コラムは三日のあいだ断食した。口に入れるものとては、あけがたにひと口の割麦、ひるに一片の黒パン、日の入る頃に藻草のひと口といっぱいの泉の水、それだけであった。三日の夜、コラムの部屋にオランとキイルが来た。コラムは跪《ひざまず》いて一心に祈っていた。部屋には、かすかにささやくコラムの脣《くちびる》の音と、土を塗った壁の上に一疋の蠅がいて物うげにうなっている声と、それよりほかに音もなかった。
オランはあわれみと惶《おそ》れと交った低い優しい声で呼びかけた「師よ、師よ」
コラムは聞かなかった。口はまだ動いていた、下脣のしたにもつれた髭は弱々しい息とともにふるえた。
女のように物やさしいキイルが呼んだ。
「父よ、父よ」
コラムは壁から眼を動かさなかった。蠅はあらい壁土の上にねむそうな声でうなっていた。しばらくは、ぐずりぐずり這っていたが、やがて動かなくなった。ぶんぶんいうゆるやかな暑い声が部屋いっぱいに聞えた。
オランが言った「師よ、兄弟たちのお願いです、断食をお止め下さい。あなたは御老年です、神様はもう十分に御栄《みさかえ》を得られましたから、どうぞ私どもを安心させて下さい」
コラムは気がつかないらしく跪いて、灰色の髭の上の脣をうごかしていた、白い髪はまるい石の上から滑りおちる吹雪のように頭から乱れ落ちていた。
キイルは言葉を添えた「父よ、父よ、あわれんで下さい、私たちは饑《う》えかわくようにあなたのお顔を見たがっております。もう私たちはこのうえ断食をつづけることは出来ませんが、そうかといって、あなたがおいで下さらなければ食事いたす気にもなれません。どうぞ聖者よ、私たちの仲間におはいりになって、おいしく煮《に》えている魚をあがって下さい。私たちはあなたのお眼の祝福を待ち切っています」
その時コラムは漸く立ってゆっくりと壁の方に歩いて行った。
「小さい黒い生物」コラムはねむたそうに唸ってすこしも動かずにいる蠅に言った「小さい黒い生物、お前が何者であるか私はよく知っている。お前は私の祝福を得るつもりでいるのだろう、私の霊魂をまどわすために地獄からやって来たくせに」
そう言うと蠅はおもたそうに壁から飛びはなれて「しろき」コラムの頭のまわりをゆるやかに飛び廻った。
「お前はこれをどう思う、兄弟オラン、兄弟キイル」ながい断食と身の疲れのために枯れがれになった低い声で訊いた。
「悪魔でしょう」オランが言った。
「天の御使でしょう」キイルが言った。
そうすると蠅はふたたび壁にとまって、ねむたい暑い唸りごえを立てはじめた。
コラムは眼中にきつい色を見せて言った。
「小さい黒い生物、お前がここに来たのは平和のためか、それとも罪のためか、父と子と聖霊のおん名に依って命ずる、返事をしろ」
壁のうえの蠅はそのとき天井に飛んで行き、くるくると輪を描いて飛んだ。蠅はうつくしい歌をうたった。
神はほむべきかな、ほむべきかな
しろきコラム、鳩のコラム神をあがめて
あれたる野を花ぞのとし
人ごころの汚れの中よりかおり高き燻物《たきもの》を神にささぐ
聖壇の火に燻物のかおり美しくかおる
荒野のなかにコラム燻物をささぐ、救われたるものみな喜ぶ
牝牛にも、牡牛にも、コラム天の祝福《めぐみ》をさずく
そらの鳥にも、人間の眼を持つ海豹《あざらし》にも、獺《かわうそ》にま でも
さりとても、天の青くひろき国の御城の中に
琴ひき等おん栄を琴にひくところに、おん父なる神は物おもいしたまう
うま酒の川ながるるところに、神は坐したまうて
大なる剣を折り、塵の中に槍をつきさして、神は物おもいしたまう
星の砂もて満されたるひろき空洞《うつろ》の空をうごきゆく
かみなり雲の如く、神のおん心に動くおもいは
「コラムわが名をたたうる為に安息日をつくりたりとも、何のいさおにかなる
コラム空気の深みと海の深みに住むわが子等のことをおもわずあれば」
その歌をうたうと蠅は彼等のまぼろしから消えうせた。部屋の内には、水を越してきこえる遥かな笛の音にも似た珍らしい優しい歌が残っていた。
オランは惶《おそ》れの低い声で言った「おお、神よ」
キイルはおそろしさに蒼じろくなって言った「おお、神よ、神よ」
しかしコラムは立ち上がって壁にかけてあった笞《むち》をとった。しぶい微笑がその黒い髭の中に巣くう鳥のように動いた。
「オランよ、平和のために、キイルよ、平和のために」
そう言ってコラムはキイルとオランのうな垂れた背に強く笞をあてた、三日間の断食もコラムの強い腕にやどる深い信仰を弱めはしなかった、それは神のみさかえの為とコラムは思った。
やがて笞うつ手が疲れ切った時にコラムの心に平和が来た、「アーメン」とコラムは溜息した。
「アーメン」オランが言った。
「アーメン」キイルが言った。
「これは、神のみゆるしのないうちに断食を止めて魚を食えと言ったお前方と兄弟たちの罪ふかい願いから起ったことなのだ。見よ、私は不思議を学ぶことが出来た。明日の安息日に、お前がたはこの不思議をまのあたり見るであろう」
その夜、弟子たちはいろいろに考えた。ただオランとキイルの二人は海の深みの魚を呪い、空気の深みに飛ぶ虫どもを呪った。
翌あさ、太陽が黄ばんだ海草の上に黄ろく、平和が島の上にも水の上にもあった、その時コラムと弟子たちは徐《しず》かに海の方に歩いて行った。
海に近い草原に来て聖者は立ち止った。みんなが頭を下げた。
「おお空中の羽ある虫ども、近く寄れ」コラムが呼んだ。
すると空気は無数の蠅と蚊と蜂と虻と蛾とすべての羽虫の唸りごえで満された。虫どもは動きもせず無言に神を讃えていた弟子たちの上にとまった。「神にみ栄と誉れあれ! 空気の深みにすむ神の子等の安息日を見よ、かれらの上に祝福と平和あれ」コラムが叫んだ。
「平和あれ、平和あれ」弟子たちは一つの声で叫んだ。
「父と子と聖霊の御名によって」神の御栄《みさかえ》を喜んだしろきコラムが叫んだ。
「父と子と聖霊の御名によって」弟子たちすべてがかしこみうな垂れて叫んだ、中にもオランとキイルは深く感じていた、コラムの部屋で見たかの蠅が総大将であるが如く虫の全軍をひきいて不思議な美しい歌をうたっていたから。
オランとキイルはこの話をした、みんなは驚きと畏れにみたされた、コラムは神をほめ讃えた。
やがて聖者と弟子たちは其処から進んで岩の上に出た。潮になびく藻草のなかに一同は膝までひたして立った。コラムは叫んだ。
「おお水底の魚たち、ちかく寄れ」
そう言うと見わたす海のかぎり銀と金にきらめいた。
海のあらゆる魚たち、大きな鰻ども海老ども蟹どもがすばやく恐しい行列をつくって寄って来た。すさまじい光景であった。
コラムが言った「おお大洋《おおうみ》の魚たち、お前らの王は誰か」
すると青魚と鯖と小鮫とが泳ぎ出て、めいめいに自分が王だと名のった。しかし波から波に響きわたった声は、青魚こそ王であるということだった。
コラムは鯖に向って言った「お前の知っている歌をうたえ」
鯖がうたった、狂暴な海の漂泊者の歌や歓楽の慾の歌であった。
コラムが言った「罪ふかい魚よ、神のみめぐみがなければ、私はお前を呪うかもしれない」
それから小鮫にもうたえと言った、小鮫は殺戮のうた猟のうた血のよろこびの歌をうたった。
「お前は地獄に相当している」コラムが言った。
しずかな沈黙が来た。その時青魚が言った。
「父と子と聖霊の御名によって」
するとその無数の群衆は海底に沈もうとしておのおのが違ったすがたに鰭《ひれ》を振り尾を振り一つの声にくりかえした。
“An ainm an Athar, ‘s an Mhic, ‘s an Spioraid Naoimh!”――「父と子と聖霊の御名によって」
その時のイオナ海峡の壮観は、神が星の網を水にひかせて網の目ごとにかがやく星がやどり波の背ごとに金の月が流れると見えた。
しろきコラムは両手をのばして海の深みにすむ神の子等と空気の深みにすむ神の子等を祝福した。
こうしてイオナの島にすむ生物とイオナの上の空中にすむ生物とイオナをめぐる海中の生物とすべての上に安息が来た。
コラムのいさおしであった。
「三つの不思議」の一節
底本:「かなしき女王 ケルト幻想作品集」ちくま文庫、筑摩書房
2005(平成17)年11月10日第1刷発行
底本の親本:「かなしき女王 フィオナ・マクラオド短編集」第一書房
1925(大正14)年発行
入力:門田裕志
校正:匿名
2012年5月23日作成
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