十月三日
けふといふ日にはずゐぶん變なことがあつた。朝、起きたのはかなり遲かつたが、マヴラが長靴の磨いたのを持つて來た時、いま何時だと訊いた。すると、もうとつくに十時を打ちましたとの答へに、おれは大急ぎで身じまひをした。正直なところ、役所へなんかてんで行きたくはないのだ。行けば、きつと課長の奴が澁い面《つら》をしやがるにきまつてゐる。奴はもうこの間ぢゆうからおれの顏さへ見ればこんなことを言やあがるんだ――『君は一體どうしたといふんだ、まるで頭が混亂してるやうぢやないか? どうかすると、毒氣にでもあてられたやうにふらふらしてるし、時々、書類の表題に小文字をつかつたり、日附や番號を全然いれなかつたり、何が何やらさつぱり譯のわからないものにしてしまふぢやないか。』なんて。忌々しい蒼鷺野郎め! あれあ屹度このおれが局長の官邸でお書齋に坐つて、閣下の鵞鳥《ペン》を削つてゐるのが羨ましいんだらう。なあに、おれはあの會計係に逢つて、あの吝嗇坊《けちんばう》野郎を拜みたほして、あはよくば幾何《なにがし》か月給の前借《まへがり》をする期待《あて》でもなかつたなら、どうして役所へなんぞ行つてやるものか。ところが、あの會計係がどうしてどうして、一筋繩でゆく代物ぢやあないて! つひぞあん畜生が一月分だつて月給の前借《まへがり》をさせた例しがあるかい――それよりやあ、最後の審判の來るのを待つた方がましなくらゐだ。どんなにせがんだつて、こちらがいくら困つてゐたつて――あの白髮頭の惡魔め、前借なんぞさせることぢやない。そのくせ自宅《うち》では自分とこの料理女に頬桁を叩かれてゐくさるのだ。それはもう世間で誰ひとり知らぬものがない。まつたく本局勤めなんてどこが好いだらう――うまい儲け口なんか一つとしてありやしない。そこへいくと、縣廳だの、區役所だの、支金庫だのになるとがらりと樣子が變つて來る。例へば、隅つこの方にちぢこまるやうにして、何か書きものをしてゐる穢《むさ》い安フロックにくるまつた先生だが、その御面相を見れば唾でもひつかけてやりたいくらゐだが、どうしてどうして、あれで素晴らしい別莊を借りたりしてゐるのだ! こんな先生のところへ金ぴかの陶磁器の茶碗なんぞ持つて行くものではない。『これあ、まるで竹庵先生への手土産だね。』と仰つしやる。まあ持つて行くなら、※馬を二頭とか、彈機附馬車を一臺とか、それとも三百留《ルーブリ》もする獵虎の毛皮でも仕入れて行くことだ。見かけは實に物靜かで口のきき方なども誠にやさしく、『鵞筆《ペン》を削るナイフをちよつと拜借いたしたいのでございますが。』などといふ調子なんだが、これがどうして、何か頼みこんで來る請願人と見れば、きれいに剥いて襯衣一枚にしてしまふのだ。尤もその代りこちとらの勤めむきは上品なもので、萬事にかけて清潔なことは金輪際、縣廳などでは見られたものでなく、卓子《テーブル》は桃花心木《マホガニイ》製だし、上役だつてみんな、『あなた』言葉だ……。まつたく正直なところ、勤めでもこのとほり上品でなかつたら、おれはとつくの昔に役所なんか退いてしまつてゐるんだが。
おれは古いマントを着て洋傘《かさ》をさした。何しろ、ひどい土砂降りなんだ。街には人つ子ひとり通つてゐない。ときたま眼につくのは、着物の裾をまくりあげて頭からかぶつた女房《かみさん》か、洋傘《かさ》をさした小商人か、使丁ぐらゐが關の山だ。高等な人間では、わづかにこちとら仲間の官吏を一人見かけた位のものだ。その男には四つ辻で出會つたのだが、おれはその男を見ると直ぐにかう獨り呟やいたものだ。『へつ! 措きやあがれ、あん畜生、役所へ行くやうな振りをして、その實あすこへ駈けてゆく女の子の後を追つて、あの娘《こ》のおみあし拜見といふ下心なんだ。』どうしてわれわれ役人仲間はかう不良ばかりだらう! まつたく、どんな士官にだつて、ひけを取りはせん。帽子をかぶつた女が通りさへすれば、必らず、小當りにあたつてみるのだ。こんなことを考へながら、ふと氣がつくと、おれが前へさしかかつてゐた或る商店の店先へ一臺の馬車がぴつたり停つた。おれには直ぐに、その馬車がうちの局長の乘用車だといふことがわかつた。『しかし局長が買物などに出られる筈はない。』さうおれは考へた。『屹度これあ、お孃さんに違ひない。』おれは咄嗟に壁へぴつたりと體を擦りよせた。從僕が扉をあけると、令孃はまるで小鳥のやうに身輕にひらりと馬車から降り立たれた。ちよつと右左を御覽になる、その度ごとにお眉とお眼がちらほらと……ちえつ、なまんだぶ、おれはもう助からん、金輪際、助かりつこない! それはさうと、なんだつてまたこんな雨降りにお出ましになつたんだらう! 成程これで、女つてものはどこまで襤褸つ切れに眼がないかつてことがわかる。令孃はおれには氣がつかれないやうだつた。それにおれの方でも故意《わざ》と、なるべく深くマントにくるまるやうにしてゐたのだ。何しろ、おれのマントはひどく汚れてはゐるし、それに型が至つて舊式だからなあ。今は襟の長い外套がはやつてゐるのに、おれのは襟が短かくてダブルになつてをり、生地だつてまるきり湯熨がしてないんだ。令孃の小犬が店の中へはいりぞこねて往來にまごまごしてゐる。おれはこいつをよく知つてゐる。メッヂイといふ犬だ。さて、ほんの一分もたつかたたないところでおれはふと、とても優しい聲を耳にした――『あら今日は、メッヂイさん!』おや、おや、おや! いつたい誰の聲だらう? 振りかへつて見ると、洋傘《かさ》をさして行く二人の婦人が眼についた。一人はお婆さんで、もう一人の方は若い娘だ。その二人はもう行き過ぎてしまつたのに、おれの傍でまた、こんなことをいふ聲がする。『メッヂイさん、あんたひどいわよ!』はつて、面妖な! 見れば、メッヂイが例の婦人たちについて來た小犬と鼻を嗅ぎあつてゐるのだ。『ひえつ!』と、おれは思はず肚の中で驚ろいた。『いや待てよ、おれは醉拂つてるのぢやないかしら! どうも、こんなことにぶつかるのはめづらしいことだ。』――『ううん、フィデリさん、さうぢやないのよ。』さう言ふのだ。――おれはメッヂイがさう言ふのを、この眼でちやんと見屆けたのだ。『あたしねえ、くん、くん、あたしねえ、くん、くん、くん、とつてもひどい病氣だつたのよ!』ひえつ! こいつめ、犬の癖に……いや、まつたくのところ、そいつが人間のやうに物をいふのを聽いた時には、おつ魂消てしまつたて。だが、後でよくよく考へて見れば、別に魂消るほどのことでも何でもなかつた。實際、こんなやうなことは世間にはざらにあることなんだ。何でも、英吉利では一尾の魚が浮きあがつて、變挺な言葉で二言《ふたこと》ものを言つたのを、學者がもう三年越し一生懸命に研究してゐるさうだが、未だに何のことだかさつぱり分らないといふ話だ。また、これも新聞で讀んだのだが、二匹の牛が店へやつて來て、お茶を一斤くれと言つたといふ話もある。だが正直なところ、メッヂイが次ぎのやうなことを言つた時には、おれもまつたく魂消てしまつた。『あたしねえ、フィデリさん、あんたにお手紙を差しあげたのだけれど、ぢやあ屹度うちのポルカンがあたしの手紙をお屆けしなかつたのねえ!』ちえつ、驚ろいたね! おれはつひぞこの年になるまで、犬が手紙を書くなんてことは聞いたこともないわい。文章が正確に書けるのは貴族だけの藝當だ。尤も、中には商店の帳つけや、農奴階級のうちにだつて、どうかすると、文章を書く手合がないでもないが、しかしあの手合の書くのは大抵機械的で、句點もなければ、讀點もなく、てんで文體になつてやしないのだ。
これには全く驚いた。だが實を言へば、近頃おれには時々、他人《ひと》には聞いたり見たり出來ないやうなことが、よく見えたり聞えたりするのだ。『ようし』とおれは肚の中でうなづいた。『ひとつ後をつけて行つて、あの犬ころの素性を突きとめて、一體あいつがどんなことを考へてゐるやがるか、調べあげてくれよう。』そこでおれは洋傘《かさ》をひろげて、二人の婦人の後について歩き出した。二人はゴローホワヤ街へ通り拔けると、メシチャンスカヤ街へ曲り、そこからストリャールナヤ街へ出て、コクーシュキン橋にかかる手前で、やつと大きな家の前で立ちどまつた。『この家なら知つてるわい』と、おれは口の中で呟やいた。『ズヴェルコフの持家だ。』まつたく素敵もない家だ! 凡そここに住んでゐない種類の人間はない――料理女やお上り連がどのくらゐゐることか! こちとら仲間の官吏にいたつては、まるで犬ころのやうにうじやうじやと重なりあつて、押しあひへしあひだ。おれの友達が一人ここに住んでゐるが、そいつは喇叭の名人だ。くだんの婦人連は五階へあがつて行つた。『これでよし。』とおれは考へた。『今は入らなくてもかうして居所さへつきとめておけば、いざといふ時には、ちやんと役にたつからなあ。』
十月四日
今日は水曜日だから、局長の官邸の方へ出むいた。故意《わざ》と早めに行つて、ゆつくり坐りこんで鵞筆《ペン》を殘らず削りあげた。うちの局長はよほど賢い人に違ひない。書齋ぢゆう、本のぎつしりつまつた書棚で一杯だ。二つ三つ、本の表題を讀んでみたが、どれもこれも小難かしいものばかりで、こちとら風情にはてんで寄りつけさうもない――佛蘭西本や獨逸本の原書ばかりだ。何しろ局長は、顏を見ただけでも、ちやんとその眼中に何かしら威嚴がそなはつてゐる。つひぞ局長が無駄口を叩かれたのを聞いたことはないからなあ。書類でも差し出す時に、かう訊ねられるぐらゐのものだ――『天氣はどうだね?』――『は、どうもじめじめしたお天氣でございまして、閣下!』何にしても、われわれ風情の敵ではない! 要路の大官に違ひない。――だが、どうやらこのおれが格別お氣に召してゐるらしいて。もし萬一、御令孃の方もその……ええ、畜生!……いや、なんでもない、なんでもない、内證、内證! と。――『蜂《プチエラ》』を讀む。佛蘭西人つて奴は何といふ馬鹿だらう! いつたい何をたくらんでるのだらう? 皆んなひつからげて、笞でぴしぴしひつぱたいてくれるといいんだ! やはりその雜誌で大變面白い舞踏會の記事を讀んだが、何でもクールスカヤ縣の地主の書いたものだつた。クールスカヤ縣の地主連はなかなか味な文章を書きをる。その後でふと氣がつくと、もう十二時半を打つてゐたが、閣下は未だに寢室からお出ましにならない。ところが、一時半ごろ、とても筆紙にはつくし難い大事件が持ちあがつた。扉がぱつと開いたので、そら局長だとばかりに、おれは書類を持つて椅子から跳びあがつたが、それがあの方なんだ、御令孃なのさ! いや、どうも、その服裝のあでやかさといつたら! お召物はまるで白鳥のやうに眞白なやつで――ふう、そのきらびやかさといつたら! こちらをちらと御覽になつた時には――まるで太陽に射られたやうに眩《まぶ》しかつた! まつたく太陽に射られたやうにさ! お孃さんはちよつと會釋を遊ばされて、『あの、父《パパ》はこちらにをりませんでして?』と仰つしやる。いやはや、どうも! 玉をころばすやうなそのお聲といつたら! 金絲雀《カナリヤ》だ、まつたく金絲雀《カナリヤ》そつくりだ!『やれやれ、お孃さま!』さう、おれは言はうと思つたのさ。『どうか、もうそんなに苦しめないで下さいまし。でも、どうしても苦しめようと仰つしやるなら、いつそそのお美しいお手で苦しめて下さいまし。』とさ。ところが、忌々しいことに、舌めがどうしても言ふことをききをらずに、おれはやつと、『いえ、おいでではございません』と言つたのが精いつぱいだつた。令孃はおれの顏をちらと御覽になつたが、それから書物の方へ視線を移される途端に、手巾《ハンカチ》を下へお落しになつた。おれはあわてて、泳ぐやうに飛びつきざま、忌々しい嵌木《はめき》の床でつるりと足を滑らして危なく鼻柱を挫くところだつたが、やつと踏みこたへてその手巾《ハンカチ》を拾ひあげた。へつ、何といふ素晴らしい手巾だらう! 薄い生地のバチスト麻で、琥珀――まるで琥珀そつくりなんだ! それに匂ひだつて、お上品な方の持物らしく、實に奧床しい匂ひだ。ちよつとお禮を仰つしやつて、微かににつこりされると、匂やかな朱唇があるかなしに動いただけで、そのまますうつと行つてしまはれた。おれはそれからなほ一時間ばかり坐つてゐたが不意に從僕が入つて來て、『アクセンチイ・イワーノ※[#濁点付き片仮名ヰ、1-7-83]ッチ、もうお引取り下さい。旦那樣はもうお出ましになりましたよ。』とぬかしやがる。どうもこの從僕風情くらゐ我慢のならぬ手合はない。いつも玄關に頑張つてゐくさるだけで、碌すつぽ挨拶ひとつしやがらない。それだけならまだしも、一度など、あのどつ畜生の一人めが、腰も浮かさないで、嗅煙草は一服いかがでなんぞと來やがつたものだ。人を何だと思つてやがるんだ、下種《げす》の頓馬野郎め、これでも歴乎《れつき》とした官吏で、抑も貴樣たちとは身分が違ふぞ! だがどうも仕方がないから、おれは帽子を手にとり、マントもつひぞこの手合が着せてくれた例しがないから自分で着て、そとへ出た。自宅《うち》では大方寢臺の上でごろごろしてゐた。それから非常に美しい詩を一つ寫した。『いとしき人よ、ひととき見ざるに、はや一年《ひととせ》も相見ざる心地こそすれ。わが生を呪ひつつ、そもわれは生くべきや、かくわれは言ひぬ。』これは屹度プーシキンの作だらう。夕方、マントにくるまつて、あの方のお邸の玄關さきまで行つてみた。――ひよつと令孃がお出ましになつて、馬車にお乘りになるところでももう一目をがみたいものと、長いこと待つてみたが、その甲斐もなく、お出ましにはならなかつた。
十一月六日
課長の奴め恐ろしく憤《むく》れをつた。おれが役所へ行くと、傍へ呼びつけやがつて、かうぬかすのだ。『さあ、言ひ給へ、君は抑もどういふ料簡でああいふ眞似をするのだ?』――『何がどうしたと言ふのです? わたくしは何もいたしはしませんよ。』とおれは答へた。『まあ、よくよく考へて見給へ! 君はもう四十の坂を越してるんぢやないか――もう少しは分別がついてもよささうなものだよ。いつたい君は何と心得てゐるんだ? 僕が君のふざけた眞似を何にも知らないとでも思つてるのかね? 君は局長のお孃さんに附き纒つてるといふぢやないか! ふん、ちつとは身のほどを考へて見たがよからう。いつたい君はなんだい! コンマ以下の人間に過ぎないぢやないか。第一、文《もん》なしの素寒貧ときてゐる。せめて、鏡とでも相談してみ給へ――その面《つら》でしやあしやあとよくもそんな眞似が出來たものだ!』ちえつ、箆棒め、顏はといへば、膀胱の氷嚢みたいで、縮れた一つまみきりの前髮を頭の天邊へ持つて行つて、油で變な渦卷型に固めつけてゐれあ、それでいつぱしのど偉い人間のやうなつもりでゐやあがるんだ。へん、分つてるよ、何故あいつがおれに當りちらすのか、おれにはちやんと分つてるよ。おほかた、おれが格別な好意を寄せられてゐるのに氣がついて、妬ましいんだらう。ふん、あんな奴、唾でもひつかけてやらあ! 七等官がどれだけ偉いんだ! 時計に金鎖をぶらさげたり、三十|留《ルーブリ》もする長靴を注文したからつて、それがなんだい! おれがどこぞの平民の出だとでもいふのかい? おれは仕立屋の出でもなければ、下士官の小伜でもない。かう見えても貴族だぞ。なあに、おれだつて今に出世して見せる。年だつてまだ四十二だ――勤めの方も本當はこれからといふものだ。今に見ろ! おれだつて大佐相當官ぐらゐにはなつて見せるぞ、あはよくばもつと偉くなるかも知れん。さうなつたら、住ひだつて手前なんかよりぐつと立派なのを構へてやるから、へん、自分より他には歴乎《れつき》とした人間は一人もないとでも自惚れてやがるんだらう? なんの、おれにだつてルチェフ仕立ての流行の燕尾服を着せて、手前のしてゐるやうなネクタイでもつけさせてみろ、どうして、手前なんぞ足もとへだつて寄りつけるこつちやないぞ! ただ、それだけ懷ろに餘裕《よゆう》のないのが不仕合せといふものさ。
十一月八日
芝居へ行つた。露西亞馬鹿『フィラートカ』を演《や》つてゐた。可笑しくて腹の皮を撚つた。それにもう一つ小喜劇があつて、その中で宮内官をあてこすつた面白い小唄をうたつたが、殊に、一人の十四等官をさんざんにやつつけたのがあつて、實に遠慮會釋なく歌はれてゐるので、どうしてあんなものが檢閲を通つたのかと、おれには不思議で堪らなかつた。商人たちのことだつて、彼奴らはみんな詐欺師で、その伜どもは放蕩無頼で身のほど知らずだ、などと露骨にやつつけてゐる。新聞雜誌關係者《ジャーナリスト》についても、やはりとても面白い諷刺詩《クプレット》をうたつて――記者はくさしてばかりをり、作者は讀者に加勢を頼む、などとやつてゐた。近頃は作者もなかなか面白《あぢ》な脚本を書く。おれは芝居にゆくのが好きだ。ほんの少しでも懷ろに小錢があれば、どうしても行かずにはゐられないのだ。ところが、われわれ役人仲間には實に度し難い手合があつて、田吾作どもめ、芝居へなんぞてんで足踏みもしをらないのだ――尤も切符をただで貰つた場合は別だが。ひとり女優に歌の非常にうまいのがあつた。おれは、あの方のことを想ひ出したて……おつと、畜生!……何でもなし、何でもなし……内證々々と。
十一月九日
八時に役所へ出かける。課長の奴、おれの出勤したのをまるで氣がつかないやうな顏をしてうせる。おれも負けずに、何處を風が吹くといふやうな顏ですましてゐてやつた。書類を調べたり照し合はせたりする。四時に退廳。局長の邸のそばを通つたが、誰の姿も見えなかつた。晩飯の後はおほかた寢臺のうへでごろごろして過した。
十一月十一日
けふは局長邸へ伺候して、お書齋で鵞筆《ペン》を閣下のは二十三本、そしてあの方……ひやあつ!……御令孃のも四本、削つて差しあげた……。閣下は鵞筆《ペン》が一本でもよけいに削つてあるのがひどくお好きだ。何にしてもお偉い方に違ひない! いつも默つておいでになるが、察するに、肚の中では始終いろんなことを考へていらつしやるのだらう。主《おも》にどんなことを考へていらつしやるのか、あの頭の中でどんなことが目論まれてゐるのか、それがひとつ知りたいものだて。かういふ方たちの生活や、あのさつぱり譯の分らぬ繁文褥禮や、宮中むきの作法などを、まのあたり覗いてみたいものだ。いつたい御自分たちのあひだで不斷どんなことをしたり言つたりしていらつしやるのか――そいつがおれには知りたいのだ! おれは何遍も閣下に話しかけてみようと思つたことはあるのだけれど、ただ忌々しいことには、舌めがどうにも言ふことを聽きをらん。戸外《そと》はお寒うございますとか、お暖かでございますとだけは言へても、それから先きが頓とつづかないのだ。客間も覗いて見たいのだけれど、ただ時たま扉があいてゐることがあるだけで、客間のむかふにもまだ一つお部屋があるやうだ。いやはや、何といふ豪勢な飾りつけだらう! 鏡にしても陶磁器にしても、素晴らしいものばかりだ! 令孃のお居間になつてゐる、あの奧のお部屋――おれは、あれが覗いて見たいのだ! 奧の婦人室、そこには屹度いろんな小瓶だの玻璃器だのが並べてあるだらうし、息をかけるのも氣がとがめるやうな花などもあるだらうし、また、そこにはあの方の衣裳なども脱ぎすててあつて、それが衣裳といふよりは空氣みたいにふんはりと散らばつてゐることだらう。寢室も覗いて見たい……そこは屹度、不思議の國だ、いや、天國にだつてないやうな樂園に違ひないと思ふ。あの方が臥所《ふしど》からお起きになつて、雪のやうに白い靴下をお穿きになるため、あの可愛らしいおみ足をおのせになる足臺も見たい……。おつと、いけない! いけない! いけない! 何も言ふまいぞ……内證々々。
だが今日は、あのネフスキイ街で耳にはさんだ、くだんの小犬の立話を思ひ出したので、急に夜が明けたやうな氣持になつた。『ようし、』と、おれは心にうなづいた。『今こそ何もかも突きとめてくれるぞ。それには先づ第一に、あのやくざな犬どもが取り交はしたといふ手紙を押收しなければならない。それさへ見れば、何か手がかりを掴むことが出來よう。』ありやうを言へばおれは一度メッヂイを手もとへ呼んで、奴にかう言はうとしたのだ。『なあ、メッヂイや、そらかうして今はおれとお前と二人きりだが、それでもまだ氣づかひなら、扉を閉めもしようさ、さうすれあ誰にも見つかりつこないといふものだよ。そこで一つ、お孃さんのことでお前が知つてることを洗ひざらひ何もかもぶちまけて話して呉れないか――一體お孃さんはどんな樣子で、何をしてござるんだい? おれは誓つて、他人に洩らしはしないからね。』つてさ。ところが狡い犬ころめ、尻尾を捲いて、いやに身を縮こめやがつて、何も聞えないやうな振りをして、こそこそと部屋を出て行つてしまつた。おれは疾うから、犬といふ奴は人間よりぐつと賢いものだと思つてゐた。そればかりか、物をいふことだつて出來るやうだが、ただどうも、かう、片意地なところがあるらしい。あれでなかなかの策士で、なんでも見てとり、人間の技巧《トリック》などはちやんと見拔いてしまふ。いや、明日はどんなことがあつてもズヴェルコフの持家へ出向いて、フィデリをとつちめて、まんがよければ、メッヂイの書いた手紙を殘らず押收してこまさにやならん。
十一月十二日
なんでもかんでもけふはフィデリに會つて詰問してやらねばと、午後の二時に家を出た。おれには甘藍《キャベツ》といふやつがどうにも鼻もちがならぬのに、メシチャンスカヤ街の小つぽけな店といふ店から、あれの臭ひがぷんぷんとするのだ。搗てて加へて、どの家の門口《かどぐち》からもおつそろしく不快《いや》な惡臭が流れて來るので、おれは鼻を押へて大急ぎに駈け拔けた。それに下賤な職人どもめがやたらにてんでの仕事場から煤や煙を吐き出させくさるので、上品な人間にはとてもこの邊を散歩するなんて氣持にはなれない。こつそり例の六階へ登つて、おれが呼鈴をならすと、ちよつと雀斑のある、大して見苦しくもない娘つ子が顏をだした。よく見れば、いつかお婆さんと一緒に歩いてゐた例の娘なんだ。それがぽつと顏を赧らめたので、へつ、こいつ、もう男がほしいんだなと、おれはすぐに見てとつた。『なんの御用ですかしら?』とおいでなすつたから、『實は、こちらのお飼犬にちよつと話がありましてね。』と言つてやつた。ところが、てつきりこの娘は馬鹿に違ひない! おれには馬鹿だつてことが直ぐにわかつた! そこへ、くだんの小犬の奴がワンワン吠えながら駈けつけたから、おれはそいつを取つつかまへようとしたのだが、畜生め、すんでのことにおれの鼻へ咬みつきくさるところだつた。だが、おれは逸はやく、部屋の隅つこに奴の寢箱のあるのに氣がついた。これだ、おれに用のあるのはこれなんだ! 早速それに近づいて箱の中の敷藁をひつ掻きまはすと、やれやれ嬉しや、出て來たのは小さな紙束だ。畜生犬め、それと見るなり、初めはおれの脹脛《ふくらはぎ》に咬みつきをつたが、紙束をおれに取りあげられてしまつたと感づくと、いやに哀れつぽい金切聲をたてたり、おべつかを使つたりしはじめたけれど、おれは構はず、『へん、お氣の毒さま、あばよ!』とばかり、一目散に駈け出してしまつた。定めしあの娘つ子はおれを狂人《きちがひ》だと思つたに違ひない。何しろ、ひどくおつ魂消てゐたやうだからなあ。家へ歸ると、何はさて措き、さつそくその手紙の吟味にとりかからうと思つた――それといふのもおれはどうも蝋燭のあかりでは字がよく讀めないからだ。ところが、マヴラの奴めが飛んでもない時に床を洗ひはじめたものさ。どうも芬蘭《フィンランド》女といふ奴は馬鹿が多くて、とかく清潔《きれい》ずきも場違ひで困りものだ。しかたがないから、散歩でもしながら一つとつくりとこの經緯《いきさつ》を考へて見ようと思つて、おれは戸外《そと》へ出た。今度といふ今度こそは、いろんな事情や、思惑や、その動機がすつかり分つて、いよいよ、すべてが明るみへ出るといふものだ。あの手紙でおれには何もかもが明瞭になるのだ。犬といふ奴はなかなか利發な動物で、政治關係のことなら何でも辨まへてゐるから、屹度あの手紙にはうちの局長のことが細大もらさず書いてあるだらう――閣下の人柄から行状まで詳細に認ためてあるに違ひない。それに何か少しはあの方のことだつて……おつと、あぶない、内證々々! 夕方になつて家へ歸つた。おほかたは寢臺でごろごろして過した。
十一月十三日
さあ、ひとつ讀んでやらう! なかなか明瞭に書いてあるが、それでも何となく書體に犬らしいところがある。ええと――
[#ここから2字下げ]
『お懷かしいフィデリ樣! と、かうは言つても、あんたの名前があまり下種《げす》つぽいので、あたし何だかそれに馴染まれないの。何とか、もう少し好い名前がつけられなかつたものでせうかねえ? だつて、フィデリだの、ローザだのつて――俗つぽいぢやないの! でもまあ、それはそれとして、あたしとても嬉しいわ、お互ひにかうしてお手紙の往復《やりとり》をするやうになつたことがさ。』
[#ここで字下げ終わり]
この手紙はなかなかきちんと書けてゐる。句切りも當を得てをれば、假名づかひだつて正確だ。あの課長などは、何處かの大學を出たなどと法螺を吹いてゐるけれど、なかなかどうして、これだけには書けやしない。ええと、それから――
[#ここから2字下げ]
『めいめいの思想だの、感情だの、印象だのをお互ひに語りあふつてことは、世の中で何より幸福なことの一つだと、あたし思ふわ。』
[#ここで字下げ終わり]
ふむ………これは獨逸語から飜譯した、或る論文の中から引用した意見だな。表題はいま憶えてゐないけれど。
[#ここから2字下げ]
『あたし、これ經驗から言つてるのよ、尤も世の中なんて言つても、邸の門より外へは出たこともないんだけれど。だつて、あたしは先づまづ幸福な身の上といへるでしよ? お父樣からソフィーつて呼ばれていらつしやる、うちのお孃さんが、それはそれは、あたしを夢中で可愛がつて下さるのよ。』
[#ここで字下げ終わり]
うへつ、畜生!……いや、何でもない、何でもない! 内證々々と!
『お父さまだつて、よく頭を撫でたりなんかして可愛がつて下さるわ。あたし、お紅茶だつて珈琲だつて、クリームを入れたのを戴くのよ。あ、それからね、〔ma《マ》 chere《シェール》〕(いとしいかた)、あたし、あの大きなしやぶりからしの骨なんか、ちつとも美味《おい》しいなんて思へないのに、うちのポルカンなんぞはいつもお臺所でガリガリ噛つてるの。骨で美味《おい》しいのは野禽のだけよ、それも髓をまだ誰も吸ひ取らないのでなくつちや駄目だわ。いろんなソースを混ぜあはせたのも、とても美味《おい》しいけれど、續隨子《ホルトさう》や青ものを入れたのは不味《まづ》くつてよ。でもね、何よりいけない習慣《ならはし》といへば、あの麺麭をひねりかためたのを犬に抛つてよこすことだわ。だつて食卓についてゐる、ひとかどの紳士だからつて、どうせ手ではいろんな汚ならしいものも持つでせう、その手で麺麭をこねまはしてさ、こちとらを呼びつけて、その玉を否應なしに口の中へ押しこむんですもの。吐き出すのも何だか惡いやうに思ふから――眼をつぶつて、まあ、嫌々ながら食べはするもののさ……。』 [#ここで字下げ終わり] 一體これあ何だ! ちえつ、くだらない! せめて、もう少し氣のきいたことが書けさうなものだ。他の頁を讀んでみよう、何かめぼしいことが書いてあるかも知れん。 [#ここから2字下げ] 『……あたし、邸うちの出來事を何もかもお知らせしようと思つて、とても乘氣になつてるのよ。ソフィーさまがパパつて仰つしやつてゐる旦那樣のことは、もうちよつとお話しましたわねえ。とても變な方なの……。』 [#ここで字下げ終わり] そらおいでなすつたぞ! おれはちやあんと知つてゐたんだ。犬つて奴は何を見るにも政治的な眼で觀察しをる。ふむ、そのパパがどうしたんだつて? ええと、――
『……とても變な方なの。いつもは大抵しんねりむつつりで、めったに口をおききにならないのよ。それが一週間ぐらゐ前から、※[#始め二重括弧、1-2-54]おれも貰へるかな、それとも貰へないかしら?※[#終り二重括弧、1-2-55]つて、しよつちゆう獨りごとを仰つしやるぢやないの。片手に何か書きつけを持つて、片手は空のままで握りしめてさ、※[#始め二重括弧、1-2-54]おれも貰へるかな、それとも貰へないかしらん?※[#終り二重括弧、1-2-55]だつて。一度なんか、あたしをつかまへて、※[#始め二重括弧、1-2-54]なあ、メッヂイ、お前はどう思ふ、おれも貰へようかなあ? それとも貰へないだらうかなあ?※[#終り二重括弧、1-2-55]つてお訊ねになるのよ。だつて、あたしには何のことやらさつぱり分らないから、旦那樣の長靴をちよつと嗅いでおいて引き退つたわ。それからさ 〔ma《マ》 che
re《シェール》〕(いとしいかた)、何でも一週間ほど過ぎてから、このお父さまつたら、大層な御機嫌で歸つていらしたことがあつたの。そして午前ちゆうはひつきりなしに、禮服をつけた方たちがあとからあとからとお越しになつては、何かお祝ひを述べていらしたやうだわ。お食事のあひだも、いろんな逸話なんかなすつてさ、これまでにつひぞお見受けしたこともないくらゐそれはそれは上々の御機嫌だつたわ。お食事の後で、あたしを御自分の頸のところへお抱きあげになつて、『そうら、メッヂイ、これを御覽。 』つて仰つしやるぢやないの。見れば、何だかリボンみたいなものなの。あたし嗅いでみたけれど、ちつとも好い匂ひなんかしなかつたわ。しまひに、そつと舐めて見たら、ちよつぴり鹽からかつたけれど。』
ふむ! この狆ころめ、どうやら少し圖に乘りくさつたな……笞でぶん毆られなきやよいが! それはさうと、ぢやあ、あの局長はなかなかの野心家なんだな。こいつはよく憶えておかにやあならんて。
『では、ちよつと失禮、〔ma《マ》 chere《シェール》〕!(愛する友よ!)、あたし、ちよつとそこいらまで一走り行つて來るから中座してよ……。でも、あとは明日すつかり書くわ。――今日は! さあ、またお手紙に取りかかりませうね。あの、今日うちのソフィーお孃さまつたらねえ……。』
そうら! おいでなすつたぞ。ええと、お孃さんがどうしたんだつて? ちえ、畜生め!……おつと、大丈夫、大丈夫……さあ、あとを讀まう。 [#ここから2字下げ] 『……ソフィーお孃さまつたらね、今日はとても大騷ぎだつたのよ。舞踏會へいらつしやるつていふのでさ、でも、そのお留守にお手紙が書けると思つて、あたし嬉しくなつてしまつたわ。うちのソフィーさまつたら、いつでも舞踏會とさへいへば、とても大はしやぎなの、尤もお召しかへの折にはきまつてぷりぷり八つ當りをなさるけどさ。あたしには人間つてどうしてあんな着物なんてものを着るのか、さつぱり譯がわからないの。何だつて、あたしたちみたいに、裸かで出歩かないのでせうね? その方が便利で、氣持も樂でせうにさ。ねえ 〔ma《マ》 che
re《シェール》〕(親愛なる友よ)、どうして舞踏會へ行くのがあんなに嬉しいのか、さつぱり分らないわ。ソフィーさまが舞踏會からお歸りになるのは、いつも朝の六時ごろで、たいてい蒼白めて窶れきつた顏をしていらつしやるところを見ると、お可哀さうに、きつと舞踏會では何んにも召しあがらないらしいのよ。正直なところ、そんな苦しい眞似は迚もあたしには出來ないわ。だつてさ、蝦夷山鳥の入つたソースとか、鷄肉《とり》の翼下《はねした》のローストでも食べさせて貰へなかつたら……それこそ、あたし、どうなるか分らないと思つてよ。お粥にソースをかけたのだつて美味《おい》しいわ。でも人參だの、蕪だの、食用薊なんてものは――ちつとも美味《おい》しいものぢやないわ。』
おつそろしく斑《むら》のある文章だ! 一目で人間の書いたものでないことが分つてしまふ――初手《はな》はちやんとまとまつてゐたが、末の方で犬式に足を出してしまつてゐらあ。どれ、もう一つの方のを讀んで見よう。ちと長つたらしいな。ふむ! 日附がないや。
『まあ、ちよいとフィデリさん、何となく春めいて來たわねえ! あたし何だか胸がどきどきして、まるでしよつちゆう誰かを待つてるやうな氣持ちなの。しつきりなしに耳の中でわんわん音がするので、あたしよく片足をあげては立ちどまつて扉《と》の外に聽耳をたてるのよ。あたしね、あんただから打明けるのだけれど、ずゐぶん、いろんな牡犬《をとこ》につけまはされてゐるの。よくあたし窓の上へあがつては、品さだめをしてやるわ。中にはほんとうにいやな醜犬《ぶをとこ》もゐるのよ! 一匹なんか、とても不恰好な番犬で、お話にならない馬鹿でさ、その馬鹿だつてことがちやんと顏に書いてある癖に、いやに勿體らしくのそりのそりと往來を歩きながら、自分をひとかどの偉《えら》さまだと自惚れて、さも皆んなが惚れ惚れと眺めでもするやうに思つてゐるのよ。ちよつ、お生憎さま! あたしなんか、てんで見向きもしてやらないわ――なんの、そんな奴は眼中にもないといつた調子にさ。それから時々、お部屋の窓さきへ、とても怖いグレート・デンが一匹やつてくるのよ! どうせあんな不器用な奴にそんな氣のきいた眞似は出來つこないけれど、もし後足で立ちあがつたなら、ソフィーさまのお父さまより、まるまる首だけは高いだらうと思ふわ――そのお父さまだつてずゐぶんお背が高く、でつぷりした御恰幅なんだけれどさ。この木偶坊《でくのぼう》はよつぽど圖々しい奴に違ひないわ。だつてあたしが唸つてやつても、知らん顏の半兵衞で、顰めつ面ひとつ見せないのよ! 舌をべろりと出して、大きな耳をだらりと垂れたまま、窓をじろじろ覗きこむんですもの――ほんとに田吾作つたらないわ! でもね、〔ma《マ》 che
re《シェール》〕(いとしいかた)、かうして、やいのやいのと寄つて來る求愛者《をとこ》たちのうち、どれにもあたしの心臟《ハート》が平氣だとあんた思つて? ところがどうして、さうぢやないの……。ほんとに、あんたが見てくれたらと思ふのだけれど、一匹ね、お隣りの垣根を越えてやつて來る騎士《ナイト》があるのよ、トレゾールつて名前なんだけれど……。まあ、ほんとに 〔ma《マ》 che
re《シェール》〕(いとしいかた)、その犬《ひと》の好いたらしい顏つきといつたら!』
ちえつ! くそ面白くもない!……頓痴氣め、よくもぬけぬけとこんなくだらないことばかり書けたものだ! 人間のことが知らして貰ひたいや! おれは人間のことが知りたいのさ、おれには精神的な糧《かて》がほしいんだ――それでもつて魂を養ひ、心を慰めてもらはうと思へば、何だい、こんな馬鹿々々しいことばかり……。何かもう少しましなことでも書いてないか、一枚とばしてやれい!
『……ソフィーさまは小卓《こづくゑ》に向つて、何やら縫物をしていらつしやる。あたしはまた往來《ゆきき》の人どほりを眺めるのが好きで、窓の外をじつと見てゐると、そこへひよつこり從僕が入つて來て、 『チェプロフ樣のお越しでございます! 』 つて言ふの。 『お通しして頂戴! 』 と、ソフィーさまは彈んだ聲で仰つしやるなり、矢庭にあたしをお抱きあげになつたわ。 『まあ、メッヂイや、ね、メッヂイ! ここへ今いらつしやる方がどんな方だか、お前に分つてゐたらねえ――栗色髮《ブリュネット》で、侍從武官でさ、そのお眼《めめ》といつたら! 黒目がちの、まるで瑪瑙のやうなお眼《めめ》なんだよ! 』 さう仰つしやるなり、ソフィーさまはお居間へ駈けこんでおしまひになつたの。ほんのちよつと間をおいて、そこへ侍從武官が入つていらしつたが、黒い頬髯を生やした、なるほど若いお方で、つかつかと鏡のそばへ近寄つて、ちよつと髮を撫でつけてから、お部屋をぐるりと見まはしなすつたわ。あたしはちよつと唸つておいて、自分の居場所にすわつてゐたの。すると間もなくソフィーさまがお出ましになつて、とても嬉しさうにその方の氣取つた足擦りの御挨拶にお會釋をなさるのよ。あたしはそれを見て見ない振りで何くはぬ顏をして、やはり窓の外へ眼をやつてゐたけれど、それでも首を少し曲げて、一體どんなお話をなさるだらうと、一心に聽耳をたててゐたわ。そしたらさ、どうでせう、〔ma《マ》 chere《シェール》〕(あんた!)、まるで他愛もないことばかり話してるのよ! どこかの奧さんが舞踏《ダンス》の何とかいふ型を他の型と間違へただの、ボボフとかいふ男《ひと》は襟飾《ジャボー》をつけた恰好が鸛《こうのとり》そつくりだつたが、その人がもう少しでころげるところだつただの、リディナとかいふ女《ひと》は緑いろの眼をしてゐる癖に自分では碧い眼だと思つてゐるだのと、そんなやうなつまらない話ばかりなの。あたし心の中でさう思つたわ――
『まあ、この方のどこがそんなに好いんだらう、トレゾールと並べたら、こんな侍從武官なんか、てんで比べものにならないぢやないか! ほんとにさ! まるでお月さまと鼈《すつぽん》ほどの違ひだわ! 第一この侍從武官はおそろしくのつぺりした、だだつ廣い顏でさ、その顏のぐるりにまるで黒い手巾《ハンカチ》でも卷きつけたやうな頬髯を生やしてゐるだけなんだけれど、そのトレゾールの方は、顏から口もとがほんとに尋常で、額のまんなかに白い斑《ほし》があるんだもの。それに腰つきなんかもトレゾールと侍從武官では比べものにも何にもなりはしないわ。眼つきにしたつて、應對ぶりや手練手管にしたつて、まるであんなんぢやないわ。ほんたうに大違ひなの! ねえ、〔ma《マ》 che
re《シェール》〕(いとしいかた)、あたしチェプロフ樣の何處がそんなに好いのか、さつぱり譯がわからないわ。あんな方にどうしてお孃さまはああも夢中になつていらつしやるんでせうねえ?』
さうともさうとも、おれだつてそいつあ少し變だと思ふぞ。なんの、チェプロフなんぞにさう易々あの方を首つたけにさせることが出來て堪るもんか。ええと、それから――
えい、勝手にしやがれ! おれはもう、とてもこんなものは讀む氣がしない……。何かといへば、やれ侍從だの、やれ將官だのと、聞きたくもないや。ちよつと好ささうなものは何から何まで、みんな侍從武官か將官の懷ろへころげこんでしまふのさ。こちとらが何かちよつぴり幸福《しあはせ》を見つけて、それを手に入れようと思ふと、すぐに侍從だの將官だのが横合から掻つぱらつてしまやがる。忌々しいつたらありやしない! おれも將官になりたい、將官になつて聟の口にありつかうなんて、そんなさもしい下心からでは更々ないが、ただ、おれが將官になつたら、さぞかしあの連中が寄つてたかつて世辭追從や繁文褥禮の限りをつくすだらうから、その醜態が見てやりたいのと、へん、吾輩は君たちなんぞに鼻汁《はな》もひつかけんぞと反りくり返つてやりたいだけのことさ。それにしても、ええ、忌々しいつたらない! そこでおれはこの馬鹿げた犬の手紙をずたずたに引き裂いてしまつた。
十二月三日
馬鹿な! そんなことつてあるものか。結婚などさせて堪るかい! 侍從が何だい? ただの官職に過ぎないぢやないか――手に取つて見られる代物でもなしさ。なにも侍從だからつて額にもう一つ餘分に眼玉がくつついてゐる譯でもあるまい。まさか鼻だつて金製でもあるまい。おれの鼻だつて誰の鼻だつて鼻に變りはない筈だ、侍從だからつて鼻で匂ひは嗅ぐだらうが、まさか飯は食ふまいし、鼻で嚔みはしても咳は出來まい。おれはこれまでにももう何度も、どうして人間にはかう身分に差別があるのか、ひとつ究明したいと思つたものだ。なるほど、おれは九等官だが、どういう理由《わけ》で九等官なのだらう? もしかしたらおれは全然九等官なんかぢやないかも知れん。ひよつとすると、おれは伯爵とか將官とかいふ身分でありながら、ただこんな風に九等官に見えてゐるだけかも知れない。ひよつとすると、おれは自分がどういふ者だか、自分でも知らずにゐるのかも知れん。人の傳記にもずゐぶんとさういふ例はあるもので、士族ならまだしもつまらない素町人とか、いやそれどころか、たかが水呑百姓といつた賤しい人間が、何かの彈みで素性がわかると、思ひもよらぬやんごとない貴人だとか、男爵だとか、さういつた素敵もない身分の人間だつたりすることがある……。水呑百姓でさへさうなんだもの、士族のおれからはどんな偉いものが飛び出すか分つたものぢやない。それで、もしこのおれが將官の禮裝でもつけてあの邸へやつて行くとする――そのおれの右の肩にも肩章《エポレット》、左の肩にも肩章《エポレット》、肩からは藍色の大綬章が斜《はす》に掛かつてゐようといふ、りうとした扮裝《いでたち》だつたらどうだろう? あの別嬪がその時どんな音《ね》をあげるだらうなあ? あの父親《おやぢ》は、うちの局長は、いつたい何と言ふかしらん? なかなかどうして、大變な食はせものだからなあ! あいつはマッソンなのさ、正眞正銘のマッソンにきまつてらあ。なんのかんのと、しらばくれてはゐるけれど、大將がマッソンなことは一眼でちやんと睨んでゐらあ――だつて、その證據には、挨拶のために手を差し出す時、指を二本しか出さないぢやないか。なあに、このおれだつて、直ぐにも、總督に任命されるやら、主計局長に轉補されるやら、それともどんなど偉い官職を授かるやら知れたものぢやないさ。おれは九等官でしかあり得ないなんていふ理由《いはれ》が何處にあるんだ?
十二月五日
今日は午前中ずつと新聞ばかり讀んで過した。西班牙では妙な事件が起つてゐる。おれにはどうもそれがよく會得《のみこ》めない。記事によれば何でも、王樣が雲がくれになつたため、王位の繼承者を選ぶことで臣下のものが難局に逢着し、ひいては一般に不穩の空氣が釀成しつつあるといふのだ。どうも奇態きはまる話さ。王樣が雲がくれになるなんて、これは一體どうしたことだらう? 何でもさる婦人貴族が王位を繼承する順序になつてゐるさうだが、女が王位に即くなんて、そんな法つてあるもんぢやない。王位には王樣が坐らなきや嘘だ。『ところが、その王樣になる者がない』といふのだ。けれど、王樣がないままでは濟まされない。一國に國王がゐないなんて法はない。王樣はゐるのだが、何處かに人知れず隱れてゐるだけの話さ。恐らく國のうちにゐるんだが、何か御一門に紛紜《いざこざ》があつてか、それとも隣りあひの強國、たとへば佛蘭西か何處かが怖くて餘儀なく姿を隱してゐるのに違ひない。それとも何か他に仔細があるのかも知れん。
十二月八日
よほど役所へ行かうかと思つたが、いろんなことで屈託してゐたため出そびれてしまつた。どうも西班牙の一件がおれの頭から離れない。女が王樣になるなんて法があるものか? 斷じていけない。それに第一、英吉利が默つてゐない。のみならず、これは歐羅巴全體の國際問題だから墺太利の皇帝にしろ、わが國の陛下にしろ……。いやどうも、この一件が妙に氣になつて氣になつて、一日ぢゆうまるきり仕事に手がつかなかつた。マヴラの話では、おれは食事ちゆうもひどくぼんやりしてゐたさうだ。成程さういへば、うつかり皿を二枚、床の上へおつことして、粉微塵にしてしまつたやうだ。食後、山の方へぶらぶら行つてみたが、何の得るところもなかつた。大方は寢臺の上でごろごろしながら、西班牙問題についていろいろ考へた。
二千年 四月 四十三日
けふは大變お目出たい日だ! 西班牙の王樣がゐたのだ。見つかつたんだ。その王樣といふのは――おれなんだ。それもけふ初めて氣がついたといふ譯さ。實際、まるで稻妻のやうに突然それに氣がついたのだ。一體どうしてこれまで自分を九等官だなんて思つてゐられたものか了解に苦しむ。まつたくどうしてあんな狂人《きちがひ》じみた途轍もない空想が頭に浮んでゐたのだらう? まだ誰ひとり、おれを瘋癲病院へ入れようと思ひつかないうちで仕合せだつた。今や眼の前のことが何もかもはつきりした。今のおれには何でも掌《てのひら》へ載せたやうによく分る。ところが不思議なことにこれまでは眼の前のことがまるで霧にでもつつまれたやうに茫としてゐた。それといふのも人間が腦髓は頭の中にあるなどと考へてゐるからのことだが、飛んでもない勘違ひで、腦髓つてものは裏海の方角から風に乘つてやつて來るのさ。おれが先づ皮切りに、マヴラに自分の正體を打ち明けたところ、奴はそれを聞いて、このおれが西班牙の王樣だと分ると吃驚仰天して、怖れおののきながら、魂も身に添はぬ爲體《ていたらく》さ――なるほど愚昧な女のこととて、西班牙の王樣なんてまだ一度も見たことがないのだから無理もない譯だ。だが、おれは努めて奴の驚愕を鎭めて、これまでも長靴の掃除がともすれば不行屆であつたりはしたけれど、そんなことは決して咎めはせぬと言つて、どこまでもこちらの寛仁大度に信頼するやうにと慰めておいた。何にしても相手は無智蒙昧の民だから、高尚なことを言つたつて分りはしない。マヴラは西班牙の王樣といへば、どれもこれもフィリップ二世のやうな暴君ばかりだと思ひこんでゐればこそ、あんなに吃驚したのだから、おれはフィリップなどとは似ても似つかぬ仁君で、カプシン僧など一人だつて寄せつけはしないからと、よく言ひ聽かせてやつたものだ。役所へは行かなかつた。役所なんか糞くらへだ! ううん、もうその手に乘らないぞ――あんな穢ならしい書類なんか、もう寫してやるもんか!
三十月八十六日 晝と夜の境
けふ役所の庶務がやつて來て、もう三週間の餘もサボつてゐるから、いい加減に役所へ出たらどうだと吐かしやがる。
だが、週間制度などといふ、くだらないものを採用した野郎が間違つてるのさ。あれは猶太の坊主が七日目に一度づつ行水をしなければならないので、猶《ジュウ》奴が發明したものだ。それは兎も角ちよつと洒落に役所へ顏を出した。課長の奴め、定めしおれがペコペコお辭儀をして詑びごとを言ふものと思つてゐたらうが、おれは平氣の平左で、別に怒つてもゐなければ、さうかといつてあまり機嫌のいい顏もしないで、奴を尻眼にかけたまま、まるで誰にも氣がつかないやうな素振りで自分の席にどつかり腰をおろした。それから一通りへぼ役人たちを見渡して肚の中で考へたものだ――『知らぬが佛だけれど、貴樣たちのあひだに坐つてゐる、このおれの身分が分つたものなら?……』さぞかし、どえらい騷ぎが持ちあがらうて! まづ第一に課長からして、常づね局長の前でやるやうにおれに向つて平身低頭するだらうなあ。そんなことを思つてゐると、拔萃をつくれと言つて何か書類を鼻の前《さき》へ突きつけやがつたけれど、おれは指も觸れなかつた。そのうちに一同があたふたとざわつき出して、局長の御出勤だといふ。へぼ役人どもはみんな、局長のお眼鏡にとまりたさが一杯で先を爭つて駈け出して行つたが、おれは一寸も席を動かなかつた。局長がおれたちの事務室を通り拔ける時も、みんなは衣紋を正したけれど、おれは平氣な顏ですましてゐたつけ! 局長が何だい? あんな奴の前で起立するなんて眞平御免さ! あんなものがどうして局長なもんか! 奴あ局長ぢやなくつて、コロップさ。ありふれた、普通《ただ》のコロップで、壜の栓になるより他には何の役にも立たない代物さ! 何より面白かつたのは、おれに署名をさせようとして書類を差しだしやあがつた時だ。奴等はおれが紙面の端つこに主任、何某と型の如く記名するものと思つてゐたらしいが――さうは問屋が卸さないや! おれは局長がいつも署名することになつてゐる肝腎かなめなところへ持つて行つて、 『フェルヂナンド八世 』と書きなぐつてやつたものさ。さうするとどうだらう、あたりがしいんとしづまつて、どいつもこいつも鞠躬如として鳴りをひそめてしまつたぢやないか。そこでおれはちよつと手を擧げて、『いやなに、警蹕《けいひつ》には及ばん!』と言つて、さつさと戸外《そと》へ出てしまつた。おれはその足で眞直に局長の邸へ廻つた。局長は不在だつた。取次に出た下男め、はじめは通すまいとしたけれど、おれが一言たしなめると恐れ入つてしまつたから、その隙にずんずん化粧室へ闖入してやつた。局長の娘は姿見の前に坐つてゐたが、矢庭に跳びあがつて、おれの前で後ずさりをし始めた。だがおれは、西班牙の國王だといふことは明さないで、ただ、かう言つて聞かせただけだ――卿《そもじ》は思ひもかけぬ幸福《しあはせ》な身になれますぞ、そして邪魔だてをする惡人どもがどのやうによからぬことを企らまうとも必ず末は妹と背ぢや。――これ以上は何も言ふまいと思つて、おれはそのまま外へ飛び出してしまつた。それにしても、女といふ奴は油斷のならぬ代物だわい! おれは今、やつと女の正體を突きとめたぞ。まだ今日まで只の一人も、女がぞつこん血道をあげる相手は何ものか、はつきり見拔くだけの炯眼の士がなかつた――初めてそれを發見したのはおれだ。女が血道をあげる相手は惡魔なんだ。いや、決して冗談ぢやない。物理學者は、ああだかうだと愚にもつかぬことを鹿爪らしく書いてゐるけれど――女の惚れる相手は惡魔きりだ。そうら、あの第一列のボックスから一人の女が柄附眼鏡《ロルネット》を向けてゐるでせう。あれは大方、あの勳章をさげた肥大漢《ふとつちよ》を見てゐるのだとお考へになるでせう? ところが大違ひで、あの女は肥大漢《ふとつちよ》の後ろに立つてゐる惡魔を見てゐるのです。おや、惡魔めがあの男の燕尾服の中へ隱れをつた。ほら、あすこから指で女においでおいでをしてやがる! あれで女はみすみす、あいつの妻になつてしまふのだ。ところで、身分の高いあいつらの父親《おやぢ》どもといへば、そろひもそろつて八方美人で、宮廷への出入りを狙ふ手合だが、あれでゐて自分免許に、愛國者だの何だのと納まりかへつてゐるものの、どつこいこの愛國者先生、利權漁りに憂身をやつしてばかりござる! どうせ虚榮坊《みえばう》で背信的な先生がただから、金錢《ぜにかね》のためなら親だらうが神だらうが見境なしに賣り飛ばす! これもみんな虚榮心のさせる業だが、その虚榮心はどこから生まれるかといへば舌の根元に小さな腫物があるからで、その腫物の中にはピンの頭ほどの小蟲がゐる。それといふのも、ゴローホワヤ街に住んでゐる何とかいふ理髮師の小細工さ。そやつの名前はつい忘れて思ひ出せないが、何でもある産婆と共謀《ぐる》になつて、マホメット教を世界ぢゆうにひろめようと目論んでゐることだけは紛れもない事實で、そのお蔭で佛蘭西では國民の大半が既にマホメット教に歸依してゐるといふ評判だ。
幾日でもない 日數にはいらぬ日であつた
ネフスキイ街《とほ》りを微行で歩く。今上陛下がお通りになつた。市《まち》ぢゆうの者が帽子を脱つたのでおれも同じやうにしたけれど、おれが西班牙の王樣だといふことは氣振りにも見せなかつた。まだ宮中への參内も濟まさぬうちに、こんな大勢の人混のなかで正體を暴露しては具合が惡いと思つたからさ。おれが參内を躊躇してゐるのも、まだ今のところ西班牙式の禮裝が手許にないからだ。せめてガウンのやうなものでも手に入れることが出來たらなあ。裁縫師《したてや》に誂らへてやらうかとも思つたのだが、どいつもこいつも鈍物ばかりで、こちらの話がから分らないのだ。それに頓と商賣に不熱心で、相場なんかに陷りこんでゐたり、大方の奴が鋪道のうへでのらくらしてゐくさる。そこでおれは、拵らへてからまだ、たつた二度しか手を通したことのない、あの新らしい通常禮服をつぶして、あれでガウンを作つてやらうと、肚をきめた。しかし、あんな惡黨どもの手にかけて折角のものを臺なしにされては堪らないと思つたので、人目につかぬやうにぴつたり扉を閉めきつて、自分の手で縫ふことにした。何しろ裁ち方がすつかり異つてゐるので、おれはそれを鋏でずたずたに切りこまざいてしまつた。
日も想ひ出せない 月といふものも矢張りない
何が何だかさつぱり分らない
ガウンはすつかり下拵らへも出來て、立派に縫ひあがつた。おれがそれを着たらマヴラの奴がわつと驚ろきの聲をあげた。だが、おれはまだ參内を躊躇《ためら》つてゐる――今だに西班牙から使節がやつて來ないのだ。使節も從へないでは體裁が惡い。第一、おれの身分にいつかう威嚴が添はぬ。おれは今か今かと使節の到來を待ちあぐねてゐるのだ。
一日
使節の悠長さ加減にも呆れかへる。一體どんな故障があつて、かう遲れてるのだらう? また佛蘭西が邪魔だてをしてるのかな? 何しろ一番仲の惡い國だからなあ。郵便局まで出掛けて行つて、まだ西班牙から使節は到着してゐないかと訊いてみたが、郵便局長つたら話にならん間拔野郎で、何んにも知りやあがらない。その言ひ草がかうだ。『西班牙の使節なんてものは來てゐませんねえ。しかし手紙が出したいのなら、規定の料金で受けつけますがね。』と。馬鹿にしてやがる! 手紙がなんだい? 手紙なんて、全くくだらないものさ。手紙は藥劑師の書くもので、それも豫め酢で舌を濡《しめ》してから書かないと、顏ぢゆうに疱疹《ぶつぶつ》が出て堪つたものぢやないて。
マドリッドにて二月三十日
さて、おれは西班牙へ來てしまつた。それがまた、あんまり出し拔けだつたので、おれは夢に夢みる心持だ。けさ西班牙の使節がやつて來たので、いつしよに場所に乘り込んだが、そのまた速力がいやどうも、なみ大抵のものではなかつた。疾風迅雷のやうに走つたので、三十分ばかりの後にはもう西班牙の國境へ到着してゐた。尤も當今は歐羅巴ぢゆうに鐡道が敷設されて、汽船なども途轍もない速力で走る世の中だからなあ。それはさうと、西班牙つて實に不思議なところだ! ひよいと取つつきの部屋へ入ると、頭を毬栗坊主にした人間がうじやうじやゐるんだ。ははん、これは西班牙の大公か兵士なんだなと、おれは推察した。――でなきや、頭を剃つてゐる筈がない。總理大臣がおれの手を執つて案内したが、その扱ひが甚だ怪しからんと思つた。奴はこのおれを小つぽけな部屋へ押し込んでからに、その言ひ草がどうだらう――『さあ、そこにおとなしく坐つとるんだ。これからはフェルヂナンド王だなんて名乘ると、懲《こ》らしめのために毆《ぶ》ちのめされるぞ。』だが、それは試しに過ぎないことを知つてゐたので、おれが奴に逆らふと、總理大臣め棍棒で二度おれの背中を毆りつけをつた。あまりの痛さに危《あぶ》なく悲鳴をあげるところだつたが、いやいや、西班牙といふ國には今だに騎士道が行はれてゐるのだから、屹度これは至高の位に登る際に受ける騎士の作法に違ひないと思つて、じつと押しこらへた。一人になると、おれは政務を親裁することにした。ふと發見したことだが、支那と西班牙とはまつたく同國なのに無學なばかりに誰でもそれを別々の國のやうに思つてゐるのだ。論より證據、紙の上に西班牙と書いてみるがよい――西班牙と書いたのが、いつの間にやら支那となつてゐるから。だが、それよりも明日に迫つてゐる大事件が頭痛の種だ。明日の七時に奇怪な現象が起る――地球が月に乘つかかるのだ。これに就いては既に英吉利の有名な科學者ウエリントンも書いてゐる。まつたくの話が、おれは月の至つて軟らかで脆いことを想像すると、ほんとに心配で心配でたまらない。大抵、月は漢堡《ハンブルグ》でこしらへてゐるが、どうも出來がよくない。英吉利がそれに目をつけないのがおれには不思議でならん。跛《びつこ》の桶屋が拵らへてゐるのだが、こいつが馬鹿で、てんで月に就いての知識を辨まへてゐないらしい。材料に樹脂《やに》をひいた綱を用ひ、木油も少しはまぜるので、地球全體におそろしく惡臭が漂ひ、鼻の孔に栓をする必要が起る。そのために出來た月が至つて軟らかな球體で、とても人間には住まはれなくて、今あすこには鼻だけが住んでゐる。だから人間は自分の鼻を見ることが出來ないのだ。それといふのも鼻が月の世界へ行つてゐるからさ。地球は重い物體だから、こいつが乘つかつた日には、われわれの鼻は粉微塵に潰れてしまふと考へるとおれはもう居ても立つてもゐられなくなつたので、靴下をはき、半靴をつつかけざま、大急ぎで參議院の議事堂へ駈けつけた――警察に命じて、月に乘つからせないやうに地球を取り押へさせようと思つたからだ。議事堂には、毬栗頭の大公たちがわんさとゐたが、この連中は物の道理をよく辨まへてゐたから、おれが『皆の者よく承はれ、地球が月に乘つからうとしてゐるのぢや、月を救つてとらせようぞ!』といふと、一同は言下におれの君命を果さうとて馳せ集まり、多くの者は壁へ擧ぢのぼつて月をつかまへようとしたが、丁度その時、例の總理大臣が入つて來た。それを見ると、一同は四方八方へと逃げ散つたが、おれは王のこととて一人あとに殘つてゐると驚ろいたことに總理大臣め、おれを棍棒でひつぱたきながら、もとの部屋へと追ひこんでしまつた。西班牙ではこのとほり民風に權威があるのだ!
如月の後に改まつた同じ年の一月
今だに西班牙といふ國の正體が掴めない。民風といひ、宮廷の儀禮といひ、まるで尋常一樣のものではない。分らない、どうも分らない、何もかもがさつぱり分らない。今日なども、坊主になんかなるのは厭だといつて、おれが一生懸命に喚いたけれど、たうとう頭を剃つてしまやがつた。しかし、冷たい水を頭にぶつかけられた時の氣持は、どうも憶えがない。兎に角あんな厭な想ひをしたのは生れて初めてだ。おれは狂人《きちがひ》のやうに暴れだすところだつたが、大勢の者に抑へつけられてしまつた。まつたく奇態な風習で、何のことやらさつぱり譯が分らん。愚にもつかぬ無意味な風習さ! こんな惡風をこれまで廢《よ》させなかつた歴代の王の無分別さ加減が分らない。かれこれ思ひ合はせると、どうもおれは宗教裁判の手にひつかかつたのぢやないかと思ふ。だがさうすると、おれは總理大臣だと思つてゐたのが、さしづめ大審問官といふところだ。それにしても、王樣が宗教裁判にかけられるといふのは、どうも腑に落ちないことだ。しかし佛蘭西がは殊にポリニヤックが絲をひいてをれば、何ともいへん。第一あのポリニヤックといふ奴が曲者なんだ! あいつはおれに死ぬまで祟つて、邪魔だてをしようと誓ひを立ててやがるんだ! それでかう、後から後からと迫害をしやがるんだが、へん、おれはちやんと知つてるぞ、貴樣は英吉利人のからくりで踊つてるのぢやないか。英吉利人つて奴は大の策士だからなあ。奴は到るところへ首を突つこむのさ。英吉利が煙草を嗅げば佛蘭西が嚔めをするくらゐのことは、もう世界ぢゆうに知れ渡つてらあな。
二十五日
今日また大審問官がおれの部屋へやつて來たが、遠くの方でその跫音が聞こえるなり、おれは椅子の下へ身を隱してしまつた。彼奴はおれの姿が見えないものだから、呼びにかかつた。初めに『ポプリーシチン!』と大聲で呼んだが、おれは返辭をしなかつた。すると今度は、『アクセンチイ・イワーノフ! 士族の九等官!』と呼んだが、おれはやはり默つてゐた。すると、『フェルヂナンド八世、西班牙の王樣!』とおいでなすつた。おれは思はず首を出さうとしたが、『どつこいその手は食はないぞ! 分つてらあ、また人の頭へ冷水をぶつかけるつもりだらう。』と、すぐに思ひとどまつた。しかし彼奴は間もなくおれを見つけると、棍棒で椅子の下からおれを小突き出した。呪はしい棍棒だ、そいつで毆《どや》されると堪らなく痛い。とはいへ、さうした苦しみも忘れて嬉しかつたのは、けふの發見だ――雄鷄にはどの雄鷄にもそれぞれ西班牙があつて、それは尾に近い羽交《はがひ》の下に隱れてゐることをおれは發見したのだ。かんかんに憤つた大審問官は、おれに何らかの懲罰を加へると言つて威しておいて出て行つた。しかし彼奴なんか幾ら憤つたつて高が知れてるから、おれはすっかり輕蔑してゐる。なあに、あいつは英吉利人の手先に使はれて機械のやうに動いてゐるだけさ。
三百四十九年、三十四日
いや、おれはもうどうにも我慢が出來ない。噫、あ! なんて酷いことをしやがるのだ! 頭からは冷水をぶつかけやがる! 奴らは情けもなければ、容赦もなく、てんでおれの言ふことなんか取りあげないのだ。おれが奴らに何か惡いことでもしただらうか? どうしてかう虐めるだらう? おれのやうな貧乏人から何を取らうといふのだらう! いつたい何かやれるとでも思ふのだらうか? おれは何ひとつ持つてやしない。これではもうもうとても堪らん、かう酷い目にあはされては我慢が出來ん。頭がかつと燃えるやうで、眼の前の物がぐるぐる廻る。助けてくれい! 連れてつてくれい! 疾風《はやて》のやうによく走る三頭立の馬をつけてくれい! さあさ馭者も乘つたり、鈴も鳴れ、馬も元氣に跳ねあがり、世界の果てまで連れ出してくれ! 何もかも見えなくなるまでどんどん走れ。さあさ、もつと遠くへとつとと駈けろ。あれあれ、空があすこへ舞ひあがり、遠くの方では星がきらきら光つてる。森が黒い樹と飛びや月も走る。足もとには銀鼠の霧が棚びき、霧の中では絃の音《ね》がする。片方には海がひろがり、片方には伊太利が見える。あれ、向ふの方に露西亞の百姓家が見えてゐる。あの青ずんで見えるのはおれの生家《うち》ではないか? 窓に坐つてゐるのはお袋ではないか? お母さん、この哀れな伜を助けて下さい! 惱める頭にせめて涙でも一|滴《しづ》くそそいで下さい! これ、このやうに酷《むご》い目にあはされてゐるのです! その胸に可哀さうなこの孤兒《みなしご》を抱きしめて下さい! 廣い世の中に身の置きどころもなく、みんなから虐《いた》めつけられてゐるのです!……お母さん、この病氣の息子を憐れんで下さい!……ええとアルジェリアの總督の鼻の下に瘤のあるのを御存じかね?
――一八三四年作――
底本:「狂人日記」岩波文庫、岩波書店
1937(昭和12)年6月15日発行
1938(昭和13)年1月30日第3刷発行
※底本中、外国語の説明に使われた括弧の中は、割り注になっています。
※以下のルビ中の拗音、促音などを、小書きしました。「新聞雜誌關係者《ジャーナリスト》」「諷刺詩《クプレット》」「技巧《トリック》」「甘藍《キャベツ》」「芬蘭《フィンランド》」「〔ma《マ》 che`re《シェール》〕」「栗色髮《ブリュネット》」「襟飾《ジャボー》」「肩章《エポレット》」「猶《ジュウ》」「柄附眼鏡《ロルネット》」
入力:高柳典子
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年11月19日作成
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