私の友シャーロック・ホームズ独特な人格をよく出しているお話をしようと思って、たくさんの私の記憶をさがす時、私はいつもあらゆる方面から私の目的に添うような話をさがし出そうとして苦労するのである。なぜなら、ホームズがその心理解剖に全力を注いだと思われるような事件、あるいはまた犯罪捜査に特別な方法を見せたと思われような事件は、事実において、みなさんにお話してもつまらないだろうと思われるような簡単な普通な事件が多いのだ。またその反対に、事件がかなり特異なもので劇的なものを彼が捜査した場合もあるのだが、そうした時にはしばしば、彼は彼の伝記作者として私が話してほしいと思っているにもかかわらず、何も話してくれなかったのである。私が『真紅の研究』と題して集めた小事件、またグロリア・スコット号の消失事件と共にあつめてあるもの、そうしたものは、彼の研究を永遠に悩ますであろう所の彼の両面、――シルラと渦巻(訳者註――イタリーのメッシナ海峡にはシルラと称する六頭の怪物と大渦巻とありて、その海峡をすぐる船はその二つのうち、いずれかの一つに必ず捕われたりと云う)――の好見本である。――ところでこれからお話しようと思っている事件については、実はホームズはそれほど充分に活躍してはいないのだ。が、しかもなお、その事件のすべてのつながりは、彼の伝記的物語から、これを除外することがどうしても出来ないほど、特異なものなのである。
それは十月の陰鬱な雨の日であった。私達は鎧戸を半分とざして、ホームズはソファの上に横《よこた》わりながら、その朝郵送された一通の手紙をくり返し読んでいた。――私はインド勤務のおかげで、寒さよりは暑さのほうがしのぎよく、九十度ぐらいの温度は苦しくはなかった。――しかし読みつづけていた新聞はつまらなかった。議会が初まっていた。人々はみんな町から出かけていっていたが、私はニュウ・フォレスト森林の中にある草原《くさはら》や、サウス・シーの海岸にある砂浜にあこがれていた。帳尻の合わなくなった銀行勘定が、私に祝祭日をのばさなくてはならないようにしてしまったのである。――けれどもホームズには田舎も海も少しも魅力を持ってはいなかった。彼は百万の大衆の真ただ中に寝ころんで、空想と推理の糸を自由自在にひろげたりたどったりして、いろいろな未解決な問題に暗示を与えたりすることのほうを愛していた。自然の鑑賞力、そう云うものは彼のたくさんの才能の中にも座をしめることは出来なかったのだ。だから彼が田舎へ行くと云うことも、結局は都会の犯罪をさがすため、田舎の彼の兄弟の跡をつけて行くと云うような場合にすぎないのであった。
私は、ホームズがしゃべりすぎていると云うことが分かったので、無味乾燥な新聞を側《かたわ》らにほうりなげて、椅子にうずまって黙想に耽った。と、ふいにホームズの声が、私の意識を呼びさました。
「君の云う通りだよ、ワトソン」
彼は云った。
「それはこの問題を解決するのには、ちと無理な方法のようだね」
「最も不自然な方法だよ」
私は叫んだ。が、その時、私は、彼が私の心の一番奥にあるものをちゃんと感じていると云うことに気がついたので、私は椅子の上に起き直り、思わず驚きの目を見張って彼を見詰めた。
「どうしたと云うんだいホームズ?」
私は云った。
「僕は思いもよらなかったよ、こんなことは……」
彼は私の驚愕を見て心から笑った。
「君は、僕が、もうだいぶ前に、ポーの書いた写生文の一つの中にある一節を、読んだことを覚えてるだろう。あの中に、用意周到な推論者が、その友達の腹の中の考えを見抜いてそれに従う所が書いてあったが、この場合もそれと同じことなんだ。――僕に云わせれば、僕は君が怪しいと疑っているような癖がいつもあるんだよ」
「いや、そんなことはないよ」
「たぶん、これは君の言葉からじゃなくって、君の目つきから気づいたことなんだろうと思うのだけど、ワトソン君。――君は今新聞をほうりなげて、何か考え出したろう。それを見た時、僕はそれに気がつくことが出来たんだ。そして結局君の意見に同意することになったんだよ」
けれども私はまだ満足しなかった。
「今、君は、ある推理家が、彼が注意して見守っている一人の男の動作から、彼の結論を引き出したと云う例をひいていたね。もし僕の記憶に間違いがないとしたら、たぶんその場合には、その相手の男は石につまずいたり、星を眺めたり何かそんなことをしたはずだ。ところが僕は静かに僕の椅子に腰かけていたのだけれど、でも、何か手がかりになるようなものを、君にあげることが出来たのかしら?」
「君は故意にゆがめて考えているよ。――一体人間の顔と云うものは、感情を現わす道具として人間に与えられたものなんだ。そのうちでも君の顔なんかは、最もよく感情を現わす顔なんだよ」
「と云うと、つまり君は、僕の顔から僕の思索の筋みちを読んだと云うわけなんだね」
「そうだ、君の顔から、と云うよりも特に君の目からだ。――君はどんな風にして君の瞑想が始まったか、もう一度思い出してくれることは出来ないかしら?」
「そうだね、出来ないなあ」
「それなら君に話して上げよう。――君は、新聞をほうりなげてから、――実を云えば君がそうしたからこそ、僕は君に注意したのではあるが、――ぽかんとしたような表情をして、しばらく坐っていた。その時君の両眼《りょうがん》は、新しく額縁[#「縁」は底本では「椽」]に入れたゴルドン将軍の絵の上にじっとそそがれていたろう。そして君の顔を見ると、たしかに何か瞑想しているらしい表情の流れのあるのに気がついたんだ。――やがて君は、君の本棚の上にあるヘンリー・ワァード・ビーチャーの額縁なしの肖像画へ目を移した。それから壁へ目をやった。無論、君がそう云う風に目を移していった目的はハッキリしているさ。君はその肖像画を額縁に入れたら、壁のむき出しになっている所へかけて、ゴルドンの肖像画とつり合いのとれるようにしようと思っていたんだろう」
「実に君は気味の悪いように僕の気持ちをよく見といたんだね」
私は叫んだ。
「迷うことなくハッキリ分かったよ。――いいかね、それから君の考えはまたビーチャーに戻って来た。そして君はビーチャーの性格を研究でもするかのように、じっと熱心にそれを見詰め出したろう。がやがて君は目をすぼめるのをやめにした。しかし君は依然としてその肖像画を眺めつづけていたが、その時の君の顔は何かものを考え耽ってる顔つきだった。――君はビーチャーの生涯におきたいろいろな出来事を思い起していたに違いないんだ。僕には、君が、ビーチャーがあの革命戦争の時、北方の利益のために企てた使命のことを考えていたと云うことが、確かに分かってるんだよ。なぜなら君はいつだったか、彼が我々国民の動乱を蒙らされたと云うことについて、ひどく慷慨《こうがい》していたことのあったのを、僕は覚えてるから。だから君が、もしビーチャーのことを考え起こす時は、必ずそのことを考えないではいられないと、僕は思うんだ。――それからその次の瞬間だが、僕は君がその肖像画から目を離したのに気がついたんだ。僕は君の心が、革命戦争のことにむいて来たな、と推測したね。とそう思うと、君は唇を固く結んで、眼を輝かし、両手をきつく握りしめていたじゃないか。僕はそれを見て、君はあの革命戦争の戦いの時、両軍によって示された華々しさを夢見てるんだな、とそう想像したよ。――ところがその時、君の顔は再び物悲しそうになった。そして君は頭を振ったろう。君はその時たしかに、悲しさと恐ろしさと、それから人生の淋しさを感じていたに相違ないんだ。君の手は君の古い傷痕《きずあと》のほうへのびていった。そして君の唇にはかすかな笑いがふるえていた。こうしたことは僕に、君の心の上におかれたこの国際的な問題を解決する上に、不思議な珍らしい一面を見せてくれたんだ。――つまりこういう点から、僕はそれが不自然なやり方だと云う君の意見に同意したわけなんだが、僕は喜んでいるよ、僕の推断の間違いをすべて正された事を……」
「全くその通りだ」
私は云った。
「君にそう説明されてみると、僕は実際前の時と同様、驚かされるね」
「ワトソン君、それは表面だけのことだよ。もし君がこの間、君の注意深い所を見せてくれなかったら、僕はおそらく君の注意の動きなんかに目をつけやしなかったろう。――それはそうと、夕方になったら、少し風が出て来たらしいね。どうかね、ロンドン中をぶらつくのは?」
私はその狭い部屋に疲れていたので、喜んでそれに同意した。私たちは三時間ばかり、一しょに、フリート・ストリートや川の岸などを、さまざまな生活相を眺めながらぶらついて廻った。ホームズの細かい鋭い観察力を持った、そしてまた推理の深い力を持った独特な話は、私を楽ませ少しも飽きさせなかった。そうして私たちがベーカー街に帰って来たのは十時すぎだった。――と、入口のそとに一台の一頭だての箱馬車がとまっていた。
「ふうん、――分かった」
と、ホームズは云った。
「医者、――内科も外科もやる開業医の馬車らしいな。ちょっと調べてみたまえ。――きっと何か相談にやって来たに違いないよ。いい所へ帰って来たね」
私はホームズがそう推定したことについて、話し合った。そしてその馬車の内側に、ランプの光りの中にかけられてあった編細工《あみざいく》のバスケットの中に這入っているいろいろな医者の器械を調らべてみた。それはホームズに、彼の敏速な推断を下す材料を与えたものだったのだが。――私たちの部屋からもれる明かりは、この夜遅い訪問客が、私たちを待ちもうけていると云うことを物語っているように見えた。
私はそんな時間に、私の仲間の医者を、ホームズの所へ寄越した事件と云うのはどんな事件なのだろうと、ある好奇心を以って、ホームズのあとから私たちの居間に這入っていった。
私たちが這入って行くと、火の側《そば》の椅子から、顔色の蒼い細面の髭をはやした男が立ち上った。年の頃は三十三四才より上ではなさそうだったが、彼のやつれた表情と不健康そうな顔色とは、彼の青年時代を奪い彼の力を絞りとったその生活を物語っていた。彼の動作は敏感な紳士のように神経質的で内気だった。そうして彼が立ち上るまで暖炉にかざしていた彼の痩せた白い手は、外科医の手と云うよりはむしろ芸術家の手と云うほうがふさわしいくらいであった。彼の服装は穏やかな厳かなもので、黒いフロックコートに暗い色の縞ズボン、それらに調和したネクタイをむすんでいた。
「よくいらっしゃいました。先生」
とホームズは、気軽に云った。
「あまりお待たせしなかったようで、幸いでした」
「別当におききになりましたか?」
「いや、サイド・テエブルの上の蝋燭を見れば分かります。――まあ、どうぞ、おかけ下さい。――どんな事が起きましたかな」
「私は医者のペルシー・トレベリアンと申すものです」
と私たちの訪問客は云った。
「ブルック街四百三番地に住んでおります」
「あなたは神経傷害について論文をお書きになった、あの方ではありませんか?」
私はきいてみた。
彼の蒼白い頬は、自分のした仕事を私が知っていると云うことをきいて、嬉しさで紅く輝いた。
「その通りです。私自身、もう葬られてしまったと思っている自分の仕事について、そんなお言葉をきいたのは始めてです」
彼は云った。
「私の本の発行者は、その売行きが悪いと言って、すっかり私の勇気をくじいてしまいました。――ですが、あなた御自身も、やはり医業をおやりなのですか?」
「私は退職外科軍医ですよ」
「そうですか。私はずっと精神病ばかりをやっております。私はそれをうんと研究してみたいと思っているのですが、無論なんですよ、人間は最初に初めた事をやり通すべきなんですがね。――しかし、こんなことをしゃべっている時じゃありませんね、シャーロック・ホームズさん。――実はこうなんです。最近、私のブルック街の家に、実に奇妙な事件が持ち上ってるんです。で、今夜はとうとう、明日《みょうにち》まで待つことが出来ずに、あなたのお力を拝借にやって来たわけなんです」
シャーロック・ホームズは腰をおろして、パイプに火をつけた。
「本当によくいらしって下さいました」
彼は云った。
「どうか、あなたをなやましていると云うその事件を、こまかく詳しくお話しになって下さいませんか」
「その一つ二つは実際つまらない事なんです」
トレベリアン医師は云った。
「実際それをお話するのはお恥ずかしいくらいなんです。しかし事件は実に合点がいかないばかりか、最近、あなたがたにお話ししなければならなくなったほど、こみ入って来たのです。――どうか、私がお話する所から、肝要な箇所とそうでない箇所とを御判断なすって下さい。
最初に、どうしても順序として、私の学生時代のことからお話しなければなりません。御承知のように私はロンドン大学の卒業生なんです。実は、自分で自分のことをほめてお話しするのは変なものなんですが、私は学生時代、大学の教授達から前途を大いに嘱目されていたのでした。だものですから、私は卒業してからも、キング・コレッジ病院に職を奉じながら、自分の研究に没頭することをつづけておりました。私は幸福にも、顛癇病の病理学を研究する事に、異常な興味と昂奮とを持っていたのです。そしてただいまあなたのお友達が私をおからかいになった例の神経傷害に関しての論文によって、ブルース・ピンカートン賞と賞盃とをかち得ることが出来ました。――けれども私は、よしその時、そんなに素晴らしい前途が目の前に開《ひ》らけていても、私はそれからさきにすすむべきではなかったのです。
と云うのは、私の大望をとげるには、一つの大きな障害を乗り越えなければならないのでした。こう申せばあなたにはもう既に了解していただけたことと思いますが、偉くなろうと云う、高い望みを持っている専門医は、カベンディッシ・スクエア区のうちの十二街のどれか一つに開業しなければなりませんでした。ところがそこに開業するには、素晴らしく高い家賃の家を借り、家の中もお金をかけて飾らなくてはならないのです。おまけに、こうした予備的入費の上に、四五年は遊んで食うだけのお金の用意と、また見かけの立派な馬車と馬とをやとえるだけのお金を持っていなければならないのでした。こうしたことをするのは、全く私の力以上のことで、でなくても、少くも十年間私が倹約して貯金してからでなくては、そんなことは出来そうもなかったのです。――ところがどうです、その時突然、全く思いもかけなかった一つの出来事が、私に新しく私の前途の望みをひらいてくれたのです。
それは、私には全然赤の他人の、ブレシントンと云う名の紳士に訪問されたことでした。彼はある朝突然に私の部屋にやって来て、いきなり話をきり出しました。
「あなたは、例の大学時分非常なすぐれた成績をおあげになって、そして最近例の賞盃をおもらいになった、あのペルシイ・トレベリアン君でしょう?」
彼は申しました。私はそうだと答えました。
「では、どうぞ卒直にお答えになって下さいませんか」
彼はつづけました。
「そうして下さるほうが、あなたのおためになるのです。――あなたは人間を成功させるための賢さはみんな持っている。――ところで世才はおありですか?」
私はそのぶしつけな質問に、思わず笑わずにはいられませんでした。
「ええ、まあ、相応にはあるつもりです」
私は答えた。
「では何か悪い習慣は?――お酒をお飲みになるなんてことはないんでしょう?」
「もちろん、飲みません」
「至極結構。そりア結構です。――しかしもう一つきかなくちゃならないことがあるんです。それなら、それだけの条件が揃っているのに、なぜ開業なさらないのですか?」
私は肩をそびやかしました。
「よござんす、よござんす」
彼は彼一流のせわしない口調で申しました。
「そんなことは分かりきっている話です。――あなたはあなたのポケットの中よりあなたの脳の中のほうがたくさん貯蓄があるんでしょう。え? そうじゃありませんか。――ところで、どうでしょう、私はあなたを、ブルック街に開業させてお上げしたいと思っているんですが……」
私はびっくりして彼を見詰めました。
「いや、それはね、あなたのためではなく、私自身のためなんですよ」
彼は声を大きくして云いました。
「私は何もかも洗いざらいかくすことなく卒直に申しますよ。そのほうが、あなたにもいいでしょうし、また私にも大変都合がいいんですから。――実は、私はここに数千ドル何かに投資したいと思ってるお金があるんです。そこで私はそれをあなたにかけてみたいと思ってるわけなんです」
「しかしそれはどう云うわけでそうお思いになったのですか?」
私は咽喉のつまったような声で云った。
「理由ですか?――それはつまり他のものの投機をやるのと同じような理窟からです。でもその中でこれは一番安全ですからね」
「で、もしそうして下さるとしたら、私はどう云うことをしたらよいのでしょう?」
「それをお話ししましょう。――私は家を建てて、それをすっかり飾りつけて、召使いたちの給料を払って、ほうぼうへ宣伝をする、――それは私がやります。――ですからあなたはただ診察室にすわっていさえしたらいいのです。――おお小使いやその外《ほか》身の廻りのものは私がみんな心配してあげます。その代り、あなたが稼いだ四分の三を私に下さい。そしてその残りはあなたの収入と云うことに……」
ホームズさん、これが、ブレシントンが私の所へ持って来た、奇妙な申込みの条件だったのです。それから私は、彼とどんな風に取引し、どんな風に約束したかは、くどくどと申上げるまでもないことでしょう。私は次の通告節に引越していって、そして彼が初め申出たのと同じ状態のもとに、いよいよ開業したのでした。そしてブレシントン自身も、ちょうど、入院患者のような格好で、私と一しゃに住むことになりました。彼は心臓が弱く、いつも医者の監督が必要らしいのでした。――彼は一階の最上等の部屋を二部屋占領して、一つは居間に、一つは寝室に使っておりました。彼は奇妙な孤独癖の人間で、人ともあまり交際せず、外出することなどはほとんどありませんでした。彼の日常生活はむしろ不規則的でしたが、しかしただある一つのことに関してだけは、実に規則そのもののように正確でした。それは毎日夕方になると、診察室の中に這入って来て、帳簿を調べ、それから私が稼いだお金を、一ギニアについて五シルリングと三ペンスだけおいて、あとの残りはみんな持っていって、自分の部屋の中においてある丈夫そうな箱の中にしまうことでした。
さて次に商売のほうですが、少くも私の知ってる範囲では、彼がその評判を悲しまなければならないような機会は、ただ一度もなかったろうと、確信しております。それは初めから成功でした。私がその前に、病院でかち得ておいた評判や、また二三の成功などのために、私はすごい勢《いきおい》ではやり出しました。そしてこの一二年の間に、私は彼をすっかりお金持ちにしてやってしまったのです。
ホームズさん、私の今日まではこんな風な生涯だったのです。そしてまたブレシントンとの関係も今お話したようなわけだったのです。――そこでこれからお話しなければならないのは、今夜の出来ごとなのですが……
ちょうど二三週間前のことでした。ブレシントン氏が突然に、私の所へやって参りましたが、彼は何だか、変にイライラしているらしいような様子でした。そして彼はしきりに、西部地方で起きた盗難事件のことを話し、滑稽なほど昂奮して、どうしても私たちも二三日のうちに、窓や扉へ丈夫な閂《かんぬき》をつけなくてはならないと主張するのでした。そうして、それからと云うものは一週間の間、毎日休みなく窓から外をのぞいては見るのです。そして彼が昼飯をとる前には必ずその辺をブラブラして来る恒例の散歩もやめてしまって、その奇妙な昂奮状態にいるのでした。――こうした彼の様子から、私は、彼が何かの恐迫観念に捕われているのに相違ない、と感づきました。しかし私が彼に、何かそのことについてきき出すと、彼は猛烈に反抗的になって来て、どうしても何か他の事に話をそらしてしまわないわけにはいかないのでした。が、――有難いことに、そんな風にしてしばらく日を経ているうちに、次第に彼の恐迫観念は消えていって、また普通の彼にかえったのです。ところが、事実はそれはツカの間の喜びで、また新しい出来事が彼を再び気の毒な虚脱の状態にもどらしてしまったのでした。そうして現在彼はその状態にいるのです。
一体、その彼を再びそんな状態に追い込んだ出来事と云うのは、どんな出来事なのか? と申しますと、二日前のことでした。今あなたに読んでおきかせしますが、一通の、日附けもなければ、住所も書いてない手紙を受取ったのです。
――こちらはただいまイギリスに滞在中のロシヤの貴族ですが、――
と、その手紙は書き出されていました。ペルシー・トレベリアン博士に御診察をぜひお願いしたいと思っております。実はこちらの患者は数年来、顛癇の発作に悩まされているのでございます。幸いトレベリアン博士は顛癇病の大家であるとききましたので、明日午後六時十五分頃にお伺い致したいと思います。御迷惑でも御在宅のほど御願い申上げます。
この手紙は私に深い興味を起こさせました。なぜなら、この顛癇病の研究にとって、一番苦しいことは患者が非常に少いと云うことだったからです。ですからその翌日、その手紙が指定して来た時間に、私はちゃんと診察室に坐って、その患者の来るのを待っていたことは申すまでもありません。
その男は年をとった、痩せぎすな真面目そうな当り前な男で、どこにもロシアの貴族と云ったような感じは少しもありませんでした。が、それよりももっと私を驚かしたのは、その患者の附添いの男でした。それは背の高い若い男で、色の浅黒いしっかりした顔つきに、ヘラクレスのような丈夫そうな四肢と胸とを持っている、見るから堂々とした男でした、彼は患者を肩に倚りかからせながら這入って来て、静かに椅子に腰かけさせました。彼の表情を見ていただけでは、彼のどこに、そんな風に患者をいたわるやさしさがあるのだろうと思えるほど、彼は堂々としていたのです。
「ごめん下さい、先生」
と、彼は流暢な英語で挨拶しました。
「これは私の父でございます。私にとってはこの父の健康は、何ものにもかえがたい大切なものなのです」
私は彼のその子としての心痛にいたく心を動かされました。
「診察にお立ち合いになりますか?」
私は云いました。
「とんでもない」
彼は恐ろしそうな顔をして叫びました。
「とても私には苦しくって見てはいられないんです。私は父親が、この病気の発作に襲われるのを見るたびに、まるで死んだような気がするのです。私の神経組織は、お話にならないほど弱々しく敏感なんです。――私はお許しをいただいて、診察が終るまで待合室で待っております」
無論私は彼の申出に同意しました。そしてその若い男は診察室から出て行きました。こんな風にして、いよいよ私は、患者と二人きりになり、その診察に移り、私はその様子を熱心にノートに記して行きました。患者にあまり高い教養はないらしく、時々その答弁は曖昧に分かりにくくなりましたが、私はそれを彼が私たちの国の言葉にまだ不馴れだからだ、と云うような様子を装ってやりました。けれどもそのうちに突然に、彼は私の問いに答えるのをやめましたので、私は驚いて彼を見ていますと、彼はやがて椅子から立ち上って、全く無表情な硬わばった顔をして、私をまじまじと見詰めるのでした。――云わずと知れた、彼は例の神秘的な精神錯乱の発作に捕われたのです。
実際の話、私がその患者を見て、まず一番最初に感じたのは同情とそれから恐れとでした。が、その次に感じたのは、たしかに学問的な満足だったことを白状します。――私はその患者の脈の状態や性質やを詳しく書きとめ、それから彼のからだの筋肉の剛直性をためしてみたり、またその感受性や反応の度合いをしらべてみたりしました。
が、これらの諸点の診察では、私がかつて取扱った患者と、特別に違った所は何もありませんでした。そこで私はこうした場合に、患者に亜硝酸アミルを吸入させて、よい結果を得ることを思い出しましたので、この時こそ、その効果をためしてみるのによい時だと考えつきました。ところが、その瓶は折悪しく階下の実験室においてありましたので、私は患者を椅子に腰かけさせたまま残しておいて、それを取りに階下におりたのです。そして、そうですね、せいぜい五分、――その瓶をさがすのに手間どれたのですが、すぐいそいで診察室に引返しました。――ところがどうです、そのひま[#「ひま」に傍点]に患者は私の診察室からどこかへ出ていっちまって、室の中はからっぽなんじゃありませんか。まあ、その時の私の驚き方をご想像下さい。
無論私は、第一番に待合室にとんでいってみましたよ。するとどうです、その息子もやっぱりいないのです。大広間のドアが閉められてはいましたが、鍵がかけてなかったのですね――その患者たちを案内して来たボーイは、まだ来たばかりのボーイで、とにかく気がきかないのです。で、彼はいつも階下に待っていて、私がベルを鳴らすと二階へとんで上って来て、患者を下へつれておりることになっていたのです。――そのボーイも何も物音を聞かなかったと云うのです。こうしてこの日のこの事件は全くわけの分からないままにすんでしまったのでした。――が、それからしばらくしてブレシントン氏がその習慣の散歩から帰ってきましたが、しかし私はその事件については何も話しをしませんでした。と云うのは、なるべく彼と、うるさい事件についてはかかり合わないような方針をとっていたからなのです。
こんなわけで昨日は不思議な事件が起きたままで暮れてしまい、それから今日は、私はまた今日の仕事に追われて、ついそのロシア人親子のことを忘れておりました。ところがきょうの夕方のこと、ふと、私は診察室に這入って来る彼等親子を見てびっくりしたのです。しかも時間まで、昨日と同じ時刻だったではありませんか。
「どうも昨日は、突然にだまって帰ってしまって申わけございません」
と、その患者は云いわけを申しました。
「いいえ、どうしまして。けれどちょっと驚きましたよ」
私は答えました。
「いえ、実はそのこう云うわけなんでございますよ」
患者は話し出しました。
「私はいつも例の発作が起きた後は、心に雲がかかったようになって、その前にあったことをすっかり忘れちまうのです。だものですから昨日も発作からさめてみますと、見たことのない変な部屋におりますでしょう。で、これは怪しいぞと思いながら、立ち上って、ふらふらと表の通《とおり》に出ていってしまったんでございます。ちょうど先生が部屋にお見えにならない最中に……」
「私はまた……」
と、彼の息子は話をつぐのでした。
「見ていると親じが待合室の入口からフラフラと這入って来るんでしょう。ですから、これはてっきりもう診察が終っちまったことだろうと思いましてね、――家へ帰って親じから事情をいろいろきいてみるまで、ちっとも気がつかずにいたんです」
「そうでしたか、そりゃどうも……」
私は笑いながら答えました。
「いや、かまいませんよ、私のほうはちっとも迷惑しなかったんですから。――ただ、どうしたんだろうと思って、ひどくまごつきはしましたがね。――では、待合室でお持ち下さい。昨日の、診察のつづきをやってしまいましょう。もうじき、終りそうな所までいっていたんですから……」
それから三十分ばかりの間、私はその老紳士と、彼の病気の徴候について話し合ったり、診察したりして、すっかり記録をとってから、やがて彼はその息子に手をとられながら帰って行きました。
そこで私は、ちょうどその日もほどなく散歩から帰って来たブレシントン氏に、この患者の話をしてきかせました。するとその話をきき終るか終らないかの時でした。ブレシントン氏はあわただしく二階にかけ上って行きましたが、やがてすぐとんで降りて来ると、いきなり私の診察室にとび込んで来たのです。その恰好は発作に襲われた狂人さながらなのでした。
「僕の部屋に這入った奴はどいつだ?」
彼は呶鳴りました。
「誰も這入りませんよ」
私は答えました。
「いいや、嘘だ」
彼は呻《うな》るように云うのでした。
「あがって来てみろ!」
私は彼が恐迫観念に襲われて、半分正気を失っている時に使う、乱暴な粗野な言葉使いは、平気できき流すことになれていた。私は彼の云うままに二階に上っていってみますと、彼の指さすカーペットの上に、ありありと人の足跡が三つ四つしるされているのでした。
「君はこれを僕の足跡だと云うつもりか?」
彼はなお、呶鳴りつづけました。
それはたしかに彼の足跡より、遥かに大きいもので、おまけに極めて新しくあざやかについていました。御承知のようにきょうの午後は雨降りでした。そして午後にやって来た患者は、彼等親子より外にはなかったのです。――とすると、事実はこう思われなくてはならなくなります。私が患者を診察している間に待合室にいた彼の息子が、この部屋に這入り込んだに相違ないと。事実、そこには何も手がかりも証拠も見あたりはしませんでしたけれど、この足跡が何よりもはっきり、彼が闖入したことを物語っているのでした。
ブレシントン氏はすっかり昂奮してしまいました。無論こう云うことは、普通の人だって心の平和をかき乱されずにいられるものではありません。彼は何だかわけの分からないことを叫びながら椅子に腰をおろすと、めちゃくちゃなことを口走り始めて、どうにも手がつけられないんです。――で、私があなたの所へ伺ったのも、実は彼の意志なんです。もちろん、こんな事件は、すぐ解決のつくことだろうと私は思っているんですが。――事実、ブレシントン氏は非常な重大問題か何かのように思っているらしいんですが、しかし本当はごく単純な出来事なんですからね。――そんなわけで、もう今からすぐ、私の馬車で私と一しょに来ていただけますようですと、よしその事件の解決はすぐつかないにしても、彼は平静にして下さることが出来ると思うんですが……」
シャーロック・ホームズは、彼の長い話を熱心にきいていた。私はそのホームズの様子を見て、彼の心のうちにその事件に対して興味が湧いて来たらしいことを見てとった。彼の顔の表情は少しも変りはしなかったが、彼の目蓋は重く彼の上に垂れさがり、彼の唇からは、あたかもその医者の話す一つ一つの珍妙な物語を、更に不思議にするかのように、濃い煙草の煙がもくもくと吐かれていた。――が、やがて私たちのその訪問客が話を終ると、ホームズはものも云わずに突然立ち上った。そして私に私の帽子を手渡し、自分のもテーブルの上からつまみ上げて、トレベリアン博士の後について入口のほうに出かけた。こうしてそれから二十分ばかりの後、私たちはブルック・ストリートにあるトレベリアン博士の住居《すまい》の前で馬車をおりた。そして小さな少年の給仕が出て来て案内してくれたので、私たちは直ちに、美しいカーペットの敷いてある階段を昇って二階に行こうとした。
と、その時、奇妙な故障が起きて、私たちはそのままそこへ立ちん坊をさせられるようなことになった。と云うのは、その時、不意に階段の頂きについていた電灯が消えて、暗闇の中から奇妙な震え声が聞えて来たからである。
「僕はピストルを持ってるぞ!」
と、その声は叫んでいた。
「もしそれから一歩でも近よってみろ、俺はブッ放すから……」
「ブレシントン氏、何を乱暴なことをなさるんです」
トレベリアン博士は叫んだ。
「ああ、博士、あなたですか?」
その声は、ホッとしたように云った。
「だが、その他の男は何者ですか? 何をしに来たんです?」
私たちは闇を通して長い間見詰め合っていた。
「分かりました。分かりました。さあどうぞ……」
やがてその声は云った。
「どうもお気の毒なことをしました。あんまり私が用心深すぎて、御迷惑をおかけしまして……」
彼はそう言いながら階段の明りを再びつけた。そこで私たちは初めて、私たちの前に、奇妙な恰好をした男の立っているのを見ることが出来た。その男の顔つきは、ちょうど彼の声と同じように、その藪のように入り乱れた神経をそのまま現していた。彼は非常に太っていたが、しかしいつかはそれよりもっと太っていたらしく、ちょうど猟犬のブラッド・ハウンドの頬のように、ゆるんだ革袋のような皮が、顔の周囲に垂れ下っていた。そうして彼の顔色は一目で分かるほど、病人らしい色つやで、そのやせた赫茶けた頭髪は、いかに彼の感情がはげしいかを物語っていた。――彼は案の定、手にピストルを持っていたが、私たちが近よって行くと、それをポケットの中にしまってしまった。
「今晩は、ホームズさん、よくいらしって下さいました」
彼は云った。
「実は大事件が起きましてね、どうしてもあなたに御足労願わなければならなかったのです。おそらく今まで、私ぐらい、あなたのお力を必要としていたものは、この世界中に一人だってないでしょう。――たぶん、もうトレベリアン博士が、このけしからん闖入者について、あなたにお話ししたこととは思いますが……」
「ええ、もう大体のことはうかがいました」
と、ホームズは云った。
「だが、一体その二人の男と云うのは何者なんですか? ブレシントンさん。そうして一体、なんのためにあなたにそんな迫害を加えようとするんですか?」
「そうです、そうです、そのことです」
この入院患者は、精神病者らしい神経質な様子をして答えた。
「それは無論、云いにくいんです。ホームズさん、私はそれについて、あなたにお答えすることは出来ないでしょう」
「とおっしゃるのは、あなたは知らない、と云う意味なんですか?」
「どうぞ、まあ、こちらへいらしって下さい。――まあどうか、こっちへお這入りになって下さい、お願いですから」
彼は私たちを彼の寝室の中へつれていった。その部屋は大きくて、居心地よく飾りつけてあった。
「あれを御覧下さい」
彼は、寝台の裾のほうにおいてある大きな黒い箱を指さしながら云うのだった。
「ホームズさん、私は決して大金持ちではありません。――トレベリアン博士があなたにお話しした通り、私はこの病院に投資した以外には、何も事業などはしていないのです。――そのくせ私は、銀行にお金を預けることが出来ないんです。私は銀行家を信用したことはまだ一度もありません。ですから、私は、私の持っているすべてのものは、みんなあの箱の中にしまってあるのです。――と、これだけ申上げれば、私の部屋に見ず知らずの人間が這入って来ると云うことは、私にとってどれほど重大な問題であるかと云うことは、お分かりになるだろうと思います」
ホームズはもの問いたげな様子をして、ブレシントンを眺めた。そしてそれから首をふった。
「もしあなたが私を信用なさらないのなら、私はあなたに、何もお力になって上げることは出来ませんよ」
彼は云った。
「いえいえ、しかし何もかもあなたにお話ししたんです」
ホームズは不愉快そうな顔をして、彼の踵《きびす》をめぐらすと、
「さようなら、トレベリアン博士」
と、彼は声をかけた。
「私には何も相談に乗っていただけないんですか?」
ブレシントンは、うろたえた声で叫んだ。
「あなたに申上げたいことは、真実をお話しなさいと云うことだけです」
それから数分の後、私たちは街へ出て、家路を辿りつつあった。私たちはオックスフォード街を横切り、そしてハーレイ街の中ほどまで下って来るまで、お互いに一言も口をきき合わなかった。
「ワトソン、あんな馬鹿な奴の所へ、下らなく君を引っ張り出してすまなかったねえ」
遂に、ホームズは口をひらいた。
「しかしあの問題のどん詰りまで行けば、面白い事件なんだよ」
「そうかねえ、僕には全然分からない」
私は正直に白状した。
「とにかく何かの理由で、このブレシントンをつけねらってる男が二人、――いや、ことによるともっといるかも知れないが、少くも二人いる、と云うことはたしかなんだ。僕は最初の時もそれから二度目の時にも、例の若い男がブレシントンの部屋に忍び込んだに違いないと思ってるんだ。そしてその間片方では、共謀者が、実に巧みな計略で、例の医者を診察室の中へとじこめちまっていたんだ」
「だがしかし一人の男は顛癇病の患者だったのじゃないかね!」
「なあに、君、ありア仮病さ、ワトソン君、なんだか専問家に僕のほうで教えるような形になって変だけれど、その真似をして仮病をつかうぐらいのことは何でもないんだよ。僕にだって出来る」
「ふむ、――で、それから?」
「それからだね、前後二回とも、ブレシントンが外出中のことだったのは、偶然にそうなったのだと云うことだ。それは、つまり診察してもらうのに、殊更に夕方のそんな変な時間を選んだと云うのは、そんな時間なら待合室には誰もいないのに相違ないからだったのだ。ところが、それが偶然にもブレシントンの毎日の規則と合ってしまったわけなんだ。その二人の男は全くブレシントンが毎日夕方になると散歩に出ることなどは知らなかったのだ。――無論、もしその二人の男が、何か略奪をする目的でやって来たのだとしたら、あのブレシントンの部屋に少くもその辺を探し廻ったらしい形跡がなくてはならない。その上、僕は、大ていの場合、人の目を見れば、その男が何か心に恐怖を持ってる場合には、ちゃんと見抜くことが出来るんだ。――そこで僕はこう見当をつけた。その二人の男は、ブレシントンを讐《かたき》とねらってる男に相違ない、とね。――とすれば、その二人の男が何者だか、ブレシントンは知っていなければならないはずだし、それだからこそ彼はそれを隠して知らないような顔をしているのに違いないのだ。だが、見たまえ、あしたになると、あの男はきっと正直に何もかも打ちあけて話すようになるから……」
「なるほど、それはたしかにそうかもしれないね」
と、私は云った。
「だがその他に、こうも考えられる。その顛癇病のロシア人親子の話は、みんなトレベリアン博士のつくり話で、ブレシントンに対して何かなす所あろうため、そんな話をつくったのではないかと云う事だね」
私は、ホームズが私のこの反対を耳にした時、ニヤリと得意げに微笑したのをガスの光りの中に見た。
「僕もそれは最初に考えたよ」
彼は云った。
「しかし僕は、医者の話は本当のことだと云うことを確かめることが出来た。――と云うのは例の若い男は、階段のカーペットの上へも、ちゃんと足跡を残していっていたので、部屋の内へ残していったと云うその足跡を見に行かなくても僕はちゃんと分かってしまったんだが、ブレシントンの靴もあの医者の靴もさきが尖っているのに、その足跡は四角な爪さきで、そして医者の靴よりは一|吋《インチ》三分の一は大きいのだ。これを見れば、彼の話がつくり話ではなさそうに思われたんだ。――が、まあ、今夜は早く寝て、寝ながら少し考えてみようよ。きっと明日の朝になるとブルックストリートから何か云って使《つかい》が迎えにやって来るから………」
このシャーロック・ホームズの予言は、たちまち見事にあたってしまった。しかも最も劇的な筋みちを辿って。――と、云うのは、その翌朝の七時半頃のことだった。窓からさし込む朝のうす明かりの中に、もう不断服《ふだんふく》に着かえたホームズが、私の寝台の側に立っているのを見出した。
「ワトソン、馬車が迎えにやって来てるんだ」
と、彼は云った。
「何か起きたのかい」
「いいや、例のブルックストリートの事件だよ」
「ああ、――じゃ、何か新しい知らせでもあったんだね」
「悲劇的な、しかも至ってまぎらわしい知らせなんだ」
彼は部屋の窓の鎧戸を引きあけながらそう云った。
「まあ、これを読んでみたまえ、――ノートから破りとった紙の上へ、鉛筆で、――直ちに御来駕御救援願いたし、トレベリアン、――と書いてあるんだからね。たぶん医者は、このノートさえ書くのにやっとだったに違いないんだよ。――とにかくよほど困ってるらしいんだから、いってみてやろうじゃないか」
それから二三十分の後、私たちは例の医院の前に着くことが出来た。と、彼は恐怖に満ちた顔つきをしながら家の中からとび出して来た。
「思いがけないことになったんです」
彼はそう云いながら、自分の手で自分の額を押えた。
「一体、どうしたと云うんです?」
「ブレシントンが、自殺をしちまったんですよ」
ホームズは驚きの声をあげた。
「そうなんです。昨夜《ゆうべ》のうちに、ブレシントンは首をくくっちまったんです」
私たちは家の中に這入っていった。そして医者は、私たちをたぶん待合室であろうと思われる部屋に案内していった。
「実際、私はどうしたらいいのか、全く分からないんです」
トレベリアンは云った。
「巡査はもうとうに来て二階にいます。私はただもうふるえているばかりです」
「あなたが自殺を見つけたのはいつ頃ですか?」
「彼は毎朝早く、きまってお茶を一杯飲むのが習慣だったんですが、今朝も七時に女中がお茶を持って部屋に這入って行くと、その時には既に、彼は部屋の真ん中にブラさがっていたのだと云うことです。――いつもあの重いランプをかけることにしていた鈞《はり》に、紐をむすびつけて、昨日私たちに見せたあの箱の上から飛んでぶらさがったものらしいですね」
ホームズはしばらくの間じっと考えて立っていた。
「ねえどうでしょう」
ホームズはやがて云った。
「僕も二階へいって、事件を調べてみたいんですがね」
そこで私たちは医者につれられて二階に上って行った。
そうして私たちがその寝室に這入って見た光景は、実に恐ろしい眺めだった。私は、これがブレシントンかと思われるように、グニャリとしてたれさがっていたその様子を、どうしてもここに書き現すことは出来ない。その鈞《はり》からぶらさがっている様子は、どうしても人間だとは思われなかったと云っても、少しも誇張ではないのである。その首は、ひねられた鶏の首のように伸びて、余計にからだ全体を太っているように見せ、その対象の奇妙さと云ったらなかった。それはブレシントンの長い寝巻きをまとった粘土細工で、その下からふくれ上った踵と不恰好な足とがニョキッとまる出しになっているのにすぎないのであった。――そしてその側にはすばしっこそうな警察の探偵が立って、しきりに懐中手帳に何か書きとめていた。
「ああホームズさん」
ホームズが這入って行くと彼は云った。
「あなたがいらしって下すったのは、大変有難いです」
「お早う、レーナー君」
ホームズは答えた。
「余計な奴が闖入して来たと思わないでくれたまえよ。――君はこの事件を引き起こした原因になるべきいろいろな出来事について、きいたかね?」
「ええ、大体はききました」
「で、君の意見はどうかね?」
「私の見ました限りでは、この男は何かの恐怖のために精神に異常を来たしたものじゃないかと思うんです。――ごらんのようにベットには寝ていたらしい形跡があり、しかも彼のからだの形がそのまま深く残っています。――普通、自殺と云うものは、朝の五時頃に行われるのが一番多いと云うことはあなたも御存じの通りですが、彼の自殺もやはりその頃に行われたのじゃないかと思うんです。――しかしいずれにしてもこれは、慎重に考うべき事件らしいような気がします」
「筋肉のかたまりかたから見ると、死んでから三時間ぐらい経過していますね」
私は云った。
「その外に、この部屋の中で何か変ったことはありませんでしたか?」
ホームズは訊ねた。
「螺旋《ねじ》まわしと二三の螺旋を手洗い台の上で見つけました。それから前の晩にはよほどひどく煙草を吸ったらしい紙を見ました。ここに暖炉の中からひろい出した葉巻の吸いさしが四つあります」
「ふーむ」
ホームズは云った。
「彼の葉巻パイプを持ってますか?」
「いいえ。そんなものは見えないようでしたよ」
「じゃ、葉巻入れは?」
「ああそれは上衣《うわぎ》のポケットの中にありました」
ホームズはその葉巻入れをひらいて、その中にたった一本残っていた葉巻の匂いをかいでみた。
「ああ、これはハバナだ。――けれど、そのほかのは、東|印度《いんど》の殖民地から輸入されるドイツ煙草で、全然何か別種の葉巻らしい。――それは君も知ってるように、大ていはストローでつつんであって、ほかの種類のものに比較すると、長さの割に細巻のものだ」
彼はそこにある四つの吸い残りをつまみ上げて、それらを懐中レンズで調べてみた。
「このうち二つはたしかにパイプで吸われたものだが、他の二つはパイプなしで吸われたものだ」
と彼は云った。
「それから二つの口はあんまり鋭くない刄物《はもの》で切ってあるけれども、他の二つは丈夫な歯でくい切ってある。――レーナー君、これは何だね、自殺じゃないね。これは実に巧妙に仕組んである、冷酷な殺人だよ」
「そんなことはないでしょう」
と、探偵は叫んだ。
「なぜさ?」
「なぜって、そうじゃありませんか、首をくくらせるなんて、そんな気のきかない人殺しの仕方なんてあるものですか」
「いや、それは僕たちが発見した時の死人の様子なんだよ」
「しかしそれならどこから這入って来たんでしょう?」
「前の入口からさ」
「でも今朝は、そこにはちゃんと閂がかかっていましたよ」
「そりア仕事がすんでからかけたからさ」
「だが、あなたはどうしてそれをご存じなんです?[#「ご存じなんです?」は底本では「ご存じないんです?」]」
「その跡がちゃんとあるよ。――ちょっと待ちたまえ、今、君にもっと不思議なことを見せて上げるから」
彼は入口のドアまで歩いていった。そしてそこの鍵を、彼独得の法則にかなったやり方で調べた。それから内側にある鍵もとって、しらべてみた。また寝台も敷ものも椅子も暖炉も死体も綱も、順々にみんなしらべてみた。彼の満足が行くまで。――そうして私と探偵との手を借りて、その死骸を下におろして、うやうやしく被いものでおおった。
「この綱はどこから持って来たものなんです」
彼はきいた。
「これから切ったんですよ」
トレベリアン博士は寝台の下から、大きな綱の束を引っぱり出しながら、答えた。
「ブレシントンは無暗《むやみ》に火事をこわがったんです。だものですから、もし火事がおきて来て階段が燃えるようなことがあった場合、窓から逃げられるようにと云うのでこの綱を、いつも自分の側においといたんです」
「なるほどね、その綱が、彼の生命を救うどころかかえって奪ってしまったと云うわけなんですね」
ホームズは考え深そうにそう云った。
「それで大体事件は想像がつきましたよ。――きょうの午後までには、すっかり判明させることが出来ると思います。――あの暖炉の上のブレシントンの肖像をとりおろしてもいいでしょう。ちょっと調べてみたいことがあるんですが……」
「けれど私にはまだ、何も話して下さらないじゃありませんか」
と医者は云った。
「ああ、そうでしたね。――こう云うことだけは、この事件について疑いのない所ですね」
ホームズは云った。
「この事件の中には、三人の男がいると云うことです。――若い男と年をとった男とそれからもう一人、――その男についてはまだどんな男か、私は手がかりがつかないでいるんですが。――しかしとにかくその初めの二人の男ですね、それは例のロシア貴族とその息子とに化けて来た男であることは、申上げるまでもないことでしょう。その男たちは、誰か家の中に加担した男がいて、その男の手引きで、仕事をしたらしいと思うんですがね――探偵、あなたにちょっと御注意しておきたいことは、ここの、案内のボーイですね、あれを捕えてお調べになってみたら。――なんでも最近お雇いになったったと云うお話でしたね、博士……」
「ええ、あの若僧が見えないんですよ。今朝から」
とトレベリアン博士は云った。
「今、女中や料理番がさがして歩いているんですがね」
ホームズは肩をそびやかした。
「彼奴《きゃつ》はこの事件で少なからず重大な役目をしているんですよ」
彼は云った。
「三人の男たちは、爪さきで階段を昇って来たんですね、――年をとった奴が最初で、それから若い男、それからその分からないもう一人の男が一番あとから……」
「確かにそうだね、ホームズ君」
と、私は不意に、思わず口をはさんだ。
「それは、たしかに足跡が重なり合っているのを見れば、疑う余地はないんです。――私は昨夜のうちにつけられた足跡を調べてみました。――で、彼等はブレシントン氏の部屋の入口までのぼって来たんです。しかし入口の戸は鍵がかかっていた。そこで彼等はどうしたかと云えば、針金の力を応用して、うまうまと鍵を廻してしまったのです。――と云うのは、ごらんなさい。拡大鏡がなくても、この通り鍵の穴に引っ掻いたらしい跡があるのが分かるでしょう。これは針金を入れて廻そうとした時についた引っ掻きキズに相違ないんです。
奴等は部屋の中に這入って来ると、いきなりブレシントン氏に猿轡をはめちまったんですね、ブレシントン氏はたぶんその時眠っていたか、でなければ目をさましていたにしても、恐ろしさで縮み上って、声を立てることも出来なかったものに違いないんです。それにこの通りこの部屋の壁は厚いでしょう。ですから彼が一声や二声叫んだって、到底外まで聞えはしなかったんです。
ところで、ブレシントン氏をしばり上げちまってから、奴等は何をしたかと云えば、私の想像では、ブレシントン氏をどう云う方法で殺ろそうと云う相談をしたんだろうと思うんです。こう云う風な事件の時、大概はそう云った順序をとるものらしいですね。――しかもその相談はかなり長く続いたと見えてこの通りたくさん葉巻の吸殻が捨ててあります。たぶん、年とった男はそこの椅子に腰かけていたんです。パイプで葉巻を吸ったのはそいつ[#「そいつ」に傍点]でしょう。それから若い男はそっち側にいて、抽出《ひきだ》しの縁[#「縁」は底本では「椽」]で煙草の灰を落していたんです。そして三番目の奴は、その辺をいったり来たりしていたんでしょう。ブレシントン氏は、たぶんベットの上にすわらされていたんだろうと私は思うんですが、しかしどれも確かじアありません。
やがて彼等の相談は、ブレシントンを吊るして首をくくらせようという事にきまったのです。――そこで奴等は、何かの用にしようと思って持って来た滑車を絞首台をつくるのに応用したんですね。その螺旋廻しと螺旋とで、それをしっかりそこにくくりつけたんです。それからブレシントンをそこにぶらさげたんですね。こう云う風にして、すっかり細工をし上げてから、彼等は悠々と入口から出ていったのですが、そのあとはちゃんと彼等の共謀者が家の中にいて、閂をかけておいたものだと、私は思うんです」
私たちは非常に深い興味を以って、その前の晩の出来事の話をきいた。ホームズはそれらの話を、彼が説明してくれている時でさえ、私たちは気のつかないような小さな、捕えどころのないようなことから推論して話してくれるのであった。探偵はやがて、いそいで、例の案内係りのボーイをさがしに出かけていったので、ホームズと私とは朝飯をたべにブルックストリートに帰って来た。
「僕は三時までには帰って来る」
ホームズは朝飯をすましてしまうとそう云った。
「探偵と医者とが、たぶん三時には僕たちをたずねて来るだろう。僕はそれまでに、まだ少し残っている小さな不明瞭な個所をすっかり調べ上げてしまいたいんだ」
そして彼は出かけていった。
やがて彼が云った三時になると、私たちの訪問客はちゃんとやって来た。しかし私の友達が帰って来たのは、四時二十五分前のことだった。――私は彼が這入って来た時、彼の表情を見て、これはすっかりうまくいったんだな、とそう思った。
「何か変ったことがありましたかな、探偵」
「例のボーイを捕えましたよ」
「そりア素適な手柄です。――私はまた例の奴等の正体をひっつかんで来ました」
「何者だか分かったんですか」
私たちはみんな一時に叫んだ。
「少くも奴等が何者であるかと云うことだけは内偵して来ました。――私の睨んだ所によると、このいわゆるブレシントンと云う男も、それからブレシントンを殺ろした男も、共に探偵本部ではよく知られている男だったんです。――奴等の名前は、ビッドルとヘイワード、それからモーファット、とこの三人です」
「ああ、それじゃ、あのウォーシントン銀行事件の発頭人じゃありませんか」
探偵は叫んだ。
「その通りなんです」
ホームズは云った。
「そうするとブレシントンはシュウトンに違いありませんね」
「そうなんですよ」
ホームズは答えた。
「またどうしてあなたは、まるで鏡に写し出すようにハッキリそれがお分かりになったんです?」
探偵は云った。
しかしトレベリアンと私とは、何が何だか分からないのでお互いに目を見合っているばかりだった。
「諸君は、例のウォーシントン銀行事件と云うのを知っているだろう」
とホームズは云った。
「あの事件の中には五人の人物がいる。すなわち今いった四人と、それから五人目の男はカートライトと云ったんだ。トビンと云うその銀行の留守番を殺ろして、七千|磅《ポンド》を奪って逃たんだが、それは一八七五年のことだったんです。ほどなく五人のものはみんな捕まったんですが、相憎なことに証拠がすこぶる不充分だった。ところがこのブレシントンすなわちシュウトンなる男が、この男がまあ一番悪がしこかったわけなんでしょうが、たちまち寝返って密告しちまったんです。そこでブレシントンの密告のおかげでカートライトはとうとう主謀者と云うので死刑にされ、他の四人のものはそれぞれ十五年間ずつの刑を着せられたわけです。――が、やがてそれらのものも、各々特赦などに会って、十五年たたないうちにまた社会へ出て来ることになったわけです。そこで彼等は、自分たちを売って刑を着せたり、また仲間の一人を死刑にしてしまったりした男に、復讐をしようと計画したわけなんです。――彼等は二度計画して、二度とも失敗したんです。そして三度目にようやく成功したわけなのです。――と、まあ以上のようなわけなんですけれど、まだどこかお分かりにならない所がありますから、トレベリアン博士」
「いえ、実によく分かりました」
と医者は答えた。
「そう云えば思い出します。彼等が助かってまた社会へ出て来たと云う記事が新聞へ出た日、彼はひどく神経をいためていました」
「そうでしょう。――ですから彼が起こした強盗騒ぎなんか、みんな嘘なんですよ」
「けれど、どうして彼はそれを打ちあけなかったんでしょう?」
「それはなんですよ、自分の昔の仲間がどんなに復讐心が強いかと云うことをよく知っていたんで、出来るだけ長く、誰からも自分の正体をかくしておきたかったんでしょう。――それに彼のその秘密は実際破廉恥なものですからね、それを漏らす元気はなかったんですよ。――しかしこうして彼が殺ろされてみると、彼は英国の法律によって保護されて生きていた人間なんですから、よし一度はその保護の盾を破られて殺されたとは云え、英国の正義の剣は、彼のために正当な仇を報じてやらなくてはなりますまい、ねえ探偵」
以上の話が、ブルック・ストリートの医者とその家の入院患者とに関係した事件のあらましである。――その夜から三人の殺人犯は、官憲によって探索されたが、なかなかつかまらなかった。が、やがて、彼等がノラ・クリーナ号と云うボロボロの船の乗客の間にまじって、スコットランドの波止場に上陸した時、とうとう捕えられてしまった。その船はつい二三年|前《ぜん》、オポルトウの北方数|哩《まいる》のポルトガルの沖合いで沈んでしまった。――それから例の案内係のボーイは、証拠不充分と云うので放免された。すなわちこれがいわゆる『ブルック・ストリートの秘密』として有名な事件のあらましなのであって、今日までまだ公に発表されたことのないものである。
底本:「世界探偵小説全集 第三卷 シヤーロツク・ホームズの記憶」平凡社
1930(昭和5)年2月5日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「恰も→あたかも 貴方→あなた 或る→ある 如何→いか 所謂→いわゆる 於て→おいて 恐らく→おそらく 彼→か 返って→かえって か知ら→かしら 難い→がたい かも知れ→かもしれ 位→くらい、ぐらい 極く→ごく 即ち→すなわち 是非→ぜひ その癖→そのくせ 大分→だいぶ 沢山→たくさん 只今→ただいま 忽ち→たちまち 度→たび 多分→たぶん 給え→たまえ 丁度→ちょうど て見→てみ で見→でみ 疾うに→とうに 所が→ところが 所で→ところで 尚→なお 乍ら→ながら 筈→はず 程→ほど 殆ど→ほとんど 亦→また 迄→まで 勿論→もちろん 余程→よほど」
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
※底本中、混在している「ペルシー」「ペルシイ」、「ロシア」「ロシヤ」はそのままにしました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(畑中智江)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年9月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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