レ・ミゼラブル       LES MISERABLES  第三部 マリユス ビクトル・ユーゴー Victor Hugo ——-豊島与志雄訳

 第三部 マリユス

    第一編 パリーの微分子

     一 小人間

 パリーは一つの子供を持ち、森は一つの小鳥を持っている。その小鳥を雀《すずめ》と言い、その子供を浮浪少年と言う。
 パリーと少年、一つは坩堝《るつぼ》であり一つは曙《あけぼの》であるこの二つの観念をこね合わし、この二つの火花をうち合わしてみると、それから一つの小さな存在がほとばしり出る。ホムンチオ[#「ホムンチオ」に傍点](小人)とプラウツスは言うであろう。
 この小さな人間は、至って快活である。彼らは毎日の食事もしていない、しかも気が向けば毎晩興行物を見に行く。肌《はだ》にはシャツもつけず、足には靴《くつ》もはかず、身をおおう屋根もない。まったくそういうものを持たない空飛ぶ蠅《はえ》のようである。七歳から十三歳までで、隊を組んで生活し、街路を歩き回り、戸外に宿り、踵《かかと》の下までくる親譲りの古いズボンをはき、耳まで隠れてしまうほかの親父《おやじ》からの古帽子をかぶり、縁の黄色くなった一筋きりのズボンつりをつけ、駆け回り、待ち伏せし、獲物をさがし回り、時間を浪費し、パイプをくゆらし、暴言を吐き、酒場に入りびたり、盗人と知り合い、女とふざけ、隠語を用い、卑猥《ひわい》な歌を歌い、しかもその心のうちには何らの悪もないのである。その魂のうちにあるものは、一つの真珠たる潔白である。真珠は泥の中にあってもとけ去らぬ。人が年少である間は、神も彼が潔白ならんことを欲する。
 もし広大なる都市に向かって、「あれは何だ?」と尋ぬるならば、都市は答えるだろう、「あれは私の子供だ。」

     二 その特徴の若干

 パリーの浮浪少年は、小なる巨人である。
 何ら誇張もなくありのままを言えば、この溝《どぶ》の中の天使は時としてシャツを持ってることもあるが、それもただ一枚きりである。時としては靴を持ってることもあるが、それも底のすり切れたものである。時には住居を持っていて、母親がいるのでそれを愛することもあるが、しかし自由だからと言って街路の方を好む。独特の遊びがあり、独特の悪戯《いたずら》がある。そしてその根本は中流市民に対する憎悪《ぞうお》である。また独特な比喩《ひゆ》がある。死ぬことを、たんぽぽを根から食う[#「たんぽぽを根から食う」に傍点]という。また独特な仕事を持っている。辻馬車《つじばしゃ》を連れてき、馬車の踏み台をおろし、豪雨のおりに街路の一方から他方へ人を渡してやっていわゆる橋商売[#「橋商売」に傍点]をなし、フランス民衆のためになされた当局者の演説をふれ回り、舗石《しきいし》の間を掃除《そうじ》する。また独特の貨幣を持っている。往来に落ちてる種々な金物でできてる不思議な貨幣で、ぼろ[#「ぼろ」に傍点]と言われていて、その小さな浮浪少年の仲間にごく規則だった一定の流通をする。
 最後に、彼らは独特な動物を持っていて、すみずみでそれを熱心に観察する。臙脂虫《えんじむし》、油虫、足長蜘蛛《あしながぐも》、二つの角のある尾を曲げて人をおびやかす黒い昆虫《こんちゅう》の「鬼」。また物語にあるような怪物をも持っている。腹に鱗《うろこ》があるけれど、蜥蜴《とかげ》でもなく、背中に疣《いぼ》があるけれど、蟇《がま》でもなく、古い石灰|竈《かまど》やかわいた水溜《みずため》などの中に住んでいて、まっ黒で毛がはえ、ねばねばして、あるいは遅くあるいは早くはい回り、声は出さないがじっと見つめ、だれもかつて見たこともないような恐ろしいものであって、彼らはその怪物を「つんぼ」と呼んでいる。石の間に「つんぼ」をさがし回ることは、身の毛のよだつような楽しみである。なお別の楽しみは、急に舗石《しきいし》を上げて草鞋虫《わらじむし》を見つけることである。またパリーの各地は、そこで見つかる種々なおもしろいもので名がとおっている。ユルシュリーヌの建築材置き場の中にははさみ虫、パンテオンには百足虫《むかで》、練兵場の溝《どぶ》の中にはおたまじゃくしがいる。
 彼らの言葉はタレーラン(訳者注 機才に富んだ弁舌で有名な当時の政治家)に匹敵する。同様に冷笑的であり、またいっそう正直である。まったく思いもかけないような快弁を持っていて、その大笑いで店屋の者を狼狽《ろうばい》させることもある。その調子は大喜劇から狂言に至るまでの間を快活にはね回る。
 葬式の行列が通る。そのうちに医者がいるとする。するとひとりの浮浪少年は叫ぶ、「おや、医者の野郎、自分の仕事の取り入れをするなんて、いつから初めやがったんだ。」
 群集の中に浮浪少年のひとりがいる。そして眼鏡《めがね》や鎖をつけたひとりの堂々たる男が怒ってふり返りながら言うとする、「やくざ者め、俺の妻の腰に手をかけたな。」
「僕が! では僕の懐《ふところ》に手をつっ込んでみたらいいだろう。」

     三 その愉快さ

 晩になると、いつもいくらかの金をどうにか手に入れて、この小人[#「小人」に傍点]は芝居《しばい》に行く。ところがその蠱惑的《こわくてき》な閾《しきい》を一度またぐと、彼らの様子は変わってしまう。浮浪少年だったのが、小僧っ児になってしまう。芝居小屋は船を裏返したようなもので、上の方に船底がある。小僧っ児がつめ込むのはその船底へである。小僧っ子と浮浪少年との関係は、ちょうど蛾《が》と青虫との関係である。羽がはえて空中を飛び回る代物《しろもの》である。芝居小屋のその狭い、臭い、薄暗い、不潔な、不健康な、たまらない、のろうべき船底が、天国ともなるためには、彼らがそこにいさえすれば十分である、光り輝くその幸福と、その力強い心酔と喜悦と、羽音のようなその拍手とをもって。
 あるひとりの者に無用さを与え、その必要さを取り去ってしまえば、そこに一つの浮浪少年ができ上がる。
 浮浪少年は、一種の文学的直覚を持っていないこともない。その傾向は、多少遺憾ながら、決してクラシック趣味ではなさそうである。彼らは生まれながらにしてあまりアカデミックではない。その一例をあぐれば、この喧騒《けんそう》な少年らの小社会におけるマルス嬢の評判は、一味の皮肉さで加味されていた。浮浪少年は彼女のことをまるまる[#「まるまる」に傍点]嬢と言っていた。
 彼らは怒鳴り、揶揄《やゆ》し、嘲弄《ちょうろう》し、喧嘩《けんか》をし、乞食《こじき》小僧のようなぼろをまとい哲人のような弊衣をつけ、下水の中をあさり、塵溜《ちりだめ》の中を狩り、汚物のうちから快活を引き出し、町の巷《ちまた》に天下の奇想をまき散らし、冷笑し風刺し、口笛を吹き歌を歌い、歓呼し罵詈《ばり》し、アレリュイアとマタンチュルリュレットと([#ここから割り注]訳者注 歓呼の賛歌とのろいの賛歌と[#ここで割り注終わり])をあわせ用い、デ・プロフォンディスからシアンリまで([#ここから割り注]訳者注 荘重な聖歌から卑しい俗歌まで[#ここで割り注終わり])あらゆる調子を口ずさみ、求めずして見いだし、知らないことをも知り、すりを働くほどに謹厳であり、賢者たるまでにばかであり、不潔なるまでに詩的であり、神々の上にうずくまり、糞便《ふんべん》の中に飛び込んで星を身につけて出て来る。実にパリーの浮浪少年は小ラブレー(訳者注 十六世紀の快活な風刺詩人)である。
 彼らは時計入れの内隠しがついてるズボンでなければ満足しない。
 彼らはあまり驚くことがなく、恐れることはなお更少なく、迷信を軽蔑し、誇張をへこまし、神秘を愚弄《ぐろう》し、幽霊をばかにし、架空をうち倒し、浮誇を滑稽化《こっけいか》する。それは彼らが散文的だからでは決してない。反対に彼らは、荘重な幻影を道化《どうけ》た幻と変えるまでである。もしアダマストール(訳者注 ヴァスコ・ダ・ガマの前につっ立ったという喜望峰を守っている巨人)が彼らに現われたとしても、彼らは言うであろう、「おやあ、案山子《かがし》めが!」

     四 その有用な点

 パリーは弥次馬《やじうま》に初まり、浮浪少年に終わる。この二つは他のいずれの都市にも見られないものである。一つはただながめるだけで満足する消極的なものであり、一つは進取的に限りない手段をめぐらす。プリュドンムとフーイユーとである([#ここから割り注]訳者注 無能尋常の典型と悪戯発明の典型[#ここで割り注終わり])。パリーのみがこの二つをその博物誌のうちに持っている。各王政は弥次馬のうちにあり、各無政府は浮浪少年のうちにある。
 パリーの場末のこの青白い子供は、困苦の中に、社会の現実と人間の事がらとの前に考え深く目を開きながら、生活し生長し、熟し発達してゆく。彼らは自分をむとんちゃくだと思っている。しかし実際はそうでない。彼らはじっとながめていて、何事にも笑い出そうとしているが、しかしまた他のことをも仕出かそうとしている。いかなる種類のものであろうとも、およそ、特権、濫用《らんよう》、破廉恥、圧制、不正、専制、不法、盲信、暴虐、などと名のつくものは、このぽかんとしてる浮浪少年に用心するがいい。
 この少年はやがて大きくなるだろう。
 いかなる土で彼らはできているか? ごくありふれた泥からである。一握りの泥と一つの息吹《いぶき》、それだけでアダムができ上がる。ただ一つの神が通ればそれで足りる。そして神は一つやはりこの浮浪少年の上を通った。運命はこの少年に働きかける。ただここで運命という言葉は、多少偶然という意味をこめて用いるのである。それ自身普通のつまらぬ土の中にこね上げられ、無知で、無学で、放心で、卑俗で、微賤《びせん》であるこの侏儒《しゅじゅ》は、やがてイオニア人(哲人)となるであろうか、またはベオチア人(ばか)となるであろうか。まあ待つがいい。世は輪※《りんね》だ。パリーの精神、偶然で子供を作り宿命で人を作るその悪魔は、ラテンの壺屋《つぼや》の車を逆さに回して、新しい壺を古代の壺にしようとしている。

     五 その境界

 浮浪少年は、心のうちに知恵を持っていて、町を愛しまた静寂を愛する。フスクスのように町の愛人であり、フラックスのように田野の愛人である。
 考えながら歩くこと、すなわち逍遙《しょうよう》すること、それは哲学者にとってはいい時間つぶしである。ことに、多少私生児的な、かなり醜い、しかも奇怪な、二つの性質からできてる田舎《いなか》において、ある種の大都会なかんずくパリーを取り囲んでいる田舎において、そうである。郊外を観察することは、すなわち水陸|両棲物《りょうせいぶつ》を観察することである。木立ちの終わり、軒並みの初まり、雑草の終わり、舗石《しきいし》の初まり、田圃《たんぼ》の終わり、商店の初まり、轍《わだち》の終わり、擾乱《じょうらん》の初まり、神の囁《ささや》きの終わり、人の喧騒《けんそう》の初まり、それゆえに異常な興味がある。
 それゆえに、あまり人の心をひかず常に通行人からうら寂しい[#「うら寂しい」に傍点]という形容詞をかぶせられてるそれらの地に、表面上何らの目的もない散歩を夢想家らがなすのである。
 これらのページを書いている著者も、昔は長い間パリー郊外の散策者だった。そして著者にとってそれは深い思い出の源である。あの平坦な芝地、あの石多い小道、あの白堊《はくあ》、あの石灰、あの石膏《せっこう》、あの荒地や休耕地のきびしい単調さ、奥深い所に突然見えてくる農園の早生《わせ》の植物、僻地《へきち》と都市との混合した景色、兵営の太鼓が騒々しく合奏して、遠く戦陣の轟《とどろ》きをもたらす片すみの人なき広い野原、昼間の寂寞《せきばく》、夜間の犯罪、風に回ってる揺らめく風車、石坑の採掘車輪、墓地のすみの居酒屋、太陽の光を浴び蝶《ちょう》の群れ飛んでる広茫《こうぼう》たる地面を四角に切り取っている大きな黒壁の神秘な魅力、それらのものに著者の心はひかれていた。
 次のような特殊な場所を知っている者が世にあるだろうか。グラシエール、キュネット、砲弾で斑点をつけられてるグルネルの恐ろしい壁、モン・パルナス、フォス・オー・ルー、マルヌ川岸のオービエ、モンスーリ、トンブ・イソアール、それからまたピエール・プラト・ド・シャーティヨン、そこには廃《すた》れた古い石坑が一つあって、今ではただ茸《きのこ》がはえるだけのことで、腐った板の引き戸で地面にふたがしてある。ローマの田舎《いなか》は人にある観念を与えるが、パリーの郊外もまた他の一つの観念を人に与える。眼前に現われてる地平線以内に、ただ野と人家と樹木とのみを見ることは、その表面にのみ止まることである。あらゆる事物の光景は、神の考えを含んでいる。平野が都市と接している場所には、人の心を貫くある言い知れぬ憂鬱《ゆううつ》が印せられている。そこでは自然と人類とが同時に口をきいている。地方的特色がそこに現われている。
 パリーの郭外に接しているそれら寂寞《せきばく》の地、パリーの縁とも称し得べきそれらの地、それをわれわれのように逍遙《しょうよう》したことのある者は、そこここに、最も寂しい場所に、意外の時に、薄い籬《まがき》のうしろやわびしい壁のすみに、泥にまみれ塵《ちり》にまみれぼろをまとい髪をぼうぼうとさした色の青い子供らが、がやがやと集まって、矢車草の花を頭にかぶって、めんこ遊びをしているのを、おそらくだれも見たことがあるだろう。それは貧しい家から飛び出してきた子供らである。市外の大通りは彼らの自由に息をつくべき場所である。郊外の地は彼らのものである。彼らはその辺をいつも遊び回る。卑賤《ひせん》な歌を無邪気に歌い回る。彼らはそこにいて、あるいはむしろそこに生存して、すべての人の目をのがれ、五月六月の柔らかな光の中で、地面に掘った穴のまわりにうずくまり、親指の先でおはじきをして一文二文を争い、何らの責任もなく放縦で放漫で幸福なのである。しかも市人の姿を認むるや、一つの仕事があることを思い出し、糧《かて》を得なければならぬことを思い出し、こがね虫のいっぱいはいった古い毛糸の靴足袋《くつたび》や一束のリラの花などを売りつけようとする。その不思議な子供らと出会うことは、同時におもしろいまた悲しいパリー付近の風致の一つである。
 時とするとそれらの男の児の群れには、女の児が交じってることもある。彼らの姉妹ででもあるのか? まだ年若い娘で、やせて、いらいらして、手の皮膚はかさかさになり、雀斑《そばかす》ができていて、裸麦や美人草の穂を頭につけ、快活で、荒っぽくて、跣足《はだし》になっている。畑の中でさくらんぼうを食べてる者もいる。夕方になると笑ってる声も聞こえる。ま昼の暑い光に照りつけられてるその群れ、あるいは夕方の薄ら明りのうちに透かし見られるその群れ、それは長く夢想散歩者の頭を占めて、夢のうちにもその幻が交じってくるであろう。
 パリーは中心で、郊外はその円周である。これらの子供にとってはそれが全土である。決して彼らはその外に出ようとしない。あたかも魚が水から出ることのできないように、彼らはもはやパリーの雰囲気《ふんいき》から出ることができない。彼らにとっては、市門から二里離るればもはや空虚である。イヴリー、ジャンティイー、アルクイュ、ベルヴィル、オーベルヴィリエ、メニルモンタン、ショアジー・ル・ロア、ビランクール、ムードン、イッシー、ヴァンヴル、セーヴル、プュトー、ヌイイー、ジャンヌヴィリエ、コロンブ、ロマンヴィル、シャトゥー、アスニエール、ブージヴァル、ナンテール、アンガン、ノアジー・ル・セク、ノジャン、グールネー、ドランシー、ゴネス、そこに彼らの世界は終わるのである。

     六 その歴史の一片

 本書の物語が起こった時代には、もとよりそれもほとんど現代ではあるが、その頃には今日のように街路の角《かど》に巡査がいはしなかった(今はそれを論ずる時でないのは仕合わせである)。浮浪の少年がパリーにいっぱいになっていた。囲いのない土地や、建築中の家や、橋の下などで、巡邏《じゅんら》の警官らから当時毎年拾い上げられた宿無しの子供は、統計によると平均二百六十人くらいはあった。それらの巣のうちで有名なのは、いわゆる「アルコル橋の燕《つばめ》」と言わるるに至った。もとよりそれは社会の最も不幸な兆候の一つであった。人間のあらゆる罪悪は子供の浮浪から初まる。
 けれどもパリーはその例外としてよろしい。われわれが今持ち出した思い出が痛ましいにもかかわらず、ある点までこの除外例は正当である。他のすべての大都市においては、浮浪の少年は沈淪《ちんりん》した人間である。ほとんどどこにおいても、孤立した少年は必ず世の不徳に巻き込まるるままに投げ出され打ち捨てられたもので、ついにはそれによって正直さと本心とを食いつくさるるに至る。しかるにパリーの浮浪少年は、あえて言うがパリーの浮浪少年は、表面いかにも磨滅《まめつ》され痛められてはいるが、内部においてはほとんど純全たるままである。思っても輝かしい一事は、そしてフランス民衆革命の燦爛《さんらん》たる誠実さのうちに光輝を放ってる一事は、実に大洋の水のうちにある塩分から生ずるように、パリーの空気のうちにある観念から生ずる、一種の非腐敗性である。パリーを呼吸することは、魂を保存することである。
 しかもわれわれがここに説くことも、分散した家族の網目を引きずってるかのように見えるこれらの少年のひとりに出会う時に、人が感ずる悲痛な感情を、少しも和らげるものではない。まだはなはだ不完全なる現今の文明においては、多くの家族の者らは暗闇《くらやみ》のうちに散り失せ、自分の子供らがいかになったかも知らず、いわば往来の上におのれの臓腑《ぞうふ》を落としてゆくのは、さほど珍しいことではない。そこから陰惨な境涯が起こってくる。この悲しき一事も一つの成句を作り出して、そのことを「パリーの舗石《しきいし》の上に投げ出される」(訳者注 家なく職なき境涯に投ぜらるるの意)と言う。
 ついでに言うが、かく子供を放棄することは、昔の王政によっても決して救済しようとはされなかった。エジプトやボヘミアの一部の下層社会は、上層の便宜にのみ供され、勢力家の意のままになっていた。下層民衆の子弟を教育することに対する嫌悪《けんお》は、一般の信条となっていた。「半可通」が何の役に立つものか? そういうのが合い言葉だった。ところで、浮浪の子供は無学な子供の必然の帰結である。
 その上、王政は時として子供の必要を生じた。そういう時には、往来から子供を拾い上げていた。
 古いことはさておいて、ルイ十四世の時であるが、王は一艦隊を造ろうとした。それは道理あることで、よい考えだった。しかしその方法はどうだったか。風のまにまに漂わされる帆船に相並んで、それを必要に応じて曳舟《えいしゅう》するために、あるいは櫂《かい》によりあるいは蒸気によって自由な方向に進み得る船を有しなければ、艦隊なるものは存在し得ない。ところが当時の海軍にとっては、帆と櫂とによる軍艦があたかも今日の蒸気による軍艦のごときものだった。それで帆と櫂との軍艦が必要となった。しかしそういう軍艦は漕刑《そうけい》囚人によってのみ動かされていたので、従って漕刑囚人が必要となった。で宰相コルベールは、地方の監察官と諸侯の議政府とに命じて、でき得る限り多くの囚人をこしらえさした。役人らは彼の歓心を求めて大いに力を尽した。歌唱行列の前に帽子をかぶったままつっ立っている男がいると、新教徒的な態度だといって、すぐに漕刑場へ投じた。往来で子供に出会うと、その子供が十五歳になっていてかつ宿所を持たない場合には、すぐに漕刑場へ送った。それが偉大なる治世であり偉大なる世紀だったのである。
 ルイ十五世の下では、浮浪の子供はパリーになくなってしまった。人知れぬある秘密な使途にあてんために、警察は子供を奪い去ってしまった。人々は王の赤血の沐浴《もくよく》について恐ろしい推測を戦慄しながらささやきかわした。バルビエはそれらのことを率直に書き留めている。時として警吏は、子供が少なくなったので父親のある子供まで捕えることがあった。父親は絶望的になって警吏につっかかっていった。そういう場合には高等法院が中にはいって、絞罪に処した。だれを? 警吏をか、否、父親を。

     七 その階級

 パリーの浮浪少年階級はほとんど一つの閥族である。だれでもはいれるものではないと言ってさしつかえないほどである。
 この Gamin《ガマン》(浮浪少年)という語は、一八三四年に初めて印刷の上に現われて、俗語の域から文学上の言葉のうちにはいってきたのである。この語が現われたのは、クロード・グー(訳者注 これも本書の作者ユーゴーの作である)と題する小冊子の中であった。激しい物議を起こした。がその語は一般に通用されるに至った。
 浮浪少年らの中で重きをなす原因にはきわめて種々なものがある。われわれが知ってるし交わりもしたひとりは、ノートル・ダームの塔の上から落ちる人を見たというので、ごく尊敬され感心されていた。ある者は、アンヴァリードの丸屋根につける彫像が一時置かれていた裏庭に忍び込んで、その鉛を少し「ちょろまかした」というので、ごく尊敬されていた。ある者は、駅馬車がひっくり返るのを見たというので、ごく尊敬されていた。またある者は、市民の目をほとんどえぐり出そうとしたひとりの兵士と「知り合いである」というので、ごく尊敬されていた。
 パリーの一浮浪少年の次の嘆声、俗人がその意味をも解しないでただ笑い去ってしまう深い文句、それを以上のことは説明するものである。「ああああ、いやになっちまう、まだ六階から落っこった者を見ないんだからな!」(この言葉は彼ら特有の発音で言われたのである)。
 確かに次のようなのは田舎者《いなかもの》式のみごとな言葉である。「父《とっつ》あん、お前のお上さんは病気で死んだじゃないか。なぜお前は医者を呼びにやらなかったんだ?」「何を言わっしゃるだ、わしら貧乏人はな、人手を借りねえで死にますだ。」ところでもし田舎者の消極的な愚弄《ぐろう》が右の言葉のうちにこもってるとするならば、郭外の小僧の無政府的な自由思想は、確かに左の言葉のうちにこもってるであろう。すなわち、死刑囚が馬車の中で教誨師《きょうかいし》の言葉に耳を傾けていると、パリーの子供は叫ぶ。「あいつ牧師めと話をしてやがる、卑怯《ひきょう》者だな!」
 宗教上のことに対するある大胆さは、浮浪少年を高めるものである。唯我独尊ということが大事である。
 死刑執行に立ち会うことは、一つの義務となっている。断頭台を互いにさし示しては笑い、種々な綽名《あだな》を浴びせかける。「飯の食い上げ――脹《ふく》れっ面《つら》――天国婆――おしまいの一口――その他。」事がらを少しも見落とすまいとしては、壁をのり越え露台によじ上り、木に登り、鉄門にぶら下がり、煙筒につかまる。浮浪少年は生まれながらの水夫であり、また生まれながらの屋根職人である。いかなる檣《マスト》をも屋根をも恐れはしない。グレーヴの刑場ほどのお祭り騒ぎはどこにも見られない。サンソンとモンテス師とは広く知られてる名前である。処刑囚を励ますために皆呼びかける。時としては賛美することさえある。浮浪少年のラスネールは、恐るべきドータンが勇ましく死に就《つ》くのを見て、行く末を思わせる次の言葉を発した、「うらやましいな。」浮浪少年の仲間には、ヴォルテールのことは知られていないが、パパヴォアーヌのことは知られている。彼らは「政治家」と殺害者とを同じ話のうちに混同してしまう。そういうすべての人々が最後に着た服装を言い伝えている。彼らは知っている、トレロンは火夫の帽子をかぶっていた、アヴリルは川獺《かわうそ》の帽子をかぶっていた、ルーヴェルは丸い帽子をかぶっていた、老ドラポルトは禿頭《はげあたま》で何もかぶっていなかった、カスタンはまっかなきれいな顔をしていた、ボリーはロマンティックな頤髯《あごひげ》をはやしていた、ジャン・マルタンはなおズボンつりをかけていた、ルクーフェは母と言い争った。「ねどこのことをぐずぐず言うなよ、」とひとりの浮浪少年はその二人に叫んだ。またあるひとりはドバッケルが通るのを見ようとしたが、群集の中で自分があまり小さかったので、川岸の街燈柱を見つけてそれに登り初めた。するとそこに立っていた憲兵が眉《まゆ》をしかめた。「登らして下さい、憲兵さん、」と少年は言った。そして彼の心を和らげるためにつけ加えた、「落ちはしませんから。」「落ちようとそんなことはかまわないさ」と憲兵は答えた(訳者注 上にある多くの人物はみな重罪によって死刑に処せられし人)。
 浮浪少年の間では、著名な事件は非常に尊ばれる。深く「骨までも」傷をした者があると、仲間の尊敬の頂上までも上りつめることができる。
 拳固《げんこ》を食わせることも、かなり尊敬さるる方法である。浮浪少年が最も好んで言う一事は、「おれはすてきに強いんだぞ、いいか!」ということである。左ききであることは、非常にうらやましがられる。やぶにらみもまた尊敬される。

     八 前国王のおもしろき言葉

 夏には、彼らは蛙《かえる》に変化する。そして夕方、まさに暮れんとする頃、オーステルリッツ橋やイエナ橋の前で、石炭の筏《いかだ》や洗濯女《せんだくおんな》の小舟などの上から、まっさかさまにセーヌ川に飛び込んで、秩序取り締まりの規則や警察の目をのがれて種々なことをやる。しかるに巡査らは見張りをしている。その結果、まったく劇的光景を演じ、親愛なる記憶すべき叫び声を生んだこともある。一八三〇年ごろ有名だったその叫び声は、仲間から仲間へ通ずる戦略的合い図である。ホメロスの詩のように句格がそろい、パナテネー祭(訳者注 ミネルヴ神の祭典)におけるエルージアの町の歌にも比ぶべき言葉に尽し難い調子がこもっていて、古代のエヴォエ(訳者注 バッカス神をたたえる巫子らの叫び)がそこに復活して来るのである。すなわち次のようなものである。「おーい、仲間、おーい! でかだぞ、いぬだぞ、用意しろに傍点]、逃げろ、下水からだ!」
 時とするとそれらの蚊どものうちには――彼らは自ら蚊と綽名《あだな》している――字の読める者もいることがあり、また字の書ける者もいることがある。しかし皆いつも楽書きすることは心得ている。いかなる不思議な相互教育によってかわからないが、彼らは皆公の役に立ち得るあらゆる才能を示す。一八一五年から三〇年までは、七面鳥の鳴き声をまねていたが、一八三〇年から四八年までは、壁の上に梨《なし》を書きつけて回っていた(訳者注 七面鳥は前の時の国王ルイ十八世の紋章、梨は後の時の国王ルイ・フィリップの紋章)。ある夏の夕方、ルイ・フィリップは徒歩で帰ってきたところが、まだ小さな取るに足らぬ浮浪少年のひとりが、ヌイイー宮殿の鉄門の柱に大きな梨を楽書きせんとして、背伸びをし汗を流してるのを見つけた。王は先祖のアンリ四世からうけついできた心よさをもってその少年の手助けをし、ついに梨《なし》を書いてしまって、それから彼にルイ金貨を一つ与えながら言った、「これにも梨がついているよ[#「これにも梨がついているよ」に傍点]。」また浮浪少年は喧騒《けんそう》を好むものである。過激な状態は彼を喜ばせる。彼らはまた「司祭輩」をきらう。ある日ユニヴェルシテ街で、一人の小僧がその六十九番地の家の正門に向かってあかんべーをしていた。通行人が彼に尋ねた、「この門に向かってなぜそんなことをしてるんだ?」すると彼は答えた、「司祭がここに住んでるんだ。」実際そこは、法王の特派公使の住居であった。けれども、彼らのヴォルテール主義(訳者注 反教会)が何であろうと、もし歌唱の子供となれるような機会がやってくると、それを承諾することもある。そしてそういう場合には、丁重に弥撒《ミサ》の勤めに従う。それから、タンタルス(訳者注 永久の飢渇に処せられし神話中の人物)のように彼らが望んでいた二つのことがある。彼らはいつもそれを望みながら永久にそれを得ないでいる。すなわち、政府を顛覆《てんぷく》することと、ズボンを仕立て直すこと。
 完全なる浮浪少年は、パリーのすべての巡査を知悉《ちしつ》していて、そのひとりに出会えばすぐに名|指《ざ》すことができる。各巡査をくわしく研究している。その平常を調べ上げて、それぞれ特殊な記録をとっている。その心の中を自由に読み取っている。彼らはすらすらと滞りなく言い得る、「某は反逆人だ、――某はごく意地悪だ、――某は偉い奴《やつ》だ、――某は滑稽な奴だ。」(これらの、反逆人、意地悪、偉い奴、滑稽な奴、などという言葉は、彼らに言われる時は特殊な意味を有するのである)「あいつは、ポン・ヌーフ橋を自分の物とでも思ってるのか。欄干の外の縁を歩くことを世間に禁じやが[#「やが」に傍点]る。それから向こうのは、人の耳を引っ張る癖がある。云々《うんぬん》、云々。」

     九 ゴールの古き魂

 市場の児なるボクランのうちに、またボーマルシェーのうちに、この種の少年の気質があった(訳者注 二人とも著述家、次に出て来る人々も同じ)。浮浪少年気質はゴール精神の一特色である。それは妥当な常識に交わると時としてそれに力を与える。あたかも葡萄酒《ぶどうしゅ》にアルコールを加えるがごときものである。また時とすると欠点ともなる。ホメロスは無駄口《むだぐち》をたたくと言えるならば、ヴォルテールは浮浪少年気質を発揮すると言うべきであろう。カミーユ・デムーランは郭外人であった。奇蹟をけなしたシャンピオンネはパリーの舗石《しきいし》から出てきた。彼はまだごく小さい時から、サン・ジャン・ド・ボーヴェー会堂やサン・テティエンヌ・デュ・モン会堂などの回廊に侵入していた。そして彼はサント・ジュヌヴィエーヴ会堂の聖櫃《せいひつ》を不作法に取り扱って、サン・ジャンヴィエの聖壺に命令を下していた。
 パリーの浮浪少年は、敬意と皮肉と横柄さとを持っている。食を十分に与えられず胃袋が嘆いているので、がつがつした歯を持っている。また機才を持っているので、美しい目をしている。エホバの神がいるとしても、彼らは天国の階段を飛びはねて上ってゆくであろう。彼らは足蹴《あしげ》に強い。彼らはあらゆる方面に成長をなし得る。彼らは溝《どぶ》の中で遊んでいる、けれど騒動があるとすっくと立ち上がる。霰弾《さんだん》の前にもたじろがないほど豪胆である。いたずらっ児だったのが英雄となる。テバン(訳者注 偶像を廃棄して惨殺せられし古ローマの一団体)の少年のように獅子《しし》の背をもなでるであろう。鼓手のバラ(訳者注 大革命の時の勇敢な少年)はパリーの一浮浪少年であった。あたかも聖書の戦馬が「ヴァー!」とうなるように、彼らは「前へ!」と叫ぶ、そしてたちまちのうちに小童《こわっぱ》から巨人となる。
 この泥中の少年は、また理想中の少年である。モリエールからバラに至るまでのその翼の長さを計ってみるがよい。
 要するに、そして一言に概括すれば、浮浪少年とは不幸なるがゆえに嬉戯《きぎ》する一個の人物である。

     十 ここにパリーあり、ここに人あり

 なおすべてを概説せんには、今日のパリーの浮浪少年《ガマン》は、いにしえのローマのギリシャ人のように、年老いた世界の皺《しわ》を額《ひたい》に有する年少民衆である。
 浮浪少年は国民にとって一つの美であり、また同時に一つの病である。なおさなければならない病である。いかにしてなおすか? 光明をもってである。
 光明は人を健やかにする。
 光明は人を輝かす。
 あらゆる社会的の麗しい光輝は、科学、文学、美術、および教育から生ずる。人を作れ、人を作れよ。彼らをして汝に温暖を与えしめんがために、彼らに光を与えよ。いつかは普通教育の光輝ある問題は、絶対的真理の不可抗な権威をもって確立さるるに至るであろう。そしてその時におよんでこそ、フランス精神の監視の下に政事を行なう人々は、次の選択をなさなければならないだろう、すなわちフランスの少年かもしくはパリーの浮浪少年か、光明のうちに燃ゆる炎か、もしくは暗黒のうちにひらめく燐火《りんか》か。
 浮浪少年はパリーを表現し、パリーは世界を表現する。
 なぜかなれば、パリーは全部であるからである。パリーは人類の天井である。この驚くべき一大都市は、過去現在のあらゆる風習の縮図である。パリーを見るは、所々に天空と星座とを有する全歴史を見通すに等しい。カピトールとしては市庁を、パルテノンとしてはノートル・ダーム寺院を、アヴェンティノの丘としてはサン・タントアーヌの一郭を、アシナリオムとしてはソルボンヌ大学を、パンテオンとしてはパンテオンの殿堂を、ヴィア・サクラとしてはイタリアン大通りを、アテネの風楼としては輿論《よろん》を、パリーはみな有している。そしてゼモニエ([#ここから割り注]訳者注 古ローマにて処刑人の死体を陳列するカピトール山の階段[#ここで割り注終わり])としては嘲弄《ちょうろう》がもって代えている。そのマホー(スペインの伊達者《だてしゃ》)をめかしやと言い、そのトランステヴェレノ(ローマのチベル彼岸の民)を郭外人と言い、そのハンマル(インドの籠舁《かごかき》)を市場人足と言い、そのラツァロネ(ナポリの乞食)を組合盗賊と言い、そのコクニー(ロンドンっ児)を洒落者《しゃれもの》と言う。世界中にあるものは皆パリーにもある。デュマルセーの描いた魚売り女はエウリピデスの草売り女と一対である。円盤投戯者のヴェジャヌスは綱渡り人フォリオゾのうちに復活している。テラポンティゴヌス・ミレスは擲弾兵《てきだんへい》ヴァドボンクールと腕を組み合って歩くであろう。骨董商《こっとうしょう》ダマジプスはパリーの古物商人のうちに納まり返るであろう。アゴラ(アテネの要塞《ようさい》)はディドローを監禁するであろうが、それと同じくヴァンセヌの要塞はソクラテスをつかみ取るであろう。クルティルスが※《はりねずみ》の炙肉《あぶりにく》を考え出したように、グリモン・ド・ラ・レーニエールは油でいためたロースト・ビーフを考えついた。プラウツスの書いた鞦韆《ぶらんこ》はエトアール凱旋門《がいせんもん》の気球の下に現われている。アプレイウスが出会ったペシルの剣食い芸人はポン・ヌーフ橋の上の刃|呑《の》み芸人である。ラモーの甥《おい》は寄食者クルクリオンと好一対をなすものである。エルガジルスも喜んでエーグルフイユによってカンバセレスの家に導かれるだろう。ローマの四人の遊冶郎《ゆうやろう》アルセジマルクス、フェドロムス、ディアボルス、アルジリッペは、クールティーユからラバテュの駅馬車に乗り込む。アウルス・ジュリウスはコングリオの前に長くたたずんだが、シャール・ノディエはポリシネルの前に長くたたずんだ。マルトンは虎《とら》とは言えないが、しかしパリダリスカも決して竜ではなかった。道化者パントラビュスはイギリス・カフェーで遊蕩児《ゆうとうじ》ノメンタヌスをも愚弄《ぐろう》する。ヘルモジェヌスはシャン・ゼリゼーのテノル歌手とも言い得べく、そのまわりには乞食《こじき》のトラジウスがボベーシュ流の服を着て金を集めている。チュイルリー公園にはうるさく服のボタンをつかまえて引き留むる者がいて、テスブリオンから二千年後の今日もなお同じ抗議を人に言わする、「マントを引っ張るのはだれだ、私は急ぐんだ。」スュレーヌの葡萄酒《ぶどうしゅ》はアルバの葡萄酒に肩を並べる。デゾージエの赤縁《あかぶち》のコップはバラトロンの大杯にも匹敵する。ペール・ラシェーズの墓地は夜の雨の中にエスキリエの丘と同じようなすごい光を発する。そして五年間の契約で買われた貧民の墓は、いにしえの奴隷《どれい》の借り棺と同じである。
 パリーにないものがあるかさがしてみるがいい。トロフォニウスの染甕《そめがめ》の中にあったものは皆、メスメルの桶《おけ》の中にある。エルガフィラスはカグリオストロのうちによみがえる。バラモン僧ヴァサファンタはサン・ジェルマン伯のうちに化身している。サン・メダールの墓地はダマスクスの回教寺院ウームーミエに劣らぬ奇蹟を行なっている。
 パリーはイソップとしてマイユーを有し、カニディアとしてルノルマン嬢を有する。パリーはデルフ町のように、あまり痛烈なる現実の幻に驚いている。ドドナの町で占考の椅子が震え動いたように、パリーではテーブルがひっくり返っている。ローマが娼婦《しょうふ》を玉座にのぼしたように、パリーは浮気女工《うわきじょこう》を玉座にのぼしている。そして要するに、ルイ十五世はクラウディウス皇帝より悪いとしても、デュ・バリー夫人はメッサリナよりも勝《まさ》っている。われわれはそれを排斥したのであるが、本当に生きてた異常な一|典型《タイプ》のうちにパリーは、ギリシャの赤裸とヘブライの潰瘍《かいよう》とガスコーニュの悪謔《あくぎゃく》とを結合している。パリーはディオゲネスとヨブとペラースとを混合し、コンスティテュシオンネル(立憲)新聞の古い紙で一つの幽霊に着物を着せて、コドリュク・デュクロスを作り出している。
 暴君はほとんど老いることなし[#「暴君はほとんど老いることなし」に傍点]とプルタルコスは言っているけれど、ローマはドミチアヌス皇帝の下におけると同じくシルラの下に自らあきらめて、甘んじてその酒に水を割った。多少正理派のきらいはあるがヴァルス・ヴィビスクスがなした次の賛辞を信ずるならば、チベル川は一つのレテ川(訳者注 地獄の忘却の川)と言うべきであった。「吾人はグラックス兄弟に対してチベル川を有す、チベルの水を飲むは反乱を忘るることなり。」しかるにパリーは一日に百万リットルの水を飲む。しかしそれにもかかわらず、場合によっては非常ラッパを鳴らし警鐘を乱打する。
 それを外にしては、パリーは善良なる小児である。彼は堂々とすべてを受け入れる。彼はヴィーナスの世界においても気むずかしくはない。そのカリーピージュのヴィーナスはホッテントット式である。彼は一度笑えば、もはやすべてを許す。醜悪も彼を喜ばせ、畸形《きけい》も彼を上きげんにし、悪徳も彼の気を慰むる。滑稽《こっけい》でさえあれば、卑しむべき人たるも許されるであろう。偽善でさえも、その最上の卑劣も、彼の気をそこなわない。彼は文学者であるから、バジルの前にも鼻つまみをしない。プリアポスの「しゃくり」を気にしなかったホラチウスのごとく、タルチュフの祈祷《きとう》をも怒らない。世界の各面相はパリーの横顔のうちにある。マビーユの舞踏会はジャニクロムのポリムニア女神のダンスとは言えないが、しかし婦人服売買婦はじっと洒落女《しゃれおんな》を見張っていて、あたかも周旋婦のスタフィラが処女のプラネジオムを待ち伏せしてるようである。コンバの市門はコリゼオムの劇場とは言えないが、しかしシーザーがそこに見物しているかのように人々は勢い込んでいる。シリアの上《かみ》さんはサゲー小母《おば》さんよりも愛嬌《あいきょう》があるだろうが、しかしヴィルギリウスがローマの居酒屋に入り浸ったとするならば、ダビド・ダンジェやバルザックやシャルレなどはパリーの飲食店にはいり込んでいる。パリーは君臨する。天才はそこに燃え出し、赤リボンの道化者《どうけもの》はそこに栄える。アドナイは雷と電光との十二の車輪をそなえた車に乗ってパリーを過ぎる。シレヌスは驢馬《ろば》に乗ってパリーにはいって来る。これをパリーではランポンノー爺《じい》さんと言う。
 パリーはコスモス(宇宙)と同意義の語である。パリーは、アテネであり、ローマであり、シバリスであり、エルサレムであり、パンタンである。パリーにはあらゆる文明が概括され、またあらゆる野蛮が概括されている。パリーは一つの断頭台を欠いても気を悪くするであろう。
 グレーヴ処刑場の少しを有するはいいことである。そういう香味がなかったならば、この永久の祭典はどうなるであろう。われわれの法律は賢くもそこにそなわっている、そしてそれによって、この肉切り包丁はカルナヴァル祭最終日に血をしたたらせる。

     十一 嘲笑《ちょうしょう》し君臨す

 パリーに限界があるか、否少しもない。おのれが統御する者らをも時として愚弄《ぐろう》するほどのこの権勢を持っていた都市は、他に一つもない。「喜べ、アテネ人よ!」とアレクサンデルは常に叫んでいた。パリーは法律以上のものを、流行を作る。パリーは流行以上のものを、慣例を作る。もし気が向けばばかとなることもある。時としては自らそういう贅沢《ぜいたく》もする。すると世界はパリーとともにばかとなる。それからパリーは目をさまし、目をこすりながら言う、「ほんとに俺《おれ》はばかげてる!」そして人類の面前に向かって放笑《ふきだ》す。そういう都市は何と驚くべきものではないか。不思議にも、その偉大さとその滑稽《こっけい》さとは親しく隣合い、その威厳はその戯言《ざれごと》から少しも乱さるることなく、同じ一つの口が、今日は最後の審判のラッパを吹き、明日は蘆笛《あしぶえ》を吹き得るのである。パリーは主権的な陽気さを持っている。その快活は火薬でできており、その滑稽は帝王の笏《しゃく》を保っている。その颶風《ぐふう》は時として一の渋面から出て来る。その爆発、その戦乱、その傑作、その偉業、その叙事詩は、世界の果てまでも響き渡る、そしてその諧謔《かいぎゃく》も世界の果てにおよぶ。その笑いはすべての土をはね上げる火山の口である。その嘲弄《ちょうろう》は火炎である。彼は各民衆にその風刺と理想とを課する。人間の文明の最も高い記念塔は、彼の皮肉を受け入れ、彼の悪戯を恒久のものたらしむる。彼は壮大である。彼は世界を開放せしむる偉大なる一七八九年七月十四日を持っている。彼はあらゆる国民に憲法制定の宣誓をなさせる。一七八九年八月四日のその一夜は、わずか三時間のうちに封建制度の一千年を解決した。彼はその理論をもって、満場一致の意志の筋力とする。彼はあらゆる壮大なる形の下に仲間を増してゆく。ワシントン、コスキュースコ、ボリヴァール、ボツァリス、リエゴ、ベム、マニン、ロペス、ジョン・ブラウン、ガリバルディーなど、彼はおのれの光によって彼らを皆満たしてやる。未来が光り輝く所にはどこにも彼はいる、一七七九年にはボストンに、一八二〇年にはレオン島に、一八四八年にはペストに、一八六〇年にはパレルモに。ハーパース・フェヤリーの小舟に集まったアメリカの奴隷廃止党員《どれいはいしとういん》の耳に、またゴツィー旅館の前の海辺アルキーにひそかに集まったアンコナの愛国者らの耳に、彼は自由という力強い標榜語《ひょうぼうご》をささやく。彼はカナリスを作り出し、キロガを作り出し、ピザカーヌを作り出す。彼は偉大なるものを地上に光被する。バイロンがミソロンギーで死に、マツェットがバルセロナで死ぬのは、彼の息吹《いぶき》に吹きやられてである。彼はミラボーの足もとでは演壇となり、ロベスピエールの足もとでは噴火口となる。その書籍、その劇、その美術、その科学、その文学、その哲学などは、人類の宝鑑である。パスカル、レニエ、コルネイユ、デカルト、ジャン・ジャック・ルーソーを彼は有し、各瞬間にわたるヴォルテールを、各世紀にわたるモリエールを有している。彼はおのれの言葉を世界の人々の口に話させる、そしてその言葉は「道《ことば》」となる(訳者注 太初に道(ことば)あり道は神と偕にあり道は即ち神なり云々――ヨハネ伝第一章)。彼はすべての人の精神のうちに進歩の観念をうち立てる。彼が鍛える救済の信条は、各時代にとっての枕刀《まくらがたな》である。一七八九年いらい各民衆のあらゆる英雄が作られたのは、彼の思想家および詩人の魂をもってである。それでもなお彼は悪戯する。そしてパリーと称するこの巨大なる英才は、その光明によって世界の姿を変えながら、テセウスの殿堂の壁にブージニエの鼻を楽書きし、ピラミッドの上に盗人クレドヴィル[#「盗人クレドヴィル」に傍点]と書きつける。
 パリーはいつも歯をむき出している。叱※《しった》していない時は笑っている。
 そういうのがすなわちパリーである。その屋根から立ち上る煙は、全世界の思想である。泥《どろ》と石との堆積《たいせき》であると言わば言え、特にそれは何よりも精神的一存在である。それは偉大以上であって、無限大である。そして何ゆえにそうであるか? あえてなすからである。
 あえてなす。進歩が得らるるのはそれによってである。
 あらゆる荘厳なる征服は、みな多少とも大胆の賜物である。革命が行なわれるには、モンテスキューがそれを予感し、ディドローがそれを説き、ボーマルシェーがそれを布告し、コンドルセーがそれを計画し、アルーエがそれを準備し、ルーソーがそれを予考する、などのみにては足りない。ダントンがそれを敢行しなければいけない。
 果敢! の叫びは一つの光あれ(訳者注 神光あれと言いたまいければ光ありき)である。人類の前進のためには、常に高峰の上に勇気という慢《ほこ》らかな教訓がなければならない。豪胆は歴史を輝かすものであって、人間の最も大なる光輝の一つである。曙光《しょこう》は立ち上る時に敢行する。試み、いどみ、固執し、忍耐し、自己に忠実であり、運命とつかみ合い、恐怖の過少をもってかえって破滅を驚かし、あるいは不正なる力に対抗し、あるいは酔える勝利を侮辱し、よく執《しう》しよく抗する、それがすなわち民衆の必要とする実例であり、民衆を奮起せしむる光明である。その恐るべき光こそ、プロメテウスの炬火《たいまつ》からカンブロンヌの煙管《パイプ》に伝わってゆくところのものである。

     十二 民衆のうちに潜める未来

 パリーの民衆は、たとい大人《おとな》に生長しても、常に浮浪少年《ガマン》である。その少年を描くことは、その都市を描くことである。鷲《わし》をその磊落《らいらく》なる小雀《こすずめ》のうちにわれわれが研究したのは、このゆえである。
 あえて力説するが、パリー民族が見られるのは特にその郭外においてである。そこに純粋の血があり、真の相貌《そうぼう》がある。そこにこの民衆は働きかつ苦しんでいる。苦悩と労働とは人間の二つの相である。そこに名も知られぬ無数の人々がいる。そしてその中に、ラーペの仲仕からモンフォーコンの屠獣者《とじゅうしゃ》に至るまであらゆる奇体な典型《タイプ》が群がっている。町の掃きだめとキケロは叫び、憤ったバークは愚衆と言い添える。賤民《せんみん》どもであり、群衆どもであり、平民どもである。そういう言葉は早急に発せられたものである。しかしまあおくとしよう、それが何のかかわりがあろう。彼らがはだしで歩いているとしても、それが何であろう。けれども悲しいかな、彼らは文字を知らない。そしてそのために彼らは見捨てらるべきであろうか。彼らの窮迫をののしりの一材料とすべきであろうか。光明もそれらの密層を貫くことはできないであろうか。顧みて、光明! というその叫びを聞き、それに心をとどめようではないか。光明! 光明! その混濁も透明となり得ないことがあろうか。革命は一つの変容ではないか。行け、哲人らよ、教えよ、照らせよ、燃やせよ、声高に考えよ、声高に語れよ、日の照る下に喜んで走れよ、街頭に親しめよ、よき便りをもたらせよ、ABCを豊かに与えよ、権利を宣言せよ、マルセイエーズを歌えよ、熱誠をまき散らせよ、樫《かし》の青葉を打ち落とせよ。そして思想をして旋風たらしめよ。あの群集は昇華され得るであろう。時々にひらめき激し震えるあの広大なる主義と徳との燎原《りょうげん》の火を、利用し得る道を知ろうではないか。あの露《あら》わな足、露わな腕、ぼろ、無知、卑賤《ひせん》、暗黒、それらは理想の実現のために使用し得らるるであろう。民衆を通してながめよ、さすれば真理を認め得るであろう。人が足に踏みにじり、炉のうちに投じ、溶解し、沸騰せしむる、あの賤《いや》しき石くれも、やがては燦爛《さんらん》たる結晶体となるであろう。ガリレオやニュートンが天体を発見し得るのは、実にそれによってである。

     十三 少年ガヴローシュ

 この物語の第二部に述べられた事件から八、九年たった時、タンプル大通りやシャトー・ドォーの方面において、十一、二歳のひとりの少年が人の目をひいていた。その少年は、脣《くちびる》には年齢にふさわしい笑いを持っていたが、それとともにまったく陰鬱《いんうつ》な空虚な心を持っていた。もしそういう心さえなかったならば、上に述べた浮浪少年の理想的タイプをかなり完全にそなえているとも称し得るものだった。大人《おとな》のズボンを変なふうにはいていた。しかしそれは親譲りのものではなかった。また女用の上衣をつけていた。しかしそれは母親からもらったものではなかった。だれかがかわいそうに思ってそういうぼろを着せてやったものだろう。といっても、彼は両親を持っていた。ただ、父親は彼のことを気にも止めず、母親は彼を少しも愛していなかった。彼はあらゆる子供のうちでも最もあわれむべき者のひとりだった。父と母とを持ちながらしかも孤児でもある子供のひとりだった。
 この少年は、往来にいる時が一番楽しかった。街路の舗石《しきいし》も彼にとっては、母の心ほどに冷酷ではなかった。
 彼の両親は彼を世の中に蹴《け》り捨ててしまったのである。
 彼はただ訳もなく飛び出してしまったのである。
 彼は、騒々しい、色の青い、すばしこい、敏感な、いたずら者で、根強いかつ病身らしい様子をしていた。街頭を行き来し、歌を歌い、銭投げをし、溝《どぶ》をあさり、少しは盗みをもした。しかし猫《ねこ》や雀《すずめ》のように快活に盗みをやり、悪戯者《いたずらもの》と言われれば笑い、悪者と言われれば腹を立てた。住居もなく、パンもなく、火もなく、愛も持たなかった。しかし彼は自由だったので、いつも快活だった。
 かかるあわれな者らがもし大人《おとな》である時には、たいていは社会の秩序という石臼《いしうす》がやって来て押しつぶしてしまうものである。しかし子供である間は、小さいからそれをのがれ得る。ごく小さな穴さえあればそれで身を免れることができる。
 この少年は前に述べたとおりまったく放棄されていたけれど、時とすると三カ月に一度くらいは、「どれどれひとつ阿母《おっかあ》にでも会ってこよう!」と言うことがあった。すると彼はもう、その大通りも曲馬場もサン・マルタン凱旋門も打ち捨てて、川岸に行き、橋を渡り、郭外に出で、サルペートリエール救済院のほとりに行き、それから、どこへ行くのか。それはまさしく、読者が既に知っているあの五十・五十二番地という二重番地の家、ゴルボー屋敷へである。
 いつも住む人がなく、「貸し間」という札が常にはりつけられていたその五十・五十二番地の破屋《あばらや》には、その頃珍しくも、大勢の人が住んでいた。もとよりパリーのことであるから、大勢の人と言っても互いに何らの縁故も関係も持たなかった。皆赤貧の部類に属する者たちだった。赤貧の階級は、まず困窮な下層市民から初まり、困苦から困苦へとしだいに社会のどん底の方へ沈んでゆき、物質的文明の末端である二つのものとなってしまうのである。すなわち、泥を掃き除ける溝渫《どぶさら》い人と、ぼろを集める屑屋《くずや》とである。
 ジャン・ヴァルジャンのいた頃の「借家主」の婆さんはもう死んでいて、後《あと》にはそれとちょうど同じような婆さんがきていた。だれかある哲学者が言ったことがある、「婆というものは決してなくならないものだ。」
 この新たにきた婆さんは、ビュルゴン夫人と言って、その生涯に重立ったことと言っては、ただ三羽の鸚鵡《おうむ》を飼ったくらいのもので、それらの鸚鵡が三代順次に彼女の心に君臨したのである。
 その破屋《あばらや》に住んでいた人々のうちで最も惨《みじ》めなのは、四人の一家族だった。父と母ともうかなり大きなふたりの娘とで、前に述べておいたあの屋根部屋の一つに、四人いっしょになって住んでいた。
 その一家族は、極端に貧窮であるというほかには、一見したところ別に変わった点もないようだった。父親は室《へや》を借りる時、ジョンドレットという名前だと言った。引っ越してきてから、と言っても、借家主婆さんのうまい言い方を借りれば、それはまったく身体だけの引っ越し[#「身体だけの引っ越し」に傍点]にすぎなかったが、その後しばらくしてジョンドレットは、前の婆さんと同じく門番でまた掃除女《そうじおんな》であるその借家主婆さんに、次のように言ったことがある。「婆さん、もしだれかひょっとやってきて、ポーランド人とか、イタリア人とか、またスペイン人とかを尋ねる者があったら、それは私のことだと思っていてもらいましょう。」
 その一家族は、あの愉快なはだしの少年の家族だった。少年はそこへやってきても、見いだすものはただ貧窮と悲惨とだけで、それになおいっそう悲しいことには、何らの笑顔をも見いださなかった。竈《かまど》も冷えておれば、人の心も冷えている。彼がはいってゆくと、家の者は尋ねた、「どこからきたんだい。」彼は答えた、「おもてからさ。」また彼が出て行こうとすると、家の者は尋ねた、「どこへ行くんだい。」彼は答えた、「おもてへさ。」母親はいつも言った、「何しに帰ってきたんだい。」
 その少年は、窖《あなぐら》の中にはえた青白い草のように、まったく愛情のない中に生きていた。けれども彼はそれを少しも苦にせず、まただれをも恨まなかった。彼はいったい両親というものはどうあるべきものかということをもよくは知らなかった。
 それでも、母親は彼の姉たちをかわいがっていた。
 言うのを忘れていたが、タンプル大通りではこの少年を小僧ガヴローシュと言っていた。なぜガヴローシュと呼ばれたかというと、おそらくその父親がジョンドレットというからだったろう。
 家名を断つということは、ある種の悲惨な家族における本能らしい。
 ジョンドレット一家が住んでいたゴルボー屋敷の室《へや》は、廊下の端の一番奥だった。そしてそれと並んだ室にはマリユス君というごく貧しいひとりの青年が住んでいた。
 このマリユス君が何人《なんびと》であるかは、次に説明しよう。
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    第二編 大市民

     一 九十歳と三十二枚の歯

 ブーシュラー街やノルマンディー街やサントンジュ街などには、ジルノルマンという爺《じい》さんのことを覚えていて喜んで話してくれる昔からの住人が、今なおいくらか残っている。彼らが若い頃その人はもう老人だった。過去と称する漠然たる幻の立ちこめた曠野《こうや》を憂鬱《ゆううつ》にながめる人たちの頭には、その老人の姿がタンプル修道院に隣していた迷宮のような小路のうちにおぼろに浮かんでくる。その一郭の入り組んだ小路にはルイ十四世の頃はフランスの各地方の名前がつけられていて、あたかも今日ティヴォリの新しい街区の小路に欧州の各首都の名前がつけられてるのと同じであった。ついでに言うが、それは一つの前進であってそこに進歩が見られるではないか。
 ジルノルマン氏は一八三一年には飛び切りの長寿者だった。そしてその長く生きてきたという理由だけで滅多に見られない人となっており、昔は普通の人だったが今はまったくひとりっきりの人であるという理由で不思議な人となっていた。独特な老人で、いかにも時勢はずれの人で、十八世紀式の多少|傲慢《ごうまん》な完全な真の市民であり、侯爵らが侯爵ふうを持っているようにその古い市民ふうをなお保っていた。九十歳を越えていたが、腰も曲がらず、声も大きく、目もたしかで、酒も強く、よく食い、よく眠り、鼾《いびき》までかいた。歯は三十二枚そろっていた。物を読む時だけしか眼鏡《めがね》をかけなかった。女も好きだったが、もう十年この方断然そして全然女に接しないと自ら言っていた。「もう女の気に入らない」と言っていた。しかしそれにつけ加えて、「あまり年取ったから」とは決して言わず、「あまり貧乏だから」と言っていた。そしてよく言った、「私がもし尾羽うち枯らしていなかったら……へへへ。」実際彼にはもう一万五千フランばかりの収入きり残っていなかった。彼の夢想は、何か遺産でも受け継いで、妾《めかけ》を置くために十万フランばかりの年金を得ることだった。明らかに彼は、ヴォルテール氏のように生涯中死にかかってた虚弱な八十翁の類《たぐ》いではなかった。亀裂《ひび》のはいった長生きではなかった。この元気な老人は常に健康だった。彼は浅薄で、気が早く、すぐに腹を立てた。何事にも、多くは条理もたたないのに、煮えくり返った。その意見に反対しようものなら、すぐに杖《つえ》を振り上げた。大世紀([#ここから割り注]訳者注 ルイ十四世時代[#ここで割り注終わり])のころのようになぐりつけまでした。もう五十歳以上の未婚の娘を持っていたが、怒《おこ》った時にはそれをひどくなぐりつけ、また鞭《むち》でよくひっぱたいた。彼の目にはその老嬢も七、八歳の子供としか見えなかった。彼はまた激しく召し使いどもに平手を食わした、そして「このひきずり奴《め》が!」とよく言った。彼が口癖のののしり語の一つは、足が額にくっつこうとも[#「足が額にくっつこうとも」に傍点]というのだった。ある点について彼は妙に泰然としていた。毎日ある理髪屋に顔をそらせていた。その理髪屋はかつて気が狂ったことのある男で、愛嬌者《あいきょうもの》のきれいな上《かみ》さんである自分の女房のことについてジルノルマン氏を妬《や》いていたので、従って彼をきらっていた。ジルノルマン氏は何事にも自分の鑑識に自ら感心していて、自分は至って機敏だと公言していた。次に彼の言い草を一つ紹介しよう。「実際|私《わし》は洞察力《どうさつりょく》を持ってるんだ。蚤《のみ》がちくりとやる場合には、どの女からその蚤がうつってきたか、りっぱに言いあてることができる。」彼が最もしばしば口にする言葉は、多感な男というのと自然というのだった。この第二の方の言葉は、現代使われてるような広大な意味でではなかった。そして彼は炉辺のちょっとした風刺のうちに独特な仕方でそれを挿入《そうにゅう》していた。彼は言った。「自然は、あらゆるものを多少文明に持たせるため、おもしろい野蛮の雛形《ひながた》までも文明に与えている。ヨーロッパはアジアやアフリカの小形の見本を持っている。猫《ねこ》は客間の虎《とら》であり、蜥蜴《とかげ》はポケットの鰐《わに》である。オペラ座の踊り子たちは薔薇《ばら》のような野蛮女である。彼女らは男を食いはしないが、男の脛《すね》をかじっている。というよりも、魔術使いだ。男を牡蠣《かき》みたいにばかにして、貪《むさぼ》り食う。カリブ人は人を食ってその骨だけしか残さない、だが彼女らはその殻だけしか残さない。そういうのがわれわれの風俗だ。われわれの方はのみ下しはしないが、かみつくのだ。屠《ほふ》りはしないが、引っかくのだ。」

     二 この主人にしてこの住居あり

 彼はマレーのフィーユ・デュ・カルヴェール街六番地に住んでいた。自分の家であった。この家はその後こわされて建て直され、パリーの各街路の番地変更の時にやはりその番地も変えられたはずである。当時彼はその二階の古い広い部屋に住んでいた。それは街路と庭とを両方に控え、ゴブランやボーヴェー製の牧羊の絵のついてる大きな布で天井までもすっかり張られていた。天井や鏡板《かがみいた》についてる画題は、小さくして肱掛椅子《ひじかけいす》にも施されていた。またその寝台は、コロマンデル製のラック塗りの大きな九枚折り屏風《びょうぶ》で囲まれていた。窓には長く広い窓掛けが下がっていて、いかにもみごとな大きな縮れ襞《ひだ》をこしらえていた。庭はすぐそれらの窓の下にあったが、愉快げに老人が上り下りする十二、三段の階段で角《かど》になってる一つの窓から、ことによく見られた。室に接している文庫のほかに、彼がごく大事にしてる納戸部屋《なんどべや》が一つあった。それはりっぱな小|室《へや》で、そこに張ってある素敵な壁紙には百合《ゆり》の花模様や種々な花がついていた。その壁紙は、ルイ十四世の漕刑場《そうけいじょう》でこしらえられたもので、王の情婦のためにヴィヴォンヌ氏が囚人らに命じて作らせたものだった。ジルノルマン氏はそれを、百歳も長寿を保って死んだ母方の大変な大叔母から譲り受けたのだった。彼は二度妻を持ったことがあった。彼の様子は朝臣と法官との中間に止まっていた。しかし彼はかつて朝臣であったことはないが、法官にはなろうとすればなれないこともなかったかも知れない。彼は快活であり、気が向けば人をいたわってやった。世には、最もふきげんな夫であるとともに最もおもしろい情人であるために、いつも妻からは裏切られるが決して情婦からは欺かれることのないような男がいるものだが、彼も若い頃はそういう男のひとりだった。彼は絵画の方面に鑑識があった。彼の室にはだれかのみごとな肖像が一つあった。ヨルダンスの手に成ったもので、荒い筆触で様々な細部まで描かれていて、乱雑にでたらめに書かれたものらしかった。ジルノルマン氏の服装は、ルイ十五世式でもなければ、ルイ十六世式でもなく、執政内閣時代の軽薄才子《アンクロアイヤブル》のような服装だった。彼はそれほど自分を若いと思っていて、その流行をまねたのだった。その上衣は軽いラシャで、広い折り襟《えり》と、長い燕尾《えんび》と、大きな鉄のボタンとがついていた。それに加うるに、短いズボンと留め金つきの靴《くつ》。そしていつも両手をズボンのポケットにつっ込んでいた。彼は堂々と言っていた、「フランス大革命は無頼漢どもの寄り合いだ。」

     三 リュク・エスプリ

 十六歳の時に彼は、当時成熟していてヴォルテールから歌いはやされた有名なふたりの美形カマルゴー嬢とサレ嬢とから、同時に色目を使われるの光栄に浴した。そして両方の炎の間にはさまれて、勇ましい退却を行ない、ナアンリーという小さな踊り子の方へなびいていった。その娘は彼と同じ十六歳で、まだ子猫《こねこ》のように名も知られない者だったが、彼はそれに恋したのだった。彼はいつもその思い出をいっぱい持っていた。彼はよく叫んだ。「あのギマール・ギマルディニ・ギマルディネットは実にきれいだった。最後にロンシャンで会った時には、髪の毛を神々《こうごう》しくちぢらし、世にも珍しいトルコ玉の飾りをつけ、赤ん坊の頬《ほほ》の色のような長衣を引っかけ、ふさふさしたマッフを持っていた。」彼はまた青春の頃にナン・ロンドランのチョッキをつけてたことがあって、そのことを心ゆくばかり語っていた。「私は日の出る東《あずま》のトルコ人のような服を着ていた、」と彼はよく言った。二十歳のころ彼はふとブーフレル夫人に見られて、「ばかにかわいい人」と言われたことがあった。政治界や官界に現われてる名前は、どれもこれも皆下等で市民的であると言って憤慨していた。彼は新聞を、彼のいわゆる新報紙[#「新報紙」に傍点]だの報知紙[#「報知紙」に傍点]だのを、笑いをおさえながら読んでいた。彼はよく言った。「何という者どもだ、コルビエール、ユマン、カジミール・ペリエ、そういうのが大臣だって。まあ新聞に大臣ジルノルマン氏と書いてあるとしてごらん、おかしいだろうじゃないか。ところでまあ彼らときたら、結構それで通るくらいばかだからな。」彼は上品も下等もおかまいなしの言葉で何でも快活に言ってのけ、女の前であろうと少しもはばからなかった。野卑なこと、猥褻《わいせつ》なこと、不潔なこと、それを語るにも一種の落ち着きをもってし、風流の冷静さをもってした。まったく彼が属する前世紀の不作法さである。婉曲《えんきょく》なる詩の時代はまた生々《なまなま》しい散文の時代であったことは注意すべきである。彼の教父は、彼が他日天才になるだろうと予言して、次の意味深い二つの洗礼名を彼に与えていた、すなわちリュク・エスプリと(訳者注 使徒ルカ・精霊の意)。

     四 百歳の志願者

 彼は子供の時、故郷のムーランの中学校で幾つかの褒賞《ほうしょう》をもらい、彼がヌヴェール公爵と呼んでいたニヴェルネー公爵の手から親しく授かった。国約議会も、ルイ十六世の処刑も、ナポレオンも、ブールボン家の復帰も、その褒賞の思い出を彼の心から消すことはできなかった。ヌヴェール公爵[#「ヌヴェール公爵」に傍点]は、彼にとっては時代の最も偉い大立て物だった。彼はよく言った。「何というりっぱな大貴族だったろう、あの青い大綬《たいじゅ》をつけられたところは何というみごとさだったろう!」ジルノルマン氏の目には、カテリナ二世はベステュシェフから三千ルーブルで黄金精液の秘法を買い取ったので、ポーランド分割の罪をつぐなったことになるのだった。彼は叫んだ。「黄金精液、ベステュシェフの黄色い薬、将軍ラモットの液、それは十八世紀では半オンス壜《びん》が一ルイ(二十フラン])もしたものだ。恋の災厄に対する偉大な薬で、ヴィーナスに対する万能薬だ。ルイ十五世はその二百壜を法王に贈られたものだ。」もし彼に、その黄金精液は実は鉄の過塩化物にすぎないのだと言ったら、彼は非常に絶望し狼狽《ろうばい》したに違いない。ジルノルマン氏はブールボン家を賛美し、恐怖のうちに一七八九年を過ごした。そしていかなる方法で恐怖時代をのがれていたか、いかに多くの快活と機才とが首を切られないためには必要であったかを、彼は絶えず語っていた。もしある若い者が彼の前で共和政を賛美でもしようものなら、彼は顔の色を変え息もつけないほどにいらだつのだった。時とすると彼は自分の九十歳ということに関連さして、こんなことを言った。「私は九十三という年を二度と見たくない。」(訳者注 ルイ十六世の死刑が行なわれた一七九三年にかけた言葉)しかしまたある時には、百歳までは生きるつもりだと人にもらしていた。

     五 バスクとニコレット

 彼は定説を持っていた。その一つは次のようなものだった。「もし人が熱烈に女を愛し、しかも自分には、醜い、頑固《がんこ》な、正当な、権利を有し、法律を楯《たて》にとり、場合によっては嫉妬《しっと》を起こすがような、あまり気に入らない正妻がある時には、それに処して平和なるを得る方法はただ一つあるのみである。すなわち、妻に財布のひもを任せることである。権利をすてて自由の身になるのだ。すると妻はその方に心を奪われ、貨幣の取り扱いに熱中し、指に緑青《ろくしょう》を染め、折半小作人や請作人を仕込み、代言人をよび、公証人を指揮し、弁護士をわずらわし、法官を訪れ、裁判を起こし、証書を作り、契約を書かせ、得意になり、売り、買い、計算し、命令し、約束し和解し、契約し取り消し、譲歩し譲与し還付し、整理し、混乱させ、蓄財し、浪費する。その他種々のばかなことを行ない、それが権柄的《けんぺいてき》なまた個人的な喜びとなり、それで自ら慰める。夫《おっと》から軽蔑されてる間に、夫を破産さして満足するものである。」この理論を彼は自分自身に適用し、自分の履歴とまでなっていた。彼の二番目の妻は、彼の財産をかなり賢く管理していたので、ある日彼女が死んだ時、彼には食べるだけのものが残っていた、すなわちほとんど全部を終身年金に預けて年収一万五千フランほどにはなった。がその大部分は彼とともに消え失せることになっていた。彼は別に驚きもしなかった、遺産を残すことなんかあまり考えてもいなかったから。それにまた、世襲財産はあぶなっかしいものであって、たとえば国有財産[#「国有財産」に傍点]になることもあるのを、彼は見てきたのだった。整理公債の変動に立ち会ってきたのだった。そして彼は公債大帳をあまり信用しなかった。「カンカンポア街の銀行だけじゃないか[#「カンカンポア街の銀行だけじゃないか」に傍点]、」と彼は言っていた。フィーユ・デュ・カルヴェール街の家は、前に言ったとおり自分のものであった。「牡《おす》と牝《めす》と」ふたりの雇い人がいた。新しい雇い人がやって来る時には、ジルノルマン氏は新たに洗礼名をつけてやるのを常とした。男の方にはその出生地の名前を与えた、ニモア、コントア、ポアトヴァン、ピカールなどと。最後の下男は、ふとってよぼよぼした息切れのする五十歳ばかりの男で、二十歩とは走れなかった。しかしバイヨンヌ生まれであるところから、ジルノルマン氏は彼にバスクという名前を与えていた([#ここから割り注]訳者注 ピレネー山間の剽悍なる民にバスク人というのがある[#ここで割り注終わり])。下女の方は皆ニコレットという名前をもらっていた。(後に出てくるマニョンという女もそうであった。)ある日、門番に見るような背《せ》の高いつんとしたすてきな料理女が彼の家にやってきた。ジルノルマン氏は尋ねた。「給金は月にいくらほしいんだ。」「三十フランです。」「何という名前だ。」「オランピーと申します。」「よろしい五十フランあげよう、そしてニコレットという名前にしたがいい。」

     六 マニョンとそのふたりの子供

 ジルノルマン氏においては、心痛は憤怒となって現われた。彼は絶望すると狂猛になった。彼はあらゆる偏見を持っていて、あらゆるわがままを行なった。彼の外部の特徴を形造っていたものの一つで、また彼の内心の満足であったところのものは、前に指摘しておいたとおり、老いても血気盛んだということで、是非ともそういうふうに装うということだった。彼はそれを「りっぱな評判」を得ることと称していた。りっぱな評判は彼に時とすると、不思議な意外な獲物をもたらすことがあった。ある日、相当な産着《うぶぎ》にくるまれ泣き叫んでる生まれたばかりの大きな男の児が牡蠣籠《かきかご》みたいな籠の中に入れられて、彼の家に持ち込まれた。六カ月前に追い出されたひとりの下女が、その赤ん坊は彼の児だと言ったのである。ジルノルマン氏はその時ちょうど八十四歳いっぱいになっていた。まわりの者は大変に腹を立てわき返るような騒ぎをした。恥知らずの売女《ばいた》めが、いったいだれに赤ん坊を育てさせようと思ってるのか。何という大胆さだ。何と忌まわしい中傷だ! ところがジルノルマン氏の方は、少しも腹を立てなかった。彼は中傷によってへつらわれた好々爺《こうこうや》らしい快い微笑を浮かべて、その赤児をながめた、そして他人事《ひとごと》のように言った。「なあに、なんだと、どうしたと、いったいどうしたんだと? みんなばかに驚いてるな。なるほど無学な者どもだわい。シャール九世陛下の庶子アングーレーム公爵閣下は、八十五歳になって十五の蓮葉娘《はすはむすめ》と結婚された。ボルドーの大司教だったスールディー枢機官の弟のアリューイ侯爵ヴィルジナル氏は、八十三歳で議長ジャカン夫人の小間使いによってひとりの児を設けられた、真の恋愛の児で、後にマルタ団の騎士となり軍事顧問官となった人だ。近代の偉人のひとりであるタバロー修道院長は、八十七歳の人の設けた児である。そんなことは何も不思議とするには当たらない。聖書を見てもわかる。ただこのお児さんは、私《わし》のでないということを宣言する。がまあ世話してやるがいい。このお児さんが悪いのではない。」そのやり方はいかにも善良だった。女はマニョンという名だったが、次の年にまた第二の子供を彼に贈ってきた。それもやはり男の児だった。そしてこんどはジルノルマン氏もついに降参した。彼はふたりの子供を母親に送り返して、該母親が再びかかることをしないという条件で、その養育料として毎月八十フランを与えることにした。彼はつけ加えて言った。「もちろん母親はふたりを大事にしなければいけない。時々私が見に行くことにする。」そして彼は実際それを行なった。彼はまた牧師になっているひとりの弟を持っていた。その弟はポアティエ学会の会長を三十三年間もしていて、七十九歳で死んだ。「若くて[#「若くて」に傍点]亡《な》くなった[#「くなった」に傍点]」とジルノルマン氏は言っていた。彼はその思い出をあまり多く持っていなかった。弟はおとなしい吝嗇家《りんしょくか》で、牧師だから貧しい人々に出会えば施与をしなければならないと思ってはいたが、小銭だの法価を失った銅貨だのしか恵まなかった、そして天国の道によって地獄に行く方法を見いだしていた。兄のジルノルマン氏の方は、施与をおしまないで、好んでまた鷹揚《おうよう》に与えていた。彼は親切で、性急で、恵み深くて、もし金がたくさんあったらそのやり口はみごとなものだったろう。自分に関係することなら何でも、たとい騙詐《かたり》でも、堂々とやってもらいたがっていた。ある日、ある相続の件について、厚かましい明らかなやり方でその道の者からごまかされた時、彼は次のようにおごそかに叫んだ。「チェッ! いかにも卑しいやり方だ! かかる我利我利を私は恥ずかしく思う。この節ではすべてが、悪者までが堕落している。断じて、それは私のような者から盗むべきやり口ではない。森の中で盗まれたようなものだ、しかも悪い盗み方だ。森は督政官《コンスユル》の名を汚さざらんことを。」(訳者注 森の中で盗まれることは、大胆な避くる道のない方法で盗まれることを言う)彼はまた、前に言ったとおり二度妻を持った。第一の妻にひとりの娘があって、結婚しないでいた。第二の妻にもひとりの娘があった。この方は三十歳ばかりで死んだが、その前に、一兵卒から成り上がりの軍人と、愛し合ったのか偶然でき合ったのかまたは何かで、結婚していた。その軍人は、共和政および帝政の頃に軍隊にはいっていて、アウステルリッツの戦に勲章をもらい、ワーテルローでは大佐になっていた。「これは私の家の恥だ、」と老市民は言っていた。彼はまたひどく煙草《たばこ》が好きだった。それからことにちょっと手先でレースの襟飾《えりかざ》りをちぢらすのに巧みだった。彼はあまり神を信じていなかった。

     七 規定――晩ならでは訪客を受けず

 リュク・エスプリ・ジルノルマン氏とは右のような人物であった。彼は少しも頭髪を失わず、白髪《しらが》というよりもむしろ灰色の髪をしていて、いつも「犬の耳」式にそれをなでつけていた。要するに、そしてそれらのことをいっしょにして、彼は一個の敬愛すべき人物だった。
 彼は十八世紀式の人物であって、軽佻《けいちょう》にして偉大であった。
 王政復古の初めのころ、まだ若かったジルノルマン氏は――彼は一八一四年には七十四歳にすぎなかった――サン・ジェルマン郭外セルヴァンドニ街のサン・スュルピス会堂の近くに住んでいた。彼がマレーに退いたのは、八十歳に達した後、社会から隠退してであった。
 そして社会から隠退して閉じこもり、自分の習慣のみを守った。原則として、そして彼はそれに一徹であったが、昼間はまったく門を閉ざし、決して晩にしか訪客を受けなかった。だれであろうといかなる用件があろうと、晩に限るのだった。五時に夕食をして、それから門が開かれた。それは彼の世紀の習慣であって、それを少しも改めようとしなかったのである。彼は言っていた。「昼間は物騒で、雨戸を閉ざすべきである。りっぱな紳士は、蒼空《そうくう》が星を輝かす時に、おのれの精神を輝かすのである。」そして彼はすべての人に対して、たとい国王に対してさえ、墻壁《しょうへき》を高く築いていた。彼の時代の古い都雅である。

     八 二個は必ずしも一対をなさず

 ジルノルマン氏のふたりの娘については、上に少しく述べておいた。ふたりは十年の間をおいて生まれた。若い頃、ふたりにはほとんど似寄った所がなかった。その性質から言っても容貌《ようぼう》から言っても、これが姉妹かと思われるほどだった。妹の方はかわいい心根を持っていて、すべて輝かしい方へ心を向け、花や詩や音楽に夢中になり、光栄ある世界をあこがれ、熱烈で、高潔で、子供の時から頭の中である勇壮な者に身をささげていた。姉の方もまた自分の夢想を持っていた。ある御用商人、ある金持ちで恰幅《かっぷく》のいい糧秣係《りょうまつがか》り、あるいかにもお人よしの夫《おっと》、ある成金、またはある県知事、そういうものを蒼空《そうくう》のうちに夢みていた。県庁の招待会、首に鎖をからました控え室の接待員、公の舞踏会、市町村長の祝辞、「知事夫人」たること、そういうものが彼女の想像のうちに渦巻いていた。そのようにしてふたりの姉妹は若いころ、めいめい自分の夢想のうちにさまよい出ていた。ふたりとも翼を持っていた、ひとりは天使のように、ひとりは鵞鳥《がちょう》のように。
 いかなる野心も、少なくともこの世では、十分に満たさるることはない。いかなる天国も、現代の時勢では、地上のものとなることはない。妹は自分の夢想中の男と実際結婚したが、その後死んでしまった。姉の方は一度も結婚をしなかった。
 われわれのこの物語の中に現われてくる頃の彼女は、一片の老いぼれた徳であり、一個の燃焼し難い似而非貞女《えせていじょ》であり、最もとがった鼻の一つであり、およそ世にある最も遅鈍な精神の一つであった。特殊な一事としては、その狭い家庭外にあってはだれも彼女の呼び名を知ってる者のないことだった。人々は彼女を姉のジルノルマン嬢と呼んでいた。
 偽君子的なことでは、姉のジルノルマン嬢はイギリスの未婚婦人よりも一日の長があったろう。彼女は暗闇《くらやみ》にまで押し進められた貞節であった。生涯のうちの恐ろしい思い出と自称していることは、ある日靴下留めの紐《ひも》をひとりの男に見られたということだった。
 年とともにその無慈悲な貞節はつのるばかりだった。その面布《かおぎぬ》はかつて十分に透き通ったものにされたことがなく、かつて十分に高く引き上げられたことがなかった。だれものぞこうともしない所にまで、やたらに留め金や留め針が使われた。貞節を装うことの特性は、要塞《ようさい》が脅かさるること少なければ少ないほどますます多くの番兵を配置することである。
 けれども、その古い潔白の秘密を説明するものとするならしてもいいが、彼女はひとりの槍騎兵《そうきへい》の将校に抱擁されることを、別に不快がりもせずに許していた。それは彼女の甥《おい》の子で、テオデュールという名前だった。
 そのかわいがってる槍騎兵がひとりありはしたが、われわれが彼女に与えた似而非貞女という付札は、まったくよく適当していた。ジルノルマン嬢は一種の薄明の魂であった。貞節を装うことは半端《はんぱ》の徳でありまた半端の不徳である。
 彼女は貞節を装うことのほかになお狂信癖を持っていた。実によく適当した裏地である。彼女はヴィエルジュ会にはいっており、ある種の祭典には白い面紗《ヴェール》をつけ、特殊な祈祷《きとう》をつぶやき、「聖なる血」を尊び、「聖《きよ》き心」を敬い、普通一般の信者どもには許されない礼拝堂の中で、ロココ・ゼジュイット式の祭壇の前に数時間じっと想を凝らし、そしてそこで、大理石像の群の間に、金箔《きんぱく》をかぶせた木材の大きな円光の輻《や》の中に、自分の心を翔《か》けらせるのであった。
 彼女は礼拝堂での友だちをひとり持っていた。同じく年老いた童貞の女で、名前をヴォーボアと言い、全然|愚蒙《ぐもう》な婆さんであって、ジルノルマン嬢はそのそばで一つの俊敏《しゅんびん》な鷲《わし》たるの愉快を感じていた。アグニュス・デイやアヴェ・マリア(訳者注 神の羊のものにて人はあるなり云々――めでたしマリアよ恵まるるものよ云々――という祈祷)のほかにヴォーボア嬢は、種々な菓子を作る方法を心得てるきりで、他に何らの教養もそなえていなかった。一点の知力の汚点《しみ》もない愚昧《ぐまい》の完全な白紙であった。
 なお付記すべきことは、ジルノルマン嬢は老年になるにつれて悪くなるというよりもむしろよくなっていった。それは消極的な性質の者には通例のことである。彼女はかつて意地悪だったことはなかった。意地悪でないというのは一つの相対的な善良さである。それからまた、年ごとに圭角《けいかく》がとれてきて、時とともに穏和になってきた。彼女のうちには言い知れぬ哀愁がこめていて、自分でもその理由を知らなかった。彼女の様子のうちには、まだ初まらないうちに既に終わった一生涯がもつところの茫然《ぼうぜん》自失さがあった。
 彼女は父の家を整えていた。あたかもビヤンヴニュ閣下が自分のそばに妹を引きつけていたように、ジルノルマン氏は自分のそばに娘を引きとめていた。老人と老嬢との世帯は決して珍しいものではなく、ふたりの弱い者が互いによりかかってるありさまは常に人の心を打つ光景である。
 この一家の中には、以上の老嬢と老人とのほかに、なおひとりの少年がいた。小さな男の児で、いつもジルノルマン氏の前に身を震わして黙っていた。ジルノルマン氏がその子供に口をきく時は、いつもきびしい声を上げ、時として杖《つえ》を振り上げまでもした。「おいで、横着さん!――いたずらさん、こちらへおいで!――返事をしなさい、おばかさん!――顔をお見せ、ろくでなしさん!――云々《うんぬん》、云々。」そして彼はその子供を無性にかわいがっていた。
 それは彼の孫であった。この少年のことはおいおい述べるとしよう。

    第三編 祖父と孫

     一 古き客間

 ジルノルマン氏はセルヴァンドニ街に住んでいたころ、幾つかのごくりっぱな上流の客間《サロン》に出入りしていた。彼は中流市民ではあったが、拒まれはしなかった。否かえって、彼は二重の機才を、一つは実際持っているものであり一つは持ってると人から思われていたものであるが、二重の機才をそなえていたので、喜んで迎えられ歓待された。彼は自分が羽振りをきかせ得る所へでなければどこへも出入りしなかった。どんな価を払っても常に勢力を欲し常にもてはやされることを欲する者が世にはある。彼らは自分が有力者であり得ない所では、道化物となるものである。ところがジルノルマン氏はそういう性質の人ではなかった。出入りする王党の客間《サロン》における彼の羽振りは、彼の自尊心を少しも傷けないものだった。彼は至る所で有力者だった。ド・ボナルド氏やバンジー・プュイ・ヴァレー氏にまで匹敵するほどになっていた。
 一八一七年ごろ、彼はきまって一週に二回はその午後を、近くのフェルー街のT男爵夫人の家で過ごすことにしていた。彼女はりっぱな尊敬すべき人物で、その夫はルイ十六世の時にベルリン駐剳《ちゅうさつ》のフランス大使だったことがある。このT男爵は、生存中磁気の研究に無我夢中になっていたが、革命時の亡命に零落してしまい、死後に残した財産としてはただ、メスメルとその小桶([#ここから割り注]訳者注 メスメルは動物磁気研究の開祖[#ここで割り注終わり])に関するきわめて不思議な記録を赤いモロッコ皮の表紙で金縁にしてとじ上げた、十冊の手記のみだった。T夫人は品位を保ってそれらの記録を出版しなかった、そして、どうして浮き出してきたかだれにもわからないあるわずかな年収入で生活をささえていた。彼女は彼女のいわゆる雑種の社会[#「雑種の社会」に傍点]たる宮廷から離れて、気高い矜《ほこ》らかな貧しい孤立のうちに暮らしていた。一週に二回数人の知人が、その寡婦《かふ》の炉のまわりに集まることになっていて、そこに純粋な王党派の客間《サロン》をこしらえていた。皆お茶を飲んだ。そして時勢だの憲法だのブオナパルト派([#ここから割り注]訳者注 ブオナパルトはボナパルトの皮肉な呼称[#ここで割り注終わり])だの青色大綬を市民へ濫発《らんぱつ》することだのルイ十八世のジャコバン主義だのについて、風向きが悲歌的であるか慷慨的《こうがいてき》であるかに従って、あるいは嘆声を放ちあるいは嫌悪《けんお》の叫びを上げた。そしてシャール十世以来初めて王弟によってほの見えてきた希望のことを、低い声で語り合った。
 そこでは、ナポレオンのことをニコラ と呼ぶ俗歌が非常に喜ばれた。社交界の最もやさしい美しい公爵夫人らが、「義勇兵ら」( 訳者注 ナポレオンがエルバ島より帰還せし時の )に向けられた次のような俗謡に我を忘れて喝采《かっさい》した。

   ズボンの中に押し込めよ、
   はみ出たシャツの片端を。
   白き旗を愛国者らは


  掲げたりと人に言わすな。(訳者注 白き旗は王党の旗)
 また人々は、痛烈なものだと思ってる地口を言ってはおもしろがり、皮肉だと思ってる他愛もない洒落言葉《しゃれことば》を言ってはおもしろがり、四行句や対連句を言ってはおもしろがった。たとえばドゥカーズやドゥゼール氏らが連なっていた穏和なデソール内閣についての次のような句。

  小屋《カーズ》を取り代うべし。

 あるいはまた、「おぞましきジャコバン院」である上院の名簿を作り、その中に種々な名前を組み合わして、たとえば次のような句をこしらえ上げた。「ダマス 、サブラン 、グーヴィオン ・サン ・シール ( ]訳者注 みな王党の人々 )。」そして非常に愉快がった。
 その仲間だけでまた革命の道化歌を作った。彼らは革命の暴威をあべこべに革命者どもの方へ向けさせようとする一種の下心を持っていた。人々はその小唄《こうた》の「よからん」を歌った。

  噫《ああ》、よからん、よからん、よからんや!
  ブオナパルト派は絞首台!


 小唄は断頭台のようなものである。何らおかまいなしに、今日はこちらの首を切り、明日はあちらの首を切る。それは一つの変化にすぎない。
 当時一八一六年の事件たるフュアルデス事件については(訳者注 行政官フュアルデス暗殺事件)、人々は暗殺者バスティードやジョージオンの味方をした。なぜならフュアルデスは「ブオナパルト派」であったから。また人々は自由派を「兄弟同士」と綽名《あだな》した。それは侮辱の極度のものであった。
 教会堂の鐘楼に鶏形風見があるように、T男爵夫人の客間も二つの勇ましい牡鶏《おんどり》を持っていた。一つはジルノルマン氏で、一つはラモト・ヴァロア伯爵であった。この伯爵のことを人々は一種の敬意をもって互いにささやき合った。「御存じですか、あれが首環事件のラモト氏です」(訳者注 一七八五年ごろラモト伯爵夫人によって惹起せられた有名な首環紛失事件)。仲間の間ではそのような特殊な容捨も行なわれるのである。
 なおここにちょっと付言する。市民間においては、光栄ある地位はあまりに容易な交際を許す時にはその光を減ずるものである。だれに出入りを許すかを注意しなければいけない。冷たいものが近づく時に温気《うんき》が失われるように、一般に軽蔑されてる人物を近づける時には尊敬が減ずるのである。しかし古い上流社会は、他の法則と同じくこの法則をも意に介しなかった。ポンパドゥール夫人の兄弟であるマリニーはスービーズ侯の家に出入りした。兄弟であったけれども、ではない、兄弟であったから、である。ヴォーベルニエ夫人の教父デュ・バリーはリシュリユー元帥の家で歓待された。そういう社会はオリンポスの山である。メルキュール神もゲメネ侯も等しくそこに住む。盗賊であろうとも、それが一個の神でさえあれば、そこに許されるのである。
 ラモト伯爵は、一八一五年には七十五歳の老人で、いくらか人の目につく所と言ってはただ、黙々たるもったいぶった様子と、角立《かどだ》った冷ややかな顔つきと、きわめて丁重な態度と、首の所までボタンをかけた服と、燃えるような濃黄土色の長いだぶだぶのズボンをはいていつも組み合わしてる大きな足だけだった。その顔もズボンと同じ色をしていた。
 ラモト氏がこの客間のうちで「もてて」いたのは、その高名のゆえであり、また言うもおかしいがしかも確かなことは、そのヴァロアという名前のゆえであった。
 ジルノルマン氏の方に対する敬意は、まったく彼のよい地金《じがね》のゆえであった。彼は上に立つべき人だったから上に立っていたのである。彼はごく気軽であり快活であるうちにも、市民的に尊大な威圧的な堂々たる率直な作法を持っていた。その上老年の重みまで加わっていた。人は事なく百年も長生きすることはほとんどできないものである。ついには歳月のために尊むべき蓬髪《ほうはつ》を頭のまわりに生ずるのが普通である。
 その上彼は、まったく昔気質のひらめきとも称すべき名句の才を持っていた。ある時プロシャ王は、ルイ十八世を王位に復してやった後、リュパン伯爵として王を訪問してきたところが、そのルイ十四世大王の後裔《こうえい》たる王によって、かえってブランデンブルグ侯爵として最も微妙な横柄さをもって待遇せられた。ジルノルマン氏はそれを喜んで、そして言った。「フランス王でない国王は[#「フランス王でない国王は」に傍点]、皆ただ一州の王たるに過ぎない[#「皆ただ一州の王たるに過ぎない」に傍点]。」またある日、彼の前で次のような問答がなされた。「クーリエ・フランセー紙の編集者はどういう刑に処せられましたか。」「ていし刑(発行停止刑)です。」するとジルノルマン氏は横から言葉をはさんだ。「ていだけ多すぎる。」(すなわち死刑)その種の言葉は人に一つの地位を得させるものである。
 ブールボン家復帰の記念謝恩日に、タレーラン(訳者注 革命、帝政、王政復古、と順次に節を曲げし政治家)が通るのを見て彼は言った。「彼処《あそこ》に魔王閣下が行く。」
 ジルノルマン氏はいつも自分の娘と小さな少年とを連れてきた。娘というのはあの永遠の令嬢で、当時四十歳を越していたが、見たところは五十歳くらいに思われた。少年の方は、六歳の美しい児で、色が白く血色がよく生々《いきいき》としていて、疑心のない幸福そうな目つきをしていた。しかし彼がその客間に現われると、いつもまわりで種々なことを言われた。「きれいな子だ!」「惜しいものだ!」「かわいそうに!」この子供は前にちょっと述べておいたあの少年である。人々は彼のことを「あわれな子」と呼んでいた。なぜなら彼の父は「ロアールの無頼漢」(訳者注 ナポレオン旗下の軍人])のひとりだったからである。
 そのロアールの無頼漢は、既に述べておいたジルノルマン氏の婿《むこ》で、彼が「家の恥」と呼んでいた人である。

     二 当時の残存赤党のひとり

 その頃、ヴェルノンの小さな町にはいって、やがて恐ろしい鉄骨の橋となるべき運命にあったあの美しい記念の橋の上を歩いたことのある者は、橋の欄干を越してひとりの男を見ることができたであろう。その男は五十歳ばかりの老人で、鞣革《なめしがわ》の帽子をかぶり、灰色の粗末なラシャのズボンと背広とをつけ、その背広には赤いリボンの古く黄色くなってるのが縫いつけてあり、木靴《きぐつ》をはき、日に焼け、顔はほとんど黒く頭髪はほとんどまっ白で、額から頬《ほお》へかけて大きな傷痕《きずあと》があり、腰も背も曲がり、年齢よりはずっと老《ふ》けていて、手には耡《すき》か鎌《かま》かを持ち、ほとんど一日中そこにある多くの地面の一つをぶらついていた。それらの地面は皆壁に囲まれ、橋の近くにあって、セーヌ川の左岸に帯のように続いており、美しく花が咲き乱れて、も少し広かったら園とも言うべく、も少し狭かったら叢《くさむら》とも言うべきありさまだった。それらの囲いの土地はどれも皆、一端に川を控え他端に一つの人家を持っていた。上に述べた背広と木靴《きぐつ》の男は一八一七年ごろには、それらの地面のうちの最も狭くそれらの家のうちの最も粗末なものに住んでいた。彼はそこにひとりで寂しく黙々として貧しく暮らしていた。そして若くもなく老年でもなく、美しくも醜くもなく、田舎者《いなかもの》でも町人でもないひとりの女が、彼の用を足していた。彼が自分の庭と称していたその四角な土地は、彼の手に培養さるる美しい花によって、町で評判になっていた。花を作るのが彼の仕事だった。
 労力と忍耐と注意とまた桶《おけ》の水とによって、彼は造物主に次いで巧みな創造をすることができた。そして自然から忘られていたようなみごとなチューリップやダリヤを作り出した。彼ははなはだ巧妙だった。アメリカや支那からきた珍しい貴重な灌木《かんぼく》を培養するために小さな石南土の塊《かたま》りを作ることにおいては、スーランジュ・ボダンにもまさっていた。夏には夜明けから庭の小道に出て、芽をさしたり、枝をはさんだり、草を取ったり、水をやったり、花の間を歩き回ったりして、善良な悲しげなまた安らかな様子をし、あるいは夢みるように数時間じっとたたずんでは、木の間にさえずる小鳥の歌やどこかの家からもれる子供の声などに耳を傾け、あるいはまた、草の葉末に宿る露の玉が太陽の光に紅宝玉のように輝くのを見入っていた。彼の食卓はごく質素で、また葡萄酒《ぶどうしゅ》よりも多くは牛乳を飲んでいた。子供に対しても彼は一歩を譲り、召し使いからまでしかられていた。気味悪いくらいに内気で、めったに外出することはなく、顔を合わせる者とてはただ、彼のもとへやってくる貧民どもと、親切な老人である司祭のマブーフ師のみだった。けれども、町の人だのまたは他国の人だのだれであろうと、チューリップや薔薇《ばら》を見たがってその小さな家を訪れて来る時には、彼はほほえんで門を開いてくれた。それがすなわち前に言った「ロアールの無頼漢」だったのである。
 それからまた、軍事上の記録や、伝記や、機関新聞や、大陸軍の報告書などを読んだことのある者は、そこにかなりしばしば出て来るジョルジュ・ポンメルシーという名前を頭に刻まれたであろう。そのジョルジュ・ポンメルシーはごく若くしてサントンジュ連隊の兵卒であった。そのうちに革命が起こった。サントンジュ連隊はライン軍に属することになった。王政からの古い連隊は、王政|顛覆《てんぷく》後もなおその地方の名前を捨てないでいて、旅団に編成されたのはようやく一七九四年のことだったのである。さてポンメルシーは各地に転戦し、スピレス、ウォルムス、ノイスタット、ツルクハイム、アルゼー、マイヤンスなどで戦ったが、このマイヤンスの時などは、ウーシャールの後衛たる二百人のうちのひとりだった。彼は十二番目にいて、アンデルナッハの古い胸壁の背後でヘッセ侯の全軍に対抗し、胸壁の頂から斜面まですべて敵砲のために穿《うが》たれるまでは本隊の方に退却しなかった。マルシエンヌおよびモン・パリセルの戦いの時にはクレベルの下に属し、後者の戦いでは腕をビスカイヤン銃弾に貫かれた。次に彼はイタリー国境に向かい、ジューベールとともにテンデの峡路《きょうろ》をふせいだ三十人の擲弾兵《てきだんへい》のひとりだった。その時の武勲により、ジューベールは高級副官となり、ポンメルシーは少尉となった。ロディーの戦いでは、霰弾《さんだん》の雨注する中にベルティエのそばに立っていた。「ベルティエは砲手であり騎兵であり擲弾兵であった[#「ベルティエは砲手であり騎兵であり擲弾兵であった」に傍点]」とボナパルトをして言わしめたのは、その戦いである。またノヴィーにおいては、自分の古い将軍たるジューベールが剣を上げて「進め!」と叫んでる瞬間にたおれるのを見た。また戦略上自分の一隊を引率して小船に乗り、ゼノアからやはりその海岸のある小さな港へ向かった時には、七、八|艘《そう》のイギリス帆船の網の中に陥った。ゼノア人の船長の考えでは、大砲を海中に投じ、兵士を中甲板に隠し、商船と見せかけて暗中をのがれたがった。しかるにポンメルシーは、旗檣《きしょう》の綱に三色旗を翻えさし、毅然《きぜん》としてイギリス二等艦の砲弾の下を通過した。それから二十里ばかり行くうちに、彼の大胆さはますます加わり、その小船をもってイギリスの大運送船を襲って捕獲した。その運送船はシシリアに兵士を運んでいたのであって、舷側《げんそく》までいっぱいになるほど人員と馬とを積んでいた。一八〇五年には、フェルディナンド大公からグンズブールグを奪ったマーレル師団の中にいた。ウェッティンゲンにおいては、弾丸の雨下する中に、竜騎兵第九連隊の先頭に立って致命傷を受けたモープティー大佐を腕に抱き取った。アウステルリッツにおいては、敵の砲火の下を冒してなされたあの驚嘆すべき梯形《ていけい》行進中にあって勇名を上げた。ロシア近衛騎兵《このえきへい》が歩兵第四連隊の一隊を壊滅さした時、その近衛騎兵をうち破って返報をした者の中にポンメルシーもいた。皇帝は彼に勲章を与えた。次に、マンテュアにてウルムゼルを捕虜とし、アレキサンドリアにてメラスを捕虜とし、ウルムにてマックを捕虜とした各戦争に彼は参加した。モルティエに指揮されてハンブールグを奪取した大陸軍の第八軍団に彼は属していた。次に昔のフランドルの連隊だった歩兵第五十五連隊に代わった。エイラウにおいては、本書の著者の伯父たる勇敢なルイ・ユーゴー大尉が、八十三人の一隊を提げて二時間の間敵軍の攻撃をささえたあの墓地に、彼もいた。彼はその墓地から生き残って脱してきた三人のひとりだった。彼はまたフリードランドの戦いにも参加した。次に彼はモスコーを見、ベレジナを見、ルッチェン、バウチェン、ドレスデン、ワルシャワ、ライプチッヒなどを見、ゲルンハウゼンの隘路《あいろ》を見、次に、モンミライ、シャトー・ティエリー、クラン、マルヌ川岸、エーヌ川岸、恐るべきランの陣地を見た。アルネー・ル・デュックにおいては、大尉になっていて、十人のコザック兵をなぎ払い、将軍の生命をではないが部下の伍長の生命を救った。その時彼は方々に負傷し、左腕からだけでも二十七個の弾丸の破片が見いだされた。パリー陥落の八日前には、彼は一同僚と地位を代わって騎兵にはいった。彼は旧制度の下でいわゆる二重の手と呼ばれたものを持っていた、すなわち、兵士としては剣と銃とを同じく巧みに操縦し、将校としては騎兵隊と歩兵隊とを同じく巧みに操縦し得る能力を持っていた。そういう能力が更に軍隊教育によって完成さるる時に、特殊な軍隊が生まれたのである。全体として騎兵でありまた歩兵であった竜騎兵はその一例である。ポンメルシーはナポレオンに従ってエルバ島に赴《おもむ》いた。ワーテルローにおいては、デュボア旅団中の胸甲騎兵中隊の指揮官だった。ルネブールグ隊の軍旗を奪ったのは彼であった。彼はその軍旗を持ち帰って皇帝の足下に地に投じた。彼は血にまみれていた。軍旗を奪う時、剣の一撃を顔に受けたのである。皇帝は満足して叫んだ。「汝は今より大佐であり、男爵であり、レジオン・ドンヌール勲章のオフィシエ受賞者だぞ。」ポンメルシーは答えた。「陛下、やがて寡婦たるべき妻のために御礼を申しまする。」一時間後に彼はオーアンの峡路におちいった。さてこのジョルジュ・ポンメルシーとは何人《なんびと》であったか。それはやはりあの「ロアールの無頼漢」その人であった。
 以上が彼の経歴の大略である。ワーテルローの戦いの後、読者は思い起こすであろうが、ポンメルシーはオーアンの凹路《おうろ》から引き出され、首尾よく味方の軍隊に合することができ、野戦病院から野戦病院へ運び回され、ついにロアールの舎営地に落ち着いたのである。
 王政復古のために彼は俸給を半減され、次にヴェルノンの住居へ、すなわち監視の下に、置かれることになった。国王ルイ十八世は一百日(訳者注 ナポレオンの再挙の間のこと)のうちに起こったすべては無効であると考えていたので、彼に対しても、レジオン・ドンヌール勲章のオフィシエ受賞者であることも、大佐の階級も、男爵の肩書きも、少しも認めてはくれなかった。彼の方ではまた、あらゆる場合に陸軍大佐男爵ポンメルシーと署名することを欠かさなかった。彼は古い青服を一つしか持たなかった。そして外出する時にはいつも、レジオン・ドンヌール勲章のオフィシエの略綬《りゃくじゅ》をそれにつけていた。検察官は彼に「該勲章の不法|佩用《はいよう》」について検事局が起訴するかも知れないと予告してやった。その注意がある公然の規定をふんで手もとに達した時、ポンメルシーはにがにがしい微笑を浮かべて答えた。「私の方でもはやフランス語を了解しなくなったのか、あるいはあなたの方でもはやフランス語を話さなくなったのか、いずれだか知れないが、とにかく私にはあなたの言うことがわからない。」それから彼は一週間続けてその赤い略綬をつけて外出した。だれもあえてとがめる者はなかった。また二、三度陸軍大臣と管轄の司令官とは、「ポンメルシー少佐殿へ」として手紙を贈った。それらの手紙を彼は封も開かないで返送してしまった。やはりちょうどそのころ、セント・ヘレナにいたナポレオンは、「ボナパルト将軍へ」としたハドソン・ローの信書を同じようにつき返したのである。ポンメルシーはついに、こういう言葉を許していただきたいが、皇帝と同じ唾液《だえき》を口の中に持つに至ったのである。
 それと同じく、昔はローマにおいてカルタゴ兵の捕虜らは、督政官フラミニウスに敬礼することを拒み、多少ハンニバルと同じ魂を持っていたのである。
 ある日の朝、ポンメルシーはヴェルノンの町で検察官に出会い、彼の前に進んでいって言った。「検察官殿、顔の傷はこのままつけておいてもよろしいですか。」
 彼は騎兵中隊長としてのわずかな俸給の半額のほか何らの財産も持たなかった。それゆえヴェルノンでできるだけ小さな家を借りた。そこに彼はひとりで住んでいた。そのありさまは上に述べたとおりである。帝政時代に、両戦役の間に、彼はジルノルマン嬢と結婚するだけの時間の余裕があった。老市民であるジルノルマン氏は、内心憤りながらもその結婚に承諾せざるを得なかった。そして嘆息しながら言った、「最も高い家柄でも余儀ないことだ。」ポンメルシー夫人はいずれの点から見てもりっぱな婦人で、教養がありその夫に恥ずかしからぬ珍しい婦人であった。しかし一八一五年に、ひとりの子供を残して死んだ。その子供は、孤独な生活における大佐の慰謝だったはずである。しかるに祖父は、権柄ずくでその孫を請求し、もし渡さなければ相続権を与えないと宣告した。父親は子供のために譲歩した。そしてもはや子供をも手もとに置くことができなくなったので、花を愛し初めた。
 その上彼はすべてを思い切ってしまい、何らの活動もせず計画もしなかった。彼は自分の考えを、現在なしている無垢《むく》な事がらと過去になした偉大な事がらとに分かち与えていた。あるいは石竹《せきちく》の珍花を育てんと望み、あるいはアウステルリッツの戦いを回想して、その時間を過ごしていた。
 ジルノルマン氏はその婿と何らの交渉も保たなかった。大佐は彼にとってはひとりの「無頼漢」であり、彼は大佐にとってひとりの「木偶漢《でくのぼう》」にすぎなかった。ジルノルマン氏が大佐のことを口にするのはただ、時々その「男爵閣下」を嘲笑《ちょうしょう》の種にする時くらいのものだった。子供が相続権を奪われて追い戻されはしないかを気づかって、ポンメルシーは決して子供に会おうともせず言葉をかけようともしないだろうということは、前後の事情から明らかだった。ジルノルマン家に対しては、ポンメルシーは一つの疫病神《やくびょうがみ》にすぎなかった。一家のものは自分たちだけで思い通りに子供を育てるつもりだった。そういう条件を受け入れたのは大佐の方もおそらく誤っていたかも知れない。しかし彼はそれに甘んじて、別に悪いこととも思わず、自分だけを犠牲にすることだと思っていた。ジルノルマン氏の遺産は大したものではなかったが、姉のジルノルマン嬢の遺産は莫大《ばくだい》なものだった。この伯母《おば》は未婚のままで、物質的に非常に富裕だった。そしてその妹の子供は当然その相続者だった。
 子供はマリユスという名だったが、自分に父のあることを知っていた。しかしそれ以上は何もわからなかった。だれもそれについては聞かしてくれなかった。けれども、祖父から連れてゆかれる社交場での、人々のささやきや片言や目くばせなどは、長い間に子供の目を開かせ、ついに子供に多少の事情をさとらした。そして、言わば彼の呼吸する雰囲気であるそれらの思想や意見は、自然と彼のうちに徐々に浸潤し侵入してきて、いつのまにか彼は、父のことを思うと一種の屈辱と心痛とを感ずるようになった。
 彼がそういうふうにして生長している間に、二、三カ月に一度くらいは、大佐は家をぬけ出し、監視を破る刑人のようにひそかにパリーにやってきて、伯母のジルノルマンがマリユスを弥撒《ミサ》に連れて行くころを見計らい、サン・スュルピス会堂の所に立っていた。そこで、伯母がふり返りはしないかを恐れながら、柱の陰に隠れ、息を凝らしてじっとたたずんで、子供を見るのだった。顔に傷のある軍人も、その老嬢をかくまで恐れていたのである。
 そういうところから、彼はまたヴェルノンの司祭マブーフ師とも知り合いになったのである。
 そのりっぱな牧師は、サン・スュルピス会堂のひとりの理事と兄弟だった。理事はあの男があの子供をながめてる所を幾度も見た、そして男の大きな頬《ほお》の傷と目にいっぱいあふれてる涙とを見た。大丈夫らしい様子をしながら女のように泣いているのが、理事の心をひいた。その顔つきが頭の中に刻み込まれた。ところがある日彼は、兄に会いにヴェルノンへ行くと、橋の上で大佐に出会い、それがあのサン・スュルピス会堂の男であることを認めた。理事はそのことを司祭に語り、ふたりして何かの口実の下に大佐を訪れた。そしてそれをきっかけに何度も訪問するようになった。大佐は初めいっさい口をつぐんでいたが、ついに事情を打ち明けた。それで司祭と理事とは、大佐の身の上をことごとく知り、ポンメルシーが自分の幸福を犠牲にして子供の未来をはかってる事情を知るに至った。そのために、司祭は大佐に対して敬意と温情とをいだき、大佐の方でもまた司祭を好むようになった。その上、もしどちらも至ってまじめであり善良である場合には、およそ世の中に老牧師と老兵士とほど、容易に理解し合い容易に融合し合うものはない。根本においては彼らは同じ種類の人間である。一は下界の祖国に身をささげ、一は天上の祖国に身をささげている。ただそれだけの違いである。
 年に二度、一月一日と聖ジョルジュ記念日(訳者注 四月二十三日)とに、マリユスは義務としての手紙を父に書いた。それは伯母が口授したもので、形式的な文句の書き写しともいえるようなものだった。ジルノルマン氏が許容したことはただそれだけだった。すると父親はきわめて心をこめた返事をよこした。祖父はそれを受け取って、読みもしないでポケットに押し込んだ。

     三 彼らに眠りあれ

 T夫人の客間《サロン》は、マリユス・ポンメルシーの世間に対する知識のすべてだった。彼が人生をながむることのできる窓は、それが唯一のものだった。けれどその窓は薄暗くて、その軒窓ともいうべきものから彼にさして来るものは、温暖よりも寒気の方が多く、昼の光よりも夜の闇《やみ》の方が多かった。その不思議な社会にはいってきた当時、喜悦と光明とのみであった少年は、間もなく悲しげになり、その年齢になおいっそう不似合いなことには、沈鬱《ちんうつ》になってきた。それらの尊大な独特な人々にとり巻かれて、彼は心からの驚きをもって周囲を見回した。するとすべてのものは、ただ彼のうちにその茫然《ぼうぜん》たる驚きを増させるだけだった。T夫人の客間のうちには、きわめて尊むべき貴族の老夫人らがいた、マタン、ノエ、それからレヴィと発音されてるレヴィス、カンビーズと発音されてるカンビス、などという夫人が。それらの古めかしい顔つきとそれらのバイブルにある名前とは、少年の頭の中で、彼が暗唱している旧約書の中にはいり込んできた。そして彼女らが、消えかかった暖炉のまわりに丸くすわり、青い覆《おお》いをしたランプの光にほのかに照らされ、きびしい顔つきをし、灰色かまたは白い頭髪をし、寂しい色しかわからない時勢おくれの長い上衣を着、長い間を置いては時々堂々たるまたきびしい言葉を発しながら、みなそこに集まっている時、小さなマリユスはびっくりした目で彼女らをながめて、婦人というよりもむしろ古代の長老や道士を見るような気がし、実在の人物というよりもむしろ幽霊を見るような気がした。
 それらの幽霊に交じってまた、その古い客間には常客たる数人の牧師がおり、それから数人の貴族らがいた。ベリー夫人の第一秘書役たるサスネー侯爵、シャール・ザントアンヌという匿名で単韻の短詩を出版したヴァロリー子爵、金の綯総《よりふさ》のついた緋《ひ》ビロードの服をつけ首筋を露《あら》わにしてこの暗黒界を脅かしてるきれいな才ばしった妻を持ち、かなり若いのに胡麻塩《ごましお》の頭を持っていたボーフルモン侯、最もよく「適宜な礼儀」を心得ていたフランス中での男たるコリオリ・デスピヌーズ侯爵、愛嬌《あいきょう》のある頤《あご》をした好人物アマンドル伯爵、王の書斎と言われてるルーヴルの図書館の柱石であるポール・ド・ギー騎士。このポール・ド・ギー氏は、年取ったというよりもむしろ古くなったという方が適当な禿頭《はげあたま》の人で、その語るところによると、一七九三年十六歳のおり、忌避者として徒刑場に投ぜられ、やはり忌避者たる八十歳の老人ミールポア司教と同じ鎖につながれたそうである。ただし彼の方は兵役忌避者であったが、司教の方は僧侶法忌避者であった。それはツーロンの徒刑場だった。彼らの役目は、夜間断頭台の所へ行って、昼間そこで処刑された者の首と身体とを拾って来ることだった。彼らは血のしたたる胴体を背にかついできた。そして徒刑囚としての赤い外套《がいとう》は、朝にはかわき晩にはぬれて、首筋の後ろに血潮の厚い皮ができるようになったそうである。そういう悲壮な物語はT夫人の客間に満ち満ちていた。そしてマラーをののしる勢いに駆られて、トレスタイヨンまでを賞揚した。過激王党的な数人の代議士は、ホイストの勝負を争っていた、ティボール・デュ・シャラール氏、ルマルシャン・ド・ゴミクール氏、および右党で名高い嘲笑者《ちょうしょうしゃ》のコルネー・ダンクール氏など。大法官フェルレットは、その短いズボンとやせた足とをもって、タレーランの家へ行く途中に時々この客間を見舞った。彼はもとアルトア伯爵の遊び仲間であった。そして美婦カンパスプの前に膝《ひざ》を折ったアリストテレスと反対に、女優ギマールを四つ足で歩かし、それによって哲学者の仇《あだ》を大法官が報じたことを古今に示したのである。
 牧師の方には次のような人々がいた。アルマ師、これはフードル紙上の仲間たるラローズ氏が、「へー、何者だ、五十歳にも満たないで、たぶん黄口の少年輩だろう、」と云ったその人である。それから、国王の説教師であるルツールヌール師。まだ伯爵でも司教でも大臣でも上院議員でもなく、ボタンの取れた古い教服を着ていたフレーシヌー師。サン・ジェルマン・デ・プレ会堂の司祭クラヴナン師。次に、法王の特派公使。これは当時ニジビの大司祭マッキ閣下と称し後に枢機官になったが、その瞑想的《めいそうてき》な長い鼻で有名だった。なおもひとりイタリーの高僧がいたが、次のような肩書きがついていた、すなわち、パルミエリ師、宮廷教官、七人の法王庁分担大書記官のひとり、リベリア本院の記章帯有のキャノン牧師、聖者代弁人すなわち聖者の請願師、これは列聖事務に関係あることで、ほとんど天国区隊の参事官ともいうべき意味である。終わりにふたりの枢機官、リュゼルヌ氏とクレルモン・トンネール氏。リュゼルヌ枢機官は文筆の才があり、数年後にはコンセルヴァトゥール紙にシャトーブリアンと相並んで執筆するの光栄を有した。クレルモン・トンネール氏はツールーズの司教であって、しばしばパリーにやってきて、陸海軍大臣だったことのある甥《おい》のトンネール侯爵の家に滞在した。彼は快活な背の低い老人で、教服をまくって下から赤い靴下《くつした》を出していた。その特長は、大百科辞典をきらうことと、撞球《たまつき》に夢中になることとであった。当時、クレルモン・トンネールの館《やかた》があったマダム街を夏の夕方などに通る者は、そこに立ち止まって、撞球の音を聞き、随行員でカリストの名義司教たるコトレー師に向かって、「点数、三つ当りだ]、」と叫ぶ枢機官の鋭い声を聞いたものである。クレルモン・トンネール枢機官は、元のサンリスの司教で四十人のアカデミー会員のひとりである彼の最も親しい友人ロクロール氏から、T夫人の客間に連れてこられたのである。ロクロール氏は、その背の高い身体とアカデミーへの精励とによって有名だった。当時アカデミーの集会所となっていた図書室の隣の広間のガラス戸越しに、好奇な者らは木曜日には必ず元のサンリスの司教を見ることができた。彼はいつも立っていて、あざやかに化粧をし紫の靴下《くつした》をはき、明らかにその小さなカラーをよく見せんためであろうが、戸に背を向けていたものである。右のような聖職者らは、その大部分教会の人であるとともに宮廷の人だったが、T夫人の客間の荘重な趣をますます深からしめていた。また五人の上院議員、ヴィブレー侯爵、タラリュ侯爵、エルブーヴィル侯爵、ダンブレー子爵、ヴァランティノア公爵らは、客間の貴族的な趣を増さしていた。このヴァランティノア公爵は、モナコ侯すなわち他国の主権者ではあったが、フランスおよび上院議員の位を非常に尊敬していて、その二つを通じてすべてのものを見ていた。「枢機官はローマのフランス上院議員であり、卿《ロード》はイギリスのフランス上院議員である」と言っていたのは彼である。けれども、この世紀には革命は至る所にあるはずであって、この封建的な客間でも、前に言ったとおりひとりの市民が勢力を振るっていた。すなわちジルノルマン氏がそこに君臨していたのである。
 実にこの客間のうちに、パリーの白党の本質精髄があった。世に名高い人々は、たとい王党であろうと、そこから遠ざけられていた。名声のうちには常に無政府臭味があるものである。シャトーブリアンがもしそこにはいっていったら、ペール・デュシェーヌ(訳者注 民主主義の代表的人物)がはいってきたほどの騒ぎをきたしたであろう。けれども、四、五の共和的王政派の人々は、この正教的な社会のうちにはいることを特別に許されていた。ブーニョー伯爵も条件つきで迎えられていた。
 今日の「貴族」の客間は、もはやそれらの客間と似寄った点を少しも持たない。今日のサン・ジェルマン郭外には異端派的なにおいがある。現今の王党らは、誉《ほ》むべきことには、もはや一種の民主派である。
 T夫人の客間においては、皆|秀《ひい》でた階級の人々であったから、花やかな礼容の下に、趣味は洗煉《せんれん》されまた尊大になっていた。習慣は無意識的なあらゆる精緻《せいち》さを含んでいた。そしてこの精緻さこそ、既に埋められながらなお生きている旧制そのものだったのである。その習慣のうちのあるものは、特に言葉の上のそれは、いかにも奇妙に思われるものだった。ただ表面だけを見る観察者らは、単に老廃にすぎないものを田舎式《いなかしき》だと見誤ったかも知れない。女に対して将軍夫人などという言葉がまだ言われていた。連隊長夫人という言葉もまったく廃《すた》れてはいなかった。美しいレオン夫人は、おそらくロングヴィル公爵夫人や、シュヴルーズ公爵夫人などの思い出によってであろうが、侯爵夫人という肩書きよりもそういう名称の方を好んでいた。クレキー侯爵夫人も自ら連隊長夫人と言っていた。
 チュイルリー宮殿において、王に向かって親しく言葉を向ける時には、いつも国王という三人称を用いて、決して陛下と言わない巧妙さを作り出したのは、やはりこの上流の小社会であった。なぜなら陛下という称号は、「簒奪者《さんだつしゃ》(訳者注 ナポレオン)によって汚された」からである。
 そこでまた人々は、事件や人物を批判した。人々は時代をあざけり、ために時代ということを了解しないで済んだ。人々は互いに驚きの情を深め合った。また互いにその知識を分かち合った。メッセラはエピメニデスに物を教えた(訳者注 共に太古の人物で、前者は長命を以って後者は長眠を以って有名である)。聾者《ろうじゃ》は盲者の手を引いた。彼らはコブレンツ(訳者注 一七九二年王党の亡命者が集合せし地)以来経過した時間をないものだとした。ルイ十八世が神のお陰によって治世二十五年目であったのと同じく、移住者らもまさしくその青年期の第二十五年目だったのである。
 すべては調和がとれていた。何物もあまりに生き生きとしてるものはなかった。人の言葉はようやく一つの息吹《いぶき》にすぎなかった。新聞は客間と一致して一つの草双紙にすぎないらしかった。若い人々もいたが、それもみな多少死にかかっていた。控え室においても、接待員はみな老耄《おいぼれ》だった。まったく過去のものとなっているそれらの人物には、やはり同じ種類の召し使いが仕えていた。それらのようすを見ると、もう長い前に生命を終えながら、なお頑固《がんこ》に墳墓と争っているかのようだった。保存する、保存、保存人、そういうのが彼らの辞書のほとんど全部の文字だった。「においがいい[#「においがいい」に傍点]」(評判がいい)ということが問題だった。実際それらの尊ぶべき群れの意見のうちには香料があった、そしてその思想にはインド草の香《かお》りがしていた。それは木乃伊《ミイラ》の世界だった。主人はいい香りをたき込まれており、従僕は剥製《はくせい》にされていた。
 亡命し零落したひとりのりっぱな老侯爵夫人は、もうひとりの侍女しか持っていなかったが、なお言い続けていた、「私の女中どもと。
 T夫人の客間のうちで人々は何をしていたか? 彼らはみな過激王党派だったのである。
 過激派《ユルトラ》である、というこの言葉は、それが表現する事物はおそらくまだ消滅しつくしてはいないであろうが、言葉自身は今日ではもはや無意味のものとなっている。その理由は次の通りである。
 過激派であるということは、範囲の外まで逸することである。王位の名によって王笏《おうしゃく》を攻撃し、祭壇の名によって司教の冠を攻撃することである。おのれが導くものを虐遇することである。後ろに乗せて引き連れてるものを後足《あとあし》でけることである。邪教徒の苦痛の程度が少ないと言って火刑場を悪口することである。崇拝されることが少いと言って偶像を非難することである。過度の尊敬によって侮辱することである。法王に法王主義の不足を見いだし、国王に王権の不足を見いだし、夜に光の過多を見いだすことである。白色の名によって石膏《せっこう》や雪や白鳥や百合《ゆり》の花などに不満をいだくことである。敵となるまでに深く味方たることである。反対するまでに深く賛成することである。
 過激的な精神は、ことに王政復古の第一面の特質である。
 およそ歴史中、一八一四年ごろから初まり右党の手腕家ヴィレル氏が頭をもたげた一八二〇年ごろに終わったこの小期間に、相似寄った時期は一つもない。その六年は実に異様な一時期であって、騒然たると同時に寂然として、嬉々《きき》たると同時に沈鬱《ちんうつ》で、あたかも曙《あけぼの》の光に照らされてるがようであると同時に、なお地平線に立ちこめてしだいに過去のうちに沈み込まんとする大災厄《だいさいやく》の暗雲におおい隠されてるがようであった。その光と影との中に、新しくまた古く、おかしくまた悲しく、年少でまた老年である一小社会があって、目をこすっていた。復起と覚醒《かくせい》とほど互いによく似寄ってるものはない。ふきげんにフランスをながめ、またフランスから皮肉にながめられてる一群。街路に満ちてる人のいい老梟《ろうふくろう》たる公爵ら、帰国せる者らとよみがえった者ら、すべてに驚きあきれてる旧貴族ら、祖国を再び見て歓喜し、もとの王政を再び見得ないで絶望して、フランスにあることをほほえみまた泣いている善良な貴族ら、帝国の貴族すなわち軍国の貴族に恥辱を与える十字軍の貴族。歴史の意義を失った歴史的人種。ナポレオンの仲間を軽蔑するシャールマーニュ大帝の仲間。上に述べきたったとおり、剣戟《けんげき》は互いに凌辱《りょうじょく》し合った。フォントノアの剣は笑うべきものであり、一つの錆《さび》くれにすぎなかったと言う。マレンゴーの剣は擯斥《ひんせき》すべきもので、一つのサーベルにすぎなかったと言い返す。昔は昨日をけなした。人々はもはや、偉大なるものに対する感情も持たず、嘲笑《ちょうしょう》すべきものに対する感情も持たなかった。ナポレオンを称してスカパンと言う者もいた(訳者注 スカパンとはモリエールの喜劇中の人物にて、奸知にたけた悪従僕の典型)。しかしそういう社会は今はもうなくなっている。くり返して言うが、今日ではもう影も止めていない。で、今日、偶然その相貌《そうぼう》を多少つかんできて、頭の中に浮かべようとする時には、あたかもノアの洪水《こうずい》以前の世界ほどに不思議なものに思われる。そしてまた実際その社会も一の洪水によってのみ込まれてしまったのである。二つの革命によって姿を消してしまったのである。思想とはいかに大なる波濤《はとう》であるか! 破壊し埋没すべく命ぜられたすべてをいかに早くおおい隠し、恐るべき深淵をいかにたちまちの間にこしらえることか。
 そういうのが、このはるかな廉潔な時代の客間のありさまであった。そしてそこでは、マルタンヴィル氏はヴォルテールよりもいっそうの機才を持っていたのである。
 それらの客間は、自分だけの文学と政治とを持っていた。フィエヴェーが信用を得ていた。アジエ氏が法令をたれていた。マラケー川岸の古本出版商コルネ氏が種々批評を受けていた。ナポレオンはそこでは、まったくコルシカの食人鬼にすぎなかった。その後、国王の軍隊の陸軍中将ブオナパルテ侯爵(訳者注 ナポレオンのこと)という語が歴史の中に入れられたのは、時代精神への譲歩であった。
 それらの客間は、長く純潔であることはできなかった。既に一八一八年ごろより、数人の正理派は芽を出し初めて、不安な影となった。それらの人々のやり方は、王党であるとともにそれを弁明することだった。過激派らがきわめて傲然《ごうぜん》としていたところに、正理派らは多少の恥を感じていた。彼らは機才を持っていたし、沈黙を持っていた。その政治的信条には、適当に倨傲《きょごう》さが交じえられていた。その成功は当然だった。彼らは白い襟飾《えりかざ》りとボタンをすっかりかけた上衣とを濫用したが、それももとより有効だった。正理派の過誤もしくは不幸は、老いたる青春をこしらえたことだった。彼らは賢者のような態度をとった。絶対過激なる主義に一つの穏和なる権力を接木《つぎき》しようとした。破壊的自由主義に保守的自由主義を対立させ、しかも時としては珍しい怜悧《れいり》さをもってそれをした。人々は彼らがこう言うのを聞いた。「勤王主義に感謝せよ。勤王主義は少なからざる役目をした。それは伝統と教養と宗教と尊敬とを再びもたらした。忠実で正直で誠実で仁愛で献身的であった。たとい自ら好んでではなかったとはいえ、国民の新しい偉大さに王国古来の偉大さを交じえた。そしてその誤ちは、革命と帝国と光栄と自由と、若き思想と若き時代と若き世紀とを、理解していないことである。しかしそれが吾人に対して有する誤ちは、吾人もまた時としてそれに対して有しなかったであろうか。吾人がその後を継いだ革命は、すべてに聡明《そうめい》なるべきはずである。勤王主義を攻撃することは、自由主義の矛盾である。何たる過失であり、何たる盲目であるか。革命のフランスは、歴史のフランスに、言い換えればその母に、また言い換えればそれ自身に、敬意を欠いている。一八一六年九月五日以後王国の高貴さが受けている待遇は、あたかも一八一四年七月八日以後帝国の高貴さが受けた待遇と同じである。彼らは鷲《わし》に対して不正であったが、吾人は百合《ゆり》の花に対して不正である。かくて人は常に酷遇すべき何かを欲するのであるか。ルイ十四世の王冠の金を去り、アンリ四世の紋章を取り除くことは、有用なことであるか。イエナ橋からNの字(訳者注 ナポレオンの頭字)を消したヴォーブラン氏を吾人は嘲笑《ちょうしょう》する。しかしいったい彼は何をなさんとしたのであるか。吾人がなしてることと同じことをではないか。マレンゴーと同じくブーヴィーヌも吾人のものである。Nの字と同じく百合の花も吾人のものである。それは吾人のつぐべき遺産である。それを削除することが何のためになるか。現在の祖国と同じく過去の祖国をも否認してはいけない。何ゆえに歴史のすべてを欲してはいけないのか。何ゆえにフランスのすべてを愛してはいけないのか。」
 そういうふうに正理派らは、批評されるのを喜ばずまた弁護されるのを憤っていた勤王主義を、批評しまた弁護したのである。
 過激派は勤王論の第一期を画し、融合はその第二期の特質となった。熱狂に次ぐに巧妙をもってしたのである。そしてわれわれはこれをもってそのスケッチの終わりとしよう。
 この物語の途中において、本書の著者は、近世史のこの不思議な一時期に出会った。そして通りすがりに一瞥《いちべつ》を与えて、今日もはや知られないその社会の奇怪な状態を少しく述べざるを得なかったのである。しかし著者は急速に、また何ら苦々《にがにが》しい嘲笑的《ちょうしょうてき》な考えもなしに、それをなすのである。思い出は、母たる祖国に関するものであるから親愛と尊敬とを起こさせ、著者をこの過去の一時期に愛着せしむる。かつまたその一小社会も、偉大さを持っていたことを言っておきたい。人はそれをほほえむことはできよう、しかしそれを軽蔑しまたは憎むことはできない。それは昔のフランスだったのである。
 さて、マリユス・ポンメルシーは普通の子供と同じくいくらか勉強をした。伯母のジルノルマン嬢の手から離れた時祖父は彼を、最も純粋な古典に通ずるりっぱな教師に託した。開けかかっていた彼の若い心は、似而非貞女《えせていじょ》から腐儒の手に移った。それから彼は数年間中学校に通い、次に法律学校にはいった。彼は王党で熱狂家で謹厳であった。彼は祖父の快活と冷笑とを不快に感じてあまり好まなかった。そしてまた父のことを思うと心が暗くなった。
 それに彼は、上品で寛容で誇らかで宗教的で熱誠で、冷熱あわせ有する少年だった。厳酷なるまでに気品があり、粗野なるまでに純潔であった。

     四 無頼漢の死

 マリユスが古典の勉強を終えたのとジルノルマン氏が社交界から退いたのとは、ほとんど同時だった。老人はサン・ジェルマン郭外とT夫人の客間とに別れを告げて、マレーのフィーユ・デュ・カルヴェール街にある家に住んだ。そして召し使いとしては、門番のほかに、マニョーンの次にきた小間使いのニコレットと、前に述べておいた息切れがしてぜいぜいいってるバスクとがいた。
 一八二七年に、マリユスは十七歳に達した。ある晩外から帰って来ると、祖父は手に一通の手紙を持っていた。
「マリユス、」とジルノルマン氏は言った、「お前は明日ヴェルノンへ行くんだ。」
「どうしてですか。」とマリユスは尋ねた。
「父に会いにだ。」
 マリユスは震えた。何でも期待してはいたが、ただこれだけは、いつか父に会うようになろうとは、まったく思いもかけなかった。彼にとっては、これほど意外なことは、これほど驚くべきことは、そしてまたあえて言うがこれほど不愉快なことは、何もあり得なかった。それは遠ざかろうとするものにしいて近づけられることだった。一つの苦しみのみではなかった、一つの賦役だった。
 マリユスは政治的反感の理由のほかになお、いくらか気がやわらいだ時にジルノルマン氏が呼んだように猪武者《いのししむしゃ》である父は、自分を愛していないと思い込んでいた。父が彼を今のように見捨てて他人の手に任しておくのを見ても、そのことは明らかだった。自分が愛せられていないと感じて、彼もまた父を愛しはしなかった。これほどわかりきったことはない、と彼は思った。
 彼はまったく呆然《ぼうぜん》として、ジルノルマン氏に訳を尋ねることもしかねた。祖父はまた言った。
「病気らしいのだ。お前に会いたいと言っている。」
 そしてちょっと口をつぐんだ後に、彼は言い添えた。
「明日の朝、出かけなさい。フォンテーヌの家に、六時にたって夕方向こうに着く馬車があるはずだ。それに乗るがいい。至急だということだから。」
 それから彼は手紙をもみくちゃにして、ポケットに押し込んだ。実はマリユスは、その晩にたって翌朝は父のそばに行けたのである。ブーロア街の駅馬車が、当時夜中にルアン通いをやっていて、ヴェルノンを通ることになっていた。しかしジルノルマン氏もマリユスも、それを聞き合わしてみようとは考えもしなかった。
 翌日薄暮の頃、マリユスはヴェルノンに着いた。もう灯火《あかり》のつき初める頃だった。彼は出会い頭《がしら》の男に、「ポンメルシーさんの家[#「ポンメルシーさんの家」に傍点]」を尋ねた。なぜなら、彼は内心復古政府と同意見を持っていて、やはり父を男爵とも大佐とも認めてはいなかった。
 彼は父の住居を教えられた。呼び鈴を鳴らすと、ひとりの女が手に小さなランプを持って出てきて、戸を開いてくれた。
「ポンメルシーさんは?」とマリユスは言った。
 女はじっとつっ立っていた。
「ここがそうですか。」とマリユスは尋ねた。
 女は頭でうなずいた。
「お目にかかれましょうか。」
 女は頭を振った。
「でも私はその息子です。」とマリユスは言った。「私を待っていられるんです。」
「もう待ってはおられません。」と女は言った。
 その時彼は、女が泣いているのに気づいた。
 彼女はすぐ入り口の室《へや》の扉《とびら》を彼にさし示した。彼ははいって行った。
 その室は、暖炉の上に置かれてる一本の脂蝋燭《あぶらろうそく》の光に照らされ、中に三人の男がいた。ひとりは立っており、ひとりはひざまずいており、ひとりはシャツだけで床《ゆか》の上に長々と横たわっていた。その横たわってるのが大佐だった。
 他のふたりは医者と牧師とで、牧師は祈祷《きとう》をしていた。
 大佐は三日前から、脳膜炎にかかった。病気の初めから彼はある不吉な予感がして、ジルノルマン氏へ息子をよこしてくれるように手紙を書いた。果たして病気は重くなった。マリユスがヴェルノンへ着いたその夕方、大佐には錯乱の発作が襲ってきた。彼は女中が引き止めようとするにもかかわらず起き上がって叫んだ。「息子はこない! 私の方から会いに行くんだ。」それから彼は室を飛び出して、控え室の上に倒れてしまった。そしてそれきり息が絶えたのである。
 医者と牧師とが呼ばれた。医者は間に合わなかった。牧師も間に合わなかった。息子のきようもまたあまり遅かった。
 蝋燭《ろうそく》の薄暗い光で、そこに横たわってる青ざめた大佐の頬《ほお》の上に、もはや生命のない目から流れ出た太い涙が見えていた。目の光はなくなっていたが、涙はまだかわいていなかった。その涙こそ、息子の遅延のゆえであった。
 マリユスはこれを最初としてまた最後として会ったその男をじっとながめた、尊むべき雄々しいその顔、もはや物の見えないその開いた目、その白い髪、そして頑丈《がんじょう》な手足、その手や足の上には、剣の傷痕《きずあと》である黒い筋と弾丸の穴である赤い点とが、そこここに見えていた。また彼は、神が仁慈をきざんだその顔の上に勇武をきざみつけてる大きな傷痕《きずあと》をながめた。そして彼は、その男が自分の父であり、しかももはや死んでいることを考え、慄然《りつぜん》として立ちつくした。
 しかし彼が感じた悲哀は、およそ人の死んで横たわってるのを見るおりに感ずる普通の悲哀だった。
 悲痛が、人の心を刺す悲痛が、その室《へや》の中にあった。下女は片すみで嘆いており、司祭は祈祷《きとう》しながら嗚咽《おえつ》の声をもらしており、医者は目の涙をふいていた。死骸《しがい》自身も泣いていた。
 その医者と牧師と女とは、一言も発せず、痛心のうちにマリユスをながめた。彼はその間にあってひとり門外漢だった。マリユスはほとんど心を動かしていなかった、そして自分の態度をきまり悪く感じ、また当惑した。彼は手に帽子を持っていたが、悲しみのためそれを手に保つ力もなくなったと見せかけるため、わざと下に取り落とした。
 と同時に彼は一種の後悔の念を感じ、自らその行ないを卑しんだ。しかしそれは彼が悪いのだったろうか。いかんせん、彼は父を愛していなかったではないか!
 大佐の遺産とては何もなかった。家具を売り払っても葬式の費用に足るか足らずであった。下女は一片の紙を見つけて、それをマリユスに渡した。それには大佐の手で次のことが認めてあった。

   予が子のために――皇帝はワーテルローの戦場にて予を男爵に叙しぬ

  復古政府は血をもって贖《あがな》いたるこの爵位を予に否認すれども

  予が子はこれを取りこれを用うべし。もとより予が子はそれに価するなるべ

  し。

 その裏に大佐はまた書き添えていた


   なおこのワーテルローの戦争において、ひとりの軍曹《ぐんそう》予の生命

  を救いくれたり。その名をテナルディエという。最近彼はパリー近傍の小村

  シェルもしくはモンフェルメイュにおいて、小旅亭を営めるはずなり。

  もし予が子にしてテナルディエに出会わば、及ぶ限りの好意を彼に表すべ

  し。

 父に対する敬虔《けいけん》の念からではなかったが、常に人の心に強い力を及ぼす死に対する漠然たる敬意から、マリユスはその紙片を取って納めた。
 大佐のものとては何も残っていなかった。ジルノルマン氏はその剣と軍服とを古物商に売り払わせた。近所の人々はその庭を荒らして、珍しい花を持って行った。その他の花卉《かき》は、蕁麻《いらぐさ》や藪《やぶ》となり、あるいは枯れてしまった。
 マリユスはヴェルノンに四十八時間しか留まっていなかった。葬式の後彼はパリーに帰って、また法律の勉強にかかり、もはや父のことはかつて世にいなかった者のように思い出しもしなかった。二日にして大佐は地に埋められ、三日にして忘られてしまった。
 マリユスは帽子に喪章をつけた。ただそれだけのことだった。

     五 弥撒《ミサ》に列して革命派となる

 マリユスは子供の時からの宗教上の習慣を守っていた。ある日曜日に彼は、サン・スュルピス会堂に行き、小さい時いつも伯母《おば》から連れてこられたそのヴィエルジュ礼拝堂で弥撒《ミサ》を聞いた。その日彼は平素よりぼんやりして何か考え込んでいて、一本の柱の後ろに席を占め、理事マブーフ氏[#「理事マブーフ氏」に傍点]の背に書いてあるユトレヒトのビロードを張った椅子《いす》の上にうずくまって、それに自ら気もつかないでいた。弥撒が初まったかと思うと、ひとりの老人が出てきて、マリユスに言った。
「あなた、ここは私の席です。」
 マリユスは急いで横にのいた。そして老人はその椅子にすわった。
 弥撒がすんでからも、マリユスは考え込みながら四、五歩向こうにじっとしていた。老人はまた彼の所へ近づいて、そして言った。
「先刻はお邪魔してすみませんでした。そしても一度お許し下さい。きっとうるさい奴とおぼし召すでしょうが、その訳を申しますから。」
「いえ、それには及びません。」とマリユスは言った。
「ですが、私を悪く思われるといけませんから。」と老人は言った。「私はあの席が好きなんです。同じ弥撒《ミサ》でもあすこで聞くと、一番よく思われます。なぜかって、それは今申します。あの席から私は、長年の間、きまって二、三カ月に一度は、ひとりのりっぱな気の毒な父親がやって来るのを見たのです。その人は自分の子供を見るのにそれ以外には機会も方法もありませんでした。家庭の都合上、子供に会うことができなかったのです。でいつも子供が弥撒に連れてこられる時間を計らって、その人はやってきました。子供の方は、父親がそこにいることは夢にも知りませんでした。おそらく父親があることさえも知らなかったでしょう。罪のないものです。父親は、人に見られないようにあの柱の後ろに隠れていました。そして子供を見ては涙を流していました。その子供を大変愛していたのです。かわいそうな人です。私はそのありさまを見たのです。そしてあの場所は、私にとっては聖《きよ》い場所となりまして、いつもそこで弥撒をきくことになったのです。私は理事として当然すわり得る理事席よりも、あの席の方が好ましいのです。また私は多少その不幸な人の身分を知っています。舅《しゅうと》と金持ちの伯母《おば》と、それから親戚もあったのでしょうが、とにかくその人たちは、父親が子供に会うなら子供に相続権を与えないとおどかしていたのです。でその人は、子供が他日金持ちになり仕合わせになるように、自分を犠牲にしていました。政治上の意見から遠ざけられたのです。なるほど政治上の意見も結構ですが、世には意見を意見だけに止めない人がいます。まあ、ワーテルローの戦いに加わったからと言って、それが悪魔だとは言えますまい。そういう理由で親と子供とをへだてるわけはありません。その人はボナパルトの下に大佐でした。もう死んだと思います。司祭をしてる私の兄と同じくヴェルノンに住んでいました。何でも、ポンマリーとかモンペルシーとか……言っていました。確か剣で切られた大きな傷痕《きずあと》がありました。」
「ポンメルシーではありませんか。」とマリユスは顔の色を変えて言った。
「さよう、さよう、ポンメルシーです。あなたもその人を知っていましたか。」
「ええ、」とマリユスは言った、「それは私の父です。」
 老理事は両手を組んで、叫んだ。
「え! あなたがその子供! なるほど、そうです、今ではもう大きくなっていられるはずです。まあどうでしょう、あなたを深く愛していたお父さんがいられたのですよ。」
 マリユスは老人に腕を貸して、その宅まで送っていった。そして翌日、彼はジルノルマン氏に言った。
「友人と狩猟の約束をしましたから、三日間ばかり出かけたいんですが。」
「四日でもよい、」と祖父は答えた、「遊んでおいで。」
 そして彼は目をまたたきながら低い声で娘に言った。
「何か女のことだな。」

     六 会堂理事に会いたる結果

 マリユスはどこへ行ったか。それは少し後にわかるだろう。
 マリユスは三日間の不在の後、パリーに帰ってきて、すぐに法律学校の図書館に行き、機関紙のとじ込みを借り出した。
 彼はその機関紙を読み、共和および帝政時代のあらゆる歴史、「セント・ヘレナ追想記」、あらゆる記録、新聞、報告書、宣言、などを片端からむさぼり読んだ。大陸軍の報告書の中に初めて父の名を見いだした時は、一週間も興奮した。彼はまた、ジョルジュ・ポンメルシーが仕えていた将軍らを、なかんずくH伯爵を訪れた。彼が再び尋ねて行ったマブーフ理事は、大佐の隠退やその花やその孤独など、ヴェルノンの生活のありさまを聞かしてくれた。ついにマリユスは崇高で穏やかで世に珍しいその男のことを、自分の父であった獅子羊《ししひつじ》とも言うべきその人のことを、十分に知り得るに至った。
 かくて、すべての時間と考えとをささげたその研究にふけってる彼は、ほとんどジルノルマン一家の人々と顔を合わせることがなくなった。食事の時には姿を見せたが、あとでさがすともういなかった。伯母《おば》は不平をもらした。ジルノルマン氏は微笑して言った、「なあに、ちょうど娘のあとを追う年頃だ。」時とすると彼はつけ加えた、「いやはや、ちょっとした艶事《つやごと》と思っていたが、どうも本気の沙汰《さた》らしいぞ。」
 いかにもそれは本気の沙汰だった。
 マリユスは父を崇拝し初めていた。
 同時に、彼の思想のうちには異常な変化が起こりつつあった。その変化の面は、数多くてしかも次から次へと移っていった。本書はわれわれの時代の多くの精神の歴史を語らんとするものであるから、この変化の面を一歩一歩たどりそのすべてを指摘することは、無益の業《わざ》ではないと思う。
 今マリユスが目を通した歴史は、彼を驚駭《きょうがい》せしめた。
 第一の結果は眩惑《げんわく》であった。
 その時まで彼にとっては、共和、帝国、などという言葉はただ恐ろしいものにすぎなかった。共和とは薄暮のうちの一断頭台であり、帝国とは暗夜のうちの一サーベルであった。しかるに今彼はその中をのぞき込んで、混沌《こんとん》たる暗黒をのみ予期していたところに、恐れと喜びとの交じった一種の異様な驚きをもって、星辰《せいしん》の輝くのを見たのである。ミラボー、ヴェルニオー、サン・ジュスト、ロベスピエール、カミーユ・デムーラン、ダントン、それから、上り行く太陽のナポレオン。彼は自分がどこにあるかを知らなかった。彼はそれらの光に眼くらんで後退《あとじさ》った。そのうちしだいに驚きの情が去り、それらの光輝になれ、眩惑《げんわく》なしにそれらの事業をながめ、恐怖の情なしにそれらの人々を見調べた。革命と帝国とは、彼の夢見るような瞳《ひとみ》の前に遠景をなして光り輝いた。そして彼は、その事変と人物との二つの群れが、二つの偉業のうちにつづまるのを見た。民衆に還付された民権の君臨のうちにある共和国と、全欧州に課せられたフランス思想の君臨のうちにある帝国。そして革命のうちから民衆の偉大なる姿が現わるるのを見、帝国のうちからフランスの偉大なる姿が現わるるのを見た。実にすばらしいことだ、と彼は自ら内心に叫んだ。
 あまりに総合的な彼の第一の評価が眩惑のために見落としたことを、ここに指摘するの必要はあるまいと思う。ここに語られるものは、前進する一精神の状態である。すべて進歩というものは、皆一躍してなされるものではない。そしてこのことを、前後すべてにわたって一度に言っておきながら、物語の先を続けよう。
 マリユスは、自分の父を了解していなかったと同じく今まで自分の国を了解していなかったことに、その時初めて気づいた。彼は両者いずれをも知らなかったのである。そして好んで自分の眼に一種の闇《やみ》をきせていたのである。しかるに今や彼は眼を開いてながめた。そして一方では賛嘆し、一方では愛慕した。
 彼は愛惜と悔恨との情に満たされ、心にあることを語り得るのは今や一つの墳墓に向かってのみであることを思って、絶望の念に駆られた。ああ父がなお生きていたならば、父がなおあったならば、神がそのあわれみといつくしみとをもってなお父を生かしておいてくれたならば、彼はいかにそのそばに走り行き、いかにしかと身を投げかけ、いかに父に叫んだことであろう!「お父さん! 来ましたよ。私です。私はあなたと同じ心を持っています。私はあなたの児です!」いかに彼は父の白い頭を抱き、その髪を涙でぬらし、その傷をながめ、その手を握りしめ、その服をなつかしみ、その足に脣《くちびる》をつけたことであろう。ああなぜに父は、長寿を保たず、天の正しき裁きをも受けず、息子の愛をも受けないで、かくも早くいってしまったのか。マリユスは心の中で絶えずすすりなきし、常にそれを「ああ!」と言葉にもらした。同時に彼はまた、いっそう本当にまじめになり、いっそう本当に沈重になり、自分の信念と思想とにいっそう固まった。各瞬間に、真なるものの光が彼の理性を補っていった。彼のうちには一種の内的発育が起こってきた。自分の父と自分の祖国と、彼にとっては新しいその二つのものがもたらしてくる、一種の自然の生長を彼は感じた。
 鍵《かぎ》を手にしたがようにすべては開けてきた。彼は今まできらっていたものを了解し、今まで憎んでいたものを見通した。それ以来彼は、嫌忌《けんき》すべく教えられた偉業について、のろうべく教えられた偉人らについて、天意的にしてまた人間的なる犯すべからざる意義を明らかに見た。昨日のものでありながら既に古い昔のもののように思われる以前の意見を考える時には、自ら憤り自ら微笑を禁じ得なかった。
 父に対する意見を改めるとともに、彼は自然にナポレオンに対する意見をも改めるに至った。
 けれども、第二の方は多少の努力を要したことを、言っておかなければならない。
 子供の時から彼は、ボナパルトに関する一八一四年の当事者らの意見に浸されていた。およそ復古政府のあらゆる偏見や、利己的な考えや、本能などは、ナポレオンを変形しがちだった。復古政府はロベスピエールよりもなおいっそうナポレオンの方をきらっていた。そしてかなり巧みに国民の疲労や母親らの恨みを利用した。ボナパルトはついにほとんど伝説的な怪物と化し去った。前に述べてきたとおり子供の想像に似た民衆の想像裏に、彼を浮かび出させるについて、一八一四年の当事者らはあらゆる恐るべき仮面を次々に持ち出し、壮大となるほど恐ろしいものから、奇怪となるほど恐ろしいものに至るまで、チベリウスからクロクミテーヌに至るまで(訳者注 前者は残忍なるローマ皇帝後者は残酷なる怪物)すべて持ち出した。かくてボナパルトのことを話す時、心底に憎悪の念がありさえすれば、すすり泣こうと笑い出そうと勝手だった。マリユスもいわゆる「あの男」について、頭の中にそれ以外の考えをかつて持たなかった。またそういう考えは、彼の性質のうちにある執拗《しつよう》さにからみついていた。彼のうちにはナポレオンを憎む頑固《がんこ》な小僧がいた。
 歴史を読みながら、ことに種々の記録や材料のうちに歴史を調べながら、マリユスの目からナポレオンを隠していた被《おお》いはしだいに取れてきた。彼は何かある広大なるものを瞥見《べっけん》した、そして他の事におけると同じようにナポレオンについても、今まで思い違いをしていたのではないかと疑った。日がたつにつれてますますはっきり見えてきた。そして初めはほとんど不本意ながら、後にはあたかも不可抗な幻にひかされたがように夢中になって、徐々に一歩一歩と、最初は暗い階段を、次にはおぼろに照らされた階段を、最後には光に満ちた燦然《さんぜん》たる心酔の階段を、彼はよじのぼり初めた。
 ある夜、彼はひとりで屋根裏にある自分の小さな室《へや》にいた。蝋燭《ろうそく》がともっていた。彼はテーブルに肱《ひじ》をついて開いた窓のそばで本を読んでいた。各種の夢想が空間から浮かんできて、彼の考えに混入した。何という大なる光景で夜はあるか! どこから来るとも知れぬほのかな響きが聞こえる。地球より二百倍も大きい火星が炬火《たいまつ》のようにまっかに輝いているのが見える。大空は黒く、星辰はひらめいている。驚くべき光景である。
 マリユスは大陸軍の報告書を、戦場において書かれたホメロス的な文句をその時読んでいた。間をおいては父の名前が出てき、絶えず皇帝の名前が出てきた。大帝国の全局が現われてきた。彼は自分のうちに、潮のようなものがふくれ上がりわき上がってくるのを感じた。時とすると、息吹《いぶき》のように父が自分のそばを通って、耳に何かささやくかと思われた。彼はしだいに異常な気持ちになっていった。太鼓の音、大砲のとどろき、ラッパの響き、歩兵隊の歩調を取った足音、騎兵の茫漠《ぼうばく》たる遠い疾駆の音、などが聞こえてくるかと思われた。時々彼は目を天の方へ上げて、きわまりなき深みのうちに巨大な星座の輝くのをながめ、それからまた書物の上に目を落として、そこにまた他の巨大なるものが雑然と動くのを見た。彼の胸はしめつけられた。彼は感きわまり、身を震わし、息をあえいだ。とにわかに、心のうちに何がありまた何に動かされてるのかを自ら知らないで、彼は立ち上がり、両腕を窓の外に差し伸ばし、陰影を、静寂を、暗黒なる無窮を、永劫《えいごう》の広漠《こうばく》を、じっとながめ、そして「皇帝万歳!」を叫んだ。
 その瞬間以来、いっさいが決定した。コルシカの食人鬼――簒奪者《さんだつしゃ》――暴君――自分の姉妹に愛着した怪物――ルマタ(訳者注 ナポレオンがひいきにした俳優)の教えを受けた道化役者――聖地ジャファの攪乱者《かくらんしゃ》――猛虎――ブオナパルテ――すべてそれらは消散してしまい、そのあとには彼の頭の中に漠然たるしかも光り輝く光明が現われて、そこには届き難い高みに、シーザーの大理石像の青白い幻が光っていた。皇帝は彼の父にとっては、人々の賛嘆し献身する親愛なる将帥にすぎなかった。しかしマリユスにとっては、それ以上の何かであった。世界統一の業をローマ人の一団より継承するフランス人の一団を建設すべく、使命を帯びたる者であった。破壊の驚くべき建造者であり、シャールマーニュ、ルイ十一世、アンリ四世、リシュリユー、ルイ十四世、公安委員会、などの後継者であった。またもとより、汚点や欠点や罪悪をも有したであろう。換言すれば人間であったであろう。しかしその欠点のうちにもおごそかであり、その汚点のうちにも光り輝き、その罪悪のうちにも強力であった。あらゆる国民をしてフランスを「大国民」なりと言わしめるため、天より定められた人であった。否なおそれ以上であった。手に保つ剣によってヨーロッパを征服し、放射する光によって世界を征服したる、フランス自身の権化であった。マリユスは常に辺境に突っ立って未来をまもる赫々《かくかく》たる映像を、ボナパルトのうちに認めた。専制君主ではあるがしかし執政官であり、共和より生まれて革命の結末をつける専制君主であった。イエスが神人であるごとく、彼にとってはナポレオンは民衆人であった。
 新たに一宗教にはいった者のように、明らかにその帰依は彼を酔わしてしまった。彼はそこに飛び込んで執着し、あまりに深入りしすぎた。それは彼の性質上、やむを得なかった。一度坂道にさしかかると、途中でふみ止まることがほとんどできなかった。そして剣に対する熱狂は彼をとらえ、その思想に対する心酔と頭の中でからみ合った。彼は自ら気づかずして、天才とともにそして天才と一体になって、力を賛美した。言い換えれば、彼は自ら知らずして、偶像崇拝の二つの室《へや》の中に身を置いた、一方は神性なるもの、一方は獣性なるもの。多くの点について、彼はなお誤った方向をたどっていた。彼はすべてを承認した。人は真理の方へ進みながら途中|誤謬《ごびゅう》に出会うことがある。彼は一種の熱烈な誠意を持っていて、すべてを一塊《ひとかたまり》にしてのみ込んだ。新たにはいった道理において、あたかもナポレオンの光栄を測るがように旧制の誤謬を判別しながら、酌量すべき事情をすべて閑却して顧みなかった。
 それにしても、驚くべき一歩はふみ出されたのである。昔王政の墜落を見たところに、今はフランスの高揚を見た。彼の方向は変わっていた。昔、西であったものは、今は東になっていた。彼は向きを変えていた。
 すべてそれらの革新は、家の人々が気づかぬ間に彼のうちに成し遂げられた。
 そのひそかな仕事のうちに、ブールボン派であり過激王党派だった古い外皮をまったく捨ててしまった時、貴族派、一性論派、王党派、の衣を脱した時、革命派となり、深き民主派となり、ほとんど共和派となった時、その時彼はオルフェーヴル川岸のある印刷屋に行って、男爵マリユス・ポンメルシーという名前の名刺を百枚注文した。
 それは彼のうちに起こった変化の、父を中心としてすべてが引き寄せられるに至った変化の、きわめて当然な結果の一つにすぎなかった。ただ彼はひとりも知己を持たず、どの門番の家へもその名刺をふりまくことができなかったので、それをポケットの中に蔵《しま》い込んだ。
 またも一つの自然な結果として、彼は父に近づくに従って、父の記憶に近づくに従って、大佐が二十五年間奮闘してきた事物に近づくに従って、祖父から遠ざかるに至った。前に言ったとおり、ジルノルマン氏のむら気は既に長い前から彼の好むところでなかった。既に彼らの間には、軽佻《けいちょう》なる老人に対する沈重なる青年のあらゆる不調和が存していた。ジェロントの快活はウェルテルの憂鬱《ゆううつ》を憤らせいら立たせるものである。同じ政治的意見と同じ思想とがふたりに共通である間は、それを橋としてマリユスはジルノルマン氏と顔を合わしていた。しかし一度その橋が落つるや、ふたりの間には深淵《しんえん》が生じた。それからまた特に、愚かな動機によって彼を無慈悲にも大佐から引き離し、かくて父から子供を奪い子供から父を奪ったのは、実にジルノルマン氏であったことを思うと、マリユスは言うべからざる反撥《はんぱつ》の情を覚えた。
 父に対する愛慕のために、マリユスはほとんど祖父を嫌悪《けんお》するに至った。
 けれどもそれらのことは、前に言ったとおり、外部には少しも現われなかった。ただ彼はますます冷淡になって、食事も簡単にすまし、家にいることも少なくなった。伯母《おば》がそれについて小言《こごと》を言った時、彼はごくおとなしくしていて、その口実に、勉強だの学校の講義だの試験だの講演会だの種々なことを持ち出した。祖父の方はその一徹な見立てを少しも変えなかった。「女のことだ。よくわかってる。」
 マリユスは時々家をあけた。
「あんなにしてどこへ行くのでしょう。」と伯母は尋ねた。
 その不在はいつもごくわずかな時日だったが、そのうちに彼はある時、父が残したいいつけを守らんために、モンフェルメイュに行って、昔のワーテルローの軍曹《ぐんそう》である旅亭主テナルディエをさがした。しかしテナルディエは破産して、宿屋は閉ざされ、どうなったか知ってる者はいなかった。その探索のために、マリユスは四日間家をあけた。
「確かにこれは調子が狂ってきたんだな。」と祖父は言った。
 彼がシャツの下に何かを黒いリボンで首から胸にかけてるのを、ふたりは見たようにも思った。

     七 ある艶種《つやだね》

 ひとりの槍騎兵《そうきへい》のことを前にちょっと述べておいた。
 それはジルノルマン氏の父方《ちちかた》の系統で、甥《おい》の子に当たり、一族の外にあって、いずれの家庭からも遠く離れ、兵営の生活を送っていた。そのテオデュール・ジルノルマン中尉は、いわゆるきれいな将校たるすべての条件をそなえていた。「女のような身体つき」をし、揚々たる態度でサーベルを引きずり、髭《ひげ》を上に巻き上げていた。時にパリーに来ることがあったが、それもごくまれで、マリユスはかつて会ったことがないくらいだった。ふたりの従兄弟《いとこ》は互いに名前だけしか知ってはいなかった。前に言ったと思うが、テオデュールはジルノルマン伯母《おば》の気に入りだった。そしてそれも、常に顔を合わしていないからに過ぎなかった。常に会っていないといろいろよく思われるものである。
 ある日の朝姉のジルノルマン嬢は、その平静さのうちにもさすがに興奮して、自分の室《へや》に戻ってきた。マリユスがまた祖父に向かって、ちょっと旅をしたいと申し出たのである。しかもすぐその晩にたちたいと言った。「行っておいで、」と祖父は答えた。そしてジルノルマン氏は額の上まで両の眉《まゆ》を上げながら、ひとりして言った、「また家をあけるんだな。」それでジルノルマン嬢は非常に心痛して自分の室に上ってゆきながら階段の所で、「あまりひどい!」と憤慨の言葉をもらし、「だがいったいどこへ行くんだろう?」と疑問の言葉をもらした。何か道ならぬ艶事《つやごと》、ある影の中の女、ある媾曳《あいびき》、ある秘密、そういうことに違いないと彼女は思い、少しばかり探ってみるのも当然だと考えた。秘密を探って味わうことは、悪事を最初にかぎ出すのと同じ趣味で、聖《きよ》い心の者もそれに不快を覚えないものである。熱心な信仰の人の心のうちにも、汚れたる行ないに対する好奇心があるものである。
 それで彼女は、事情を知りたいという漠然《ばくぜん》とした欲望にとらわれた。
 平素の落ち着きにもかかわらず、多少不安なその好奇心をまぎらすために、彼女は自分の技芸のうちに逃げ込んで刺繍《ししゅう》を初めた。それは車の輪がたくさんにある帝政および復古時代の刺繍の一つで、綿布の上に綿糸でなすのだった。退屈な仕事に頑固《がんこ》な女工という形である。そうして彼女は幾時間もの間|椅子《いす》にすわりきりでいた。すると扉《とびら》が開いた。ジルノルマン嬢は顔を上げた。中尉のテオデュールが前に立っていて、軍隊式の礼をしていた。彼女は喜びの声を上げた。お婆さんであり、似而非貞女《えせていじょ》であり、信者であり、伯母《おば》であっても、自分の室《へや》に一人の槍騎兵《そうきへい》がはいって来るのを見ては、うれしからざるを得ないわけである。
「まあ、テオデュール!」と彼女は叫んだ。
「ちょっと通りかかりましたので。」
「まあ初めに……。」
「ええ今!」とテオデュールは言った。
 そして彼は伯母を抱擁した。ジルノルマン伯母は机の所へ行って、その抽出《ひきだ》しをあけた。
「少なくも一週間くらいは泊まってゆくんでしょうね。」
「いえ、今晩帰ります。」
「そんなことがお前!」
「でもそうなんです。」
「でもテオデュールや、泊まっていっておくれ、お願いだから。」
「私の心ははいと言いますが、命令がいえと言います。ごく簡単な事情です。私どもの兵営が変わって、今までムロンだったのが、ガイヨンになったんです。で元の営所からこんどの営所へ行くには、パリーを通らなければなりません。それで私は、ちょっと伯母《おば》さんに会って来ると言ってやってきました。」
「そしてこれはその骨折りのためにね。」
 彼女はルイ金貨を十個彼の手に握らした。
「いえお目にかかる私の喜びのためにと言って下さい、伯母さん。」
 テオデュールは彼女をまた抱擁した。その時、軍服の金モールのために首筋がちょっとすりむけたのを、彼女はかえってうれしく感じた。
「でお前は連隊について馬で行くんですか。」
「いいえ伯母さん。あなたにお目にかかりたかったんです。それで特別の許可を受けてきました。従卒が馬をひいていってくれますから、私は駅馬車で行きます。それについて、少しお尋ねしたいことがありますが。」
「何ですか。」
「従弟《いとこ》のマリユス・ポンメルシーも旅行するんですか。」
「どうしてそれを知っています?」と伯母はにわかに強い好奇心にそそられて言った。
「こちらへ着いてから、前部の席を約束しておこうと思って馬車屋へ行きました。」
「すると?」
「するとひとりの客が上部の席を約束していました。私はその名札を見ました。」
「何という名でした。」
「マリユス・ポンメルシーというんです。」
「まあ何ということでしょう。」と伯母《おば》は叫んだ。「お前の従弟《いとこ》はお前のようにちゃんとした子ではないんですよ。駅馬車の中で夜を明かそうなんて。」
「私と同じようにですね。」
「いえお前の方は義務ですからね。あれのは無茶なんです。」
「おやおや!」とテオデュールは言った。
 そこで姉のジルノルマン嬢に一事件が起こった。ある考案が浮かんだのである。もし男だったら額をたたくところだった。彼女はテオデュールに尋ねはじめた。
「お前の従弟はお前を知ってるでしょうか。」
「いいえ。私の方は従弟を見たことがあります、けれど向こうでは一度も私に目を向けたことはありません。」
「でお前さんたちはちょうどいっしょに旅するわけですね。」
「ええ、彼は上部の席で、私は前部の席で。」
「その駅馬車はどこへ行くんです。」
「アンドリーへです。」
「ではマリユスはそこへ行くんでしょうね。」
「ええ、私のように途中で降りさえしなければ。私はガイヨンの方へ乗り換えるためにヴェルノンで降ります。私はマリユスがどの方へ行くつもりかは少しも知りません。」
「マリユスって、まあ何て賤《いや》しい名でしょうね。どうしてマリユスなんていう名をつけたんでしょう。だけどお前の方はまあ、テオデュールというんですからね。」
「でもアルフレッドという方が私は好きです。」と将校は言った。
「まあ聞いておくれよ、テオデュール。」
「聞いていますよ、伯母《おば》さん。」
「気をつけてですよ。」
「気をつけていますよ。」
「いいですかね。」
「はい。」
「ところで、マリユスはよく家をあけるんですよ。」
「へえー。」
「旅をするんですよ。」
「ははあ。」
「泊まってくるんですよ。」
「ほほう。」
「どうしたわけか知りたいんですがね。」
 テオデュールは青銅で固めた人のように落ち着き払って答えた。
「何か艶種《つやだね》でしょう。」
 そしてまちがいないというような薄ら笑いをして、彼は言い添えた。
「女ですよ。」
「そうに違いない。」と伯母《おば》は叫んだ。彼女はジルノルマン氏の言葉を聞いたような気がし、大伯父《おおおじ》と甥《おい》の子とからほとんど同じように力をこめて言われた女という言葉によって、自分の思っていたところも確かなものとなったように感じた。彼女は言った。
「私たちの頼みをきいておくれよ。マリユスのあとを少しつけておくれよ。向こうではお前を知らないから、わけはないでしょう。女がいるとすれば、それも見届けるようにね。そして始終のことを知らしておくれ。お祖父《じい》さんも喜ばれるでしょうから。」
 テオデュールはそんな探索の役目にあまり趣味を持たなかった。しかし彼はルイ金貨十個にひどく心を打たれていたし、も一度もらえるかも知れないと思った。でその仕事を引き受けて言った、「承知しました、伯母さん。」そして彼は一人でつけ加えた、「監督になったわけだな。」
 ジルノルマン嬢は彼を抱擁した。
「テオデュールや、お前はそんな悪戯《いたずら》はしないでしょうね。お前はただ規律に従い、命令を守り、義務を果たす謹直な人で、家をすてて女に会いに行くなどということはないでしょうね。」
 槍騎兵《そうきへい》は凶賊カルトゥーシュが誠直だと言ってほめられたような満足の渋面をした。
 そういう対話が行なわれた日の夕方、マリユスは監視されてることに気もつかずに、駅馬車に乗った。監視人の方では、第一にまず眠ってしまった。それは他意ない眠りだった。アルゴス(訳者注 百の目をそなえ五十の目ずつ交代に眠るという怪物)は終夜|鼾《いびき》をかいて眠ってしまったのである。
 夜明けに御者は叫んだ。「ヴェルノン、ヴェルノン宿《しゅく》、ヴェルノンで降りる方!」そして中尉のテオデュールは目をさました。
「そうだ、」と彼はまだ半ば夢の中にあってつぶやいた、「ここで降りるんだった。」
 それから、目がさめるにつれて記憶がしだいに明らかになってゆき、伯母《おば》のこと、ルイ金貨十個のこと、マリユスの挙動を知らせると約束したことなどを、彼は思い出した。そしてひとりで笑い出した。
「もう馬車にいはすまい。」と彼はふだんの軍服の上衣のボタンをかけながら考えた。「ポアシーに止まったかも知れない。トリエルに止まったかも知れない。それとも、ムーランで降りなかったらマントかな。あるいはロルボアーズで降りたかな。またはパッシーまできたかな。そして左へ曲がってエヴルーの方へ行ったか、右へ曲がってラローシュ・ギーヨンの方へ行ったかな。追っかけようたってだめだし、お人よしの伯母へは、さて何と書いてやったものだろう。」
 その時上部の室から降りる黒いズボンが、前部の室《へや》のガラス戸から見えた。
「マリユスかしら?」と中尉は言った。
 それはマリユスだった。
 馬車の下には、馬や御者などの間に交じって、小さな田舎娘《いなかむすめ》が旅客に花を売っていた。「おみやげの花はいかが、」と彼女は呼んでいた。
 マリユスはそれに近寄って、平籠《ひらかご》の中の一番美しい花を買った。
「なるほど、」と前の部屋《へや》から飛び降りながらテオデュールは言った、「これはおもしろくなってきた。どんな女にあの花を持ってってやるのかな。あんなきれいな花を持ってゆくくらいだから、よほどの別嬪《べっぴん》に違いない。ひとつ見てやろう。」
 そしてもう今度は、言いつかったためではなく、自分の好奇心からして、あたかも自ら好きで狩りをする犬のように、彼はマリユスのあとをつけはじめた。
 マリユスはテオデュールに何らの注意も払わなかった。りっぱな女たちが駅馬車から降りてきたが、彼はその方にも目を注がなかった。彼は周囲のこと何一つ目にはいらないようだった。
「よほど夢中になってるな。」とテオデュールは考えた。
 マリユスは教会堂の方へ向かって行った。
「すてきだ。」とテオデュールは自ら言った。「会堂だな。弥撒《ミサ》でちょっと味をつけた媾曳《あいびき》はいいからな。神様の頭越しに横目とはしゃれてるからな。」
 教会堂まで行くと、マリユスはその中にはいらないで、裏手の方へ回っていった。そして奥殿の控壁の角《かど》に見えなくなった。
「外で会うんだな。」とテオデュールは言った。「ひとつ女を見てやるかな。」
 そして彼は靴《くつ》の爪先《つまさき》で立って、マリユスが曲がった角の方へ進んで行った。
 そこまで行くと、彼は呆然《ぼうぜん》と立ち止まった。
 マリユスは額を両手の中に伏せて、一つの墓の叢《くさむら》の中にひざまずいていた。花はそこに手向《たむ》けられていた。墓の一端に、その頭部のしるしたる小高い所に、黒い木の十字架が立っていて、白い文字がしるしてあった、「陸軍大佐男爵ポンメルシー。」マリユスのむせび泣く声が聞こえた。
 女とは一基の墓だったのである。

     八 花崗岩と大理石

 マリユスが初めてパリーを去って旅したのは、そこへであった。ジルノルマン氏が「家をあけるんだな。」と言ったたびごとに彼が立ち戻ったのは、そこへであった。
 中尉テオデュールは、意外にも墳墓に出くわしてまったく唖然《あぜん》とした。墳墓に対する敬意と大佐に対する敬意との交じった、自ら解き得ない一種の不思議な不安な感情を覚えた。そしてマリユスをひとり墓地に残して退いた。その退却には規律があった。死者は大きな肩章をつけて彼に現われ、彼はそれに対して挙手の礼をしようとまでした。伯母《おば》に何と書いてやっていいかわからないので、結局何にも書いてやらないことにした。そしてそのままでは、マリユスの恋愛事件についてテオデュールがなした発見からは、おそらく何らの結果も起こらなかったであろうが、しかし偶然のうちにしばしばある不思議な天の配剤によって、ヴェルノンのそのできごとの後間もなく、パリーで一つの事件がもち上がった。
 マリユスは三日目の朝早くヴェルノンから帰ってきて、祖父の家に着いた。そして駅馬車の中で二晩過ごしたためにすっかり疲れていて、水泳場に一時間ばかり行って不眠を補いたくなったので、急いで自分の室《へや》に上がって行き、旅行用のフロックと首にかけていた黒い紐《ひも》とを脱ぐが早いか、すぐに水泳場へ出かけて行った。
 ジルノルマン氏は健康な老人の例にもれず朝早くから起きていて、マリユスが帰ってきた音をきいた。それで老年の足の及ぶ限り大急ぎで、マリユスの室《へや》がある上の階段を上がっていった。そしてマリユスを抱擁し、抱擁のうちに種々尋ねてみて、どこから帰ってきたかを少し知ろうと思った。
 しかし八十以上の老人が上がって来るのよりも、青年が下りてゆく方が早かった。ジルノルマン老人が屋根部屋《やねべや》にはいってきた時には、マリユスはもうそこにいなかった。
 寝床はそのままになっており、その上には何の気もなしに、フロックと黒い紐《ひも》とが散らかしてあった。
「この方がよい。」とジルノルマン氏は言った。
 そして間もなく彼は客間にはいってきた。そこには既に姉のジルノルマン嬢が席についていて、例の車の輪を刺繍《ししゅう》していた。
 ジルノルマン氏は得意げにはいってきたのである。
 彼は片手にフロックを持ち、片手に首のリボンを持っていた。そして叫んだ。
「うまくいった。これで秘密が探れる。底の底までわかる。悪戯者《いたずらもの》の放蕩《ほうとう》に手をつけることができる。種本を手に入れたようなものだ。写真もある。」
 実際、メダルに似寄った黒い粒革《つぶかわ》の小箱がリボンに下がっていた。
 老人はその小箱を手に取って、しばらく開きもしないでじっとながめた。あたかも食に飢えた乞食《こじき》が自分のでないりっぱなごちそうが鼻の先にぶら下がってるのをながめるような、欲望と喜悦と憤怒との交じってる様子だった。
「これは確かに写真だ。こんなことを私《わし》はよく知っている。胸にやさしくつけてるものだ。実にばかげた者どもだ。見るもぞっとするような恐ろしい下等な女に違いない。近ごろの若い者はまったく趣味が堕落してるからね。」
「まあ見ようではありませんか、お父さん。」と老嬢は言った。
 ばねを押すと小箱は開いた。中にはただ、ていねいに畳んだ一片の紙があるのみだった。
「同じことは一つことだ。」と言ってジルノルマン氏は笑い出した。「これもわかってる。艶文《いろぶみ》というやつだ。」
「さあ読んでみましょう。」と伯母《おば》は言った。
 そして彼女は眼鏡《めがね》をかけた。ふたりはその紙を開いて、次のようなことを読んだ。

  予が子のために――皇帝はワーテルロー

  の戦場にて予を男爵に叙しぬ。復古政府は血をもって購《あがな》いたるこ

  の爵位を予に否認すれども、予が子はこれを取りこれを用うべし。もとより

  予が子はそれに価するなるべし。


 父と娘とが受けた感情は、とうてい言葉には尽し難い。彼らは死人の頭から立ち上る息吹《いぶき》で凍らされでもしたように感じた。互いに一言もかわさなかった。ただジルノルマン氏は自分自身に話しかけるように低い声で言った。
「あのサーベル奴《め》の字だ。」
 伯母はその紙を調べ、種々ひっくり返してみ、それから小箱の中にしまった。
 同時に、青い紙にくるんだ小さな長方形の包みが、フロックのポケットから落ちた。ジルノルマン嬢はそれを拾い上げて、青い紙を開いてみた。それはマリユスの百枚の名刺だった。彼女はその一枚をジルノルマン氏に差し出した。彼は読んだ、「男爵マリユス・ポンメルシー。」
 老人は呼び鈴を鳴らした。ニコレットがやってきた。ジルノルマン氏はリボンと小箱とフロックとを取り、それらを室《へや》のまんなかに、床《ゆか》にたたきつけた。そして言った。
「そのぼろ屑《くず》を持ってゆけ。」
 一時間ばかりの間はまったく深い沈黙のうちに過ごされた。老人と老嬢とは互いに背中合わせにすわり込み、各自に、そしてたぶんは同じことを、思いめぐらしていた。終わりにジルノルマン伯母《おば》は言った。

「よいざまだ!」
 やがてマリユスが現われた。戻ってきたのである。そして室の閾《しきい》をまたがないうちに、祖父が自分の名刺を一枚手に持ってるのを見た。祖父は彼の姿を見るや、何かしらてきびしい市民的な冷笑的な高圧さで叫んだ。
「これ、これ、これ、これ、お前は今は男爵だな。お祝いを言ってあげよう。いったい何という訳だ?」
 マリユスは少し顔を赤らめて答えた。
「私は父の子だという訳です。」
 ジルノルマン氏は冷笑をやめて、きびしく言った。
「お前の父というのは、私だ。」
「私の父は、」とマリユスは目を伏せ厳格な様子をして言った、「謙遜なそして勇壮な人でした。共和とフランスとにりっぱに仕えました。人間がかつて作った最も偉大な歴史の中の偉人でした。二十五年余りの間露営のうちに暮らしました、昼は砲弾と銃火の下に、夜は雪の中に、泥にまみれ、雨に打たれて暮らしました。軍旗を二つ奪いました。二十余の傷を受けました。そして忘れられ捨てられて死にました。しかもその誤ちと言ってはただ、自分の国と私と、ふたりの忘恩者をあまりに愛しすぎたということばかりでした。」
 それはジルノルマン氏の聞くにたえないことだった。共和という言葉で彼は立ち上がった、否なおよく言えばつっ立った。そしてマリユスの発する一語一語に、鉄工場の
《ふいご》の息を炭火の上に吹きかけるようなさまが、その王党の老人の顔に現われた。彼の顔色は薄墨色から赤となり、赤から真紅となり、真紅から炎の色と変じた。
「マリユス!」と彼は叫んだ、「言語道断な奴だ! お前の親父《おやじ》がどんな男だったか、そんなことは私《わし》は知らん。知ろうとも思わん。いっさい知らん、顔も知らん。ただ私が知ってるのは、奴らが皆悪党だったことだけだ。人非人、人殺し、赤帽子、盗人、だけだったことだ。皆そうだ。皆そうだ。私はだれも知らん。皆いっしょにして言うんだ。わかったか、マリユス! お前が男爵だって! ロベスピエールに仕えた奴らは皆山賊だ。ブ…オ…ナ…パルテに仕えた奴らは皆無頼漢だ。正当な国王に背《そむ》き、背き、背いた奴らは皆|謀反人《むほんにん》だ。ワーテルローでプロシア人とイギリス人との前から逃げ出した奴らは皆|卑怯者《ひきょうもの》だ。私が知ってるのはそれだけのことだ。お前の親父さんもその中にいたかどうか、私は知らん。はなはだ気の毒の至りだ。」
 こんどはマリユスが炭火で、ジルノルマン氏が鞴
《ふいご》 となった。マリユスは手足を震わし、どうなるかを知らず、頭は燃えるようだった。彼は聖餐《せいさん》が風に投げ散らされるのを見る牧師のようであり、偶像の上に通行人が唾《つば》してゆくのを見る道士のようだった。そういうことが自分の前で臆面《おくめん》もなく言われるのは許すべからざることのように思われた。しかしどうしたらいいか。父は自分の面前で足下に踏みつけられ踏みにじられた。しかもだれによってであるか。祖父によってではないか。一方を凌辱《りょうじょく》することなくして一方を復讐《ふくしゅう》することがどうしてできよう。祖父を辱《はずか》しむることはできない、また、父の讐《あだ》を報じないで捨ておくことも同じくできない。一方には神聖なる墳墓があり、他方には白髪がある。しばらく彼は酔ったようによろめきながら、頭の中には旋風が渦巻いた。やがて彼は目を上げ、祖父をじっと見つめ、そして雷のような声で叫んだ。
「ブールボン家なんかぶっ倒れるがいい、ルイ十八世の大豚めも!」
 ルイ十八世はもう四年前に死んでいた。しかしそんなことは彼にはどうでもよかった。
 老人はまっかになっていたが、突然髪の毛よりもなお白くなった。彼は暖炉の上にあったベリー公の胸像の方を向いて、変に荘重な態度で深く礼をした。それから黙ったままおもむろに暖炉から窓へ、窓から暖炉へと、二度|室《へや》の中を横ぎり、石の像が歩いてるように床《ゆか》をぎしぎしさした。二度目の時彼は、年取った羊のように惘然《もうぜん》としてその衝突をながめていた娘の方へ身をかがめて、ほとんど冷静な微笑をたたえて言った。
「この人のような男爵と、私《わし》のような市民とは、とうてい同じ屋根の下にいることはできない。」
 そして急に身を起こし、まっさおになり、うち震い、恐ろしい様子になり、恐るべき憤怒の輝きに額を一段と大きくして、マリユスの方に腕を差し伸ばして叫んだ。
「出て行け。」
 マリユスは家を去った。
 翌日、ジルノルマン氏は娘に言った。
「あの吸血児の所へ六カ月ごとに六十ピストル(訳者注 ピストルは金貨にして十フランに当たる)だけ送って、もう決してあいつのことを私の前で口にしてはいけません。」
 まだ吐き出すべき激怒がたくさん残っており、しかもそのやり場に困って、彼はそれから三カ月以上も続けて、自分の娘に他人がましい冷ややかな口をきいていた。
 マリユスの方でもまた、憤って家を飛び出した。そして彼の激昂《げっこう》を強めた一事があったことをちょっと言っておかなければならない。家庭の紛紜《ふんうん》を複雑にするそれらのこまかな不祥事が常にあるもので、たとい根本においてはそのために不正が増大するものではないとしても、損失はそのために大きくなるものである。ニコレットは祖父の命令によって、大急ぎでマリユスの「ぼろ屑《くず》」をその室《へや》に持ってゆきながら、自分でも気づかずに、たぶん薄暗い上の階段にでもあろうが、大佐の書いた紙片がはいっている黒い粒革《つぶかわ》の箱を落とした。そしてその紙も箱も見つからなかった。きっと「ジルノルマン氏」が――その日以来もうマリユスは祖父のことをそういうふうにしか決して呼ばなかった――「父の遺言」を火中に投じたものと、マリユスは思い込んだ。彼は大佐が書いたその数行を暗記していたので、結局何らの損害をも受けはしなかった。しかしその紙、その筆蹟、その神聖な形見、それは実に彼の心だったのである。それがどうされたのであるか?
 マリユスはどこへ行くとも言わず、またどこへ行くつもりか自分でも知らず、三十フランの金と、自分の時計と、旅行鞄《りょこうかばん》に入れた二、三枚の衣服とを持って、家を出て行った。そして辻馬車《つじばしゃ》に飛び乗り、時間借りにして、ラタン街区の方へあてもなく進ました。
 マリユスはどうなりゆくであろうか?

    第四編 ABCの友

     一 歴史的たらんとせし一団

 外見は冷静であったがこの時代には、一種の革命的な戦慄《せんりつ》が漠然《ばくぜん》と行き渡っていた。一七八九年および一七九二年の深淵《しんえん》から起こった息吹《いぶき》は、空気の中に漂っていた。こういう言葉を用いるのが許されるならば、青年は声変わりの時期にあったのである。人々はほとんど自ら知らずして、当時の機運につれて変化しつつあった。羅針盤《らしんばん》の面《おもて》を回る針は、同じく人の心の中をも回っていた。各人はその取るべき歩みを前方に進めていった。王党は自由主義者となり、自由主義者は民主主義者となっていた。
 それは多くの引き潮を交錯した一つの上げ潮のごときものであった。引き潮の特性は混和をきたすものである。そのためにきわめて不可思議な思想の結合を生じた。人々は同時にナポレオンと自由とを崇拝した。われわれは今ここに物語の筆を進めているが、この物語は実に当時の映像なのである。当時の人々の意見は多様な面を通過していた。ヴォルテール的勤王主義はずいぶんおかしなものであるが、ボナパルト的自由主義も同じく不可思議なもので、まったく好一対であった。
 その他の精神的団体には、いっそうまじめなものがあった。それらの人々は原則を探究し、権利に愛着していた。絶対なるものに熱狂し、無限の実現をのぞき見ていた。絶対なるものはその厳酷さによって、人の精神を蒼空《そうくう》に向かわしめ、無限なるもののうちに浮動せしむる。夢想を生むには、独断に如《し》くものはない。そして未来を生み出すには、夢想に如《し》くものはない。今日の空想郷も、明日はやがて肉と骨とをそなうるに至るであろう。
 進んだ思想は二重の基調を持っていた。秘奥が見えそめて来ると、疑わしい狡猾《こうかつ》な「打ち建てられたる秩序」は脅かされるに至った。それは最高の革命的徴候である。権力の下心は対濠《たいごう》のうちにおいて民衆の下心と相見《あいまみ》ゆる。暴動の孵化《ふか》はクーデターの予謀に策応する。
 当時フランスには、ドイツのツーゲンドブンドやイタリーのカルボナリのごとき、広汎《こうはん》な下層の結社組織はまだ存していなかった。しかし所々に、秘密な開発が行なわれ、枝をひろげつつあった。クーグールド結社はエークスにできかかっていた。またパリーにはこの種の同盟が多くあったが、なかんずくABCの友なる結社があった。
 ABCの友とは何であったか? 外見は子供の教育を目的としていたものであるが、実際は人間の擡頭《たいとう》を目的としていたものである。
 彼らは自らABCの友と宣言していた。ABC《アーベーセー》とは、〔|Abaisse’〕《アベッセ》 にして、民衆の意であった(訳者注 両者の音が共通なるを取ったもので、アベッセは抑圧されたるものという意)。彼らは民衆を引き上げようと欲していた。駄洒落《だじゃれ》だと笑うのはまちがいである。駄洒落はしばしば政治において重大なものとなることがある。その例、ナルセスを一軍の指揮官たらしめたカストラトスはカストラへ(去勢者は陣営へ)。その例、バルバリとバルベリニ(野蛮とバルベリニ)。その例、フエロスとフエゴス(法典とフエゴス)。その例、汝はペトロスなり、我このペトラムの上に(汝はペテロなり、我この石の上に我が教会を建てん)。
 ABCの友はあまり大勢ではなかった。それは芽ばえの状態にある秘密結社だった。もし親しい仲間というものが英雄になり得るとすれば、ほとんど親しい仲間と言ってもいい。彼らは巴里の二カ所で会合していた。一つは市場の近くのコラント[#「コラント」に傍点]と呼ぶ居酒屋、これは後になって問題となるものである。それからも一つは、パンテオンの近くで、サン・ミシェル広場のミューザンという小さな珈琲《コーヒー》店、これは今日なくなっている。第一の集会の場所は、労働者の出入りする所で、第二の方は学生の出入りする所だった。
 ABCの友のふだんの秘密会は、ミューザン珈琲《コーヒー》店の奥室で催された。その広間は店からかなり離れていて、ごく長い廊下で店に通じ、窓が二つあり、グレー小路に面して秘密な梯子《はしご》がついてる出口が一つあった。人々はそこで煙草《たばこ》をふかし、酒を飲み、カルタ遊びをし、または笑い声をあげていた。ごく高い声であらゆることを語っていたが、あることは低い声で話し合っていた。壁には共和時代のフランスの古びた地図がかけられていたが、それだけでも警官の目を光らせるには十分だった。
 ABCの友の大部分は若干の労働者らと親しく意志が疎通してる学生らであった。重なる人々の名前をあげれば下のとおりで、ある程度まで歴史のうちにはいるものである。すなわち、アンジョーラ、コンブフェール、ジャン・プルーヴェール、フイイー、クールフェーラック、バオレル、レグルまたはレーグル、ジョリー、グランテール。
 それらの青年は、友情のあまり一種の家庭的な親しみを互いに持っていた。すべての人々は、レーグルは別として、南部生まれの者だった。
 それは顕著なる一団であった。しかもわれわれの背後にある目に見えない深淵《しんえん》の中に消えうせてしまった。しかしその青年等が悲壮なる暴挙の影のうちに没してしまうのを見る前に、われわれがたどりきたった物語のこの所で、彼らの頭上に一条の光をさし向けてみることは、おそらく無益なことではないだろう。
 われわれはアンジョーラを第一にあげたが、その理由は後にわかるだろう。彼は富裕なひとり息子であった。
 アンジョーラは、魅力のあるしかも恐ろしいことをもやり得る青年だった。彼は天使のように美しかった。野蛮なるアンチノオス([#ここから割り注]訳者注 ハドリアヌス皇帝の寵臣たりし非常に美しきビシニヤ人のどれい[#ここで割り注終わり])であった。彼の目の瞑想的《めいそうてき》なひらめきを見れば、過去のある生活において、既に革命の黙示録を渉猟したもののように思われるのだった。彼は親しく目撃でもしたかのように革命の伝説を知っていた。偉大なる事物の些細《ささい》な点まですべて知っていた。青年には珍しい司教的なまた戦士的な性質だった。祭司であり、戦士であった。直接の見地から見れば、民主主義の兵士であり、同時代の機運を離れて見れば、理想に仕える牧師であった。深い瞳《ひとみ》と、少し赤い眼瞼《まぶた》と、すぐに人を軽蔑しそうな厚い下脣《したくちびる》と、高い額とを持っていた。顔に広い額があることは地平線に広い空があるようなものである。時々青ざめることもあったが、十九世紀の始めや十八世紀の終わりに早くから名を知られたある種の青年らのように、若い娘のようないきいきした有り余った若さを持っていた。既に大きくなっていながら、まだ子供のように見えた。年は二十二歳であるが、十七歳の青年のようだった。きわめてまじめで、この世に女性というものがいることを知らないかのようだった。彼の唯一の熱情は、権利であり、彼の唯一の思想は、障害をくつがえすことであった。アヴェンチノ山に登ればグラックスとなり、民約議会《コンヴァンシオン》におればサン・ジュストともなったであろう。彼はほとんど薔薇《ばら》を見たことがなく、春を知らず、小鳥の歌うのを聞いたことがなかった。エヴァドネの露《あら》わな喉《のど》にも、アリストゲイトンと同じく彼は心を動かされなかったであろう。彼にとってはハルモディオスにとってと同じく、花は剣を隠すに都合がよいのみだった。彼は喜びの中にあっても厳格だった。共和以外のすべてのものの前には、貞操を守って目を伏せた。彼は自由の冷ややかな愛人であった。彼の言葉は痛烈な霊感の調を帯び、賛美歌の震えを持っていた。彼は思いもよらない時に翼をひろげた。彼のそばにあえて寄り添わんとする恋人こそ不幸なるかなである。もしカンブレー広場やサン・ジャン・ド・ボーヴェー街の浮わ気女工らにして、中学から抜け出たばかりのような彼の顔、童《わらべ》のような首筋、長い金色の睫毛《まつげ》、青い目、風にそよぐ髪、薔薇色の頬《ほお》、溌剌《はつらつ》とした脣《くちびる》、美しい歯並み、などを見て、その曙《あけぼの》のごとき姿に欲望をそそられ、アンジョーラの上におのが美容を試みんとするならば、意外な恐ろしい目つきが、突如として彼女に深淵《しんえん》を示し、ボーマルシェーの洒落者《しゃれもの》の天使とエゼキエルの恐るべき天使とを混同すべからざることを、教えてやったであろう。
 革命の論理を代表せるアンジョーラと相並んで、コンブフェールは、革命の哲学を代表していた。革命の論理とその哲学との間には、次のような差異があった。すなわち、論理は戦争に帰結され得るが、哲学はただ平和に到達するのみが可能である。コンブフェールはアンジョーラを補い訂正していた。彼の方がより低くそしてより広かった。彼は人の精神に、一般的観念の広い原則を注ぎ込まんと欲した。彼は言っていた、「革命だ、しかし文明だ。」そしてつき立った山の回りに、広い青い地平線を開いた。それゆえ、コンブフェールの見解のうちには近づき得る実行し得るものがあった。コンブフェールを以ってする革命は、アンジョーラをもってする革命よりもいっそうのびのびとしていた。アンジョーラは革命の神聖なる権利を表現し、コンブフェールはその自然なる権利を表現していた。前者はロベスピエールに私淑し、後者はコンドルセーに接近していた。コンブフェールはアンジョーラよりも多くあらゆる世界の生活に生きていた。もしこのふたりの青年にして歴史に現われることが許されたならば、一方は正しき人となり、一方は賢き人となったであろう。アンジョーラはより男性的であり、コンブフェールはより人間的であった。人間と男性[#「人間と男性」に傍点]、実際そこに彼らの色合いの差異があった。天性の純白さによって、アンジョーラがきびしかったごとくコンブフェールは優しかった。彼は市人と言う言葉を愛したが、人間と言う言葉をいっそう好んでいた。彼はスペイン人のように、ホンブル(訳者注 人間という意味でまた一種のカルタ遊びの名)と喜んで言ったであろう。彼はあらゆるものを読み、芝居に行き、公開講義を聞きに行き、アラゴから光の分極の理を学び、外頸動脈《がいけいどうみゃく》と内頸動脈との二重作用を説明して、一つは顔面に行き一つは脳髄に行っているという、ジョフロア・サン・ティレールの説に熱中した。彼は時勢に通暁し、一歩一歩学問を研究し、サン・シモンとフーリエを対照し、象形文字を読み解き、小石を見つけて砕いては地質学を推理し、記憶だけで蚕の蛾《が》を描き、アカデミー辞典のフランス語の誤謬《ごびゅう》を指摘し、ピュイゼギュールやドルーズを研究し、何物をも、奇蹟であろうとも、これを肯定せず、何物をも、幽霊であろうともこれを否定せず、機関紙のとじ込みをめくり、よく思いを凝らし、未来は学校教師の手にあると断言し、教育問題を心にかけていた。知的および道徳的水準の向上、知識の養成、思想の普及、青年時代における精神の発育、などのために社会が絶えず努力することを欲した。また現在の研究法の貧弱さ、いわゆるクラシックと称する二、三世紀に限られた文学的見解のみじめさ、官界|衒学者《げんがくしゃ》の暴君的専断、スコラ派の偏見、旧慣、などがついにはフランスの大学をして牡蠣《かき》(愚人)の人工培養場たらしむるに至りはしないかを気づかっていた。彼は学者で、潔癖で、几帳面《きちょうめん》で、多芸で、勉強家で、また同時に、友人らのいわゆる「空想的なるまでに」思索的であった。彼は自分のすべての夢想を信じていた、すなわち、鉄道、外科手術における苦痛の減退、暗室中の現象、電信、軽気球の操縦など。のみならず、人類に対抗して迷信や専断や偏見によって至る所に建てられた要塞《ようさい》には、あまり恐れをいだかなかった。学問はついに局面を変えるに至るであろうと考えてる者のひとりだった。アンジョーラは首領であり、コンブフェールは指導者であった。一方は共に戦うべき人であり、一方は共に歩くべき人であった。とは言え、コンブフェールとても戦うことを得なかったのではない。彼は障害と接戦し、溌剌《はつらつ》たる力と爆発とをもって攻撃することを、あえて拒むものではなかった。しかしながら、公理を教え着実なる法則を流布して、しだいに人類をその運命と調和させて行くこと、それが彼の喜ぶところのものだった。そして二つの光の中で、彼の傾向は、焼き尽す光よりもむしろ輝き渡る光の方にあった。火事は疑いもなく曙《あけぼの》を作ることができるであろう。しかし何ゆえに太陽の登るのを待ってはいけないか。火山は輝き渡る、しかし暁の光はいっそうよく輝き渡るではないか。コンブフェールは崇高の炎よりも、美の純白の方をおそらく好んだであろう。煙に悩まされたる光、暴力によってあがなわれたる進歩は、この優しくまじめなる精神を半ばしか満足せしめなかった。一七九三年のように、民衆がまっさかさまに真理の中に飛び込むことは、彼を恐れさした。しかし彼にとっては、停滞はなおいっそう嫌悪《けんお》すべきものであった。彼はそこに腐敗と死滅とを感じた。全体として言えば、彼は瘴癘《しょうれい》の気よりも泡沫《ほうまつ》を愛し、下水よりも急流を愛し、モンフォーコンの湖水よりもナイヤガラ瀑布《ばくふ》を愛した。要するに彼は、止まることをも急ぐことをも欲しなかったのである。騒々しい友人らが、絶対なるものに勇ましく心ひかれて、輝かしい革命的冒険を賛美し、それを呼び起こさんとしている中にあって、コンブフェールはただ、進歩をして自然に進ませようと欲した。それは善良な進歩であって、おそらく冷ややかではあろうがしかし純粋であり、方式的ではあろうがしかし難点なきものであり、平静ではあろうがしかし揺るがし得ないものであったろう。コンブフェールは自らひざまずいて手を合わせ、未来が純潔さをもって到来せんことを祈り、何物も民衆の広大有徳なる進化を乱すものなからんことを祈ったであろう。「善は無垢《むく》ならざるべからず、」と彼は絶えず繰り返していた。そしてたとい革命の偉大さは、眩惑《げんわく》せしむるばかりの理想を見つむることであり、血潮と猛火とを踏みにじりつつ雷電の中を横ぎって、理想に向かって飛びゆくことであるとしても、進歩の美は、無垢なることに存するに違いない。そして一方を代表するワシントンと、他方の化身たるダントンとの間には、白鳥の翼を持った天使と鷲《わし》の翼を持った天使とをへだてる差違がある。
 ジャン・プルーヴェールは、コンブフェールよりもなおいっそう穏やかなはだ合いの人物だった。彼は自らジュアン(訳者注 ジャンを中世式にしたもの)と呼んでいた。それは中世紀の非常に有用な研究が生まれ出た強く深い機運に立ち交じっているという、あのつまらぬ一時の空想からであった。ジャン・プルーヴェールは情緒《じょうちょ》深く、鉢植《はちう》えの花を育て、笛を吹き、詩を作り、民衆を愛し、婦人をあわれみ、子供のために泣き、未来と神とを同じ親しみのうちに混同し、気高き一つの首を、すなわちアンドレ・シェニエの首をはねたことを、革命に向かって難じていた。平素は繊細であるが突如として雄々しくなる声を持っていた。博学と言えるほど学問があり、ほとんど東方語学者であった。またことに善良であった。善良さがいかに偉大に近いものであるかを知っている人にはごくわかりきったことであるが、詩の方面において彼は広大なるものを愛していた。彼はイタリー語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語を知っていた。しかもそれはダンテとユヴェナリスとアイスキロスとイザヤの四詩人を読むことに使われたのみだった。フランス人ではラシーヌよりもコルネイユを、コルネイユよりもアグリッパ・ドービネを好んでいた。燕麦《からすむぎ》や矢車草のはえている野を喜んで散歩し、世の中の事件とほとんど同じくらいに雲のことを気にしていた。彼の精神は人間の方面と神の方面と、二つの態度を有していた。あるいは研究し、あるいは静観していた。終日彼は社会問題を探究していた。すなわち、給料、資本、信用、婚姻、宗教、思想の自由、恋愛の自由、教育、刑罰、貧窮、組合、財産、生産、分配、すべて人類の群れを暗き影でおおう下界の謎《なぞ》を探究していた。そして夜になると、あの巨大なる存在者たる星辰《せいしん》をながめた。アンジョーラのごとく、彼は金持ちでひとり息子であった。彼はもの柔らかに話をし、頭を下げ、目を伏せ、きまり悪るげにほほえみ、ぞんざいな服装をし、物なれない様子をし、わずかなことに赤面し、非常に内気だった。それでもまた勇敢であった。
 フイイーは、扇作りの職工で、父も母もない孤児で、一日辛うじて三フランをもうけていた。そして彼は世界を救済するという一つの考えしか持たなかった。それからなおも一つの仕事を持っていた、すなわち学問をすることで、それを彼はまた自己を救済することと呼んでいた。彼は独学で読むこと書くことを学んだ。彼のあらゆる知識はただひとりで学んだのだった。彼は寛大な心を持っていた。広大な抱擁力を持っていた。この孤児は民衆を自分の養児としていた。母がいなかったので、祖国の事を考えていた。祖国を持たぬ人間の地上にいることを欲しなかった。民衆の人たる深い洞察力《どうさつりょく》をもって、われわれが今日|民族観念[#「民族観念」に傍点]と呼ぶところのものを心の中にはぐくんでいた。悲憤|慷慨《こうがい》もよくその原因を知悉《ちしつ》した上のことでありたいというので、特に歴史を学んだ。ことにフランスのことのみを考えている若々しい夢想家らの寄り合いの中にあって、彼はフランス以外を代表していた。そして専門として、ギリシャ、ポーランド、ハンガリー、ルーマニヤ、イタリー、などのことを知っていた。彼は権利としてのような執拗《しつよう》さをもって、場合の適当不適当をかまわず、以上の国名を絶えず口にしていた。クレート島およびテッサリーにおけるトルコ、ワルソーにおけるロシヤ、ヴェニスにおけるオーストリヤ、などの暴行は彼を憤慨さした。なかんずく、一七七二年の大暴逆(訳者注 ポーランドの分割)は彼を激昂《げっこう》さした。憤りの中に真実を含むほどおごそかな雄弁はない。彼はそういう雄弁を持っていた。一七七二年という汚れたる日付、裏切りによって覆滅されたるすぐれた勇敢な民衆、あの三国の罪悪、あの奇怪きわまる闇撃《やみうち》、などのことを彼はあくまでも論じていた。それは実に、その後多くのすぐれた国民を襲い、言わばその出生証書を塗抹《とまつ》したる、あの恐るべき国家的抑圧の典型となり標本となったのである。現代のあらゆる社会的加害は、ポーランドの分割より胚胎《はいたい》する。ポーランドの分割は一つの定理であり、それより現代のあらゆる政治的罪悪が導き出される。最近一世紀以来のすべての専制君主とすべての反逆人とは皆、不可変更のポーランド分割調書を作り、確認し、署名し、花押《かおう》したのである。近世の大逆の史を閲すると、右の事がらが第一に現われてくる。ウィーン会議はおのが罪悪を完成する前に、その悪事を相談したのである。一七七二年は猟の勝閧《かちどき》であり、一八一五年は獲物の腐肉である。とそういうのがフイイーのいつもの文句であった。このあわれな労働者は正義の擁護者となり、正義は彼を偉大ならしめて彼にむくいた。実際正当の権利の中には無窮なるものがあったからである。ワルソーを韃靼《ダッタン》化せんとするのは、ヴェニスをゼルマン化せんとするよりもはなはだしい。いかなる国王もそういうことをする時には、ただ労力と名誉とを失うのみである。うち沈められたる祖国も、やがては水面に浮かび上がって再び姿を現わすであろう。ギリシャは再びギリシャとなり、イタリーは再びイタリーとなる。事実に対する権利の抗議は永久に残存する。一民衆を盗むの罪は、時効にかかって消滅するものではない。それら莫大なる詐欺取財は、未来に長く続くものではない。国民はハンカチのように模様を抜き去られるものではない。
 クールフェーラックは、ド・クールフェーラック氏と言われる父を持っていた。王政復古の中流階級が貴族または華族ということについていだいている愚かな考えの一つは、実にこの分詞のドという一字を貴重がったことである。人の知るとおり、この分詞には何らの意味もない。しかし、ミネルヴ時代(訳者注 王政復古の初期)の市民らはこの下らないドの文字をあまりに高く敬っていたので、それを廃止しなければならないと思われるほどになった。かくてド・ショーヴラン氏はただショーヴランと呼ばせ、ド・コーマルタン氏はコーマルタンと、ド・コンスタンド・ルベック氏はバンジャマン・コンスタンと、ド・ラファイエット氏はラファイエットと呼ばせるに至った。クールフェーラックもそれにおくれを取るまいとして、ただ簡単にクールフェーラックと自ら呼んだのである。
 クールフェーラックについては、それだけでほとんど十分である。そしてただ、クールフェーラックならばまずトロミエスを見よ、と言うだけに止めておこう。
 実際クールフェーラックは、機才めの美とも称し得る若々しい元気を持っていた。ただ後になるとそういうものは、小猫のやさしさがなくなるように消え失せてしまい、その優美さも二本の足で立てば市民となり、四本の足で立てば牡猫《おすねこ》となるものである。
 かかる種類の精神は、代々の学生に、代々の若々しい芽に、相次いで伝えられ手から手へ渡りゆき、競争者のごとくに走り回り、そして常に何らの変化をもほとんど受けないものである。かくして、前に述べたとおり、一八二八年のクールフェーラックの言うことを聞く者は、一八一七年のトロミエスの言うことを聞く思いがするであろう。ただクールフェーラックは善良な男であった。見たところ外部的の精神は同じであるが、彼とトロミエスとの間には大なる差違があった。彼らのうちに潜在している人間は、前者と後者とではひどく異なっていた。トロミエスのうちには一人の検事があり、クールフェーラックのうちには一人の洒落武士《しゃれぶし》があった。
 アンジョーラは首領、コンブフェールは指導者、クールフェーラックは中心であった。他の二者がより多く光明を与えたとすれば、彼はより多く温熱を与えた。実際、彼は中心たるすべての特長、丸みと喜色とを持っていたのである。
 バオレルは一八二二年六月の血腥《ちなまぐさ》い騒動の時、若いラールマンの葬式のおりに顔を出したことがあった。
 バオレルはいつも上きげんで、悪友で、勇者で、金使いが荒く、太っ腹なるまでに放蕩者《ほうとうもの》で、雄弁なるまでに饒舌《じょうぜつ》で、暴慢なるまでに大胆であった。最も善良なる魔性の者であった。大胆なチョッキをつけ、まっかな意見を持っていた。偉大なる騒擾者《そうじょうしゃ》、言いかえれば、騒乱のない時には喧嘩《けんか》ほど好きなものはなく、革命のない時には騒乱ほどの好きなものはなかった。いつでも窓ガラスをこわしたり、街路の舗石《しきいし》をめくったり、政府を顛覆《てんぷく》したりすることをやりかねない男で、そういうことをして結果を見たがっていた。十一年間も大学にとどまっていた。法律のにおいをかいだが、それを大成したことはなかった。「決して弁護士にならず」というのをモットーとし、寝床側のテーブルを戸棚とし、その中に角帽が見えていた。法律学校の前に現れることはまれだったが、そういう時はいつも、ラシャ外套《がいとう》はまだ発明されていなかったので、フロックのボタンをよくかけて衛生上の注意をしていた。学校の正門について、「何というひどい老いぼれ方だ!」と言い、校長のデルヴァンクール氏について、「何という記念碑だ!」といっていた。講義のうちに歌の材料を見つけたり、教授らのうちに漫画の種を見いだしたりしていた。かなり多額な学資、年に三千フランほども、くだらないことに費やしてしまった。彼には田舎者《いなかもの》の両親があったが、その親たちに自分を深く尊敬させるような術を心得ていた。
 彼は両親のことをこう言っていた。「彼らは田舎者で、市民ではない。だからいくらか頭があるんだ。」
 気まぐれなバオレルは、多くのカフェーに出入りした。他の者はどこかなじみの家を持っていたが、彼はそんなものを持たなかった。彼はやたらに彷徨《ほうこう》した。錯誤は人間的で、彷徨はパリーっ児的である。彼の奥底には洞察力があり、見かけによらぬ思索力があった。
 彼はABCの友と、未だ成立しないが早晩形造られるべき他の団体との間の、連鎖となっていた。
 それら青年の集会所のうちには、ひとり禿頭《はげあたま》の会員がいた。
 ルイ十八世が国外に亡命せんとする日、それを辻馬車《つじばしゃ》の中に助け入れたので公爵となされたアヴァレー侯爵が、次のような話をした。一八一四年、フランスに戻らんとして王がカレーに上陸した時、ひとりの男が王に請願書を差し出した。「何か望みなのか、」と王は言った。「陛下、郵便局が望みでござります。」「名は何という?」「レーグルと申します。」
 王は眉《まゆ》をひそめ、請願書の署名をながめ、レグルと書かれた名を見た。このいくらかボナパルト的でない綴字《つづりじ》に([#ここから割り注]訳者注 レーグルとは鷲の意にしてナポレオンの紋章[#ここで割り注終わり])王は心を動かされて、微笑を浮かべた。「陛下、」と請願書を差し出した男は言った、「私には、レグール(訳者注 顎の意)という綽名《あだな》を持っていました犬番の先祖がありまして、その綽名が私の名前となったのであります。私はレグールと申します。それをつづめてレグル、また少しかえてレーグルと申すのであります。」それで王はほほえんでしまった。後に、故意にかあるいは偶然にか、王は彼にモーの郵便局を与えた。
 禿頭《はげあたま》の会員は、実にこのレグルもしくはレーグルの息子で、レーグル(ド・モー)と署名していた。彼の仲間は、手軽なので彼をボシュエと呼んでいた。
 ボシュエは、不幸を有する快活な男であった。彼の十八番《おはこ》は、何事にも成功しないことだった。それでかえって彼は何事をも笑ってすましていた。二十五歳にして既に禿頭だった。彼の父は一軒の家屋と一つの畑とを所有するに至った。しかしその息子たる彼は、投機に手を出したのがまちがいの元で、まっさきにその家と畑とをなくしてしまった。それでもう彼には何物も残っていなかった。彼は学問があり才があったが、うまくゆかなかった。すべての事がぐれはまになり、すべてのことがくい違った。自分でうち立てるすべての物が、自分の上にくずれかかった。木を割れば指を傷つける、情婦ができたかと思えばその女には他にいい人があるのを間もなく発見する。始終何かの不幸が彼に起こってきた。そういうところから彼の快活が由来したのである。彼は言っていた、「僕は[#「僕は」に傍点]瓦《かわら》がくずれ落ちる屋根の下に住んでいるんだ[#「くずれ落ちる屋根の下に住んでいるんだ」に傍点]。」驚くことはまれで、なぜなら事変が起こるのがあらかじめわかっているのだから、いけない時でも平気に構えており、運命の意地悪さにも笑っていて、まるで冗談をきいてる人のようだった。貧乏ではあったが、彼の上きげんのポケットはいつも無尽蔵だった。すぐに一文なしになってしまうが、笑い声はいつまでも尽きなかった。窮境がやってきても彼はその古|馴染《なじみ》に親しく会釈した。災厄をも親しく遇した。不運ともよく馴染み、その綽名《あだな》を呼びかけるほどになっていた。「鬼門《きもん》さん、今日は、」と彼はいつも言った。
 その運命の迫害が、彼を発明家にしてしまった。彼は種々の妙策を持っていた。少しも金は持たなかったが、気が向くと「思うままの荒使い」をする術《すべ》を知っていた。ある晩、彼はある蓮葉女《はすはおんな》と夜食をして、ついに「百フラン」を使い果たしてしまった。そしてそのばか騒ぎのうちに、次のようなすてきな言葉を思いついた。「サン・ルイの娘よ、僕の靴をぬげ。」(訳者注 サン・ルイは百フラン、そしてまたルイ王にかけた言葉)
 ボシュエは弁護士職の方へ進むのに少しも急がなかった。彼はバオレルのようなやり方で法律を学んだ。ボシュエはほとんど住所を持っていなかった。ある時はまったくなかった。方々を泊まり歩いた、そしてジョリーの家へ泊まることが一番多かった。ジョリーは医学生だった。彼はボシュエよりも二つ若かった。
 ジョリーは、若い神経病みだった。医学から得たところのものは、医者となることよりむしろ病人となることだった。二十三歳で彼は自分を多病者と思い込み、鏡に舌を写して見ることに日を送っていた。人間は針のように磁気に感ずるものだと断言して、夜分血液の循環が地球の磁気の大流に逆らわないようにと、頭を南に足を北にして牀《とこ》を伸べた。嵐のある時は自分で脈を取って見た。その上連中のうちで一番快活だった。若さ、病的、気弱さ、快活さ、すべてそれら個々のものは、うまくいっしょに同居して、それから愉快な変人ができ上がって、それを仲間らは、音をたくさん浪費して、ジョリリリリーと呼んでいた。「君は四り(四里)も飛び回れるんだ」とジャン・プルーヴェールは彼に言っていた。
 ジョリーはステッキの先を鼻の頭につける癖があった。それは鋭敏な精神を持ってるしるしである。
 かようにそれぞれ異なってはいるが、全体としてはまじめに取り扱うべきであるこれらの青年は、同じ一つの信仰を持っていた。それは「進歩」ということである。
 すべての人々は、フランス大革命から生まれた嫡子であった。最も軽佻《けいちょう》な者でも、一七八九年という年を言うときはおごそかになった。彼らの肉身の父は、中心党で王党で正理党で、あるかまたはあった。しかしそれはどうでもいいことである。若い彼らの雑多な前時代は彼らには少しも関係を及ぼさなかった。主義という純潔な血が、彼らの血管には流れていた。彼らは何ら中間の陰影もなく直接に、清純なる権利と絶対なる義務とに愛着していた。
 その主義にいったん加盟入会した彼らは、ひそかに理想を描いていた。
 すべてそれら燃えたる魂のうちに、確信せる精神のうちに、ひとりの懐疑家があった。彼はどうしてそこにはいってきたのであるか。あらゆる色の取り合わせによってであった。その懐疑家をグランテールと呼び、いつもその判じ名のRを署名した(訳者注 グランテールという音は大字Rという意を現わす)。グランテールは何事をも信じようとはしなかった男である。それに彼は、パリー学問の間に最も多く種々なことを知った学生のひとりだった。最もよい珈琲《コーヒー》はランブラン珈琲店にあり、最もよい撞球台《たまつきだい》はヴォルテール珈琲店にあることを知っていた。メーヌ大通りのエルミタージュにはよい菓子とよい娘とがあること、サゲーお上さんの家にはみごとな鶏料理ができること、キュネットの市門にはすばらしい魚料理があること、コンバの市門にはちょっとした白葡萄酒《しろぶどうしゅ》があること、などを知っていた。あらゆるものについて、彼は上等の場所を知っていた。その上、足蹴術を心得ており、舞踏をも少し知っており、また桿棒術に長じていた。そのほかまた非常な酒飲みだった。彼は極端に醜い男だった。当時の最もきれいな靴縫《くつぬ》い女であったイルマ・ボアシーは、彼の醜さにあきれて、「グランテールはしようがない」という判決を下した。しかしグランテールのうぬぼれはそれを少しも意としなかった。彼はいかなる女でもやさしくじっと見つめ、「俺が思いさえしたら、なあに」と言うようなようすをして、一般に女にもてると仲間たちに信じさせようとしていた。
 民衆の権利、人間の権利、社会の約束、仏蘭西《フランス》革命、共和、民主主義、人道、文明、宗教、進歩、などというすべての言葉は、グランテールにとってはほとんど何らの意味をもなさなかった。彼はそれらを笑っていた。懐疑主義、この知力のひからびた潰瘍《かいよう》は、彼の精神の中に完全な観念を一つも残さなかった。彼は皮肉とともに生きていた。彼の格言はこうであった、「世には一つの確かなることあるのみ、そはわが満ちたる杯なり。」兄弟であろうと父であろうと、弟のロベスピエールであろうとロアズロールであろうと、すべていかなる方面におけるいかなる献身をも彼はあざけっていた。
「死んだとはよほどの進歩だ。」と彼は叫んでいた。十字架像のことをこう言っていた、「うまく成功した絞首台だ。」彷徨《ほうこう》者で、賭博《とばく》者で、放蕩《ほうとう》者で、たいてい酔っ払ってる彼は、絶えず次のような歌を歌って、仲間の若い夢想家らに不快を与えていた。「若い娘がかわいいよ[#「若い娘がかわいいよ」に傍点]、よい葡萄酒がかわいいよ[#「よい葡萄酒がかわいいよ」に傍点]。」節《ふし》は「アンリ四世万々歳」の歌と同じだった。
 それにこの懐疑家は、一つの狂的信仰を有していた。それは観念でもなく、教理でもなく、芸術でもなく、学問でもなかった。それはひとりの人間で、しかもアンジョーラであった。グランテールはアンジョーラを賛美し、愛し、尊んでいた。この無政府的懐疑家が、それら絶対的精神者の一群の中にあって、だれに結びついたかというに、その最も絶対的なるものにであった。いかにしてアンジョーラは彼を征服したか。思想をもってか。否。性格をもってである。これはしばしば見られる現象である。信仰者に懐疑家が結びつくということは、補色の法則の示すとおり至って普通なことである。われわれに欠けているものはわれわれを引きつける。盲人ほど日の光を愛するものはない。侏儒《しゅじゅ》は連隊の鼓手長を崇拝する。蟇《がま》は常に目を空の方に向ける、なぜであるか、鳥の飛ぶのを見んがためである。心中に懐疑のはい回ってるグランテールは、アンジョーラの中に信仰の飛翔《ひしょう》するのを見るのを好んだ。彼にはアンジョーラが必要だった。彼は自らそれを明らかに意識することなく、自らその理由を解こうと考えることなく、ただアンジョーラの清い健全な確固な正直な一徹な誠実な性質に、まったく魅せられてしまった。彼は本能的にその反対のものを賛美した。彼の柔軟なたわみやすいはずれがちな病的な畸形《きけい》な思想は、背骨にまといつくがようにアンジョーラにまといついた。彼の精神的背景は、アンジョーラの確固さによりかかった。グランテールもアンジョーラのそばにいれば、一個の人物のようになった。また彼自身は、外見上両立し難い二つの要素から成っていた。彼は皮肉であり、信実であった。彼の冷淡さは愛を持っていた。彼の精神は信仰なくしてもすますことができたが、彼の心は友情なくしてすますことができなかった。それは深い矛盾である。なぜなれば愛情は信念であるから。彼の性質はそういうものだった。世には物の裏面となり背面となり裏となるために生まれた人々がある。ポルークス、パトロクロス、ニソス、エウダミダス、エフェスチオン、ペクメヤ、などはすなわちそれである(訳者注 皆献身的友情を以って名ある古代の人物)。彼らは他人によりかかるという条件でのみ生きている。彼らの名は扈従《こじゅう》である、そして接続詞のとという字の次にしか書かれることがない。彼らの存在は彼ら自身のものではない。自分のものでない他の運命の裏面である。グランテールはそういう人物のひとりだった、彼はアンジョーラの背面であった。
 それらの結合はほとんどアルファベットの文字で始まってると言うこともできるであろう。一続きになす時はOとPとが離すべからざるものとなる。もしよろしくばOとPと言うがいい、すなわちオレステスとピラデスと(訳者注 物語中のオレステスとその友人ピラデス。彼らの頭字はOとP。またアンジョーラとグランテールとの頭字はEとG)。
 アンジョーラの本当の従者であったグランテールは、この青年らの会合のうちに住んでいた。彼はそこに生きていた。彼の気に入る場所はそこのみだった。彼は彼らの後にどこへでもついて行った。酒の気炎の中に彼らの姿がゆききするのを見るのが彼の喜びだった。人々は彼の上きげんのゆえに彼を仲間に許していた。
 信仰家なるアンジョーラは、その懐疑家を軽蔑していた。自分が節制であるだけにその酔っ払いをいやしんでいた。また昂然《こうぜん》たる憐憫《れんびん》を少しはかけてやっていた。グランテールは少しも認められないピラデスであった。常にアンジョーラに苛酷に取り扱われ、てきびしく排斥され拒絶されていたが、それでもまたやってきて、アンジョーラのことをこう言っていた。「何という美しい大理石のような男だろう。」

     二 ブロンドーに対するボシュエの弔辞

 ある日の午後、前に述べておいた事件とちょうど一致することになるが、レーグル・ド・モーはミューザン珈琲《コーヒー》店の戸口の枠飾《わくかざ》りの所によりかかってうっとりとしていた。彼は浮き出しにされた人像柱のようなありさまをしていた。ただ自分の夢想にふけっていた。彼はサン・ミシェル広場をながめていた。よりかかることは立ちながら寝ることで、夢想家にとっては少しもいやなことではない。レーグル・ド・モーは前々日法律学校でふりかかったくだらない失策のことを考えていたが、別に憂わしいふうもなかった。それは彼一個の将来の計画、もとよりずいぶんぼんやりしたものではあったが、その計画を変化させてしまったのである。
 夢想していても馬車は通るし、夢想家とても馬車は目につく。ぼんやりとあちらこちらに目をさ迷わせていたレーグル・ド・モーは、その夢現《ゆめうつつ》のうちに、広場にさしかかってきた二輪馬車を認めた。馬車は並み足でどこを当てともなさそうに進んでいた。あの馬車はだれの所へ行こうとするのだろう。どうして並み足でゆっくり行くのだろう。レーグルはそれをながめた。馬車の中には、御者のそばに一人の青年が乗っていた。そして青年の前には、かなり大きな旅行鞄《りょこうかばん》が置いてあった。鞄に縫いつけられた厚紙には、大きな黒い文字の名前が見えていた、「マリユス・ポンメルシー。」
 その名前を見てレーグルの態度は変わった。彼はぐっと身を起こして、馬車の中の青年を呼びかけた。
「マリユス・ポンメルシー君!」
 呼びかけられた馬車は止まった。
 その青年もやはり深く考え込んでるようだったが、目を上げた。
「えー?」と彼は言った。
「君はマリユス・ポンメルシー君だろう。」
「もちろん。」
「僕は君をさがしていたんだ。」とレーグル・ド・モーは言った。
「どうして?」とマリユスは尋ねた。彼はまさしく祖父の家を飛び出してきたばかりのところだった。そして今眼前に立ってるのはかつて見たこともない顔だった。「僕は君を知らないが。」
「僕だってそのとおり。僕は君を少しも知らない。」とレーグルは答えた。
 マリユスは道化者にでも出会ったように思い、往来のまんなかでまやかしを初められたのだと思った。彼はその時あまりきげんのいい方ではなかった。眉《まゆ》をひそめた。レーグル・ド・モーは落ち着き払って言い続けた。
「君は一昨日学校へこなかったね。」
「そうかも知れない。」
「いや確かにそうだ。」
「君は学生なのか。」とマリユスは尋ねた。
「そうだ。君と同じだ。一昨日、ふと思い出して僕は学校へ行ってみた。ねえ君、ときどきそんな考えだって起こるものさ。教師がちょうど点呼をやっていた。君も知らないことはないだろうが、そういう時|奴《やつ》らは実際|滑稽《こっけい》なことをするね。三度名を呼んで答えがないと、名前が消されてしまうんだ。すると六十フラン飛んでいってしまうさ。」
 マリユスは耳を傾け初めた。レーグルは言い続けた。
「出席をつけたのはブロンドーだった。君はブロンドーを知ってるかね、ひどくとがったずいぶん意地悪そうな鼻をしている奴さ。欠席者をかぎ出すのを喜びとしてる奴さ。あいつ狡猾《こうかつ》にホという文字から初めやがった。僕は聞いていなかった。そういう文字では僕は少しも損害をうける訳がないんだからね。点呼はうまくいった。消される者は一人もなかった。皆出席だったんだ。ブロンドーの奴悲観していたね。僕はひそかに言ってやった、ブロンドー先生、今日は少しもいじめる種がありませんねって。すると突然ブロンドーは、マリユス・ポンメルシーと呼んだ。だれも答えなかった。ブロンドーは希望にあふれて、いっそう大きな声でくり返した、マリユス・ポンメルシー。そして彼はペンを取り上げた。君、僕には腸《はらわた》があるんだからね。僕は急いで考えたんだ。これは豪《えら》い奴だぞ、名を消されようとしている。待てよ。ずぼらなおもしろい奴に違いない。善良な学生ではないな。床の間の置き物みたいな奴ではないな。勉強家ではないな。科学や文学や神学や哲学を自慢する嘴《くちばし》の黄色い衒学者《げんがくしゃ》ではないな。くだらぬことにおめかししてる愚物ではないな。敬すべきなまけ者に違いない。そこらをうろついてるか、転地としゃれ込んでるか、浮わ気女工とふざけてるか、美人をつけ回してるか、あるいは今時分|俺《おれ》の女のもとへでも入り浸ってるかも知れないぞ。よし助けてやれ。一つブロンドーの奴をやっつけてやれ! その時ブロンドーは抹殺《まっさつ》の黒ペンをインキに浸して、茶色の目玉で聴講者を見回して、三度目に繰り返した、マリユス・ポンメルシー! 僕は答えた、はい! それで君は消しを食わなかったんだ。」
「君!……」とマリユスは言った。
「そしてそれで、僕の方が消しを食っちゃった。」とレーグル・ド・モーは言い添えた。
「君の言うことはわからない。」とマリユスは言った。
 レーグルは言った。
「わかってるじゃないか。僕は返事をするために講壇の近くにいて、逃げ出すために扉《とびら》の近くにいたんだ。教師は僕を何だかじっと見つめていた。するとブロンドーの奴《やつ》、ボアローが説いた意地悪の鼻に違いない、突然レ[#「レ」に傍点]の字へ飛び込んできやがった。それは僕の文字なんだ。僕はモーの者で、レグルと言うんだ。」
「レーグル!」とマリユスは言葉をはさんだ、「いい名だね。」(訳者注 レーグルすなわち鷲はナポレオンの紋章で、彼はナポレオン崇拝家である)
「ブロンドーはそのいい名前の所へやってきたんだ。そして叫んだ、レーグル! 僕は答えた。はい! するとブロンドーの奴、虎《とら》のようなやさしさで僕をながめ、薄ら笑いをして言いやがった。君はポンメルシーなら、レーグルではあるまい。この一言は君にとってあまり有り難くないようだが、実はそのいまいましい味をなめたのは僕だけさ。彼奴《あいつ》はそう言って、僕の名を消してしまった。」
 マリユスは叫んだ。
「それは実に……。」
「まず何よりも、」とレーグルはさえぎった、「何とかうまい賛辞のうちにブロンドーをお陀仏《だぶつ》にしてやりたいんだ。奴を死んだ者と仮定する。元来やせてはいるし、顔色は青白いし、冷たいし、硬《こわ》ばってるし、変な臭《にお》いがするし、死んだところで大した変わりはないだろう。そこで僕はこう言ってやろう。――爾《なんじ》地を裁く者よ思い知れ。この所にブロンドー横たわる、鼻のブロンドー、ブロンドー・ナジカ(鼻ブロンドー)、規則の牡牛《おうし》、ボス・ディシプリネ(規則牛)、命令の番犬、点呼の天使、彼は実にまっすぐであり、四角であり、正確であり、厳正であり、正直であり、嫌悪《けんお》すべきものなりき。わが名を彼が消したるがごとく、彼の名を神は消したまえり。」
 マリユスは言った。
「僕はまったく……。」
「青年よ、」とレーグル・ド・モーは続けて言った、「これは汝の教えとならんことを。以来は必ずきちょうめんなれ。」
「何とも申し訳がない。」
「汝の隣人をして再び名を消さるるに至らしむることなかれ。」
「僕は何とも……。」
 レーグルは笑い出した。
「そして僕は愉快だ。も少しで弁護士になるところだったが、その抹殺で救われたわけだ。弁護士などという月桂冠《げっけいかん》はおやめだ。これで後家の弁護もしなくていいし、孤児を苦しめることもしなくてすむ。弁護士服もおさらばだ、見習い出勤もおさらばだ。いよいよ除名が得られたわけだ。そして皆君のおかげだ。ポンメルシー君。改めて感謝の訪問をするつもりでいる。君はどこに住んでるんだ。」
「この馬車の中だよ。」とマリユスは言った。
「ぜいたくなわけだね。」とレーグルは平気で答えた。「君のために祝そう。そこにいたら年に九千フランは家賃を払わなきゃなるまいね。」
 その時クールフェーラックが珈琲《コーヒー》店から出てきた。
 マリユスは寂しげにほほえんだ。
「僕は二時間前からこの借家にいるんだが、もう出ようと思ってる。だがよくあるような話で、どこへ行っていいかわからないんだ。」
「君、」とクールフェーラックは言った、「僕の家にきたまえ。」
「僕の方に先取権はあるんだが、」とレーグルは言葉をはさんだ、「悲しいかな自分の家というのがないからな。」
「黙っておれよ、ボシュエ。」とクールフェーラックは言った。
「ボシュエだと、」とマリユスは言った、「君はレーグルというんじゃなかったかね。」
「そしてド・モーだ。」とレーグルは答えた。「変名ボシュエ。」
 クールフェーラックは馬車にはいってきた。
「御者、」と彼は言った、「ポルト・サン・ジャックの宿屋だ。」
 そしてその晩、ポルト・サン・ジャックの宿屋の一室に、クールフェーラックの隣室に、マリユスは落ち着いた。

     三 マリユスの驚き

 数日のうちに、マリユスはクールフェーラックの親友となってしまった。青年時代にはすぐに親密になり、受けた傷もたちまちなおるものである。マリユスはクールフェーラックのそばにいて自由な空気を呼吸した。それは彼にとってまったく新奇なことだった。クールフェーラックは彼に何も尋ねはしなかった。そんなことは考えもしなかった。そのような年ごろでは、顔つきを見れば直ちにすべてが看取されるものである。言葉なぞは無用である。顔がおしゃべりをするという青年が世にはいる。互いに顔を見合わせれば、互いに心がわかってしまう。
 けれどもある朝、クールフェーラックは突然彼にこういう問いを発した。
「時に君は何か政治的意見を持ってるかね。」
「何だって!」とマリユスはその問に気を悪くして言った。
「君は何派だと言うんだ。」
「民主的ボナパルト派だ。」
「鼠色《ねずみいろ》のおとなしい奴《やつ》だな。」とクールフェーラックは言った。
 翌日、クールフェーラックはマリユスをミューザン珈琲《コーヒー》店に導いた。それから彼は、微笑を浮かべてマリユスの耳にささやいた、「僕は君を革命に巻き込んでやらなけりゃならない。」そして彼をABCの友の室《へや》へ連れて行った。彼はマリユスを仲間の者らに紹介して、低い声で「生徒だ」とただ一言言った。マリユスにはそれが何の意味だかわからなかった。
 マリユスは多くの精神の蜂《はち》の巣の中に落ち込んだ。もとより彼は無口で沈重であったが、飛ぶべき翼もなく戦うべき武器も持たない人間ではなかった。
 マリユスはその時まで孤独で、習慣と趣味とによって独語と傍白とに傾いていたので、まわりに飛び回ってる青年らにいささか辟易《へきえき》した。それら種々のはつらつたる若者は、同時に彼を襲い彼を引っ張り合った。自由と活動とのうちにあるそれら精神の入り乱れた騒ぎを見ては、彼の思想は旋風のように渦《うず》をまいた。時とするとその思想は混乱して、遠く逃げ去って再び取り戻し得ないかとも思われた。哲学、文学、美術、歴史、宗教、すべてが思い設けないやり方で語られるのを彼は聞いた。彼は不思議な境地を瞥見《べっけん》した。そして適当な視点に置いてそれらを見なかったので、何だか渾沌界《こんとんかい》を見るような心地だった。彼は父の意見に従うために祖父の意見をすてて、自ら心が定まったと思っていた。しかるに今や、まだ心が定まってはいないのではないかという気がして、不安でもあるがまたそう自認もできかねた。今まですべてのものを見ていた角度は、再びぐらつき初めた。一種の震動が彼の頭脳の全世界を動揺さした。内心の不可思議な動乱であった。彼はそれにほとんど苦悩を覚えた。
 その青年らには、「神聖にされたるもの」は一つもないがようだった。あらゆることについて独特な言をマリユスは聞いた。それはまだ臆病《おくびょう》な彼の精神にはわずらいとなった。
 いわゆるクラシックの古い興行物の悲劇の題が書いてある芝居の広告が出ていた。「市民らが大事にしてる悲劇なんぞやめっちまえ!」とバオレルは叫んだ。するとコンブフェールが次のように答えるのをマリユスは聞いた。
「バオレル、君はまちがってる。市民階級は悲劇を愛するものだ。この点だけはほうっておくがいい。鬘《かつら》の悲劇にも存在の理由がある。僕はアイスキロスを持ち出してその存在の権利を否定する輩《やから》ではない。自然のうちには草案があるんだ。創造のうちにはまったく擬作の時代があるんだ。嘴《くちばし》でない嘴、翼でない翼、蹼《みずかき》でない蹼、足でない足、笑いたくなるような悲しい泣き声、そういうもので家鴨《あひる》は成り立ってる。そこで、家禽《かきん》が本当の鳥と並び存する以上は、クラシックの悲劇も古代悲劇と並び存していけないはずはない。」
 あるいはまた偶然、マリユスはアンジョーラとクールフェーラックとの間にはさまって、ジャン・ジャック・ルーソー街を通った。
 クールフェーラックは彼の腕をとらえた。
「いいかね。これはプラートリエール街だ。しかるに六十年ほど前に一風変わった家族が住んでいたために、今日ではジャン・ジャック・ルーソー街と名づけられてる。その家族というのは、ジャン・ジャックとテレーズだった。時々そこでは赤ん坊が生まれた。テレーズがそれを生むと、ジャン・ジャックがそれを捨ててしまった。」
 すると、アンジョーラはクールフェーラックを肱《ひじ》でつっついた。
「ジャン・ジャックに対しては黙っていたまえ。僕はその男を賛美しているんだ。彼は自分の子を打ち捨てはしたさ。しかし彼は民衆を拾い上げたじゃないか。」
 その青年らはだれも、「皇帝」という言葉を口にしなかった。一人ジャン・プルーヴェールだけは時々ナポレオンと言った。ほかの者らは皆ボナパルトと言っていた。アンジョーラはブオナパルト[#「ブオナパルト」に傍点]と発音していた。
 マリユスは漠然《ばくぜん》と驚きを感じた。知恵のはじめなり[#「知恵のはじめなり」に傍点]。(訳者注 神を―帝王を―恐るるは知恵のはじめなり)

     四 ミューザン珈琲《コーヒー》店の奥室

 それらの青年らの会話には、マリユスもい合わしまた時々は口出しをしたが、そのうちの一つは、彼の精神に対して真の動揺を及ぼした。
 それはミューザン珈琲店の奥室で行なわれた。その晩、ABCの友のほとんど全部が集まっていた。燈火は煌々《こうこう》とともされていた。人々は激せずしかも騒々しく、種々なことを話していた。沈黙してるアンジョーラとマリユスとを除いては、皆手当たりしだいに弁じ立てていた。仲間同士の話というものは、しばしばそういう平和な喧騒《けんそう》をきたすものである。それは会話であると同時にカルタ遊びであり混雑であった。人々は言葉を投げ合っては、その言葉じりをつかみ合っていた。人々は方々のすみずみで話をしていた。
 だれも女はこの奥室に入るのを許されていなかった。ただルイゾンという珈琲皿を洗う女だけは許されていて、時々洗い場から「実験室」(料理場)へ行くためにそこを通っていた。
 すっかりいい気持ちに酔ってるグランテールは、一隅《いちぐう》に陣取ってしゃべり立てていた。彼は屁理屈《へりくつ》をこね回して叫んでいた。
「ああ喉《のど》がかわいた。諸君、僕には一つの望みがあるんだ。ハイデルベルヒの酒樽《さかだる》が中気にかかって、蛭《ひる》を十二匹ばかりそれにあてがってやりたいというんだ。僕は酒が飲みたい。僕は人生を忘れたい。人生とはだれかが考え出したいやな発明品だ。そんなものは長続きのするものではない、何の価もあるものではない。生きることにおいて人は首の骨をくじいている。人生とは実際の役に立たない飾り物だ。幸福とは片面だけ色を塗った古額に過ぎない。伝道之書は言う、すべて空《くう》なり。おそらくかつて存在しなかったかも知れないその善人と、僕は同様の考えを持っている。零《ゼロ》はまっ裸で歩くことを欲しないから、虚栄の衣をまとうのだ。おお虚栄! 仰山な言葉ですべてに衣を着せたもの、台所は実験室となり、踊り児は先生となり、道化者は体育家となり、拳闘家《けんとうか》は闘士となり、薬局の小僧は化学者となり、鬘師《かつらし》は美術家となり、泥工は建築師となり、御者は遊猟者となり、草鞋虫《わらじむし》は翼鰓虫となる。虚栄には表裏両面がある。表面は愚で、ガラス玉をつけた黒人《くろんぼ》だ。裏面はばかで、ぼろをつけた哲学者だ。僕は前者を泣き、後者を笑う。名誉とか威厳とか言われるもの、名誉および威厳そのものも、一般に人造金でできてるに過ぎない。国王は人間の自尊心を玩具《おもちゃ》にしてるんだ。カリグラは馬を督政官にした。シャール二世は牛肉を騎士にした。ゆえに諸君は、督政官インシタツスと従男爵ローストビーフ([#ここから割り注]訳者注 前者は馬、後者は焼き肉[#ここで割り注終わり])との間をいばり歩くべしだ。人間の真価に至っては、もはやほとんど尊敬さるる価値がなくなってる。隣同士の賛辞をきいてみたまえ。白に白を重ねるとひどいことになる。白百合《しろゆり》が口を開くとすれば、いかに鳩《はと》のことを悪口するだろうか。狂信者をそしる盲信者は、蝮蛇《まむし》や青蛇《あおへび》よりももっと有害な口をきく。僕が無学なのは残念なわけだ。種々たくさん例をあげたいが、僕は何にも知らない。だが僕は常に機才を有していたんだ。グロの弟子《でし》になっていた時には、雑画を書きなぐるよりも林檎《りんご》を盗んで日を送ったものだ。ラパン(下手画工)はラピーヌ(奪略)の男性だ。僕はそれだけの人間だ。しかし君らだって僕と同じようなものさ。僕は諸君の完全無欠や優越や美点を何とも思わない。すべての美点は欠点のうちに投げ込まれるものだ。倹約は吝嗇《りんしょく》に近く、寛大は浪費に接し、勇気はからいばりに隣する。きわめて敬虔《けいけん》なことを云々《うんぬん》する者は、多少迷信的な言葉を発するものだ。ディオゲネスの外套《がいとう》に穴があると同じく、徳の中にもまさしく悪徳がある。諸君はいずれを賛美するか、殺されたる者と殺したる者と、すなわちシーザーとブルツスとを。一般に人は殺した者の方に味方する。ブルツス万歳、彼は人殺しをした。すべて徳とはそんなものさ。徳というか、それもいい、しかしそれはまた狂気だ。そういう偉人には不思議な汚点がある。シーザーを殺したブルツスは、小さな男の児の像に惚《ほ》れ込んだ。その像はギリシャの彫刻家ストロンジリオンの作ったものだ。彼はまた美しき脚《あし》と呼ばるる女傑エウクネモスの姿を刻んだ。するとネロが旅行中にそれを持ち去ってしまった。そしてこのストロンジリオンは、ブルツスとネロとを一致せしめた二つの彫像しか後世に残さなかった。ブルツスは一方に惚れ込み、ネロは他方に惚れ込んだ。歴史なるものは長たらしいむだ口に過ぎない。一つの世紀は他の世紀の模倣にすぎない。マレンゴーの戦いはピドナの戦いの模写であり、クロヴィスのトルビアックの戦いとナポレオンのアウステルリッツの戦いとは、二滴の血潮のように似通っている。僕は戦勝を尊敬しはしない。戦いに勝つというほどばかげたことはない。真の光栄は信服せしむることにある。まあ何か証明せんと努めてみたまえ。諸君は成功して満足するが、それも何というつまらないことだ。諸君は打ち勝って満足するが、それは何というみじめなことだ。ああ至る所、虚栄と卑怯《ひきょう》とのみだ。すべては成功にのみ臣事している。文法までがそうだ。万人成功を欲す、とホラチウスは言った。だから僕は人類を軽蔑《けいべつ》する。全から部分へ下れと言うのか。諸君は僕に民族を賛美し初めよと言うのか。乞《こ》うまずいかなる民族をやだ。ギリシャなのか。昔のパリー人たるアテネ人らは、あたかもパリー人らがコリニーを殺したようにフォキオンを殺し、アナセフォラスがピシストラッスのことを、彼の尿は蜜蜂《みつばち》を呼ぶと言ったほどに、暴君に媚《こ》びていたのだ。五十年間ギリシャで最も著名な人物は、文法家のフィレタスだった。きわめてちっぽけなやせ男だから、風に吹き飛ばされないようにと靴《くつ》に鉛をつけておかなければならなかった。コリントの大広場には、シラニオンが彫刻しプリニウスが類別した像が立っていた。それはエピスタテスの像だ。ところがエピスタテスという男は何をしたか。彼は足がらみを発明したにすぎない。ギリシャとその光栄とは、それだけのうちにあるんだ。それから他の例に移ってみよう。僕はイギリスを賞賛すべきなのか。フランスを賛美すべきなのか。フランスだって? そしてその理由もパリーがあるためなのか。しかし昔のパリーたるアテネについての意見は今述べたとおりだ。またイギリスの方は、ロンドンがあるためなのか。僕は昔のロンドンたるカルタゴがきらいだ。それからロンドンは、華美の都だがまた悲惨の首府だ。チャーリング・クロス教区だけでも、年に百人の餓死者がある。アルビオン(訳者注 古代ギリシャ人がイギリスに付せし名称)とはそういう所だ。なおその上、薔薇《ばら》の冠と青眼鏡《あおめがね》とをつけて踊ってるイギリスの女を見たこともあると、僕はつけ加えよう。イギリスなどはいやなことだ。しからば、ジョンブルを賛美しないとすれば、その弟のジョナサンを賛美せよと言うのか。僕はこの奴隷《どれい》ばかりの弟は味わいたくない。時は金なりという言葉を除けば、イギリスには何が残るか。綿は王なりという言葉を除けば、アメリカには何が残るか。またドイツは淋巴液《りんぱえき》であり、イタリーは胆汁《たんじゅう》だ。あるいはロシアを喜ぶべきであるか。ヴォルテールはロシアを賛美した、また支那をも賛美した。僕とても、ロシアは美を有している、なかんずくすぐれたる専制政治を有している、ということは認むる。だが僕は専制君主を気の毒に思うものだ。彼らの生命は弱々しいものだ。ひとりのアレキシスは斬首《ざんしゅ》され、ひとりのピーターは刺殺され、ひとりのポールは絞殺され、もひとりのポールは靴の踵《かかと》で踏みつぶされ、多くのイワンは喉を裂かれ、数多のニコラスやバジルは毒殺されたのだ。そしてそれらのことは、ロシア皇帝の宮殿が明らかに不健康な状態にあることを示すものだ。開化せるあらゆる民族は、戦争という一事を持ち出して思想家に賛美させる。しかるに戦争は、文明的戦争は、ヤクサ山の入り口における強盗の略奪より、パス・ドートゥーズにおけるコマンシュ土蛮の劫掠《ごうりゃく》に至るまで、山賊のあらゆる形式を取り用い寄せ集めたものである。諸君は僕に言うだろう、なあに、ヨーロッパはそれでもアジアよりはすぐれたる価値を持ってるではないかと。僕もアジアは滑稽《こっけい》であることに同意する。しかし僕は諸君は達頼喇嘛《ダライラマ》を笑い得るの権利があるとは認めない。西欧民族たる諸君は、イサベラ女王のきたない下着からフランス皇太子の厠椅子《かわやいす》に至るまで、威厳の箔《はく》をつけたあらゆる汚物を、流行と上品とのうちに混入せしめたではないか。人類諸君、僕は諸君に、ああ止《や》んぬるかなと言いたい。ブラッセルでは最もよく麦酒《ビール》を飲み、ストックホルムでは最もよく火酒《ウォッカ》を飲み、マドリッドでは最もよくチョコレートを、アムステルダムでは最もよくジン酒を、ロンドンでは最もよく葡萄酒《ぶどうしゅ》を、コンスタンチノーブルでは最もよく珈琲《コーヒー》を、パリーでは最もよくアブサントを、人は飲むんだ。そして有用な観念はそういう所にこそ存する。全体としてはパリーが一番すぐれている。パリーでは、屑屋《くずや》に至るまで遊蕩児《ゆうとうじ》である。ディオゲネスも、ピレウスで哲学者たるよりは、パリーのモーベール広場で屑屋たる方がいいと思うに違いない。それからなお、こういうことを学びたまえ。屑屋の酒場はこれを一口屋と称するんだ。その最も有名なのはカスロールとアバットアールとである。そこで、葉茶屋《はじゃや》、面白屋、一杯屋、銘酒屋、寄席《よせ》亭、冷酒屋、舞踏亭、曖昧屋《あいまいや》、一口屋、隊商亭よ、僕こそまさしく快楽児だ。リシャールの家で一人前四十スーの食事をしたこともある。クレオパトラを裸にしてころがすには、ペルシャの絨毯《じゅうたん》がなくてはいけない。クレオパトラはどこにいるんだ。ああお前か、ルイゾン、今日は。」
 酩酊《めいてい》を通り越してるグランテールは、ミューザン珈琲《コーヒー》店の奥室の一隅《いちぐう》で、通りかかった皿洗いの女を捕えて、そんなふうにしゃべり散らした。
 ボシュエは彼の方へ手を差し出して、彼を黙らせようとした。するとグランテールはますますよくしゃべり立てた。
「エーグル・ド・モー、手をおろせ。アルタクセルクセスの古衣を拒むヒポクラテスのようなまねをしたって、僕は何とも思やしない。僕は君のために黙りはしない。その上僕は悲しいんだ。君は僕に何を言ってもらおうというのか。人間というものは悪い奴《やつ》だ、見っともない奴だ。蝶々《ちょうちょう》が勝ちで、人間が負けだ。神はこの動物をつくりそこなった。一群の人間を取ってみるとまったく醜悪の選り抜きとなる。どいつもこいつもみじめなものだ。女《ファンム》は破廉恥《アンファーム》と韻が合うんだ、そうだ、僕は憂鬱病《ゆううつびょう》にかかっている。メランコリーにかき回され、ノスタルジーにかかり、その上ヒポコンデリアだ。そして僕は腹が立ち、憤り、欠伸《あくび》をし、退屈し、苦しみ、いや気がさしてるんだ。神なんか悪魔に行っちまえだ。」
「|大文字R《グランテル》、まあ黙っておれったら。」とボシュエは言った。彼はまわりの仲間と権利ということを論じていて、半ば以上裁判の専門語に浸りきっていたが、その結末はこうであった。
「……僕はほとんど法律家とは言えず、たかだか素人《しろうと》検事というくらいのところだが、その僕をして言わしむれば、こういうことになるんだ。ノルマンディーの旧慣法の条項によれば、サン・ミシュルにおいては、毎年、所有者ならびに遺産受理者の全各人によって、他の負担は別として、当価物が貴族のために支払われなければならない、しかしてこれは、すべての永貸契約、賃貸契約、世襲財産、公有官有の契約、抵当書入契約……。」
「木魂《こだま》よ、嘆けるニンフよ……。」とグランテールは口ずさんだ。
 グランテールのそばには、ほとんど黙り返ったテーブルの上に、二つの小さなコップの間に一枚の紙とインキ壺《つぼ》とペンとがあって、小唄《こうた》ができ上がりつつあることを示していた。その大事件は低い声で相談されていて、それに従事しているふたりの者は頭をくっつけ合っていた。
「名前を第一に見つけようじゃないか。名前が出てくれば事がらも見つかるんだ。」
「よろしい。言いたまえ。僕が書くから。」
「ドリモン君としようか。」
「年金所有者か。」
「もちろん。」
「その娘は、セレスティーヌ。」
「……ティーヌと。それから。」
「サンヴァル大佐。」
「サンヴァルは陳腐だ。僕はヴァルサンと言いたいね。」
 小唄を作ろうとしてる人々のそばには他の一群がいて、混雑にまぎらして低い声で決闘を論じていた。年上の三十歳くらいの男が年若の十八歳くらいの男に助言して、相手がどんな奴《やつ》だか説明してやっていた。
「おい気をつけろよ。剣にはあいつかなりな腕を持ってるんだ。ねらいが確かだ。攻撃力があり、すきを失わず、小手と、奇襲と、早術《はやわざ》と、正しい払いと、正確な打ち返しとに巧みなんだ。そして左|利《き》きだ。」
 グランテールの向こうの角《すみ》には、ジョリーとバオレルとがドミノ遊びをやり、また恋愛の話をしていた。
「君は幸福だね、」とジョリーは言った。「君の女はいつも笑っている。」
「それがあれの悪いところなんだ。」とバオレルは答えた。「女が笑うというのはいけないものだ。そんなことをされるとだましてやりたくなる。実際、快活な女を見ると後悔するという気は起こらなくなるものだ。悲しい顔をされてると良心が出て来るからね。」
「義理を知らない奴だな。笑う女は非常にいいじゃないか。そして君たちは決してけんかをしたこともなしさ。」
「それは約束によるんだ。僕らはちょっと神聖同盟を結んで互いに国境を定め、それを越えないことにしている。寒風に吹きさらされてる方はヴォーに属し、軟風の方はジェックスに属するというわけだ。そこから平和が生まれるんだ。」
「平和、それは有り難い仕合わせだね。」
「だがね、ジョリリリリー、君はどうしてまた御令嬢とけんかばかりしてるんだ。……御令嬢と言えばわかるだろう。」
「あいつはいつもきまってふくれっ面《つら》ばかりしてるんだ。」
「だが君は、かわいいほどやせほおけた色男だね。」
「ああ!」
「僕だったらあの女をうまく扱ってやるがね。」
「言うはやすしさ。」
「行なうもまた同じだ。ムュジシェッタというんだったね。」
「そうだ。だが君、りっぱな女だぜ。非常に文学が好きで、足が小さく手が小さく、着物の着つけもいいし、まっ白で、肉がよくついていて、カルタ占女《うらない》のような目をしている。僕はすっかり打ち込んじゃった。」
「それじゃあ、ごきげんを取り、上品に振る舞い、膝《ひざ》の骨を働かせなくちゃいかんよ。ストーブの家から毛糸皮のいいズボンを買ってきたまえ。それでうまくいくよ。」
「いくらくらいだ。」とグランテールが叫んだ。
 第三番目のすみでは、夢中になって詩が論ぜられていた。多神教の神話はキリスト教の神話とぶつかり合っていた。オリンポスが問題となっていたが、ジャン・プルーヴェールはロマンティシズムからその味方をしていた。ジャン・プルーヴェールは静かな時しか内気ではなかった。一度興奮しだすとすぐに爆発し、一種の快活さがその熱烈の度を強め、嬉々《きき》たると同時に叙情的になった。
「神々を悪く言いたもうな。」と彼は言った。「神々はおそらく消滅してはしない。ジュピテルは僕にとっては死んだとは思えない。神々は夢にすぎないと君らは言うのか。だが今日のような自然のうちにも、その夢が消え去った後にもまた、あらゆる偉大な多神教的神話が出て来るんだ。たとえば、城砦《じょうさい》の姿をしてるヴィニュマル山(訳者注 ピレーネー山脈の高峰)は、僕にとってはなおキベーレ神の帽子なんだ。またパンの神が夜ごとにやってきて、柳の幹の空洞《くうどう》の穴を一つ一つ指でふさいで笛を吹かないとは限らない。ピスヴァーシュの滝には何かのためにイオの神がやってきてるに違いないと、僕はいつも思ったものだ。」
 最後の第四すみでは、政事が論ぜられていた。人々は特許憲法を酷評していた。コンブフェールは穏やかにそれに賛成していたが、クールフェーラックは忌憚《きたん》なく攻撃の矢を放っていた。テーブルの上には折悪しく有名なトゥーケ法の一部が置いてあった。クールフェーラックはそれをつかんで打ち振り、その紙の音を自分の議論に交じえていた。
「第一に、僕は王を好まない。経済の点から言っても好ましくない。王とは寄食者だ。王を養うには費用がかかるんだ。聞きたまえ。王というものは高価なものなんだ。フランソア一世が死んだ時、フランスの公債利子は年に三万リーヴルだった。ルイ十四世が死んだ時は、配当二十八リーヴルのものが二十六億あった。それはデマレーの言によると、一七六〇年の四十五億に相当し、今日では百二十億に相当する。第二に、コンブフェールにははなはだ気の毒の至りだが、特許憲法は文明の悪い手段だ。過渡期を救う、推移を円滑にする、動揺をしずめる、立憲の擬政を行なって国民を王政から民主政に自然に転ぜしむる、そういう理屈はすべて唾棄《だき》すべきものだ。否々、偽りの光でもって民衆を啓発すべきではない。そういう憲法の窖《あなぐら》の中では、主義は萎靡《いび》し青ざめてしまう。廃退は禁物である。妥協は不可である。王が民衆に特許憲法を与えるなどとは断じていけない。すべてそういう特許憲法には卑劣な第十四条というのがある。与えんとする手の傍《かたわら》には、つかみ取らんとする爪がある。僕は断然君のいわゆる憲法を拒絶する。憲法というのは仮面だ。裏には虚偽がある。憲法を受くるには民衆は譲歩しなければならない。法とは全き法のみである。否、憲法なんかはだめだ。」
 時は冬であった。二本の薪《まき》が暖炉の中で音を立てて燃えていた。いかにも人を誘うがようで、クールフェーラックはそれにひかされた。彼は手の中で哀れなトゥーケ法をもみくちゃにして、火中に投じた。紙は燃えた。コンブフェールはルイ十八世の傑作が燃えるのを哲学者のようにながめた。そしてただこう言って満足した。
「炎に姿を変えた憲法だ。」
 かくして、譏刺《きし》、客気、悪謔《あくぎゃく》、活気と呼ばるるフランス気質、ユーモアと呼ばるるイギリス気質、善趣味と悪趣味、道理と屁理屈《へりくつ》、対話のあらゆる狂気火花、それが室《へや》の四方八方に一時に起こり乱れ合って、一種の快活な砲戦のありさまを人々の頭上に現出していた。

     五 地平の拡大

 青年の間の精神の衝突は驚嘆すべきものであって、その火花を予測しその輝きを解くことはできないものである。忽然《こつぜん》として何がほとばしり出るか、それはまったく測り知るを得ない。悲しんでいるかと思えば呵々《かか》大笑し、冗談を言っているかと思えば突然まじめになる。その導火線は偶然に発せらるる一言にかかっている。各人の思いつきはその主人となる。無言の所作さえも意外な平野を展開させるに足りる。たちまちにして視界の変化する急激な転向を事とする対話である。偶然がかかる会話の運転手である。
 言葉のかち合いから妙なふうに起こってきた一つの厳粛な思想が、グランテール、バオレル、プルーヴェール、ボシュエ、コンブフェール、クールフェーラックらの入り乱れた言葉合戦の中を、突如としてよぎっていった。
 対話の中にいかにして一つの文句が起こってくるか。いかにしてその文句が突然聞く人々の注意をひくに至るのか。今述べたとおり、それはだれにもわからないことである。ところで、喧囂《けんごう》の最中に、ボシュエはふいにコンブフェールに何か言いかけて、次の日付でその言葉を結んだ。
「一八一五年六月十八日、ワーテルロー。」
 そのワーテルローという言葉に、水のコップをそばにしてテーブルに肱《ひじ》をついていたマリユスは頤《おとがい》から拳《こぶし》をはずして、じっと聴衆をながめ初めた。
「そうだ、」とクールフェーラックは叫んだ、「この十八という数は不思議だ。実に妙だ。ボナパルトに禁物の数だ。前にルイという字を置き後に霧月という字を置いて見たまえ(訳者注 ルイ十八世およびナポレオンがクーデターを断行した十八日霧月共和八年、――また六月十八日のワーテルロー)。始めと終わりとがつきまとう意味深い特質をもったこの人間の全宿命が、そこにあるんだ。」
 アンジョーラはその時まで黙っていたが、沈黙を破ってクールフェーラックに言った。
「君は贖罪《しょくざい》という語をもって、罪悪を意味させるんだろう。」
 突然ワーテルローという語が現われたので既にいたく激していたマリユスは、この罪悪という語を聞いてもうたえ切れなくなった。
 彼は立ち上がって、壁にかかってるフランスの地図の方へおもむろに歩み寄った。地図の下の方を見ると、一つの小さな島が別に仕切りをして載っていた。彼はその仕切りの上に指を置いて言った。
「コルシカ島、これがフランスを偉大ならしめた小島だ。」
 それは凍った空気の息吹《いぶき》のようだった。人々は皆口をつぐんだ。何か起こりかけていることを皆感じた。
 バオレルはボシュエに何か答えながら、いつもやる半身像めいた姿勢をとろうとしていたが、それをやめて耳をそばだてた。
 だれをも見ないでその青い眼をただ空間に定めてるようなアンジョーラは、マリユスの方をも顧みないで答えた。
「フランスは偉大となるためには何もコルシカ島などを要しない。フランスはフランスだから偉大なんだ。我の名は獅子《しし》なればなりに傍点]だ。」
 マリユスはそれで引っ込もうとしなかった。彼はアンジョーラの方を向き、内臓をしぼって出て来るようなおののいた声で叫んだ。
「僕はあえてフランスを小さくしようとするのではない。ナポレオンをフランスに結合することは、フランスを小ならしむる所以《ゆえん》とはならない。この点を一言さしてくれたまえ。僕は君らの中では新参だ。しかし僕は君らを見て驚いたと言わざるを得ない。いったいわれらの立脚地はどこにあるのか。いったいわれらは何者なのか。君らは何人《なんぴと》か。僕は何人《なんぴと》か。まず皇帝のことを説こう。僕の聞くところでは、君らは王党のようにウに力を入れてブゥオナパルトと言っている。が僕の祖父はもっとうまく発音していると君らに知らしてやりたい。祖父はブオナパルテと言っているんだ。僕は諸君を青年だと思っていた。しかるに諸君は熱情をどこにおいてるのか。そしてその熱情を何に使おうとしてるのか。もし皇帝を賛美しないとしたら、だれを賛美しようとするのか。それ以上に、諸君は何を欲するのか。かかる偉大を欲しないとしたら、いかなる偉人を欲するのか。彼はすべてを持っていたのだ。彼は完璧《かんぺき》であった。彼はその頭脳の中に、人間の能力の全量を収めていた。彼はユスチニアヌスのように法典を作り、シーザーのように命令し、タキツスの雷電とパスカルの閃光《せんこう》とを交じえた談話をし、自ら歴史を作り自らそれを書き、イリヤッドのような報告をつづり、ニュートンの数理とマホメットの比喩《ひゆ》とを結合し、ピラミッドのように偉大な言葉を近東に残した。ティルシットでは諸皇帝に威厳を教え、学芸院ではラプラスに応答し、参事院ではメルランに対抗し、一方では幾何学に他方では訴訟に魂を与え、検事らとともにあっては法律家であり、天文学者らとともにあっては星学家だった。クロンウェルが二本の蝋燭《ろうそく》の一本を吹き消したように、彼はタンブルの殿堂へ行って窓掛けの総《ふさ》に難癖をつけた。彼はあらゆることを見、あらゆることを知っていた。しかもなお赤児の揺籃《ゆりかご》に対しては人のいい笑いを浮かべた。そしてたちまちにして、ヨーロッパは色を失い耳をそばだて、軍隊は行進を初め、砲車は回転し、船橋は河川に渡され、雲霞《うんか》のような騎兵は颶風《ぐふう》の中を駆けり、叫喚の声、ラッパの響き、至る所王位は震動し、諸王国の境界は地図の上に波動し、鞘《さや》を払った超人の剣の音は鳴り渡り、そして人々は、彼が手に炎を持ち、目に光を帯び、大陸軍と老練近衛軍との二翼を雷鳴のうちに展開して、地平にすっくと立ち上がるのを見た。それは実に戦いの天使だったのだ。」
 皆は沈黙していた。そしてアンジョーラは頭を下げていた。沈黙は多くの場合、承認かあるいは一種の屈服の結果である。マリユスはほとんど息もつかずに、ますます熱烈さを増して言い続けた。
「諸君、正しき考えを持とうではないか。そういう皇帝の帝国たるは、一民衆にとっていかにも光輝ある運命ではないか。そしてこの民衆が実にフランスであり、この民衆はその才能をこの人物の才能に結合したのだ。出現し君臨し、進み行き、勝利を博し、あらゆる国都を宿場とし、自分の擲弾兵《てきだんへい》を取って国王となし、諸王朝の顛覆《てんぷく》を布告し、一蹴《いっしゅう》してヨーロッパを変造し、攻め寄せる時には神の剣の柄《つか》を執れるかの感を人にいだかしめ、ハンニバル、シーザー、シャールマーニュを一身に具現した者、そういう者に従い、目ざむる曙《あけぼの》ごとに光彩陸離たる戦勝の報知をもたらす者の民となり、アンヴァリードの砲声を起床の鐘となし、マレンゴー、アルコラ、アウステルリッツ、イエナ、ワグラムなど、永久に赫々《かくかく》たる驚嘆すべき戦勝の名を光明の淵《ふち》に投じ、幾世紀の最高天に毎瞬時戦勝の星座を開かしめ、フランス帝国をローマ帝国と比肩せしめ、大国民となり大陸軍を生み出し、山岳が四方に鷲《わし》を飛ばすがように、地球上にその軍隊を飛躍せしめ、戦勝を博し、征服し、撃ち砕き、ヨーロッパにおいて光栄の黄金をまとう唯一の民衆となり、歴史を通じて巨人のラッパを鳴り響かし、勝利と光耀《こうよう》とによって世界を二重に征服すること、それは実に崇高ではないか。およそこれ以上に偉大なるものは何があるか。」
「自由となることだ。」とコンブフェールは言った。
 こんどはマリユスの方で頭をたれた。その簡単な冷ややかな一語は、鋼鉄の刃のように彼の叙事詩的な激語を貫き、彼はその激情が心の中から消えてゆくのを覚えた。彼が目を上げた時、コンブフェールはもうそこにいなかった。彼の賛美に対するにその一言の返報でおそらく満足して、出て行ってしまった。そしてアンジョーラを除くのほか、皆その後についていった。室《へや》の中はむなしかった。アンジョーラはマリユスのそばにただ一人居残って、その顔をおごそかに見つめていた。けれどもマリユスは、再び思想を少し建て直して、自分を敗北した者とは思わなかった。彼のうちにはなお慷慨《こうがい》のなごりがさめず、まさにアンジョーラに向かって三段論法の陣を展開せんとした。その時ちょうど立ち去りながら階段の所で歌う声が聞こえた。それはコンブフェールであった。その歌はこうである。

     よしやシーザーこのわれに
     母に対する恩愛を
     打ち捨て去るを要しなば、
     われシーザーにかく言わん、
    笏《しゃく》と輦《くるま》は持ちて行け、
    われは母をばただ愛す、
    われは母をばただ愛す。

 コンブフェールが歌うそのやさしい粗野な調子は、歌に一種の不思議な偉大さを与えていた。マリユスは考え込んで、天井を見上げ、ほとんど機械的にくり返した。「母?……」
 その時、彼は自分の肩にアンジョーラの手が置かれたのを感じた。
「おい、」とアンジョーラは彼に言った、「母とは共和のことだ。」

     六 逼迫《ひっぱく》

 その晩のことは、マリユスに深い動揺を残し、彼の心のうちに悲しい暗黒を残した。麦の種を蒔《ま》くために鉄の鍬《くわ》で掘り割られる時に、地面が受くるような感じを、彼もおそらく感じたであろう。その時はただ傷をのみ感ずる。芽ぐみのおののきと実を結ぶ喜びとは、後日にしかやってこない。
 マリユスは陰鬱《いんうつ》になった。彼はようやく一つの信仰を得たばかりだった。それをももう捨ててしまわなければならないのか。彼は自ら否と断言した。疑惑をいだくを欲しないと自ら宣言した。それでもやはり疑い初めた。二つの宗教、一つはいまだ脱し得ないもの、一つはいまだ入り込み得ないもの、その中間にあるはたえ難いことである。かかる薄暮の薄ら明りは、蝙蝠《こうもり》のような心をしか喜ばせない。マリユスははっきりした眸《ひとみ》であった。彼には真の光明が必要だった。懐疑の薄明は彼を苦しめた。彼は今あるがままの場所にとどまりたいと願い、そこに固執していたいと願った。しかしうち勝ち難い力によって、続行し、前進し、思索し、思考し、いっそう遠く進むべく余儀なくされた。どこに彼は導かれんとするのであろうか。かくばかり前方に踏み出して父に近づいた後になって、更にこんどは父より遠ざかる歩みを続けてゆくこと、それを彼は恐れた。新たに起こってきたあらゆる反省によって、彼の不安は増していった。嶮崖《けんがい》が彼の周囲に現われてきた。彼は祖父とも友人らとも融和していなかった。一方の目から見れば彼は無謀であり、他方の目から見れば彼はおくれていた。そして彼は一方に老年と他方に青年と、両方から二重に孤立していることを認めた。彼はミューザン珈琲《コーヒー》店に行くことをやめた。
 本心がかく悩まされて、彼は生活のまじめなる方面はほとんど少しも考えていなかった。しかし人生の現実は、忘れ去らるるを許さない。現実は突然彼に肱《ひじ》の一撃を与えにきた。
 ある日、宿の主人はマリユスの室《へや》へはいってきて、彼に言った。
「クールフェーラックさんが、あなたのことを引き受けて下さるんですね。」
「そうです。」
「ですが私は金がいるんですが。」
「クールフェーラック君に、話があるからきてくれと言って下さい。」とマリユスは言った。
 クールフェーラックはやってき、主人は去って行った。マリユスは彼に、今まで口にしようとも思わなかったことを、自分は世界に孤独の身で親戚もないということを語った。
「君はいったい何になるつもりだい。」とクールフェーラックは言った。
「わからないんだ。」とマリユスは答えた。
「何をするつもりだい。」
「わからない。」
「金は持ってるのか。」
「十五フランだけだ。」
「では僕に貸せというのか。」
「いや決して。」
「着物はあるのか。」
「あれだけある。」
「何か金目《かねめ》のものでも持ってるのか。」
「時計が一つある。」
「銀か。」
「金《きん》だ。このとおり。」
「僕はある古着屋を知っている。君のフロックとズボンを買ってくれるだろう。」
「そいつは好都合だ。」
「ズボンとチョッキと帽子と上衣《うわぎ》とを一つずつ残しておけばたくさんだろう。」
「それから靴《くつ》と。」
「何だって! 跣足《はだし》で歩くつもりじゃないのか。ぜいたくな奴《やつ》だね。」
「それだけで足りるだろう。」
「知ってる時計屋もある。君の時計を買ってくれるだろう。」
「それもいいさ。」
「いやあまりよくもない。ところでこれから先《さき》君はどうするつもりだ。」
「何でもやる。少なくも悪いことでさえなければ。」
「英語を知ってるか。」
「いや。」
「ドイツ語は?」
「知らない。」
「困ったね。」
「なぜだ?」
「僕の友人に本屋があるんだが、百科辞典のようなものを作るので、ドイツ語か英語かの項でも翻訳すればいいと思ったのさ。あまり報酬はよくないが、食ってはいける。」
「では英語とドイツ語を学ぼう。」
「その間は?」
「その間は着物や時計を食ってゆくさ。」
 彼らは古着屋を呼びにやった。古着屋は古服を二十フランで買った。彼らは時計屋へ行った。時計屋は四十五フランで時計を買った。
「悪くはないね。」と宿に帰りながらマリユスはクールフェーラックに言った。「自分の十五フランを加えると八十フランになる。」
「そして宿の勘定は?」とクールフェーラックは注意した。
「なるほど、すっかり忘れていた。」とマリユスは言った。
 宿の主人は勘定書を持ってきた。すぐに払わねばならなかった。七十フランになっていた。
「十フラン残った。」とマリユスは言った。
「大変だぞ、」とクールフェーラックは言った、「英語を学ぶ間に五フランを食い、ドイツ語を学ぶ間に五フランを食ってしまう。語学を早くのみ込んでしまうか、百スーをゆっくり食いつぶすかだ。」
 そうこうするうちに、悲しい場合になるとかなり根が親切なジルノルマン伯母《おば》は、マリユスの宿をかぎつけてしまった。ある日の午前、マリユスが学校から帰って来ると、伯母の手紙と、密封した箱にはいった六十ピストル[#「六十ピストル」に傍点]すなわち金貨六百フランとが、室《へや》に届いていた。
 マリユスはうやうやしい手紙を添えて、三十のルイ金貨を伯母のもとへ返してやった。生活の方法を得たし今後決してさしつかえない程度にはやってゆけると彼は書いた。その時彼にはただ三フラン残ってるのみだった。
 伯母《おば》は祖父をますます怒らせはしないかを気づかって、その拒絶を少しも知らせなかった。その上祖父は言っておいたのである、「あの吸血児のことは決して私の前で口にするな。」
 マリユスはそこで借金をしたくなかったので、ポルト・サン・ジャックの宿を引き払った。

     第五編 傑出せる不幸

     一 窮迫のマリユス

 マリユスにとって生活は苦しくなった。自分の衣服と時計とを食うのは大したことではない。彼はいわゆる怒った[#「怒った」に傍点]牝牛《めうし》という名状すべからざるものを食ったのである([#ここから割り注]訳者注 怒ったる牝牛を食うとは困窮のどん底に達するの意[#ここで割り注終わり])。それは実に恐るべきもので、一片のパンもない日々、睡眠のない夜々、蝋燭《ろうそく》のない夕、火のない炉、仕事のない週間、希望なき未来、肱《ひじ》のぬけた上衣《うわぎ》、若い娘らに笑われる古帽子、借料を払わないためしめ出される夕の戸、門番や飲食店の主人から受くる侮辱、近所の者の嘲《あざけ》り、屈辱、踏みにじられる威厳、選り好みのできない仕事、嫌悪《けんお》、辛苦、落胆、などあらゆるものを含んでいる。そしてマリユスは、いかにして人がそれらを貪《むさぼ》り食うか、いかにしばしば人はそれらのもののほかのみ下すべきものがないか、それを学んだのである。愛を要するがゆえに自尊をも要する青春の頃において、服装の賤《いや》しいゆえにあざけられ、貧しいゆえに冷笑されるのを、彼は感じた。いかめしい矜持《きょうじ》に胸のふくれ上がるのを覚ゆる青年時代において、彼は一度ならず穴のあいた自分の靴の上に目を落としては、困窮の不正なる恥辱と痛切なる赤面とを知った。それは驚くべき恐るべき試練であって、それを受くる時、弱き者は賤劣《せんれつ》となり強き者は崇高となる。運命があるいは賤夫をあるいは半神を得んと欲する時、人を投ずる坩堝《るつぼ》である。
 なぜなれば、かえって小さな奮闘のうちにこそ多くの偉大なる行為がなされる。窮乏と汚行との必然の侵入に対して、影のうちに一歩一歩身をまもる執拗《しつよう》な人知れぬ勇気があるものである。何人にも見られず、何らの誉れも報いられず、何らの歓呼のラッパにも迎えられぬ、気高い秘密な勝利があるものである。生活、不幸、孤立、放棄、貧困、などは皆一つの戦場であり、またその英雄がある。それは往々にして、高名なる英雄よりもなお偉大なる人知れぬ英雄である。
 堅実にして稀有《けう》なる性格がかくしてつくり出さるる。ほとんど常に残忍なる継母である困窮は時として真の母となる。窮乏は魂と精神との力を産み出す。窮迫は豪胆の乳母《うば》となる。不幸は大人物のためによき乳となる。
 苦しい生活のある場合には、マリユスは自ら階段を掃き、八百屋でブリーのチーズを一スーだけ買い、夕靄《ゆうもや》のおりるのを待ってパン屋へ行き、一片のパンをあがなって、あたかも盗みでもしたようにそれをひそかに自分の屋根部屋へ持ち帰ることもあった。時とすると、意地わるな女中らの間に肱《ひじ》で小突かれながら、片すみの肉屋にひそかにはいってゆく、ぎごちない青年の姿が見えることもあった。彼は小わきに書物を抱え、臆病《おくびょう》らしいまた気の立った様子をして、店にはいりながら汗のにじんだ額から帽子をぬぎ、あっけにとられてる肉屋の上《かみ》さんの前にうやうやしく頭を下げ、小僧の前にも一度頭を下げ、羊の肋肉《ろくにく》を一片求め、六、七スーの金を払い、肉を紙に包み、書物の間にはさんでわきに抱え、そして立ち去っていった。それはマリユスだった。彼はその肋肉を自ら煮、それで三日の飢えをしのぐのであった。
 初めの日は肉を食い、二日目はその脂《あぶら》を吸い、三日目にはその骨をねぶった。
 幾度も繰り返してジルノルマン伯母《おば》は、六十ピストルを贈ってみた。しかしマリユスはいつも必要がないと言ってそれを送り返した。
 前に述べた心の革命が彼のうちに起こった時も、彼は父に対する喪服をなおつけていた。その時以来彼はもうその黒服を脱がなかった。しかし衣服の方が彼から去っていった。ついにはもう上衣がなくなった。次にズボンもなくなりかけていた。いかんとも術《すべ》はなかった。ただ彼もいくらかクールフェーラックに力を貸してやったことがあるので、クールフェーラックは彼に古い上衣を一枚くれた。マリユスはある門番に頼んで三十スーでそれを裏返してもらった。それで新しい一枚の上衣となった。しかしその地色は緑だった。それからは日が暮れなければマリユスは外に出なかった。夜になると上衣の緑は黒となった。常に喪服をつけていたいと願って、彼は夜のやみを身にまとったのである。
 そういう境涯を通って、彼はついに弁護士の資格を得た。彼は表面上クールフェーラックの室《へや》に住んでることにした。それはかなりの室で、そこには取って置きの幾冊かの法律の古本もあり、少しばかりの小説の端本《はほん》で補われ、弁護士としての規定だけの文庫には見られた。手紙も一切クールフェーラックの所へあてさした。
 マリユスは弁護士となった時、冷ややかではあるが恭順と敬意とをこめた手紙を書いて祖父に報じた。ジルノルマン氏は身を震わしながらその手紙を取り、それを読み下し、そして四つに引き裂いて屑籠《くずかご》に投げ込んだ。それから二、三日してジルノルマン嬢は、父がただ一人室の中で何か声高に言ってるのを聞いた。そういうことは、彼がきわめて激昂《げっこう》した時いつも起こることだった。ジルノルマン嬢は耳を傾けた。老人はこう言っていた。「貴様がばかでさえなければ、同時に男爵で弁護士であるなどということができないのが、わかるべきはずだ。」

     二 貧困のマリユス

 貧窮も他の事と同じである。ついにはたえ得らるるものとなる。いつかはある形を取り、それに固まってゆく。人は貧窮にも生長する、換言すれば、微弱ではあるがしかし生きるには十分な一種の仕方で発達してゆく。マリユス・ポンメルシーの生活がいかなる具合に整えられていったかは、次のとおりである。
 彼は最も狭い峠を越した。前にひらけた峡路はいくらか広くなった。勤勉と勇気と忍耐と意思とをもって、彼はついに年に約七百フランを働き出すようになった。彼はドイツ語と英語とを学んだ。クールフェーラックから友人の本屋に関係をつけてもらって、その文学部の方につまらぬ端役[#「端役」に傍点]を勤めることになった。広告文をつづり、新聞の翻訳をし、出版物に注を入れ、伝記を編み、その他種々のことをやった。それでともかく毎年、七百フランはきまって収入があった。それで生活を立てた。必ずしもひどい生活ではなかった。どういうふうにして? それは次に述べよう。
 マリユスは年三十フランで、ゴルボー屋敷のきたない室《へや》を一つ借り受けた。書斎とは言っていたが暖炉もなく、道具とてはただ是非とも必要なものだけしかなかった。そのわずかな道具は自分のものだった。毎月三フランずつ借家主の婆さんに与えて、室を掃除《そうじ》してもらい、毎朝少しの湯と新しい鶏卵を一つと一スーのパンとを持ってきてもらった。彼はそのパンと卵とで昼食をすました。卵の高い安いによってその昼食は二スーから四スーまでの間を高低した。晩の六時にサン・ジャック街に出ていって、マテュラン街の角《かど》にある版画商バッセの店と向き合ったルーソーという家で夕食をした。スープは取らなかった。食べるのは、六スーの肉の一皿、三スーの野菜の半皿、三スーのデザート。それからまた三スーで随意のパン。葡萄酒《ぶどうしゅ》の代わりには水を飲んだ。その頃はいつもでっぷりふとってまだ色艶《いろつや》のよかったルーソーの上《かみ》さんが、いかめしく帳場に陣取っていたが、彼はそこで金を払い、給仕に一スーを与えると、上さんは笑顔を見せてくれた。それから彼はそこを出た。十六スーで笑顔と夕食とを得るのだった。
 そのルーソーの飲食店では、酒を飲むよりも水を飲む者の方が多く、料理屋《レストーラン》というよりもむしろ休憩所と言ったほどの所だった。今日はもうなくなっている。主人はおもしろい綽名《あだな》を持っていて、水のルーソー[#「水のルーソー」に傍点]と呼ばれていた。
 そういうふうにして、四スーで昼食をし十六スーで夕食をして、食べるのに一日二十スーだけかかった。それで一年に三百六十五フランとなった。それに室代《へやだい》が三十フラン、婆さんに三十六フラン、その他少しの雑費。合計四百五十フランで、マリユスは食事と室と雑用とをすました。それから衣服が百フラン、シャツが五十フラン、洗たくが五十フラン。全部で六百五十フランを出なかった。そして手元に五十フラン残った。彼は豊かであった。場合によっては十フランくらいは友人に貸してやった。クールフェーラックは一度六十フランも借りたことがあった。火については、暖炉がなかったのでマリユスはそれを「簡便に」しておいた。
 マリユスはいつも二そろいの衣服を持っていた。一つは古くて「平素《ふだん》のため」のであり、一つは新しくて特別の場合のためのであった。両方とも黒だった。またシャツは三つきりなかった、一つは身につけ、一つは戸棚に入れて置き、も一つは洗たく屋にいっていた。損《いた》むにつれてまた新しくこしらえた。しかし普通いつも破けていたので、頤《あご》の所まで上衣のボタンをかけていた。
 マリユスがそういう立身をするまでには、幾年かの月日を要した。それはきびしい年月で、過ぎるに困難な年であり、よじのぼるに困難な年であった。しかしマリユスは一日たりとも意気|沮喪《そそう》しなかった。彼は困苦ならばすべてを受け入れ、負債を除いてはあらゆることをなした。自分は何人《なんぴと》にも一文の負債《おいめ》もないと、彼は自ら公言していた。彼に言わすれば、負債は奴隷《どれい》の初まりであった。債権者は奴隷の主人よりも悪いと彼は思っていた。なぜなれば、主人は単に人の身体を所有するのみであるが、債権者は人の威厳を所有しそれを侮辱することができるからである。金を借りるよりはむしろ食わない方を彼は望んだ。そして幾日も絶食したことさえあった。彼はあらゆる極端が相接することを思い、注意しなければ物質的の零落は精神の堕落をきたすことを思って、深く心の矜《ほこ》りに注意していた。違った境遇にあったならば恭敬とも思われたかも知れない儀礼や行為をも、今は屈辱と思われて、昂然《こうぜん》と頭を高くした。退くことを欲しないので、少しも無謀なことをやらなかった。顔にはいつもいかめしい赤みをたたえていた。彼は苛酷《かこく》なるまでに内気だった。
 あらゆる困苦のうちにあって、彼は心のうちにあるひそかな力から、励まされまた時には導かれるのを感じた。魂は身体を助ける、そしてある時には身体を支持する。籠《かご》をささえるのは中の鳥のみである。
 マリユスの心のうちには、父の名と並んでも一つの名が刻まれていた、すなわちテナルディエの名が。熱烈でまじめな性質のマリユスは、一種の円光をその男にきせていた。彼の考えでは、その男は父の生命の親であり、ワーテルローの砲弾銃火の中にあって大佐を救った勇敢な軍曹であった。マリユスは決して父の記憶とその男の記憶とを離したことがなく、尊敬のうちに両者を結合していた。それは二段の礼拝で、大きな祭壇は大佐に対するものであり、小さな祭壇はテナルディエに対するものだった。そして彼の感謝の念を倍加せしめたものは、テナルディエが陥りのみ込まれたという不運のことを考えることだった。マリユスはモンフェルメイユで、不幸な旅亭主の零落と破産とを知った。それ以来彼は異常な努力をつくして、テナルディエの行方を探り、彼が没した困窮の暗黒なる深淵《しんえん》のうちに彼を探り出さんとつとめた。マリユスはあらゆる方面をさがし回った。シェル、ボンディー、グールネー、ノジャン、ランニー、方々へ行ってみた。三年の間彼はそれに夢中になり、たくわえたわずかの金をその探索に費やしてしまった。しかしだれひとりテナルディエの消息を知ってる者はなかった。おそらく外国へでも行ったのだろうと想像された。債権者らもまた、マリユスほどの好意はないが同じような熱心をもって、彼をさがし回った。しかし彼に手をつけることはできなかった。マリユスは自分の探索の不成功を、自ら責め自ら憤った。それは大佐が彼に残した唯一の負債で、彼は名誉にかけてそれを払おうと欲した。彼は考えた。「ああ、父が死にかかって戦場に横たわっている時、彼テナルディエは砲煙弾雨の中に父を見いだし、肩に担《にな》って連れだしてくれた。しかも彼は父に何らの恩をも受けていなかったのである。そしてテナルディエにかく負うところ多いこの自分は、暗黒のうちに苦悩に呻吟《しんぎん》してる彼を見いだすこともできず、彼を死より生へと連れ戻すこともできないのか。いや是非ともさがし出さなければならない!」実際マリユスは、テナルディエを見いださんがためには片腕を失うも意とせず、彼を困窮より引き出さんがためには血潮をことごとく失うも意としなかったであろう。テナルディエに会うこと、何かの助力を彼に与えてやること、「あなたは私を御存じない、しかし私はあなたを知っています、さあここにいるから、どんなことでも命じて下さい!」と彼に言うこと、それがマリユスの最も楽しいまた最も美しい夢想であった。

     三 生長したるマリユス

 その頃マリユスは二十歳であった。祖父のもとを去ってから三年になる。両方ともやはり同じような状態で、互いに近寄ろうとも会おうともしなかった。その上、会ったとてそれが何になろう、ただ衝突するばかりである。いずれかが勝つものでもない。マリユスは青銅の甕《かめ》で、ジルノルマン老人は鉄の壺《つぼ》であった。
 マリユスは祖父の心を誤解していたことを、ここに言っておかなければならない。彼はジルノルマン氏が自分をかつて愛したことはないと思っていた。どなり叫び狂い杖《つえ》を振り回すその気短かできびしい元気な老人は、喜劇中のジェロント型の軽薄で同時にきびしい愛情をしか自分に対して持っていないと、彼は思っていた。しかしそれはマリユスの誤解だった。自分の子供を愛しない父親は世にないでもない、しかし自分の孫を大事にしない祖父は世に決してない。前に言ったとおり、本来ジルノルマン氏はマリユスを偶像のように大事にしていた。ただ彼は、叱責《しっせき》と時には打擲《ちょうちゃく》さえ交じえる自己一流の仕方で愛していた。そしてその子供がいなくなると、心のうちに暗い空虚を感じた。もう子供のことは自分に言うなと命じながら、それがあまりによく守られたのをひそかに悔やんだ。初めのうちは、そのブオナパルテ党、ジャコバン党、暴虐党《テロリスト》、虐殺党《セプタンプリズール》が、再び帰って来るだろうと希望をかけていた。しかし週は過ぎ月は過ぎ年は過ぎても、吸血児は姿を見せなかったので、ジルノルマン氏は深く絶望した。「といって、わしは彼奴《あいつ》を追い出すよりほかに仕方はなかった、」と祖父は自ら言った。そしてまた自ら尋ねた、「もしあんなことを再びするとしたら、わしはまた同じことを繰り返すだろうか?」彼の自尊心は即座に、しかりと答えた。しかしひそかに振られた彼の年取った頭は、悲しげに否と答えた。彼は落胆の時日を過ごした。マリユスが彼には欠けてしまったのである。老人というものは、太陽を要するように愛情を要する。愛情は温度である。ジルノルマン氏はいかに頑強な性質であったとは言え、マリユスがいなくなったため心のうちにある変化が起こった。いかなることがあろうとも、その「恥知らず奴《め》」の方へ一歩も曲げようとは欲しなかったであろう。しかし彼は苦しんでいた。マリユスのことを決して尋ねはしなかったが、常に思いやっていた。彼はますますマレーで隠退の生活を送るようになった。なお昔のとおり快活で激烈ではあったが、その快活さも悲しみと怒りを含んでるかのように痙攣的《けいれんてき》の峻酷《しゅんこく》さを帯び、その激烈さも常に一種の静かな陰鬱《いんうつ》な銷沈《しょうちん》に終わった。時とすると彼は言った、「ああ、もし帰ってきたら、したたか打ってやるんだが!」
 伯母《おば》の方は、そう深く考えてもいず、そう多く愛してもいなかった。彼女にとっては、マリユスはもはやただ黒いぼんやりした映像にすぎなかった。そしてついには、おそらく彼女が飼っていたに違いない猫《ねこ》か鸚鵡《おうむ》ほどにもマリユスのことを気にとめなかった。
 ジルノルマン老人のひそかな苦しみがいっそう増した所以《ゆえん》は、彼がそれを全部胸のうちにしまい込んで少しも人に覚《さと》られないようにしたからである。彼の苦しみは新しく発明されたあの自ら煙をも燃やしつくす竈《かまど》のようなものだった。時とするとよけいな世話やきの者らがマリユスのことを持ち出して、彼に尋ねることもあった。お孫さんは何をなさいました?……あるいは、どうなられました? すると老人は、あまりに悲しい時には溜息《ためいき》をつきながら、あるいは快活なふうを見せたい時には袖《そで》を爪ではじきながら、こう答えた。「男爵ポンメルシー君はどこかのすみで三百代言をやっているそうです。」
 老人がかく愛惜している一方に、マリユスは自ら祝していた。あらゆる善良な心の人におけるがように、不幸は彼から苦々《にがにが》しさを除いてしまった。彼は今やジルノルマン氏のことを考えるにもただ穏和な情をもってするのみだった。しかし父に対して不親切であった[#「父に対して不親切であった」に傍点]その男からはもはや何物をも受けまいと決心していた。そしてそれは、最初の憤激が今やよほどやわらいだのを示すものだった。その上彼は、今まで苦しみ今もなお苦しんでいることを幸福に感じていた。それは父のためだったのである。生活の困難は彼を満足させ彼を喜ばせた。彼は一種の喜悦の情をもって自ら言っていた。――これは極めて些細《ささい》なことだ。この些細なことも一つの贖罪《しょくざい》だ。もしこの贖罪がなかったならば、自分の父に対して、あのような父に対して、かつて不信にも背反したことは、必ず何らかの仕方でいつかは罰せられるであろう。父はあらゆる苦しみをなめ自分は少しの苦しみも受けないということは、正しいことではあるまい。もとより自分の労働も窮乏も大佐の勇壮な一生に比べては及びもつかないものであろう。それからまた、父に近づき父に似んとする唯一の方法は、敵に対して父が勇敢であったとおり自分も赤貧に対して勇壮であるということである。そこにこそ疑いもなく、「予が子はそれに価するなるべし」という大佐の言葉の意味があるのである。――その大佐の言葉こそマリユスが絶えずいだいていたところのもので、その遺言状がなくなったので胸にはいだいていなかったが、心のうちにいだいていたのである。
 そしてまた、祖父から追い出された時は彼はまだ子供にすぎなかったが、今では既に一個の人となっていた。彼はそれを感じていた。繰り返して言うが、辛苦は彼のためになったのである。青年時代の貧困は、うまくゆくと特殊な美点を有して、人の意思をすべて努力の方へ転ぜしめ、人の心をすべて希望の方へ向かわしむる。貧困は直ちに物質的生活を赤裸々にして、それを嫌悪《けんお》すべきものたらしめ、従って人を精神的生活の方へ飛躍せしむる。富裕なる青年は、多くのはなやかな野卑な楽しみを持っている。競馬、狩猟、畜犬、煙草《たばこ》、カルタ、美食、その他。すべて魂の高尚美妙な方面を犠牲に供する、下等な方面の仕事である。貧しい青年は骨折ってパンを得、それを食し、食し終わった後にはもはや夢想のほか何もない。彼は神より与えらるる無料の劇場に赴《おもむ》く、彼は見る、天、空間、星辰、花、小児、その中にあって彼自ら苦しんでいる人類、その中にあって彼自ら光り輝いている創造。彼はつくづく人類をながめてそこに魂を認め、つくづく創造をながめてそこに神を認める。彼は夢想して自ら偉大なることを感じ、なお夢想して自ら温和なることを感ずる。悶々《もんもん》たる人間の利己主義を脱して、瞑思《めいし》する人間の同情心に達する。彼のうちには賛美すべき感情が花を開く、自己の忘却と万人に対する憐憫《れんびん》とが。自然が閉じたる魂には拒み、開いたる魂にはささげ与え惜しまない、あの無数の怡悦《いえつ》を考えつつ、英知の上の長者たる彼は、金銭の上の長者たる人々をあわれむようになる。精神のうちに光明がはいって来るに従って、あらゆる憎しみは心から去ってゆく。それに元来彼は不幸であるか? 否。青年の悲惨は決して悲惨なものではない。普通のいずれの青年を取ってみても、いかに貧しかろうとも、その健康、力、活発な歩調、輝ける目、熱く流るる血潮、黒き髪、あざやかな頬《ほお》、赤き脣《くちびる》、白き歯、清き息、などをもってして、彼は常に老いたる帝王のうらやむところとなるであろう。それから毎朝彼は再びパンを得ることに従事する。そして彼の手がパンを得つつある間に、彼の背骨は矜持《きょうじ》を得、彼の頭脳は思想を得る。仕事が終える時には、言うべからざる喜悦に、静観と歓喜とに戻ってゆく。辛苦の中、障害の中、舗石《しきいし》の上、荊棘《いばら》の中、時には泥濘《でいねい》の中に、足をふみ入れながら、頭は光明に包まれて、彼は生きる。彼は堅実で、清朗で、温和で、平和で、注意深く、まじめで、僅少《きんしょう》に満足し、親切である。そして彼は、多くの富者に欠けてる二つの財宝を恵まれたことを神に謝する、すなわち、自分を自由ならしむる仕事と自分を価値あらしむる思念とを。
 マリユスのうちに起こったことは、以上のようなものであった。すべてを言えば、彼は静観の方面に傾きすぎるほどだった。ほとんど確実に食を得らるるに至った日から、彼はその状態に止めて、貧乏はいいことだとさとり、思索にふけるために仕事を節した。そして時によると、幾日も終日瞑想のうちに過ごし、幻を見る人のように、恍惚《こうこつ》と内心の光燿《こうよう》との無言の逸楽のうちに沈湎《ちんめん》していた。彼は生活の方式をこう定めた。無形の仕事にでき得る限り多く働かんがために有形の仕事にでき得る限り少なく働くこと。言葉を換えて言えば、現実の生活に幾時間かを与え、残余の時間を無窮のうちに投げ込むこと。彼は何らの欠乏をも感じなかったので、そういうふうに取り入れられた静観はついに怠惰の一形式に終わるということに、気づかなかった。生活の最初の必要に打ち勝ったのみで満足したことに、そしてあまりに早く休息したことに、気づかなかった。
 明らかにわかるとおり、このように元気な殊勝な性質にとっては、それは一時の過渡期の状態にすぎなかった。そして宿命の避くべからざる葛藤《かっとう》に触るるや直ちに、マリユスは覚醒《かくせい》するであろう。
 ところで、彼は弁護士になってはいたけれども、またジルノルマン老人がそれをどう思ったとしても、彼は実際弁論もせず、三百代言をこね回しもしなかった。夢想は彼を転じて弁論から遠ざけた。代言人の家に出入りし、裁判のあとをつけ、事件を探る、それは彼のたえ得ないところだった。何ゆえにそういうことをする必要があるか。彼は生活の道を変える理由を少しも認めなかった。あの商売的なつまらない本屋の仕事は、ついに彼には確実な仕事となっていた。あまり骨の折れないことではあったが、前に説明してきたとおり、それだけで彼には十分だった。
 彼が仕事をさしてもらってる種々な本屋のうちのひとりは、マジメル氏だったと思うが、彼を雇い込み、りっぱに住まわせ、一定の仕事を与え、年に千五百フラン払おうと、申し出てきた。りっぱに住まう、千五百フラン、なるほど結構ではある。しかし自由を捨てる、給料で働く、一種の抱え文士となる! マリユスの考えでは、それを承諾したら自分の地位はよくなると同時にまた悪くもなるのであった。楽な暮らしは得られるが、威厳は堕《お》ちるのだった。完全な美しい不幸を醜い賤《いや》しい窮屈に変えることだった。盲人が片目の男になるようなものだった。マリユスはその申し出を断わった。
 マリユスは孤立の生活をしていた。すべてのことの局外にいたいという趣味から、またあまりに脅かされたために、アンジョーラの主宰する群れにもすっかりはいり込みはしなかった。やはり仲のいい間がらではあり何か起こった場合にはできるだけの方法で助け合うことにはなっていたが、しかしそれ以上には深入りしなかった。マリユスは友人をふたり持っていた。ひとりは青年のクールフェーラックで、ひとりは老人のマブーフ氏だった。どちらかと言えば彼はその老人の方に傾いていた。第一に、そのおかげで心の革命が起こったし、またそのおかげで父を知り父を愛したのであった。「彼は私の内障眼《そこひ》をなおしてくれた」とマリユスは言っていた。
 確かにその会堂理事は決定的な働きをした。
 けれども、その場合マブーフ氏は、天意に代わって静かに虚心平気に仕事をなしたのである。彼は偶然にそして自ら識《し》らずしてマリユスを照らしたのであって、あたかも人からそこに持ちきたされる蝋燭《ろうそく》のごときものだった。彼はその蝋燭であって、その人ではなかった。
 マリユスの内部に起こった政見的革命については、マブーフ氏は全く、それを了解し希望し指導することはできなかったのである。
 今後再びマブーフ氏はこの物語の中に出て来るので、ここに彼について一言費やすのもむだではあるまい。

     四 マブーフ氏

 マブーフ氏がマリユスに向かって、「なるほど政治上の意見も結構です[#「なるほど政治上の意見も結構です」に傍点]」と言った時、それは彼の精神の真の状態を言い現わしたものだった。あらゆる政治上の意見に、彼はまったく無関心で、そんなことはどうでもかまわないのだった。そして自分を平和にして置いてさえくれるものだったら、何でもかまわず是認した。あたかもギリシャ人らが、地獄の三女神フューリーのことを、「美の女神、善良の女神、魅惑の女神」あるいはウーメニード(親切な女神)、などと呼んだようなものである。マブーフ氏の政見といえば、植物およびことに書物の熱心なる愛好ということだった。当時はだれも党という終わりにくっつく一語なしには生きられなかったので、彼も同じくその終わりの党という語を持っていたが、しかし王党でもなく、ボナパルト党でもなく、憲法党でもなく、オルレアン党でもなく、無政府党でもなく、実に書物党であった。
 世界にはながむるに足るべきあらゆる種類の苔《こけ》や草や灌木《かんぼく》があり、ひもとくに足るべき多くの二折形や三十二折形の書物があるのに、憲法だの民主だの正権だの王政だの共和だのという児戯に類することについて、人々が互いに憎み合うということを、彼は理解することができなかった。彼は有用ならんことを心掛けていて、書物をたくわえはするが読書をもし、植物学者ではあるが園丁でもあった。彼がポンメルシー大佐を知った時、大佐が花について試みてることを彼は果実について試みてるという同感が、ふたりの間にはあった。マブーフ氏はついに、サン・ジェルマンの梨《なし》にも劣らぬ味を有する苗木の梨の果《み》を作り出すに至った。また夏の黄梅にも劣らぬ香味のある今日有名な十月の黄梅の果が生まれ出たのも、たぶん彼の工夫の一つからだったらしい。よく弥撒《ミサ》に行ったのも、信仰からというよりむしろ穏和を好むからだった。そしてまた人の顔は好きだがその声はきらいなところから、人が大勢集まって黙ってるのは会堂でしか見られないからだった。国家のために少しは尽さなければならないと思って、会堂理事の職を選んだのだった。その上、女のことといったらチューリップの球根ほどにも思っていず、男のことといったらオランダのエルゼヴィール版の書物ほどにも思っていなかった。もう六十の坂をとくに越していたが、ある日だれかが彼に尋ねた、「あなたは結婚したことがおありですか。」「忘れてしまいました、」と彼は答えた。時とすると、だれにもそれは起きることであるが、こう口にすることもあった、「ああ私に金があったら!」しかしそれは、ジルノルマン老人のようにきれいな娘を横目で見ながら言うのではなく、古書をながめながら言うのだった。彼はひとりで、年寄りの女中といっしょに住んでいた。少し手部痛風にかかっていた。そしてリューマチから来る関節不随の指を休ませようとする時には、布を折ってそれでゆわえた。彼はコートレー付近の特産植物誌という彩色版入りの書物をこしらえて出版したが、かなりの評判で、その銅版を持っていて自ら売った。そのためメジュール街の彼の門をたたく者が日に二、三度はあった。彼はそのため年に二千フランばかりを得ていた。それがほとんど彼の財産全部だった。そして貧しくはあったが、忍耐と倹約と長い間のおかげで、あらゆる種類の高価な珍本を集めることができた。外出する時はいつも書物を一冊小わきに抱えていたが、帰って来る時にはしばしば二冊となっていた。小さな庭と一階の四つの室《へや》とが彼の住居だったが、その唯一の装飾としては枠《わく》に入れた植物標本と古い名家の版画だけだった。サーベルや銃を見ると身体が凍える思いをした。生涯の間一度も大砲に近寄ったこともなく廃兵院《アンヴァリード》に行ったこともなかった。かなりの胃袋を持っており、司教をしてるひとりの兄があり、頭髪はまっ白で、口にも心にも歯がなくなり、身体中震え、言葉はピカルディーなまりで、子供のような笑い方をし、すぐに物におそれ、年取った羊のような様子をしていた。その上、ポルト・サン・ジャックの本屋の主人でロアイヨルという老人のほか、生きた者のうちには友人も知己もなかった。その夢想は、藍《あい》をフランスの土地に育ててみたいということだった。
 女中の方もまた、質朴な性質だった。そのあわれな人のいい婆さんは、かつて結婚したことがなかった。ローマのシクスティーヌ礼拝堂でアレグリ作の聖歌でも歌いそうなスュルタンという牡猫《おねこ》が、彼女の心を占領して、彼女のうちに残ってる愛情にとっては十分だった。彼女の夢想は少しも人間までは及ばなかった。決して彼女は自分の猫より先まで出ようとはしなかった。猫と同じように口髭《くちひげ》がはえていた。その自慢はいつもまっ白な帽子だった。日曜日に弥撒《ミサ》から帰って来ると、行李《こうり》の中の下着を数えたり、買ったばかりで決して仕立てない反物を寝床の上にひろげてみたりして、時間を過ごした。読むことはできた。マブーフ氏は彼女にプリュタルク婆さん[#「プリュタルク婆さん」に傍点]という綽名《あだな》をつけていた。
 マブーフ氏はマリユスが好きであった。なぜなら、マリユスは若くて穏和だったので、彼の内気を脅かすことなく彼の老年をあたためてくれたからである。穏和な青年は、老人にとっては風のない太陽のようなものである。マリユスは武勲や火薬や入り乱れた進軍など、父が幾多の剣撃を与えまた受けたあの驚くべき戦闘で、まったく心を満たされてしまったとき、マブーフ氏を訪ねて行った。するとマブーフ氏は、花栽培の方面からその英雄のことを語ってきかした。
 一八三〇年ごろ、兄の司祭は死んだ。そしてほとんどすぐに、マブーフ氏の眼界は夜がきたように暗くなった。破産――公証人の――は、兄と自分との名義で所有していた全部である一万フランを、彼から奪ってしまった。七月革命は書籍業に危機をきたした。騒乱の時代にまっ先に売れなくなるものは特産植物誌などというものである。コートレー付近の特産植物誌はぱったりその売れ行きが止まった。幾週間たってもひとりの買い手もなかった。時とするとマブーフ氏は呼鈴《ベル》のなるのに喜んで飛び立った。「旦那様、水屋でございますよ、」とプリュタルク婆さんは悲しげに言った。ついにマブーフ氏はメジエール街を去り、会堂理事の職をやめ、サン・スュルピス会堂を見捨て、書物は売らなかったが版画の一部を売り――それは大して大事にしているものではなかった――そしてモンパルナス大通りに行って小さな家に居を定めた。しかしそこには三カ月しか住まなかった。それには二つの理由があった。第一は、一階と庭とで三百フランもかかるのに、二百フランしか借料にあてたくなかったからである。第二は、ファトゥー射的場の隣だったので、終日|拳銃《ピストル》の音がして、それにたえ得なかったからである。
 彼はその特産植物誌と銅版と植物標本と紙ばさみと書物とを持って、サルペートリエール救済院の近くに、オーステルリッツ村の茅屋《ぼうおく》に居を定めた。そこで彼は年に五十エキュー(二百五十フラン)で、三つの室《へや》と、籬《まがき》で囲まれ井戸のついてる一つの庭を得たのである。彼はその移転を機会として、ほとんどすべての家具を売り払ってしまった。そして新しい住居にはいってきた日、きわめて愉快そうで、版画や植物標本をかける釘《くぎ》を自分で打ち、残りの時間は庭を掘り返すことに使い、晩になって、プリュタルク婆さんが陰気な様子をして考え込んでるのを見ると、その肩をたたいてほほえみながら言った、「おい、藍《あい》ができるよ。」
 ただふたりの訪問客、ポルト・サン・ジャックの本屋とマリユスとだけが、そのオーステルリッツの茅屋で彼に会うことを許されていた。なお落ちなく言えば、戦争にちなんだこの殺伐な地名は、彼にはかなり不愉快でもあった。
 なおまた、前に指摘してきたとおり、一つの知恵か、一つの熱狂か、あるいはまた往々あるとおりその両方に、まったくとらえられてしまってる頭脳は、実生活の事物に通ずることがきわめて遅いものである。自分自身の運命が彼らには遠いものである。そういう頭脳の集中からは一種の受動性が生ずるもので、それが理知的になると哲学に似寄ってくる。衰微し、零落し、流れ歩き、倒れまでしても自分ではそれにあまり気がつかない。実際ついには目をさますに至るけれど、それもずっと後のことである。それまでは、幸と不幸との賭事《かけごと》の中で局外者のように平気でいる。彼らはその間に置かれた賭金でありながら、不関焉《かんせずえん》として両方をぼんやりながめている。
 そういうふうにして、自分のまわりに希望が相次いで消えてゆきしだいに薄暗くなるにもかかわらず、マブーフ氏はどこか子供らしくしかもきわめて深く落ち着き払っていた。彼の精神の癖は振り子の動揺にも似ていた。一度幻でねじが巻かれると長く動いていて、その幻が消えてもなお止まらなかった。時計は鍵《かぎ》がなくなった時に急に止まるものではない。
 マブーフ氏は他愛ない楽しみを持っていた。その楽しみは金もかからずまた思いも寄らぬものだった。ちょっとした偶然の機会から彼はそれを得た。ある日プリュタルク婆さんは室《へや》の片すみで小説を読んでいた。その方がよくわかるからと言って声高に読んでいた。声高に読むことは読んでるのだと自分自身にのみこませることである。至って声高に物を読んで、自分は今読書をしてると自分自身に納得させるような様子をしてる者が、世にはずいぶんある。
 プリュタルク婆さんはそういう元気で、手に持ってる小説を読んでいた。マブーフ氏は聞くともなしにそれを聞いていた。
 そのうちにプリュタルク婆さんは次のような文句の所にきた。それはひとりの竜騎兵の将校と美人との話だった。
『……美人ブーダ(口をとがらした)、と竜騎兵《ドラゴン》は……。』
 そこで婆さんは眼鏡《めがね》をふくためにちょっと言葉を切った。
「仏陀《ブーダ》と竜《ドラゴン》……。」とマブーフ氏は口の中でくり返した。「なるほどそのとおりだ。昔一匹の竜がいて、その洞穴の奥で口から炎を吐き出して天を焦がした。既に多くの星はその怪物から焼かれたことがあり、その上|奴《やつ》は虎のような爪を持っていた。でその時仏陀は洞穴の中にはいってゆき、首尾よく竜を改心さしたのだ。プリュタルク婆さん、お前がそこで読んでるのはいい書物だ。それ以上に美しい物語は世間にない。」
 そしてマブーフ氏は楽しい空想にふけった。

     五 悲惨の隣の親切なる貧困

 マリユスはその廉直な老人を好んだ。老人は徐々に窮乏のうちに陥ってゆくのに気づき、しだいに驚いてはいたが、まだ少しも悲しみはしなかった。マリユスはクールフェーラックにも出会い、またマブーフ氏をも訪れた。だがそれもごくまれで、月に多くて一、二回にすぎなかった。
 マリユスの楽しみは、郊外の並み木通りや、練兵場や、リュクサンブールの園の最も人の少ない道などを、ひとりで長く散歩することだった。時には、園芸家の庭や、サラド畑や、小屋の鶏や、水揚げ機械の車を動かす馬などをながめて、半日も過ごすことがあった。通りがかりの者は驚いて彼をうちながめ、ある者はその服装を怪しみその顔つきをすごく思った。しかしそれは、あてもなく夢想にふけってる貧しい青年にすぎなかった。
 彼がゴルボー屋敷を見いだしたのは、そういう散歩の折りであった。そしてその寂しいさまと代が安いのとにひかされて、そこに住むことにした。そこで彼はただマリユス氏という名前だけで知られていた。
 父の昔の将軍や昔の同僚らのうちには、彼の身の上を知るとその邸《やしき》に招いてくれる者もあった。マリユスは断わらなかった。それは父のことを話す機会だった。そういうふうにして彼は時々、パジョル伯爵やベラヴェーヌ将軍やフリリオン将軍などの邸を訪れ、また廃兵院にも行った。音楽や舞踏などがあった。そういう晩マリユスは新しい上衣をつけて行った。けれども寒い凍りついた日でなければ、決してそれらの夜会や舞踏会に行かなかった。なぜなら、馬車を雇ってゆくことができなかったし、少しでもよごれた靴《くつ》をはいて向こうに着くことを欲しなかったから。
 彼は時々こう言った、しかしそれは別に皮肉のつもりではなかった。「客間では、靴を除いては全身泥だらけでもかまわないものだ。よく迎えられんがためには、非の打ちどころのないただ一つのものさえあれば十分だ。それは良心であるか、否、靴である。」
 あらゆる情熱は、愛のそれを除いては、夢想のうちに消散してしまうものである。マリユスの政治上の熱も、夢想のうちに消え失せてしまった。一八三〇年の革命は、彼を満足させ彼をしずめさして、それを助けた。しかし憤激を除いては、後はやはり元と同じだった。彼の意見はただ和らげられたというのみで、少しも変わりはなかった。更によく言えば、彼はもう意見などというものを持たず、ただ同感をのみ持っていた。いかなる党派かといえば、彼は人類派だった。そして人類のうちではフランスを選び、国民のうちでは民衆を選び、民衆のうちでは婦人を選んだ。彼の憐憫《れんびん》が特に向けられたのはその点へであった。今や彼は事実よりも思想を好み、英雄よりも詩人を好み、マレンゴーのような事件よりもヨブ記のような書物をいっそう賛美した。それからまた、一日の瞑想の後、夕方並み木通りを帰って来る時、そして樹木の枝の間から、底なき空間を、言い難き光輝を、深淵《しんえん》を、影を、神秘をながむる時、単に人類にのみかかわることはすべてきわめて微小であるように彼には思えた。
 人生の真に、そして人類の哲理の真に、ついに到達したと彼は思っていた。おそらく実際到達していたであろう。そして今やもうほとんど天をしかながめなくなった。実に天こそは、真理がその井戸の底からながめ得る唯一のものである。
 それでもなお彼は、未来に対する計画考案組立仕組をふやしてゆくことはやめなかった。そういう夢想の状態にあるマリユスの内部をながむるならば、その魂の純潔さにいかなる目も眩惑《げんわく》されるであろう。実際、他人の内心をのぞくことが肉眼に許されるならば、人はその思想するところのものによってよりも、その夢想するところのものによっていっそう確実に判断さるるであろう。思想のうちには意志がある。しかし夢想のうちにはそれがない。まったく自発的である夢想は、巨大と理想とのうちにあっても、人の精神の形を取りそれを保全する。燦然《さんぜん》たる運命の方へ向けらるる無考慮で無限度な憧憬《どうけい》ほど、人の魂の底から直接にまた誠実に出てくるものはない。こしらえ上げ推理し組み合わした理想の中よりも、それらの憧憬の中にこそ、各人の真の性格は見いだされる。幻想こそ最もよくその人に似る。各人はその性格に従って不可知のものと不可能のものとを夢想する。
 一八三一年の中ごろ、マリユスの用を達していた婆さんは、マリユスの隣に住んでるジョンドレットというあわれな一家が、まさに追い払われようとしてることを話してきかした。ほとんど毎日外にばかり出ていたマリユスは、隣の室《へや》に人が住んでるかさえもよく知らなかった。
「どうして追い払われるんです。」と彼は言った。
「室代を払わないからですよ。二期分もたまっています。」
「いかほどになるんです。」
「二十フランですよ。」と婆さんは言った。
 マリユスは引き出しの中に三十フランたくわえていた。
「さあ、」と彼は婆さんに言った、「ここに二十五フランあります。そのかわいそうな人たちのために払ってやり、余った五フランはその人たちにやって下さい。だが私がしたんだと言ってはいけませんよ。」

     六 後継者

 偶然にも、中尉テオデュールの属していた連隊がパリーに駐屯《ちゅうとん》することとなった。その好機はジルノルマン伯母《おば》に第二の考案を与えた。最初彼女はテオデュールにマリユスを監視させようとしたのであったが、こんどはテオデュールにマリユスのあとを継がせようと謀《はか》った。
 とにかく、家の中に青年の面影がほしいと祖父が漠然《ばくぜん》と感じているに違いない場合なので――青年という曙《あけぼの》は廃残の老人にとっては往々快いものである――別のマリユスを見いだすのに好都合だった。伯母は考えた。「なに、書物の中で見当たる誤植のようなものさ。マリユスというのをテオデュールと読めばよい。」
 孫に当たる甥《おい》は直接の孫と大差はない。弁護士がいないので槍騎兵《そうきへい》を入れるわけである。
 ある日の朝、ジルノルマン氏がコティディエンヌ紙か何かを読んでいた時、娘ははいってきて、一番やさしい声で彼に言った。自分が目をかけてやってる者に関することだったから。
「お父さん、今朝《けさ》テオデュールがごあいさつに参ることになっています。」
「だれだ、テオデュールとは?」
「あなたの甥の子ですよ。」
「あー。」と祖父は言った。
 それから彼はまた読み初めて、テオデュールとか何とかいうその甥《おい》のことはもう頭にしていなかった。そして物を読む時にはほとんどいつものことだったが、その時もやがて興奮し出した。彼が手にしていた「新聞か何か」は、もとより王党のものだったことはわかりきっているが、それが少しも筆を和らげないで、当時のパリーに毎日のように起こっていたある小事件の一つが、翌日起こることを報じていた。――法律学校と医学校との学生が、正午にパンテオンの広場に集まることになっている、評議するために。――それは一つの時事問題に関することだった。すなわち国民軍の砲兵に関することで、ルーヴル宮殿の中庭に据えられた大砲について陸軍大臣と「市民軍」の間に起こった争論に関してだった。学生らはそのことを「評議する」ことになっていた。それだけで既にジルノルマン氏の胸をいっぱいふくれさすには十分だった。
 彼はマリユスのことを考えた。マリユスも学生であって、たぶん他の者と同じく、「正午にパンテオンの広場に評議しに」行くであろう。
 彼がそういうつらい考えにふけっている時、中尉のテオデュールは平服を着て――平服を着たのは上手なやり方だった――ジルノルマン嬢に用心深く導かれて、そこにはいってきた。槍騎兵《そうきへい》はこんなふうに考えていた。「この頑固親爺《がんこおやじ》も財産をそっくり終身年金に入れたわけでもあるまい。金になるなら時々は人民服を着るのもいい。」
 ジルノルマン嬢は高い声で父に言った。
「甥の子のテオデュールです。」
 そして低い声で中尉に言った。
「何でも賛成するんですよ。」
 そして彼女は室《へや》を出て行った。
 中尉はそんなきちょうめんな会見にはあまりなれていなかったので、多分おずおずとつぶやいた。「伯父様《おじさま》、こんにちは。」そして、軍隊式敬礼の無意識的な機械的な型を普通の敬礼の型にくずした中間のおじぎをした。
「あーお前か。よくきた。まあすわるがいい。」と祖父は言った。
 しかしそう言ったばかりで、彼はすっかり槍騎兵《そうきへい》のことを忘れてしまった。
 テオデュールはすわったが、ジルノルマン氏は立ち上がった。
 ジルノルマン氏は両手をポケットにつっ込んで、室《へや》をあちらこちら歩き出し、二つの内隠しの中に入れていた二つの時計を、年老いた震える指先でいじりながら、声高にしゃべり出した。
「鼻ったらしどもが! パンテオンの広場に集まる。ばかな! 昨日《きのう》まで乳母《うば》がついていた小僧のくせに。鼻をすったら乳が出ようという奴《やっこ》どもが。それで明日《あす》正午に評議する! こんなありさまでどうなるんだ。どうなるんだ。世はまっ暗やみになるのはわかりきってる。シャツなしども(革命共和党)のおかげでこんなことになるんだ。市の砲兵! 市の砲兵のことを評議する! 国民軍の大砲の音について、はばかりもなく外に出てきてがやがやしやがるとは。しかもどんな奴らが集まろうというのか。ジャコバン主義(過激民主主義)がどんなところに落ち着くか見るがいい。私《わし》は何でも賭《か》ける。百万円でも賭ける、そして断言するんだ、そんな所へ行く奴《やつ》は罪人か前科者ばかりだ。共和党に囚人、いい取り組みだ。カルノーは言った、『わしにどうしろと言うのか、反逆人めが』フーシェは答えた。『勝手にしろばか者!』そういうのが共和党の常だ。」
「ごもっともです。」とテオデュールは言った。
 ジルノルマン氏は少し頭を振り向けてテオデュールを見、そしてまた言い続けた。
「この恥知らず奴《め》が、秘密結社のうちにはいったのは思ってもしゃくにさわる! なぜ貴様は家を出て行ったんだ、共和党になるためか。ばか! 第一人民は共和なんか望んでいない。望んでいないんだ。人民は良識を持っている。常に国王があったこと、常に国王があるべきことを知ってる。人民は要するに人民にすぎないことを知ってる。共和なんかはばかにしてるんだ。わかったか、ぐずめが! そんなむら気はのろうべきだ。デュシェーヌ紙(訳者注 革命時代の過激なる新聞)に惚《ほ》れ込み、断頭台に色目を使い、一七九三年の舞台裏で小唄《こうた》を歌いギターをひくとは、唾《つば》を吐きかけても足りん。それほど今の若者らはばかだ。皆そうだ。ひとりとしていい奴《やつ》はいない。街路《まち》に流れてる空気を吸えば、それでもう気が狂ってしまう。十九世紀は毒だ。どのいたずらっ児も、少しばかり山羊《やぎ》のような髯《ひげ》がはえ出すと、ひとかど物がわかった気になって、古い身内の者を捨ててしまう。何かと言えば共和だのロマンティックだのという。いったいロマンティックとは何だ。説明してもらいたいもんだ。ばかげきったことばかりじゃないか。エルナニ[#「エルナニ」に傍点]があったのは一年前だ(訳者注 本書の作者ユーゴーの戯曲で、一八三〇年その第一回公演はロマンティック運動のエポックメーキングのものとせらる)。ところでそのエルナニとはどういうものか少し聞きたいもんだ。対偶法《アンチテーズ》だけだ、胸くそが悪くなるようなものだけだ、フランス語とさえもいえないものだ。それからまたルーヴルの中庭に大砲を据えるなどということをする。そういうことばかりが今の時代の無頼漢どもの仕業《しわざ》じゃないか。」
「伯父様《おじさま》の説はもっともです。」とテオデュールは言った。
 ジルノルマン氏は続けた。
「ムューゼオムの中庭に大砲を据える! それはいったい何のためだ。大砲をどうするつもりか。ベルヴェデールのアポロンに霰弾《さんだん》を浴びせるつもりか。弾薬嚢《だんやくのう》とメディチのヴィーナスと何の関係がある。今時の青年は皆手がつけられない奴《やつ》らばかりだ。バンジャマン・コンスタン([#ここから割り注]訳者注 自由派の首領[#ここで割り注終わり])なんか何と下らない奴だ。皆悪党でなければばかだ。わざわざ醜いふうをし、きたない服をつけ、女と見ればこわがり、娘っ児のまわりに乞食《こじき》のような様子をして下女どもから笑われる。恋愛にまでびくびくしてるあわれな奴らだ。醜い上に愚かだ。ティエルスランやポティエ式の地口をくり返し、袋のような上衣、馬丁のようなチョッキ、粗末な麻のシャツ、粗末なラシャのズボン、粗末な皮の靴、そして吹けば飛ぶようなことをしゃべりちらしてる。そういう片言で破《やぶ》れ靴《ぐつ》の底でも繕うがいい。しかもそのばかな小僧っ児どもが政治上の意見を持ってるというのか。奴らが政治に口を出すことは厳重に禁じなければいかん。異説を立て、社会を改造し、王政をくつがえし、あらゆる法律をうち倒し、窖《あなぐら》と屋根部屋とをあべこべにし、門番と国王とを置きかえ、ヨーロッパ中をかき回し、世界を建て直し、そして洗たく女どもが車に乗る時横目でその足をのぞいて喜んでいやがる。ああマリユス! けしからん奴だ。大道でどなり立て、議論し、討論し、手段を講ずる! 奴らはそれを手段という。ああ、同じ紊乱《びんらん》でも今は小さくなって雛児《ひよっこ》になってしまってる。私は昔は混沌界《こんとんかい》を見たが、今はただ泥の泡《あぶく》だけだ。学校の生徒が国民軍のことを評議するなどとは、オジブワやカドダーシュなんかの化け物のうちにも見られないことだ。羽子《はね》つきの羽子のようなものを頭にかぶり手に棍棒《こんぼう》を持ってまっ裸で歩く蛮人も、この得業士どもほどひどくはない。取るに足らぬ小猿のくせに、尊大で傲慢《ごうまん》で、評議したり理屈をこね回したりする。もう世は末だ。この水陸のみじめな地球も確かにもう終わりだ。最後の吃逆《しゃくり》がいるんなら、フランスは今それをしてるところだ。評議するならしろ、やくざ者め! オデオンの拱廊《きょうろう》で新聞なんか読むからそういうことになるんだ。一スーの金を出して、それでもう、やれ識見だの知力だの心だの魂だの精神だのができ上がる。そして出て来ると、家の中でいばり散らす。新聞というものは疫病神《やくびょうがみ》だ。どれもそうだ。ドラポー・ブラン紙にしたって、記者のマルタンヴィルはジャコバン党だった。ああ、貴様は、祖父を絶望さして得意になってるんだろう。貴様は?」
「そのとおりです。」とテオデュールは言った。
 そしてジルノルマン氏が息をついてる間に乗じて、槍騎兵《そうきへい》はおごそかに言い添えた。
「新聞は機関新聞だけにし、書物は軍事年報だけにするがよろしいんです。」
 ジルノルマン氏は言い続けた。
「シエイエスのようなものだ。国王を殺しながら上院議員になる。奴《やつ》らの終わりはいつもそうだ。ぞんざいないやしい言葉を使いながらついには伯爵殿と言われるようになろうというわけだ。腕のように図太い伯爵殿だ、九月(一八九二年)の虐殺者どもだ。哲人シエイエスだ。幸いに私《わし》は、そういう哲人どもを、ティヴォリの道化見世物ほどにも尊敬しない。上院議員らが蜜蜂《みつばち》のついた紫ビロードのマントを着アンリ四世式の帽子をかぶってマラケー河岸を通るのを、ある日私は見たことがある。胸くそが悪くなるような様子をしていた。ちょうど虎《とら》に従う猿《さる》のようだ。市民諸君、私は断言する、君らのいう進歩は狂乱である、君らの人類は幻である、君らの革命は罪悪である、君らの共和は怪物である、君らのいう純潔なる若きフランスは遊女屋から出て来るものだ。私はそれを主張する。よし君らが何であろうとも、新聞記者であり、経済学者であり、法律家であろうとも、また君らが断頭台の刃よりもよく自由平等博愛を知っていようとも! 私は断じてそう言うのだ、わが敬愛なる諸君!」
「しかり、」と中尉は叫んだ、「まったくそのとおりです。」
 ジルノルマン氏はやりかけた手まねをやめて、ぐるりと振り向き、槍騎兵《そうきへい》テオデュールの顔をじっと見つめ、そして言った。
「お前はばかだ。」
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     第六編 両星の会交

     一 綽名《あだな》――家名の由来

 当時のマリユスは、中背の美しい青年で、まっ黒な濃い髪、高い利発らしい額、うち開いた熱情的な小鼻、まじめな落ち着いた様子、そしてその顔には、矜《ほこ》らかで思索的で潔白な言い知れぬ趣が漂っていた。その横顔は線に丸みがあるとともにまた厳乎《げんこ》たるところがあって、アルザスおよびローレーヌを通じてフランス人の容貌《ようぼう》のうちにはいってきたゼルマン式の優しみがあり、ロマン種族中にあって古ゼルマン族の特長となり獅子族《ししぞく》と鷲族《わしぞく》とを区別せしむるあの稜角《りょうかく》の皆無さをそなえていた。頭を使う人の精神がほとんど等分に深さと無邪気さとを有する頃の年輩に、彼もちょうど属していた。大事の場合に際しては、あたかも愚鈍なるかのように思わるることもあり、また一転して崇高なる趣にもなった。その態度は、内気で、冷ややかで、丁寧で、控え目であった。脣《くちびる》はきわめて赤く歯はきわめて白く、いかにも魅力ある口だったので、そのほほえみは容貌の有する厳格さを償って余りあった。その清澄な額とその快楽的な微笑とは、ある時には不思議な対照をなした。目は小さかったが、目つきは大きかった。
 最も窮乏していた頃、若い娘らがよく自分の後ろをふり返って見るのに彼は気づいた。そして心のうちに冷やりとして、逃げ出すか身を隠すかした。きっと自分の古い服を見て笑っているのだと彼は思った。しかし事実は、彼の様子のいいのを彼女らは見てあこがれてるのであった。
 彼と通りがかりのきれいな娘らとの間のそういう暗黙の誤解から、彼は妙に頑《かたく》なになった。あらゆる女の前から逃げ出したので、結局彼はいずれの女かを選んでそれに近寄ろうとすることをしなかった。かくて彼はこれと定まりのない、クールフェーラックの言葉に従えば開けない、生活をしていたのである。
 クールフェーラックはまた彼に言った。「そう聖人ぶろうとするなよ。(彼らはへだてのない言葉を使っていた。へだてのない言葉を使うのは青年の友情の特質である。)まあ僕の忠告でも聞けよ。そんなに書物ばかり読まないで、少しは女でも見てみろ。娘っ児も何かのためにはなるぜ、マリユス。逃げ出したり顔を赤くしたりしていると、ばかになっちまうぜ。」
 またある時、クールフェーラックはマリユスに出会って言った。
「やあ今日は、牧師さん。」
 クールフェーラックにそういうたぐいのことを言われると、その一週間ほどの間マリユスは、老若を問わず、いっさい女というものを前よりもいっそう避け、おまけにクールフェーラックをも避けた。
 しかしながら広大な天地の間には、マリユスが逃げもしなければ恐れもしないふたりの女がいた。実を言うと、それでも女だと言われたら彼は非常に驚いたかも知れない。ひとりは彼の室《へや》を掃除《そうじ》してくれる髯《ひげ》のはえた婆さんだった。クールフェーラックをして、「女中が髯をはやしてるのを見てマリユスは自分の髯をはやさないんだ」と言わしめた、その婆さんだった。もひとりはある小娘で、彼はそれにしばしば出会ったがよく目を留めても見なかった。
 もう一年以上も前からマリユスは、リュクサンブールの園のある寂しい道で、苗木栽培地《ペピニエール》の胸壁に沿った道で、ひとりの男とごく若い娘とを見かけた。ふたりはウエスト街の方に寄った最も寂しい道の片端に、いつも同じベンチの上に並んで腰掛けていた。自分の心のうちに目を向けて散歩している人によくあるように、別に何の気もなくほとんど毎日のように、マリユスはその道に歩み込んだ、そしてはいつもそこにふたりを見いだした。男は六十歳くらいかとも思われ、悲しそうなまじめな顔つきをしていて、退職の軍人かとも見える頑丈《がんじょう》なしかも疲れ切った様子をしていた。もし勲章でもかけていたら、「もとは将校だな」とマリユスに思わしたかも知れない。親切そうではあるがどこか近寄り難いところがあって、決して人に視線を合わせることをしなかった。青いズボンと青いフロックとをつけ、いつも新しく見える広い縁の帽子をかぶり、黒い襟飾《えりかざ》りをし、まっ白ではあるが粗末な麻のちょうどクエカー宗徒のようなシャツを着ていた。ある日ひとりの浮わ気女工がそのそばを通って、「身ぎれいな鰥夫《ひとりもの》だこと」と言った。頭髪はまっ白だった。
 彼に連れられてきて、二人で自分のものときめたようなそのベンチに初めて腰掛けた時、娘の方はまだ十三、四歳であって、醜いまでにやせており、ぎごちなく、別に取りどころもなかったが、目だけはやがてかなり美しくなりそうな様子だった。けれどもただ、不快に思われるほどの厚かましさでいつもその目を上げていた。修道院の寄宿生に見るような同時に年寄りらしいまた子供らしい服装をして、黒いメリノラシャのまずい仕立て方の長衣をつけていた。ふたりは親子らしい様子だった。
 まだそう老人とも言えぬその年取った男と、まだ一人前になっていないその小娘とに、マリユスは二、三日気を留めたが、それからもう何らの注意も払わなかった。彼らの方でも、マリユスに気づいているふうはなかった。いつも穏やかな平和な様子で互いに何か話していた。娘の方は絶えず快活に口をきいていた。老人の方は口数が少なく、時々何とも言えぬ親愛さを目の中にたたえて娘を見やっていた。
 マリユスはいつしか機械的に、その道に歩みこむ癖になっていた。そしていつもそこで彼らに出会った。
 そのありさまは次のようである。
 マリユスはその道を通りかかる時、いつも好んで彼らのベンチがある方とは反対の端からやっていった。そしてずっと道をたどってゆき、ふたりの前を通り、それから後返って、やって来た方の端まで戻り、それからまた新たに同じことを初めるのだった。彼は散歩のうちにその往復を五、六回も続け、また一週間のうちにそういう散歩を五、六回はしたが、それでも彼らとはあいさつもかわさなかった。ところがその男と娘とは、人の目を避けてるらしかったけれども、いや反対に、人の目を避けてたがために、学校の帰りや撞球《たまつき》の帰りなどに時々|苗木栽培地《ペピニエール》のまわりを散歩する五、六人の学生から、自然に注意されるようになった。撞球の方の仲間であったクールフェーラックも、時々ふたりの姿を認めたが、娘がきれいでないのを見て、すぐにわざとそれを避けるようにした。そして彼はパルト人のように、逃げながらふたりに綽名《あだな》の槍《やり》をなげつけてしまった。娘の長衣と老人の頭髪とが特に目についたので、娘をラノアール(黒)嬢と呼び、父をルブラン(白)氏と呼んだ。もとよりふたりの身の上を知ってる者はなく名がわからなかったので、右の綽名《あだな》が一般に通用することになった。学生らは言った、「ああルブラン氏がベンチにきてる!」そしてマリユスも他の者らと同じく、便宜上その知らない人をルブラン氏と呼んでいた。
 われわれもまた学生らと同じように、たやすく話を進めるために彼をルブラン氏と呼ぶことにしよう。
 かくて最初の一年間マリユスは、ほとんど毎日きまった時間に彼らの姿を見た。彼にとっては、老人の方は多少好ましかったが、娘の方は一向おもしろくもなかった。

     二 光ありき

 物語がようやくここまで進んできた時、すなわちこの二年目に、マリユスのリュクサンブール逍遙《しょうよう》はちょっと中絶した。それは彼自身にもなぜだかよくわからなかったが、とにかく六カ月近くもその道に足を踏み入れなかった。ところがついにまたある日、彼はそこに戻っていった。さわやかな夏の朝のことで、晴れた日にはだれもそうであるがマリユスもごく愉快な気持ちになっていた。耳に聞こえる小鳥の歌や、木の葉の間からちらと見える青空などが、心の中にはいって来るかと思われた。
 彼はまっすぐに「自分の道」へ行った。そしてその一端に達すると、あの見なれたふたりがやはりいつものベンチに腰掛けてるのを認めた。ところが近寄ってゆくと、老人の方は同じ人だったが、娘の方は人が変わってるように思えた。今彼の目の前にあるのは、背の高い美しい女で、大きくなりながらまだ幼時の最も無邪気な優美さをそなえてる時期であり、ただ十五歳という短い語によってのみ伝え得るとらえ難い純潔な時期であって、ちょうどその年頃の女の最も魅力ある姿をすべてそなえていた。金色の線でぼかされたみごとな栗色《くりいろ》の髪、大理石でできてるような額、薔薇《ばら》の花弁でできてるような頬《ほお》、青白い赤味、目ざめるような白さ、閃光《せんこう》のように微笑がもれ音楽のように言葉がほとばしり出る美妙な口、ラファエロが聖母マリアに与えたろうと思われるような頭と、その下にはジャン・グージョンがヴィーナスに与えたろうと思われるような首筋。そしてその愛くるしい顔立ちをなお完全ならしむるためには、鼻がまた美しいというよりもかわいいものだった。まっすぐでもなく、曲がってるでもなく、イタリー式でもギリシャ式でもなく、パリー式の鼻だった。言い換えれば何となく怜悧《れいり》そうで繊細で不規則で純潔であって、画家を困らせ詩人を喜ばせる類の鼻だった。
 彼女のそばを通った時、彼はその目を見ることができなかった。その目はいつも下に向けられていた。影と貞純とのあふれてる長い栗色の睫毛《まつげ》だけが、彼の目にはいった。
 それでもなおこの麗わしい娘は、自分に話しかける白髪の男に耳を傾けながらほほえんでいた。目を伏せながら浮かべるあざやかなその微笑ほど、愛くるしいものは世になかった。
 初めのうちマリユスは彼女のことを、その男の別の娘で、前の娘の姉ででもあろうと思った。しかし、いつもの逍遙《しょうよう》の癖から二度目にベンチに近寄った時、注意深く彼女をながめた時、彼はそれがやはり同じ人であることを認めた。六カ月のうちに小娘は若い娘となった、ただそれだけのことだった。そういうことは最も普通に起こる現象である。またたくまにほころんでたちまちに薔薇の花となってしまうような時期が、女の子にはある。昨日までは子供として気にも留めないが、今日はもはや気がかりなしには見られないようになる。
 さてその娘は、ただに大きくなったばかりではなく、理想的になっていた。四月にはいれば世の中は三日見ぬ間に桜となるように、六カ月で彼女には美を着飾るに足りたのである。彼女の四月がきたのであった。
 貧乏で憔悴《しょうすい》していた人が、目ざむるようににわかに窮迫から富裕となり、あらゆる金使いをして、たちまちにぜいたくにみごとにまばゆきまでになるのは、世に時として見らるることである。それは金が舞い込んできたからである、期限の金を昨日受け取ったからである。その若い娘もその定期金を受け取っていたのである。
 そしてまた彼女は、フラシ天の帽子やメリノの長衣や学校靴《がっこうぐつ》や赤い手などをしていなくて、もう寄宿生らしいところはなかった。美とともに趣味も生じたのである。別に取り繕った様子もないが、さっぱりした豊かな優美さをそなえた服装《みなり》をしていた。黒い緞子《どんす》の長衣と同じ布の肩衣と白い縮紗《クレープ》の帽子をつけていた。支那|象牙《ぞうげ》の日がさの柄をいじってる手は、白い手袋を通していかにも繊細なことが察せられ、絹の半靴はその足の小さいことを示していた。近くを通ると、その全身の粧《よそお》いからは若々しいしみ通るようなかおりが発していた。
 老人の方は前と何の変わりもなかった。
 二度目にマリユスが近寄った時、娘は眼瞼《まぶた》を上げた。その目は深い青空の色をしていた。しかしその露《あら》わでない青みのうちには、まだ子供の目つき以外に何物もなかった。彼女は無関心にマリユスをながめた。あたかもシコモルの木の下を走る小猿《こざる》をでも見るがようで、またはベンチの上に影を投げてる大理石の水盤をでも見るがようだった。そしてマリユスの方でも、もう他の事を考えながら逍遙《しょうよう》を続けた。
 彼は娘がいるベンチのそばをなお四、五度は通ったが、その方へ目も向けなかった。
 それからまた毎日のように、彼は例によってリュクサンブールにき、例のとおり「父と娘」とをそこに見い出した。しかしもうそれを気に留めなかった。その娘が美しくなった今も、醜くかった以前と同じく、彼は別に何とも考えなかった。彼はやはり、彼女が腰掛けてるベンチのすぐそばを通っていた。それが彼の習慣となっていた。

     三 春の力

 空気の温暖なある日、リュクサンブールの園は影と光とにあふれ、空はその朝天使らによって洗われたかのように清らかであり、マロニエの木立ちの中では雀《すずめ》が小さな声を立てていた。マリユスはその自然に対して心をうち開き、何事も考えず、ただ生きて呼吸を続けてるのみで、あのベンチのそばを通った。その時あの若い娘は彼の方へ目を上げ、ふたりの視線が出会った。
 こんどは若い娘の視線の中に何があったか? マリユスもそれを言うことはできなかったであろう。そこには何物もなかった、またすべてがあった。それは不思議な閃光《せんこう》であった。
 彼女は目を伏せ、彼は逍遙を続けた。
 今彼が見たところのものは、子供の率直単純な目ではなかった。半ば開いてまたにわかに閉じた神秘な淵《ふち》であった。
 ごく若い娘もそういう一瞥《いちべつ》をする時がある。そこに居合わした人こそ災いである。
 まだ自分で知らない一つの魂のそういう最初の一瞥《いちべつ》は、空における曙《あけぼの》のようなものである。ある不可知な輝き渡る何物かの目ざめである。尊むべき闇《やみ》をにわかに漠然《ばくぜん》と照らし、現在のあらゆる無心と将来のあらゆる熱情とから成っている、その意外なる光耀《こうよう》の危険な魅力は、何物をもってしても写し出すことはできないであろう。偶然におのれを示し、また他を待っている、一種の定かならぬ愛情である。無心のうちに知らず知らずに張られ、自ら欲せずにまた知らずに人の心をとらえる、一種の罠《わな》である。一個の婦人のようにながむる乙女《おとめ》である。
 その一瞥の落ちる所から深い夢が生まれないことは、きわめてまれである。あらゆる純潔とあらゆる熱情とは、その聖《きよ》き致命的な輝きのうちに集まっており、婀娜《あだ》な女の十分に仕組んだ秋波よりもなお強い魔力を有していて、かおりと毒とに満ちたほの暗いいわゆる恋と呼ばるる花を、人の心の奥ににわかに開かせる。
 その夕方屋根裏の室《へや》に帰りついて、マリユスは自分の服装をながめ、初めて自分のきたなさと不作法と「平素《ふだん》の」服装でリュクサンブールに散歩に行く非常な愚かさとを気づいた。その平素の服装というのは、リボンの所まで押しつぶされた帽子と、馬方のような粗末な靴《くつ》と、膝《ひざ》の所が白けてる黒いズボンと、肱《ひじ》の所がはげかかってる黒い上衣とであった。

     四 大病のはじまり

 翌日例の時刻に、マリユスは戸棚から新しい上衣とズボンと帽子と靴を取り出した。そしてその完全な武具に身を固め、手袋をはめ、きわめてめかし込んで、リュクサンブールに出かけた。
 途中彼はクールフェーラックに出会ったが、そ知らぬ風をして通りすぎた。クールフェーラックは帰ってから友人らに言った。「今僕はマリユスの新しい帽子と上衣に出会ったよ。奴《やっこ》さんは中にくるまっていた。きっと試験でも受けに行くんだろう。ひどくぼんやりしていた。」
 リュクサンブールに着くと、マリユスは池を一周し、白鳥をながめ、それからまた、苔《こけ》のために頭が黒くなり臀《しり》が片一方なくなってるある像の前に長くたたずんで、それをながめた。池のそばには、腹の便々たる四十かっこうの市民がいて、五歳ばかりの男の児の手を引いていたが、それにこんなことを言っていた。「何でも度を過ごしてはいけない。専制主義と無政府主義とからは、同じくらいに遠く離れていなければいけない。」マリユスはその市民の言に耳を傾けた。それから彼はも一度池を一周した。そしてついに「自分の道」の方へ進んで行ったが、それも徐々に、またあたかもいやいやながら行くがようだった。ちょうど無理に引っ張られてるようでもあれば、また同時に行くのを引き止められてるようでもあった。しかし彼は自らそれらのことに少しも気づかず、いつものとおりであると思っていた。
 道に出てみると、向こうの端にルブラン氏と若い娘とが「彼らのベンチ」にきているのがわかった。彼はずっと上まで上衣のボタンをかけ、しわができないようにと上衣をよく引っ張り、一種の満足な心地でズボンの輝いた艶《つや》を見回し、そしてベンチに向かって進んでいった。その進み方のうちには進撃の趣があり、また確かに征服の下心もあったに違いない。それでここに、「ハンニバルはローマへ向かって進んだ」と言うように、「彼はベンチへ向かって進んだ」と言おう。
 とは言え彼の態度はまったく機械的であって、いっものとおりの頭と仕事との専心は少しも中断されていなかった。得業士提要 はばかな書物で、人間精神の傑作としてラシーヌの三つの悲劇を梗概《こうがい》しモリエールの喜劇はただ一つしか梗概してないのを見ると、よほどの愚人が書いたものに違いない、と彼はその時考えていた。けれど耳には鋭い音が鳴り渡っていた。ベンチの方へ近寄りながら、彼は上衣のしわを伸ばし、目を若い娘の上に据えていた。道の向こうの端は、彼女のために漠然《ばくぜん》とした青い輝きで満たされてるかのように思えた。
 近づくに従って彼の歩みはますますゆるやかになってきた。ある距離までベンチに近づくと、道の先端まではまだだいぶあったが、そこで立ち止まり、自分でもどうした訳か知らないで足を返した。向こうの端まで行かなかったことをさえ自ら知らなかった。娘が彼の姿を遠くから認め、その新しい服装をしたりっぱな様子を見たかどうか、それさえわからなかった。けれども彼は、だれかに後ろから見らるる場合に自分の姿をよく見せようとして、まっすぐに背を伸ばして歩いた。
 彼は道の反対の端まで行き、それからまた戻ってきて、こんどは前よりもずっとベンチに近づいて来た。そして木立ち三本をへだてるだけの所までやってきたが、そこでもうどうしても先へ進めないような気がして、ちょっと躊躇《ちゅうちょ》した。娘の顔が自分の方へ差し向けられてるのを見るように思った。それでも彼は男らしい激しい努力をして、ためらう心を押さえつけ、前の方へ進んでいった。やがて彼はまっすぐに身を固くして、耳の先までまっかになり、右にも左にもあえて目もくれず、政治家のように手を上衣の中にさし込んで、ベンチの前を通りすぎた。そしてそこを、その要塞《ようさい》の大砲の下を、通ってゆく時、恐ろしく胸が動悸《どうき》するのを感じた。彼女は前日のとおり、緞子《どんす》の長衣と縮紗《クレープ》の帽子とをつけていた。「彼女の声」に違いない言い難い声を彼は聞いた。彼女は静かに話をしていた。きわめてきれいだった。それだけのことを、彼は彼女を見ようともしなかったけれども心に感じた。彼は考えた。「フランソア・ド・ヌーシャトー氏が自筆だとしてジル・ブラスの刊行本の初めにつけたマルコ・オブルゴン・ド・ラ・ロンダに関する論説は、実は私が書いたのだと知ったら、彼女もきっと私に敬意と尊敬とを持つに違いないんだが。」
 彼はベンチの所を通りすぎ、すぐ先の道の端まで行き、それからまた戻ってきて、も一度美しい娘の前を通った。がこんどはまっさおになっていた。強い不安しか感じなかった。彼はベンチと娘とから遠ざかっていった。そして彼女の方に背を向けながら、後ろから彼女に見られてるような気がして、思わずよろめいた。
 それから彼はもうベンチに近寄らなかった。道の中ほどに立ち止まって、今までかつてしなかったことであるが、横目をしながらそこのベンチに腰をおろしてしまい、漠然《ばくぜん》たる心の底で考えた。要するに、自分が嘆賞してるその白い帽子と黒い上衣とのあの人たちも、自分のみがき立てたズボンと新しい上衣とに対して、全然無感覚であることはできないだろうと。
 十五分ばかりそうしていた後、円光にとりまかれてるベンチの方へまた歩き出そうとするかのように、彼は立ち上がった。けれどもそこに立ったままで身動きもしなかった。あすこに娘とともに毎日腰掛けている老紳士の方でも、きっと自分に気がつき、自分の態度をおそらく不思議に思ったであろうと、十五カ月以来初めて彼は考えた。
 そしてまた初めて彼は、心のうちでとは言え、ルブラン(白)氏などという綽名《あだな》でその知らない紳士を呼んでいたことに、ある不敬さを感じた。
 そして彼は頭をたれ、手にしてるステッキの先で砂の上に物の形を描きながら、数分間じっとしていた。
 それから突然向きを変え、ベンチとルブラン氏とその娘とを後ろにして、自分の家へ帰っていった。
 その日彼は夕食を食いにゆくことを忘れた。晩の八時ごろそれに気づいたが、もうサン・ジャック街までやって行くにはあまり遅かったので、なあにと言って、一片のパンだけをかじった。
 彼は上衣にブラシをかけ、丁寧にそれを畳んでから、ようやく寝床にはいった。

     五 ブーゴン婆さんのたびたびの驚き

 ブーゴン婆さん――と言うのは、ゴルボー屋敷の借家主で門番で兼世帯女である婆さんで、実際は前に言ったとおりブュルゴンという名だったが、何物をも尊敬したことのないひどいクールフェーラックの奴《やつ》が、そう名づけてしまったのである( 訳者注 ブーゴン婆とはぐずり婆の意 )。――ブーゴン婆さんは、その翌日、マリユスがまた新しい上衣を着て出かけるのを見て、あきれてしまった。
 マリユスはまたリュクサンブールの園に行ったが、道の中ほどにあるベンチより先へは行かなかった。前のように彼はそこに腰掛け、遠くからながめて、白い帽子と黒い長衣とまたことに青い輝きをはっきり見た。彼はそこを動きもせず、リュクサンブールの門がしまる時にようやく帰っていった。ルブラン氏とその娘とが帰ってゆく姿は見えなかった。それで彼は、ふたりはウエスト街の門から出て行ったのだろうと推定した。その後、数週間後のことであったが、その時のことを考えてみた時、彼はその晩どこで夕食をしたかどうしても思い出せなかった。
 その翌日、もう三日目であったが、ブーゴン婆さんはまた驚かされた。マリユスは新しい上衣を着て出かけたのである。
「まあ三日続けて!」と彼女は叫んだ。
 彼女はあとをつけてみようとした。しかしマリユスは早く大またに歩いていた。あたかも河馬が羚羊《かもしか》を追っかけるようなものだった。二、三分とたたないうちに、彼女はマリユスの姿を見失い、息を切らして戻ってきた。喘息《ぜんそく》のためにほとんど息をつまらして、ひどく怒っていた。彼女はつぶやいた。「毎日いい方の服をつけて、おまけに人をこんなに駆けさしてさ、それでいいつもりかしら!」
 マリユスはまたリュクサンブールにおもむいた。
 若い娘はルブラン氏とともにそこにきていた。マリユスは本を読んでるようなふうをして、できるだけ近づいていったが、それでもまだよほど遠くに立ち止まった。それから自分のベンチの方へ戻って腰を掛け、小道のうちを無遠慮な雀《すずめ》が飛び回るのをながめ、自分が嘲《あざけ》られてるような気がしながら、四時間もじっとしていた。
 そういうふうにして二週間ばかり過ぎた。マリユスはもう散歩をするためにリュクサンブールに行くのではなく、いつも同じ場所になぜだか自分でも知らないでただすわりに行った。一度そこへつくと、もう一歩も動かなかった。彼は人目につかないようにと朝から新しい上衣を着た、そしてまた来る日も来る日も同じようにした。
 彼女はまさしく驚嘆すべきほど美しかった。しいて批評がましい一つの難点をあぐれば、その悲しそうな目つきとうれしそうな微笑との間の矛盾で、それが彼女の顔に何か心迷ったような趣を与え、ためにある瞬間には、そのやさしい顔は愛くるしいままで異様になるのだった。

     六 囚われ

 二週間目の終わりのある日、マリユスは例のとおり自分のベンチにすわって、手に書物を開いていたが、もう二時間にもなるのに一ページも読んでいなかった。と突然彼は身を震わした。道の向こうの端で一大事が起こったのである。ルブラン氏と娘とはベンチを離れ、娘は父親の腕を取り、ふたりはマリユスがおる道の中ほどへ向かってやってきたのである。マリユスは書物を閉じ、それからまた開き、次にそれを読もうとつとめた。彼は震えていた。円光はまっすぐに彼の方へやってきつつあった。「ああ、姿勢をなおす暇もない、」と彼は考えた。そのうちにも白髪の男とその若い娘とは進んできた。彼にはその間が、一世紀ほど長いように思われ、また一瞬間にすぎないようにも思われた。「何しにこちらへ来るんだろう?」と彼は自ら尋ねた。「ああ、彼女がここを通ってゆく! その足は、自分から二歩と離れないこの道の砂を踏んでゆく!」彼は気が顛倒していた[#「顛倒していた」は底本では「転倒していた」]。ごく美しい男ともなりたかった。勲章でも持っていたかった。ふたりの歩み寄ってくる調子をとった静かな音が聞こえた。ルブラン氏が怒った目つきを自分に向けはすまいかとも想像した。「何か自分に話しかけるだろうか、」とも考えた。彼は頭をたれた。そしてまた頭を上げた時、ふたりはすぐそばにきていた。若い娘は通っていった。通りすがりに彼をながめた。考え込んだようなやさしさで彼をじっとながめた。マリユスは頭から足の爪先までぞっとした。もう長い間一度も彼女の方へ行かなかったことを難じられたような気がし、私の方から参りましたと言われたような気がした。その輝いた深い瞳《ひとみ》の前に、マリユスは眩惑《げんわく》されてしまった。
 彼は頭の中が燃えるように感じた。彼女の方から自分の所へきてくれた、何という幸いだろう。そしてまた彼女は、いかにじっと自分を見てくれたろう! 彼女は今まで見たよりも一段と美しく彼には思えた。女性の美と天使の美とをいっしょにした美しさである。ペトラルカをして歌わしめダンテをしてひざまずかしめる美しさである。彼はあたかも青空の中央に漂ってるような思いをした。同時に彼は、自分の靴《くつ》にほこりがついていたので非常に心苦しかった。
 彼女はまたこの靴をも見たに違いない、と彼は思った。
 彼女の姿が見えなくなるまで、彼はその後ろを見送った。それから気が狂ったようにリュクサンブールの園の中を歩き初めた。時とするとひとりで笑ったり声高に語ったりしがちだった。まったく夢を見ているようで、子もりの女どもまで彼が近づいて来ると、めいめい自分が恋せられてるんだと思ったほどである。
 彼は街路でまた彼女に会いはすまいかと思って、リュクサンブールを出た。
 彼はオデオンの回廊の下でクールフェーラックに行き会った。「いっしょに食事をしにこいよ、」と彼はクールフェーラックに言った。彼らはルーソーの家に行き、六フラン使い果たした。マリユスは鬼のようによく食べた。給仕にも六スー与えた。食後のお茶の時に、彼はクールフェーラックに言った。「君は新聞を読んだか。オードリ・ド・プュイラヴォーの演説は実にりっぱじゃないか。」
 彼はすっかり恋に取っつかれていた。
 食事をすますと、彼はクールフェーラックに言った。
「芝居をおごろう。」彼らはポルト・サン・マルタン座へ行って、アドレーの[#「アドレーの」に傍点]旅籠屋《はたごや》でフレデリックの演技を見た。マリユスはすてきにおもしろがった。
 同時に彼はまたひどく気が立っていた。芝居から出て、ひとりの小間物屋の女が溝《どぶ》をまたいでその靴下留めが見えたのを、頑固《がんこ》にふり返りもしなかった。「僕はああいう女をも喜んで採集するんだがな 、」と言ったクールフェーラックの言葉に、彼はほとんど嫌悪《けんお》の念をいだいた。
 クールフェーラックは翌日、彼をヴォルテール珈琲《コーヒー》店に招いた。マリユスはそこに行って、前日よりもなおいっそうむさぼり食った。彼はすっかり考え込んでおり、またごく快活だった。機会あるごとにすぐに高笑いをしたがってるかのようだった。ひとりの田舎者《いなかもの》に紹介されるとそれを親しく抱擁した。学生の一団がテーブルのまわりに陣取っていた。国家がわざわざ金を出してソルボンヌ大学で切り売りさしてるばかげた講義のことを論じていたが、次にその談話は、多くの辞書やキシュラの韻律法などにある誤謬《ごびゅう》や欠陥のことに落ちていった。マリユスはその議論をさえぎって叫んだ。「それでも十字勲章をもらうのは悪くないぞ!」
「これはおかしい!」とクールフェーラックはジャン・プルーヴェールに低くささやいた。
「いや、」とジャン・プルーヴェールは答えた、「奴《やつ》はまじめなんだ。」
 実際それはまじめだった。マリユスは大なる情熱が起こってこようとする楽しいまた激烈な最初の時期に際会していた。
 ただ一度の目つきが、すべてそういう変化をもたらしたのである。
 火坑には既に火薬がつめられている時、火災の準備が既にでき上がっている時、それより簡単なことはない。一つの瞥見《べっけん》はすなわち口火である。
 事は既に終わった。マリユスはひとりの女に恋した。彼の運命は未知の世界にふみ込まんとしていた。
 婦人の一瞥《いちべつ》は、表面穏やかであるが実は恐るべきある種の歯車にも似ている。人は毎日平和に事もなくそのそばを通り過ぎ、何らの懸念も起こさない。ある時は、それが自分のそばにあることさえも忘れてしまっている。行き、きたり、夢想し、語り、笑っている。が突然とらえられたことを感ずる。その時はもはや万事終わりである。歯車は人を巻き込み、瞥見は人を捕える。どこからということなく、またいかにしてということなく、思いめぐらしてる思想の一端からでも、うっかりしてるすき間からでも、人を捕えてしまう。それは身の破滅である。全身引き込まれなければやまない。不可思議な力から鷲《わし》づかみにされる。身をもがいてもむだである。人間の力ではいかんともすることはできない。精神も幸福も未来も魂もすべてが、車の歯から歯へ、苦悶《くもん》から苦悶へ、懊悩《おうのう》から懊悩へと、陥ってゆく。そしてあるいは悪い女の力に支配されるか、あるいは気高い心の婦人に支配されるかに従って、人がその恐るべき機械から出て来る時には、あるいは汚辱によって面目を失っているか、あるいは情熱によって面目を一新しているかだけである。

     七 推察のままに任せらるるU文字の事件

 孤立、すべてからの分離、矜持《きょうじ》、独立、自然に対する趣味、日々の物質的活動の欠除、自分のうちに引きこもった生活、貞節な心のひそかな争闘、万物に対するやさしい恍惚《こうこつ》、などはついにマリユスをして情熱と呼ばるるところのものにとらえらるる素地をこしらえていた。父に対する崇拝の念はしだいに一つの信仰となり、あらゆる信仰と同じくそれも心の奥に引っ込んでしまっていた。そして今第一の正面に何物かが必要となっていた。そこに恋がきたのである。
 まる一月はかくて過ぎた。その間マリユスは毎日リュクサンブールの園に行った。その時間が来れば何物も彼を引き止めることはできなかった。「あいつは勤務中だ、」とクールフェーラックは言った。マリユスは歓喜のうちに日を過ごしていた。若い娘も彼の方に目をつけてることは確かだった。
 彼はついに大胆になって、あのベンチに近寄っていった。けれどももうその前を通ることをしなかった。一つは臆病《おくびょう》な本能からと、また一つには恋する者の注意深い本能からだった。「父親の注意」をひかない方がいい、と彼は思っていた。彼は深いマキアヴェリ式の権謀を用いて、彫像の台石や樹木の後ろに自分の地位を選び、そしてできるだけよく娘の方から見えるようにし、できるだけ老紳士の方からは見えないようにした。時とすると半時間も、レオニダスかスパルタクスか何かの像の陰にじっとたたずんで、手に書物を持ち、その書物から静かに目を上げて、美しい娘の方を見ようとすることもあった。すると彼女の方でもぼんやりした微笑を浮かべて、彼の方へかわいい横顔を向けた。白髪の老人とごく自然にまた静かに話をしながら、彼女はその処女らしいまた熱情のあふれた夢見るような目を、マリユスの上に据えるのだった。世界の最初の日からイヴが知っていた、また人生の最初からすべての女が知っている、古い太古からのやり方である。彼女の口はひとりの方へ返事をし、彼女の目つきはもひとりの方へ返事をしていた。
 けれども、ルブラン氏の方でもついに何事かに気づいたことは想像される。なぜなら、マリユスがやってゆくと、しばしば彼は立ち上がって歩き出した。彼はよくいつもの場所を離れ、道の他の端にあるグラディアトゥールの像のそばのベンチに腰掛け、あたかもそこまでマリユスがついて来るかを見ようとするがようだった。マリユスはその訳を了解せず、その失策をやってしまった。「父親」はしだいに不正確になり、もう毎日は「自分の娘」を連れてこなかった。時とするとひとりでやってきた。するとマリユスはそこに止まっていなかった。それがまたも一つの失策だった。
 マリユスはそういう徴候には少しも気を留めなかった。臆病な状態から、避くるを得ない自然の順序として、盲目の状態に陥っていった。彼の恋は募ってきた。毎夜その夢を見た。その上意外な幸福がやってきた。それは火に油を注ぐようなもので、また彼の目をいっそう盲目ならしむるものだった。ある日の午後、たそがれ頃に、「ルブラン氏とその娘」とが立ち去ったベンチの上に、彼は一つのハンカチを見いだした。刺繍《ししゅう》もないごくあっさりしたハンカチだったが、しかしまっ白で清らかで、言うべからざるかおりが発してるように思えた。彼は狂喜してそれを拾い取った。ハンカチにはU・Fという二字がついていた。マリユスはその美しい娘については何にも知るところがなかった、その家がらも名前も住所も知らなかった。そしてその二字は彼女についてつかみ得た最初のものだった。大事な頭文字で、彼はすぐその上に楼閣を築きはじめた。Uというのはきっと呼び名に違いなかった。彼は考えた、「ユルスュールかな、何といういい名だろう!」彼はそのハンカチに脣《くちびる》をつけ、それをかぎ、昼は胸の肌《はだ》につけ、夜は脣にあてて眠った。
「彼女の魂をこの中に感ずる!」と彼は叫んだ。
 しかるにそのハンカチは実は老紳士ので、たまたまポケットから落としたのだった。
 その拾い物の後はいつも、マリユスはそれに脣をつけ、それを胸に押しあてながら、リュクサンブールに姿を現わした。美しい娘はその訳がわからず、ひそかな身振りでそのことを彼に伝えた。
「何という貞節さだろう!」とマリエスは言った。

     八 老廃兵といえども幸福たり得る

 われわれは貞節という語を発したことであるし、また何事をも隠さないつもりであるから、「彼のユルスュール」は恍惚《こうこつ》のうちにあるマリユスにきわめてまじめな苦しみを与えたことが一度あるのを、ここに述べなければならない。それは彼女が、ルブラン氏を促してベンチを去り道を逍遙《しょうよう》した幾日かのうちの、ある日のことだった。晩春の強い風が吹いて篠懸《すずかけ》の木の梢《こずえ》を揺すっていた。父と娘とは互いに腕を組み合わして、マリユスのベンチの前を通り過ぎた。マリユスはそのあとに立ち上がり、その後ろ姿を見送った。彼の心は狂わんばかりで、自然にそういう態度をしたらしかった。
 何物よりも最も快活で、おそらく春の悪戯《いたずら》を役目としているらしい一陣の風が、突然吹いてきて、苗木栽培地《ペピニエール》から巻き上がり、道の上に吹きおろして、ヴィルギリウスの歌う泉の神やテオクリトスの歌う野の神にもふさわしいみごとな渦巻きの中に娘を包み込み、イシスの神の長衣よりいっそう神聖な彼女の長衣を巻き上げ、ほとんど靴下留《くつしたど》めの所までまくってしまった。何とも言えない美妙なかっこうの片脛《かたはぎ》が見えた。マリユスもそれを見た。彼は憤慨し立腹した。
 娘はひどく当惑した様子で急いで長衣を引き下げた。それでも彼の憤りは止まなかった。――その道には彼のほかだれもいなかったのは事実である。しかしいつもだれもいないとは限らない。もしだれかいたら! あんなことが考えられようか。彼女が今したようなことは思ってもいやなことである。――ああしかし、それも彼女の知ったことではない。罪あるのはただ一つ、風ばかりだ。けれども、シェリュバンの中にあるバルトロ的気質が(訳者注 フィガロの結婚中の人物で、前者は女に初心な謹厳な少年、後者は嫉妬深い後見人)ぼんやり動きかけていたマリユスは、どうしても不満ならざるを得ないで、彼女の影に対してまで嫉妬《しっと》を起こしていた。肉体に関する激しい異様な嫉妬の念が人の心のうちに目ざめ、不法にもひどく働きかけてくるのは、皆そういうふうにして初まるのである。その上、この嫉妬の念を外にしても、そのかわいらしい脛《はぎ》を見ることは、彼にとっては少しも快いことではなかった。偶然出会う何でもない婦人の白い靴下《くつした》を見せられる方が、彼にとってはまだしもいやでなかったろう。
「彼のユルスュール」は、道の向こうの端まで行き、ルブラン氏とともに引き返してきて、マリユスが再び腰をおろしていたベンチの前を通った。その時マリユスは気むずかしい荒い一瞥《いちべつ》を彼女に与えた。若い娘はちょっと身を後ろにそらせるようにし、それとともに眼瞼《まぶた》を上の方に上げた。「まあどうなすったのだろう!」という意味だった。
 それは彼らの「最初の争い」だった。
 マリユスが目の叱責《しっせき》を彼女に与え終わるか終わらないうちに、一人の男がその道に現われた。それは腰の曲がったしわだらけな白髪の老廃兵で、ルイ十五世式の軍服をつけ、兵士のサン・ルイ会員章たる、組み合わした剣のついてる小さな楕円形《だえんけい》の赤ラシャを胴につけ、その上、上衣の片袖《かたそで》には中に腕がなく、頤《あご》には銀髯《ぎんぜん》がはえ、一方の足は義足だった。マリユスはその男の非常に満足げな様子がそれと見て取らるるような気がした。またその皮肉な老人が自分のそばをびっこひいて通りながら、ごく親しい愉快そうな目配せをしたように思えた。あたかも偶然にふたりは心を通じ合って、いっしょに何かうまいことを味わったとでも、自分に伝えてるらしく彼には思えた。その剣の端くれの老耄《おいぼれ》めが、いったい何でそう満足げにしてるのか。奴《やつ》の義足と娘の脛《はぎ》との間に何の関係があるか。マリユスは嫉妬の発作に襲われた。「彼奴《あいつ》もいたんだろう。あれを見たに違いない!」と彼は自ら言った。そして彼はその老廃兵をなきものにしたいとまで思った。
 時がたつに従っていかなる尖端《きっさき》も鈍ってくる。「ユルスュール」に対するマリユスの憤りも、たとい正しいまた至当なものであったとしても、やがて過ぎ去ってしまった。彼はついにそれを許した。しかしそれには多大の努力を要し、三日の間というものは不平のうちに過ごした。
 とは言うものの、そんなことのあったにもかかわらず、またそんなことがあったために、彼の情熱はますます高まって狂わんばかりになった。

     九 日食

 彼女はユルスュールという名であることを、マリユスがいかにして発見したか、否発見したと思ったか、それは読者の既に見てきたところである。
 欲望は愛するにつれて起こってくる。彼女がユルスュールという名であることを知ったのは、既に大したことである、しかもまたきわめて些事《さじ》である。マリユスは三、四週間のうちにその幸福を食い尽してしまった。彼は新たに他の幸福を欲した。彼は彼女がどこに住んでるかが知りたくなった。
 彼はグラディアトゥールのベンチの策略に陥って、第一の失策を演じた。ルブラン氏がひとりで来る時にはリュクサンブールの園に止まることをしないで、第二の失策を演じた。それからまた第三の失策をやった。それは非常な失策だった。彼は「ユルスュール」のあとをつけたのである。
 彼女はウエスト街の最も人通りの少ない場所に住んでいた。見たところ質素な、四階建ての新しい家だった。
 それ以来マリユスは、リュクサンブールで彼女に会うという幸福に加えて、彼女のあとにその家までついてゆくという幸福を得た。
 彼の渇望は増していった。彼女の名前を、少なくともその幼名、かわいい名、本当の女らしい名を、彼は知っていた。彼女の住居をも知った。そしてこんどは、どういう身分であるかを知りたくなった。
 ある日の夕方、その家までふたりのあとについて行った時、ふたりの姿が正門から見えなくなった時、彼は続いてはいって行き、勇敢にも門番に尋ねた。
「今帰っていった人は、二階におらるる方ですか。」
「いいえ、」門番は答えた、「四階にいる人です。」
 それでまた一歩進んだわけである。そしてその成功はマリユスを大胆ならしめた。
「表に向いてる室《へや》ですか。」と彼は尋ねた。
「えー!」と門番は言った、「人の家というものは皆往来に向けて建ててあるものですよ。」
「そしてあの人はどういう身分の人ですか。」とマリユスはまた尋ねた。
「年金があるんです。ずいぶん親切な人で、大した金持ちというのではないが、困る者にはよく世話をして下さるんです。」
「名前は何というんですか。」とマリユスはまたきいた。
 門番は頭を上げて、そして言った。
「あなたは探偵《たんてい》ですか?」
 マリユスはかなり当惑したがしかし非常に喜んで立ち去った。だいぶ歩を進めたわけである。
「しめた、」と彼は考えた、「ユルスュールという名前であることもわかったし、年金を持ってる者の娘であることもわかったし、あのウエスト街の四階に住んでいることもわかった。」
 その翌日、ルブラン氏と娘とは、わずかな間しかリュクサンブールに止まっていなかった。まだ日の高いうちに立ち去ってしまった。マリユスはいつものとおりウエスト街まで彼らのあとについて行った。正門の所へ行くと、ルブラン氏は娘を先に中へ入れて、その門をくぐる前に立ち止まり、ふり返ってマリユスをじっとながめた。
 次の日、彼らはリュクサンブールにこなかった。マリユスは一日待ちぼけをくった。
 晩になって、彼はウエスト街に行き、四階の窓に燈火《あかり》がさしてるのを見た。彼はその燈火が消えるまで窓の下をうろついた。
 その次の日、リュクサンブールへはふたりともこなかった。マリユスは終日待っていて、それからまた窓の下の夜の立ち番をした。それが十時までかかった。夕食は時と場合に任した。熱は病人を養い、恋は恋人を養う。
 彼はそういうふうにして一週間を過ごした。ルブラン氏と娘とはもうリュクサンブールに姿を見せなくなった。マリユスは種々悲しい推察をした。昼間正門の所で待ち伏せすることはなしかねた。晩に出かけて行って、窓ガラスにさしてる赤い光をながめることだけで満足した。時とするとその窓に人影がさして、それを見る彼の胸は激しく動悸《どうき》した。
 八日目、彼が窓の下にやって行った時、そこには光が見えなかった。彼は言った。「おや、まだランプがついていない。でももう夜だ。どこへか出かけたのかしら。」彼は待ってみた。十時まで、十二時まで、ついに夜中の一時になった。四階の窓には何の光もささず、また家の中にだれもはいってゆく者もなかった。彼はひどく沈みきって立ち去った。
 翌日――彼はただ、明日は明日はと暮らしていて、言わば、彼にとっては今日というものはなかったのである――翌日、彼はまたリュクサンブールで彼らのいずれをも見かけなかった。恐れていたとおりだった。薄暗くなってからその家の前へ行った。窓には何の光もなかった。鎧戸《よろいど》がしめてあった。四階はまっ暗だった。
 マリユスは正門をたたき、はいって行って、門番に言った。
「四階の人は?」
「引っ越しました。」と門番は答えた。
 マリユスはよろめいた。そして弱々しく言った。
「いったいいつですか。」
「昨日です。」
「今どこに住んでいられますか。」
「一向知りません。」
「ではこんどの住所を知らして行かれなかったんですか。」
「そうです。」
 そして門番は頭を上げて、マリユスに気づいた。
「やああなたですか。」と彼は言った。「それじゃあなたはやはり警察の方ですね。」

     第七編 パトロン・ミネット

     一 鉱坑と坑夫

 人間のあらゆる社会は皆、劇場でいわゆる奈落 なるものを有している。社会の地面は至る所発掘されている。あるいは善を掘り出さんがために、あるいは悪を掘り出さんがために。そしてそれらの仕事は互いに積み重なっている。そこには上方の鉱坑もあれば、下方の鉱坑もある。そういう薄暗い地下坑は、時として文明の下に影を没し、また無関心で不注意なるわれわれによって足下に蹂躙《じゅうりん》さるることもあるが、それ自身に上部と下部とをそなえている。十八世紀におけるフランスの百科辞典は、やはりその一つの坑であって、ほとんど地上に現われてるものであった。初代キリスト教をひそかにはぐくんでいたあの暗黒は、やがてローマ皇帝の下に爆発して光明をもって人類を満たさんがためには、ただ一つの機会を要するのみだった。聖なる暗黒のうちには、実に潜在せる光明があったのである。火山が蔵する影のうちには、やがて炎々と輝き出すべき可能性がある。熔岩《ようがん》もすべてその初めは暗黒である。最初の弥撒《ミサ》が唱えられた瑩窟《えいくつ》は、単にローマの一|洞窟《どうくつ》だったのである。
 社会の組織の下には、驚くべく複雑な廃墟《はいきょ》が、あらゆる種類の発掘が存している。宗教の坑があり、哲学の坑があり、政治の坑があり、経済の坑があり、革命の坑がある。あるいは思想の鶴嘴《つるはし》、あるいは数字の鶴嘴、あるいは憤怒の鶴嘴。一つの瑩窟《えいくつ》から他の瑩窟へと、人々は呼びかわし答え合う。あらゆる理想郷は、それらの坑によって地下をへめぐる。四方に枝を伸ばしてゆく。あるいは互いに出会って親交を結ぶ。ジャン・ジャック・ルーソーはおのれの鶴嘴をディオゲネスに貸し、ディオゲネスは彼におのれの提灯《ちょうちん》を貸す。あるいはまた互いに争闘する。カルヴィンはソチニの頭髪をつかむ。しかしながら、それらの力が一つの目的に向かって進むのを、何物も止め妨ぐることはできない。暗黒の中を往来し上下して、おもむろに上層と下層とを置き換え外部と内部とを交代せしむる、その広汎《こうはん》なる一斉の活動を、何物も止め妨ぐることはできない。それは隠れたる広大なる蠢動《しゅんどう》である。しかし社会は、表面をそのままにして内臓を変化せしめつつあるその発掘に、ほとんど気づかないでいる。そして地下の層が数多いだけに、その仕事も雑多であり、その採掘も種々である。けれどそれらの深い開鑿《かいさく》からいったい何が出て来るのか。曰《いわ》く、未来が。
 地下深く下れば下るほど、その労働者は不可思議なものとなる。社会哲学者らが見て取り得る第一層までは、仕事は善良なものである。しかしその一層を越せば、仕事も曖昧雑駁《あいまいざっぱく》なものとなり、更に下に下れば恐るべきものとなる。ある深さに及べば、もはや文明の精神をもってしては入り得ない坑となる。そこはもはや、人間の呼吸し得べき範囲を越えた所で、それより先に怪物の棲居《すまい》となるべきものである。
 下に導く段階はまた不思議なものである。その各段は、哲学の立脚し得る各段であって、そこには、あるいは聖なるあるいは畸形《きけい》なる種々の労働者がひとりずつおる。ヨハン・フスの下にルーテルがおり、ルーテルの下にデカルトがおり、デカルトの下にヴォルテールがおり、ヴォルテールの下にコンドルセーがおり、コンドルセーの下にロベスピエールがおり、ロベスピエールの下にマラーがおり、マラーの下にバブーフがおる。そういうふうにして続いてゆく。更に下の方に、目に見えるものと見えないものとの境界の所には、他のほの暗い人影がおぼろに認められる。それはおそらく、いまだこの世に存しない人々であろう。昨日の人は今は幽鬼であるが、明日の人は今はまだ浮遊のものである。精神の目のみがそれらを漠然《ばくぜん》と認め得るのである。まだ生まれざる未来の仕事は、哲学者の幻像の一つである。
 胎児の状態にある陰府《よみ》の中の世界、何という異常な幻であるか!
 サン・シモン、オーエン、フーリエなどもまたその側面坑の中におる。
 それら地下の開鑿者《かいさくしゃ》らは皆、自ら知らずしてある目に見えない聖なる鎖に結ばれていて、各自孤立していはしないが、多くは常に自ら孤独であると考えている。そして実際、彼らの仕事は種々であり、ある者の光明とある者の炎とが互いに矛盾することもある。ある者は楽しく、ある者は悲壮である。けれども、その相違のいかんにかかわらず、それらの労働者らは皆、最高のものから最低のものに至るまで、最賢のものから最愚のものに至るまで、一つの類似点を持っている。すなわち無私ということを。マラーもイエスと同じくおのれを忘れている。彼らは皆おのれを捨て、おのれを脱却し、おのれのことを考えていない。彼らは自己以外のものを見ている。彼らは一の目を有している。その目はすなわち絶対なるものをさがし求めている。最高の者は一眸《いちぼう》のうちに天をすべて収めている。最下の者も、いかにいまだ空漠たろうとも、なおその眉目《びもく》の下に無窮なるもののかすかな輝きを持っている。そのなすところが何であろうとも、かかる標《しるし》を、星の瞳《ひとみ》を、有している者ならば、すべて皆尊むべきではないか。
 影の瞳はまた他の標である。
 そういう瞳より悪が始まる。目に光なき者こそは、注意すべき恐るべき者である。社会のうちには、暗黒なる坑夫もいる。
 発掘はやがて埋没となり、光明もやがて消えうせるような地点が、世にはあるものである。
 以上述べきたった鉱坑の下に、それらの坑道の下に、進歩と理想郷とのその広大なる地下の血脈系の下に、はるか地下深くに、マラーより下、バブーフより下、更に下、はるか遠く下に、上方の段階とは何らの関係もない所に、最後の坑道がある。恐るべき場所である。われわれが奈落《ならく》と呼んだのはすなわちそれである。それは暗黒の墓穴であり、盲目の洞穴である。どん底[#「どん底」に傍点]である。
 そこは地獄と通じている。

     二 どん底

 このどん底においては無私は消滅する。悪魔は漠然《ばくぜん》と姿を現わし、人は自己のことのみを考えている。盲目の自我が、咆《ほ》え、漁《あさ》り、模索し、かみつく。社会のウゴリノがこの深淵《しんえん》のうちにおる([#ここから割り注]訳者注 ウゴリノとは飢の塔のうちに幽閉されて餓死せる子供らの頭を咬める人――ダンテの神曲[#ここで割り注終わり])。
 その墓穴の中にさまよってる荒々しい人影は、ほとんど獣類ともまたは幽鬼とも称すべきものであって、世の進歩なるものを念頭にかけず、思想をも文字をも知らず、ただおのれ一個の欲望の満足をしか計っていない。彼らはほとんど何らの自覚も持たず、心の中には一種の恐るべき虚無を蔵している。ふたりの母を持っているが、いずれも残忍なる継母であって、すなわち無知と困窮とである。また嚮導者《きょうどうしゃ》としては欠乏を持っている。そしてそのあらゆる満足はただ欲情を満たすことである。彼らは恐ろしく貪慾《どんよく》である。換言すれば獰猛《どうもう》である、しかも暴君のごとくにではなく、猛虎《もうこ》のごとくに。それらの悪鬼は、難渋より罪悪に陥ってゆく。しかもそれは必然の経過であり、恐るべき変化であり、暗黒の論理的帰結である。社会の奈落《ならく》にはい回ってるものは、もはや絶対なるものに対する痛切な要求の声ではなく、物質に対する反抗の念である。そこにおいて人は竜《ドラゴン》となる。飢渇がその出発点であり、サタンとなることがその到達点である。そういう洞穴《どうけつ》から凶賊ラスネールが現われて来る。
 われわれは前に第四編において、上層の鉱区の一つ、すなわち政治的革命的哲学的の大坑道の一つを見てきた。既に述べたとおりそこにおいては、すべてが気高く、純潔で、品位あり、正直である。そこにおいても確かに、人は誤謬《ごびゅう》に陥ることがあり、また実際陥ってもいる。しかし壮烈さを含む間はその誤謬も尊むべきである。そこでなさるる仕事の全体は、進歩という一つの名前を持っている。
 今や他の深淵《しんえん》、恐るべき深淵を、のぞくべき時となった。
 われわれはあえて力説するが、社会の下には罪悪の大洞窟《だいどうくつ》が存している。そして無知が消滅する日まではそれはなお存するであろう。
 この洞窟は、すべてのものの下にあり、すべてのものの敵である。いっさいに対する憎悪である。この洞窟はかつて哲学者を知らず、その剣はかつてペンに鋳つぶされたことがない。その黒色はインキ壺《つぼ》の崇高なる黒色と何らかの関係を有したことがない。その息づまるばかりの天井の下に痙攣《けいれん》する暗黒の指は、かつて書物をひもとき新聞をひらいたことがない。バブーフも強賊カルトゥーシュに比すればひとりの探検家であり、マラーも凶漢シンデルハンネスに比すればひとりの貴族である。この洞窟《どうくつ》はいっさいのものの転覆を目的としている。
 しかりいっさいのものの。そのうちには、彼がのろう上層の坑道も含まれる。彼はその厭悪《えんお》すべき蠢動《しゅんどう》のうちに、啻《ただ》に現在の社会制度を掘り返すのみでなく、なお哲学をも、科学をも、法律をも、人類の思想をも、文明をも、革命をも、進歩をも、すべてを掘り返す。その名は単に窃盗、売笑、殺戮《さつりく》、刺殺である。彼は暗黒であり、混沌《こんとん》を欲する。彼をおおう屋根は無知で作られてある。
 他のすべてのもの、上層のすべての洞窟は、ただ一つの目的をしか有しない、すなわちこの洞窟を除去することである。哲学や進歩が、同時にその全器官をそろえて、現実の改善ならびに絶対なるものの静観によって、到達せんと目ざす所は実にこの一事にある。無知の洞窟を破壊するは、やがて罪悪の巣窟を破壊することである。
 以上述べきたったところの一部を数言につづめてみよう。曰く、社会の唯一の危険は暗黒にある。
 人類はただ一つである。人はすべて同じ土でできている。少なくともこの世にあっては、天より定められた運命のうちには何らの相違もない。過去には同じやみ、現世には同じ肉、未来には同じ塵《ちり》。しかしながら、人を作る捏粉《ねりこ》に無知が交じればそれを黒くする。その不治の黒色は、人の内心にしみ込み、そこにおいて悪となる。

     三 バベ、グールメル、クラクズー、およびモンパルナス

 クラクズーにグールメルにバベにモンパルナスという四人組みの悪漢が、一八三〇年から一八三五年まで、パリーの奈落《ならく》を支配していた。
 グールメルは、あたかも失脚したヘラクレス神のような男だった。その巣をアルシュ・マリオンの下水道に構えていた。身長六尺、大理石のような胸郭、青銅のような腕、洞穴《どうけつ》から出るような呼吸、巨人のような胴体、小鳥のような頭蓋《ずがい》。あたかもファルネーゼのヘラクレス神の像が、小倉のズボンと綿ビロードの上衣をつけた形である。そういう彫刻的な体躯《たいく》をそなえたグールメルは、怪物をも取りひしぎ得たであろうが、自ら怪物となることはなお容易であった。低い前額、広い蟀谷《こめかみ》、年齢四十足らずで目尻《めじり》には皺《しわ》が寄り、荒く短い頭髪、毛むくじゃらの頬《ほお》、猪《いのしし》のような髯《ひげ》、それだけでもおよそその人物が想像さるるだろう。彼の筋肉は労働を求めていたが、彼の暗愚はそれをきらっていた。まったく怠惰な強力にすぎなかった。うかとした機会でも人を殺すことができた。植民地生まれの男だと一般に思われていた。一八一五年にアヴィニョンで運搬夫となっていたことがあるので、ブリューヌ元帥(訳者注 一八一五年アヴィニョンにて暗殺され河中に投ぜられし人)にもいくらか手をつけたことがあるに違いない。その後運搬夫をやめて悪漢となったのである。
 バベの小柄なのは、グールメルの粗大と対照をなしていた。バベはやせており、また物知りだった。身体は薄いが、心は中々見透かし難かった。その骨を通して日の光は見られたが、その瞳《ひとみ》を通しては何物も見られなかった。彼は自ら化学者だと言っていた。ボベーシュの仲間にはいって道化役者となり、またボビノの仲間にはいって滑稽家《こっけいか》となっていたこともある。サン・ミイエルでは喜劇を演じたこともある。気取りやで、話し上手で、大げさにほほえみ、大げさに身振りをした。「国の首領」の石膏像《せっこうぞう》や肖像を往来で売るのを商売にしていた。それからまた歯抜きもやった。市場《いちば》で種々な手品を使ってみせた。一つの屋台店を持っていたが、それにラッパと次の掲示とをつけていた。――諸アカデミー会員歯科医バベ、金属および類金属に関し物理的実験を試み、歯を抜き、同業者の手の及ばざる歯根の治療をなす。価、歯一本一フラン五十サンチーム、二本二フラン、三本三フラン五十サンチーム、好機を利用せよ。――(この「好機を利用せよ」というのは、「でき得る限り歯を抜くべし」という意味であった。)彼は妻帯して子供を持っていた。しかし妻も子供らもその後どうなったか自ら知らなかった。ハンケチでも捨てるように彼らを捨ててしまったのである。新聞を読むことができたが、それはその暗黒な社会での一異彩だった。ある日、まだその屋台店のうちに家族をいっしょに引き連れていた頃、メッサジェー紙上で、ある女が牛のような顔をした子を生んだが子供も丈夫にしているということを読んで、彼は叫んだ。「これは金[#「これは金」に傍点]儲《もう》けになる! だが俺《おれ》の女房はそんな子供を設けてくれるだけの知恵もねえんだからな。」
 それから後、彼はすべてをよして「パリーに手をつけ」初めた。これは彼自身の言葉である。
 クラクズーとは何であったか。暗夜そのものであった。彼は空が黒く塗られるのを待って姿を現わした。夜になると穴から出てきたが、夜が明けないうちにまたそこへ引っ込んでいった。その穴はどこにあるか、だれも知ってる者はなかった。まっくらな中ででも、仲間の者にまで背中を向けて口をきいた。そしてクラクズーというのも彼の実際の名前ではなかった。彼は言っていた、「俺《おれ》はパ・デュ・トゥー(皆無)というんだ。」もし蝋燭《ろうそく》の光でもさそうものなら、すぐに仮面をかぶった。彼はこわいろ使いだった。バベはよく言った、「クラクズーは二色の声を持ってる夜の鳥だ。」彼は朦朧《もうろう》とした恐ろしい、ぶらつき回ってる男だった。クラクズーというのは綽名《あだな》であって、果たして何か名前を持ってるかさえもわからなかった。口よりも腹から声を出すことが多いので、果たして声というものを持ってるかさえもわからなかった。だれもその仮面をしか見たことがないので、果たして顔を持ってるかさえもわからなかった。幻のように彼は忽然《こつぜん》と姿を消した。出て来る時も、まるで地面から飛び出してくるかと思われるほどだった。
 痛ましい者と言えばおそらくモンパルナスであったろう。まだ少年で、二十歳にも満たず、きれいな顔、桜桃《さくらんぼう》にも似た脣《くちびる》、みごとなまっ黒い頭髪、目に宿ってる春のような輝き、しかもあらゆる悪徳にしみ、あらゆる罪悪を望んでいた。悪を消化しつくしたので、更にひどい悪を渇望していた。浮浪少年から無頼漢となり、無頼漢から強盗と変じたのである。やさしく、女らしく、品があり、頑健《がんけん》で、しなやかで、かつ獰猛《どうもう》だった。一八二九年のスタイルどおりに、帽子の左の縁を上げて髪の毛を少し見せていた。強盗をして生活していた。そのフロック型の上衣は上等の仕立てではあったが、まったくすり切れていた。彼は困窮のうちに沈み殺害をも犯しつつしかもめかしやであった。この青年のあらゆる罪悪の原因は、美服をまといたいという欲望だった。「お前さんはきれいね、」と彼に言ったある一人の浮わ気女工は、彼の心のうちに一点の暗黒を投じ、そのアベルをしてカインたらしめたのである。自分のきれいであることを知って、彼は更に優美ならんことを欲した。しかるに第一の優美は怠惰である。そして貧しい者の怠惰はすなわち罪悪である。いかなる浮浪の徒も、モンパルナスくらいに人に恐れられていた者はあまりない。十八歳にして彼は既に後に数多の死屍《しかばね》を残していた。この悪漢のために、両腕をひろげ顔を血にまみらしてたおれた通行人も、一、二に止まらない。縮らした頭髪、ぬりつけた香油、きちっとした上衣、女のような腰つき、プロシャの将校のような上半身、周囲に起こる町娘らの賛美のささやき、気取った結び方をした襟飾《えりかざ》り、ポケットの中にしのばした棍棒《こんぼう》、ボタンの穴にさした一輪の花、そういうのがこの人殺しの洒落者《しゃれもの》の姿であった。

     四 仲間の組織

 それら四人組みの悪党は、プロテウスの神のように自由に姿を変え、警察の網の目をぬけてはい回り、「樹木や炎や泉など種々の姿となって」名探偵《めいたんてい》ヴィドックの容赦なき目をものがれんとつとめ、互いに名前や詐術を貸し合い、自身の暗黒のうちに潜み、秘密な穴にのがれ、互いに隠し合い、仮装舞踏会でつけ鼻を取り去るようにすぐにありさまを変え、あるいは四人がひとりであるかのように見せかけ、あるいは名警官ココ・ラクールでさえも四人を一群の者であると誤るほど巧みに大勢に見せかけた。
 それら四人の者は、実は四人ではなかったのである。パリーで大仕掛けに仕事をしてる四つの頭を持った一個の不可思議な盗賊であった。社会の窖《あなぐら》に住む恐るべき悪の水※《すいし》であった。
 その分岐とその網目のような下層の脈絡とによって、バベとグールメルとクラクズーとモンパルナスとの四人は、広くセーヌ県内の闇撃《やみうち》を一手に引き受けていた。彼らは通行人に対して、下層からのクーデターを行なった。この種の仕事を考えついた者、夜の仕事を思いついた者は、皆その実行を彼らにはかった。四人の悪漢は草案を供給さるればそれをうまく舞台に上せた。彼らはその筋書きに従って仕事をした。彼らはいつも、何か肩を貸す必要がありまた相当に利益のある悪事には、それに相応した適当な人員を貸してやることもできた。力ずくの仕事には共犯人を呼び集めることもできた。一群の暗闇《くらやみ》の役者を持っていて、社会の底のあらゆる悲劇に自由に使っていた。
 通常夕方に彼らは起き上がって、サルペートリエール救済院の近くの野原で会合した。そしてそこで種々相談をこらした。それから十二時間の夜の間は彼らのもので、それをいかに使うべきかを定めた。
 パトロン・ミネット、というのがどん底の社会でこの四人組みの仲間に与えられてる名前だった。日々に消えうせつつある古い不思議な俗語では、パトロン・ミネット(子猫親方)というのは朝の意味であって、犬と狼との間というのが夕の意味であるのと同じである。このパトロン・ミネットという呼び名は、おそらく彼らの仕事が終わる時刻からきたものであろう。夜明けは幽霊は消えうせ盗賊が分散する時なのである。四人の者はそういう異名で知られていた。重要裁判長がかつて、ラスネールをその獄屋に見舞って、彼が否認してる罪悪を尋問したことがある。「ではだれがそれをしたのだ。」と裁判長は尋ねた。するとラスネールは、司法官にとっては謎《なぞ》にすぎないが警察にとっては明らかにわかる次の答えをした。「たぶんパトロン・ミネットでしょう。」
 ある場合には、登場人物の名前だけを見てその芝居のいかなるものであるかが察せられる。それと同じく、賊徒の名前だけを見てその一群がいかなるものであるか推察されることがある。でパトロン・ミネットの重なる手下がいかなる呼び名を持っていたかを次にあげてみよう。それらの名前はみんな特殊の記録の中に出ているものである。

  パンショー、別名プランタニエ、別名ビグルナイユ。
   ブリュジョン(ブルジョンの一系統があった。これについてはあとで一言する。)
   ブーラトリュエル、前にちょっと述べたことのある道路工夫。
   ラヴーヴ。
  フィニステール。
  オメール・オギュ、黒人。
  マルディソアール。
  デペーシュ。
  フォーントルロア、別名ブークティエール。
  グロリユー、放免囚徒。
  バールカロス、別名デュポン氏。
  レスプラナード・デュ・スュド。
  プーサグリーヴ。
   カルマニョレ。
   クリュイドニエ、別名ビザロ。
   マンジュダンテル。
   レ・ピエ・ザン・レール。
  ドゥミ・リアール、別名ドゥー・ミルアール。
  その他

 他は略すとしよう。それらは最悪の者ではないから。そして上に述べたような名前は皆それぞれ特殊な相貌《そうぼう》を持っている。そしてそれも単に個人を現わすのみではなく、その種類を代表しているものである。それらの名前は各、文明の下層に生ずる醜い菌の各種類に相当するものである。
 これらの者は、めったに顔を明るみにさらすことをしないので、往来で普通行き会うような人のうちにはいなかった。昼になると、夜の荒々しい仕事に疲れて眠りに行った。あるいは石灰窯《せきたんがま》[#ルビの「せきたんがま」はママ]の中に、あるいはモンマルトルやモンルージュのすたれた石坑の中に、時としては下水道の中に。彼らは地の中にもぐり込んでいた。
 その後そういう者らはどうなったか? 彼らはやはり存在している。彼らは常に存在していたのである。ホラチウスもその事を語っている、「娼婦、薬売[#「薬売」に傍点]、乞食、道化役者。」そして社会が現状のままである間は、彼らもやはり現状のままでいるだろう。その窖《あなぐら》の薄暗い天井の下に、彼らは絶えず社会の下漏《したもれ》から生まれ出て来る。常に同じような妖怪となって現われて来る。ただ彼らの名前と外皮とのみが異なるばかりである。
 個人は消滅するが、その種族は存続する。
 彼らは常に同じ能力を持っている。乞食《こじき》から浮浪人に至るまで、種族はその純一性を保っている。彼らはポケットの中の金入れを察知し、内隠しの中の時計をかぎつける。金や銀は彼らに一種のにおいを放つ。また盗まれたそうな様子をしている人のいい市民もいる。そういう市民を彼らは根気よくつけ回す。外国人や田舎者《いなかもの》が通るのを見れば、彼らは蜘蛛《くも》のように身を震わす。
 ま夜中の頃、人なき街路で、彼らに出会いまたはその影を見る時、人は慄然《りつぜん》とする。彼らは人間とは思われない。生ある靄《もや》でできてるかのような姿をしている。あたかも彼らは常に闇《やみ》と一体をなしており、やみと見分けがつかず、影以外に何らの魂をも持たないかのようである。そして彼らが夜陰から脱け出してくるのはただ一瞬時の間のみであって、しばし恐るべき生命に生きんがためのみであるかのように思われる。
 そういう悪鬼を消散させんには、何が必要であるか。光明である。漲溢《ちょういつ》せる光明である。曙《あけぼの》の光に対抗し得る蝙蝠《こうもり》は一つもない。どん底から社会を照らすべきである。

     第八編 邪悪なる貧民

     一 マリユスひとりの娘をさがしつつある男に会う

 夏は過ぎ、秋も過ぎて、冬となった。ルブラン氏も若い娘もリュクサンブールの園に姿を見せなかった。マリユスはただ、あのやさしい美しい顔をも一度見たいとのみ念じていた。彼は絶えずさがしていた。至る所をさがし回った。しかしその影をも見い出すことはできなかった。マリユスはもはや心酔せる夢想家でもなく、決然たる熱烈な確乎《かっこ》たる男でもなく、大胆に運命を切り開かんとする者でもなく、未来の上に未来をつみ重ねて夢みる頭脳でもなく、方案や計画や矜持《きょうじ》や思想や意志に満てる若き精神でもなかった。彼は実に迷える犬であった。彼は暗い悲しみに陥った。もはや万事終わったのである。仕事もいやになり、散歩にも疲れ、孤独にもあきはてた。広漠《こうばく》たる自然も昔は、種々の姿や光や声や忠言や遠景や地平や教訓に満ち満ちていたが、今はもう彼の前にむなしく横たわってるのみだった。すべてが消えうせたように彼には思えた。
 彼は常に思索を事としていた。なぜなら他に仕方もなかったからである。しかし彼はもはや自分の思想にも心楽しまなかった。思想が絶えず声低く提議してくることに対してひそかにこう答えた、「それが何の役に立つか。」
 彼は幾度となくおのれを責めた。なぜ自分は彼女の跡をつけたか。彼女を見るだけで既に幸福ではなかったか。彼女も自分の方を見ていた。それだけでも既に至上のことではなかったか。彼女も自分を愛しているらしかった。それでもう十分ではなかったか。自分はいったい何を得ようと欲したのか。それだけでたくさんではなかったか。自分は道にはずれていた。自分は誤っていた……。その他いろいろ自ら責めた。マリユスの性質としてそれらのことは少しもうち明けなかったが、クールフェーラックはやはりその性質上すべてをだいたいさとった。そして初めは、マリユスが恋に陥ったのを意外に感じながらも、それを祝していた。それからマリユスが憂鬱《ゆううつ》に沈み込んだのを見て、ついにこう彼に言った。「君はまったくまずかったんだ。まあちとショーミエールにでも遊びにこいよ。」
 一度、九月の晴れた日にそそのかされて、マリユスはクールフェーラックとボシュエとグランテールとが誘うままに、ソーの舞踏を見に行った。まことに夢のような話ではあるが、そこであるいは彼女に会うかも知れないと思ったのである。がもとよりさがしてる女は見当たらなかった。「だがいったい、見失った女は大概ここで見つかるものだがな、」とグランテールは横を向いてつぶやいた。マリユスは仲間をそこに残して、ひとりで歩いて帰って行った。彼はすべてが懶《ものう》く、熱に浮かされ、乱れた悲しい目つきを暗夜のうちに据え、宴楽の帰りのにぎやかな連中を乗せてそばを通りすぎてゆく楽しい馬車の響きとほこりとに脅かされ、意気消沈して、頭をはっきりさせるために途上の胡桃《くるみ》の木立ちのかおりを胸深く吸い込みながら、家に帰っていった。
 彼はしだいに深く孤独の生活にはいってゆき、心乱れ気力を失い、内心の苦悶に身を投げ出し、罠《わな》にかかった狼《おおかみ》のように苦しみの中をもがき回り、姿を消した彼女を至る所にさがし求め、まったく恋のためにぼけてしまった。
 一度ある時、妙な人に出会って、彼は不思議な感に打たれた。アンヴァリード大通りのそばの小さな裏通りで、一人の男と行き会ったのである。その男は労働者のような服装をして、長い庇《ひさし》のついた無縁帽《ふちなしぼう》をかぶっていたが、その下からまっ白い髪の毛が少し見えていた。マリユスはその白髪の美しさに心ひかれて、その男をじっとながめてみた。男はゆっくり歩いていて、何か苦しい瞑想《めいそう》にふけってるようだった。そして妙なことには、マリユスはまったくルブラン氏を見るような気がした。同じ頭髪、帽子の下から見えてる限りでは同じ横顔、同じ歩きかた、そしてただ少し寂しすぎる点が違ってるだけだった。しかしルブラン氏が、どうして労働者の服をつけてるのだろう、どういう訳だろう、その仮装は何の意味だろう? マリユスは少なからず驚いた。それから彼はようやく我に返って、第一にその男の跡をつけてみようとした。あるいはさがしてる糸口をついに見いだしたのかも知れない。いずれにしても、も一度その男を近くからながめ、謎《なぞ》を解かなければならない。そう彼は考えついたが、もう時がおくれていた。男はもはやそこにいなかった。ある狭い横町に曲がったのであろう。マリユスはもうその姿を見いだすことができなかった。そしてこの遭遇は、数日間彼の頭を占めていたが、そのうちに消えうせてしまった。彼は自ら言った、「結局、他人の空似《そらに》に過ぎなかったのだろう。」

     二 拾い物

 マリユスはなお続けてゴルボー屋敷に住んでいた。そしてそこのだれにも気をつけていなかった。
 実際その頃、ゴルボー屋敷には彼とジョンドレットの一家だけしか住んでいなかった。彼はジョンドレットの負債を一度払ってやったことがあるが、その父にも母にも娘らにもかつて口をきいたことはなかった。他の借家人らは、引っ越したか、死んだか、または金を払わないので追い出されるかしてしまっていた。
 その冬のある日、太陽は午後になって少し現われたが、それも二月の二日、すなわち古い聖燭節の日であった。このちょっと姿を現わした太陽は、やがて六週間の大寒を示すものであって、あのマティユー・レンスベルグが次の古典的な二行の句を得たのもそれからである。

  日をして輝き閃《ひらめ》かしめよ、
  さあれ熊《くま》は洞穴《どうけつ》に帰るなり。


 マリユスは外に出かけた。夜のやみが落ちようとしていた。ちょうど夕食の時間だった。いかに美しい愛に心奪われていても、悲しいかな食事はしなければならない。
 彼は家の戸口をまたいで外へ出た。ちょうどその時、ブーゴン婆さんは戸口を掃除《そうじ》しながら、次のおもしろい独語をもらしていた。
「この節は安い物と言って何があろう? みんな高い。安い物はただ世間の難渋だけだ。難渋だけは金を出さないでもやって来る。」
 マリユスはサン・ジャック街へ行こうと思って、市門の方へ大通りをゆるゆる歩いて行った。頭をたれて物思いに沈みながら歩いていた。
 突然彼は、薄暗がりの中にだれかから押しのけられるのを感じた。ふり返ると、ぼろを着たふたりの若い娘だった。ひとりは背が高くてやせており、ひとりはそれより少し背が低かったが、ふたりとも物におびえ息を切らして、逃げるように大急ぎで通っていった。ふたりはマリユスに気づかず、出会頭《であいがしら》に彼につき当たったのだった。薄ら明りにすかして見ると、ふたりは色青ざめ、髪をふり乱し、きたない帽子をかぶり、裳《も》は破れ裂け、足には何もはいてなかった。駆けながら互いに口をきいていた。大きい方がごく低い声で言った。
「いぬ[#「いぬ」に傍点]がきたのよ。もちっとであげられるところだった。」
 もひとりのが答えた。「私ははっきり見たわ。でただもう一目散よ。」
 マリユスはその変な言葉でおおよそさとった。憲兵か巡査かがそのふたりの娘を捕えそこなったものらしい、そしてふたりはうまく逃げのびてきたものらしい。
 ふたりは彼の後ろの並み木の下にはいり込み、暗闇《くらやみ》の中にしばらくはほの白く見えていたが、やがて消え失せてしまった。
 マリユスはしばらくたたずんでいた。
 それから歩みを続けようとすると、自分の足元の地面に鼠色《ねずみいろ》の小さな包みが落ちてるのに気づいた。彼は身をかがめてそれを拾ってみた。封筒らしいもので、中には紙でもはいっていそうだった。
「そうだ、」と彼は言った、「あのあわれな女どもが落としていったんだろう。」
 彼は足を返し、声を揚げて呼んでみたが、はやふたりの姿は見えなかった。それでもう遠くへ行ったことと思い、その包みをポケットの中に入れ、そして食事をしに出かけて行った。
 途中、ムーフタール街の路地で、彼は子供の柩《ひつぎ》を見た。黒ラシャでおおわれ、三つの台の上に置かれて、一本の蝋燭《ろうそく》の火に照らされていた。暗がりのふたりの娘のことが思い出された。
「あわれな母たち!」と彼は考えた。「自分の子供が死ぬるのを見るよりなおいっそう悲しいことがある。それは自分の子供が悪い生活をしてるのを見ることだ。」
 そのうちに、彼の悲しみの色を変えさえしたそれらの影は頭から消え去ってしまって、彼はまたいつもの思いに沈み込んだ。リュクサンブールの美しい木の下で、さわやかな空気と光との中で過ごした、愛と幸福との六カ月間のことをまたしのびはじめた。
「私の生活は何と陰鬱《いんうつ》になったことだろう!」と彼は自ら言った。「若い娘らはやはり私の目の前に現われて来る。ただ、昔はそれがみな天使に見えたが、今は食屍鬼《ししくいおに》のような気がする。」

     三 一体四面

 その晩、マリユスは床につこうとして着物をぬいでいた時、上衣のポケットの中に、夕方大通りで拾った包みに手を触れた。彼はそれを忘れていたのである。そこで彼は考えた、包みを開いてみたらどうにかなるだろう、もし実際彼女らのものだったら、中にはたぶんその住所があるだろう、そしてとにかく、落とし主へ返せるような手掛かりがあるかも知れない。
 彼は包み紙を開いた。
 包み紙には封がしてなかった。そして中には、同じく封がしてない四つの手紙がはいっていた。
 それぞれあて名がついていた。
 四つともひどい煙草《たばこ》のにおいがしていた。
 第一の手紙のあて名はこうだった。「下院前の広場……番地[#「番地」に傍点]、グリュシュレー侯爵夫人閣下。」
 中にはおそらく何か所要の手掛かりがあるかも知れない、その上手紙は開いているので読んでも一向さしつかえないだろう、とマリユスは考えた。
 手紙の文句は次のとおりだった。
     侯爵夫人閣下


 寛容と憐愍《れんびん》との徳は社会をいっそう密接に結び合わせしむるものに御座|候《そうろう》。公正のために身をささげ正法の聖なる主旨に愛着して身をささげ、その主旨を擁護せんがために、血潮を流し財産その他いっさいを犠牲に供し、しかも今や落魄《らくはく》の極にあるこの不幸なるスペイン人の上に、願わくは閣下のキリスト教徒たる感情を向けたまい、慈悲の一瞥《いちべつ》を投ぜられんことを。全身負傷を被り居る教育あり名誉あるこの軍人をして、なおそのあわれなる生を続けしめんがために、閣下は必ずや助力を惜しまれざるべしと存じ候。閣下の高唱せらるる人道の上に、また不幸なる一国民に対して閣下が有せらるる同情の上に、あらかじめ期待を掛け申し候《そうろう》。彼らの祈願は閣下の入れたもう所となり、彼らの感謝の念は長く閣下の御名を忘れざるべしと信じ申候。
 ここにつつしんで敬意を表し候。

   フランスに亡命し今国へ帰らんとして旅費に窮せるスペイン王党の騎兵大尉
 
                        ドン・アルヴァレス

 署名には何らの住所もついていなかった。マリユスは第二の手紙にその住所がありはすまいかと思った。そのあて名はこうだった。「カセット街九番地[#「カセット街九番地」に傍点]、モンヴェルネー[#「モンヴェルネー」に傍点]伯爵夫人閣下。」
 マリユスはその中に次の文句を読んだ。

     伯爵夫人閣下

 私事は六人の子供を持てるあわれなる母にて、末の児はわずかに八カ月になり候。この児の出産以来私は病気にかかり、五カ月以前からは夫にすてられ、今は何の収入の途もなく、ただ貧苦の底に悩みおり候。
 伯爵夫人閣下の御慈悲を望んで、深き敬意を表し申候。

                         バリザールの家内

 マリユスは第三の手紙を開いたが、それもやはり哀願のもので、次のように書かれていた。


           サン・ドゥニ街にてフェール街の角、小間物貿易商、選挙人パブールジォー殿

 ここにあえて一書を呈して、フランス座へ戯曲一篇を送りたる一文人へ、貴下の御あわれみと御同情とを賜わらんことを懇願仕まつり候《そうろう》。その戯曲は、題材を歴史に取り、場面を帝国時代のオーヴェルニュにいたしたるものに候。文体は自然にして簡潔、多少の価値はあるものと自信仕まつり候。歌詞も四カ所これ有り候。滑稽《こっけい》とまじめと奇想とは、種々の人物と相交わり、全篇に漂えるロマンチシズムの軽き色合に交錯し、筋は不思議なる発展をなし、感動すべき多くの変転を経て、光彩陸離たる種々の場面のうちにからみゆくものに御座候。
 主として小生の目ざせる点は、現代人の刻々に要求する所を満足させんことに候。換言すれば、ほとんどあらゆる新奇なるふうにその方向を変ずる、かの定見なき笑うべき風見とも言うべき流行[#「流行」に傍点]を満足させんことに候。
 かかる特長あるにもかかわらず、座付きの作者らの嫉妬《しっと》と利己心とは、小生を排斥せんとするやも知れずと懸念いたし候。新参の者が常に受くる冷遇を、小生とてもよく存じおり候えば。
 貴下には常に文人を保護したまわる由を承り候まま、あえて娘をつかわして、この冬季にあっても食も火もなき困窮の状を具申いたさせ候。何とぞ今度の戯曲並びに今後の作を貴下にささげんとの微意を御受け下されたく候。かくて小生は、貴下の保護を受くるの光栄に浴し、貴下の名をもって小生の著述を飾るの光栄に浴せんことを、いかほど希望いたしおるやを申し上げたくと存候。もし貴下にしていくらかなりと御補助を賜わらば、小生は直ちに一篇の詩を作りて、感謝の意を表すべく候《そうろう》。小生は力の及ぶ限りその詩を完全なるものたらしめ、なおまた、戯曲の初めに※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]入《そうにゅう》して舞台に上する前、あらかじめ貴下のもとへ御送り申すべく候。
 パブールジォー殿並びに夫人へ、小生の深き敬意を表し候。

                        文士ジャンフロー

   追白、四十スーほどにてもよろしく候。

  娘をつかわして小生自身参上いたさざるを御許し下されたく、実は悲惨にも服装の都合上外出いたしかね候次第に御座候。

 マリユスはついに四番目の手紙を開いた。あて名はこうだった。「サン・ジャック・デュ・オー・パ会堂の慈悲深き紳士殿。」中には次の文句がしたためてあった。

    慈愛深き紳士殿

 もし拙者の娘と御同行下され候わば、一家困窮のきわみなる状態にあることを御認め下さるべく、また身元証明書は御覧に供すべく候。
 かかる手記を御覧候わば、恵み深き貴下は必ずや惻隠《そくいん》の情を起こし下さるべしと存候。真の哲学者は常に強き情緒を感ずるものに候えば。
 同情の念深き紳士殿、最も残酷なる窮乏に一家の者苦しみおり候。しかして何かの救助を得んために政府よりその証明を得るなどとは、いかに悲痛なることに候ぞや。他人より救助せらるるを待ちながら、しかも飢餓に苦しみ飢餓に死するの自由さえもなきもののごとくに候。運命はある者にはあまりに冷酷に、またある人にはあまりに寛大にあまりに親切にこれ有り候。貴下の御来臨を待ち申し候。あるいはおぼし召しあらば御施与を待申候。しかして拙者の敬意を御受け下されたく願上げ候。

        大人閣下のきわめて卑しき従順なる僕《しもべ》
                      俳優 ファバントゥー

 それら四通の手紙を読み終わったが、マリユスは前と同じく何らの手掛かりも得なかった。第一に、どの手紙にも住所がついていなかった。
 次に手紙は、ドン・アルヴァレスとバリザールの家内と詩人ジャンフローと俳優ファバントゥーと、四人の違った人からのものらしかったが、不思議にも四つとも同じ筆蹟だった。
 四つとも同一人からのものでないとするならば、それをいかに解釈したらいいか?
 その上、ことにそう考えさせることには、四通とも同じ粗末な黄色い紙であり、同じ煙草《たばこ》のにおいがしていた。そして明らかに文体を変えてはあるが、同じような文字使いが絶えず平気に現われてきて、文士ジャンフローもスペインの大尉も何ら異なるところがなかった。
 この小秘密を解かんとつとめることは、まったくむだな骨折りだった。もしそれが拾い物でなかったら、単に人をからかうものとしか思われなかったろう。その上マリユスは悲しみのうちに沈んでいたので、偶然の悪戯《いたずら》を取り上げるだけの余裕もなく、街路の舗石《しきいし》が彼に試みたようなその遊びに心を向けるだけの余裕もなかった。あたかも四通の手紙の間の目隠し鬼になってからかわれてるような気がした。
 またその手紙はマリユスが大通りで出会った二人の娘のものだということを示すものも、何もなかった。要するに何らの価値もない反故《ほぐ》にすぎないことは明らかだった。
 マリユスは四つの手紙をまた包み紙に入れて、室《へや》の片すみになげすて、そして床についた。
 翌朝七時ごろ、彼は起き上がって朝食をし、それから仕事にかかろうとした。その時静かに扉《とびら》をたたく者があった。
 いったい彼は所持品と言っては何もなかったので、かつて、扉に錠をおろさなかった。ただ時として急ぎの仕事をしてる時は錠をおろすこともあったが、それもごくまれにしかなかった。また外出する時でさえ、鍵《かぎ》を錠前に差し込んだままにしておいた。「泥坊がはいりますよ、」とブーゴン婆さんはよく言った。「盗まれるものは何もありません、」とマリユスは答えていた。けれども実際、ある日|古靴《ふるぐつ》を一足盗まれたことがあって、ブーゴン婆さんの言ったとおりになった。
 扉は再び初めのようにごく軽くたたかれた。
「おはいりなさい。」とマリユスは言った。
 扉は開いた。
「何か用ですか、ブーゴン婆さん。」とマリユスはテーブルの上の書物と書き物とから目を離さないで言った。
 するとブーゴン婆さんのでない別の声が答えた。
「ごめんなさい。あの……。」
 その声は鈍く乱れしわがれ濁っていて、火酒《ウォッカ》や焼酎《しょうちゅう》で喉《のど》をつぶした老人のような声だった。
 マリユスは急にふり返った。そこにはひとりの若い娘がいた。

     四 困窮の中に咲ける薔薇《ばら》

 まだうら若い娘がひとり、半ば開いた扉《とびら》の所に立っていた。光のさしこむ屋根裏の軒窓がちょうど扉と向き合ったところにあって、彼女の顔を青白い光で照らしていた。色の悪いやせ衰えた骨立った女で、冷え震えている裸体の上には、ただシャツと裳衣とをつけてるだけだった。帯の代わりに麻糸をしめ、頭のリボンの代わりに麻糸を結わえ、とがった両肩はシャツから現われ、褐色の憂鬱《ゆううつ》な顔には血の気がなく、鎖骨のあたりは土色をし、赤い手、半ば開いてる色あせた口、抜け落ちた歯、ほの暗い大胆な賤《いや》しい目、未熟な娘のかっこうで腐敗した老婆の目つきだった。五十歳と十五歳とがいっしょになった形だった。全体が弱々しくまた同時に恐ろしい生物で、人をして震え上がらしむるかまたは泣かしむる生物だった。
 マリユスは立ち上がって、夢の中に現われて来る影のようなその女を、惘然《ぼうぜん》として見守った。
 ことに痛ましいのは、彼女は生まれつき醜いものでなかったことである。ごく小さい時には美しかったに違いない。年頃の容色はなお、汚行と貧困とから来る恐ろしい早老のさまと戦っていた。一抹《いちまつ》の美しさがその十六歳の顔の上に漂っていて、冬の日の明け方恐ろしい雲の下に消えてゆく青白い太陽のように見えていた。
 その顔にマリユスは全然見覚えがないでもなかった。どこかでかつて見たことがあるような気がした。
「何か御用ですか。」と彼は尋ねた。
 若い娘は酒に酔った囚徒のような声で答えた。
「マリユスさん、手紙を持ってきたのよ。」
 彼女はマリユスと名を呼んだ。彼女がやはり彼に用があってきたことは疑いなかった。しかし彼女はいったい何者なのか、どうしてマリユスという名を知ったのか?
 彼がこちらへと言うのも待たないで、娘ははいってきた。彼女はつかつかとはいってきて、驚くばかりの平気さで、室《へや》の方々を見回し、取り乱した寝床をながめた。足には何もはいていなかった。裳衣の大きな裂け目からは、長い脛《はぎ》とやせた膝《ひざ》とが見えていた。彼女は震えていた。
 彼女は実際手に一通の手紙を持っていて、それをマリユスに渡した。
 マリユスは手紙を開きながら、その大きな封糊がまだ湿っているのに気づいた。使いの者は遠くからきたのではないに違いなかった。彼は手紙を読み下した。


    隣の親切なる青年よ!


 小生は貴下が六カ月以前小生の家賃を御払い下され候好意を聞き及び候《そうろう》。小生は貴下の幸福を祈り候。小生らは一家四人にて、この一週間一片のパンすらもなく、しかも家内は病気にかかりおり候こと、万事は長女より御聞き取り下されたく候。もし小生の思い違いに候わずば、寛大なる貴下はこの陳述に動かされ、小生に些少《さしょう》の好意を寄せ恵みをたれんとの念を起こしたまわることを、期待して誤りなきかと信じ申候。
 人類の恩恵者に対して負うべき至大の敬意を表し候。

                         ジョンドレット

    追白―生の長女は、マリユス殿、貴下の御さし図を待ち申すべく候。

 その手紙は、前日の晩からマリユスの頭を占めていた不思議な事件のさなかにきたので、あたかも窖《あなぐら》の中に蝋燭《ろうそく》をともしたようなものだった。すべてが突然明らかになった。
 その手紙は他の四通の手紙と同じ所からきたものだった。同じ筆蹟、同じ文体、同じ文字使い、同じ紙、同じ煙草《たばこ》のにおい。
 五つの手紙、五つの話、五つの名前、五つの署名、そしてただ一人の筆者。スペインの大尉ドン・アルヴァレス、不幸なる女バリザール、劇詩人ジャンフロー、老俳優ファバントゥー、それらは四人のジョンドレットにすぎなかった。ただしそれもジョンドレット自身が果たしてジョンドレットという名前であるとすればである。
 マリユスはもうかなり長くその屋敷に住んでいたが、前に言ったとおり、その賤《いや》しい隣人については、会う機会はめったになく、一瞥《いちべつ》を与えることさえもまれであった。彼は他に心を向けていた。心の向かうところに目も向くものである。実は廊下や階段でジョンドレット一家の者に行き会うことは、一度ならずあったはずであるが、彼にとって彼らは皆単に影絵にすぎなかった。彼は少しも注意を払っていなかった。それで前日の晩、大通りでジョンドレットの娘らにつき当たりながらも――それは明らかに彼女らに相違なかった――だれであるか一向わからなかったほどで、自分の室《へや》にはいってきた娘に対しても、嫌悪《けんお》と憐愍《れんびん》との感を通して、どこかほかで会ったことがあるというぼんやりした覚えがあるに過ぎなかった。
 しかるに今やすべてが明らかにわかってきた。彼は事情を了解した。隣にいるジョンドレットは、困窮の揚げ句、慈善家の慈悲をこうのを仕事としていること。種々の人の住所を調べていること。金持ちで慈悲深そうな人々へ仮りの名前で手紙を書き、娘なんかどうなろうとかまわないほどのひどい状態にあるので、娘らに危険を冒して手紙を持って行かしてること。運命と賭事《かけごと》をし、娘らをその賭物としてること。また前日娘らが逃げ出しながら息を切らしおびえていた所を見、耳にしたあの変な言葉から察すると、おそらくふたりは何かよからぬことをしていたに違いないこと。そしてそれらのことから結論すると、この人間社会のまんなかにおいて、子供とも娘とも婦人ともつかないふたりの悲惨な者が、不潔なしかも罪のない怪物の一種が、困窮のために作り出されたこと。それをマリユスは了解した。
 悲しむべき者ら、彼らには名前もなく、年齢もなく、雌雄《しゆう》の性もなく、彼らにとってはもはや善も悪も空名であって、幼年時代を過ぎるや既に世に一物をも所有せず、自由をも徳義をも責任をも有しない。昨日開いて今日ははや色あせたその魂は、往来に投げ捨てられ泥にしぼんでただ車輪にひかれるのを待つばかりの花のようなものである。
 さはあれ、驚いた痛ましい目でマリユスが見守っているうちにも、若い娘は幽霊のように臆面《おくめん》もなく室《へや》の中を歩き回っていた。自分の肉体が露わであることなどは少しも気にしないで、室の中を騒ぎ回った。時とすると、破れ裂け取り乱したシャツはほとんど腰の所までたれ下がった。それでも彼女は、椅子《いす》を動かしたり、戸棚《とだな》の上にある化粧道具をかき回したり、マリユスの服にさわってみたりして、すみずみまで漁《あさ》り初めた。
「あら、」と彼女は言った、「鏡があるのね。」
 そしてあたかも自分ひとりであるかのように、切れぎれの流行歌やばかな反唱句などを口ずさんだが、しわがれた喉音《こうおん》のためにそれも悲しげに響いた。しかしそういう厚顔の下にも、言い知れぬ気兼ねと不安と卑下とが見えていた。不作法は一つの恥である。
 そういうふうに彼女が室《へや》の中を飛び回り、言わば日の光に驚きあるいは翼を折った小鳥のように飛んでるのを見るくらい、およそ世に痛ましいものはなかった。異なった教育と運命との下にあったならば、その若い娘の快活で自由な態度にも、おそらくある優しみと魅力とがあったであろう。動物のうちにあっては、鳩《はと》に生まれたものが鶚《みさご》と変わることは決してない。そういう変化はただ人間のうちにのみ見られる。
 マリユスは思いに沈んで、彼女を勝手にさしておいた。
 彼女はテーブルに近づいた。
「ああ、本が!」と彼女は言った。
 彼女の曇った目はある光に輝いた。そしていかなる人の感情のうちにもある喜ばしい自慢の念をこめた調子で、彼女は言った。
「あたし読むことができるのよ。」
 彼女はテーブルの上に開いてあった一冊の書物を元気よく取り上げて、かなりすらすらと読み下した。


  ……ボーデュアン将軍は、旅団の五大隊をもってウーゴモンの城を奪取す

  べしとの命令を受けぬ、城はワーテルロー平原……の

 彼女は読むのを止めた。
「ああ、ワーテルロー、あたしそれを知ってるわ。昔の戦争ね。うちのお父《とう》さんも行ったのよ。お父さんは軍人だったのよ。うちの者はみなりっぱなボナパルト党だわ。ワーテルローって、イギリスと戦《いくさ》した所ね。」
 彼女は書物を置いて、ペンを取り、そして叫んだ。
「それからまたあたし、書くこともできてよ。」
 彼女はペンをインキの中に浸して、マリユスの方へ向いた。
「見たいの? ほら今字を書いて見せるわ。」
 そしてマリユスが何か答える間もなく、彼女はテーブルのまん中にあった一枚の白紙へ書いた。
「いぬがいる[#「いぬがいる」に傍点]。」
 それからペンを捨てた。
「字は違ってないでしょう。見て下さいよ。あたしたちは学問をしたのよ、妹もあたしも。前からこんなじゃなかったのよ。あたしたちだって……。」
 そこで彼女は急に口をつぐんで、どんよりした瞳《ひとみ》をじっとマリユスの上に据え、そして笑い出しながら、あらゆる苦しみをあらゆる皮肉で押さえつけたような調子で言った。
「ふーん!」
 そして快活な調子で次の文句を小声で歌い出した。


    お腹《なか》がすいたわ、お父さん。
     食う物がないよ。
    身体《からだ》が寒いわ、お母さん。
    着る物がないよ。

       震えよ、
      ロロット!
       泣けよ。
      ジャッコー!

 そういう俗歌を歌い終わるが早いか彼女は叫んだ。
「マリユスさん、あなた時々芝居へ行って? あたし行くのよ。あたしには小さい弟があって、役者たちと友だちなので、時々切符をくれるの。でも向こう桟敷《さじき》はきらいよ。窮屈できたなくて、どうかすると乱暴な人や臭い人がいっぱいいるんだもの。」
 それから彼女はつくづくとマリユスをながめ、妙な様子をして言った。
「マリユスさん、あなたは自分が大変いい男なのを知ってるの?」
 そして同時に同じ考えがふたりに起こった。それで娘は微笑したが、マリユスは顔を赤くした。
 彼女は彼に近寄って、片手をその肩の上に置いた。
「あなたはあたしを気にも留めてないが、あたしはマリユスさん、あなたを知っててよ。ここでもよく階段の所で会ったわ。それから、オーステルリッツ橋の近くに住んでるマブーフという爺《じい》さんの家へあなたが行くのを、何度も見たわ、あの近所を歩いてる時に。あなた、そう髪の毛を散らしてる所がよく似合ってよ。」
 彼女はやさしい声をしようとしていたが、そのためにただ声が低くなるばかりだった。あたかも鍵《キー》のなくなってる鍵盤《けんばん》の上では音が出ないように、彼女の言葉の一部は喉頭《こうとう》から脣《くちびる》へ来る途中で消えてしまった。
 マリユスは静かに身を引いていた。
「お嬢さん、」と彼は冷ややかな厳格さで言った、「たぶんあなたのらしい包みがそこにあります。あなたにお返ししましょう。」
 そして彼は四つの手紙がはいってる包みを取って彼女に差し出した。
 彼女は手を打って叫んだ。
「まあ方々さがしたのよ。」
 それから急に包みを引ったくって、その包み紙を開きながら言った。
「ほんとに妹とふたりでどのくらいさがしたか知れやしない! あなたが拾ってくれたのね。大通りででしょう。大通りに違いないわ。駆けた時に落としたのよ。そんなばかなことをしたのは妹なのよ。家へ帰ってみるとないんだもの。打たれたくないもんだから、打たれたって何の役にもたたないから、ほんとに何の役にもたたないから、全くよ、だからわたしたちはこう言ったの、手紙はちゃんと持って行ったがどこでも断わられてしまったって。それが手紙はみんなここにあったのね。どうしてあなたそれがあたしのだとわかって? ああそう、筆蹟《て》でね。では昨晩《ゆうべ》あたしたちが道でつき当たったのは、あなただったのね。ちっとも見えなかったんだもの。あたしは妹に言ったの、男だろうかって。すると妹は、そうらしいと言ったわ。」
 そう言ってるうちに彼女は、「サン・ジャック・デュ・オー・パ会堂の慈悲深き紳士殿」というあて名の手紙を開いてしまった。
「そう、」と彼女は言った、「これは弥撒《ミサ》へゆくお爺《じい》さんへやる手紙よ。ちょうど時間だわ。あたし持ってってこよう。朝御飯が食べられるだけのものをもらえるかも知れない。」
 それから彼女は笑い出してつけ加えた。
「今日の朝御飯はあたしたちにとっては何だかあなたにわかって? 一昨日《おととい》の朝御飯と、一昨日の晩御飯と、昨日《きのう》の朝御飯と昨日の晩御飯と、それだけをみんないっしょに今朝《けさ》食べることになるのよ。かまやしない、お腹《なか》がはち切れるほど食べてやるわ。」
 それでマリユスは、その不幸な娘が自分の所へ求めにきたものが何であったかを思い出した。
 彼はチョッキの中を探ったが、何もなかった。
 娘はしゃべり続けた。あたかもマリユスがそこにいるのも忘れてしまったがようだった。
「あたしはよく晩に出かけていくの。何度も帰ってこないこともあるわ。ここに来る前、去年の冬は、橋の下に住んでたのよ。冷え切ってしまわないように皆重なり合ってたわ。妹なんか泣いててよ。水ってほんとに悲しいものね。身を投げようかと思ったが、でもあまり寒そうだからといつも思い返したの。出かけたい時はすぐにひとりで出かけてよ。溝《みぞ》の中に寝ることもよくあるわ。夜中に街路《まち》を歩いてると、木が首切り台のように見えたり、大きい黒い家がノートル・ダームの塔のように見えたり、また白い壁が川のように見えるので、おや向こうに水があるって思うこともあるのよ。星がイリュミネーションの燈《あかり》のように見えて、ちょうど煙が出たり、風に吹き消されたりしてるようで、また耳の中に馬が息を吹き込んでるような気がしてびっくりするのよ。夜中なのに、バルバリーのオルガンの音だの、製糸工場の機械の音だの、何だかわからない種々なものが聞こえてよ。だれかが石をぶっつけるようなの、夢中に逃げ出すの、あたりがぐるぐる回り出すの、何もかも回り出すのよ。何にも食べないでいると、ほんとに変なものよ。」
 そして彼女は我を忘れたようにマリユスをながめた。
 マリユスは方々のポケットを探り回したあげく、ついに五フランと十六スーを集め得た。それが現在彼の持ってる全部だった。「まあこれで今日の夕食は食えるし、明日《あす》のことはどうにかなるだろう、」と彼は考えた。そして十六スーを取って置き、五フランを娘に与えた。
 娘はその貨幣をつかんだ。
「まあ有り難い、」と彼女は言った、「太陽《おひさま》が照ってる!」
 そしてあたかもその太陽が、彼女の頭の中の怪しい言葉の雪崩《なだれ》を解かす力でも持ってたかのように、彼女は言い続けた。
「五フラン! 光ってるわ、王様だわ、このでこの中にね。しめだわ。あなたは親切なねんこだわ。あたしあなたにぞっこんでよ。いいこと、どんたくだわ。二日の間は、灘《なだ》と肉とシチュー、たっぷりやって、それに気楽なごろだわ。」
 そんな訳のわからぬことを言って、シャツを肩に引き上げ、マリユスにていねいにおじぎをし、それから手で親しげな合い図をし、そして扉《とびら》の方へ行きながら言った。
「さようなら。でもとにかく、あのお爺《じい》さんをさがしに行ってみよう。」
 出がけに彼女は、ひからびたパンの外皮が戸棚の上の塵《ちり》の中にかびかかっているのを見つけて、それに飛びかかり、すぐにかじりつきながらつぶやいた。
「うまい、堅い、歯が欠けそうだ。」
 それから彼女は出て行った。

     五 運命ののぞき穴

 マリユスはもう五年の間、貧困、欠乏、窮迫のうちに生きていた。しかし彼はまだ本当の悲惨を知らなかったことに気づいた。彼は本当の悲惨を今しがた見たのであった。彼の目の前を通って行ったあの悪鬼こそそれだったのだ。実際、男の悲惨のみを見たとて、まだ本当のものを見たとは言えない、女の悲惨を見なければいけない。女の悲惨のみを見たとてまだ本当のものを見たとは言えない、子供のそれを見なければいけない。
 最後の困窮に達する時、男はまた同時に最後の手段に到着する。ただ彼の周囲の弱き者こそ災いである! 仕事、賃金、パン、火気、勇気、好意、すべてを男は同時に失う。外部に日の光が消えたようになる時、内部には精神の光が消える。その暗黒のうちにおいて彼は、弱い女や子供と顔を合わせる。そして彼らをしいて汚辱のうちにはいらせる。
 その時こそ戦慄《せんりつ》すべきあらゆることが可能になる。絶望をかこむ囲壁はもろく、どこからでも直ちに悪徳や罪悪に通い得る。
 健康、青春、名誉、うら若き肉身の初心なる聖《きよ》き羞恥《しゅうち》、情操、処女性、貞節など、すべて魂の表皮は、手段を講ずる模索によって、汚賤《おせん》に出会いそれになれゆく模索によって、悲惨なる加工を受くる。父、母、子供、兄弟、姉妹、男、女、娘、すべての者は、性と血縁と年齢と醜悪と潔白との差別なく暗澹《あんたん》たる混乱のうちにからみ合い、あたかも鉱石が作らるるように一つに凝結する。互いに寄り合って運命の破屋の中にうずくまる。互いに悲しげに見合わせる。おお不運なる者らよ! いかに青ざめてることか。いかに冷えきってることか。われわれよりもはるかに太陽から遠い星の中にいるかのようである。
 あの若い娘はマリユスにとって、暗黒の世界からつかわされたもののようであった。

 彼女はマリユスに、暗夜の恐ろしい一面を開いて見せた。
 マリユスは、今まで空想と情熱とに心奪われて、隣の者らには一瞥《いちべつ》をも与えなかったことを、自ら難じた。彼らの家賃を払ってやったことは、ただ機械的の行為で、人の皆なすところであろう。しかし彼マリユスは、なおよりよきことをなすべきではなかったろうか。人の住む境域を越えた暗夜のうちに手探りで生きてるそれらの捨てられたる人々は、ただ一重の壁でへだたっていたのみではなかったか。彼は彼らと肱《ひじ》をすれ合わしていた。彼こそはある意味において、彼らが触れ得る人類の最後の鎖の環《わ》であった。自分のそばに彼らが生きてる物音が、否むしろ瀕死《ひんし》のあえぎをしてるのが、聞こえていたのである。しかも彼はそれに少しも注意をしなかった。日々に、刻々に、壁を通して、彼らが歩き行き来たり語るのが聞こえていた。しかも彼は耳を貸そうともしなかった。そして彼らの言葉のうちにはうめきの声が交じっていたが、彼はそれに耳を傾けようともしなかった。彼の頭は他にあって、夢想に、不可能の光輝に、空漠《くうばく》たる愛に、熱狂に向いていた。しかるに一方では、同じ人間が、イエス・キリストを通じての同胞が、民衆としての同胞が、彼のそばに苦しんでいた。甲斐《かい》なき苦しみをしていた。その上彼は、彼らの不幸の一部を助成し、彼らの不幸をいっそう重くしていた。なぜなれば、彼らがもし他の隣人を持っていたならば、彼よりもいっそう非空想的で注意深い隣人を持っていたならば、普通の恵み深い人を持っていたならば、必ずや彼らの困窮はその人の認むるところとなり、彼らの窮迫のありさまはその人の気づくところとなって、既に久しい前から彼らは収容せられ救われていたかも知れない。もとより彼らの様子は、きわめて退廃し、腐敗し、汚れ、嫌悪《けんお》すべきものとはなっていたけれど、しかし零落したる者は多く堕落するが常である。その上、不運なる者と汚れたる者という二つが混合し融合して、一つの宿命的な言葉、惨《みじ》めなる者という一語を成すがような一点が、世にはある。そしてそれもだれの誤ちであるか? そしてまた、その堕落が底深ければ深いほどいっそう大なる慈悲を与うべきではないか。
 そうマリユスは自ら訓戒した。時として彼は、真に正直な人に見らるるように、自ら自分の教訓師となり、過度に自分を叱責《しっせき》することがあった。で今やそうしながら、ジョンドレットの一家をへだてる壁をじっと見守った。あたかも彼は、憐愍《れんびん》の情に満ちてる目でその壁を貫き、その不幸な人々をあたためんとしてるかのようだった。壁は割り板と角材とでささえた薄い漆喰《しっくい》で、前に言ったとおり、言葉と声音とをはっきり通さしていた。今までそれに気づかなかったとは、マリユスもよほどの夢想家だったに違いない。ジョンドレットの方にもまたマリユスの方にも、何らの壁紙もはってなかった。粗末な構造が露わに見えていた。マリユスはほとんど自ら知らないで、その壁を調べてみた。時としては夢想も思想がなすように物を調べ観察し精査する。マリユスは突然飛び上がった。高く天井に近い所に、三枚の割り板がよく合わないでできてる三角形の穴が一つあるのを、気づいたのである。そのすき間をふさいでいたはずの漆喰はなくなっていた。戸棚の上に上れば、そこからジョンドレットのきたない室の中は見られる。哀憐《あいれん》の情にも、好奇心があり、またあるべきはずである。そのすき間は一種ののぞき穴になっていた。不運を救わんがためには、それをひそかにながめることも許される。「彼らはどういう者であるか、またどんな状態でいるか、少し見てやろう、」とマリユスは考えた。
 彼は戸棚の上にはい上がり、瞳《ひとみ》を穴にあてがい、そしてながめた。

     六 巣窟《そうくつ》中の蛮人

 都市にも森林と同じく、その最も猛悪なる者が身を隠してる洞窟《どうくつ》がある。ただ都市にあっては、かく身を隠す者は、獰猛《どうもう》で不潔で卑小で、一言にして言えば醜い。森林にあっては、身を隠す者は、獰猛で粗野で偉大で、一言にして言えば美しい。両者の巣窟を比ぶれば、野獣の方が人間よりもまさっている。洞窟は陋屋《ろうおく》よりも上である。
 マリユスが見たところのものは一つの陋屋であった。
 マリユスは貧乏でその室《へや》はみすぼらしかった。それでも彼の貧乏は気高く、彼の室は清潔だった。ところが彼が今のぞき込んだ部屋は、賤《いや》しく、きたなく、臭く、不健康で、薄暗く、嫌悪《けんお》すべきものだった。家具としてはただ、一脚の藁椅子《わらいす》、こわれかかった一個のテーブル、数個の欠けた古壜《ふるびん》、それから両すみにある名状すべからざる二つの寝床。明りとしてはただ、蜘蛛《くも》の巣の張りつめた四枚ガラスの屋根裏の窓。その軒窓からは、人の顔を幽霊の顔くらいに見せるわずかな光が差し込んでいた。壁は癩病《らいびょう》やみのようなありさまを呈し、種々の傷跡がいっぱいあって、あたかも恐ろしい病のために相好をくずされたかのようだった。じめじめした気がそこからにじみ出していた。木炭で書きなぐった卑猥《ひわい》な絵が見えていた。
 マリユスが借りてる室《へや》には、とにかくどうにか煉瓦《れんが》が敷いてあった。ところがその室には、石も敷いてなければ板も張ってなかった。人々は黒く踏みよごされた古い漆喰《しっくい》の上をじかに歩いていた。そのでこぼこの床の上には、ほこりがこびりついて、かつて箒《ほうき》をあてられたこともなく、古い上靴《うわぐつ》や靴やきたないぼろなどがあちこちに取り散らされていた。でも室には暖炉が一つあって、そのために借料が年に四十フランだったのである。暖炉の中には種々なものがはいっていた、火鉢《ひばち》、鍋《なべ》、こわれた板、釘《くぎ》にかかってるぼろ、鳥籠《とりかご》、灰、それから少しの火まで。二本の燃えさしの薪《まき》が、寂しげにくすぶっていた。
 室の惨状を一段と加えるものは、それが広いことだった。つき出た所や、角になってる所や、暗い穴になってる所があり、高低の屋根裏や湾や岬《みさき》があった。そのために底の知れぬ恐ろしいすみずみができて、拳《こぶし》のように大きな蜘蛛《くも》や、足のような大きな草鞋虫《わらじむし》や、あるいはまた何か怪物のような人間までが、そこにうずくまっていそうだった。
 寝床の一つは扉《とびら》の近くにあり、一つは窓の近くにあった。二つともその片端は暖炉に接していて、マリユスの正面になっていた。
 マリユスがのぞいてる穴の隣のすみには、黒い木の枠《わく》にはいった色刷りの版画が壁にかかっていた。その下の端には「夢」と大字で書かれていた。それは眠ってる女と子供とを描いたもので、子供は女の膝《ひざ》の上に眠っていて、一羽の鷲《わし》が嘴《くちばし》に王冠をくわえて雲の中を舞っており、女はなお眠ったまま子供の頭にその王冠のかぶさらないようにと払いのけていた。遠景には、栄光に包まれたナポレオンが、黄色い柱頭のついてる青い大きな円柱によりかかっていたが、その円柱には次の文字が刻まれていた、「マレンゴー、アウステルリッツ、イエナ、ワグラム、エロット。」
 その額縁の下の方には、長めの一種の鏡板が下に置かれて、斜めに壁に立てかけてあった。裏返された画面、おそらく向こう側に書きなぐってある額面か、あるいは壁から取りはずされてそのままはめ込むのが忘られた姿鏡のようでもあった。
 テーブルの上にはマリユスはペンとインキと紙とを認めたが、その前には、六十歳ばかりの男がすわっていた。男は背が低く、やせて、色を失い、荒々しく、狡猾《こうかつ》で残忍で落ち着かない様子であって、一言にして言えば嫌悪《けんお》すべき賤奴《せんど》だった。
 もしラヴァーテル([#ここから割り注]訳者注 人相学の開祖[#ここで割り注終わり])がその面相を見たならば、禿鷹《はげたか》と代言人との混同した相をそこに見いだしたであろう。肉食の鳥と訴訟の男とは、互いに醜くし合い互いに補い合って、訴訟の男は肉食の鳥を野卑にし、肉食の鳥は訴訟の男を恐ろしくなしていた。
 その男は長い半白の髯《ひげ》をはやしていた。女のシャツを着ていたが、そのために毛むくじゃらの胸と灰色の毛が逆立ってる裸の腕とが見えていた。そのシャツの下には、泥まみれのズボンが見え、また足指のはみ出た長靴《ながぐつ》も見えていた。
 彼は口にパイプをくわえ、それをくゆらしていた。部屋の中にはもう一片のパンもなかったが、それでも煙草《たばこ》だけはあった。
 彼は何か書いていたが、おそらくマリユスが先刻読んだような手紙であろう。
 テーブルの片端には、赤っぽい古い端本《はほん》が一冊見えていた。書籍縦覧所の古い十二折型の体裁から見ると、それは小説の本らしかった。表紙には太い大文字で次の書名が刷ってあった。「神、王、名誉、および婦人。デュクレー・デュミニル著。一八一四年。」
 物を書きながら男は大声に口をきいていた。マリユスはその言葉を聞き取った。
「死んだからって平等ということはねえんだ! ペール・ラシェーズの墓地を見てみろ。身分のある奴《やつ》らのは、金のある奴らのは、上手《かみて》の石の舗《し》いてあるアカシヤの並み木道にある。そこまで馬車で行けるんだ。身分の低い者、貧乏な者、不幸な者、なんかのはどうだ。みな下手《しもて》にある。泥が膝《ひざ》までこようって所だ、穴の中だ、じめじめしてる所だ。早く腐るようにそんな所へ入れられるんだ。墓まいりをするったって、地の中へめいり込むようにしなけりゃ行かれやしねえ。」
 そこで彼はちょっと言葉を切って、拳《こぶし》でテーブルの上をたたき、歯ぎしりしながら付け加えた。
「ええ、世界中を食ってもやりてえ!」
 四十歳くらいともまた百歳くらいとも見える太い女が、跣足《はだし》で暖炉のほとりにかがんでいた。
 女もただ、シャツ一枚と、古ラシャのつぎのあたったメリヤスの裳衣一枚をつけてるだけだった。粗布の前掛けが裳衣の半ばを隠していた。彼女は腰を折ってかがんではいたが、背はごく高そうに見えた。亭主と比ぶれば大女だった。白髪交じりの赤茶けたきたない金髪を持っていたが、爪の平たい艶《つや》のある大きな手でそれを時々かき上げていた。
 女のそばには、一冊の書物が開いたまま下に置いてあった。テーブルの上のと同じ体裁で、おそらく同じ小説の続きででもあろう。
 一方の寝床の上には、身体の細長い色の青い小娘が腰掛けてるのが見えていた。半裸体のままで、足をぶら下げ、何も聞きも見もせずまた生きてもいないような様子だった。
 確かに、マリユスの所へやってきた娘の妹に違いない。
 年齢は十一か十二くらいに見えた。しかしよく注意して見ると、十五歳にはなってるらしかった。前後大通りで「ただもう一目散よ[#「ただもう一目散よ」に傍点]」と言ったのは、その娘だった。
 彼女は長く小さいままでいてそれから急ににわかに伸びてゆく虚弱なたちの子供だった。赤貧がそういう哀れな人間を作り出すのである。彼らには幼年時代も少女時代もない。十五歳でまだ十二歳くらいに見え、十六歳では既に二十歳くらいにも見える。今日は小娘で、明日ははや一人前の女である。あたかも一生を早く終えんがために年をまたぐかのようである。
 今のところまだその娘は、子供の様子をしていた。
 それからまた、その住居のうちには何ら仕事をしてるさまも見えなかった。何かの機械もなく、糸取り車もなく、何らの道具もなかった。ただ片すみに、怪しい鉄片が少しばかりあった。そういう陰鬱《いんうつ》な怠慢こそ、絶望の後にきたり、死の苦しみの前に来るものである。
 マリユスはしばしその惨憺《さんたん》たる室の内部をながめていた。それは墓の内部よりもいっそう恐ろしいものだった。そこでは、人の魂がうごめき人の生命があえいでるのが感じられるのだった。
 屋根裏の部屋、窖《あなぐら》、社会の最下層をはいまわるある貧人らがいる賤《いや》しい溝、それはまったくの墓場ではなく、むしろ墓場の控え室である。しかしながら、富者らがその邸宅の入り口に最も華美をつくすがように、貧者らのすぐそばにある死も、その玄関に最大の悲惨をこらすがように思われる。
 男は黙ってしまい、女は口もきかず、若い娘は息さえもしていないようだった。ただ紙の上をきしるペンの音ばかりが聞こえていた。
 やがて男は書く手を休めずつぶやいた。
「愚だ、愚だ、すべて愚だ!」
 ソロモンの警語([#ここから割り注]訳者注 空なるかな空なるかなすべて空なり![#ここで割り注終わり])をそのまま言いかえたその言葉に、女はため息をもらした。
「お前さん、いらいらしなさんなよ。」と彼女は言った。「身体でも悪くしちゃつまらないよ、あんた。あんな人たちにだれかまわず手紙を書くなんて、うちの人もあまり気がよすぎるというものよ。」
 悲惨のうちにあると、寒気のうちにいるように、人は互いに身体を近寄らせるが、心は互いに遠ざかるものである。この女はうち見たところ、心のうちにある愛情の限りをつくして亭主を愛していたらしいが、一家の上に押っかぶさった恐ろしい赤貧から来る互いの日々の口論のうちに、その愛も消えうせてしまったのであろう。亭主に対してはもはや愛情の灰のみしか、彼女のうちには残っていなかった。けれども、よく世にあるとおり、やさしい呼び方だけは消えずに残っていた。彼女はいつも亭主に言った。あんた、お前さん、うちの人、などと。それも心は黙っているのにただ口の先だけで。
 男はまた書き初めていた。

     七 戦略と戦術

 マリユスは胸をしめつけられるような思いがして、間に合わせのその一種の観測台からおりようとした。その時ある物音が聞こえたので、彼は気をひかれてそこに止まっていた。
 部屋の扉《とびら》が突然開かれたのだった。
 姉娘が閾《しきい》の所に現われた。
 足には太い男の靴《くつ》をはき、靴から赤い踝《くるぶし》の所まで泥をはね上げ、身にはぼろぼろの古いマントを着ていた。一時間前マリユスが見た時はそのマントを着ていなかったが、それはおそらく彼の同情をひかんがために扉《とびら》の所に置いてきて、出しなにまた着て行ったものであろう。彼女ははいってき、後ろに扉を押し閉ざし、息を切らしてるのでちょっと立ち止まって休み、それから勝ちほこった喜悦の表情をして叫んだ。
「来るよ!」
 父は目をその方に向け、女房は顔をその方に向けたが、妹は身動きもしなかった。
「だれが?」と父は尋ねた。
「旦那《だんな》がよ。」
「あの慈善家か。」
「そうよ。」
「サン・ジャック会堂の?」
「そうよ。」
「あの爺《じい》さんか?」
「そうよ。」
「それが来るのか。」
「今あたしのあとから来るのよ。」
「確か。」
「確かよ。」
「では本当にあれが来るのか。」
「辻馬車《つじばしゃ》で来るわ。」
「辻馬車で。ロスチャイルドみたいだな。」
 父は立ち上がった。
「どうして確かだってことがわかるんだ。辻馬車で来るんなら、どうしてお前の方が先にこられたんだ。少なくもうちの所だけは言っておいたろうね。廊下の一番奥の右手の戸だとよく言ったのか。まちがわなけりゃいいがな。でお前は教会堂で会ったんだね。手紙は読んでくれたのか。お前に何と言った。」
「まあまあお父さん!」と娘は言った。「何でそうせき立てるのよ。こうなんだよ。あたしが教会堂にはいると、向こうはいつもの所にいた。あたしはおじぎをしてね、手紙を渡してやったのさ。向こうはそれを読んでくれてね、私にきくのよ、『お前さんはどこに住んでいますか、』って。『旦那様《だんなさま》、私が御案内しましょう、』と答えると、こういったのよ。『いや所を知らしておくれ。娘が買い物をしなければならないから、私はあとから馬車に乗って、お前さんと同じくらいに着くようにする。』それであたしは所を知らしてやったわ。家を知らせると、向こうはびっくりして、ちょっともじもじしてるようだったが、それからこう言ったの。『とにかく、私が行くから。』弥撒《ミサ》がすんでからあたしは、あの人が娘といっしょに教会堂から出るのを見たわ、それから辻馬車に乗る所も。あたしちゃんと、廊下の一番奥の右手の戸だって言っておいたよ。」
「それでもどうしてきっと来ることがわかるんだ。」
「馬車がプティー・バンキエ街へ来るのを見たのよ。だから駆けてきたんだわ。」
「どうしてその馬車だってことがわかる?」
「ちゃんと馬車の番号を見といたんだよ。」
「何番だ。」
「四百四十番よ。」
「よしお前は悧巧《りこう》な娘《こ》だ。」
 娘はまじまじと父を見つめ、そして足にはいてる靴《くつ》を見せながら言った。
「悧巧《りこう》な娘かも知れないわ。だがあたしはもうこんな靴はごめんよ、もうどうしたっていやよ。第一|身体《からだ》に悪いし、その上みっともないわ。底がじめじめして、しょっちゅうぎいぎい言うのくらい、いやなものったらありはしない。跣足《はだし》の方がよっぽどましだわ。」
「もっともだ。」と父は答えた。そのやさしい調子は娘の荒々しい言い方と妙な対照をなしていた。「だが教会堂へは靴をはかなくちゃはいれねえからな。貧乏な者だって靴をはかなきゃならねえ。神様の家へは跣足では行かれねえよ。」と彼は苦々《にがにが》しくつけ加えた。それからまた頭を占めてる問題に返って言った。「ではきっと来るんだな?」
「すぐあたしのあとにやって来るよ。」と娘は言った。
 男は身を起こした。顔には一種の輝きがあった。
「おいお前、」と彼は叫んだ、「聞いたか。今慈善家が来るんだ。火を消しておけよ。」
 女房はあきれ返って身動きもしなかった。
 父親は軽業師《かるわざし》のようにすばやく、暖炉の上にあった口の欠けた壺《つぼ》を取り、燃えさしの薪の上に水をぶちまけた。
 それから姉娘の方へ向いて言った。
「お前は椅子《いす》の藁《わら》を抜くんだ。」
 娘はそれが何のことだかわからなかった。
 父は椅子をつかみ、踵《かかと》で一蹴《ひとけ》りして、腰掛け台の藁を抜いてしまった。彼の足はそこをつきぬけた。足を引きぬきながら、彼は娘に尋ねた。
「今日は寒いか。」
「大変寒いわ。雪が降ってるよ。」
 父は窓の近くの寝床にすわってた妹娘の方を向いて、雷のような声で怒鳴った。
「おい、寝床からおりろ、なまけ者が。いつもつくねんとしてばかりいやがる。窓ガラスでもこわせ。」
 娘は震えながら寝床から飛びおりた。
「窓ガラスをこわせったら!」と父はまた言った。
 娘は呆気《あっけ》に取られて立っていた。
「わからねえのか。」と父はくり返した。「窓ガラスを一枚こわせと言うんだ。」
 娘はただ恐ろしさのあまり父の言葉に従って、爪先で背伸びをし、拳《こぶし》をかためて窓ガラスを打った。ガラスはこわれて、大きな音をして下に落ちた。
「よし。」と父は言った。
 彼は着実でまた性急だった。部屋のすみずみまで急いで見回した。
 彼の様子はちょうど、戦争が初まろうとする時に当たって、早くも最後の準備をする将軍のようだった。
 それまで一言も口をきかなかった母親は、ようやく立ち上がって、ゆっくりした重々しい声で尋ねた。その言葉は凍って出て来るかのようだった。
「あんた、何をするつもりだね?」
「お前は寝床に寝ていろ。」と男は答えた。
 その調子は考慮の余地を人に与えなかった。女房はそれに従って、寝床の上に重々しく身を横たえた。
 そのうちに、片すみですすり泣く声がした。
「何だ?」と父親は叫んだ。
 妹娘はなおすみっこにうずくまったまま、血にまみれた拳《こぶし》を出して見せた。窓ガラスをこわす時けがしたのである。彼女は母親の寝床のそばに行って、黙って泣いている。
 こんどは母親が身を起こして叫んだ。
「まあごらんよ。何てばかなことをさせたもんだね。ガラスなんかこわさしたから手を切ったんじゃないか。」
「その方がいい。」と男は言った。「初めからそのつもりだ。」
「なんだって、その方がいいって?」と女は言った。
「静かにしろ!」と男は答え返した。「俺は言論の自由を禁ずるんだ。」
 それから彼は自分が着ていた女のシャツを引き裂いて、細い布片をこしらえ、それで娘の血にまみれた拳《こぶし》を急いで結わえた。
 それがすむと、彼は満足げな目つきで自分の裂けたシャツを見おろした。
「おまけにシャツもだ。」と彼は言った。「なかなかいい具合に見える。」
 凍るような風が窓ガラスに音を立てて、室《へや》の中に吹き込んできた。外の靄《もや》も室にはいってきて、目に見えない指でぼーっとほごされるほの白い綿のようにひろがっていった。ガラスのこわれた窓からは、雪の降るのが見られた。前日聖燭節の太陽で察せられた寒気が、果たしてやってきたのである。
 父親はぐるりとあたりを見回して、何か忘れたものはないかと調べてるようだった。それから、古い十能を取上げて湿った薪《たきぎ》の上に灰をかぶせ、すっかりそれを埋めてしまった。
 それから立ち上がって、暖炉に寄りかかって言った。
「さあこれで慈善家を迎えることができる。」

     八 陋屋《ろうおく》の中の光

 姉娘は父親の所へ寄ってきて、彼の手の上に自分の手を置いた。
「触《さわ》ってごらん、こんなに冷いわ。」と彼女は言った。
「なあんだ、」と父は答えた、「俺《おれ》の方がもっと冷い。」
 母親は性急に叫んだ。
「お前さんはいつでもだれよりも上だよ、苦しいことでもね。」
「黙ってろ。」と男は言った。女は一種のにらみ方をされて黙ってしまった。
 陋屋《ろうおく》の中は一時静まり返った。姉娘は平気な顔をしてマントの裾《すそ》の泥を落としていた。妹の方はなお泣き続けていた。母親は両手に娘の頭を抱えてやたらに脣《くちびる》をつけながら、低くささやいていた。
「いい児だからね、泣くんじゃないよ、何でもないからね。泣くとまたお父さんに怒られるよ。」
「いやそうじゃねえ。」と父は叫んだ。「泣け、泣け。泣く方がいいんだ。」
 それから彼は姉娘の方へ向いて言った。
「どうしたんだ、こないじゃねえか。こなかったらどうする。火は消す、椅子《いす》はこわす、シャツは裂く、窓ガラスはこわす、そして一文にもならねえんだ。」
「おまけに娘にはけがをさしてさ!」と母親はつぶやいた。
「おい、」と父親は言った、「この屋根はべらぼうに寒いじゃねえか。もしこなかったらどうするんだ。これはまた何て待たせやがるんだ。こうも思ってるんだろう、『なあに待たしておけ、それがあたりまえだ!』本当にいまいましい奴らだ。締め殺してでもやったら、どんなにいい気持ちでおもしろくて溜飲《りゅういん》が下がるかわからねえ。あの金持ちの奴らをよ、みんな残らずさ。どいつもこいつも慈悲深そうな顔をしやがって、体裁ばかりつくりやがって、弥撒《ミサ》には行くし、坊主には物を送ったり阿諛《おべっか》を使ったりしやがる。そのくせ俺《おれ》たちより上の者だと思い込んで、恥をかかせにやってきやがる。着物を施すなんて言いながら、四スーも出せばつりがこようっていうぼろを持ってくるし、それにまたパンとくるんだ。そんなもの俺は欲しくもねえ。皆わからずやばかりだ。俺《おれ》が欲しいなあ金だ。ところが金ときては一文も出しやがらねえ。金をくれても飲んでしまうと言ってやがる。俺たちは酒飲みでなまけ者だと言ってやがる。そして御当人は! 奴らはいったい何だい。若《わけ》え時には何をしてきたんだい。泥坊じゃねえか。そうででもなけりゃあ金持ちになれるわけはねえ。ええ、世間は四すみから持ち上げて、すぽっと投げ出しちまうがいい。みんなつぶれっちまうかも知れねえ。つぶれなくっても、皆無一文になるわけだ。それだけ儲《もう》けものだ。――だがあの慈善家のばか野郎、いったい何をしてるんだ。本当に来るのか。ことによると番地を忘れたかな。あの爺《じじい》の畜生め……。」
 その時軽く扉《とびら》をたたく音がした。男は飛んでいって扉を開き、うやうやしくおじぎをし、景慕のほほえみを浮かべて、叫んだ。
「おはいり下さい。御親切な旦那《だんな》、また美しいお嬢様も、どうかおはいり下さい。」
 年取ったひとりの男と若いひとりの娘とが、その屋根部屋の入り口に現われた。
 マリユスはまだのぞき穴の所を去っていなかった。そして今彼が受けた感じは、とうてい人間の言葉をもっては現わせない。
 現われたのは実に彼女[#「彼女」に傍点]だった。
 およそ恋をしたことのある者は「彼女」という語の二字のうちに含まれる光り輝く意味を知っているであろう。
 まさしく彼女であった。マリユスは突然眼前にひろがった光耀《こうよう》たる霧を通して、ほとんど彼女の姿を見分けることができないくらいだった。がそれはまさしく、姿を隠したあのやさしい娘だった、六カ月の間彼に輝いていたあの星だった、あの瞳《ひとみ》、あの額、あの口、消え去りながら彼を暗夜のうちに残したあの美しい顔だった。その面影は一度見えなくなったが、今また現われたのである。
 その面影は再び、この影の中に、この屋根部屋《やねべや》の中に、この醜い陋屋《ろうおく》の中に、この恐ろしい醜悪の中に、現われきたったのである。
 マリユスは我を忘れておののいた。ああまさしく彼女である! 彼は胸の動悸《どうき》のために目もくらむほどだった。まさに涙を流さんばかりになった。ああ、あれほど長くさがしあぐんだ後ついにめぐり会おうとは! 彼はあたかも、自分の魂を失っていたのをまた再び見いだしたような気がした。
 彼女はやはり以前のとおりで、ただ少し色が青くなってるだけだった。その妙《たえ》なる顔は紫ビロードの帽子に縁取られ、その身体は黒繻子《くろじゅす》の外套《がいとう》の下に隠されていた。長い上衣の下からは絹の半靴《はんぐつ》にしめられた小さな足が少し見えていた。
 彼女はやはりルブラン氏といっしょだった。
 彼女は室《へや》の中に数歩進んで、テーブルの上にかなり大きな包みを置いた。
 ジョンドレットの姉娘は、扉《とびら》の後ろに退いて、そのビロードの帽子、その絹の外套、またその愛くるしい幸福な顔を、陰気な目つきでながめていた。

     九 泣かぬばかりのジョンドレット

 部屋はきわめて薄暗かったので、外からはいってくるとちょうど窖《あなぐら》へでもはいったような感じがする。それで新来のふたりは、あたりのぼんやりした物の形を見分けかねて、少しく躊躇《ちゅうちょ》しながら進んできた。しかるに家の者らは、屋根裏に住む者の常として薄暗がりになれた目で、彼らの姿をすっかり見て取ることができて、じろじろうちながめていた。
 ルブラン氏は親切そうなまた悲しげな目つきで近づいてきて、ジョンドレットに言った。
「さあこの包みの中に、新しい着物と靴足袋《くつたび》と毛布とがはいっています。」
「神様のような慈悲深いお方、いろいろありがとう存じます。」とジョンドレットは頭を床にすりつけんばかりにして言った。――それから、ふたりの客があわれな部屋《へや》の内部を見回してる間に、彼は姉娘の耳元に身をかがめて、低く口早に言った。
「へん、俺が言ったとおりじゃねえか。ぼろだけで、金は一文もくれねえ。奴《やつ》らはみんなそうだ。ところでこの老耄《おいぼれ》にやった手紙には、こちらの名前は何として置いたっけな。」
「ファバントゥーよ。」と娘は答えた。
「うむ俳優だったな、よし。」
 それを思い出したのはジョンドレットに仕合わせだった。ちょうどその時ルブラン氏は、彼の方へ向いて、名前を思い出そうとしてるような様子で彼に言った。
「なるほどお気の毒です、ええと……。」
「ファバントゥーと申します。」ジョンドレットは急いで答えた。
「ファバントゥー君と、なるほどそうでしたな、ええ覚えています。」
「俳優をしていまして、元はよく当てたこともございますので。」
 そこでジョンドレットは、この慈善家を捕うべき時がきたと思い込んだ。で彼は、市場香具師《いちばやし》のような大げさな調子と大道乞食《だいどうこじき》のような哀れな調子とをないまぜた声で叫んだ。「タルマの弟子《でし》でございます、旦那《だんな》、私はタルマの弟子でございます。昔は万事都合がよろしゅうございましたが、只今では誠に不運な身の上になりました。旦那ごらん下さいまし、パンもなければ火もございません。ただ一つの椅子《いす》は藁《わら》がぬけ落ちています。こんな天気に窓ガラスはこわれています。それに家内まで寝ついていまして、病気なのでございます。」
「御気の毒に。」とルブラン氏は言った。
「子供までけがをしています。」とジョンドレットは言い添えた。
 小娘は知らない人がきたのに紛らされて、「お嬢様」をながめながら泣きやんでいた。
「泣けったら、大声に泣けよ。」とジョンドレットは彼女に低くささやいた。
 と同時に彼はそのけがした手をつねった。彼はそれらのことを手品師のような早業《はやわざ》でやってのけた。
 娘は大声を立てた。
 マリユスが心のうちで「わがユルスュール」と呼んでいた美しい若い娘は、すぐにその方へやっていった。
「まあかわいそうなお子さん!」と彼女は言った。
「お嬢様、」とジョンドレットは言い進んだ、「この血の出ている手首をごらん下さいまし。日に六スーずつもらって機械で仕事をしていますうちに、こんなことになりました。あるいは腕を切り落とさなければならないかも知れませんのです。」
「そうですか。」と老人は驚いて言った。
 小さな娘はその言葉を本気に取って、いかにもうまく泣き出した。
「全くのことでございまして、実にどうも!」と父親は答えた。
 しばらく前からジョンドレットは、その慈善家を変な様子でじろじろながめていた。口をききながらも、何か記憶を呼び起こそうとでもするように、注意して彼の様子を探ってるらしかった。そして新来のふたりが小娘にその負傷した手のことを同情して尋ねてる間に乗じて、彼は突然、ぼんやりした元気のない様子で寝床に横たわってる女房のそばへ行き、低い声で言った。
「あの男をよく見ておけ!」
 それからルブラン氏の方を向き、哀れな状態を口説き続けた。
「旦那《だんな》、ごらんのとおり私は、着る物とては家内のシャツ一枚きりでございまして、それもこの冬の最中にすっかり破れ裂けています。着物がないので外に出られないような始末でございます。着物一枚でもありましたら、私はマルス嬢(訳者注 当時名高い女優)の所へでも行くのでございますが。嬢は私を知っていましてごく贔屓《ひいき》にしてくれます。まだトゥール・デ・ダーム街に住んでるのでございましょうか。旦那も御存じですかどうか、私は嬢といっしょに田舎《いなか》で芝居を打ったことがあります。私もいっしょに大成功でございました。で只今でもセリメーヌ([#ここから割り注]訳者注 モリエールの喜劇中の人物で機才ある美人――マルス嬢をさす[#ここで割り注終わり])は、きっと私を救ってくれますでしょう。エルミールはベリゼールに物を恵んでくれますでしょう(訳者注 前者はモリエールの喜劇中の人物で正直なる婦人、後者は伝説中の人物で零落せる将軍。――マルス嬢とジョンドレット自身とを指す)。ですがこの姿ではどうにもできません。その上一文の持ち合わせもありません。まったく家内が病気なのに無一文なのでございます。娘がひどいけがをしているのに無一文なのでございます。家内は時々息がつまります。年齢《とし》のせいでもございましょうが、また神経も手伝っています。どうにかいたさなくてはなりません。また娘の方も同様で。と申して、医者も薬も、どうして払いましょう、一文もありません。ですからまあわずかなお金でも跪《ひざまず》いて押しいただくような始末でございます。芸術なんていうものもこうなってはみじめなものでございます。美しいお嬢様、それから御親切な旦那様《だんなさま》、さようではございませんか。あなた方は徳と親切とを旨《むね》とされて、いつも教会堂へおいででございますが、私のかわいそうな娘もまた教会堂へお祈りに参っていますので、毎日お姿をお見かけいたしております。私は娘どもを宗教のうちに育てたいのでございます。芝居へなんぞはやりたくないと思いましたので。賤《いや》しい者の娘はえてつまずきやすいものでございます。私はつまらないことは決して聞かせません。いつも名誉だの道徳だの徳操だのを説いてきかせています。娘どもに尋ねてもみて下さいませ。まっすぐの道を歩かなければなりません。娘どもは父として私をいただいています。ちゃんとした家庭を持たぬのがはじまりで、しまいには賤しい稼《かせ》ぎに身を落とすような不幸な者どもではございません。家なしの娘からだれかまわずの夫人となるのが常であります。ですが、ファバントゥーの一家にはそんな者はひとりもありません。私は娘どもをりっぱに教育したいのでありまして、ただ正直になるように、温順になるように、尊い神様を信ずるようにと願っております。――それから旦那、りっぱな旦那様、私どもが明日どんなことになるかは御承知でもございますまい。明日は二月四日で、いよいよの日でございます。家主に待ってもらった最後の日でございます。もし今晩払いをしませんと、明日は、姉娘と、私と、熱のある家内と、けがをしている子供と、私ども四人はここから外に、往来に、追い出されてしまいまして、宿もなく、雨の中を、雪の中を、路頭に迷わなければなりません。かようなわけでございます、旦那様。四期分の、一年分の、借りがあるのでございまして、六十フランになっております。」
 ジョンドレットは嘘《うそ》を言った。家賃は四期で四十フランにしかならないはずであるし、またマリユスが二期分を払ってやってから六カ月しかたっていないので、四期分の借りができてるわけもなかった。
 ルブラン氏はポケットから五フランを取り出して、それをテーブルの上に置いた。
 ジョンドレットはそのわずかな暇に姉娘の耳にささやいた。
「ばかにしてる、五フランばかりでどうしろっていうのか。椅子《いす》とガラスの代にもならねえ。せめて入費《いりめ》ぐらいは置いてくがあたりまえだ。」
 その間にルブラン氏は、青いフロックの上に着ていた大きな褐色《かっしょく》の外套《がいとう》をぬいで、それを椅子の背に投げかけた。
「ファバントゥー君、」と彼は言った、「私は今五フランきり持ち合わせがないが、一応娘を連れて家に帰り、今晩またやってきましょう。払わなければならないというのは今晩のことですね……。」
 ジョンドレットの顔は不思議な色に輝いた。彼は元気よく答えた。
「さようでございます、尊い旦那様《だんなさま》。八時には家主の所へ持って参らなければなりません。」
「では六時にやってきます、そして六十フラン持ってきましょう。」
「ほんとに御親切な旦那様!」とジョンドレットは夢中になって叫んだ。
 そしてすぐに彼は低く女房にささやいた。
「おい、あいつをよく見ておけよ。」
 ルブラン氏は若い美しい娘の腕を取って、扉《とびら》の方へ向いた。
「では今晩また、皆さん。」と彼はいった。
「六時でございますか。」とジョンドレットはきいた。
「正六時に。」
 その時、椅子《いす》の上にあった外套《がいとう》がジョンドレットの姉娘の目に止まった。
「旦那《だんな》、」と彼女は言った、「外套をお忘れになっています。」
 ジョンドレットは恐ろしく肩をそばだて、燃えるような目つきで娘をじろりとにらめた。
 ルブラン氏はふり返って、ほほえみながら答えた。
「忘れたのではありません。それは置いてゆくのです。」
「おお私の恩人様、」とジョンドレットは言った、「実に情け深い旦那様、私は涙がこぼれます。せめて馬車までお供さして下さいませ。」
「外に出るなら、」とルブラン氏は言った、「その外套をお着なさい。ひどく寒いですよ。」
 ジョンドレットは二言と待たなかった。彼はすぐにその褐色《かっしょく》の外套を引っかけた。
 そしてジョンドレットが先に立って、三人は室《へや》を出て行った。

     十 官営馬車賃――一時間二フラン

 マリユスはその光景をすっかりながめた。しかし実際は何もはっきり見て取ることはできなかった。彼の目は若い娘の上に据えられており、彼の心は、彼女がその室に一歩ふみ込むや否や、言わば彼女をつかみ取り彼女をすっかり包み込んでしまっていた。彼女がそこにいる間、彼はまったく恍惚《こうこつ》たる状態にあって、あらゆる物質的の知覚を失い、全心をただ一点に集注していた。彼がながめていたものはその娘ではなくて、繻子《しゅす》の外套《がいとう》とビロードの帽子とをつけた光明そのものだった。シリウス星が室《へや》の中にはいってきたとしても、彼はそれほど眩惑《げんわく》されはしなかったであろう。
 若い娘が包みを開き、着物と毛布とをそこにひろげ、病気の母親に親切な言葉をかけ、けがした娘にあわれみの言葉をかけてる間、彼はその一挙一動を見守り、その言葉を聞き取ろうとした。その目、その額、その美貌《びぼう》、その姿、その歩き方を彼は皆知っていたが、その声の音色はまだ知らなかった。かつてリュクサンブールの園でその数語を耳にしたように思ったこともあったが、それも確かにそうだとはわからなかった。そしてもし彼女の声をきくならば、その音楽の響きを少しでも自分の心のうちにしまい込むことができるならば、十年ほど自分の生命を縮めても惜しくないとまで思った。けれどもジョンドレットの哀願の声やラッパのような嘆声に、彼女の声はすっかり消されてしまった。マリユスは狂喜とともに憤怒の情をさえ覚えた。彼は目の中に彼女の姿を包み込んでいた。その恐ろしい陋屋《ろうおく》のうちの怪物どもの間に、神聖なる彼女を見いだそうとは、夢にも思いがけないことだった。彼は蟇《がま》の間に蜂雀《ほうじゃく》を見るような気がした。
 彼女が出て行った時、彼はただ一つのこときり考えなかった、すなわち、そのあとに従い、その跡をつけ、住所を知るまでは決して離れず、少なくともかく不思議にもめぐり会った以上はもはや決して見失うまいということ。で彼は戸棚《とだな》から飛びおり、帽子を取った。そして扉《とびら》のとっ手に手をかけまさに外に出ようとした時、ふと足を止めて考えた。廊下は長く、階段は急であり、その上ジョンドレットは饒舌《おしゃべり》だから、ルブラン氏はまだおそらく馬車に乗ってはいないだろう。もしルブラン氏が、廊下でか階段でかまたは門口の所でふり返って、この家の中に自分がいることに気づきでもしようものなら、きっと警戒して再び自分からのがれようとするだろう。そしてそれでまた万事おしまいである。何としたらいいものか。少し待つとしようか。しかし待ってる間に、馬車は走り去ってしまうかも知れない。マリユスはまったく困惑した。がついに彼は危険をおかして室《へや》を出た。
 もう廊下にはだれもいなかった。彼は階段の所へ走っていった。階段にもだれもいなかった。大急ぎで階段をおり、大通りに出ると、ちょうど馬車がプティー・バンキエ街の角《かど》を曲がって市中へ帰ってゆくのが見えた。
 マリユスはその方へ駆けていった。大通りの角までゆくと、ムーフタール街を走り去る馬車がまた見えた。しかしもうよほど遠くなので、とうてい追っつけそうもなかった。後を追って駆け出す、そんなこともできない。その上、足にまかして追っかける者があれば馬車の中からよく見えるので、老人はすぐに自分だということに気づくに違いない。しかしちょうどその時、思いがけなくもふとマリユスは、官営馬車が空《から》のままで大通りを過ぎるのを認めた。今はもう、その馬車に乗って先の馬車の跡をつけるよりほかに方法はなかった。そうすれば安心で確実でまた危険の恐れもない。
 マリユスは手を挙げて御者を呼びとめ、そして叫んだ。「時間ぎめで!」
 マリユスはえり飾りもつけていず、ボタンの取れた古い仕事服を着、シャツは胸の所の一つの襞《ひだ》が裂けていた。
 御者は馬を止め、目をまばたき、マリユスの方へ左の手を差し出しながら、人差し指と親指との先を静かにこすってみせた。
「何だ?」とマリユスは言った。
「先にお金をどうか。」と御者は言った。
 マリユスは十六スーきり持ち合わせがないことを思い出した。
「いくらだ?」と彼は尋ねた。
「四十スー。」(訳者注 四十スーは二フランに当たる)
「帰ってきてから払おう。」
 御者は何の答えもせず、ただラ・パリス([#ここから割り注]訳者注 素朴な小唄[#ここで割り注終わり])の節《ふし》を口笛で吹いて、馬に鞭《むち》を当てて行ってしまった。
 マリユスは茫然《ぼうぜん》として馬車が行ってしまうのをながめた。持ち合わせが二十四スー足りなかったために、喜悦と幸福と愛とを失ってしまい、再び暗夜のうちに陥ってしまった。せっかく目が見えてきたのにまた見えなくなってしまった。彼は苦々《にがにが》しく、そして実際深い遺憾の念をもって、その朝あのみじめな娘に与えた五フランのことを思った。その五フランさえ持っていたら、救われ、よみがえり、地獄と暗黒とから脱し、孤独や憂愁やひとり身から脱していたであろう。自分の運命の黒い糸をあの黄金色《こがねいろ》の美しい糸に結び合わせることができたであろう。しかるにその美しい糸口は、彼の目の前にちょっと浮かび出たばかりで、また再び断ち切れてしまったのである。彼は絶望して家に帰った。
 ルブラン氏は晩に再びやって来ると約束した、そしてその時こそはうまく跡をつけてやろう、そう彼は考え得たはずである。しかし先刻夢中になってのぞいている時、彼はその約束の言葉をもほとんど聞き取り得なかったのである。
 家の階段を上ってゆこうとした時彼は、大通りの向こう側、バリエール・デ・ゴブラン街の寂しい壁の所に、「慈善家」の外套《がいとう》にくるまったジョンドレットの姿を認めた。ジョンドレットは他のひとりの男に口をきいていた。その男は場末の浮浪人とも言い得るような人相の悪い奴《やつ》らのひとりだった。そういう奴らは、曖昧《あいまい》な顔つきをし、怪しい独語を発し、悪いことをたくらんでいそうな風付きであって、普通は昼間眠っているもので、それから推すと夜分に仕事をしてるものらしい。
 ふたりは立ちながら身動きもしないで、渦巻《うずま》き降る雪の中で話をしていた。その互いに身を寄せ合ってるさまは、確かに警官の目をひくべきものだったが、マリユスはあまり注意を払わなかった。
 けれども、彼はいかに心が悲しみに満たされていたとは言え、ジョンドレットが話しかけてるその場末の浮浪人にどこか見覚えがあるような気がしてならなかった。何だかパンショーという男に似てるようだった。パンショーと言えば、クールフェーラックがかつて教えてくれた男で、またその付近ではかなり危険な夜盗だとして知られてる男で、別名をプランタニエもしくはビグルナイユと言っていた。その名前は前編で読者の既に見たところである。このパンショー一名プランタニエ一名ビグルナイユは、後に多くの刑事裁判のうちに現われてきて、ついに有名な悪党となった者であるが、当時はただ名が通ってるというだけの悪者にすぎなかった。そして今日では既に、盗賊強盗らの間にひとりの伝説的人物となっている。彼は王政の終わり頃にはもう一方の首領となっていた。夕方、まさに夜にならんとする頃、囚人らが集まって低くささやき合う時には、彼はフォルス監獄の獅子《しし》の窖《あなぐら》([#ここから割り注]訳者注 ある中庭[#ここで割り注終わり])での噂《うわさ》の種となった。その監獄に行くと、一八四三年に三十人の囚徒が白昼未曾有の脱獄をはかった時に使った排尿道が路地の下を通ってる所、ちょうど便所の舗石《しきいし》の上の方の囲壁の上に、パンショー[#「パンショー」に傍点]という彼の名前を読むことができた。それは彼が脱獄を企てたある時に、自ら大胆にもそこに彫りつけたものである。一八三二年にも、警察は既に彼に目をつけていたが、その頃彼はまだ本当に舞台に立ってはいなかったのである。

     十一 惨《みじ》めなる者悲しめる者に力を貸す

 マリユスはゆるい足取りで家の階段を上って行った。そして自分の室《へや》にはいろうとする時、自分のあとについてくるジョンドレットの姉娘の姿を廊下に認めた。彼女は彼にとっては見るも不快の種だった。彼の五フランを持ってるのは彼女だった。今更それを返せと言ったところで仕方がない。官営馬車はもうそこにいず、またあの辻馬車《つじばしゃ》は遠くに行っていた。その上彼女は金を返しもすまい。また先刻きたあの人たちの住所を彼女に尋ねても、たぶんむだだろう。彼女はとうていそれを知ってるわけはない。なぜなら、ファバントゥーと署名されていた手紙のあて名は、サン・ジャック・デュ・オー・パ会堂の慈悲深き紳士殿としてあったばかりだから。
 マリユスは室にはいって、後ろに扉《とびら》を押ししめた。
 しかし扉はしまらなかった。ふり返って見ると、半ば開いた扉を一つの手がささえていた。
「何だ? だれだ?」と彼は尋ねた。
 それはジョンドレットの姉娘だった。
「あああなたですか、」とマリユスはほとんど冷酷に言った、「またきたんですか。何か用ですか。」
 娘は何か考えてるらしく、返事もしなかった。朝のような臆面《おくめん》なさはもうなかった。はいってもこないで、廊下の陰の所に立っていた。マリユスはただ半開きの扉《とびら》からその姿を見るだけだった。
「さあどうしたんです。」とマリユスは言った。「何か用があるんですか。」
 娘は陰鬱《いんうつ》な目を上げて彼を見た。その目には一種の光がぼんやりひらめいていた。彼女は彼に言った。
「マリユスさん、あなたはふさいでるわね。どうかしたの?」
「私が!」とマリユスは言った。
「ええ、あなたがよ。」
「私はどうもしません。」
「いいえ。」
「本当です。」
「いいえきっとそうだわ。」
「かまわないで下さい。」
 マリユスはまた扉を押しやったが、娘はなおそれをささえていた。
「ねえ、あなたはまちがってるわ。」と彼女は言った。「あなたはお金持ちでもないのに、今朝《けさ》大変親切にしてくれたでしょう。だから今もそうして下さいな。今朝あたしに食べるものをくれたでしょう、だからこんどは心にあることを言って下さいな。何かあなたは心配してるわ、よく見えてよ。あたしあなたに心配させたくないのよ。どうしたらいいの。あたしでは役に立たなくて? あたしを使って下さいな。何もあなたの秘密を聞こうっていうんじゃないわ、そんなこと言わなくてもいいわよ。でもあたしだって役に立つこともあってよ。あなたの手伝いぐらいあたしにもできるわ、あたしは父さんの用を助けてるんだもの。手紙を持っていくとか、人の家へいくとか、方々尋ね回るとか、居所をさがすとか、人の跡をつけるとか、そんなことならあたしにもできてよ。ねえ、何のことだかあたしに言って下さいな。どんな人の所へだって行って話してきてあげるわ。ちょっとだれかが口をききさえすれば、それでよくわかってうまくいくこともあるものよ。ねえあたしを使って下さいな。」
 ある考えがマリユスの頭に浮かんだ。人はおぼれかかる時には一筋の藁《わら》にもあえてすがろうとする。
 彼は娘のそばに寄った。
「聞いておくれ……。」と彼は娘に言った。
 彼女は喜びの色に目を輝かしてそれをさえぎった。
「ええあたしにそう親しい言葉を使って下さいな! あたしその方がほんとにうれしいわ。」
「ではね、」と彼は言った、「お前はここに、あの……娘といっしょにお爺《じい》さんを連れてきたんだね。」
「ええ。」
「お前はあの人たちの住所を知ってるのかい。」
「いいえ。」
「それを僕のためにさがし出してくれよ。」
 娘の陰鬱《いんうつ》な目つきはうれしそうになっていたが、そこで急に曇ってきた。
「あなたが思っていたことはそんなことなの。」と彼女は尋ねた。
「ああ。」
「あの人たちを知ってるの。」
「いいや。」
「では、」と彼女は早口に言った、「あの娘さんを知っていないのね、そしてこれから知り合いになりたいと言うのね。」
 あの人たち[#「あの人たち」に傍点]というのがあの娘さん[#「あの娘さん」に傍点]と変わったことのうちには、何かしら意味ありげなまた苦々《にがにが》しいものがあった。
「とにかくお前にできるかね。」とマリユスは言った。
「あの美しいお嬢さんの居所を聞き出してくることね?」
 あの美しいお嬢さんというその言葉のうちには、なお一種の影があって、それがマリユスをいらいらさした。彼は言った。
「まあ何でもいいから、あの親と娘との住所だ。なにふたりの住所だけだよ。」
 娘はじっと彼を見つめた。
「それであたしに何をくれるの。」
「何でも望みどおりのものを。」
「あたしの望みどおりのものを?」
「ああ。」
「ではきっとさがし出してくるわ。」
 彼女は頭を下げ、そして突然ぐいと扉《とびら》を引いた。扉はしまった。
 マリユスはひとりになった。
 彼は椅子《いす》の上に身を落とし、頭と両腕とを寝台の上に投げ出し、とらえ所のない考えのうちに沈み、あたかも眩暈《げんうん》でもしてるかのようだった。朝以来起こってきたあらゆること、天使《エンゼル》の出現、その消失、あの娘の今の言葉、絶望の淵《ふち》のうちに漂ってきた希望の光、それらが入り乱れて彼の頭にいっぱいになっていた。
 突然彼はその夢想から激しく呼びさまされた。
 彼はジョンドレットの高いきびしい声を耳にしたのである。その言葉は彼の異常な注意をひくものだった。
「確かにそうだ、俺《おれ》はそうと見て取ったんだ。」
 ジョンドレットが言ってるのはだれのことだろう? だれをいったい見て取ったのか。それはルブラン氏のことなのか。「わがユルスュール」の父親のことなのか。でもジョンドレットはいったい彼を知ってるのか。自分の生涯を暗闇《くらやみ》から救ってくれるあらゆる手掛かりは、かくも突然にまた意外に得られようとするのか。自分の愛する者はだれであるか、あの若い娘はいかなる人であるか、その父親はいかなる人であるか、遂にそれがわかろうとするのか。ふたりをおおっていた濃い闇もまさに晴れようとするのか。ヴェールはまさに引き裂かれんとするのか。ああ天よ!
 彼は戸棚の上にのぼった、というよりもむしろ飛び上がった。そして例の壁の小穴の近くに位置を占めた。
 彼は再びジョンドレットの陋屋《ろうおく》の内部を見た。

     十二 ルブラン氏の与えし五フランの用途

 一家の様子には前と変わった所はなく、ただ女房と娘たちとが包みの中のものを取り出して、毛の靴下《くつした》やシャツをつけていたばかりだった。新しい二枚の毛布は二つの寝台の上にひろげられていた。
 ジョンドレットは今帰ってきたばかりらしかった。まだ外からはいってきたばかりの荒い息使いをしていた。ふたりの娘は暖炉のそばに床《ゆか》の上にすわって、姉の方は妹の手を結わえてやっていた。女房は暖炉のそばの寝床の上に身を投げ出して驚いたような顔つきをしていた。ジョンドレットは室《へや》の中を大またにあちこち歩き回っていた。彼は異様な目つきをしていた。
 女房は亭主の前におずおずして呆気《あっけ》に取られてるようだったが、やがてこう言った。
「でも本当かね、確かかね。」
「確かだ。もう八年になるんだが、俺《おれ》は見て取ったんだ。奴《やつ》だと見て取った。一目でわかった。だが、お前にはわからなかったのか。」
「ええ。」
「でも俺《おれ》が言ったじゃねえか、注意しろって。全く同じかっこうで、同じ顔つきで、年も大して取ってはいねえ。世間にはどうしたわけのものか少しも老《ふ》けねえ奴《やつ》がいる。それから声までそっくりだ。ただいい服装《なり》をしてるだけのことだ。全く不思議な畜生だが、とうとうとらえてやったというもんだ。」
 彼は立ち止まって、娘らの方へ言った。
「お前たちは出て行くんだ。――ばかだな、あれに気がつかなかったって。」
 娘らは父の言うとおりに出てゆこうとして立ち上がった。
 母親はつぶやいた。
「手にけがをしてるのに……。」
「外の風に当たればなおる。」とジョンドレットは言った。「出て行け。」
 明らかに彼にはだれも口答えができないらしい。ふたりの娘は出て行った。
 ふたりが扉《とびら》から出ようとした時、亭主は姉娘の腕をとらえ、一種特別な調子で言った。
「お前たちはちょうど五時にここへ帰って来るんだぞ、ふたりいっしょに。用があるんだから。」
 マリユスは更に注意して耳を澄ました。
 女房とふたりきりになると、ジョンドレットはまた歩き出し、黙って室《へや》の中を二、三度回った。それからしばらくの間、着ていた女シャツの裾《すそ》をズボンの帯の中に押し込んでいた。
 突然彼は女房の方を向き、腕を組み、そして叫んだ。
「も一つおもしろいことを聞かしてやろうか。あの娘はな……。」
「え、なに?」と女房は言った、「あの娘が?」
 マリユスはもう疑えなかった。まさしくそれは「彼女」のことに違いなかった。彼は非常な懸念で耳を傾けた。彼の全生命は耳の中に集中していた。
 しかしジョンドレットは身をかがめ、女房に低い声でささやいた。それから身を起こして、声高に言い添えた。
「彼女《あれ》だ!」
「さっきのが?」と女は言った。
「そうだ。」と亭主は言った。
 およそいかなる言葉をもってしても、女房の言ったさっきのが[#「さっきのが」に傍点]? という語のうちにこもってたものを伝えることはできないだろう。驚駭《きょうがい》と憤慨と憎悪《ぞうお》と憤怒とがこんがらがって一つの恐ろしい高調子になって現われたのである。亭主から耳にささやかれた数語、それはおそらくある名前だったろうが、それを聞いたばかりでこの大女は、ぼんやりしていたのがにわかに飛び上がって、いとうべき様子から急に恐るべき様子に変わったのである。
「そんなことがあるもんかね!」と彼女は叫んだ。「家の娘どもでさえ跣足《はだし》のままで長衣もない始末じゃないかね。それに、繻子《しゅす》の外套《がいとう》、ビロードの帽子、半靴《はんぐつ》、それからいろいろなもの、身につけてるものばかりでも二百フランの上になるよ。まるでお姫様だね。いいえお前さんの見違いだよ。それに第一、彼女《あれ》は醜い顔だったが、今のはそんなに悪くもないじゃないか。全く悪い方じゃない。彼女《あれ》のはずはないよ。」
「いや大丈夫|彼女《あれ》だ。今にわかる。」
 その疑念の余地のない断定を聞いて、女房は大きな赤ら顔を上げて、変な表情で天井を見上げた。その時マリユスには、亭主よりも彼女の方がはるかに恐ろしく思えた。それは牝虎《めとら》の目つきをした牝豚のようだった。
「ええッ!」と彼女は言った、「うちの娘どもを気の毒そうな目で見やがったあのきれいな嬢さんの畜生が、乞食娘《こじきむすめ》だって。ええあのどてっ腹を蹴破《けやぶ》ってでもやりたい!」
 彼女は寝台から飛びおり、髪の毛を乱し、小鼻をふくらまし、口を半ば開け、手を後ろに伸ばして拳《こぶし》を握りしめ、しばらくじっと立っていた。それから、そのまま寝床の上に身を投げ出した。亭主の方は女房に気も留めずに、室《へや》の中を歩き回っていた。
 しばらく沈黙の後、彼は女房の方へ近寄って、その前に立ち止まり、前の時のように両腕を組んだ。
「も一ついいことを聞かしてやろうか。」
「何だね。」と彼女は尋ねた。
 彼は低い短い声で答えた。
「金蔵《かねぐら》ができたんだ。」
 女房は「気が違ったんじゃないかしら」というような目つきで、じっと彼をながめた。
 彼は続けて言った。
「畜生! 今まで長い間というもの、火がありゃ腹がへるしパンがありゃ凍えるってわけだった。もう貧乏は飽き飽きだ。俺《おれ》もみんなも首が回らなかったんだ。笑い事じゃねえ、冗談じゃねえ、くそおもしろくもねえや、狂言もおやめだ。へった腹にかき込んで、かわいた喉《のど》につぎ込むんだ。食い散らして眠って何にもしねえ。そろそろこちらの番になってきたんだ。くたばる前に一度は金持ちにもならなけりゃあね!」
 彼は室《へや》をぐるりと一回りしてつけ加えた。
「ほかの奴《やつ》らのようにね。」
「いったい何のことだよ?」と女房は尋ねた。
 彼は頭を振り、目をまばたき、何か述べ立てようとする大道香具師《だいどうやし》のように声を高めた。
「何のことかというのか、まあ聞けよ。」
「しッ!」と女房は言った。「大きな声をしなさんな。人に聞かれて悪いことだったら。」
「なあに、だれが聞くもんか。お隣か。奴《やっこ》さんさっき出て行ったよ。いたってあのおばかさんが聞きなんかするもんか。だがさっき出かけるのを見たんだ。」
 それでも一種の本能からジョンドレットは声を低めた。しかしマリユスに聞こえないほど低くはならなかった。幸いにも雪が降っていて大通りの馬車の音を低くしていたので、マリユスはその会話をすっかり聞き取ることができた。
 マリユスが聞いたのは次のような言葉だった。
「よく聞け。黄金の神様がつかまったんだ。つかまったも同じことだ。もう大丈夫だ。手はずはでき上がってる。仲間にも会ってきた。あいつは今晩六時に来る。六十フランを持ってきやがる。どうだ、俺《おれ》の口上はうめえだろう、六十フラン、家主、二月四日。実は一期分も借りはねえんだからな、ばか野郎だ。がとにかく六時にあいつはやって来る。ちょうど隣の先生も飯を食いに行く時分だ。ビュルゴン婆さんも町に皿洗いに行ってる時分だ。家の中にはだれもいやしねえ。お隣は十一時までは帰らねえ。娘どもには番をさしておく。お前は手伝わなくちゃいけねえ。野郎降参するにきまってる。」
「もし降参しなかったら?」と女房は尋ねた。
 ジョンドレットはすごい身振りをして言った。
「やっつけてしまうばかりさ。」
 そして彼は笑い出した。
 彼が笑うのを見るのは、マリユスにとっては初めてだった。その笑いは冷ややかで静かで、人を慄然《りつぜん》たらしむるものがあった。
 ジョンドレットは暖炉のそばの戸棚を開き、古い帽子を取り出し、袖でその塵を払って頭にかぶった。
「ちょっと出かけるぜ。」と彼は言った。「まだ会って置かなくちゃならねえ者もいる。みないい奴《やつ》ばかりだ。まあ仕上げを御覧《ごろう》じろだ。なるべく早く帰ってくる。うめえ仕事だ。家に気をつけておけよ。」
 そして両手をズボンの隠しにつっ込み、ちょっと考えていたが、それから叫んだ。
「あいつが俺に気づかなかったのは、もっけの仕合わせというものだ。向こうでも気がついたらもうきやしねえ。危うく取りもらす所だった。この髯《ひげ》のおかげで助かったんだ。このおかしな頤髯《あごひげ》でな、このかわいいちょっとおもしろい頤髯でな。」
 そして彼はまた笑い出した。
 彼は窓の所へ行った。雪はなお降り続いていて灰色の空を隠していた。
「何てひどい天気だ!」と彼は言った。
 それから外套《がいとう》の襟《えり》を合わした。
「こいつあ少し大きすぎる。」そしてつけ加えた。「だがまあいいや。あいつが置いてゆきやがったんで大きに助からあ。これがなかったら外へも出られねえし、何もかも手違いになる所だった。世の中の事ってどうかこうかうまくゆくもんだ。」
 そして帽子を眼深《まぶか》に引き下げながら、彼は出て行った。
 戸口から彼が五、六歩したかどうかと思われるくらいの時、扉《とびら》は再び開いて、その間から彼の荒々しいそしてずるそうな顔が現われた。
「忘れていた。」と彼は言った。「火鉢《ひばち》に炭をおこしておくんだぜ。」
 そして彼は女房の前掛けの中に、「慈善家」がくれた五フラン貨幣を投げ込んだ。
「火鉢に炭を?」女房は尋ねた。
「そうだ。」
「幾桝《いくます》ばかり?」
「二桝もありゃあいい。」
「それだけなら三十スーばかりですむ。残りでごちそうでも買おうよ。」
「そんなことをしちゃいけねえ。」
「なぜさ?」
「大事な五フランをむだにしちゃいけねえ。」
「なぜだよ?」
「俺《おれ》の方でまだ買うものがあるんだ。」
「何を?」
「ちょっとしたものだ。」
「どれくらいかかるんだよ。」
「どこか近くに金物屋があったね。」
「ムーフタール街にあるよ。」
「そうだ、町角《まちかど》の所に、わかってる。」
「でもその買い物にいくらかかるんだよ。」
「五十スーか……まあ三フランだ。」
「ではごちそうの代はあまり残らないね。」
「今日は食物《くいもの》どころじゃねえ。もっと大事なことがあるんだ。」
「そう、それでいいよ、お前さん。」
 女房のその言葉を聞いて、ジョンドレットは扉《とびら》をしめた。そしてこんどは、彼の足音が廊下をだんだん遠ざかっていって急いで階段をおりてゆくのを、マリユスは聞いた。
 その時、サン・メダール会堂で一時の鐘が鳴った。

     十三 ひそかに語り合う者は悪人の類ならん

 マリユスは夢想家ではあったが、既に言ったとおり、また生来堅固な勇敢な男であった。孤独な瞑想《めいそう》の習慣は、彼のうちに同情と哀憐《あいれん》との念を深めながら、おそらく激昂《げっこう》する力を減じたであろうが、憤慨の力は少しもそこなわれずにいた。彼はバラモン教徒のような慈悲心と法官のような峻厳《しゅんげん》さとを持っていた。蛙《かえる》をあわれむとともに蛇《へび》を踏みつぶすだけの心を持っていた。しかるに彼が今のぞき込んだ所は、蝮《まむし》の穴であった。彼が見た所のものは、怪物の巣であった。
「かかる悪人どもは踏みつぶさなければいけない。」と彼は自ら言った。
 解決されるかと思っていた謎《なぞ》は一つも解かれなかった。否かえってすべてはますます不可解になった。リュクサンブールの美しい娘についてもまたルブラン氏と呼んでいる男についても、ジョンドレットが彼らを知っているということのほかには何らの得る所もなかった。そして耳にした怪しい言葉を通してようやく彼にはっきりわかったことは、ただ一事にすぎなかった。すなわち、ある待ち伏せが、ひそかなしかも恐ろしい待ち伏せが、今計画されているということ。ふたりとも、父親の方は確かに、娘の方もたぶん、大なる危険に遭遇せんとしていること。自分はふたりを救わなければならないこと。ジョンドレットの者らの忌むべき策略の裏をかき、その蜘蛛《くも》の巣を破ってしまわなければならないこと。
 彼はちょっとジョンドレットの女房に目を注いだ。彼女は片すみから古い鉄の火鉢《ひばち》を引き出し、また鉄屑《てつくず》の中に何かさがしていた。
 彼は音を立てないように注意してできるだけ静かに戸棚からおりた。
 今なされつつある事柄に対して恐怖の念をいだきながらも、またジョンドレット一家の者らに対して嫌悪《けんお》の感をいだきながらも、彼は自分の愛する人のために力を尽くすようになったと考えて、一種の喜びを感じた。
 しかしどうしたらいいものか? ねらわれてるふたりに知らせると言ったところで、ふたりをどこに見いだすことができよう。マリユスはその住所を知らなかった。ふたりはちょっと彼の目の前に現われて、それから再びパリーの深い大きな淵《ふち》の中に沈んでしまったのである。あるいは晩の六時に、ルブラン氏がやって来る時に、扉《とびら》の所に待っていて、罠《わな》のあることを知らせるとしようか。しかしジョンドレットとその仲間の者らは、自分が待ち受けてるのを見つけるに違いない。あたりには人もいないし、向こうの方が強いので、彼らは何とでもして自分を捕えてしまうか、または自分を遠ざけてしまうだろう。そうすれば自分が助けようと思ってる人もそれで破滅だ。ちょうど一時が鳴ったばかりである。待ち伏せは六時にすっかりでき上がるはずだ。それまでには五時間の余裕がある。
 なすべき道はただ一つきりなかった。
 彼はいい方の服をつけ、絹の襟巻《えりま》きを結び、帽子を取り、ちょうど苔《こけ》の上を跣足《はだし》で歩くように少しも音を立てないで出て行った。
 その上幸いにも、ジョンドレットの女房はなお続けて鉄屑《てつくず》の中をかき回していた。
 外に出ると彼は、すぐにプティー・バンキエ街の方へ行った。
 その街路の中ほどに、ある所はまたげそうな低い壁があって、向こうは荒れ地になっていた。そこを通る時分には、彼はすっかり考え込んでゆっくり足を運んでいた。そして雪のために足音もしなかった。その時突然彼は、すぐ近くに人の話し声を聞いた。ふり返ってみると、街路はひっそりして、人影もなく、まっ昼間であった。しかもはっきり人声が聞こえていた。
 彼はふと思いついてそばの壁の上から向こうをのぞいてみた。
 果たしてそこには、ふたりの男が壁に背を向け、雪の上にかがんで、低く語り合っていた。
 ふたりとも彼の見知らぬ顔だった。ひとりはだぶだぶの上衣をつけた髯《ひげ》のある男で、もひとりはぼろをまとった髪の長い男だった。髯のある方は丸いギリシャ帽をかぶっていたが、もひとりは何もかぶらず、髪の上に雪が積っていた。
 ふたりの上に頭をつき出して、マリユスはその言葉をよく聞き取ることができた。
 長髪の男は相手を肱《ひじ》でつっ突いて言った。
「パトロン・ミネットの力を借りれば、しくじることはねえ。」
「そうかな。」と髯の男は言った。
 長髪の方は続けた。
「ひとりに五百弾でいいだろう。もしどじっても、五年か六年、まあ長くて十年だ。」
 相手はやや躊躇《ちゅうちょ》して、ギリシャ帽の下を指でかきながら答えた。
「そっちは実際だからな。そんな目にあっちゃあ。」
「大丈夫しくじりっこはねえ。」と長髪の方は言った。「爺《と》っつぁんの小馬車に馬をつけとくんだから。」
 それから彼らはゲイテ座で前日見た芝居のことを話し初めた。
 マリユスは歩き出した。
 不思議にも壁の後ろに隠れ雪の中にうずくまってるそれらふたりの男の曖昧《あいまい》な話は、何だかジョンドレットの恐ろしい計画に関係があるらしく、マリユスには思われてならなかった。どうしてもあのこと[#「あのこと」に傍点]らしかった。
 彼はサン・マルソー郭外の方へ行って、見当たり次第の店で、警察部長の居所を尋ねた。
 ポントアーズ街十四番地というのを教えられた。
 マリユスはその方へ行った。
 パン屋の前を通った時、晩の食事はできないかも知れないと思って、二スーのパンを買い、それを食べた。
 道すがら彼は天に感謝した。彼は考えた。今朝ジョンドレットの娘に五フランやっていなかったら、自分はルブラン氏の馬車について行って、その結果何にも知らなかったに違いない、そしてジョンドレット一家の者の待ち伏せを妨ぐるものもなく、ルブラン氏はそれで破滅になり、またおそらく娘もともに破滅の淵《ふち》に陥ってしまったであろう。

     十四 警官二個の拳骨《げんこつ》を弁護士に与う

 ポントアーズ街十四番地にきて、マリユスはその二階に上がり、警察部長を尋ねた。
「部長さんはお留守です。」とひとりの小僧が言った。「ですが代理の警視はおられます。お会いになりますか。急ぎの用ですか。」
「そうです。」とマリユスは言った。
 小僧は彼を部長室に案内した。中格子《なかごうし》の後ろに、ストーブに身を寄せ、三重まわしの大きなマントの袖《そで》を両手で上げている、背の高い男がひとりそこに立っていた。四角張った顔、脣《くちびる》の薄い引き締まった口、荒々しい半白の濃い頬鬚《ほおひげ》、ふところの中まで見通すような目つき、それは透徹する目ではなくて、探索する目と言う方が適当だった。
 その男は獰猛《どうもう》さと恐ろしさとにおいてはあえてジョンドレットに劣りはしなかった。番犬も時とすると、狼《おおかみ》に劣らず出会った者に不安を与えることがある。
「何の用かね。」と彼はぞんざいな言葉でマリユスに尋ねた。
「部長さんは?」
「不在だ。私《わし》がその代理をしている。」
「ごく秘密な事件ですが。」
「話してみたまえ。」
「そしてごく急な事件です。」
「では早く話すがいい。」
 その男は平静でまた性急であって、人をこわがらせまた同時に安心させる点を持っていた。恐怖と信頼とを与えるのだった。マリユスは彼にできごとを語った。――ただ顔を知ってるばかりの人ではあるが、その人が今夜、待ち伏せに会うことになっている。――自分はマリユス・ポンメルシーという弁護士であるが、自分のいる室《へや》の隣が悪漢の巣窟《そうくつ》で、壁越しにその計画をすっかり聞き取った。――罠《わな》を張った悪漢はジョンドレットとかいう男である。――共犯者もいるらしい。たぶん場末の浮浪人どもで、なかんずくパンショー一名プランタニエ一名ビグルナイユという男がいる。――ジョンドレットの娘どもが見張りをするだろう。――ねらわれてる人は、その名前もわからないので、前もって知らせる方法もない。――そしてそれらのことは晩の六時に、オピタル大通りの最も寂しい所、五十・五十二番地の家で、実行されることになっている。
 その番地を聞いて、警視は顔を上げ、冷ややかに言った。
「では廊下の一番奥の室《へや》だろう。」
「そうです。」とマリユスは言った、そしてつけ加えた。「その家を御存じですか。」
 警視はちょっと黙っていたが、それから靴《くつ》の踵《かかと》をストーブの火口で暖めながら答えた。
「そうかも知れないね。」
 それから、マリユスにというよりもむしろその襟飾《えりかざ》りにでも口をきいてるように目を下げて、半ば口の中で続けて言った。
「パトロン・ミネットが多少関係してるに違いない。」
 その言葉にマリユスは驚いた。
「パトロン・ミネット、」と彼は言った、「ほんとに私はそういう言葉を耳にしました。」
 そして彼は、プティー・バンキエ街の壁の後ろで、長髪の男と髯《ひげ》の男とが雪の中で話していたことを、警視に語った。
 警視はつぶやいた。
「髪の長い男はブリュジョンに違いない。髯のある方は、ドゥミ・リヤール一名ドゥー・ミリヤールに違いない。」
 彼はまた眼瞼《まぶた》を下げて、考え込んだ。
「その爺《と》っつぁんというのも、およそ見当はついてる。ああマントを焦がしてしまった。いつもストーブに火を入れすぎるんだ。五十・五十二番地と。もとのゴルボーの持ち家だな。」
 それから彼はマリユスをながめた。
「君が見たのは、その髯《ひげ》の男と髪の長い男きりかね。」
「それとパンショーです。」
「その辺をぶらついてるお洒落《しゃれ》の小男を見なかったかね。」
「見ません。」
「では植物園にいる象のような大男は?」
「見ません。」
「では昔の手品師のような様子をした悪者は?」
「見ません。」
「四番目に……いやこいつはだれの目にもはいらない、仲間も手下も使われてる奴《やつ》も、彼を見たことがないんだから、君が見つけなかったからって怪しむに足りん。」
「見ません。いったいそいつらは何者ですか。」とマリユスは尋ねた。
 警視は言った。
「その上まだ奴らの出る時ではないからな。」
 彼はまたちょっと口をつぐんだが、やがて言った。
「五十・五十二番地と。家は知ってる。中に隠れようとすれば、役者どもにきっと見つかる。そうすればただ芝居をやらずに逃げるばかりだ。どうも皆はにかみやばかりで、見物人をいやがるからな。そりゃあいかん、いかん。少し奴らに歌わしたり踊らしたりしたいんだがな。」
 そんな独語を言い終わって、彼はマリユスの方へ向き、じっとその顔を見ながら尋ねた。
「君はこわいかね。」
「何がです?」とマリユスは言った。
「その男どもが。」
「まああなたに対してと同じくらいなものです。」とマリユスはぶしつけに答えた。その警官が自分に向かってぞんざいな言葉ばかり使ってるのを、彼はようやく気づき初めていた。
 警視はなおじっとマリユスを見つめ、一種のおごそかな調子で言った。
「君はなかなか勇気のあるらしい正直者らしい口のきき方をする。勇気は罪悪を恐れず、正直は官憲を恐れずだ。」
 マリユスはその言葉をさえぎった。
「それはとにかく、どうなさるつもりです。」
 警視はただこう答えた。
「あの家に室《へや》を借りてる者は皆、夜分に帰ってゆくための合い鍵《かぎ》を持っている。君も一つ持ってるはずだね。」
「ええ。」とマリユスは言った。
「今そこに持ってるかね。」
「ええ。」
「それを私《わし》にくれ。」と警視は言った。
 マリユスはチョッキの隠しから鍵を取って、それを警視に渡し、そして言い添えた。
「ちょっと申しておきますが、人数を引き連れてこられなければいけません。」
 警視はマリユスに一瞥《いちべつ》を与えた。ヴォルテールがもし田舎出《いなかで》のアカデミー会員から音韻の注意でも受けたら、やはりそんな一瞥《いちべつ》を与えたことだろう。そして警視は、太い両手をマントの大きな両のポケットにずぶりとつっ込み、普通は拳骨《げんこつ》と言わるる鋼鉄の小さなピストルを二つ取り出した。彼はそれをマリユスに差し出しながら、口早に強く言った。
「これを持って、家に帰って、室《へや》に隠れていたまえ。不在らしく見せかけなくちゃいかん。二つとも弾《たま》がこもってる。一梃《いっちょう》に二発ずつだ。よく気をつけて見ているんだ。壁に穴があると言ったね。奴《やつ》らがやってきたら、しばらく勝手にさしておくがいい。そしてここだと思ったら、手を下す時だと思ったら、ピストルを打つんだ。早すぎてはいかん。それからは私《わし》の仕事だ。ピストルを打つのは、空へでも、天井へでも、どこでもかまわん。ただ早くしすぎないことだ。いよいよ仕事が初まるまで待つんだ。君は弁護士と言ったね、それくらいのことはわかってるだろう。」
 マリユスは二梃のピストルを取って、上衣のわきのポケットの中に入れた。
「それじゃふくらんで外から見える。」と警視は言った。「それよりズボンの両方の隠しに入れるがいい。」
 マリユスはピストルを各、ズボンの両の隠しに入れた。
「もうこれで一刻もぐずぐずしておれない。」と警視は言った。「今|何時《なんじ》だ? 二時半か。それは七時だったな。」
「六時です。」とマリユスは言った。
「まだ充分時間はある、が余るほどはない。」と警視は言った。「今言ったことを少しでも忘れてはいかん。ぽーんとピストルを一つ打つんだぞ。」
「大丈夫です。」とマリユスは答えた。
 そしてマリユスが出て行こうとして扉《とびら》のとっ手に手をかけた時、警視は彼に呼びかけた。
「それから、それまでに何か私《わし》に用ができたら、ここに自分で来るか使いをよこすかしたまえ、警視のジャヴェルと言ってくればわかる。」

     十五 ジョンドレット買い物をなす

 それから少したって、三時ごろ、クールフェーラックがボシュエと連れ立って、偶然ムーフタール街を通った。雪はますます降りしきって、空間を満たしていた。ボシュエはクールフェーラックにこんなことを言っていた。
「こう綿をちぎったような雪が落ちて来るのを見ると、何だか天には白い蝶《ちょう》の疫病でも流行してるらしく思えるね。」
 と突然ボシュエは、変な様子をして市門の方へ街路を歩いて行くマリユスの姿を認めた。
「おや、」とボシュエは叫んだ、「マリユスだ。」
「僕も知ってる。」とクールフェーラックは言った。「だが言葉をかけるのはよそうや。」
「なぜだ。」
「気を取られてるんだ。」
「何に?」
「あの顔つきを見たらわかるじゃないか。」
「顔つきって?」
「だれかの跡をつけてるような様子だ。」
「なるほどそうだ。」とボシュエは言った。
「まああの目つきを見てみたまい。」とクールフェーラックはまた言った。
「だがいったいだれの跡をつけてるんだろう。」
「いずれかわいい者に違いない。夢中になってるんだ。」
「だがね、」とボシュエは注意した、「街路にはかわいいのかの字も見えないじゃないか。女なんてひとりもいやしない。」
 クールフェーラックはよくながめた、そして叫んだ。
「男の跡をつけてるんだ。」
 実際、後ろからでも灰色の髯《ひげ》がよく見えてるひとりの男が帽子をかぶって、マリユスから二十歩ばかり先に歩いていた。
 その男は大きすぎて身体によく合わないま新しい外套《がいとう》をつけ、泥にまみれてるぼろぼろになったひどいズボンをはいていた。
 ボシュエは笑い出した。
「あの男はいったい何だい。」
「あれか、」とクールフェーラックは言った、「まあ詩人だね。詩人って奴《やつ》はよく、兎《うさぎ》の皮売りみたいなズボンをはき、上院議員みたいな外套を着てるものだ。」
「マリユスがどこへ行くか見てやろうよ、」とボシュエは言った、「あの男がどこへ行くか見てやろうよ。ふたりの跡をつけてやろう、おい。」
「ボシュエ!」とクールフェーラックは叫んだ、「エーグル・ド・モー(モーの鷲《わし》)、なるほど君はすてきな獣だね。男の跡をつけてる男を、また追っかけて行こうというんだからな。」
 それで彼らは道を引き返した。
 マリユスは実際、ムーフタール街をジョンドレットが通るのを見て、その様子をうかがっていたのである。
 ジョンドレットは後ろから既に目をつけられていようとは夢にも思わないで、まっすぐに歩いて行った。
 彼はムーフタール街を離れた。マリユスはグラシユーズ街の最も下等な家の一つに彼がはいるのを見た。十五分ばかりして彼はそこから出てきて、それからまたムーフタール街に戻ってきた。当時ピエール・ロンバール街の角《かど》にあった金物屋に彼は足を止めた。それからしばらくしてマリユスは、彼がその店から出て来るのを見た。彼は白木の柄のついた冷やりとするような大きな鑿《のみ》を、外套《がいとう》の下に隠し持っていた。プティー・ジャンティイー街の端まで行って彼は左に曲がり、足早にプティー・バンキエ街へはいった。日は暮れようとしていた。ちょっとやんだ雪はまた降り出していた。マリユスは同じプティー・バンキエ街の角に身を潜めた。街路にはやはり人の姿も見えなかった。マリユスはジョンドレットの跡をつけてその街路に出るのをやめた。それはマリユスにとって幸いだった。なぜなら、彼が先刻長髪の男と髯《ひげ》の男との話を聞いた低い壁の所まで行くと、ジョンドレットはふり返ってながめ、跡をつけてる者も見てる者もないのを確かめ、それから壁をまたぎ、姿を消してしまったのである。
 その壁に囲まれた荒れ地は、あまり評判のよくない古い貸し馬車屋の後庭に続いていた。その馬車屋はかつて破産したことがあったが、まだ小屋の中には四、五台の古馬車を持っていた。
 ジョンドレットの不在の間に帰ってゆく方が悧巧《りこう》だとマリユスは考えた。その上もうだいぶ遅くもなっていた。毎晩早くから、ビュルゴン婆さんは町に皿洗いに出かけて、いつも戸を閉ざすことにしていたので、家の戸はきまって暮れ方には締まりがしてあった。ところがマリユスは鍵《かぎ》を警視に渡してしまった。それで急いで帰る必要があった。
 夕方になっていた。夜は刻々に迫っていた。地平線の上にもまた広い大空のうちにも、太陽に照らされた所はただ一カ所あるきりだった、すなわち月が。
 月はサルペートリエール救済院の低い丸屋根のかなたに、赤く上りかけていた。
 マリユスは大またに歩いて五十・五十二番地へ帰ってきた。その時まだ戸は開いていた。彼は爪先だって階段を上り、廊下の壁伝いに自分の室《へや》にすべり込んだ。読者の記憶するとおり、廊下の両側は屋根部屋《やねべや》で、その頃皆あいていて貸し間になっていた。ビュルゴン婆さんはいつもそれらの扉《とびら》をあけ放しにしていた。マリユスはそれらの扉の一つの前を通る時、その空室の中にじっと動かない四つの人の顔が、軒窓から落ちる昼のなごりの明るみにぼんやりほの白く浮き出してるのを、ちらと見たような気がした。しかし彼は自分の方で人に見られたくなかったので、それを見届けようともしなかった。彼はついに、人に見られもせずまた音も立てずに自分の室にはいり込んだ。ちょうど危うい時だった。ビュルゴン婆さんが出かけて家の戸がしまる音を、それから間もなく彼は聞いた。

     十六 一八三二年流行のイギリス調の小唄《こうた》

 マリユスは寝台に腰掛けた。五時半ごろだった。事の起こるまでにはただ三十分を余すのみだった。あたかも暗闇《くらやみ》の中で時計の秒を刻む音をきくように、彼は自分の動脈の音を聞いた。そしてひそかに到来しつつある二つの事がらを思いやった、一方から歩を進めつつある罪悪と他方からきつつある法権とを。彼は恐れてはいなかった、しかしまさに起こらんとする事を考えてはある戦慄《せんりつ》を禁じ得なかった。意外のできごとに突然襲われた人がよく感ずるように彼にもその一日はまったく夢のように思われた。そして何か悪夢につかれてるのでないことを確かめるために、彼はズボンの隠しの中で鋼鉄の二梃のピストルの冷ややかさに手を触れてみなければならなかった。
 雪はもうやんでいた。月はしだいに冴《さ》えてきて靄《もや》から脱し、その光は地に積った雪の白い反映と交じって、室《へや》の中に暁のような明るみを与えた。
 ジョンドレットの室の中には明りがあった。マリユスは壁の穴が血のように赤い光に輝いてるのを見た。
 その光はどうしても蝋燭《ろうそく》のものらしくは思えなかった。そしてまたジョンドレットの室の中には、何ら動くものもなく、だれも身動きもせず口もきかず、呼吸の音さえ聞こえず、氷のような深い沈黙に満たされていて、もしその光がなかったら、墓場かとも思われるほどだった。
 マリユスは静かに靴《くつ》をぬいで、それを寝台の下に押し込んだ。
 数分過ぎ去った。マリユスは表の戸がぎーと開く音を聞いた。重い早い足音が階段を上ってき、廊下を通っていって、それから隣の室《へや》の掛け金が音高くはずされた。それはジョンドレットが帰ってきたのだった。
 すぐに多くの声が聞こえ出した。一家の者は皆室の中にいた。ちょうど狼《おおかみ》の子が親狼の不在中黙ってるように、一家の者は主人の不在中黙っていたまでである。
「俺《おれ》だ。」と主人は言った。
「お帰んなさい。」と娘らは変な声を立てた。
「どうだったね?」と母親は言った。
「この上なしだ。」とジョンドレットは答えた。「だがばかに足が冷てえ。うむ、なるほどお前はうまくおめかしをしたな。向こうに安心させなけりゃいけねえからな。」
「すっかり出かけるばかりだよ。」
「言っといた事を忘れちゃいけねえ。うまくやるんだぜ。」
「大丈夫だよ。」
「と言うのはな……。」とジョンドレットは言いかけて、皆まで言わずにしまった。
 マリユスは彼が何か重いものをテーブルの上に置く音を聞いた。たぶん買ってきた鑿《のみ》ででもあったろう。
「ところで、」とジョンドレットは言った、「みな何か食ったか。」
「ああ、」と母親は言った、「大きい馬鈴薯《じゃがいも》を三つと塩を少し。ちょうど火があるから焼いたんだよ。」
「よし、」とジョンドレットは言った、「明日《あす》はごちそうを食いに連れてってやる。家鴨《あひる》の料理とそれからいろいろなものがついてさ、まるでシャール十世の御殿の晩餐《ばんさん》のようにな。すっかりよくなるんだ。」
 それから声を低めて彼はつけ加えた。
「鼠罠《ねずみわな》の口はあいてるし、猫《ねこ》どもももうきている。」
 そしてなおいっそう声を低めてまた言った。
「それを火の中に入れて置け。」
 マリユスは火箸《ひばし》かまたは何か鉄器で炭をかき回す音を聞いた。ジョンドレットは続けて言った。
「音のしねえように扉《とびら》の肱金《ひじがね》には蝋《ろう》を引いて置いたか。」
「ああ。」と母親は答えた。
「今何時だ。」
「もうすぐに六時だろう。サン・メダールでさっき半《はん》が打ったんだから。」
「よし。」とジョンドレットは言った。「娘どもは見張りをしなくちゃいけねえ。おい、ふたりともこっちへきてよく聞きな。」
 しばらく何かささやく声がした。
 ジョンドレットはまた高い声をあげた。
「ビュルゴン婆さんは出て行ったか。」
「ああ。」と母親は言った。
「隣にもだれもいねえんだな。」
「一日留守だったよ、それに今は食事の時分じゃないか。」
「確かだね。」
「確かだよ。」
「まあとにかく、」とジョンドレットは言った、「いるかどうか見に行ったってさしつかえねえ。おい娘、蝋燭《ろうそく》を持って見てきな。」
 マリユスは四つばいになって、こっそり寝台の下にはいり込んだ。
 彼が隠れ終わるか終わらないうちに、すぐ扉《とびら》のすき間から光が見えた。
「お父さん、」という声がした、「出かけてるよ。」
 それは姉娘の声だった。
「中にはいったのか。」と父親が尋ねた。
「いいえ、」と娘は答えた、「でも鍵《かぎ》が扉についてるから、きっと出かけたんだよ。」
 父親は叫んだ。
「でもまあはいってみろ。」
 扉が開いた。マリユスはジョンドレットの姉娘が手に蝋燭を持ってはいって来るのを見た。その様子は朝と少しも変わっていなかったが、ただ蝋燭の光で見るといっそう恐ろしく見えた。
 彼女は寝台の方へまっすぐに進んできた。マリユスはその間言葉にもつくし難いほど心配した。しかし彼女がやってきたのは、寝台の側に壁に掛かってる鏡の所へであった。彼女は爪先で伸び上がって、鏡の中をのぞいた。隣の室には鉄の道具を動かす音が聞こえていた。
 娘は手の平で髪をなでつけ、鏡に向かってほほえみながら、その気味の悪いつぶれた声で歌った。

    われらの恋は七日なりけり。
    ああたのしみのいかに短き、
     八日の愛も難かりければ!
     恋は永《とこし》えなるべきに、
     恋は永えなるべきに!


 その間マリユスは震えていた。そして自分の荒い息使いはきっと彼女の耳につくに違いないという気がした。
 娘は窓の方へ行って、外を見ながら、いつもの半ば気ちがいじみた様子で声高に言った。
「パリーも白いシャツをつけた所は何て醜いだろう!」
 そしてまた鏡の所へ帰ってきて、自分の顔をまっ正面から映してみたり少し横向きに映してみたりして、様子をつくっていた。
「おい、」と父親が叫んだ、「何をしてるんだ。」
「寝台の下や道具の下を見てるのよ。」と彼女はやはり髪を直しながら答えた。「だれもいやしないわ。」
「ばか!」と父親はどなった。「早く帰ってこい。ぐずぐずしてるんじゃねえ。」
「今行くよ、今すぐ。」と彼女は言った。「ほんとにちょっとの暇もありゃあしない。」
 そして小声に歌った。

    誉れを求めて君去りゆかば、
    何処《いずこ》までもと我追いゆかん。

 彼女は最後に鏡をじろりと見て、扉《とびら》を後ろにしめながら出て行った。
 しばらくするとマリユスは、廊下にふたりの娘の跣足《はだし》の足音を聞いた。そしてまた、彼女らに呼びかけてるジョンドレットの声を聞いた。
「よく気をつけるんだぞ。ひとりは市門の方で、ひとりはプティー・バンキエ街の角《かど》だ。ちょっとでも家の戸口から目を離してはいけねえ。何か見えたらすぐにやってこい、大急ぎで飛んでくるんだ。はいる時の鍵《かぎ》は持ってるね。」
 姉の方はつぶやいた。
「雪の中に跣足で番をさせるなんて!」
「明日はまっかな絹靴《きぬぐつ》を買ってやらあね。」と父親は言った。
 ふたりの娘は階段をおりていった。そしてすぐに下の戸のしまる響きが聞こえたのでみると、ふたりは外に出て行ったらしい。
 家の中にいるのはもう、マリユスとジョンドレット夫婦ばかりだった。それからまたあるいは、空室の扉の向こうの薄暗がりの中にマリユスがちらと見た怪しい人々ばかりだった。

     十七 マリユスが与えし五フランの用途

 マリユスは今や例の観測台の位置につくべき時だと思った。そして青年の身軽さをもってすぐに壁の穴の所へ立った。
 彼はのぞいた。
 ジョンドレットの部屋の内部は不思議な光景を呈していた。マリユスが先刻見た怪しい光の源もわかった。緑青《ろくしょう》のついた燭台《しょくだい》に一本の蝋燭《ろうそく》がともっていたが、室《へや》を実際に照らしてるのはそれではなかった。暖炉の中に置かれて炭がいっぱいおこってるかなり大きな鉄火ばちから、室の中全体が照り返されてるようだった。それはジョンドレットの女房が午前から用意しておいたものである。炭は盛んにおこって、火鉢《ひばち》はまっかになっており、青い炎が立ちのぼって、火の中に差し込まれて赤くなってる鑿《のみ》の形をはっきり浮き出さしていた。その鑿はジョンドレットがピエール・ロンバール街で買ったものである。扉《とびら》のそばの片すみには、何か特別の用に当てるためのものらしい品が二処《ふたところ》に積んであって、一つは鉄の類らしく、一つは繩《なわ》の類らしかった。すべてそういうありさまは、何が計画されてるかを知らない者には、至って気味悪くも感ぜられ、また同時に何でもないことのようにも感ぜられたろう。そして火に照らされてる室の中は、地獄の入り口というよりもむしろ鉄工場のようだった。しかしその光の中にいるジョンドレットは鍛冶屋《かじや》というよりもむしろ悪魔のような様子をしていた。
 火鉢の焼けている熱さは非常なもので、テーブルの上の蝋燭もその方面が溶けかかって、斜めに減っていきつつあった。ディオゲネスが凶賊カルトゥーシュに変じたとしたらそれにもふさわしいような、銅製の古い龕燈《がんどう》が一つ、暖炉の上に置いてあった。
 火鉢はほとんど消えた燃えさしのそばに炉の中に置いてあったので、炭火のガスは暖炉の煙筒の中に立ちのぼっていて、室《へや》には何らのにおいもひろがっていなかった。
 月は窓の四枚の板ガラスからさし込んで、炎の立ってるまっかな屋根部屋《やねべや》の中にほの白い光を送っていた。そして実行の刹那《せつな》にもなお夢想家であるマリユスの詩的な精神には、それがあたかも地上の醜い幻に交じった天の思想の一片であるかのように思われた。
 こわれた一枚の窓ガラスから空気が流れ込んできて、いっそうよく炭火のにおいを散らし、火鉢《ひばち》のあるのを隠していた。
 ジョンドレットの巣窟《そうくつ》は、ゴルボー屋敷について前に述べておいた所でわかるとおり、凶猛暗黒な行為の場所となり罪悪を隠蔽《いんぺい》する場所となるのに、いかにもふさわしかった。それはパリーのうちでの、最も寂しい大通りの、最も孤立した家の最も奥深い室であった。もし待ち伏せなどということが人の世になかったとしても、そこにおればきっとそれが発明されたろうと思われるほどだった。
 家の全奥行きと多くの空室とが、その巣窟を大通りからへだてていた。そしてそこについてる唯一の窓は、壁と柵《さく》とに囲まれた広い荒れ地の方に向いていた。
 ジョンドレットはパイプに火をつけ、藁《わら》のぬけた椅子《いす》の上にすわって、煙草《たばこ》を吹かしていた。女房は低い声で彼に何やら言っていた。
 もしマリユスがクールフェーラックであったなら、言い換えれば絶えずあらゆる機会に笑うような人であったなら、彼はジョンドレットの女房を見た時必ずふきだしていたに違いない。シャール十世の即位式に列した武官の帽子にかなり似寄った羽のついた黒い帽をかぶり、メリヤスの裳衣の上に格子縞《こうしじま》の大きな肩掛けを引っかけ、その朝娘がいやがった男の靴《くつ》をはいていた。そういう服装が先刻ジョンドレットをして感嘆せしめたのである。「うむ、なるほどお前はうまくおめかしをしたな。向こうに安心させなけりゃいけねえからな。」
 ジョンドレットはルブラン氏からもらった少し大きすぎる新しい外套《がいとう》を相変わらず着ていた。そしてその外套とズボンとが妙な対照をなして、クールフェーラックに詩人だろうという考えを起こさした時と同じ様子だった。
 突然ジョンドレットは声を高めた。
「ところでちょっと思い出したが、こんな天気では馬車で来るにきまってる。龕灯《がんどう》をつけて、それを持って下に行け。下の戸の後ろに立っているんだ。馬車の止まる音を聞いたら、すぐにあけてやれ。はいってきたら、階段と廊下とで明りを見せてやるがいい。そして奴《やつ》がここにはいる間に、お前は急いでおりてゆき、御者に金を払い、馬車を返してしまえ。」
「その金は?」と女房は尋ねた。
 ジョンドレットはズボンの隠しを探って、五フラン取り出して渡した。
「これはどうしたんだよ。」と女房は叫んだ。
 ジョンドレットは堂々と答えた。
「それは今朝《けさ》隣の先生がくれたものだ。」
 そして彼はつけ加えた。
「ねえ、椅子《いす》が二ついるだろうね。」
「どうするのに?」
「すわるのにさ。」
 その時マリユスは、女房が事もなげに次のような答えをしたのを聞いて、ぞっと背中に戦慄《せんりつ》を覚えた。
「それじゃあ、隣のを持ってこよう。」
 そして彼女はすばしこく扉《とびら》をあけて廊下に出た。
 マリユスにはとうてい、戸棚《とだな》からおりて寝台の所へ行きその下に隠れるだけの時間がなかった。
「蝋燭《ろうそく》を持ってゆけ。」とジョンドレットは叫んだ。
「いいよ。」と女房は言った。「かえって邪魔だよ、椅子を二つ持たなくちゃならないからね。それに月の光が明るいよ。」
 マリユスは女房の重々しい手が暗がりに扉の鍵《かぎ》を探ってる音を聞いた。扉は開いた。彼はその場所に、恐れと驚きとのために釘付《くぎづ》けにされたように立ちすくんだ。
 ジョンドレットの女房ははいってきた。
 軒窓から一条の月の光がさして、室《へや》の中のやみを二つに分けていた。その一方のやみは、マリユスがよりかかってる壁の方をすっかりおおっていたので、彼の姿はその中に隠されていた。
 女房は目を上げたが、マリユスの姿に気づかなかった。そしてマリユスが持っていた二つきりの椅子を二つとも取って、室を出てゆき、後ろにがたりと扉をしめていった。
 彼女は部屋に戻った。
「さあ椅子《いす》を二つ持ってきたよ。」
「そこで、向こうに龕灯《がんどう》がある。」と亭主は言った。「早くおりて行け。」
 女房は急いでその言葉に従い、ジョンドレットただひとり室《へや》の中に残った。
 彼はテーブルの両方に二つの椅子を置き、炭火の中に鑿《のみ》を置きかえ、暖炉の前に古屏風《ふるびょうぶ》を立てて火鉢《ひばち》を隠し、それから繩《なわ》の積んである片すみに行き、そこに何か調べるようなふうに身をかがめた。その時マリユスは、今まで何かわからなかったその繩みたいなものは、実は木の桟と引っかけるための二つの鈎《かぎ》とがついてるきわめて巧みにできた繩梯子《なわばしご》だということがわかった。
 その繩梯子と、それから扉《とびら》の後ろに積んだ鉄屑《てつくず》の中に交じってる荒々しい道具、まったくの鉄棒なんかは、その朝ジョンドレットの室の中になかったもので、確かにその午後マリユスの不在中に持ち込まれたものに相違なかった。
「あれはみな刃物師の道具だな。」とマリユスは考えた。
 もしマリユスに今少しその方面の知識があったら、彼は刃物師の道具だと思ったもののうちに種々なものを認むることができたろう、すなわち、錠前を破ったり扉をこじあけたりする道具や、切ったり断ち割ったりする道具などで、盗賊仲間でちびおよびばさと言わるる二種の恐ろしい道具だった。
 二つの椅子をそなえたテーブルと暖炉とは、ちょうどマリユスの正面になっていた。火ばちが隠されたので、室はもう蝋燭《ろうそく》で照らされてるばかりだった。そしてテーブルの上や暖炉の上のちょっとした物でさえ、大きな影を投じていた。口の欠けた水差しは、壁のほとんど半分に影を投じていた。室の中には何とも言えぬ恐ろしいぞっとするような静けさがたたえていた。今にも何か非常なことが起こりそうだった。
 ジョンドレットはよほど何かに気を取られてると見えて、パイプの火の消えたのも知らずにいたが、それからまた立ってきて椅子《いす》に腰掛けた。蝋燭《ろうそく》の光で、顔の荒々しい狡猾《こうかつ》そうな角《かど》張った所が、いっそうよく目立った。そして眉《まゆ》をひそめたり急に右手を開いたりして、あたかもその陰惨な内心で最後にも一度ひとりで問いひとりで答えてるかのようだった。そういう自分ひとりの問答のうちに、彼は急にテーブルの引き出しを開き、中に隠してあった料理用の長いナイフを取り出し、指の爪を切ってみてその刃を試《ため》した。それがすむと、ナイフをまた引き出しにしまって、それをしめた。
 マリユスの方では、ズボンの右の隠しにあるピストルをつかみ、それを引き出して引き金を上げた。
 引き金を上げる時ピストルは、鋭いはっきりした小さな音を出した。
 ジョンドレットはぎくりとして、椅子の上に半ば身を起こした。
「だれだ?」と彼は叫んだ。
 マリユスは息をこらした。ジョンドレットはちょっと耳を澄ましたが、やがて笑い出しながら言った。
「なんだばかな。壁板の音だ。」
 マリユスはピストルを手に握りしめた。

     十八 向かい合える二個の椅子《いす》

 突然遠い単調な鐘の響きがガラスを震わした。サン・メダール会堂で六時を報じ初めたのである。
 ジョンドレットはその一響きごとに頭を動かして数えた。六つの響きを聞いた時、指先で蝋燭《ろうそく》の芯《しん》をつまんだ。
 それから彼は室《へや》の中を歩き出し、廊下の方に耳を傾け、また歩き出し、また耳を傾けた。「なにきさえすれば!」と彼はつぶやいた。それからまた椅子の所へ戻った。
 彼がそこにすわるかすわらないうちに、扉《とびら》が開いた。
 ジョンドレットの女房がそれを開いたのだった。彼女は廊下に立って、ぞっとするような愛想を顔に浮かべていた。龕灯《がんどう》の穴の一つからもれる光がその顔を下から照らしていた。
「どうぞ旦那様《だんなさま》、おはいり下さいまし。」と彼女は言った。
「おはいり下さいませ、御親切な旦那様。」とジョンドレットは急いで立ち上がって言った。
 ルブラン氏が現われた。
 彼はいかにも朗らかな様子をしていて、妙に尊く思われた。
 彼はテーブルの上にルイ金貨を四個(八十フラン)置いた。
「ファバントゥー君、」と彼は言った、「これは君の家賃と当座の入用のためのものです。その他のことは御相談するとしましょう。」
「神様があなたにむくいて下さいますように、御慈悲深い旦那様《だんなさま》。」とジョンドレットは言った。
 それから彼は急いで女房に近寄った。
「馬車を返せ。」
 亭主がルブラン氏にお世辞をあびせかけ椅子《いす》を進めてる間に、女房はそっとぬけ出した。そして間もなく戻ってきて亭主の耳にささやいた。
「すんだよ。」
 朝から降り続いていた雪は深く積っていたので、馬車のきたのも聞こえなければ、また馬車が帰ってゆくのも聞こえなかった。
 そのうちにルブラン氏は腰を掛けた。
 ジョンドレットはルブラン氏と向き合った椅子に腰をおろした。
 さてこれから起こるべき光景をよく理解せんために、読者は次のことを頭に入れておいていただきたい。凍りつくような寒い夜、雪が積って月光の下に広い経帷子《きょうかたびら》のように白く横たわって寂莫《せきばく》たるサルペートリエールの一郭、そのすごい大通りと黒い楡《にれ》の並み木の長い列とを所々赤く照らしてる街灯の光、ひとりの通行人もなさそうな周囲四半里ばかりの間、その静寂と物すごさと暗夜とのまんなかにあるゴルボー屋敷、その屋敷の中に、その寂莫たる一郭の中に、その暗黒の中にあって、ただ一本の蝋燭《ろうそく》に照らされてるジョンドレットの広い屋根部屋《やねべや》、その部屋の中に向き合ってテーブルについてるふたりの男、一人は落ち着いた静かなルブラン氏、ひとりはほほえんでる恐ろしいジョンドレット、また片すみには牝《めす》の狼《おおかみ》のようなジョンドッレットの女房、それから壁の後ろには、人に見えない所にたたずんで、一語も聞きもらさず一挙動も見落とすまいとして、目を見張りピストルを握りしめてるマリユス。
 マリユスは一種不安な胸騒ぎを覚えたが、何らの恐怖をも感じなかった。彼はピストルの柄を握りしめて心を落ち着けた。「いつでも好きな時にあの悪党を押さえつけてやろう、」と彼は考えていた。
 どこか近くに警官が潜んでいて、約束の合い図を待って今にも腕を差し伸ばそうとしてるもののように、彼は感じていた。
 その上、ジョンドレットとルブラン氏とのその恐しい会合から、自分の知りたく思ってることについて何かの手掛かりが得られはすまいかと、彼は望んでいたのである。

     十九 気にかかる暗きすみ

 ルブラン氏は腰をおろすや否や、寝床の方を見やった。だれも寝てはいなかった。
「けがをしたかわいそうな娘さんはいかがです。」と彼は尋ねた。
「よくありません。」とジョンドレットは心配そうなまた感謝してるような微笑をして答えた。「大変悪うございます。それで姉に連れられて、ブールブ施療院へ繃帯《ほうたい》してもらいに行きました。間もなくお目にかかるでございましょう、すぐに帰って参りますから。」
「御家内はだいぶおよろしいようですね。」とルブラン氏は女房の変な服装をじろりと見やって言った。彼女はその時、既に出口を扼《やく》してるかのようにルブラン氏と扉《とびら》との間に立って、威嚇《いかく》するようなまたほとんど戦わんとしてるような態度で彼を見守っていた。
「家内はもう死にかかっているのでございます。」とジョンドレットは言った。「ですが旦那様《だんなさま》、非常に元気がございましてな、女というよりはまったく牛とでも申したいくらいで。」
 女房はその賛辞に動かされて、媚《こ》びられた怪物が嬌態《しな》を作るような様子で言った。
「あなたはいつもほんとに親切でね、ジョンドレット。」
「ジョンドレットですって。」とルブラン氏は言った。「私はまたファバントゥー君というのだと思っていましたが。」
「ファバントゥー一名ジョンドレットでありまして、」と亭主は急いで言った、「俳優の雅号でございます。」
 そしてルブラン氏に気づかれぬようちょっと肩をそびやかして女房をたしなめ、力をこめた媚びるような調子で言い進んだ。
「いや、この家内と私とは、いつも仲よく暮らしていますんで、そういうことでもなかった日には、もう世に何の楽しみもございません。私どもはそれほど不仕合わせなので、旦那様。腕はあっても仕事はありませず、元気はあっても働く所がありません。いったい政府はどうしているのでしょう。私は決して旦那、過激党ではございません、騒ぎを起こす者ではございません、政府に楯《たて》をつく者ではございません。ですが私がもし大臣にでもなりましたら、断じてこんな状態にはして置きません。まあたとえば、私は娘どもに紙細工の職業でも覚えさしたかったのです。なに職業を? とおっしゃるのですか。さようです、職業で、ほんのちょっとした職業で、パンを得るだけのものでございます。何という落ちぶれかたでしょう。旦那様。昔の姿と比べては何という零落でございましょう。ほんとに、盛んな時のものは何一つ残ってはいません。ただ一つだけで何にも残ってはいません。ただ一つと申しますのは、ごく大事にしています画面ですが、それをも手離そうというのでございます。何しろ食っては行かなくちゃなりませんので、まったく食ってだけはゆかなくちゃなりませんので。」
 ジョンドレットがそういうふうに、考え深い狡猾《こうかつ》そうな顔の表情を保ちながらも表面上何ら前後の考えもなさそうなふうでしゃべっているうちに、マリユスはふと目をあげて、今まで見なかったひとりの男を室《へや》の奥に認めた。その男は、扉《とびら》の音も立てずに静かにはいってきたのである。紫色の毛編みのチョッキを着ていたが、それもすり切れよごれ裂けた古いもので、折り目の所には皆穴があいていた。それからまた、綿ビロードの大きなズボンをはき、足には木靴《きぐつ》をつっかけ、シャツも着ず、首筋を出し、刺青《いれずみ》した両腕を出し、顔はまっ黒に塗られていた。彼は黙って腕を組んだまま、近い方の寝台に腰をおろしていたが、ちょうどジョンドレットの女房の後ろになっていたので、ただぼんやりその姿が見えるきりだった。
 注意を伝える一種の磁石的な本能から、ルブラン氏はマリユスとほとんど同時にその方を顧みた。彼は驚きの様子を自らおさえることができなかった。そしてそれはジョンドレットの目をのがれなかった。
「ああなるほど、外套《がいとう》でございますか。」とジョンドレットは叫んで、機嫌《きげん》を取るようなふうでそのボタンをかけた。「私によく合います。まったくよく合います。」
「あの人はだれです。」とルブラン氏は言った。
「あれでございますか。」とジョンドレットは言った。
「隣の男でありまして、どうか決しておかまいなく。」
 その隣の男というのは、不思議な顔つきをしていた。けれども、そのサン・マルソー郭外には化学製造工場がたくさんあって、そこの職工は多くまっ黒な顔をしてることがあった。ルブラン氏の様子は、静かに大胆に安心しきってるがようだった。彼は言った。
「で、何のお話でしたかな、ファバントゥー君。」
「話と申しますのは、実は旦那様《だんなさま》。」とジョンドレットは言いながら、テーブルの上に肱《ひじ》をつき蟒蛇《うわばみ》のようなじっとすわったやさしい目でルブラン氏をながめた。「私は画面を一つ売り払いたいと申しかけた所でございましたが。」
 扉《とびら》の所で軽い音がした。第二の男がはいってきて、ジョンドレットの女房の後ろに寝台に腰掛けた。第一の男と同じように、両腕を出し、インキか煤《すす》かで顔を塗りつぶしていた。
 その男も文字どおりに室《へや》にすべり込んできたのであるが、ルブラン氏の注意をのがれることはできなかった。
「どうかお気になさいませんように。」とジョンドレットは言った。「みんなこの家にいるものでございます。ところで今の話でございますが、私に残っていますのは一枚の画面きりで、それも貴重なものでして……。まあ旦那、ごらん下さいませ。」
 彼は立ち上がって、壁の所へ行った。その下の方に、前に述べた鏡板が置いてあった。彼はそれを裏返して、やはり壁に立てかけた。それはなるほど何か画面らしいもので、わずかに蝋燭《ろうそく》の光で照らされていた。マリユスはジョンドレットが自分とその画面との間に立っているので、何が描いてあるかはっきり見て取ることができなかった。しかしちょっと見た所、粗末な書きなぐりのものらしく、その主要人物らしいのには、見世物の看板か屏風《びょうぶ》の絵かに見るようななまなましい色彩が施してあった。
「それは何ですか。」とルブラン氏は尋ねた。
 ジョンドレットは勢いよく言った。
「大家の絵でして、非常な価値《ねうち》のあるもので、旦那様《だんなさま》。私はふたりの娘と同じぐらいにこれを大事にしていまして、種々の思い出がこもっているのでございます。ですが今申しましたとおり、まったくのところ、ごく困っているものですから、これを売ってしまいたいと存じまして……。」
 偶然にか、それとも多少不安を感じ初めたのか、ルブラン氏はその画面をながめながらもちらと室《へや》のすみを見やった。そこには今や四人の男がいた。三人は寝台に腰掛け、ひとりは扉《とびら》の框《かまち》のそばに立っていた。四人とも腕をあらわにし、身動きもしないで、顔は黒く塗られていた。寝台に腰掛けてる三人のうちのひとりは、壁によりかかって目を閉じ、あたかも眠ってるかのようだった。その男はもう老人で、まっ黒な顔の上に白い髪があるありさまは何とも言えない不気味さだった。他のふたりはまだ若そうで、ひとりは髯《ひげ》をはやしており、ひとりは髪の毛を長くしていた。だれも靴《くつ》をはいていなかった。上靴をはいてない者は跣足《はだし》のままだった。
 ジョンドレットはルブラン氏の目がその男らの上にすえられてるのを認めた。
「みな親しい仲の者で、近所の者でございます。」と彼は言った。「顔を黒くしていますのは、炭の中で仕事をしているからでして、みな暖炉職工でございます。どうかお気になさらないで、旦那、まあ私のこの画面を買って下さいませ。どうか不幸をあわれんで下さいませ。高くとは申しません。がまあどれぐらいの価値《ねうち》だとおぼし召されますか。」
「だが、」とルブラン氏は言いかけて、ジョンドレットの顔をまともにじっとながめ、用心するようなふうであった、「それは何か旅籠屋《はたごや》の看板ですね。三フランぐらいはしますかな。」
 ジョンドレットは静かに答えた。
「紙入れをお持ち合わせでございましょうか。千エキュー(五千フラン)なら申し分ありませんが。」
 ルブラン氏はすっくと身を起こし、壁を背にして、急いで室《へや》の中を見回した。左手の窓の方にはジョンドレットがおり、右手の扉《とびら》の方にはその女房と四人の男とがいた。四人の男は身動きもしなければ、また彼を見てる様子さえもなかった。ジョンドレットはぼんやりした瞳《ひとみ》をして悲しそうな調子を張り上げ、泣くような声でまた話し出した。それでルブラン氏も今目の前におるこの男は貧乏のために気でも狂ったのではないかと思ったかも知れない。
「もしこの画面でもお買い下さらなければ、まったく旦那様《だんなさま》、」とジョンドレットは言った、「私はもう策の施しようもありませんで、川にでも身を投げるよりほか仕方がございません。私はふたりの娘に、合わせ紙の仕事を、お年玉用のボール箱をこしらえる仕事を習わせようと思っていますんです。それにはガラスが下に落ちないように向こうに板のついたテーブルだの、特別な炉だの、木と紙と布とに使い分けする強さの違ったそれぞれの糊《のり》を入れる三つに仕切ってある壺《つぼ》だの、それからまた、厚紙を切る截《た》ち包丁、形を取る型、鉄をうちつける金槌《かなづち》、ピンセット、その他いろんなものがいります。そしてそれでいくら取れるかと言えば、日に四スーだけでございます、それも十四時間働きづめでして。箱一つでき上がるには十三遍も細工人の手をくぐります。しかも紙はぬらさなければならないし、汚点《しみ》をつけてはいけないし、糊《のり》は熱くしておかなければならないし、まったくやりきれません。そして日に四スーです。それでまあどうして暮らしてゆけましょう。」
 そういうふうに語りながらジョンドレットは、彼を見守ってるルブラン氏の方を少しも顧みなかった。ルブラン氏の目はジョンドレットを見つめ、ジョンドレットの目は扉《とびら》を見つめていた。マリユスの熱心な注意はふたりの上に代わる代わる向けられた。ルブラン氏は自ら問うようなふうだった。「この男はばかなのかな?」ジョンドレットは冗漫と懇願とのあらゆる調子で二、三度くり返した。
「川にでも身を投げるよりほか、もう仕方がございません! 先日もそのつもりで、オーステルリッツ橋のわきを三段ほどおりてゆきました。」
 と突然、彼の鈍い瞳《ひとみ》は怪しい炎に輝き、小さな身体は伸び上がって恐ろしい様子になり、ルブラン氏の方へ一歩進み、そして雷のような声で彼は叫んだ。
「そんなことではないんだ! 貴様には俺《おれ》がわかるか?」

     二十 待ち伏せ

 ちょうどそれは、部屋《へや》の扉が突然開いて、青麻のだぶだぶの上衣を着、黒紙の仮面をつけた三人の男が見えた時だった。第一の男はやせていて、鉄のついた長い棒を持っていた。第二の男は巨人のような体躯《たいく》で、屠牛用《とぎゅうよう》の斧《おの》を頭を下にして柄のまんなかを握っていた。第三の男は肩幅が広く、第一の男ほどやせてもいなければ第二の男ほど太くもなくて、どこかの牢獄の戸から盗んででもきたようなばかに大きな鍵《かぎ》を握りしめていた。
 ジョンドレットはそれら三人の男が来るのを待っていたものらしい。そして棍棒《こんぼう》を持ったやせた男と彼との間に速い対話が初まった。
「すっかり用意はできてるか。」とジョンドレットは言った。
「できてる。」とやせた男は答えた。
「だがモンパルナスはどこにおる。」
「あの色役者は、立ち止まってお前の娘と話をしていた。」
「どっちの娘だ。」
「姉の方よ。」
「下に辻馬車《つじばしゃ》はきてるか。」
「きてる。」
「例の小馬車に馬はついてるか。」
「ついてる。」
「いいやつを二頭か。」
「すてきなやつだ。」
「言っといた所で待ってるな。」
「そうだ。」
「よし。」とジョンドレットは言った。
 ルブラン氏はひどく青ざめていた。彼は今やいかなる所へ陥ったかを了解したかのように、室《へや》の中のものをぐるりと見回した。そしてまわりを取り囲んでる人々の方へ順々に向けられる彼の頭は、注意深そうにかつ驚いたようにおもむろに首の上を動いた。しかし彼の様子のうちには、恐怖のさまは少しも見えなかった。彼はテーブルをもって即座の堡塁《ほるい》とした。そして一瞬間前まではただ親切な老人としか思われなかった彼は、今やにわかに闘士の姿に変わって、椅子《いす》の背にその頑丈《がんじょう》な拳《こぶし》を置き、驚くべき恐ろしい態度を取った。
 かかる危険を前にして確固|毅然《きぜん》たるその老人は、ただ何ということもなく本来からして勇気と親切とを兼ねそなえてるもののように思われた。おのれの愛する女の父に当たる人は、おのれに対して決して他人ではない。マリユスはその名も知らぬ老人について自ら矜《ほこ》りを感じた。
 ジョンドレットが、「あれはみな暖炉職工でございます[#「あれはみな暖炉職工でございます」に傍点]、」と言った腕のあらわな男どものうちの三人は、鉄くずの中を探って、ひとりは大きな鋏《はさみ》を取り、ひとりは重い火ばしを取り、ひとりは金槌《かなづち》を取って、一言も発せずに扉《とびら》から斜めに並んだ。年取った男はなお寝台の上に腰掛けていて、ただ目を開いたばかりだった。ジョンドレットの女房はそのそばに腰掛けていた。
 マリユスはもう数秒のうちに自分が手を出すべき時が来るだろうと考えた。彼は廊下の方へ天井を向けて右手を上げ、ピストルを打つ用意をした。
 ジョンドレットは棍棒《こんぼう》の男との対話を終えて、再びルラブン氏の方へ向き、彼独特のおさえつけたような恐ろしい低い笑いをしながら、前の問いをくり返した。
「それじゃ貴様には俺《おれ》がわからねえのか。」
 ルブラン氏は彼を正面からじっと見て答えた。
「わからない。」
 するとジョンドレットはテーブルの所までやっていった。そして蝋燭《ろうそく》の上から身をかがめ、腕を組み、その角張った獰猛《どうもう》な頤《あご》をルブラン氏の落ち着いた顔にさしつけ、ルブラン氏があとにさがらないくらいにできるだけ近く進み出て、まさにかみつかんとする野獣のようなその姿勢のまま叫んだ。
「俺《おれ》はファバントゥーというんじゃねえ、ジョンドレットというんでもねえ。俺はテナルディエという者だ。モンフェルメイュの宿屋の亭主だ。いいか、そのテナルディエなんだ。さあこれで貴様、俺がわかったろう。」
 ほとんど見えないくらいの赤みがルブラン氏の額にちらと浮かんだ。そして彼は例の平静さで、震えもしなければ高まりもしない声で答えた。
「いっこうわからない。」
 マリユスの耳にはその答えもはいらなかった。その暗闇《くらやみ》の中にそのとき彼を見た者があったならば、駭然《がいぜん》とし呆然《ぼうぜん》として打ちひしがれたような彼の様子が見られたであろう。ジョンドレットが「俺はテナルディエという者だ」と言った瞬間に、マリユスはあたかも心臓を貫かれる刃の冷たさを感じたかのように、全身を震わして壁にもたれかかった。それから合い図の射撃をしようと待ち構えていた右の腕は静かにたれ、ジョンドレットが「いいかそのテナルディエなんだ」とくり返した時には、力を失った彼の指は危うくピストルを落としかけた。本名を現わしたジョンドレットは、ルブラン氏を動かし得なかったが、マリユスを転倒さした」]。ルブラン氏が知らないらしいそのテナルディエという名前を、マリユスはよく知っていた。そしてその名前は彼にとっていかなる意味を有するかを読者は思い出すだろう。その名前こそ、父の遺言のうちにしるされ、彼が常に心にいだいていたものである。彼はその名前を、頭の奥に、記憶の底に、また、「テナルディエという者予の生命を救いくれたり、もし予が子にして彼に出会わば、及ぶ限りの好意を彼に表すべし、」という神聖なる命令のうちに、常に納めていたのである。その名前こそ、読者の記憶するとおり、彼の心が帰依してるものの一つであった。彼はそれを父の名前といっしょにして崇拝していた。しかるに現在この男がテナルディエであろうとは! 長い間いたずらにさがしあぐんでいたモンフェルメイュの宿屋の主人であろうとは! 彼はついにその男を見いだしたが、それもいかにしてであったか。父を救った男は悪漢だったのである。マリユスが身をささげて仕えんと望んでいたその男は、怪物だったのである。このポンメルシー大佐を救ってくれた男は、今やある暴行を行なわんとしていた。マリユスにはその暴行がいかなる形式のものであるかまだ明らかにはわからなかったけれども、とにかく殺害らしく思われるものだった。しかもその暴行はだれに向かって加えられんとしているのか! ああ何たる宿命ぞ、いかに苦《にが》き運命の愚弄《ぐろう》ぞ! 父は柩《ひつぎ》の底から彼に、でき得る限りの好意をテナルディエにつくすよう命じていた、そして四年の間彼は、父に対するその負債《おいめ》を果たさんとの念しか持っていなかった。しかるに、警官をして罪悪の最中における悪漢を捕えさせんとする瞬間に当たって運命は彼に叫んだ。「その男こそテナリディエである!」ワーテルローの勇ましい戦場で弾丸の雨下する中に救われた父の生命に対して、その男に彼はついに何をむくいんとするのか、絞首台をもってむくいんとするのか。もしテナルディエを見いだすこともあったら、直ちに馳《は》せ寄ってその足下に身を投じようと、彼はかねて期していた。そして今実際彼を見いだしはしたが、しかしそれは彼を刑執行人の手に渡さんがためだったのであるか。父はマリユスに「テナルディエを救え」と言っていた、しかるにマリユスはテナルディエを打ちひしいでその敬愛せる聖《きよ》き声に答えんとするのか。その男は身の危険を冒して父を死より救い、父はその男を子たるマリユスに頼んでおいたのに、マリユスは今自らその男をサン・ジャックの広場に処刑さして、それを父の墓前にささげんとするのか。父が自らしたためた最後の意志をかくも長い間胸にいだいていながら、まさしくその正反対をなさんとは、何という運命の愚弄《ぐろう》であろう! しかしまた一方に、その待ち伏せを見ながらそれを妨げんともせず、被害者を見捨て殺害者を許さんとするのか! かかる悪漢に対して何らか感謝の念をいだき得るものであろうか。四カ年以来マリユスが持っていたあらゆる考えは、その意外の打撃によってずたずたに引き裂かれてしまった。彼は身を震わした。すべては彼の一存にかかっていた。彼の眼前に争っているそれらの人々は、おのずから彼の手中にあった。もし彼がピストルを打ったならば、ルブラン氏は救われテナルディエは捕えられるだろう。もしピストルを打たなければ、ルブラン氏は犠牲に供され、テナルディエはあるいは身を脱するだろう。一方を倒しても、また他方を見殺しにしても、いずれも悔恨の念は免れぬ。何となすべきか? いずれを選ぶべきか? 最も強き記憶、内心の深き誓い、最も神聖なる義務、最も尊き文言、それにそむくべきか。父の遺言にそむくべきか。あるいはまた罪悪の行なわるるのを見過ごすべきか。一方には父のために懇願する「わがユルスュール」の声が聞こえるように思われ、他方にはテナルディエのことを頼む大佐の声が聞こえるように思われた。そして彼は気も狂わんばかりの心地がした。膝《ひざ》も身体をささえきれなくなった。しかも眼前の光景は切迫していて、熟慮のひまさえもなかった。自分が左右し得ると思っていた旋風にかえって運び去らるるがようなものだった。彼はほとんど気を失いかけた。
 その間にテナルディエは――われわれは以後彼をこの名前で呼ぶことにしよう――われを忘れたようにまた勝利に酔うたがように、テーブルの前をあちらこちら歩いていた。
 彼は手のうちに蝋燭《ろうそく》をつかみ、蝋は壁にはねかかり火は消えかかったほどの激しさでそれを暖炉の上に置いた。
 それから彼は恐ろしい様子でルブラン氏の方をふり向き、こういう言葉を吐きかけた。
「焼けた、焦げた、煮えた、蒲焼《かばやき》だ!」
 そして彼は恐ろしい勢いでまた歩き出した。
「ああ、」と彼は叫んだ、「とうとう見つけたよ、慈善家さん、ぼろ着物の分限者さん、人形をくれた奴《やっこ》さん、老耄《おいぼれ》のジョクリスさん!(訳者注 ジョクリスとはお人よしの典型的人物)ああお前さんにはわしがわからないのかね。ちょうど八年前、一八二三年のクリスマスの晩に、モンフェルメイュのわしの宿屋へきたなあ、お前さんではなかったろうよ。ファンティーヌの娘のアルーエットというのをわしの家から連れ出したなあ、お前さんではなかったろうよ。黄色い外套《がいとう》を着ていたのはな、そして今朝《けさ》わしの所へきた時のようにぼろ着物の包みを手に下げていたのはな。おい女房、よその家へ毛糸の靴下《くつした》をつめ込んだ包みを持って行くのは、この男の癖と見えるな、この慈善顔をした老耄めのな。分限者さん、お前さんは小間物屋かね。貧乏人に店のがらくたをくれやがって、へん、笑わせやがるよ。お前さんに俺《おれ》がわからねえって? だがな、俺の方ではわかってるんだ。お前がここに鼻をつっ込みやがった時からすぐに見て取ったんだ。宿屋だからと言ってやたらに人の家へ入り込みやがって、みじめな着物をつけてさ、一文の銭をこうような貧乏な様子をしてさ、人をだまかし、大きなふうをして、米櫃《こめびつ》をまき上げやがって、森の中で人を脅かしやがって、そのくせ人が落ちぶれてると、大きすぎる外套《がいとう》だの病院にあるようなぼろ毛布を二枚持ってきて、すました顔をしてやがる。それでうまくゆくと思うと大まちがえだ、老耄《おいぼれ》の乞食《こじき》めが、誘拐者《かどわかし》めが!」
 彼はふと言いやめて、ちょっと心の中で独語してるように見えた。ちょうど彼の憤怒は、ローヌ川のように穴の中へでも落ちたかのように見えた。そしてひそかに独語したことに大声で結末をつけるかのように、テーブルを拳《こぶし》でたたいて叫んだ。
「しかもお人よしのようなふうをしやがってさ。」
 そしてルブラン氏の方へ言いかけた。
「おい、お前は以前によくも俺《おれ》をばかにしやがったな。俺の不運のもとはみんなお前だぞ。わずか千五百フランで大事な娘を取ってゆきやがったからだ。娘はな、たしか金持ちの子供だったんだ。それまでにずいぶん金も送ってきた。俺はその娘を一生の食いものにするつもりでいたんだ。あの宿屋じゃあずいぶん損をしたんだが、その娘さえいりゃあどうにかなったろうというものだ。あんなつまらねえ宿屋ったらねえや、ぜいたくなばか騒ぎばかりしてさ、俺の方じゃあ能《のう》もなくすっかり食いつぶしてしまったからな。あああの店へきやがって酒を飲んだ奴《やつ》どもにゃあ酒がみな毒とでもなったらなあ! いやそんなこたあどうでもいいや。おいお前はな、あのアルーエットを連れて行く時には、俺を愚図とでも思って笑いやがったろうな。あの森の中では大きな棒を持っていやがったな。あの時はお前の方が強かったさ、だがこんどはそうはいかねえや。切り札は俺の方にあるんだ。お気の毒だがお前の方が負けだ。ははあおかしいや、ちゃんちゃらおかしいや。うまく罠《わな》に落っこちやがった。俺は言ってやったよ、俳優でございます、私はファバントゥーと申します、マルス嬢やムューシュ嬢といっしょに芝居をしたこともございます、二月四日に家主に金を払わなくてはなりませんとさ、それに奴《やっこ》さん少しも気がつかねえんだ、期限は二月四日じゃなくて一月八日になってるってことをな。ばか野郎め! そしてつまらねえフィリップ(訳者注 ルイ・フィリップ王の肖像がある二十フラン金貨)を四つ持ってきやがった。恥知らずめ! せめて百フランでも持って来りゃあまだしもだ。だがまあうまく俺のおもしろくもねえ策に乗りやがった。ほんにおかしいや。俺《おれ》はひとりでこう言っていたんだ。『おばかさん、さあつかまえたぞ。今朝《けさ》はてめえの足をなめてやる、だが晩になってみろ、心臓までもしゃぶってやるからな。』」
 テナルディエはしゃべるのをやめた。彼は息を切らしていた。その小さな狭い胸は、あえいでいた。その目は賤《いや》しい幸福の色に満ちていた。恐れていた者をついにうち倒し媚《こ》びていた者をついに侮辱してやったという残忍|卑怯《ひきょう》な弱者の喜びであり、巨人ゴライアスの頭を土足にかける侏儒《しゅじゅ》の喜びであり、もはや身を守り得ないほど死に瀕《ひん》してはいるがまだ苦痛を感ずるくらいの命はある病める牡牛《おうし》を、初めて引き裂きかけた豪狗《ごうく》の喜びである。
 ルブラン氏は彼の言葉を少しもさえぎらなかった。しかし彼が言いやめた時にこう言った。
「私には君の言うことがわからない。君は何か思い違いをしているようだ。私はごく貧しい者で、分限者なんかではない。私は君を知らない。だれかと人違いをしたのでしょう。」
「なんだと、白ばっくれるな。」とテナルディエはうめき出した。「冗談を言うない。ぐずぐずぬかしやがって、老耄《おいぼれ》めが。貴様、覚えていねえのか。俺がわからねえのか。」
「失礼だがわからない。」とルブラン氏は丁寧な調子で答えたが、それはかかる場合に何だか力強く妙に聞こえた。「君はどうも悪党らしいが。」
 人の知るとおり、嫌悪《けんお》すべき輩《やから》はすべていら立ちやすいものであり、怪物はすべて怒りやすいものである。悪党という言葉を聞いて、テナルディエの女房は寝台から飛びおり、テナルディエは握りつぶさんばかりに椅子《いす》をつかんだ。「じっとしてろ。てめえは!」と彼は女房に叫んだ。そしてルブラン氏の方へ向き直った。
「悪党だと! なるほどな、金のある奴《やつ》らは俺たちのことをそうぬかしやがる。なるほどそれに違えねえ。俺《おれ》は破産をし、身を隠し、食うものもねえし、金もねえし、それで悪党だ。もう三日というもの何にも口にしねえ、それで悪党だ。それに貴様らは、足を暖かくし、サコスキの上靴《うわぐつ》をはき、毛のはいった外套《がいとう》を着、大司教のような様子をし、門番のついた家の二階に住み、松露を食い、正月には四十フランもするアスパラガスを食いちらし、豌豆《えんどう》を食い、口一杯にほおばり、そして寒いかどうか知りてえ時には、シュヴァリエ技師の寒暖計がいくらさしてるか新聞で見やがる。だがな、本当の寒暖計は俺たちだ。時計台の角《かど》の河岸《かし》に出て、何度の寒さかを見にゆく必要はねえんだ。俺たちは脈の血が凍り心臓にも氷がはるのを感ずるんだ。そしては、神もねえのかって言うんだ。そういう時に貴様らは、俺たちの巣にやってきやがって、そうだ巣にやってきやがって、悪党だなんてぬかすんだ。だがな俺たちは、貴様らを食ってやるんだ。金持ちのちびども、貴様らを貪《むさぼ》り食ってやらあな。おい分限者さん、よく覚えておくがいい。俺はな、身分のある男だったんだ、免状を持っていたんだ、選挙の資格もあったんだ、りっぱな市民だったんだ、この俺がだぜ、ところが貴様にはそういうものが一つもねえんだろう、貴様にはな!」
 そこでテナルディエは扉《とびら》のそばに立ってる男どもの方へ一歩進んで身を震わしながら言った。
「人の所へきやがって、靴直《くつなお》しかなんぞにでも言うような口をききやがるんだぜ。」
 それからまた、更に怒り立ってルブラン氏の方へあびせかけた。
「そしてまたこういうことも覚えておいてもらおうぜ、慈善家さん! 俺《おれ》はな、後ろ暗え人間じゃねえんだ。名前を明しもしねえで人の家へ子供を取りに来るような者じゃねえんだ。俺はもとフランスの軍人だ、勲章でももらっていい人間だ。ワーテルローに行ってよ、何とかいう伯爵の将軍を戦争中に救ったんだ。名前をきかされたが、声が低くて聞き取れなかった。ありがとう[#「ありがとう」に傍点]というだけは聞こえた。そんな礼の言葉なんかより、名前を聞き取った方がよかったんだが。そうすればまた尋ね出すこともできようってわけさ。この絵はな、ブラッセルでダヴィドが描いたものなんだ。何が描いてあるかわかるか。この俺を描いたんだ。ダヴィドは俺の手柄を後の世まで残そうと思ったんだ。その将軍を背にかついで、弾丸《たま》の下をくぐって運んでゆくところだ。物語はざっとこのとおりさ。俺は何もその将軍に世話になっていたわけじゃねえ。他人も同様さ。それでも俺は生命を捨ててその人を助けた。その証明書はポケットに一杯あらあ。俺はワーテルローの名高い兵士だぞ。ところで、親切にそれだけ言ってきかしてやったからには、これでおしまいにしよう。つまり俺は金がほしいんだ。たくさんな金が、莫大《ばくだい》な金がほしいんだ。うんと言わなきゃあ、やっつけてしまうばかりだ、いいか。」
 マリユスは心の苦悩を多少おさえ得て、耳を傾けていた。そして最後の疑念もすべて消えてしまった。その男こそまったく、父の遺言にあるテナルディエだったのである。そしてテナルディエが父の忘恩を非難するのを聞き、自分は今や必然にその非難を至当のものたらしめんとしていることを思って、マリユスは身を震わした。彼の困惑はますます深くなった。その上、テナルディエの言葉、その語調、その身振り、一語ごとに炎をほとばしらすその目つき、またすべてを暴露する悪心の爆発、虚勢と卑劣と、傲慢《ごうまん》と丁重と、憤激と愚昧《ぐまい》とその混合、真実の苦情と虚偽の感情とのその混淆《こんこう》、暴戻《ぼうれい》の快感をむさぼる悪人らしいその破廉恥、醜い魂のその厚顔なる赤裸、あらゆる苦しみと憎しみとが結びついてるその火炎、すべてそれらのもののうちには、害悪のごとく嫌悪《けんお》すべきまた真理のごとく痛切なる何物かが存していた。
 大家の画面、テナルディエがルブラン氏に買ってくれと言い出したダヴィドの絵は、もう読者もほぼ察し得たであろうが、実は彼の宿屋の看板にほかならなかった。それは読者の記憶するとおり、彼が自分で描いたものであって、モンフェルメイュにおける失敗以来なお取って置いた唯一のものだった。
 ちょうどテナルディエの位置がマリユスの視線を妨げないようになったので、マリユスは今その絵らしいものをながめることができた。なるほどその塗りたくってある中に、戦争らしいありさまと、背景の煙と、ひとりの男をかついでる人間とが認められた。それがすなわちテナルディエとポンメルシーとのふたりで、救った軍曹と救われた大佐とである。マリユスは酒に酔ったがようだった。その画面は父がまだ生きてるような感を彼にいだかせた。もはやそれはモンフェルメイュの宿屋の看板ではなかった。一つの復活であり、墳墓はその口を開いて、幻影がそこに立ち現われた。マリユスは両の蟀谷《こめかみ》に心臓の鼓動を聞いた。耳にはワーテルローの大砲の響きが聞こえ、気味悪いその板の上にぼんやり描かれてる血に染まった父の姿は、彼を脅かした。そして彼には、その怪しい幽霊が自分をじっと見つめてるように思われた。
 テナルディエは一息ついて、ルブラン氏の上に血走った瞳《ひとみ》をすえ、低いぶっきらぼうな声で言った。
「今貴様を踊らしてやる、だがその前に何か言うことがあるか。」
 ルブラン氏は黙っていた。その沈黙のうちに、しわがれ声の忌まわしい嘲《あざけ》りが廊下から響いた。
「薪《まき》でも割るなら俺《おれ》が行くぞ。」
 それはおもしろがってる斧《おの》を持った男だった。
 同時に、毛だらけの泥まみれの大きな顔が、歯というよりも牙《きば》を出してすごい笑いを浮かべながら、扉《とびら》の所からのぞき込んだ。
 斧を持ってる男の顔だった。
「どうして面を取ったんだ。」とテナルディエは怒って叫んだ。
「笑ってみてえからさ。」と男は答えた。
 ちょっと前からルブラン氏は、テナルディエの挙動に目をつけすきをうかがってるようだった。テナルディエの方は自分の憤激に目がくらみ、頭がくらんでいた。そして、扉には番がついているし、自分は武器を持ってるのに相手は無手であるし、女房をもひとりと数えれば相手はひとりにこちらは九人いるので、安心しきって室《へや》の中を歩き回っていた。斧の男に口をきく時には、ルブラン氏の方に背を向けた。
 ルブラン氏はその瞬間をとらえた。彼は椅子《いす》を蹴《け》飛し、テーブルをはねのけ、テナルディエがふり返る間もあらせず、驚くべき敏捷《びんしょう》さで一躍して窓の所へ達した。窓を開き、その縁に飛び上がり、それを乗り越すのは、一瞬間の仕事だった。彼は半ば窓の外に出た。その時六つの頑丈《がんじょう》な手が彼をつかみ、無理無体に彼を室の中に引きずり込んだ。彼の上に飛びかかったのは三人の「暖炉職工」だった。と同時に、テナルディエの女房は彼の頭髪につかみかかった。
 その騒ぎに、外の悪党どもも廊下からはいって来た。寝床の上にいた酒に酔ってるらしい老人も、寝台からおりて、手に道路工夫の金槌《かなづち》を持ってよろめきながら出て来た。
「暖炉職工」のひとりの顔は、蝋燭《ろうそく》の光に照らされていた。その塗りつぶした顔つきのうちにマリユスは、それがパンショー一名プランタニエ一名ビグルナイユであることを見てとった。その男が今や、鉄棒の両端に鉛の丸《たま》のついてる一種の玄翁《げんのう》をルブラン氏の頭めがけて振り上げた。
 マリユスはそれを見てもはや堪《こら》えることができなかった。「お父さん、許して下さい、」と彼は心に念じて、指先で、ピストルの引き金を探った。そして今や発射せんとした時、テナルディエの叫ぶ声がした。
「けがをさしてはいけねえ!」
 犠牲者の死物狂いの試みは、テナルディエを激させるどころかかえって落ち着かした。彼のうちには、獰猛《どうもう》な者と巧妙な者とふたりの人間がいた。そしてその時までは、勝利に酔い、取りひしがれて身動きもしない餌物《えもの》を前にして、獰猛な者の方が強く現われていた。しかるに犠牲者があばれ出して抵抗しかけた時に、巧妙な者の方が現われてきて優勢となった。
「けがをさしてはいけねえ!」と彼はくり返した。そして、彼自身では知らなかったが、その第一の成功として、彼はそれでピストルの発射をやめマリユスをすくました。今や危急は去って局面が一変したので、も少し待ってもさしつかえない、とマリユスは思った。ユルスュールの父を見殺しにするかあるいは大佐の救い主を滅ぼすかの板ばさみの地位から自分を助け出してくれるような、何かの機会が起こるまいものでもない、と彼は思った。
 恐ろしい争闘が初まっていた。ルブラン氏は老人の胸を一撃して室《へや》のまんなかにはね倒した。それから二度後ろを払って、他のふたりの襲撃者を打ち倒し、それをひとりずつ両膝《りょうひざ》の下に押し伏せた。ふたりの悪漢は膝に押さえつけられて、ちょうど花崗石《かこうせき》の挽臼《ひきうす》の下になったようにうめき声を出した。しかし残りの四人は、その恐ろしい老人の両腕と首筋とをとらえ、組み敷かれたふたりの「暖炉職工」の上に押さえつけた。かくて一方を押さえ他方に押さえられ、下の者らを押しつぶし上の者らから息をつめられ、自分の上に集まってる人々の力をいたずらにはねのけようとしながらルブラン氏はそれら恐るべき悪党どもの下に見えなくなって、あたかも番犬や猟犬どものほえ立った一群の下に押さえられている猪《いのしし》のようだった。
 彼らは、ようやく窓に近い寝台の上にルブラン氏を引き倒し、じっと押さえつけたきりだった。テナルディエの女房はなお髪の毛をつかんで離さなかった。
「てめえは引っ込んでろ、」とテナルディエは言った。「肩掛けが破れるじゃねえか。」
 女房は狼《おおかみ》の牝《めす》が牡《おす》に従うように、うなりながらその言葉に従った。
「さあみんなで、」とテナルディエは言った、「そいつの身体をさがせ。」
 ルブラン氏は抵抗の念を捨てたらしかった。人々は彼の身体をさがした。しかし身につけてた物はただ、六フランはいってる皮の金入れとハンカチばかりだった。
 テナルディエはそのハンカチを自分のポケットに納めた。
「なんだ、紙入れもねえのか。」と彼は尋ねた。
「それに時計もねえんだ。」と「暖炉職工」のひとりが答えた。
「そんなことはどうでもいい。」と大きな鍵《かぎ》を持ってる仮面の男が腹声でつぶやいた。「なかなかすげえ爺《じじい》だ。」
 テナルディエは扉《とびら》の片すみに行き、一束の繩《なわ》を取り、それを皆の所へ投げやった。
「寝台の足に縛りつけろ。」と彼は言った。
 そして、ルブラン氏の一撃を食って室《へや》の中に長く横たわり、身動きもしないでいる老人を見て、彼は尋ねた。
「ブーラトリュエルは死んだのか。」
「いや酔っ払ってるんだ。」とビグルナイユが答えた。
「すみの方に片づけろ。」とテナルディエは言った。
 ふたりの「暖炉職工」は、足の先でその泥酔者を鉄屑《てつくず》の積んであるそばに押しやった。
「バベ、どうしてこう大勢連れてきたんだ。」とテナルディエは棍棒《こんぼう》の男に低い声で言った。「むだじゃねえか。」
「仕方がねえ、皆きてえって言うから。」と棍棒の男は答えた。「どうもこの頃は不漁《しけ》でね、さっぱり商売がねえんだ。」
 ルブラン氏が押し倒された寝台は、施療院にあるようなもので、四角が荒削りの四本の木の足がついていた。
 ルブラン氏はされるままに身を任した。悪党どもは窓から遠くて暖炉に近い方のその一本の足に、両足を床《ゆか》につけて立たしたまま彼を縛りつけた。
 すっかり縛り終えた時、テナルディエは椅子《いす》を持ってきて、ほとんどルブラン氏の正面に腰をおろした。彼はもう様子がすっかり変わっていた。わずかな時間のうちに彼の顔つきは、奔放な狂暴さから落ち着き払った狡猾《こうかつ》な冷静さに変わっていた。マリユスは役人のようなその微笑のうちに、一瞬間前まで泡《あわ》を吹いてどなっていたほとんど獣のような口を認めかねるほどだった。彼は呆然《ぼうぜん》としてその不思議な恐るべき変容を見守った、そして猛虎《もうこ》が代言人と早変わりしたのを見るような驚きを感じた。
「旦那《だんな》……。」とテナルディエは言った。
 そしてなおルブラン氏を押さえてる悪人どもに少し離れるように手まねをした。
「少しどいてくれ、旦那にちょっと話があるんだ。」
 皆の者は扉《とびら》の方へさがった。彼は言い出した。
「旦那、窓から飛び出そうなんてよくありませんぜ。足をくじくかも知れませんからな。でまあ穏やかに話をつけようじゃありませんか。第一わしの方でも気づいたことを申さなくちゃならねえ、と言うのは旦那、これだけのことに少しも声を立てなさらねえことだ。」
 テナルディエの言うのは道理で、心乱れてるマリユスはいっこう気づかなかったが、それはまったく事実だった。ルブラン氏はわずか二、三言を発するにも少しもその声を高くしなかった、そして窓のそばで六人の悪漢と奮闘する時でさえ、きわめて深い不思議な沈黙を守っていたのである。テナルディエは言い続けた。
「どうですかね、泥坊とか何とか少しはどなったって、別にわしの方では不思議とは思わねえ。場合によっちゃあ、人殺し! とでもどなりてえところだ。そう言われたってわしの方じゃ別に気を悪くはしねえ。うさんな奴《やつ》らに取り巻かれた時にゃあ、少しは騒ぎ立てるのがあたりまえだ。お前さんが声を立てたにしろ、それでどうしようっていうんじゃねえ。猿轡《さるぐつわ》さえもはめはしねえ。なぜかって、それはこの室《へや》がごく人の耳に遠いからだ。この室は何も取り柄はねえが、それだけはりっぱなもんだ。まるで窖《あなぐら》みてえだ。かりに爆弾を破裂さしたところで一番近所の警察にも酔っ払いの鼾《いびき》ぐらいにしか聞こえねえ。大砲の音もぼーんというきりで、雷の響きもぷーっというきりだ。まったく都合のいい住所だ。だがとにかく、お前さんは少しも声を立てなかった。なるほど感心な心掛けだ。わしにもよく察しはつく。ねえ旦那《だんな》、声を立てたら、来る者は警官だ。警官のあとから来る者は裁判官だ。ところで旦那は少しも声を立てなさらねえ。なるほど旦那の方でもわしらと同様、裁判官や警官が来るのを好みなさらねえ。それは旦那に――わしも前からうすうす察してはいましたがね――何か人に知られては都合のよくねえことがありなさるからだ。わしらの方だってそれは同じでさあ。だから互いに話がわかろうっていうもんじゃありませんか。」
 そういうふうに話しながら、テナルディエはじっとルブラン氏の上に瞳《ひとみ》をすえて、両眼からつき出した視線の鋭い刃を相手の心の底まで突き通そうとしてるかのようだった。その上彼の言葉は、ずるそうな穏やかな横柄さがこもってはいたが、ごく控え目でかつりっぱだとさえ言えるほどだった。そして先刻まで一強盗にすぎなかったその悪人のうちには、なるほど「牧師になるために学問をした男」があることも感ぜられた。
 捕虜が守っている沈黙、自分の生命をも顧みないほどのその注意、まず第一に叫び声を立てるのが当然であるのをじっとおさえてるその我慢、すべてそれらのことを、テナルディエの言葉によってマリユスは初めて気づいて、あえて言うが、かなり気にかかって心苦しい驚きを感じた。
 テナルディエの道理ある観察は、クールフェーラックがルブラン氏[#「ルブラン氏」に傍点]という綽名《あだな》を与えたその荘重な不思議な人物を包む不可解の密雲を、いっそう暗くするもののようにマリユスには思えた。しかし、彼が果たして何人《なんぴと》であったにせよ、かく繩《なわ》に縛られ、殺害者らに取り巻かれ、言わばもう半ば墓穴の中につき込まれ、刻々にその墓穴は足下に深まりゆくにもかかわらず、またテナルディエのあるいは暴言の前にあるいは甘言の前にありながら、彼は常に顔色一つ動かさなかった。そしてマリユスは、そういう際におけるその崇高な幽鬱《ゆううつ》な顔貌《がんぼう》に対して、自ら驚嘆を禁じ得なかった。
 それこそまさしく、恐怖にとらわるることなき魂であり、狼狽《ろうばい》の何たるかを知らない魂であった。絶望の場合に臨んでも驚駭《きょうがい》の念をおさえ得る人であった。危機はいかにも切迫し、覆滅はいかにも避け難くはあったけれども、水中に恐ろしい目を見張る溺死者《できししゃ》のような苦悶《くもん》のさまは、少しも現われていなかった。
 テナルディエは無造作に立ち上がって、暖炉の所へ行き、そばの寝台に立てかけてあった屏風《びょうぶ》を取り払った。そして盛んな火炎に満ちた火鉢《ひばち》が現われ、中には白熱して所々まっかになってる鑿《のみ》があるのが、はっきり捕虜の目にはいった。
 テナルディエはそれからルブラン氏のそばに戻ってきて腰をおろした。
「なお先を少し言わしてもらいましょうか。」とテナルディエは言った。「お互いに話がわかろうっていうもんです。だから穏やかに事をきめましょうや。さっき腹を立てたなあわしが悪かった。どうしたのか自分でもわからねえが、あまりむちゃになって、少し乱暴な口をききすぎたようだ。たとえて言ってみりゃあ、お前さんが分限者だからと言って、金が、沢山な金が、莫大《ばくだい》な金がほしいなんて言ったなあ、わしの方がまちがっていた。そりゃあお前さんにいくら金があったところで、いろいろ入費《いりめ》もありなさるだろうし、だれだって同じことでさあ。わしだって何もお前さんの財産をつぶそうっていうんじゃねえ。とにかくお前さんの身をそぐようなこたあしませんや。有利な地位にいるからって、それに乗じて人に笑われるようなことをする人間たあ違いまさあ。よござんすか、わしの方でもまあまけておいて、いくらか譲歩するとしましょう。つまり二十万フランばかりでよろしいんですがね。」
 ルブラン氏は一言も発しなかった。テナルディエは言い続けた。
「このとおりわしは相当に事をわけて話してるつもりだ。お前さんの財産がどのくらいあるかわしは知らねえ、だがお前さんは金に目をくれはしなさらねえってことだけはわかってる。お前さんのような慈悲深え人は、不仕合わせな一家の父親に二十万フランぐらいは出してくれてもよさそうなもんだ。お前さんだって確かに物の道理はわかってるはずだ。今日のように骨を折って、今晩のように手はずをきめて、ここにきてる人たちを見てもわかるとおり万事うまく仕組みをした以上は、わずかデノアイエ料理店で十五スーの赤い奴《やつ》を飲み肉をつっつくぐらいの金じゃすまされねえってことは、お前さんにもわかるはずだ。二十万フランぐらいの価値《ねうち》はありまさあね。それだけのはした金をふところから出しさえしなさりゃあ、それですべて帳消しにして、お前さんに指一本さしゃあしません。なるほどお前さんは、だが今二十万フランなんて持ち合わせはねえって言いなさるだろう。なにわしもそう無茶なことは言いませんや。今それをくれとは言やあしません。ただ一つお頼みがあるんでさあ。わしが言うとおりに書いてもらいてえんです。」
 そこで、テナルディエは言葉を切った。それから火鉢《ひばち》の方へちょっと笑顔を向けながら、一語一語力を入れて言い添えた。
「ことわっておくが、お前さんに字が書けねえとは言わせない。」
 その時の彼の微笑には、宗教裁判所の大法官をもうらやませるほどのものがあった。
 テナルディエはルブラン氏のすぐそばにテーブルを押しやって、引き出しからインキ壺《つぼ》とペンと一枚の紙とを取り出した。彼はその引き出しを半ば開いたままにしておいたが、そこにはナイフの長い刃が光っていた。
 彼はルブラン氏の前に紙を置いた。
「書きなさい。」と彼は言った。
 捕虜はついに口を開いた。
「どうして書けというんです、このとおり縛られているのに。」
「なるほどな、」とテナルディエは言った、「ご道理《もっとも》だ。」
 そして彼はビグルナイユの方を向いた。
「旦那《だんな》の右の腕を解いてくれ。」
 パンショー一名プランタニエ一名ビグルナイユは、テナルディエの言うとおりにした。捕虜の右手が自由になった時、テナルディエはペンをインキに浸して、それを彼に差し出した。
「旦那、よく頭に入れておいてもらいましょうや。お前さんは今日わしらの手の中にありますぜ。わしらの思うままに、まったく思うままにどうにでもできますぜ。人間の力ではとうていお前さんをここから助け出すことはできねえ。だがわしらだって荒療治をしなけりゃならねえようになるのはまったくいやなんだ。わしはお前さんの名前も知らねえし、住所も知らねえ。しかしことわっておくが、お前さんがこれから書く手紙を持って行く使いの者が帰って来るまでは、縛られたままでいなさらなけりゃならねえ。そのつもりで、さあ書きなさるがいい。」
「何と?」と捕虜は尋ねた。
「わしの言うとおりに。」
 ルブラン氏はペンを取った。
 テナルディエは口授し初めた。
「――わが娘よ……――」
 捕虜は身を震わして、テナルディエの方へ目を上げた。
「――わが愛する娘よ――と書きなさい。」とテナルディエは言った。
 ルブラン氏はそのとおりに書いた。テナルディエは続けた。
「――すぐにおいで……――。」
 彼は言葉を切った。
「お前さんは彼女《あれ》にそういうふうな親しい言い方をしていなさるだろうな。」
「だれに?」とルブラン氏は尋ねた。
「わかってらあな、」とテナルディエは言った、「あの子供にさ、アルーエットにさ。」
 ルブラン氏は外見上いかにも冷静に答えた。
「何のことだか私にはわからない。」
「でもまあ書きなさい。」とテナルディエは言った。そしてまた口授を初めた。
「――すぐにおいで。是非お前にきてほしい。この手紙を持って行く人が、お前を私の所へ案内してくれることになっている。私はお前を待っている。やっておいで安心して――。」
 ルブラン氏はそれをすっかり書いた。テナルディエは言った。
「ああ安心してというのは消しなさい。それは何だか普通のことでないような気を起こさして、不安に思わせるかも知れない。」
 ルブラン氏はその四字を消した。
「さあ署名しなさい。」とテナルディエは言った。「お前さんの名は何て言うのかな。」
 捕虜はペンを置いて、そして尋ねた。
「だれにこの手紙はやるんですか。」
「お前さんにはよくわかってるはずだ。」とテナルディエは答えた。「あの子供にさ。今言ってきかしたとおりだ。」
 問題の若い娘の名を言うことをテナルディエが避けてるのは明らかだった。彼は「アルーエット」(ひばり娘)と言いまた「あの子供」と言いはしたが、その名前は口に出さなかった。それは共犯者らの前にも秘密を守る巧妙な男の用心であった。名前を言うことは「その仕事」を彼らの手に渡してしまうことだったろう、そして彼らに必要以上のことを知らせることだったろう。
 彼は言った。
「署名しなさい。お前さんの名は何というんだ。」
「ユルバン・ファーブル。」と捕虜は答えた。
 テナルディエは猫《ねこ》のようにすばしこく手をポケットにつっ込んで、ルブラン氏から取り上げたハンカチを引き出した。彼はそのしるしをさがして、蝋燭《ろうそく》の火に近づけた。
「U・F、なるほど。ユルバン・ファーブル。ではU・Fと署名しなさい。」
 捕虜は署名をした。
「手紙を畳むには両手がいるから、わしに渡しなさい、わしが畳むから。」
 それがすむと、テナルディエは言った。
「住所を書きなさい。お前さんの家のファーブル嬢と。ここからそう遠くねえ所に、サン・ジャック・デュ・オー・パの付近に、お前さんが住んでることをわしは知ってる。毎日その教会堂の弥撒《ミサ》に行きなさるのでもわかる。だがどの町だかわしは知らねえ。お前さんは今どんな場合にいるかわかっていなさるはずだと思う。だから名前に嘘《うそ》を言わなかったとおり、住所にも嘘を言わねえがいい。自分でそれを書きなさい。」
 捕虜はちょっと考え込んでいたが、やがてペンを取って書いた。
 ――サン・ドミニク・ダンフェール街十七番地、ユルバン・ファーブル氏方、ファーブル嬢殿。
 テナルディエは熱に震えるような手つきでその手紙をつかんだ。
「女房。」と彼は叫んだ。
 テナルディエの女房は急いでやって来た。
「さあ手紙だ。やることはわかってるだろう。辻馬車《つじばしゃ》が下にある。すぐに出かけて、すぐに帰ってこい。」
 それから斧《おの》を持ってる男の方へ言った。
「貴様はちょうど面を取ってるから、うちの上《かみ》さんについてってくれ。馬車の後ろに乗ってゆくがいい。例の小馬車を置いてきた所はわかってるな。」
「わかってる。」と男は言った。
 そして斧を片すみに置いて、彼はテナルディエの女房のあとについて行った。
 ふたりが出てゆくと、テナルディエは半ば開いている扉《とびら》から顔をさし出して、廊下で叫んだ。
「何より手紙を落とさないようにしろ! 二十万フラン持ってると同じだぞ。」
 テナルディエの女房のしわがれた声がそれに答えた。
「安心しておいで。内ふところにしまってるから。」
 一分間とたたないうちに、鞭《むち》の音が聞こえたが、それもすぐに弱くなって消えてしまった。
「よし、」とテナルディエはつぶやいた、「ずいぶん早えや。あの調子で駆けてゆきゃあ、家内は四、五十分で戻ってくる。」
 彼は暖炉に近く椅子《いす》を寄せ、そこに腰をおろして、両腕を組み、泥だらけの靴《くつ》を火鉢《ひばち》の方へ差し出した。
「足が冷てえ。」と彼は言った。
 テナルディエと捕虜とともにその部屋《へや》の中にいるのは、もう五人の悪漢ばかりだった。彼らは仮面をつけたりあるいは黒く塗りつぶしたりして顔を隠しながら、なるべく恐ろしく見せかけるように、炭焼き人だの黒人だの悪魔だのの姿をまねていたが、皆のろい沈鬱《ちんうつ》な様子をしていた。それを見ると、彼らは罪悪を犯すことをもちょうど仕事をするような具合に、至って平気で、何ら憤激の情も憐愍《れんびん》の念もなしに、一種の退屈らしい様子でやってるようだった。彼らは獣のようにすみにかたまって黙々としていた。テナルディエは足を暖めていた。捕虜はまた無言のうちに沈んでいた。先刻その部屋を満たしていた荒々しい騒ぎに次いで、陰惨な静けさがやってきたのである。
 芯《しん》に大きく灰のたまってる蝋燭《ろうそく》が、その広い部屋をぼんやり照らしてるばかりで、火鉢の火も弱くなっていた。そしてそこにおる怪物らの頭は、壁や天井に変な形の影を投げていた。
 聞こえるものはただ、眠ってる酔っ払いの老人の静かな息の音ばかりだった。
 マリユスは種々重なってきた心痛のうちにじっと待っていた。謎《なぞ》はますます不可解になってきた。テナルディエがアルーエットと呼んだあの「子供」はいったい何であったろうか。彼の「ユルスュール」のことであったろうか。捕虜はそのアルーエットという言葉を聞いても少しも心を動かさないらしかった、そしてごく自然に「何のことだか私にはわからない」と答えた。しかし一方に、U・Fという二字は説明された。それはユルバン・ファーブルだった。そしてユルスュールも今はユルスュールという名ではなくなった。マリユスが最もはっきり知り得たのはその一事だった。一種の恐ろしい魅惑にとらえられて彼は、全光景を観察し見おろし得るその場所に釘付《くぎづ》けにされてしまった。そこに彼は、目近にながめた厭《いと》うべきできごとから圧伏されたかのようになって、ほとんど考えることも動くこともできなかった。いかなる事にてもあれただ何か起こることを望むだけで、考えをまとめることもできず、決心を固める術《すべ》も知らずに、彼はただ待っていた。
「いずれにしても、」と彼は思った、「アルーエットというのが彼女のことであるかどうか、これからはっきりわかるだろう。テナルディエの女房がそれをここへ連れて来るだろうから。その時こそ私の心は決するのだ。もし必要であれば、私はこの生命と血潮とをささげても彼女を救ってやる。いかなることがあっても私はあとへは退かない。」
 かくて三十分ばかり過ぎ去った。テナルディエはある暗黒な瞑想《めいそう》のうちに沈み込んでるようだった。捕虜は身動きもしなかった。けれどもマリユスは、少し前から時々間を置いて、捕虜のあたりに何か鋭いかすかな音が聞こえるように思った。
 突然、テナルディエは捕虜に言いかけた。
「ファーブルさん、今すぐに言っといた方がいいようだから聞かしてあげよう。」
 その数語は、これから何か説明が初まるもののように思われた。マリユスは耳を傾けた。テナルディエは言い続けた。
「家内はすぐに帰って来る。そうせかないで待っていなさるがいい。アルーエットはまったくお前さんの娘だろうから、お前さんが家に引き取って置きてえなああたりまえだとわしも思う。だがちょっと聞いておいてもらいましょう。お前さんの手紙を持って、家内は娘さんに会いに行く。ところでさっきごらんのとおり家内へは相当な服装《なり》をさしといたから、すぐに娘さんはついて来るに違いない。そしてふたりは辻馬車《つじばしゃ》に乗るが、その後ろにはわしの仲間がひとり乗ってる。市門の外のある場所には、上等の馬が二匹ついてる小馬車がある。そこまでお前さんの娘は連れてこられるんだ。そこで娘さんは辻馬車からおりて、わしの仲間といっしょに小馬車に乗る。家内はここに帰ってきて報告する、すんだと。娘さんの方には別に悪いことはしねえ。娘さんはある所まで小馬車で連れてゆかれるが、そこにじっとしてるだけだ。そしてお前さんが二十万フランの小金《こがね》をわしにくれるとすぐに娘さんを返してあげる。もしお前さんがわしを捕縛させるようなことをすれば、わしの仲間がアルーエットに手を下すばかりだ。まあざっとこういう筋道だ。」
 捕虜は一言をも発しなかった。ちょっと休んでからテナルディエは言い続けた。
「お聞きのとおり何でもねえことなんだ。お前さんの心次第で何も悪いことは起こりゃあしねえ。うち明けてわしは話したんだ。よくのみ込んでおいてもらいてえと思ってな。」
 彼は言葉を切った。捕虜は口を開こうともしなかった。テナルディエはまた言った。
「家内が帰ってきて、アルーエットは出かけたと言いさえすりゃあ、すぐにお前さんは許してあげる。勝手に家に帰って寝てもいい。ねえ、わしらは別に悪い計画《たくらみ》を持ってやしねえ。」
 恐るべき幻がマリユスの脳裏を過《よ》ぎった。何事ぞ、彼らはその若い娘を奪ってここへは連れてこないのか。あの怪物のひとりがその娘を暗黒のうちに運び去ろうとするのか。いったいどこへ?……そしてもしその娘が果たして彼女であったならば! いや彼女であることは明らかである。マリユスは心臓の鼓動も止まるような気がした。どうしたものであろう。ピストルを打つがいいか。その悪漢どもを皆警官の手に渡してしまうがいいか。しかしそれにしても、あの恐ろしい斧《おの》の男は若い娘を連れてやはり手の届かぬ所に行ってるだろう。マリユスは恐ろしい意味が察せらるるテナルディエの数語を思った。「もしお前さんがわしを捕縛させるようなことをすれば[#「もしお前さんがわしを捕縛させるようなことをすれば」に傍点]、わしの仲間がアルーエットに手を下すばかりだ[#「わしの仲間がアルーエットに手を下すばかりだ」に傍点]。」
 今はもう大佐の遺言のためばかりではなく、また自分の恋のために、愛する人の危険のために、差し控えていなければならないように彼は思った。
 既に一時間以上も前から続いたその恐ろしい情況は一瞬ごとに様子を変えていった。マリユスは勇を鼓して最も悲痛な推測を一々考慮してみた、そして何かの希望をさがし求めたが少しも見い出されなかった。彼の脳裏の騒乱はその巣窟《そうくつ》の気味悪い沈黙と異様な対照をなしていた。
 その沈黙のうちに、階段の所の扉《とびら》が開いてまたしまる音が聞こえた。
 捕虜は縛られながらちょっと身を動かした。
「うちのお上《かみ》だ。」とテナルディエは言った。
 その言葉の終わるか終わらないうちに、果たしてテナルディエの女房が室《へや》に飛び込んできた。まっかになって、息を切らし、あえいで、目を光らしていた。そしてその大きな両手で一度に両腿《りょうもも》をたたきながら叫んだ。
「嘘《うそ》の住所だ。」
 女房が引き連れていた悪漢が、彼女のあとからはいってきて、またその斧《おの》を取り上げた。
「嘘の住所だと!」テナルディエは鸚鵡返《おうむがえ》しに言った。
 女房は言った。
「だれもいやしない。サン・ドミニク街十七番地にユルバン・ファーブルなんて者はいやしない。だれにきいても知ってる者なんかいないよ。」
 彼女は息をつまらして言葉を切ったが、それからまた続けて言った。
「テナルディエ、お前さんはその爺《じい》さんにばかにされたんだよ。あまりお前さんも人がよすぎるじゃないか。私ならほんとにそいつの頤を四つ裂きにでもしておいてかかるんだがね。意地の悪いことをしやがったら、生きてるまま煮たててやるんだがね。そうすりゃあ、きっと本当のことを言って娘のおる所や金を隠してる所を吐き出してしまったに違いない。私だったらそういうふうにやってのけるよ。男なんて女よりはよほどばかだって言うが、まったくだ。十七番地なんかにはだれもいやしない。大きな門があるきりなんだ。サン・ドミニク街にはファーブルなんて者はいやしない。大急ぎで馬をかけさせるし、御者には祝儀をやるし、いろいろなことをしてさ。門番の男にも聞いたし、しっかり者らしいそのお上さんにも聞いたが、そんな人はてんで知らないじゃないかね。」
 マリユスはほっと息をついた。ユルスュールかあるいはアルーエットか本当の名前はわからないが、とにかく彼女は救われたのだった。
 たけり立った女房が怒鳴りちらしてる間に、テナルディエはテーブルの上に腰掛けた。彼は一言も発しないでそのままの姿勢をして、たれてる右足を振り動かしながら、残忍な夢想に沈んでるような様子で、しばらく火鉢《ひばち》の方を見やっていた。
 ついに彼は、特に獰猛《どうもう》なゆっくりした調子で捕虜に言った。
「嘘《うそ》の住所だと、いったい貴様何のつもりだ。」
「時間を延ばすためだ!」と捕虜は爆発したような声で叫んだ。
 そして同時に彼は縛られた繩《なわ》を揺すった。それは皆切れていた。捕虜はもはや、片足が寝台に結わえられてるばかりだった。
 七人の男がはっと我に返って飛びかかるすきも与えず、彼は暖炉の所に低く身をかがめ、火鉢の方に手を伸ばし、それからすっくと立ち上がった。そして今やテナルディエもその女房も悪漢どもも、驚いて室《へや》のすみに退き、呆然《ぼうぜん》と彼を見守った。彼はほとんど自由になって恐ろしい態度をし、すごい火光がしたたるばかりのまっかに焼けた鑿《たがね》を、頭の上に振りかざしていたのである。
 ゴルボー屋敷におけるこの待ち伏せの後に間もなく行なわれた裁判所の調査によれば、二つに切り割って特殊な細工を施した大きな一スー銅貨が、臨検の警官によってその屋根部屋《やねべや》の中に見い出されたのだった。その大きな銅貨は、徒刑場の気長い仕事によって暗黒な用途のために暗黒の中で作り出される驚くべき手工品の一つであり、破獄の道具にほかならない驚くべき品物の一つだった。異常な技術に成ったそれらの恐るべき微妙な作品が宝石細工に対する関係は、あたかも怪しい隠語の比喩《ひゆ》が詩に対する関係と同じである。言語のうちにヴィヨンのごとき詩人らがあると同じく、徒刑場のうちにはベンヴェヌート・チェリーニのごとき金工らがおる。自由にあこがれてる不幸な囚人は、時とすると別に道具がなくても、包丁や古ナイフなどで、二枚の薄い片に一スー銅貨を切り割り、貨幣の面には少しも疵《きず》がつかないように両片をくりぬき、その縁に螺旋条《らせんじょう》をつけて、また両片がうまく合わさるようにこしらえることがある。それは自由にねじ合わせたりねじあけたりできるもので、一つの箱となっている。箱の中には時計の撥条《ぜんまい》が隠されている。そしてその撥条をうまく加工すると、大きな鎖でも鉄の格子《こうし》でも切ることができる。その不幸な囚徒はただ一スー銅貨しか持っていないように思われるが、実は自由を所有してるのである。ところで、後に警察の方で捜索をした時、その部屋《へや》の窓に近い寝台の下で見いだされた、二つの片に開かれてる大きな一スー銅貨は、そういう種類のものであった。それからまた、その銅貨の中に隠し得るくらいの小さな青い鋼鉄の鋸《のこぎり》も見い出された。おそらく、悪漢どもが捕虜の身体をさがした時、捕虜はその大きな銅貨を持っていたが、それをうまく手の中に隠し、それから次に、右手が自由になったので、それをねじあけ、中の鋸を使って縛られてる繩《なわ》を切ったものであろう。マリユスが気づいたかすかな音とわずかな動作とは、またそれで説明がつく。
 見現わされるのを恐れて身をかがめることができなかったので、彼は左足の縛りめは切らなかったのである。
 悪漢どもは初めの驚きからようやく我に返った。
「安心しろ。」とビグルナイユはテナルディエに言った。
「まだ左の足が縛ってある。逃げることはできねえ。受け合いだ。あの足を縛ったなあ俺《おれ》だぜ。」
 そのうちに捕虜は声を揚げた。
「君らは気の毒な者どもだ。わしの生命はそう骨折って大事にするほどのものはない。ただ、わしに口をきかせようとしたり、書きたくないことを書かせようとしたり、言いたくないことを言わせようとしたりするからには……。」
 彼は左腕の袖《そで》をまくり上げてつけ加えた。
「見ろ。」
 同時に彼は腕を伸ばして、右手に木の柄をつかんで持っていた焼けてる鑿《たがね》を、そのあらわな肉の上に押し当てた。
 じゅーっと肉の焼ける音が聞こえ、拷問部屋《ごうもんべや》に似たにおいが室《へや》にひろがった。マリユスは恐ろしさに気を失ってよろめき、悪漢どもすら震え上がった。しかしその異常な老人の顔はちょっとひきつったばかりだった。そして赤熱した鉄が煙を上げてる傷口の中にはいってゆく間、彼は平気なほとんど荘厳な様子で、美しい目をじっとテナルディエの上にすえていた。その目の中には、何ら憎悪《ぞうお》の影もなく、一種朗らかな威厳のうちに苦痛の色も消えうせてしまっていた。
 偉大な高邁《こうまい》な性格の人にあっては、肉体的の苦悩にとらえられた筋肉と感覚との擾乱《じょうらん》は、その心霊を発露さして、それを額の上に現出させる。あたかも兵卒らの反逆はついに指揮官を呼び出すがようなものである。
「みじめな者ども、」と彼は言った、「わしが君らを恐れないと同じに、君らももうわしを恐れるには及ばない。」
 そして彼は傷口から鑿を引き離し、開いていた窓からそれを外に投げ捨てた。赤熱した恐ろしい道具は、回転しながら暗夜のうちに隠れ、遠く雪の中に落ちて冷えていった。
 捕虜は言った。
「どうとでも勝手にするがいい。」
 彼はもう武器は一つも持っていなかった。
「奴《やつ》を捕えろ!」とテナルディエは言った。
 悪漢のうちのふたりは彼の肩をとらえた。そして仮面をつけた腹声の男は、彼の前に立ちふさがって、少しでも動いたら大鍵《おおかぎ》を食わして頭を打ち破ってやろうと待ち構えた。
 同時にマリユスは、壁の下の方で自分のすぐ下に、低い声でかわされる次の対話を聞いた。あまり近いので、話してる者の姿は穴から見えなかった。
「こうなったらほかに仕方はねえ。」
「やっつける!」
「そうだ。」
 それは主人と女房とが相談してるのだった。
 テナルディエはゆっくりとテーブルの方へ歩み寄って、その引き出しを開き、ナイフを取り出した。
 マリユスはピストルの手を握りしめた。異常な困惑のうちに陥った。一時間前から、彼の内心のうちには二つの声があった。一つは父の遺言を尊重せよと彼に語り、一つは捕虜を救えと彼に語っていた。その二つの声は絶えず互いに争闘を続けて彼をもだえさした。彼はこの瞬間まで、その二つの義務を相融和し得る道はないかと漠然《ばくぜん》と願っていた。しかしそれをかなえるようなものは何も起こってこなかった。しかるにもはや危機は迫っており、遅滞の最後は越えられていた。捕虜から数歩の所に、テナルディエはナイフを手にして考え込んでいた。
 マリユスは昏迷《こんめい》してあたりを見回した。絶望の極の最後の機械的な手段である。
 と突然、彼はおどり上がった。
 彼の足下に、テーブルの上に、満月の強い光が一枚の紙片を照らし出して、彼にそれを示してるかのようだった。その紙片の上に彼は、テナルディエの姉娘がその朝書いた大きな文字の次の一行を読んだ。
 ――いぬがいる[#「いぬがいる」に傍点]。
 一つの考えが、一つの光が、マリユスの脳裏をよぎった。それこそ彼がさがしている方法だった。彼を苦しめてる恐るべき問題の解決、殺害者を逃がし被害者を救う方法であった。彼は戸棚の上にひざまずき、腕を伸ばし、その紙片をつかみ取り、壁から一塊の漆喰《しっくい》を静かにはぎ取り、それを紙片に包みそのままそれを部屋《へや》のまんなかに穴から投げ込んだ。
 ちょうど危うい時であった。テナルディエは最後の危懼《きぐ》もしくは最後の用心をおさえつけて、捕虜の方へ歩を進めていた。
「何か落ちた。」とテナルディエの女房は叫んだ。
「何だ?」と亭主は言った。
 女房は駆け寄って、紙に包んだ漆喰を拾った。
 彼女はそれを亭主に渡した。
「どこからきたんだ。」とテナルディエは尋ねた。
「なにどこから来るもんかね、」と女房は言った、「窓からよりほかはないじゃないかね。」
「俺《おれ》はそれが飛んで来る所を見た。」とビグルナイユは言った。
 テナルディエは急いで紙をひらき、蝋燭《ろうそく》の火に近づけた。
「エポニーヌの手蹟《て》だ。畜生!」
 彼は女房に合い図をすると、女房はすぐにそばにきた。彼は紙に書いてある一行の文句を示して、それから鈍い声でつけ加えた。
「早く! 梯子《はしご》だ。肉は鼠罠《ねずみわな》に入れたままで、引き上げよう。」
「首をちょんぎらずにかえ。」と女房は尋ねた。
「そんな暇はねえ。」
「どこから逃げるんだ。」とビグルナイユは言った。
「窓からよ。」とテナルディエは答えた。「エポニーヌが窓から石をほうり込んだところを見ると、その方には手が回ってねえことがわかる。」
 仮面をつけた腹声の男は、大鍵《おおかぎ》を下に置き、両腕を高く上げて、黙ったままその手を三度急がしく開いたり握ったりした。それは船員らの間の戦闘準備の合い図みたいなものだった。捕虜をとらえていた悪漢はその手を離した。またたく間に、繩梯子《なわばしご》は窓の外におろされ、二つの鉄の鈎《かぎ》でしっかと窓縁に止められた。
 捕虜は周囲に起こってることには少しも注意をしなかった。彼は何か夢想しあるいは祈祷《きとう》してるがようだった。
 繩梯子《なわばしご》がつけられるや、テナルディエは叫んだ。
「こい、上《かみ》さん!」
 そして彼は窓の方へつき進んだ。
 しかし彼がそこをまたごうとした時、ビグルナイユは荒々しく彼の襟筋《えりすじ》をつかんだ。
「いけねえ、古狸《ふるだぬき》め、俺《おれ》たちが先だ。」
「俺たちが先だ!」と悪漢どもは怒鳴り立てた。
「つまらねえ野郎だな、」とテナルディエは言った、「時間をつぶすばかりだ。いぬどもがきかかってるじゃねえか。」
「じゃあ、」とひとりの悪漢が言った、「だれが一番先か籤引《くじび》きをしろ。」
 テナルディエは叫んだ。
「ばかども、気でも狂ったのか。のろまばかりそろってやがる。時間をつぶすばかりじゃねえか。籤引きをするっていうのか。じゃんけんか、藁屑《わらくず》か、名前を書いて帽子に入れてか……。」
「俺の帽子ではどうだ。」と入り口の所に声がした。
 皆の者は振り向いた。それはジャヴェルだった。
 彼は手に帽を持って、微笑しながらそれを差し出していた。

     二十一 常にまず被害者を捕うべし

 ジャヴェルは日暮れに、手下を方々に張り込ませ、大通りをはさんでゴルボー屋敷と向かい合ったバリエール・デ・ゴブラン街の木立ちの後ろに自ら身を潜めた。彼はまずいわゆる「ポケット」を開いて、屋敷の付近に見張りをしてるふたりの娘をその中にねじ込もうとした。しかし彼はアゼルマをしか「袋にする」ことはできなかった。エポニーヌの方はその場所にいなくて姿が見えなかったので、捕えることができなかった。それからジャヴェルは位置について、約束の合い図を待って耳を傾けていた。辻馬車《つじばしゃ》が出かけたり戻ってきたりするので、彼は少なからず心配になって、ついにたえきれなくなった。そして多くの悪漢どもがはいり込んだのを認めていたので、確かにそこに巣がある[#「そこに巣がある」に傍点]と思い、確かにうまいことがある[#「うまいことがある」に傍点]に違いないと信じて、ピストルの鳴るのをも待たずにはいって行こうと心を決した。
 読者の思い起こすとおり、彼はマリユスの合《あ》い鍵《かぎ》を持っていたのである。
 彼はちょうどいい時にやってきた。
 狼狽《ろうばい》した悪漢らは、逃げ出そうとする時方々に投げ捨てた武器をまたつかみ取った。またたく間に、見るも恐ろしいそれら七人の者どもは、いっしょに集まって防御の姿勢を取った。ひとりは斧《おの》を持ち、ひとりは大鍵を持ち、ひとりは玄翁《げんのう》を持ち、その他の者は鋏《はさみ》や火箸《ひばし》や金槌《かなづち》などを持ち、テナルディエはナイフを手に握っていた。テナルディエの女房は娘たちが腰掛けにしていた窓の角《かど》にある大きな畳石をつかんだ。
 ジャヴェルは帽子をかぶって、両腕を組み、杖を小脇《こわき》にはさみ、剣を鞘《さや》に[#「鞘《さや》に」は底本では「鞘|に《さや》」]納めたままで、室《へや》の中に二歩はいり込んだ。
「そこにじっとしていろ!」と彼は言った。「窓から出ちゃいかん。出るなら扉《とびら》の方から出してやる。その方が安全だ。貴様たちは七人だが、こちらは十五人だ。オーヴェルニュの田舎者《いなかもの》のようにつかみ合わなくてもいい。静かにしろ。」
 ビグルナイユは上衣の下に隠し持っていたピストルを取って、それをテナルディエの手に渡しながら、彼の耳にささやいた。
「あれはジャヴェルだ。俺《おれ》はあいつに引き金を引くなあいやだ。貴様やってみるか。」
「やるとも。」とテナルディエは答えた。
「じゃあ打ってみろ。」
 テナルディエはピストルを取って、ジャヴェルをねらった。
 三歩前の所にいたジャヴェルは、彼をじっとながめて、ただこれだけ言った。
「打つな、おい、当たりゃしない。」
 テナルディエは引き金を引いた。弾《たま》ははずれた。
「それみろ!」とジャヴェルは言った。
 ビグルナイユは玄翁《げんのう》をジャヴェルの足下に投げ出した。
「旦那《だんな》は悪魔の王様だ、降参すらあ。」
「そして貴様たちもか。」とジャヴェルは他の悪漢どもに尋ねた。
 彼らは答えた。
「へえ。」
 ジャヴェルは静かに言った。
「そうだ、それでよし。俺が言ったとおり、皆おとなしい奴《やつ》らだ。」
「ただ一つお願いがあります、」とビグルナイユは言った、「監禁中|煙草《たばこ》は許していただきてえんですが。」
「許してやる。」とジャヴェルは言った。
 そして後ろをふり返って呼んだ。
「さあはいってこい。」
 剣を手にした巡査と棍棒《こんぼう》の類を持った刑事との一隊が、ジャヴェルの声に応じておどり込んできた。そして悪漢どもを縛り上げた。一本の蝋燭《ろうそく》の光がそれら一群の人々をようやく照らして、部屋《へや》の中はいっぱい影に満ちた。
「皆に指錠をはめろ。」とジャヴェルは叫んだ。
「そばにでもきてみろ!」と叫ぶ声がした。それは男の声ではなかったが、さりとて女の声とも言い得ないものだった。
 テナルディエの女房が窓の一方の角によって、その怒鳴り声を揚げたのだった。
 巡査や刑事らは後ろにさがった。
 彼女は肩掛けをぬぎすてて、帽子だけはかぶっていた。亭主はその後ろにうずくまって、ぬぎすてられた肩掛けの下に身を隠さんばかりにしていた。彼女はまたそれを自分の身体でおおいながら両手で頭の上の畳石を振りかざして、岩石を投げ飛ばさんとする巨人のように調子を取っていた。
「気をつけろ。」と彼女は叫んだ。
 人々は廊下の方へ退いた。室のまんなかには広い空地があいた。
 テナルディエの女房は指錠をはめられるままに身を任した悪漢どもの方をじろりと見やって、つぶれた喉声《のどごえ》でつぶやいた。
「卑怯者《ひきょうもの》!」
 ジャヴェルはほほえんだ。そしてテナルディエの女房がにらみつけてる空地のうちに進み出た。
「近くへ来るな、行っちまえ、」と彼女は叫んだ、「そうしないとぶっつぶすぞ。」
「すごい勢いだな。」とジャヴェルは言った。「上《かみ》さん、お前さんに男のような髯《ひげ》があるからって、わしにも女のような爪《つめ》があるからな。」
 そして彼はなお進んで行った。
 テナルディエの女房は髪をふり乱し恐ろしい様子をし、足をふみ開き、後ろに身をそらして、ジャヴェルの頭をめがけて狂わんばかりに畳石を投げつけた。ジャヴェルは身をかがめた。畳石は彼の上を飛び越え、向こうの壁につき当たって漆喰《しっくい》の大きな一片をつき落とし、それから、幸いにほとんど人のいなかった室《へや》のまんなかを、角から角とごろごろころがり戻って、ジャヴェルの足下にきて止まった。
 同時にジャヴェルはテナルディエ夫婦の所へ進んだ。彼の大きな手は、一方に女房の肩をとらえ、一方に亭主の頭を押さえた。
「指錠だ!」と彼は叫んだ。
 警官らは皆一度に戻ってきた。そして数秒のうちにジャヴェルの命令は遂行された。
 とりひしがれたテナルディエの女房は、縛り上げられた自分の手と亭主の手とを見て、床《ゆか》の上に身を投げ出して、泣き声を揚げた。
「ああ娘たちは!」
「娘どもも、もう暗い所へはいってる。」とジャヴェルは言った。
 そのうちに警官らは、扉《とびら》の後ろに眠っている酔っ払いを見つけて、揺り動かした。彼は目をさましながらつぶやいた。
「すんだか、ジョンドレット。」
「すんだよ。」とジャヴェルが答えた。
 捕縛された六人の悪漢はそこに立っていた。でも彼らはその異様な顔つきのままであって、三人は顔をまっ黒に塗っており、三人は仮面をかぶっていた。
「面はつけておけ。」とジャヴェルは言った。
 そして、ポツダム宮殿で観兵式をやるフレデリック二世のような目つきで、後は一同を見渡して、それから三人の「暖炉職工」へ向かって言った。
「どうだビグルナイユ。どうだブリュジョン。どうだドゥー・ミリヤール。」
 次に仮面をかぶってる三人の方へ向いて、彼は斧《おの》の男に言った。
「どうだな、グールメル。」
 それから棍棒《こんぼう》の男に言った。
「どうだな、バベ。」
 それから腹声の男に言った。
「おめでとう、クラクズー。」
 その時彼は、悪漢どもの捕虜を顧みた。捕虜は警官らがはいってきてからは、一言をも発せず、じっと頭をたれていた。
「その者を解いてやれ。」とジャヴェルは言った。「そしてひとりも外へ出てはならんぞ。」
 そう言って彼は、おごそかにテーブルの前にすわった。テーブルの上には蝋燭《ろうそく》とペンやインキがまだ置いてあった。彼はポケットから印のはいった紙を一枚取り出して、調書を書き初めた。
 いつも同一なきまり文句を二、三行書いた時、彼は目を上げた。
「その男どもから縛られていた者をここに連れてこい。」
 警官らはあたりを見回した。
「どうしたんだ、」とジャヴェルは尋ねた、「その者はどこにおるんだ。」
 悪漢どもの捕虜、ルブラン氏もしくはユルバン・ファーブル氏、もしくは、ユルスュールあるいはアルーエットの父親は、消えうせてしまっていた。
 扉《とびら》には番がついていたが、窓には番がいなかった。彼は縛りが解かれたのを見るや否や、ジャヴェルが調書を書いてる間に、混雑と騒ぎと人込みと薄暗さとまただれも自分に注意を向けていない瞬間とに乗じて、窓から飛び出して行ったのである。
 ひとりの警官は窓の所へ駆け寄って見回した。外にはだれも見えなかった。
 繩梯子《なわはしご》はまだ動いていた。
「畜生!」とジャヴェルは口の中で言った。「あれが一番大事な奴《やつ》だったに違いないが。」

     二十二 第二部第三編に泣きいし子供

 それらの事件がオピタル大通りの家で起こったその次の日、オーステルリッツ橋の方からきたらしいひとりの少年が、フォンテーヌブロー市門の方へ向かって右手の横丁を進んで行った。まったく夜になっていた。少年は色青くやせていて、ぼろをまとい、二月の寒空に麻のズボンをつけ、声の限りに歌を歌っていた。
 プティー・バンキエ街の角《かど》の所に、腰の曲がった婆さんが、街灯の光を頼りに掃《は》き溜《だ》めの中をかき回していた。少年は通りすがりにその婆さんにつき当たって、それからあとじさりながら大きい声で言った。
「おやあ! 俺《おれ》はまたでかいでかい犬かと思ったい。」
 彼はその二度目の「でかい」という言葉を、おどけた声を張り上げて言った、文字にすればその言葉だけ一段と活字を大きくすべき所である。
 婆さんは怒って立ち上がった。
「小僧め!」と彼女はつぶやいた。「かがんでいなかったら、蹴飛《けと》ばしてやるところだったに。」
 少年は既に向こうに行っていた。
「しッしッ。」と彼は言った。「やはり犬には違いないや。」
 婆さんは息もつまらんばかりに腹を立てて、すっかり立ち上がった。目尻の皺《しわ》と口角とがいっしょになってる角張った皺だらけの蒼白《そうはく》な顔を、街灯の赤い光が正面から照らした。身体は影の中に隠れて、頭だけしか見えなかった。暗夜のうちから一条の光で切り取られた「老耄《おいぼれ》」そのものの面かと思われた。少年はそれをじろじろながめた。
「お上《かみ》さんも美しいがね、俺の気に入るたちのものじゃあないや。」と彼は言った。
 彼はまた歩き出して、歌い初めた。

    クードサボ王様(どた靴王様《ぐつおうさま》)
    狩りに行かれぬ、
     烏の狩りに……


 そう三句歌った後、彼は口をつぐんだ。彼は五十・五十二番地の家の前にきていた。そして戸がしまってるのを見て、足で蹴《け》り初めた。その大きな激しい音は、彼の少年の足よりもむしろ、その足にはいてる大人《おとな》の靴を示していた。
 そのうちに、プティー・バンキエ街の角《かど》で出会った先刻の婆さんが、叫び声を立て大層な身振りをして、後ろから駆けつけてきた。
「どうしたんだね。どうしたんだね。まあ、戸が破れるじゃないか。家《うち》をこわしでもするのかい。」
 少年はやはり蹴り続けた。
 婆さんは喉《のど》を張り裂かんばかりに叫んだ。
「おい、人の家をそんなにしてもいいものかね。」
 と突然彼女は言葉を切った。先刻の浮浪少年であることに気づいたのである。
「おや、今の餓鬼だよ。」
「おや、お婆さんか。」と少年は言った。「こんちは、ビュルゴンミューシュ婆さん。俺《おれ》はちょっと御先祖様に会いにきたんだ。」
 婆さんは老衰と醜さとをよく利用して即座にしたたか憎しみを現わす変なしかめっ面をしたが、それは不幸にも暗やみの中なので見えなかった、そして答えた。
「もうだれもいないよ、おばかさん。」
「へえー。」と少年は言った。「じゃあ親父《おやじ》はどこにいるんだい。」
「フォルス監獄だよ。」
「おやあ! じゃあ母親《おふくろ》は?」
「サン・ラザール懲治監だよ。」
「なるほど! それから姉たちは?」
「マドロンネット拘禁所だよ。」
 少年は耳の後ろをかいて、ビュルゴン婆さんをながめた、そして言った。
「ほうー。」
 それから彼は回れ右をして立ち去った。戸口に立っていた婆さんは、それからすぐに、冬の寒風に震えてる黒い楡《にれ》の並み木の下を、歌を歌いながら遠ざかってゆく少年の朗らかな若い声を聞いた。

    クードサボ王様
    狩りに行かれぬ、
     烏の狩りに、
    お輿《こし》は竹馬。
    下をくぐらば
    二スー取られぬ。

底本:「レ・ミゼラブル(二)」岩波文庫、岩波書店
   1987(昭和62)年4月16日改版第1刷発行
   「レ・ミゼラブル(三)」岩波文庫、岩波書店
   1987(昭和62)年5月18日改版第1刷発行
※「ジョンドレットの女房が」の段落は、底本では天付きになっています。
※誤植の確認に「レ・ミゼラブル(四)」岩波文庫、岩波書店1959(昭和34)年6月10日第12刷を用いました。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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