コノール・マック・ネサの子コルマック、アイルランドの北の方ではコルマック・コンリナスという名で知られていたコルマックがアルトニヤ人の誓いのしるしの十人の人質の一人としてコネリイ・モルの許にあった時、彼はその力のため勇気のため又うつくしさのため男おんなに愛されていた。
彼は余の九人の仲間の最も丈たかい者よりも一寸ほど背が高かった、最も胸幅のひろいものよりなお二寸も胸がひろかった。その九人の人たちも、国を愛する詩人たちによって「緑なるバンバ」と呼ばれていたアイルランドじゅうに比類なき勇士であったアルトニヤ人の、又その中での最も丈たかく胸ひろき人たちなのであった。
民衆は彼のすぐれた槍の手、巧みな太刀ぶり、彼の怒りの恐しさ、彼が戦いを愛する愛の烈しさ、彼の笑いと軽いよろこび、又その剣が黙したときに彼の口にうたわれた唄などについて評している。コルマック・コンリナスが「青緑」と呼んでいた剣――その仲間の中には「囁く剣」と名付けられていた――その剣に手を触れ得るものは一人もなかった。その剣を振る時、とぶ稲妻の如く剣が青くみどりに輝いた故に、それは「青緑」であった、その剣は渇いた時に何時もささやいた、その渇きを静め得るのは赤い血の飲みものばかりであった。アルトニヤ人を恐れ憎んだ人々のなかに赤い血の沸騰した時には、その剣がいつも囁いた、コノール・マック・ネサの子コルマックの影のあとを追う影がある時、その剣は何時も囁いた。故にコルマックの死を望んでいる人々の中でも、かの虹のうす靄《もや》のなかに坐して永遠に仕事している神鍛冶レンの作ったその剣の不思議な囁きを恐れないものはなかった。
女たちはコルマックの強さを彼等自身の美を誇り合うように誇り合った。コルマックは太陽の光のような様子をしていると彼等は言った、そして太陽の火のような、と息の下につぶやく一人の女があった。それはコン・マック・アルトとダルウラのむすめエイリイであった、ダルウラは群島の王ソミイルの女《むすめ》であった――モルナの女《むすめ》ダルウラの女《むすめ》エイリイ、三代うちつづく三人のすぐれて美しい女たちの中の一人であった。
美しいエイリイはアルトニヤ人ではなく、コネリイ・モルの治めている国の生れであった、コネリイ・モルの許に十人の人質がいた時、エイリイは恋の病いに弱りおとろえてしまった。母なるダルウラはその男が誰であるかを知っていた。母はみがいた鋼の鏡を眠っている娘の口の上にあてて見た、愛の炎が赤い心を焼いて、その心の上に白熱に書かれた文字は――我はコノールの子コルマックの心――とあった。母の心はよろこび、また恐れた。まことに、コルマック・コンリナスよりすぐれた勇士はこの世にいなかった、しかしコルマックはアルトニヤ人で、もう直きにこの土地を去るべき人であった、又、エイリイの父コンの死後その保護者となっていたコネリイ・モルは美しいエイリイが自分の心中ひそかに憎んでいたコノール方の人の妻となるのを好まないだろうとも思った。
ここにアルト・モルの子アルトと呼ぶ勇士があった。コネリイ・モルはその男を愛してエイリイを与える約束をした。ある日この男が王の許に来てこんな事を言った。
「あのエイリイが、私の山の牛のなき声をきくようになるのでしょうか」
「そうだ、アルト・マック・アルト」
「あの女に話をして見ましたが、あの女は、草のなかの風みたいです」
「女はみんなそんなものだ。後をつけて行けば、女は見つかるまい。ただ、来いと言えば、女は来る、こうせよと言えば女は、そうする」
「あの女と話をして見ましたが、女は私を笑いました。おいでと言いましたが、女は、流れる水はきのうの風の声をきいたろうかと言うのです。こうせよと言えば、女は、狐が鳴く時に山々がうなずくものだろうかと返事しました」
「お前が言おうとしていることは何だ、アルト・モルの子アルト」
「それは、エイリイの病気のもとになっている男を追い払っていただきたいのです」
「男はたれか」
「人質の一人です」
コネリイ・モルは暫らく考えていた。やがて彼は日かげの小河の水のように濃い黒さに見える髭をなでて、笑った。
「王よ、何をお笑いなさる」
「私はあの白い肌の少女の血のことを考えて笑ったのだ。それは乳のように白いとみんなは言うが、私が思うに、その乳は、あの伝説のなかの女将の血のように、夜どおし駈けくらする『白犬』の泳ぎわたる流れに似て赤く熱い乳かも知れぬ。エイリイの身にある血が英雄の血にひきつけられたのだ。あの女は『金髪』のコルマックの体を自分の胸に抱きたいのだろう」
「あの男の血か私の血か」
王は暫時だまっていた。やがて微笑した、それは悪いしるしだった。やがて又、暫らくして、眉をひそめた、それは悪いしるしではなかった。
「お前の血は入《い》らない、アルト」
「もし私の血でなければ、コルマックの血か。どうして下さる」
「あの男はこの国から出て行かせる」
「一人で」
「一人で」
さて、その日の夕方、ダルウラはコルマック・コンリナスに知らせて、真しろい雪に赤いしみをつけないように頼むつもりで行った。
コルマックの寝室に入ると、そこにエイリイが、鹿皮の上にいた。
ダルウラは何か言おうとして、長いこと娘を見ていた。
「エイリイよ、お前の眼付で分る、お前がコルマック・コンリナスのところに来たのは、これが始めてではないようだ」
少女は低い声で笑った。しろい腕は麦のなかの利鎌《とがま》のように彼女のかがやく髪のなかに動いていた。彼女はコルマックを見た。彼女の眼にある焔はコルマックの眼にも輝いていた。コンの妻ダルウラは彼の方に向いた。
コルマックは真面目に言った「これが始めてではない」
「種子はもう蒔かれましたか、種子まく人よ」
「種子は蒔かれた」
「死です」
「潮は満ち、潮はひく」
「コルマック、もしコネリイ・モルがこれを聞いたら、今夜二人の人が死ななければならないでしょう。今こうやっているあいだにも、あなたの身に関する王の命令が出たかも知れません。あなたはエイリイを愛しますか」
コルマックはかすかに微笑したが、返事をしなかった。
「あなたがエイリイを愛するなら、エイリイが殺されるのを見たくはないでしょう」
「殺されるのは、たいした不幸ではありません、ソミイルのむすめダルウラ」
「エイリイは女です、そしてあなたの子を胸の下に持っています」
「それは事実です」
「エイリイを助けて下さるか」
「もしエイリイが望めば」
「エイリイ、返事は」
少女の胸にあった恐怖は暗黒のなかに途方にまよう白い鳥のようにうごき出した。彼女はダルウラの言葉が真実なのを知った、これにはアルト・モルの子アルトが関係していることも知っていた。死が、コルマックにも、自分にも、近く来たということを彼女は知った。今まで愛に震えた手足はいま恐怖の息に震え出した。不意に彼女は長いすすり泣きのような溜息をした。
「エイリイ、返事を」
エイリイは壁の方に顔をむけた。
「エイリイ、返事は」
「返事は、コルマック・コンリナス、逃げて下さい」
アルトニヤ人の大将はびくりとした。彼にはこの生きる運命《さだめ》が死ぬ運命《さだめ》よりも悲しかった。怒りの火炎が眼に燃えて、脣が反った。
「お前のうむ子は男の子でないように祈る、金髪のエイリイよ」彼は嘲けるように言った「コノールの子コルマックの男の子が、その母のような卑怯者で、その母のように死を恐れては困る、その母の血筋にもまだ今までそんな者はなかったが……」
そう言って彼は立って、出て行った。
コルマックはまだいくらも行かないところで、アルト・マック・アルト・モルがほかの人たちと来るのに出会った。
「王の命です」アルトは簡単に言った。
「覚悟しています。死ですか」コルマックが言った。
「行ってごらんなさい。王自身で言われましょう」
その夜は誰の血も流れなかった。ただ、翌朝、人質は九人になっていた。十人目の人は徐《しず》かに北東の方に馬を進めた、あかつきの白みゆく空に向いて。
コルマック・コンリナスの心には、愛するエイリイのために悲しみと苦い痛みがあり、エイリイに向って言った残酷な言葉をとり返したい悔いがあったが、エイリイの心には、踏まれた芝土のような音があった。
その日、彼女のためになお悪いことがあった。
コネリイ・モルが自身で彼女の許に来た。その右手にはアルトが立っていた。王は彼女に、アルト・モルの子に約束して、その妻となって貰えるだろうかと訊いた。
「それは出来ません」彼女が言った。少女の心にあった恐れはもう死んでしまった。コルマックの言葉がそれを殺したのだった。彼女は自分もまた祖先の女ソミイルの母のように、もしそうする必要があったらば、焼けている丸木を胸にのせて、死んだ子を抱いてるぐらいの気持で、責苦をしのぶ事が出来るということが分った。
「なぜ出来ないのだ」コネリイ・モルが訊いた。
「私の腹にあるのはアルトの子ではありませんから」エイリイは単純に答えた。
王は顔を暗くした。アルト・マック・アルトは銀のかざりした皮帯に下げた短剣に右の手をやった。
「お前は娼婦か」
「いいえ、私の母の誠実にかけて、母のその母の誠実にかけても。私はアルト・モルの子アルトでないほかの人を愛しています、その人も私を愛しています、私はその人の物です」
「その男は誰か」
「その人の名は私の心だけが知っています」
「エイリイ、ダルウラの女《むすめ》、私はお前にただ三つの問を出す。その男はお前と同じ国びとか、その男は尊い生れか、その男は王の後見している女を妻とするに相応した身分のものか」
「その人はこの国じゅうで王の後見している女の夫として誰よりも適《ふさ》わしい人です。その人は尊い血筋で、その人自身が王の子です。しかし、アルトニヤ人です」
「お前は言ってしまった。コノール・マック・ネサの子コルマックだろう」
「コルマック・コンリナスです」
アルト・マック・アルトは大声に笑って進み出た。彼は片手をあげて少女の顔を打った。
「お前はあの男の十人目の女か百人目の女か、今さら、私はお前を侍女にも欲しくない」
ふたたび王の顔が暗くなった。たとえ軽くでも、男が女を打つのを見ていることは、王には不愉快であった。
「アルト、私は、それよりもっと些細な事のためにさえ、お前より値打ある勇士を殺したこともある。気をつけよ」
アルトは苦い顔をした、眼に赤い光を見せて。
「あなたの言葉どおりにして下さるか、王よ」
「いや、今は出来ない。エイリイ、今のひと打ちがお前を救った。はじめ私はアルトにお前をやって、奴隷にするとも殺すとも、アルトの自由にまかせようと思った。しかし今、お前をアルトにはやらぬ。ただこの一つの事を言おう、アルトニヤ人の誰にもお前を与えることは出来ない、お前はアルトの異腹の兄弟クレヴィンの妻となれ」
「琴手クレヴィンの」
「そうだ」
「あの人は年とっています、そして美しくもなく優しくもない」
「あの男は少女が馬鹿にするほどの老年ではない、あの男の機嫌を損じない人間には、あの男は十分優しくする、それにあの男は美しい言葉の人間だ、もしコルマック・コンリナスほど美しくなくとも、見たところも立派だ」
「それでも――」
「私が極《き》めたことだ」
ついに、その通りになった。クレヴィンはエイリイをめとった。しかしそれと同時に彼はコネリイ・モルの広大な城を出て、アルトニヤ人の国境に隣接している森のなかの自分の砦に帰って行った。
クレヴィンの砦のなかで初めて彼女が鹿皮の上に寝たその夜、彼は琴をとり上げて狂わしい調を弾いた。エイリイはそれを聞いていて、涙が眼に浮いて来た。やがて深い影が二人を暗くした。彼女は爪から血が出るほど両手を握りしめた。ついに彼女は壁に顔をむけて、顫《ふる》えながら寝た。
クレヴィンはシイアンの山で「青き琴手」と呼ばれた仙界の人に教えられた琴手であった。ドルイドの道の人たちさえ言葉に述べがたい事をも彼は琴の音にいい現わした。
彼が琴を弾き了《お》えると妻のところに行って、ただこれだけ言った。
「エイリイよ、そんなに白くなよやかなお前ではあるが、そんなに優しいお前ではあるが、今夜私はお前の胸に自分の胸を載せることはしまい、今夜もこの後の幾晩も。しかし、いつか或る日が来たら、私はお前のために婚礼の歌をひいてやる。その日が来るまでに、私はお前のために二度だけ弾こう」
「そして三度目の琴の音を用心しなさい」
クレヴィンがそこを出て行ったあとで彼の老母がそう言った、老母は焚木《たきぎ》がやや下火になった火の前に坐して口の中でぶつぶつ言っていた。
二度目に彼が弾いたのは、数ヶ月のちの事だった。それはエイリイとコルマックの子が生れた日のその日の沈む前であった。
たしなみ深い彼女が少しの声も立てず苦しんでいるあいだじゅう、クレヴィンは琴をひいていた。子供が死んで生れるようにと彼は祈りながら弾くのであった。エイリイはそれを知っていて、自分の胸から子供にまっすぐに息をふき込んだ。「私の脈をやる」彼女は泣き声をかみしめながら囁いた。クレヴィンはその子が盲目に唖《おし》に聾《つんぼ》にうまれるようにと祈りながら弾いた。エイリイはそれを知っていて自分の眼のうしろの霊に「光をやって」と囁いた、耳のうしろに聴いている霊に「聴覚をやって」と囁いた、そして自分の沈黙の下に黙している霊に「言葉をやって」と囁いた。
こうして子は生れた、見るにうつくしい男の子だった。
エイリイが気を失っているあいだに、クレヴィンは琴をひき止めた。彼は立って行って妻を見た。やがて彼は子供を抱き上げて、陽の光のおちる仔鹿の皮の上に寝かした、それは月夜におどる仙界の踊り手たちの出会う青草の上だった。そうしてから彼は再び琴をとり上げて弾いた。
はじめの琴の音に、鳥どもは歌をうたい止めた、樹々の小枝に静けさが来た。第二の音に、樹々の葉がさやぎを止めた、樹々の枝に静けさが来た。第三の音に、野兎は跳ぶのを止めた、狐はねむたい目をまたたいた、狼は寝てしまった。第四、第五、第六の音に、風は大鳥のように翼をたたんだ、森の微風は羊歯《しだ》のかげに忍びこんで眠ってしまい、地はため息して静かになった。静けさが来た――まことに、何処にもどこにも、眠ったような静けさが来た。
第七の琴の音に、音もしない人たちが青草の上に出て来た。その人たちは小さく綺麗だった、青い着物を着て、ちいさい白い顔をして、ちょうど谷間の百合のようだった。
彼等はみんなして低い声で笑って、手を叩いた。なかの一人は薊《あざみ》に這いのぼった、薊はぐるぐる揺れ、その人はぱたんと露の玉のように地におちて、いたそうに泣き出した。それが何時までも泣き止まないので、一人が彼の青い足をひっぱって草のすきまに投げ込み、たんぽぽの花で上からふさいでしまった。
やがて彼等のなかの一人が、赤い服をつけ青い帽をかぶり、薊の刺を鳥の羽毛のように帽子にかざり、小さいちいさい眼を光らしているのが進み出て、小鳥の骨に三本のかげろうの繊糸を絃《げん》にかけた小さい琴をひきはじめた。彼は荒々しい調をひいて、今の世の人の稀にもききがたい歌をうたい出した、その歌をきいたことのある人は知っている、それは歓びにも悲しみにもまさって美しい歌であった。
不意に、クレヴィンは琴を止めた。
「青き琴手」も弾き止めた。
森の人たちは一同しずかに立っていた。空気の渦が草の中をうごく時、彼等はみんな涼しそうな足つきをして蘆《あし》のようになびき揺れた。
その時「青き琴手」は紅衣と青帽をぬぎ捨てた、髪の毛が柳のように白くながくなびいていた。彼は三本のかげろうの糸を切って鳥骨の琴を投げすて、つや消しの金の帯輪から小さいほそい蘆の笛をひき抜いて脣《くちびる》にあて、吹きはじめた。その笛の音がたとえようもなく美しかったので、クレヴィンは夢うつつのようになって同じ荒い調をひいた、自分もしらず、世の中のたれも知らない間に。
その笛の音のなかに赤子は魔の音楽をきいて、肉のいましめを切って動きだした。まことに、その素はだかの霊が、あたたかく柔らかい母の手と同じように血のかよっている肉の温かい家をしのび出ることはむずかしい事だった。しかしクレヴィンと「青き琴手」の音楽はとてもいなみ切れなかった。霊は肉から抜け出して来て、おびえたような大きな眼をして立った。
「ちぢまれ、ちぢまれ、ちぢまれ」物音もしない人たちが一斉にさけんだ、彼等が叫んでいるうちに人間の霊はちぢまって彼等と同じ大きさになった。
そうすると、二つの白くひかっている花が――かわいらしい可愛らしい花が――進み出て人間の手をひいて、何処へか連れてゆくように見えた。彼等が行きかけると、ほかの一同も後について楽しそうな歌をうたいながら行った、その歌はクレヴィンの耳にかすかに不思議な音にひびいた。みんなが山かげに消えて行ったが、「青き琴手」だけが暫らくい残って、笛を吹きに吹いた。笛の音にクレヴィンは夢を見た、彼が神々のすべての神であるアルダイになって、太陽を花嫁とし、月を恋人とし、星を子供とし、彼の前にはただ歓楽のみがある夢であった。やがてその「青き琴手」も行ってしまった。
クレヴィンはまぼろしから覚めて、眠りのうちによび覚まされた人のように目をこすった。
クレヴィンは子供を見た。きっと、それは精たちが置いていった取り換え児だろうと思った。しかしよく見ると、子は死んでいた。
そこで彼は自分の母ゲルカスを呼んでその死体を渡した。
「これをエイリイにやって、そう言って下さい、これが二度目の琴の音だ、私たち二人が胸と胸とをあわせる前には、私はもう一度弾くと」彼は母に言った。
ゲルカスはその言葉をエイリイに伝えた、エイリイは心のなかにクレヴィンを呪いながら、彼の無情な忍耐づよさを嘲った、彼女はただ金髪のコルマックのみ恋しかった。
クレヴィンがどんなに琴を弾こうと、それは彼女には何でもなかった。
コルマック・コンリナスが再びやって来たのは「白い花の月」だった。
彼が南方にいた時、父コノール・マック・ネサが死んだという報知が来た。彼はいそいでアルスタアに行かなければ、アルトニヤ人は彼が王となるのを承知しないかも知れないと思った、たしかに、今は、彼こそコノールの後を継いで王となるべきであったが、しかしほかにも一人、もし彼がすばやく動かなければ、彼の代りにアルトニヤ人の君となるかも知れない人があった。
彼はすばやく仲間の人たちに別れて馬を駈けさした。あまりに急いだので、かの有名なピサルの槍を持ってゆくことさえ忘れてしまった。その槍は戦場では非常に恐れられたもので、曾《かつ》てチュレンの子によって造られアイルランドからルウ・ラムファダの神の手に奪われた、火のような生命ある槍であった。戦場ではそれが生きた物のようにひとりでに飛び廻るという噂であった。
コルマックはひる時から日の入り方ちかくまで馬を進ませて来た。その時彼は眼前に青い長い丘が森の中から松毬《まつかさ》のかたちに浮き出しているのを眺めた、丘の上には荒れはてた古城の沈黙のなかに立つ石の壁が見えた。それに添うてうす青い烟《けむり》のすじがあとからあとから尾をひいて流れた。コルマックは自分が今どこに来たのかを知った。ちかい頃エイリイ自身から便りをよこしたから。
彼は手綱をひかえて暫らくながめていた。やがて微笑したが、また再び顔をくもらした、その曇りの影で眼のなかが重くなった。
ついに彼は「青緑」の剣を鞘から払って、聴いた。刃に添うて沢の上の蚊の声とも思われるかすかな音がきこえた、しかし何の囁きもなかった。
もう一度彼は微笑した。
「何か起るなら、おこれ」彼はつぶやいた、そして馬上に身をそらしてエイリイのための歌をうたった。
ああ、しろき胸の女、エイリイ
こき金いろの髪とあかき赤き木の実の脣《くちびる》をもてる女
君は白鳥よりもしろく、白鳥よりもむね柔らかし
海の波はうごけども君がうごく姿に似ず
わが骨の髄はいたむ、いたむ、エイリイよ
わが体内の血はにがく狂しき潮
わがきくは君が心のよびごえか、エイリイよ
あるいは森の風か、海のひびきか、エイリイよ
海のひびきか
いとしきもの、われに来よ、われに来よ、いとしきもの
エイリイ、エイリイ
われに来よ
ああ、あら鷲にわが名をとらせて
君が心のほとりに持ちゆかしめ、ひきちぎらせん、むかし熱かりし心のほとりに
エイリイよ、エイリイよ、エイリイよ
その歌の最後の言葉が非常に調子高くはっきりしていたので――戦場の角笛の音のように高くはっきりしていたので――エイリイがそれを聞きつけた。彼女の心は躍り、胸は波うち、脈は血の高潮のなかに跳んだ。彼女はまたもコルマックの子を持っている時のような感じがした。彼女はクレヴィンの母をはじめ一同を室内にひき籠らせて、自分をのぞかないように、居間に誰をつれて来ようとも、それを見ないように命じた。そうしてから彼女はコルマックを迎えに出て行った、クレヴィンがいま猟に行っていて三日目にならなければ帰って来ないことを心に悦びながら。
それは、二つの波の出会うようだった。二人は互に離れがたく身を投げた。ながいこと互に眼と眼を見交して、あわせる脣《くちびる》に言葉を消して後、ようやく二人は手をつないで砦にはいって行った。
二人が歩く時、剣のささやきが草の中を風のゆくような音を出した。
「あれは何」エイリイは、大きな眼をして訊いた。
「あれは草のなかの風」コルマックが返事した。
砦に入った時、剣のささやきが松をゆする風のように乱れた音を出した。
「あれは何」エイリイは、眼に恐怖を見せて訊いた。
「あれは森のなかの風」コルマックが返事した。
コルマックが飲みくいして後、二人は居間に入って鹿皮の上に横になった、そのとき、剣のささやきは暴風の海のたか波のような大きな音を出した。
「あれは何」エイリイは、咽もとに泣き声をこめて叫んだ。
「あれは海の風」コルマックは、低いかすれ声で言った。
「ここから三日も行かなければ、海はありません」エイリイは両手を握りあわせて囁いた。コルマックは何も言わなかった。すると、もう、剣も静かになっていた。
星の夜に、クレヴィンが帰って来た。月光のなかに森をぬけながら、彼は琴をひきながら来た、鹿を追って大まわりしてついに自分の砦のクリイグ城ちかくまで来てしまったのであった。彼は谷間で従者に馬をあずけて徒歩で森をぬけて来た。
砦が立っている岩山ちかくまで来た時、彼は立ち止った。何か生きてる物の黒い影を見つけたのだった。
「誰か」呼んで見た。
「わたくし、ムルタック・ラム・ロサです」そう言って砦の中から一人の男が徐《しず》かにおずおずと進んで来た。かねてエイリイに恥を与えられてから彼女を憎んでいる男であった。
クレヴィンは彼を見つめた。
「私は待っている」クレヴィンが言った。
それでもまだ男は躊躇していた。
「私は待っているのだ、ムルタック・ラム・ロサ」
「苦いことを言わなければなりません、それを言うために出て来たところです」
「私の妻エイリイのことか」
「そうです」
「言え」
「彼女《あのひと》は部屋に一人で眠ってはおられません、そして彼女《あのひと》のそばには砦のなかの者は一人もついておりません」
「側にいるのは誰か」
「男です」
クレヴィンはながい息をした。腰にある狼を刺す短剣に手が触れた。
「男はたれか」
「コルマック・コンリナスと呼ばれている、コルマック・マック・コノールです」
クレヴィンはもう一度長い息をした、脣に血がのぼった。
「お前は確かにそれを知っているか」
「知っています」
「それは、誰も知ってはならぬ事だ――」そう言うとクレヴィンは月光に短剣をふり上げてムルタック・ラム・ロサの胸を刺した、吸うような音をさせて。
ひと声うめいて男は倒れた。その白い手は落ち松葉のこまかい塵のなかに迷っていた、顔は死の泡をふく青い波のようだった。
クレヴィンは男の脣《くちびる》の泡を見た、倒れた鹿の脣の泡と同じだった。彼は短剣の柄の血をながめた。それは草いちごの汁の泡のようだった。
「これが確かな沈黙の道だ」そう言って、歩き出したが、もうその男のことは考えていなかった。
砦の影のなかに彼は長いこと立って考えていた。とても女の部屋まで行きつけないと思った。行きつくまでに、おそらくは、エイリイの剣も槍もあるだろう、もし、それがなかったところで、コルマック・コンリナスがいる――コルマックばかりではない「青緑」の剣と、ピサルと呼ばれた槍もある。
しかし一つの考えが洞穴にふき込む風のように彼の頭にはしり入った。彼は剣を納めてふたたび琴をとり上げた。「三度目の琴の音だ」そういいながら彼は苦く微笑した、そして自分でもその微笑に気がついていた。
やがて彼は音のない人たちの青い地内に再び立って、彼等の耳に入るまで魔の歌を弾いた。年とった魔の琴手がやって来た、クレヴィンはそのとき願いの調を弾いた。
「何を願うか、クレヴィナ・マック・ロオリイ」青き琴手は訊いた。
「森の青い王よ、眠りの調が欲しい」
「そうか、のぞみ通りに……」
青き琴手はまどわしの調を弾いた、すると、一枚の木の葉もゆれず、一羽の鳥もうごかず、露さえも落ちるのを止めた。
クレヴィンは琴を上げて弾きはじめた。
砦のなかの犬どもが起き上がったが、吠えなかった。やがて彼等は伸ばした足に鼻をおしつけて寝てしまった。砦のうしろ側にいる馬どもが三遍も耳をそばだてたが、ひらかれた脣《くちびる》からは一声のいななきも出なかった。牝馬どもは鼻をならしたが、頭をひくくして立ちながら眠ってしまった。武器を持つ武士たちは目を覚まさずいよいよ深い眠りに落ちた。クレヴィンの老母は身じろぎして、だるそうに呻いたが、やがて白い頭をたれて神々の国に行った、そして彼女を愛した亡夫ロオリイ・マック・ロオリイといっしょに歩いた、その人は遠いむかし戦場で死んだ人だった。
ただエイリイとコルマックだけが目をさましていた。二人の耳にその狂おしい琴の音は美しく響いた。
「あれは青い琴手自身が弾いているのだろう」コルマックはもう堪えられぬ眠りにねむりかけながら言った。
「あれは、クレヴィンの琴の音かと思います」エイリイは低い溜息をして言った、しかしそれは彼女にたいした事ではなかった。その言葉もコルマックは聞かなかった、彼は眠ってしまった。
「壁の上に九つの影が躍りはねているのが見える」エイリイは、胸が動悸し、手足がしびれたようになって、ひとり言をいった。
「…………我に来よ、いとしきもの、エイリイ、エイリイ
我に来よ」
コルマックは夢のなかでねごとを言った。
「九疋の犬が砦にとび込んで来るのが見える」エイリイは叫んだが、誰もきく人はなかった。
コルマックは夢のなかで微笑した。
「ああ、ああ、九つの赤い霊が部屋のなかに飛び込んで来る」エイリイは大声にさけんだが、誰もきく人はなかった。
コルマックは眠りのうちに微笑した。
その時九つの赤い火焔は九層倍にもひろがり、砦の全部が焔《ほのお》に包まれた。
これこそ琴手クレヴィンの仕事であった。砦にいた全部のものが焔の中で死んだ。美しいエイリイは苦痛を笑い消しながら死んだのだった。
コルマックは微笑した、火焔が胸に飛んで来た時、彼はつぶやいた「おお、エイリイの熱い心――この胸に、この胸に来よ」そう言って彼は死んだ。
クレヴィンが弾き止めた時、そこには砦もなく、人もなく、馬も牝馬もなく、吠える犬もなく――ただ灰のみがあった。
あかつきまで彼はその灰を見ていた。やがて立ち上がって琴を折った。彼は北に向いて歩き出した、アルトニヤ人にこの事をつげて、彼等の手から死を受けるために。
底本:「かなしき女王 ケルト幻想作品集」ちくま文庫、筑摩書房
2005(平成17)年11月10日第1刷発行
底本の親本:「かなしき女王 フィオナ・マクラオド短編集」第一書房
1925(大正14)年発行
入力:門田裕志
校正:匿名
2012年7月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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