ディカーニカ近郷夜話 前篇 VECHERA NA HUTORE BLIZ DIKANIKI イワン・クパーラの前夜(×××寺の役僧が話した事実譚) VECHER NAKANUNE IVANA KUPALA ニコライ・ゴーゴリ Nikolai Vasilievitch Gogoli —–平井肇訳

04

  フォマ・グリゴーリエ ヰッチには一種奇妙な癖があつた。あの人はおなじ話を二度と繰りかへすのが死ぬほど嫌ひだつた。どんなことでも、もう一度はなして貰ひたいなどと言はうものなら、きまつて、何か新事実をつけ足すか、でなければ、まるで似ても似つかぬものに作りかへてしまふのが、いつもの伝《でん》であつた。ある時のこと、一人の紳士が、――とはいへ、われわれ凡俗にはああした人たちをいつたいどういつて呼ぶべきかが既に難かしい問題なんで、戯作者かといふに戯作者でもなし、いはば定期市《ヤールマルカ》の時にこちらへやつて来る、あの仲買人とおんなじで、矢鱈無性に掻きよせて、何彼《なにかに》の差別なく一手に引き受け、剽窃の限りを尽してからに、ひと月おきか一週間おき位に、いろは本より薄つぺらな小冊子を矢継ぎばやに発行するといつた手合なんだが――さうした紳士の一人が、他ならぬこの物語をフォマ・グリゴーリエ ッチから聴きこんだ訳だが、フォマ・グリゴーリエヰッチの方はもう、そんなことはとつくに忘れてしまつてゐたのぢや。ところが或る日のこと、ポルタワから、他ならぬその紳士が豌豆色の上つ張りを著こんでやつて来たのぢや――この仁のことは、いつかお話したこともあるし、当人のものした或る小説は諸君もすでに一読されたことだらう――とにかく、やつて来るなり、この先生、小さな本を一冊だして、その中ほどを開いてわれわれに示したものぢや。フォマ・グリゴーリエヰッチはやをら眼鏡を引きよせて、鼻へ掛けようとしたが、それに糸を巻きつけて蝋で固めておくことをつい忘れてゐたのに気がつくと、その本をわたしの方へさし出したのぢや。わたしは、これでもまあどうにか読み書きも出来るし、眼鏡をかけるにも及ばないので、さつそくそれを受けとつて読みにかかつたといふ訳さ。ところが、ものの二枚とははぐらないのに、あの人はいきなり、わたしの手を押へておしとどめたものぢや。
「ちよつと待つて下され! まづ初めに、いつたい何をお読みになるのか、それを一つ伺つておきたいものぢやて。」
 正直なところ、そんなことを訊かれてわたしは少々あつけに取られた。
「何を読むですつて、フォマ・グリゴーリエヰッチ? あなたのお話ですよ、あなたが御自身でなすつた物語ぢやありませんか。」
「いつたい誰がそんなものをわたしの物語だと言ひましたんで?」
「論より証拠ぢやありませんか、ここにちやんと刷りこんでありまさあね、『
役僧|某《なにそれ》これを物語る 』と。」
「ちえつ、そんなことを刷りこみをつた奴の面に唾でも引つかけておやりなされ! 大露西亜人《モスカーリ》の畜生めが、嘘八百で固めをる! 誰がそんな風に話すもんですかい? まるで箍のゆるんだ桶みたいな、ぼんくら頭の野郎ぢやて! まあお聴きなされ、それぢやあ、改めて一つその話をいたしませう。」
 われわれが卓子へすりよると、彼は次ぎのやうに語りはじめた。
 わしの祖父といへば、(どうか、あのひとに天国の恵みがありまするやうに! またあの世では小麦粉の白麺麭《ブハニェーツ》と、蜂蜜をつけた罌粟餡麺麭《マーコフニク》ばかり鱈腹食べてをりまするやうに!)いや実に話上手な人ぢやつた。よく祖父が話をはじめると、まる一日ぢゆう席を立たずに聴き入つても飽きなかつたものぢや。とてもとても、今時の道化どもが口から出まかせの嘘八百を、ものの三日も飯を食はなかつたやうな舌まはりでやりだしたが最後、さつそく帽子を掴んで戸外《おもて》へ飛び出さずにゐられないといつた、あんな手合とは、てんで比べものにもなんにもなつたものぢやない。今もまざまざと思ひ出すのは、亡くなつた老母がまだ存命ちゆうの頃のことでな――戸外《そと》では酷寒《マローズ》がぴしぴしと音を立てて、自宅《うち》の狭い窓をこちこちに凍てつけるやうな冬の夜長の頃、母は麻梳《グレーベニ》の前で長い長い絲を手繰りだしながら、片方の足で揺籃《ゆりかご》をゆすぶりゆすぶり、子守唄をうたつてゐたつけが、その唄声が今もわしの耳の中で聞えてをりますわい。油燈《カガニェツ》はなんぞに怯えでもしたやうに顫へてパチパチと燃えながら、うちの中のわしたちを照らしてゐる。紡錘《つむ》はビイビイと唸つてゐる。そこでわしたち子供一同は一塊りに寄りたかつて、老いこんでもう五年の余も煖炉《ペチカ》から下りて来ない祖父《ぢぢい》の話に聴き入つたものぢや。したが、遠い遠い昔の物語や、*ザポロージェ人の遠征、波蘭人の話、さては*ポドゥコーワだの、*ポルトラ・コジューハだの、*サガイダーチヌイだのの武勇談、さういつた風な昔語りよりは、どちらかと言へば、何かかう、古めかしい怪異物語の方にわたしたちはずつと牽きつけられたものぢや。さういふ妖怪変化の話を聴くと、いつも躯《からだ》ぢゆうがぞみぞみして、身の毛もよだつ思ひだつた。さもなければ、さうした怪談の怖さがたたつて日の暮れあひからは、眼にうつるものが皆、あやしげな化生のものの姿に見えたものぢや。どうかした拍子で夜分、うちを空けでもすることがあると、必らずそのあひだにあの世から迷つて来た亡者がわが寝床にもぐりこんでゐはせぬかと、無性に気づかはれてならなんだ。いや、まつたくの話が、自分の寝台の枕もとにおいてある長上衣《スヰートカ》を遠くから見て、てつきり悪魔がうづくまつてゐるのぢやないかと思つたことも再々のことでな、それが嘘なら、こんな話を二度と聞かせるをりのない方がましなくらゐぢや。祖父の物語でいちばん肝腎要《かんじんかなめ》なところは、祖父が生涯に一度も嘘をつかなかつたといふ点で、祖父が物語るかぎり、それはまさしくこの世にあつた正真正銘まことの話に違ひなかつたのぢや。

     ザポロージェ人 ドニェープルの急流にある島嶼をザポロージェと言 ひ、そこにカザック軍の本営(セーチ)があつたので、当時この本営附のカザックをザポロージェ人と呼んだのである。
  ポドゥコーワ 土耳古人に殺されたモルダヰヤの太守の弟だと詐称し、カザックを利用して一時モルダヰヤの王位に即いたが、後ワルシャワで捕へられ、一五七八年に処刑された人。
ポルトラ・コジューハ これは『皮衣一枚半』といふ意味の、如何にも小露西亜人らしい滑稽きはまる渾名であるが、果して実在の人物か仮装の人か不明なるも、恐らく波蘭に対するウクライナ解放運動に活躍せし英雄ならん。
サガイダーチヌイ(ピョートル・コナシェーヰッチ) 一六〇六年よりザポロージェ・コザックの総帥となり、土耳古やクリミヤを攻めて勝利を得、波蘭王ウラヂスラフ四世の莫斯科進撃に味方した人。一六二二年歿。
  

では、これから祖父の怪異譚のひとつをお話しすることにしよう。よく公事《くじ》の代書などを勤めてをるやうな御仁で、今様の通用文はすらすらと読めもするが、ありふれた経文の一つもあてがはれうものなら、さあ頓と一字一句だつて会得ができず、その癖、何かといへば人を嘲るやうに白い歯を剥き出して笑ふだけが能といつた、まことにお悧巧な方々を見受けるもので、さういふ手合には何を話しても、ただもう、にやにや笑つてゐるばかりでな。実に、時世時勢《ときよじせい》とでもいふのか、何ひとつ真《ま》に受けるといふことが無くなつた! 近い話が――これあもう、天地神明に誓つての話ぢやが――あなた方にしてからが、ほんたうにはなさるまいけれど、ある時、ちよつと*妖女《ウェーヂマ》の話をしたところ、どうぢやらう? ひどい悪党もあつたもので、妖女《ウェーヂマ》を信じをらぬのぢや! お蔭でこの年になるまでには、こちとらが嗅煙草を嗅ぐよりもたやすく懺悔僧にむかつて嘘八百をならべ立てるやうな不心得な外道にもよく出会つたものぢやが、そのやうな輩《やから》でも、妖女《ウェーヂマ》の話が出れば、鶴亀々々と十字を切つたものぢや。したが、そんな手合には勝手にさせておくがええ……口にするのも穢らはしい……。何もかれこれ言ふがものはないぢやて。

   妖女《ウェーヂマ》 悪魔に身をまかせて神通力を得た女、人間に害悪 
     
を加へると言ひ伝へられる迷信的な存在。
 さて、ものの百年も前には、死んだ祖父《ぢぢい》の話では、こんな村など、誰ひとり知つてゐる者は無かつたさうぢや。村とはいふものの、途方もなく惨めな部落だつたので! 素地《きぢ》のままで何も塗つてない丸太小屋が十軒ほど、そこここと原つぱのまんなかに剥き出しに突つ立つてゐたきりぢや。垣根もなければ、家畜や荷馬車を置くほどの、ろくろく満足な納屋ひとつない有様でな。それでもまだまだ贅沢な方で、こちとらのやうな裸か虫にいたつては、地面《ぢべた》を掘りさげた土窖《つちむろ》――それが人の住ひなのぢや! ただ立ちのぼる煙を見て、そこにも神の子の住んでゐることが頷かれるといつたていたらく。どうして又そんな生活《くらし》をしてゐたのぢやと言ひなさるのかな? 貧乏のためかといふに、なかなか、貧乏どころぢやない。なんしろその頃といへば、猫や杓子までがわれもわれもと哥薩克になつて、他所《よそ》の国々へ押し渡つて夥しい財宝を掠め取つてゐた時代でな、どちらかといへば、安住の家などを営む必要が更々なかつたからぢや。当時は、クリミヤ人でござれ、波蘭人《リャフ》でござれ、乃至はリトワニヤ人でござれ、どれもこれも世界を股にかけて渡り歩いたものぢや! そればかりか、時には自国の者が徒党を組んで同胞から掠奪を擅《ほしいまま》にすることさへあつたのぢや。いや、どんなこともあつた時代ぢやからな。
 さてその頃のこと、この村へ時々ひとりの男、といふよりは寧ろ人間の形に化けた悪魔が、姿を現はした。そいつはいつたい何処から、何をしにやつて来るのか、だれ一人として知る者がなかつた。遊興に耽つて、酒に酔ひしれてゐるかと思ふと、まるで水の底へでも潜つたやうに、たちまち姿を掻き消してしまつて、なんの音沙汰もなくなるのぢや。さうかと思ふと、まただしぬけに天からでも降つたやうに、今でこそ跡形もないが、ディカーニカとはつい目と鼻のあひだにあつたその村の往還をすたすたと足ばやに歩いてゐるといふ始末なのぢや。そこでまたしても逢ふほどの哥薩克たちを残らず寄せ集めて、飲めや唄への乱痴気さわぎをおつぱじめて、銭をばら撒く、火酒《ウォツカ》は浴び放題……美しい娘つ子には、そつとすり寄るやうにして、リボンだの耳環だの頸飾だのを、もてあますほど呉れてやる! 実は、美しい娘つ子たちも、さうした贈物を手にしながら、うすうす怪訝《けげん》に思ふのぢやつた――ひよつとこれは悪魔の手から出た代物ではないかしらとな。わしの祖父《ぢぢい》の親身の叔母が、そのころ今のオポシュニャンスカヤ街道で居酒屋をやつてゐたが、そこでよく、このバサウリューク(その魔性の男は、さういふ名前でとほつてゐた)が散財をしたさうで、叔母の話したことには、この世にある限りのどんな幸福《しあはせ》と引換でも、この男から贈物などもらふのは真平御免だつたといふのぢや。だが、さうかといつて受け取らんわけにもゆかぬ――その男が針のやうな眉毛をしかめて、見るからに足のすくみさうな眼つきで額越しに睨まへると、誰だつてぞうつとして怯気《おぢけ》を震つてしまつたものぢや。ところがまた、それを受けとらうものなら、次ぎの晩には頭に角のある、そいつの仲間が沼地からお客に押しかけて来るのぢや。そして、頸飾を掛けてをれば頸をしめる、指輪をはめてをれば指に喰ひつく、リボンを結んでをれば編髪《くみがみ》をひつぱるといふ始末でな。さうなつた暁には、それこそ、かうした贈物は誠にもつて迷惑千万なのぢや! しかも災難なことには――それを振りすてることも出来ないのぢや。たとへば水中めがけて投げこんだにもせよ、その魔性の指輪なり頸飾なりは、水面を泳いで、すぐに又もとの手もとへ戻つて来をるのぢや。
 その村にお寺が一つあつたが、わしの記憶では、多分パンテレイ聖人を祠《まつ》つた御堂だつたと思ふ。当時その寺に、今は亡きアファナーシイ神父が住まつてをられた。神父は、バサウリュークが復活祭にさへお寺へ顔出しをせぬのを知ると、少し窘めて彼に懺悔をさせようと思ひついたものぢや。ところが、どうしてどうして! 命に別状のなかつたのがせめてもの仕合せといふものでな。『へん、和尚さん!』と、そいつは喰つてかかつたのぢや。『他人《ひと》のことにかれこれ口出しをする暇に、われと我が身のことに気をつけたがよからうぜ、さもないと、煮えつきの蜜飯《クチャ》でその山羊の頸みたいな咽喉をふさいでこますから!』かういふ罰あたりにかかつては、なんともはや仕方のないものでな。アファナーシイ神父はただひと言、このバサウリュークとつきあひをするやうな者は、誰れ彼れなしに、基督教会と人類全体の仇敵である加特力の信者と看做しますぞ、と断言したきりぢやつた。
 さて、この村でコールジュといふ通称でとほつてゐた哥薩克の家に、『親無しペトゥロー
といふ渾名で呼ばれてゐる作男がひとりゐた。多分、だれ一人その男の両親を知つてゐる者がなかつたので、そんな渾名がつけられたのだらう。もつとも信徒総代の話によれば、その両親は、彼の生まれた翌る年、黒死病《ペスト》で亡くなつたといふのぢやが、わしの祖父の叔母はそれを本当にしないで、一所懸命に、この哀れなペトゥローの身にとつては去年の雪ほどにも用のない肉親を捜し出してやらうとて、いろいろ骨折つたものぢや。彼女の話では、ペトゥローの父親は今、ザポロージェにゐるが、前に土耳古人の捕虜になつて、むごたらしい艱難辛苦を嘗めた末、やうやく宦官の姿に変装して脱走して来たといふのぢや。だが眉の黒い娘つ子や新造たちにとつては、彼の肉親のことなどはどうでもよかつた。彼女たちはひたすら、彼に新調の波蘭服《ジュパーン》を著せ、赤い帯をしめさせ、てつぺんだけが粋に青い仔羊皮《アストラハン》の黒い帽子をかぶらせて、腰に土耳古風のサーベルをつり、片手には鞭を、片手には美しい象眼いりの煙管《パイプ》を持たせたものなら、とてもとても当時の若者といふ若者などは、その足もとへもよりつかれたものではなからうなどと、言ひそやしてゐた。しかし不幸にして、貧しいペトゥローには、天にも晴《はれ》にも掛換のない一枚看板の鼠いろの長上衣《スヰートカ》より他には持ちあはせがなく、それも、気のきいた猶太人の衣嚢《かくし》の中にある金貨の数よりも多く穴があいてゐるといつた代物であつた。だが、それはまだしも大した災難ではなかつた。災難なのは、コールジュ老人に一粒種の娘があつて、それが素敵もない別嬪で、諸君にも恐らくこんなのは、なかなかおいそれとは見つかるものでないと思はれるほどの美人だつたことで。亡き祖父の叔母がよく話したことぢやが――ところで女にとつては、御承知のやうに、差しさはりがあつたら御免なされぢやが、他人《ひと》のことを美人だなどと言ふくらゐなら、いつそ悪魔と接吻でもする方がよつぽど安易《らく》なはずぢやが――その哥薩克娘《カザーチカ》のふくよかな頬が見るからに瑞々《みづみづ》しくて、あのこよなく美しい薔薇いろの罌粟《けし》が神授《めぐみ》の朝露で沐浴《ゆあみ》ををへて鮮やかに燃えながら、きちんと行儀よく枝葉をそろへて、今し昇つたばかりの日輪に向つて美装を誇つてゐる時のやうに、あでやかなら、またその眉は、ちやうど当節の娘たちが、あの、箱をかついで村々を廻つて来る大露西亜人《モスカーリ》から、十字架につけたり、頸飾にする古銭を通すために買ふ、あの黒紐のやうに匂やかに、あだかもその明眸をさし覗くやうに、なだらかに弧を描き、小夜鳴鳥《ナイチンゲール》の唄声をもらすために造られたかとも思はれるその可憐な口許は、それを見るたんびに当時の若者どもに思はず舌舐ずりをさせたもので、烏羽玉の黒髪は若亜麻《わかあさ》のやうにしなやかに、(その頃はまだ、この辺の娘たちのあひだには、派手な色あひの美しい細リボンを編《く》みこんだ幾つもの小さい編髪にするならはしがなかつたので)房々とした捲毛が、金絲で刺繍をした波蘭婦人服《クントゥーシュ》の上へ、ゆたかに垂れてゐたさうぢや。へつ! このすつかり霜をいただいたわしが脳天《どたま》の古林と、まるで眼の上の瘤みたいに片わきに鎮坐まします山の神の婆あの前ではあるが、こんな娘を思ふ存ぶん接吻することができないほどなら、おお主よ、わしはもう頌歌席でハレルヤを唱へさせて貰ひませんでも結構ぢや。それはさて、かうして若者と娘つ子とが互ひに朝夕顔を見あはせて暮してゐた日には……それがどんな結末になるかは、火を見るより明らかな話で、まだ黎明《しののめ》の頃ほひ、赤長靴の踵鉄《そこがね》が目につけばそこには必らずピドールカが情人のペトゥルーシャと甘いささやきを交はしてゐたわけぢや。しかし、つひぞそれまでコールジュが邪慳なこころを起すやうなことはなかつたが、ある時――これこそ他ならぬ悪魔のそそのかしに違ひないのぢやが――ペトゥルーシャのやつ、碌々あたりに注意もはらはず、あとさきの考へもなしに、家の入口で哥薩克娘《カザーチカ》に出会ひざま、その薔薇色の唇に、いはば無我夢中で接吻したのぢや。ちやうどその時、同じ悪魔めが、ええつ、ほんに畜生め、霊験いやちこな十字架の夢でも見くさるがええ!――あらうことか、あの耄碌親爺に入口の扉を開けさせをつたのぢや。コールジュ老人は戸につかまつて棒だちになつたまま、開いた口も塞がらなかつた。その忌々しい接吻の音で彼の耳はすつかり聾になつてしまつたかとさへ思はれたのぢや。それは、まだ鉄砲も火薬もない当時のこととて、百姓どもが壁を叩いて野禽《とり》を追ふのに使つた、木槌の音よりも大きく彼の耳に響いたものぢや。
 我れに返るとともに、彼は、壁に懸つてゐた父祖伝来の鞭をおつ取りざま、哀れなペトゥローの背筋をめがけてピシリと一つ撃ちおろさうとしたが、ちやうどその時、どこからかピドールカの弟で六つになるイワーシが駈けこんで来るなり、仰天して、いたいけな両の手で父親の脚にしがみついて、『お父ちやん、お父ちやん! ペトゥルーシャを殴《ぶ》つちやあ、いけないようつ!』と喚き出しをつたのぢや。どうしやうがあるものか? 父親の心だとて木石ではない筈ぢや。彼は鞭をもとの壁に懸けて、やをら相手を扉の外へしよびき出すなり、『向後この家でおれの眼にとまつて見ろ、うんにや、そればかりか、うろうろと窓の下へでも近づいて見ろ、その時こそ、いいか、ペトゥロー、おらがテレンチイ・コールジュである限り、誓つて、汝《うぬ》のその黒い髭と、それからこの豚尾が――ほうら、もう耳を二たまはりも巻けるわい――これがどちらも汝《うぬ》のど頭《たま》から消えてなくなるんだぞ!』かう言ひざま、彼はすばやく拳をかためて、ペトゥローの項《うなじ》をがんと一つ喰らはせた。ペトゥルーシャはくらくらつと目が眩んで、その場へばつたり倒れてしまつた。とんだ接吻をして退けたものぢや! 恋人同士は切ない悲哀に胸とざされてしまつた。ところがコールジュの許へはさる波蘭人で、ぴんと口髭を生やして、金絲で刺繍《ぬひ》をした衣服を身にまとひ、長剣《サーベル》をつり、拍車をつけた男が、まるで寺男のタラースが毎日、会堂のなかを持ちまはる喜捨袋みたいに、衣嚢《かくし》をジャラジャラいはせながら、足しげく通ひだしたといふ噂さが、専ら村ぢゆうの評判になつた。けだし小意気な娘をもつ父親のところへ、しげしげと出入をする手合の下心は見えすいてゐる。さて或る日のこと、ピドールカは涙にかきくれながら、両の腕に弟のイワーシを抱きしめて、かう言つたのぢや。『可愛いあたしのイワーシや! 好い子だからね、大急ぎでペトゥルーシャのところまで一と走り行つて来ておくれでないか。そしてあのひとにさう言つておくれ。あたし、あのひとの鳶いろのお眼《めめ》が恋しくて、あのひとの白いお顔が接吻したいのだけれど、でも前の世からの因縁でそれも叶はないのだつてね。あついあつい涙で、ぐつしより濡らした手拭も一筋や二筋ぢやない。あたしやせつなくつて、なんだか胸がしめつけられるやうなの。親身のお父さんでさへ、あたしには仇敵《あだがたき》もおんなしだわ――好きでもない波蘭人のとこなんかへ無理やりお嫁に行かせようとするんだもの。あのひとにさう言つておくれ、うちではもう婚礼の支度にかかつてゐるのだけれど、あたしの婚礼には賑やかな音楽などはなくつて、八絃琴《コーブザ》や笛の代りに補祭がお経をあげるのだつて、ね。そしてあたしは花聟といつしよに踊るのではなく、棺に入れて担《にな》つてゆかれるのだつて。あたしのお嫁にゆくところは暗い暗いお家なんだつて!――そして、屋根のうへには煙突の代りに楓の木の十字架が立つんだつて!』
 あどけない子供がピドールカのことづてを片言で繰りかへすのを聴きながら、ペトゥローはまるで化石にでもなつたやうにその場に棒立ちになつてしまつた。『ええ、情けない、おれはまたクリミヤか土耳古へでも押しわたつて、金銀をうんと分捕つて、しこたま身代を拵らへてから、お前のとこへ帰つて来ようと思つてゐたのになあ、おれの別嬪さん。それもやつぱり駄目か。どこまでも、おれたちふたりは意地の悪い運命の眼《まなこ》にみこまれてしまつたのだ。おれの方にだつてな、いとしい恋人さん、婚礼は挙げられるよ――おれの婚礼にやあ、坊さんがお経をあげるかはりに黒い鴉がカアカア啼くだらう。おれの家はだだつ広い野原で、蒼黒い雨雲が屋根の代りになるのだよ。鷲めがおれの鳶いろの眼球《めだま》をつつき、哥薩克|男子《をのこ》のこの骨は雨露《あめつゆ》に洗はれて、やがては旋風の力でひからびてしまふことだらう。だがおれはどうしたといふんだ? だれを恨み、だれに泣きごとをならべることがあらう? 所詮は神がかういふ運命に定められたのだ! ええ、もう身も心も破滅してしまへばいいんだ!』さう言ふと、そのまま彼は居酒屋をさしてまつしぐらに飛んで行つたといふ。
 祖父《ぢぢい》の叔母は、ペトゥルーシャが自分の酒場へ、それも堅気な人たちなら朝の勤行に詣つてゐる時分に、ひよつこり姿を現はしたのを見てちよつと驚ろいたが、彼が半樽の余も入りさうな大コップで焼酎《シウーハ》を注文した時には、まるで目のくり玉がとびだしさうなほど、相手の顔を見つめたものぢやさうな。この可哀さうな男はどうかしてその悲しみを払ひ落さうと思つたのだが、それは無駄なことだつた。火酒はまるで蕁麻《いらくさ》のやうに彼の舌を刺して、苦蓬《にがよもぎ》の汁よりも苦く思はれた。それで彼はその大コップを地べたへ叩きつけた。『悲観することあねえぞ、哥薩克!』さういふ胴間声が彼の頭のうへで鳴り響いた。振りかへつて見ると、そこにゐるのはバサウリュークだ! いやはや! なんといふ醜顔《つら》ぢやらう! 髪の毛はごはごはして、眼の玉がまるで牡牛のそれのやうぢや。『お主が何に困つてをるのか、それはちやんと知つとるぞ。そうら、これだらう!』さう言ひながら、彼は悪魔のやうな薄笑ひを浮かべて、帯のわきに下げてゐた革の財布をジャラジャラ鳴らした。ペトゥローはぶるつと身顫ひをした。『へ、へ、へ! どうだ、よく光るぢやらうが!』彼は金貨を手のひらへザラザラと移しながら喚いた。『へ、へ、へ! どうだ、好い音がするぢやらうが! かういふお銭《ぜぜ》をたんまり儲けるのに、仕事といへばたんだ一つきりさ!』『悪魔!』と、ペトゥローが躍起になつて叫んだ。『それをやらせてくれい! おらはどんなことでもして退けるだから!』そこで手うちが交はされた。『見ろ、ペトゥロー、お主はちやうどいい時に間にあつただぞ、明日《あした》はイワン・クパーラぢや! 一年のうち今夜ひと晩だけ、蕨《わらび》に花が咲くのぢや。この期《ご》をはづしちやあならんぞ! おれは今夜、真夜中に熊ヶ谷でお主を待つてゐてやる。』
 恐らく、この日ペトゥルーシャが夜になるのを待ち焦れたほどには、鶏も女房《かみさん》が餌を持つて来てくれる時刻を待ちあぐねはしなかつたらう。刻一刻に怺《こら》へ性がなくなつて、なん度となく戸外《おもて》へ出ては木立の影が少しでも長くならないかと、そればかり眺め眺めしたものぢや。なんといふ日の長いことだらう? どうやら、天帝の定めた一日が、どこかへ尻尾を置き忘れて来たものとみえる。だが、やうやくのことで太陽の姿がなくなつた。空は一方だけが赤らんでゐる。やがてそれも薄暗くなつて来た。野原はひとしほ肌寒くなつて、だんだん夕闇がせまり、そろそろ黄昏《たそが》れそめる。やれやれ、やつとのことで! 彼は飛びたつ思ひで支度もそこそこに、足もとに用心しながら、欝蒼と生ひ繁つた森の中を辿つて、熊ヶ谷と呼ぶ奥深い谷底へと降りて行つた。バサウリュークはもうちやんと、そこに待つてゐた。鼻をつままれても分らないやうな真の闇だ。二人は手に手をとつて、じめじめした沼地をば、深々と生ひはびこつた荊棘《いばら》にひつ掻かれたり、殆んど一足ごとにつまづいたりしながら、前へ前へと進んで行つた。すると、やがてのことに平らなところへ出た。ペトゥローはあたりを見まはしたが、まだ一度も来た覚えのないところだつた。そこまで来るとバサウリュークは立ちどまつた。
「お主の眼の前に三つの丘があるぢやらうが? この三つの丘にいろんな草の花が咲くのぢや。だが、お主がそれを一つでも折り取るのは禁物ぢやぞ。ただ蕨に花が咲いたら、すぐさまそれを掴むのぢや、そしてお主のうしろでたとへどんなことが起らうとも、振りかへつてはならんのぢやぞ。」
 ペトゥローは何か訊ねようと思つたが……見れば――バサウリュークの姿はもうそこには無かつた。彼は三つの丘の傍へ近よつた。いつたいどこに花があるのだらう? なんにも眼には見えぬ。野草があたり一面に黒々と生ひ繁つて、まるであたりを塞いでしまつてゐるばかりだ。ところが、やがてのことに天の一角で、ピカリと一つ稲妻が閃めいた。と、そのとたんに、彼の眼前には一面の花畠が現出して、どれもこれも珍らしい、つひぞ見たこともないやうな花で一杯になつた。だが、蕨はまだ、ただの葉つぱだけぢやつた。ペトゥローは肚のなかで少し怪しみながら両の手を腰につがへたまま、その前に立ちつくした。
『こんなものあ、別に珍らしくもなんともないぢやないか? 一日に十ぺんだつてこんな草なら見てゐらあな、何が不思議なもんか? あの悪魔づらめが、ひとを嘲弄《からか》ひくさるのぢやないかしらん?
 ところが、見てゐると――小さな花の蕾が一つ、だんだん赤らんで来るではないか――さながら生きもののやうに蠢めきながら。まつたくこれは不思議だ! 蠢めきながら見る見る大きくなつて、まるで燠《おき》のやうに赤くなつた。そして小さい星がきらめくやうに火花が散つたかと思ふと何かパチつと音がした――と、彼の眼前には一輪の花がぱつと開いて、さながら火のやうにぐるりの花々を照らしてゐるのだ。
『さあ、今だ! さう思つて、ペトゥローは片手をのばした。見れば、彼のうしろからも、やはりその花をめがけて何百といふ、毛むくじやらな無数の手がさしのばされた。そして彼のうしろでは何者かがあちこちと駈けまはつてゐるらしい気配がする。彼は眼をつぶつて、その茎をむしり取つたが、首尾よくその花は彼の手に入つた。あたりが急にしいんと静まりかへつた。すると、木の切り株のうへに坐つて、まるで死人のやうに色蒼ざめたバサウリュークの姿が現はれた。彼は指いつぽん動かさなかつた。両の眼は何ものか、ただ彼にだけ見えるらしいものにむかつてじつと凝らされてゐた。口は半ばほころびてゐたが、なんの応《いら》へもない。あたりには蠅の羽音ひとつ聞えぬ。いやはや物凄いのなんのといつたら!……ところがその時、さつと一陣の風が起つて、ペトゥローは肚の底からぞうつとした。そして、草がさやさやとそよぎ出して、さながら花が互ひに銀鈴を振るやうな細い細い声でささやきはじめたやうに思はれると、樹々は怒号するやうな物凄い音をたてて鳴りはためいた……。と、バサウリュークの顔は急に生気を帯びて、その両眼がぎらりと光つた。『やつと鬼婆《ヤガ》めが帰りをつたな!』さう彼は、歯の隙間からつぶやいた。『よいかペトゥロー、今すぐにお主の前へ凄い別嬪が姿を見せるから、そいつの※[#「口+云」、第3水準1-14-87]ひつけどほりにするのぢやぞ、さもないと、取りかへしのつかぬことになるのぢや!』さう言つて彼が、節くれだつた木の杖で荊棘《いばら》のしげみを押し分けると、二人の面前には、昔噺にあるとほりの*鶏の脚で立つた小舎が現はれた。バサウリュークが拳をあげてその戸を叩くと、壁がゆらゆらと揺めいた。そして大きな黒い犬が一匹飛びだしたかと思ふと、ぎやつと叫びざま、猫の形に変つて、二人の方へまともに躍りかかつて来た。『おいおい、腹を立てなさんなよ、鬼婆《ばあ》さん!』さう言つてからバサウリュークは、堅気な人間にはとても聞きずてにすることの出来ないやうな、いかがはしい言葉をつけ足した。すると、今度は猫ではなくて、まるで焼林檎のやうに皺くちやな顔をして、全身が弓のやうに曲つた老婆の姿にかはつた。その鼻と頤とが、ちやうどあの胡桃を割る鋏子《やつとこ》のやうな恰好に向ひあつてゐた。 』 [#始め二重括弧、1-2-54]大変な別嬪ぢやわい! さう思ひながら、ペトゥローは背筋にぞうつと寒けを覚えた。妖女《ウェーヂマ》は彼の手からくだんの花をひつたくると、身をかがめて長いあひだそれに怪しげな水をふりかけながら、何か口のなかで呪文を呟やいてゐた。その口からは火花が飛び、唇にはぶくぶくと泡が吹きだした。『投げな!』と、老婆は花を彼に返しながら、言つた。ペトゥローがそれを投げた。と、なんと不思議なこともあるもので、花はまつすぐに地面へは落ちないで、しばらくのあひだ、闇のなかにまるで火の球のやうに浮いたまま、小舟かなんぞのやうに空中を漂つてゐたが、やがて少しづつ低くなつて、最後にかなり遠くの方へ落ちたので、それは罌粟粒よりも小さい星のやうに、やうやくそれと見分けられるくらゐであつた。『あすこだよ!』さう、うつろな嗄がれ声で老婆がいふと、バサウリュークは犂《すき》を渡しながら、『あすこを掘るのぢや、ペトゥロー、あすこにやあな、お主やコールジュが夢にも見たことのないやうな黄金《かね》がたんまり埋まつてをるのぢや。』と告げた。ペトゥローは手に唾をして犂をとると、それをぐつと土へ踏みこんでは掘りおこし、踏みこんでは掘りかへし、何度も何度も繰りかへした……。と、何か固いものに触つた!……犂がカチつと音を立てて、もうそれ以上は通らぬ。その時、彼の眼にははつきりと、鉄板《てつ》を著せた小型の櫃がうつつた。で、彼がすんでのことに手を掛けてそれを持ちあげようとすると、櫃は地の底へずるずるとめりこんでゆくではないか。そして彼のうしろでは、どちらかといへば蛇の匍ふ音に似たやうな笑ひ声がした。『駄目なこつちやよ、お主が人間の血を手に入れるまでは、その黄金《かね》を見る訳にはいかんのぢや!』さう言つて妖女《ウェーヂマ》は、彼の前へ白い敷布《シーツ》にくるまれた六つぐらゐの子供をつれて来て、その首を刎ねよといふ相図をした。ペトゥローはその場に立ちすくんでしまつた。たとへどんなことがあらうとも、人間の、ましてや罪もない子供の首を斬り落すなどといふことがどうして出来るものか! 彼は赫つとなつて子供の頭に巻かれた敷布《シーツ》を引きはいだ。と、どうだらう? 彼の眼の前に立つてゐるのはイワーシではないか。哀れな子供はいたいけな両手を十字に組んで、頭べを垂れてゐるのであつた……。狂人のやうになつたペトゥローは、短刀を振りかぶつて妖女《ウェーヂマ》にをどりかかりざま、まさにその手を打ちおろさうとした……。

       鶏の脚で立つた小舎 露西亜の昔噺に出て来る鬼婆の棲家は、森の中に鶏の脚で立つてをることになつてゐる。

「おぬしは、あの娘を手に入れるために、どんな約束をしたのぢや?……」さう呶鳴るバサウリュークの声が、まるで鉄砲だまのやうにうしろから彼の五体に突きとほつた。妖女《ウェーヂマ》が片足あげて、とんと地面を踏んだ。すると、青い焔が地のなかからたちのぼつて、地下全体がかつと明るくなり、まるで水晶ででも出来てゐるやうに、大地の底にあるものが何もかも、手に取るやうに見え出した。彼等の立つてゐる地面の真下には、櫃や鍋にいれた金貨だの宝石だのが、うづたかく埋蔵されてゐるのだつた。ペトゥローの両の眼は燃えるやうに輝やいて……理智の鏡も曇らされた……。まるで正気を失つたもののやうに彼は短刀を掴んだ。無辜の血汐が彼の両眼にはねかかつた……。悪魔の高笑ひが四方からどつとあがつた。醜悪きはまる化生のものが彼の眼前を群れをなして駈けまはつた。妖女《ウェーヂマ》は首を刎ねられた屍を両手にかかへこんで、狼のやうにその血をすするのだつた……。ペトゥローの頭のなかでは何もかもがぐるぐると廻つた! 彼はその場から力の限り逃げだした。彼の眼の前はすべてが真紅の光りにつつまれて見えた。すべての樹々が血を浴びて赫つと燃えながら呻いてゐるやうに思はれた。空も真赤に灼けただれて揺らめいてゐた……。稲妻のやうな火の玉が眼の中できらめいた。ぐつたりと、精も根も尽き果てて彼は自分の荒ら屋へ駈けこむなり、藁束のやうに地面《ぢべた》へぶつ倒れてしまつた。そのまま死のやうな睡魔が彼を捉へてしまつた。
 二日二夜のあひだ、ペトゥローは一度も目を醒さずにぐつすり眠りとほした。三日目になつてやつと夢から醒めた彼は、長いあひだ自分の家の隅々を眺めまはした。何ごとかを思ひ出さうとして躍起になつたが、どうしても思ひ出されない。彼の記憶は、まるで老いぼれた吝ん坊の衣嚢《かくし》と同じで、これつぱかしも絞りだすことが出来ないのぢや。ふと、伸びをした時、彼は足もとで何かザラザラと音がするのを耳にとめた。見れば、金貨の袋が二つもあるではないか。やつと、この時、夢のやうに、自分が何か宝を捜してゐたことと、森の中でただ一人、何か怖ろしい目に会つてゐたことを思ひ出した……。だが、何の代償として、またどういふ手段でそれを手に入れたのか――それはどうしても思ひ出すことが出来なかつた。
 二つの金袋を見ると、コールジュの心は折れた。『ほんにペトゥルーシャはなんちふ変物ぢやらう! おらがあれに目をかけてやらなかつたとでもいふのかい? うちぢや、あれを親身の息子のやうにしとつたでねえか!』などと、老人はまるで歯の浮くやうな出放題をならべ立てたものぢや。ピドールカは、弟のイワーシが通りすがりのジプシイにかどはかされたことを話したがペトゥローはイワーシの顔を思ひだすことさへ出来なかつた。そんなにまで呪はしい化生の物のためにたぶらかされてゐたのぢや。もう何も躊躇することはなかつた。波蘭人には体のいい肘鉄砲を喰はせておいて、さつそく婚礼の支度がととのへられた。白い婚礼麺麭が焼かれたり、布巾《ふきん》や手巾《ハンカチ》がしこたま縫はれたりして、焼酎の樽がころがし出されると、新郎新婦は並んで卓子につき、大きな婚礼麺麭が切られた。四絃琴《バンドゥーラ》や鐃※《シンバル》、笛や八絃琴《コーブザ》の楽の音がとどろきわたつて――歓楽がつづいた……。
 むかしの婚礼はとても今時のそれとは比べものにはならなかつた。祖父の叔母がよく話したことぢやが、ただもう、やんややんやといふ騒ぎで! 娘たちは上を金モールで巻いた、青や赤や桃いろのリボンで拵らへた頭飾《かんむり》をかぶり、縫ひめ縫ひめを赤い絹絲でかがつて小さい銀の花形をつけた薄いルバーシュカを身につけ、背の高い踵鉄《そこがね》をうつたモロッコ革の長靴をはいて、まるで雌孔雀のやうに軽快に部屋ぢゆうを踊りまはつた。また新造たちは新造たちで、頂上がすつかり紋金襴で出来て、項《うなじ》のところに小さい切れ目のある(そこから金ピカの頭巾《アチーポック》が覗いてゐたが、それには極々ちひさい、黒い仔羊皮《アストラハン》の角が前と後ろへ一つづつ突き出てゐた)舟型帽《カラーブリク》をかぶり、赤い飾布《クラーパン》のついた上等の古代絹の波蘭婦人服《クントゥーシュ》を著て、勿体らしく両手を脇にかつて、ひとりひとり正しい型のゴパックを踊つた。若者たちはまた、背の高い哥薩克帽をかぶり、薄羅紗の長上衣《スヰートカ》のうへから銀絲で刺繍をした帯をしめ、口に煙管《パイプ》をくはへたまま、女たちにむかつて媚びるやうな踊り方をしながら、ときどき戯口《ざれぐち》をきいた。コールジュまでが若者たちを見ては我慢がならなくなつて、寄る年波も忘れて浮かれだした。この老人は酒杯《さかづき》を頭にのつけて、四絃琴《バンドゥーラ》を手にすると、煙管《パイプ》をすぱすぱやりながら、歌を口ずさみ口ずさみ、ぞめき連のやんやといふ喝采につれて、しやがみ踊りをおつぱじめたものだ。一杯機嫌になると何をやりだすか知れたものぢやない。仮面《めん》をかぶれば――いやもう、まるで人間の恰好ではない。どうしてどうして、今時の仮装などは、むかし婚礼の時にやつたものとは、てんで比べものにはならんて。当節やるのは、なんぞといへば、せいぜいジプシイか大露西亜人《モスカーリ》の真似ごとぐらゐが関の山ぢや。ところが、そんなものとは大違ひで、一人が猶太人に紛すると一人は鬼になつて、最初は接吻しあつたりなどしてゐるが、そのうちに房髪《チューブ》の掴みあひをおつぱじめる……。まつたくどうも! 一同は腹をかかへて笑ひころげたものぢや。土耳古人や韃靼人の服装《なり》をしてゐる者もある。それがみんな火のやうにキラキラと光つてをるのぢや……。ところが、そのうちにふざけた馬鹿な真似がおつぱじまる……いやもう、とても堪つたものぢやない! 亡くなつた祖父の叔母は、この婚礼の席に列なつて、とても滑稽な一幕を演じてしまつたものぢや。叔母はその時、なんでも韃靼風のだぶだぶした衣裳をつけて、酒杯《さかづき》を持ちまはつて一同に酒をすすめてゐたさうぢや。すると一人の男が悪魔にでもそそのかされたのか、うしろから叔母のからだへ火酒《ウォツカ》をぶつかけをつたのぢや。するともう一人の別の男が待つてゐたといはんばかりに、即座に火を燧つてそれに点けをつた……。火焔がぱつと燃えあがつた。可哀さうに、叔母はすつかり仰天してしまひ、満座のなかで着物をのこらずかなぐりすてた……。まるで市場のやうに、わつといふざわめきと、哄笑と、馬鹿さわぎが持ちあがつた始末さ。一と口に言へば、どんな老人《としより》も未だ曾てこれほど愉快な婚礼には出会つたためしがないといふほどぢやつた。
 ピドールカとペトゥルーシャとは、まるで殿様と奥方のやうな暮しをはじめた。なに不自由なく、万事につけてきらびやかに……。しかし堅気な人たちは二人の暮しを眺めて、かすかに首をふつた。『悪魔から福は来るものでねえだ。』さう彼等は異口同音に言ふのだつた。『正教徒をたぶらかす悪魔からでなくて、どこからあんな富がころげこんで来るものか。いつたいどこからあの山のやうな金貨を手に入れたのだらう? それに、なんだつてあの男が金持になつたと同じ日に、不意にバサウリュークの姿が消えて無くなつたんだらう?』どうも人の臆測といふものは馬鹿にならんものでな! 一と月とたたぬうちにペトゥルーシャはまるで人間が変つてしまつた。いつたい彼はどうしたといふのか――さつぱり訳がわからん。同じところに坐つたまま、一と言も人とは口をきかず、しよつちゆう物思ひに耽つて、何事かを一心に思ひ出さうと骨折つてゐるらしいのぢや。どうかしたはずみに、ピドールカがやつと口をあかせると、妙にきよとんとしながらも、すこしは話もして、気分もいくらか晴れるやうなのぢやが、ふと、くだんの袋を見ると、『待て待て、どうも思ひ出せんわい!』さう口ばしつて、またもや深い物思ひに沈んで、再び何事かを思ひ出さうと一心不乱になるのぢや。時々じつと、長いあひだひとつ場所《ところ》に坐つてゐると、いかにも何もかもが初めから脳裡《あたま》に浮かびあがつて来さうな気がするのぢや……が、やはりまたぼうつとしてしまふのぢや。どうやら、自分は居酒屋に坐つてゐるらしく、火酒《ウォツカ》が運ばれて来る、火酒《ウォツカ》が舌に焼けつく、火酒《ウォツカ》はとても厭だ、誰かそばへ近よつて来て肩を叩く、その男が……しかし、それから先きはまるで眼のまへに霧がかかつたやうで、とんと思ひ出せぬ。汗が顔からたらたら流れる、彼はぐつたりして、その場に居竦まつてしまふのだつた。
 ピドールカはありとあらゆる手段《てだて》をつくした。修験者に相談したり、★怯え落しや癪おさへの呪術《まじなひ》もしてみたが――しかし、なんの験《しるし》もなかつた。

 ★ わたしの地方では人が悸病《おびえ》にかかつた時、その原因を知るために『怯え落し』をやる――それには先づ錫か蝋を溶かして水の中へ流しこむのだ。するとそれが病人を怯えさせてゐるものの姿に似た形を現はす、それで怯えはすつかり落ちてしまふのぢや。『癪おさへ』といふのは吐気《むかつき》や腹痛の時にやるもので、それには大麻の切れはしに火をつけてコップのなかへ入れ、それをば病人の腹のうへに水を盛つて載せた鉢のなかへ、底をうへにして、伏せるやうにして入れる。それから呪文をとなへてから、その鉢の水を一匙だけ病人に呑ませるのぢや。(原作者註)

 かくてその夏もすぎた。哥薩克たちの多くは秋の刈り入れをすました。そして生れつき放縦な多くの哥薩克たちはまたもや戦地へと出征した。鴨の群れはまだ土地《ところ》の沼地に群れてゐたが、鷦鷯《みそさざい》はもう影も見せなかつた。曠野《ステッピ》は一面に赤くなつた。そこここに穀類の禾堆《いなむら》が、ちやうど哥薩克の帽子のやうに野づらに点々と連なつてゐた。時をり村道を、柴や薪をつんだ荷馬車が通つてゆくのが眼についた。大地はいよいよ固くなり、ところどころに凍《い》てが染みとほつた。やがて空から雪がチラチラと落ちはじめ、木々の枝は兎の毛のやうな霜で飾られた。晴れた極寒の日には優雅な波蘭貴族よろしくの姿をした胸の赤い鷽《うそ》が餌を曳つぱりながら雪の上を歩きまはり、子供らはでつかい槌を持つて氷の上を走りまはつて、木の球を追つかけた。一方、彼等の父親たちは楽々と煖炉《ペチカ》のうへに寝そべつてゐたが、時をり、吸ひつけた煙管をくはへたまま戸外《そと》へ出て来ては、いかにも素晴らしい大寒日和をさんざんに褒めののしつたり、または入口の土間で、寝かしてあつた穀物に風を通したり搗いたりするのぢやつた。やがて雪が解けはじめ、梭魚《かます》が尾で氷を砕いた。だが、ペトゥローの容態には依然として変りがなく、時と共にいよいよ気むづかしさがつのる一方だつた。足もとに金貨の袋を置いたまま、鎖にでも繋がれたやうに、家の真中に坐つてゐた。髪はぼうぼうと伸び放題で、まるで野育ちのやうに、見るからに怖ろしい形相になつて、絶えず一つのことに思ひを凝らして、何事かを思ひ浮かべようと一心になりながら、それが思ひ出せぬのに焦れたり、怒つたりした。時々、暴々しく席を蹴つて立ちあがると、両手を打ち振り打ち振り、何ものかを捉まへようとでもするやうに、じつと眼を凝らすことがあつた。唇は、何かずつと前に忘れてしまつた言葉を、どうかして口へ出さうとしてあせるやうに、ぴくぴくするのだが――やはり又じつと動かなくなる……。狂暴の発作が襲つてくると、まるで正体もなく歯がみをして、われとわが手に咬みついたり、苛立ちまぎれに髪の毛を引きむしつたりするが、やがてそれが鎮まると、さながら夢うつつのやうにばつたり倒れてしまふ。それから又しても囘想に耽りはじめて、再び狂暴になり、更に懊悩するのだつた。何といふ怖ろしい天罰だらう? ピドールカはまるで生きた心地もしなかつた。最初のほどはひとり家にゐるのが怖ろしかつたが、しまひには、可哀さうに、さうした悲しみにも馴れて来た。だが以前のピドールカの面影は跡形もなくなつた。頬のいろざしも微笑も影をひそめて、容色は衰ろへ、影は薄れて、美しい眼も泣き枯らしてしまつた。一度、さる人が彼女を憐れに思つて、熊ヶ谷に棲んでゐる巫女《みこ》のもとへ行つてみたらとすすめた。その巫女はこの世にある限りの、どんな病気でもよく癒《なほ》すといふので、大変な評判だつた。そこで彼女はいよいよそれを最後の手段にもと、思ひきつて出かけて行つて、いろいろと言葉をつくして、その老婆を伴つて家へ帰つて来た。それは折しもイワン・クパーラの前夜の宵のことだつた。ペトゥローは正体もなく腰掛のうへにぶつ倒れてゐたので、その新来の客にはまるで気がつかなかつた。ところが、やがて少しづつ頭をもたげると、相手の顔をまじまじと穴のあくほど眺めた。と、不意に、まるで断頭台のうへに立たされたやうに、からだぢゆうががたがた顫へだして、髪の毛がさつと逆立つた……。そして彼は、ピドールカがひやりとしたほど物凄い声をあげて笑ひだした。『思ひ出したぞ、思ひ出したぞ!』さう彼は、こをどりをして喚きざま、矢庭に斧を振りあげて、力まかせに老婆をめがけて、はつしとばかり、投げつけた。斧の刃が三寸ばかりも、樫の板戸へ、丁と打ちこまれた。と、老婆の姿はいつの間にか消え失せて、白いシャツを著た七つばかりの子供が頭べをつつまれて家の中ほどに立つてゐる……。敷布《シーツ》が落ちた。『イワーシ!』とピドールカが叫んで駈け寄つた。すると幻影《まぼろし》は足の先から頭の天辺まで、全身血まみれになつて、家ぢゆうを赤い光りで照らした……。びつくり仰天したピドールカは入口の土間へ逃げ出した。しかし僅かに正気を取りもどすと共に、良人の身を案じて引つ返さうとしたが、時すでに遅かつた! 眼の前に戸がぴつたり閉されて、とても彼女の手では開けられさうにもなかつた。人々が駈けつけて、戸をどんどん叩いた。戸は外れた。だが、内部《なか》はもぬけの殻だつた! 家ぢゆうに煙が立ちこめて、ただ、まんなかのペトゥルーシャの立つてゐた辺に一|堆《やま》の灰燼が残つてゐるばかりで、それからは、なほもところどころ余煙がたちのぼつてゐた。一同はくだんの袋をめがけて駈け寄つた。だが、その中には金貨どころか、瀬戸物のかけらがいつぱい詰つてゐるだけであつた。哥薩克どもは釘づけにされたやうに、髭ひとすぢ動かさず、あいた口も塞がらずに、ただ棒だちに立ちつくした。彼等はこの怪異にすつかり怯えあがつてしまつたのである。
 それから先きのことはよく覚えてゐない。ピドールカはなんでも巡礼に出るといつて、父親の遺産を処分したが、数日の後には、果して彼女の姿が村から消え失せた。どこへ行つてしまつたものか、誰ひとり知るものがなかつた。おせつかいな老婆たちの言ふところでは、彼女もペトゥローの拉し去られたところへ行つてしまつたのだといふのぢやが、キエフから来た哥薩克の話では、あちらの大修道院で、骸骨のやうに痩せさらぼうた一人の尼僧が、絶え間なしに祈祷を捧げてゐるのを見かけたとのこと、その話の模様から推量するに、どうやらそれがピドールカの成れの果てらしかつた。又その話では、誰ひとりとして彼女の口から一と言の言葉も聞いたものがないとのこと、そして彼女は聖母マリヤの御像のために*縁飾《オクラード》を運んで徒歩《かち》で辿りついたとのことぢやが、その縁飾《オクラード》には目もくらむばかりに輝やかしい宝石が鏤ばめてあつたといふことぢや。

    縁飾《オクラード》 聖像の顔や手以外の部分を蔽ふ装飾。

 まだこれだけでお終ひではない。化生の物がペトゥローを拉し去つた、その同じ日に、ひよつくりバサウリュークが姿を現はしたのぢや。誰もかもこいつの姿を見ると逃げ散つたといふ。村人は、こやつこそ財宝を掠めるために人間の姿に化けた悪魔で、汚れた手に財宝を掴むことが出来ん時には、若者をかどはかしてゆく、張本人に違ひないと気がついたのぢや。その年、村人は残らず、土小舎を引きあげて本村へ居を移してしまつたが、しかし、其処でもこの呪はしいバサウリュークのために安息は得られなかつたさうぢや。亡くなつた祖父の叔母がよく談したことぢやが、彼は叔母がオポシュニャンスカヤ街道の、以前の居酒屋を閉ぢたことで、誰に対してよりもひどく彼女に恨みを抱いて、極力その復讐をしようと企らみをつたのぢや。或る時のこと、村の頭だつた連中が酒場に集まつて、いはゆる身分相応な卓子会議を開いてゐたものでな、その卓子の真中にはかなり大きな仔羊の丸焼が置いてあつた。四方山の話がはずんで、いろいろの変化《へんげ》や奇蹟のことも話題にのぼつた。と不意に――それも誰か一人だけにさう見えたのなら、なんでもないのぢやが、正しく一同に――仔羊が頭をもたげ、その淫蕩《みだら》がましい眼《まなこ》が生き返つて爛々と輝やき出したかと思ふと、忽ちのあひだに、黒いごはごはした口髭が現はれて、一坐の連中の方へ向けてそれが意味ありげにもぐもぐと動き出したといふのぢや。一同はたちどころにその仔羊の首にバサウリュークの面相を見てとつた。祖父は今にもそいつが火酒《ウォツカ》をねだるのではないかと思つたさうぢや……。そこで堅気な老人連は、矢庭に帽子を掴みざま我が家をさして、先きを争つて逃げ帰つてしまつたとのこと。又これは別の話ぢやが、先祖から伝はつた酒杯《さかづき》を相手に、時をり管を巻くことの好きな寺名主が、ある時チビリチビリやりだして、まだ二杯とは傾けんのに、ふと見ると、その酒杯がこちらを向いてこつくりこつくりお辞儀をしてゐる。『ちえつ、勝手にしやあがれ!』つてんで、十字を切るより他はなかつたといふ!……ところがその女房にもやはり変なことがあつた。彼女が大きな桶で、捏粉《ねりこ》をこねにかかるとな、不意にその桶が踊りだしたのぢや。『これ、待て待て!』と呼んでも、いかなこと! 勿体らしく両手を脇にかつて、しやがみ踊りをやりながら、家の中ぢゆう踊りまはるのぢや……。お笑ひなさるが、祖父たちにはなかなかどうして、笑ひごとどころではなかつたのぢや。アファナーシイ神父が、村ぢゆうをまはつて、往還といふ往還に聖水《おみづ》を撒き、*灌水刷《クロピール》で悪魔ばらひをして歩いたけれど、なんの役にも立たなかつた。依然として長いあひだ亡き祖父の叔母は、夕方になると誰だか屋根を叩いたり壁をひつかくといつて、こぼしたものぢや。     灌水刷《クロピール 毛の長い、筆の形をした刷毛で、これに聖水を浸して人や物に撒りかける。

まだそれだけぢやない! 現在この村になつてをる土地は、まつたく平穏無事のやうぢやけれど、まだそんなに遠い昔のことでもないから、亡きわしの父はもとより、わし自身、今でも覚えてゐるが、その荒れはてた酒場は、その後ながいこと、あの悪魔の後裔《すゑ》めが自分で修復して棲んでをつたので、堅気な人はその側を通ることも避けるやうにしたものぢや。煤によごれた煙突からまつすぐに煙がたち昇つて、帽子がおつこちさうになるくらゐ仰むかなくては見えぬほど高く高く舞ひあがるとな、真赤な燠になつて曠野《ステッピ》ぢゆうに散らばつて落ちたものぢや。そしてその悪魔はな――あん畜生のことなど思ひ出すのも忌々しいけれど……その自分の棲家で、世にも哀れな声をあげて号泣しをるものぢやから、それに驚ろいた鴉の群れが、近所の樫の森から、これもまた奇怪な叫び声をあげて舞ひあがると、はたはたと翼さを鳴らしながら、空中へ乱れ飛ぶのぢやつた。

                          ――一八三〇年――

    妖女《ウェーヂマ》 悪魔に身をまかせて神通力を得た女、人間に害悪 を加へると言ひ伝へられる迷信的な存在。
[#ここで字下げ終わり]

 さて、ものの百年も前には、死んだ祖父《ぢぢい》の話では、こんな村など、誰ひとり知つてゐる者は無かつたさうぢや。村とはいふものの、途方もなく惨めな部落だつたので! 素地《きぢ》のままで何も塗つてない丸太小屋が十軒ほど、そこここと原つぱのまんなかに剥き出しに突つ立つてゐたきりぢや。垣根もなければ、家畜や荷馬車を置くほどの、ろくろく満足な納屋ひとつない有様でな。それでもまだまだ贅沢な方で、こちとらのやうな裸か虫にいたつては、地面《ぢべた》を掘りさげた土窖《つちむろ》――それが人の住ひなのぢや! ただ立ちのぼる煙を見て、そこにも神の子の住んでゐることが頷かれるといつたていたらく。どうして又そんな生活《くらし》をしてゐたのぢやと言ひなさるのかな? 貧乏のためかといふに、なかなか、貧乏どころぢやない。なんしろその頃といへば、猫や杓子までがわれもわれもと哥薩克になつて、他所《よそ》の国々へ押し渡つて夥しい財宝を掠め取つてゐた時代でな、どちらかといへば、安住の家などを営む必要が更々なかつたからぢや。当時は、クリミヤ人でござれ、波蘭人《リャフ》でござれ、乃至はリトワニヤ人でござれ、どれもこれも世界を股にかけて渡り歩いたものぢや! そればかりか、時には自国の者が徒党を組んで同胞から掠奪を擅《ほしいまま》にすることさへあつたのぢや。いや、どんなこともあつた時代ぢやからな。
 さてその頃のこと、この村へ時々ひとりの男、といふよりは寧ろ人間の形に化けた悪魔が、姿を現はした。そいつはいつたい何処から、何をしにやつて来るのか、だれ一人として知る者がなかつた。遊興に耽つて、酒に酔ひしれてゐるかと思ふと、まるで水の底へでも潜つたやうに、たちまち姿を掻き消してしまつて、なんの音沙汰もなくなるのぢや。さうかと思ふと、まただしぬけに天からでも降つたやうに、今でこそ跡形もないが、ディカーニカとはつい目と鼻のあひだにあつたその村の往還をすたすたと足ばやに歩いてゐるといふ始末なのぢや。そこでまたしても逢ふほどの哥薩克たちを残らず寄せ集めて、飲めや唄への乱痴気さわぎをおつぱじめて、銭をばら撒く、火酒《ウォツカ》は浴び放題……美しい娘つ子には、そつとすり寄るやうにして、リボンだの耳環だの頸飾だのを、もてあますほど呉れてやる! 実は、美しい娘つ子たちも、さうした贈物を手にしながら、うすうす怪訝《けげん》に思ふのぢやつた――ひよつとこれは悪魔の手から出た代物ではないかしらとな。わしの祖父《ぢぢい》の親身の叔母が、そのころ今のオポシュニャンスカヤ街道で居酒屋をやつてゐたが、そこでよく、このバサウリューク(その魔性の男は、さういふ名前でとほつてゐた)が散財をしたさうで、叔母の話したことには、この世にある限りのどんな幸福《しあはせ》と引換でも、この男から贈物などもらふのは真平御免だつたといふのぢや。だが、さうかといつて受け取らんわけにもゆかぬ――その男が針のやうな眉毛をしかめて、見るからに足のすくみさうな眼つきで額越しに睨まへると、誰だつてぞうつとして怯気《おぢけ》を震つてしまつたものぢや。ところがまた、それを受けとらうものなら、次ぎの晩には頭に角のある、そいつの仲間が沼地からお客に押しかけて来るのぢや。そして、頸飾を掛けてをれば頸をしめる、指輪をはめてをれば指に喰ひつく、リボンを結んでをれば編髪《くみがみ》をひつぱるといふ始末でな。さうなつた暁には、それこそ、かうした贈物は誠にもつて迷惑千万なのぢや! しかも災難なことには――それを振りすてることも出来ないのぢや。たとへば水中めがけて投げこんだにもせよ、その魔性の指輪なり頸飾なりは、水面を泳いで、すぐに又もとの手もとへ戻つて来をるのぢや。
 その村にお寺が一つあつたが、わしの記憶では、多分パンテレイ聖人を祠《まつ》つた御堂だつたと思ふ。当時その寺に、今は亡きアファナーシイ神父が住まつてをられた。神父は、バサウリュークが復活祭にさへお寺へ顔出しをせぬのを知ると、少し窘めて彼に懺悔をさせようと思ひついたものぢや。ところが、どうしてどうして! 命に別状のなかつたのがせめてもの仕合せといふものでな。『へん、和尚さん!』と、そいつは喰つてかかつたのぢや。『他人《ひと》のことにかれこれ口出しをする暇に、われと我が身のことに気をつけたがよからうぜ、さもないと、煮えつきの蜜飯《クチャ》でその山羊の頸みたいな咽喉をふさいでこますから!』かういふ罰あたりにかかつては、なんともはや仕方のないものでな。アファナーシイ神父はただひと言、このバサウリュークとつきあひをするやうな者は、誰れ彼れなしに、基督教会と人類全体の仇敵である加特力の信者と看做しますぞ、と断言したきりぢやつた。
 さて、この村でコールジュといふ通称でとほつてゐた哥薩克の家に、※[#始め二重括弧、1-2-54]親無しペトゥロー※[#終わり二重括弧、1-2-55]といふ渾名で呼ばれてゐる作男がひとりゐた。多分、だれ一人その男の両親を知つてゐる者がなかつたので、そんな渾名がつけられたのだらう。もつとも信徒総代の話によれば、その両親は、彼の生まれた翌る年、黒死病《ペスト》で亡くなつたといふのぢやが、わしの祖父の叔母はそれを本当にしないで、一所懸命に、この哀れなペトゥローの身にとつては去年の雪ほどにも用のない肉親を捜し出してやらうとて、いろいろ骨折つたものぢや。彼女の話では、ペトゥローの父親は今、ザポロージェにゐるが、前に土耳古人の捕虜になつて、むごたらしい艱難辛苦を嘗めた末、やうやく宦官の姿に変装して脱走して来たといふのぢや。だが眉の黒い娘つ子や新造たちにとつては、彼の肉親のことなどはどうでもよかつた。彼女たちはひたすら、彼に新調の波蘭服《ジュパーン》を著せ、赤い帯をしめさせ、てつぺんだけが粋に青い仔羊皮《アストラハン》の黒い帽子をかぶらせて、腰に土耳古風のサーベルをつり、片手には鞭を、片手には美しい象眼いりの煙管《パイプ》を持たせたものなら、とてもとても当時の若者といふ若者などは、その足もとへもよりつかれたものではなからうなどと、言ひそやしてゐた。しかし不幸にして、貧しいペトゥローには、天にも晴《はれ》にも掛換のない一枚看板の鼠いろの長上衣《スヰートカ》より他には持ちあはせがなく、それも、気のきいた猶太人の衣嚢《かくし》の中にある金貨の数よりも多く穴があいてゐるといつた代物であつた。だが、それはまだしも大した災難ではなかつた。災難なのは、コールジュ老人に一粒種の娘があつて、それが素敵もない別嬪で、諸君にも恐らくこんなのは、なかなかおいそれとは見つかるものでないと思はれるほどの美人だつたことで。亡き祖父の叔母がよく話したことぢやが――ところで女にとつては、御承知のやうに、差しさはりがあつたら御免なされぢやが、他人《ひと》のことを美人だなどと言ふくらゐなら、いつそ悪魔と接吻でもする方がよつぽど安易《らく》なはずぢやが――その哥薩克娘《カザーチカ》のふくよかな頬が見るからに瑞々《みづみづ》しくて、あのこよなく美しい薔薇いろの罌粟《けし》が神授《めぐみ》の朝露で沐浴《ゆあみ》ををへて鮮やかに燃えながら、きちんと行儀よく枝葉をそろへて、今し昇つたばかりの日輪に向つて美装を誇つてゐる時のやうに、あでやかなら、またその眉は、ちやうど当節の娘たちが、あの、箱をかついで村々を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて来る大露西亜人《モスカーリ》から、十字架につけたり、頸飾にする古銭を通すために買ふ、あの黒紐のやうに匂やかに、あだかもその明眸をさし覗くやうに、なだらかに弧を描き、小夜鳴鳥《ナイチンゲール》の唄声をもらすために造られたかとも思はれるその可憐な口許は、それを見るたんびに当時の若者どもに思はず舌舐ずりをさせたもので、烏羽玉の黒髪は若亜麻《わかあさ》のやうにしなやかに、(その頃はまだ、この辺の娘たちのあひだには、派手な色あひの美しい細リボンを編《く》みこんだ幾つもの小さい編髪にするならはしがなかつたので)房々とした捲毛が、金絲で刺繍をした波蘭婦人服《クントゥーシュ》の上へ、ゆたかに垂れてゐたさうぢや。へつ! このすつかり霜をいただいたわしが脳天《どたま》の古林と、まるで眼の上の瘤みたいに片わきに鎮坐まします山の神の婆あの前ではあるが、こんな娘を思ふ存ぶん接吻することができないほどなら、おお主よ、わしはもう頌歌席でハレルヤを唱へさせて貰ひませんでも結構ぢや。それはさて、かうして若者と娘つ子とが互ひに朝夕顔を見あはせて暮してゐた日には……それがどんな結末になるかは、火を見るより明らかな話で、まだ黎明《しののめ》の頃ほひ、赤長靴の踵鉄《そこがね》が目につけばそこには必らずピドールカが情人のペトゥルーシャと甘いささやきを交はしてゐたわけぢや。しかし、つひぞそれまでコールジュが邪慳なこころを起すやうなことはなかつたが、ある時――これこそ他ならぬ悪魔のそそのかしに違ひないのぢやが――ペトゥルーシャのやつ、碌々あたりに注意もはらはず、あとさきの考へもなしに、家の入口で哥薩克娘《カザーチカ》に出会ひざま、その薔薇色の唇に、いはば無我夢中で接吻したのぢや。ちやうどその時、同じ悪魔めが、ええつ、ほんに畜生め、霊験いやちこな十字架の夢でも見くさるがええ!――あらうことか、あの耄碌親爺に入口の扉を開けさせをつたのぢや。コールジュ老人は戸につかまつて棒だちになつたまま、開いた口も塞がらなかつた。その忌々しい接吻の音で彼の耳はすつかり聾になつてしまつたかとさへ思はれたのぢや。それは、まだ鉄砲も火薬もない当時のこととて、百姓どもが壁を叩いて野禽《とり》を追ふのに使つた、木槌の音よりも大きく彼の耳に響いたものぢや。
 我れに返るとともに、彼は、壁に懸つてゐた父祖伝来の鞭をおつ取りざま、哀れなペトゥローの背筋をめがけてピシリと一つ撃ちおろさうとしたが、ちやうどその時、どこからかピドールカの弟で六つになるイワーシが駈けこんで来るなり、仰天して、いたいけな両の手で父親の脚にしがみついて、『お父ちやん、お父ちやん! ペトゥルーシャを殴《ぶ》つちやあ、いけないようつ!』と喚き出しをつたのぢや。どうしやうがあるものか? 父親の心だとて木石ではない筈ぢや。彼は鞭をもとの壁に懸けて、やをら相手を扉の外へしよびき出すなり、『向後この家でおれの眼にとまつて見ろ、うんにや、そればかりか、うろうろと窓の下へでも近づいて見ろ、その時こそ、いいか、ペトゥロー、おらがテレンチイ・コールジュである限り、誓つて、汝《うぬ》のその黒い髭と、それからこの豚尾が――ほうら、もう耳を二たまはりも巻けるわい――これがどちらも汝《うぬ》のど頭《たま》から消えてなくなるんだぞ!』かう言ひざま、彼はすばやく拳をかためて、ペトゥローの項《うなじ》をがんと一つ喰らはせた。ペトゥルーシャはくらくらつと目が眩んで、その場へばつたり倒れてしまつた。とんだ接吻をして退けたものぢや! 恋人同士は切ない悲哀に胸とざされてしまつた。ところがコールジュの許へはさる波蘭人で、ぴんと口髭を生やして、金絲で刺繍《ぬひ》をした衣服を身にまとひ、長剣《サーベル》をつり、拍車をつけた男が、まるで寺男のタラースが毎日、会堂のなかを持ちまはる喜捨袋みたいに、衣嚢《かくし》をジャラジャラいはせながら、足しげく通ひだしたといふ噂さが、専ら村ぢゆうの評判になつた。けだし小意気な娘をもつ父親のところへ、しげしげと出入をする手合の下心は見えすいてゐる。さて或る日のこと、ピドールカは涙にかきくれながら、両の腕に弟のイワーシを抱きしめて、かう言つたのぢや。『可愛いあたしのイワーシや! 好い子だからね、大急ぎでペトゥルーシャのところまで一と走り行つて来ておくれでないか。そしてあのひとにさう言つておくれ。あたし、あのひとの鳶いろのお眼《めめ》が恋しくて、あのひとの白いお顔が接吻したいのだけれど、でも前の世からの因縁でそれも叶はないのだつてね。あついあつい涙で、ぐつしより濡らした手拭も一筋や二筋ぢやない。あたしやせつなくつて、なんだか胸がしめつけられるやうなの。親身のお父さんでさへ、あたしには仇敵《あだがたき》もおんなしだわ――好きでもない波蘭人のとこなんかへ無理やりお嫁に行かせようとするんだもの。あのひとにさう言つておくれ、うちではもう婚礼の支度にかかつてゐるのだけれど、あたしの婚礼には賑やかな音楽などはなくつて、八絃琴《コーブザ》や笛の代りに補祭がお経をあげるのだつて、ね。そしてあたしは花聟といつしよに踊るのではなく、棺に入れて担《にな》つてゆかれるのだつて。あたしのお嫁にゆくところは暗い暗いお家なんだつて!――そして、屋根のうへには煙突の代りに楓の木の十字架が立つんだつて!』
 あどけない子供がピドールカのことづてを片言で繰りかへすのを聴きながら、ペトゥローはまるで化石にでもなつたやうにその場に棒立ちになつてしまつた。『ええ、情けない、おれはまたクリミヤか土耳古へでも押しわたつて、金銀をうんと分捕つて、しこたま身代を拵らへてから、お前のとこへ帰つて来ようと思つてゐたのになあ、おれの別嬪さん。それもやつぱり駄目か。どこまでも、おれたちふたりは意地の悪い運命の眼《まなこ》にみこまれてしまつたのだ。おれの方にだつてな、いとしい恋人さん、婚礼は挙げられるよ――おれの婚礼にやあ、坊さんがお経をあげるかはりに黒い鴉がカアカア啼くだらう。おれの家はだだつ広い野原で、蒼黒い雨雲が屋根の代りになるのだよ。鷲めがおれの鳶いろの眼球《めだま》をつつき、哥薩克|男子《をのこ》のこの骨は雨露《あめつゆ》に洗はれて、やがては旋風の力でひからびてしまふことだらう。だがおれはどうしたといふんだ? だれを恨み、だれに泣きごとをならべることがあらう? 所詮は神がかういふ運命に定められたのだ! ええ、もう身も心も破滅してしまへばいいんだ!』さう言ふと、そのまま彼は居酒屋をさしてまつしぐらに飛んで行つたといふ。
 祖父《ぢぢい》の叔母は、ペトゥルーシャが自分の酒場へ、それも堅気な人たちなら朝の勤行に詣つてゐる時分に、ひよつこり姿を現はしたのを見てちよつと驚ろいたが、彼が半樽の余も入りさうな大コップで焼酎《シウーハ》を注文した時には、まるで目のくり玉がとびだしさうなほど、相手の顔を見つめたものぢやさうな。この可哀さうな男はどうかしてその悲しみを払ひ落さうと思つたのだが、それは無駄なことだつた。火酒はまるで蕁麻《いらくさ》のやうに彼の舌を刺して、苦蓬《にがよもぎ》の汁よりも苦く思はれた。それで彼はその大コップを地べたへ叩きつけた。『悲観することあねえぞ、哥薩克!』さういふ胴間声が彼の頭のうへで鳴り響いた。振りかへつて見ると、そこにゐるのはバサウリュークだ! いやはや! なんといふ醜顔《つら》ぢやらう! 髪の毛はごはごはして、眼の玉がまるで牡牛のそれのやうぢや。『お主が何に困つてをるのか、それはちやんと知つとるぞ。そうら、これだらう!』さう言ひながら、彼は悪魔のやうな薄笑ひを浮かべて、帯のわきに下げてゐた革の財布をジャラジャラ鳴らした。ペトゥローはぶるつと身顫ひをした。『へ、へ、へ! どうだ、よく光るぢやらうが!』彼は金貨を手のひらへザラザラと移しながら喚いた。『へ、へ、へ! どうだ、好い音がするぢやらうが! かういふお銭《ぜぜ》をたんまり儲けるのに、仕事といへばたんだ一つきりさ!』『悪魔!』と、ペトゥローが躍起になつて叫んだ。『それをやらせてくれい! おらはどんなことでもして退けるだから!』そこで手うちが交はされた。『見ろ、ペトゥロー、お主はちやうどいい時に間にあつただぞ、明日《あした》はイワン・クパーラぢや! 一年のうち今夜ひと晩だけ、蕨《わらび》に花が咲くのぢや。この期《ご》をはづしちやあならんぞ! おれは今夜、真夜中に熊ヶ谷でお主を待つてゐてやる。』
 恐らく、この日ペトゥルーシャが夜になるのを待ち焦れたほどには、鶏も女房《かみさん》が餌を持つて来てくれる時刻を待ちあぐねはしなかつたらう。刻一刻に怺《こら》へ性がなくなつて、なん度となく戸外《おもて》へ出ては木立の影が少しでも長くならないかと、そればかり眺め眺めしたものぢや。なんといふ日の長いことだらう? どうやら、天帝の定めた一日が、どこかへ尻尾を置き忘れて来たものとみえる。だが、やうやくのことで太陽の姿がなくなつた。空は一方だけが赤らんでゐる。やがてそれも薄暗くなつて来た。野原はひとしほ肌寒くなつて、だんだん夕闇がせまり、そろそろ黄昏《たそが》れそめる。やれやれ、やつとのことで! 彼は飛びたつ思ひで支度もそこそこに、足もとに用心しながら、欝蒼と生ひ繁つた森の中を辿つて、熊ヶ谷と呼ぶ奥深い谷底へと降りて行つた。バサウリュークはもうちやんと、そこに待つてゐた。鼻をつままれても分らないやうな真の闇だ。二人は手に手をとつて、じめじめした沼地をば、深々と生ひはびこつた荊棘《いばら》にひつ掻かれたり、殆んど一足ごとにつまづいたりしながら、前へ前へと進んで行つた。すると、やがてのことに平らなところへ出た。ペトゥローはあたりを見まはしたが、まだ一度も来た覚えのないところだつた。そこまで来るとバサウリュークは立ちどまつた。
「お主の眼の前に三つの丘があるぢやらうが? この三つの丘にいろんな草の花が咲くのぢや。だが、お主がそれを一つでも折り取るのは禁物ぢやぞ。ただ蕨に花が咲いたら、すぐさまそれを掴むのぢや、そしてお主のうしろでたとへどんなことが起らうとも、振りかへつてはならんのぢやぞ。」
 ペトゥローは何か訊ねようと思つたが……見れば――バサウリュークの姿はもうそこには無かつた。彼は三つの丘の傍へ近よつた。いつたいどこに花があるのだらう? なんにも眼には見えぬ。野草があたり一面に黒々と生ひ繁つて、まるであたりを塞いでしまつてゐるばかりだ。ところが、やがてのことに天の一角で、ピカリと一つ稲妻が閃めいた。と、そのとたんに、彼の眼前には一面の花畠が現出して、どれもこれも珍らしい、つひぞ見たこともないやうな花で一杯になつた。だが、蕨はまだ、ただの葉つぱだけぢやつた。ペトゥローは肚のなかで少し怪しみながら両の手を腰につがへたまま、その前に立ちつくした。
『こんなものあ、別に珍らしくもなんともないぢやないか? 一日に十ぺんだつてこんな草なら見てゐらあな、何が不思議なもんか? あの悪魔づらめが、ひとを嘲弄《からか》ひくさるのぢやないかしらん?
 ところが、見てゐると――小さな花の蕾が一つ、だんだん赤らんで来るではないか――さながら生きもののやうに蠢めきながら。まつたくこれは不思議だ! 蠢めきながら見る見る大きくなつて、まるで燠《おき》のやうに赤くなつた。そして小さい星がきらめくやうに火花が散つたかと思ふと何かパチつと音がした――と、彼の眼前には一輪の花がぱつと開いて、さながら火のやうにぐるりの花々を照らしてゐるのだ。
『さあ、今だ! さう思つて、ペトゥローは片手をのばした。見れば、彼のうしろからも、やはりその花をめがけて何百といふ、毛むくじやらな無数の手がさしのばされた。そして彼のうしろでは何者かがあちこちと駈けまはつてゐるらしい気配がする。彼は眼をつぶつて、その茎をむしり取つたが、首尾よくその花は彼の手に入つた。あたりが急にしいんと静まりかへつた。すると、木の切り株のうへに坐つて、まるで死人のやうに色蒼ざめたバサウリュークの姿が現はれた。彼は指いつぽん動かさなかつた。両の眼は何ものか、ただ彼にだけ見えるらしいものにむかつてじつと凝らされてゐた。口は半ばほころびてゐたが、なんの応《いら》へもない。あたりには蠅の羽音ひとつ聞えぬ。いやはや物凄いのなんのといつたら!……ところがその時、さつと一陣の風が起つて、ペトゥローは肚の底からぞうつとした。そして、草がさやさやとそよぎ出して、さながら花が互ひに銀鈴を振るやうな細い細い声でささやきはじめたやうに思はれると、樹々は怒号するやうな物凄い音をたてて鳴りはためいた……。と、バサウリュークの顔は急に生気を帯びて、その両眼がぎらりと光つた。『やつと鬼婆《ヤガ》めが帰りをつたな!』さう彼は、歯の隙間からつぶやいた。『よいかペトゥロー、今すぐにお主の前へ凄い別嬪が姿を見せるから、そいつの呍ひつけどほりにするのぢやぞ、さもないと、取りかへしのつかぬことになるのぢや!』さう言つて彼が、節くれだつた木の杖で荊棘《いばら》のしげみを押し分けると、二人の面前には、昔噺にあるとほりの*鶏の脚で立つた小舎が現はれた。バサウリュークが拳をあげてその戸を叩くと、壁がゆらゆらと揺めいた。そして大きな黒い犬が一匹飛びだしたかと思ふと、ぎやつと叫びざま、猫の形に変つて、二人の方へまともに躍りかかつて来た。『おいおい、腹を立てなさんなよ、鬼婆《ばあ》さん!』さう言つてからバサウリュークは、堅気な人間にはとても聞きずてにすることの出来ないやうな、いかがはしい言葉をつけ足した。すると、今度は猫ではなくて、まるで焼林檎のやうに皺くちやな顔をして、全身が弓のやうに曲つた老婆の姿にかはつた。その鼻と頤とが、ちやうどあの胡桃を割る鋏子《やつとこ》のやうな恰好に向ひあつてゐた。 『大変な別嬪ぢやわい! 』さう思ひながら、ペトゥローは背筋にぞうつと寒けを覚えた。妖女《ウェーヂマ》は彼の手からくだんの花をひつたくると、身をかがめて長いあひだそれに怪しげな水をふりかけながら、何か口のなかで呪文を呟やいてゐた。その口からは火花が飛び、唇にはぶくぶくと泡が吹きだした。『投げな!』と、老婆は花を彼に返しながら、言つた。ペトゥローがそれを投げた。と、なんと不思議なこともあるもので、花はまつすぐに地面へは落ちないで、しばらくのあひだ、闇のなかにまるで火の球のやうに浮いたまま、小舟かなんぞのやうに空中を漂つてゐたが、やがて少しづつ低くなつて、最後にかなり遠くの方へ落ちたので、それは罌粟粒よりも小さい星のやうに、やうやくそれと見分けられるくらゐであつた。『あすこだよ!』さう、うつろな嗄がれ声で老婆がいふと、バサウリュークは犂《すき》を渡しながら、『あすこを掘るのぢや、ペトゥロー、あすこにやあな、お主やコールジュが夢にも見たことのないやうな黄金《かね》がたんまり埋まつてをるのぢや。』と告げた。ペトゥローは手に唾をして犂をとると、それをぐつと土へ踏みこんでは掘りおこし、踏みこんでは掘りかへし、何度も何度も繰りかへした……。と、何か固いものに触つた!……犂がカチつと音を立てて、もうそれ以上は通らぬ。その時、彼の眼にははつきりと、鉄板《てつ》を著せた小型の櫃がうつつた。で、彼がすんでのことに手を掛けてそれを持ちあげようとすると、櫃は地の底へずるずるとめりこんでゆくではないか。そして彼のうしろでは、どちらかといへば蛇の匍ふ音に似たやうな笑ひ声がした。『駄目なこつちやよ、お主が人間の血を手に入れるまでは、その黄金《かね》を見る訳にはいかんのぢや!』さう言つて妖女《ウェーヂマ》は、彼の前へ白い敷布《シーツ》にくるまれた六つぐらゐの子供をつれて来て、その首を刎ねよといふ相図をした。ペトゥローはその場に立ちすくんでしまつた。たとへどんなことがあらうとも、人間の、ましてや罪もない子供の首を斬り落すなどといふことがどうして出来るものか! 彼は赫つとなつて子供の頭に巻かれた敷布《シーツ》を引きはいだ。と、どうだらう? 彼の眼の前に立つてゐるのはイワーシではないか。哀れな子供はいたいけな両手を十字に組んで、頭べを垂れてゐるのであつた……。狂人のやうになつたペトゥローは、短刀を振りかぶつて妖女《ウェーヂマ》にをどりかかりざま、まさにその手を打ちおろさうとした……。

    鶏の脚で立つた小舎 露西亜の昔噺に出て来る鬼婆の棲家は、森の中に鶏の脚で立つてをることになつてゐる。

「おぬしは、あの娘を手に入れるために、どんな約束をしたのぢや?……」さう呶鳴るバサウリュークの声が、まるで鉄砲だまのやうにうしろから彼の五体に突きとほつた。妖女《ウェーヂマ》が片足あげて、とんと地面を踏んだ。すると、青い焔が地のなかからたちのぼつて、地下全体がかつと明るくなり、まるで水晶ででも出来てゐるやうに、大地の底にあるものが何もかも、手に取るやうに見え出した。彼等の立つてゐる地面の真下には、櫃や鍋にいれた金貨だの宝石だのが、うづたかく埋蔵されてゐるのだつた。ペトゥローの両の眼は燃えるやうに輝やいて……理智の鏡も曇らされた……。まるで正気を失つたもののやうに彼は短刀を掴んだ。無辜の血汐が彼の両眼にはねかかつた……。悪魔の高笑ひが四方からどつとあがつた。醜悪きはまる化生のものが彼の眼前を群れをなして駈けまはつた。妖女《ウェーヂマ》は首を刎ねられた屍を両手にかかへこんで、狼のやうにその血をすするのだつた……。ペトゥローの頭のなかでは何もかもがぐるぐると廻つた! 彼はその場から力の限り逃げだした。彼の眼の前はすべてが真紅の光りにつつまれて見えた。すべての樹々が血を浴びて赫つと燃えながら呻いてゐるやうに思はれた。空も真赤に灼けただれて揺らめいてゐた……。稲妻のやうな火の玉が眼の中できらめいた。ぐつたりと、精も根も尽き果てて彼は自分の荒ら屋へ駈けこむなり、藁束のやうに地面《ぢべた》へぶつ倒れてしまつた。そのまま死のやうな睡魔が彼を捉へてしまつた。
 二日二夜のあひだ、ペトゥローは一度も目を醒さずにぐつすり眠りとほした。三日目になつてやつと夢から醒めた彼は、長いあひだ自分の家の隅々を眺めまはした。何ごとかを思ひ出さうとして躍起になつたが、どうしても思ひ出されない。彼の記憶は、まるで老いぼれた吝ん坊の衣嚢《かくし》と同じで、これつぱかしも絞りだすことが出来ないのぢや。ふと、伸びをした時、彼は足もとで何かザラザラと音がするのを耳にとめた。見れば、金貨の袋が二つもあるではないか。やつと、この時、夢のやうに、自分が何か宝を捜してゐたことと、森の中でただ一人、何か怖ろしい目に会つてゐたことを思ひ出した……。だが、何の代償として、またどういふ手段でそれを手に入れたのか――それはどうしても思ひ出すことが出来なかつた。
 二つの金袋を見ると、コールジュの心は折れた。『ほんにペトゥルーシャはなんちふ変物ぢやらう! おらがあれに目をかけてやらなかつたとでもいふのかい? うちぢや、あれを親身の息子のやうにしとつたでねえか!』などと、老人はまるで歯の浮くやうな出放題をならべ立てたものぢや。ピドールカは、弟のイワーシが通りすがりのジプシイにかどはかされたことを話したがペトゥローはイワーシの顔を思ひだすことさへ出来なかつた。そんなにまで呪はしい化生の物のためにたぶらかされてゐたのぢや。もう何も躊躇することはなかつた。波蘭人には体のいい肘鉄砲を喰はせておいて、さつそく婚礼の支度がととのへられた。白い婚礼麺麭が焼かれたり、布巾《ふきん》や手巾《ハンカチ》がしこたま縫はれたりして、焼酎の樽がころがし出されると、新郎新婦は並んで卓子につき、大きな婚礼麺麭が切られた。四絃琴《バンドゥーラ》や鐃※《シンバル》、笛や八絃琴《コーブザ》の楽の音がとどろきわたつて――歓楽がつづいた……。
 むかしの婚礼はとても今時のそれとは比べものにはならなかつた。祖父の叔母がよく話したことぢやが、ただもう、やんややんやといふ騒ぎで! 娘たちは上を金モールで巻いた、青や赤や桃いろのリボンで拵らへた頭飾《かんむり》をかぶり、縫ひめ縫ひめを赤い絹絲でかがつて小さい銀の花形をつけた薄いルバーシュカを身につけ、背の高い踵鉄《そこがね》をうつたモロッコ革の長靴をはいて、まるで雌孔雀のやうに軽快に部屋ぢゆうを踊りまはつた。また新造たちは新造たちで、頂上がすつかり紋金襴で出来て、項《うなじ》のところに小さい切れ目のある(そこから金ピカの頭巾《アチーポック》が覗いてゐたが、それには極々ちひさい、黒い仔羊皮《アストラハン》の角が前と後ろへ一つづつ突き出てゐた)舟型帽《カラーブリク》をかぶり、赤い飾布《クラーパン》のついた上等の古代絹の波蘭婦人服《クントゥーシュ》を著て、勿体らしく両手を脇にかつて、ひとりひとり正しい型のゴパックを踊つた。若者たちはまた、背の高い哥薩克帽をかぶり、薄羅紗の長上衣《スヰートカ》のうへから銀絲で刺繍をした帯をしめ、口に煙管《パイプ》をくはへたまま、女たちにむかつて媚びるやうな踊り方をしながら、ときどき戯口《ざれぐち》をきいた。コールジュまでが若者たちを見ては我慢がならなくなつて、寄る年波も忘れて浮かれだした。この老人は酒杯《さかづき》を頭にのつけて、四絃琴《バンドゥーラ》を手にすると、煙管《パイプ》をすぱすぱやりながら、歌を口ずさみ口ずさみ、ぞめき連のやんやといふ喝采につれて、しやがみ踊りをおつぱじめたものだ。一杯機嫌になると何をやりだすか知れたものぢやない。仮面《めん》をかぶれば――いやもう、まるで人間の恰好ではない。どうしてどうして、今時の仮装などは、むかし婚礼の時にやつたものとは、てんで比べものにはならんて。当節やるのは、なんぞといへば、せいぜいジプシイか大露西亜人《モスカーリ》の真似ごとぐらゐが関の山ぢや。ところが、そんなものとは大違ひで、一人が猶太人に紛すると一人は鬼になつて、最初は接吻しあつたりなどしてゐるが、そのうちに房髪《チューブ》の掴みあひをおつぱじめる……。まつたくどうも! 一同は腹をかかへて笑ひころげたものぢや。土耳古人や韃靼人の服装《なり》をしてゐる者もある。それがみんな火のやうにキラキラと光つてをるのぢや……。ところが、そのうちにふざけた馬鹿な真似がおつぱじまる……いやもう、とても堪つたものぢやない! 亡くなつた祖父の叔母は、この婚礼の席に列なつて、とても滑稽な一幕を演じてしまつたものぢや。叔母はその時、なんでも韃靼風のだぶだぶした衣裳をつけて、酒杯《さかづき》を持ちまはつて一同に酒をすすめてゐたさうぢや。すると一人の男が悪魔にでもそそのかされたのか、うしろから叔母のからだへ火酒《ウォツカ》をぶつかけをつたのぢや。するともう一人の別の男が待つてゐたといはんばかりに、即座に火を燧つてそれに点けをつた……。火焔がぱつと燃えあがつた。可哀さうに、叔母はすつかり仰天してしまひ、満座のなかで着物をのこらずかなぐりすてた……。まるで市場のやうに、わつといふざわめきと、哄笑と、馬鹿さわぎが持ちあがつた始末さ。一と口に言へば、どんな老人《としより》も未だ曾てこれほど愉快な婚礼には出会つたためしがないといふほどぢやつた。
 ピドールカとペトゥルーシャとは、まるで殿様と奥方のやうな暮しをはじめた。なに不自由なく、万事につけてきらびやかに……。しかし堅気な人たちは二人の暮しを眺めて、かすかに首をふつた。『悪魔から福は来るものでねえだ。』さう彼等は異口同音に言ふのだつた。『正教徒をたぶらかす悪魔からでなくて、どこからあんな富がころげこんで来るものか。いつたいどこからあの山のやうな金貨を手に入れたのだらう? それに、なんだつてあの男が金持になつたと同じ日に、不意にバサウリュークの姿が消えて無くなつたんだらう?』どうも人の臆測といふものは馬鹿にならんものでな! 一と月とたたぬうちにペトゥルーシャはまるで人間が変つてしまつた。いつたい彼はどうしたといふのか――さつぱり訳がわからん。同じところに坐つたまま、一と言も人とは口をきかず、しよつちゆう物思ひに耽つて、何事かを一心に思ひ出さうと骨折つてゐるらしいのぢや。どうかしたはずみに、ピドールカがやつと口をあかせると、妙にきよとんとしながらも、すこしは話もして、気分もいくらか晴れるやうなのぢやが、ふと、くだんの袋を見ると、『待て待て、どうも思ひ出せんわい!』さう口ばしつて、またもや深い物思ひに沈んで、再び何事かを思ひ出さうと一心不乱になるのぢや。時々じつと、長いあひだひとつ場所《ところ》に坐つてゐると、いかにも何もかもが初めから脳裡《あたま》に浮かびあがつて来さうな気がするのぢや……が、やはりまたぼうつとしてしまふのぢや。どうやら、自分は居酒屋に坐つてゐるらしく、火酒《ウォツカ》が運ばれて来る、火酒《ウォツカ》が舌に焼けつく、火酒《ウォツカ》はとても厭だ、誰かそばへ近よつて来て肩を叩く、その男が……しかし、それから先きはまるで眼のまへに霧がかかつたやうで、とんと思ひ出せぬ。汗が顔からたらたら流れる、彼はぐつたりして、その場に居竦まつてしまふのだつた。
 ピドールカはありとあらゆる手段《てだて》をつくした。修験者に相談したり、★怯え落しや癪おさへの呪術《まじなひ》もしてみたが――しかし、なんの験《しるし》もなかつた。

  ★ わたしの地方では人が悸病《おびえ》にかかつた時、その原因を知るために『怯え落し』をやる――それには先づ錫か蝋を溶かして水の中へ流しこむのだ。するとそれが病人を怯えさせてゐるものの姿に似た形を現はす、それで怯えはすつかり落ちてしまふのぢや。『癪おさへ』といふのは吐気《むかつき》や腹痛の時にやるもので、それには大麻の切れはしに火をつけてコップのなかへ入れ、それをば病人の腹のうへに水を盛つて載せた鉢のなかへ、底をうへにして、伏せるやうにして入れる。それから呪文をとなへてから、その鉢の水を一匙だけ病人に呑ませるのぢや。(原作者註)

 かくてその夏もすぎた。哥薩克たちの多くは秋の刈り入れをすました。そして生れつき放縦な多くの哥薩克たちはまたもや戦地へと出征した。鴨の群れはまだ土地《ところ》の沼地に群れてゐたが、鷦鷯《みそさざい》はもう影も見せなかつた。曠野《ステッピ》は一面に赤くなつた。そこここに穀類の禾堆《いなむら》が、ちやうど哥薩克の帽子のやうに野づらに点々と連なつてゐた。時をり村道を、柴や薪をつんだ荷馬車が通つてゆくのが眼についた。大地はいよいよ固くなり、ところどころに凍《い》てが染みとほつた。やがて空から雪がチラチラと落ちはじめ、木々の枝は兎の毛のやうな霜で飾られた。晴れた極寒の日には優雅な波蘭貴族よろしくの姿をした胸の赤い鷽《うそ》が餌を曳つぱりながら雪の上を歩きまはり、子供らはでつかい槌を持つて氷の上を走りまはつて、木の球を追つかけた。一方、彼等の父親たちは楽々と煖炉《ペチカ》のうへに寝そべつてゐたが、時をり、吸ひつけた煙管をくはへたまま戸外《そと》へ出て来ては、いかにも素晴らしい大寒日和をさんざんに褒めののしつたり、または入口の土間で、寝かしてあつた穀物に風を通したり搗いたりするのぢやつた。やがて雪が解けはじめ、梭魚《かます》が尾で氷を砕いた。だが、ペトゥローの容態には依然として変りがなく、時と共にいよいよ気むづかしさがつのる一方だつた。足もとに金貨の袋を置いたまま、鎖にでも繋がれたやうに、家の真中に坐つてゐた。髪はぼうぼうと伸び放題で、まるで野育ちのやうに、見るからに怖ろしい形相になつて、絶えず一つのことに思ひを凝らして、何事かを思ひ浮かべようと一心になりながら、それが思ひ出せぬのに焦れたり、怒つたりした。時々、暴々しく席を蹴つて立ちあがると、両手を打ち振り打ち振り、何ものかを捉まへようとでもするやうに、じつと眼を凝らすことがあつた。唇は、何かずつと前に忘れてしまつた言葉を、どうかして口へ出さうとしてあせるやうに、ぴくぴくするのだが――やはり又じつと動かなくなる……。狂暴の発作が襲つてくると、まるで正体もなく歯がみをして、われとわが手に咬みついたり、苛立ちまぎれに髪の毛を引きむしつたりするが、やがてそれが鎮まると、さながら夢うつつのやうにばつたり倒れてしまふ。それから又しても囘想に耽りはじめて、再び狂暴になり、更に懊悩するのだつた。何といふ怖ろしい天罰だらう? ピドールカはまるで生きた心地もしなかつた。最初のほどはひとり家にゐるのが怖ろしかつたが、しまひには、可哀さうに、さうした悲しみにも馴れて来た。だが以前のピドールカの面影は跡形もなくなつた。頬のいろざしも微笑も影をひそめて、容色は衰ろへ、影は薄れて、美しい眼も泣き枯らしてしまつた。一度、さる人が彼女を憐れに思つて、熊ヶ谷に棲んでゐる巫女《みこ》のもとへ行つてみたらとすすめた。その巫女はこの世にある限りの、どんな病気でもよく癒《なほ》すといふので、大変な評判だつた。そこで彼女はいよいよそれを最後の手段にもと、思ひきつて出かけて行つて、いろいろと言葉をつくして、その老婆を伴つて家へ帰つて来た。それは折しもイワン・クパーラの前夜の宵のことだつた。ペトゥローは正体もなく腰掛のうへにぶつ倒れてゐたので、その新来の客にはまるで気がつかなかつた。ところが、やがて少しづつ頭をもたげると、相手の顔をまじまじと穴のあくほど眺めた。と、不意に、まるで断頭台のうへに立たされたやうに、からだぢゆうががたがた顫へだして、髪の毛がさつと逆立つた……。そして彼は、ピドールカがひやりとしたほど物凄い声をあげて笑ひだした。『思ひ出したぞ、思ひ出したぞ!』さう彼は、こをどりをして喚きざま、矢庭に斧を振りあげて、力まかせに老婆をめがけて、はつしとばかり、投げつけた。斧の刃が三寸ばかりも、樫の板戸へ、丁と打ちこまれた。と、老婆の姿はいつの間にか消え失せて、白いシャツを著た七つばかりの子供が頭べをつつまれて家の中ほどに立つてゐる……。敷布《シーツ》が落ちた。『イワーシ!』とピドールカが叫んで駈け寄つた。すると幻影《まぼろし》は足の先から頭の天辺まで、全身血まみれになつて、家ぢゆうを赤い光りで照らした……。びつくり仰天したピドールカは入口の土間へ逃げ出した。しかし僅かに正気を取りもどすと共に、良人の身を案じて引つ返さうとしたが、時すでに遅かつた! 眼の前に戸がぴつたり閉されて、とても彼女の手では開けられさうにもなかつた。人々が駈けつけて、戸をどんどん叩いた。戸は外れた。だが、内部《なか》はもぬけの殻だつた! 家ぢゆうに煙が立ちこめて、ただ、まんなかのペトゥルーシャの立つてゐた辺に一|堆《やま》の灰燼が残つてゐるばかりで、それからは、なほもところどころ余煙がたちのぼつてゐた。一同はくだんの袋をめがけて駈け寄つた。だが、その中には金貨どころか、瀬戸物のかけらがいつぱい詰つてゐるだけであつた。哥薩克どもは釘づけにされたやうに、髭ひとすぢ動かさず、あいた口も塞がらずに、ただ棒だちに立ちつくした。彼等はこの怪異にすつかり怯えあがつてしまつたのである。
 それから先きのことはよく覚えてゐない。ピドールカはなんでも巡礼に出るといつて、父親の遺産を処分したが、数日の後には、果して彼女の姿が村から消え失せた。どこへ行つてしまつたものか、誰ひとり知るものがなかつた。おせつかいな老婆たちの言ふところでは、彼女もペトゥローの拉し去られたところへ行つてしまつたのだといふのぢやが、キエフから来た哥薩克の話では、あちらの大修道院で、骸骨のやうに痩せさらぼうた一人の尼僧が、絶え間なしに祈祷を捧げてゐるのを見かけたとのこと、その話の模様から推量するに、どうやらそれがピドールカの成れの果てらしかつた。又その話では、誰ひとりとして彼女の口から一と言の言葉も聞いたものがないとのこと、そして彼女は聖母マリヤの御像のために*縁飾《オクラード》を運んで徒歩《かち》で辿りついたとのことぢやが、その縁飾《オクラード》には目もくらむばかりに輝やかしい宝石が鏤ばめてあつたといふことぢや。

     縁飾《オクラード》 聖像の顔や手以外の部分を蔽ふ装飾。

 まだこれだけでお終ひではない。化生の物がペトゥローを拉し去つた、その同じ日に、ひよつくりバサウリュークが姿を現はしたのぢや。誰もかもこいつの姿を見ると逃げ散つたといふ。村人は、こやつこそ財宝を掠めるために人間の姿に化けた悪魔で、汚れた手に財宝を掴むことが出来ん時には、若者をかどはかしてゆく、張本人に違ひないと気がついたのぢや。その年、村人は残らず、土小舎を引きあげて本村へ居を移してしまつたが、しかし、其処でもこの呪はしいバサウリュークのために安息は得られなかつたさうぢや。亡くなつた祖父の叔母がよく談したことぢやが、彼は叔母がオポシュニャンスカヤ街道の、以前の居酒屋を閉ぢたことで、誰に対してよりもひどく彼女に恨みを抱いて、極力その復讐をしようと企らみをつたのぢや。或る時のこと、村の頭だつた連中が酒場に集まつて、いはゆる身分相応な卓子会議を開いてゐたものでな、その卓子の真中にはかなり大きな仔羊の丸焼が置いてあつた。四方山の話がはずんで、いろいろの変化《へんげ》や奇蹟のことも話題にのぼつた。と不意に――それも誰か一人だけにさう見えたのなら、なんでもないのぢやが、正しく一同に――仔羊が頭をもたげ、その淫蕩《みだら》がましい眼《まなこ》が生き返つて爛々と輝やき出したかと思ふと、忽ちのあひだに、黒いごはごはした口髭が現はれて、一坐の連中の方へ向けてそれが意味ありげにもぐもぐと動き出したといふのぢや。一同はたちどころにその仔羊の首にバサウリュークの面相を見てとつた。祖父は今にもそいつが火酒《ウォツカ》をねだるのではないかと思つたさうぢや……。そこで堅気な老人連は、矢庭に帽子を掴みざま我が家をさして、先きを争つて逃げ帰つてしまつたとのこと。又これは別の話ぢやが、先祖から伝はつた酒杯《さかづき》を相手に、時をり管を巻くことの好きな寺名主が、ある時チビリチビリやりだして、まだ二杯とは傾けんのに、ふと見ると、その酒杯がこちらを向いてこつくりこつくりお辞儀をしてゐる。『ちえつ、勝手にしやあがれ!』つてんで、十字を切るより他はなかつたといふ!……ところがその女房にもやはり変なことがあつた。彼女が大きな桶で、捏粉《ねりこ》をこねにかかるとな、不意にその桶が踊りだしたのぢや。『これ、待て待て!』と呼んでも、いかなこと! 勿体らしく両手を脇にかつて、しやがみ踊りをやりながら、家の中ぢゆう踊りまはるのぢや……。お笑ひなさるが、祖父たちにはなかなかどうして、笑ひごとどころではなかつたのぢや。アファナーシイ神父が、村ぢゆうをまはつて、往還といふ往還に聖水《おみづ》を撒き、*灌水刷《クロピール》で悪魔ばらひをして歩いたけれど、なんの役にも立たなかつた。依然として長いあひだ亡き祖父の叔母は、夕方になると誰だか屋根を叩いたり壁をひつかくといつて、こぼしたものぢや。
[#ここから4字下げ、折り返して5字下げ]
灌水刷《クロピール》 毛の長い、筆の形をした刷毛で、これに聖水を浸して人や物に撒りかける。
[#ここで字下げ終わり]
 まだそれだけぢやない! 現在この村になつてをる土地は、まつたく平穏無事のやうぢやけれど、まだそんなに遠い昔のことでもないから、亡きわしの父はもとより、わし自身、今でも覚えてゐるが、その荒れはてた酒場は、その後ながいこと、あの悪魔の後裔《すゑ》めが自分で修復して棲んでをつたので、堅気な人はその側を通ることも避けるやうにしたものぢや。煤によごれた煙突からまつすぐに煙がたち昇つて、帽子がおつこちさうになるくらゐ仰むかなくては見えぬほど高く高く舞ひあがるとな、真赤な燠になつて曠野《ステッピ》ぢゆうに散らばつて落ちたものぢや。そしてその悪魔はな――あん畜生のことなど思ひ出すのも忌々しいけれど……その自分の棲家で、世にも哀れな声をあげて号泣しをるものぢやから、それに驚ろいた鴉の群れが、近所の樫の森から、これもまた奇怪な叫び声をあげて舞ひあがると、はたはたと翼さを鳴らしながら、空中へ乱れ飛ぶのぢやつた。
                        ――一八三〇年――
 

底本:「ディカーニカ近郷夜話 前篇」岩波文庫、岩波書店
   1937(昭和12)年7月30日第1刷発行
   1994(平成6)年10月6日第8刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※底本の中扉には「ディカーニカ近郷夜話 前篇」の表記の左下に「蜜蜂飼ルードゥイ・パニコー著はすところの物語集」と小書きされています。
※題名の「イワン・クパーラ」に、底本では「異教時代より伝はる季節的祭礼で、六月下旬、夏至の日に当り、日輪を祠る太陽祭。」という訳注が付けられています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「★」は自注(蜜蜂飼註)記号、「*」は訳注記号です。底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付いています。
※「灯」と「燈」、「糸」と「絲」は新旧関係にあるので「灯」「糸」に書き替えるべきですが、底本で混在していましたので底本通りにしました。
入力:oterudon
校正:伊藤時也
2009年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました