家常茶飯 ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke—- 森鴎外訳

     第一場


広き画室。大窓《おおまど》の下に銅版の為事《しごと》をする卓《たく》あり。その上に為事半ばの銅版と色々の道具とを置きあり。左手に画架。その上に光線を遮るために使う枠を逆さにして載せあり。室《しつ》の真中《まんなか》に今一つの大いなる画架あり。その脇《わき》に台あり。その上に色々の形をなしたる筆立《ふでたて》に絵筆を立てあり。筆立の中《うち》には銅器にて腹のふくらみたるも交《まじ》れり。絵具入《えのぐいれ》になりおる小さき箪笥《たんす》。その上には色々の雑具を載せあり。その内に小さき鏡、コニャック一|瓶《びん》、小さきコップ数個、紙巻莨《かみまきたばこ》を入れたる箱、菓子を入れたる朱色の日本漆器などあり。その傍《そば》に甚だ深く造りたる凭掛《よりかかり》の椅子《いす》あり。凭りかかる処《ところ》は堅牢《けんろう》に造りありて、両肱《りょうひじ》を持たする処を広くなしあり。この椅子に向き合せて、木部を朱色の漆にて塗りたる籐《とう》の椅子あり。奥の壁は全く窓にて占領せられおる。左手の壁に押付けて黒き箪笥を据えあり。その上に髑髏《どくろ》に柔かき帽子を被《かむ》せたるを載せあり。また小さき素焼の人形、鉢、冠《かんむり》を置きあり。その壁には鉛筆画、チョオク画、油絵|等《とう》のスケッチを多く掛けあり。枠に入れたると入れざると交《まじ》れり。前手《まえて》に小さき円形《まるがた》の鉄の煖炉《だんろ》あり。その上に鍋《なべ》類を二つ三つ載せあり。黒き箪笥の傍《そば》に、廊下より入《い》り来《く》るようになりおる入口あり。右手の壁の前には、窓に近き処に寝椅子あり。これに絨緞《じゅうたん》を掛く。その上にはまた金糸《きんし》の繍《ぬい》ある派手なる帛《きれ》を拡《ひろ》げあり。この上の壁は中程を棚にて横に為切《しき》りあり。そこまで緑色の帛を張りあり。その上に数個の額を掛く。小さき写真の上を生花《せいか》にて飾りたるあり。棚の上には小さき、柄《え》の長き和蘭陀《オランダ》パイプを斜《ななめ》に一列に置きあり。その外小さき彫刻品、人形、浮彫の品《しな》等《とう》あり。寝椅子の末《すえ》の処に一枚戸の戸口あり。これより寝間《ねま》に入《い》る。その傍《そば》に、前へ寄せて、人の昇りて立つようにしたる台あり、その半ばを屏風《びょうぶ》にて隠しあり。台の上には緋《ひ》の天鵞絨《びろうど》に金糸の繍ある立派なる帛を投げ掛けあり。ずっと前に甚だ大いなる卓《たく》あり。これは為事机に用いるものにて、紙、文反古《ふみほご》、書籍、その他《た》色々の小さなる道具を載せあり。その脇に書棚ありて、多くは淡《あっさ》りしたる色の仮綴《かりとじ》の本を並べあり。○この画室は町外《まちはずれ》にあり。時刻は午《ひる》少し過ぎたる頃《ころ》なり。窓の外には鼠色《ねずみいろ》の平《たいら》なる屋根、高き春の空、静《しずか》に揺ぐ針葉樹の頂を臨む。○画家ゲオルク・ミルネル。丈余り高からず。二十四歳ばかり。ブロンドなり。髪は柔かく、小さなる八字|髭《ひげ》を生やしいる。黒のフロックコオトに黒のネクタイ。服は着たるばかりなりと覚しく、手にて皺《しわ》を熨《の》すように撫《な》で、埃《ほこり》を払うように叩《たた》きつつ、寝間の戸を開けて登場。斯《か》く服をいじりて窓の処まで行《ゆ》き暫《しばら》く外を見て、急に向き返り、部屋の内を、何か探すように、歩き廻《まわ》る。さて絵具入の箪笥の上の鏡を見出《みいだ》し、それに向きてネクタイを直さんとし、鏡に五味のかかりいるを見て、じれったげに体を動かし、ハンケチを見出し鏡を拭《ふ》き、そのハンケチを椅子の上に投ぐ。さて鏡を手に取り、ネクタイを直す。

画家。これで好《い》い。(安心したるらしき様子にて二三歩窓の方に行《ゆ》き、懐中時計を見る。)なんだ。まだ三時だ。大分《だいぶ》時間があるな。(絵具入の箪笥の処に立戻る。この箪笥は高机《たかづくえ》の半分位の高さになりおる。その上にある紙巻莨の箱を手に取り、小言のように。)五味だらけだ。何を取って見ても五味だらけだ。(紙巻を一本取る。○戸を叩く音す。何《な》んとも思わぬ様子にて。)お這入《はい》んなさい。(マッチを探す。ようようマッチの箱を見出し、マッチを一本取りて摩《す》る。また戸を叩く音す。うるさがる様子にて。)お這入んなさい。(その内マッチの火消ゆ。燃えさしを床《ゆか》の上に投げ、また一本摩り、莨を吸付けながら、どうでもいいというようなる風にて戸の方を見る。○モデル娘《むすめ》。質素なる黒の上着に麦藁帽子《むぎわらぼうし》の拵《こしらえ》にて、遠慮らしく徐《しずか》に入《い》り来《きた》る。画家はマッチを振りて消す。)モデルか。入《い》らない、入《い》らない。また来ておくれ。(モデルの方に背中を向け、紙巻を喫《の》む。)
モデル。先生。わたしですよ。
画家。(急に向返《むきかえ》る。)何んだマッシャかい。見違えてしまった。黒なんぞ着てるんだから。どうしたんだい。
モデル。ただ、どんな御様子かと思って。
画家。そうか。大分長く顔を見せなかったなあ。近頃《ちかごろ》どうだい。
モデル。ええ。どうやらこうやらというような工合《ぐあい》ですよ。この頃はわたし共に御用はおありなさらないの。
画家。うむ。この頃はお休《やすみ》だ。どうだ。少し掛けないか。
モデル。でもお出掛でしょう。
画家。なぜ。
モデル。(画家の衣服を指さす。)そんなお支度でいらっしゃるじゃありませんか。
画家。これかい。そりゃあ出掛けるには出掛けるのだが、まだ早い。まあ腰でも掛けないか。近頃は忙《いそが》しいかい。
モデル。(進みて藁椅子に腰を掛く。画家は今一つの低き椅子の背に腰を半分掛く。)いいえ。どなたも何んにもなさらないようですわ。
画家。(微笑《ほほえ》む。)それ見ろ。己《おれ》だって同じ事だ。
モデル。(やはり微笑む。)それで毎日毎日何をしていらっしゃるの。
画家。フロックコオトに御奉公をしているのだ。こういっては分るまい。人の処へ訪問に出掛けたり、人に案内をして貰《もら》ったりしているのだ。
モデル。急にそんな事が面白くお成りになったの。
画家。いや、面白くも何んともありゃしない。
モデル。それなのにどうしてそんな事をしていらっしゃるの。
画家。ふん。自分のために面白い事が出来なければ為方《しかた》がないじゃないか。
モデル。おかきなされば好いでしょう。
画家。それがかけないのだ。
モデル。かけないのですって。
画家。うむ。
モデル。嘘《うそ》だわ。冬なんぞは。
画家。そりゃあ冬は違うさ。十一月頃の薄暗い天気の日に、十一時頃になっても光線が足りない時なんぞは、どんなにか気を揉《も》んだものだ。悪くすると一日明るくならずにしまうのだからな。あの頃もっと勉強して置けば好《よ》かった。あの頃かけば幾らでもかけたような気がしてならない。この頃は、朝早くから窓一ぱいの光線が差込む。それを使わずに見ているのが癪《しゃく》に障るので、己は昼まで寝部屋の中に寝ているのだ。
モデル。それには夜遅くお帰りなさるせいもあるでしょう。(間《ま》。)
画家。(真面目《まじめ》に。)なるほど。そりゃあ遅く帰るせいもあるだろう。うむ。人間は気保養《きほよう》もしなくてはならないからな。
モデル。ええ。保養をなすって、それから為事におかかりなさるが好いわ。
画家。なんだ。妙に己に意見をするような事をいうなあ。
モデル。(間《ま》の悪気《わるげ》に。)そんな訳ではございませんが、ふいとそう思ったもんですから。それに詞《ことば》のはずみですわ。
画家。詞のはずみばっかりかい。何んだかお前は厭《いや》に賢夫人らしくなったじゃないか。
モデル。(笑う。)全く詞のはずみで。(間の悪気に言い淀《よど》む。)
画家。どうだい。お前は何か稽古《けいこ》なんぞをした事があるのじゃないか。
モデル。一向出来ませんわ。すこおし読め出すと内が台なしになってしまったもんですから。
画家。急に貧乏になったのかい。
モデル。ええ。出し抜けでしたの。お父《とっ》さんが相場をして。
画家。そうかい。それじゃあ読めば読めるのだな。
モデル。ええ。読めますわ。小さい時にはお父さんの本棚の前に行って、見ていまして、これが読めたらと思っていたのです。それから読めるようになったら。
画家。ふん。読めるようになったらどうしたのだ。
モデル。その時はもう本なんか無くなっていましたの。
画家。そうかい。みんな差押えられてしまったのだな。
モデル。ええ。
画家。その後《のち》どうしているのだ。
モデル。こうしていますわ。(打萎《うちしお》れたる様子。)
画家。そこいらにある本で好いなら。いつでも持って行くが好いぜ。(本棚を指ざす。)
モデル。難有《ありがと》うございます。いつか中《じゅう》も願って見ようかと思っていましたの。(間。)
画家。格別|冊数《さつかず》はないが、あの中にでも何かしらあるだろう。(間。)何んだってそんなに己の顔を見るんだい。
モデル。あなたは丁度いつか中のような御様子でいらっしゃるわ。
画家。いつか中とはいつだい。
モデル。あの盛《さかん》にかいていらっしゃった十一月頃と同じような御様子に見えますの。
画家。あのかけた頃のように見えるというのか。ふん。一体どんな顔だい。
モデル。そうですねえ。何んといったら好いでしょう。こう敬虔《けいけん》なような。
画家。なんだと。
モデル。いいえ。そうではないわ。そういっては当りませんの。
画家。そんならどうだというのだ。
モデル。そうね。作業熱のあるお顔ですわ。
画家。(紙巻を灰皿に押付けて消す。)ふん。作業熱のある顔というのは、どんな顔だい。
モデル。(徐《しずか》に)信仰のあるような顔ですわ。
画家。(真面目なる顔にてモデルをじっと見る。モデル立ち上る。)今日の己の顔はそんな風かなあ。
モデル。ええ。(間。)
画家。(間。○微笑む。)そうして見ると近い内にまたお前に来て貰わなくっちゃあならないようになるだろうかな。
モデル。(喜ばし気に。)いつでも参りますわ。
画家。(たゆたいつつ。)ふむ。事によったら。(神経質なる態度にて、あちこち歩き始む。)事によったらやられるかも知れない。考《かんがえ》はとうから幾らもあるのだ。ただ片っ方の奴《やつ》をつかまえようとすれば外の奴が邪魔になる。でもどうかすると妙なことがある。先《せん》の週だっけ。雨の降った日がもう少しで暗くなろうという時だった。こう見るものが昔話のように、黄金色《こがねいろ》に見えたっけ。地《じ》が温かに、重いようで。背景が。そしてその前にあるものが、光って、輪廓《りんかく》がはっきりして、恐ろしく単純に見えたっけ。妙に情を動かすように単純に見えたっけ。そうだ。前の週の木曜日だったと思う。あんな時に直《す》ぐかき始めれば好いのだが。ついそんな時にいろんな事を考えるもんだから。
モデル。外《ほか》の事が邪魔に這入るのでしょう。不断の下らない事が。
画家。(立ち留りてモデルを見る。)お前のいう通りだ。その内呼びにやるぜ。
モデル。あしたはどうでしょう。
画家。あしたかい。あんまり性急だなあ。あしたはむずかしい。第一今夜は帰が遅くなるのだ。それにこの部屋も一度大掃除をしなくちゃあ。まあ、この埃を見てくれい。(モデル娘忙がわし気に帽《ぼう》を脱ぎ、上着を脱ぎかかる。)どうするのだ。
モデル。お掃除をしますわ。拭巾《ふきん》があるでしょう。
画家。直《すぐ》に始めようというのか。
モデル。造做《ぞうさ》はありませんわ。拭巾があるならお出しなさいよ。
画家。せっかちだなあ。(その内娘は左手の箪笥を開け探す。画家絵具入の抽斗《ひきだし》を抜き出《いだ》す。)ここだ、ここだ。(抽斗にある艶拭巾《つやぶきん》を二枚|出《いだ》して投げ遣《や》る。娘は直《すぐ》に箪笥を拭き始め、その上の品物を一々《いちいち》拭きて工合好く据直す。画家は紙巻を一本吸付け、窓を背にして、銅版の置きある机に寄りかかり、娘のする事を見ている。)
モデル。(一方の画架の処に膝《ひざ》を突き、掃除をしつつ徐《しずか》に。)今度おかきになるものには顔のがお入用《いりよう》なのではないでしょうか。顔の役に立つモデルが。
画家。なぜ。(莨を喫む。)
モデル。(立ちて左手の壁の額を掃除す。)わたしでは手と足しきゃお役に立たないのですもの。(画家は娘を見ている。娘は画家が返事をせざる故向き返り顔を見る。画家は突然紙巻を投げ捨て、画架に飛付く。)
画家。じっとしていろ。動いちゃあいけないぞ。(娘はその姿勢を崩さずにいる。画家は画室をあちこち駈《か》け廻《まわ》り枠なぞを倒し、紙の張りある板何枚かをひっくり返して、その一枚を画架に載せ、箪笥を引開け、チョオクの入れある箱を取出《とりいだ》し、大急ぎにてかき始む。為事に熱中しつつ。)それで好い。手はそのまま垂らしても好い。(フロックコオトの上着を脱いで床《ゆか》の上に投《ほう》り出《いだ》す。娘は姿勢を保ちいる。画家は為事を続く。)手はどうでも好いのだ。顔さえそうしていて貰えば好い。(娘は驚の余りに麻痺したる如《ごと》き様子にて両手を後《うしろ》に引く。画家は詞無く、為事を続く。娘、突然激しく感動したる様子にて両手にて顔を覆う。)おい。どうしたんだい。為様《しよう》がないなあ。もう駄目だ。(娘泣く。画家チョオクを投ぐ。)ええ、くそ。もう駄目だ。
モデル。(驚きたる様子。)御免なさいよ。わたしはつい。(両手を顔より放して元の姿勢に返る。)
画家。(憤然として。)そうしていさえすれば好かったのだ。なんだってあんな真似《まね》をしたのだい。
モデル。(ひどく間の悪気に。)本当に御免なさいよ。つい。
画家。そんな顔になっちゃあ為方はありゃしない。今日はもうおしまいだ。(娘は悲し気に立ちいる。)おしまいだというじゃあないか。(板を壁にがたりと寄せ掛く。さてチョッキのみになりたるに心付き、床《ゆか》の上にある上着を取上げ着る。娘、傍《そば》に寄る。)なんだ。
モデル。(間の悪気に。)お服が五味だらけになりましたわ。
画家。そんなら、掃いてくれい。(娘、ブラシを探す。画家|卓《たく》を指ざす。)あそこにある。(娘、ブラシを持ち来て服を掃く。間。○戸を叩く音す。画家|高声《たかごえ》に。)お這入んなさい。
画家の姉。(戸を少し開けて透間より。)好いの。
画家。姉《ねえ》さんですか。
姉。ええ。わたしよ。
画家。お這入んなさい、お這入んなさい。(モデル娘は服を掃く手を止《とど》め、気を置くように戸の方《かた》を見る。○ゾフィイは老けたる処女なり。質素なる拵えにて登場。髪は真中《まんなか》より右左に分けいる。容貌《ようぼう》美ならず。されど柔和にて目付|賢気《かしこげ》に情《なさけ》あり。万事察しの好き風なり。後《うしろ》の戸を締め、モデルを見てたゆたう。)好いからずっとこっちへおいでなさいよ。これがマッシャなのです。そら。好く姉さんに話したでしょう。今服の五味を取って貰っていた処です。今日はマルリンクの処へ午餐《ごさん》に呼ばれましたので。
姉。(進み入る。)ちょいちょい覗《のぞ》いて見ようと思うのだけれど、つい御無沙汰《ごぶさた》になってね。(モデル娘に。)今日《こんち》は。(握手せんとす。娘は意外に思うらしく慌ててそっと手を出《いだ》し、一秒間程相手の手を握る。貴夫人の己《おの》れと握手する事はあり得《う》べからざるように思いおるゆえ驚きしなり。さて、艶拭巾を取りて、絵具箪笥の抽斗の、まだ開けある中にしまい、忙がわしく上着を着る。)どこへ呼ばれているのですって。
画家。(手真似にて姉に、寝椅子を指さし示し、自分も藁の椅子を傍《そば》に持ち行《ゆ》き、腰を掛く。)マルリンクの処なのです。
姉。(寝椅子に腰を掛く。)あそこの内では今日よめさんが来るのだというではありませんか。
画家。(半ば見物《けんぶつ》に背を向けて藁椅子に腰を掛く。)それなのです。儀式には厭だから行かないが、午餐だけは断るわけにも行かないものですからね。息子は近頃随分親しくしているのですから、断ると感情を害しますからね。それに午餐といっても極近い親類や友達《ともだち》の外は呼んでないのだそうです。それで燕尾服《えんびふく》にも及ばないといって来た位です。姉さんは近頃どうしているのですか。みんな健康ですか。おっ母《か》さんは。
姉。(微笑む。)実はおっ母さんが様子を見て来いといったから来ましたよ。三日ばかりお前さんが顔を見せないもんだから、心配をなすってね。それにゆうべ夢に見たから、何事かありゃしないかというのですよ。年が寄って病気だもんだから、迷信家になってしまって困りますの。(間。)上元気のようね。
画家。そうですよ。慢性怠惰病という病気は別として。
姉。(微笑む。)まあ、その病気なら命に別条はないでしょう。
画家。(真面目に。)そうさ。しかしある意味においては人を死なすかも知れません。(間。)おっ母さんには、今からマルリンクの処へ呼ばれて行く処だったとそう言って下さい。マルリンクの処ではない。欧羅巴《ヨオロッパ》ホテルです。宴会はホテルであるのです。一体おっ母さんは何をしていますか。
姉。やっぱりいつもの通りですよ。ちょいと。マッシャさんが何か用があるのでしょう。(モデル娘の方《かた》を顔にて示す。娘は上着を着、帽を被《かむ》り、何か用あり気に戸の近くに立ち留りいる。)
モデル。いえ。ただお暇乞《いとまごい》を致そうと存じまして。
画家。(少し腰を上げ、半ば向き返る。)好い好い。また来て貰おう。
姉。さようなら。
モデル。さようなら。御ゆっくりと。(退場。)
姉。あれが名高いマッシャなのね。
画家。(何か物を案じいて、気のなき返事をなす。)ええ。あれがマッシャです。
姉。去年の十一月に、あの大きい画をかいている頃、わたしに、色々話してお聞かせだったのね。
画家。(突然立ち上る。)姉さん。ちょっと御免なさいよ。
姉。ええ。
画家。(忙がわし気に戸口に行《ゆ》き、戸を開け、外に向きて呼ぶ。)おい。マッシャ。(間。梯子《はしご》を下《お》り行《ゆ》く足音留る。)マッシャ。
モデル。(梯子の下より。)ええ。只今《ただいま》。(急ぎ足にて梯子を登る音す。さて、戸の外まで帰り来たる様子なり。)
画家。さっきの事はなあ、己は何んとも思ってはいないよ。いいかい。
モデル。(梯子を駈け登りしため、息を切らしいる様子。)本当にあんまり出し抜けだもんですから、吃驚《びっくり》しましたのと、それにわたしは恥《はず》かしくって。
画家。なに。恥かしかったのだと。何んだ。馬鹿《ばか》らしい。だが好いよ。かきかけたスケッチはあそこにあるし、己の頭の中には印象がはっきりしているのだから。じゃあ明日《あした》来て貰おう。
モデル。(思い掛けぬ喜びの様子。)あの明日《あした》参っても宜《よろ》しいのですか。
画家。(徐《しずか》に。)うむ。午前八時か九時頃に来て貰おう。来られるかい。
モデル。ええ、ええ。
画家。それで好い。さようなら。(戸を閉じて忙がし気に帰り来て、姉に。)姉さん。済みませんでした。少し言い残したことがあったもんですから。
姉。大相《たいそう》勉強するのね。明日《あした》八時からかくなんて。
画家。なあに。どうなるか分りゃしない。ただやって見るのです。マッシャが僕に諫言《かんげん》をしたというようなわけで。ははは。それはそうと姉さんはマッシャに握手をしておやりなさいましたね。大変喜んだようでしたよ。
姉。そりゃあお前の話に好く聞いていたんだから、古い知合《しりあい》のようなんだもの。去年の冬、いろんな事を聞いたのでしょう。まあ、あたりまえのモデルとは違うのね。
画家。そりゃあ違います。
姉。だが、別品ではありませんね。
画家。僕は別品だなんといった事はないでしょう。
姉。(微笑む。)それはありませんとも。それにわたしは丁度あんな風な子だろうと思っていましたの。真面目な、静《しずか》な顔付で、色艶が余り好くなくって。口は何事も堪《こら》えて黙っているという風な、美しい口なのね。額と目とには気高い処がありますね。目なんかは丁度あんな風だろうと想像していましたの。
画家。(詞急に。)そうでしょう。面白い目です。あの目に今日気が付いたのです。(間。)その外の事も姉さんの思っている通りかも知れません。(姉は弟の詞を解《かい》し兼ねたる如《ごと》く、顔を見る。)僕のいったのは、あの娘の心も顔のような風かも知れないというのです。(間。突然。)そうそう。あのロイトホルド君が今に来るのですがね。姉さんはここで顔を合せるのが厭ではありませんか。
姉。いいえ。わたしは構いませんの。
画家。でもあんなに熱心に、姉さんをおよめに貰おうとしていたのを、姉さんが弾付《はねつ》けたのですから。
姉。なあに。ちっともことを荒立てずに断ったのだから、わたしはここで逢《あ》ったって、困りませんの。それにあの方はもう内へは来られないでしょう。おっ母さんが変に思うから。昔風の人の考では、結婚の話をし掛けて、話が破れてしまったものは、それからどんな風にして交際をして好いか分らないんですからね。しかしわたしの考では、そんな風に、因襲がどうにも極《き》めていない場合が、却《かえっ》て面白い関係になるかも知れないでしょうと思いますの。そうではないでしょうか。
画家。こりゃあ面白い。ふん。因襲の外《ほか》に立った関係は面白い。僕なんぞも、そういう関係を求めているようなものです。
姉。人生というものが、そうしたものではないでしょうか。
画家。ふん。
姉。一体人間の真実の交際はみんな因襲の外《ほか》の関係ではないでしょうか。
画家。姉さんは実に面白い人ですね。
姉。笑談《じょうだん》は置いて、わたしがこうやってここへ来るのなんぞも、同じ道理かも知れないでしょう。
画家。姉さんが僕の処へ来るのですか。そんなら僕が弟でなくっても、姉さんはこの画室に来るでしょうか。
姉。そうね。きょうだいでないとして見ると、何んという資格で来たら好いでしょう。
画家。ただ貴夫人として、知合として、友達として。
姉。友達ですか。
画家。ええ。友達になって来て下さるか、どうだか怪しいものですね。
姉。(笑いつつ。)お前の処へなら来るでしょうよ。
画家。(やはり笑いつつ。)まあ、来て下さるものだと思って置きましょうよ。(間。真面目に。)本当に姉さんが来て下さると好いのだが。
姉。(解《かい》せざる様子。)ええ。
画家。実は僕は寂しくって為様がないのです。こないだから姉さんの処へ越して行こうかとも思って見ました。たしか客間が一つ明いていたでしょう。それともここで寂しいと思うのは、あんまり家が広過ぎるせいかも知れません。兎《と》に角《かく》姉さんとおっ母さんと僕と一しょに住《すま》って見るという事が、出来ない事もあるまいと思うのです。晩にでもなれば誰《たれ》か本でも読んで、みんなでそれを聞いたって好いでしょう。燈《あかり》を点《つ》けて本を読むのが目に悪けりゃあ、話をしていたって好いわけです。誰かが纏《まとま》った話をして、みんなで聴いても好いでしょう。事によったら黙っていたって一人で黙っているよりは好かろうじゃありませんか。実際僕は折々そんな風にみんなと一しょになっているような心持になるのですよ。(疑念を挟《さしはさ》むらしき姉の目付を見て言い淀む。)ふん。
姉。お前がそんな風に一しょにいる処を想像するのは、わたし共と一しょというわけではなくって、誰か外の人と一しょにいるような夢を見ているのではあるまいかね。
画家。(驚きたる様子。)姉さん達と一しょでなくって、誰と一しょにいる事が出来るでしょうか。
姉。それはお前はお前で因襲の外《ほか》の関係が出来るかも知れないじゃないか。
画家。(手にて拒む如き振《ふり》を為《な》し、暫く間《ま》を置き、温かに。)僕は幾らか姉さんの助《たすけ》になりたいと思うのです。
姉。(甚だ意外に思うらしき様子。)何んですって。わたしを助けるのですって。
画家。でも姉さんが、朝から晩までおっ母さんに付いていて世話をするのは、随分苦しいでしょう。長年の事だから。何んでも年寄というものは、どんなに世話をしても、それを難有《ありがた》いなんぞと思ってはくれないものです。それに病気ででもあると癇癪《かんしゃく》を起して無理な事もいうでしょう。随分つらかろうと、僕だって察していますよ。
姉。お前がそうお言いなら、わたしは打明けてお前に言いましょうがね。実はわたしがおっ母さんの世話をするのも、因襲の外《ほか》の関係なので、わたしは生涯をその関係に委《ゆだ》ねたというものかも知れませんよ。(画家不審らしき顔をなす。姉は沈みたる調子にて言い続く。)実はね。おっ母さんというものには、とうに別れてしまったかも知れないのですよ。そしてわたしはある縁のない人に出くわしたのね。その人が人手を借《か》らなくってはどうする事も出来ない、可哀相《かわいそう》な人だもんだから、わたしはその人に世話をしてやって、その人のためには、わたしがいなくなっては、どうもならないような工合になったのね。晩方《ばんかた》に窓掛を締めてやれば、その人のためには夜になり、午前《ひるまえ》に窓の鎧戸《よろいど》を明けてやれば、その人のためには朝になるでしょう。物を喰《た》べさせるのも、薬を飲ませるのもみんなわたしの手でするのでしょう。わたしの本を読んで聞かせる声に賺《すか》されて、寝る時は寝るでしょう。そういう風にその可哀相な人はわたしに便《たよ》るのだから、わたしはまたその人の助《たすけ》になるのを自分の為事にしているのです。それが今お前に言われて見れば、わたしのおっ母さんなのね。
画家。(姉の方《かた》へ手を差伸べて温かに。)ええ、それがお互のおっ母さんだというわけですね。
姉。(弟の手を握りて、互に目を見交す。○間。)こんな事をいってぐずぐずしていてはおっ母さんが待遠《まちどお》に思うでしょう。
画家。それではロイトホルド君には逢わないで帰るのですね。
姉。そう。あんまり遅くなるからね。(間。)あの人は度々お前の処へ来ますの。
画家。なにあんな風で、交際|好《ずき》というわけではないでしょう。それだからめったには来ないが、今日は誘いに寄るといっていたのです。
姉。マルリンクの一|家《け》とも附合《つきあ》っていると見えるね。
画家。そうさね。マルリンク男爵の友人というよりは、息子のロルフの友人といった方が好い位でしょう。時代が違って男爵とは話が合いそうもないのですから。
姉。そうでしょうとも。この頃のように人の思想が早く変ることはないのだから。
画家。実にそうです。勿論《もちろん》青年社会の思想というのは。(戸を叩く音す。)はてな。ロイトホルド君かも知れない。お這入んなさい。ああ。そうだった。
医学士ロイトホルド。(登場。痩《や》せて背の高き男。)もうそろそろ出掛けても好いでしょう。(ゾフィイを見て、暫くは近眼《きんがん》のために、誰とも見分かず、忽《たちま》ちそれと知りて。)いや。失礼しました。ご機嫌よろしゅう。
姉。(医学士に進み近付き握手せんとす。)暫らくでございましたね。只今弟と、あなたなんぞは旧思想の人だろうか、新思想の人だろうかと、お噂《うわさ》をいたしていたのでございます。
学士。(ゾフィイと握手す。次に画家と握手し、鼻眼鏡《はなめがね》を外しつつ。)どっちでもありませんよ。強いてどっちかに入れなければならないとなりますれば、旧思想の方へ入れてお貰い申しましょう。わたくしなんぞの考《かんがえ》では、一体新思想というものが、もう纏《まとま》って出来ているかどうだか、も少し待って見なくては分らないと思うのですから。
姉。へえ。なぜでございましょう。
学士。わたくしの考では、破壊せられた旧思想が、随即《やがて》新思想だとは認められないように思うのですよ。
画家。それでも君も旧思想が取片付けられてしまうということだけは認めているのですね。
姉。そしてそれを取片付けるのが当然だということも認めていらっしゃるのでしょう。
学士。そうなると、一度にはちっと問題が大き過ぎますね。事によったら骨を折って旧思想を破壊するのも徒労ではないかと思うのです。なぜというのに、折角旧思想を取片付けてしまっても、その跡の、石瓦《いしかわら》に覆われた地面の上には、新思想は芽ざして来ないかも知れませんから。新思想の生えて来るには、何処《どこ》か別に新しい地面が入《い》るのではないでしょうか。
姉。それではあなたは、この世界にまだどこか人の手の触れない新しい土地があるように思っていらっしゃいますの。
学士。ええ。もし人の手の触れない土地がもうないという段になれば、それは新しい土地が海の中から湧《わ》き出ても好いでしょう。
画家。君は詩人ですね。
学士。そうですね。詩人なら、君なんぞの読まない旧派詩人でしょう。
画家。いや。僕は新派も旧派も読みませんよ。妙な工合で、僕も誰かの句が気に入って覚えていることはあるのです。それがロオマンチックの詩人であったり、デカダンであったりするのです。仏蘭西《フランス》、伊太利《イタリア》、独逸《ドイツ》、露西亜《ロシア》、どの国のものだか分らなくなることもあるのです。気に入った句は、どの詩人のでもみんな一人で作ったもののように、僕には思われるのです。
学士。そりゃあ、それも一理ありますよ。どの詩人の背後にも唯一の詩人がいるのでしょうから。
画家。ふん。神だというのですか。
学士。君はそれを神と名附けますか。
画家。(答に窮する様子。)僕には分りませんなあ。(間。)
学士。(時計を見る。)しかしもう時刻が。
画家。(目の覚めたる如く。)そうだそうだ。もう遅くなる。君、車が下に待たせてありますか。
学士。待たせてありますよ。
画家。それじゃあ、ちょっと腰を掛けて待っていて下さい。姉さん。ロイトホルド君にその紙巻の箱を上げて下さい。箱のある処は分っているでしょう。僕は直ぐ来ますから。(急ぎて寝間に入《い》る。)
姉。(凭掛りの椅子を示す。)どうぞお掛けなすって。お莨を上りますか。
学士。いえ。只今は頂戴《ちょうだい》いたしますまい。食事|前《ぜん》ですから。(ゾフィイは藁椅子を持ち来て腰を掛く。学士はその椅子を自分にて持ち来らんとして馳《は》せ寄る。)御免下さい。うっかりしていました。
姉。どう致しまして。わたくしはいつも自分の体の事は自分で致すのですから。(藁椅子に腰を掛く。学士は椅背《きはい》に寄りかからずに、背を真直《ますぐ》にして腰を掛く。○間。)あなたマルリンク家とお心易《こころやす》くしていらっしゃいますの。
学士。そうですね。古い知合という程度ですよ。年を取った男爵は、わたくしの医者としての職業上で、よほど前からわたくしと交際していられるのです。それから今度嫁に来られるお嫁さんのお里もわたくしは知っています。
姉。それでは御縁組のある両家ともお知合なのですね。それなのに儀式にはいらっしゃらなかったのですか。
学士。いや。わたくしは婚礼の席へ行くのは大嫌《だいきらい》です。
姉。気味の悪いようにお思いなさるのでしょうか。
学士。そうですね。何んだかこう角立《かどだ》って、大業《おおぎょう》に見せるのが不愉快なのです。
姉。それではあなたのお考《かんがえ》では、婚礼というものは、こっそりいたした方が宜しいのですね。
学士。ええ。なるべく目に立たないようにしたいものです。葬《とむらい》の方なら、少しは盛大にしたって好いのです。死人を嫉《ねた》むものはありませんから。
姉。それはそうでございますね。死人なら誰も嫉みは致しますまい。そういうお心持は分りますわ。
学士。どうお分りですか。
姉。あなたは生活がお好《すき》なのでしょう。
学士。(微笑む。)兎に角生活していますよ。
姉。それだけで沢山です。兎に角あなたは旧思想の方《かた》ではございませんのね。
学士。(微笑む。)それでは旧思想の人は生活していないと仰《おっし》ゃるのですか。
姉。(たゆたいつつ。)それは同じ生活しているといっても違いますわ。
画家。(外套《がいとう》を着、手に帽と手袋とを持ち登場。)さあ。行きましょう。

    (学士立つ。)

姉。遅くなりはしなくって。
画家。なあに。四五分で行かれるのだから。
姉。(学士に。)そんなら、御機嫌宜しゅう。もっとお話が伺いたかったのですが、為様がございませんね。事によったらまたここで偶然お目にかかれるかも知れませんね。
学士。そんな偶然な事があっても、あなたは御迷惑ではございませんか。
姉。いいえ。どう致しまして。それに偶然というものもつまりは法則があって出来るのではございますまいか。
学士。それであなたは法則というものを尊《たっと》んでいらっしゃるのですね。
姉。ある法則には服従しますわ。言って見れば。
学士。言って見れば。
姉。言って見れば、友誼《ゆうぎ》の法則なぞがそれですね。(学士と握手せんとす。)
学士。(十分の敬意を以《もっ》て、ゾフィイの手に接吻《せっぷん》す。)今日《こんにち》は色々お話を承って為合《しあわ》せを致しました。
姉。それではそのうち。
学士。ええ。またお目にかかりましょう。
画家。まあ、兎に角梯子段の下までは一しょに行きましょう。さあ。(戸を開き、姉と学士とを出《いだ》しやり、自分も続いて退場。○舞台は一二分間空虚になりおる。さて外より戸を開け、先にモデル娘、続いてウェエベルの上《かみ》さん、箒《ほうき》、バケツ、雑巾《ぞうきん》を持ち、登場。)
モデル。(快活に。)さあお上さん。家番《やばん》のおじさんが鍵は持ってるだろうと思ったが、その通りでしたね。構わないからお這入りなさいよ。(手早く帽とジャケツとを脱ぎ捨て、大いなる白の前掛を取出《とりいだ》して掛く。)大急ぎでやらなくっちゃあ、駄目ですよ。まだ二時間は日があるでしょう。そのうちにあらまし片付けてしまわなくちゃならないからね。さあ。この煖炉の処から始めて下さいよ。
上さん。(のろのろと。)はい、はい、もう大分遅いからね。それに随分広い部屋だ。一体あしたの朝ゆっくりにした方が好かったのに。
モデル。(じれった気に。)そんな事をいうのではないよ。あすの朝は綺麗《きれい》になっていなくちゃならないのだから。
上さん。(襷《たすき》を掛く。)なるほどね。(掃除道具を運ぶ。)あしたは御祝儀でもあるのですかい。
モデル。(さっさと為事にかかり、卓《たく》の上を片付けつつ、にこやかに。)ええ、ええ。あしたはお目出たい日なのよ。
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     第二場

    翌朝《よくちょう》。画家は楽気《らくげ》に凭掛《よりかかり》の

    スケッチの手帳を繰拡《くりひろ》げ、見ている。戸を叩《たた》く音
     《おと》す。

画家。お這入《はい》んなさい。
モデル。今日《こんち》は。
画家。マッシャか這入れよ。(モデル急がし気《げ》に入《い》る。画家はやはりスケッチの手帳を引繰返しつつ。)為事《しごと》は今日は駄目だよ。)
モデル。(驚きたる様子。)おや。
画家。(微笑《ほほえみ》。)実際駄目なのだ。それとも己《おれ》の顔はやっぱり作業熱のある顔に見えるかい。
モデル。そうではありませんけれど。
画家。処《ところ》で。
モデル。兎《と》に角《かく》愉快らしい顔をしていらっしゃるわ。
画家。そりゃあそうさ。愉快な事があったのだ。
モデル。きのう。
画家。うむ。しかも遅くなってからだ。思いかけない事もあるものさ。
モデル。そんなにお嬉《うれ》しい事なの。本当でございますか。
画家。うむ。本当だよ。
モデル。わたしの骨折《ほねおり》なんかは、なんでもございませんわ。(画家は何《な》んの事か、分らぬらしく、娘の顔を見る。娘は間《ま》の悪気《わるげ》に。)何んでもございませんの。今日はお為事におかかりなさいますかと思いましたので。
画家。そこで。
モデル。お部屋を綺麗《きれい》に致しましたの。しかし造做《ぞうさ》もない事でしたわ。
画家。(驚きて四辺《あたり》を見廻《みまわ》す。画室の塵《ちり》一本もなきように綺麗に掃除しあるに心付く。)うむ、なるほど。
モデル。ちっともお気がお付きなさらなかったの。
画家。(娘の顔の甚しき失望を表わせるに心付きて詞《ことば》急に。)うむ。うむ。お前の掃除をしてくれたのも思いかけない事には相違ないのだ。よくやってくれた。難有《ありがた》いよ。
モデル。(画家の方に背中を向け、余所余所《よそよそ》しく。)どう致しまして。
画家。丁度|好《よ》かったのだ。今日は愉快な事があるのだから。
モデル。それではやっぱりお始めなさいますの。(画家の方へ向き直る。)
画家。為事なんぞはしない。お客があるのだ。
モデル。え。
画家。ある貴夫人が見えるのだ。
モデル。え。
画家。お嬢さんだ。
モデル。その方をおかきなさるの。
画家。そうさね。かくかも知れないよ。(思に沈む。)実にきのう程妙な日はない。お前の事だから、話して聞かせよう。お前は急がしくはないのだろう。
モデル。いいえ。`別に用事はございませんの。
画家。そんなら腰でも掛けないか。(娘はやはり立ちいる。)まあ、考えて見ても知れるだろう。宴会なんというものは随分つまらないものなのだ。儀式張っていて、退屈で。おまけに婚礼の宴会と来ては堪《たま》らない。馬鹿《ばか》な演説が沢山あるだろう。とんちんかんな事だらけで、可笑《おか》しくもないのに笑ったり何かしているのだ。勿論《もちろん》そんな事だという事は初めから分っていたのさ。だが己は少し気が浮々して来たもんだから、むちゃくちゃに饒舌《しゃべ》っていたのだ。そうすると思いかけない事に出合ったよ。
モデル。その思いかけないと仰《おっし》ゃるのは。
画家。うむ。己の話の分ってくれる女がいたのだ。心《しん》から分るのだ。言筌《ごんせん》を離れて分ってくれるのだ。己の言う意味が分るかい。己とその女とは初めて顔を見合ったのだ。人に面倒な紹介をして貰《もら》ったわけじゃあない。あらゆる因襲を離れて出し抜けに出合ったのだ。人間と人間とが覿面《てきめん》に出合ったのだ。どんな工合《ぐあい》だか、お前には中々《なかなか》分るまい。食卓を離れてから、その女と隅の方へ引込んで、己は己の事を話す。女は女の事を話したのだ。何んでも、大体はお互に知り合っていて、瑣末《さまつ》な事を追加して話すというような工合さ。何んでも、万事いわなくっても先へ知れているという工合なのだ。妙じゃあないか。
モデル。(無理に微笑む。)それは随分ね。
画家。え。
モデル。随分珍らしい事というものでございましょうね。
画家。大抵一人の人間に打《ぶっ》つかろうというには、色々な準備が、支度が入《い》るものなのだ。初めの内は誤解もするし、怒《おこ》るような事もあるし、場合に依《よ》っては誰《たれ》か死ななくては目ざす人に近寄られないというような事さえある。人の心に取入るには、強盗に這入るような事をしなくてはならない。人の防禦《ぼうぎょ》しない折を狙《ねら》っていて、奇襲をやらなくちゃあならない事もある。どうかしたわけで、先方が門の戸を開けているのを見計らって、そこへ急に、乱暴に闖入《ちんにゅう》しなくちゃあならない。それにきのうなんぞの工合といったらないのだ。門戸は十字に開いてある。そこへ己が飛込んだのだ。そして。(娘の方を見る。)何か言ったのかい。
モデル。いいえ。そんな事がございましたら、どんなにか嬉しい事でしょうね。
画家。そりゃあ嬉しいさ。平然として人の腹の中に這入って行くのだ。風雨を冒して、冒険的に近付くのではない。平和のままで這入って行くのだ。自然にそうなくてはならないような工合に、青天白日に這入って行ったのだ。
モデル。へえ。
画家。分るかい。
モデル。(無理に微笑む。)少しはお察し申す事が出来ますの。
画家。(微笑む。さて、うっとりとして。)そうだろう。好くは分るまいな。己が無暗《むやみ》に饒舌《しゃべ》るから。しかし己はきのうの工合を自分の口でいって見て、その詞を自分の耳に聞いて見たいのだ。お前がそこで聴いていてくれなくても、己は一人で饒舌《しゃべ》りたい位なものだ。
モデル。(悲し気に。)それではわたしが承《うけたまわ》っていましても、お邪魔にだけは成りませんのね。
画家。なになに。(何か深く思うらしく。)そんな風に平和のままで相手の人間に近付くと、どの位の利益があるか分るかい。そういう時でなくっては、相手の人間の真実の処は分らないのだ。
モデル。真実の処ですって。
画家。そうさ。その人を買被《かいかぶ》ったり、見そこなったりしないで。
モデル。(何か物を思うらしく。)そうでこざいましょうとも。(詞急に。)そんな時にお感じになった事は間違いこはないと思っていらっしゃいますの。
画家。間違いこはないとも。きのう出し抜けに話合ったのを、お互に自然のように思うのと同じ事で、これから先一しょに生活して行く事をもお互に自然のように思うに違ない。
モデル。(驚《おどろき》を自《みずか》ら抑えて、詞急に。)そして、そのお嬢さんもあなたにすっかり身の上を打明けてお話しなさいましたの。
画家。うむ。跡になってすっかり話したのだ。初めに己が洗い浚《ざら》い饒舌《しゃべ》ってしまって、それから向うが話し出した。まるでずっと昔から知り合っている中《なか》のように、極親密に話したのだ。子供の時の事も聞いたし、双親《ふたおや》の事も聞いた。双親とも亡くなって、一人ぼっちなのだそうだ。あんな風になったのも、そのせいかも知れなかったよ。
モデル。あんな風と仰ゃるのは。
画家。不思議に打明けるようになったのが。
モデル。そのお嬢さんが一人ぼっちでいらっしゃったからだと仰ゃるのね。
画家。うむ。丁度己のように一人ぼっちでいたのだから。
モデル。あなたのようにですって。
画家。(微笑む。)そうさ。己のように一人ぼっちなんだ。ふん。お前のようにといっても好《い》いかも知れない。お前だって一体一人ぼっちなのだろう。
モデル。(無理に笑う。)わたしですか。わたしは随分お友達《ともだち》がございますわ。
画家。(娘の笑うのに、ほとんど気付かざる如《ごと》く。)ほんにあんな事があるという事をきのうより前に己にいうものがあったら、己だって信じはしなかったんだろうよ。(立ち上る。)
モデル。(また悲し気になる。)そうでございますね。きのうまでは夢にも心付かない事があるものでございますね。
画家。そうさ。人生はそうしたものだ。そこが人生の美しい処なのだよ。思いがけない処がなあ。(間。)
モデル。わたしのお父《とっ》さんがよくそう云《い》いましたっけ。思いかけずに死ぬるのが一番美しい死ですって。
画家。(娘の顔を見る。)何んだってそんな事を思い出したのだ。
モデル。つい思い出しましたの。
画家。お前にはそんな暗黒面でない、光明面の思い出はないのかい。
モデル。(何か言わんとして止《や》め、詞急に。)しかしわたしはもう。
画家。もう行くのかい。またおいでよ。
モデル。(二三歩|行《ゆ》きかかりて戻る。)もう当分伺いませんわ。
画家。なぜ。
モデル。でも当分御一しょの。(間。)あなたのお為事はだめでしょう。
画家。(娘の方を見ずに窓の処に行《ゆ》く。)うむ。そりゃあお前の言う通りかも知れない。(突然|活溌《かっぱつ》になりて二三歩前の方へ出《い》で、独言《ひとりごと》。)そのくせゆうべヘレエネと話しているうちに直《すぐ》にでもかき始められるように思ったのだが。(娘に。)己はそのお嬢さんに、己の絵の事をみんな話したのだ。
モデル。それでは去年の十一月におかきになった画《え》の事もお話しなさいましたの。
画家。それも話した。しかしおもにこれからかく分の事を話したのだ。今までかいた絵の事は向うにみんな知れているんだから。(娘不審気に画家の顔を見る。)そういっては分るまいが、己の既往の事が向うにみんな分ったのだから、己のかいた絵も、それがどんな絵か、どんな感情の絵かという事は向うに知れているのだ。熱心に、大急ぎで、切れ切れに話すうちに、何もかも不思議に向うに分ったのだ。しかしさっきも云う通り、主《おも》に話したのは未来にかく絵の事だ。それは是非話さなくてはならなかったからな。
モデル。(小声に。)よくまあそんなに何もかも一度にお話しなさる事が出来ましたのね。
画家。そうさ。そのうちにこんな絵があったよ。移住者という題なのだ。広い、平《たいら》な畠《はた》がある。収穫の後《のち》だ。何んだかこう利用してしまった土地というような風で、寂し気に、貧乏らしく見えている。そこを人が立ち去る処なのだ。一|群《むれ》の人がぴったり迫《せ》ぎ合って入日の方に向いて行くのが、暗い形に見えるのだ。多くは自分の輪廓《りんかく》に圧《お》されているように背中を曲げている。その事を話すとお嬢さんが云ったっけ、地平線に行って山にでもなってしまいそうな風に歩いて行くのでしょうねと云ったっけ。実によく呑込《のみこ》めたものだ。己の思っている人物は地平線の方に行って山になってしまいそうな形《かたち》に相違ない。(間。)それから、も一つこんな絵の事を話したっけ。画題は基督《キリスト》というのだ。己がその事を言い出すと、半分いわせずにお嬢さんがそういったっけ。人物ではないでしょう。風景でしょう。期待が当来を知らせるのでしょうと、そういったっけ。おい。マッシャ。かけるような気分に早くなって見たいなあ。(両手を拡げて未来を掻《か》き抱《いだ》く如き振《ふり》をなす。)
モデル。そうですね。実行が一番難しいのですね。
画家。そうだて。やる時は暴力でやるのだ。その日の朝だって、あたりまえの朝と変った事はないのだ。詩人なら机に向く。画かきなら画架に向く。そして出し抜けに未曾有《みぞうう》の事を決行するのだ。一体は沈黙の内でなくては思量せられないはずの事を、言語に現わし色彩に現わすのだ。言語で言えば、丁度熱心に、大声で、息をはずませて、人が千人も前に立っていて、その詞を飢えたものが麪包《パン》を求めるように求めている積《つもり》で、語り出すような工合に。
モデル。(ほとんど聞えざるほどの小声にて。)千人の人が待っているより、もっと切に待っているものがございますの。
画家。でもお前なんぞにはよくは分るまい。(疲れたる如く、手を額に翳《かざ》す。)
モデル。(徐《しずか》に。)それはどうせよくは分りませんわ。
画家。もう行くかい。(絵具入《えのぐいれ》の箪笥《たんす》に歩み寄り、紙巻を一本取りて火を付く。)そんなら暫《しばら》く合わないかも知れないよ。ヘレエネがもう来るはずだ。お前に用がある時が来れば、そういってやるよ。
モデル。わたしに御用がおありなさる時と仰ゃるのですね。
画家。うむ。葉書をやるよ。(握手せんとして手を差伸ぶ。握手。)冷たい手だな。(初めて気の付きたる如く顔を見る。)今日は大変に血色《けっしょく》が悪いよ。ゆうべ寐《ね》なかったのかい。
モデル。ええ。少ししきゃあ寐ませんでしたの。
画家。(握りたる手を放し、上《うわ》の空《そら》にて。)相変らず踊やなんぞで夜を更かすのかい。
モデル。(悲し気に。)ええ。年が年中ですわ。
画家。(笑う。)ふん。体が台なしになるよ。さようなら。
モデル。さようなら。(急ぎ足に退場。)
画家。(為事机の前に立ち、紙巻を喫みながら、部屋の内を見廻す。娘が戸を開くる時、詞急に。)おう。掃除をしてくれたのに礼も直《ろく》に言わなかったっけ。それから何んだっけ。何時頃《なんどきごろ》にこの前を通るかい。
モデル。ここを通るのですか。お午《ひる》にはおっ母《か》さんの処へ帰るのですから、もう二時間もすれば通りますわ。
画家。二時間と。丁度好い。その時少し花を買って来てくれないか。どうだ。そうしてくれるか。
モデル。(たゆたいつつ。)何んの花でございますの。
画家。さっき話したお嬢さんに上げるのだ。己の処には何んにもありゃしない。自分で買いに行くと、留守に来られるかも知れない。ここの婆《ばあ》さんを頼んで使にやると、お極《きま》りでにおいあらせいとうを買って来やがる。花といえばきっとあれを買うのだ。まるで固定妄想《こていもうぞう》だ。何か気の利いた花を見立てて買って来てくれないか。どうだい。
モデル。(小声に。)薔薇《ばら》ではどうでしょう。
画家。何でも好い。お前ならとんちんかんな事はしないから。お嬢さんは丁度お前位のブロンドな髪をしているのだ。その積《つもり》で見立ててくれい。
モデル。それでは髪に挿す花ですね。
画家。(じれった気に。)髪に挿されれば、挿させても好いのさ。つまり花が上げたいのだ。(間。娘|行《ゆ》かんとす。)それからなあ。ついでに少し果物を取ってきてくれい。春ばかりでは物足りない。夏もいるからなあ。柑子《こうじ》が好い。よく真赤《まっか》に熟したのを買ってきてくれい。南国の甘い夏を包んでいるような柑子が好い。頼むよ。二時間ほどすれば来るんだな。
モデル。ええ、ええ。それでは花と柑子ですね。(戸を開《ひら》く。)
画家。持って来たらな。構わずにずっと這入って来いよ。お嬢さんを見せてやるから。
モデル。(やや敵対の語気にて。)わたしがお目にかからなくちゃあならないのでしょうか。
画家。なぜ。己が見せたいのだから、好いじゃあないか。
モデル。ええ、ええ。それでは花と柑子とを持って参りますよ。
画家。うむ。さようなら。(娘退場。画家はゆるやかに部屋の内をあちこち歩《あ》るきいる。折々ある絵の前に立ち留まりて、何を思うともなしに絵を見る事あり。また暫く歩きて、突然為事机の傍《そば》に寄り、机の上の物を上を下へといじり廻し、終りに壁に掛けたる袋の中よりブラシを見出《みいだ》して手に取り、上着の塵を払う。戸を叩く音す。画家は忙《いそが》わしく一《ひと》はけ二《ふた》はけ払いて、ブラシを投げ捨て、大股《おおまた》に、二三歩にて戸の処に行《ゆ》き、呼ぶ。)お這入りなさい。
令嬢ヘレエネ。(上品なる散歩服。極めて気高き態度。ブロンドなる髪。令嬢には少し老けたる年配。○画家は暫く詞無く、令嬢の顔を凝視す。)もうお見忘れなさいましたの。
画家。(急に物狂おしく。)ヘレエネさん。お待ち申していました。
令嬢。(画家が握手せんとして手を差伸ぶるを見て、徐《しずか》に右だけの手袋を脱ぎ、指輪を嵌《は》めたる、細長き、優しき手を出《いだ》す。握手。)わたくしには、あなたという事が直《すぐ》に分りましたの。
画家。でもお分りにならないはずはないではございませんか。
令嬢。しかし昼間お目にかかるのは初めてでございますからね。
画家。(少し我に返りて。)ほんにそうですね。実は少し面喰《めんくら》ったのです。どういうわけだかあなたはきっとヴェエルを被《かむ》っていらっしゃるはずのように思っていたもんですから。
令嬢。そうでございますか。こんな風な訪問を致す時はヴェエルを被《かむ》るものでございましたかねえ。
画家。そんな事をいっちゃあいけません。ただ何がなしにそんな気がしていたのです。
令嬢。御心配なさらなくっても、ようございますよ。わたくしの這入って参ったのは、誰も見てはいませんでした。
画家。(間の悪気に。)わたしはそんな事は何んとも思ってはおりません。さあ。どうぞ。(部屋の中へ入《い》れと勧むる振《ふり》を為《な》す。)
令嬢。(笑いつつ。)も少しで余所余所しくお嬢様とでも仰ゃりそうな処でしたね。そうでしょう。(歩み近付く。)
画家。いや。どうも。
令嬢。お嬢様、どうぞこちらへお通りあそばしませとでも仰ゃりそうでしたのね。(手近なる椅子に腰を掛く。)
画家。(真面目《まじめ》に。)ほんにそんな事を言いかねない処でした。
令嬢。(滑稽《こっけい》に。)やれやれ。もうお互の中《なか》もそこまでになりましたかね。(二人とも笑う。)
画家。莨を上るでしょう。(紙巻の箱を出《いだ》す。)
令嬢。(紙巻を一つ取りつつ。)今日ばかりの事ですから、やっぱりヘレエネと、名を仰ゃって下さいまし。
画家。(驚きたる顔にて相手を見る。)今日ばかりとはどういうのです。あしたからはどうなるのです。
令嬢。あしたからでございますか。(間。)火を下さいまし。どうぞ。
画家。(手を動かさずに。)それでもどういうわけで。
令嬢。おやおや。自分で莨も付けなくちゃあならないのでございますのね。
画家。(慌ててマッチを付けて出《いだ》す。)どうぞ堪忍して下さい。(忽然《こつぜん》何物をか認め得たる如く。)ヘレエネと呼べというのですね。事によったらあなたは本当はヘレエネとは仰ゃらないのではないのでしょうか。
令嬢。(莨を試るように喫む。)いいえ。全くヘレエネというのでございますよ。
画家。そうですかねえ。どうも。
令嬢。あなたは莨を上りませんの。それにまあ兎に角お掛けなさってはどうでしょう。
画家。(急に腰を掛く。)さあ掛けました。
令嬢。(微笑む。)それでお楽《らく》ですか。
画家。(笑う。)楽ですとも。
令嬢。(徐《しずか》に部屋の内を見廻す。)ようございます事ね。
画家。何がです。
令嬢。この部屋が好いと申すのでございます。こういう処でどんな風にして絵をかいていらっしゃるというのが、想像が出来ますわ。(莨を捨て、両手を差伸べ、温《あたたか》に。)本当にわたくしは、このお部屋を拝見いたすのを、昨晩から楽《たのしみ》に致して参りましたのでございますよ。あなたのお身の廻《まわ》りにあるこんなものを残らず。
画家。(踊り上る。)本当ですか。
令嬢。(徐《しずか》に。)ええ。舞台を拝見しなくてはと思いましたのでございます。
画家。舞台とは。
令嬢。あなたとわたくしとの生涯を送った舞台の跡を拝見いたしたいと存じまして。
画家。生涯ですと。
令嬢。きのう一日に縮めた生涯と申すのでございます。
画家。まあ、何んという妙なお詞でしょう。
令嬢。(両手にて取りいたる画家の手を放し、椅子の背に寄りかかる。)わたくしの申す詞は明瞭《めいりょう》でないかも知れませんが、それは御勘弁あそばさなくてはいけません。言語というものはこういう風な事を言い現わすように出来ていないものでございますから。
画家。どうしたというのです。
令嬢。あなたは今日お互に顔を合せてどう致すと思召《おぼしめ》していらっしゃいましたの。
画家。どうすると言ったって知れているではありませんか。あなただって同じ事でしょう。
令嬢。わたくしには分っていますの。ただ伺いたいのは、あなたがどう思っていらっしゃったかという事でございますの。
画家。わたしはただ今日から二人の生涯が始まると予期していたばかりです。
令嬢。その始まる生涯と仰ゃるのは。
画家。あなたとわたくしとの、これから渡って行く生涯です。
令嬢。おや。それではあなたはもう一遍二人の生涯を生きて見ようと仰ゃいますのでございますか。
画家。なるほど。そういえば、きのう一つの生涯を送ったと見做《みな》せば見做されない事はないでしょう。もしきのう一つの生涯が済んだなら、その済んだ生涯を続けて、押し広めて行かなくてはならないでしょう。それが本当に生きるというものでしょう。
令嬢。まあ。もう一|度《ど》生きられるものだと思召していらっしゃるの。
画家。(一歩退く。)ふん。どう思っておいでなのですか。
令嬢。でも二人が生涯にする程の事は、何もかもきのう致してしまったのではございますまいか。(画家は相手を凝視しいる。令嬢は相手の目の内に現われたる怪訝《かいが》、恐怖を排し去らんとする如く、拒む手付を為して。)御覧なさいまし。只今《ただいま》のあなたの恐しくお思いあそばす、そのお心持《こころもち》が、丁度昨晩のわたくしの心持と同じなのでございますよ。丁度只今のあなたのように、昨晩はわたくしが恐しく存じましたの。
画家。(張《はり》のなき声にて、ようよう。)恐しく。
令嬢。ええ。恐しゅうございました。あなたが少しもお立ち留りなさらずに、わたくしを引き摩《ず》って、空《そら》を翔《か》けるような生活の真中《まんなか》へ駈込んでおしまいなさったのですもの。過去も、現在も、未来も一しょになって分らないような生活の中へ、燃え上っている大きな焔《ほのお》の中の薪《たきぎ》のように、わたくしはあなたが用捨《ようしゃ》もなく、未来に残して置かねばならないはずの生活までを、ただ一刹那《いっせつな》の中に込めて、消費しておしまいなさるのを、どんなにか惜く思いまして、あなたのお手に縋《すが》ってお留《と》め申したいように存じましたが、致し方がございませんでした。わたくしの心持では、こう申したいのでございました。まあお待ち下さいまし。ここで、この場でそうまであそばさない方がようございましょう。そんなに一息に何もかも過ぎ去らせておしまいなさいますな。まだこれから生きなければならないのでございますからと、そう申してお留め申したかったのでございます。それにあなたはどうしてもお聞きあそばさなかったではございませんか。そして無理にわたくしを引き摩って、先へ先へと駈けていらっしゃいましたでしょう。何もかも残さずに、総《すべ》てを得なくてはならないという風に。(詞を緩め、悲し気に。)それだもんでございますから、とうとうわたくしはあなたに総てを捧げてしまいましたの。
画家。(一瞬間令嬢を凝視し、突然その膝《ひざ》に身を投げかけ、両手を肩に掛け、抱《いだ》き付きて叫ぶように。)ああ。ヘレエネさん。
令嬢。(両手の間に画家の頭を挟みて抑え、目と目を見合せ、一瞬間極めて真面目になりいて、さて詞ゆるく、極めて悲し気に。)これでとうとうお別も致しましたのね。(間。)
画家。(忽然、激しく愉快を感じたる如く、一層厳しく抱《いだ》き付きて。)これきりだなんて、ひどいではありませんか。あんな大勢の人の中で話をしたきりで、お互の生涯が済んだと見做されるものですか。まあ。考えて見て下さいよ。
令嬢。(優しく。)それでも済んだものは済んだのでございますから、どう致す事も出来ませんわ。あんな席で、人の中ではございましたけれど、あなたがそうあそばすものでございますから、わたくしの心の底の底まで明放して、わたくしのあなたに捧げられるだけのものは捧げてしまったのでございますの。(画家|徐《しずか》に手を放す。)あなたの感情の猛烈な処も、お優しい処も、みんなわたくしには分っていますの。それですから、どんな事をあそばしたって、意外だなんとは存じませんわ。ただ一刹那の間《あいだ》ではございましたけれど、あなたはただ手と手とが障ったばかりで、わたくしを裸体《らたい》にしてお抱《だ》きあそばしたのでございますよ。
画家。(煩悶《はんもん》して。)どうぞ堪忍して下さい。
令嬢。(画家の方へ俯向《うつむ》く。)わたくしはそれを後悔なんか致しませんの。わたくしのためにも大きい幸福でございましたわ。本当に嬉しいと存じましたわ。
画家。(顫《ふる》いつつ仰ぎ見て、頼むように。)ヘレエネさん。(令嬢の膝の上に俯伏す。)
令嬢。(画家の髪を撫《な》づ。)本当にわたくしは何もかもあなたに縦《ゆる》してしまいましたの。ただ二人の間に子供を持つ事が出来ないばかりでございますわ。(画家|欷歔《ききょ》す。)あなたがそうしておしまいなさったのでございますから、為様《しよう》がございませんわ。
画家。(小声にて。)それでも。
令嬢。ええ。
画家。どうしても今一|度《ど》、現実の世界で。
令嬢。いいえ。それは致さない方が宜《よろ》しゅうございますの。無理に致しましても、その製作は失敗に終りますわ。
画家。ああ。
令嬢。あなたにはそんな心持は致しませんですか。わたくし共二人は、遠い遠い無人島《むにんとう》で、何年も何年も暮しましたのでございますわ。
画家。(頭《あたま》を擡《もた》ぐ。)はあ。
令嬢。そして愛の限りを味わって幾度《いくたび》も幾度も接吻《せっぷん》いたしましたの。
画家。それがもう出来ないんですか。
令嬢。(微笑む。)ええ。出来ませんわ。
画家。なぜでしょう。
令嬢。もう無人島《むにんとう》から帰って来たのでございますもの。帰って来て見れば、ただの世界で、物が重りを持っていたり、日がさせば影を落したり致しますのでございますからね。そして出来事と出来事との間には、遠い道のように、年月というものがあるのでございますからね。こんな世界に帰って来て見れば、あなたとわたくしとはこれでお別に致さなくてはなりませんのでございます。
画家。(煩悶して。)そんならどうでも別れるというのですか。
令嬢。お別だけがこの世界へ帰ってからのものに残っていたのでございますわ。別なんというものは、時間に属するものですから、あの島ではそんなものはなかったのでございます。(間。)
画家。(立ち上る。)わたくしの方では、きのうの事は幕明《まくあき》の音楽で、忙《せわ》しい調子の中へ、あらゆるモチイヴを叩き込んだものに過ぎないので、これからが本当の曲になると云いたいのですが、あなたには、何んと云ってもそう考えて下さる事が出来ないのですね。
令嬢。これから本当のオペラにしようと仰ゃるのでございますか。
画家。(頷《うなず》く。)ええ。これから本当のアクションにしようというのです。
令嬢。(微笑む。)なぜわたくしがオペラと申しましたのを、わざわざアクションという詞にお換《かえ》あそばしたの。もしこの跡を続けましたら、それこそオペラでございますわ。本当のお芝居でございますわ。わたくしはそれが怖いと存じたのでございます。
画家。まあ。そんな事までいつの間に考えていたのですか。
令嬢。ゆうべ夜通し考えていましたの。(間。)
画家。(あちこち歩き始む。)何もかもノンセンスだ。(間。また歩きつつ。)不思議だ。
令嬢。ええ。不思議でございますとも。この不思議の中に立って、踏み迷わずに、しっかりしていなくってはならないのでございますわ。(画家立ち留る。)ええ。大抵の人なら迷ってしまうかも知れませんわ。そういたして、目のくるめくような楽の急調を、常の日に調べようと致すのでございましょう。しかし舞の伴奏の楽は、ただ歩く時の足取には合うはずがございませんの。不調和な、馬鹿らしいものになり勝でございますわ。お互にそんな事は致したくないのでございますからね。お互に兎に角、翼《つばさ》のある情緒《じょうちょ》を持っている人間なのでございますからね。
画家。そこまで深く考えて見たのですか。
令嬢。ええ、ええ。そんな事は、あなたの方では考えて下さらないという事が、わたくしには分っていましたの。年上でございますからね。(画家|科《こなし》あり。令嬢徐《しずか》に。)ええ。年上でございますよ。それにきのうとは違いますの。(調子を変う。)しかし兎に角、お互に普通の人間でだけは無い事が分りましたのでございますね。
画家。普通でないとは。
令嬢。新人でございますわ。何んに致せ、あの大勢のいる宴会の中で、隠れ蓑《みの》、隠れ笠《がさ》をでも持っているように致す事の出来た二人でございますから。
画家。おう。そういえばあなたはゆうべも隠れ笠という事を云いましたっけね。
令嬢。ええ。申しましたわ。そんな風になられるまで、因襲の外《ほか》に脱出しているのでございますからね。人のいたのなんぞは、ちっとも邪魔には成りませんでしたわ。今日あたりはきっとみんなで評判を致しているのでございましょう。ミルネル画伯はあの令嬢に大相《たいそう》取り入るようだったなんぞと云っているのでございましょうよ。あしたあたりおばの処へ参りますと、おばがきっと、ミルネルさんが訪問においでなさりそうなものだなんというのでしょう。そう致してあなたがおいでなさりはなさるまいかと二週間位は心待《こころまち》に待つのでございましょうよ。(笑う。)わたくし共が二十年も御一しょに暮した事は、おばさんは知らないのですからね。人はたった二時間だと思っていたのでございますから。
画家。なぜ二十年というのですか。
令嬢。(快活に。)ええ。二十年位で若死《わかじに》を致したものと思って見ましたの。(画家頭を振る。)幸福の真最中《まっさいちゅう》に死んだのでございますわ。美しい死でございましょう。こんな閲歴は外の人には出来ますまいではございませんか。
画家。(嘲《あざけり》を帯びて。)あんな風になら、一人で幾生涯でも生きて見られようじゃありませんか。
令嬢。(真面目に。)ええ。それが出来ましたなら、現代人の芸術の能事《のうじ》畢《おわ》れりではございますまいか。
画家。芸術ですと。
令嬢。芸術と申しましたのは悪かったかも知れません。そんなら現代人の要求とでも申しましょうか。一つ一つの閲歴にそれ相当の調子を与える事が出来まして。それが一つ一つの全きものになりましたなら、一つ一つの生涯になりましたなら、その人は千万の生涯を閲《けみ》する事が出来ましょうではございませんか。
画家。そして千万たび死ぬるのですか。
令嬢。ええ。千万たびの死を凌《しの》ぐのでございます。そんな風にはお感じなさいませんか。
画家。どうしてそんな事をいうのですか。
令嬢。わたくしがどうしてそう思うのだか、お分りになりませんの。(立ち上る。)あなたは画家でいらっしゃいます。一日絵をおかきなさいますでしょう。それがただの一日でございますか。
画家。いいえ。勿論それはただの一日ではありません。多くの日をその一つの図に入れるのです。出来る事ならわたくしの覚えているだけの日をみんな入れるのです。
令嬢。それ御覧なさいまし。秘密を道破しておしまいなさいましたわ。
画家。なぜ。
令嬢。あなたはきのう宴会にいらっしゃる時、絵をかきかけて置いていらっしゃったのではございませんか。
画家。かいてはいなかったのです。しかし。
令嬢。でもかこうと思っていらっしゃったのでございましょう。
画家。かけるかも知れないと位は思っていたのですよ。
令嬢。(喜ばし気に。)そこでおかきなさったのでございますわ。あなたは作品に加える尺度をわたくしに加て、わたくしとあなたとの間を、一つの作品にしておしまいなさったのでございます。しかも不朽の作品に。
画家。(悲し気に。)あなたが不朽だといったって、その作品は今日跡もなく亡《ほろ》びているのです。
令嬢。あなたはそう仰ゃるけれど、あなたのおかきになった絵だって、いつ誰《だれ》が見てもその絵と見えるように、いつもそこにあるというわけではございますまい。そんな事はないのでございましょう。あなたの絵があるというのは、あなたの絵の生命のある処へ這入って行く事の出来る人のためにあるというわけでございましょう。その意味からいえば、ゆうべお作りなさった作品も、不朽に存在しているというものではございますまいか。
画家。(真面目に相手を見る。間。)なるほど。あなたはそんな風に考えたのですか。
令嬢。(頷く。)ええ。そう考えましてわたくしだけは、生活のために必要なある教《おしえ》を得たのでございますの。
画家。そう云うと教というものが、必要なようですが、実は世の中には、何んといったら好いでしょうか、手本無しに生活して見ようという人も随分あるのではないでしょうか。因襲なんぞから得《え》来《きた》った智識《ちしき》を自分に応用せずに、初めて人間として生れて来たもののように振舞うのですね。もしそういう人があったなら、その人は一つ一つの出来事に、それに協《かな》った尺度を持って行って当てるわけではないでしょうか。無意識にそれに協った尺度を当てるのですね。
令嬢。それは一つか二つか、三つ位までの出来事には無意識に当てた尺度が丁度好いという事もあるのでございましょう。しかし幾ら手本無しに生活すると申《もうし》ましても、そういう人でございましても、どうせ生々《ういうい》しいのでございましょうから、何事かに出合まして、五つや六つの調子を覚えましても、それから先は分りませんから、その五つか六つの調子をあらゆるものに当て嵌める事になってしまうのでございましょう。人生に応ずるには幾千の調子が入《い》るか知れないのでございます。そこで一つ間違を致しますと、そういう人は慌てまして、きっとこれまでに覚えている因襲の内の、一番現在の場合に当嵌りそうなのを持って来て、それを応用しようと致すのでございましょう。(間。)あなたのお身の上で申して見ますれば、あなたはわたくしと結婚あそばしたのでございましょう。
画家。(正直に驚きたる様子。)いや。結婚なぞをする積《つもり》ではなかったのです。
令嬢。結婚はなさらなかったのでございますの。そんならどうあそばすはずでございましたの。
画家。そりゃあ。(間。)そうですね。そんな事をいったって駄目だし。
令嬢。いいえ。なんでも宜しゅうございますから言って御覧なさいましよ。
画家。ただ一しょになっていたのだろうというのです。
令嬢。ここにでございますか。
画家。それはここでも好いし、どこか外《ほか》へ行ったら、猶《なお》好いでしょう。あなたのおばさんが喧《やかま》しそうですから。
令嬢。まあ。結婚も致さずに、ただ何がなしに御一しょにいるのでございますね。
画家。そうです。何がなしにです。そら。外の絵かきもやっているでしょう。(令嬢笑う。画家黙りて相手の顔を、何故《なにゆえ》笑うかと問いたげに見る。令嬢いよいよ笑う。)何がそんなに可笑《おか》しいのですか。
令嬢。それでも、そんな風な生活は、もうとっくに因襲になってしまっているじゃあございませんか。
画家。それでも。因襲といったって。
令嬢。ええ、ええ。同じ因襲でも、一般の社会での因襲でなくって、ある狭い仲間内での因襲でございましょう。しかし因襲は因襲でございますから、狭い仲間内の因襲だからと申しましても、特別に好いはずはないではございますまいか。そんな風に致しましたら、わたくしはやっぱり段々に扮装《みなり》なんぞは構わなくなりまして、化粧《おしまい》も致さないようになりますのでございましょう。(画家|呆《あき》れて相手の顔を見おり、さてついに己《おの》れも笑い出《いだ》す。令嬢また笑う。)それ御覧なさいましな。(間。)まあ、お互にこういたして笑っていられます間に、お暇乞《いとまごい》をいたしましょう。
画家。(驚く。)行くのですか。
令嬢。ええ。ただ、今一つ申して置きたい事がございます。どうぞこんな事になりましたのを、おくやみなさらないで下さいまし。もしわたくしの事を思い出して下さいますなら、どうぞ昨晩のような調子にしてお考えあそばして下さいまし。美しい調子に、メロヂイのある調子にしてお思い出しあそばして下さいまし。それだけは是非お願い申して置かなくてはなりません。わたくしの致した事を、もし不断の尺度で、日常生活の尺度で量って下さいましたら、それはわたくしのためにひどい冤罪《えんざい》になるのでございますから。
画家。(令嬢の手を握り、目を見合せ、黙りいる。さて。)どうもこうなれば為様がありません。日常生活の尺度で量っても好いような幸福はないものでしょうか。(手を放す。)
令嬢。そんな幸福を求めようと仰ゃるのでございますか。
画家。(急に。)ええ。
令嬢。そう仰ゃれば、わたくしがこのお部屋へ参りまして、心付いた事がございますから、御遠慮なくそれを申して見ましょうか。
画家。何んでしょう。あなたがこの部屋へ這入って、直《すぐ》に気の付いた事があるというのですね。
令嬢。ええ。あなたの仰ゃるような幸福が。
画家。そんな幸福がどこかにあるというのですか。
令嬢。ええ。何んだかこのお部屋の空気の中に、そういう幸福の影が漂っているようでございますね。
画家。ふん。
令嬢。どうもわたくしには、そんな風に感じられますの。
画家。今でもですか。
令嬢。(徐《しずか》に。)なんでももうよほど前からの事でございますね。それがあなたには分らないでいるのでございましょう、何んでもあなたの生活にぴったり寄添っているものがございますように思われますの。その隠れた幸福と、あなたの生活とは、息が合っていますように、一つ呼吸をしていますように思われますの。思い違いかも知れません。こんなのが女の直覚とかいうものでございましょう。しかし考えて御覧なさいまし。お思い当りあそばす事がありは致しませんか。(画家|首《こうべ》を垂る。令嬢は徐《しずか》に画家の傍《かたわら》より離れ去る。)ね。何んでもいつもあなたのお傍《そば》にいて、あなたのお目に留らないような人がいるのではございませんか。その人は余りあなたの生活に密接な関係を持っていますので、あたたはそれを家常の茶飯のように思召てお気をお留めあそばさないのではございませんか。よくお考えなすって御覧なさいまし。ね。(徐《しずか》に戸の口に歩み寄り、徐《しずか》に戸を開き、退場。)
画家。(物思いに沈みて凝立すること暫くにして、忽然夢の覚めたるが如き気色《けしき》をなし、四辺《あたり》を見廻す。ようようにして我に返る。)ヘレエネさん。(戸口に走り寄り、荒らかに戸を開け、叫ぶ。)ヘレエネさん。(画家は暫く耳を聳《そばだ》ている。四辺《あたり》はひっそりとして物音無し。画家は再び戸を鎖し、跡に戻り、物を案ずる様《さま》にて部屋の内をあちこち歩き、何かそこらの物を手に取りては置き、また外の物を手に取りては置き、紙巻を一本取りて火を付け、一吸《ひとすい》吸い、忽《たちま》ちそれを投げ捨て、右手の為事机に駈け寄り、慌ただしく物をかき始む。暫くして何事をか口の内にてつぶやき、癇癪《かんしゃく》を起したる様子にて、その紙を引裂く。さて外の紙を取りてかき始め、暫くしてかき止《や》め、またその紙を引裂く。さて暫く空《くう》を睨《にら》みいて、忽ち激しき運動にて両手を顔に覆い、両肱《りょうひじ》を机に突き、死人の如く動かずに坐《すわ》りいる。○暫くありて、戸口よりモデル娘|入《い》り来《きた》る。徐《しずか》にためらいつつ部屋の内に進み、始終物を怖《おそ》るる如く四辺《あたり》を見廻す。娘は片手に伊太利亜種《イタリアだね》の赤き翁草《おきなぐさ》の花の大束を持ち、片手に柑子を盛りたる籠《かご》を持ちいる。さて画家の、己《おの》れの方に背中を向けて、先《さき》の姿勢を取りおるを見付け、驚き、徐《しずか》に。)
モデル。今日《こんち》は。(ひっそりとして物音無し。娘は徐《しずか》に煖炉《だんろ》に歩み寄り、その上なる素焼の瓶《びん》を取りて絵具入の箪笥の上に据え、それに翁草の花を挿す。その間《あいだ》に画家は少し身を動かし、娘を見る。さて立ち上らんとしてまた腰を落し、女のする事を見ている。娘は忽ち画家の己《おの》れを見るに心付き、詞急に。)お休《やすみ》なすったの。(間。)花を持って参りましたの。そしてあの柑子も。
画家。(詞急に。)うむ。好い好い。(立ち上り、歩み寄る。)翁草を買って来たね。お前はその花が好きかい。
モデル。(驚く。)これではいけなかったのですか。
画家。好いとも。(花を二三本取りて、娘の髪に当てがい見る。)お前のブロンドな髪に映りが好いぜ。
モデル。(さっぱりと)そのお嬢さんがわたしの髪とおんなじならようございますが。
画家。(驚きたる顔にて相手を見、さて。)ああ、その事かい。(間。)そんな事はもう忘れていた。己はただこの花を花輪にして、お前の髪に載せたらどんな工合だろうかと思ったのだ。
モデル。(花をいじりつつ。)そうしてかいて見ようと思いなすったの。
画家。まあ、そう思ったとしてな。お前にその花輪を戴《いただ》かせて見た処が、ひどく映りが好かったのだ。そこでかこうと思ったが。
モデル。え。
画家。かこうと思ったが、その時丁度かく気になれなかったとしよう。頭痛か何かするのだな。そうしたらお前はどうするい。
モデル。待っていますわ。
画家。その内に日が暮れてしまって、かけなくなったらどうするい。
モデル。そんならそのあしたまで待ちますわ。
画家。それでもお前の頭に丁度好い工合に載せた花輪が無駄になって、あした載せたらもうそんな工合にはゆかないかも知れない。そういう事になったら、お前はどうするい。
モデル。そんならわたしは、花輪を頭に載せたままで、じっとしてそのあしたまで坐っていますわ。
画家。夜通しかい。
モデル。ええ。
画家。坐っていて居眠なんぞは出来ないのだぜ。居眠りなんぞをすると花輪が歪《ゆが》むからな。
モデル。居眠なんかしませんわ。
画家。折角そうしてくれても、翌日になって見れば、その花が萎《しぼ》んでいるかも知れない。
モデル。(悲し気に。)え。ほんにそうでございますね。萎んだ花は。
画家。(背中を向けつつ。)役には立つまい。
モデル。それはそうでございますとも。(間。娘はやはり花をいじりいる。)お嬢さんはどうなさいましたの。まだいらっしゃいますの。
画家。お嬢さんかい。(突然立ち留り、娘を屹《きっ》と見、早足に娘の傍《そば》に寄り、両手を娘の肩に置き、娘を自分の方へ向かせ、目と目を見合す。)マッシャお前かい。(娘は呆れて目を見張る。)お前はいつもここにいるのだな。(娘は何事とも分らぬらしく、一歩退く。)うむ。そんな事をいったって、お前には分らないはずだった。(手持|無沙汰《ぶさた》に、ほとんど恐る恐る。)マッシャ。この花はお前に遣《や》る。(娘はいよいよ呆れ、何事とも弁《わきま》えず、目をいよいよ大きく見張る。画家は何といわんかと、思い惑う様子にて。)それからこの柑子もお前に遣る。そしてお前と一しょに食べようじゃないか。そしてな。これからは柑子が出るたびに、いつでもお前と一しょに食べようじゃないか。
モデル。(忽然と非常なる喜に打たるる様子。)まあ。本当でございますか。
画家。(娘を抱《いだ》く。)己が悪かった。勘忍してくれい。(娘は顔を画家の胸に押付く。画家は徐《しずか》に娘の髪を撫づ。娘忽ち欷歔《ききょ》す。画家小声にて。)どうしたのだい。なぜ泣くんだい。
モデル。(泣笑《なきわらい》。)でもまたわたしの胸がこんなになっては、あなたがかかれないと仰ゃいますでしょう。
画家。(優しく。)ほんにお前は。
モデル。わたしは胸一ぱいになって、どう致して宜しいか分らないのですもの。(画家|徐《しずか》に娘の前に跪《ひざまず》き、娘を見上ぐ。娘両手にて画家の目を塞《ふさ》ぎ、顔次第に晴やかになりて微笑み、少し苦情らしき調子にて。)あのわたしが待受けていましたのは、これまで幾度《いくたび》だか知れなかったのに、あなたは黙っていらっしゃったのですわ。それなのに、ひょんな時、出し抜けにこんな事を仰ゃるのですもの。(幕。)

   家常茶飯附録 現代思想(対話)

太陽記者。こん度|私共《わたしども》の方で出すようになりました、あの家常茶飯《かじょうちゃはん》の作者のライネル・マリア・リルケというのは、あれは余り評判を聞かない人のようですが、一体どんな人ですか。
森。そうですね。私も好《よ》くは知りません。誰《たれ》も好くは知りますまい。あなたが御存じのないのも御尤《ごもっとも》です。これまでの処《ところ》では、履歴も精《くわ》しくは公《おおやけ》にせられていないのですから。
記者。しかし少しは知れていましょう。何処《どこ》の人ですか。
森。ボヘミア人です。それだから、現に墺匈国《オオストリア》の臣民になっています。八つの橋をモルダウ河に渡して両岸《りょうがん》に跨《また》がっているプラハの都府で、幾百年かの旧慣に縛られている貴族の家《うち》に、千八百七十五年十二月の九日に生れたということです。それですから、今年の十二月で満三十三年になる。私なんぞよりはほとんど二十年も若い。倅《せがれ》に持っても好《い》いような男です。家《うち》はケルンテンに代々土着していたということです。詩の中《うち》で、「森のなかなる七つの城に、三枝《みえだ》に花を咲かせた」家《いえ》だといっています。思想も貴族的で、先祖自慢をする処が、ゴビノオやニイチェに似ていますよ。肖像を見ると、われわれ日本人に余り縁遠くない、細おもての容貌《ようぼう》で、眼光が炯々《けいけい》としているのです。そのくせおとなしい人だそうです。むしろ女性的《にょせいてき》だということです。エルレン・ケイとひどく相獲《あいえ》ていると見えますね。
記者。それでは交際が広いのですね。
森。ある意味では広いと見えます。同臭のものを尋ねて欧洲《おうしゅう》大陸を半分位は歩いていましょう。何でも親達《おやたち》は軍人にする積《つもり》で、十ばかりの奴《やつ》を掴《つか》まえてウィインの幼年学校に入れたのだそうです。処が規則で縛って置きにくい性質なので、十五の時にとうとう幼年学校から退学してしまったそうです。それから大学にはいっていたことがあるらしいのですが、その間《あいだ》の事は好くわかりません。旅行した国々はロシア、ドイツ、フランス、イタリアです。ロシア趣味はたっぷりその作品に出ています。優しい、情深い、それかと思うと、忽然《こつぜん》武士的に花やかになって、時として残酷にもなるような処があります。そこをショパンの音楽のようだと云《い》った人がありましたっけ。社会というものに対する態度には、トルストイ臭い処もありますね。独逸《ドイツ》ではウォルプスヴェエデの画かき村にはいり込んで、あそこの連中と心安くして、評論を書きました。都会嫌だから、伯林《ベルリン》なんぞには足を留《と》めないらしいのです。尤もハウプトマンは大好《だいすき》と見えます。フランスではロダンの為事場《しごとば》に入り浸りになっていて、ロダンの評を書いたのですが、ロダンを評したのだか、自家の主観を吐露《とろ》したのだか分からないような、頗《すこぶ》る抒情的《じょじょうてき》な本になってしまったのです。兎《と》に角《かく》おそろしい傾倒のしようなのです。全く惚《ほ》れ込んでいるのです。イタリアでは就中《なかんずく》ヴェネチアが好なのです。今の大陸の欧羅巴《ヨオロッパ》は死んだ欧羅巴だというので、生気のあった時代の遺蹟を慕って、「過去の岸に沿うて舟を行《や》る」というのです。
記者。それでは画家や彫塑家の評論を遣《や》る外は大抵抒情詩を遣っているのでしょうね。
森。そうです。本領は抒情詩にあるのです。跡で著述目録を御覧に入れましょう。先頃《さきごろ》我《わが》百首の中《うち》で、少しリルケの心持《こころもち》で作って見ようとした処が、ひどく人に馬鹿《ばか》にせられましたよ。
記者。小説はありませんか。
森。あります。短篇集《たんぺんしゅう》を四冊出しています。尤も「可哀《かわい》い神様の事」という方は、切れていて続いているような話です。あどけない、無邪気な、そして情《じょう》の深い作です。子供に話すのだということになっていますが、もし子供に小説が書けたら、あんな物が出来ようかと思う程です。日本なんぞであんな物を書いたら、人がさぞ馬鹿にすることでしょう。
記者。脚本は家常茶飯の外にまだありますか。
森。いいえ。外には絶板になっているのと雑誌に出た一幕物《ひとまくもの》と二つあるばかりです。どれも側《はた》から失敗の作だと云ったので、作者も跡を作らないのでしょう。しかし生意気な事を言うようですが、家常茶飯は成功の作かも知れないと思います。
記者。何故《なぜ》失敗だと云ったのでしょう。
森。ドラマチカルでないと云うのですよ。そりゃあヘッベルの作やなんぞを見る標準で見られては駄目でしよう。イブセンのような細工もありません。しかし底には幾多の幻怪なものが潜んでいる大海の面《おもて》に、可哀らしい小々波《さざなみ》がうねっているように思われますね。
記老。そんな作ですか。一体家常茶飯というのはどういうわけですか。
森。原語は日常生活です。しかしそう云っては生硬になるのが嫌《いや》です。家常茶飯と云うと、また套語《とうご》の嫌《きらい》がある。それでも生硬なのよりは増《まし》だと思うのは、私だけの趣味なのです。もっと優しい、可哀らしい、平易な題が欲しいのですが、見附《みつ》かりませんでした。
記者。この脚本に対する批評は伺われませんか。
森。それはしたくありませんね。しかしただ一つ申して置きたい事があります。それはこの脚本の主意でも何でもない。ただその中《うち》のエピソオドに現われている一事件です。主人公の画家の姉《ね》えさんとおっ母《か》さんとの間の関係です。姉えさんがおっ母さんに対して尽している処を見ますと、その形跡から見れば、天晴《あっぱれ》孝子です。よめにも行かないで、一身を犠牲にしておっ母さんを大切にしています。そこでその思想はどうです。あの弟との対話をよく読んで御覧なさい。われわれの教えられている孝という思想は跡形もなく破壊せられてしまっています。決して母だから大切にするのではないのです。そこで今ここに一人の葡萄茶式部《えびちゃしきぶ》がいると想像して御覧なさい。そしてその娘もおっ母さんを大切にしているのです。この娘は高等の教育を受けたので、英語が読めます。そこで現代詩人の作を読んでいるのです。この娘の思想は、脚本にある画家の姉えさんの思想と違っているでしょうか。同じでしょうか。一寸《ちょっと》これだけの事でも考えて見れば、深く考えて見れば、倫理上教育上の大問題です。ねえ。そうではありませんか。私の申す事が、あなたに好くおわかりになりましたか、どうだか、知れません。一つ外の例を引いて申しましょう。あのバアナアド・ショオの脚本にゼ・デヴィルス・ヂッシプルというのがあります。主人公ヂックが牧師の内に往《い》って、牧師夫婦と話をしているうちに、牧師が余所《よそ》へ出てしまう。そこへ敵兵が来て牧師を縛ろうとする。縛られて行けば、見せしめに磔《はりつけ》か何かにせられてしまうのです。敵兵はヂックを牧師だと思って縛りに掛かる。ヂックは牧師の積《つもり》で、平気で縛られて行《ゆ》きます。牧師がヂックのために恩義でもある人ですか。決してそうではないのです。実は悠々たる行路の人なのです。しかしヂックは「己《おれ》は牧師ではない」というのが嫌《いや》なのです。ヂックは非常な仁人とか義士とかに見えるでしょう。しかしヂックの思想はわれわれの教えられている仁だの義だのというものとは丸で違っているのです。これはわれわれの目に珍らしいばかりではありません。倫敦《ロンドン》で始て興行せられた時、英人にも丸で分からなかったのです。それだからヂックを勤めたカアソンという役者が、批評家に智恵《ちえ》を附けられて、ジックは牧師の妻《さい》を愛しているので、それで牧師の身がわりに立ったということにした。そして敵兵に捕《とら》えられる時に、そっと牧師の妻《さい》の髪に接吻《せっぷん》したのです。作者はこの興行の時にはコンスタンチノオプルにいたので、そんな事をせられたのを知らずにしまいました。これが家常茶飯に出る画家の姉えさんの孝行と好く似ています。こう云う処を考えて御覧なさい。どれだけの大問題がこの中《うち》に潜んでいるかということがわかりましょう。そこでこんな風な考も、勢《いきおい》起らずにしまうわけには行きますまい。一体孝でも、また仁や義でも、その初《はじめ》に出来た時のありさまはあるいは現代の作品に現れているような物ではなかったのだろうか。全く同一でないまでも、どれだけか似た処のある物だったのではあるまいか。それが年代を経て、固まってしまって、古代宗教の思想が、寺院の掟《おきて》になるように、今の人の謂《い》う孝とか仁義とかになったのではあるまいかと、こんな風な事も思われるでしょう。何故《なぜ》というに、現代詩人の中《うち》には随分|敬虔《けいけん》なような、自家の宗教を持っているらしい人があるのですからね。リルケなんぞもその方ですよ。こうなると、一面解決の端緒《たんちょ》が見えそうになると共に、一面問題はいよいよ大きくなるでしょう。しかし縦《よ》しやそんな風に根本の観念は生れ変って来るかも知れないとしても、宗教上に寺院の破壊が大事件《たいじけん》であると同じわけで、固まった道義的観念の破壊も大事件に相違ありません。それですから、何故《なぜ》お前は家常茶飯のような危険極まる作を翻訳するのだと云う人もありましょう。そういう人の立脚地から考えて見たら、危険かも知れません。しかしこれを危険だとして公《おおやけ》にしないとすれば、トルストイでもイブセンでも、マアテルリンク、ホフマンスタアルでも、現代的思想の作というものに、一つとして翻訳して好いのは無いのです。現代文学の全体を排斥しなくてはなりません。文学上の鎖国を断行する必要があります。そんならその鎖国を実行しようと思ったら、出来るでしょうか。あなたはどう思いますか。これも大問題ではありませんか。こん風に考えて行《ゆ》けば、問題は問題を生んで底止《ていし》する所を知らないのです。お尋《たずね》になるから、こんな事も言います。自分の出すものに講釈を附けて出すような事は、嫌《いや》だから、なるたけしないようにしています。人はおりおりそういう事をしますが、わたくしはそれを見ると不愉快に感じます。何でも芸術品は誰《たれ》の作とも、どうして出来た作とも思わずに、作|其物《そのもの》とぴったり打附《ぶっつ》かって、その時の感じを味いたいのです。わたくしの出す物なら、製作でも翻訳でも、それで人がなんにも感じてくれなければ、それで宜《よろ》しいのです。多くはそういう風で済んでしまうだろうと思います。こん度訳した家常茶飯だって、黙って出してしまえば、恐らくは誰も何とも思わずにしまいましょう。読者も家常茶飯として食べてしまいましょう。現代文学のあらゆる翻訳は皆《みな》そうなのです。そうではありませんか。
記者。伺って見れば、そんな物ですね。讃否《さんぴ》は別として、現代思想というものが、幾分か領会せられる媒《なかだち》になるとすれば、雑誌に家常茶飯を出すのも、単に娯楽ばかりでなくなりますね。
森。そうですとも。あなたが讃否と云われました、その讃否ですがね。勿論《もちろん》翻訳をするものが、原作の思想に同意しているか、いないか、同意しているなら、全部同意しているか、どこまで同意しているか、それは分からないのですが、製作をするとなっても、その辺《へん》を考えて見ると、妙なもんです。ツルゲニエフがあの虚無主義という語を始て使った小説ですね。あれの出たときの話を、あなたも御存じでしょう。あの虚無主義者と看做《みな》されている主人公の医学生に賛同しているというので、貴族|等《ら》は作者を攻撃する。虚無主義という名を附けられた青年連は、自分|達《たち》を侮辱したというので、これも作者を攻撃する。作者は板挟《いたばさみ》になったと、自分で書いていますね。あんなわけで、芸術品は客観的に出来ている方面から見れば、容易にこんな判断は附き兼ねるものなのでしょう。そこが面白いのではありますまいか。
記者。そこに価値があるのかも知れませんね。いや。いろいろ伺って難有《ありがと》うございます。さようなら。
森。ああ。一寸お待《まち》なさい。リルケの著作目録を上げますから。これです。
記者。難有うございます。それでは持って帰って拝見しましょう。

    ライネル・マリア・リルケ著作目録
     (Rainer Maria Rilkes Werke.)
  題号                 種類 発行年 発行地      備考
Leben und Lieder.            詩  1894  Strassburg i.S.  ――
Larenopfer.                詩  1896  Prag       絶板
Jetzt und in der Stunde unsres Absterbens.脚本 1896  家蔵板      絶板
Traumgekroent.              詩  1897  Leipzig      ――
Advent.                  詩  1898  同右       ――
Am Leben hin.               小説 1898  Stuttgart     ――
Zwei Prager Geschichten.         小説 1899  同右       ――
Geschichten vom lieben Gott.       小説 1900  Leipzig      [#ここから割り注]三板[#改行]1908[#ここで割り注終わり]
〔Die fru:hen Gedichte.〕(Mir zur Feier 改題)詩 1900  Leipzig und Berlin [#ここから割り注]再板[#改行]1909[#ここで割り注終わり]
Die Letzten.               小説 1901  Berlin und Stuttgart――
Das taegliche Leben.           脚本 1901  Muenchen     ――
Das Buch der Bilder.           詩  1902  Berlin und Stuttgart[#ここから割り注]再板[#改行]1906[#ここで割り注終わり]
Worpswede.                評論 1903  Bielefeld und Leipzig[#ここから割り注]再板[#改行]1904[#ここで割り注終わり]
Das Stundenbuch.             詩  1905  Leipzig      ――
Die Weise von Liebe und Tod des Cornets
 Christoph von Rilke.          詩  1906  同右       ――
Neue Gedichte.              詩  1907  同右       ――
Der neuen Gedichte, anderer Teil.     詩  1908  同右       ――
Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge. 散文 1910  同右       ――

    参照書類
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Ellen key, Rainer Maria Rilke. Deutsche Arbeit. Prag 1905. Heft 5, 6.
A. Michels, Apollo und Dionysos. Stuttgart 1904.
R. Freienfels, Rainer Maria Rilke. Literarisches Echo. Berlin 1907. IX, 17.
Fr. von Oppeln-Bronikowski. Blaue Blume. Leipzig 1900.
Fr. von Oppeln-Bronikowski, Rainer Maria Rilke. Mitteilungen der literarhistorischen Gesellschaft Bonn. Dortmund 1907.
Franz Wegwitz, Rainer Maria Rilke. Westermanns Monatshefte. Braunschweig 1908. Jahrgang 53, Heft 3.
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[#地から1字上げ](明治四十二年五月)

底本:「於母影 冬の王 森鴎外全集12」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「森鴎外全集」岩波書店
入力:鈴木修一
校正:土屋隆
2008年7月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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