株式仲買店々員 コナンドイル Arthur Conan Doyle ——-三上於莵吉訳

 結婚してからほどなく、私はパッディングトン区にお得意づきの医院を買った。私はその医院を老ハルクハー氏から買ったのであるが、老ハルクハー氏は一時はかなり手広く患者をとっていたのであった。しかし寄る年波とセント・ビタス・ダンスをする習慣があったためすっかりからだを悪くしたので、だんだんお客をなくして淋《さび》れてしまった。世間の人と云うものは、病人を治療する人間は、その人自身が健康でなくてはならない。そしてもしその人が病気になっても自分の医薬ではなおることが出来ないのを見ると、その人の治療上の力を疑いはじめる、と云うそうした傾向を持っているものであるが、これはむしろ当然な話である。つまりそれと同じような理由で、ハルクハー氏は次第に医院をさびれさせていって、私がその医院を買うまでに一年に千二百人からあった患者が三百人ほどもないくらいにまで減ってしまった。けれども私は、私の若さと体力とに自信があったので、二三年の間には昔と同様に繁盛するだろうと確信していた。
 私は仕事を始め出してから三ヶ月の間、最も熱心に注意深く働いた。そのため、私はベーカー街に行くには余りにいそがしすぎて、ほとんどシャーロック・ホームズと会わなかった。そして彼自身も、自分の職業上の仕事以外には、どこへも出かけなかった。それ故、六月のある朝、朝飯《あさはん》をすましてブリティッシ・メディカル・雑誌を読んでいると、玄関のベルが鳴り、つづいて私の親友の大きな甲高い調子の声がきこえて来たので、私はびっくりした。
「やあ、ワトソン君」
 彼は部屋の中に這入《はい》って来ると云った。
「君に会えて嬉しいよ。――君は例の『四つの暗号』事件以来、からだはすっかりいいんだろう?」
「有難う。――お蔭さまで二人とも丈夫だよ」
 私は彼と友情のこもった握手をしながら云った。
「そう。そりア結構。けれどその上に……」
 と、彼は廻転椅子の上に腰をおろしながらつづけた。
「医者の仕事に本気になりすぎて、僕たちの推理的探偵問題に持っていた君の興味が、全然なくなっちまわないとなお結構なんだけれどね……」
「ところがその反対なんだよ」
 と、私は答えた。
「つい昨夜、僕は古いノートを引っぱり出して調べて、やって来た仕事を分類したばかりなんだよ」
「今までを最後にして、君の蒐集を分類してもう仕事を止めちまおうと思ったわけじゃないんだろうね」
「全然そうじゃないさ。それどころか、もっといろいろな経験を積みたいと思ってるくらいだもの。僕にはそれ以上に望ましいことは何もないよ」
「じゃ、きょうからでも、すぐ仕事にかかってくれるかい?」
「やるとも。きょうからでも、君が必要だと云うなら……」
「遠くってもいいかい? バーミングハムなんだ」
「いいとも。君がそこへ行けと云うなら」
「けれども商売のほうはどうする?」
「隣の家に住んでる男がどこかへ出かける時はいつも僕が留守を預かってやっていたから、その代り僕が留守をする時は、その男が代りをしてくれることになってるんだ」
「ハハア、そりア至極好都合だ」
 とホームズは椅子にかけたまま後ろにそり反《かえ》って、細めた目で私を鋭く見つめながら云った。
「君は最近風邪をひいたらしいね。――夏の風邪って云う奴はどうもいかんね」
「先週三日ばかり、馬鹿に寒気がしてね、家に閉じこめられちまったよ。けれどもうすっかりいいつもりなんだ」
「そうらしいね。丈夫そうに見えるよ」
「けれど、どうして僕が最近風邪をひいたって云うことが分かったんだい?」
「君は、いつもの僕のやり方を知ってるじゃないか」
「じゃ、やっぱり推定したんだね」
「無論さ」
「じゃ、何から?」
「君のスリッパから……」
 私は自分の穿いている護謨革《ごむがわ》の新しいスリッパを見下ろした。
「だが、一体どうして――?」
 私は云いかけた。がホームズは私が云い終らないうちに、私の質問に答えてくれた。
「君のスリッパは新しいんだろう」
 と彼は云った。
「君はそれをまだ二三週間以上は穿いてないよ。それだのに、今、君が僕のほうにむけているそのスリッパの底は、どこか焦げたような色に変色しているんだ。そこで僕は考えたんだ。このスリッパは湿ったに違いない。そして乾かす時に焦がされたんだ、とね。――ところがそのかがとのほうに、何か商店のマークのようなものが書いてある丸い紙が貼られてるだろう。もし全体がぬらされたものだとすると、無論そんな紙ははがれてなくちゃならないさ。そこで、君は腰かけていて、火に足をさし出していたんだと云うことになったんだけれど、この六月なんて云う暖い季候に、いかにスリッパが湿ったからと云って、普通の健康体の人間なら火に足をかざすなんてことはしっこないからね」
 ホームズの推理はすべて、いったん説明されると、いかにも単純そのもののように見えてしまう。彼は私の顔色をうかがってから、微苦笑した。
「僕はどうも思うように説明出来ないので困るんだよ」
 と彼は云った。
「原因の分らない結果と云う奴のほうが、実際深く印象されるからね。――それはそうと、君はバーミングハムへ来てくれられるんだね?」
「無論行くとも。――どんな事件なんだい?」
「汽車の中で話すよ。――この事件の依頼人が表の四輪馬車の中にいるから。すぐいかれるかい?」
「ああ、すぐ」
 私はすぐ隣に住んでいる男に手紙を書いた。そして二階へ駈け上って、妻に理由を話し、入口の敷居の上に立っていたホームズと一しょになった。
「お隣さんって云うのは、お医者さんかい?」
 と、彼は隣の家の真鍮の門札をのぞき込みながら云った。
「ああ、そうだ。僕と同じように、医院を買ったんだ」
「だいぶ古くからあった医院だったのかい?」
「僕が買った医院と同時に開かれたものだ。家が建てられて以来、ずっと二軒とも医院だったらしい」
「ハハア、すると君はそのうちではやるほうを買ったんだね」
「ああ、そうしたつもりなんだ。けれどどうしてそれが分かる?」
「玄関の階段を見れば分かるさ、君。君の家のは隣ののよりは三インチも余計にへってるもの。――ところで馬車の中にいる男は、依頼人のホール・ピイクロフトと云う男だがね、今、君を紹介するから。――オイ、馭者君、汽車にカチカチに間に合うくらいしか時間がないから、いそいで飛ばしてくれ」
 私が向き合って坐ったその依頼人と云う男は、あけっ放しな正直そうな顔つきをした、薄いちぢれた黄色い髭をはやした男で、体格のガッシリした活々とした様子の若者だった。彼はピカピカ光るシルクハットを冠《かぶ》って、手入れのとどいた地味な黒い服を着ていた。がそれは彼が、軽快な若い都会人、――それも代表的なロンドンっ児で、この国の他のどの階級よりもより多くの義勇兵と競争者と運動家とを出す階級に属している人間であることを、物語っていた。そして彼の丸々とした血色のいい顔は、自然に愉快さで満されていたが、しかしその口の端には、彼が半分はむしろ喜劇的な不幸のためにすっかり沈んでいるらしい所が見えた。もっとも彼がどんな不幸に会って、シャーロック・ホームズの所へ飛び込んで来たかと云うことについては、私たちが一等車に乗り込んで、バーミングハムの旅に旅立ってからようやくきくことが出来たのではあったけれど……。
「七十分間この汽車で走るんだが……」
 とホームズは云った。
「ねえ、ホール・ピイクロフト[#「ピイクロフト」は底本では「ビイクロフト」]さん、あなたの出会った今度の興味深い事件を、私の友達にも話してやって下さいませんか。私に話して下すったと同じように正確に、いや、もし願われるなら、それよりも精密に。――私ももう一度事件の関係をおききしたほうが、いろいろ参考にもなるんです。――ワトソン君、つまりこの事件の中に何事かがあるか、あるいは何もないかをしらべればいいんだ。しかし少くも事件は、実に奇妙な常規を逸したものなんだ。そしてそれは私にも君にも非常に興味のある事件なんだよ。――どうぞピイクロフトさん、お話しになって下さい。私はもうしゃべりませんから……」
 私たちの若い同行者は、目の玉をクルリと廻して私を見た。
「今度のことで一番に悪かったことは、私が私自身を、すっかり狼狽しちまって、まるで馬鹿のように振舞ったと云う所にあるんです。――無論、それでも私は全力をつくしてやったんです。私にはそれより外に出来ることがあるとは思えなかったんです。けれども、もし私が切札をなくしてその代りに何もとらなかったら、私は自分を、何と云う馬鹿な英国人だろうと感じたでしょう。――ワトソンさん、私はお話するのが、余り上手ではありません。――けれどありのままを申上げましょう。
 私は呉服屋街のコクソンの店に務めていたんですが、この春大きな損をしまして、たぶん御存じかと思いますが、店がいけなくなっちまったんです。私はそこに五年おりました。だものですから、いよいよ店が破産する時に、私には実に立派な証明書をくれました。――無論、我々事務員は、みんなで二十七人もいたんですが、店が潰れると同時に、みんな散り散りばらばらになってしまいました。――私はあっちへもこっちへも口を頼んでみたんですが、しかしそこにいる連中の運命もまた、私の経験した運命と同じような位置におかれている奴ばかりなんです。そんなわけで、私は長い間、全く失業状態におちてしまいました。私はコクソンの店にいる時は、一週に三ポンドもらっていましたので、それを貯金して七十|磅《ポンド》持っていました。私はそのお金のあるうちに、何か仕事をさがし出さなくてはならないのです。けれどほどなくそのお金もなくなってしまいました。そして求人広告に応募して手紙を出したくてもその切手もまた切手を貼る封筒もなくなってしまったんです。私は歩き廻りました。靴の底がすり切れるまでほうぼうの事務所の階段を上ったり下ったりしました。私はもう前のような職にありつくことは出来ないかと思いました。
 ところがとうとう見つけたんです。ロンバルト街の大きな株式仲買店で、モーソン・ウィリアム商会と云う所に欠員を。そりア、そんなロンドンの中央東部郵便区なんて云う場所は、あなたの趣味には合わないでしょうけれど、しかしその商会はロンドンでも最も金持ちのほうなんです。――それは前に、広告を見て手紙を出しといたんですけど、たったそこ一軒だけから返事が来たんです。そこで私は証明書と願書とを送りました。でもその職業に有りつけようなどとは考えてもいなかったんです。――ところが返事が来て、次の月曜日に間違いなく時間までに来てくれれば、その日からすぐに私に仕事につかしてくれると云って来ました。――どうしてそんな風にして、思いがけなく仕事にありつけたものか、誰にも分かりません。ある人は、たぶんそこの支配人が、山と積まれている願書の中へ手を突っ込んで、最初に手に触れたものを引っ張り出したんだろうと申しています。が、とにかく私の所へ順番があたったんです。私はこんなに嬉しかったことはありません。――給料も一週に一|磅《ポンド》のぼりましたし、それでいて仕事はコクソンの店とちょうど同じようなことなんです。
 さあ、いよいよ話の本題にやって来ました。――私はハムステッド町に間借をしてたんです。ポーター・テラス十七番地です。――ちょうど、私の勤めがきまった日の夕方、私は煙草を吸いながら腰かけておりました。するとそこへ下宿のおかみさんが、『アーサー・ピナー会計代理店』と印刷してある名刺を持って昇って来ました。私はそんな名前を耳にしたことがなかったので、その男が何の用でやって来たのか想像が出来ませんでした。けれど無論私は、おかみさんに中へ通すように云いました。その男は這入って来ました。――中肉中脊で、髪の毛の濃い、目の黒い、そして黒い髭を生やして、鼻のそばに何か光る筋を持った男でした。彼は時間の尊さを知ってる男であるかのように、はきはきした男で、はっきりどんどん思うことをしゃべるのでした。
「ホール・ピイクロフトさん、――でいらっしゃいましたね」
 と彼は云いました。
「ええ、そうです」
 私はそう答えて、彼のほうに椅子を押しやりました。
「最近までコクソン・ウッドハウスの店にいらっしゃいましたか?」
「ええ、おりました」
「で、ただいまは、モウソンの所に?」
「そうです」
「ああそうですか」
 と彼は申しました。
「実はあなたの会計的才能につきまして、実に素晴らしいお噂をうかがいましたもので、あなたはコクソンの支配人だったパーカーを御存じですか?――彼が別にあなたのことを云ったと云うわけじゃありませんけど……」
 無論私はこの話をきいて喜びました。私は事務所では実際いつも如才なくキビキビと働いてはいましたけれど、しかし世間でこんな風に私の噂をしていようとは夢にも思っていませんでした。
「あなたは大変記憶がおよろしいんですって?」
 と彼が云いました。
「少しばかり」
 と、私は慎み深く答えました。
「職にお離れになってた間も、株のことに関心をお持ちでしたか?」
 彼はききました。
「ええ、毎朝、株式取引の高低表は見ております」
「そうだ、それが本当の適不適を示してくれる」
 と、彼は叫びました。
「これが一番いい方法だ。――あなたを試験するようなことをしても気にしないで、私にやらせて下さい、ね。――アイルシャイアーの株はどのくらいですか?」
「百五|磅《ポンド》から百五|磅《ポンド》四分ノ一まで」
「では、ニュウジーランド国庫公債は?」
「百四|磅《ポンド》」
「ブリティッシ・ブローラン・ヒルは?」
「七|磅《ポンド》から七|磅《ポンド》六まで」
「素適だ!」
 と、彼は両手を振り上げて叫びました。
「私がきいたのと、すっかりみんな合ってる。ねえ、ねえ、あなた。――あなたはモーソンの店の事務員になるなんて勿体なさすぎますよ」
 この叫びはむしろ私を驚かしたんです。あなたもそうお思いになるでしょう。
「いや、どうも」
 と、私は申しました。
「世間の人はあなたが考えるようには、私を買い被ってくれませんよ。ピナーさん。――私はこの地位を得るのにずいぶん苦労したんですから、私はこの職にありつけたのを喜んでおりますよ」
「馬鹿な、世間の人、こんなものからは超越すべきですね。あなたはあなたの真価に応《ふさわ》しい位置にはいませんよ。――そこで私はあなたに御相談があるんですが、私と一しょに仕事をしていただきたいと思って。――そりア私があなたについていただきたいと思ってる地位だって、あなたの才能に比しては不充分なものなんですけれど、でもモウソンの所の地位と較べたら、暗《やみ》と光ほどの相違です。まあ、お話しましょう。――あなたはいつモウソンの所へいらっしゃいますか」?」
「月曜日です」
「ハッハッ!――あなたはあそこへは断じていらっしゃいませんよ。賭をしてもいいと思いますね」
「モウソンの所へいかないって?」
「そうですよ。――その日までに、あなたはフランス中部鉄器株式会社の営業支配人におなりになるでしょう。その会社はフランスの町や村に百三十四の支店と、その他に、ブラッセルに一つとサン・レモに一つ支店を持っています」
 この話は私を呼吸《いき》づまらせるほど驚かせました。
「私はそんな会社の話はききませんよ」
 私は申しました。
「そりア、話をきこうわけはありません。それは非常に秘密にされたんです。なぜなら資本家がみんな匿名だったからですが、しかし公にしたほうがいいんです。――私の兄弟のハリー・ピナーは発企人《ほっきにん》なんですが、選挙の結果、専務取締として評議員に加わっています。彼は私がこちらへやって来ることを知ってたものですから、私に申しました。不遇な才能ある人間を抜擢して来てくれとね。――元気のいい前途有望な若い人をね。――あなたのことはパーカーが話してくれたんです。そして今夜こちらへつれて来てくれた人です。私たちは初任給として、あなたに五百|磅《ポンド》さし上げることが出来るにすぎませんが――」
「五百|磅《ポンド》、一年に!」
 と私は叫びました。
「それは最初だけの話です。しかしあなたの周旋でされた取引に対してはすべて、一パーセントの過勤割戻しをとることが出来るんです。そして正直の所、これがあなたの俸給より多くなることは受合いです」
「けれど私は鉄器類のことについては何も知りませんよ」
「しようがないな、君は。――形は分かるでしょう」
 私の頭の中は騒然として、私は静かに椅子に腰かけていられなくなりました。けれど、ふとかすかな疑いが、私におこりました。
「ざっくばらんに申上げますが……」
 と私は云いました。
「モウソンは私に二百|磅《ポンド》くれるだけです。けれどモウソンのほうは確かなんです。が、真実の所、私はあなたの会社についてはほとんど知らないのですからね、――」
「ああ、あなたは実にきびきびしている!」
 と、彼は喜びで夢中になっているような調子で叫びました。
「あなたは私たちがほしいと思ってた通りの方です。それ以上おっしゃらなくても、ちゃんと分かっています。さあ、ここに百|磅《ポンド》の小切手があります。――もしあなたが私達の仕事をしようとお思いになったら、これを給料の前渡し分としてお納めになって下さい」
「分かりました。大変結構なお話です」
 私は申しました。
「で、いつから私は仕事にかかったらいいんでしょう?」
「すぐに明日、バーミングハムへいってもらいたいんです」
 と、彼は云いました。
「ポケットの中へ、私は手紙を持って来てますから、それを私の兄弟の所へ持って行って下さい。コーポレーション街一二六番地ですから、分かります。そこに会社の仮事務所があるんです。――もちろん、あなたとのお約束は彼が確実に取きめてくれるでしょうが、しかし私たちの間にはちゃんと話がしてあるんですから……」
「本当に、私は、あなたにどう云ってお礼を申上げたらいいか分かりません。ピナーさん」
 私は申しました。
「そんなお礼なんかなさることはありませんよ。君。あなたはただあなたが当然受くべきものを受けたにすぎないんですもの。――だが、ちょっとしといていただかなければならない、――単なる形式なんですが、――つまらないことが一つ二つあるんです。そこへ紙を一枚お出しになって下さいませんか。そしてすみませんが、「最低俸給五百|磅《ポンド》にて、フランス中部鉄器株式会社営業支配人として働くことに同意致し候」と、お書きになって下さい」
 私は彼の云う通りにしました。そして彼はその紙をポケットの中へしまい込みました。
「それからもう一つ精《くわ》しくおききしたいのは、あなたはモウソンのほうはどうなさるおつもりですか?」
 彼は云いました。――私はモウソンのことについては、余り喜んだので、すっかり忘れてしまっていたんです。
「手紙を書いて、辞職しましょう」
 私は答えました。
「私がお願いしないことはなさらないように。――私はあなたをモウソンの店の支配人として知ったわけです。そこで私はモウソンにあなたのことをきいてみました。すると彼は大変機嫌を悪くして、――あなたを私が誘惑してあそこの店からつれ出すか、何かそんなことをするのだと云って私を非難しました。そんなわけで私はとうとう我慢がしきれなくなってしまったんです。で、「もしあなたが有為な人がほしいなら、もっとたくさん報酬をお払いにならなくてはなりませんよ」と私は云っちまったんです。すると彼は「あの男は君の所のたくさんな収入より、むしろ僕の所の少ない収入のほうを好むよ」と云うんです。そこで私は「あらかじめお断りしておきますが、あの男が私の店へ来るようになっても、あなたはお咎めになさらないでしょうな」と云うと「僕はあの男をどぶの中から引き抜いてやったんだから、そんなに容易《たやす》くは僕の店から出て行きあしないよ」と、こう云う彼の云い草なんですよ」
「失敬な奴だな」
 私は叫びました。
「もう生涯あいつん所へは行くものか。どんな点から云ったって、何故《なにゆえ》私は彼に気兼ねをしなくちゃならないでしょう。――私は何も云ってやりますまい。あなたがそうすることに賛成して下さるなら」
「賛成! じゃ、お約束しましたよ」
 彼は椅子から立ち上りながら云いました。
「本当に、私は私の兄弟のためにあなたのような有為な人を得られて喜んでいます。――これは俸給の前払いの百|磅《ポンド》です。それからこれは手紙です。向うの所番地をお書とめになって下さい。コーポレーション街一二六番地。それから明日の一時までにいらっして下さる[#「下さる」は底本では「下る」]ことをお忘れにならないように――。じゃおいとまします。万事うまくおやりになるように」
 これがその時、私たちの間に起きたことの、ほとんどそのままなんです。私はごく最近のことなんではっきり覚えているんです。――ワトソンさん、私がその素敵な幸運に出会って、どんなに喜んだかは、想像していただけるでしょう。私はその夜嬉しく夜中すぎまで起きてました。そしてその翌日、私は約束の時間に充分間に合うような汽車に乗ってバーミングハムへ出かけて行きました。私はひとまず新開通りにあるホテルに荷物を届けて、それから指定通りの所番地へ出かけました。
 私はそこへ約束の時間より十五分前に着いたんですが、前の晩にきいたことに何の間違いもないと思いました。一二六番地と云うのは大きな二軒の商店の間にある出入口で、曲りくねって石の階段がありましたが、そこから何階もある各階の、会社や商人の事務所へ行けるらしいのでした。――ところが、居住者の名前はそこの壁の下のほうに書いてありましたが、フランス中部鉄器株式会社なんて云うそんな名前はないのです。――私はしばらくの間、何か不安に駈られながらそこに立っておりました。これは何か念入りないたずらなんじゃなかろうかなどと考えながら。――するとそこへ一人の男がやって来て私に声をかけました。その男は前の晩私が会った奴とそっくりでして、顔形も声も同じなんです。ただその男はきれいに頭髪を刈って髪の毛を光らせていました。
「あなたはホール・ピイクロフトさんですか?」
 その男は訊ねました。
「ええ、そうです」
 私は答えました。
「ああ、そうですか。私はあなたをお待ちしてたんです。けれどあなたのほうがお約束の時間より少し早くいらっしったんです。――けさは、私の兄弟から手紙を貰らいましてね、兄弟はその手紙の中で大変あなたのことをほめておりましたよ」
「あなたがいらしった時、ちょうど、事務所をさがしてたんです」
「まだ名前を出しとかないもので。先週からここへ仮事務所をおくことにきめたばかりだものですからね。――一しょにおいでになって下さい。お話致しましょう」
 私は彼について、ずいぶん急な階段の頂上までのぼりました。と、その屋根裏に、空っぽの誰もいないほこりだらけな、敷物もしいてなければカーテンもかけてない小さいな[#「小さいな」はママ]二つの部屋があって、その中へ私は案内されました。――正直な所、私は大きな事務所を予想して来たんです。それまでと同じような、幾つものチャカチャカしたテエブルや大勢の事務員がズラリと並んでるようなそう云う大きな事務所を。――包まず申上げますが、私はその二つの安い椅子と一つの小さなテエブルとをしげしげと眺めました。その他に元帳が一冊と屑籠が一つと、それだけが全部の家具なんですからねえ。
「がっかりなすっちゃいけませんよ、ピイクロフトさん」
 と、私のこの新しい知り合いは、私の顔の上から下まで見下ろしながら云うのでした。
「ローマは一日で築き上げられませんよ。――事務所は貧弱でも、私たちは背後にたくさんお金は持ってますから、――まあ、おかけなさい。そして持ってらした手紙を見せて下さい」
 私は彼に手紙をやりました。彼はそれを大変|叮嚀《ていねい》に読みました。
「あなたはよほど深く私の兄弟を感心させたと見えますな」
 彼は申しました。
「だが、私の兄弟は本当に鋭い批判家です。――私の兄弟はあなたとロンドンでお約束をしたんで、私はバーミングハムでするわけなんですが、しかし今度は、彼の云う通りに従いましょう。――では、どうぞそのおつもりで、お願いします」
「私の仕事はどんなことなんでしょう?」
 私はききました。
「つまり、フランスにある百三十四軒の代理店へ、英国製の器具を送り出す所のパリの本店を支配して下さればいいんですよ。取引きの約束は一週間のうちにきまりますから、その間あなたはバーミングハムにいて下すって、あなたの仕事をしていて下さればいいんです」
「と云いますと、どんなことをしたら?」
 彼は答えの代りに、曳出《ひきだ》しから大きな赤い本を出して来ました。
「これはパリの人名住所録ですが」
 と彼は云いました。
「名前の下に職業が書き込んであります。これをお宅へお持ちになって、この中にある鉄器商を全部住所と共に書き抜いていただきたいんです。そうして下されば、私たちに非常に役に立つんです」
「かしこまりました。この中に分類目録がありますね」
 私は念のためにきいてみました。
「確実なものじゃないんです。――この編纂方法は私たちのとは違ってます。――それをやっていただきたいんです。そして月曜日の十二時までに目録を私に下さいませんか。――ではさよなら、ピイクロフトさん。あなたが熱心にお骨折り下すって、会社の有為な主脳部になっていただきたいんです」
 私はその大きな本を小側《こわき》に抱え、胸の中に矛盾した困惑した感情を持ちながらホテルに帰って来たのです。一方では確実に仕事をする約束をして、百|磅《ポンド》をポケットの中に持っていながら、一方では、事務所の外見、壁の上に会社の名前が出ていなかったこと、それからその他事務家の注意しないではいられない部分などが、私のその雇主の位置に対して悪印象を残しているのでした。が、とは云え、よしどんなことが起きて来ようとも、私はお金を貰っているのです。そしてお見目得《みめえ》もすんでしまったのです。――私は日曜一日一生懸命に仕事を致しました。けれども月曜日までに、たったHの部までやっただけでした。で、私は雇主の所へいって、彼は同じ何の装飾もないガランとした例の部屋におりましたが、水曜日まで待ってもらうように話して帰って来ました。ところが水曜日になってもまだ終らなかったので、金曜日までのばしてしまったのです。――それが、昨日のことです。そこで私はそれをハリー・ピナー氏の所へ持って行きました。
「どうも本当に有難う」
 と彼は申しました。
「思ったより仕事がむずかしかったかと恐れてた所です。この表は実によい私の助手になってくれますよ」
「だいぶひまがかかって……」
 私は申しました。
「では今度は……」
 彼は云いました。
「家具商の表をつくっていただきたいんです。家具商もみんな鉄具類を売りますからね」
「よろしゅうございます」
「それから明日の夕方七時にいらしって下さい。そしてどのくらい仕事をなすったか私に見せていただきとうございます。――労働過度にならないように。夕方二時間ばかりミュジック・ホールへいらっしゃるのは、一日働いたあとに害にはなりませんよ」
 彼はそう云って笑いました。その時私は、彼の左側のほうの、金で不体裁に詰めてある二番目の歯を見てギクッとしました」
 シャーロック・ホームズは喜んで彼の手をこすった。私は喫驚《びっくり》して私達のお客を見詰めた。
「ワトソンさん、あなたは大変お驚きになったようですが、それはこう云うわけなんです」
 私たちのお客は話し続けた。
「今、ロンドンで会ったもう一人の男のことを申上げましたが、その時、私がモウソンの店へ行くことはやめようと云いますと、その男は喜んで笑ったのですが、その笑った時に私はこれとそっくりのやり方で詰められている彼の歯を見たんです。あなたもお分かりになるように、その時も今度の時も、金の光りが私の眼を捕えたのです。――そこで私は以上のことの上に、声と様子とが同じであると云うことと、そして剃刀《かみそり》と仮髪《かつら》とさえあれば人間の顔貌《がんぼう》は変えられると云うことを考え合せると、私はその二人が同じ人間であると疑わざるを得なかったのです。無論あなたは兄弟は似ているとおっしゃるでしょう。しかし同じ歯を同じようなやり方でうめるわけがないではありませんか。――彼は私を送り出しました。そして私は通りへ出ましたが、無我夢中で、足で歩いてるのか頭で歩いてるのか分かりませんでした。私はホテルへ帰りつくと、冷たい水で頭をひやして、そのことを考えてみました。――なぜ彼はロンドンからバーミングハムへ私を寄越したんだろう……またなぜ彼は私に近寄って来たのだろう。そして何の必要があって彼は、自分自身から自分自身へあてた手紙などを私に持たせてよこしたのだろう? ――これらのことは私にはあまりに問題が多すぎて、判断が出来ないのです。その時ふと私は、私には何が何だか分からないことも、シャーロック・ホームズさんには分かるだろうと云う事に考えついたんです。で、私はすぐさま夜中《やちゅう》に乗り込んで、今朝お目にかかって、そのままバーミングハムへ私と一しょに来ていただこうと思ってやって来たわけなのでございます」
 株式仲買店事務員は彼の不思議な経験を話し終ってから、ちょっとだまった。と、シャーロック・ホームズは、ちょうどお酒の鑑賞家が、素晴らしい葡萄酒の最初の一滴を一吸い吸い込んだ時のような、嬉しそうなそれでいて何かを批判しているような顔つきをして、クッションに背をもたせながら、私のほうへ斜に視線を投げかけた。
「面白い問題じゃないか。ねえ、ワトソン」
 と、ホームズは云った。
「これには僕を喜ばせる点があるよ。君も賛成するだろう。二人でアーサー・ハリー・ピナー氏に、そのフランス中部鉄器株式会社の仮事務所で会見することは、むしろ我々に興味のある経験だと云うことに」
「しかしどうしたら会えるだろう?」
 私はきいた。
「ああそりアごくやさしいことですよ」
 と、ホール・ピイクロフトは快活に云った。
「あなた二人は職をさがしている私の友達で、何かに使ってもらおうと思って専務取締役に引き合せるためにつれて来た、と云うこれより自然な方法はないでしょう?」
「もちろん、そうだ!」
 ホームズは云った。
「私はその男に会って、私が何かその男のやってる小さな計画《けいが》についてしてやることが出来るように見せかけなくちゃならないね。――ところで、君はどんなことをするかね、最も有効に働くには? それとも出来れば……」
 彼は爪をかみ初めた。そして窓から外を一心に眺め初めた。そうして私たちはそのまま、私たちが新開通りへつくまで一言も彼から言葉を引き出すことは出来なかった。

        ×    ×    ×    ×    ×

 その日の夕方七時、私たち三人は歩いて、コーポレーション通りを会社の事務所のあるほうへ下っていった。
「時間が来るまでは私たちは用なしのからだですよ」
 と私たちの依頼人は云った。
「明《あきら》かに、彼は私に合うだけにあそこへ来るんです。なぜって、時間が来るまでは、事務所はガラ空きになってるって、彼が言明してますもの」
「何か曰くがありそうだな」
 ホームズは云った。
「確かにそうなんですよ。――ほら、あそこへやって来ました。」
 と、その事務員は叫んだ。
 彼は道路の反対側をいそぎ足で歩いている、小柄なブロンドのきちんとした服装をしている男を指さした。私たちが彼に注意している時、彼は馬車やバスの間から飛び出して来た。夕刊を売りながら怒鳴っている少年を呼びとめて、一枚買いとった。そしてそれを手に掴《にぎ》りながら入口から中へ消えてしまった。
「あそこへいった」
 ホール・ピイクロフトは叫んだ。
「彼が這入ってった所に事務所があるんです。私と一しょにお出で下さい。出来るだけ無雑作にやっちまいましょう」
 私たちは彼について五階まで登った。すると私たちは入口の戸が半分開きかかっている部屋の前に出た。私たちの依頼人はそこでノックした。
「お這入り下さい」
 そう云う声が、部屋の中で私たちに挨拶した。そこで私たちは、ホール・ピイクロフトが話した通りな、飾りつけのしてない丸裸の部屋の中に這入っていった。たった一つしかない机の前に、私たちが通りで見た男が、自分の前に夕刊をひろげたまま坐っていた。私は、その男が私たちのほうを振りむいた時、そんなに悲しみの跡のある、と云うより悲しみ以上の何ものかの跡、――この世の人が生涯のうちにほとんど出会うことのないような恐怖の跡のあるそんな顔を、見たことはないような気がした。彼の顔は汗で輝き、頬は魚の腹のようないやな白い色をし、そして彼の両眼は野獣的で人をジロジロ眺めていた。彼は彼の事務員を、誰だか分からないかのような顔をして見詰めた。私は私たちの指揮者の顔に浮んだ驚きを見て、それは決してその男の平常の表情ではないことが分かった。
「どこかお悪そうですね、ピナーさん」
 と、私たちの事務員は叫んだ。
「ええ、あまりよくはありません」
 と、その男は彼のからだを動かすのにいかにも大儀そうにしながら、何かものを云う前にはかわいた唇をなめずりながら、答えた。
「あなたが連れて来たその方たちはどなたですか?」
「一人はハリス君と云ってバーモンドセイのもので、もう一人のほうはプライス君と云うこの町のものです」
 私たちの事務員はすらすらと答えた。
「みんな私の友人で、経験もある者たちなんですが、しばらく失業してるんです。そんなわけで、もしかしたらあなたに、会社の空席へ雇っていただけはしないだろうか、と二人は希望してるわけなんです」
「幾らでも出来るとも!」
 と、ピナー氏は気味悪い笑いを浮べて叫んだ。
「よござんす。確かに、何かあなたがたのためにお計らい出来ると思います。――ハリスさん、あなたの御専問はなんです?」
「私は会計師でございます」
 ホームズは云った。
「ああ、なるほど。私たちはそんな方も何か入要でしょう。それからあなた。プライスさんは?」
「事務員です」
 私は答えた。
「私はやがて、会社があなたがたのお世話が出来るようになるだろうと思っております。で、何か私たちが決定しましたらすぐ、あなたがたの所へお知らせ致しましょう。ですから、ただいまの所はお引取り願いたいと思います。どうか、私を一人きりにさせて下さい」
 この最後の言葉は、まるで彼の上にのしかかっていた圧迫を、急に全くはねのけたかのように、激しい勢いで彼の口からとび出した。ホームズと私とはお互いに顔を見合った。と、ホール・ピイクロフトは一歩テエブルのほうへ近寄っていった。
「ピナーさん、あなた、お忘れになっては。――御命令で、何か御指図をうけたまわりに参ったのですが」
 彼は云った。
「大丈夫だよ、ピイクロフト君、大丈夫だよ」
 おだやかな口調で答えた。
「ちょっとここで待ってくれたまえ。別になぜってことはないけれど、あなたのお友達があなたを待ってると云うわけにも行かないでしょうから。三分間であなたにお願いすることをまとめましょう。それだけの間、御迷惑でも御辛抱していて下されば……」
 彼は叮嚀な様子をして立ち上った。そして私たちに挨拶しながら、部屋の向うの端にある出入口から出て、あとをしめていってしまった。
「どうしたって云うんです?」
 ホームズは小声で云った。
「気づかれて逃げられたかな?」
「逃げられませんよ」
 ピイクロフトは答えた。
「どうして?」
「あのドアは、中の部屋へ行く口なんです」
「そこに出口はないの?」
「ありません」
「その部屋は飾つけがしてありますか?」
「昨日はからっぽでした」
「そうとすれば、一体、何をすることが出来るだろう? どうも私に了解出来ない何ものかがある。――もし恐怖の余り気を変にしたものがあったとしたら、それはピナー自身だ。何が彼奴《きゃつ》をこわがらせたんだろうね?」
「僕たちが探偵だと云うことに感づいたんだよ」
 私は自分の不安を云ってみた。
「そうです」
 ピイクロフトは云った。が、ホームズは首を横に振って
「あいつは蒼くはなってなかったよ。あいつは私たちが這入って来た時、既に蒼い顔をしてた。考えられることは――」
 ホームズの言葉は、中の部屋のほうから来る、鋭いコツコツと云う音でさまたげられた。
「何だってあいつは自分の部屋をノックするんだろう」
 事務員は云った。
 再び前よりは高いコツコツと云う小音が聞えて来た。私達はみんな、呼吸《いき》を殺ろして閉されてあるドアを見詰めた。ホームズを見ると、彼の顔は緊張して、激しい昂奮のため、からだを前こごみにしていた。と、その時ふいに、低いゴロゴロゴロゴロと云う含嗽《うがい》するような音につづいて、木の上をはげしくたたく音が聞えて来た。ホームズは気違いのように部屋を走っていって、ドアを押した。それは内側から固く閉されていた。私たちはホームズに従って、私たちの全身の重みでドアにぶつかっていった。一つの蝶番《ちょうつがい》がとれ、それからもう一つのがとれ、ドアはガタンと倒れた。私たちはそれを乗り越えて中の部屋に飛び込んだ。
 が、そこには誰もいなかった。
 しかし私たちが油断していたのはほんのわずかな時間に過ぎなかったのだ。と、片方の隅に、――私たちが出て来た部屋に近いほうの隅に、もう一つのドアがついていた。ホームズはそこにとびついて引きあけた。するとそこの床の上には、上衣《うわぎ》やチョッキがぬぎすててあって、そしてドアの背後についている鉤金《かぎがね》に、フランス中部鉄器株式会社の専務取締役が、自分の首の廻りに自分のズボンツリをまきつけてブラさがっていた。彼は両足を揃えて、彼の首は前のほうへ無気味な恰好にダランとたれていた。そして彼の踵は、私たちの話を邪魔した、あの音を立て得るくらいに床とすれすれになっていた。私はすぐさま彼の胴に抱きついて彼のからだを持ち上げた。そしてホームズとピイクロフトとは、灰色になった皮の皺の間に食い込んでいる、ズボンツリをといた。それから私たちは彼をほかの部屋に運んで来て、そこへ寝かした。彼は石盤のような顔色になり、紫色になった唇は泡をブツブツやって、――たった五分前までは生きていた彼のからだは、恐ろしい骸《むくろ》になっていた。
「ワトソン、君はどう思うね?」
 と、ホームズはきいた。
 私は彼の上にかがみこんで診察してみた。彼の脈は弱く、絶えたりつづいたりしていた。けれども呼吸はだんだん長くなって来た。そして目ぶたは軽くふるえて、下にある薄白い眼球をかすかに見せていた。
「やってみよう」
 私は云った。
「まだ生きてる。――窓を開いて、水を持って来てくれたまえ」
 私は彼のカラーをはずして顔の上に冷《つめた》い水を注ぎかけ、そして長い自然な呼吸をするようになるまで、彼の腕を上下した。
「こうなればもう時間の問題だ」
 私は彼から離れてそう云った。
 ホームズは、彼の両手をズボンのポケットに深くつっこんで、顎を胸に埋《うず》めたまま、テエブルの側《そば》に立っていた。
「今のうちに巡査を呼びにいっといたほうがいいと僕は思うんだが」
 と、彼は云った。
「そして実は、巡査が来たら、終りになったこの事件をこのまま向うへ引渡してしまいたいと思ってるんだけれどね」
「私には忌わしい謎だ。――何の目的で、あいつ等は私をわざわざここまで連れ出したんだろう。そしてそれから――」
 ピイクロフトは頭を掻きむしりながら叫んだ。
「馬鹿な! そりアもうすっかり分かりますよ」
 と、ホームズはいらいらして云った。
「分からないのは、この最後の急な自殺騒ぎです」
「じゃ、他のことはみんなお分かりになってるんですね」
「極めて明瞭に分ってるつもりです。君の意見はどうかね、ワトソン?」
 私は肩をすくませた。
「云いにくいけれど、僕には力に余るんだ」
 私は云った。
「そうかね。だが、最初に、事件をよく注意して見れば、解決はただ一点に帰着するだけだよ」
「君はどんな風に解決したんだい?」
「いいかね、この事件のすべては、二つの点が中心となっている。第一の点は、ピイクロフトがこの盛大なる結構な会社の職にありつく時、宣誓書を書かされたと云うことだ。――君は、そこが実に怪しいとは思わないかね」
「どうもよく分からないね」
「じゃ、なぜあいつ等は、ピイクロフトにそんなものを書かせたんだろう?――それは事務的な目的ではない。なぜなら普通これらの約束は言葉だけでやってるんだから。とすれば何か他に目的がない限り、事務の上ではそんなことをする理由は絶対にないんだ。――ね、ピイクロフト君、お分かりになりませんか? あいつ等はあなたの手跡の雛形をとりたいと苦心していたので、あの時、あなたにそうさせるより他に方法がなかったのだと云うことが、――」
「だが、なぜそんなものがほしかったのでしょう?」
「そこです。なぜ? それにお答えすれば、この事件の解決も少し進むわけなのです。なぜそれがほしかったか? それにはうなずける理由はただ一つしかありません。誰かがあなたの手跡の真似をするために習おうと思ったのです。そしてそのためには、まずその見本をせしめなければならなかったのです。そこで第二の点に行くわけですが、そうなればこの二つの点が、お互いに重大な関係を保ち合ってると云うことが分かるんです。――第二の点と云うのは、あなたに辞表を出させないで、しかも有望なこの堂々たる商売の支配人と云う地位をそのまま手もふれずに残させるようにした、ピナーの要求です。ピナーから云えば、その支配人と云う地位は、彼が会ったこともない、ホール・ピイクロフトと云う人間が、月曜日の朝から来ることになっていたのです」
「ああ神様よ」
 私たちの事務員は叫んだ。
「私は何と云う盲目野郎だったんだろう!」
「これであなたは、その手跡のことを想像してごらんなさい。何者かがあなたの代りになって、あなたがとっておいた就職口に行くのです。無論、たくらみはうまく行くでしょう。その男はあなたとは似てもつかない字をかくのです。しかしその悪漢は、ひまひまにあなたの字の真似を習います。そしてそのために彼の位置は安全になります。少くもその事務所に誰一人、前にあなたを見たものがいないかぎりは」
「畜生め!」
 ホール・ピイクロフトは呻《うめ》いた。
「まったくですよ。――もちろん、あなたに、あなたが得た就職口をよく思わせないようにすることが、非常に大切なことだったんです。それからまた、あなたが誰か、モウソン事務所であなたの名をかたってる奴があなたの代りに働いていると云うことを、あなたに話すような男と寄りさわらないようにすることも。そこであいつ等は、あなたに給料の前払いをして、バーミングへ追っ払ったんです。そうしてあなたがロンドンへ行かないように、そこであなたに仕事をやらせたわけです。けれどあなたは彼等のたくらみ[#「たくらみ」に傍点]を見破ることが出来たんです。――からくり[#「からくり」に傍点]の全部はこうなんですよ」
「けれどなんだってこの男は、兄弟に化けたりなんかする必要があったんでしょう?」
「なるほど、それは分かりきってますよ。この事件には、判然と、人間は二人いるきりです。一方では、モーソンの事務所で、あなたの代りになっています。それからこっちのほうでは、あなたの雇主として活躍したわけです。ところが、あなたを雇うのに、誰か第三者を彼のこの計画の中に入れて、その人にあなたを推薦させないでは工合が悪るかったのです。けれど第三者を中に入れることは、いやだったんですよ。そこで彼は出来るだけ自分の容貌をかえたんですね、そしてそれでもまだ似ている所は、あなたも見破れなかったように、兄弟だから似ているのだと云うように思わせてしまったのです。しかし不幸なことに、金の入れ歯で、あなたに疑いを起されたのです」
 ホール・ピイクロフトは拳を空中に振り上げた。
「有難いぞ!」
 彼は叫んだ。
「私がこんな馬鹿を見ている間に、もう一人のホール・ピイクロフトはモウソンの事務所で働いていたんだ! ホームズさん、私たちはどうしましょう。どうか話して下さい」
「モウソンの所へ手紙をやるのですね」
「土曜日は十二時に店をしめちまうんです」
「大丈夫です、誰か門番かでなければ留守番がいるでしょう――」
「ええいます。――いろんな株券だとか保証金だとかがありますから、いつも番人がおいてあります。そんなことをちょっと耳にしてたように記憶してます」
「好都合だ。モウソンに手紙をやりましょう。そして変り事はないか、またあなたの名前を使ってる事務員がそこで働いているかどうかきき合せましょう。それでこの事はハッキリします。けれどハッキリしないのは、なぜこの悪漢が、私たちを見た瞬間部屋から逃げ出していって、首をくくったかと云うことです」
「新聞」
 私たちの後ろで声がした。その男は真蒼な顔をして薄気味悪い顔をして起き上っていた。彼の目はたしかに生き返ったらしい光りを見せながら、まだ彼の喉にまいてある巾広の赤色のバンドを彼はいじくっていた。
「新聞! そうだ!」
 ホームズはひどく昂奮して喚くように云った。
「俺はなんて阿呆なんだ! ここの事件ばかりに気をとられていて、新聞のことはちっとも頭に這入って来なかった。――たしかにそこに何か秘密があるに違いない」
 彼はテエブルの上に新聞をひろげた。と、彼の唇からは、勝誇ったような叫び声がとび出した。
「これを見たまえ、ワトソン」
 彼は叫んだ。
「ロンドンの新聞だ。イブニング・スタンダードの早出しだ。ここに僕たちの知りたいと思ってたことが出ている。頭の仕事を見たまえ。――『市中の犯罪、モウソン・ウィリアム会社の殺人。巨怪なる強盗の襲来。犯人の逮捕』――ワトソン、みんなそれを知りたいんだ。すまないが声を立てて読んでくれたまえ」
 それは都会における重大事件の一つとして、新聞の報導記事に取扱ってあった。そしてその記事は次のように書かれていた。

――本日午後当市において、兇暴なる強盗現れ、人一人殺害したるも、犯人は捕縛せられたり。有名なる仲買店モウソン・ウィリアム会社には、常に百万|磅《ポンド》以上に相当する株券、債券、あるいは保証金などのあるため、番人を常備しありたる上、支配人は用心深く、彼が負わされているそれらの重用物件のために、最新式の金庫を数個用意し、その上ビルディング内には、昼夜の別なく見張人を残しありたるなり。ちょうど先週より、事務所に雇われたるホール・ピイクロフトと云う、新しき書記現れたり。この男こそ、かの有名なる偽造者にして強盗犯人たるベディッグトン以外の何者でもなかりしなり。彼は彼の兄弟と共に、最近五年間の牢獄生活より出たるばかりの男。しかるにいかなる方法にてか、その方法は未だに不明なるも、偽名を用いてうまうまと事務所の事務員の位置をかち得たるなり。そは事務所内のあらゆる鍵の合鍵と、堅固なる部屋と金庫のある位置とに関しての知識を得んがために、利用したるなり。
 モウソンの事務所にては、土曜日は事務員たちは半日にて帰ることを習慣となせり。しかるに一時二十分すぎに、一人の紳士、革の袋を持ちて事務所の階段を下り来たるを見て、市内の巡視のテュウソン巡査部長は少なからず不審に思い、疑いを起こしたり。すなわち部長はその男を尾行し、巡査の応援を得て、兇猛なる格闘の後彼を捕縛することに成功せり。大胆なる兇賊の犯罪を行いて来たりたることに間違いはなかりき。その袋の中よりは、十万|磅《ポンド》に近き価格のあるアメリカの鉄道の社債やその他巨額の、炭鉱あるいは諸会社の株券などが発見せられたり。また事務所内を調べたる所、気の毒なる見張人の惨殺されたる死体が、最大の金庫内に投げ込まれありたるを発見せり。もしテュウソン部長のこの勇敢なる行為なかりせば、その死体は月曜の朝まで発見さるることなかりしなり。――見張人の頭骸骨は、背後より加えられし、火掻棒ようのものの一撃によってめちゃめちゃとなりおりたり。ベディックトンは入口を、何か忘れ物をしたと云う口実にて通りたるに相違なく、しかして見張人を殺害し、手早く最大の金庫を開らきて、中の目ぼしきものを持ち去りたるに相違なきなり。常に彼と共に犯罪を行うを習慣としたる彼の兄弟は、この犯行には現れることなく、警察にて彼の行衛《ゆくえ》について極力捜査中なるも、現在未だに不明なり。――
[#ここで字下げ終わり]
「そうだ、僕たちはその行衛について、幾らでも警察を助けてやることが出来るのだ」
 と、ホームズは、窓ぎわに目ばかり光らせているその男を見やりながら云った。
「人間の性質と云うものは不思議に入り組んだものだ。君は、強盗や人殺しでさえも、彼の兄弟の首に縄がかかったと云うことを知って、自殺する気になるほどな肉親の愛情を起こすものであることが、分かったろう。しかしもう私たちは私たちの行動について躊躇しなくてもよい。私とワトソンとはこの男の番をしてますから、ピイクロフトさん、あなたはどうか警察へこのことを知らせにいって下さいませんか」

底本:「世界探偵小説全集 第三卷 シヤーロツク・ホームズの記憶」平凡社
   1930(昭和5)年2月5日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「彼奴→あいつ 貴方→あなた 或→ある 如何→いか 一旦→いったん 於て→おいて 於ける→おける 位→くらい 極→ごく 而して→しかして 随分→ずいぶん 即ち→すなわち それ所か→それどころか 大分→だいぶ 沢山→たくさん 只今→ただいま 多分→たぶん 給え→たまえ 丁度→ちょうど て戴→ていただ て見→てみ て貰→てもら 所が→ところが 所で→ところで 尚→なお 乍ら→ながら 成程・なる程→なるほど 憎い→にくい 程→ほど 殆ど→ほとんど 亦→また 迄→まで 寧ろ→むしろ 勿論→もちろん 漸く→ようやく 余程→よほど 僅か→わずか」
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(荒木恵一)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年9月21日作成
2005年12月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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