天才  ТАЛАНТ     アントン・チェーホフ      Anton Chekhov—— 神西清訳

 避暑がてら、士官の後家さんの別荘に間借りをしている画家のエゴール・サヴィチは、いま自分の部屋の寝床に腰かけて、朝のメランコリイに耽っている最中である。庭はもうすっかり秋の眺めになっている。重苦しい、すこぶる拙く出来あがった層雲が、折角の大空を台なしにしている。肌を刺し貫くような冷たい風が吹き、樹木は情なさそうな泣き面をして一方へばかり身をねじ曲げている。大気のなかにも地の上にも、黄色い木の葉がくるくる舞いをするのが見える。さらば、夏よ! この大自然の憂悶は、もし画家の眼をもって観察するならば、また一種の美であり詩であるにはちがいなかろう。だが、今エゴール・サヴィチは美どころの騒ぎではない。彼はすっかりふさぎの虫にとりつかれて、せめてもの慰藉と言えば、明日はもはやこの別荘にいないのだということだけである。寝台の上も、椅子の上も、卓子の上も、床の上も、どこもかしこも褥だの、くちゃくちゃに丸めた毛布だの、バスケットだのの山である。部屋の中は散らかしたままで箒も入れてない。窓からは捺染更紗のカーテンを引っ剥してある。明日は都会へ引っ越しだ。
 主婦の後家さんは留守である。明日は引っ越しだから荷馬車を探しに出て行った。今年二十になる娘のカーチャは、口喧しいお母さんの留守を利用して、もうだいぶ長いこと青年の部屋に坐りこんでいる。画家は明日この家を出て行くのだが、彼女には言いたいことが山ほどある。彼女はいくらしゃべってもしゃべっても、言いたいことの十分の一しか言ってないような気がする。彼女は眼を涙でいっぱいにして、画家の尨毛の頭に見入っている。見ていると悲しくもあり嬉しくもある。エゴール・サヴィチは醜悪なほど、獣めいているほど、尨毛である。髪の毛は肩骨までも垂れているし、髯は首にも鼻の孔にも耳朶にも生い茂っているし、眼玉は繁りに繁って垂れ下った眉毛に隠れて見えない。実になんとも言いようのない繁りよう絡まりようである。蠅でも油虫でも一旦この密林に迷いこんだら最後、死ぬまで帰り途は見つかるまい。
 エゴール・サヴィチはカーチャの言うことに耳を澄しながら、欠伸をする。くたびれきっているのだ。やがてカーチャがめそめそ泣き出すと、彼は垂れ下った眉毛越しにぎろりと睨んで顔をしかめ、それから重々しい太い低音《バス》を出す。――
「僕は結婚なんか出来ないんだ。」
「どうしてなのよ?」とカーチャはおとなしく訊ねる。
「なぜって、画家は勿論のこと、一般に芸術に携わる人間は、決して結婚なんかしちゃいけないからさ。芸術家は自由でなければならん。」
「私があんたの邪魔をすると思うの? エゴール・サヴィチ。」
「僕は自分一個のことを言ってるんじゃないのさ。一般的に論じてるんだ。……有名な文士や画家は決して、結婚なんかしないものなんだ。」
「あんたが今に有名になるぐらいのこと、私だってちゃんと知ってるわ。でも、私の身にもなって頂戴な。私はママがこわいの。……ママはあんな口喧しい怒り虫でしょう。だから、一旦あんたが私を貰って下さるおつもりじゃなくって、ただあんなに……と分ったら最後、私をひどい目にあわせるにきまってるわ。ああ、私困るわ。おまけに、あんたまだ間代が払ってないじゃないの。」
「畜生、払っちまうとも。……」
 エゴール・サヴィチは起きあがって、部屋の中を歩きはじめる。
「洋行がしたいなあ」と彼は言う。
 そして画家は、洋行ほど雑作のないことはないんだと説明する。画を一枚描いて、それを売りさえすればいいのだ、と。
「そりゃそうね」とカーチャは賛成する、「あんたこの夏のうちになぜ描かなかったの?」
「こんな物置小屋で仕事が出来ると思っているのかい?」と無念そうに画家は言う、「第一モデルも居ないじゃないか。」
 階下のどこかでどしん[#「どしん」に傍点]と扉の音がする。刻一刻、母親の帰りに気を配っていたカーチャは、急いで席を立って逃げて行く。画家はひとりぽっちになる。
 彼は長いこと部屋の中を隅から隅へ歩き廻る。椅子やがらくた[#「がらくた」に傍点]の山の間を縫って歩く。帰って来た後家さんが皿茶碗をがちゃがちゃ言わせながら、どこやらの百姓が一車二ルーブルと吹っかけたと憤慨しているのが聞えてくる。胸のむかついて来たエゴール・サヴィチは食器棚の前に立ちどまって、ヴォトカの罎をいつまでも睨みつけている。
「いっそのこと死んでおしまい!」と後家さんがカーチャに飛びかかって行くのが聞える、「憎まれっ子世に憚る、ってお前さんのことだよ!」
 画家は思いきって一杯ぐっとやる。すると心の暗雲は徐々に晴れ渡って、あらゆる内部感覚が自分の身のなかで微笑しているように感じられる。彼は空想を開始する。……
 自分が有名になった時のことに思いは馳せる。勿論未来の作物を想像することは出来ない。だが新聞が自分のことを大いに書き立て、絵葉書屋の店頭に自分の絵葉書が並び、友人たちが自分を羨望の眼で眺める光景は歴然として浮びあがる。次に豪奢な応接間に坐って美しい女性の崇拝者に取り巻かれている光景を描いてみる。けれど生れて以来応接間というものを見たことのない彼には、この光景はどうももやもや[#「もやもや」に傍点]した雲霧にとざされ勝ちである。女性の崇拝者もやはりうまく出て来ない。カーチャを別にすれば、彼は生れてこのかた一人の崇拝者にも、一人の良家の娘にも出くわさなかったのである。人生を知らぬ人間には書物で人生を想像するというやり方がある。ところがエゴール・サヴィチは書物も知らない。ゴーゴリを読んでみようとしたことがあったが、二ページ目で眠ってしまった。……
「ちっとも燃えつかないよ、ええ、じれったい!」とどこか階下で、後家さんがサモワルの仕度をしながら怒鳴る、「カーチャ、炭をおくれ!」
 夢想の画家は誰かに自分の希望や空想のお裾分けをしてやりたくなる。彼は台所へ降りて行く。でぶでぶした後家さんとカーチャがサモワルの炭酸ガスを吸いながら、燻った炉の廻りでてんてこ舞いをしている。彼は大甕のとなりの腰掛けにお神輿《みこし》を据えて、やり始める。
「画家って商売は豪勢ですぜ。行きたい所へはすぐ出掛ける。やりたいことはすぐ出来る。勤めに出ることも要らないし、泥の臭いも嗅がないで済む。……課長もなければ上役もなし。……この僕が僕の上役なんですからね。まあそんな具合でいながら、人類にはなかなかの大貢献をするんですよ。」
 昼飯がすむと彼は『休憩』にとりかかる。大概は夕闇のせまるまで睡眠する。ところが今日は、昼飯がすむと間もなく、誰やらが自分の脚を引っ張って、自分の名を呼びながらげらげら笑っているのを感じる。彼が眼をあけると、仲間のウクレイキンが立っている。これは風景画家で、この夏をコストローマ県で送ったのである。
「いよう」と彼は歓声をあげる、「こりゃ珍客だ!」
 握手と質問がはじまる。
「おい、何か持って来たろう? 君のことだから百枚ぐらいはスケッチをやっつけただろうな?」とエゴール・サヴィチは、ウクレイキンがトランクから財産を取り出すのをじろじろ眺めながら言う。
「うん、まあなんとかやったさ。……君の方はどうだ? 何か描いたかい?」
 エゴール・サヴィチは寝台の後ろにもぐりこんで、顔を真赤にしながらやっとのことで框にはまった画布を引きずり出す。埃りと蜘蛛の巣で見えない程である。
「そうら……『婚約者と別れたる後の窓辺の少女』って言うんだ」と彼は言う、「モデルを三日使ったんだぜ。でもまだ完成してないんだ。」
 その画は、開け放した窓辺に坐っているカーチャのどうやら輪郭だけが出ている。窓の外は小庭と藤色の遠景だ。ウクレイキンにはどうも感服出来ない。
「ふむ、……気分は出てるな……それに表現もある」と彼は批評する、「遠景もよく出ている、だが……このブラッシは金切り声だよ……恐ろしく金切り声だよ!」
 そこへかわいいヴォトカの壜が登場する。
 夕方になると、友達で別荘の隣人であるコストイリョーフという歴史画家がエゴール・サヴィチを訪ねて来る。これは年の頃三十五ほどの小男で、やはり将来有望な卵である。長い髪をして、シェクスピヤ風の襟のついたブルーズを着用してすこぶる威厳を作っている。ヴォトカを見ると顔をしかめて自分の胸の病いを大いに悲しがったが、親友のたっての勧めに余儀なく一杯をまず呑み乾す。
「諸君、僕は素晴らしいテエマを思いついたですよ」と彼は一杯機嫌で言いはじめる、「僕は何かこう言ったネロと言ったようなものが描いてみたいですな……つまりヘロデとか、まあクレペンチャンとか言ったような、さもなければ、何かその、お解りですか? つまりまあ、そんな風な破廉恥漢ですな……そして、これにキリスト教のアイデヤを対照させるんですな。いっぽうには大ローマ、そしていっぽうには、ねえ、どうです、キリスト教なんです。……私はその、霊が表現してみたいです……お解りですかな、その、霊がですよ。」
 階下では後家さんが相変らず怒鳴っている。
「カーチャ、きゅうりをおくれ! シドロフんとこへ行ってク※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]スを取っておいでったら、このお転婆!」
 三人の仲間はまるで檻の中の狼のように、部屋の隅から隅へと濶歩する。すこぶる真剣に、そして熱烈に、のべつ幕なしにしゃべっている。三人とも魂を飛ばして昂奮している。将来われらの掌中に落ちるものはなんぞ? 名声である、富である、と言った調子だ。……彼等は陽気だ、そして幸福だ、彼等は勇敢に『未来』の眼をのぞきこんでいる。
 夜中の一時を廻った頃コストイリョーフはさよならを言って、例のシェクスピヤ襟を直しながら家路をたどる。風景画家の方は風俗画家の部屋に泊ることになる。寝床にはいる前、エゴール・サヴィチは水を飲みに台所へと、蝋燭片手にふらふら降りて行く。真暗な細い廊下には、カーチャが手を膝に組んで上眼を使いながらトランクに腰掛けている。彼女の蒼白い疲れきった顔には幸福なほほえみが漂っている。眼はきらきらしている。……
「なんだ君なのか? 何考えてるんだい?」とエゴール・サヴィチは訊ねる。
「私、あなたがどんな有名な人になるだろうって考えている所なの。……」と彼女は半ば囁くように言う、「あなたがどんな偉い人になるだろうと思って、私たのしみでならないのよ。……今のあなた方の話はすっかり聞いちまったの。……私、だから空想してるの、……空想してるの……」
 カーチャは幸福な笑声をたてはじめる。それから泣き出して、両手を恭しく自分の神様の肩に掛ける。

底本:「チェーホフ全集 5」中央公論社
   1960(昭和35)年9月15日初版発行
   1976(昭和51)年7月10日再訂版発行
入力:米田
校正:阿部哲也
2011年1月29日作成
2012年2月21日修正
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