妻 ЖЕНА アントン・チェーホフ Anton Chekhov ——神西清訳

 私はこんな手紙を貰った。――
『パーヴェル・アンドレーヴィチ様尊下。御住居に程遠からず、すなわちピョーストロヴォ村に、惨澹たる事実の発生を見つつありますにつき、御一報申し上げますことを私の義務と存ずる次第であります。同村の農民はこぞって農舎および全財産を売却し、トムスク県に移住したりしところ、目的地に到らずして戻って参りました。さて申すまでもなく同村にはもはや彼らの持物とては一物もこれ無く、現在すべて人手に渡っており、農舎一軒につき三乃至四世帯ずつも居住いたし、戸毎の人員は幼児を除くもなお男女併せて十五人を下らず、遂には食物も尽き、飢餓はもとより、一人として飢餓性もしくは発疹性のチフスに感染せざるはなく、村民ことごとく文字どおり罹病いたしております。女医補の曰く、一歩農舎に入りて賭《み》るところは何ぞ、みなこれ病者、悉く熱に浮かされ、或いは高笑いし或いは壁に攀じ、農舎の中は悪臭鼻を衝き、水を与うる者なく、水を運ぶ者なく、食物とてはひとり凍《い》てたる馬鈴薯あるのみと。女医補及びソーボリ(当地の郡会医)も、薬餌よりはパンを先決問題とするとき、もとよりパンの持ち合わせはなきものゆえ、如何とも手の下しようなき次第であります。郡会事務局にては、該農民らはすでに郡会より除籍せられトムスク県下に籍を置くものなるを楯に給与を拒み、かつまた資金も無いのであります。右ここに御報告申し上げ、かつは貴下の御仁愛を知りつつ、早急の御援助を願い奉ります。貴下の多幸を祈る者より。』
 明らかにこれは、その女医補自身か、でなければこの獣の名前を持った医師〔[#割り注]手紙の中に見えるソーボリという姓は、黒貂という字である[#割り注終わり]〕が書いたものに違いない。一体が郡会医とか女医補とかいう連中は、彼らには何ひとつ[#「ひとつ」に傍点]出来はせぬということを、多年にわたって日一日と納得しながら、なおかつ凍《い》てた馬鈴薯だけで命をつないでいる人たちから俸給をもらい、なおかつ私が仁愛に富むか否かを論ずる資格があると自惚れているのだ。
 匿名の手紙には煩わされるし、毎朝どこかの百姓たちが召使《しも》の台所へ上がり込んで来て膝をつく始末だし、前もって壁を破って一夜のうちに納屋のライ麦を二十俵も引いては行くし、それに人の話や新聞や悪天候が裏書きする一般の重苦しい空気――すべてそうしたものに煩わされて、私は仕事に元気が出ず一こうはかばかしく行かなかった。私は『鉄道史』を書いていたので、数多い内外の書籍やパンフレットや雑誌記事に眼を通さなければならぬし、算盤をはじき対数表をめくり、考え、ペンを動かし、それからまた読み弾《はじ》き考えなければならないのだった。ところが、本に向うか考えはじめるかしたら最後、たちまち頭がこんぐらかり眼を細くせずにはいられず、私は溜息をついて机を離れて、荒れるにまかせた自分の田舎別荘のだだっ広い部屋から部屋へ、歩き廻りだすのだった。歩き飽きると、私は書斎の窓際に立ちどまって外を眺める。わが家の広い構内《やしきうち》を越え、池を越え葉を落した若い白樺の林を越え、ついこの間降って融けかけている雪に蔽われた広漠たる野づらを越えて、地平線の丘のうえに、褐色の農舎の一かたまりが見える。そこから、真白な野づらをくねくねした帯をなして、黒いぬかるみの道が下りてくる。これがピョーストロヴォ、つまり匿名の筆者が書いてよこした例の村なのである。もしここに、雨か雪模様の前触れに啼きながら池や野の上を舞っている鴉《からす》の影もなく、大工小屋の槌音もして来なかったら、いま世間から大騒ぎをされているこの小っぽけな世界は、死海そっくりに見えたに違いない。それほどにここのすべては静まり返って、ひそとも動かず、生気なく、もの淋しかった。
 仕事をしようにも精神を集中しようにも、落ちつかぬ気持に妨げられた。一たいどうしたのか自分でもわからず、幻滅のせいにしようと思っていた。じっさい私が交通省を辞してこの田舎へやって来たのは、静かな生活をして、社会問題の研究に従いたいからであった。それは私の久しい前からの宿願であった。ところが今では静安とも研究とも別れ、一さいを放擲して、ただ百姓たちの事に心を使わなければならないのだ。それも他にしようがないというのは、私の深く信ずるところによれば、私のほかには絶対に誰一人として、この郡には難民を助けようとする者はないのである。あたりを見廻しても、無教育な頭の程度の低い不人情な連中ばかりで、その大多数は不正直者か、或いは正直者でも無分別で浮わついた、早い話が私の妻みたいな人間ばかりである。こうした連中を当てにするわけにはゆかないし、といって百姓たちを見殺しにするわけにもゆかないとなれば、必要の前に身を屈して、自分で百姓たちの始末に手を出す他はないのだった。
 まず手はじめに私は、難民のため五千銀ルーブリを寄附することにきめた。ところがこれで私の落ちつかぬ気持が鎮まるどころか、かえって烈しくなるばかりであった。窓際にたたずんだり部屋部屋を歩き廻る私を、それまでにはなかった問題が悩ますのだった――この金をどう使うべきか? 召使に穀類を買わせて、小舎ごとに分配して廻らせるか。それは、怱忙の際とて飽食者や高利貸の方へ、飢えた者の二倍もやってしまう危険は問うまでもないとして、とうてい一人の手には負えぬ仕事である。お役所というものを私は信用しない。郡会の上役とか税務監督官とかいう連中はみんな若ぞうばかりで、現代の物質至上主義の無理想な青年一般に対すると同様、私は彼らに信用がおけないのだった。郡会事務局にせよ役場にせよ、また一般に郡に属する事務所はどれもこれも、その援助を求めようという鵜の毛ほどの気持ちも私に起こさせなかった。こうした大小とりどりの機関が、もう自治体や官の揚饅頭《ピローグ》の中身をしゃぶりつくして、何かまた第三の揚饅頭《ピローグ》にしゃぶりつこうと、毎日舌舐めずりしていることは私にはわかっていた。
 そこで、近隣の地主連を招いて、私の家に何か委員会とか本部みたいなものを組織し、一さいの寄附はそこに集まり、又そこから郡じゅうに救恤品や指令が出るようにすることを提議しては、という考えが浮かんだ。このような組織ならば、頻繁に協議もできるし、広範囲に思うままの統制もできて、私の考えにもまったく合致するのである。しかし私は、間食だの昼飯だの晩食だの、また騒々しさ、遊惰、お喋り、下品さなどという、この郡下の雑多な連中が私の家へ持ちこむにきまっているものを想像すると、急いで自分の考えを振り棄ててしまった。
 次に家の者と来たら、その助力なり支援なりを期待することは、私にとってもっとも望みが薄かった。私の第一の家族、すなわち父の時代の家族は、かつては騒々しい大世帯だったこともあるのだが、生き残っているのは家庭教師のマドモアゼル・マリ、或いは今の呼び名で言えばマリヤ・ゲラーシモヴナ一人きりで、これはまったく取るに足らぬ人物である。この小さな几帳面な七十婆さんは、薄鼠色の服を着こんで、白い飾りリボンのついた頭巾をかぶり、一見陶器人形といった姿で、いつも客間に坐って本を読んでいた。私がそばを通りかかると、私の思案のもとを知っている彼女は、きっとこう言うのだった。
「一たいどうしようとおっしゃるの、パーシャ? こうなることは、もう前にも言ったじゃありませんか。召使《しも》の者を御覧になればおわかりのはずですよ。」
 私の第二の家族、すなわち妻のナターリヤ・ガヴリーロヴナは、階下《した》の部屋をみんな占領して暮らしていた。食事も睡眠も自分の客の応接も、彼女は階下の自分のところで済まして、私がどんな食事をするか、どんな寝方をするか、どんな客に会うかには、一さいお構いなしであった。すでに久しくお互いに疎遠になって、すぐ上と下の階に住みながら近いという気さえせぬ人たちのように、私たち二人の間柄は至極簡単で気苦労もなかったが、そのかわり冷淡で空虚で張合いがなかった。以前ナターリヤ・ガヴリーロヴナが私の胸によび起こした燃えるような苛立たしい愛情、あるときは甘くあるときは苦艾《にがよもぎ》のように苦い愛情は、今はもうなかった。昔のすぐカッとする癖、声高《こわだか》な口争い、非難、怨み言、そしてお互いの憎悪が堰を切ったあげくは、まずきまって妻の外国行きか実家行きとなり、私は私で妻の自尊心をなるべくたびたび傷めつける目的で、金をちびちびとつとめて何度にも送ってやる始末になる――ということももう無くなった。(傲慢で自尊心の強い妻とその実家の者は、私の金で暮らしているので、妻はいくらじたばたしても私の送金を断るわけにはゆかない。これが私に満足をもたらしたし、つらいときの唯一の慰めでもあったわけだ。)今では、偶然に階下《した》の廊下や庭先で顔を合わせることがあると、私はお辞儀をし、彼女は愛想のいい笑顔を見せるのである。それからお天気の話をし、どうやらもう窓の二重枠をはめる時分だとか、誰かが馬車の鈴音を立てて池の堤を通って行ったとか、そういった話をする。そのとき私は妻の顔に書いてある字を読む――『私は貞女よ、あなたの大切にしてらっしゃる立派なお名前を、傷けなんかしませんわ。あなたもお利口さんで、私の邪魔をなさらないわね。これで五分五分よ。』
 もうとうの昔に私の愛は消えてしまった。仕事があんまり私の奥深くに喰い入ってしまったので、妻との間柄などは本気に考えている暇はないのだ、と私は思い込もうとするのだった。しかしああ、私はただそう考えたにすぎない。妻が階下《した》で声高に話をしていると、ひと言だって聴きとれはせぬくせに、私は一心に彼女の声に耳を澄ました。彼女が階下《した》でピアノを弾いていると、私は立ちあがって聴き入った。彼女の馬車か乗馬が曳きだされると、私は窓際に寄って彼女が家から出てくるのを待ち、やがて彼女が馬車や馬に乗るところ、庭先から出て行くところを見守った。私は自分がどうかしているような気がし、眼つきや顔色にそれが現われはしまいかとびくびくした。私は妻の姿を見送ってからも、ふたたび窓から彼女の顔や肩や外套や帽子を見るために、その帰りを心待ちにした。私はさびしく悲しく、無性に何かが惜しまれてならず、妻の留守のまに彼女の部屋部屋をぶらついて見たくなったり、お互いの性格が合わぬため私と妻とでは解決のつかぬその問題が、早くひとり手に自然に解けてしまえばいい――つまり、早くあの美しい二十七歳の女が老《ふ》けこんで、はやく私の頭が白髪に禿になればいいと願ったりした。
 ある日の朝食のとき、私の領地の管理人ヴラヂーミル・プローホルィチが、ピョーストロヴォの百姓たちは家畜の飼料に、とうとう藁屋根まで剥ぎはじめたと私に報告した。マリヤ・ゲラーシモヴナは怯えきった当惑そうな顔で私を見た。
「私に何ができますか」と私は彼女にいった、「一人ぼっちじゃ戦さはできぬ、というが、私はこの頃のように孤独を感じたことは未だかつてないですよ。もし頼みにできる男をこの郡じゅうに一人でも見つけて貰えるなら、お礼は惜しまんつもりだが。」
「じゃイ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ン・イ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ーヌィチをお招びになったら」とマリヤ・ゲラーシモヴナが言った。
「そうだった!」私は思いだして嬉しくなった。「それは思いつきだ! まったくだ《セ・レエゾン》」と、イワン・イワーノヴィチに手紙を書くため書斎へ向いながら、私は口ずさんだ、「まったくだ《セ・レエゾン》、まったくだ《セ・レエゾン》……。」

 かれこれ二十五年から三十年の昔になろうか、この家に来て飲み、食い、仮面舞踏に集まり、恋をし、結婚をし、自分たちのすばらしい猟犬や馬の話で人をうんざりさせた大勢の知人の中で、生き残っているのはイ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ン・イ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ーヌィチ・ブラーギン一人きりであった。かつては彼も非常なやり手で、おしゃべりで喧し屋で惚れっぽい男で、その過激な傾向と、ただに女性のみならず男性をも魅惑する一種特別の表情とをもって鳴っていた。今ではもうすっかり老い込んで、ぶくぶく太って、傾向も表情もなく余生を送っている。彼は手紙を受けとるとすぐその翌日にやって来た。ちょうど夕方で、食堂では今しがたサモ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ルが出たところ、ちっちゃなマリヤ・ゲラーシモヴナがレモンを切っていた。
「やあよく来てくれたな、君」と、出迎えながら私は陽気に言った、「だが君はますますふとるなあ。」
「この僕のは太るんじゃない、腫れ上がったのさ」と彼は答えた、「蜜蜂に刺《や》られたもんでね。」
 自分の太りようを自ら揶揄して見せる男の気置きのなさで、彼は両手を私の胴に廻し、小ロシヤ風に前髪をお河童にした柔らかな大きな頭を、私の胸に寄せかけて、甲高い老人の笑いごえで笑いこけた。
「だが君はますます若返るなあ」と彼は笑いのひまからやっと言った、「全体どんな白毛染でその髪や髯を染めるのかしらんが、僕もひとつ貰いたいもんだ。」彼は鼻をふうふう言わせて、喘ぎ喘ぎ私を抱擁し、頬に接吻して、「僕もひとつ貰いたいもんだな……」と繰り返した。「ときに君は、四十だったっけな。」
「いやあ、もう四十六だよ」と私は笑いだした。
 イワン・イワーヌィチは牛蝋と台所の油煙の臭いがして、いかにも人柄に合っていた。大きくてぶくぶくした鈍重な図体は、ボタンの代りにホック止めにした胴の括《くく》りの高い、馭者の上衣によく似た長いフロックにぎゅうぎゅう緊めあげられているのだから、もしこの男から例えばオーデコロンの匂いでもしようものなら、それこそおかしいに違いない。もう久しく剃《あた》ってない鳩羽色の、まず牛蒡《ごぼう》といった感じの二重顎にも、飛びだした眼にも、息ぎれの様子にも、不細工な無精たらしい姿全体にも、声音にも笑いごえにも言葉にも、その昔郡下の亭主どもをしてその妻を嫉妬させた、すらりとした美貌の話上手の面影はなかった。
「じつはね、大いに助けて貰いたいことがあるんだ」と、もう二人で食堂に坐って茶を飲んでいるとき、私はいった、「飢えている百姓のため、ひとつ救済事業を起こそうと思うんだが、どこから手をつけたらいいのかわからんのさ。と言うわけだが、君ならきっと何か智慧を貸してくれるだろうね?」
「そう、そう、そう……」とイワン・イワーヌィチは溜息まじりに言った、「なある、なる、なる……」
「僕は君に心配をかけたくはなかったんだが、しかしまったくのところ君のほかには、君、持ち掛ける相手は断然一人もないのだ。君も知ってるね、ここの連中がどんなだか。」
「なある、なる、なる……そう……」
 私は思った――今はじまろうとしている協議は真面目な事務的なもので、それには地位や私情にかかわりなく、誰にでも参加して貰って差支えない。ではひとつ、ナターリヤ・ガヴリーロヴナを招《よ》んではいけないだろうか。
「|三人寄れば文珠の智慧《トレース・ファキウント・コルレーギウム》!〔[#割り注]ラテン語で、「三人よれば団体」の意[#割り注終わり]〕」私は陽気にいった、「どうだね、ひとつナターリヤ・ガヴリーロヴナを招んで見たら。君はどう思うね? フェーニャ」と私は小間使に、「ナターリヤ・ガヴリーロヴナに、もしお差支えがなかったら、すぐ二階までお越しを願いたいと申し上げておくれ。非常に大切な用件だと申し上げてな。」
 暫くすると、ナターリヤ・ガヴリーロヴナがはいって来た。私は起ちあがって、彼女を迎えながら言った。
「ナタリイ、わざわざお呼び立てをして済まなかったが、じつはいま非常に重大な問題を話し合ってるところでね、あんたのいい智慧を拝借したらという考えが、幸いにしてわれわれの頭に浮かんだというわけだ。無論貸して頂けるだろうね。さ、どうぞお掛け下さい。」
 イワン・イワーヌィチはナターリヤ・ガヴリーロヴナの手に、彼女は彼の額に接吻した。それから三人してテーブルを囲んで坐ると、彼は涙ぐんでいかにも幸福そうに彼女を眺めながら、彼女の方へ身を伸ばしてふたたびその手に接吻した。彼女は黒いドレスを着て、念入りに髪をととのえ、爽やかな香水の匂いを立てていた。明らかにこれから訪問に出かけるところか、誰か客を待ち受けているところだったと見える。食堂にはいると、彼女はあっさりと親しげに私に手を差し伸べ、イワン・イワーヌィチに対すると同じに、愛想よくにっこりして見せた。これは私の気に入った。しかし彼女は、話をしながら指を動かしたり、頻繁に勢よく椅子の背にもたれかかったりして、早口に喋るのだった。このもの言いと動作にあらわれたむら気な落ちつきの無さが、私をいらいらさせ、彼女の生まれ故郷――オデッサのことを思い出させるのだった。いつかそこの男女と附き合って見て、私はその下品な調子に閉口させられたことがあるのだ。
「僕は、難民のため何かしてやりたいと思うのだが」と私は口を切り、少し沈黙してから言葉をつづけた、「そりゃ無論、金は大事な問題だが、単に金銭の喜捨だけにとどめて、それで自ら安んずるとしたら、もっとも重要な苦労を回避することになると思う。救済は結局金の問題になるには違いないが、肝腎な点はその組織の正しさ真摯さにあるのだ。で諸君、ひとつ考えて見ようじゃないか、そして何かやろうじゃないですか。」
 ナターリヤ・ガヴリーロヴナはもの問いたげに私の方を見て、肩をすくめた。『私に何がわかりましょう』とでも言いたそうに。
「そ、そう、飢饉……」とイワン・イワーヌィチはもぐもぐ始めた、「実際まったく。……そう……」
「事態は重大だ」と私はいった、「救済は火急を要する。僕思うに、われわれが立てねばならぬ原則の第一箇条は、すなわち迅速ということだ。軍隊式に、目測、機敏、急襲だ。」
「そう、機敏だ……」とイワン・イワーヌィチはまるでうとうとしかけたように、眠たげなだるそうな声を出した、「ただなんともしようはあるまいな。凶作だった、だもんでこんなことになった……こればかりはいかなる目測も急襲も突破はできまいな。……自然力さ。神と運命にはさからえない。……」
「そのとおりだ。だが人間が頭を授かっているのは、諸々の自然力と闘争するためじゃないか。」
「ええ? ああ……そりゃそうだ、そのとおり。……そう。」
 イワン・イワーヌィチはハンカチに嚏《くしゃみ》をして、元気づき、今やっと眼が醒めたように私と妻の顔を見まわした。
「僕のところでもさっぱり何も収《と》れなかった」と彼は細い声で笑いだし、さもそれがひどくおかしいことのように、ちらとずるそうに目配せをして見せた、「金もない、穀物もない、だのに屋敷内《やしきうち》と来たらまるでシェレメーチエフ伯〔ピョートル大帝の股肱の臣〕のお邸みたいに、お百姓で一杯だ。頸根っこをつまんで追い出しちまおうと思うが、可哀そうな気もしてね。」
 ナターリヤ・ガヴリーロヴナは笑い出して、イワン・イワーヌィチに、その家《うち》の様子を根掘り葉掘り訊ねはじめた。彼女のいるおかげで、私はもう久しく覚えたことのない愉快な気持ちになり、この秘かな感情がどうかした拍子に目つきにあらわれはしまいかと思って、なるべく彼女の方を見ないようにしていた。何しろ二人の間柄が間柄なので、そうした感情のあらわれは、突拍子もない滑稽なものに見えまいものでもないのだ。妻はイワン・イワ ワ ーヌィチと話し込んで笑っていたので、自分が私の部屋にいることも私が笑わぬことも、一こうに気にしていなかった。
「すると諸君、どうしたもんだろうね」と私は話の切れ目を待って訊いた、「僕思うにわれわれはまず手始めに、一刻も早く寄附の募集を始めようじゃないか。でナタリイ、僕たちはそれぞれ帝都とオデッサの知人に手紙を出して、寄附の勧誘をする。そして幾ぶんなりと集まって来たら、僕らは穀類と家畜の飼料の買附けにかかり、君は、イワン・イワーヌィチ、御面倒だが救恤品の配給の方を受持ってくれたまえ。一さいは君の持前の如才なさと経営の才に信頼するが、まあ僕らとして一言希望を述べさせて貰えば、君は救恤品を配給するに先だって、現地の情勢を逐一研究してくれたまえ。またこれもやはり大切なことだが、穀類が本当に困っている人間にだけ渡って、酔いどれや怠け者や、乃至は高利貸の輩には、決して渡らんように監視して貰いたいのだ。」
「そ、そう、そう……」とイワン・イワーヌィチはもぐもぐ始めた、「なある、なある、なる……」
『ええ、この涎《よだれ》くりの廃人相手じゃ粥は煮えんわい』と私は思い、いらいらしてきた。
「難民連中にゃもう懲り懲りしたよ、畜生めが。年じゅうぶすくさ言いおる、年じゅうぶすくさ言いおる」とイワン・イワーヌィチは、レモンの皮をしゃぶりながら言葉をつづけた、「難民は腹の満《く》ちい連中のことをぶすくさ言う。穀物のどっさりある連中は、難民のことをぶすくさ言う。そうとも。……飢えのため人間は頭が変になる。鈍《どん》する、兇暴になる。飢えは甘いもんじゃない。飢えりゃ乱暴なことも言う、盗みもする、いやもっと悪い事だってしかねない。……これがわかってなくちゃ駄目だ。」
 イワン・イワーヌィチはお茶にむせて咳き入り、首を絞められたようなきんきんした笑いで、総身を顫わせはじめた。
「そも戦いはポ…ポルタワの! 〔ポルタワの役を枕にして、古い話を披露するのである〕」と彼は、笑いと咳とで口が利けず、両手で払いのけるような恰好をしながら、やっとこさで言った、「そも戦いはポルタワの! 農奴解放の年から三年ほどしてだったが、この近在二郡に飢饉があったんだ、今は故人になったが、フョードル・フョードルィチが僕のところへやって来てね、来てくれと言う。行こうよ、さ、行こうよって、まるで咽喉もとへ短刀《どす》でも突附けそうな剣幕だ。ああいいとも、じゃ行こうってわけでね、早速連れだって出掛けた。時しも頃は夕まぐれ、ちらちら白い物が降っていた。彼の屋敷に近くなった頃はもう真夜中だったが、やにわに森の中からズドンと来た! もう一ぺんズドン! ひゃあ、畜生め!……というわけでね、僕は橇から飛びだして見ると、暗がりの中を一人、膝まで雪に埋めながら僕めがけて向ってくる奴がある。僕はそいつの両の肩へ、それこういう工合に腕を廻してね、握っている鉄砲を叩き落した。そこへ又一人とび出した。そいつの頸根っこへガンとくれたところが、ぎゃっと一声、雪の中へ鼻を突込んで伸びちまった。その頃は僕も頑健でね、馬鹿力があったものさ。まず二人を軽くひねって置いて向うを見ると、フェーヂャはもう三人目の奴に馬乗りになっている。僕らはこの三勇士をそのまま引ったてた。そりゃ両手を後手に縛ってね、僕らにも自分らにも悪戯《わるさ》が出来んようにして、馬鹿者どもを台所へ引っぱり込んだ。奴らが憎くもあれば、顔を見るのが気恥かしくもあるってわけさ。何しろよく知っている百姓たちでね、いい人間なんだ。気の毒になったよ。恐怖のあまりまるで痴呆《ばか》になっていた。一人は赦してくれとめそめそ泣くし、一人はまるで獣みたいになって罵詈雑言する、三人目は跪いてお祈りを上げている。僕はフェーヂャに言った、まあ腹を立てるな、この卑劣漢どもを放してやれ。彼は奴らに物を食わしてね、麦粉一プード〔[#割り注]一プードは約十六キログラム[#割り注終わり]〕ずつ背負わして放してやった、消えて失くなれ! ってね。まあそんな工合だったよ。……天国へ往かしめ給え、永遠《とわ》に安らわんことを! あの男は話がわかっていて、べつに腹も立てなかったが、世間には腹を立てた連中もいてね、そのためどれだけの人間を台なしにしてしまったことか。そうさ……。クロチコーフの酒場の事件だけでも、十一人から懲役に行ったからね。そう……。現に今だって見給え、同じことだ。この木曜、僕の家に予審判事のアニーシインが泊って行ったがね、どこかの地主の話をしてくれた。……そう。……夜中のうちにその地主のとこの納屋の壁を崩してね、ライ麦を二十俵引いて行ったんだ。朝になってその地主が、自分のとこでそうした刑事犯の行われたのを聞くと、早速ぶうんと県知事へ電報を飛ばした、も一つぶうんと検事へ飛ばした、三つ目を署長へ、四つ目を予審判事へ……。誰しも告口屋の怖いのは知れたことだ。そこで偉い人たちが仰天して、大騒ぎになった。村を二つ隅なく探したんだ。」
「お話中だが、イワン・イワーヌィチ」と私は言った、「ライ麦二十俵は僕のところで盗《や》られたのだ。知事へ電報を打ったというのは僕さ。ペテルブルグへも打ったよ。だがそれは決して、君が言われるように告口が好きでやったわけでもなく、また僕が腹を立てたからでもない。あらゆる問題を、僕はまず原則の側から見るのだ。満腹している者が盗もうと飢えた者が盗もうと、法律にとっては無差別だ。」
「そ、そう……」とイワン・イワーヌィチはどぎまぎして口ごもった、「無論それは……なるほど、そう……」
 ナターリヤ・ガヴリーロヴナがさっと気色ばんだ。
「こういう方《かた》がありますのね……」と彼女は言いかけてやめた。彼女は冷静を装おうと懸命に自分を抑えていたが、とうとうこらえ切れずに、私には馴染のふかい例の瞋恚《しんい》のまなざしでわたしの眼を睨みつけて、「こういう方《かた》がありますのね」と言った、「飢饉も気の毒な人たちの艱難も、ただ御自分の邪しまなみすぼらしい根性の吐き散らし場所としての他には、意味がないというような。」
 私は狼狽して肩をすくめた。
「あたくし一般のことを申しておりますのよ」と彼女はつづけた、「恐ろしく冷淡で、同情心などはまるっきり無いくせに、そのくせ御自分の世話にならずに切り抜けられるのが怖さに、人の艱難を見過ごすことができず、喙を入れるというような方《かた》がありますのね。そういう方《かた》の虚栄心にかかっては、何ひとつ神聖なものはないのですわ。」
「こういう人もあるね」と私はもの柔らかに言った、「天使のような性質の持ち主でありながら、その歎賞すべき思想を表現する形式をもって見ると、さて天使やら、オデッサの市場の物売り女やら、みわけがつきかねるという風なね。」
 はなはだまずいことを言ったものだとは、自分でも知っている。
 妻は私にちらりと目をくれたが、その顔つきで見ると、黙っているにはよほどの努力を要したらしかった。彼女の不意な気色ばみよう、それから私の難民救済の希望に関する場所がらわきまえぬ懸河の弁、この二つはいくら内輪に見積っても時宜に適せぬものであった。彼女を二階へ招いたときの私の気持ちでは、自分および自分の目論見に対する彼女の全然ちがった態度を期待していた。何を期待していたかをはっきりと言うことはできないけれど、とにかくその期待は私を楽しく興奮させていた。さて今となっては、これ以上難民の話をつづけることは困難でもあり、また恐らくは賢明でもなかろうことを、私は見て取った。
「そう……」と折悪しくイワン・イワーヌィチが呟きだした、「商人のブーロフのところには四十万はある、もっとあるかも知れん。だから私はこう言ってやる、『出してやれよ、なあ同名者《チョースカ》〔洗礼名を同じくする者同士である〕、難民たちに十万か二十万ほどさ。どうせいつかは死ぬんだし、あの世へ担いで行けるものでもなし』ってね。奴さん腹を立てた。だがやっぱり死ぬことは死ぬんだ。死は甘いもんじゃない。」
 ふたたび沈黙が来た。
「するとつまり残る途はただ一つ、孤独と仲直りをするだけか」と私は溜息をついた、「一人ぼっちじゃ戦さはできぬ。なあに、かまうものか。ひとりで戦って見ようよ。おそらく飢饉との戦いは、冷淡との戦いよりはうまく行くだろうよ。」
「あたくし、階下《した》に待たせてありますから」とナターリヤ・ガヴリーロヴナが言った、彼女はテーブルを離れて、イワン・イワ
ーヌィチに、「では後刻|階下《した》のあたくしのところへちょっとお寄り下さいましね。いまはお別れを申しませんわ。」
 そして出て行った。
 イワン・イワーヌィチはすでに七杯目の茶を飲んでいた。息をはずませ、唇をぴちゃぴちゃ言わせ、口髭をしゃぶったり、レモンの皮をしゃぶったりして。彼は眠たげなだるそうな調子で何かもぐもぐ言っていたが、私はそれには耳も藉さずに、彼の出て行くのを持っていた。とうとう、腹いっぱい茶を飲むだけに私のところへやって来たような顔をして、彼は立ち上がって別れの挨拶をはじめた。彼を送り出しながら私は言った。
「結局君はなんの助言もしてくれなかったわけだな。」
「え? 僕は青ん脹れの老いぼれさ」と彼は答えた、「僕の助言がなんになるもんか。それに君は無駄な心配をしてるんだよ。……僕にはまったくわからんな、君がなんで心配してるのか。まあ心配し給うな、いい子だから。僕が請け合うよ、心配することなんか何ひとつありはしないんだよ……」彼は私をまるで子供のように宥《なだ》めながら、真心をこめていたわるように囁いた、「請け合うよ、何にもありはしないんだよ!……」
「どうして無いものか。百姓は農舎の屋根を剥がしているし、もうどこかにチフスが出たとかいう話だ。」
「で、それがどうだと言うのさ。来年はまた豊作で、新しい屋根が出来るだろうよ。また僕らがチフスで死んだとしたって、そのあとには他の連中が住むだろうじゃないか。晩かれ早かれ、どうせ死ななけりゃならんのだ。心配し給うな、なあ君。」
「僕は心配せずにはおられんのだ」と私はいらいらして言った。
 私たちは灯火《あかり》のうす暗い控間に立っていた。イ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ン・イ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ーヌィチは突然わたしの肘を捉え、一見何か非常に重大なことを言おうとしているような風で、半分間ほど無言で私を見つめた。
「パーヴェル・アンドレーイチ」と彼は小声でいった。と、彼の硬張らせた脂ぎった顔と暗い眼に突然、その昔鳴らせたあの一種特別の表情が閃いた。それはまったく魅力のあるものだった。「パーヴェル・アンドレーイチ、友達として僕は言うんだが、君のその性格を変えたまえ。君は附き合いにくい男だよ。なあ君、じつに附き合いにくいよ。」
 彼はじっと私の顔を見つめた。素晴らしい表情は消え、眼つきはどんよりとして、ふうふう鼻を鳴らしながら懶《ものう》げに呟いた。
「そう、そう……老人の繰り言だ、許し給え。……愚痴さ。……そう。……」
 身体の平均をとるため両手を拡げ、脂肪ぶとりの大きな背中と、赤いうしろ頸を見せながら、重そうな足どりで階段を降りて行く彼の後姿は、何か蟹類のような不快な感じだった。
「君はどこかへ出掛けるといいんだよ、なあ閣下」と彼はもぐもぐ言った、「ペテルブルグか外国へでもね。……こんなところに住んで黄金の時を空費する手はないんだ。君は若いし丈夫だし金持だし。……そう。……ええくそ、僕だってもう少し若けりゃ、兎みたいに跳びだして、耳で風を切って廻るんだがな。」

 妻のにわかの逆鱗は、私に自分たちの夫婦生活を思い出させた。以前にはこうした赫怒のあとでは、お互いに打ち克ちがたい牽引を感じるのが常で、どっちからともなくいっしょになって、平生から胸に欝積していたあらん限りのダイナマイトを爆発させたものであった。今も、イワン・イワーヌィチが出て行ったあとで、私ははげしく妻へ牽きつけられた。階下《した》へ行って、お茶の時の彼女の行状が私の面目を潰したこと、彼女は不人情なみすぼらしい女で、とてもその町人根性じゃ、私の言うこと私の為すことがわかるようになる見込みはない、と言ってやりたかった。私は長いこと部屋から部屋へ歩き廻って、言ってやることを思いめぐらしたり、彼女がなんと言い返すだろうかと想像してみたりした。
 近ごろ私を悩ましつづけていた不安な気持が、その晩イワン・イワーヌィチが出て行ったあとでは、特に何かしら苛立たしい形をとっているように感じられた。私は居ても立ってもいられない気持で、やけに歩き廻るのだったが、それも灯火《あかり》のついている部屋だけを選び、しかもマリヤ・ゲラーシモヴナのいる部屋の近くから離れなかった。それはいつか北海で暴風に逢ったとき、積荷も底荷《バラスト》もないその船が引っくり返りはしまいかと船中の皆が心配した、その時の気持によく似ていた。その晩私は、自分の不安は私が以前想像したように幻滅なのではなく、何か別のものであることを覚った。しかしそれが果たしてなんであるかがわからず、そのために私はますますいらいらするのであった。
『彼女《あれ》のところへ行こう』と私は思い定めた、『口実は見つかる。イ ワン・イワーヌィチに用があると言おう、それだけの話だ。』
 私は階下《した》へ降りて、いそがず絨毯づたいに控室と広間を通り抜けた。イ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ン・イ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ーヌィチは客間のソファに掛けて、またお茶を飲みながらもぐもぐ言っていた。妻はその向いに、肘掛椅子の背に手をかけて立っている。彼女の顔には、人がよく白痴を装う行者や神憑《かみがか》りの言うことを聴きながら、その世迷い言やぼそぼそ声に何か格別な秘かな意味を推測するときに見せる、あの柔和な甘たるい殊勝げな色が浮かんでいる。私は妻の表情にも姿にも、何かしら精神病的な或いは修道院的なものがあるような気がし、古めかしい調度があり、籠のなかで眠っている小鳥がい、ゼラニウムの匂いがし、天井が低くて薄暗くて、そしてむんむんするほど温かな彼女の部屋部屋は私に、尼僧院長の居間か、さもなければ信心に凝った老将軍夫人の居間を思わせるのだった。
 私は客間にはいった。妻は意外の色も当惑の色も見せずに、まるで私の来るのをちゃんと知っていたように、険を含んだ平然とした眼つきで私を見た。
「失礼」と私はもの柔らかな口調でいった、「これは有難い、イ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ン・イ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ーヌィチ、君はまだいてくれたね。じつは階上《うえ》で訊くのを忘れたんだが、ここの郡会議長の名と父称を君は知らないかね?」
「アンドレイ・スタニスラヴォーヴィチ。そう……」
「多謝《メルシ》」と私は言って、ポケットから手帳を出して書きとめた。
 沈黙が来た。そのあいだ妻とイ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ン・イ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ーヌィチは、たぶん私の出て行くのを待っていたのだろう。妻は、私が郡会議長に用があることなどは信じてもいなかった。それは彼女の眼色でわかった。
「じゃ、おいとまするとしましょう、天人のおそばを」とイ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ン・イ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ーヌィチは、私が客間を一度二度と行き戻りして、やがて暖炉《カミン》のそばに腰を下ろしたとき、そうぼそついた。
「いけません」と口早にナターリヤ・ガヴリーロヴナは、彼の手に指を触れて言った、「もう十五分……お願いですわ。」
 明らかに彼女は、立会人なしで私と面と向い合わせて残るのが厭だと見える。
『なあに、十五分ぐらい待って見せるさ』と私は考えた。
「や、雪だぞ!」私は立ち上がって窓の外を見ながら言った、「雪とは素晴らしいね。イ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ン・イ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ーヌィチ」と私は部屋を歩き廻りながらつづけた、「僕は猟のできない自分がつくづく情ないよ。こうした雪の中を兎や狼を追っかける、さぞ愉快だろうなあ。」
 妻は一ところにたたずんだまま、首を廻さずに横目をつかって、私の動作を追っていた。その顔つきは、まるで私がポケットに、鋭利なナイフかピストルを匿してでもいるようだった。
「イ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ン・イ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ーヌィチ、僕をぜひひとつ猟に連れてってくれないか」と私はもの柔らかにつづけた、「僕はじつにじつに感謝するがなあ。」
 そのとき部屋へ客がはいって来た。私の知らない四十恰好の紳士で、背は高く、がっしりして、頭は禿げ、亜麻色の大きな髯と小さな眼をしている。よれよれの袋みたいな服とその物腰とから、私は番僧か教員だろうと睨んだが、妻はその男をドクトル・ソーボリと紹介した。
「お目にかかれて、じつに欣懐の至りです」と医師はテノールの大声で、私の手をぎゅっと握り、悪気のない笑顔を見せながら言った、「欣懐の至りです。」
 彼はテーブルに向って席を占め、茶を一杯取って、大声で言った。
「お宅にはラムかコニャックのお持ち合わせはありませんかな? ひとつ頼まれて下さい、オーリャ」と小間使に、「戸棚を覗いて見て下さらんか。ああ凍えそうだ。」
 私はふたたび暖炉の傍に腰をおろし、皆の顔を見廻し、耳を傾け、そして時たま一座の話に何か一言口を入れたりした。妻は愛想のよい笑顔を客たちに見せる一ぽう、まるで私が獣であるかのように監視の眼を放さなかった。私の存在を煙たがっている彼女の様子に、私はむらむらと嫉妬を覚え、腹立たしさを覚え、よし痛い目に逢わせてやれと片意地な慾望が湧いた。妻も、と私は心に思う、――この居心地のいい部屋部屋も、この暖炉のそばの小さな場所も、みんな私のものなのだ、ずっと前から私のものなのだ。だのに何かの拍子で、このうす呆けたイ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ン・イ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ーヌィチとかソーボリとかいう手合いが、それらに対して私以上の権利を持っている。いま私は、窓からではなしにすぐ身近に妻を、しかもそろそろ五十の声を聞こうとする私の現在に欠けているありきたりの家庭的環境のなかに見ている。そして彼女が私を憎悪しているにもかかわらず、かつて子供の頃に母親を慕い乳母を慕ったように、私は彼女を慕っている。そしてこの年をして自分がいま、以前よりはもっと清らかな、もっと高い愛で彼女を愛しているのを、私は感じている。だからこそ私は、彼女に歩み寄り、踵で爪先をぎゅっと踏んづけ、痛い目を見せて、そこでにやりと一笑してやりたいのだ。
「ムッシウ・エノート〔[#割り注]あらいぐまの意。ソーボリ(黒貂)氏をわざと言い違えた[#割り注終わり]〕」と私は医師に話しかけた[#「」と私は医師に話しかけた」は底本では「と私は医師に話しかけた」]、「この郡には幾つ病院がありますか。」
「ソーボリさんよ……」と妻が訂正した。
「二つです」とソーボリは答えた。
「ところで、病院一つ当り毎年どのくらい亡者が出ますかな。」
「パーヴェル・アンドレーイチ、ちょっとお話がありますわ」と妻が私に言った。
 彼女は客たちに失礼を詫びて、隣の部屋へはいった。私は立ち上がってそれに従った。
「あなたは今すぐお二階へお帰りになって頂戴」と彼女は言った。
「君は教養がないですなあ」と私は言った。
「あなたは今すぐお二階へお帰りになって頂戴」と彼女は鋭く繰り返して、憎しみをこめて私をまともに睨《ね》めつけた。
 彼女はすぐ鼻先に立っている。私がちょっと前へ屈んだら、私の髯が彼女の顔に触れるに違いない。
「だが一たい何ごとかな」と私は言った、「咄嗟の間に私がいかなる悪事を働いたのかな。」
 彼女は頤をぴりぴり顫わせたかと思うと、急いで眼をぬぐい、ちらっと姿見をのぞき、そして声を殺して、
「またぞろいあいかわらずの幕があくのね。あなたはとても出ていらしては下さいますまい。では御勝手に。あたくしが出て参ります、あなたは残ってらっしゃいまし。」
 彼女はきっぱりした面持ちで、私は肩をすくめて冷笑を浮かべようと努めながら、二人は客間へ戻った。そこにはもう新しい客が二人いた。どこかの老婦人と、眼鏡をかけた青年とである。新顔と挨拶もせず、古顔と別れの言葉も交わさずに、私は自分の住居へ引き上げた。
 お茶のとき二階であった出来ごと、つづいて階下《した》での出来ごとのあとで、私にとってはっきりして来たことは、この二年のあいだに私たちがそろそろ忘れかけていた私たちの『結婚の幸福』が、何かの瑣細な馬鹿げた原因のためふたたび新たに始まろうとしているということ、そして私にしろ妻にしろもはや踏み留まることはできず、明日か明後日には、お互いに憎悪が堰を切るのに追っかけて、私が過去数年の経験によって判断し得るところによると、何かしら厭なことが持ち上がって、私たちの生活を根柢から覆すに違いないということであった。して見るとこの二年のあいだに――と私は、二階の部屋部屋を歩き廻りはじめながら心に思った、私たちは前より賢明にも、冷淡にも、平静にもなっていないのだ。つまり、またもや涙だ、金切声だ、愛想づかしだ、トランクだ、外国だ、つづいて彼女が外国でどこの馬の骨やらわからぬイタリヤ人かロシヤ人の伊達者といっしょに、私の顔に泥を塗るようなことをしはしまいかという、片時も休まらぬ病的な恐怖だ、またもや旅券の拒絶だ、手紙の往復だ、絶対の孤独だ、彼女への愛慕だ、そして五年もすれば、老年、白髪……。私は歩き廻りながら、あり得べからざる光景――ますます美しく、太ってきた彼女が、私の知らぬ男と抱擁しているところを、心に描いた。もう必ずそういうことになると思い込んでしまった私は、ではなぜ――と絶望的に自問するのだった、ではなぜ、久しい前からのあの度び重なる夫婦喧嘩のうちの一つで、彼女を離縁してしまわなかったろう、またなぜそのとき彼女のほうから、永遠に私を棄てて出て行ってくれなかったのだろう。そうなっていたら、今ごろはこんな未練も憎悪も苦労もなく、私は仕事をしたり、なんの思い煩うこともなく、静かに余生を送っていたろうに。……
 庭先へ角灯を二つつけた箱馬車がはいって来た。それから三頭立ての大きな橇がはいって来た。妻のところでは夜会があると見える。
 十二時頃までは階下《した》はしんとしていて、何の物音も聞こえて来なかったが、十二時になると椅子を動かしはじめ、食器の音がしだした。つまり夜食だ。やがてまた椅子の引越しがはじまり、床《ゆか》の下が騒々しくなって、皆でウラーを叫んだようだった。マリヤ・ゲラーシモヴナはもう床にはいり、二階じゅうに私のほかには人気はなかった。客間では、つまらぬ残忍な人間であった先祖たちの肖像が、壁の上から私を見下ろし、書斎では私のランプの反射が窓で厭らしい眼配せをしていた。そして私は、階下《した》で行われていることに羨望と嫉妬を感じながら、耳を澄まし、心に思うのだった、『この家の主人は私[#「私」に傍点]だ。その気になれば、立ちどころにあの尊敬すべき連中を残らず追っ払ってしまえるのだ』と。だが私はそれが馬鹿げた考えであることも、一人だって追っ払えはせぬことも、第一『主人』という言葉からしてなんの意味もないことも、知っていた。自分が主人だとでも、妻帯者だとでも、金持だとでも、侍従だとでも、思いたいだけ思うがいい。が同時に、それがなんのことやらわかったものじゃないのだ。
 夜食がすむと、階下では誰かしらテーブルで歌いはじめた。
『そら見ろ、別に変ったことも起こりゃしなかったんだ』と私は自分に言いきかせた、『なんだってこう興奮してるんだ。明日あれのところへ降りて行かぬことにする、それだけの話だ。それで私たちの喧嘩もお仕舞いだ。』
 一時十五分過ぎに、私は寝室へはいった。
「階下のお客さんはもう帰ったかね」と私は、服を脱がせてくれるアレクセイに訊いた。
「さようでございます。皆様お帰りになりました。」
「だがなぜウラーをやったのかね。」
「アレクセイ・ドミートリチ・マーホノフが、難民救済のため麦粉一千プードとお金を一千ルーブリ寄附なさいました。それからお名前は存じませんがさるお年を召した御婦人から、御自分の領地に百五十人分の食堂を設けられる旨お約束がありました。有難いことでございます。……ナターリヤ・ガヴリーロヴナは、皆様が毎週金曜日にお集まりになるよう決議をお出しになりました。」
「この階下《した》に集まるのか?」
「さようでございます。お夜食の前に読み上げられました一札によりますと、八月から今日までにナターリヤ・ガヴリーロヴナは、穀類のほかに八千ルーブリほどお集めになりましたそうで。まことに有難いことで。……私は、閣下、こう考えますのですが、もし奥様が魂の救いのお為に御奔走遊ばしたら、それはそれはどっさりお集めでございましょうよ。ここの方々は物持ちでございますから。」
 アレクセイを退らせて、私は灯を消し、頭からすっぽりくるまった。
『まったくのところ、何だっておれはこう気が揉めるんだ?』と私は思った、『一たいなんの力がこのおれを、蛾が灯に牽きつけられるように、難民の方へ牽きつけるんだろう? 現におれは奴らを知りもせず、理解もせず、一度だって見たこともなく、愛してもいないじゃないか。ではこの不安な気持はどこから来るのか。』
 私は急に毛布の下で十字を切った。
『だがなんという女だ』と妻のことを考えて、私は自分に言った、『おれに隠してこの家で紛れもない委員会なんか開いてる。なんだって隠すんだ。なんだって陰謀を企らむんだ。おれがいったい彼らに何をした。』
 イ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ン・イ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ーヌィチの言ったことは本当だ。――おれは旅に出なけりゃならん!
 あくる日私は、一刻も早く発《た》とうという固い決心をもって眼を覚ました。昨日の一部しじゅう――お茶のときの会話、妻、ソーボリ、夜食、私を捉えた恐怖、それを思うと私はせつなくてならず、そうした物ごとを一いち思い出させる環境から、間もなく脱け出せるのだと思うと嬉しかった。私がコーヒーを飲んでいると、管理人のヴラヂーミル・プローホルィチが色んな件について長ながと報告をした。一ばん愉快な件を彼は最後まで取っておきにしていた。
「当家のライ麦を盗んだ賊が見附かりました」と彼はにこにこして報告した、「昨日予審判事がピョーストロヴォ村で、三名の農夫を逮捕致しました。」
「あっちへ行って貰おう」と私はどなりつけ、怖ろしく腹が立って、わけもいわれもなしにビスケットの籠を掴んで床《ゆか》へ叩きつけた。

 朝食がすむと私は手をこすりながら考えた。妻のところへ行って、出発のことを告げなければならん。だが何のためだ。誰にそれが必要なのだ? 誰にも必要はない、と私は自分に答えた、しかしなぜまたそれを通告してはならぬのだ。ましてそれは彼女に、満足以外の何ものをも与えぬだろうじゃないか。そのうえ昨日の口争いのあった後で、一言も言わずに出て行くのは、あまり上分別とは言われまい。彼女は私が怖気づいたと思うかもしれないし、自分が私を追い出したのだという考えのため、恐らく彼女は気が咎めるであろう。また私が五千ルーブリ寄附することを彼女に通告して置いてもいいわけだし、組織について二三の助言を与え、こうした複雑な責任ある仕事に未経験な彼女のことだから、きわめて悲惨な結果に陥る懼れのあることを、警告して置くのも悪くはあるまい。要するに私は妻の方へ牽きよせられたので、そばへ行くための色んな口実を考えている一ぽうでは、ぜひそうして見せるぞという固い信念がすでにできていたのである。
 私が妻のところへ出かけた時は明るくて、まだランプがついていなかった。彼女は客間と寝室とをつなぐ自分の仕事部屋に坐り、机にかがみ込んで、何やらしきりに書いていた。私を見ると彼女は身顫いをして机を離れ、まるで私から書類を遮るような恰好で立ちどまった。
「失敬、ちょっと一分ほど」と私は言い、どうしたわけだかどぎまぎした、「じつはねナタリイ、ふとしたことで耳にはいったんだが、君は難民救済を計画してるんだってね。」
「ええ、しておりますわ。でもこれは私の仕事よ」と彼女は答えた。
「ああ、それは君の仕事さ」と私はもの柔らかに言った、「僕はそれを聞いて嬉しいんだよ、まったく僕の考えと一致しているからね。で僕も仲間に入れて貰いたいのだが。」
「失礼ですけど、あたくしそれはお断りいたします」と彼女は答えてそっぽを向いた。
「なぜかね、ナタリイ」と私は静かに訊いた、「なぜかね。僕も何不足ない身分だから、やはり難民を助けたいと思うんだが。」
「一たいどういうおつもりですの」と彼女は蔑むようなうす笑いを見せ、片方の肩をすくめて訊いた、「あなたには誰もお願いしておりませんわ。」
「君にだって誰も頼んだわけじゃない。だのに君は、僕の[#「僕の」に傍点]家で委員会なんか開いたのだ」と私は言った。
「あたくしは頼まれましたの。けどあなたには、誰一人ついぞお願いしたものはありませんわ、本当よ。どこへでもいらして、誰もあなたを知らないところで御援助をなさいまし。」
「お願いだから、僕にそういう物言いはよして貰いたいね。」
 私は穏かにしようとつとめ、冷静を失わぬよう一心こめて自分に祈った。はじめのうちは妻のそばにいるのが楽しかった。何かしらもの柔らかな、どっしりと主婦らしい、若やいだ、女らしい、非常に優美な気分、つまり私の二階にはもとより私の生活全体にあれほど欠けている気分が、吹いて来るのであった。妻は薔薇色のフランネルの部屋着を着ていて、それが彼女をひどく若く見せ、その目まぐるしい、時としては烈しい動作に、柔らか味を与えていた。かつて一目みただけで私の胸を燃え立たせた彼女の美しい暗色の髪は、いま長いあいだうつ向いて坐っていたのでほつれて、乱れたさまを見せていたが、そのため私には一そうふさふさと見事に見えるのであった。だがすべてこんなことは俗悪なまで平凡なことだ。私の前に立っているのは世間並みの恐らくは不縹緻で粗野な女なのだが、それがかつては私がいっしょに暮らし、また彼女の不幸な性格さえなかったなら今日なおいっしょに生活していたにちがいない、私の妻なのである。それはこの地上で私の愛したたった一人の人間である。いま出発を前にして、もう窓からでさえその姿を見ることはあるまいと思うにつけ、邪慳で冷淡で、横柄な蔑《さげす》みのうす笑いを浮かべて受け答えをする女であるにせよ、やっぱり彼女が蠱惑的に見え、誇らしく思われ、この女から別れて行くことは私には怖ろしい、とてもできないと自覚するのだった。
「パーヴェル・アンドレーイチ」と暫く黙っていた彼女が言った、「二年のあいだ私たちはお互いに邪魔をせずに、静かに暮らしましたわね。それをなんだって急に、また元に帰ろうとなさいますの? 昨日もあなたは、私に恥をかかせ厭な思いをさせにいらしたわね」と彼女は声を高めてつづけた。その顔は紅らみ、眼は憎悪に燃え立った。「でもどうぞ自制なすって、そんなことはなさらないで頂戴、パーヴェル・アンドレーイチ。明日になったら私願書を出して、旅券を貰って、出て行きますわ、行きますわ、行きますわ。修道院へ、未亡人ホームへ、養育院へ……。」
「癲狂院へね!」と私は我慢しきれなくなって叫んだ。
「ええ癲狂院へだって! そのほうがいいわ、いいわ!」と眼をきらきらさせながら、彼女は叫び立てた、「あたし今日ピョーストロヴォへ行って、飢えて病気になった女たちが羨ましくなりました。あの人たちはあなたみたいな人といっしょに暮らしてはいませんからね。あの人たちは正直で自由だけど、私はあなたのお情で居候にして頂いて、のらくらして身を亡ぼし、あなたのパンを食べ、あなたのお金を使い、そのお返しに私は自分の自由と、誰にも用のない妙な貞節とを捧げているのですわ。あなたが旅券を下さらないおかげで、私は見かけだおしのあなたの御立派な名を守っていなければならないのですわ。」
 口を利いてはならなかった。歯をくいしばって、私は足早に客間へ出て行ったが、すぐまた引き返して言った。
「かたくお願いしておくが、今後は僕の家をあんな集会や陰謀や密議室に使わないで貰いたい。僕の家には僕の知人だけ出入りを許す。君のあの悪党どもは、博愛がしたいならしたいで、どこか他の場所を捜すがいいのだ。君のような気の変な女を搾取しうる嬉しさのあまり、僕の家で毎晩真夜中にウラーを唱える、そんなことを僕は許さん。」
 妻は手をもみしぼり、まるで歯が痛みでもするような長い呻きを立てながら、真蒼になって足早に隅から隅へ歩いた。私は手を一振りして客間へ出て行った。私は忿怒で息が詰まりそうだった。それと同時に、自分が自制を失って、何か一生の後悔のもとになるようなことをしたり言ったりしはしまいかという恐怖に戦いていた。そして自分を抑えようと思って、しっかり手を握りしめていた。
 水を飲み、やや落ちつくと、私は妻のところへ帰った。彼女は書類を載せた机を私から遮るような元の姿勢で立っていた。冷やかな蒼ざめた彼女の顔を、ゆっくり涙が伝わっていた。私は少し黙っていたが、やがてもう忿怒を忘れた悲痛な声で彼女にいった。
「君はどうしてそう僕がわからないのだ。どうしてそう僕を邪推するのだ。名誉にかけて誓う、僕は純粋な動機から、善をしたいという唯一の希望から、君のところへ来たのだ。」
「パーヴェル・アンドレーイチ」と彼女は胸に手を重ねて言った。彼女の顔は、お仕置きをしないでと怯えて泣きながら哀訴する子供に見られる、あの惨めな縋るような表情になった。「あなたがいやだと仰しゃることはよく知っていますけど、けれどやはりお願いしますわ。どうぞ我慢なすって、一生にせめて一度でも善いことをして下さいまし。お願いですから、ここを発《た》って頂戴。あなたが難民にお尽しになれるのは、これ一つだけですわ。どうぞ発《た》って下さいまし。そうすれば何もかもすっかり赦して差し上げますわ。」
「何もわざわざ僕の気を悪くすることはないじゃないか、ナタリイ」と私は、急に一種特別な謙虚な気持の湧くのを感じながら嘆息した、「僕はもう発《た》つことに決めているのだ。しかし、難民のために何かしてやらないうちは、僕は発《た》てない。それは、義務だ。」
「ああ」と彼女は小声で言って、いらだたしげに眉をしかめた、「あなたは鉄道や鉄橋なら立派にお作りになれますわ。けど難民のために何ひとつだってできるものですか。そこがおわかりにならなくちゃ駄目よ。」
「そうかね。君は昨日、僕が無関心だとか同情心がないとかいって非難したっけね。君はなんてよく僕を知っているのだ」とうす笑いをして、「君は神様を信じてるね。じゃその神様が証人だ、僕が夜も日も気を揉んでいることのね……」
「私だってあなたが気を揉んでらっしゃることはわかっています。けどそれには飢饉も同情もなんのかかわりもないのです。あなたが気を揉んでらっしゃるのは、難民があなたのお世話にならずにやって行き、郡会やその他一般の救済者があなたの指導を必要としていないからですわ。」
 私は怒りを殺すために暫く口を噤んで、やがて言った。
「僕は君に打ち合わせがあって来たのだ。お掛けなさい。どうぞお掛けなさい。」
 彼女は坐らなかった。
「お掛けなさい、どうぞ」と私は繰り返し、椅子を示した。
 彼女は坐った。私も腰を下ろして、暫く考えてから言った。
「僕の言うことを真面目に聞いて貰いたい。いいかね。……君は隣人愛に励まされて、難民救済の組織を引受けたのだ。むろん僕はそれになんの反対もしない。まったく同感だし、二人の関係がどうあろうとあらゆる協力をする覚悟だ。しかし君の頭脳と心情……心情とに」と私は繰り返して、「対する僕の満腔の敬意にもかかわらず、僕は救済事業の組織というような困難複雑しかも責任の重い仕事が、君一人の手にあることを許すわけには行かないのだ。君は女性だ、無経験で、世情にうとく、あまりにも信じやすく感激しやすい。君はぜんぜんみず知らず同様の輔佐役連に囲まれている。以上のような条件下にあっては、君の活動は否応なしに次の二つの結果をもたらすといっても、誇大に失しはしまいと思う。第一にはこの郡は結局何の救済も受けず仕舞いであろうし、第二には君自身および輔佐役たちの過失によって、君は自腹を切らなければならぬのみならず、自分の名誉をも台なしにする羽目になるだろう。金品が着服されたり、手ぬかりがあった点は私がつぐなうとしても、誰が君に名誉を返してくれるだろうか。監督不行届と怠慢の結果として、君したがっては僕がこの事業で二十万儲けたなどと噂が立ったとき、君の輔佐役連中は君に助け舟を出してくれるかね。」
 彼女は黙っていた。
「君が言うように利己心からではなく」と私は言葉をつづけた、「たんに難民が救済を受けず仕舞いになったり、君が名誉を失ったりする事がないように、僕は君の仕事に喙を容れることを自分の道徳上の義務と考えるのだ。」
「もっと簡単に仰しゃって」と妻は言った。
「どうかお願いだから」と私はつづけた、「今日までに君の手許に幾ら集まったか、そしてすでに幾ら費ったか見せてくれたまえ。それから現金なり物品なりの新規の受入れのある都度、また新規の支出のある都度に、毎日僕に報らせて貰いたい。それから、ナタリイ、君の輔佐役たちの名簿を僕に渡して貰いたい。或いは彼らは申しぶんのない紳士たちかも知れん。それを疑うわけではないが、とにかく調査して見なけりゃならんからね。」
 彼女は無言だった。私は椅子をたって、部屋の中をぶらぶらした。
「さ、始めようじゃないか」と私は言って彼女の机の前に坐った。
「あなた、それは真面目なお話なの?」と彼女は当惑と驚きの色を浮かべて、私を見ながら訊いた。
「ナタリイ、よく考えて見ておくれ」と私は、異議をさしはさもうとしている彼女の顔色を読んで、頼むように言った、「僕の経験と人格とに十分信頼しておくれ。」
「でもやっぱり私わかりませんわ、何をしようと仰しゃるんだか。」
「君が今までに幾ら集め幾ら費ったか、それが見せて貰いたいのだ。」
「私には秘密はありませんわ。誰が見てもかまいません。さあどうぞ。」
 机の上には学校で使う筆記帖が五冊ばかりと、一ぱい字を書いた書簡箋が五六枚と、郡の地図と、大小とりどりの紙片が一枚載っていた。たそがれて来た。私は蝋燭をつけた。
「ごめん、僕はまだ何にも見当らないんだがね」と私は帳面をめくりながら言った、「寄附金の受入控えはどこにあるの。」
「それは寄附申込書でわかりますわ。」
「そりゃそうだが、控えも作らなけりゃいけないじゃないか」と私は彼女の無邪気さにほほえみながら言った、「現金なり物品なりの寄附に添えて来た手紙はどこだね。御免《パルドン》、ほんの実務上の注意なんだがね、ナタリイ、そういう手紙は保存しなければいけないよ。一通ごとに番号をつけて、別の控えに書き込んで置くのだ。君の出す手紙もやはり同じようにするのだ。だが、それはみんな僕が自分でしよう。」
「ええ、ええ、どうぞして下さいまし……」と彼女は言った。
 私はすこぶる自分で満足だった。生きた興味のある仕事や、小さな机や、無邪気な帳面や、妻の仲間になってするこの仕事が約束してくれる魅力やに夢中になって、妻が私の邪魔をしはすまいか、何か飛んでもない気紛れでもおこして万事をひっくり返しはしまいかと、びくびくしていた。だから私は、彼女の唇がぴりぴり顫えていることにも、まるで罠にかかった小さな獣のように、怯えてとほうに暮れたようにあたりをきょろきょろ見ていることにも、なんの意味も読みとるまいと努力しながら、先を急いだ。
「そこでね、ナタリイ」と私は彼女の方を見ないで、「この書類やノオトを全部二階へ持って行かしてくれないか。僕は一応眼も通し調べもしたうえで、明日僕の意見を言わして貰おう、もう他には何か書類はないの?」と、私は帳面と紙片をまとめて重ねながら言った。
「持っていらして、みんな持っていらして!」と彼女は、書類をまとめる手伝いをしながら言い、大粒の涙がその顔を伝わった。「みんな持っていらして! これが私の生活に残っているものの全部ですわ……。最後のものまでお取り上げなさい。」
「ああ、ナタリイ、ナタリイ」と私は咎めるように嘆息した。
 彼女はなんだかやたらむしゃに、肘を私の胸にぶつけたり髪で私の顔を撫でたりしながら、机の抽斗《ひきだし》を抜き出して、私の眼の前の卓上へ書類をほうり出しはじめた。同時に小銭が私の膝や床《ゆか》にばらばらと散らばった。
「すっかり持っていらして……」と彼女は嗄れ声で言うのだった。
 書類を投げ切ってしまうと、彼女は私のそばを離れ、両手で頭を抱えて寝椅子に倒れた。私は小銭を拾って、それをもとの抽斗に入れ、召使に出来心を起こさせぬように鍵をかけた。それからありったけの書類を両手に抱えて自分の部屋へ向った。妻のそばを通るとき私は立ちどまって、その背中とわなないている肩を眺めながら言った。
「なんて君はまだ赤ん坊なんだろうね、ナタリイ。やれやれ。ねえナタリイ、君がもしこの仕事がどんなに重大で責任の重いものかがわかったら、真先きに僕に感謝するだろうよ。請け合いだとも。」
 自分の部屋に帰ると、私はゆっくりと書類を調べにかかった。帳面は綴じてもなければ、頁に番号も打ってはない。記帳が色んな手蹟で行われているところを見ると、誰でも勝手に帳面が扱えるのにちがいない。義捐物資の目録には、品物の価格が示してない。ところが考えても見るがいい、今は一ルーブリ十五コペイカのライ麦も、二月後には二ルーブリ十五コペイカに騰るかも知れないではないか。どうしてこんな風にして置けよう。それから『ア・エム・ソーボリに三十二ルーブリ渡す』とある。いつ渡したのだ。なんのために渡したのだ。支払いを証明する書類はどこにある? 何にも無いし、何にもわかりはしない。裁判にでもなったら、これらの書類はただ事件を不明瞭にするだけだろう。
「なんて無邪気な女だろう」と私は呆れ返った、「なんてまだ赤ん坊なんだろう!」
 私は腹立たしくもありおかしくもあった。

 妻はすでに八千集めていたから、これに私の五千を加えれば、都合一万三千になる。手始めとしては上出来だ。私があれほど関心をもち気を揉んだ仕事も、遂に私の手中に帰したのだ。私は他人がしようともせずできもしなかった仕事をやり、自分の義務を果たすのだ。難民のための正しい真剣な救済を組織するのだ。
 打ち見るところ、何もかも私の目論見どおり希望どおりに運んでいるらしい。だがこの不安な気持が去らないのは、一たいどうしたことだろう。私は四時間がかりで妻の書類を点検し、その意味を判じ、誤りを正した。が、それで心が安まるどころか、私は自分の背後に誰か他人が立って、ざらざらしたてのひらで私の背中を撫でているような気がするのだった。私に何が不足なのであろうか。救済の組織は信頼できる人の手に落ち、難民は飢えを満たすだろう。そのうえ何が要るのか?
 楽な四時間の仕事はどうしたわけか私を心《しん》から疲らせ、私は屈み込んで坐っていることも書くこともできなかった。階下《した》からは時どき鈍い呻き声が伝わって来た。妻の咽び泣きだ。いつもおとなしい睡そうな殊勝顔の従僕アレクセイが、しょっちゅう蝋燭の芯を直しにテーブルに寄って来て、何やら不思議そうに私を見つめた。
「いいや、発《た》たなくちゃならん!」と私はとうとう、精根尽きて決心した、「この結構きわまる印象から少しでも遠い所へ。明日こそ発とう。」
 私は書類と帳面をまとめて妻のところへ行った。はげしい疲労と困憊を感じ、書類と帳面を両手で胸に圧しつけて、寝室を通り抜けながら自分のトランクが眼についた拍子に、床《ゆか》の下から泣声が聞こえた。……
『君は侍従だってね』と誰かが耳もとで訊いた、『欣懐の至りだ。だがやっぱり君は卑劣漢だよ。』
「みんな馬鹿げたことだ、馬鹿げたことだ、馬鹿げたことだ……」と私は階段を降りながら呟いた、「何を馬鹿な。……俺が利己心と名誉心に操られているなんてことも、馬鹿げた話さ。……なんという下らんことばかりだ! 一たい難民を救ったからといって勲章でもくれるというのか、それともおれを局長にでもしてくれるというのか。馬鹿な、馬鹿な。それにこの田舎で、一たい誰に名誉を誇るのだ?」
 私は疲れた、とても疲れていた。そして何者かが耳にささやいた、『欣懐の至りだ。だがやっぱり君は卑劣漢だよ。』どうしたわけか私は、幼いころ知っていた或る古い詩の一行を思いだした、『善根を積むことの何ぞ楽しき。』
 妻は寝椅子に、さっきの姿勢のまま――俯伏せに両手で頭を抱えて、横になっていた。そして泣いていた。そばには小間使が立って、怯《おび》え切った途方に暮れた顔をしている。私は小間使を退らせて、書類を机に重ね、暫く思案してから言った。
「さ、君の書類をここに置くよ、ナタリイ。万事いいよ、万事上出来だ、僕も非常に満足だ。明日僕は発ちます。」
 彼女は泣きつづけていた。私は客間へ出て、そこの暗がりに腰を下ろした。妻の啜り泣きや溜息が何やら気に咎めてならず、自分を弁護するため私は二人の争いの一部しじゅうを、相談の席に妻を招ぼうという不幸な考えが浮かんだことから、帳面やこの嗚咽に至るまで思い返して見た。それは結婚後たびたびあった、われわれ夫婦の憎悪の醜い無意味なおきまりの発作なのだが、さてそれが難民になんのかかわりがあろうか。一たいなんだって、難民たちが二人の争いの種になったのだろう。まるで私たちは追っ駈けっこをしながら、知らぬ間に祭壇へ駈け込んで、掴み合いをはじめたようなものではないか。
「ナタリイ」と私は静かに客間から言う、「もういい、もういいよ。」
 泣くのをやめさせ、この遣りきれない状態の結着をつけるには、妻のところへ行って慰めるか、あやすか、詫まるかしなければならぬ。だが彼女に私の言うことを信じさせるには、どうしたらいいのか。捕えられて私を憎んでいる野鴨に、私は彼が大好きで彼の苦しみに同情しているなどと、どうして納得させることができようか。自分の妻とはいえ、どんな女なのか私はついぞ知らなかったし、従って彼女にどんなことをどう話せばいいのかぜんぜん見当もつかないのだ。彼女の表面だけなら私はよく知っているし、それ相応の尊敬も払っていたが、魂の世界、徳性の世界、考え方、人生観、めまぐるしい気分の変化、憎悪の眸、高慢さ、時として私を驚嘆させる博学さ、また例えば昨日みたいな尼僧のような顔つきといった方面になると、私にはさっぱり馴染みもないし、理解もいかないのだ。彼女と衝突するたびに私は、これは一たいどういう人間なのか定義しようとかかるのだったが、私の心理学ではたかだか、無分別で浮わついた女で、不幸な性格と女の論理の持ち主という定義を出なかったし、私にはそれで結構十分な気がしていた。だがいま彼女が泣いているうちに、私はもっとよく知りたいという燃えるような願いを覚えるのだった。
 泣き声がやんだ。私は妻のところへ行った。彼女は両手で頭を支えて寝椅子に腰を掛け、思い沈んでじっと灯を見ていた。
「僕は明日の朝発つことにしたよ」と私は言った。
 彼女は無言だった。私は部屋を暫く歩き、やがて溜息をして言った。
「ナタリイ、君が僕に発ってくれと言ったとき、そうすれば何もかもすっかり赦してくれる……と言ったっけね。つまり君は、僕が君に悪いことをしたと思っているのだね。じゃ頼もう、冷静にしかも手短かに、僕が君にした悪いことを明示してくれないか。」
「私疲れきっていますの。あとでいつか……」と妻は言った。
「どんな悪いことかね」と私はつづけた、「僕が何をしたね。君は若くて美しくて生活を意欲しているのに、僕は君の二倍も年上で君の嫌悪をそそる、と言うのかね。だが一たいそれが罪だろうかしら。僕はなにも強制的に君と結婚したのではない。いいじゃないか、自由な生活がしたいならしたいで、出て行けばいいのさ。僕は自由を上げるよ。出て行って、誰なりと好きな人を愛したまえ。……離婚だってして上げるさ。」
「そんなことをして頂きたくはないの」と彼女は言った、「あなただってご存じでしょう、私は前にはあなたを愛していて、いつも自分のほうが年上のように思っていました。そんなことは皆つまらないことですわ。……あなたの悪いのは、あなたが年寄りで私が若いことや、自由になったら私がほかの男と恋ができるなどということじゃなくて、あなたがむずかしい方で、エゴイストで、人間ぎらいだからですわ。」
「よくは知らないが、そうかも知れん」と私は口ごもった。
「あちらへいらして下さいまし。あなたは夜明けまで私をいじめるつもりでしょうけど、おことわり申し上げて置きますわ、私もうぐったりしてしまってお返事ができませんのよ。あなたは発《た》つと約束なさいましたわね。私あつく御礼を申しますわ。それ以上何にも要りませんの。」
 妻は向うへ行ってくれと言うが、私には容易にそれができなかった。私は気力が衰えて、自分のがらんとした、居心地の悪い、厭気のさした部屋部屋がそら怖ろしいのだった。子供のころどこかが痛む時には、母か乳母にしがみついて、温かい着物の襞に顔を隠しながら、痛みから隠れているような気がしたものだった。今もそれと同じで、なぜかしらこの小部屋の妻のそばでなければ、自分の不安の気持からのがれることができぬような気がした。私は腰を下ろして、片手で明りを遮った。しんとしていた。
「どんな悪いことをですって」と妻が長い沈黙のあとで、涙のきらきらする真赤な眼で私を見ながら言った、「あなたは立派な教養も教育もおありで、とても潔白で真直ぐで、ちゃんとした主義をお持ちですけれど、それがみんな、どこでもあなたのいらっしゃるところへは、所きらわず一種むっとする空気や圧迫の感じや、何かしらとても人の気を悪くするような、見下げるような気分を、持ち込む結果になるのですわ。あなたは御自分の立派な考え方がおありなので、世の中の何もかもがお嫌いなのですわ。信仰と未開と無知の現われだというので信者もお嫌い、かと思うと信仰も理想もないからといって不信心者もお嫌いですし、旧弊で保守主義だといって老人もお嫌い、自由思想だといって若い人もお嫌いです。あなたは国民とロシヤの利益を尊重していらっしゃるもので、誰を見ても泥棒や追剥に見えて、国民がお嫌いですのね。あなたは誰も彼もお嫌いなのですわ。あなたは真直ぐな方でいつも法律いってん張りだもんで、しょっちゅうお百姓や近所の人を相手に裁判を起こしていらっしゃる。ライ麦を二十俵盗まれたといって、秩序の好きなあなたは、百姓たちのことを知事とありったけのお役所にお訴えになる、かと思うとここのお役所のことをペテルブルグにお訴えになるのです。万事合法的にね!」と妻は言って笑いだした、「法律に基づき道徳の名において、あなたは私に旅券を下さらない。そういう道徳と法律があると見えますわね、若い健康な自尊心のある女性は、宜しく生涯を無為と憂愁と絶えざる恐怖のうちに送り、代償としてその愛せざる男より、食事と住居とを受くべし。あなたはとてもよく法律に通じていらして、本当に潔白な真直ぐな方で、結婚を重んじ家庭の意義を重んじておいでです。ところがその結果はどうでしょう、生まれてこのかたただの一ぺんだって善いことはなさらず、みんなに嫌われ、皆と争い、結婚以来七年のあいだに、七ヵ月と同棲なさらなかったじゃありませんか。あなたには妻はなく、私には夫がなかったのですわ。あなたのような方とはいっしょには暮らせません、とてもやりきれません。はじめの二三年はあなたといっしょにいるのが恐かったけれど、今じゃ私恥かしいのですわ。……そうして女盛りを無駄にしてしまいましたわ。あなたと闘っているうちに、私は自分の性格を台無しにして、とげとげした、がさつな、おどおどした疑深い女になってしまいました。……ええ、今さら言っても始まらない。さ、これでおわかりになった? 御自分のお部屋へいらっしゃいまし。」
 妻は寝椅子にもたれて思いに沈んだ。
「ほんとうにどんな美しい羨ましいほどの生活だってできたのに」と彼女はもの思わしげに灯を見つめながら、小声で言った、「どんな生活だって! でももう返らぬことだわ。」
 冬を田舎で過ごした人、そして余りの退屈さに犬さえ吠えず、時計までが時を刻むのに飽きて思い悩んでいるかに見えるあの長いもの憂い静かな宵を知り、そうした宵にふとめざめた良心の声に愕然として、その声を或いは押し殺し或いは判じあてようと、落ちつかぬ気持でそこかしこを歩き廻ったことのある人なら、この小さな居心地のいい部屋にひびきながら、私がやくざ者だと告げている女の声が、どんなに私の慰めになり、楽しみになったかがおわかりであろう。私には自分の良心が何を欲しているかがわからずにいたのに、妻はその通訳者として、女の言葉ではあるもののはっきりと、私の胸さわぎの意味を説き明かしてくれたのだ。それまでにも、烈しい不安の募るたびに、その一さいの秘密は難民にはなく、私がかくあるべき人間でない事にあるのだと、ひそかに思い当ったことも幾度だか知れなかったのだ。
 妻はやっとのことで起ち上がって、私に歩み寄った。
「パーヴェル・アンドレーイチ」と彼女は悲しげなほほえみを見せて言った、「ごめんなさいね、でも私どうもお言葉が信じられませんの。あなたはお発《た》ちにならないのじゃなくて? でも、もう一度お願いしますわ。これを」と自分の書類を指さして、「自己欺瞞とでも、女の論理とでも、誤ちとでも、なんとでもお呼びになるのは御勝手ですけど、邪魔はなさらないで下さいましね。これが私の生活に残っているものの全部ですもの。」彼女は横を向いて暫く黙っていた。「今まで私には何にもありませんでした。自分の若さは、あなたとの闘いで使ってしまいました。今やっとこれに縋りついて、生き返ったような幸福な気持ですの。……やっと自分の生活の言いわけが見つかったような気がしますの。」
「ナタリイ、君は頭のしっかりした立派な婦人だ」と私はうっとりと妻を見ながら言った、「君の為すこと言うこと、みんな素晴らしい、みんな聡明だ。」
 自分の感動をかくすため、私は部屋をひと歩きした。
「ナタリイ」と私は一分ほどしてから言葉をつづけた、「ここを発《た》つ前に、特別のお慈悲でもって、ひとつ僕が何かしら難民に尽せるように力を藉《か》してくれないかね。」
「まあ、私に何ができましょう」と妻は肩をすくめた、「この寄附申込書のほかには。」
 彼女は自分の書類を引掻き廻して、申込書を捜し出した。
「いくらでも寄附なさいまし」と彼女は言ったが、その言い振りには、寄附申込書に真面目な意味を与えていない気配が見て取れた、「ほかには別に、あなたがこの仕事に参加なさる途はありませんわ。」
 私は申込書を手にとって、『無名氏、五〇〇〇』と書きこんだ。
 この『無名氏』というのには、なんだか良くない、まやかし的な、自惚れたものがあった。がそれをやっと覚ったのは、妻がひどく真赤になって、急いで申込書を書類の間へ押し込んだのを見た時だった。二人とも恥かしくなった。私はどうあってもぜひいますぐこの気拙さを拭きとってしまわねばならぬ、でないと後になって汽車の中でも、ペテルブルグでも気恥かしい思いをしなければなるまいと感じた。だがどうして拭きとったものか。何を言えばよいのか。
「僕は君の事業を祝福するよ、ナタリイ」と私は誠意をこめて言った、「そして君のあらゆる成功を祈る。が、お別れに臨んで一言忠告を許して貰いたい。ナタリイ、君はソーボリはじめ君の輔佐役連中に、もっと注意深くやりたまえよ、彼らに気を許してはいけないよ。彼らが正直でないとは僕は言わんが、彼らは士族ではない、思想もなく、理想も信仰もなく、生活の目的もなく、確たる主義もない連中だ。あの連中の本来はただ金にあるのだ。金、金、また金さ!」私は嘆息して、「あの連中は手間も金もかからぬ穀物を好む。そしてこの点においては、彼らに教育があればあるほど、事業にとっては危険なのだ。」
 妻は寝椅子へ行って横になった。
「思想、思想的」と彼女は、ものうそうな気乗りのせぬ声を出した、「思想性、理想、生活の目的、主義……。こうした言葉をあなたは、人を見下げるか辱しめるか気を悪くさせるかしようとなさる時、きっとお使いになったわね。ほんとうにあなたはなんという方でしょう。そういう見方と人に対する態度とを持っていらっしゃるあなたを、もしちょっとでもこの仕事のそばへ寄せつけたら、その日のうちに仕事はがらがらと行ってしまいますわ。それがおわかりになってもいい時よ。」
 彼女は溜息をついて暫く口をつぐんだ。
「それはがさつな気性というものですわ、パーヴェル・アンドレーイチ」と彼女はつづけた、「あなたは教養も教育もおありですけど、底の底はなんというまだ……野蛮人《スキタイ》でしょう。それはあなたが閉じこもって人間ぎらいな生活をなすって、誰にも会わずに、専門の技術の本の他は何一つお読みにならないせいですわ。けれど世の中には、いい人だっていい本だってありますのよ。そうですわ。……でも私疲れ切ってしまって、口を利くのがつらいの。もう寝《やす》まなくては。」
「じゃ僕は発《た》つからね、ナタリイ」と私は言った。
「ええ、ええ、……|有難う《メルシ》……」
 私は暫くたたずんでいたが、やがて二階へ帰った。一時間ののち――それは一時半だったが、私は蝋燭を手に下へ降りて行った。妻と話がしたかったのだ。何を言うつもりか自分でも知らなかったが、何かしら大切なぜひとも言って置かなければならぬことがあるような気がした。仕事部屋には彼女はいなかった。寝室へ通じるドアは錠が下りていた。
「ナタリイ、もう寝たかい」と私は小声で訊いて見た。
 返事はなかった。私は暫くドアの前に立っていたが、やがて溜息をつくと客間へ行った。そこのソファに腰を下ろして、蝋燭を消し、暗がりの中に夜が明けるまで坐りつづけた。

 朝の十時に私は停車場へ向った。凍てついてはいなかったが、空からは水気の多い牡丹雪が降りしきって、気持の悪い湿っぽい風が吹いていた。
 池を過ぎ、やがて白樺の林を過ぎ、私の家の窓から見えるあの坂道を登りはじめた。私は自分の家を見納めに見ておこうと振り返ったが、雪にとざされて何も見えなかった。暫くすると前方に、霧に包まれたようにぼんやりと一かたまりの黒っぽい農舎が見えて来た。これがピョーストロヴォだ。
『もしいつかおれが気違いになったら、それはピョーストロヴォのせいだ』と私は思った、『あの村に追っかけられているのだ。』
 村の往還に出た。農舎の屋根はみんな無事で、剥がされたのなどは一つもない。つまり私の管理人が嘘をついたのだ。男の子が手橇に、赤ん坊を抱いた女の子を乗せて行く。まだ三歳《みっつ》ほどの男の子が、百姓女みたいに頭をくるまれて、親指だけ分かれた大きな手袋をして、舞いかかる雪片を舌で捕えようとして笑っている。そこへ向うから粗朶を積んだ車が来る。そのそばに百姓がついている。白髪なのか、鬚が雪で真白なのかどうしてもわからない。彼は私の馭者と顔馴染みだとみえ、笑顔を見せて何か話しかける。私には機械的に帽子をとって見せる。犬が二三匹垣根の中から駈け出して、珍しそうに私の馬を見る。すべては静かで、平凡で、変ったところもない。移住民が引返して来て、パンが無く、農舎の中では、『或いは高笑いし或いは壁に攀じ』ているという。だが見たところあんまり平凡で、とてもそんなことがあったとは信じられない。途方にくれた顔もなく、救いを叫び求める声もなく、泣声もなく、罵る声もない。あたりはすべて静寂、生活の秩序、子供ら、手橇、そして尻尾を巻いた犬がいるばかり。子供にもすれ違った百姓にも不安の色はないのに、一たいなぜ私はこんなに不安なのだろう。
 百姓の笑顔を眺め、大きな手袋をした男の子を眺め、農舎を眺め、自分の妻のことを思い出しながら、今やっと私は、この人に打ち勝つようなそんな困窮はないことをさとるのだった。空気の中にもう勝利の気が漂っているような気がし、私は誇らしい気持になって、私も彼らの仲間だぞと叫ぼうとした。しかし馬はもう村を出て野道にかかり、雪が舞い風が呻きはじめ、私は私の想念とともに一人ぼっちになった。社会事業を成し遂げた何百万の人の群から、人生の手が私を、無用で無能な悪人として弾き出したのだ。私は邪魔者だ、民衆の困窮の一分子だ、私は闘いに負け、弾き出されて、停車場へ急ぐのだ。ここを発《た》ってペテルブルグの、ボリシャーヤ・モルスカーヤ街のホテルに身を隠すため。
 一時間後には停車場に着いた。番号札をつけた番人と馭者とで、私のトランクを婦人待合室へ運び込んだ。馭者のニカノールは外套の裾を端折って帯革にはさみ、フェルトの長靴をはいて、全身雪でぐしょ濡れだったが、私の発つのが嬉しいと見え、人なつこい笑顔を見せて言った。
「では道中御無事で、閣下。よい時をお過ごしなさりませ。」
 ついでに言わして頂くが、私のことを皆が閣下と呼ぶけれど、そのじつ私はただの六等官の年少侍従《カーメル・ユンゲル》に過ぎない。番人が汽車はまだ前の駅を出ないと言う。待たなければならぬ。私は外へ出た。前夜一睡もしなかったおかげで頭が重く、疲れきってやっと足を運びながら、なんのめあてもなく揚水所の方へ行った。あたりに人気はなかった。
「なんだっておれは発つんだ」と私は自分に訊いた、「一たい向うで待っているものはなんだ。もうおれのほうから離れてしまった知人たち、孤独、レストランの食事、騒音、眼が痛くなる電灯……。どこへ何のためにおれは発つのだ。なぜおれは発つのだ。」
 それに、妻と話をせずに発つのもなんだか変だった。私は妻を行方不明のまま残して来たような気がした。発《た》つとき一言彼女に、彼女の言うとおりであること、私はほんとうに悪い人間であることを、言って置くべきだったではないか。
 私が揚水所から引きかえすと、表口に駅長の姿が現われた。この男のことを私はもう二度も、その上長に訴えたことがある。フロックの襟を立て、風と雪で縮み上がって、彼は私の方へ歩いて来て、帽子の庇に指を二本上げ、当惑げな怨めしそうな顔に緊張した敬意を浮かべて、汽車は二十分延着しますが、そのあいだ暖かい屋内でお待ちになってはと言った。
「有難う」と私は答えた、「しかしたぶん僕は発《た》ちますまい。私の馭者に暫く待つように言わせて頂けませんか。もう少し考えてみます。」
 私はプラットフォームをぶらぶらしながら、発ったものかどうか思案した。汽車が来たとき、私は発つまいと決心した。家で私を待つものは、妻の当惑と、それに恐らくは妻の嘲笑と、陰欝な二階と、私の落ちつかぬ気持とであろう。しかしそれにせよ、私の年配になると、二昼夜も他人のあいだに坐ってペテルブルグへ行き、着いたあとでは一分ごとに、私の生活が誰の用にもなんの役にも立たず、終りに近づきつつあることを意識する――それにくらべればとにかく気が楽であり、なんとなく親しみがもてるのだ。いや、たとえ何ごとがあろうとやはりうちへ帰ったほうがいい。……私は停車場を出た。あんなに家内じゅうで私の出発を喜んだ家へ、昼日なか帰って行くのは工合が悪かった。日が暮れるまでの時間の残りを、誰か近所の人のところで過すのもよかろう。だが誰にしようか。或る人たちとは険悪な間がらだったし、或る者とはまったく馴染みがなかった。私は考えて、イワン・イワーヌィチのことを思い出した。
「ブラーギンのところへやってくれ」と私は橇に乗って馭者に言った。
「遠がすな」とニカノールは溜息をして、「二十八キロはありますぜ、それとも三十もあるか。」
「そこを頼むよ、いい子だ」と私は、まるでニカノールがさからう権利を持っているかのような声を出した、「やってくれ、頼むよ。」
 ニカノールは疑わしげに頭を振って、ほんとうは轅《ながえ》にチェルケースじゃなくムージクかチージク〔それぞれ馬の呼び名〕を附けるんだったと、のろくさ呟きながら、私の決心を飜すのを待つように、煮え切らぬ様子で手袋に手綱を握り、中腰になって思案していたが、やがてやっと鞭をひと振りした。
『矛盾だらけな行為の連続だな……』と私は雪から顔を隠しながら考えた、『おれは気が狂ったのだ。ええ、どうともなれ……』
 とあるとても高い嶮しい坂道の上に出たとき、ニカノールは坂の中途までは用心深く馬を降ろして来たが、中途からいきなり馬が駈け出して、怖ろしいほどの速力で奔り下りた。彼は顫え上がって、両肘を突張り、狂気したような蛮声を上げた。私はついぞそれまでに彼がそんな声を出すところを見たことがなかった。
「えーい、大将様がお乗りだぞお! 手前らが息切らしたら、新馬買ってくれるとよお。やい気をつけろ、轢いちまうぞ!」
 異常な速力のため息が詰まりそうな今になって、やっと私は馭者がひどく酔払っていることに気がついた。停車場で一杯やったに違いない。谷底に下りたところで氷が音を立ててはじけ、肥《こやし》の滲みた堅い雪のかけらが道から跳ね飛んで、ぴしりと私の顔を打った。ひた奔る馬は余勢を駆って、上《のぼ》りも下りに劣らぬ疾さで駈けあがる。で私は、トロイカがもう平地に出て老いた樅《もみ》の老木林にはいり、その見上げるような樅が四方八方から白い毛だらけの猿臂を私めがけて伸ばしていると、ニカノールに叫びかける余裕がなかった。
『おれは気ちがい、馭者は酔払い……』と私は考えた、『よかろう!』
 イワン・イワ
ーヌィチは在宅だった。彼は笑いにむせて咳き入り、頭を私の胸におしつけ、私の顔さえ見れば言う例の文句をやり出した。
「だが君はますます若返るなあ。全体どんな白毛染でその髪や髯を染めるのかしらんが、僕もひとつ貰いたいもんだ。」
「僕はね、イワン・イワーヌィチ、訪問を返しに来たんだよ」と私は嘘をついた、「まあ怒らんでくれたまえ。僕は都会人なりに偏見があってね、訪問を返さんとどうも気が済まんのだ。」
「よく来てくれたな君。僕はもう耄碌しちまって、そういう光栄が嬉しくなったよ。……そう。」
 彼の声音や幸福そうな笑顔で、私の訪問がひどく彼を嬉しがらせたことがわかった。控え室で百姓女が二人がかりで毛皮外套を脱がせてくれ、それを赤シャツの百姓が釘にかけた。私がイワン・イワーヌィチといっしょに彼の小さな書斎へはいると、跣足の小娘が二人|床《ゆか》に坐って絵本を見ていた。私たちを見ると跳びあがって駈けだして行ったが、すぐ入れかわりに眼鏡をかけた背の高い痩せた老婆がはいって来て、折り目正しく私にお辞儀をし、ソファにあった枕と床《ゆか》の上の絵本を拾って出て行った。隣の部屋からは、絶え間なしにひそひそ声と跣足でぺたぺた歩く音がした。
「家《うち》へドクトルが昼飯に来るはずでね、待ってるところさ」とイ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ン・イワーヌィチが言った、「救護所からこっちへ廻る約束だ。そう。毎週水曜には僕のところで昼飯をやるんでね、神よ彼に健康を与えたまえ。」彼は身を伸ばして私の頸に接吻した。「来てくれたからには、なあ君、つまり怒っちゃいないわけだね」と彼は鼻息を立てながらささやいた、「怒るもんじゃないよ、なあ小母さん。そうとも。腹の立つこともあるかもしれん、だが怒るもんじゃないよ。僕は死ぬ前にただこれだけを神様に祈るのさ、万人と平和に仲好く真実に暮らさせたまえとね。そう。」
「失礼だけど、イワン・イワーヌィチ、椅子に脚を載せさせて貰うよ」と私は困憊のあまり自分を持て扱いきれぬ気持で言い、ソファに深くかけて両脚を肘掛椅子へ伸ばした。雪と風に曝されたおかげで私は顔がかっかとほてり、全身が熱を持っているような気がして、そのためますますぐったりとなった。「君のところはいいな」と私は言葉をつづけた、「温かで、柔かくって、居心地がよくって……それに鵞ペンもある」とデスクの上に眼をやって笑いだした、「砂壺〔[#割り注]その頃は、砂を吸取紙の代用とした。その容器である[#割り注終わり]〕も……」
「ええ? そう、そう。……あのデスクと、それからあの桃花心木《マホガニー》の戸棚は、ジューコフ将軍の農奴だった素人指物師のグレーブ・ブトィガが、親爺のために作ってくれたものでね。そう……。その道にかけちゃなかなかの名人だったよ。」
 だるそうに、うとうとしかけた人みたいな調子で、彼は指物師ブトィガのことを物語りはじめた。私は謹聴した。それからイワン・イワーヌィチは次の間へ立って行った。美麗さと安直さによって驚嘆すべき、花梨《かりん》の箪笥を見せるためである。彼は指さきで箪笥を叩いてみせ、それから私の注意を、今どきどこへ行っても見られぬはずのタイル張りの絵模様のある暖炉へ向けさせた。暖炉も指で叩いてみせた。箪笥からも、タイル張りの暖炉からも、肘掛椅子からも、画布へ毛糸と絹糸で縫いとって、巌丈な不趣味な額縁に嵌めた絵からも、心善い飽食の息吹きがした。そうした物がみんな、私がまだ幼いころ、母親に連れられてこの家へ『名の日の祝い』〔ロシアでは洗礼に当って聖僧の名にちなんで命名することが多かった。その聖僧の命日を名の日として祝う〕に招ばれて来た時にも、やはり同じ場所に同じ並べ方で置いてあったことを思い出すと、何日かの昔それらが存在しない時代があったなどとは、どうしても思えないのである。
 私は思うのだった。ブトィガと私の間にはなんという怖ろしい違いがあることだろうと。ブトィガは何よりもまず永持ちと堅実さとを心がけて物を作り、それを第一義とし、人間の永生に一種特別な意味を附し、死ということは考えず、恐らく死の可能などは碌に信じてもいなかったろう。ところが私は、自分で鉄橋や石の橋を架けたときにも、それが何千年と存続するであろうにもかかわらず、『これは永遠のものじゃない。……こんなものはなんの役にも立たない』という考えを離れられなかった。もしいまに誰か俊敏な美術史家の眼に、ブトィガの戸棚と私の橋がとまるようなことがあったら、彼はこう言うにちがいない、『この二人はそれぞれ注目すべき種類の人間である。即ちブトィガは人間を愛し、人間が死に亡びるという考えを容れず、従ってその家具を作るにあたっては不滅の人間をめあてにした。一ぽう技師アソーリンは人間をも生活をも愛さず、創造の幸福なる瞬間にあってすら、死、滅亡、有限性の観念を排しえなかった。だから見たまえ、彼のこれらの線のいかにみすぼらしく、いじけ、臆病で、みじめであるかを。』……
「僕はこのへんの部屋にしか火を焚かないのでね」とイ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ン・イ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ーヌィチは、自分の使っている部屋を見せながら呟いた、「女房が死に伜が戦死してからは、表のほうの間《ま》は閉めてしまったのだよ。そう。……そらね……」
 彼は一枚のドアを開けた。そして私は、四本の円柱のある大きな部屋と、古いピアノと、床《ゆか》の上の豌豆の堆《やま》とを見た。寒気と湿気の臭いがした。
「次の間には庭のベンチが納《しま》ってある……」とイワン・イワーヌィチが呟いた、「もう誰もマズルカを踊るものがないのでね。閉めちまった。」
 音がした。……ドクトル・ソーボリが来たのだ。彼が寒いので手を擦ったり、濡れた髯を撫でつけたりしているあいだに、私は第一に彼が非常に生活に屈託しているので、そのためイワン・イワーヌィチや私に会うのが嬉しいのであること、第二に彼がお人好しの純朴な男であることを見てとった。彼が私を眺める眼つきによると、私が彼に会うのをとても嬉しがり、彼のことに非常な興味を持っているとでも思っているらしい。
「二晩寝なかったです」と彼は朴訥な眼つきで私を眺め、櫛の手を休めずに言った、「一晩は産婦のおもりでね、もう一晩は夜どおし南京虫に責められてね、百姓のところに泊ったんです。だからもう、魔王《サタン》みたいに睡いんですよ。」
 それが私に満足以外の何ものをも与えないにきまっているといった顔つきで、彼は私の腕を抱えて、食堂へ連れて行った。
 彼の純朴な眼つき、よれよれのフロック、安物のネクタイ、ヨードフォルムの臭い――それらは私に不愉快な印象を与えた。これは悪い仲間にはいったなと感じた。食卓につくと、彼はヴォトカを注《つ》いでくれ、私は情ない微笑とともに飲みほした。彼は私の皿にハムを一片とってくれ、私は謹んで食べた。
「|反覆は学習の母なり《レペチチオ・エスト・マーテル・スツヂオールム》」とソーボリは、二杯目をいそいで飲みほしながら、「まるで嘘みたいな話ですが、立派な方がたに御眼にかかれた嬉しさに、睡気も醒めてしまいました。私は百姓で、片田舎の野育ちで、礼儀も何も忘れました。けれど皆さん、私はやはり今でもその、知識人なんで、真面目なところ、話相手のないのはつらいものですなあ。」
 まず冷《ひや》し料理として山葵《わさび》と酸《す》クリームをかけた仔豚の蒸肉が出、それから脂《あぶら》っこい舌の焼けるような豚肉入りのキャベツ汁と、湯気が柱をなして立っている蕎麦粥が出た。医師は相変らず喋っていたが、私は間もなく、彼が性格の弱い、外見のだらしのない、不幸な男であることを見てとった。三杯の酒で酔って、不自然に元気づき、咽喉を鳴らし唇をぴちゃつかせて盛んにぱくつき、いつのまにか私に『エッチェレンツァ』〔[#割り注]閣下[#割り注終わり]〕というイタリヤ語の称号を奉った。彼を見たり聴いたりするのを私が非常に喜んでいるのだときめてかかっているらしく、朴訥な眼つきで私を眺めながら、妻とはとうの昔から別居していること、俸給の四分の三を彼女に仕送りしていること、彼女は子供たちといっしょに町に住んでいること、この息子と娘を彼は崇拝していること、彼は或る後家さんの女地主で知識のある女を愛していること、しかしふだんは朝から夜中まで仕事に追われて、まるで暇というものがないので、めったに逢いに行けないこと――を話して聴かせた。
「一日じゅう病院に詰めたり往診に出たりで」と彼は語るのだった、「まったくですよ、閣下《エッチェレンツァ》、好きな女のところへ行くどころか、本を読む暇だってありません。十年のあいだ何一つ読みませんでしたよ。十年ですよ、閣下《エッチェレンツァ》。それから物質的方面については、ひとつこのイ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ン・イ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ーヌィチにお訊ねを願いたいです。時によると煙草銭もない始末でしてな。」
「そのかわり精神的な満足がおありでしょう」と私は言った。
「なんですって?」と彼は訊き返して、片眼を細くして見せた、「いや、そんなことよりまあ一杯やりましょう。」
 私は医師の話を聴く一ぽう、いつもの癖で自分のおきまりの尺度を彼に当てて見た――物質主義者、理想主義者、金《かね》、群棲本能、等々。しかしどの尺度も近似的にすら当てはまらないのだった。そして奇妙なことには、彼の話をきいたり顔を見たりしているうちは、彼は人間として私にとって完全にはっきりしていた。ところが私が例の尺度を当てはじめるが早いか、じつに明けっ放しで単純きわまるこの男が、異常に複雑な、こんぐらかった、不可解な性格になってしまうのである。『一たいこの男が』と私は自問するのだった、『他人の金を費い込んだり、信用を裏切ったり、代金《だい》のいらぬ穀物をくすねたりする男だろうか。』そして今ではもう、かつては真剣な由々しいものだったあの問題が、ごく単純な些細な、しかも野暮たらしいものに思われるのだった。
 揚饅頭《ピローグ》が出た。それから、忘れもしない、長いまをおいて(その合間合間に私たちは果実酒を飲んでいた)、鳩の肉汁が、臓物《もつ》が、焙った仔豚が出、鴨、鷓鴣《しゃこ》、花甘藍《はなキャベツ》、クリーム入りのまんじゅう、ミルクをかけた凝乳、ジェリー、そして最後にジャムつきの薄焼《ブリン》がでた。はじめのうち、とりわけキャベツ汁と蕎麦粥とは舌鼓をうって食べた。があとは、情ない微笑を浮かべ味も何もわからずに、機械的に嚼んで呑み込んだ。舌の焼けるようなキャベツ汁と室内の温気《うんき》のため、私は顔がかっかとほてった。イワ
ン・イワーヌィチとソーボリもやはり真赤な顔をしていた。
「令夫人の健康のために」とソーボリが言った、「私はあの方《かた》のお気に入りでしてな。侍医がよろしく申したとお伝え下さい。」
「仕合わせな人だよ、まったく」とイワン・イワーヌィチは嘆息して、「自分では骨も折らず気ももまず、あくせくもしないのに、今や郡下随一の人物になってしまった。事業の大部分はあの人の手中にあるし、ドクトルも郡会のおえらがたも婦人がたも、みんなあの人のまわりに寄っている。れっきとした人間は自然とそうなるんだな。そう。……林檎に実を生《な》らせるに気をもむことはない、自然に生《な》るってね。」
「冷静な連中は気をもまないさ」と私は言った。
「ええ? そう、そう……」とイワン・イ
ワーヌィチはききとれずに、口をもぐつかせた、「そりゃまったくそうだ。……冷静でなくちゃならんな人間は。なるほど、なるほど。……つまりその……神様と人間の前に正しくありさえすりゃ、あとは野となれさね。」
「閣下《エッチェレンツァ》」とソーボリが荘重な顔をして言う、「ひとつわれわれの周囲の自然を見て頂きたい。襟から鼻でも耳でも出したら最後、もぎ取られてしまうです。原っぱに一時間も立っていたら、雪ダルマになってしまうです。村と来たらリェーリクの頃〔[#割り注]すなわち九世紀[#割り注終わり]〕も同じことでちっとも変っちゃおりません。相変らずのペチェネーグ人だのポローヴェツ人〔[#割り注]ともに古代の遊牧民[#割り注終わり]〕だのばかりです。知ってることと言ったら火の出ること飢饉のこと、それっきりで、まあわれわれは大車輪で自然と闘ってるわけです。ええとなんの話だったっけな? そうそう。もしです、いいですか、まあ失礼な例ですが仮りにこんどのどさくさをですな、よくよく考え観察し研究して見ます。するともうそれは人生なんかじゃなくて、芝居小屋の火事なんです。そこで恐怖のあまり卒倒したり金切《かなきり》声を立てたり駈け出したりする輩は、秩序の大敵ということになる。よろしく真直ぐに立って、両眼を大きく開け、チュウとも言っちゃなりません。めそめそ泣いたり、些事にかかずらわっているひまはありません。相手が自然の暴威である以上、こっちも盲目の力をもって対抗すべきです。巌のごとく堅固に頑強でなくちゃなりません。そうじゃないかね、お爺さん」と彼はイワン・イワーヌィチをふりむいて笑いだした、「私という人間は、自分が百姓婆さんでボロ雑巾で、泣き虫のめそめそ野郎だもんで、めそめそしたことは我慢がならんのです。小っぽけな感情は大嫌いなんです。或る者はふさぎ込み、ある者は怖気づき、また或る者は今にもここへやって来て、『やれやれ君らという人間は、十皿も料理を平らげといてから難民のことを喋りだすのか』と言うでしょう。じつにけちくさくて愚劣です。さらにある者は閣下《エッチェレンツァ》、あなたのことを金持だといって非難するでしょう。こんなことを申して失礼ですが、閣下《エッチェレンツァ》」と彼は片手を胸にあてて、大声でつづけた、「しかしながらです、あなたがここの予審判事に仕事を与えて、お宅の泥棒を日夜捜させなさるというのも、あなたとしちゃあ失礼ながらやはり細かすぎますな。私は一杯機嫌だもので、こんなことを今べらべら申すのですが、どうもいささか細かすぎますなあ。」
「誰があの男に心配してくれとたのんだんでしょう、僕にはわからんな」と私は席を立ちながら言った。と、にわかにたまらなく恥かしく腹立たしくなって、テーブルのまわりをぐるぐる廻りはじめた。「誰があの男に心配してくれとたのんだんだろう。僕はてんでたのみはしない。……あんな奴は鬼にさらわれるがいいんだ。」
「三人逮捕して放免したんですよ。人違いだったもんでね。今また新規に捜してますよ」とソーボリは笑い出して、「罪ですなあ。」
「僕は断じてあの男に心配してくれとたのみはしません」と私は、興奮のあまり泣き出しそうになった、「そんなことをしてなんに、一たいなんになるんです。そう、じゃ仮りに僕が間違っていた、私のやり方が悪かったとしましょう、だがなんだって先生たちは私がますます間違いに踏み込むように仕向けるんです。」
「まあ、まあ、まあ、まあ」とソーボリは私をなだめながら、「まあ、私は一杯機嫌で口を滑らしたんですよ。私の舌は私の敵ですよ。さてと」と彼は吐息をして、「御馳走も頂いたし、お酒も頂いたし、ではひと寝《やす》みしますかな。」
 彼は席を立って、イワン・イワーヌィチの額に接吻し、満腹のあまりよたよたしながら、食堂を出て行った。私とイワン・イワーヌィチは無言でしばらく煙草を喫っていた。
「僕はね、君、飯《めし》のあとで昼寝はしないんだが」とイワン・イワーヌィチが言った、「君はどうぞ長椅子部屋へ行って休んでくれたまえ。」
 私は言葉に従った。その長椅子部屋と呼びならわされたうす暗い、むんむんするほど暖炉を焚きこめた部屋には、丈の長い幅のひろい頑丈でどっしりしたソファが、壁際に並んでいた。指物師ブトィガの細工である。その上には、高いほどの厚味の、ふかふかした真白な寝床が重ねてある。たぶんあの眼鏡の老婆が敷《の》べたものであろう。寝床の一つに、長椅子の背に顔を向けて、上衣も長靴も脱いだソーボリがすでに眠っている。残る一つが私を待っている。私は上衣を脱ぎ靴をとって、疲労と、しんとした長椅子部屋に宿っているブトィガの息吹きと、ソーボリの軽いやさしいいびきとに身を任せながら、おとなしく横になった。
 とたちまち私の夢に妻が、妻の仕事部屋が、怨めしそうな顔をした駅長が、積った雪が、芝居小屋の火事が、あらわれはじめた。……家《うち》の納屋からライ麦を二十俵盗んで行った百姓たちも夢にあらわれた。……
「とにかく判事が彼らを放免したのはいいことだ」と私が言う。
 私は自分の声で眼が醒め、一分間ほど怪訝な思いでソーボリの広い背中を、チョッキの尾錠《びじょう》を、肥った踵《きびす》を眺め、それからまた横になってうとうとする。
 私が二度目に眼をさましたときはもう暗くなっていた。ソーボリは寝ている。私は気持が安らいでいて、早く家へ帰りたかった。私は服をつけて長椅子部屋を出た。イワン・イワーヌィチは書斎の大きな肘掛椅子に坐って、じっと身動きもせずに一点を見つめていた。私が寝ていたあいだじゅう、彼はそうした麻痺の状態をつづけていたと見える。
「ああいい気持だ」と私はあくびをしながら言った、「まるで復活祭〔春分後第一の満月に次ぐ日曜日(露暦三月二十二日から四月二十五日の間に落ちる)を復活祭日とし、この日それに先立つ六週間の精進(大斎)を破る。つまり精進落ちである〕に精進落ちをしたあとで眼が醒めた時のような気分だ。これからはたびたび君のところに寄せて貰うよ。ねえ君、家内は君のところで御馳走になったことがあるかね。」
「ちょ……ちょい……ちょいちょいはね」とイワン・イワーヌィチは、身動きをしようとつとめながらぼそついた、「この前の土曜はここで昼飯をされたよ。そう……。あの人は僕を可愛がってくれる。」
 ちょっとした沈黙のあとで私は言った。
「君憶えてるかね、イワン・イワーヌィチ、君は僕に悪い性質があって、つき合いにくいって言ったっけね。だがその性質を変えるにはどうすればいいのかね。」
「僕にはわからないな、君。……僕は青んぶくれの皮のたるんだ人間だ、とても助言なんかする柄じゃないさ。……そう……。僕があの時それを言ったのは、君も好きだし、君の奥さんも好きだし、親父さんも好きだったからだよ……そう。僕はもうじき死ぬんだから、なんの君に隠したり嘘をついたりすることが要るものかね。だから言ってしまうが、僕は君が大好きだけど、尊敬はしていない、そう、尊敬はしていない。」
 彼は私の方へ向き直って、息を切らしながらひそひそ声をやっと出した。
「君を尊敬することはできない相談だよ、なあ君。見たところはなるほどれっきとした人間だ。君の外見《みてくれ》と押し出しとは、ちょうどフランスの大統領カルノー〔フランスの技師兼政治家。一八八七年共和国大統領となり、一八九四年イタリヤの無政府党員に暗殺された〕のようだよ。こないだ絵入新聞で見たんだがね、そう。……君の言うことは高尚だ、君は秀才だ、官等だって僕なんか及びもつかないさ。だがねえ君、君は性根がすわっていないんだ。……性根に骨がないんだ……そう。」
「スキタイ人だね、要するに」と私は苦笑した、「だが家内はどうかね。何か家内のことも言ってくれないか。君のほうがよく知ってるんだからね。」
 私は妻の話がしたかった。がソーボリがはいって来てその邪魔をした。
「ひと寝入りして、顔を洗ってきました」と彼は純朴な眼で私を見ながら言った、「ひとつラム入りのお茶でも頂戴して、おいとましましょう。」

 もう晩の七時を過ぎていた。控え室から玄関の昇降口まで、イワン・イワ ーヌィチをはじめ二人の百姓女や、眼鏡の老婆や小娘たちや百姓が総出で、口ぐちに泣声やあらゆる幸福を祈る声を立てながら見送ってくれた。馬のまわりの暗闇には、提灯を下げた人々がたたずんだり歩いたりしていて、私たちの馭者に道順や走らせ方を教え、道中の無事を祈ってくれるのだった。馬も橇も人影も真白だった。
「あの家では一たいどこからあんなにぞろぞろ出てくるんですか」と、私の三頭立てと医師の二頭立てが並歩で庭先を出かけたとき、私は訊ねた。
「あれはみんなあの人の農奴ですよ」とソーボリが言った、「あの人のところにはまだ時世の移り変りが来ていないんですな。昔の召使の誰や彼やがああして余生を送っている、どこへ行こうにも身寄りのない孤児《みなしご》もいる、また坐り込んでしまって梃子でも動かんという連中もあります。不思議な爺さんですよ。」
 ふたたび橇の疾駆、酔払ったニカノールの寄態な声、風、眼に口に毛皮外套の襞という襞に這い込む執念ぶかい雪……。
『ほう、飛ぶわ飛ぶわ!』と私は思う。私の橇の鈴が医師のにまじり合い、風が叫び、馭者たちがわめく。これら狂い荒れるざわめきのもとで、私は思い出す――この寄怪な荒々しい、生涯に一あって二とない一日の巨細《こさい》を。そして私は自分が実際気が狂ったか、または別人になった思いがする。今日この日までの自分が、今はもうまるで赤の他人のようだ。
 医師は後ろにつづいて、絶えまなしに大声で自分の馭者と話していた。時どき彼は私に追いついて並んで走り、例の私にはそれが嬉しいに違いないときめてかかったような純朴な信念で、巻煙草をすすめたり、マッチを貸してくれと言ったりした。また私と並んだかと思うと、いきなり橇の中に背丈いっぱいにふんぞり返って、腕のたっぷり二倍は長そうな毛皮外套の両袖を振りながら、叫びはじめた。
「ぴしぴしやれ、
ワーシカ! 千頭立てでも追い越しちまえ! ええ、仔猫めが!」
 すると医師の仔猫連は、ソーボリと彼の
ーシカの気味よげな高笑いとともに、ぐんぐん先へ出た。私のニカノールはむっとして三頭の手綱を控えたが、やがてもう医師の鈴音が聞こえなくなると、両肘を張って一声わめき、そして私の三頭立《トロイカ》は気狂いのように後を追って疾駆した。どこかの村へ乗り入れた。灯火がきらめき農舎の影絵がちらつき、誰かが『やい、畜生ども!』とわめいた。二キロは飛ばしたと思うのに、街路はまだつづいていて、その果てしは見えない。医師の橇と並んで速度を落したとき、彼はマッチを貸してくれと言って、――
「まあひとつ。この街を養ってやって御覧なさい。ところがここには、こんな街が五つもあるんですからねえ。おい、とめろ、とめろ!」と彼は叫んだ、「居酒屋へ廻すんだ。ひと暖まりして、馬も休ませにゃならん。」
 居酒屋のそばでとまった。
「私の管区にはこんな部落は一つどころじゃないのです」と医師はきいきいいう滑車のついた重たいドアを開けて、私は先に入れながら言った、「昼日なかに眺めたところで、こういった街には果てしが見えません。それにまだ横町もある、まったく頭をかくほかはないです。何かしてやろうにもなかなか骨ですよ。」
 私たちは「上等」室に通った。そこではテーブル掛の臭気が鼻をつき、私たちのはいって来た気配に、外側に出して帯をしめたルバーシカとチョッキだけになって眠っていた百姓が、ベンチから跳ね起きた。ソーボリはビールを、私は紅茶をたのんだ。
「何かしてやろうにもなかなか骨ですよ」とソーボリが言う、「あなたの奥さんは信念をもっておられる、私はあの方の前には頭を下げます、敬服します。だが自分としてはからっきし信念が持てないのです。私どもの民衆に対する関係が、あり来たりの慈善の性質、つまり育児院だとか廃兵院だとかに見られるような性質を帯びているあいだは、私たちは狡く立ち廻ったりごまかしたり、自己欺瞞をやったりして済ましているだけの話です。ほんとうはわれわれの関係は実務的なもの、計算と知識と正義とに基づいたものであるべきはずです。あの※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ーシカは若い時からずっと私のところで作男をしていた者ですが、やはり家《うち》が凶作で、あの男は飢えて病気になっています。で今仮りに私があの男に一日十五コペイカずつ遣るとすれば、それで私はあの男を元の作男の境涯に戻そうとすることになります。つまりまず何よりも私自身の利益を確保しながら、しかもその十五コペイカを、どういうわけか救済とか救恤とか善根とか名づけるわけですね。そこで一つこうして見ましょう。最も内輪に見積って一人当り七コペイカとし、一世帯を五人ずつとすると、一千世帯を養うには日に三百五十ルーブリかかります。この数字こそ、一千世帯に対する私たちの実務的かつ必至の関係を決定するものです。ところがどうです、私たちは日に三百五十どころか、ただの十ルーブリこっきりを出して、やれ救恤だとか、救済だとか、それであなたの奥さんはじめ私たちがみんなじつにどうも素晴らしい人間だとか、博愛万歳だとか言っています。ざっとまあこうした次第ですよ、あなた。ああ、私たちが博愛を喋々する時間を減らして、そのかわりもっとよく計算し、分別し、もっと良心的に自分たちの義務に対することにしたら、どんなにいいでしょうなあ。なるほど誠心誠意、寄附申込書をかかえて軒《のき》なみを駈けずり廻りはするが、そのくせ出入りの仕立屋やおさんどんの仕払いはしない――そんな博愛家そんな同情家が私たちのあいだには何人いるかしれません。論理というものが私たちの生活にはないのです、そうですよ。論理がね。」
 私たちはちょっと沈黙した。私は頭のなかで計算して言った。
「僕は千世帯を二百日間養うことにします。明日打ち合わせにいらして下さい。」
 私はそれを簡単に言ったのが満足だった。さらにソーボリがもっと簡単に答えたのが嬉しかった。
「承知しました。」
 私たちは勘定をすませて居酒屋を出た。
「私はこうして無駄口を叩くのが好きでしてね」とソーボリは橇に坐りながら、「閣下《エッチェレンツァ》、マッチを貸して下さい。あの店《うち》に忘れて来てしまいました。」
 十五分後には彼の二頭立ては遅れてしまい、吹雪の音に遮られてその鈴音はもう聞こえなかった。家に帰ると、私は自分の部屋から部屋を歩き廻って、自分の立場をとっくり考え、それをできるだけ自分にはっきりさせておきたいとつとめるのだった。私には妻に言うべき一言半句の用意もなかった。頭が働かないのだ。
 何にも考えつかぬままで、私は妻の部屋へ降りて行った。彼女は仕事部屋に、相変らず薔薇色の部屋着をきて、自分の書類を私から遮ろうとするような例の恰好で立っていた。彼女の顔には当惑と嘲笑の色があった。明らかに彼女は私の帰りをきいて、昨日のような泣顔を見せまい、たのみもしまい、守勢にたちもしまい、そのかわり私を嘲笑《あざわら》い、悔蔑のこもった返事をし、きっぱりした態度に出ようと、心構えをしていたらしい。彼女の顔はこう語っていた――『そういうわけなら、これでお別れよ。』
「ナタリイ、僕は発《た》たなかったよ」と私は言った、「だがこれは瞞したわけではない。僕は気が違ったとでも、老いぼれたとでも、病気だとでも、別人になってしまったとでも――どうでも好きなように思っておくれ。……今までの僕というものから、僕はぞっとして飛び退いて、ぞっとする思いでそれを軽蔑し恥じ入っているのだ。そして昨日から僕の裡にいるその新しい人間が、僕の出立を許さないのだ。僕を追い出さないでおくれ、ナタリイ。」
 彼女はじっと私の顔を見つめて、私の言葉を信じ、そして彼女の眼には不安の色がひらめいた。彼女が身近にいるのにうっとりとし、彼女の部屋の温かさに暖められて、私は彼女へ両手を差し出しながら、うわ言のように呟くのだった。
「僕は本心から言う――君を措いては僕には誰一人近しい者はない。僕はこれまで片時だって君を慕わずに過ごしたことはない。ただ頑《かたく》なな自尊心がこの告白を妨げていたのだ。僕らが夫とし妻として暮らしていたあの過去の日は、もう返るまいし、また返って欲しくもない、ただ僕を君の下僕にしてくれないか、僕の全財産を取って、誰なりと好きな人間に分配してくれないか。僕は気が安まった、ナタリイ、僕は満足だ。……僕は気が安まった。」
 妻はじっと不思議そうな眼つきで私の顔を見つめていたが、やがて急に小さな叫び声を立てて泣きだし、次の間へ駈け込んでしまった。私は二階へ帰った。
 一時間後には私はもう机に向って『鉄道史』を書いていて、難民も仕事の邪魔に来なかった。今ではもう私は不安を感じていない。二三日まえ妻やソーボリといっしょにピョーストロヴォの農舎を見廻ったとき眼にした乱雑さも、不吉な風聞も、奉公人たちの過失も、すぐそこに来ている老境も、何一つ私の心を乱しはしない。戦地に飛びかう砲弾も銃弾も、兵士たちの身の上話や食事や靴の繕いを妨げはせぬように、難民は私が安眠をし私個人の仕事をすることを妨げない。私の家の中にも屋敷うちにも、遙かぐるりの一帯にも、ドクトル・ソーボリが『慈善的乱痴気騒ぎ』と呼ぶ仕事が湧き返っている。妻はよく私のところへやって来ては、私の部屋部屋をきょときょとと眺め廻す。まるで『自分の生活の言いわけを見つける』ため、何かまだ難民にやるものはないかと捜しているような風である。そして私は、彼女のおかげで間もなく私たちの財産は残らず無くなって、私たちは貧乏人になるだろうことを想見する。しかしそれも私の心を乱しはせず、私は晴れ晴れと彼女に笑いかける。この先どうなるか、それは知らない。

底本:「チェーホフ全集 9」中央公論社
   1960(昭和35)年5月15日初版発行
   1980(昭和55)年10月20日再訂再版
入力:米田
校正:阿部哲也
2010年12月5日作成
2012年2月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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