ディカーニカ近郷夜話後篇VECHERA NA HUTORE BLIZ IKANIKI 降誕祭の前夜 NOCHI PERED RODJESTVOM ニコライ・ゴーゴリ Nikolai Vasilievitch Gogoli 平井肇訳

02

 降誕祭まへの最後の日が暮れた。冬の、よく澄みわたつた夜が来た。星はキラキラと、輝やきはじめ、月は、善男善女が楽しく★讚仰歌《カリャードカ》を流しまはつて基督を頌《たた》へることの出来るやうに、あまねく下界を照らすため、勿体らしく中空へと昇つた。寒気は朝よりもひとしほ厳しくなつたが、そのかはり、靴の下で軋《きし》む凍《い》てた雪の音が半露里もさきまで聞えるほど物静かな夜である。まだ若い衆連の群れは民家の窓下へ姿を見せず、ただ月のみが、身支度に余念のない娘たちを一刻も早く、足もとで軋音《きしみ》を立てる雪の上へ駈け出させようと、誘惑するもののやうに、家々の窓をばそつと覗き込んでゐるだけであつた。ちやうどその時、一軒の民家の煙突から、一朶の煙がむくむくと吐き出されて、黒雲のやうに空へ棚引いたが、その煙といつしよに、箒に跨がつた妖女《ウェーヂマ》が宙空へたち昇つた。

 ★わたしの地方では降誕祭の前夜に、家々の窓下で『カリャードカ』といふ歌をうたつて廻るならはしがある、それを『讚仰歌流《カリャードカなが》し』と呼んでゐる。その流しにやつて来た者に対して、各々の家の主婦なり主人なり、そのほか、誰でも家に居残つた者が、腸詰とか、麺麭とか、銅貨といつた、うちに沢山《たんと》あるものを、袋の中へ投りこんでやる。なんでも昔、阿房のカリャーダといふ者があつて、人々から神様だと思はれてゐたさうで、この『カリャードカ』といふ言葉はそこから生まれたとのことだ。だが、誰がそんなことを知つてゐるものか。こちとら如き凡俗の彼是いふべき筋合ではない。昨年、オーシップ神父は、悪魔の機嫌を取ることになるからと言つて、村々を流してまはることを禁止しようとした。だが、本当のことを言へば、讚仰歌《カリャードカ》の中にはそのカリャーダといふ人物のことは一言半句も詠み込まれてはをらぬ。よく唄はれるのは基督降誕の讚歌で、最後にその家の主人、主婦、子供など全家族の健康を寿ぎ祈つて歌を終るのである。(蜜蜂飼註)

 この時、もし、仔羊皮の縁《へり》をつけて鎗騎兵型に仕立てた帽子に、裏に黒い毛皮をつけた紺色の外套を著こんだソロチンツイの陪審官が、いつも馭者を追ひ立てるのに使ふ、おそろしく器用に編んだ革鞭を手にして地方《ところ》の馬をつけた三頭だての橇に乗つて通りかかつたとしたら、まさしくその妖女《ウェーヂマ》を見つけたに違ひない、このソロチンツイの陪審官の眼を誤魔化すことの出来る妖女《ウェーヂマ》は広い世界にただの一人もゐない筈だから。彼はどの女の家では豚が幾匹仔を産んだとか、どの女の葛籠《つづら》には麻布《ぬの》がどれだけ入つてゐるとか、また堅気な男が祭りに衣類なり家財なりの何品《なに》をいつたい酒場へ抵当《かた》に置いたとかいふことを、細大漏らさず知つてゐる。しかしソロチンツイの陪審官は通らなかつた。それに他所《よそ》のことなど彼には用がなかつた――彼は自郡のことに忙殺されてゐたのだ。ところで、その間にも妖女《ウェーヂマ》はぐんぐん高く昇つて、今はただ一つの黒い小さな点となつて上空にチラホラ隠見してゐるだけである。だがその斑点が姿を現はすたんびに其処にあつた星が次ぎ次ぎと消えて亡くなつた。間もなく妖女《ウェーヂマ》はそれらの星を袖にいつぱい集めた。後には星はもう三つ四つしか光つてゐない。と、反対側の方角から別の斑点が一つ現はれて来た。だんだんそれが大きくなり、伸びひろがると、それはもう斑点ではなかつた。近眼《ちかめ》の人には、たとへ眼鏡の代りに警察部長の乗る馬車の輪を鼻に掛けたところで、それがいつたい何者なのか見分けることは出来なかつたらう。前から見ればてつきり★独逸人で、その、ひつきりなしにヒクヒクと動いて、鼻の先きへぶつかつたものなら何によらずクンクン嗅ぎまはさずには措かぬ鼻づらは、ちやうど豚の鼻のやうにまんまるな五|哥《カペイカ》銅貨型をしてをり、その脚と来ては至つて細く、こんな脚を、あのヤレスコーフ村の村長がもつてゐたなら、最初《はな》の哥薩克踊《カザチョーク》で挫いてしまつたことだらう。ところが、後ろから見ると、まるで制服を著けた県の陪審官そつくりなのだ、といふのは、当今の制服の裾と同じやうな、ツンと尖つた長い尻尾がさがつてゐたからで、ただその口の下に垂れた山羊髯や、頭から突きでた小さい角をみれば無論のこと、五体が煙突掃除人よりも黒いところから推して、それが独逸人でもなければ、県の陪審官でもなく、もはや今宵ひと夜しか、この地上を徘徊して、善良な人間を誑《たぶら》かして罪に曳きこむことのできない、悪魔に他ならぬことは、たやすく知ることが出来た。あしたになれば、早朝の祈祷の最初の鐘の響きと共に、彼は尻尾をまいて、一目散におのが洞窟へ逃げこまねばならないのだ。

 ★ 小露西亜では他国人のことを、それが仏蘭西人であらうと伊太利人であ

    うと乃至は瑞典人であらうと、総て一様に独逸人と呼んだものである。 (蜜蜂飼註)

 この間にも悪魔はだんだん月の傍へ忍び寄つて、今にも手を差しのべてそれを掴まうとしたが、急に手をひくと、火傷でもしたやうに指を舐めて、足をバタバタさせた。今度は反対側から飛びかかつたが、又もや飛びのいて手を引つこめた。だが、再度の失敗にもめげず、狡獪な悪魔はその悪戯《いたづら》をやめなかつた。やがて、不意に駈けよりざま、彼は両手で月を掴んだ。そして、ちやうど百姓が煙草を吸ひつけようとして素手で燠《おき》を持つた時のやうに渋面を作つてフウフウ息を吹きかけながら、月をこちらの手からあちらの手へと持ち換へ持ち換へしてゐたが、しまひに大急ぎで衣嚢《かくし》の中へ押しこむと、もう何事もなかつたやうな顔で、さきへ駈け去つてしまつた。
 悪魔が月を隠したなどとは、ディカーニカでは誰ひとり知る者がなかつた。尤も郡書記が酒場から四つん這ひになつて這ひだしながら、月が空で矢鱈に踊つてゐるのを見かけたので、そのことを村中の者に誓ひを立てて言い張つたけれど、村民は首を横にふつて、そのうへ彼を嘲笑ひさへした。だが悪魔がこんな無法なことを企らんだのは一体どういふ訳があつてだらう? それはかうだ。彼は分限者のチューブといふ哥薩克が、補祭の家へ*蜜飯《クチャ》に招ばれてゐることを知つてゐた。そこへは村長や、大僧正つきの唱歌隊から戻つて来てゐる、青いフロックを著て、低音《バス》の最低音部を勤める、スウェルブイグーズといふ、補祭の縁つづきの哥薩克や、まだ誰や彼やが招ばれてゐる筈だ。また其処では蜜飯《クチャ》のほかに混合酒《ワレヌーハ》や、※天藍《さふらん》を浸《つ》けた火酒《ウォツカ》や、まだそのほかいろんな料理が出るに違ひなかつた。さうすると、チューブの娘で、村一番といふ美人が、一人で家に残ることになる。さうなれば間違ひなくこの娘のところへ、悪魔にとつてはコンドゥラート神父の説教よりも苦手の鍛冶屋が忍んで来るにきまつてゐる。そいつは恐ろしく腕つ節の強い素晴らしい若者なのだ。この鍛冶屋は仕事の合間々々に塗師《ぬりし》の仕事もして、この界隈ではなかなか上手な画工だといふ評判だつた。まだそのころ達者だつた百人長《ソートニック》のル××コもわざわざポルタワへ彼を呼んで、邸のまはりの板塀を塗らせたものだ。ディカーニカの哥薩克どもが雑汁《ボルシチ》をすする鉢はみんなこの鍛冶屋が彩色をするのだつた。この鍛冶屋は信心ぶかい男で、幾度も聖者の御像を描いた。で、現今《いま》でもT×××寺院には彼の筆になる福音書の使徒ルカの像が残つてゐる。しかし彼の入神の技ともいふべきものは、会堂の右側の、外陣の壁に懸つてゐる一幅の絵である。その絵には、鍵を手にして悪魔どもを地獄から追ひ出してゐる、最後の審判の日の聖ペテロが描かれてゐる。身の滅亡に直面して周章狼狽した悪魔どもが四方八方へもがき廻るのを、先きから監禁されてゐた亡者たちが、笞や、木切れや、そのほか手当り次第の得物で打擲しながら追ひ
してゐる図である。この画工がその絵に精根を打ち込んで、大きな木の板の上に画筆を揮つてゐる最中に、悪魔は懸命にそれを妨害しようとして、人知れずその手をつつ突いたり、鍛冶場の竈から燃え殻を吹き揚げて画面へまき散らしたりなどもしたが、すべてが無駄にをはつて、その絵は立派に出来あがり、寺院へ運ばれて、外陣の壁へ嵌めこまれた。この時以来、悪魔は鍛冶屋に復讐《しかへし》をしようと心に誓つたのだ。
    
蜜飯《クチャ》 乾葡萄や蜂蜜を混じて炊いた飯様の食品

 だが、もはや彼が地上を徘徊することの出来るのも、剰すところ一晩きりだ。今夜こそは何とかして鍛冶屋に対する日頃の欝憤を晴らさにやならぬと思つて、隙を狙つてゐたのだ。さてこそチューブ老人が億劫がつて出かけ渋るやうにと、月を隠してしまつた訳だ。補祭の家まではかなりな道のりでもあり、そのまた道が裏道で、磨粉場《こなひきば》や、墓地の傍をとほつて谷を一つ迂廻しなければならないと来てゐる。月夜でもあればまだしも、混合酒《ワレヌーハ》や※天藍《さふらん》入りの火酒《ウォツカ》がチューブを誘ひ寄せもしたであらうけれど、こんな暗夜に彼を煖炉《ペチカ》から引き離して、家からおびき出すことはちよつと誰の手にもをへることではなかつた。ところで、鍛冶屋はこの老人とは日頃から気合《そり》があはなかつたので、腕つ節の強いにも似ず、父親のゐる時に娘のところへ出かけるなどといふことは先づなかつた。
 そんなわけで、悪魔が衣嚢《かくし》へ月を匿すと同時に、急に全世界が真暗《まつくら》になつてしまつたため、補祭のところは愚か、酒場へ行く道もおいそれとは見わけることが出来なかつた。妖女《ウェーヂマ》は不意にあたりが暗くなつたのを見て、あつと叫び声をあげた。悪魔はすかさず、じやらつくやうにそばへ近よつて妖女《ウェーヂマ》と腕を組んで、その耳に口をよせると、人なみに情婦に向つて言ふやうな、紋切型の口説を夢中になつて囁やきだした。実にこの世の中といふやつは奇妙に出来てゐる! この世に住んでゐる限りの者が互ひに見やう見真似に憂身をやつしてゐるのだ。以前、ミルゴロドでは判事と市長だけが多分、羅紗の表をつけた毛皮外套《トゥループ》を著てゐただけで、他の一般の下級官吏は、普通の、表なしの品より他は用ゐなかつたものだ。それが当今ではどうだ、村役人や倉庫番までが*レシェティロフ産の毛皮に、羅紗の表を附けた大外套《シューパ》を新調しをる。事務員や、郡書記でさへも一昨年あたりは、一アルシン六十|哥《カペイカ》もする青い支那絹を買ひ込みくさつた。寺男までが南京織の夏ズボンと、縞目のある手編のチョツキを新調しをる。一口にいへば、誰も彼もが見やう見真似をしたがるのだ! いつたい何時になつたら人間は、かうした余計なことに齷齪しなくなるだらう! ところで悪魔までが矢張りさうした見やう見真似に憂身をやつしてをる処を見るのは、大抵の人々にとつては確かに面白いことに違ひない。それは賭をしてもいいくらゐだ。何より片腹痛いのは、あの見るのも恥かしいやうな不態な恰好をしてゐながら、奴さん自分をいつぱしの優男と思ひこんでゐるらしいことだ。フォマ・グリゴーリエ
ッチの言ひ草ではないが、穢らはしいにも穢らはしい、醜悪そのもののやうなあの御面相で、情事《いろごと》に憂身をやつさうなんて、いやはやだ! だが、天も地も一様に真暗になつてしまつたので、悪魔と妖女《ウェーヂマ》とのあひだに一体それからどんないきさつが持ちあがつたかは、もはや知る由もなかつた。
    
レシェティロフ ボルタワ県下の町で、ゴヅトワ河の沿岸に位し、毛皮
     
の産地として有名なところ。

        *        *        *

「ぢやあ、教父《とつ》つあん、お前は、まだ補祭がとこの新家へは行かなかつたのかい?」と哥薩克のチューブが自分の家の戸口を出ながら、短かい皮外套を著た、痩せて背のひよろ長い相棒の百姓に声をかけた。その男の髯もぢやな顔は、もう二週間以上、よく百姓たちが剃刀を持ち合はせてゐないところから髯を剃るのに使ふ、あの鎌の破片《かけ》も当てられてゐないことを物語つてゐた。「今夜あすこで、素晴らしい酒宴《さかもり》があるだよ!」と、茲でにやりと笑顔を見せてチューブは語りつづけた。「どうかまあ、遅参にならなきやあよいがのう!」
 そこでチューブは皮外套の上からしつかり緊めてゐた帯をなほして、帽子をぐつと目深に引きさげると、煩さい野良犬を嚇すための鞭を手に握つた。だが、空を見あげて、思はず彼は足をとめた……。
「これあ、いつたい、なんちふことだ! おい見ねえ! 見ねえつたら、パナース!……」
「なんだね?」と言つて、教父《クーム》も同じやうに空を見あげた。
「なんだぢやあねえや、お月さまが無くなつたでねえか!」
「はあて、面妖な! ほんに、お月さまがねえや。」
「だから、ねえつていふのさ!」チューブには教父《クーム》の相も変らぬ暢気らしさが、少し忌々しかつた。「お前にやあ、いつかうに構はなささうぢやけれど。」
「だといつて、おらにどうしやうがあるだよ?」
「これあ、てつきり、なんだよ、」と、袖で口髭を拭きながらチューブが言葉をついだ。「どこかの悪魔の奴めが――そん畜生にやあ毎朝一杯づつの火酒《ウォツカ》も呑まれなきやあええだ!――邪魔をしくさるのに違えねえだ!……ほんに、人を小馬鹿にしやあがつて……。家んなかにをる時、わざわざ窓から見れあ、殊の外にええ晩ぢやねえか! 明るくて、雪は月の光りにピカピカと光つてまるで昼間のやうに何もかもよく見えたつけが。それが一歩《ひとあし》そとへ出るとどうぢや、まるつきり眼を刳りぬかれでもしたやうでねえか! 《ちえつ、ほんとに、カチカチに干からびた黒麺麭でそん畜生の歯が残らず折れてしまへばええ!》
 チューブはなほも永いあひだ、ブツブツ不平を言つたり、悪態をついたりしてゐたが、それと同時に肚の中では、さてどちらに決めたものかと思案にかき暮れてゐた。彼には、補祭の家へ行つて、いろんなくだらない駄弁を弄するのが死ぬほど楽しみだつた。あすこには万に一つの間違ひもなく、もう村長が来てゐるだらうし、新来の低音歌手《バスうたひ》も陣どつてゐるだらう。また、二週間おきにポルタワの市《いち》へ出かける煙脂《タール》屋で、村の連中が腹の皮をよるやうな冗談や駄洒落を連発するミキータも坐つてゐることだらう。チューブの眼にはもう、食卓のうへに出てゐる混合酒《ワレヌーハ》の罎がまざまざと見えるやうだつた。さうしたことを思ふと彼の心はうづうづしたが、この夜の暗さに面と向ふと、つい凡ての哥薩克には共通な、例のものぐさの癖が頭をもたげた。今ごろ煖炉《ペチカ》の寝棚のうへで足を縮こめて寝そべりながら、静かに煙管を啣へたまま恍惚たる夢心地で、窓下へ寄りたかつて来る陽気な若い衆や娘つこ達が唄ふ祭り歌を聞いてゐたら、どんなに好いだらう! 彼は自分ひとりだつたら、てつきりもうそれにきめてしまつたのだが、今は二人づれのこととて、暗い夜道を行くのが、さほど億劫でもなければ、怖ろしくもなく、それにどちらかといへば、他人《ひと》から無精者だの臆病者だのと思はれたくもなかつた。そこで悪口を叩くのをやめて、再び教父《クーム》の方へ向きなほつた。
「のう、教父《とつ》つあん、お月さまは無えてのう?」
「無えだよ。」
「奇態なことだよ、まつたく! 時に煙草を一服くんなよ! 教父《とつ》つあん、お前《めえ》の煙草はえらく上物だのう! どこで買ふだね?」
「なんの、上物なもんか!」と教父《クーム》は、飾り縫ひをした白樺皮の嗅煙草入の蓋をしながら、答へた。「ちいと年をくつた牝鶏なら、嚏みひとつするこつてねえだ!」
「おら今でも憶えてをるが、」と、同じ調子でチューブが話しつづけた。「あの、おつ死《ち》んだ酒場の亭主のズズーリャが一度、ニェージンの市《まち》から煙草を土産に持つて来て呉れたつけが、それあ素晴らしい煙草だつたわい! とてつもない上等の煙草だつたぜ! 時に、教父《とつ》つあん、どうするね? そとは真暗ぢやねえかい。」
「ぢやあ、いつそ家《うち》にをることにしようか。」と、扉の把手《とつて》を握りながら、教父《クーム》が答へた。
 もし教父《クーム》がさう答へさへしなかつたら、てつきりチューブは出かけることを思ひとまつたのだが、かう言はれると、まるで何かに唆かされでもしたやうに、意地づくでも出かけようといふ気になつたものである。「うんにや、教父《とつ》つあん、行かうや! なあに、行《い》かいでか!」
 かう言つてから、すぐに彼は自分で自分の言つたことを忌々しく思つた。こんな晩にそとへ出かけるのは酷くいやだつた。だが、自分がどこまでも我《が》を通して、他人《ひと》の助言に盾をついて押し切つたことがせめてもの心遣りだつた。
 教父《クーム》は、家に坐つてゐようが、外へ出かけようが、それはどちらだつていつかう構はないといつた様子で、これつぱかしも厭な顔をせずに、あたりを見まはしながら相棒の杖で自分の両肩をこすつたものだ。――そこで二人の教父《クーム》同士はやをら往来へと出て行つた。

        *        *        *

 ところで今度は、一人きり家に残された小町娘が一体どうしてゐるか、それをひとつ覗いて見ることにしよう。オクサーナはまだ十七にはなつてゐなかつたが、ディカーニカの界隈では、まるで世間ぢゆうが、寄るとさはると、この娘の噂さで持ちきりだつた。若者たちは彼女のことをこの村はじまつて以来、第一の美人で、今後とてこれほどの美人は決して生まれつこないだらうとまで褒めそやした。オクサーナはかうした評判を残らず耳に留めて知つてもゐたし、美人にはあり勝ちのやんちやでもあつた。もしも彼女が下著《プラフタ》に下袴《サパースカ》といつた服装《なり》ではなく、せいぜい自宅着《カポート》でも身に著けて出歩かうものなら、他の娘といふ娘の影は忽ち薄れてしまつたことだらう。若者たちは競つて彼女の後をつけまはしたものだが、次第にこの美女の気紛れに我慢がならなくなつて、しまひには一人二人と彼女を離れて、それほど我儘でない他の娘へと移つて行つた。ひとり鍛冶屋だけは、彼とても他の連中よりどれだけ好い待遇を受けてゐる訳でもなかつたけれど、飽くまで強情に附き纒ひとほした。父親が出かけて行つてからも、オクサーナは長いあひだ、錫の縁を嵌めた小さい手鏡の前でおめかしをしたり、容子を作つたりして、われと我が姿に飽かず見惚れてゐた。
みんなはどうしてあたしを美人だなんて言ひはやすんだらう? かう、ただ何か独りごとを言つて見るだけで、別になんの気もなささうに彼女は呟やくのだつた。 みんな嘘ばつかり言つてるんだわ。あたしなんか、ちつとも美しくはないわ!
 しかし、黒目勝な眼を輝やかして、魂の底まで焼きつくすやうな、得もいはれぬ快よい微笑を浮かべながら、鏡の中にチラと映つた、瑞々しく生気を帯びて、どこかあどけなく若々しいその顔は、立ちどころに正反対の事実を証拠だてた。
ほんとに、こんな黒い眉と眼とがさ、 》と、鏡を手離さうともせずに、彼女はつづけた。 世界ぢゆうに又と無いほど綺麗なのかしら? こんな、天井を向いた鼻の何処が好いんだらう? こんな頬ぺたや、こんな唇の何処がいいのかしら? こんな黒い編髪《くみがみ》がどうして素敵なんだらう? ワーッ、日暮れに人が見たらぞつとするわ、だつて、この編髪《くみがみ》つたら、まるで長い長い蛇がとぐろを巻いたやうに、あたしの頭にぐるぐる巻きついてるんだもの。さうよ、あたしなんかちつとも綺麗ぢやないわ! 》だが、また鏡を少し顔から離して見て、かう叫んだ。『ううん、やつぱりあたし綺麗だわ! まあ、なんて綺麗だらう! 素敵だわ! あたしをお嫁にする人はほんとは幸福《しあはせ》ものよ! あたしの良人がどんなに惚れ惚れとあたしを眺めることだらう! 嬉しさの余り、きつと夢中になつてしまふわ! 屹度、あたしを死ぬほど接吻するわ!
『素敵もない娘つこだ! と、こつそりそこへ入つて来た鍛冶屋が口の中で呟やいた。 『それになんちふ自惚の強い女だらう! 一時間も立てつづけに鏡を覗いてゐて、それでもたんのうしないで、おまけに聞えよがしに自惚を言つてやあがる!
『ほんとに、若い衆さんたち、あんた方があたしを相手に出来る柄だと思つて? よくまあ、あたしを見てお呉れ。 美しい蓮葉娘はかう独り言をつづけた。 『あたし、とてもすんなりしたいでたちでせう。この肌着には赤い絹絲で刺繍《ぬひ》がしてあつてよ。それに頭のリボンはどうを! あんた方が逆立ちをしたつて、こんな立派な打紐を見ることは出来なくつてよ! これはみんな、あたしが世界中で一番立派な花聟と結婚ができるやうにつて、お父さんが買つて呉れたんだわ。 ここでニッと笑つた娘は、不意に後ろを振り向くと、そこに立つてゐる鍛冶屋を見つけた……。
 彼女はあつと声をあげたが、いきなり男の前に傲然と立ちはだかつた。
 鍛冶屋はたじたじとなつた。
 この素晴らしい美女の浅黒い顔に現はれた表情を説明することは難かしい。その面持は峻烈な色を湛へてゐたが、その峻烈さの中には、まごまごしてゐる鍛冶屋に対する揶揄の情が窺はれもした。そして微かにそれと見える、怨みをこめた紅潮が、ほのかに顔ぢゆうに溢れてゐた。それらがごつちやになつた、得もいはれぬ美しさに対しては、ただこの場合、百万遍も接吻をして呉れるより他には手の施こしやうがなかつた。
「どうしてあんた、ここへ来たの?」そんな風にオクサーナが切り出した。「あたしにシャベルで戸の外へ追ひ出して貰ひ度いとでもいふの? ほんとにあんた達は、そろひもそろつて、忍びこみの名人ばかりだわ。お父《とつ》つあんの留守をすぐに嗅ぎつけるんだもの。ええ、あたし、ちやんとあんた達のことは知つててよ。それはさうと、あたしの長櫃《スンドゥーク》はもう出来て?」
「ああ、出来あがるよ、祭すぎには出来あがるよ。おれがどれだけあれに骨を折つたか知つて貰へたらなあ! 二た晩といふものは仕事場から一歩も外へ出なかつたんだぜ。その代り、あれだけの長櫃はどんな梵妻《おだいこく》のとこにだつてありつこなしさ。上張りの鉄板《てつ》なんざあ、おれがポルタワへ出仕事に行つたをり、百人長《ソートニック》の二輪馬車に張つたのより、ずつと上物なんだぜ。それにどんな彩色《ぬり》に仕上がると思ふね? まあその可愛らしい白い足でこの界隈を残らず捜しまはつて見るがいいや、とてもあんなのあ見つかりつこないから! 赤や青の花をベタ一面に撒き散らすのだぜ。赫つと燃えるやうな美しさに出来あがらあ。さう、つんつんしないでさ! せめて話だけでもさせてお呉れよ、せめて顔だけでも拝ませてお呉れよ!」
「だあれもいけないつて言やしないわ。勝手に話すなり眺めるなりしたらいいぢやないの!」
 そこで娘は腰掛に坐ると、またしても鏡を覗きながら、頭の編髪《くみがみ》をつくろひにかかつた。彼女は頸筋をのぞいたり、絹絲で刺繍《ぬひ》をした肌着を眺めたりしたが、微妙な自己満足のいろが、その口もとや、瑞々しい頬のうへにあらはれて、それが両の眼に反映した。
「おいらにもお前《めえ》のそばへ掛けさせてお呉れよ!」と、鍛冶屋が言つた。
「お掛けなさいな。」さう、口もとと、満足さうな両の眼とに同じやうな情を湛へながら、オクサーナは答へた。
「ほんとに美しい、いくら見ても堪能の出来ないオクサーナ、ちよつと接吻させとくれよ!」思ひ切つてかう言ふと、鍛冶屋は接吻するつもりで女を自分の方へ引きよせた。しかしオクサーナは、もう鍛冶屋の唇とすれすれになつてゐた頬を、つとそらして、男を突きのけた。
「まあ、この人は何処までつけあがるのだらう? 蜜をやれば、匙まで呉れつて、あんたのことよ! あつちへ行つて頂戴。あんたの手は鉄より硬いわ。それにあんたは煙臭《きなくさ》くつてしやうがないんだもの。屹度あたしを煤だらけにしてしまつたかもしれないわ。」
 さう言つて鏡を取りあげると、またしても彼女は男の前でおめかしをやり出した。
『この女はおれを好いてゐないんだ! 』と、首うなだれて、鍛冶屋は肚のなかで考へた。 『この女には何もかもが玩具《おもちや》なんだ。それだのにおれは、この女の前へ出ると間抜けみたいに突つ立つたまま、脇へ眼をそらすことも出来ないのだ。この後もやはり、この女の前に突つ立つて、一生この女から眼を離すことが出来ないんだらう! 素晴らしい娘だ! 一体こいつが誰を愛してゐるのか、この女の胸のなかを知ることが出来たら、おれは何を投げ出したつて構やしない。だがさつぱり分らない、どだいこの女は人には用がないのだ。自分で自分にばかり夢中になつてゐて哀れなおれを焦らしてやがるのだ。おれの悲しみには何の光明もない。それでゐておれはこの女を、後にも先きにも誰ひとり愛したことのないやうな熱烈な想ひで愛してゐるのだ。
「あんたとこのお母《つか》さん、妖女《ウエーヂマ》だつてほんと?」さう言つて、オクサーナが笑ひだした。すると鍛冶屋も肚のなかからほほ笑まれて来るやうに感じた。その笑ひが心臓に反応し、微かに波だつ血管へと伝はつた。それについで、このやうな気持の好い笑ひを浮かべた顔を、存分に接吻することの出来ない口惜しさが彼の心をとざした。
「阿母《おふくろ》なんかどうだつていいさ。おれにとつてはお前が阿母《おふくろ》でもあれば、親父《おやぢ》でもあり、この世の中にある限りの大事なものだもの。もしも皇帝《ツァーリ》がおれを呼び出して
『鍛冶屋のワクーラ、そちにとつてこの国ぢゆうでいちばん貴重なものを言つて見よ、何でも望みのものをそちに遣はすから。そちのために黄金《こがね》の鍛冶場を建てて取らせようか、そして銀の鎚で鉄を鍛へさせて遣はさうか? 』と仰せられたとしても、おれは、 『そのやうな望みはござりませぬ。 』と皇帝《ツァーリ》にお答へするよ。 『宝玉も、黄金の鍛冶場も、陛下の皇国《みくに》全体も要りませぬ。それよりも、オクサーナをば遣はしなされませ! 』つてな。」
「あんたも、ずゐぶん隅におけないわね! でも、うちのお父《とつ》つあんだつてなかなかの凄腕よ。見ていらつしやい、今にあんたとこのお母さんと結婚するから!」かうオクサーナは、狡さうに笑ひながら言つた。「それはさうと、みんなはなぜやつて来ないんだらう……。いつたいどうしたといふのだらう? もう疾つくに流しに出かける時間だのに、あたし退屈しちやつたわ。」
「あんな連中のことあ、どうだつていいぢやないか、おれの別嬪さん!」
「さうでもないわ! あの人たち、きつと若い衆をつれて来るからさ。さうしたら舞踏会だつて出来るんだもの。どんなにおもしろい話が出ることだらう!」
「そんなにお前は、あんな連中といつしよに騒ぐのが面白えのかい?」
「それあ、あんたといつしよに、かうしてゐるよりは面白いわ。あら! 誰だか戸を叩いてゐるわ。きつとみんなが若い衆といつしよに来たんだわ。」
『何をこれ以上あてにすることがあらう? 』と、鍛冶屋は胸に問ひ肚に答へた。 『この女はおれを嬲つてゐるのだ。この女にとつてはおれなんざあ、錆びくちた蹄鉄ほどの値打もないのだ。しかし、それならそれで、少くとも他の奴らにおれを嘲けらせはせんぞ。おれ以上にこの女の気に入つてゐる奴が、はつきり分つたが最後、そいつに思ひ知らして呉れるから……。
 戸を叩く音と、寒気の中につんざくやうに響く
『開けて呉れ! 』といふ声が、彼の思索の絲を断ち切つた。
「待て待て、おれが開けてやらう。」さう言つて鍛冶屋は立ちあがつたが、忌々しさのあまり相手が誰だらうと出会ひ頭の野郎の横つ腹に風穴をぶちあけて呉れようと思ひながら、表口へ出て行つた。

        *        *        *

 寒気がひとしほつのり、空もひどく寒くなつてきたので、悪魔は蹄のある足を代る代る跳ねあげたり、かじかんだ手を少しでも煖めようとて拳に息を吹きかけたりした。だが、この世の冬ほどには寒くない地獄で、ちやうど料理店のコック頭のやうに、白い帽子をかぶつて竈の前にたたずみながら、降誕祭の用意に腸詰を煮る女房《かみさん》のやうな満足らしい顔つきで、亡者を焙る悪魔に、厳冬の寒さのこたへるのは不思議でも何でもない。
 妖女《ウェーヂマ》の方も、温かい服装《みなり》はしてゐたけれど、なかなか寒いと思つた。それで、両手を左右にひろげて、片方の足を後ろへ引き、ちやうどスキーを履いて滑走する人のやうな姿勢をとり、全身の節々をしやんと伸ばして、まるで氷の急坂を辷りおりるやうに、空中を真一文字に、わが家の煙突さして飛翔した。
 悪魔もやはり同じやうにしてその後を追つた。この生きものは、*靴下を穿いたどんな洒落者よりも遥かに敏捷だつたから、煙突の口のところで自分の情婦の首つ玉へ飛び乗つてしまつたのも不思議はない。かうして彼等は、広々とした煖炉《ペチカ》のなかの、壺や瓶の間に姿を現はした。

 靴下を穿いた洒落者 往時、一般の露西亜人は靴下と称すべきものを用ゐず、ぼろ切れを足に巻きつけて長靴を穿くのが普通であつたから、靴下を穿くほどの人間といへば、法外な洒落者といふことになる。また当時でも猶太人のみは靴下に短靴といふ軽装をしてゐたから、茲にもその意が含められてゐると見てよい。
 空の旅から戻つた妖女《ウェーヂマ》はそつと焚口扉《ザスローンカ》をずらして、わが子のワクーラがお客を家の中へつれこんでをりはせぬかと、ちよつと覗いてみたが、部屋の真中に置かれた二つ三つの袋の他には誰ひとり人影のないのを確かめると、のこのこと煖炉《ペチカ》から這ひだして、温かさうに著ぶくれた裘衣《コジューフ》を脱ぎ捨てて服装《みなり》をなほした。で、一分間まへまで彼女が箒に跨がつて空を飛翔《とび》まはつてゐたなどとは、誰にも思ひもよらなかつた。
 鍛冶屋ワクーラの母親は年のころ四十を幾つも出てゐなかつた。その容色はすぐれて美しくもなければ、醜くもなかつた。尤もこの年配で美貌をたもつといふことは困難だが、それでゐて彼女は、この上もなく生真面目な哥薩克連(尤もこの手合にとつては容色などは二の次ぎのことであつたが)を、うまうまと蕩しこんでゐたので、村長や、補祭のオーシップ・ニキーフォロ
ッチ(言ふまでもなく、それは梵妻《おだいこく》の不在の時に限るのだが)や、哥薩克のコールニイ・チューブや、カシヤン・スウェルブイグーズが彼女の家へせつせと通つたものだ。それに、これは彼女の最も名誉とすべき事柄であるが、彼女はこの連中を実に巧みにあやなす術《て》を心得てゐたので、彼等のうち誰ひとり、自分に競争者があらうなどとは夢にも考へてゐなかつた。信心深い百姓にもせよ、自から貴族と名乗る哥薩克にもせよ、頭巾の附いたマントを著込んで、日曜日にお寺へ詣るとか、または天気が悪くて酒場へでも行くとかすれば、ついでにソローハのところへ立ち寄つて、凝乳《スメターナ》をべつとりつけた肉団子《ワレーニキ》を食ひながら、煖かい家の中で、おしやべりで愛想のいい女主人と喃語《むつごと》を交はすのが悪からう筈はない。その癖、貴族連は、酒場へ行く前にわざわざまはり道をしておきながら、とほりすがりにちよつと立ち寄つただけで、などと言ひわけをしたものだ。また祭日などにソローハが派手な毛織下着《プラフタ》に、南京織の下袴《ザパースカ》を穿き、その上にうしろに金絲で触角《ひげ》の形の刺繍《ぬひ》をした青いスカートを著けて、お寺へ出かけて、右側の頌歌席にほど近く立たうものなら、補祭はさつそく咳払いをしたり、そちらへ向けて眼まぜをしたりするのが常で、また村長は口髭を撫でたり、房髪《チューブ》を耳に捲きつけたりしながら、隣りに立つてゐる男にかう囁やいたものだ。『へつ、何ちふがつちりした好え女だらう! 凄え女だ。』ソローハはめいめいに会釈をした。するとこちらは、自分だけに女が挨拶をしてくれたのだと思つて悦に入つたものである。
 しかしながら、他人《ひと》ごとにおせつかひ好きな人はたちどころに、ソローハが誰よりも哥薩克のチューブに対して一段とちやほやしてゐることに気がつくだらう。チューブは鰥《やもめ》だつた。彼の家の前にはいつも八つの穀堆がならんでゐた。四匹の頑丈さうな去勢牛が、いつ見ても納屋の籬垣《ませがき》から往還へ首を突きだして、戸外《そと》をとほる牝牛の小母さんや、肥つた牡牛の小父さんの姿を見つけると、もうもうと啼き立ててゐた。顎鬚を生やした山羊は納屋の屋根の上へ登つて、そこから市長の声に似た甲高い嗄がれ声を振りしぼつて、庭を横行する七面鳥をからかつたが、いつも自分の鬚にわるさをする強敵――腕白小僧たちの姿を見ると、逸早く、くるりと尻を向けた。またチューブの家の長持の中には夥しい布地や、波蘭服《ジュパーン》や、金モールのついた古風な波蘭婦人服《クントゥーシュ》などがぎつしり詰まつてゐた。死んだ女房が衣裳ずきのおしやれだつたからだ。野菜畠には、罌粟や甘藍や、向日葵のほかに、毎年ふた畑の煙草が播かれた。ソローハはもう早手まはしに、それらが残らず自分の身上と一緒になつた暁には、どういふ風に整理《きりもり》をしようかなどと、内心ほくほくと胸算用をしながら、一倍とチューブ老人にちやほやしたものである。ところが、どんなことで忰のワクーラが、チューブの娘に言ひ寄つて財産全部をわがものにしてしまはないものでもない、さうなつたら、こちらには何ひとつ手出しをさせないにきまつてゐるから、彼女はあらゆる四十女の常套手段に訴へて――チューブと鍛冶屋とに出来るだけ何度も喧嘩をさせたのである。多分かうした彼女の狡獪邪智に長けた点がわざはひして、あちこちで、口さがない老婆連に、とりわけ何か賑やかな寄合などで余計なものでも呑んだりした折に、ソローハはてつきり妖女《ウェーヂマ》だなどと言ふ噂を立てさせたものに違ひない。そればかりか、ギジャコルペンコといふ若者が、彼女のお尻に女の使ふ紡錘《つむ》くらゐの大きさの尻尾のあるのを見ただの、まだつい先々週の木曜日のこと、彼女が黒い猫に化けて道を走つて行つただの、コンドゥラート神父の梵妻《おだいこく》のうちへ豚の姿で飛び込んで雄鶏《とり》の鳴き声をあげておいて、神父の帽子を頭にかぶりざま、もと来た方へ駈け去つただのと……。
 偶々さうした噂話で婆さん連が井戸端会議を開いてゐるところへ、牛飼のトゥイミーシュ・コロスチャーウイといふ男が来合はせたことがあつた。彼はすかさずこんな話を持ちだした。なんでも夏のことで、*聖彼得斎節《ペトロフキ》の前だつたが、彼が牛小舎の中で一と眠りしようと思つて、藁を掻き寄せたのを枕にして横になつてゐると、現在その眼にまざまざと、
《もとどり》を振り乱した、肌着ひとつの妖女《ウェーヂマ》が牛の乳を搾りだしたのが見えるのだけれど、彼は身動き一つすることも出来ない――呪術《まじなひ》にかけられてしまつてゐたのだ。そして何か、いやに胸の悪くなるやうな物を口に塗りたくられたので、その後で一日ぢゆう、唾ばかり吐いてゐたといふのだ。だが、どうもかういふ話はどれもこれも信用が置けさうにない。何しろ、妖女《ウェーヂマ》を見ることの出来るのは、ソロチンツイの陪審官より他にはない筈だから。そんなわけで、名うての哥薩克連は誰も彼もさういふ噂話を耳にすると、手を振つた。『牝犬どもめが、つべこべと嘘八百を並べやがつて!』さういふのがいつもきまつて彼等の応酬であつた。
    
聖彼得斎節《ペトロフキ》 使徒ペテロ及びパウロの祭礼に先だつ
    
精進期復活祭後第九週より六月二十九日までの期間をいふ。
 それはさて、煖炉《ペチカ》から這ひ出して身繕ひをしたソローハは、殊勝な女主人《かみさん》のやうに物をとり片づけたり、在るべき場所へ置きなほしたりし始めたが、家の中におつぽり出されてゐた袋には手も触れなかつた。『これはワクーラが持つて来をつたのだから、あれが自分で片附けるがいい!』また一方、くだんの悪魔は、さつき、まだ煙突めがけて飛行しながら、チューブが教父《クーム》と腕をくみあつて、もうかなり家から遠く離れてゐるのを見てとつたので、彼は瞬く暇に煖炉《ペチカ》から舞ひあがつて、二人の先廻りをして、カチカチに凍てた積雪を四方八方へ掻き立て始めた。すると忽ち吹雪が捲き起つて、空中は真白になつた。雪は前後に網を引いたやうに飛びかひ、歩行者の眼といはず、口といはず、耳といはず、容赦なく貼り塞いでしまふほどであつた。そこで悪魔は、かうしておけば、チューブが教父《クーム》といつしよに後へ引つかへして、てつきり鍛冶屋と鉢合せをして、彼をこつぴどい目に合はせるだらう、さうすれば、さすがのワクーラも当分は絵筆をとつて、忌々しい戯画《ざれゑ》など描くことは出来なくなるに違ひない、さう思ひこんで、再びもとの煙突をさして引つかへした。

ぼろ切れを足に巻きつけて長靴を穿くのが普通であつたから、靴下を穿くほどの人間といへば、法外な洒落者といふことになる。また当時でも猶太人のみは靴下に短靴といふ軽装をしてゐたから、茲にもその意が含められてゐると見てよい。

 空の旅から戻つた妖女《ウェーヂマ》はそつと焚口扉《ザスローンカ》をずらして、わが子のワクーラがお客を家の中へつれこんでをりはせぬかと、ちよつと覗いてみたが、部屋の真中に置かれた二つ三つの袋の他には誰ひとり人影のないのを確かめると、のこのこと煖炉《ペチカ》から這ひだして、温かさうに著ぶくれた裘衣《コジューフ》を脱ぎ捨てて服装《みなり》をなほした。で、一分間まへまで彼女が箒に跨がつて空を飛翔《とび》まはつてゐたなどとは、誰にも思ひもよらなかつた。
 鍛冶屋ワクーラの母親は年のころ四十を幾つも出てゐなかつた。その容色はすぐれて美しくもなければ、醜くもなかつた。尤もこの年配で美貌をたもつといふことは困難だが、それでゐて彼女は、この上もなく生真面目な哥薩克連(尤もこの手合にとつては容色などは二の次ぎのことであつたが)を、うまうまと蕩しこんでゐたので、村長や、補祭のオーシップ・ニキーフォロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1-7-83]ッチ(言ふまでもなく、それは梵妻《おだいこく》の不在の時に限るのだが)や、哥薩克のコールニイ・チューブや、カシヤン・スウェルブイグーズが彼女の家へせつせと通つたものだ。それに、これは彼女の最も名誉とすべき事柄であるが、彼女はこの連中を実に巧みにあやなす術《て》を心得てゐたので、彼等のうち誰ひとり、自分に競争者があらうなどとは夢にも考へてゐなかつた。信心深い百姓にもせよ、自から貴族と名乗る哥薩克にもせよ、頭巾の附いたマントを著込んで、日曜日にお寺へ詣るとか、または天気が悪くて酒場へでも行くとかすれば、ついでにソローハのところへ立ち寄つて、凝乳《スメターナ》をべつとりつけた肉団子《ワレーニキ》を食ひながら、煖かい家の中で、おしやべりで愛想のいい女主人と喃語《むつごと》を交はすのが悪からう筈はない。その癖、貴族連は、酒場へ行く前にわざわざまはり道をしておきながら、とほりすがりにちよつと立ち寄つただけで、などと言ひわけをしたものだ。また祭日などにソローハが派手な毛織下着《プラフタ》に、南京織の下袴《ザパースカ》を穿き、その上にうしろに金絲で触角《ひげ》の形の刺繍《ぬひ》をした青いスカートを著けて、お寺へ出かけて、右側の頌歌席にほど近く立たうものなら、補祭はさつそく咳払いをしたり、そちらへ向けて眼まぜをしたりするのが常で、また村長は口髭を撫でたり、房髪《チューブ》を耳に捲きつけたりしながら、隣りに立つてゐる男にかう囁やいたものだ。『へつ、何ちふがつちりした好え女だらう! 凄え女だ。』ソローハはめいめいに会釈をした。するとこちらは、自分だけに女が挨拶をしてくれたのだと思つて悦に入つたものである。
 しかしながら、他人《ひと》ごとにおせつかひ好きな人はたちどころに、ソローハが誰よりも哥薩克のチューブに対して一段とちやほやしてゐることに気がつくだらう。チューブは鰥《やもめ》だつた。彼の家の前にはいつも八つの穀堆がならんでゐた。四匹の頑丈さうな去勢牛が、いつ見ても納屋の籬垣《ませがき》から往還へ首を突きだして、戸外《そと》をとほる牝牛の小母さんや、肥つた牡牛の小父さんの姿を見つけると、もうもうと啼き立ててゐた。顎鬚を生やした山羊は納屋の屋根の上へ登つて、そこから市長の声に似た甲高い嗄がれ声を振りしぼつて、庭を横行する七面鳥をからかつたが、いつも自分の鬚にわるさをする強敵――腕白小僧たちの姿を見ると、逸早く、くるりと尻を向けた。またチューブの家の長持の中には夥しい布地や、波蘭服《ジュパーン》や、金モールのついた古風な波蘭婦人服《クントゥーシュ》などがぎつしり詰まつてゐた。死んだ女房が衣裳ずきのおしやれだつたからだ。野菜畠には、罌粟や甘藍や、向日葵のほかに、毎年ふた畑の煙草が播かれた。ソローハはもう早手まはしに、それらが残らず自分の身上と一緒になつた暁には、どういふ風に整理《きりもり》をしようかなどと、内心ほくほくと胸算用をしながら、一倍とチューブ老人にちやほやしたものである。ところが、どんなことで忰のワクーラが、チューブの娘に言ひ寄つて財産全部をわがものにしてしまはないものでもない、さうなつたら、こちらには何ひとつ手出しをさせないにきまつてゐるから、彼女はあらゆる四十女の常套手段に訴へて――チューブと鍛冶屋とに出来るだけ何度も喧嘩をさせたのである。多分かうした彼女の狡獪邪智に長けた点がわざはひして、あちこちで、口さがない老婆連に、とりわけ何か賑やかな寄合などで余計なものでも呑んだりした折に、ソローハはてつきり妖女《ウェーヂマ》だなどと言ふ噂を立てさせたものに違ひない。そればかりか、ギジャコルペンコといふ若者が、彼女のお尻に女の使ふ紡錘《つむ》くらゐの大きさの尻尾のあるのを見ただの、まだつい先々週の木曜日のこと、彼女が黒い猫に化けて道を走つて行つただの、コンドゥラート神父の梵妻《おだいこく》のうちへ豚の姿で飛び込んで雄鶏《とり》の鳴き声をあげておいて、神父の帽子を頭にかぶりざま、もと来た方へ駈け去つただのと……。
 偶々さうした噂話で婆さん連が井戸端会議を開いてゐるところへ、牛飼のトゥイミーシュ・コロスチャーウイといふ男が来合はせたことがあつた。彼はすかさずこんな話を持ちだした。なんでも夏のことで、*聖彼得斎節《ペトロフキ》の前だつたが、彼が牛小舎の中で一と眠りしようと思つて、藁を掻き寄せたのを枕にして横になつてゐると、現在その眼にまざまざと、
髻《もとどり》を振り乱した、肌着ひとつの妖女《ウェーヂマ》が牛の乳を搾りだしたのが見えるのだけれど、彼は身動き一つすることも出来ない――呪術《まじなひ》にかけられてしまつてゐたのだ。そして何か、いやに胸の悪くなるやうな物を口に塗りたくられたので、その後で一日ぢゆう、唾ばかり吐いてゐたといふのだ。だが、どうもかういふ話はどれもこれも信用が置けさうにない。何しろ、妖女《ウェーヂマ》を見ることの出来るのは、ソロチンツイの陪審官より他にはない筈だから。そんなわけで、名うての哥薩克連は誰も彼もさういふ噂話を耳にすると、手を振つた。『牝犬どもめが、つべこべと嘘八百を並べやがつて!』さういふのがいつもきまつて彼等の応酬であつた。
     
聖彼得斎節《ペトロフキ》 使徒ペテロ及びパウロの祭礼に先だつ
     
精進期、復活 祭後第九週より六月二十九日までの期間をいふ。
 それはさて、煖炉《ペチカ》から這ひ出して身繕ひをしたソローハは、殊勝な女主人《かみさん》のやうに物をとり片づけたり、在るべき場所へ置きなほしたりし始めたが、家の中におつぽり出されてゐた袋には手も触れなかつた。『これはワクーラが持つて来をつたのだから、あれが自分で片附けるがいい!
精進期、復活 祭後第九週より六月二十九日までの期間をいふ。また一方、くだんの悪魔は、さつき、まだ煙突めがけて飛行しながら、チューブが教父《クーム》と腕をくみあつて、もうかなり家から遠く離れてゐるのを見てとつたので、彼は瞬く暇に煖炉《ペチカ》から舞ひあがつて、二人の先廻りをして、カチカチに凍てた積雪を四方八方へ掻き立て始めた。すると忽ち吹雪が捲き起つて、空中は真白になつた。雪は前後に網を引いたやうに飛びかひ、歩行者の眼といはず、口といはず、耳といはず、容赦なく貼り塞いでしまふほどであつた。そこで悪魔は、かうしておけば、チューブが教父《クーム》といつしよに後へ引つかへして、てつきり鍛冶屋と鉢合せをして、彼をこつぴどい目に合はせるだらう、さうすれば、さすがのワクーラも当分は絵筆をとつて、忌々しい戯画《ざれゑ》など描くことは出来なくなるに違ひない、さう思ひこんで、再びもとの煙突をさして引つかへした。

        *        *        *

 事実、チューブは吹雪が捲きおこつて、風が正面《まとも》から吹きつけ始めると、はやくも後悔の色を浮かべて、帽子の鍔をぐつとまぶかに引きさげながら、ぶつぶつと自身や、悪魔や、教父に向つて小言を浴びせかけた。とはいへこの忿懣はうはべだけのものであつた。チューブには吹雪の起つたのが結句うれしかつたのだ。補祭の家まではまだ、二人がそれまでに辿つて来た道のりの八倍もあつた。歩行者たちは後ろへ方向《むき》をかへた。風が項《うなじ》へ吹きつけるばかりで、渦巻く吹雪をとほしては何ひとつ見わけることも出来なかつた。
「待ちなよ、教父《とつ》つあん? どうも見当が違つてるやうだよ。」と、少し後へ遅れてチューブが言つた。「おいらにやあ家が一軒も見えねえ。ちえつ、なんちふ吹雪だ! ちつと脇へそれて道を探してみて呉んなよ、俺らはその間にこつちをさぐつて見るべえからよ。こねえに吹雪の中をうろうろさせられるちふのも、てつきり悪魔の仕業に違えねえだよ! 道が目つかつたら忘れずに呼んで呉んろ。ちえつ、悪魔めが、なんちふ雪塊《ゆき》を吹きつけて、目潰しを喰らはしやあがるこつた!」
 だが、道は分らなかつた。脇へそれた教父は、深い長靴ばきの足で前へ行つたり後へ戻つたりしてゐたが、最後にひよつこりと酒場の前へ出た。酒場を見つけてすつかり有頂天になつた彼は何もかも忘れてしまつて、からだにこびりついた雪を払ひ落しながら、往来に残した仲間のことなどは、てんで心にもとめず、表口から中へ入つて行つた。一方、チューブには道が分つたやうに思はれたので、立ちどまつて声を限りに呼び立ててみたが、教父がさつぱり姿を見せないので、自分だけひとりで帰ることにした。少し先きへ進むと、彼の眼には自分の家が見えだした。家のぐるりにも屋根の上にも雪が堆《うづた》かく積つてゐた。彼は寒さに凍えた手をあげて、トントンと戸を叩きながら、娘に向つて戸を開けろといかつく呶鳴つた。
「此処にいつたい何の用があるんだ?」と、そこへ出て来た鍛冶屋が、威猛だかに呶鳴りかへした。
 チューブは、鍛冶屋の声を耳にして、少し後へさがつた。
おやおや、これあおれの家ぢやなかつたわい。と、彼は口の中でつぶやいた。鍛冶屋めがおれの家へ立ち寄る訳はないからな。待てよ、よく見れば鍛冶屋の家でもないわい。いつたい、これあ誰の家だらう? なあるほど! さつぱり見当がつかねえと思つたら、なあんだ! これあ、あの、近ごろ新嫁を貰つたばかりの、跛《びつこ》のレヴチェンコの家ぢやねえか。おれのうちに似た家は奴さんの家より他にやあねえ筈だ。なるほど、さういへば、かう早く家へ帰りついたのが最初《はな》から少し変だと思つたわい。それはさうと、レヴチェンコは今ごろ、補祭の家へ行つとる時分ぢやて、それはちやんとおれが知つてをる。それに、なんだつて鍛冶屋めが?……てへつ、へつ、へつ! 彼奴あ若い新嫁のところへ、こつそり忍んで来てやがるのぢやな。なあるほど! ようし!……もうおれには、すつかり何もかも読めたぞ。
「いつたい何奴《どいつ》だ、それに何だつて戸口になんぞうろついてやがるんだ?」と、鍛冶屋は前より一段と荒々しく呶鳴りながら、少し間近く詰めよつた。
いや、おれが誰だか名乗らぬことにしよう。と、チューブは考へた。この忌々しい出来そこなひ野郎に擲られるくらゐがおちぢやから!そこで彼は作り声をして、「わしだよ、お前さん! お慰みに一つ、こちらの窓下で流しをやらせて貰はうと思つたんでさ。」と答へた。
「その流しと一緒にとつとと悪魔のとこへでも出て失せやがれ!」と、腹立たしげにワクーラが喚いた。「何を手前はいつまでも突つ立つてやがるんだ? 聞えたらうが! とっとと出て失せろつちふに!」
 チューブの方でもとうに立ち去るのが賢明だとは考へてゐたが、どうも、この鍛冶屋の指図に否応なしに従ふといふことが業腹でならなかつた。彼はまるで悪魔に小突かれでもしたやうに、何かひとこと逆らつて見ないでは済まされなかつた。
「何だつてお前さん、さうがみがみ言ひなさるだね?」と、彼は前と同じ作り声で言つた。「おらはハア、一つ流させて貰ふべえと思つただけのこんでねえか!」
「ふん! それぢやあ、口で言つただけぢやあ、分らねえつてんだな!」
 さういふ言葉に次いで、チューブは肩先きに手酷い打撃を感じた。
「それぢやあ何だね、腕づくでかかつて来なさるだね!」彼は少し後へさがつて、さう言つた。
「出て失せやがれ、とつとと出て失せやがれといふのに!」かう喚きながら、鍛冶屋は又もやチューブをどやしつけた。
「何をしなさるだ!」と、チューブは痛みと怨みと怖気を含んだ声で叫んだ。「お前さん、本気でぶつたね、さつきよりひどくぶつたね!」
「出て失せろ、出て失せろ!」さう呶鳴りながら、鍛冶屋は戸をぴつたりと閉めきつてしまつた。
見ろ、何ちふ威張り方だ!と、往来に一人とり残されたチューブがつぶやいた。こんど傍へでも寄つて見ろ! 飛んでもねえ! 太い野郎めが! 手前を裁判へ突き出すことの出来ねえおいらだとでも思つてやがるのか? いんにや、おれは訴へてやる、直かに警察部長のとこへ告訴してやるぞ。今に思ひ知るがええ! 手前が鍛冶屋だらうと塗職《ぬりや》だらうと、かまふこつちやねえ。それはさうと、背中と肩を見たら、きつと青痣が出来とることだらう。畜生め、恐ろしくひどく打ちやあがつて。だが、この寒空ぢやあ、裘衣《コジューフ》を脱ぐ訳にもゆくまいて。待つてろよ、畜生鍛冶屋め、悪魔が貴様と貴様の鍛冶場をぶちこはしてしまへばええ。今に思ひ知らせてやるぞ! くそつ、忌々しい首くくり野郎めが! だが、ちやうど今、奴あ家にゐないんだな。さうするとソローハが独りでぼんやりしてをる筈ぢやて、ふん!……ここからは道も遠くなし――行つてやるかな! こんな時刻だから誰に見つかる心配もなし、ひよつとすれあ、嬉しい首尾にならねえにも限らんて……。ほんに、あの忌々しいど鍛冶屋め、おつそろしく酷く打ちやあがつて!
 そこでチューブは、背中をさすりさすり、別の方角へと歩きだした。眼の前に自分を待つてゐるソローハとのあひびきの楽しさに、いくらか痛みも忘れて、吹雪の唸りにも負けず往来ぢゆうにピシピシ音をたててゐる酷い凍《い》てをさへ身に感じなかつた。口髭といはず顎鬚といはず、お客の鼻を容赦なくつまみあげて石鹸を塗りたくるどんな理髪師よりも素早く、吹雪のために真白にされてしまつた彼の顔には、ともすれば、くすぐつたいやうな表情が浮かんだ。だが、卍巴と降りしきる吹雪が視界を遮ぎつてしまつたため、なほも長い間、ときどき立ちどまつては背中を撫で撫で、『忌々しい鍛冶屋めが、こつぴどく打ちやあがつて!』と、ブツブツ呟やきながら道を辿るチューブの姿は、もはや見ることができなかつた。

        *        *        *

 さて、あの長い尻尾と山羊髯をもつたくだんの敏捷な洒落者が、いつたん煙突から飛び出して行つて、再び煙突へ戻つて来た時、彼が盗んだ月を入れて帯皮の脇に釣つてゐた胴籃が、どうかしたはずみで煖炉《ペチカ》の内側にひつかかつて口をあいた。そのすきに月は得たりとばかりに、ソローハの家の煙突を通りぬけて、するすると空へ舞ひあがつた。下界は一時にぱつと明るくなつて、吹雪などはまるで無かつたもののやうに、あたりは鎮まりかへり、雪は広々とした銀の野と輝やき、さながら一面に水晶の星でも撒いたやうに見えた。寒気も幾らか緩んだやうにさへ思はれた。若者や娘たちの群れが、袋を担いで現はれた。歌声が響き出して、流しの群れの集《たか》らぬ家は稀れであつた。
 麗らかに月が輝やいてゐる! こんな夜、キャツキャツと笑つたり歌をうたつたりする娘たちや、賑やかに笑ひさざめく夜にだけしか思ひつくことのできない諧謔《じようだん》や駄洒落を、やたらに連発する若い衆たちの間へ割りこんで揉まれる面白さは、ちよつと口では説明が難かしいくらゐだ。ぴつたり躯《からだ》をくるんだ裘衣《コジューフ》はあつたかく、寒気のために頬の色もひときは生き生きと冴えて、悪巫山戯に至つては、まるで後ろから悪魔に尻押でもされてゐるやうだ。
 袋を手に持つた娘たちの群れはチューブの家へ押しかけて、オクサーナをとりまいた。わめき声や高笑ひやおしやべりで、鍛冶屋の耳は聾《つんぼ》になつてしまひさうだつた。一同はわれ勝ちに何か彼かオクサーナに珍談を語つて聞かせたり、背中の袋をおろして、もうかなり流しで貰ひ集めた白麺麭や腸詰や団子などの品さだめをしたりした。オクサーナはすつかり上機嫌で、にこにこしながら、誰彼なしに相手にしては無駄口を叩いて、ひつきりなく笑ひころげた。
 一種の忌々しさと妬ましさを覚えながら、鍛冶屋はさうしたはしやぎを眺めてゐた。そして自分も大好きな流しが、この時ばかりは呪はしいものに思はれた。
「あら、オダールカさん!」と、陽気な美女が娘たちの中の一人に向つて叫んだ。「あんた、新らしい靴を穿いてるわね。まあ、なんて素晴らしい靴でせう! 金絲《きん》の刺繍《ぬひ》がしてあつてさ。あたしなんかには、誰あれもこんな素敵な靴なんて買つて呉れやしないわ。」
「悲観することあないよ、おれのだいじなオクサーナ!」と、鍛冶屋が口を出した。「おれがお前に高貴な令嬢方も滅多にはいてゐないやうな靴を手に入れてやるから。」
「あんたが?」さう、横柄にチラと彼を眺めて、オクサーナが言つた。「あんたが、あたしの足にはけるやうな靴を何処で手に入れるか、ひとつ見てゐてあげるわ。ふん、あんたが女帝のおはきになる靴でも持つて来てくれたらねえ。」
「まあ、ずゐぶん注文が大きいのね!」と、娘たちの群れが笑ひながら叫んだ。
「ええ、さうよ!」と美女は誇りかに語を継いだ。「ね、皆さん、証人になつて頂戴な。もし鍛冶屋のワクーラさんが女帝のおはきになる靴を持つて来て呉れたら、あたし屹度、その場でこの人のお嫁になることよ。」
 娘たちは、このやんちやな美女を伴つて出かけて行つてしまつた。
笑へ! 笑へ!と、一同の後から外へ出ながら鍛冶屋はつぶやいた。おれは自分で自分を笑つてるんだ! 考へれば考へるほど、おれの頭はまつたくどうかしてゐる。あいつはおれを好いてゐないんだが――ままよ、勝手にしやがれだ! 女といへばまるで世界ぢゆうにオクサーナよりほかにはないとでもいふのかい。あの女でなくつたつて、お蔭さまなことに、村にやあ好い娘《こ》が、ざらにあらあな。オクサーナがなんだい? あんな女は主婦《かみさん》にやあむかないさ。あいつはおめかしの名人といふだけのことぢやないか。ううん、もう沢山だ! もういいかげん、馬鹿な真似はよさう。
 しかし、鍛冶屋がかうきれいさつぱり諦らめようとしたその刹那、ある意地の悪い精霊《すだま》が、
女帝の靴を持つといで、さうしたらお嫁にいつてあげるよ!とからかふやうに言ひながら笑つてゐるオクサーナの面影をまざまざと彼の眼前へ浮かびあがらせた。すると遽かに彼の魂は騒ぎ立つて、オクサーナのことよりほかには何ひとつ考へられなくなつてしまつた。
 流しの群れは、若い衆は若い衆、娘つこは娘つこと、てんでに往来から往来へと先きを急いだ。しかし鍛冶屋は歩きながらも何ひとつ眼にもとまらず、前には誰よりも好きだつたこのお祭り騒ぎに仲間入りする気にもなれなかつた。

        *        *        *

 話かはつて、その間に、悪魔はソローハの傍らですつかり現つを抜かしてゐた。彼はちやうど陪審官が補祭の娘に向つてするやうな鹿爪らしい顔で女の手に接吻して、自分の胸に手を当ててホッと吐息をつきながら、もしも彼女がうんと言つて自分の欲望《おもひ》を叶へ、然るべく犒《ねぎ》らつて呉れない暁には、何をしでかすか分つたものぢやない。恐らく水中へ身投げをして、魂だけは焦熱地獄へまつさかさまに落ちて行くだらうなどと、ぬけぬけと切りだしたものだ。ところでソローハはさほど情《つれ》ない女でもなかつたし、第一、悪魔と彼女が共謀《ぐる》になつてゐたことも明らかだ。それに、もともと彼女は、自分の尻を追ひまはす連中をあやなすのが大好きで、さういふ手合を引き入れてゐないことは稀らしかつた。しかし今夜だけはこの村の主だつた連中はみな補祭の家の蜜飯《クチャ》に招ばれてゐるから、どうせ誰ひとり忍んで来るものはあるまいと思つてゐた。ところがまんまと予想がはづれて、悪魔がやつと想ひのたけを打ち明けたばかりのところで、だしぬけに表の戸を叩く音がして、それといつしよに、がつちりした村長の声が聞えたのだ。ソローハは急いで戸をあけに駈けだした。咄嗟に、敏捷な悪魔はそこにあつた袋の中へ潜《もぐ》りこんだ。
 村長は帽子についた雪を払ひ落すと、ソローハの手づから火酒《ウォツカ》を一杯のみほして、さて、吹雪になつたので補祭のところへ行くのは見あはせたが、彼女の家の灯りを見ると、急に今夜は一つこちらで暇つぶしをしようと思ひたつて、やつて来たのだと告げた。
 村長がかう言ひきるかきらないのに、また戸を叩く音といつしよに補祭の声が戸口で聞えた。
「わしをどつかへ隠《かく》まつて呉れ。」と、村長が小声で言つた。「今ここで補祭と顔を合はせちやあ、ちと具合が悪いから。」
 ソローハは、こんな大兵なお客をいつたい何処へ隠したものかと、暫らく思案に迷つたが、最後に一番大きい炭袋を選んで、中の炭を桶へぶちまけた。すると、髭を生やした堂々たる村長が頭に帽子をかぶつたまま、その袋の中へ這ひずりこんだ。
 補祭はハアハアいつて、手をこすりこすり入つて来ると、招《よ》んだお客が一人もやつて来ないので、もつけの幸ひだと思つてちよつくら遊びに来たが、吹雪なんぞは屁でもなかつたと言つた。そしていきなり女の傍《そば》へすり寄つて、オホンと咳払ひをしてニヤリと笑つた。それから長い指で女のむつちりした剥きだしの腕にちよいと触つて、狡獪《ずる》さうな、それと同時にひどく得意らしい顔つきをして、「これはいつたい何でしたつけね、美しいソローハさん?」さう言つて、少し後へ飛びのいたものである。
「何だもないぢやありませんか? 腕《かひな》でござんすよ、オーシップ・ニキーフォロ
ッチ!」とソローハが答へた。
「ふうむ! 腕かな! ヘッヘッヘッ!」補祭はさう言つて、自分の口切りに心から満足して部屋をひとまはりした。
「ぢやあ、これは何ですかね、わしのだいじなだいじなソローハさん?」同じやうな顔つきで再び女に近よると、ちよいと女のうなじに手を掛けて、さう言つてから、同じやうに後ろへ飛びさがつた。
「御存じの癖に、オーシップ・ニキーフォロ
ヰッチ!」と、ソローハが答へた。「うなじでございますよ、うなじに掛かつてゐるのは頸飾でございます。」
「ふうむ! うなじに頸飾かな! ヘッヘッヘッ!」そして補祭は再び手を揉みながら部屋をひとめぐりした。
「して、これは何ですかな、較《くら》べものもないくらゐ美しいソローハさん?……」ここで、この好色な補祭がその長い指でいつたい何処に触らうとしたのか、それははつきりしないが、ちやうどその時、だしぬけに戸口にノックの音がして、哥薩克のチューブの声が聞えた。
「えつ、南無三、邪魔がはいりをつたわい!」と、補祭はびつくりして叫んだ。「わしの役柄で、こんなところを見つかつて堪るものか?……もしコンドゥラート神父の耳へでも入つたことなら……。」
 だが、補祭の恐れはそれではなくて、何より自分の女房にばれはせぬかと懸念したのだ。彼の女房といへば、それでなくてさへ恐ろしい腕力を振つて、たつぷりあつた彼の長髪《かみ》を引きむしつてほんの僅かにしてしまつた女なのだ。「親切なソローハさん! 後生だよ。」と、全身をわなわな震はせながら補祭は訴へるのだつた。「あんたの善根は、ちやうど、ルカ伝にも言つてある、第十三章……十三……叩いてゐますよ、ほんとに叩いてをる! ああ、わしをどこかへ隠《かく》まつて下されい。」
 ソローハはもう一つ別の袋の炭を手桶へぶちまけた、と、さして大柄でもない補祭がその中へ這ひ込むなり、チョコナンとその底に坐つたので、まだ上から炭の半俵やそこいらは入れることが出来るくらゐだつた。
「今晩は、ソローハ!」と、家の中へ入りざまチューブが声をかけた。「おほかたお前さんはわしが来ようなどとは思はなかつたらうが? ほんとに思ひがけなかつたぢやらう? ひよつとわしが来て邪魔ではなかつたかな?……」チューブはかう言ひながら、その顔に浮々した仔細らしい表情をうかべたが、それは予め彼が鈍重な頭をしぼつて、何かぴりつとした、とつときの冗談を飛ばさうものと工夫をこらしてゐることを物語つてゐた。「多分お前さんは、今ここで誰かといちやついてゐたんぢやらう!……おほかた、もうお前さんは、誰かを隠《かく》まつてゐるのだらうが、ええ?」かうした咎め立てをしてすつかり有頂天になりながら、チューブはソローハから懇ろにされるのはひとり自分だけだと、内心すこぶる得意らしく、ニヤリと笑つた。「ぢやあ、ソローハ、火酒《ウォツカ》を一杯御馳走にならうかな。忌々しい凍《い》てでな、この咽喉《のど》がこごえてしまつたやうな気がするて。どうもはや、降誕祭の前夜がこんな晩と来ちやあ! あの酷い吹雪といつたら、なあソローハ、まつたくどうも、恐ろしい吹雪ぢやつたよ……。ちえつ、手が硬ばつてしまつたわい。裘衣《コジューフ》のボタンもはづせやせん! ああ恐ろしい吹雪ぢやつた……。」
「あけて呉れ!」さういふ声が戸外《そと》から聞えて、戸をドンドン叩く音がしだした。
「誰か戸を叩いとる。」と、立つたままチューブがつぶやいた。
「あけて呉れ!」今度は前より一段と声が高くなつた。
「あれあ鍛冶屋だよ!」と、チューブは帽子を掴みながら言つた。「なあ、ソローハ、何処でもよいからおれを隠して呉れ。おれはこの世で何が厭だといつて、あの忌々しい出来損ひ野郎に姿を見せるくらゐたまらんことはないのぢや! あん畜生の眼の下に山のやうな水腫れでも出来るといいのぢやが!」
 ソローハは、自分でも仰天してしまつて、まるで狂人《きちがひ》のやうに周章《あわて》ふためいた挙句、うつかりチューブに、補祭の入つてゐる袋を指さして、その中へ潜り込めと相図をした。哀れな補祭は、殆んど自分の頭の真上から重たい大男にしやがみこまれて、こちこちに凍てついた長靴で顳顬《こめかみ》を挟まれながらも、苦しいからとて咳払ひはおろか、呻き声一つもらすことさへ出来ない始末であつた。
 鍛冶屋は家へ入つても一切口もきかなければ、帽子も脱がずに、腰掛の上へ倒れるやうに身を投げた。明らかに彼はひどく機嫌を損じてゐた。
 ソローハが息子の入つて来た戸口を閉めたばかりのところで、またしても誰か戸を叩く者があつた。それは哥薩克のスウェルブイグーズだつた。最早この男まで袋の中へ隠す訳にはゆかなかつた。といふのは、とてもそんな大きな袋を見つけることは出来なかつたからである。その男は村長よりも肥満《ふと》つてゐて、身の丈はチューブの教父《クーム》よりものつぽだつた。そこでソローハは彼を野菜畠へ連れこんで、そこで彼の言ひ分を聞くことにした。
 鍛冶屋は放心したやうに、遠く村の端々まで拡がつた流しの唄を時々耳に止めながら、自分の家の隅をきよろきよろ身迴してゐたが、最後にくだんの袋に眼をとめた。
『何だつてこんなところに袋があるんだらう? とつくに片づけておかなきやならん筈だのに。あのたはけた恋でおれの頭はからきし阿呆になつてゐたんだよ。あすは祭りだといふのに、まだ家んなかにこんなものを引つ散らしておいてさ。せめて鍛冶場《しごとば》へでも運んでおかう!
 そこで鍛冶屋はそのとてつもなく大きな袋の傍へしやがみこんで、それをしつかりひつ括つて肩へ担ぎあげる仕度をした。だが明らかに彼の心はあらぬ方を彷徨《さまよ》つてゐたに違ひない。さもなければ、袋を締める時に縄の下へ髪の毛を括り込まれたチューブが悲鳴をあげたのと、肥満漢《ふとつちよ》の村長がかなりはつきり逆吃《しやつくり》をしたのを、耳にしない筈がなかつた。
あの碌でもないオクサーナのことなんか、もうすつかり頭の中から叩き出してしまつた筈ぢやないか?と鍛冶屋は呟やいた。あいつのことなんか忘れてしまつた方がいいのに、後から後から、わざとのやうにあいつのことばつかり思ひ出されてしやうがない。なんだつてかうなんだらう、心で思ふまいとすることが頭の中へ潜りこむつてえのは? うつ、畜生! この袋め、何だか前よりよつぽど重たくなりをつたぞ! きつと炭の他に何か入つてるに違ひない。いや、なんといふおれは馬鹿だ! 今のおれには何に依らず、前よりも重く思へるつてことを忘れてゐるなんて。前には、おれは片方の手で五|哥《カペイカ》銅貨や馬の蹄鉄《くつがね》を折り曲げたり伸ばしたりすることだつて出来たのに、今ぢやあ炭の袋さへ担げないのだ。今に風に吹き倒されるやうなことにだつてなるかもしれん……。なんの!茲でちよつと口を噤むと、うんと一つ気張つて彼は叫んだ。おれは女《あま》つ子ぢやねえぞ! 他人《ひと》の物笑ひになんぞなるものか! こんな袋の十《とう》をだつて担いでやらあ。そして、頑丈な男が二人がかりでも運びきれさうにない袋を、二つとも健気に肩へ担ぎあげた。こいつもついでだ。さう言つて彼は、悪魔が底に丸くなつてしやがんでゐた、小さい袋も一緒に持ちあげて、この中には、おれの楽器がへえつてゐた筈だて。さう言つて家を出ると、彼は口笛で歌を唄ひながら歩き出した。

   
女房の機嫌は、
   
おいらにやとれぬ。

        *        *        *

 往還は唄や笑ひや喚き声でますます騒がしくなつた。揉みあふ人の群れは、隣り村からやつて来た連中が加はつていよいよ多勢になつた。若い衆連は矢鱈に巫山戯て狂ひまはつた。時々、流しの合間々々に、誰か若い哥薩克が即興で作つた陽気な唄が聞えた。と、不意に群集の中の一人が讚仰歌《カリャードカ》の代りに、吼えるやうな声を振り絞つて『おほまか』を歌ひ出した。

    おほまか、こまか!
    団子をおくれ!
    お粥もたつぷり
    腸詰ひとつ!

 どつと笑ひ声がその剽軽者に酬いた。すると小窓の戸があいて、老婆(さういふ婆さんだけが生真面目な爺さんと一緒に我が家に残つてゐたのだ)が、痩せた手に腸詰だのピロオグの一片《ひとかけ》だのを掴んで差し出した。若者や娘たちは我れ勝ちに袋を突き出して獲物を奪ひ合つた。或るところでは若者たちが八方から寄つて来て、娘つこの群れをとりかこんだ。騒々しいわめき声がどつとあがり、一人が雪を丸めて投げつけると、一人はいろんな物の入つた袋を引つたくる騒ぎ。又ある場所では娘たちが若者の一人を捕まへて足がらみを喰はせる。と、若者は袋をかついだまま、まつさかさまに地べたにのめつた。みんなは夜つぴて浮かれまはる覚悟でゐるらしい。それに今夜はお誂らへ向きの素晴らしい星空と来てゐる! そして月の光りは雪の反射で一段と明るく思はれる。
 鍛冶屋は袋を担いだまま立ちどまつた。彼の耳にふと、娘たちの群れにまじつたオクサーナの声と、彼女のか細い笑ひ声が聞えた。彼の身内は一時にぶるつとふるへた。彼は大きい方の二つの袋を地べたへ抛り出しておいて――それ故、その中に入つてゐた補祭は打傷《うちみ》のために悲鳴をあげ、村長は思ひきり逆吃をした――小さい方の袋を担いだまま、今オクサーナの声がしたやうに思はれる娘つ子の群れの後を追ふ若者たちに加はつて歩き出した。
『そら、あれが彼女《あいつ》だ! まるで女王みたいに振舞つて、黒い眼を光らせてやあがる。彼女《あいつ》に様子の好い若造が何か話をしてやあがるぞ。あいつが笑つてるところを見ると何か可笑しい戯口《ざれぐち》を叩いてやがるのに違ひない。だが彼女《あいつ》はしよつちゆう笑つてゐる女だて。
そして、自分でも何が何やらさつぱり分らずに、いつか群集の中をすり抜けた鍛冶屋は、オクサーナのそばまで行つて立ちどまつた。
「あら、ワクーラさん、あんた此処にゐたの! まあ今晩は!」かう美女は、ワクーラの頭をぼうつとさせてしまふやうな、いつもの微笑を湛へながら言つた。「どう、たんと流しで貰へて? おやおや、なんて小つぽけな袋だこと! あの、女帝《おきさき》様の靴は手に入つて? 早くそれを手に入れなさいよ、あたしお嫁に行つてあげるからさ……。」さう言つて、キャツキャツ笑ひ出すなり、娘たちの群れといつしよに駈け去つてしまつた。
 鍛冶屋はまるで根でも生えたやうにその場に棒立ちになつてゐた。
『いや、もういけねえ。もうこれ以上、おれには我慢が出来ん……。 』やがて彼はさう呟やいた。 『だが、ほんとに、どうして彼女《あいつ》はあんなに凄く美しいのだらう? あいつの眼つきといひ、声といひ、何もかもが、まるで灼きつくやうだ、灼きつく……。いけねえ、おれはもう自分で自分をどうすることも出来ない。いよいよ何もかもに結着《けり》をつける時だ。霊魂《たましひ》も消えて亡くなれ! おれは氷の穴から身投げをしておつ死《ち》んでしまはう!
 そして決然たる歩調《あしどり》で娘たちの群れに追ひつくと、彼はオクサーナと肩をならべて、きつぱりした口調で言つた。「左様なら、オクサーナ! 誰でもすきな花聟を見つけるがいいよ、そしてすきな男をからかふがいいさ。しかし、もうおれはこの世ではお目にかからねえよ。」
 美女はびつくりしたらしく、何か言はうとしたが、鍛冶屋は手を一つ振るなり、駈け出してしまつた。
「おうい、何処へ行くんだい、ワクーラ?」若者たちは駈けてゆく鍛冶屋の後ろから呼んだ。
「左様なら、みんな!」と、鍛冶屋はそれに答へて叫んだ。「神の思召しで、又あの世ではお目にかかるかも知れねえが、もうこの世ではいつしよに遊べないよ。左様なら! これまでのことは悪く思はないで呉れ! コンドゥラート神父にさう言つて、おれの罪障の深い魂の追善をして貰つて呉れないか。それからおれはつい俗事にかまけて上帝や聖母の御像へ上げる蝋燭の彩色《いろつけ》をたうとうしおほせなかつたつて、断わつてくれ。そしておれの長持の中にある物はみんなお寺へ寄進するつてこともな。ぢや、左様なら!」
 これだけ言ひきると、鍛冶屋は袋をしよつたまま、どんどん駈け出して行つてしまつた。
「ありやあ、どうかしてるぞ!」と若者たちは言つた。
「死神がついとるだあよ!」と、傍らをとほりかかつた老婆が、さも信心深さうにつぶやいた。「今に、鍛冶屋が首を縊つたつちうて評判になるだんべえ!」
 その間にワクーラは、いくつかの街路《とほり》を走り抜けたが、ちよつと一と息いれようとして立ちどまつた。
『おれはいつたい何処へかう急いでるのだらう? 』と、彼は考へた。 『まるで何もかもすつかり駄目になつてしまつたかなんぞのやうに。いや、もう一ぺん手段を尽してみよう。さうだ、あのザポロージェ人のプザートゥイ・パツュークのところへ行つて見るんだ。何でも人の話では、あの男は悪魔といふ悪魔とはみんな知り合ひで、かうと思つたことはすべて自分の望みどほりになるつてことだ。行かう、どうせ、おれの霊魂《たましひ》はどつちみち亡びてしまふんだから!
 それを聞くと、長いあひだ身動きもせずにすくんでゐた悪魔は、嬉しさのあまり袋の中でこをどりをした。しかし鍛冶屋は、どうかしたはずみに自分の手が袋にひつかかつてひとりでに動いたのだと思つて、頑丈な拳で袋を叩きつけてから、肩の上で一つゆすぶると、プザートゥイ・パツュークの住ひをさして歩き出した。
 このプザートゥイ・パツュークといふ男は、かつてザポロージェにゐたといふことは確かだが、そこから追放されたのか、それとも勝手に出て来たのか、その辺のことは誰も知らなかつた。彼はもうずつと以前から、さうだ、十年か十五年も前から、ディカーニカに住んでゐた。最初《はな》から彼は正真正銘のザポロージェ人らしい生活《くらし》を送つてゐた。つまり、何ひとつ仕事をするでもなく、一日の四分の三は寝て暮し、食物は草刈人足の六人前も平らげ、酒は一度にたつぷり五升樽の一樽くらゐはペロリと呑み乾した。尤もパツュークは背丈が短かかつた代りに、横へ随分ふとつてゐたから、それだけの物を摂りこむ余裕は十分にあつたわけだ。それから彼のはいてゐる寛袴《シャロワールイ》だが、その太いことといつたら、彼がどんな大股に歩いても足はまるで見えず、酒蒸桶《さかをけ》が往来をよたよた蠢めいてゐるといつた恰好だつた。恐らく、こんなことから彼を太鼓腹《プザートゥイ》と呼び始めたものだらう。この男が村へ来てまだ幾週間もたたないうちに、村民は彼が魔法使であることを知つた。そこで誰か病気をするやうなことがあると、さつそくパツュークが呼び迎へられた。ところがパツュークがほんの二言三言、呪文を唱へただけで、病気は立ちどころに、拭ひ取つたやうに、けろりと癒つてしまふのだつた。すきつ腹《ぱら》の貴族があわてて魚の骨を咽喉に立てたりしたやうな場合には、パツュークが実に巧みに拳で背中を叩いて、その貴族の咽喉には何の故障も残さずに骨をば行くべき処へすうと通してしまつた。最近は彼をあちらこちらで見かけることが稀れになつた。それは多分、ものぐさからでもあつたらうが、或はまた、我が家の戸口を擦り抜けるのが年とともに困難になつて来たからでもあらう。この頃では、何か彼に用のある時は、村人の方から彼の家へ出かけて行かなければならなかつた。
 鍛冶屋が内心おどおどしながら、戸を開《あ》けて見ると、パツュークは、団子汁《ガルーシュキ》をいれた鉢を桶の上にのせて、それに向つて土耳古風にあぐらをかいて坐つてゐた。その鉢はちやうどお誂へ向きに彼の口と同じ高さに据わつてゐた。指一本動かすでもなく、彼は少し首を鉢の方へかしげて汁《しる》を啜りながら、時々団子を前歯で捕へては食つてゐた。
『いや、こ奴は※[#終わり二重括弧、1-2-55]と、ワクーラは肚の中で思つた。※[#始め二重括弧、1-2-54]チューブ以上のものぐさ野郎だぞ、あの親爺はまだしも匙を使つて食ふが、この男と来ては手を持ちあげることさへ吝んでやがる!
 パツュークはよほど、団子汁《ガルーシュキ》に夢中になつてゐたものと見えて、鍛冶屋が閾をまたぐなり、平身低頭して挨拶をしたのに、彼はまるで鍛冶屋の来たことも気がつかぬそぶりだつた。
「ちょいとお願ひの筋があつて来たのですがね、パツュークさん!」と、もう一度お辞儀をしながらワクーラが言つた。
 ふとつちよのパツュークは、ちよつと頭をあげただけで、また団子汁《ガルーシュキ》を啜りにかかつた。
「さう言つちやあ、何ですが、世間の噂では、その、あんたは……」と、勇を鼓して鍛冶屋はつづけた。「こんなことを言ふのは、決してあんたに無礼を加へようためではありませんが――あんたは、ちつとばかり悪魔に御縁がおありださうで……。」
 かう言つておいて、ワクーラは、それでもまだ、自分の言ひ方が不躾けで、こんなひどい言葉をあけすけに言ひきつてしまつたからには、パツュークが鉢ぐるみ桶をさしあげて、彼の頭をめがけて投げつけはせぬかと、少し後ろへさがつて、団子汁《ガルーシュキ》の熱い汁を顔に浴びせられないやうに、袖で顔をおほつた。
 だが、パツュークはジロリとこちらを眺めただけで、再び団子汁《ガルーシュキ》を啜りはじめた。
 すこし勇気を取りなほした鍛冶屋は、思ひきつて言葉をつづけた。「私はあんたを頼つて来たのです、パツュークさん。どうか神様があんたに万《よろ》づの物を、あらゆる不足のない福徳を、割前だけの麺麭を、お授けになりますやうに! (この鍛冶屋は時たま流行語《はやりことば》をちよいと※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《はさ》むことがあつた。それはポルタワの百人長《ソートニック》のところへ、板塀を塗りに行つた時以来、覚えこんだ癖であつた。)この罪深い私は今、滅亡しかかつてゐるのです! この世ではもう私の救はれる道がないのです! もう、どうなつても構ひません。私は悪魔の助けを借りに来たのです。ねえ、パツュークさん!」と、鍛冶屋は、やはり黙りこくつてゐる相手を見やりながら、言つた。「私はいつたいどうしたら好いのでせうか?」
「悪魔に用があるのなら、悪魔のところへ行くがよい!」と、パツュークは相手の顔も見ずに団子汁《ガルーシュキ》を貪りつづけながら、答へた。
「それだからこそお邪魔に上つたのです。」とお辞儀をして、鍛冶屋は言葉を返した。「あんたを措いて、悪魔のところへ行く道を知つてゐる者は、この世にはないと思ひますんで。」
 パツュークはやはり無言のまま、残りの団子汁《ガルーシュキ》を食ひつづけてゐた。
「どうぞ後生ですから、枉げてもこの願ひを聴き入れて下さい!」と、鍛冶屋は縋るやうに言つた。「豚肉でも、腸詰でも、蕎麦粉でも、それとも、布地にしろ、稷にしろ、そのほかどんな物でも、おいりやうの節には……それあもう大概どなたの処でもよくあり勝のことなんで……さういふ折には、決して物吝みはいたしません。いつたいどうしたら、悪魔と近づきになれるか、ひと通り話して頂けませんでせうか。」
「悪魔を肩にかついでゐながら、わざわざ遠路《とほみち》を行くにも当るまいて。」さう、依然として身の構へを変へようともしないで、パツュークが答へた。
 ワクーラは、その言葉の意味がそこに書いてでもあるやうに、まじまじと相手の顔を見つめた。
『この人の言ふのは、いつたいどういふことなんだらう? 』彼の顔には、さういふ無言の疑惑が現はれて、その口は、第一番に発せられる相手の言葉を、団子かなんぞのやうに、呑みこまうとでもするやうに、ぽかんと半びらきになつてゐた。
 しかしパツュークは黙りこくつてゐた。
 その時ワクーラは、パツュークの前にはもう、団子汁《ガルーシュキ》も桶も無くなつて、そのかはりに、床に二つの木鉢が並んでゐるのに気がついた。その一つには肉入団子《ワレーニキ》が盛られて、もう一つの方には凝乳《スメターナ》が湛へてあつた。彼の眼と心とは期せずしてその食物の上に集中された。
『見てゐてやらう 』と、彼は肚の中でつぶやいた。 『いつたい、どうしてパツュークは肉入団子《ワレーニキ》を食ふだらう? 今度はまさか団子汁《ガルーシュキ》[#ルビの「ガルーシュキ」は底本では「ガルシューキ」]のやうに、俯向いて啜るのではあるまい。それは出来ない相談で、肉入団子《ワレーニキ》には先づ凝乳《スメターナ》をまぶさなきやならんからなあ。
 彼がこんなことを考へてゐる間に、パツュークは口をあいて肉入団子《ワレーニキ》をちよつと睨むと、一層大きく口を開けた。すると、肉入団子《ワレーニキ》の一つが鉢から跳ね上つて凝乳《スメターナ》の中へ飛び込んだが、そこで一度でんぐり返りをしてから、ぴよんと上へ飛びあがるなり、まつすぐにパツュークの口の中へ飛びこんだ。それをむしやむしや食つてしまふと、彼はまた口を開けた。すると肉入団子《ワレーニキ》は前と同じ順序で、彼の口へ飛びこんで来た。だから彼自身は、ただもぐもぐと嚼《か》んで嚥《の》みこむだけの手間しか要らなかつた。
『なんちふ不思議なこつたらう! 』さう思ひながら、鍛冶屋は呆気に取られて、ぼんやり口を開けた。と同時に、彼の口へも肉入団子《ワレーニキ》が一つ飛んで来て、ハッと思ふ間に口端ぢゆうを凝乳《スメターナ》だらけにした。鍛冶屋は肉入団子《ワレーニキ》を払ひ落して口を押し拭ひながら、世にも不思議なことがあるものだ、悪霊といふものは何処まで人間を悧巧にするのだらうと深く感歎して、それにつけても今自分に助力を与へ得る者は、パツュークを措いて他にはないと確く信じた。
『もう一度頭を下げて、詳しく教へて呉れるやうに頼んでみようか……。それにしても、なんといふ罰あたりだらう! 今夜は精進の蜜飯《クチャ》だといふのに、このひとは肉入団子《ワレーニキ》を、こんな腥《なまぐさ》い肉入団子《ワレーニキ》を食つてゐる! ほんとにおれとしたことが、なんといふ馬鹿だらう、こんな処にゐるだけでも、罪障を重ねるといふものだ! さうだ、もう帰らう!…… 』そこで、信心深い鍛冶屋は、一目散にその家から逃げ出した。
 しかし、袋の中で、前もつて有頂天になつてゐた悪魔には、こんな素晴らしい獲物が見す見す自分の手からすりぬけてゆくのを、手を拱いて眺めてゐることが出来なかつた。鍛冶屋が袋に掛けてゐた手をちよつと緩めた隙に、悪魔はすばやく外へ飛び出して、鍛冶屋の頸つ玉へぴよいと馬乗りに跨がつた。
 鍛冶屋はぞつと寒けを覚えた。吃驚仰天して、真蒼になつた彼は、なすべき術《すべ》も知らなかつた。そこで彼はすんでのことに十字を切らうとした……。すると悪魔が俯向いて、犬と同じやうな鼻面をワクーラの右の耳もとへ寄せて、
『私ですよ、あなたの親友《ともだち》ですよ。私は友達のためならばなんでもいたします! お金が御入用ならお望みだけ差しあげます。 』さう言つてから今度は左の耳もとでヒクヒクと鳴いた。それからまた、右の耳へ口を寄せて、 オクサーナは今夜にもあなたのものになりますよ。 』と、囁やいた。そこで鍛冶屋は立ちどまつて考へ込んだ。
「よし。」と、やがて彼が言つた。「さういふ約束なら貴様のものになつて呉れよう!」
 悪魔は手を拍つて、喜びのあまり鍛冶屋の頸の上でこをどりした。
『今こそ鍛冶屋め、おれの手の中へ落ちやがつたぞ! と、彼は心に思つた。 『今こそ、兄弟、手前がおいらに負はせをつたあの絵そらごとに対して復讐《しかへし》をしてやるのだ! ほんとに、この村ぢゆうで一番の信心者が、たうとうおいらの手に落ちたと知つたら、仲間の奴らが何といふだらうな?』
 茲で悪魔は、尻尾のある同族どもに地獄で鼻をあかせてやつたり、彼等の仲間うちでも一番の策士として立てられてゐる跛《びつこ》の悪魔がぢだんだ踏むさまを想像しながら、ぞくぞくして北叟笑んだものだ。
「さて、ワクーラさん!」と、逃げ出されやしないかと懸念して、まだ頸から降りようともしないで、悪魔はヒクヒク声で囁やいた。「御承知の通り、何事にも契約書といふものが要りますねえ。」
「覚悟の前だ!」と、鍛冶屋が答へた。「手前たちの仲間では、血判をするつていふぢやないか。待て待て、いま衣嚢《かくし》から釘を出すからな。」
 さういつて彼は、こつそり片手をうしろへ迴すなり――むんずと悪魔の尻尾を掴んだ。
「これ、なんといふ悪戯《わるさ》をしなさるだ!」と、笑ひながら悪魔が叫んだ。「さあ、もう沢山です、ふざけるのはいい加減になさいよ!」
「待て待て、兄弟!」と、鍛冶屋が叫んだ。「そうら、これが手前には何に見える?」さう言ひながら彼は十字を切つた。すると悪魔は、まるで仔羊のやうにおとなしくなつた。「待つてろよ。」と、その尻尾を持つて地面へ引きずりおろしながら、「さあ、このおれが、堅気な人間や正直な基督教徒を罪にひき入れをつた貴様に仕返しをしてやるぞ。」
 さういふと、鍛冶屋は不意に悪魔の上へ飛びのつて、十字を切るために手をさしあげた。
「どうか勘弁して下さい、ワクーラさん!」と、哀れつぽい声で呻くやうに悪魔が言つた。「どんなことでも、あなたの御用を勤めます。ただ懺悔をするために魂だけは放して下さい。その怖ろしい十字を私に向つて切らないで下さい!」
「へん、なんといふ声で、この忌々しい独逸人めは吠えやあがるんだ! 今こそおれは、どうしたらいいかが分つたぞ。さあ、これから直ぐにおれを背中へ乗せてつれて行け! 分つたか? 鳥のやうに飛んで行くんだ!」
「何処へ参りますので?」と、しよげ返つた悪魔がたづねた。
「彼得堡《ペテルブルグ》へだ、まつすぐに女帝陛下のところへ!」さういつた瞬間に、鍛冶屋は自分のからだが空中へ舞ひ上つて行くのを感じたが、怖ろしさのあまり、ぼうつと気を失つてしまつた。

        *        *        *

 暫らくの間オクサーナは、鍛冶屋の言ひおいて行つた変な言葉にとつおいつ心を悩まして、たたずんでゐた。彼女は心の中で、何とはなしに、余りに自分が彼につれない仕打ちをしてゐたやうに思つた。 『もしや彼《あのひと》はほんとに何か怖ろしい覚悟をしたんぢやないかしら! 分りやしないわ! どんなことで、自棄《やけ》から他の女《ひと》を想ふやうになつて、面《つら》あてにでもその女《ひと》を村一番の美人だなんて言ひ出さないにも限らないわ! でも、そんなことはないわ、彼《あのひと》はあたしを愛してるんだから。あたしはこんなに美しいんだもの! 彼《あのひと》がどんなものにだつて、このあたしを見返るなんてことはないわ。彼《あのひと》は冗談にあんな真似をしてゐるだけなのよ。十分も経たないうちに、屹度あたしの顔を見に戻つて来るわ。あたしはどこまでも強情者よ。彼《あのひと》にいやいや接吻させるやうに見せかけなくつちやいけないわ。さうするとよけい彼《あのひと》は有頂天になるだらうから! 』そしてこの気まぐれな美女は、もう自分の友達とふざけ散らしてゐた。
「みんなちよつとお待ちよ。」と、娘たちの一人が言つた。「鍛冶屋のワクーラさんが袋を忘れて行つたわよ。御覧よ、まあ恐ろしく大きな袋だこと! あのひとの流しはあたし達みたいぢやないわね。この中には屹度、両方とも仔羊の四つ割が一つづつは入つてると思ふわ。腸詰や麺麭だつたら勘定も出来ないくらゐよ。豪勢ね! 祭りの間ぢゆう鱈腹食べられるわ。」
「これ、鍛冶屋の袋?」と、オクサーナが口をはさんだ。「あたしの家へでも曳きずつて行つて何が詰め込んであるのか、しらべて見ようぢやないの。」
 一同はキャツキャツと笑ひながら、その提案に賛成した。
「だつて、あたし達にはとても持ち上げられやしなくつてよ!」一同は袋を動かさうとして一生懸命になりながら、急にさう叫び出した。
「ちよつとお待ちなさいよ。」と、オクサーナが言つた。「ひとっ走《ぱし》り家へ行つて、橇を取つて来て、橇に積んで運びませうよ。」
 そこで一同は橇を取りに駈け出して行つた。
 捕虜たちには袋の中にちぢこまつてゐるのがひどく退屈になつた。尤も補祭は密かに指でかなり大きな穴を開けたので、もう少し人気《ひとけ》さへなかつたなら、或は機会《をり》を見て這ひ出してゐたかも知れないが、人前で袋の中から這ひ出したりしては、いい笑ひものになるから……と考へて彼は思ひとまつた。で彼は、チューブの不躾けな長靴の下で、じつと息を殺しながら、時の来るのを待つことに覚悟をきめた。チューブはまたチューブで、自分の足の下に、何か恐ろしく腰かけてゐるのにぎこちないもののあることに気がついて、これまた少なからず、自由の身になることを望んでゐた。ところが今、自分の娘の下《くだ》した決議を耳にすると、すつかり安心してしまつて、どうせ自分の家までは少くとも百歩なり、二百歩なり歩かねばならないのだからと考へて、袋から這ひ出すことを思ひとまつた。いま這ひ出したりすれば、みなりは直さねばならず、裘衣《コジューフ》の釦を掛けたり、帯を締め直したり――いやはや、どれだけ面倒な仕事があることだらう! それに帽子はソローハの家へ置いて来てしまつたし。ままよ、娘つ子が橇で運んでくれるのに委せることだ――さう彼は考へたのである。
 ところが、事態はチューブの全く予期せぬ結果になつた。ちやうど娘たちが橇を取りに駈け去つたのと同じ時刻に、痩《やせ》つぽの教父《クーム》が、いやに取り乱した、不機嫌な顔をして酒場から出て来た。酒場の女主人が頑として彼に貸売を承知しなかつたためだ。彼はひよつと誰か信心深い貴族でも来あはせて一杯振舞つて呉れるまで、じつと酒場で待つてゐようかとも思つたが、折悪しく、申しあはせたやうに貴族といふ貴族がみんな我が家に居残つて、堅気な基督教徒らしく、てんでの家族といつしよに蜜飯《クチャ》を食つてゐた訳だ。教父《クーム》は酒商売をしてゐる猶太女の汚ない根性と木石のやうな情《つれ》なさを忌々しく思ひながら、とぼとぼと歩いてゐたが、はたと袋につまづいて、びつくりして立ちどまつた。
『はて、誰だかえれえ袋を道のまんなかに放つて行きをつたぞ! と、四方から仔細に眺め廻しながら彼は呟やいた。 『屹度この中にやあ豚肉が入つとるぞ。どいつだか運のええ奴が、流しでしこたま詰め込みやあがつたな! どうも、おつそろしい袋ぢやて! まあ、この中に蕎麦麺麭《グレチャーニック》と揚煎餅《コールジュ》ばかり詰まつてゐるにしても豪勢だが、これがみんな扁平麺麭《パリャニーツァ》だつたら、占めたものだ。あの猶太女め、扁平麺麭《パリャニーツァ》一つで火酒《ウォツカ》を一杯づつはよこすからな。誰にも見つからないうちに、早く持つて行かう。
 そこで彼は、チューブと補祭の入つてゐる袋を肩へしよつて見たが、それがどうも実に重い。
『いや、これあ一人ではとても運びきれん。 』と、彼は弱音を吐いた。 『やあ、ちやうど好いところへ織匠《はたや》のシャプワレンコがやつて来をつたぞ。 「よう、オスタープ、今晩は!」
「今晩は。」と、織匠《はたや》は立ちどまつて返辞をした。
「どこへ行くだね?」
「いや別に。ぶらぶらしてゐるだけで。」
「お前さん手を貸してお呉れな、この袋を運ぶんだよ! どいつだか流しでしこたま貰ひ集めておいて、こんな道の真中へ棄てて行きをつたのぢや。儲けは山分けにするよ。」
「袋だつて? 何が入えつてるだね、白麺麭《クニーシュ》か、それとも扁平麺麭《パリャニーツァ》でも入えつてるだかね?」
「うん、いろいろ入つとるらしいだよ。」
 そこで二人は、手早く籬《まがき》から杭を二本ひき抜いて、それへ袋を一つ載せると、肩に担いで歩き出した。
「いつたい何処へ持つて行くだね、酒場へ行かうか?」と、途中で織匠《はたや》が訊ねた。
「それあ、おらもさう思はんでもねえだが、あの忌々しい猶太女め、てんでおれを信用しをらんのぢや。それでまた何処ぞで盗んで来たんだらうなどと、疑ひをかけるかも知れんと思ふのさ。それにおれはたつた今、その酒場から出て来たばかりだでな。これはおらの家へ持つて行くことにしよう。誰も邪魔者はゐねえだから。なあに、女房《かかあ》も家にやゐねえんでね。」
「おかみさんが留守だつて、それあ確かなことかね?」と、用心深い織匠《はたや》は念を押した。
「お蔭で、まだそれほど耄《ぼ》けちあゐねえよ。」と、教父《クーム》が言つた。「あいつのゐるとこへ、のめのめと帰えつて堪るもんけえ。おほかた夜明けまで婆あ仲間とほつつき廻つてやがるだらうよ。」
「誰だい?」と、表口へ二人の仲間同士が袋を担ぎこんだ物音を聞いて、教父の女房が家の中から戸を開けて呶鳴つた。
 教父《クーム》は立ちすくんでしまつた。
「そうら見なせえ!」と、がつかりして織匠《はたや》が呟やいた。
 教父《クーム》の女房は世間によくある型のかみさんだつた。亭主とおなじやうに、彼女も殆んど家にはゐないで、まるで日がないちんち中、おしやべり仲間や金持の老婆の家へ入りびたつて、おべんちやらを並べながら、ガツガツと物を食つてゐたが、朝の間だけは亭主とよく啀《いが》みあひをやつた、といふのは、朝だけは教父《クーム》と顔をあはせることが間々あつたからで。彼等の家は郡書記のはいてゐる寛袴《シャロワールイ》の二倍も古びてゐた。屋根にはところどころ藁も無い処があつた。籬はといへば、きまつて誰も彼もが外へ出るとき、犬除《いぬよ》けの杖を持つて出ずに、教父《クーム》の家の菜園を通りすがりに手頃の杭を引つこ抜くものだから、ほんの残骸を留めてゐるに過ぎなかつた。煖炉《ペチカ》も三日ぐらゐは焚かれないことがあつた。この優しい奥方は、気前の好い人々を拝み倒して手に入れた品は何によらず亭主の眼の届かぬところへ蔵《しま》ひこみ、時たま亭主が酒場で呑みあまして来た小銭まで巻き上げてしまつた。教父《クーム》はいつもの無頓着さにも似げなく、女房には負けてゐなかつたので、何かといへば必らず、眼の下に血紫斑《ちあざ》をつけて家から逃げ出した。それでゐて、この有難いかみさんは、溜息をつきながらほつつき廻つて、自分の亭主のだらしなさや、自分がどんなに酷い仕打を我慢してゐるかといふことを、婆さん仲間に吹聴して歩いたものだ。
 これだけ話せば、この思ひがけない女房《かみさん》に飛び出されて、織匠《はたや》と教父《クーム》がどんなにおつ魂消たかは、蓋し思ひ半ばに過ぐるものがあらう。彼等は袋を下へおろすと、それを後ろへ庇ふやうにして、裾で隠さうとしたが、既に手遅れだつた。もう老の眼が、いい加減うとくなつてゐたにも拘らず、教父の女房は疾くもその袋を見つけてしまつた。
「これあ好かつたよ!」と、禿鷹が有卦に入つたやうな顔つきで彼女が言つた。「おやおや、そんなに、よく流して来なすつただねえ! 堅気な衆といふものは、いつでもかうなくつちやならないのさ。だが、ひよつと何処かでかつぱらつて来たんぢやあるまいね。さあ妾にお見せ、早くその袋を妾にお見せといつたら!」
「額の禿げあがつた悪魔なら知らぬこと、おいらは見せねえよ。」と、虚勢を張りながら教父《クーム》が言つた。
「お前さんに何の用があるだね?」と、織匠《はたや》も口を
んだ。「これあお前さんのぢやなくつて、あつしたちが流して来たんだぜ。」
「いんにゃ、妾にお見せつたら、この碌でなしの呑み助野郎め!」さう呶鳴るといつしよに、女房は、のつぽの教父《クーム》の顎へ拳骨を一つ喰はせておいて、いきなり袋へ飛びかかつた。
 しかし織匠《はたや》と教父《クーム》は勇敢にも袋をかばつて、彼女を遮二無二後ろへ突き戻した。だが、二人がほつとする暇もなく、女房は土間へ降りて、火掻棒を手にしてゐた。そして逸早く亭主の両手と、織匠《はたや》の背中とへ火掻棒で一撃を与へておいて、袋の傍へ駈け寄つた。
「何だつて、かみさんに勝手な真似をさせるだね?」と、我れに返つた織匠《はたや》が苦情を言つた。
「へつ、勝手にさせるもねえもんだ! ぢやあ、なんだつておめえ、彼女《あいつ》を近づけてしまつたのだい?」教父《クーム》は冷やかにさう答へた。
「あんたとこの火掻棒は鉄ぢやと見えるね!」暫らく黙つてゐた後、背中をさすりながら織匠《はたや》が言つた。「うちの女房《かかあ》が去年の市《いち》で二十五|哥《カペイカ》出して買つた火掻棒は、こんなに……痛かあねえだが……。」
 一方、勝ち誇つた女房は、床に油燈《カガニェーツ》をおいて、袋の紐を解くと、早速なかを覗いた。
 ところが、さつき、あんなに目ざとく袋を見つけた、さすがの彼女の老の眼も、今度ばかりは確かに鈍つてゐたらしい。
「へつ、この中にやあ、野豚がまるまる一匹入つてゐるよ!」さう喚《わめ》きざま、彼女は嬉しさのあまり手を拍つた。
「野豚だと! おい、まるまる一匹の野豚だとよ!」さう言つて、織匠《はたや》は教父《クーム》をゆすぶつた。「だが、何もかもお前さんのせゐだよ!」
「どうしやうがあるもんけい!」さう言つて教父《クーム》は肩をすぼめた。
「しやうがないつて? 何をおいらは、ぼんやり突つ立つてるだ? 袋を取りかへさにやあ! さあやらう!」
「さあ、退《ど》いてお呉れ! とつとと退《ど》いてお呉れ! これあ、あつしらの豚だよ!」と、織匠《はたや》は前へ飛び出しながら叫んだ。
「どきやあがれ、くそ婆あめ! これあ手前のもんぢやねえぞ!」と、教父《クーム》も詰めよりながら呶鳴つた。
 女房は再び火掻棒に手を掛けたが、ちやうどその時、袋のなかからチューブが這ひずり出して、たつた今、長い眠りから眼が覚めたといはんばかりに、伸びをしながら、玄関のまん中にぬつと突つ立つた。
 教父《クーム》の妻は膝を叩いて、あつと叫んだ。一同も思はず口をあんぐり開けた。
「どうでい、この馬鹿女めが、野豚だなんて吐かしやあがつて! こんな野豚があるけえ!」教父《クーム》は眼を剥きながら、さう言つた。
「ちえつ、飛んでもねえ人間を袋へ押し込めたものだ!」と、魂消て後ずさりをしながら、織匠《はたや》が言つた。「なんとでも好きなことを言ひなされだが、これあ、てつきり悪魔の仕業に違えねえぜ。第一これあ、窓から這ひ出すこと一つ出来ねえ人だもの!」
「これあ教父《おとつ》つあんでねえだか!」と、じろじろと相手を見詰めながら教父が喚いた。
「してお前、このおれを誰だと思つたのだい?」とチューブがにやにやしながら言つた。「どうだいお前方、うまくおらにかつがれたでねえか。だが、あぶなくお前たちに豚と間違へて食はれてしまふところだつたよ。待ちな、お前たちを喜ばせることがあるだよ。この袋ん中にやあ、まだ何か入えつてるだよ。野豚でなきやあ、屹度、仔豚か何か、ほかの家畜《もの》に違えねえ。おらの尻の下でしよつちゆう、何かもぞもぞしてゐよつただから。」
 それつとばかりに、織匠《はたや》と教父《クーム》が袋へ飛びついて行くと、この家の女主人《かみさん》も反対がはから掴みかかつたので、もはや逃れ難きを覚つた補祭が、その時、袋の中から這ひ出さなかつたものなら、再び猛烈な争奪戦が盛り返されるところだつた。
 おつ魂消た教父《クーム》の妻は、あはや袋の中から引つぱり出さうとして掴んでゐた補祭の足を手ばなした。
「おや、まだひとり入えつてゐたんだな!」と、織匠《はたや》が仰天して叫んだ。「いつたい何が何だかさつぱり分らねえ……。頭がグラグラして来らあ……腸詰でもなけれあ、扁平麺麭《パリャニーツァ》でもねえ、生きた人間を袋へ詰め込むなんて!」
「おや和尚《おつ》さんでねえか!」と、誰よりも甚く度胆を抜かれて、チューブが口走つた。
ええ忌々しいつたら! あのソローハの性悪婆あめ! 人を袋ん中へ押し込めやあがつて……ほんにさう言へば、彼女《あいつ》のところにやあ、袋がざらにあつたつけ……。うん、今こそ何もかも読めたぞ、あの袋には、どれにも、二人づつの人間が入えつてゐたんだな。おれは又、彼女《あいつ》がおれだけに何をしてをるとばかり思つてゐたのに……。ほんにほんに忌々しいつたらねえ、あのソローハめ!

        *        *        *

 娘たちは袋が一つ無くなつてゐるのを見て、ちよつと怪訝に思つた。
「仕方がないわ、あたし達にやあこれだけで沢山ぢやないの。」さう、オクサーナが口早に言つた。
 一同は総がかりで袋を持ちあげて、橇に載せた。
 村長は心の中で、もし自分が袋の口を解いて自由にして呉れなどと呶鳴らうものなら、馬鹿な娘たちのことだから、きつと袋の中には鬼でも入つてゐると思つて、逃げ出してしまふだらう、さうなつたが最後この往来のまんなかに、てつきり朝までは放つて置かれなきやなるまい、さう思つたので、一切口をきかぬことに肚を決めた。
 その間に娘どもは仲よく手をつなぎあつて、軋みを立てる雪の上を、まるで旋風のやうに橇を引いて疾走して行つた。娘たちの多くは、ふざけて橇に乗つかつたりしたが、中には村長の上へのしかかつたりする者もあつた。けれど村長は何事もじつと我慢するより他はないと諦らめた。
 やがて家へつくと、入口の扉をいつぱいに開けはなして、笑ひさざめきながら袋を中へ引きずり込んだ。
「さあ、この中に何が入つてるか見てやりませうよ。」さう叫んで、一同はいきなり袋の口を解きにかかつた。
 この時、袋の中にすくんでゐる間ぢゆう、村長が我慢に我慢をしてゐたくしやみの発作がいよいよ激しくなつて、たうとう彼は、思ひきり大きくくしやみをして咳き込んでしまつた。
「あら、この中には誰か人が入つてるのよ!」さう叫びざま、娘たちは驚いて、戸の外へ逃げ出してしまつた。
「どうしたつてんだね、お前さん方は、狂人《きちがひ》のやうに駈け出したりして?」と、その時、入口へ入つて来たチューブが声をかけた。
「まあ、お父《とつ》つあん!」と、オクサーナが言つた。「あの袋の中に誰かしら入つてゐるのよ!」
「袋の中に? いつたい何処からこんな袋を持つて来たんだ?」
「鍛冶屋が道の真中に棄てて行つたのよ。」と、みんなが異口同音に答へた。
『ふうむ、さうか。言はねえこつちやないて…… 』と、チューブは肚の中で頷いて、「何をビクビクしてるだ。ひとつ中を調べてみようでねえか――さあさあ袋ん中の御仁へ――どうか名前と父称でお呼び申さないことを悪く思はんで下さいよ――さあ、袋から出ておくんなさい!」
 村長が外へ這ひだした。
「わあつ!」と娘たちは金切声をあげた。
『村長までがこんな中へ入つてやあがつたのだな と、いささか呆れ顔で、相手を頭の天辺から足の爪先まで、じろじろと眺めながら、チューブは口の中で呟やいた。「これあどうも!……うへつ!……」それ以上、彼は何も言ふことが出来なかつた。
 村長の方も負けず劣らず狼狽してゐたので、どう切り出したらいいか、さつぱり見当がつかなかつた。
「きつと、戸外《そと》は寒いことだらうね?」彼はチューブの方をむいて、そんなことを言つた。
「かなりの凍《い》てで。」と、チューブが答へた。「それはさうと、靴には何を塗りなさるだね、鵞脂《スマーレツ》か、それとも煙脂《タール》かね?」彼はそんなことを言ふつもりではなく、
『どうして村長はこんな袋の中へ入つてゐなすつたので? と訊きたかつたのに、まるで見当ちがひなことを言ひ出してしまつたのが、我ながら合点がゆかなかつた。
「煙脂《タール》の方が良いやうだね。」と、村長は答へた。「ぢや、御免よ、チューブどん!」さう言つて、ぐつと帽子を目深くかぶると、彼は戸外《そと》へ出て行つた。
「おれとしたことが、なんだつて馬鹿な、靴には何を塗りなさるなんて村長に訊ねたもんだらう!」と、チューブは村長の出て行つた戸口をじつと睨みながら呟やいた。「ええい、くそつ、ソローハの阿女《あま》め! なんちふ奴を袋ん中へなんぞ隠《かく》まひをつたのぢや!……ちえつ、くそ婆あめ! ぢやが、おれはまた馬鹿な……。それはさうと、あの忌々しい袋は何処へやつたのぢや?」
「隅つこへ投り込んでおいたわよ、もうあん中にはなんにも無かつたわ。」さうオクサーナが答へた。
「その何にもないちふぺてんをおれはよう知つとるぞ! ここへ持つて来な、あん中にはまだもう一人は入つとる筈ぢや! ようく振るつて見な……。なんだと、何もねえつて? 忌々しいくそ婆あつたらないて! その癖、あいつは、まるで猫とと食はぬ、お聖人様みてえな面をしてやがるんだ……。」
 しかし、チューブが暇にまかせて憤懣を吐き散らしてゐる間に、われわれは鍛冶屋の方へ眼を移して見ることにしよう。時刻はもう、かれこれ九時ちかくにもなつたらうから。

        *        *        *

 初めのうち、ワクーラは怖いやうに思つた。殊に地上の物が何ひとつ見えないほど高く昇つて、まるで蠅のやうに、月の下をすれすれに飛び過ぎる時などは、ちよいと身を屈めなかつたら、危く月に帽子をひつかけてしまふところだつたので、彼ははらはらした。だが、暫らくすると彼もすつかり元気になつて、そろそろ悪魔をからかひはじめた。(彼が自分の頸にかけてゐた絲杉の十字架をはづして悪魔の方へ差し出すと、悪魔はくしやみをしたり咳をしたりする――それが面白くて堪らなかつた。彼がわざと頭を掻く振りをして手をあげても、悪魔は自分に向つて十字を切られるのではないかと思つて、一層はやく翔つた。)空はすつかり明るかつた。フハフハした銀いろの靄のたちこめた大気は透明で、何もかも手に取るやうに見ることが出来た。壺の中に坐つたまま、疾風のやうに傍を飛びすぎる魔法使の姿や、一と塊りになつて鬼ごつこをしてゐる星の群れや、また一方にうじやうじやと雲のやうに渦巻いてゐる精霊の一団や、月光の前で踊りながら、自分の同族の肩車に乗つて駈けすぎる鍛冶屋に向つて帽子をとる別の悪魔や、妖女《ウェーヂマ》がまさしく何処か用事のある処へ乗つて行つたらしい箒がひとり翔んで後へ引つ返しつつあるのまで、はつきりと認めることが出来た。そのほか様々の有象無象に彼等は出喰はした。どれもこれも鍛冶屋を見ると、一瞬間、その場に立ちどまつて、まじまじと彼の顔を眺めるが、やがて通りすぎてしまふと、まためいめいの運動をつづけた。鍛冶屋はずんずんと翔んで行つた。と、不意に彼の眼の前に、いつぱい灯の点つた彼得堡《ペテルブルグ》が現はれた。(ちやうどその時、何かの機会で万光飾《イルミネーション》が施こされてゐたのだ。)関門を通りすぎると同時に、悪魔は馬の姿にかたちを変へたので、鍛冶屋は市《まち》の真中を駿馬に跨がつて駈けてゐる自分を見出した。
 いやどうも! その喧々囂々たる賑はひと、きらびやかさといつたら! 両側には四階建の大廈高楼がによきによきと聳え立ち、馬蹄の音や車輪の響きが霹靂のやうに轟ろきわたつて四方から反響《こだま》となつて跳ね返つて来る。建物は恰かも地中から生え出て一歩は一歩と高まつてゆくかと思はれ、橋はどよめき、馬車は飛び、辻馬車屋《イズウォスチック》や馭者は喚きたて、積雪は八方から飛んで来る無数の橇の下でシューシューと鳴り、行人は油燈で照明を施こした家々の下を押しあひへしあひして、その頭が煙突や屋根にまでとどくやうな厖大な陰影《かげ》が壁面にゆらゆらと映つてゐる。
 すつかり度胆をぬかれて、鍛冶屋はキョロキョロと八方を見まはした。彼にはあらゆる家々がその数限りない灯の眼《まなこ》でカッと自分を睨みつけてゐるやうに思はれた。羅紗表の毛皮外套《シューパ》を著こんだ貴顕紳士がざらに眼につくので、いつたいどの人に帽子を脱るべきか、頓と彼には分らなかつた。
『おお神様! この市《まち》には一体どれだけ旦那衆がゐることだらう! そんな風に鍛冶屋は考へた。 『おほかた毛皮外套《シューパ》を著て街を歩いてゐる人は、どれもこれも、みんな陪審官に違ひない! 又、ああいふ硝子窓のついた素晴らしい馬車を駆つて行く人々は市長でなければ、てつきり警察部長か、それとも、もつともつと身分の高い衆に違ひない。 』彼のかうした思索の絲は不意に、悪魔の質問に依つて断ち切られた。『女帝の御殿へまつすぐに参内するのでございますか?』 『いや、それはちよつとおつかない と、鍛冶屋は考へた。 『何処か知らないが、こちらに、この秋ディカーニカを通つたザポロージェ人の一行が逗留してゐる筈だ。あれは*セーチから女帝へ捧呈する上奏文をもつて来た連中だ。ともあれ、あの連中に相談して見よう。 』さう思つたので、「こりや下道! さあ、おれの衣嚢《かくし》へ入つてしまへ、そしてザポロージェ人のところへ案内するのだ!」
    
セーチ 哥薩克軍の本営で、主としてドニェープルの中流にある島
     
嶼、ザポロージェに置かれてゐた。
 すると悪魔のからだは見る見る痩せ細つて小さくなり、何の苦もなく彼の衣嚢《かくし》へ入つてしまつた。そしてワクーラは、前後を振りかへる暇もなく、いつの間にか或る大邸宅の前へ来てゐた。自分ながら何が何やら分らぬまま、彼は階段を登つて扉をあけたが、立派な飾りつけの部屋の中を覗くと、まぶしさに思はずちよつと後ずさりした。しかし現に今、絹張りの長椅子《デイヴァン》の上に、樹脂を塗つた長靴ばきで胡坐をかいて、俗にコレシュキといふ最も強烈な煙草をスパスパ喫つてゐるのが、ディカーニカを通つた件《くだ》んのザポロージェ人たちに違ひないのを見て、ほつと安心した。
「旦那がた……御機嫌よろしう! 何とまあ、不思議なところでお目にかかるではございませんか!」傍へ近よつて、地べたにつくほど丁寧なお辞儀をしながら、かう鍛冶屋が挨拶をした。
「これあ、いつたいどういふ仁ぢやな?」と、鍛冶屋のすぐ前に坐つてゐた一人が、その向ふに坐つてゐる同僚を顧みて訊ねた。
「おや、お見忘れですかい!」と、鍛冶屋が言つた。「私ですよ、鍛冶屋のワクーラですよ! この秋、ディカーニカをお通りになつた折に、(どうか御壮健で御長命のほどを祈ります)私どもでまるまる二日も御贔負を願ひました。それそれ、その節、幌馬車《キビートカ》の前輪の鉄箍《かなわ》をおつけ申しました鍛冶屋めで!」
「ああ!」と、同じザポロージェ人が言つた。「あの絵の上手な鍛冶屋ぢやつたのう。いや御機嫌よう、同胞《きやうだい》! それはさうと、どういふ風のふきまはしでこちらへやつて来たのぢや?」
「それあなんですよ、その、ひとつ見物がしたいと思ひましてね。さういふぢやございませんか、何でも……。」
「どうぢや、同胞《きやうだい》、」そのザポロージェ人は勿体振つて、自分が大露西亜語を操ることが出来るのを見せびらかすつもりで、かう言つた。「なんと、はんかな都ぢやらうが!」
 鍛冶屋は味噌をつけたり、赤毛布のやうに思はれるのが癪でもあつたし、それに、前にもちよつと述べたやうに、実際、彼は識者らしい言葉づかひを知つてゐたので、「名にしおふ首府《みやこ》ですからね!」と、澄まして応じた。「何とも言葉はありませんて、建物は宏荘ですし、立派な絵は到るところに懸つてをりますし。それにおつそろしく金箔をつかつた文字をベタ一面に書きつらねた家が無性にあるぢやありませんか。何とも言ひやうの無い、素晴らしい均斉美といふやつで!」
 こんな風に、流暢な鍛冶屋の弁舌を聴かされると、ザポロージェ人たちは鍛冶屋にとつて大変有利な解釈を下した。
「ぢやあ、又あとでゆつくり話さうのう、同胞《きやうだい》。わしたちは、これから女帝陛下に拝謁のため参内するところぢやから。」
「女帝陛下に拝謁ですつて? それぢやあ、後生ですから、私もいつしよに伴れて行つて下さいませんか!」
「なに、お前を?」と、ちやうど、ほんものの大きな馬に乗せよと言つて駄々をこねる、四つぐらゐの子供でも賺《すか》しなだめる小父さんといつた調子で、ザポロージェ人が答へた。「お前が宮中へなど参内してどうしようといふのぢや? いかん、駄目なことぢやよ。」かう言つた時、彼の顔にはさも勿体らしい表情が浮かんだ。「わしたちはな、同胞《きやうだい》、その、陛下に自分たちのことでいろいろ奏上せねばならんのぢやから。」
「お供をさせて下さいよ!」と、鍛冶屋は言ひ張つた。そして拳で衣嚢《かくし》を叩きながら、そつと悪魔に囁やいた。『承知させて呉れ!』
 彼がさう言ふか言はないに、もう一人の方のザポロージェ人が、「まあ、いいから伴れて行つてやらうではないか、同胞《きやうだい》!」と、とりなした。
「さうよ、伴れて行かうよ!」と、他の一同も声を揃へて言つた。
「ぢやあ、わしたちとおんなじ衣裳をつけるがよい。」
 鍛冶屋が大急ぎで草いろの長上衣《ジュパーン》を身につけた時、不意に扉があいて、金モールをつけた迎への役人が入つて来て、参内の時刻だと告げた。
 大きな箱馬車に乗つて、弾機《ばね》に揺られながら出かけると、またしても鍛冶屋の眼にはあらゆる珍らしい光景が映りだした。両側の四階だての家並がずんずん、後へ後へと駈け去り、鋪石道《しきいしみち》はがらがらと轟ろきながら、ひとりでに馬の足もとへ、前方から驀進して来るやうに思はれた。
『ひやあ、どうもはや、これは何といふ燈火《あかり》だらう!と、鍛冶屋は心ひそかに呟やいたものだ。村ぢやあ昼間だつて、かうは明るくないのに。
 馬車は宮殿の前で停つた。ザポロージェ人たちは車を降りて、壮麗な御車寄へ歩を進め、まぶしいほど光り輝やいてゐる階段を登つて行つた。
何といふ素敵もない階段だらう!と鍛冶屋は胸の中で呟やいた。足で踏むのは勿体ない。実にどうも、この装飾《かざり》はどうだ! よく話半分といふけれど、何が半分どころか! これはどうだい! 何といふ素晴らしい欄干だらう! この細工はどうだ! この鉄材だけでも、五十|留《ルーブリ》がものは要《い》つとるぞ!
 階段を登りきつたザポロージェ人たちは、第一の大広間を横切つた。鍛冶屋は嵌木床《パルケット》のうへで辷りはせぬかと一歩々々に心を配りながら、びくびくして一同の後に従つた。さういふ大広間を三つも横切つたが、鍛冶屋は相も変らず仰天しつづけてゐた。四つ目の大広間へ入ると彼は、そこの壁に懸つてゐた額面へ、我を忘れて近寄つた。それは童児基督を抱いた聖母の像であつた。
何といふ絵だらう! 実に素晴らしい画像だ!と、彼は心の中で感歎した。今にもほんとに物を言ひさうだ! まるで生きてゐるやうだよ! それにこの神の御子はどうだい! 手を抑へて、にこにこしてるよ、いぢらしい! だが、この顔料《ゑのぐ》はどうだ! ほんとにおつ魂消るやうな顔料《ゑのぐ》だ! 茲にやあ泥絵具なんてこれつぽちもつかつちやあない、これはみんな上等の羣青や朱だ。それにこの空色はどうだい、まるで燃えるやうぢやないか! 大したもんだ! 屹度、飛び切り極上の胡粉で下塗りがしてあるんだらうな。だが、この彩色にもおつ魂消るけれど、この銅《あか》の把手と来ちやあ、さう言ひながら彼は扉に近づいて、錠前に触つて見るのだつた。これはまた、もう一つ吃驚するて、実にどうも、きれいな細工つたらないよ。これあなんだな、みんな独逸の鍛冶屋が、費用かまはずにやつてのけた仕事に違ひない……。
 金モールをつけた従僕が彼の腕を小突いて、他の同行者たちに遅れないやうにと注意しなかつたら、恐らく鍛冶屋はもつともつと鑑賞に耽つてゐたことだらう。ザポロージェ人の一行は更に二つの大広間を通り過ぎてから立ちどまつた。そこで待つてゐるやうにといふ指図だつたのである。その大広間には、金ピカの刺繍《ぬひ》を施こした軍服を著た将軍が幾人も集まつてゐた。ザポロージェ人たちは四方八方へペコペコとお辞儀をした。そして一と塊りになつて立つてゐた。
 一瞬間の後、でつぷりと肥満《ふと》つた、背丈の堂々たる人物が、哥薩克大総帥の制服に黄色い長靴といふ扮装《いでたち》で、大勢の随員をしたがへて現はれた。彼の頭髪はもぢやもぢやに乱れ、片方の眼が少しやぶにらみで、いつたいにその顔つきには、どことなく驕慢不遜の色が現はれ、すべての動作《ものごし》に命令的な癖が見られた。それまでかなり横柄に振舞つてゐた、金ピカ服の将軍連は、俄かに齷齪とし始め、いやにぴよこぴよこしながら、その人物の一言半句はもとより、些細な身振りにまで注意して、奔命これ務めるといつた様子が見られた。しかし大総帥は、そんなことにはまるで関心をもたぬもののやうに、ちよつと頤をしやくつておいて、ザポロージェ人の方へつかつかと進みよつた。
 ザポロージェ人たちは一斉に最敬礼をした。
「これで一同おそろひかな?」と、少し鼻にかかる声で徐ろに彼が訊ねた。
「はい、皆々そろつて居りまするので、閣下!」と、ザポロージェ人たちは、更に敬礼をしなほして答へた。
「わしが教へたとほりの言葉づかひを忘れないやうにな!」
「はい、閣下、忘れはいたしませぬ。」
「これは皇帝《ツァーリ》ですかい?」と、鍛冶屋はザポロージェ人の一人に、そつと訊ねた。
「皇帝《ツァーリ》つちふことがあるものか、お主《ぬし》! これあ、*ポチョームキン元帥だよ。」と、その男が答へた。

 ポチョームキン(グリゴーリイ・アレクサンドロ ヰエカテリーナ二世時代の顕官で、青年時代より軍籍に身を委ね、女帝の親任を受けて権勢並びなき高位を贏ち得た人。一七七四年、土耳古戦役の軍功により陸軍大将に任ぜられ、参謀次長に補せられたが、土耳古との講和後、伯爵の位を賜はり、新露西亜《ノヴォロシヤ》の総督になつた。一七八三年、クリミヤを露西亜に帰属せしめ、黒海沿岸の防備を強化し、ヘルソン、フェオドシヤ、ワ゛ストーポリ等の商港を開き、大いに南方治政に貢献した功により、翌年、陸軍元帥、参謀総長に任ぜられた。一七八七年、エカテリーナ女帝を慫慂して南部新領土への行幸を実現したが、その後、他の寵臣のため女帝の信任が己れを離れたことを知り、一旦締結された土耳古との講和を破棄し、再び戦端を開かんと企て、南露ニコラエフに向ふ途中、病歿した。


 次ぎの部屋に人声がして、長い裳裾を引いて繻子の衣裳を著けた貴婦人や、金絲で刺繍をしたカフターンを著て、髪を後ろでつかねた宮内官が大勢入つて来た時には、鍛冶屋は視線の向けどころにすつかりまごついてしまつた。彼の眼にはただキラキラと燦やく光りが映つただけで、それ以外のものは何ひとつ見えなかつた。
 ザポロージェ人たちは一斉に床の上に平伏して、異口同音に『御免なされませ、陛下! 御免なされませ!』と、叫び出した。
 鍛冶屋は何のことやらさつぱり分らぬままに、恐ろしく躍起になつて、やはり自分も床の上に這ひつくばつてしまつた。
「お待ち!」さういふ、威あつて猛からぬ、いとも爽やかな声が彼等の頭上で聞えた。一二の宮内官があわててザポロージェ人たちの肩を揺ぶつた。
「畏れ多うござりまする、陛下、起つことはなりませぬ! 金輪際、起つことはなりませぬ!」とザポロージェ人たちが叫んだ。
 ポチョームキンは唇を噛んだ。つひに自身でザポロージェ人の一人に近づいて、命令的に何か囁やいた。と、ザポロージェ人どもは起ちあがつた。
 ここで鍛冶屋は勇を鼓して顔をあげた。と、彼の眼前には、髪白粉をふりかけて、少し肥りじしの、背の低い婦人が、碧いろの眸に鷹揚で、にこやかな眼差を見せて佇んでゐた。その眼差には、何ものをも屈服せしめずには措かぬ威厳がそなはつてゐて、これこそ雲上の位にある女性にのみ特有のものであつた。
「伯爵が今日、妾がまだこれまで知らなかつた御身たちに会はせると約束されたのぢや。」と、碧い眼の貴婦人は物珍らしさうにザポロージェ人達を眺めながら言つた。「どうぢや、こちらでは御身たちを良くもてなしてをるかの?」彼女はさうつづけながら、更に間近く進みよつた。
「はつ、有難き仕合せにござりまする、陛下! 食糧は申し分のない品を支給されて居りまする、尤も当地の羊肉はわれわれザポロージェの品とは、まるで別物ではござりまするが――如何やうにもせよ、暮しの出来ぬことはござりませぬ……。」
 ポチョームキンはザポロージェ人どもが、自分の教へておいたのとはまるで違つたことを喋るのを見て、渋面をつくつた。
 一人のザポロージェ人は勿体ぶつて前へ進み出ると、かう言つた。「陛下、恐れ多いことにござりまするが、われら忠誠なる陛下の臣が、何を以つて陛下の逆鱗に触れ奉りましたのでござりませうか? われらが、あの穢れたる韃靼の輩らに味方したとでも仰せられるのでござりまするか? それともわれらが、何ぞや土耳古人に与《くみ》したとでも仰せられまするか? 行為にせよ、思想にせよ、陛下に叛逆し奉つたことでもあると仰せられまするか? 何のために御信任を失ひましたのでござりまするか? さきには処々方々に砦を築いてわれらザポロージェ軍に備へるやう詔勅を下し給はつたと漏れ承りまするし、その後にはまたわれらを猟兵《カラビネール》に左遷しようとの御意ありとも承りました。然も今また新らしき悲報を耳に致しまする。われらザポロージェ軍に何の罪科がござりまするか? 陛下の皇軍《みいくさ》に*ペレコープを無事通過せしめ、陛下の将卒のクリミヤ人討伐を援助いたしましたことでも、罪科なりと仰せられまするか?……」
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ペレコープ 南露タウリチェスカヤ県下の同名の郡の町で、クリミヤ半島の基部ペレコープ地峡に位する要所。
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 ポチョームキンは無言のまま、その指にはめてゐるダイヤモンドを小さい刷毛で無頓着に磨いてゐる。
「して、お身たちの望むのは何事なのぢや?」と、エカテリーナ女帝が下問された。
 ザポロージェ人たちは意味ありげに互ひに顔を見あはせた。
※[#始め二重括弧、1-2-54]ちやうどいい時だ! 女帝は何の望みがあるかと訊ねてをられるのだ!※[#終わり二重括弧、1-2-55]かう心の中で呟やいて、鍛冶屋はいきなり、床にひれ伏した。
「陛下、どうか御成敗をお下しなされませぬやうに、何卒御赦免の程をお願ひいたしまする! 誠に恐れ多い限りでござりまするが、陛下の御足《おみあし》に穿かせられました、その御靴はそもそも何によつて製せられたものでござりまするか? つらつら考へまするに、世界広しといへども、これだけの仕事の出来る靴屋は他には一人もござりますまい。ほんにまあ、このやうな靴をば宿の妻に穿かせることが出来ましたなら!」
 女帝はにつこりとほほゑまれた。廷臣たちも同じくほほ笑んだ。ポチョームキンは苦い顔をすると共に、にやりとした。ザポロージェ人たちは、鍛冶屋が気でも狂つたのではないかと思つて、彼の腕を小突きはじめた。
「お起ち!」と、やさしく女帝が言はれた。「それ程に汝《そち》がこのやうな靴を望むのならば、その望みを叶へてつかはすに造作はない。これよ、直ぐさまこの者に最も高価な、金絲の刺繍をした靴をば一足持つて来てつかはせ! ほんとに妾には、この純朴さが気に入りました! 喃、これ、」と女帝は、他の廷臣たちより少し離れて立つてゐた、*でつぷりして、すこし蒼白めた顔の人物に眼を注ぎながら、言葉をつづけられた。その人物は、身にまとつた真珠の釦のついた質素なカフターンから推して、明らかに廷臣ではなかつた。「御身の機智に富んだ筆には持つて来いの好題目ぢや!」
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でつぷりして、少し蒼白めた顔の人物 これはエカテリーナ朝に於て劇作者として活躍したフォンウィージン(1745―1792)のことで、彼は純然たる露西亜喜劇、『旅団長』及び『未丁年者』の両作に依つて文学史上不朽の名を残してゐる。彼の喜劇は人道的精神に立脚し、西欧心酔時代に於ける新旧両タイプの時人の欠点を指摘した諷刺劇で、ゴーゴリ以前に写実主義的精神を以つて書かれた露西亜喜劇として最初のものである。
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「陛下よ、陛下の御仁慈のほど、誠に恐懼の至りにござりまする。されど、少くともこの場合、*ラフォンテーヌの筆ならではと愚考いたしまする!」さう、真珠の釦をつけた人物が、会釈をしながら答へた。
     
ラフォンテーヌ(1621―1695) 十七世紀に於ける仏蘭西古典派最
     
大作家の一人で、寓話詩人として知られ、その寓話詩十二巻に依つ       て不朽の名をとどめてゐる

   「いえいえ、真実《まこと》のこと、妾は御身の『旅団長《ブリガディール》 には今なほ夢中なのぢや。それに御身の朗読はまことに見事ぢやから! それはさて」と、再びザポロージェ人の方を顧みて、女帝は言葉をつづけられた。「聞き及ぶところでは、汝《そち》たちセーチでは決して結婚をいたさぬとのことではないか。」

『旅団長《ブリガディール》 』 フォンウィージンの代表作(前項参照)。

「どう仕りまして、陛下! 人間が女房《かかあ》なしで生きられぬことは、陛下も御承知ではござりませぬか。」と、先刻ワクーラと語り合つたザポロージェ人が答へた。それを聞くと鍛冶屋は、このザポロージェ人が正則な言葉を知つて居りながら、何故、女帝に向つて、わざと、普通に百姓言葉といはれてをる、最も粗野な物の言ひ方をするのだらうと、怪しんだ。
『老獪《ずる》い連中だ! と心の中で彼は思つた。 『屹度、これには何か魂胆があるのだな。
「われわれは僧侶《ばうず》ではござりませぬので、」と、ザポロージェ人は言葉を継いだ。「罪障の深い人間でござりまする。やはり情慾の道にかけましては、堅気な基督教徒のすべてと同様、から意地汚ない方でござりまして。われわれの仲間うちにも女房をもつてをる者は少くござりませぬ。ただセーチでは同棲してをりませぬだけの話で。波蘭に女房を置いてをる者もありますれば、ウクライナに女房を囲つてをる者もあり、土耳古に女房を置くものもありまする。」
 ちやうどその時、鍛冶屋の手もとへ一足の靴が届けられた。
「これはこれは、何ともはや、実に見事な飾りで!」と、彼は有頂天になつて、その靴を推し戴きながら叫んだ。「陛下! このやうなお靴をばお召しになつて、御心もそぞろに氷のうへをお辷り遊ばしまする時の、その御足《おみあし》は、果してどんな御足《おみあし》でござりませうか? どう内輪に見ましても、純白の砂糖ででも出来てゐなくては叶ひますまいと存ぜられまするが。」
 事実、極めて整つた、素晴らしい脚の持主であらせられた女帝は、このザポロージェ人の服装をした、色はすこし浅黒いけれど美男子と認ぬべき、朴訥な鍛冶屋の口から、かうしたお世辞をきいて、思はずにつこりと微笑まれた。
 このやうな破格の優諚にすつかり有頂天になつてしまつた鍛冶屋は、女帝に対していろいろとつまらぬ、例へば、皇帝は蜂蜜や脂肪のやうなものばかり召し上つてゐるといふのはほんたうかなどといつた愚問を、くどくどと連発しようとするところだつたが、ザポロージェ人たちが彼の脇腹を小突くのに気がつくと、はつとして口を噤んだ。そこで女帝が老人連にむかつて、セーチではどんな暮しをしてゐるか、どんな風習が行はれてゐるのかと、御下問になりだしたのを機会《しほ》に、そつと後ろへ下《さが》つたワクーラは、衣嚢《かくし》へ口を寄せて小声で、
『少しも早くここから連れ出してくれ! と言つた、その途端に彼はもう、彼得堡《ペテルブルグ》の関門の外へ出てゐた。

        *        *        *

「身投げをしたんだよ! きつと、身投げをしたんだとも! もし、身投げをしたのでなかつたら、この場に妾の足が吸ひついてしまつて、離れなくなつてもええだよ!」と街路《とほり》のまんなかに一と塊りになつたディカーニカの女房連に混つてゐた、ふとつちよの織匠《はたや》のかみさんが喋り立てた。
「何だと、妾がなんぞや、嘘をついてゐるとでもいふのかい? 妾が誰ぞのとこの牛を盗んだとでも言ふのかい? だあれも妾の言ふことをほんとにしないなんて、妾が誰かを呪つたことでもあるといふのかい?」と、哥薩克の長上衣《スヰートカ》を著こんだ、鼻の先きの紫色をした女が手を振りながら叫んだ。「あのペレペルチハ婆さんが、ちやんと自分の眼で、あの鍛冶屋が首を縊つてをるところを見なかつたといふのなら、妾やもう、いつさい水が飲めなくつても構はないのさ!」
「なに、鍛冶屋が首を縊つたんだと? それあ、とんだことになつた!」と、チューブの家から出て来た村長が、足を停めて、お喋りの連中に擦り寄りながら、言つた。
「へん、火酒《ウォツカ》が呑めなくなつてもと言つた方がよからうよ、この酔つぱらひ婆さんがさ!」と織匠《はたや》の女房が応酬した。「あんたみたいな狂気《きちがひ》女ででもなけれあ、どうして首を縊つたりなんぞ出来るものか! あのひとは身投げをしたのさ! 氷の穴から身を投げたのさ! それあもう、あんたがたつた今、酒場のおかみさんとこにゐたつてことよりも確かに妾や知つとるだよ。」
「この無恥女《はぢしらず》めが! 何だつて人に逆らやあがるんだい!」と、猛々しく、紫いろの鼻をした婆さんが喰つてかかつた。「すつこんでやあがれ、この性悪女め! お前んとこへ毎晩、補祭が通つてゐるのを、この妾が知らないとでもいふのかい。」
 織匠《はたや》の女房は赫つとなつた。
「補祭がどうしたつて? 補祭が誰んとこへ通ふつてんだい? 何をお前さん、いい加減のことをいふんだい?」
「補祭だつて?」と、語尾を引つぱりながら、南京木綿の表を付けた兎皮の外套《トゥループ》を著こんだ梵妻《おだいこく》が、啀みあつてゐる女たちに詰め寄つた。「補祭などと吐かした奴に思ひ知らせてやるから! 補祭つて言つたのあ誰だい?」
「そら、この女んとこだよ、お前さんの御亭主がちよくちよく通つとるのはね!」と、紫鼻の婆さんが、織匠《はたや》の女房を指さしながら、言つた。
「ぢやあ、お前なんだね、古狸め、」と、織匠《はたや》の女房に詰め寄りながら、梵妻が喚いた。「お前だね、この妖女《ウェーヂマ》め、あのひとに霧を吹つかけて、穢《きた》ない毒を呑ませて、あのひとを銜へこみくさつたのは!」
「どきあがれ、この夜叉め!」と、織匠《はたや》の女房は後退りをした。
「なにをつ! この忌々しい妖女《ウェーヂマ》めが、お前なんざあ、我が子の顔も見ずにくたばりくさるがええだ! 碌でなしめ! ちつ!」さういふと、梵妻は織匠《はたや》の女房の顔のまんなかへ唾を吐きかけた。
 織匠《はたや》の女房も負けず劣らず仕返しをしようと思つて、ぺつと唾を吐いたが、それは目指す相手にはかからないで、この啀み合ひをもつとよく聴かうとして、顔をさし寄せてゐた村長の髭面にまんまと、ひつかかつたものだ。
「ええ穢《きた》ならしい、この婆あめが!」さう呶鳴つて村長は、着物の裾で顔を拭きながら、鞭を振りあげた。その劔幕に驚ろいた一同は、悪態をつきつき、ぱつと四方へ散つた。「ええ、穢ない!」と、顔を拭きながら村長が繰返した。
『それぢやあ、鍛冶屋は身投げをしてしまつたか! ほんとになあ! まつたく上手な絵描きぢやつたが! 丈夫な小刀だの、鎌だの犁《すき》だのを鍛《う》ちをつたになあ! それに、ええ力持ぢやつた! ほんとに、 と、思ひに沈みながら彼はつづけた。 『あんな人間はこの村にやあ稀らしいて。なるほどさう言へば、おれはあの忌々しい袋の中に入つてゐながら、可哀さうに奴さん甚くふさぎこんでるなと思つたつけが。ほんに可哀さうな鍛冶屋ぢや! つい先刻《さつき》までゐたものが、もう居なくなつてしまつたのか!、おれは、うちの牝馬の蹄鉄《かなぐつ》を打たせようと思つてゐただのに……。 かうした基督教徒らしい思ひに心をふさがれながら、村長はそろそろと自分の住居の方へ歩き出した。
 同じやうな風説がオクサーナの耳に達した時、彼女ははつと胸を突かれた。彼女は、ペレペルチハが眼のあたり見たといふことだの、女房連の取沙汰には、大して信用を置かなかつた。彼女は鍛冶屋が自分で自分の霊魂を滅ぼすやうな不信心者でないことをよく知つてゐた。しかし、まつたく、二度と村へ帰らぬつもりで、彼がどこかへ行つてしまつたのだとしたら、どうしよう? あの鍛冶屋みたいな素晴らしい若者は、どうしてどうして、他に見つかるものぢやない。彼こそ彼女を飽くまで愛してゐたのだ! 誰よりも辛抱づよく、彼女の気紛れを我慢して来たのだ……。この美女は夜つぴて上掛の下で輾転反側して、一睡もすることが出来なかつた。時には、夜の闇のために彼女自身にさへ見えぬ蠱惑的な裸形をば、うんとふんぞらせながら、殆んど口に出して自分で自分を罵つた。さうかと思ふと、強いて平静を装ほつて、断然なにも考へまいと決心した。が、やはり思ひは同じところへおちてゆくのであつた。かうして、彼女の全心全霊は火のやうに炎えあがり、夜の明ける頃には、夢中になつて鍛冶屋を恋ひ焦れてゐた。
 ワクーラの運命に関して、チューブは何ら悲喜の色を表はさなかつた。彼の思ひはただ一つのことに占められてゐた――彼は何としてもソローハの不実を忘れることが出来ず、夢うつつの中ですら彼女を罵ることを止めなかつた。
 やがて朝になつた。寺院の堂内は、まだ夜明け前から参詣の群衆で一杯だつた。白い被布《かつぎ》をかぶり、白い羅紗の長上衣を著た年寄りの女たちは、堂の入口ぎはで信心ぶかく十字を切つた。その前には、草いろや欝黄の婦人服《コーフタ》を著たり、また中には、うしろに金絲で触角《ひげ》の型を刺繍した水いろの波蘭婦人服《クントゥーシュ》を著たりした貴族の婦人連が佇んでゐた。頭に相場の狂ふほどリボンを巻きつけ、頸飾や十字架や古銭を頸に掛けた娘たちは、少しでも内陣ちかく割りこまうとしてあせつた。最前列には、口髭と房髪《チューブ》をたくはへて、頤を剃りたてた、頸の太い貴族や普通《なみ》の百姓たちが、ずらりと立ち並んでゐた。彼等の大部分はマントを著てゐたが、その下からは、白か、また中には紺の長上衣《スヰートカ》が覗いてゐた。おしなべて、どの顔にもこの顔にも、お祭り気分が漂つてゐた。村長は精進落《しようじんおち》に食ふ腸詰のことを思ひ出して、今からもう舌舐めずりをしてをり、娘つこたちは若者といつしよに氷のうへを辷る時のことを空想してゐた。老婆たちは、いつもより熱心に祈祷を唱へてゐた。哥薩克のスウェルブイグーズが平伏して礼拝する音が、会堂ぢゆうに響き渡つた。ただ一人、オクサーナだけは、祈るでもなく祈らぬでもなく、まるで我を忘れて佇んでゐた。彼女の胸には、腹立たしいやうな、悲しいやうな、様々な感情が渦巻いて、その顔にはただ激しい焦慮の色が漂ひ、眼には涙の露が顫いてゐた。その原因《いはれ》を判断することの出来なかつた娘たちは、オクサーナの悩みの種が鍛冶屋のことにあらうなどとは、夢想だにしなかつた。とはいへ、独りオクサーナだけが鍛冶屋のことに心を奪はれてゐたのではなかつた。村人のすべてに、何かしら物足らぬやうな、お祭りがお祭りらしくないやうな心持がされるのであつた。搗てて加へて、補祭は、あの袋の中の旅ですつかり声を嗄らしてしまつたので、辛くも聞きとれるやうな嗄がれ声を振り絞つてゐる有様であつた。なるほど新来の歌手は巧みに低音部《バス》を勤めたには勤めたが、もしここに鍛冶屋がゐたものなら、とてもその足もとへも寄れることではなかつた。鍛冶屋といへばいつも、※[#始め二重括弧、1-2-54]我等の父※[#終わり二重括弧、1-2-55]や、※[#始め二重括弧、1-2-54]天津使《あまつつかひ》※[#終わり二重括弧、1-2-55]が始まると同時に、頌歌席へあがつて、ポルタワで唄はれるのと同じ調べでうたひ出すのが常であつた。その上、寺の世話方の役を引き受けるのは専ら彼にきまつてゐたものだ。はやくも朝祷は終り、朝祷についで、弥撒も終つた……。いつたい鍛冶屋はどこへ消え失せてしまつたのだらう?

        *        *        *

 その夜の残りの時間を、鍛冶屋を肩車にのせた悪魔が戻りの途を駈けに駈けたので、瞬く隙にワクーラは自分の家の傍へ運ばれてゐた。ちやうどその時、鶏が鳴いた。
「こら、何処へ行きをる?」と、鍛冶屋は、逃げ出さうとする悪魔の尻尾を、むんずと掴んで呶鳴りつけた。「待て、待て、まだ用は済まないぞ。おれはまだ、貴様にお礼をしなかつたからなあ。」
 彼はさういつて、棒つきれを握りざま、悪魔を三度打ちすゑた。すると哀れな悪魔は、まるでたつた今、役人に一と泡ふかされた百姓よろしくの恰好で、一目散に逃げ出した。とどのつまり他人《ひと》を誑らかしたり、罪に誘《ひ》き入れたり、愚弄したりする、あの人間の敵が、あべこべに、まんまと翻弄されたわけである。
 それから、ワクーラは入口の土間へ入るなり、乾草のなかへ潜《もぐ》りこんで、午前ちゆう、ぐつすり寐込んでしまつた。やつと眼がさめた時には、もう疾《とつ》くに太陽が高く昇つてゐたので、彼はびつくりした。
『俺は朝祷にも弥撒にも、寝すごして、よう詣らなかつたのだな!
 そこで信心ぶかい鍛冶屋は、てつきりこれは自分から霊魂を滅ぼさうなどと、大それた考へを起した神罰のために、殊更こんなあらたかな祭日にさへ、寺へも詣られぬやうな眠りを神が課し給うたのだと思つて、しよげ返つてしまつた。だがその償ひには、来週、祭司の前で罪を懺悔することと、けふから向ふ一年間、毎日五十囘づつ、床に額を打ちつけて謝罪の礼拝をすることにしようと心に誓ひ、僅かに胸を安めて、家《うち》のなかへ入つて見たが、そこには誰もゐなかつた。明らかにソローハはまだ戻つてゐないらしい。
 彼はくだんの靴を大事さうに懐ろから引つぱり出すと、その善美をつくした細工に眼をみはりながら、ゆうべの不可思議な出来事を思ひ出して、今更のやうに驚ろきに打たれた。手水《てうづ》を使ひ、念にも念を入れて著換をして、例のザポロージェ人から貰つた衣裳を身につけ、長持の中からポルタワへ行つた折に買つて来たまま、まだ一度もかぶらない、新らしいレシェティロフ産の毛皮帽を取り出した。また、これも同じやうに新らしい、五色染の帯を取り出した。それらの品々をひとまとめにして、鞭を取り添へて、風呂敷づつみにすると、真直にチューブの家をさして出かけて行つた。
 チューブは、鍛冶屋が自分の家へやつて来た時にはびつくりして眼を瞠つたが、しかもその驚ろきは、鍛冶屋が甦がへつて来たことに対してなのか、それとも鍛冶屋がなんの憚る色もなく自分の許へやつて来たことに対してなのか、または彼がひどくめかしこんで、ザポロージェ人の服装などしてゐることに対してなのか、ちよつと見当がつかなかつた。しかし、ワクーラが風呂敷づつみを解いて、つひぞ村では見たこともないやうな真更《まつさら》な帽子と帯とを彼の前へ差し出し、彼の足もとにひれ伏して、嘆願するやうな声で喋り出した時には、更に驚ろいてしまつた。
「おとつつあん勘弁しておくれ! どうか怒らないでおくれ! さあ、ここに鞭があるだから、幾らでも心の済むだけ殴《ぶ》つておくれ。俺の方からかうして鞭を差し出すだよ。俺あ今はもう何もかも後悔してゐるだよ。さあ殴つておくれ。でも、腹だけは立てないでおくれ。お前さんは死んだ俺の親爺とは仲善しで、いつも招んだり招ばれたり、差しつ差されつの仲だつたでねえか。」
 村ぢゆうに誰ひとり憚る者もなく、五哥銅貨や蹄鉄をまるで蕎麦煎餅かなんぞのやうに片手で捩ぢ曲げることも出来る、この鍛冶屋が、現在自分の足もとに平伏してゐる様を眺めて、チューブは内心ひそかに満悦でない筈はなかつた。それでも、これ以上、自分の威厳を墜すまいとして、チューブは鞭を取りあげると、ワクーラの背中を三つ殴つた。「さあ、もう沢山ぢや、起つがええ! 何時も老人《としより》のいふことはよく聴けよ! おらとお主《ぬし》の仲のことあ、きれいさつぱり水に流さう。そこで今度は、お主の望みの筋を聴かうでねえか。」
「おとつつあん、おらの嫁《よめ》にオクサーナを貰ひてえだよ!」
 チューブはやや心に思案しながら、帽子と帯とを打ち眺めた。帽子は素晴らしい品で、帯もやはりそれに劣らぬ代物だつた。彼は肚の中にソローハの不実を思ひ浮かべながら、きつぱりとして言つた。「善えだとも! 仲人をよこしな!」
「あら!」と、閾を跨ぎながら、鍛冶屋の姿を見つけたオクサーナは、思はず叫び声をもらして、驚ろきと歓びに両の眼を瞠つたまま立ちすくんでしまつた。
「さあ見てくれ、どんな靴をおれが持つて来たか!」と、ワクーラが言つた。「これこそ、女帝がほんとにお穿きになる靴なんだぜ。」
「いいえ、いいえ! あたし靴なんか要らないの!」と、彼女は両手を振りながら、男の顔から眼も離さずにつづけた。「そんな、靴なんかなくつたつて、あたし……。」それだけ言つて、あとは言ひ得ず、彼女はぽつと赤くなつた。
 鍛冶屋が間近く進みよつて彼女の手を執ると、美女は眼を伏せた。つひぞこれまでに、彼女がこんなに美しく見えたことはなかつた。恍惚となつて鍛冶屋がそつと彼女に接吻すると、彼女の顔はひときはぱつと赧らんで、一段とまた美しくなつた。

        *        *        

 ある時、今は亡き僧正猊下がディカーニカを通られた折、この村の土地柄を褒められたが、往還を馬車で通り過ぎながら、急に一軒の新らしい民家の前で車を停めて、
「この美しく彩色《いろど》つた家はいつたい誰の家ぢやの?」と猊下は、戸口の傍に嬰児《みどりご》を抱いて佇んでゐた美しい女に訊ねられた。
「鍛冶屋のワクーラの住ひでございます!」と、お辞儀をしながら、オクサーナ(それは他ならぬ彼女であつた)が、それに答へた。
「見事ぢや! あつぱれな仕事ぢや!」と、猊下は扉や窓を眺めまはしながら言はれた。その窓はどの窓も、ぐるりに赤い色の縁がとつてあり、扉といふ扉には一面に煙管を銜へて馬に跨がつた哥薩克の姿が描いてあつた。
 しかし猊下は、ワクーラがいつも寺の懺悔式に神妙につらなり、また、左側の頌歌席をば無料で緑色の地に赤い花模様を出して塗りあげたことを聞き知られた時には、更に更に賞讚の辞を吝まれなかつた。
 だが、そればかりではなかつた。ワクーラは会堂へ入つたところの側壁《わきかべ》に、地獄における悪魔の絵を描いた。それが如何にも気味の悪い姿だつたため、そのわきを通る時には誰でも、ペッと唾を吐いたくらゐであつた。で、女房どもは抱いてゐる赤ん坊が泣き止まないやうな時には、すぐに子供をその絵の傍へつれて行つて、『そうら御覧、あんな怖い鬼が描いてあるだよ!』と言ふのだつた。すると子供は涙を抑へてその絵を横目で眺めながら、母親の胸へ躯《からだ》を擦りつけるやうにしたものである。
                      
――一八三〇年――

底本:「ディカーニカ近郷夜話 後篇」岩波文庫、岩波書店
   1937(昭和12)年9月15日第1刷発行
   1994(平成6)年10月6日第7刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※底本の中扉には「ディカーニカ近郷夜話 後篇」の表記の左下に「蜜蜂飼ルードゥイ・パニコー著はすところの物語集」と小書きされています。
※「灯」と「燈」、「糸」と「絲」は新旧関係にあるので「灯」「糸」に書き替えるべきですが、底本で混在していましたので底本通りにしました。
※「★」は自注(蜜蜂飼註)記号、「*」は訳注記号です。底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付いています。
入力:oterudon
校正:伊藤時也
2009年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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