんさ。
ドゥニャーシャ あたし、あんたが大好き。教養があって、どんな理屈だってわかるんだもの。(間)
ヤーシャ (あくびをして)そうさな。……僕に言わせりゃ、こうさ――娘さんが誰かを好きになったら、つまりふしだらなんだな。(間)きれいな空気のなかで、葉巻をふかすのはいい気持だなあ。……(きき耳を立てて)誰か来るぞ。……ありゃ奥さんがただ……

   ドゥニャーシャは、いきなり彼を抱擁する。

ヤーシャ うちへ帰りなさい、川へ水浴びに行ったような顔をして、こっちの小径《こみち》から行きたまえ。うっかり出くわそうもんなら、僕がさも君と逢引《あいびき》してたように思われるからな。そいつはたまらんからなあ。
ドゥニャーシャ (そっと咳《せき》をする)葉巻のけむで、あたし頭痛がしてきたわ。……(退場)
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ヤーシャは居残って、礼拝堂のそばに坐る。ラネーフスカヤ夫人、ガーエフ、ロパーヒン登場。

ロパーヒン 最後の肚《はら》をきめて頂きたいですな、――時は待っちゃくれません。問題はなんにもありゃしない。この土地を別荘地として出すのに、ご賛成かどうか? 否《いや》か応か、一こと返事してくださればいいんです。たった一言!
ラネーフスカヤ 誰だろう、ここで嫌《いや》らしい葉巻をふかすのは! (腰をおろす)
ガーエフ 鉄道が敷けてから、便利になったものさ。(腰をおろす)こうして町へ出かけて、ひる飯をやってこられるんだからな……黄玉は真ん中へ! 何はともあれ家《うち》へ行って、一勝負やりたいもんだが……
ラネーフスカヤ まだ大丈夫ですよ。
ロパーヒン ね、ほんの一言! (哀願するように)ねえ、どうかお返事を!
ガーエフ (あくびまじりに)なんだね、そりゃ?
ラネーフスカヤ (巾着《きんちゃく》をのぞいて)昨日はお金ずいぶん沢山あったのに、今日はからっきしないわ。ワーリャは可哀《かわい》そうに、なんとか切りつめようとして、わたしたちにはミルクのスープを出し、勝手もとじゃ年寄り連中にエンドウ豆ばかり食べさせてるというのに、わたしは何やら訳もわからない無駄《むだ》づかいをしている。……(巾着をとり落す。金貨がばらばらこぼれる)あら、こぼれちまった……(無念の思い入れ)
ヤーシャ ご免ください、ただ今ひろって差上げます。(金貨をひろう)
ラネーフスカヤ ご苦労さん、ヤーシャ。それにわたし、なんだってお午《ひる》なんか食べに行ったんだろう。……あなたご推奨のあのちゃちなレストラン。音楽つきだかなんだか知らないけれど、テーブル・クロスがシャボンくさかったわ。……おまけに、なぜあんなに沢山のむことがあるの、ええリョーニャ? なぜ、あんなにどっさり食べたり、しゃべり散らしたりすることがあるの? 今日もあのレストランで、あんたは散々またおしゃべりをして、それがみんな、とんちんかんだったじゃないの。七〇年代([#ここから割り注]訳注 一八七〇年代。ナロードニキー運動の全盛時代[#ここで割り注終わり])がどうしたの、デカダンがどうのって。しかも相手は誰だったの? 給仕をつかまえて、デカダン論をなさるなんて!
ロパーヒン なるほど。
ガーエフ (片手を振って)わたしのあの癖は、とても直らんよ。とても駄目だ……(癇癪《かんしゃく》まぎれにヤーシャに)なんという奴《やつ》だ、しょっちゅう人の前をちらちらしおって……
ヤーシャ (笑う)わたしゃ、旦那《だんな》の声をきくと、つい笑いたくなるんで。
ガーエフ (妹に)わたしが出てくか、それともこいつが……
ラネーフスカヤ あっちへおいで、ヤーシャ、さ早く……
ヤーシャ (ラネーフスカヤ夫人に巾着をわたす)ただ今まいります。(やっと噴きだすのをこらえて)はい、ただ今……(退場)
ロパーヒン お宅の領地は、金満家のデリガーノフが買おうとしています。競売当日は、大将自身が出馬するという話です。
ラネーフスカヤ どこでお聞きになって?
ロパーヒン 町で、もっぱらの評判です。
ガーエフ ヤロスラーヴリの伯母さんから、送ってよこす約束なんだが、いつ幾ら送ってくれるつもりか、それがわからん……
ロパーヒン 幾ら送ってよこされるでしょうかな? 十万? それとも二十万?
ラネーフスカヤ そうね……一万か――せいぜい一万五千、それで恩にきせられて。
ロパーヒン 失礼ですが、あなたがたのような無分別な、世事にうとい、奇怪千万な人間にゃ、まだお目にかかったことがありません。ちゃんとロシア語で、お宅の領地が売りに出ていると申しあげているのに、どうもおわかりにならんようだ。
ラネーフスカヤ 一体どうしろと仰《おっ》しゃるの? 教えてちょうだい、どうすればいいの?
ロパーヒン だから毎日、お教えしてるじゃありませんか。毎日毎日、ひとつ事ばかり申しあげていますよ。桜の園も、宅地も何も、別荘地として貸しに出さなければならん、それを今すぐ、一刻も早くしなければならん、――競売はつい鼻の先へ迫っている、とね! いいですか! 別荘にするという最後の肚をきめさえすれば、金は幾らでも出す人があります、それであなたがたは安泰なんです。
ラネーフスカヤ 別荘、別荘客――俗悪だわねえ、失礼だけど。
ガーエフ わたしも全然同感だ。
ロパーヒン わたしはワァッと泣きだすか、どなりだすか、それとも卒倒するかだ。とても堪《たま》らん! あなたがたのおかげで、くたくたです! (ガーエフに)あなたは婆《ばば》あだ、まるで!
ガーエフ なんとね?
ロパーヒン 婆あですよ! (行こうとする)
ラネーフスカヤ (おびえて)いいえ、行かないでちょうだい。ここにいて、ねえ。後生だから。何か考えつくかもしれないもの!
ロパーヒン 今さら、なんの考えることが!
ラネーフスカヤ 行かないで、お願い。あなたがいると、とにかく気がまぎれるわ。……(間)わたし、しょっちゅう、何かあるような気がしているの――今にもわたしたちの頭の上に、家《うち》がどさりと崩れてきでもしそうな。
ガーエフ (沈思のていで)空《から》クッションで隅《すみ》へ。……ひねって真ん中へ……
ラネーフスカヤ わたしたち、神さまの前に、あんまり罪を作りすぎたのよ……
ロパーヒン なんです、罪だなんて……
ガーエフ (氷砂糖を口に入れて)世間じゃ、わたしが全財産を、氷砂糖でしゃぶりつくしたと言っているよ……(笑う)
ラネーフスカヤ ああ、わたし罪ぶかい女だわ。……まるで気ちがいみたいに、方図もなくお金を使いまわす癖がある上に、借金するほか能のない男にとついだんです。その夫は、シャンパンがもとで死にました――お酒に目のない人でしたからね。そのうえまた不幸なことに、わたしはほかの男を恋して、一緒になったの。すると、ちょうどその時、――これが最初の天罰で、真っ向からぐさりと来たのが、――ほら、あすこの川で……坊やが溺《おぼ》れ死んだことでした。そこでわたしは、外国へ発《た》ったの。発ちっぱなしで、もう二度と帰ってはこまい、あの川も見まい、とおもってね。……わたしが眼《め》をつぶって、無我夢中で逃げだしたのに、あの人[#「あの人」に傍点]は追っかけてきたの……情けも容赦もなくね。わたしがマントンの近くに別荘を買ったのも、あの人[#「あの人」に傍点]があそこに病みついたからで、それから三年というもの、わたしは夜《よ》も日もホッとするひまがなかった。病人にいびり抜かれて、心がカサカサになってしまいました。とうとう去年、借金の始末に別荘が人手にわたってしまうと、わたしはパリへ行きました。そこで、わたしから搾《しぼ》れるだけ搾りあげた挙句《あげく》、あの人はわたしを捨てて、ほかの女と一緒になったの。わたし毒をのもうとしました。……われながら浅ましい、世間に顔向けならない気がしてね。……ところが、急に帰りたくなったの――ロシアへ、生れ故郷へ、ひとり娘のところへね。……(涙をふく)神さま、ああ神さま、どうぞお慈悲で、この罪ぶかい女をお赦《ゆる》しくださいまし! この上の罰は、堪忍《かんにん》してくださいまし! (ポケットから電報を出して)今日、パリから来たの。……赦してくれ、帰って来てくれ、ですって。……(電報を引裂く)どこかで音楽がきこえるようね。(耳を澄ます)
ガーエフ あれは、ここの有名なユダヤ人の楽団だよ。ほら覚えてるだろう。バイオリンが四つに、フルートとコントラバスさ。
ラネーフスカヤ あれ、まだあるの? なんとかあれを呼んで、夜会を開きたいものね。
ロパーヒン (耳をすます)聞えないな……(小声で口ずさむ)「金《かね》のためならドイツっぽうは、ロシア人|化《ば》かしてフランス人に変える」(笑う)いや、きのうわたしが劇場で見た芝居といったら、じつに滑稽《こっけい》でしたよ。
ラネーフスカヤ ちっとも滑稽じゃないのよ、きっと。あんたは芝居なんか見ないで、せいぜい自分を眺《なが》めたほうがよくってよ。なんてあんたの暮しは、不趣味なんでしょう、よけいなおしゃべりばかりして。
ロパーヒン そりゃそうです。正直のはなし、われわれの暮しは馬鹿げています。……(間)うちの親父《おやじ》はどん百姓で、アホーで、わからず屋で、わたしを学校へやってもくれず、酔っぱらっちゃ殴りつけるだけでした――それも棒っきれでね。底を割って言えば、わたしもご同様、アホーで、でくのぼうなんです。何一つ習ったことはなし、字を書かしたらひどいもんで、とても人さまの前には出せない豚の手ですよ。
ラネーフスカヤ 結婚しなくちゃいけないわ、あなたは。
ロパーヒン なるほど。……そりゃそうです。
ラネーフスカヤ うちのワーリャはどう? いい子ですよ。
ロパーヒン なるほど。
ラネーフスカヤ あの子は百姓のうちから貰《もら》われてきて、あのとおりの働きもんだし、第一あなたを愛していますわ。それにあんただって、とうからお好きなんだし。
ロパーヒン そりゃまあ、わたしも嫌いじゃありません。……いい娘さんです。(間)
ガーエフ わたしを銀行へ世話しよう、と言ってくれる人があるんだがね。年収六千というんだが……。聞いたかね?
ラネーフスカヤ 柄《がら》でもないわ! まあ、じっとしてらっしゃい……

  フィールス登場。外套をもってきたのである。

フィールス (ガーエフに)さあさ、旦那さま、お召しになって。じめじめして参りましたよ。
ガーエフ (外套を着る)お前には閉口だよ、爺《じい》や。
フィールス あきれたお人だ。……今朝だって、黙ってふらりとお出かけにはなるし。(彼をじろじろ眺めまわす)
ラネーフスカヤ なんて年をとったの、お前は。ええフィールス!
フィールス なんと仰しゃいましたので?
ロパーヒン お前さんがひどく老《ふ》けたと仰しゃるんだよ!
フィールス 長生きしましたからな。いつだったか、嫁をとれと言われた時にゃ、あなたのお父さまもまだこの世に生れておいでになりませんでしたよ。……(笑う)解放令(訳注 一八六一年に公布された農奴解放令)が出た時にゃ、わたしはもう下男頭になっておりました。あの時わたしは、自由民になるのはご免だと申して、引きつづきご奉公をいたしましたよ。……(間)当時は、忘れもしませんが、みんな面白《おもしろ》おかしくやっておりましたよ。何が面白いのか、自分たちもわからずにね。
ロパーヒン 昔はまったく好《よ》かったよ。とにかく、存分ひっぱたいたからなあ。
フィールス (よく聞きとれずに)そりゃそうとも。昔は、旦那あっての百姓、百姓あっての旦那でしたものねえ。それが今じゃ、てんでんばらばらで、何がなんだかわかりはしねえ。
ガーエフ ちょっと待った、フィールス。あすわたしは、町へ出かけなければならん。ある将軍に引合わせてくれるという約束なんだ。その人が、手形で融通してくれそうなんでね。
ロパーヒン なあに物になりゃしませんよ。利子だって払えるもんですか、まあ安心してらっしゃい。
ラネーフスカヤ このひと寝言を言ってるのよ。将軍なんて、いるものですか。

   トロフィーモフ、アーニャ、ワーリャ登場。

ガーエフ さあ、連中がやってきた。
アーニャ ママがいるわ。
ラネーフスカヤ (優しく)おいで、さ、こっちへ。……二人とも、いい子ね……(アーニャとワーリャを抱く)わたしがどんなにあなたがたを愛してるか、わかってくれたらねえ。ならんでお坐《すわ》り、ほらね、こう。

  みなみな腰をおろす。
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ロパーヒン わが万年大学生先生は、いつもお嬢さんがたと一緒だね。
トロフィーモフ 君の知ったことじゃない。
ロパーヒン この人は、そろそろ五十になるというのに、相変らずまだ大学生だ。
トロフィーモフ 愚劣な冗談はいい加減にしたまえ。
ロパーヒン 何を怒るんだね、変ってるなあ?
トロフィーモフ ほっといてくれったら。
ロパーヒン (笑う)ところで一つ伺うけれど、君は僕《ぼく》のことを、なんと思ってるかね?
トロフィーモフ 僕はね、ロパーヒン君。こう思ってますよ――あんたは金持だ、おっつけ百万長者になるだろう。新陳代謝の意味では、猛獣が必要だ。なんでも手当り次第、食っちまうやつがね。君の存在理由も、要するにそれさ。

  一同わらう。

ワーリャ ねえペーチャ、あんたは遊星《ほし》の話でもしたほうが似合うわ。
ラネーフスカヤ それよか、どう、きのうの話の続きをしたら。
トロフィーモフ なんの話でしたっけ?
ガーエフ 人間の誇りのことさ。
トロフィーモフ きのうは、長いこと議論したけれど、けっきょく結論は出ませんでしたね。あなたの言われる意味で行くと、人間の誇りなるものには、何か神秘的なところがありますね。まあそれも、一説として正しいかも知れません。がしかし率直に、虚心坦懐《きょしんたんかい》に判断してみるとです、そもそもその誇りなるものが怪しいと言わざるを得ない。げんに人間が生理的にも貧弱にできあがっており、その大多数が粗野で、愚かで、すこぶるみじめな境涯《きょうがい》にある以上、誇りとかなんとかいっても、なんの意味があるでしょうか。自惚《うぬぼ》れはいい加減にして、ただ働くことですよ。
ガーエフ どっちみち死ぬのさ。
トロフィーモフ わかるもんですか? 第一、死ぬとは一体なんでしょう? もしかすると、人間には百の感覚があって、死ぬとそのうちわれわれの知っている五つだけが消滅して、のこる九十五は生き残るのかも知れない。
ラネーフスカヤ なんてお利口さんなんでしょう、ペーチャ! ……
ロパーヒン (皮肉に)おっそろしくね!
トロフィーモフ 人類は、しだいに自己の力を充実しつつ、進歩して行きます。今は人知の及びがたいものでも、いつかは身近な、わかり易《やす》いものになるでしょう。ただそのためには、働かなければならない。真理を探求する人たちを、全力をあげて援助しなければならんのです。今のところ、わがロシアでは、ごく少数の人が働いているだけで、僕の知っているかぎりインテリ〔ゲンツィヤ〕の大多数は、何一つ求めもせず、何一つしもせず、差当り勤労に適しません。インテリなどと自称しながら、召使は「きさま」呼ばわりする、百姓は動物あつかいにする、ろくろく勉強もせず、何一つ真面目《まじめ》には読まず、なんにもせずに、ただ口先で科学を云々《うんぬん》するばかり、芸術だってろくにわかっちゃいない。みんな真面目くさって、さも厳粛な顔つきをして、厳粛なことばかり口にし、哲学をならべているが、その一方かれら一人一人の眼の前では、労働者たちがひどい物を食い、一部屋に三十人四十人と、枕《まくら》もしないで寝ている。(]訳注 *以下は上演当時の検閲のため削除されたので、一九〇四年の初版本には、次のようにぼかされていた。――「その一方、われわれの大多数、百中の九十九までが、野蛮人みたいな暮しをして、何かといえば――すぐぶんなぐる、罵倒する、ひどい物を食って、息のつまるような汚ない所に寝て」)どこもかしこも南京虫と、鼻をつく悪臭と、ひどい湿気と、道徳的腐敗ばかりです。……で、われわれのやる麗々しい会話はみんな、ただ自分や他人の眼をくらまさんためであることは、言わずして明らかです。ひとつ教えていただきたい、――あれほどやかましく喋々《ちょうちょう》されている託児所は、一体どこにあるんです? 読書の家は、どこにあります? それは小説に出てくるだけで、実際は全然ありゃしない。あるのはただ、泥《どろ》んこと、俗悪と、アジア的野蛮だけだ。……僕は、真面目くさった顔つきが、身ぶるいするほど嫌《きら》いです。真面目くさった会話にも、身ぶるいが出る。いっそ黙っていたほうがましですよ。
ロパーヒン いや、わたしはね、毎朝四時すぎに起きだして、朝から晩まで働きづめでしょっちゅう自分や他人の金を扱っているが、見れば見るほど、まわりの人間が厭《いや》になるね。何かちょいと新しい仕事に手をつけさえすりゃ、世間に正直な、まともな人間がどんなに少ないかが、すぐにわかる。時どき、寝られない晩なんか、こんなことを考えたりしますよ、――「神よ、あなたは実にどえらい森や、はてしもない野原や、底しれぬ地平線をお授けになりました。で、そこに住むからには、われわれも本当は、雲つくような巨人でなければならんはずです……」とね。
ラネーフスカヤ まあ、巨人がご入用ですって……。お伽話《とぎばなし》のなかでこそ、あれもいいけれど、ほんとに出てきたら怖いわ。

   舞台の奥をエピホードフが通りかかって、ギターを弾く。

ラネーフスカヤ (もの思わしげに)エピホードフが歩いてる。……
アーニャ (もの思わしげに)エピホードフが歩いてる。
ガーエフ 日が沈んだよ、諸君。
トロフィーモフ そう。
ガーエフ (低い声で、朗読口調で)おお、自然よ、霊妙なるものよ、おんみは不滅の光明に輝く。われらが母と仰ぐ、美しく冷やかなおんみは、おのれのうちに生と死を結び合わす。おんみは物みなを生み、物みなを滅ぼす。……
ワーリャ (哀願するように)伯父さん!
アーニャ 伯父さま、また!
トロフィーモフ あなたは、黄玉を空《から》クッションで真ん中へ、のほうがいいですよ。
ガーエフ 黙るよ、黙っているよ。
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みんな坐って、物思いに沈む。静寂。聞えるのは、フィールスの小声のつぶやきばかり。不意にはるか遠くで、まるで天からひびいたような物音がする。それは弦《つる》の切れた音で、しだいに悲しげに消えてゆく。

ラネーフスカヤ なんだろう、あれは?
ロパーヒン 知りませんなあ。どこか遠くの鉱山で、巻揚機《ウインチ》の綱でも切れたんでしょう。しかし、どこかよっぽど遠くですなあ。
ガーエフ もしかすると、何か鳥が舞いおりたのかも知れん……蒼《あお》サギか何かが。……
トロフィーモフ それとも、大ミミズクかな……
ラネーフスカヤ (身ぶるいして)なんだか厭な気持。(間)
フィールス あの不幸の前にも、やはりこんなことがありました。フクロウも啼《な》きたてたし、サモワールもひっきりなしに唸《うな》りましたっけ。
ガーエフ 不幸の前というと?
フィールス 解放令の前でございますよ。(間)
ラネーフスカヤ ねえ皆さん、うちへはいりましょうよ、日が暮れてきたわ。(アーニャに)まあ、涙なんか溜《た》めて……。どうかしたの、アーニャ? (抱きよせる)
アーニャ なんでもないの、ママ。ただ、ちょっと。
トロフィーモフ 誰《だれ》か来る。
[#ここから2字下げ]
浮浪人が出てくる。古ぼけたヒサシ帽をかぶり、外套《がいとう》をまとい、少し酔っている。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
浮浪人 ちょっとお尋ねしますが、ここをまっすぐ、停車場へ出られますかね?
ガーエフ 出られますよ。その道をお行きなさい。
浮浪人 ご親切に、おそれ入ります。(咳《せき》ばらいをして)まことによいお天気で……(朗読する)はらからよ、苦しみ悩むはらからよ。……出《い》でてみよ、ヴォルガのほとり、聞ゆるは誰の呻《うめ》きぞ。([#ここから割り注]訳注 ネクラーソフの詩より[#ここで割り注終わり])……(ワーリャに)マドモワゼル、この飢えたるロシアの民に、三十コペイカほどどうぞ……

  ワーリャおびえて、声を立てる。

ロパーヒン (憤然として)無作法にも程度というものがあるぞ。
ラネーフスカヤ (怖気《おじけ》づいて)持ってらっしゃい……さあ、これを……(巾着《きんちゃく》の中をさがす)銀貨がないわ。……まあいい、さ、この金貨を……
浮浪人 ご親切に、おそれ入ります! (退場)

  笑い。

ワーリャ (あきれて)わたし行くわ……あっちへ行くわ。……お母さまったら、うちの人たちに食べさせる物がないというのに、あんな男に金貨をやるなんて。
ラネーフスカヤ わたし馬鹿《ばか》なんだもの、仕方がないわ! うちへ帰ったら、わたしの手持ちを残らず渡すからね。ロパーヒンさん、また貸してちょうだい! ……
ロパーヒン 承知しました。
ラネーフスカヤ さあ行きましょう、皆さん、時刻ですわ。そうそうワーリャ、さっきここでね、お前の縁談をととのえましたよ、おめでとう。
ワーリャ (涙ごえで)そんなこと、冗談に仰《おっ》しゃるもんじゃないわ、ママ。
ロパーヒン オフメーリア([#ここから割り注]訳注 オフィーリアをわざわざ、オストロフスキーの有名な芝居の登場人物の名にもじったもの。この名は「一杯きげん」の意味を含んでいるおかしみがある[#ここで割り注終わり])、ささ尼寺へ……
ガーエフ どうも手がふるえてならん、久しく玉突きをやらないもんだから。
ロパーヒン オフメーリア、おお水妖《ニンフ》よ。躬《み》が上も祈り添えてたもれ!
ラネーフスカヤ 行きましょうよ、皆さん。そろそろお夜食よ。
ワーリャ あの男のおかげで、ほんとにびっくりしたわ。胸がこんなにドキドキしている。
ロパーヒン 念のため申しあげておきますが、皆さん、八月二十二日には桜の園は競売になります。お考えねがいますよ! ……よくお考えをね! ……

   トロフィーモフとアーニャのほか、一同退場。

アーニャ (笑いながら)浮浪人さん、ありがとう。ワーリャをおどかしてくれたおかげで、やっと二人きりになれたわ。
トロフィーモフ ワーリャはね、僕たちがもしや恋仲になりはしまいかと警戒して、毎日、朝から晩まで、ああして付きっきりなんだ。あの人は、自分の狭い料簡《りょうけん》で、われわれが恋愛を超越していることがわからないんだ。われわれの自由と幸福をさまたげている、あのけちくさい妄想《もうそう》を追っぱらうこと、これが僕らの生活の目的であり意義なんです。進みましょう、前へ! 僕らは、はるか彼方《かなた》に輝いている明るい星をめざして、まっしぐらに進むのだ! 前へ! おくれるな、友よ!
アーニャ (手をたたいて)すてきだわ、あなたの話! (間)今日、ここはなんていいんでしょう!
トロフィーモフ そう、すばらしい天気です。
アーニャ あなたのおかげで、わたしどうかしてしまったわ、ペーチャ。なぜわたし、前ほど桜の園が好きでなくなったのかしら? あんなに、うっとりするほど好きだったのに、――この世に、うちの庭ほどいい所はないと思っていたのに。
トロフィーモフ ロシアじゅうが、われわれの庭なんです。大地は宏大《こうだい》で美しい。すばらしい場所なんか、どっさりありますよ。(間)ね、思ってもご覧なさい、アーニャ、あなたのお祖父《じい》さんも、ひいお祖父さんも、もっと前の先祖も、みんな農奴制度の讃美者《さんびしゃ》で、生きた魂を奴隷《どれい》にしてしぼり上げていたんです。で、どうです、この庭の桜の一つ一つから、その葉の一枚一枚から、その幹の一本一本から、人間の眼《め》があなたを見ていはしませんか、その声があなたには聞えませんか? ……生きた魂を、わが物顔にこき使っているうちに――それがあなたがたを皆、むかし生きていた人も、現在いきている人も、すっかり堕落させてしまって、あなたのお母さんも、あなたも、伯父さんも、自分の腹を痛めずに、他人《ひと》のふところで、暮していることにはもう気がつかない、――あなた方が控室より先へは通さない連中の、ふところでね。(訳注 *以下は上演当時の検閲のため削除されたので、一九〇四年の初版本には、次のように言いかえられていた。――「ああ、怖ろしいことだ、お宅の庭は不気味です。晩か夜なかに庭を通り抜けると、桜の木の古い皮がぼんやり光って、さも桜の木が、百年二百年まえにあったことを夢に見ながら、重くるしい幻にうなされているような気がします。いやはや、まったく!」)……われわれは、少なくも二百年は後れています。ロシアにはまだ、まるで何一つない。過去にたいする断乎《だんこ》たる態度ももたず、われわれはただ哲学をならべて、憂鬱《ゆううつ》をかこったり、ウオッカを飲んだりしているだけです。だから、これはもう明らかじゃありませんか、われわれが改めて現在に生きはじめるためには、まずわれわれの過去をあがない、それと縁を切らなければならないことはね。過去をあがなうには、道は一つしかない、――それは苦悩です。世の常ならぬ、不断の勤労です。そこをわかってください、アーニャ。
アーニャ わたしたちの今住んでいる家《うち》は、もうとうに、わたしたちの家じゃないのよ。だからわたし出て行くわ。誓ってよ。
トロフィーモフ もしあなたが、家政の鍵《かぎ》をあずかっているのなら、それを井戸のなかへぶちこんで、出てらっしゃい。そして自由になるんです、風のようにね。
アーニャ (感激して)それ、すばらしい表現だわ!
トロフィーモフ 信じてください、アーニャ、僕を信じて! 僕はまだ三十にならない、僕は若い、まだ学生ですが、これでずいぶん苦労はして来ましたよ! 冬になると、たちまち僕は口が乾《ひ》あがって、病みついて、いらいらして、乞食《こじき》も同然の境涯に落ちこんで、――運命の追うがままに、所きらわずほっつき歩いたもんです! それでもやっぱり僕の心は、夜も昼もたえず、いついかなる瞬間にも、一種なんとも言えぬ予感に満たされていました。僕は幸福を予感します、アーニャ、僕にはもうそれが見える……
アーニャ (もの思わしげに)月が出たわ。

  エピホードフが相変らず同じわびしい歌を、ギターで弾いているのが聞える。月がのぼる。どこかポプラの木のへんで、ワーリャがアーニャをさがしながら、「アーニャ! どこにいるの?」と呼んでいる。

トロフィーモフ そう、月が出ました。(間)そら、あれが幸福です。もうやって来た、だんだん近づいてくる。僕にはもう、その足音がきこえる。よしんば、僕たちにそれが見つからず、ああこれだと悟る時がないにしても、それがなんです? 誰かが見つけますよ!
ワーリャの声 アーニャ! どこにいるの?
トロフィーモフ またワーリャだ! (忌々《いまいま》しそうに)厭になるなあ、まったく。
アーニャ かまわないわ。川のほうへ行きましょうよ。あすこはよくってよ。
トロフィーモフ 行きましょう。(ふたり歩きだす)
ワーリャの声 アーニャ! アーニャ!

                            ――幕――

     第三幕

  アーチで奥の広間と区切られた客間。シャンデリアがともっている。次の間で、ユダヤ人の楽団の演奏がきこえる。二幕目に話に出たあれである。宵《よい》。広間ではグラン・ロン(訳注 大円舞)の最中。やがて≪Promenade《プロムナード》 〔a
〕《ア》 une《ユヌ》 paire《ペール》!≫(訳注 一組ずつ行進!)というシメオーノフ=ピーシチクの掛声がして、順々に舞台へ出てくる。――先頭の組はピーシチクとシャルロッタ、二番目はトロフィーモフとラネーフスカヤ夫人、三番目はアーニャと郵便官吏、四番目はワーリャと駅長、等々。ワーリャは忍び泣きに泣いており、踊りながら涙をふく。最後の組にドゥニャーシャ。 みなみな客間を一巡して広間へ。ピーシチクの掛声――≪Grand《グラン》 rond《ロン》, balancez《バランセ》!≫(訳注 大円陣、みぎ左へ!)≪Les《レ》 |〔cavaliers a〕《カヴァリエザ》 genoux《ジュヌー》 et《エ》 remerciez《ルメルシェ》 vos《ヴォ》 dames《ダーム》!≫([#ここから割り注]訳注 騎士はひざまずいて、貴婦人に謝意を表わす![#ここで割り注終わり])
フィールスが燕尾服《えんびふく》すがたで、炭酸《ゼルテル》水を盆にのせて持って出る。客間にピーシチクとトロフィーモフ登場。

ピーシチク わたしはどうも多血質でね、もう二度も卒中にやられているもんで、踊りはどだい無理なんだが、下世話にもいうとおり、おつきあいなら吠《ほ》えないまでも、せめて尻尾《しっぽ》を振るがよい――だからな。丈夫なことといったら、わたしは馬もはだしさ。わたしの亡《な》くなった親父《おやじ》は、剽軽《ひょうきん》な人だったが、――天国に安らわせたまえ――うちの家系のことで、こんなことを言っていたっけ。このシメオーノフ=ピーシチクという古い家柄《いえがら》は、どうやらあのカリグラ皇帝([#ここから割り注]訳注 ローマ三代目の皇帝。暴君で、自分の愛馬に元老院の議席を与えたりした[#ここで割り注終わり])が元老院の議席につけた例の馬から出ているらしい、とさ。……(腰かける)だが、困ったことには、金がない! かつえた犬には肉こそ黄金《こばん》、といってな。……(いびきをかき、すぐまた目を覚ます)わたしもそれさ……金のことしか頭にないのさ……
トロフィーモフ そう言えば、あなたの格好には、実際なにか馬に通ずるところがありますね。
ピーシチク なあに……馬はいい獣だ……だいいち売れるからな……
[#ここから2字下げ]
となりの部屋で、玉突きの音がする。広間のアーチの下に、ワーリャが姿を見せる。

トロフィーモフ (からかって)マダム・ロパーヒン! マダム・ロパーヒン! ……
ワーリャ (ムッとして)禿《は》げの旦那《だんな》!
トロフィーモフ いかにも、僕《ぼく》は禿げの旦那だ、それを誇りとしてるんだ!
ワーリャ (くよくよ案じながら)楽隊をやとったりして、払いはどうするつもりかしら? (退場)
トロフィーモフ (ピーシチクに)あなたが一生のあいだに利子を払う金の工面に費やしたエネルギーが、何かもしほかのことに向けられたとしたら、おそらくあなたはとどのつまり、地球をひっくり返すこともできたろうになあ。
ピーシチク ニーチェがね……哲学者の……誰《だれ》しらぬ者もない、えら物《ぶつ》ちゅうのえら物の……あのすごい知恵者がな、その著述のなかで、にせ札は作ってもいいとか言っているが。
トロフィーモフ あなたは、ニーチェを読んだんですか?
ピーシチク いや、なに。……うちのダーシェンカが話してくれたのさ。ところで現在わたしは、ええ一つ、にせ札でも作ってやろうか、といった土壇場《どたんば》でな。……あさって三百十ルーブリ払わにゃならん……百三十はやっとできたが……(ポケットをさわってみて、あわてて)金がなくなった! 金を落したぞ! (泣き声で)どこへ行ったんだろう? (嬉《うれ》しそうに)ああ、あった、服の裏へもぐりこんでいた。……やれやれ、冷汗が出たわい……

  ラネーフスカヤとシャルロッタ登場。

ラネーフスカヤ (コーカサスの舞曲を口ずさむ)レオニードは、どうしてこう遅いのだろう? 町で何をしているのかしら? (ドゥニャーシャに)ドゥニャーシャ、楽隊の人にお茶をあげて……
トロフィーモフ 競売はお流れになったんですよ、きっとそうです。
ラネーフスカヤ 楽隊の来たのも折が悪かったし、舞踏会も生憎《あいにく》の時に開いたものだわ。……まあ、いいさ。……(腰かけて、そっと口ずさむ)
シャルロッタ (ピーシチクにカードを一組わたす)さあ、カードを一組あげましたよ。どれか一枚だけ、頭のなかで考えてください。
ピーシチク 考えました。
シャルロッタ では、よく切ってください。大そう結構。こちらへ頂かしてください、おお、いとしいピーシチクさん。一《アイン》、二《ツワイ》、三《ドライ》! さあ、捜してごらんなさい、その札はあなたの脇《わき》ポケットにあります……
ピーシチク (脇ポケットからカードを取りだす)スペードの八、まさにその通り! (驚嘆して)こりゃ、どうだ!
シャルロッタ (手の平にカードを一組のせて、トロフィーモフに)早く言ってください、一ばん上のカードは?
トロフィーモフ なにさ? じゃ、スペードのクイン。
シャルロッタ はい! (ピーシチクに)では? 一ばん上のカードは?
ピーシチク ハートのエース。
シャルロッタ はい! ……(手の平を打つ、カードの一組きえ失《う》せる)さて、今日はなんていいお天気でしょう! (不可思議な女の声が、さながら床下からひびくように答える、――「ええ、ほんとに、いいお天気ですこと、奥さん」)あなたは、なんとも申しぶんのない、わたしの理想の人よ。……(声、――「わたしも、奥さん、あなたが大好きです」)
駅長 (拍手する)よう、腹話術の名人、ブラヴォー!
ピーシチク (驚嘆して)こりゃ、どうだ! いや、あなたは魔女か妖精《ようせい》か、シャルロッタさん……わしはすっかりあんたに惚《ほ》れましたよ……
シャルロッタ 惚れたですって? (肩をすくめて)あなたに恋ができまして? Guter《グータ》 Mensch《メンシ》, aber《アーバ》 schlechter《シレヒタ》 Musikant《ムジカント》.([#ここから割り注]訳注 ドイツ語。「人はいいが音楽は下手」[#ここで割り注終わり])
トロフィーモフ (ピーシチクの肩をたたいて)まったく、なんて馬だろう、あんたは……
シャルロッタ では皆さん、もう一番、手品をご覧に入れます。(椅子《いす》から格子縞《こうしじま》の膝掛《ひざか》けを取る)これは飛びきり極上の羅紗《ラシャ》でございます、これをお売りいたします……(振ってみせる)買いたい方はありませんか?
ピーシチク (驚いて)こりゃどうだ!
シャルロッタ アイン・ツワイ・ドライ! (おろした布をパッと上げる。布のうしろにアーニャが立っている。彼女は膝をかがめて会釈《えしゃく》をして、母親へ走り寄り、抱擁して、満座熱狂のうちに広間へ駆けもどる)
ラネーフスカヤ (拍手して)ブラヴォー、ブラヴォー! ……
シャルロッタ では、もう一番! アイン・ツワイ・ドライ! (布を上げると、うしろにワーリャが立って、おじぎをする)
ピーシチク (驚いて)こりゃ、どうだ!
シャルロッタ はい、おしまい! (布をピーシチクに投げかけ、膝をかがめて会釈し、広間へ走り去る)
ピーシチク (いそいで追いかけながら)この悪者……いやはや! なんという! (退場)
ラネーフスカヤ でも、レオニードはまだね。何を町でぐずぐずしてるんだろう、変だこと! 領地が売れたにしろ、競売がお流れになったにしろ、どっちみちケリがついているはずなのに、なんだっていつまでも知らせてくれないのかしら!
ワーリャ (なだめようと懸命に)伯父さんが落札なすったのよ、きっとですわ。
トロフィーモフ (冷笑的に)なるほどね。
ワーリャ おばあさんから伯父さんへ、委任状が来ましたのよ――おばあさんの名義で買い戻《もど》して、借金は肩代りにするようにって。アーニャのために計らってくだすったんですわ。だからわたし、それが神さまに通じて、伯父さんが落札なさるに違いないと思うの。
ラネーフスカヤ ヤロスラーヴリのおばあさまが、ご自分の名義で領地を買うようにって、送ってくだすったお金は一万五千ルーブリなのよ、――わたしたち信用がないんだわ、――そんなお金じゃ、利子の払いにも足りやしない。(両手で顔をおおう)今日こそ、わたしの運命のきまる日よ、運命の……
トロフィーモフ (ワーリャをからかう)マダム・ロパーヒン!
ワーリャ (怒って)万年大学生! 二度ももう、大学を追い出されたくせに。
ラネーフスカヤ 何をおこるのさ、ワーリャ? この人が、ロパーヒンのことでお前をからかったって、それがなんです? 嫁《い》きたければ――ロパーヒンの嫁になるがいいわ。あれは見どころのある、いい人間だもの。いやなら――嫁《い》かないがいいのさ。誰もお前を、束縛しやしない。……
ワーリャ わたし正直に言えば、このことは真剣に考えていますの。あの人はいい人間で、わたし好きですわ。
ラネーフスカヤ じゃ、嫁《い》ったらいいじゃない。何を待つことがあるの、気が知れないわ!
ワーリャ だって、お母さん、自分であの人に申込みをするわけには行きませんもの。現にこの二年というもの、みんながわたしに、あの人のことを言うの、寄ってたかってね。ところがあの人は、黙っているか、冗談にまぎらしてしまうかですの。それもわかるわ。あの人はますますお金ができて、事業で忙しくて、わたしどころじゃないのよ。もしもわたし、お金があったら、――たとえ少しでも、せめて百ルーブリでもあったら、わたしは何もかもうっちゃって、身をかくしてしまうわ。尼寺へはいってしまうわ。
トロフィーモフ そいつはすばらしい!
ワーリャ (トロフィーモフに)大学生は、も少し利口なものよ! (口調を柔らげて、泣き声で)なんてあなた、風采《ふうさい》が落ちたの、ペーチャ、なんて老《ふ》けてしまったのよ! (もう泣かずに、ラネーフスカヤ夫人に)ただね、こうして仕事をしないでいるのが辛《つら》いのよ、ママ。わたし、一分一秒、何かせずにはいられないの。

  ヤーシャ登場。

ヤーシャ (やっと笑いをこらえながら)エピホードフが、撞球棒《キュー》を折りました! ……(退場)
ワーリャ なんだってエピホードフがいるの? 誰があれに、玉突きをしろと言いました? あの人たちの気が知れないわ。……(退場)
ラネーフスカヤ あの子をからかわないでね、ペーチャ、ただでさえ、苦労の多い子なんですから。
トロフィーモフ お節介すぎますよ、あの人は、ひとの事にまでくちばしを入れたりして。この夏じゅう、僕もアーニャもじつに悩まされた、――ふたりの間にロマンスでも起りゃしないかと、それがあのひと心配で堪《たま》らないんです。あの人の知ったことですか? おまけに僕は、そんな気振《けぶ》りも見せないのにね。僕はそれほど俗悪じゃありませんよ。われわれは恋愛を超越してるんです!
ラネーフスカヤ じゃ、きっと、わたしは恋愛以下なのね。(はげしい不安に駆られて)レオニードはどうしたんだろう? 領地が売れたかどうか、それだけでもわかればねえ! わたし今度の災難が、あんまり嘘《うそ》みたいだもんだから、何を考えたものやら、見当さえつかずに、ぼおっとしているの。……今にもわたし、大声でわめきだすか……何か馬鹿《ばか》なまねをしそうだわ。わたしを助けて、ペーチャ。何か話をしてちょうだい、ね、何か……
トロフィーモフ 領地が今日売れようと売れまいと――同じことじゃありませんか? あれとはもう、とっくに縁が切れて、今さら元へは戻りません、昔の夢ですよ。気を落ちつけてください、奥さん。いつまでも自分をごまかしていずに、せめて一生に一度でも、真実をまともに見ることです。
ラネーフスカヤ 真実をねえ? そりゃあなたなら、どれが真実でどれがウソか、はっきり見えるでしょうけれど、わたし、なんだか眼《め》が霞《かす》んでしまったみたいで、何一つ見えないの。あなたはどんな重大な問題でも、勇敢にズバリと決めてしまいなさるけれど、でもどうでしょう、それはまだあなたが若くって、何一つ自分の問題を苦しみ抜いたことがないからじゃないかしら? あなたが勇敢に前のほうばかり見ているのも、元をただせば、まだ本当の人生の姿があなたの若い眼から匿《かく》されているので、怖いものなしなんだからじゃないかしら? わたしたちに比べれば、あなたはずっと勇敢で、正直で、深刻だけれど、もっとよく考えてね、爪《つめ》の先ほどでもいいから寛大な気持になって、わたしを大目に見てちょうだい。だってわたしは、ここで生れたんだし、お父さんもお母さんも、お祖父《じい》さんも、ここに住んでいたんですもの。わたしはこの家がしんから好きだし、桜の園のないわたしの生活なんか、だいいち考えられやしない。どうしても売らなければいけないのなら、いっそこのわたしも、庭と一緒に売ってちょうだい。……(トロフィーモフを抱きしめて、その額にキスする)坊やもここで、溺《おぼ》れ死んだんですものね。……(泣く)わたしを哀れと思って、ね、あなたは親切な、いい人ですもの。
トロフィーモフ ぼくが心《しん》から同情してること、ご存じじゃないですか。
ラネーフスカヤ そんならそれで、何かもっと、別の言い方があるはずだわ。……(ハンカチを取りだす拍子に、電報がゆかへ落ちる)わたし今日は気が重くてならない。この気持、とてもあなたにはわからないわ。ここは騒々しくって、物音一つするごとに、胸がドキリとする。からだじゅう、ふるえてくる。でも、居間へ引っこむわけにもいかない。静かなところに、一人でいるのはやりきれないもの。わたしを責めないでね、ペーチャ。……わたしあなたが好きで、他人のような気がしない。あなたになら、わたし喜んでアーニャを上げるわ、ほんとによ。でもただね、あなたは勉強しなくちゃ駄目《だめ》、卒業しなくちゃね。あなたはなんにもせずに、運命のままにふらふらしてなさるけれど、ほんとに妙だわ。……そうじゃなくて? ね? それに、その顎《あご》ひげだって生やすなら生やすで、も少しなんとかしなくちゃねえ。……(笑う)可笑《おか》しな人!
トロフィーモフ (電報を拾って)僕は好男子になりたかありません。
ラネーフスカヤ これ、パリから来た電報なの。毎日くるのよ。きのうも今日も。あのガムシャラ屋さんは、また病気になって、工合がわるいの。……どうぞ赦《ゆる》してくれ、どうぞ帰って来てくれ、と言うんだけれど、考えてみればやっぱり、わたしパリへ行って、あの人のそばにいてやるのが本当なのね。あなたは、むずかしい顔をしてるけれど、ねえペーチャ、わたし、どうしようもないじゃないの! あの人は病気で、一人ぼっちで、辛い目にあってるというのに、誰があの人の世話をするの、誰があの人にケガのないようにお守《も》りをするの、誰が時間どおりに薬をのませるの? 今さら包みかくしたところでしようはないわ、わたしあの人を愛しています、そりゃ明白よ。愛している、愛してますとも。……それはわたしの頸《くび》に結えつけられた重石《おもし》で、その道づれになってわたしは、ぐんぐん沈んで行くけれど、やっぱりその重石が思いきれず、それがないじゃ生きて行けないの。(トロフィーモフの手を握る)悪く思わないでね、ペーチャ、わたしに何も言わないで、ね、言わないで……
トロフィーモフ (涙ごえで)率直に言わせてください、お願いです。あの男は、あなたからすっかり捲《ま》きあげたじゃないですか!
ラネーフスカヤ いや、いや、いや、それを言わないで……(両耳をふさぐ)
トロフィーモフ あいつは碌《ろく》でなしです、それを知らないのはあなただけだ! あいつはケチなやくざ野郎で、虫けらみたいな……
ラネーフスカヤ (ムッとするが、じっとこらえて)あなたは二十六か七のはずね。だのに、まるで中学の二年生みたい!
トロフィーモフ かまやしません!
ラネーフスカヤ もっと大人にならなけりゃ駄目よ。あなたの年になれば、恋をする人の気持ぐらい、わからなければね。そして自分も恋をしなくてはね……夢中になってね! (腹だたしげに)そうよ、そうですとも! あんただって、純潔なんかあるもんですか。ただ気どってるだけよ、滑稽《こっけい》な変り者よ、片輪よ……
トロフィーモフ (呆気《あっけ》にとられて)何を言うんだ、この人は!
ラネーフスカヤ 「恋愛を超越してる」ですって! 超越するどころか、あんたはうちのフィールスの言うように、この出来そこねえめ、ですよ。その年をして、恋人ひとりいないなんて! ……
トロフィーモフ (仰天して)こりゃ、ひどい! 何を言い出すんだ※[#疑問符感嘆符、1-8-77] (頭をかかえて、広間へ急ぐ)まったくひどい。……とてもたまらん、僕は行こう……(退場。しかしすぐ戻って来て)もうあなたとは絶交です! (次の間へ退場)
ラネーフスカヤ (うしろから叫ぶ)ペーチャ、待ってちょうだい! おかしな人ね、ちょっと冗談いっただけじゃないの! ペーチャ!

   次の間の階段を、誰かが大急ぎで登って行く足音がし、とつぜんドシンと落ちる音がする。アーニャとワーリャの叫び声。しかしすぐ笑い声になる。

ラネーフスカヤ おや、どうしたんだろう?

  アーニャが駆けこむ。

アーニャ (笑いながら)ペーチャがね、階段から落っこちたの! (走り去る)
ラネーフスカヤ なんておかしな人だろう、あのペーチャは……

  駅長が広間の真ん中に立ちどまって、A・K・トルストイの『罪の女』(訳注 ロシア十九世紀の詩人・劇作家トルストイの叙事詩。次にその数行を例示する。――「若き罪の女は、杯をほしつつ、/その間に坐せり。/そのきらびやかのよそおいは/人みなの目をうばう、/その毒々しき髪かざりは/罪の女のなりわいを語る」)を朗読する。一同謹聴するが、何行も読まないうちに次の間からワルツのひびきが流れてきて、朗読は中絶する。一同おどる。次の間から、トロフィーモフ、アーニャ、ワーリャ、ラネーフスカヤが出てきて、舞台にかかる。

ラネーフスカヤ ねえ、ペーチャ……その純潔な心で、わたしを赦してちょうだい、……さ、一緒に踊りましょう。……(ペーチャと踊る)

  アーニャもワーリャも踊る。
   フィールスがはいってきて、自分の杖《つえ》を横手のドアのそばに立てかける。ヤーシャも客間からはいって来て、ダンスを見物する。
 
ヤーシャ どうした、爺《じい》さん?
フィールス 加減がわるくてな。昔はうちの舞踏会といやあ、将軍さまだの男爵《だんしゃく》だの提督閣下だのが踊りに来なすったもんだが、それが今じゃ、郵便のお役人だの駅長だのを迎えにやって、それさえいい顔をして来やしない。どうもわしも、めっきり弱くなったよ。亡《な》くなった大旦那《おおだんな》さまは、みんなの病気を、いつも封蝋《ふうろう》で療治なすったものだ。今でもわしは、毎にち封蝋をのんでるが、これでもう二十六年か、その上にもなるかな。わしがこうして生きているのは、そのおかげかも知れんて。
ヤーシャ お前さんの話にも、あきあきするよ、爺さん。(あくび)いっそさっさと、くたばっちまえばいいになあ。
フィールス ええ、この……出来そこねえめが! (ぶつぶつ呟《つぶや》く)

  トロフィーモフとラネーフスカヤが広間で踊り、やがて客間で踊る。

ラネーフスカヤ ありがとう《メルシ》。わたし、ちょっと休みます。……(腰かける)疲れたわ。

  アーニャ登場。

アーニャ (わくわくして)いま台所で、どこかの人が、桜の園は今日、売れてしまったと話していたわ。
ラネーフスカヤ 誰《だれ》が買ったの。
アーニャ 誰とも言わずに、行ってしまったの。(トロフィーモフと踊る。ふたり広間へ去る)
ヤーシャ それはね、どこかの爺さんがしゃべってたんでさあ、よそもんでしたがね。
フィールス 旦那さまは、まだ見えない、まだお帰りがない。外套《がいとう》は、薄い合着を召してお出かけだったが、もしや風邪でもお引きにならなけりゃいいが、いやはや、若い人というもんは!
ラネーフスカヤ わたし、今にも死にそうだ。ヤーシャ、向うへ行って聞いてきておくれ、誰が買ったのだか。
ヤーシャ でも、とっくに行ってしまいましたよ、その爺さんは。(笑う)
ラネーフスカヤ (いささかムッとして)まあ、何を笑うの、お前は? 何が嬉《うれ》しいの?
ヤーシャ あんまり、エピホードフのやつがおかしいもんで。いや、つまらん男で。二十二の不仕合せ。
ラネーフスカヤ フィールス、この領地が売れてしまったら、おまえどこへ行くつもり?
フィールス 仰《おお》せのままに、どこへでも参ります。
ラネーフスカヤ お前、どうしてそんな顔をしてるの? 加減でも悪いの? 向うへ行って、やすんだらどう? ……
フィールス へえ。……(にやりと笑って)そりゃ、さがって休むのも宜《よろ》しいけれど、あとは誰が給仕をいたします。誰が采配を振ります? うちじゅうに、一人でございますよ。
ヤーシャ (ラネーフスカヤ夫人に)奥さま! じつはお願いの筋がありますんですが、どうぞお聞きになってください! もしまたパリへお出かけになるようでしたら、後生でございます、わたしにお伴《とも》させてくださいまし。ここにおりますことは、絶対に不可能なんでして。(あたりを見まわし、声をひそめて)今さら申上げるまでもなく、ご自身とうにご存知のとおり、何しろ無教育な国で、民衆は品行がわるいし、それに退屈で、お勝手の食べ物ときたら目もあてられませんし、おまけにあのフィールスのやつが、うろうろしおって、色々と愚にもつかんことを、ぼそついておりますしねえ。わたしをお連れくださいまし、お願いでございます!

  ピーシチク登場。

ピーシチク どうぞ奥さん……ワルツを一番ねがいます……(ラネーフスカヤ、彼と歩きだす)天女のような奥さん、とにかく百八十ルーブリは拝借しますよ……。ぜひ拝借しますよ……(踊る)百八十ルーブリ……(広間へ移る)
ヤーシャ (そっと口ずさむ)「きみ知るや、わが胸のこの痛み……」

  広間で、灰色のシルクハットに格子縞《こうしじま》のズボンをはいた人物が、両手を振ったり跳ねあがったりする。              「ブラヴォー、シャルロッタさん、大出来、シャルロッタさん!」と口ぐちに叫ぶ。

ドゥニャーシャ (立ちどまって、白粉《おしろい》をはたく)お嬢さまったら、あたしにも踊れって仰《おっ》しゃるのよ――殿がたは大勢なのに、婦人が少ないからって。――でもあたし、踊ったおかげで目まいがするわ、心臓がどきどきするわ。ちょいとフィールスさん、今しがた郵便のお役人さんが、あたしに大変なことを仰しゃったの、あたし息がとまりそうになっちゃった。

  音楽がしずまる。

フィールス なんと仰しゃったかい?
ドゥニャーシャ あんたは花のようだ、ですって。
ヤーシャ (あくび)無学な連中だ……(退場)
ドゥニャーシャ 花のようだ、ですって。……あたし、そりゃデリケートな娘だもので、うっとりするような言葉が大好き。
フィールス そろそろおっぱじめるな、お前さんも。

  エピホードフ登場。

エピホードフ ああ、ドゥニャーシャさん、あなたは僕《ぼく》を見るのが、さも厭《いや》そうですね……虫けらかなんぞのように。(ため息をつく)あわれ人生よ、だ!
ドゥニャーシャ 何のご用ですの?
エピホードフ もちろんそりゃ、あなたの方が正しいのかも知れない。(嘆息する)しかし無論ですな、その……ある観点からすると、あなたという方は、まあ率直に言わせて頂くとですな、要するに僕を、こんな精神状態に落し入れてしまったと、あえて言わざるを得んのです。僕は自分の宿命を承知している。僕の身には、毎日かならず何かしら不仕合せが起るし、僕はもうとうに馴《な》れっこになって、おのれが運命を微笑をもって眺《なが》めています。要するにですな、あなたは一たん約束された。で、よしんば僕が……
ドゥニャーシャ どうぞそのお話は、のちほどに願いますわ。今はあたしを、そっとしておいてちょうだい。だって、空想してるんですもの。(扇をもてあそぶ)
エピホードフ 僕は毎日不仕合せにぶつかります。しかし僕は、あえて言えばですな、ただ微笑しています、いや、ハッハッハと笑ってさえいます。

  広間からワーリャ登場。

ワーリャ お前まだここにいたの、エピホードフ? ほんとに、なんていい加減な人間だろう。(ドゥニャーシャに)お前もあっちへおいで、ドゥニャーシャ。(エピホードフに)玉突きをしてキューを折ったかと思えば、お客さま面《づら》をして客間を歩きまわったりして。
エピホードフ こう申しては失礼ですが、あなたからお小言を頂く筋合いはありません。
ワーリャ 小言なんか言ってやしない、話をしているんだよ。することと言ったら、仕事はそっちのけで、ふらふら歩きまわることばかり。せっかく執事をやとっても、なんのためやら――わかりゃしない。
エピホードフ (ムッとして)わたしが仕事をしようと、歩きまわろうと、食べようと、玉を突こうと、それについてとやかく仰しゃれるのは、物のわかった人か目上のかただけですよ。
ワーリャ よくも言えたね、わたしにそんなことが! (カッとなって)言ったわね? つまりわたしが、わからずやだと言うんだね? とっとと出てくがいい! さあ今すぐ!
エピホードフ (怖気《おじけ》づいて)もう少々その、デリケートな言葉で、どうぞ。
ワーリャ (われを忘れて)さっさと出てけったら! さ、出てけ! (エピホードフがドアの方へ行くのを、彼女は追う)二十二の不仕合せめ! お前のにおいがプンとでもしたら承知しないよ! 二度とその顔を見せてもらうまい! (エピホードフ退場。ドアの向うで、「あなたのことを、言いつけますからね」という彼の声がする)おや、また返って来るんだね? (フィールスがドアのそばに立てかけておいた杖をつかむ)さあ来い……来るならおいで、目にもの見せてやるから。……来るんだね? え、来るんだね? よおし、こうしてやる……(杖をふりあげる、とたんにロパーヒン登場)
ロパーヒン これはどうも恐縮。
ワーリャ (怒りと嘲笑《ちょうしょう》をまぜて)失礼!
ロパーヒン どうしまして。結構なご馳走《ちそう》で、あつくお礼を。
ワーリャ 礼には及びません。(その場から離れ、やがて振りかえって、やさしく尋ねる)お怪我《けが》はなかったかしら?
ロパーヒン いや、なあに。もっとも、でっかい瘤《こぶ》ぐらいできそうですがね。
広間の声々 ロパーヒンが来た! ロパーヒンさんだわ!
ピーシチク いよう、これはこれは、ようこそご入来《じゅらい》……(ロパーヒンにキスする)この可愛《かわい》い男は、ちょっぴりコニャックの匂《にお》いがするな、おい君。われわれもこの通り、愉快にやっとるよ。

  ラネーフスカヤ夫人登場。

ラネーフスカヤ まあ、あなたでしたの、ロパーヒンさん? どうしてこんなに遅かったの? レオニードはどうしまして?
ロパーヒン お兄さまも、一緒に戻《もど》られました。すぐ見えます……
ラネーフスカヤ (わくわくしながら)で、どうでしたの? 競売はありまして? さ、話してちょうだい!
ロパーヒン (嬉しさを外へ出すまいとして、しどろもどろに)競売は四時ちかくに終りました。……わたしたちは汽車に乗りおくれたもので、九時半まで待たにゃならなかったんです。(苦しそうに息をついて)ふうっ! すこし頭がぐらぐらする……

  ガーエフ登場。右手には買物をさげ、左手で涙をふいている。

ラネーフスカヤ リョーニャ、どうだったの! ねえ、リョーニャ! (じりじりして、涙ぐんで)早くして、後生だから……
ガーエフ (一言も答えず、ただ片手を振る。泣きながらフィールスに)これを取ってくれ。……アンチョビイと、ケルチ([#ここから割り注]訳注 クリミア半島の東端[#ここで割り注終わり])のニシンとだ。……わたしは今日、なんにも食べなかったよ。……ああ、まったくひどい目に会った! (玉突き部屋へのドアがあいていて、球の音と、ヤーシャが「七と十八!」という声がきこえる。ガーエフの表情が変って、もう泣かずに)いやもう、へとへとだ。なあフィールス、着がえさせてくれ。(広間を抜けて自分の居間へ去る。フィールスつづく)
ピーシチク どうだったね、競売は? 話してくれよ、さあ!
ラネーフスカヤ 売れたの、桜の園は?
ロパーヒン 売れました。
ラネーフスカヤ 誰が買ったの?
ロパーヒン わたしが買いました。(間)

   ラネーフスカヤ夫人、がっくりとなる。もし肘《ひじ》かけ椅子《いす》とテーブルのそばに立っていなかったら、倒れたにちがいない。ワーリャはバンドから鍵束《かぎたば》をはずし、それを客間中央の床へ投げつけて退場。

ロパーヒン わたしが買ったんです! ちょっと待ってください、皆さん、お願いです。わたしは頭がぼおっとしてしまって、ものが言えないんです。……(笑う)わたしたちが競売場に着いてみると、デリガーノフはもう来ていました。ガーエフさんには、たった一万五千しかないのに、あのデリガーノフはいきなり、抵当額の上に三万と吹っかけてきました。こいつはいかんと思って、わたしはやつを向うにまわして、四万と打って出た。向うは四万五千とくる。そこでこっちは五万五千。つまり、やつは五千ずつ上げてくるのに、わたしは一万ずつ上げて行った。……やがて、ケリがついた。抵当額の上に、わたしは九万と踏んばって、まんまと落したんです。桜の園は、もうわたしのものだ! わたしのものなんだ! (からからと笑う)ああどうしたことだ、皆さん、桜の園がわたしのものだなんて! 言いたいなら言うがいい、わたしが酔っているとでも、気が変だとでも、夢を見てるんだとでも……(足を踏み鳴らす)わたしを笑わないでください! うちの親父《おやじ》や祖父《じい》さんが、墓の下から出てきて、この始末を見たらどうだろう。あのエルモライが、なぐられてばかりいた、字もろくすっぽ書けないエルモライが――冬でもはだしで駆けまわっていたあの餓鬼が、まぎれもないそのエルモライが、世界じゅうに比べものもない美しい領地を、買ったのだ。そこでは親父も祖父さんも奴隷《どれい》だった、台所へさえ通しちゃもらえなかった、その領地をわたしが買ったのだ。わたしが寝ぼけてるって、ただの夢だって、……気の迷いだって。……とんでもない、それこそあなたがたの得手勝手《えてかって》な想像の、無知のやみに包まれた産物《まぼろし》なのだ。……(鍵束を拾いあげ、うっとりほほえみながら)鍵を投げてったな。もうここの主婦ではないというところを、見せようっていうんだな。……(鍵束をがちゃつかせる)ふん、まあどっちでもいい。(オーケストラの調子を合せる音がきこえる)おおい、楽隊、やってくれ、おれが聴いてやるぞ! みんな来て見物するがいい、このエルモライ・ロパーヒンが桜の園に斧《おの》をくらわせるんだ、木がばたばた地面へ倒れるんだ! どしどしここへ別荘を建てて、うちの孫や曾孫《ひいまご》のやつらに、新しい生活を拝ませてやるぞ。……楽隊、やってくれ!

  音楽がはじまる。ラネーフスカヤ夫人は椅子に沈みこんで、はげしく泣く。

ロパーヒン (責めるように)一体なぜ、なんだってあなたは、わたしの言うことを聴かなかったんです? わたしの大事な奥さん、お気の毒ですが、今となってはとり返しがつきません。(涙ぐんで)ああ早く、こんなことが過ぎてしまえばいい。なんとかして早く、今のようながたぴしした、面白《あもしろ》くもない生活が、がらりと変ってしまえばいい。
ピーシチク (彼の腕をかかえて、小声で)この人は泣いてるよ。な、広間へ行こう、一人にしてあげたほうがいい。……行こうや。……(腕をかかえて。広間へ連れ去る)
ロパーヒン どうしたんだ? 楽隊、しっかりやらんか! なんでも、おれの注文どおりやるんだ! (皮肉に)新しい地主のお通りだ、桜の園のご主人さまのな! (うっかり小テーブルにぶつかり、枝付|燭台《しょくだい》をひっくり返しそうになる)なんでも代は払ってやるぞ! (ピーシチクとともに退場)

   広間にも客間にも、ラネーフスカヤ夫人のほか誰もいない。彼女は腰かけたなり、全身をすぼめて、はげしく泣いている。ひそやかな奏楽の音。いそぎ足でアーニャとトロフィーモフ登場。アーニャは母のそばへ寄り、その前にひざまずく。トロフィーモフは、広間の入口に立つ。

アーニャ ママ! ……泣いてらっしゃるの、ママ? いとしい、親切な、やさしい、ママ。わたしの大事なママ、わたしあなたを愛していますわ。……わたし、お祝いを言いたいの。桜の園は売られました、もうなくなってしまいました。それは本当よ、本当よ。でも泣かないでね、ママ、あなたには、まだ先の生活があるわ。そのやさしい、清らかな心もあるわ。……さ、一緒に行きましょう、出て行きましょうよ、ねえ、ママ、ここから! ……わたしたち、新しい庭を作りましょう、これよりずっと立派なのをね。それをご覧になったら、ああそうかと、おわかりになるわ。そして悦《よろこ》びが――静かな、ふかい悦びが、まるで夕方の太陽のように、あなたの胸に射《さ》しこんできて、きっとニッコリお笑いになるわ、ママ! 行きましょう、ね、大事なママ! 行きましょうよ! ……

                            ――幕――

     第四幕

  舞台は第一幕に同じ。ただし窓のカーテンも壁の画《え》もなく、残っている僅《わず》かの家具も一隅《いちぐう》に積みかさねられて、さしずめ売物とでもいった形。がらんとした感じがする。出口のドアのそばと舞台の裏とに、トランクや旅行用の包みなどが、積みかさねてある。左手のドアは開けはなしで、そこからワーリャとアーニャの声がきこえる。
  ロパーヒンが立って、待ち受けている。ヤーシャは、シャンパンのついである小さなグラスを並べた盆をささげている。次の間ではエピホードフが、箱に縄《なわ》をかけている。舞台裏手で、がやがやいう声。百姓たちが、お別れに来ているのだ。ガーエフの声で、
  「いやありがとう、みんな、どうもありがとう」

ヤーシャ 下じもの連中が、お別れにやって来た。わたしはね、こういう意見なんですが、ロパーヒンさん、民衆は善良だけれど、どうも物わかりが悪いとね。

  騒ぎが静まる。次の間を通って、ラネーフスカヤとガーエフが登場。彼女は泣いてはいないが、真《ま》っ蒼《さお》で、顔がぴくぴくふるえて、口が利《き》けない。

ガーエフ お前はあの連中に、財布をやっちまったね、リューバ。それじゃいかん! それじゃいかんよ!
ラネーフスカヤ わたし駄目《だめ》なの! わたし駄目なんだもの!

   ふたり退場。

ロパーヒン (ドアの口から、ふたりの後ろへ)どうぞこちらへ、お願いします! お別れにほんの一杯。うっかり町から持って来るのを忘れたもので、停車場でやっと一本だけ見つけました。さあどうぞ! (間)これは、皆さん! おいやですか? (ドアの口から離れる)そうと知ったら――買うんじゃなかった。じゃ、わたしも飲むのはよそう。(ヤーシャは用心しいしい盆をテーブルに置く)ヤーシャ、せめてお前でも飲んでくれ。
ヤーシャ 旅立ちを祝します! 残られる方がたもご息災で! (飲む)このシャンパンは、本物じゃありませんぜ。うけあいでさあ。
ロパーヒン 一本八ルーブリしたがな。(間)ここは、やけに寒いなあ。
ヤーシャ 今日は焚《た》かなかったんでね、どうせ行っちまうんですからね。(笑う)
ロパーヒン 何がおかしいんだ?
ヤーシャ つい嬉《うれ》しくってね。
ロパーヒン もう十月だというのに、そとは日が照って、おだやかで、まるで夏みたいだ。普請《ふしん》には打ってつけだな。(時計を出してみて、ドアの口へ)皆さん、よろしいですか、発車までに四十七分しかありませんよ! すると、二十分したら停車場へお出かけになるわけです。少々お急ぎ願いますよ。

  トロフィーモフが、外套《がいとう》をきて外からはいってくる。

トロフィーモフ そろそろ出かける時間らしいな。馬車も来ている。だが癪《しゃく》だな、僕《ぼく》のオーバーシューズはどこなんだ。消えてなくなっちまったよ。(ドアの口へ)アーニャ、ぼくのオーバーシューズがないんです! 見つからないんです!
ロパーヒン わたしは、ハリコフへ行かなければならん。君たちと同じ汽車にするよ。ハリコフで、この一冬こすのさ。わたしはだいぶ長いこと、おつきあいでぶらぶらしていて、仕事にならんで閉口したよ。働かずにゃいられない性分でね、第一この両手の始末にこまるんだ。なんだか妙にこうブランブランして、まるで他人の手みたいだ。
トロフィーモフ おっつけ、みんな行っちまいますよ。そこでまた有益な事業とやらに、着手なさるがいいさ。
ロパーヒン どう、一杯やらないかね。
トロフィーモフ いや、結構。
ロパーヒン じゃ、こんどはモスクワかね?
トロフィーモフ そう、皆さんを町まで送って行って、あしたはモスクワだ。
ロパーヒン なるほど。……まあいいさ、大学の先生はみんな、君の来るまで、講義をせずに待ってるだろうからな!
トロフィーモフ よけいなお世話だ。
ロパーヒン 君は一体、大学に何年いるんだね?
トロフィーモフ 何かもっと、新しい手を考えたらどうだい? その手は古いし、平凡だよ。(オーバーシューズをさがす)ねえ君、僕たちはこれで、おそらく二度と会う時はあるまい。そこで一つ君に、お別れの忠告をさせてもらいたいんだがね――両手を振りまわすな、これさ! そのぶんぶん振りまわす癖を、ひとつやめるんだね。こんどの別荘建築案にしてもそれだ。やがてその別荘の連中が、だんだん独立した農場主になって行くだろうなんてソロバンをはじくこと――そんな目算を立てることがそもそも、両手を振りまわすことなんだよ。……まあそれはそれとして、僕はやっぱり君が好きだ。君は役者か音楽家にでもありそうな、やさしい華奢《きゃしゃ》な指をしている。そして君の心もちも、根はやさしくて華奢なんだよ。……
ロパーヒン (彼を抱いて)じゃこれでお別れだ、ペーチャ君。いろいろありがとう。もしいるんだったら、道中の費用に少し持って行かんかね。
トロフィーモフ なんだって僕に? いらないよ。
ロパーヒン だって、ないじゃないか!
トロフィーモフ あるさ。お志はありがとう。ぼくは翻訳料をもらったんだ。ちゃんとこのポケットにある。(心配そうに)しかし、オーバーシューズがないんだ!
ワーリャ (隣の部屋から)さっさと持ってって頂だい、この汚ならしいもの! (ゴムのオーバーシューズを一足、舞台へほうり出す)
トロフィーモフ 何をそう怒るんです、ワーリャ? ふん……こりゃ僕の〔オーバーシューズ〕じゃない!
ロパーヒン わたしはこの春、ケシを千町歩まいてね、今それで純益が四万あがった。そのケシが咲いた時にゃ、なんとも言えん眺《なが》めだったよ! まあそんなわけで、四万もうけたから、それでつまり貸したげようというのさ。できることだから言うのだ。何もそう乙に構えなくてもいいじゃないか? わたしは百姓だ……ざっくばらんさ。
トロフィーモフ 君の親父《おやじ》が百姓で、僕の親父が薬屋だった、――といったところで、別にどうもこうもありゃしない。(ロパーヒン紙入れを取りだす)やめてくれ、やめて。……たとえ二十万だしたって、受けとらないから。僕は自由な人間なんだ。君たちみんなが、金持も貧乏人も一様にありがたがって、へいつくばる物なんか皆、ぼくにとっちゃこれっぽっちの権威もない。空中にふわふわしている綿毛も同然さ。僕は、君たちの世話にはならん、君たちがいなくたって立派にやって行ける。僕は強いんだ、誇りがあるんだ。人類は、この地上で達しうる限りの、最高の真実、最高の幸福をめざして進んでいる。僕はその最前列にいるんだ!
ロパーヒン 行き着けるかね?
トロフィーモフ 行き着けるとも。(間)自分で行き着くか、さもなけりゃ、行き着く道をひとに教えてやる。

   遠くで、桜の木に斧《おの》を打ちこむ音がきこえる。

ロパーヒン じゃ君、ご機嫌《きげん》よう。もう出かける時刻だ。われわれお互いに、高慢そうな鼻つき合せちゃいるけれど、時は遠慮なく、どんどん過ぎて行く。長いあいだつめて、疲れも知らず働いていると、わたしは頭のシコリがとれて、自分がなんのため生きているのか、それがわかるような気がする。それにしても君、このロシアにゃ、なんのためとも知れず生きている人間が、ずいぶんいるなあ。いや、まあどうでもいい、問題の流通《サーキュレーション》(訳注 聞きかじりの外来語をもちだしたおかしみ)は、そこにはないのさ。世間のうわさじゃ、ガーエフさんが職に就いたとかだ。銀行で、年に六千というんだが……。ただ、続きそうもないな、あの不精《ぶしょう》もんじゃあ……
アーニャ (ドアの口で)ママのお願いなんだけど、出かけるまでは、庭の木を伐《き》らないでくださいって。
トロフィーモフ ほんとにそうだ、君も気が利かないじゃないか。……(次の間を通って退場)
ロパーヒン ただ今、ただ今。……なんという奴《やつ》らだ、まったく。(彼につづいて退場)
アーニャ フィールスを病院へ送ったの?
ヤーシャ 今朝そう言っときましたから、送ったものと思われます。
アーニャ (広間を通って行くエピホードフに)エピホードフさん、フィールスを病院へ送ったかどうか、ちょっと調べてちょうだいな。
ヤーシャ (ムッとして)今朝エゴールに言っときましたったら。何を十ぺんも訊《き》くことがあるんです!
エピホードフ ご老体のフィールスは、結局ぼくの意見によるとですな、もう修繕が利きません。先祖代々のところへ行くんですな。僕としては、ただただ羨望《せんぼう》に堪えんですよ。(トランクを、帽子のボール箱の上へ置いて、つぶしてしまう)ほらこれだ、つまり結局。どうせそうだろうと思ってたよ。(退場)
ヤーシャ (あざけるように)二十二の不仕合せめ……
ワーニャ (ドアの向うで)フィールスを病院へ送ったの?
アーニャ 送りました。
ワーリャ なんだって、ドクトル宛《あて》の手紙を持って行かなかったんだろう?
アーニャ それじゃ、追っかけて持たせてやらなけりゃ……(退場)
ワーリャ (隣の部屋から)ヤーシャはどこ? おっ母さんがお別れに来てるって、そう言ってちょうだい。
ヤーシャ (片手を振る)ちえっ、うんざりさせやがるなあ。

  ドゥニャーシャは、ずっと荷物のまわりであくせくしていたが、今ヤーシャが一人になったのを見すまし、そばへ寄る。

ドゥニャーシャ ちらりと一目ぐらい、見てくれたっていいじゃないの、ヤーシャ。あなたは行ってしまうのね……あたしを捨てるのね……(泣きながら、男の首にすがりつく)
ヤーシャ 何を泣くんだ? (シャンパンを飲む)六日すりゃ、おれはまたパリだ、あした特急に乗りこんで、目にもとまらずフッ飛ばすんだ。なんだか本当にできないくらいだ。ヴィーヴ・ラ・フランス([#ここから割り注]訳注 フランス万歳![#ここで割り注終わり])か! ……ここはどうも性に合わないよ、とても暮して行けない……まあ仕方がないさ。無学な連中も、見あきるほど見たし――もうげんなりだよ。(シャンパンを飲む)なんの泣くことがあるんだね? 身もちさえよくすりゃ、泣くことにもならんのさ。
ドゥニャーシャ (懐中鏡を見ながら白粉《おしろい》をはたく)パリからお便りをくださいね。あたしあんたが、あんなに好きだったんだもの、ヤーシャ、あんなに好きだったんだもの! あたし華奢な女なのよ、ヤーシャ!
ヤーシャ おい、誰《だれ》か来るぜ。(トランクのそばを、さも忙しそうに立ち回り、小声で鼻唄《はなうた》をうたう)

   ラネーフスカヤ、ガーエフ、アーニャ、シャルロッタ登場。

ガーエフ そろそろ出かけなくちゃ。もう幾らもないぞ。(ヤーシャを見て)誰だい、ニシンの臭《にお》いをぷんぷんさせる奴は?
ラネーフスカヤ 十分ほどしたら、馬車に乗りこみましょうね。……(部屋をぐるりと見まわす)さようなら、なつかしい家《うち》、昔なじみの|家の精《おじいさん》。冬がすぎて春になると、お前はもういなくなる、こわされてしまう。この壁も、いろんなことを見てきたのねえ! (娘に熱くキスする)わたしの大事なアーニャ、おまえはキラキラ光っているわ。二つのダイヤモンドのように、お前の眼《め》はきらめいているわ。嬉しいの? そんなに?
アーニャ ええ。とても! 新しい生活が始まるんですもの、ママ!
ガーエフ (浮き浮きして)まったく、これでやっと万事めでたしさ。桜の園の売れちまうまでは、われわれは始終わくわくして、えらい苦労だったものだが、こうして問題がきっぱり決着して、もうどうもならんとなってからは、みんな気持が落ちついて、かえって陽気になったくらいだ。……わたしは銀行の勤め人で、今やいっぱしの財政家だ……黄玉は真ん中へ、さ。そしてリューバ、おまえだって、なんのかのと言うけれど、とにかく血色がよくなったよ、それは確かだ。
ラネーフスカヤ ええ。神経はだいぶ収まりました、それは本当よ。(召使の手から帽子と外套を受けとる)よく寝られるようになったし。わたしの荷物を運び出しておくれ、ヤーシャ。もう時間だわ。(アーニャに)それじゃアーニャ、近いうちに会いましょうね。……わたしはパリへ行って、ヤロスラーヴリのおばあさまが領地を買いもどせと送ってくだすった、あのお金で暮すつもり――おばあさまも、どうぞお達者でね! ――でも、あのお金だって、長くはもつまいよ。
アーニャ ママ、じきに帰ってらっしゃるんでしょう、じきに……ね、そうでしょう? わたしは、勉強して、女学校の検定試験をとおって、それから働いて、ママの暮しを助《たす》けるわ。そうしたらママ、一緒に色んな本を読みましょうね。……そうじゃなくて? (母の両手にキスする)ふたりで、秋の夜長に読みましょうね。どっさり読みましょうね。するとわたしたちの前に、新しい、すばらしい世界がひらけるんだわ。……(夢想する)ママ、帰ってらしてね……
ラネーフスカヤ 帰って来ますよ、可愛《かわい》いおまえのところへ。(娘を抱きしめる)

  ロパーヒン登場。シャルロッタはそっと小曲を歌っている。

ガーエフ シャルロッタはいいなあ、歌なんか歌ってる!
シャルロッタ (くるまれた赤んぼのような格好をした包みをかかえて)わたしの赤ちゃん、ねんねんよう……(オギャア、オギャア! ……という泣き声がする)おお、よしよし、いい子、いい子。(オギャア! ……オギャア! ……)可哀《かわい》そうに、誰が誰が! (包みを元の場所へ投げだす)だからあなた、お願い、勤め口をさがしてちょうだいよ。これじゃ、どうしようもないわ。
ロパーヒン さがしたげますよ、シャルロッタさん、大丈夫です。
ガーエフ みんな、われわれを捨ててくんだな、ワーリャも行っちまうし……どうもとたんに、用なしの人間になっちまった。
シャルロッタ 町にはわたし、住むうちもないし。出てかなきゃならないわ。……(小曲を口ずさむ)どうせ同じことさ……
[#ここから2字下げ]
ピーシチク登場。

ロパーヒン よう、天然記念物! ……
ピーシチク (息を切らして)やれやれ、まあ一息つかしてください……へとへとだ。……皆さん、ご機嫌……。水をいっぱい……
ガーエフ どうせまた金のことだろう? 桑原桑原、まっぴらご免……(退場)
ピーシチク 久しくごぶさたしましたなあ……奥さん……(ロパーヒンに)君もいたのか……こいつは嬉しい……よう、天下一の知恵ぶくろ……取ってくれ……まあこれを。……(ロパーヒンに金を渡す)四百ルーブリだ……あとまだ八百四十、借りになってるが……
ロパーヒン (けげんそうに肩をすくめる)こりゃ夢のようだ。……一体どこで手に入れたんだね?
ピーシチク まあ待ってくれ……暑い……。前代未聞《ぜんだいみもん》の大事件なんだ。わしのところへイギリス人どもがやって来てね、地面から何か古い粘土を見つけたのさ。……(ラネーフスカヤ夫人に)あなたにも四百……な、天人のような奥さん。……(金をわたす)あとはまた後ほど。(水を飲む)今しがた、どこかの若い男が汽車の中で話しておったが、なんとかいう……偉大な哲学者は、屋根から飛びおりろ、と勧めておるそうだ……「飛びおりろ!」――それだけのことだ、とな。(仰天したように)こりゃどうだ! 水を一杯! ……
ロパーヒン イギリス人って、いったい何者かね?
ピーシチク とにかくその連中に、粘土の出る地面を向う二十四年間、貸したんだ。……ところで今は、申しわけないが暇がない……話の先を急ぐんでね。……これから、ズノイコフのところへ行く……それからカルダーモノフのところへもね。……みんな借りがあるのさ。……(飲む)ではこれで失礼。……木曜にまた伺います……
ラネーフスカヤ わたしたち、すぐこれから町へ引越して、あしたわたしは外国へ〔発《た》ちますの〕……
ピーシチク なんですと? (そわそわして)なぜまた町へなんぞ? いや、なるほどこうして見ると、家具だの……トランクだの……。なあに、平気ですよ。……(涙ごえで)大丈夫ですよ。……いやどうも、えらい知恵者ですなあ――あのイギリス人というやつは……。なあに大丈夫……どうぞお仕合せで……。なんでもありませんよ。……神さまが助けてくださいますとも……大丈夫ですよ。……この世のことは何ごとも終りありでしてな。……(ラネーフスカヤ夫人の手にキスする)もし風の便りにでも、このわたしに終りが来たという噂《うわさ》がお耳にはいったら、どうか、このそれ……馬のことを思いだして、「そうそう、昔あのなんとかいう奴……シメオーノフ=ピーシチクという男もいたっけな……安らかに昇天せんことを」とでも言ってください。……いや、すばらしい上天気ですなあ。……まったく……(へどもどして退場。が、すぐ引返してきて、ドアのところで)うちのダーシェンカが宜《よろ》しくと申しました! (退場)
ラネーフスカヤ さ、これでもう出かけられる。じつはわたし、発って行くのに、気がかりなことが二つあるの。一つは――病気のフィールス。(時計をのぞいてみて)まだ五分ほどいいわ……
アーニャ ママ、フィールスはもう病院へやったわ。ヤーシャがけさやったの。
ラネーフスカヤ もう一つの心配は――ワーリャのこと。あの子は、早起きをして働きつけてるものだから、今じゃ仕事がなくて、魚が水をはなれたも同然よ。痩《や》せて、顔色が悪くなって、可哀そうに泣いてばかりいるわ。……(間)あなたはそれを、よくご存じのはずね、ロパーヒンさん。わたしはこう思っていましたの……あの子をあなたのところへとね。それにあなたのほうでも、お見受けするところ、結婚なさりそうな模様でしたものね。(アーニャに耳うちする。アーニャはシャルロッタにうなずいて見せ、ふたり退場)あの子はあなたを愛していますし、あなたもあれがまんざらでもなさそうなのに、わからないわ、どうもわからない、なぜあなたがた二人は、おたがい避け合うようなふうをなさるのか。わからないわ!
ロパーヒン わたし自身も、じつはわからないんです。どうも何かこう妙な具合でしてね。……まだ時間があるようなら、わたしは今すぐでも結構です。……一気に片をつけて――あがりにします。あなたがいらっしゃらなくなると、どうもわたしは、申込みをしそうもありませんよ。
ラネーフスカヤ 願ったりですわ。一分もありゃ、じゅうぶんですものね。すぐあの子を呼びましょう。
ロパーヒン ちょうどシャンパンもあります。(小型グラスをすかして見て)おや、空《から》だ、誰かもう飲んじまった。(ヤーシャ咳払《せきばら》いをする)がぶ飲みとはこのことだ……
ラネーフスカヤ (いそいそと)結構だわね。わたしたちは向うへ……ヤーシャ、|おいで《アレ》! いま呼びますからね……(ドアの口へ)ワーリャ、そこはほっといて、こっちへおいで。さ、早く! (ヤーシャとともに退場)
ロパーヒン (時計をのぞいて)そう……(間)

  ドアの向うで忍び笑い、ひそひそ声、やがてワーリャ登場。

ワーリャ (長いこと、あれこれと荷物を調べる)おかしいわ、どうしても見つからない……
ロパーヒン 何がないんですか?
ワーリャ 自分でしまいこんだくせに、覚えがないんですの。(間)
ロパーヒン あなたはこれからどうされます、ワルワーラ([#ここから割り注]訳注 ワーリャの正式の名[#ここで割り注終わり])さん?
ワーリャ わたし? ラグーリンのところへ行きます。……あすこの家政を見ることになりましたの……女の家令とでもいうのかしら。
ロパーヒン ではヤーシネヴォ村ですね? 七十キロもありますよ。(間)いよいよこの家の生活もおしまいになりましたね。……
ワーリャ (荷物を見まわしながら)どこへ行ったんだろう、あれは……もしかすると、長持へ入れたのかもしれない。……ええ、この家の生活もおしまいですわ……もう二度と返っては来ませんわ……
ロパーヒン わたしはこれからすぐ、ハリコフへ発ちます……この汽車でね。どうも仕事が多くてね。この屋敷うちには、エピホードフを置いておきます。……あの男を雇ったのでね。
ワーリャ あら、そう!
ロパーヒン 去年の今ごろは、もう雪がふっていました。おぼえておいでですか。ところが今は、おだやかで、日が照っています。ただ、寒いには寒いですな。……零下三度ぐらいでしょうな。
ワーリャ わたし見ませんでした。(間)それに、うちの寒暖計はこわれていますから……(間)
戸外の声 (ドアの口で)ロパーヒンさん! ……
ロパーヒン (とうからこの呼び声を待っていたかのように)ああ、今すぐ! (急いで退場)

  ワーリャは床に坐《すわ》って、衣服の包みに頭をのせ、静かにむせびなく。ドアがあいて、そっとラネーフスカヤ夫人がはいってくる。

ラネーフスカヤ どうだったの? (間)もう行かなくちゃ。
ワーリャ (もう泣きやんでいて、眼をふく)ええ、時間ですわ、ママ。わたし今日のうちに、ラグーリンのところへ着けると思うわ。汽車に乗りおくれさえしなければね……
ラネーフスカヤ (ドアの口へ)アーニャ、支度はいいの?

アーニャ、少しおくれてガーエフ、シャルロッタ登場。ガーエフは頭巾《ずきん》のついた暖かい外套《がいとう》を着ている。召使たちや馭者《ぎょしゃ》たちが集まる。エピホードフは荷物の世話をやく。

ラネーフスカヤ さあ、もうこれで発てるわ。
アーニャ (嬉《うれ》しそうに)出発だわ!
ガーエフ 親愛なる諸君、敬愛おくあたわざる友人諸君! いま永遠にこの家を去るに臨んで、果して口をつぐんでおられましょうか。告別のため、今わたくしの全幅を領している感慨を、ここに吐露せずにおられましょうか……
アーニャ (哀願するように)伯父さま!
ワーリャ 伯父さん、およしなさいったら!
ガーエフ (しょげて)黄玉を空《から》クッションで真ん中へ……。黙るよ。……

  トロフィーモフ、つづいてロパーヒン登場。

トロフィーモフ まだですか、皆さん、もう出発の時間ですよ!
ロパーヒン エピホードフ、おれの外套を!
ラネーフスカヤ わたし、もうちょっとだけ坐ってみよう([#ここから割り注]訳注 旅立ちの前に、しばらく腰をおろす習慣がロシア人にある[#ここで割り注終わり])。わたしまるで、今まで一度も、この家の壁がどんなだか、天井がどんなだか、見たことがないみたい。今になってやっと、見ても見飽きない気持で、たまらなく懐《なつ》かしい気持で、眺《なが》めるんだわ……
ガーエフ いまだに覚えてるが、わたしが六つのとき、聖霊降臨《トロイツァ》の日曜日に、わたしがこの窓に腰かけて見ていると、お父さんが教会へ出かけて行ったっけ……
ラネーフスカヤ 荷物はみんな出まして?
ロパーヒン どうやら、みんなです。(外套を着ながら、エピホードフに)いいかい、エピホードフ、あとは宜しく頼むよ。
エピホードフ (しゃがれ声で)ご心配なく、行ってらっしゃいまし。
ロパーヒン 一体どうしたんだ、その声は?
エピホードフ いま水を飲んだ拍子に、何かのみこみましたんで。
ヤーシャ (軽蔑《けいべつ》して)間抜けめ!
ラネーフスカヤ わたしたちが行ってしまうと、ここには人っ子ひとり残らないのねえ……
ロパーヒン 春が来るまではね。
ワーリャ (包みから洋傘《ようがさ》を抜きだす。まるで振上げるような格好になる。ロパーヒン、ぎょっとした身振り)あら、何ですの、どうなすったの……。わたし、そんなつもりじゃなかったのに。
トロフィーモフ 皆さん、さあ乗りこみましょう。……もう時間です! 間もなく汽車がはいりますよ!
ワーリャ ペーチャ、さ、あったわ、あんたのオーバーシューズ。手提カバンのかげに。(涙ぐんで)でもあんたの、なんて汚ならしい、おんぼろなの……
トロフィーモフ (オーバーシューズをはきながら)さあ行きましょう、皆さん! ……
ガーエフ (泣きだしそうになり、ひどくうろたえる)汽車が……その、停車場が……。ひねって真ん中へ、白玉は空《から》クッションで隅《すみ》へ……
ラネーフスカヤ 行きましょう!
ロパーヒン みんなお揃《そろ》いですね? 向うには誰もいませんね? (左側のドアに錠をおろす)ここには家財が置いてあるので、錠をおろしとかなければね。さあ行きましょう! ……
アーニャ さようなら、わたしの家《うち》! さようなら、古い生活!
トロフィーモフ ようこそ、新しい生活! ……(アーニャと一緒に退場)

   ワーリャは部屋を一わたり見まわし、ゆっくりと退場。ヤーシャ、および犬を連れたシャルロッタも退場。

ロパーヒン では、春まで。さ、行こうじゃありませんか、皆さん。……ご機嫌《きげん》よう! ……(退場)

  ラネーフスカヤとガーエフ、ふたりだけ残る。ふたりはそれを待ち兼ねたように、たがいにぱっと頸《くび》に抱きつき、人に聞かれぬように声を忍んで、静かにむせび泣く。

ガーエフ (身も世もあらず)ああ妹、可愛い妹……
ラネーフスカヤ ああ、わたしのいとしい、なつかしい、美しい庭! ……わたしの生活、わたしの青春、わたしの幸福、さようなら! ……さようなら! ……
アーニャの声 (浮き浮きと、招き寄せるような声で)ママ! ……
トロフィーモフの声 (浮き浮きと、感激をこめて)おーい! ……
ラネーフスカヤ お名残りにもう一度、壁を見て、窓をながめて……。亡《な》くなったお母さまは、この部屋を歩くのがお好きだったわ。……
ガーエフ ああ妹、可愛い妹! ……
アーニャの声 ママ! ……
トロフィーモフの声 おーい! ……
ラネーフスカヤ いま行きますよ! (ふたり退場)

  舞台からになる。方々のドアに錠をおろす音がして、やがて馬車が数台出て行く音がきこえる。ひっそりとする。その静けさのなかに、木を伐《き》る斧《おの》のにぶい音が、さびしく物悲しくひびきわたる。
足音がきこえる。右手のドアから、フィールスが現われる。ふだんのとおり、背広に白チョッキをつけ、足には室内ばきを穿《は》いている。病気なのである。

   フィールス (ドアに近づいて、把手《とって》にさわってみる)錠がおりている。行ってしまったんだな。……(ソファに腰をおろす)わしのことを忘れていったな。……なあに、いいさ……まあ、こうして坐っていよう。……だが旦那《だんな》さまは、どうやら毛皮外套《シューバ》も召さずに、ただの外套でいらしたらしい。……(心配そうな溜息《ためいき》)わしの目が、つい届かなかったもんでな。……ほんとに若《わけ》えお人というものは! (何やらぶつぶつ言うが、聞きとれない)一生が過ぎてしまった、まるで生きた覚えがないくらいだ。……(横になる)どれ、ひとつ横になるか。……ええ、なんてざまだ、精も根もありゃしねえ、もぬけのからだ。……ええ、この……出来そこねえめが! ……(横になったまま、身じろぎもしない)

  はるか遠くで、まるで天から響いたような物音がする。それは弦《つる》の切れた音で、しだいに悲しげに消えてゆく。ふたたび静寂。そして遠く庭のほうで、木に斧を打ちこむ音だけがきこえる。

                           ――幕――


底本:「桜の園・三人姉妹」新潮文庫、新潮社
   1967(昭和42)年8月30日発行
   1990(平成2)年8月20日47刷改版
   2000(平成12)年3月15日82刷発行
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」(非常に小さい、2-67)と「≫」(非常に大きい、2-68)に代えて入力しました。
※二重ハイフンは、「=」(等号、1-65)で入力しました。
入力:大野晋
校正:鈴木厚司
2010年3月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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