可愛い女 DUSHECHKA   アントン・チェーホフ      Anton Chekhov—– 神西清訳

 オーレンカという、退職八等官プレミャンニコフの娘が、わが家の中庭へ下りる小さな段々に腰かけて、何やら考え込んでいた。暑い日で、うるさく蠅《はえ》がまつわりついて来るので、でももうじき夕方だと思うといかにもうれしかった。東の方からは黒い雨雲がひろがって来て、時おりその方角から湿っぽい風が吹いていた。
 中庭のまんなかにはクーキンという、遊園『*ティヴォリ』の経営主と持主とを一身に兼ねて、やはりその屋敷うちの離れを借りて住んでいる男がたたずんで、空を眺めていた。
「またか!」と彼は捨てばちな調子で言うのだった。「また雨と来らあ! 毎日毎日雨にならないじゃ済まないんだ――まるでわざとみたいにさ! これじゃ首をくくれというも同然だ! 身代限りをしろというも同然だ! 毎日えらい欠損つづきさ!」
 彼はぴしゃりと両手を打ち合せると、オーレンカの方を向いて言葉をつづけた。――
「つまりこれなんでさ、ねえオリガ・セミョーノヴナ、われわれの渡世って奴は。まったく泣きたくなりまさあ! 働く、精を出す、うんうんいう、夜の目も寝ない、ちっとでもましなものにしようと考えづめに考える、――ところがどうです? 一つにはまずあの見物《けんぶつ》で、これが無教育で野蛮と来ている。こっちじゃ一生懸命|粒《つぶ》よりのオペレッタや、夢幻劇や、すばらしい歌謡曲の名人を出してやるんだが、それが果してあの手合いの求めるものでしょうか? 奴らにそんなのを見せたところで、果して何かしら分かってくれるでしょうかね? 奴らの求めるのは小屋掛けの見世物なんでさ! 奴らにゃ俗悪なものをあてがいさえすりゃいいんでさ! さてお次は、まあこの天気を見て下さい。晩はまずきまって雨と来ている。五月の十日から降り癖がついて、それから五月、六月とぶっ続けじゃ、お話にも何にもなりませんよ! 見物はまるで来ない、だが私の方じゃちゃんと地代を納めるんじゃないですか! 芸人の払いもするんじゃないですか?」
 あくる日も夕方ちかく又もや雨雲がひろがって来たので、クーキンはヒステリックな笑い声を立てながら言うのだった。――
「ええ何てこったい? 勝手に降りやがれだ! いっそ遊園ぜんたい水びたしにしちまうがいいや、いっそこの俺を水びたしにしちまうがいいや! 俺のこの世の幸福も、いやさあの世の幸福も、どうなりと勝手にしやがれだ! 芸人どもが俺を訴えたけりゃ訴えるがいいや! 裁判所がなんだい? シベリヤへ徒刑にやられたって構やせんぞ! 断頭台もあえて辞しはせんぞ! ハ、ハ、ハ!」
 そのまた翌日も同様だった。……
 オーレンカは黙って真剣な顔つきでクーキンの言葉を聴いていたが、時には彼女の眼に涙のうかぶこともあった。やがての果てに彼女はクーキンの不仕合《ふしあわ》せに心を動かされて、彼を恋してしまった。彼は背のひくいしなびた男で、黄色い顔をして、ちょっぴりしたもみ上げの毛をきれいになでつけて、幅のない中音《テノール》で話をして、ものを言うとき口を曲げるのが癖だった。彼の顔はいつ見ても絶望の色を浮かべていたけれど、だがそれでもやっぱり彼は、彼女の胸に正銘まぎれもない深い感情を呼びさましたのである。彼女はしょっちゅう誰かしら好きで堪《たま》らない人があって、それがないではいられない女だった。以前彼女はお父さんが大好きだったが、そのお父さんも今では病気になって、暗い部屋の肱掛椅子《ひじかけいす》に坐り込んだなり、苦しそうに息をしている。叔母さんが大好きだったこともあるが、それはときたま、二年に一度ぐらいの割合でブリャンスクから出てくる人だった。それよりもっと前には、初等女学校へ通っていた頃、フランス語の男の先生が大好きだったこともある。彼女は物静かな、気だてのやさしい、情けぶかい娘さんで、柔和なおだやかな眸《ひとみ》をして、はちきれんばかりに健康だった。そのぽってりした薔薇《ばら》いろの頬や、黒いほくろが一つポツリとついている柔かな白い頸《くび》すじや、何か愉快な話を聴くときよくその顔に浮かび出る善良なあどけのない微笑やをつくづく眺めながら、男の連中は心のなかで『うん、こりゃ満点だわい……』と考えて、こっちも釣り込まれて顔をほころばせるのだったし、婦人のお客になるとついもう我慢がならず、話の最中にいきなり彼女の手をとって、うれしさに前後も忘れてこう口走らずにはいられなかった。――
「可愛い女《ひと》ねえ!」
 彼女が生まれ落ちるとからずっと住み通してきたこの家は、お父さんの遺言状には彼女の名ざしになっているものだが、町はずれのジプシー村にあって、『ティヴォリ』遊園のじき近くだった。毎ばん宵《よい》の口から夜ふけにかけて、彼女の耳には園内で奏でられる音楽や、花火のポンポン打ち上げられる音がきこえ、それが彼女には、まるでクーキンがわが身の運命と組み打ちしながら、そのめざす大事な敵――かの冷淡なる見物を攻め落とそうと、突撃の真っ最中のように思われるのだった。すると彼女の心はあまくしめつけられ、まるっきり睡《ねむ》くなくなって、やがて明方ちかく彼が帰ってくると、彼女は自分の寝間の窓を内側からそっと叩いて、カーテン越しに顔と片っ方の肩さきだけ覗《のぞ》かせながら、優しくにっこり微笑《ほほえ》むのだった。……
 彼の方から申し込みをして、二人は結婚した。そして彼は、彼女の頸筋や、ぽってりと健康にはちきれんばかりの肩先につくづく気がついたとき、思わず両手を打ち合わせてこう口走った。――
「可愛い女だなあ!」
 彼は幸福な気持だったが、あいにく婚礼当日の昼間が雨で、それから夜ふけになってまた降ったので、彼の顔からは終始絶望の色が消えなかった。
 結婚ののち二人は楽しく暮していた。彼女は良人《おっと》の帳場に坐って、園内の取締りに目をくばったり、出費を帳面にひかえたり、給料を渡したりするのだったが、彼女の薔薇色の頬や、愛くるしい、あどけない、さながら後光のような微笑みは、いましがた帳場の窓口に見えたかと思うと、次の瞬間には舞台裏に現われたり、かと思うとまた小屋の食堂に現われたりで、しょっちゅうそこらにちらちらしていた。また彼女は、今じゃもう知合いの誰彼に向かって、この世で一ばん素敵なもの、一ばん大切で必要なものは何かというと、それは他ならぬこの芝居で、本当の慰めを得たり、教養あり人情ある人になる道は、芝居を措《お》いてはほかに求められない、などと言い言いするのだった。
「けどねえ、見物衆にそれが分かっているでしょうか?」と彼女は言うのだった。「あの連中の求めるのは小屋掛けの見世物なんですわ! 昨日わたくしどもで『裏返しのファウスト』を出しましたら、どのボックスもほとんどがらあきでしたが、それがもしわたしたちヴァーニチカと二人で何か俗悪なものを出したとしたら、さだめし小屋は大入り満員だったに相違ないんですわ。明日はヴァーニチカと二人で『地獄のオルフェウス』を出しますの。いらしてちょうだいね」
 というふうに、芝居や役者についてクーキンの吐いた意見を、彼女もそのまま受け売りするのだった。やはり良人と同様彼女も見物が芸術に対して冷淡だ、無学だといって軽蔑していたし、舞台稽古にくちばしを出す、役者のせりふまわしを直してやる、楽師れんの行状を取り締まるといった調子で、土地の新聞にうちの芝居の悪口が出たりしようものなら、彼女は涙をぽろぽろこぼして、その挙句《あげく》に新聞社へ掛け合いに行くのだった。
 役者連中は彼女によくなついて、『ヴァーニチカと二人』だの『可愛い女《ひと》』だのと尊称を奉っていた。彼女の方でも彼らに目をかけてやって、少しずつならお金も貸し出したりしていたが、ひょっとして一杯ひっかけられるようなことがあっても、彼女は人知れずこっそり泣くだけで、良人に苦情をもちかけたりなんぞしなかった。
 その冬も二人は楽しく暮した。町の劇場をその冬いっぱい借り切って、短い期限をきってウクライナ人の劇団や、奇術師や、土地の素人《しろうと》芝居に又貸しした。オーレンカはますます肥《ふと》って、頭から足の先まで満悦の色に照り輝いていたが、一方クーキンはますます瘠《やせ》せ細りますます黄色くなって、その冬はずっと事業がうまく行っていたくせに、えらい欠損だとこぼしてばかりいた。彼は夜中になるときまって咳《せき》が出たので、彼女は彼に木苺《きいちご》の汁や菩提樹《ぼだいじゅ》の花の絞り汁を飲ませたり、オーデコロンをすり込んでやったり、自分のふかふかしたショールでくるんでやったりした。
「あなたはまったく何て立派な人でしょうねえ!」と彼女は彼の髪をなでつけてやりながら、嘘いつわりない本心からそう言うのだった。「あなたはまったく何ていい人でしょうねえ!」
 *大斎期に彼は一座を募集にモスクヴァへ旅立ったが、彼女は良人がいないと眠れないので、ずっと窓ぎわに坐りとおして星ばかり眺めていた。そんな時には彼女は自分の身を、鶏小屋に雄鶏《おんどり》がいないとやはり夜っぴて眠らずに心配しつづける雌鶏《めんどり》にひきくらべてみるのだった。クーキンはモスクヴァで手間どって、帰るのは復活祭の頃になると書いてよこし、手紙の都度『ティヴォリ』遊園のことで早手まわしに色々と指図をしてよこした。ところが一夜あければ*御受難週の月曜日という晩おそく、とつぜん不吉なノックの音が門口でした。誰かしら木戸を、まるで樽《たる》でもたたくように、ブーム! ブーム! ブーム! と叩いたのだった。寝ぼけ眼《まなこ》の炊事女が、はだしで水たまりをぱちゃぱちゃいわせながら、木戸をあけに駈《か》けだした。
「開けてください、まことにお手数さま!」と誰かが門の外で、陰《いん》にこもった低音《バス》で言うのだった。「電報ですよ!」
 オーレンカは前にも良人から電報をもらったことは何べんかあったけれど、今度はどういうわけかはっと気が遠くなってしまった。ぶるぶる顫《ふる》える手で彼女は電報の封を切って、次のような文面を読んだ。
『イヴァン・ペトローヴィチ キョウ キュウセイ、ヌグ サシズマツ、ツウシキ カヨウビ』
 とこんなぐあいにその電報には『ツウシキ』だとか、更にもっとちんぷんかんぷんな『ヌグ』だとかいう字が打ってあった。署名はオペレッタの一座の監督の名になっていた。
「いとしいあなた!」とオーレンカはおいおい泣きだした。「あたしの懐かしい、いとしいあなた! 何だってあたしはあなたとめぐり合ったんでしょう? 何だってあたしはあなたという人を知って、恋したりなんぞしたんでしょう? あなたはこの哀れなオーレンカを、この哀れな不仕合せな女を棄てて、いったい誰に頼れと仰しゃるの?……」
 クーキンの埋葬は火曜日に、モスクヴァのヴァガニコヴォ墓地で行なわれた。オーレンカはわが家へ水曜日に帰って来たが、自分の部屋へはいるが早いかばったり寝台の上に伏し倒れて、声をかぎりに号泣したので、往来や隣近所の中庭までよく聞こえた。
「可愛い女《ひと》がねえ!」隣近所の女たちは、十字を切りながらそう言うのだった。「可愛いオリガ・セミョーノヴナがねえ、おばさんや、あれあんなに嘆き悲しんでいますわよ!」
 それから三月《みつき》ほどして、ある日オーレンカは昼のお弥撒《ミサ》から、しょんぼりと、大喪の服に身をつつんで家路を辿っていた。偶然その彼女と肩をならべて歩いていたのは、やはり教会から帰る途中のヴァシーリイ・アンドレーイチ・プストヴァーロフという近所の男で、これは大問屋ババカーエフの材木置場の管理をまかされている人物だった。彼は麦わら帽子をかぶって、白いチョッキには金鎖をからませなどして、小商人というよりむしろ地主の旦那然としたいでたちだった。
「何事によらず物にはそれぞれ定まった命数というものがありましてね、オリガ・セミョーノヴナ」と彼は悟り澄ましたような調子で、声に同情を含ませて話すのだった。「ですから誰か身うちの者が死んだとしても、それはつまり神様の思召しなんですから、そんな場合にもわれわれは気をしっかり持って、すなおに堪《た》え忍ばなければならないんですよ」
 オーレンカを木戸のところまで送って来ると、彼は別れを告げて、そのまま向こうへ歩いて行った。それ以来というもの、日がな日ねもす彼女の耳には彼の悟り澄ましたような声がきこえ、ちょいと眼をつぶってもたちまち彼の真っ黒な髯《ひげ》がちらつくようになった。彼女はすっかり彼が気に入ってしまったのである。それのみか、どうやら彼女の方からも相手の胸に感銘を与えたらしいという証拠には、それから二、三日すると、平生あまり顔なじみのないさる年配の婦人がコーヒーを飲みにやって来て、食卓に向かって座を占めるが早いか、早速もうプストヴァーロフのことをしゃべり出して、あの人はしっかりしたいい人だ、あの人の所へならどんな花嫁さんでも喜んで行くにちがいない、などとまくし立てたものである。それから三日すると今度は当のプストヴァーロフまでが訪問して来た。彼はほんのちょっと、十分ばかりいただけで、あまり口数もきかなかったが、オーレンカはすっかり彼に恋してしまったのみか、それがまた一通りや二通りの慕いようではなく、その晩はまんじりともせずにまるで熱病にでもやられたように心を燃やし身を焦がし、朝になるのを待ちかねて例の年配の婦人を呼びに使いを走らせるという騒ぎだった。まもなく結納《ゆいのう》がすみ、やがて婚礼があった。
 プストヴァーロフとオーレンカは夫婦になって楽しく暮した。たいてい彼は昼飯まで材木置場に陣どっていて、それから外交に出掛けるのだったが、あとはオーレンカが引き受けて、夕方まで帳場に坐り込んで勘定書を作ったり、商品を送り出したりするのだった。
「当節じゃ材木が年々二割がたも値あがりになっておりましてねえ」と彼女はお得意や知合いの誰彼に話すのだった。「何せあなた、以前わたくしどもでは土地の材木を商《あきな》っておりましたのですけれど、それが当節じゃヴァーシチカが毎とし材木の買い出しにモギリョフ県まで参らなければなりませんの。その運賃がまた大変でしてねえ!」そう言って彼女は、さもぞっとするように両手で頬をおさえて見せるのだった。「その運賃がねえ!」
 彼女は自分がもうずっとずっと前から材木屋をしているような気がし、この世の中で一ばん大切で必要なものは材木のように思えて、桁材だの、丸太だの、板割だの、薄板だの、小割だの、木舞《こまい》だの、台木だの、背板だの……といった言葉の中に、何となく親身なしみじみした響きが聞きとれるのだった。来る夜も来る夜も、眠りに落ちた彼女の夢に現われるのは、厚いまた薄い板材が山のようにいくつも積み上げられたところ、えんえんと涯《はて》しもない荷馬車の列が材木をどこか遠く町の外へ運んでゆくところだった。夢の中にはまた、七寸丸太の長さ三十尺近くもある奴が総立ちで一個連隊ほども旗鼓《きこ》堂々と材木置場へ押し寄せてくる光景、丸太や桁材や背板が互いにぶつかり合って、腹の底までしみとおるような乾いた木の音を鳴り響かせながら、どっと倒れては起き起きては倒れ、互いに相手を足場に踏まえて積み重なってゆく有様も出てきた。オーレンカが夢のなかできゃっと声を立てると、プストヴァーロフが優しい言葉をかけてやるのだった。――
「オーレンカ、おまえどうしたのさ、ええ? 十字をお切り!」
 良人の思うこと考えることは、同時にまた彼女の思うこと考えることだった。彼がこの部屋は熱すぎるとか、商売が近ごろひまになったとか考えると、彼女もそう考えるのだった。良人が物見遊山《ものみゆさん》は嫌いの性分で、休みの日には家にいるので、彼女もやはりそうしていた。
「まあ、しょっちゅうあなたはお家にばかり、でなければ事務所にばかりいらっしゃるのねえ」と知合いの人がよくそんなふうに言った。「たまには芝居へなり、ねえ可愛いあなた、それとも曲馬へなりいらっしゃればいいのに」
「わたくしどもヴァーシチカと二人には芝居見物の暇なんぞありませんのよ」と彼女は悟り澄ました調子で答えるのだった。「わたくしども自分の腕で御飯をいただいております者には、時間つぶしをする余裕なんかございませんわ。芝居なんぞどこがいいんでしょうねえ?」
 土曜日になるとプストヴァーロフと彼女はきまって夜祷式に行き、祭日には朝の弥撤《ミサ》に行った。教会の帰り途《みち》はいつも仲よく肩を並べて、しんみりと感動した面もちで、二人ともいい匂いをぷんぷんさせながら歩いて来ると、彼女の絹の衣裳がさらさらと快い音を立てるのだった。さてわが家へ帰るとお茶になって、味つきパンや色んなジャムが出たあとで、仲よく|肉まん《ピローグ》に舌つづみをうつ。毎日お午《ひる》になると、中庭はもとより門のそとの往来へまで、|甜菜スープ《ボルシチ》だの羊や鴨の焼肉だののおいしそうな匂いが漂い、それが精進日だと魚料理の匂いにかわって、門前に差しかかる人は、食欲をそそられずに行き過ぎるわけにはいかなかった。事務所の方にはいつもサモヴァルがしゅんしゅんいっていて、お得意は輪形のパンでお茶の饗応にあずかった。一週間に一度、夫婦は風呂屋へ行って、帰り途は仲よく肩をならべて、二人とも真っ赤に顔を上気させていた。
「おかげさまで、結構な暮しをしておりますわ」とオーレンカは知合いの人たちに言い言いした。「有難いことですわ。どうか世間の皆さまにも、わたくしどもヴァーシチカと二人のように暮させて差し上げたいものですわ」
 プストヴァーロフがモギリョフ県へ材木の仕入れに出掛けると、彼女はひどく淋《さび》しがって、来る夜も来る夜も眠らずに泣いていた。ときどき宵の口に、彼女のところへ連隊づきの獣医でスミールニンという、彼女の屋敷の離れを借りている若い男がやって来た。彼が何かと世間話をしてくれたり、カルタの相手になってくれたりするので、彼女の気もまぎれるのだった。なかでもとりわけ面白かったのは、彼自身の家庭生活の思い出ばなしだった。彼には細君もあり息子もあったのだが、細君が不行跡を働いたので夫婦わかれをして、現ざい彼はもとの細君を憎み抜いていながら、月々息子の養育費として四十ルーブルの仕送りをしていた。といった身の上話に聴き入りながら、オーレンカはほっと溜息《ためいき》をして頭をふり、この男をしみじみ気の毒に思うのだった。
「では、くれぐれもお大事にね」と彼女は、暇《いとま》を告げる彼を見送って蝋燭《ろうそく》を手に階段のところまで出ながら言うのだった。「有難うございました、おかげさまで淋しさがまぎれましたわ。ご機嫌よろしゅう、おやすみなさいまし……」
 そしてまた彼女は相変らず良人の口真似で、いかにも悟り澄ましたような、いかにも思慮ぶかそうな言葉づかいをするのだった。獣医の姿はもう下の扉のそとへ消えてしまったのに、彼女はもう一ぺん彼の名を呼んで、こんなことを言ってきかせた。――
「ねえ、ヴラヂーミル・プラトーヌィチ、あなたは奥さんと仲直りをなさるのがいいですわ。お子さんのためだと思って奥さんを赦《ゆる》してお上げなさいましよ!……坊ちゃんだって案外、もうちゃんと物心がついてらっしゃるかも知れませんもの」
 そしてプストヴァーロフが帰って来ると、彼女はひそひそ声でこの獣医のことや、その不仕合せな家庭生活のことを良人に話してきかせて、二人とも溜息をついたり首を横にふったりしながら、その男の児《こ》はさだめしお父さんを恋しがっていることだろうなどと語り合い、やがて一種奇妙な想念の流れにみちびかれて、二人して聖像の前にかしこまって、地に額《ぬか》ずいて礼拝をしながら、神様どうぞ私どもに子どもをお授けくださいと祈るのだった。
 といったぐあいで、プストヴァーロフ夫婦はひっそりとおとなしく、互いに愛し愛されつつ水ももらさぬ仲むつましさで六年の歳月をおくった。ところがある冬の日のこと、ヴァシーリイ・アンドレーイチは事務所で熱いお茶をがぶがぶ飲んでから、帽子もかぶらず材木の送り出しに表《おもて》へ出て行って、風邪をひきこみ、どっと病《やまい》の床についた。ずいぶんといい先生がたにかかったけれど、病魔にはとうとう打ち克てず、四カ月わずらいとおした挙句に死んでしまった。でオーレンカはまたしても後家さんになった。
「こうしてこのわたしを見棄てていったい誰に頼れと仰しゃるの、ねえあなた?」と、良人の埋葬を済ませてから彼女はおいおい泣くのだった。「あなたに死に別れてこの先どうして生きて行ったらいいの、みじめな不運なこのわたしは? 親切な皆さまがた、このわたしを不憫《ふびん》と思って下さいまし。天にも地にも身寄りのない女を……」
 彼女はずっと黒い服に白い喪章をつけて押し通し、帽子や手袋はもはや生涯身につけぬことにきめ、外へ出るのもごく時たま教会まいりか良人の墓参に行くだけにして、まるで修道尼のように引きこもって暮していた。こうして六カ月たつと、彼女はやっと喪章をはずして、窓の鎧戸《よろいど》もあけはなすようになった。その頃になるとちょいちょい朝のうちに、彼女が食料品の買い出しに炊事女をつれて市場へ行く姿が見えるようになったが、彼女がうちでどんな生活をしているのか、家内の様子がどんなぐあいになっているのかということになると、当て推量をしてみるほかに手はなかった。その当て推量の種《たね》になったのは、例えば彼女がうちの中庭で例の獣医を相手にお茶を飲んでいて、男の方が彼女に新聞を読んできかせているところを誰か見かけた人があるとか、更にはまた、郵便局で出会ったある知合いの婦人に向かって、彼女がこんなことを言ったとかいう類《たぐ》いの事柄だった。――
「わたくしどもの町では獣医の家畜検査というものがちゃんと行なわれておりませんので、そのため色んな病気がはやるんでございますわ。のべつもう、人さまが牛乳から病気をもらったとか、馬や牛から病気が感染なすったとか、そんなお話ばかり伺いますのねえ。まったく家畜の健康と申すことには、人間の健康ということに劣らず、心を配らなくてはなりませんわ」
 彼女の言うことは例の獣医の考えそのままの受け売りで、今では何事によらず彼と同じ意見なのだった。してみればもはや、もともと彼女は誰かに打ち込まずには一年と暮せない女で、今やその身の新しい幸福をわが家の離れに見出したのだということは、語るに落ちた次第だった。ほかの女だったら世間の非難を浴びずに済みそうもないこの出来事も、オーレンカのことだとなると誰ひとりとして悪く思う気にはなれず、彼女の身の上のことは何事によらずもっとも至極とうなずけるのだった。彼女も獣医も、二人の仲におこった変化のことは誰にも打ち明けず、ひた隠しに隠していたけれど、あいにくこれが二人の注文どおりに行かなかったというわけは、オーレンカがおよそ秘密なんていうことは柄《がら》にもない女だったからである。男のところへ連隊の同僚がお客にやって来たりすると、彼女はお茶をついでやったり夜食を出してやったりしながら、牛や羊のペストの話、おなじく結核の話、その町の屠殺場の話などを滔々《とうとう》とやりだすので、男の方ではすっかり閉口してしまい、お客の帰ったあとで彼女の手をぐいとつかまえて、腹立たしげに声を尖らせるのだった。――
「自分の分かりもしない話をするじゃないってあんなに頼んどくのにさ! 僕たち獣医同士で話をしている時には、お願いだから口出しはやめて下さい。それは要するに、退屈なだけですからねえ!」
 すると彼女は、びっくりしたような眼でおどおどと彼を見て、こう聞き返す。――
「ヴォローヂチカ、じゃああたし何の話をすればいいのよ※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」
 そして彼女は眼に涙をうかべて彼に抱きついて、後生だから怒らないでねと頼む――といった調子で二人は幸福だった。
 だがしかし、この幸福もほんのわずかの間だった。獣医が連隊について行ってしまった、それも永久に行ってしまった。というのはその連隊がどこかとても遠いところへ、もう一あしでシベリヤというところへ移されたからである。でオーレンカは一人ぼっちになってしまった。
 今度こそもう彼女はまったくの一人ぼっちだった。父親はとうの昔に亡くなり、例の肱掛椅子は屋根裏に転がっていて、埃《ほこり》まみれで、脚が一本とれていた。彼女は痩《や》せて器量も落ちたので、往来で行き会う人々ももはや以前のように彼女をしげしげと見たり、にっこり笑いかけたりはしなかった。明らかにもはや盛りの年は過ぎ去って、昔の語り草になってしまい、今やいっこうに勝手の分からない一種べつな生活、いっそかれこれ思ってみない方がましらしい生活が、始まりかけているのだった。晩になるとオーレンカは、中庭へ下りる段々に腰をかける。するとその耳に、『ティヴォリ』でやっている音楽や、花火のぽんぽんいう音が聞こえるのだったが、それも今では何の想いをも呼びおこさなかった。彼女はさもつまらなそうな眼つきでがらんとしたわが家の中庭に見入ったまま、何を思うでも何を求めるでもなくただぼんやりしていて、やがて夜がふけると寝間へ引きとって、わが家のがらんとした中庭を夢に見るのだった。食べるのも飲むのも、彼女はまるで厭々《いやいや》やっているような様子だった。
 が、中でも一ばん始末の悪かったのは、彼女にもう意見というものが一つもないことだった。彼女の眼には身のまわりにある物のすがたが映りもし、まわりで起こることが一々会得もできるのだったが、しかも何事につけても意見を組み立てることが出来ず、何の話をしたものやら、てんで見当がつかなかった。ところでこの何一つ意見がないというのは、なんという怖ろしいことだろう! 例えば壜《びん》の立っているところ、雨の降っているところ、または百姓が荷馬車に乗って行くところを目にしても、その壜なり雨なり百姓なりが何のためにあるのやら、それにどんな意味があるのやら、それが言えず、仮に千ルーブルやると言われたって何の返事もできないに違いない。クーキンやプストヴァーロフがついていてくれた頃も、またその後で、獣医がついていてくれた時も、オーレンカは説明のつかないことは一つもなかったし、どんな問題を出されても自分の意見を述べるに不自由しなかったものだが、それが今ではむらがる想いの間《あわい》にも心の内部にも、ちょうどわが家の庭そっくりのがらんどうが出来てしまっていた。その何ともいえぬ気味わるさ、何ともいえぬ口の苦さは、艾《よもぎ》をどっさり食べたあとのようだった。
 町は次第に四方へひろがって行った。ジプシー部落も今では通りと名が変わり、例の『ティヴォリ』遊園や材木置場のあったあたりには、はや家が立ち並んで、横町がいくつもできていた。時のたつのは何と早いものだろう! オーレンカの家は煤《すす》ぼけて、屋根は錆《さ》び、納屋はかしぎ、庭には丈の高い雑草や刺《とげ》のある蕁麻《いらくさ》がいっぱいにはびこってしまった。当のオーレンカも老《ふ》け込んで器量が落ちた。夏になると彼女は例の段々に坐っているが、その胸のうちは相変らずがらんとして、味気なく、例の苦艾《にがよもぎ》の後味がしていたし、冬は冬で彼女は窓ぎわに坐って、じっと雪を見つめている。春の息吹きがそよりとでもしたり、風のまにまに寺院の鐘の音がつたわって来たりすると、突然どっとばかり過去の追憶が押しよせて、あまく胸がしめつけられ、眼からは涙がとめどなく流れるけれど、それもほんの束《つか》の間《ま》のことで、胸のなかは再びがらんとしてしまい、何を甲斐《かい》に生きているのやらつくづく分からなくなる。黒い小猫のブルイスカが甘えかかって、ごろごろと柔《やさ》しく喉を鳴らすけれど、こうして猫なんぞにちやほやされてみたところで、オーレンカにはさっぱり有難くない。彼女の求めているのはそんなものだろうか? いやいや彼女の欲しいのは、同じ愛といっても自分の全身全霊を、魂のありったけ理性のありったけを、ぎゅっと引っつかんでくれるような愛、自分に思想を、生活の方向を与えてくれるような愛、自分の老い衰えてゆく血潮を温めてくれるような愛なのだ。で彼女は黒いブルイスカを裾《すそ》から振り払って、いまいましげにこう極《き》めつけるのだった。――
「あっちへおいで、あっちへ……。ここには用はないよ!」
 こうして日が日にかさなり、年が年にかさなって、――なんの喜びもなければ、なんの意見というものもない。炊事女のマーヴラの言うことなら、それで結構というあんばいだった。
 七月のある暑い日のこと、ちょうど夕暮ちかくで町の家畜の群が往来をぞろぞろ追われて行き、中庭いちめんにもうもうと埃がたちこめる時刻だったが、とつぜん誰か木戸をこつこつと叩く人があった。オーレンカは自分で開けに立って行って、一目みるとそのままぼおっと気が遠くなってしまった。門の外に立っていたのは獣医のスミールニンで、もはや白髪頭になって、みなりも平服姿だった。彼女はたちまち一切が思い出されて、つい堪えかねてわっと泣き出すと、一言の口もきかずに男の胸へ顔をうずめてしまい、あまりの興奮に前後を忘れて、それから二人がどこをどうして家の中へはいり、どんなぐあいにお茶のテーブルに坐ったかも気づかないほどだった。
「まあお珍しい!」と彼女は、うれしさにぶるぶる顫えながら口ごもった。「ヴラヂーミル・プラトーヌィチ! いったいどこから、どうした風の吹きまわしでいらしたの?」
「実はここにすっかり住みつこうと思いましてね」と彼は話すのだった。「軍隊の方をやめてこうしてこの町へやって来たのは、一つ自由の身になって運だめしをしてみよう、一ところに根のすわった生活をしてみようという考えからなんです。それに息子ももう中学へ上げる年ごろですしね。大きくなりましたよ。僕も実はその、家内と仲直りをしましてねえ」
「で今どこに奥さんいらっしゃるの?」とオーレンカは尋ねた。
「息子と一緒に宿屋にいますがね、僕はこの通り歩きまわって貸家さがしというわけなんです」
「あら、それじゃあなた、いっそ私のこの家になさいましよ! これでも結構住めるじゃありませんか? ああそれがいいわ、それにあたし、お家賃なんか一文だっていただかないわ」とオーレンカは興奮しはじめ、またもや泣きだした。「あなた方はこっちに住んでちょうだい、あたしは向こうの離れで結構だわ。あああたし、ほんとにうれしい!」
 翌日はさっそく母屋《おもや》の屋根のペンキ塗りや、壁のお化粧がはじまって、オーレンカは両手を腰に肘《ひじ》を張って、庭をあちこち歩きながら采配を振るっていた。その顔には昔のあの微笑がかがやきだして、全身いきいきと元気づいた有様は、まるで長い眠りからめざめた人のようだった。獣医の奥さんもやって来たが、これは痩せほそった器量のわるい婦人で、髪の毛は短く、意地っぱりらしい顔つきだったし、また一緒について来たサーシャという子は、年のわりに小柄で(彼はもう十歳《とお》になっていた)、まるまると肥って、きれいな空色の目をして、両の頬には靨《えくぼ》があった。少年は庭へはいるが早いか、すぐに小猫を追っかけまわしはじめ、かと思うとたちまちもう彼の快活なうれしそうな笑い声がきこえた。
「おばさん、これおばさんとこの猫?」と彼はオーレンカに聞いた。「この猫が仔《こ》を生んだら、済まないけど、うちにも一匹くださいね。ママはとてもねずみがきらいなの」
 オーレンカは少年を相手にしばらく話したり、お茶を飲ませてやったりするうちに、彼女の心臓は胸の底でみるみる温かくなり、あまくしめつけられて来たぐあいは、さながらこの少年が生みのわが子ででもあるようだった。そして、晩になって彼が食堂に腰かけて復習をしていると、彼女は感動と同情のこもった眸でじっとその顔を眺めながら、こうささやくのだった。――
「まあ、なんて可愛らしい、きれいな子だろう。……あたしの坊や、それにほんとにお利口に、ほんとに色白に生まれついたものねえ」
「島とは」と少年は声を張りあげて読んだ。「陸地の一部にして四面水もて囲まれたるをいう」
「島とは陸地の一部にして……」と彼女はあとについて言ったが、これこそ彼女が永年にわたる沈黙と、想いのうちにひそむ空虚とを破って、確信をもって口にした最初の意見だった。
 こうして彼女にはもう自分の意見というものが出来たので、夜食のときなどサーシャの両親を相手に、当節では子どもたちも中学の勉強がなかなか難しくなってとか、しかしどっちかといえばやはり古典教育の方が実科教育よりも優れている、というのは中学を出たときどの方面へも道が開けていて、志望によっては医者にもなれ技師にもなれるから、などと述べたてるのだった。
 サーシャは中学へ通うようになった。彼の母親はハリコフの姉さんのところへ行って、そのまま帰って来なかった。父親の方はというと毎日どこかへ家畜の検疫に出掛けて、時によると三日も続けて家をあけることがあるので、オーレンカはサーシャが両親にすっかり打棄《うっちゃ》られて、一家の余計者扱いにされ、飢《う》え死《じに》しかけているような気がしてならなかった。そこで彼女は少年を自分のいる離れへ引き取って、小部屋を一つ当てがってやった。
 さてサーシャが彼女のいる離れに住むようになってから、早くも半年になった。毎朝オーレンカが少年の部屋へはいって見ると、彼はぐっすり眠っていて、片方の腕に頬をのっけたまま寝息ひとつ立てない。彼女は起こすのが可哀そうな気がする。
「サーシェンカ」と彼女は悲しそうに言う。「起っきなさい、坊や! 学校の時間ですよ」
 少年は起きて、服をきて、神様にお祈りをして、それからお茶を飲みに坐る。お茶をコップに三杯のんで、大きな輪形ビスケットを二つと、バターのついたフランス・パンを半かけら食べる。彼はまだ眼がさめきらないので機嫌がわるい。
「ねえサーシェンカ、あんたまだお伽詩《とぎし》の暗誦《あんしょう》がよくできてなかったわね」とオーレンカは言って、まるで彼を遠い旅へ送り出しでもするような眼つきで、じっと少年を見まもる。「世話を焼かせる子だこと。ほんとにしっかりやるんですよ、坊や、勉強するんですよ。……先生の仰しゃることをよく聴いてね」
「いいってば、ほっといとくれよ、お願いだから!」とサーシャが言う。
 それから彼は往来を学校の方へ歩いてゆく――自分は小っぽけなくせに、大きな制帽をかぶってランドセルを背負っている。そのあとからオーレンカがそっとついて行く。
「ちょっとサーシェンカ!」と彼女が呼びとめる。
 少年がふり返ると、彼女はその手に棗《なつめ》の実やキャラメルを握らせる。学校のある横町をまがると、少年は自分のあとから背の高いでぶちゃんの女がついて来るのが恥ずかしくなって、くるりとふり返ってこう言う。――
「ねえ、おばさんは家へお帰りよ、僕もう一人で行けるから」
 彼女は歩みをとめて、瞬《またた》きもせずに少年の後ろ姿を、学校の昇降口へ消えてしまうまで見送っている。ああ、どんなに彼女にはこの子がいとしいことだろう! 彼女がこれまでに覚えた愛着のなかには、これほど深いものは一つとしてなかったし、また日一日と胸のうちに母性の愛情がつよく燃えあがってゆく現在ほどに、彼女がなんの見さかいもなしに、欲も得もはなれて、しん底からのうれしい気持で、自分の魂をささげきる気になったことは、後にも先にもただの一度もありはしなかった。彼女にしてみれば赤の他人のこの少年、その両の頬にある靨《えくぼ》、そのぶかぶかの制帽――そのためになら、彼女は自分の命を投げだしても惜しくはなかったろう。それどころか、喜び勇んで、感動の涙をながしながら、命を投げだしたに違いない。どういうわけで? だがそのわけを、一体だれが知り得よう?
 サーシャを学校まで送りとどけてしまうと、彼女はゆっくりと家路につくのだったが、その時はいかにも満ち足りた、ゆったりと安らかな、愛情のあふれこぼれんばかりの気持だった。彼女の顔もここ半年ほどのうちにまた若返って、にこにこと朗らかに輝いている。行き会う人々はその顔をつくづく眺めて、思わずうれしくなってこう話しかける。――
「こんにちは、可愛いオリガ・セミョーノヴナ! ご機嫌はいかが、可愛い女《ひと》?」
「当節では中学の勉強もなかなか難しくなりましてねえ」と彼女は市場でそんな話をする。「ほんとに冗談じゃありませんわ、昨日なんかも一年生はお伽詩の暗誦と、ラテン語のお訳《やく》と、もう一つ何か宿題が出たんでございますよ。まったく、小っちゃな子にあれでいいものでしょうかねえ?」
 それから彼女は先生がたの噂、授業の話、教科書の話と、かねがねサーシャから聞いていることをそのままに述べ立てる。
 二時すぎに二人そろって昼食をとり、晩になると二人そろって予習をしたり泣いたりする。やがて彼を寝床へ入れてやりながら、彼女は長いあいだ彼のために十字を切ったり、小声でお祈りを唱えたりして、それが済んで自分も寝床へはいると、夢ともなく現《うつつ》ともなしに遠いおぼろげな行く末々のこと、サーシャが大学を出て、医者かそれとも技師になって、借家ならぬ自分の大きな邸宅を構え、自家用の馬からしゃれた半幌の馬車までそろい、嫁をもらい、子どもができる……といったふうのことを空想して楽しむ。とろとろと眠りに落ちながら、やはり同じことを考えつづけて、涙がつぶった眼からあふれて両の頬をつたわり落ちる。そして黒い小猫が彼女の小脇にそい寝をして、しきりに喉を鳴らしている。――
「ごろ……ごろ……ごろ……」
 と不意に、はげしく木戸を叩く音。オーレンカははっと眼ざめて、恐ろしさに息もつけない。心臓の鼓動はわれるようだ。半分間ほどすると、またもや叩く音。
『ハリコフから電報が来たんだわ』と彼女は、からだじゅうがくがく顫えだしながら考える。『あれの母親が、サーシャをハリコフへ呼び寄せようって言うんだわ。……ああどうしよう!』
 彼女は身も世もあらぬ気持になる。頭も、足も、手も冷たくなって、自分ほど不仕合せな人間は世界じゅうに一人もないような気がする。それから更に一分ほどすると、話し声が聞こえてくる。あれは獣医がクラブから帰って来たのだった。
『まあ、よかったわ』と彼女は思う。
 心臓のおもしがだんだんひいて行って、ふたたびほっと楽な気持になる。彼女はまた横になって、サーシャのことを考えつづける。当のサーシャは隣の部屋でぐっすり寝入っていて、時々こんな寝言をいっている。――
「よおし覚えてろ! あっちい行けったら! 乱暴するない!」

     訳注

    『ティヴォリ』――ローマ付近にある名勝の地にちなんだ名である。
   大斎期――復活祭にさきだつ七週間。三月から四月にまたがるのが普通である。
   御受難週――復活祭にさきだつ一週間。


底本:「可愛い女・犬を連れた奥さん 他一篇」岩波文庫、岩波書店
   1940(昭和15)年10月5日第1刷発行
   2004(平成16)年9月16日改版第1刷発行
※底本では「訳注」に底本の頁数が書かれています。
入力:佐野良二
校正:阿部哲也
2007年12月12日作成
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