第二部 コゼット
第一編 ワーテルロー
一 ニヴェルから来る道にあるもの
一八六一年五月のある麗しい朝、一人の旅人、すなわちこの物語の著者は、ニヴェルからやってきてラ・ユルプの方へ向かっていた。彼は徒歩で、両側に並み木の並んでる石畳の広い街道を進んでいった。街道は立ち並んで大波のようになってる丘の上を曲がりくねって、あるいは高くあるいは低く続いていた。彼はもうリロアおよびボア・センニュール・イザアクを通り過ぎていた。西の方に、ブレーヌ・ラルーの花びんを逆さにしたような石盤《スレート》屋根の鐘楼をながめた。ある丘の上の森を過ぎ、それから、ある別れ道の角に、旧関門第四号[#「旧関門第四号」に傍点]としるしてある虫の食った標柱の立ってる側にある、一軒の飲食店を通り過ぎた。その飲食店の正面には、「万人歓迎、素人コーヒー店、エシャボー」としるしてあった。
その飲食店から約八分の一里ほどきたころ、彼はある小さな谷間の底に達した。街道の土堤《どて》の中に作られたアーチの下を、一条の水が流れていた。道の一方の谷間には一面に濃緑のまばらな木立ちがあったが、道の他方では遠く牧場の方までその木立ちがひろがって、ずっとブレーヌ・ラルーの方まで不規則に延びている様はいかにもみごとだった。
そこに路傍の右手に一軒の宿屋があった。入り口には四輪の荷車があり、葎《ホップ》の茎の大きな束や、鋤《すき》や、生籬《いけがき》のそばに積んである乾草など、そして四角な穴には石灰がけむっており、藁戸《わらど》の古い納屋のそばにははしごが置いてあった。一人の若い娘が畑で草を取っていた。たぶんケルメス祭の野外の見世物か何かのであろうが、大きな黄色い広告の旗がその畑の中に風にひるがえっていた。宿屋の角の所に、一群のあひるの泳いでいる池のそばに、よく石の敷いてない小道が叢《くさむら》の中に走っていた。旅人はその小道にはいった。
たがいちがいの煉瓦《れんが》の急な切阿《きりずま》が上についてる十五世紀式の壁に沿って百歩ばかりも行くと、彼は大きな弓形の石門の前に出た。その門は厳《おごそ》かなルイ十四世式の建築であって、直線式の拱基《きょうき》欄干がついており、平たい二つの円形浮き彫りが両側についていた。いかめしい建物正面が門の上にそびえていた。建物正面と直角をなす一つの壁が、ほとんど門まで接していて、そのそばに急な直角をこしらえていた。門の前の野原には三つの耙《まぐわ》がころがっていて、その間から入り交じって種々な五月の花が咲き出ていた。門はしまっていた。その扉《とびら》はこわれかかった観音開きで、さびた古い金槌《かなづち》がそえてあった。
太陽はうららかで、木々の枝は、風のためというよりもむしろ小鳥の巣から来るらしい静かな五月の揺らぎをしていた。一羽のりっぱな小鳥が、たぶん恋をしているのであろう、大きな木の中で夢中にさえずっていた。
門の左側の支柱の下の方の石に、冠頂石《かなめいし》の穴のようなかなり大きい丸い穴があったので、旅人は身をかがめてそれをながめてみた。その時|扉《とびら》が開いて一人の百姓女が出てきた。
彼女は旅人を見、また彼がながめているものを認めた。
「そんな穴をあけたのはフランスの大砲の弾丸《たま》ですよ。」と女は彼に言った。
そして女はまた付けたした。
「門の上の方の釘の所にも穴がありましょう。あれはビスカイヤン銃の弾丸《たま》の穴です。ビスカイヤンは木を打ち通せなかったのです。」
「ここは何という所です。」と旅人は尋ねた。
「ウーゴモンです。」と百姓女は答えた。
旅人は立ち上がった。二、三歩歩き出して、籬《まがき》の上から向こうをのぞきに行った。木立ちを透かして、かなた地平線に小高い丘を認め、またその丘の上に、遠くから見ると獅子《しし》の形をしたある物を認めた。
彼はワーテルローの戦場にきていたのである。
二 ウーゴモン
ウーゴモンこそは不吉なる場所であった。それは障害の初まりであり、ナポレオンと称する欧州の一大伐木者がワーテルローで出会った最初の抵抗であって、斧《おの》の打撃の下に現われた第一の節《ふし》であった。
それは一つの城砦《じょうさい》であったが、今はもう一つの農家にすぎなくなっている。ウーゴモン(Hougomont)は、古代学者にとってはむしろユゴモン(Hugomons)というのである。その邸宅は、ヴィレル修道院に第六の采地《さいち》を寄進したあのソムレル侯ユーゴーによって建てられたものだった。
旅人は戸を押し開き、玄関の古い馬車の横を通りぬけ、中庭にはいった。
その中庭で第一に彼の目についたものは、十六世紀式の門だった。すべてまわりのものはこわれ落ちてしまって、一つの迫持《せりもち》らしいものをそこに止めている。記念物的なありさまは、しばしば荒廃から生まれるものである。その迫持のそばに、アンリ四世時代の様式になった拱心石がついてるも一つの門が、壁の中に開かれていて、その向こうには果樹園の樹木が見えている。門の傍《わき》には、肥料|溜《だめ》、鶴嘴《つるはし》やシャベル、二、三の車、板石と鉄の枠《わく》滑車とのついてる古井戸、はねまわってる小馬、尾を広げてる七面鳥、小さな鐘楼のついた礼拝堂、礼拝堂の壁にまつわって花を開いてる梨《なし》の木などがある。実にこの中庭こそ、ナポレオンが占領しようと夢想していた所のものである。もしその一角の土地がナポレオンの占領し得る所となっていたならば、彼はおそらく世界を得ることができたであろう。今や数羽の鶏が嘴《くちばし》でほこりを散らしている。何かうなり声も聞こえる。それは歯をむき出している大きな犬で、今やイギリス軍に代わってそこにいるのである。
イギリス軍はそこでは実にみごとであった。クークの率いた近衛の四個中隊は、一軍団の襲撃に対して七時間そこで持ちこたえたのである。
実測図で見るとウーゴモンは、建物や墻壁《しょうへき》を含めて、一角を欠いた不規則な四角形を呈している。その欠けた一角の所が南門であって、その門をねらい撃ちにできる壁でまもられている。ウーゴモンには入り口が二つあって、一つは城の入り口をなす南門であり、も一つは農家の入り口をなす北門である。ナポレオンはウーゴモンに対して弟のゼロームをつかわした。ギーユミノー、フォア、バシュリューの三個師団はそこに殺到し、ほとんどレイユの全軍団がそこに使用されて、そして失敗した。ケレルマンの砲弾は、その勇敢な壁面に向かってほとんどうちつくされた。ボーデュアンの旅団はウーゴモンを北方より強取せんとして成らず、ソアイの旅団はその南方をわずか突入し得たのみで、それを抜くことはできなかった。
その中庭の南側には、農家が立ち並んでいる。そしてフランス軍にこわされた北門の一片が壁にかかっている。それは二本の横木に釘付けにされた四枚の板であって、その上にはなお攻撃の跡を認むることができる。
フランス軍に破られた北門は、壁から下がっていた鏡板の代わりに木片がつけられていて、中庭の奥に半ば開いている。それは、中庭の北方を囲む下は石で上は煉瓦《れんが》の壁の中に、四角にあけられたものである。いずれの小作地にもあるような単純な車道門であって、粗末な板でできてる大きな二つの扉《とびら》がついている。その向こうが牧場になっている。その入り口の争奪戦は猛烈なものだった。門の竪框《たてかまち》の上には血にまみれた手のあらゆる痕跡《こんせき》がその後長く見えていた。ボーデュアンが戦死したのもそこであった。
戦争の嵐はなおその中庭のうちになごりをとどめ、その恐ろしい様はなおそこにありありと見え、混戦の動乱の様はなおそこに化石して残っている。あるいは生きあるいは死ぬる様が彷彿《ほうふつ》として、昨日のことのようにも思われる。壁は揺らぎ、石は落ち、裂け目は音をたてている。穴は傷口である。傾き震えてる樹木は、逃走せんと身をもがいてるようである。
その中庭は、一八一五年には今日あるよりはもっとりっぱにできていた。その後にこわされた様々な構造は、突角|堡《ほ》や稜角《りょうかく》や凸《とつ》出角などをなしていたものである。
イギリス軍はそこに立てこもっていた。フランス軍はそこに突入したが、ふみ止まる事ができなかったのである。礼拝堂の傍《わき》に、ウーゴモン邸宅の唯一のなごりである城の一方の翼が、こわれかかってるというよりもむしろ腹をえぐられてるともいえるありさまで立っている。館《やかた》は天主閣となり、礼拝堂は防舎となった。そこで人々は互いに殄滅《てんめつ》し合った。フランス軍は、壁の後ろや納屋の上や窖《あなぐら》の下など四方から、窓や風窓や石のすき間などを通して射撃されたので、鹿柴《ろくさい》を持ってきて壁や敵に火を放った。霰弾《さんだん》は火炎をもって応戦された。
荒廃したその翼部のうちに、鉄格子のついた窓をとおして、煉瓦《れんが》造りの本館のこわれた室々がのぞき見られる。イギリスの近衛兵はそれらの室に潜んでいた。螺旋形《らせんがた》の階段は一階から屋根下まですっかり亀裂《きれつ》して、こわれた貝殻の内部のような観を呈している。階段は二連になっている。階段のうちに包囲されて上連に追いつめられたイギリス兵は、下連の階段を切り落としてしまった。蕁麻《いらくさ》のうちに堆《うずたか》くなってる青い大きな板石がそのなごりである。十段ばかりはまだ壁についている。第一段の上には三叉《みつまた》の矛《ほこ》の形が刻まれている。登ることのできないそれらの階段はなお承口《うけぐち》のうちに丈夫についている。他の部分はちょうど歯のぬけた顎《あご》のようなありさまをしている。二本の古木がそこに立っている。一本は枯れてしまっている。一本は根もとに傷を受けながら、四月にまた青い芽を出す。一八一五年から再び階段の中に伸び初めたのである。
両軍は礼拝堂の中でも互いに殺戮《さつりく》し合った。今は再び静かになってるその内部は、異様な様を呈している。流血のあとはもはや弥撤《ミサ》も唱えられなくなった。けれども祭壇はなお残っている。奥の荒らい石壁によせかけた粗末な木の祭壇である。石灰乳で洗われた四つの壁、祭壇と向かい合った扉《とびら》、二つの小さな弓形の窓、扉の上の大きな木製の十字架像、十字架像の上にある一束の乾草でふさいである四角な風窓、片すみの床に落ちてるまったくこわれたガラス付きの古い額縁、まずそんなありさまを礼拝堂は呈している。祭壇のそばには、十五世紀式の聖アンヌの木像が釘付けにしてある。小児イエスの頭はビスカイヤンの弾丸に飛ばされてしまった。フランス軍は一時礼拝堂を占領したが、また追い払われて、それに火を放った。炎はその破屋《あばらや》を満たし、溶炉《ようろ》の様を呈した。扉《とびら》は焼け、床板は焼けた。しかし木造のキリストは焼けなかった。木像の足に火はついたが、そこでやんだ。焼け残りの黒ずんだ足が今も見えている。付近の人々の言うところによると全く奇蹟であった。首を切られた小児イエスの方は、そのキリストほど仕合わせではなかったというものである。
壁には一面に銘文がしるしてある。キリストの足の近くにはヘンクイネスという名前が読まれる。それからまた他の名前もある、リオ・マイオルのコンデ)の侯爵および侯爵夫人の侯爵および侯爵夫人」に傍点]。フランス人の名前もあるが、皆感嘆符のつけられているのは憤怒のしるしである。一八四九年にその壁はまた白く塗り直された。種々の国民がそこで互いに侮辱し合っていたからである。
手に斧《おの》をつかんでる一つの死体が拾い出されたのは、その礼拝堂の入り口においてだった。その死体は少尉ルグロであった。
礼拝堂から出てゆくと、左手に一つの井戸がある。中庭には井戸は二つある。しかしこの一方の井戸には釣瓶《つるべ》も滑車もないのはなぜかと、人は怪しむだろう。それはもうだれも水をくむ者がないからだ。なぜもう水をくまないのか。骸骨《がいこつ》が中にはいっぱいはいっているからだ。
その井戸から最後に水をくんだ者は、ギーヨーム・ヴァン・キルソムという男であった。それはウーゴモンに住んで園丁をやっていた田舎者《いなかもの》だった。一八一五年六月十八日に、彼の家族の者は逃げ出して森の中に隠れてしまった。
ヴィレル修道院の付近の森は、それらの散りぢりになった不幸な人々を数日数夜かくまった。今日でもなお、燃やされた古い木の幹などの明らかにそれと認めらるる痕跡《こんせき》で、叢林《そうりん》の奥に震えていたあわれな人々の露営の場所が察せらるる。
ギーヨーム・ヴァン・キルソムは「城の番をするため」にウーゴモンに残って、窖《あなぐら》の中に身を潜めていた。イギリス兵は彼を見いだした。兵士らは彼をそこから引きずり出して、剣の平打ちを食わせながら、そのおびえてる男に種々の用をさした。彼らは喉《のど》がかわいていた。ギーヨームは彼らに水を持ってきた。彼がその水をくんだのが、すなわちその井戸である。水を飲んだ多くの者はそこで最期を遂げた。そして多くの者に末期の水を飲ました井戸の方もまた、死んでしまうことになったのである。
戦後に、人々は死体を埋めるに忙しかった。死は戦勝にわずらいを与える独特の仕方を持っている。死は光栄に次ぐに疫病をもってする。熱病もまた勝利の付属物である。その井戸はごく深かったので、墳墓にされた。三百人の死体が投げ込まれた。おそらくあまりに急がれたであろう。投げ込まれた者は皆死んでいたかというと、口碑は否と答える。埋没の日の夜、かすかな呼ばわる声が井戸から聞こえたそうである。
その井戸は中庭のまんなかに見捨てられている。石と煉瓦《れんが》とで半々にできている三つの壁が屏風《びょうぶ》の袖《そで》のように折り曲がって四角な櫓《やぐら》のような形をして、その三方を取り囲んでいる。ただ一方が開いている。水をくんでいたのはそこからである。奥の壁には一種のぶかっこうな丸窓みたようなものが一つある。たぶん砲弾の穴であろう。その櫓《やぐら》ようのものには屋根がついていたが、今はその桁構《けたがまえ》しか残っていない。右手の壁のささえの鉄は十字架の形をしている。身をかがめてのぞくと、目は煉瓦《れんが》の深い円筒の中に吸い込まれてしまう。そこにはいっぱい暗やみがたたえている。井戸のまわりや壁の下の方は、一面に蕁麻《いらくさ》におおわれている。
井戸の前には、あらゆるベルギーの井戸の縁石をなしているあの大きい青い板石がない。その青い板石の代わりには一本の横木があって、大きな骸骨《がいこつ》に似た節《ふし》くれ立ったごちごちのぶかっこうな丸太が五、六本それに寄せかけてある。釣瓶《つるべ》も鎖も滑車もなくなっている。しかし水受けになっていた石の鉢《はち》はなお残っている。雨水がそれにたまっていて、近くの森の小鳥が時々やってきて水を飲んではまた飛び去ってゆく。
その廃墟《はいきょ》の中の一軒の農家にはなお人が住んでいる。その家の入り口は中庭に面している。その扉《とびら》には、ゴティック式錠前のりっぱな延板《のべいた》のわきに、斜めにつけられた三葉|※[#「宛+りっとう」、第4水準2-3-26]形《わんけい》の鉄の柄がある。ハンノーヴルの中尉ウィルダが農家のうちに逃げ込もうとしてその柄を握った時に、フランスの一工兵は斧の一撃で彼の手を打ち落とした。
その家に住んでる家族の祖父というのが、昔の園丁ヴァン・キルソムであった。彼はもうだいぶ前に死んでしまった。半白の髪の一人の女がこう言ってきかせる。「私はあの当時居合わしていました。三歳でした。大きな姉はこわがって泣いていました。私どもは森の中に連れてゆかれました。私は母の腕に抱かれていました。皆は地面に耳をつけて何かきいていました。私の方では大砲の音をまねて、ぼーん[#「ぼーん」に傍点]、ぼーん[#「ぼーん」に傍点]と言っていました。」
中庭の左手にある門は、前にいったとおり、果樹園に通じている。
果樹園も恐ろしい様を呈している。
それは三つの部分にわかたれている、あるいは三場にとも言い得るであろう。第一は庭であり、第二は果樹園であり、第三は森である。その三つの部分は共通の囲いを持っている。すなわち入り口の方は城や農家の建物で、左手は籬《まがき》、右手は壁、そして奥も壁である。右手の壁は煉瓦《れんが》造りで、奥の壁は石造りである。まず第一に庭にはいってゆく。庭は斜面になっていて、すぐり類の灌木《かんぼく》が植えられ、野生の植物がいっぱいはえており、切り石のおおげさな突堤で限られていて、その突堤には二重の脹《ふく》れのある柱の欄干がついている。それはルノートル式以前の最初のフランス式に成った広壮な庭であったが、今日ではすっかり荒廃と荊棘《いばら》とに帰してしまっている。欄干の柱の上には、砲弾のような丸い石がついている。今日なおその台石の上に立っている四十三の欄干が数えらるる。他の欄干は皆草の中にころがっている。ほとんどすべてが銃弾のかすり傷を受けている。一本のこわれた欄干は折られた足のようにして欄基の上に置かれている。
果樹園より低くなってるその庭のうちに、軽歩兵第一連隊の六人の精兵が突入したのであった。彼らはそこから出ることができず、穴の中の熊《くま》のように襲われ追窮されて、ハンノーヴルの二個中隊との対戦を甘受した。その二個中隊のうちの一個中隊はカラビーヌ銃を持っていた。ハンノーヴル軍はその欄干のまわりに並んで、上から射撃した。六人の精兵らは勇敢にも二百人の敵に向かって、ただすぐりの茂みを掩蔽《えんぺい》として下から応戦し、十五分間ばかりささえたが皆戦死を遂げた。
数段上がってゆくと、庭から本当の果樹園のうちにはいる。その四角な数ヤードの地面のうちでは、一時間足らずのうちに千五百人の兵士がたおれた。その壁は今なお再び戦争を待ってるかのように見える。種々な高さの所にイギリス兵があけた三十八の銃眼がなお残っている。十六番目の銃眼の前には、イギリスの二つの花崗岩《かこうがん》の墓が据わっている。銃眼は南の壁にしかない。攻撃の主力はそちらからきたのである。その壁は外部は大きな生籬《いけがき》で隠されている。フランス兵はそこにきて、ただ生籬ばかりだと思ってそれを乗り越すと、その先には障害物であり埋伏所である壁があり、その後ろにはイギリスの近衛兵がおり、一時に発火する三十八の銃眼があり、霰弾《さんだん》と銃弾とのあらしがあった。そしてソアイの旅団はそこで粉砕された。かくてワーテルローの本舞台は初まったのである。
けれども果樹園は占領された。はしごがなかったので、フランス軍は爪でよじ登った。木立ちの中で白兵戦が演ぜられた。草はすべて血に染まった。七百人のナッソーの一隊はそこで撃滅された。ケレルマンの砲兵二個中隊が壁に砲火を浴びせたので、その外部は砲弾のためにさんざんになっている。
いまやこの果樹園もやはり、五月の時を忘れないでいる。きんぽうげやひな菊も咲き、草は高く伸び、農馬は草を食い、洗たく物をかわかす毛繩は木立ちのすき間に張られて、通る人々の頭をかがめさせる。その荒地を歩けば、時々もぐらの穴に足を踏み込む。草の中に、根こぎにされて横たわりながら青々と芽を出してる一本の木が見らるる。ブラックマン少佐がそれに寄りかかって息を引き取った。その隣の大きな木の下では、ナント勅令の廃止のおり亡命したフランスのある家族の出でドイツの将軍をしていたデュプラーが倒れた。すぐそのそばには、一本の病んだ林檎《りんご》の古木が、わらと粘土の繃帯《ほうたい》で包まれて傾いている。ほとんどすべての林檎の樹は老衰のうちに倒れかかっている。銃弾や霰弾を受けていないものは一本としてない。枯木の骸骨《がいこつ》が果樹園の中には数多《あまた》ある。烏が枝の間を飛んでいる。その向こうは、すみれの咲き乱れた森である。
ボーデュアンは戦死し、フォアは負傷し、火災、殺戮《さつりく》、惨殺、英独仏の兵士らの血は猛烈な混戦のうちに川となって流れ、井戸は死屍《しかばね》をもって満たされ、ナッソーの連隊およびブルンスウィックの連隊は全滅し、デュプラーは戦死し、ブラックマンは戦死し、イギリス近衛兵は大半殺され、フランス軍はレイユ軍団の四十個大隊中二十個大隊を大半失い、三千の兵士らはウーゴモンの破屋《あばらや》のうちだけできられ、突かれ、屠《ほふ》られ、撃たれ、焼かれてしまった。かくてすべてそれらの結果は、今日そこの百姓が旅人に向かって言う、「旦那[#「旦那」に傍点]、三フラン下さい[#「三フラン下さい」に傍点]、ワーテルローのことを話してあげましょう[#「ワーテルローのことを話してあげましょう」に傍点]!」
三 一八一五年六月十八日
物語作者の権利の一つとして過去に立ち返り、一八一五年に、しかも本書の第一部において語られた事件の初まる少し前まで、さかのぼってみよう。
一八一五年六月の十七日から十八日へかけた夜に雨が降っていなかったならば、ヨーロッパの未来は今と違っていたであろう。数滴の水の増減が、ナポレオンの運命を左右した。ワーテルローをしてアウステルリッツ戦勝の結末たらしむるためには、天は少しの降雨を要したのみであって、空を横ぎる時ならぬ一片の雲は、世界を転覆《てんぷく》させるに十分であった。
ワーテルローの戦いはようやく十一時半にしか初まらなかった。それはブリューヘルに戦いに駆けつけるだけの時間を与えたのである[#「与えたのである」は底本では「与えたのでる」]。なぜ十一時半にしか初まらなかったかといえば、土地が湿っていたからである。砲兵の運動のために、土地が少し固まるのを待たなければならなかった。
ナポレオンはもとより砲兵の将校であって、その特質をそなえていた。この非凡なる将軍の根本は実に、執政内閣に対するアブーキル戦の報告中に「わが砲弾のあるものは敵兵六人を倒せり[#「わが砲弾のあるものは敵兵六人を倒せり」に傍点]」と言わしめたあの性格であった。彼のあらゆる戦争の方略は砲弾のために立てられていた。ある特点に砲兵を集中させることに、彼の勝利の秘鑰《ひやく》はあった。彼は敵将の戦略をあたかも一つの要塞《ようさい》のごとく取り扱い、そのすき間から攻撃した。霰弾《さんだん》をもって敵の弱点を圧倒し、大砲をもって戦機を処理した。彼の天才のうちには射撃法があった。方陣を突破し、連隊を粉砕し、戦線を破り、集団を突きくずし散乱せしむることは、すべて彼にとってはただ間断なく撃ちに撃つことであった、そして彼はその仕事を砲弾に任した。それは恐るべき方法であって、それが天才に合せらるるや、この不思議なる戦いの闘士をして十五カ年間天下に無敵たらしめたのである。
一八一五年六月十八日、彼は砲数の優勢を保っていただけになおさら砲兵にまつ所が多かった。ウェリントンが百五十九門の火砲をしか有しなかったのに対して、ナポレオンは二百四十門を有していた。
仮りに土地がかわいていたとしてみよ。砲兵は動くことを得て、戦いは朝の六時に初まっていたであろう。そして午後二時には彼の勝利に帰して終わりを告げ、プロシア軍をして戦勢を変転せしむるまでには三時間を余していたであろう。
その敗北についてはナポレオンの方にいかほどの責があるであろうか? 難破の責はその水先案内者に帰せらるるであろうか?
明らかにナポレオンは身体は弱ってはいたが、それとともにまた当時多少精神力の減退をきたしていたのであろうか。戦役の二十年は剣の鞘《さや》とともにその刀身をもそこない、身体とともに精神をもそこなっていたのであろうか。将帥のうちにはおぞましくも老将の面影がたたえていたのであろうか。一言にして言えば、多くの著名な史家の信じたごとく、その天才もかけ初めていたのであろうか。自己の衰弱を自ら隠すために彼は狂暴となったのであろうか。暴挙のうちに心迷ってよろめき初めたのであろうか。将軍の身としては重大なることであるが、彼は危険をも意に介しなくなったのであろうか。行動の巨人とも称し得べきかかる肉体的偉人らのうちには、その天才を近視ならしむる年齢があるのであろうか。思想上の天才は老年もこれを捕うるを得ず、ダンテやミケランゼロのごとき人々にとっては、老いることはすなわち生長することであるのに、ハンニバルやボナパルトのごとき人々にとっては、老いとは萎縮《いしゅく》することであろうか。ナポレオンは勝利に対する直接的知覚を失ったのであろうか。彼はもはや、暗礁を認知せず、係蹄《わな》を察知せず、くずれかかってる深淵の岸を弁別し得ざるに至ったのであろうか。彼は災害をかぎわけるの能力を失ったのであろうか。昔は勝利のあらゆる途を知悉《ちしつ》し、雷電の車上よりおごそかな指をもってそれを指示した彼も、いまやその群がり立ったる軍隊の供奉《ぐぶ》を断崖《だんがい》に導くほど、悲しむべき惑乱のうちにあったのであろうか。彼は四十六歳にして既に最期の狂乱に囚われていたのであろうか。運命の巨大なるその御者も、もはや大なる猪突者《ちょとつしゃ》に過ぎなくなっていたのであろうか?
吾人はそうは考えない。
本戦争についての彼の方略が傑出せるものであったことは、万人の認むるところである。同盟軍の中央を直ちに突き、敵軍中に穴を明け、それを両断し、その一方のイギリス軍をハール方面にしりぞけ、他方のプロシア軍をトングル方面にしりぞけ、ウェリントンとブリューヘルとを二個の破片となし、モン・サン・ジャンを奪い、ブラッセルを占領し、かくてドイツ軍をライン河に圧迫し、イギリス軍を海中に投ぜんとしたのである。ナポレオンにとっては、すべてそれらのことがこの一戦のうちにあった。その後のことは明白であろう。
いうまでもなくわれわれはここにワーテルローの歴史を書かんとするのではない。われわれの語らんとする物語の基礎たるべき場面の一つがこの戦争と関係を有するのではあるが、しかしその歴史がわれわれの題目ではない。その上既にその歴史はでき上がっている、ナポレオンによって一方の見地からと、一群の歴史の大家(ワルター・スコット、ラマルティーヌ、ヴォーラベル、シャラス、キネー、ティエール)によって他の見地からと、堂々と完成されている。われわれはただそれらの歴史家をして争論するままにさしておこう。われわれはただ遠方よりの見物人であり、その平原の一旅人であり、人間の肉をもってこね返されたるその土地の上に身をかがむる探究者であり、しかも皮相をもって事実と誤る探究者に過ぎないかも知れない。われわれは学問の名においても、多くの幻影を必ずや有するその全般の事実に立ち向かうだけの権利を有しない。一つの学説をうち立てるだけの実戦の才も戦術上の能力も有しない。われわれの見るところによれば、ただ一連の偶然事がワーテルローにおいて両将帥を支配したまでである。しかしてその神秘なる被告である運命に関しては、われわれはあの素朴なる判官である民衆と同様な判断をなすのみである。
四 A
ワーテルローの戦いの明らかな観念を得んと欲するならば、地上に横たえたAの大文字を想像すればそれで足りる。Aの左の足はニヴェルの道であり、右の足はジュナップの道であり、両方をつなぐ横棒はオーアンからブレーヌ・ラルーへの凹路《おうろ》である。Aの頂はモン・サン・ジャンであって、そこにウェリントンがいる。左下の端はウーゴモンで、そこにゼローム・ボナパルトとともにレイユがいる。右下の端はラ・ベル・アリアンスで、そこにナポレオンがいる。Aの横棒が右の足と交差している点の少し下がラ・エー・サントである。横棒の中央が、ちょうど勝敗の決した要点である。あの獅子《しし》の像が立てられたのはそこであって、それは期せずして近衛軍の最もりっぱなる勇武の象徴となった。
Aの上方に二本の足と横棒との間に含まれる三角形は、モン・サン・ジャンの高地である。その高地の争奪が戦いの全局であった。
両軍の両翼は、ジュナップの道とニヴェルの道との左右に延びている、そしてエルロンはピクトンに対峙《たいじ》し、レイユはヒルに対峙している。
Aの頂点の後ろ、すなわち、モン・サン・ジャンの高地の背後に、ソアーニュの森がある。
戦地そのものについては、起伏した広い地面であると想像すればよろしい。一つの高みから次の高みが見られ、そしてその起伏はしだいにモン・サン・ジャンの方へ高まってゆき、そこで森に達している。
戦場に相敵対した二個の軍隊は、二人の闘士である。それは一つの取っ組み合いである。互いに相手を投げ出さんとする。彼らは何物にでもしがみつく。藪《やぶ》も一つの足場であり、壁の一角も肩墻《けんしょう》である。よるべき一軒の破屋《あばらや》がないためにも、一個連隊が遁走《とんそう》する。平地のくぼみ、地勢の変化、好都合な横道、森、低谷なども、軍隊と呼ばるるその巨大の踵《くびす》を止め、その退却を抑止することができる。戦場より出る者は敗者である。それゆえに、その責を帯びる長官にとっては、わずかな木の茂みをも調べ少しの土地の高低をも研究するの必要がある。
両将軍は、今日ワーテルロー平原と呼ばるるそのモン・サン・ジャン平原を、細心に研究しておいた。既にその前年よりしてウェリントンは、あらかじめある大戦の準備としてそこを調べておくだけの先見の明を有していた。ゆえに六月十八日、その土地においてそしてその決戦のために、ウェリントンは有利の地位を占め、ナポレオンは不利の地位にあった。イギリス軍は上手《かみて》にあり、フランス軍は下手《しもて》にあった。
一八一五年六月十八日の払暁《ふつぎょう》、ロッソンムの高地に双眼鏡を手にして馬上にまたがったナポレオンの風姿を、ここに描くことはおそらく蛇足《だそく》であろう。人に示されるまでもなく、世人の皆知っているところである。ブリエンヌ士官学校の小さな帽子をかぶったその静平な横顔、その緑色の軍服、星章を隠している白い折り返しのえり、肩章を隠している灰色の外套、チョッキの下に見えている赤い綬章《じゅしょう》の一端、皮の半ズボン、すみずみにNの花文字と鵞《が》の紋とのついた紫びろうどの鞍被《くらおお》いをつけた白馬、絹の靴足袋の上にはいた乗馬靴、銀の拍車、マレンゴーに佩用《はいよう》した剣、すべてそれらの最後の皇帝《シーザー》たる容姿こそ、万人の想像に上るところのものであって、ある人々からは歓呼せられ、ある人々からはきびしき目を向けらるるところのものである。
その姿は長い間|光耀《こうよう》のうちに包まれていた。それは実に、古来多くの英雄が発散して常に多少の間真実をおおい隠すあの一種の伝説的不明瞭に負うところがあったのである。しかし今日はそれを照らす歴史と白日とが現われている。
この光は、歴史は、無慈悲なものである。それはある不思議なまた神聖なものを有していて、まったく光であり、かつまさしく光であるがゆえに、人が光輝をのみ見ていたところに陰影を投ぐることが往々にしてある。それは同一人より二つの異なった姿をこしらえる。一つの姿は他の姿を難じ、その罪を問う。専制君主の暗黒は将帥の光彩と争う。かくて諸民衆の評価のうちにより真実なる尺度が存するのである。侵されたるバビロンはアレクサンデルの価値を減じ、束縛されたるローマはシーザーの価値を減じ、破壊されたるエルサレムはチツスの価値を減損する。暴君自身もやがて暴虐を被る。おのれの姿を止むる暗黒を後に残してゆくことは、人にとって一つの不幸である。
五 戦争の暗雲
この戦いの最初の局面は世人のあまねく知るところである。両軍ともその発端は、不安な不確かなもので、躊躇《ちゅうちょ》せしめ恐れをいだかしむるものであった。しかしフランス軍の方よりもイギリス軍の方がなおさらそうであった。
雨は終夜降りとおした。地面はそのどしゃ降りにこねかえされていた。水は鉢《はち》にたまったように平原の窪地《くぼち》にここかしこたまっていた。ある所では輜重車《しちょうしゃ》は車軸まで泥水につかった。馬の腹帯は泥水をしたたらしていた。もし密集した輜重の雑踏のためまき散らされた小麦や裸麦が、轍《わだち》を埋めて車輪の下敷きにならなかったならば、いっさいの運動は、ことにパプロットの方の谷間の中の運動は、不可能であったろう。
事は初まるのが遅かった。前に説明したとおりナポレオンは、その全砲兵を拳銃《けんじゅう》のごとく手中に握り、戦地のここかしことねらいを定めるのを常としていたので、馬に引かれた砲兵隊が自由に動き回り駆け回り得るまで待つことにしたのである。それには太陽がのぼって地をかわかさなければならなかった。しかし太陽の出るのは遅かった。こんどはアウステルリッツのようにすぐにはゆかなかった。最初の大砲の一発が響いた時、イギリスの将軍コルヴィルは時計をながめて、十一時三十五分であることを確かめた。
戦闘は猛烈に初まった。おそらく皇帝が望んでたより以上猛烈に、ウーゴモンに対するフランス軍の左翼によって開始された。同時にナポレオンは、ラ・エー・サントに向かってキオー旅団を投げつけながら敵の中央を攻撃し、ネーはパプロットによってるイギリス軍の左翼に向かってフランス軍の右翼を突進さした。
ウーゴモンに対する攻撃は多少|佯撃《ようげき》であった。ウェリントンをそこに引きつけて左翼に牽制《けんせい》せんとするのが、その計画であった。もしイギリスの近衛の四個中隊と勇敢なベルギーのペルポンシェル師団とが頑強《がんきょう》に陣地を維持し得なかったならば、その計画は成功していたであろう。がウェリントンはそこに赴援《ふえん》せずして、全援兵としてただ近衛の他の四個中隊とブルンスウィックの一隊とだけをつかわすに止めておくことができたのである。
パプロットに対するフランス軍右翼の攻撃は真剣なものであった。イギリス軍の左翼を敗走せしめ、ブラッセルからの道を断ち切り、あるいはきたるべきプロシア軍の通路をさえぎり、モン・サン・ジャンを強取し、ウェリントンをウーゴモン方面にしりぞけ、それよりブレーヌ・ラルー方面にしりぞけ、更にハール方面に追うこと、それは最も確実なことであった。ただ二、三の事件を外にしては、その攻撃は成功した。パプロットは占領され、ラ・エー・サントは奪取された。
ここに特記すべき一事がある。イギリスの歩兵のうちには、ことにケンプトの旅団のうちには、多くの新兵がいた。それらの若い兵士らは、フランスの恐るべき歩兵に対してきわめて勇敢であった。彼らは無経験のためかえって大胆にやってのけた。ことにみごとな散兵戦を行なった。散兵戦における兵士は、多少各自に開放されて、いわば自ら自分の指揮官となるものである。それらの新兵は、フランス兵に似寄ったある巧妙さと勇猛さとを現わした。その未熟な歩兵は活気を有していた。しかしそれはウェリントンのあまり喜ばないところであった。
ラ・エー・サントの占領後、戦いは混乱をきたした。
その日の戦いには、正午から四時までまったく朦朧《もうろう》たる中間があった。戦いの中心はほとんど不明で、混戦の雲霧につつまれていた。薄暮の色さえそれに加わった。うち見やれば、その靄《もや》の中には広漠《こうばく》たるうねりがあり、眩《まばゆ》きばかりの幻影があり、今日ほとんど知られない当時の軍需品があって、炎のような真紅《しんく》の毛帽、揺らめいている提嚢《ていのう》、十字の負い皮、擲弾用《てきだんよう》の弾薬盒《だんやくごう》、驃騎兵《ひょうきへい》の外套、多くのひだのある赤い長靴、綯総《ないふさ》で飾った重々しい軍帽、緋色《ひいろ》のイギリス歩兵と黒ずんだブルンスウィックの歩兵との混合、肩章の代わりに輪をなした白い大きなモールを上膊《じょうはく》につけてるイギリス兵、銅の帯金と赤い飾毛とのついた長めの皮の兜《かぶと》をかぶってるハンノーヴルの軽騎兵、膝を露《あら》わにし弁慶|縞《じま》の外套を着てるスコットランド兵、フランス擲弾兵の大きな白いゲートル、それは実に戦術的戦線ではなくて、画幅中の光景であり、サルヴァトール・ローザの喜ぶところのものであって、グリボーヴァルの求むるところのものではなかった。([#ここから割り注]訳者注 前者は十七世紀イタリーの画家、後者は十八世紀フランスの戦術家[#ここで割り注終わり])
多少の暴風雨的|擾乱《じょうらん》は常に戦いに交じるものである、ある暗澹たるもの[#「ある暗澹たるもの」に傍点]、ある天意的なるもの[#「ある天意的なるもの」に傍点]が。各歴史家はそれらの混戦のうちに勝手な筋道を立ててみる。しかし将軍らの策略のいかんにかかわらず、群がり立ったる軍勢の衝突は測るべからざる反発を起こすものである。実戦においては両指揮官の二つの計画は互いに交差し互いに妨げる。戦場のある地点はある他の地点よりも多くの兵士をのみつくす、あたかも多少柔軟な地面はそこに注がるる水を多少早く吸い取るがごときものである。かかる場所には予期以上の多数の兵士を注がなければならない。意外の損失をきたす。戦線は糸のごとく浮動し曲折し、血潮の川は盲目的に流れ、前線は波動し、出入する連隊はあるいは岬《みさき》をなしあるいは湾をなし、その暗礁は互いに先へ先へと移動し、歩兵がいた所には砲兵が到着し、砲兵がいた所には騎兵が馳《は》せつけ、あらゆる隊伍は煙のごとくである。そこに何かがいたと思って求むればはや消え失せている。一時の霽間《はれま》はすぐに移ってゆく。陰暗なひだは一進一退する。黄泉《よみじ》の風は、それらの悲壮な群集を吹き送り吹き返し、吹きふくらし吹き散らす。およそ混戦とは何物であるか。一つの擺動《はいどう》である。数学的な不動の図面はただ一瞬のことを説明し得るのみで、一日のことは語り得ない。一つの戦争を描かんがためには、その筆致のうちに混沌《こんとん》たるものを有する力強い画家を要する。かくてレンブラントはヴァン・デル・モイレンにまさる。ヴァン・デル・モイレンは、正午のことについては正確であるが、午後三時においては真より遠ざかる。幾何学は誤りをきたし、ただ颶風《ぐふう》のみが真を伝える。それはポリーブに対して異説を立てしむるの権利をフォラールに与えるところのものである。なおつけ加えて言えば、戦いには局部戦に化するある瞬間が常にある。かかる瞬間においては、戦いは個々に分かれ、無数の細部に分散する。その細部はナポレオン自身の言葉をかりて言えば、「軍隊の歴史によりもむしろ各連隊の伝記に属する」ところのものである。もとよりそういう場合においても、歴史家はそれを摘要するの権利を持っている。しかし彼はその戦闘の主要な輪郭をつかみ得るのみである。そしてまた、いかに忠実なる叙述家といえども、戦いと称せらるるその恐るべき暗雲の形を完全に描き出すことはできないものである。
以上のことは、いかなる大戦闘についても真実であるが、ことにワーテルローにはいっそう適用し得べきものである。
さはあれ、午後になって、ある瞬間に至って、戦いの勢いは明らかになってきた。
六 午後四時
四時ごろには、イギリス軍は危険な状態にあった。オレンジ大侯は中央を指揮し、ヒルは右翼を、ピクトンは左翼を指揮していた。豪胆熱狂なオレンジ大侯はオランダ・ベルギーの連合兵に向かって叫んでいた「ナッソー! ブルンスウィック! 断じて退くな!」ヒルは弱ってウェリントンの方へよりかかってきた。ピクトンは戦死した。イギリス軍がフランス軍の第百五連隊の軍旗を奪ったと同時に、イギリス軍のピクトン将軍は弾丸に頭を貫かれて戦死を遂げたのだった。ウェリントンにとっては、戦いは二つの支持点を持っていた、すなわち、ウーゴモンとラ・エー・サントと。しかるに、ウーゴモンはなおささえてはいたが焼かれており、ラ・エー・サントは既に奪われていた。そこを防いでいたドイツの一隊は、生き残った者わずかに四十二人で、将校に至っては五人を除くのほか、皆戦死し、あるいは捕虜になっていた。その農家のうちだけで三千の兵士が屠《ほふ》られていた。イギリス一流の拳闘家で無敵と称せられていた近衛の一|軍曹《ぐんそう》も、そこでフランスのある少年鼓手のために殺されていた。ベーリングは撃退され、アルテンはなぎ払われていた。数多の軍旗は失われていた。そのうちには、アルテン師団のものもあり、ドゥー・ポン家のある大侯がささげていたルネブールグ隊のもあった。灰色のスコットランド兵ももはや残っていなかった。ポンソンビーの大なる竜騎兵も壊滅していた。その勇敢な竜騎兵は、ブローの槍騎兵とトラヴェールの胸甲騎兵とのために敗走させられたのだった。その千二百騎のうち残ったものは六百で、ハミルトンは負傷し、メーターは戦死して、三人の中佐ちゅう二人もうち落とされたのだった。ポンソンビーも七つの槍《やり》を被ってたおれていた。ゴルドンもマーシュも戦死していた。第五と第六との両師団は粉砕されていた。
ウーゴモンは危うく、ラ・エー・サントは奪われ、今はただ中央の一節《ひとふし》が残ってるのみだった。その一節はなお支持されていて、ウェリントンはそこに兵員を増加した。彼はそこに、メルブ・ブレーヌにいたヒルを呼び、ブレーヌ・ラルーにいたシャッセを呼び寄せた。
イギリス軍のその中央は、少し中くぼみの形になっていて、兵員は密集し、強固に陣を固めていた。それはモン・サン・ジャンの高地を占めていて、背後に村落を控え、前には当時かなり険しかった斜面を持っていた。そして堅固な石造の家屋を後ろに負っていた。その建物は当時ニヴェルの領有であって、道路の交差点の標《しるし》になっており、十六世紀式の建築で、砲弾もそれに対してはただはね返るのみで破壊し得なかったほど頑丈《がんじょう》にできていた。高地の周囲には、イギリス軍はここかしこに生籬《いけがき》を切り倒し、山※[#「木+査」、第3水準1-85-84]《さんざし》の間に砲眼をこしらえ、木の枝の間に砲口を差し入れ、荊棘《いばら》のうちに銃眼をあけていた。その砲兵は茂みの下に潜められていた。その奸黠《かんかつ》なる工事は、もとよりいかなる係蹄《わな》をも許す戦争ではとがむべきことではないが、いかにも巧みになされていたので、敵の砲座を偵察せんため午前九時に皇帝からつかわされたアクソーもまったく気づかず、立ち帰ってナポレオンに報告したところは、ただ、ニヴェルおよびジュナップから行く両道をさえぎっている二つの防寨《ぼうさい》のほかには、何らの障害もないというのであった。ちょうど畑の作物が高く伸びている時期であって、高地の縁には、ケンプト旅団の一隊第九十五連隊が、カラビーヌ銃を帯びて高い麦の間に伏してるのだった。
かく安全にかつ守りを固くして、イギリス・オランダ軍の中央は好地位に置かれていた。
その陣地の危険はただソアーニュの森であった。その森は当時戦場に接していて、グレナンデルとボアフォールとの二つの池で仕切られていた。そこに退くとすれば軍隊の隊伍は乱れるに違いなかった。連隊は直ちに分散をきたすに違いなかった。砲兵は沼の中に進退を失うに違いなかった。もとより異議を立てる者もあったが、多くの専門家の意見によれば、退却はそこでは潰走《かいそう》に終わるのほかはなかったであろう。
ウェリントンは、シャッセの一個旅団を右翼から抜きウィンケの一個旅団を左翼から抜き、それを中央に加え、次にクリントンの師団をも加えた。そしてそれら手中のイギリス軍、ハルケットの数個連隊、ミッチェルの旅団、メートランドの近衛軍、などの主力になお支持隊として、ブルンスウィックの歩兵、ナッソーの徴集兵、キエルマンゼーゲのハンノーヴル兵、およびオンプテーダのドイツ兵などを加えた。それで彼は二十六個大隊を提げていたのである。シャラスが言ったように、右翼は中央の背後に立て直された[#「右翼は中央の背後に立て直された」に傍点]。莫大《ばくだい》な砲兵隊は、今日いわゆる「ワーテルローの博物館」があるあの場所に、土嚢《どのう》で隠されていた。ウェリントンはなおその上、ソマーセットの近衛竜騎兵千四百騎をあるくぼ地に有していた。それは世の定評に恥じない勇敢なるイギリス騎兵の半分であった。ポンソンビーは粉砕されたが、ソマーセットは残っていたのである。
一度完備すればほとんど一つの角面|堡《ほ》ともなるべきその砲兵隊は、ごく低い塀《へい》の後ろに配置され、砂嚢《さのう》の被覆と大なる土堤とで急速におおわれた。しかしその工事は全部済んではいなかった。それは柵《さく》を施すだけの時間がなかったのである。
ウェリントンは不安ではあったがなお平然として馬にまたがり、モン・サン・ジャンの古い風車小屋の少し前方、楡《にれ》の木の下に、終日同じ姿勢で立っていた。その風車小屋は今もなお残っているが、楡の木の方は、物のわからぬあるイギリスの心酔家が、その後二百フランで買い取り、切り倒して持っていってしまったのである。ウェリントンはそこに、冷然たる勇気をもって立ちつくしていた。砲弾は雨と降りきたった。副官のゴルドンは彼のそばで倒れた。ヒル卿は破裂する榴弾《りゅうだん》をさしながら言った。「閣下、閣下の示教せらるるところは何でありますか。もし戦死せらるる場合にはいかなる命令をあとに残されますか?」「私のとおりせよということだ[#「私のとおりせよということだ」に傍点]、」とウェリントンは答えた。彼はまたクリントンに簡単に言った、「最後の一人までここにふみ止まれ[#「最後の一人までここにふみ止まれ」に傍点]。」戦いは明らかに不利になってきた。ウェリントンはタラヴェラやヴィットーリアやサラマンクなどの昔の戦友たる部下に叫んでいた、「諸子よ[#「諸子よ」に傍点]! いかで退却をなし得るか[#「いかで退却をなし得るか」に傍点]。古よりのイギリスを考えてみよ[#「古よりのイギリスを考えてみよ」に傍点]!」
四時ごろ、イギリスの戦線は後方に動き出した。と突然、高地の頂には砲兵と狙撃兵《そげきへい》とのほか何も見えなくなった。その他のものは姿を消した。全連隊は、フランスの榴弾と砲弾とに追われて、後方深く退いた。そこにはモン・サン・ジャンの田圃《たんぼ》道が今日もなお横切っている。後退運動が起こされ、イギリス戦線の正面は取り払われ、ウェリントンも退いた。「退却を始めた!」とナポレオンは叫んだ。
七 上|機嫌《きげん》のナポレオン
皇帝は病気にかかっていて馬上では局所に苦痛を感じて困難ではあったが、かつてその日ほど上機嫌《じょうきげん》なことはなかった。心情を発露することのないその顔つきも、朝から微笑をたたえていた。大理石の面をかぶったようなその深い魂も、一八一五年六月十八日には何ということもなく光り輝いていた。アウステルリッツにおいて陰鬱《いんうつ》であったその人も、ワーテルローにおいては快活であった。宿命の偉人はかかる矛盾を示すものである。われわれ人間の喜びは影にすぎない。最上の微笑は神のものである。
シーザーは笑いポンペイウスは泣く[#「シーザーは笑いポンペイウスは泣く」に傍点]、とフルミナトリックス軍の兵士らは言った。しかし今度はポンペイウスは泣くべき運命ではなかったのである。がシーザーが笑っていたのは確かだった。
早くも前夜の一時に、荒天と降雨との中をベルトランとともに、ロッソンム付近の丘陵を馬上で検分しながら、フリシュモンよりブレーヌ・ラルーに至る地平線を輝かすイギリス軍の篝火《かがりび》の長い一線を見て満足し、ワーテルローの平原の上に日を期して定めておいた運命は万事自分の意のままになってるように、彼には思えたのであった。彼は馬を止め、しばらくそこにじっとたたずんで、電光をながめ雷鳴を聞いていた。そしてその運命の人が次の神秘な言葉を影のうちに投げるのが聞かれた、「われわれは一致している。」しかしナポレオンは誤っていたのである。両者はもはや一致してはいなかった。
彼はその夜一睡もしなかったのである。その夜も各瞬間は彼に喜びの情を与えた。彼は前哨《ぜんしょう》の全線を見回って、あちこちに立ち止まっては騎哨に言葉をかけた。二時半にウーゴモンの森の近くに、彼は一縦隊の行進する足音を聞いた。一時彼はそれをウェリントンの退却であると思った。彼はベルトランに言った。「あれは撤退するイギリス軍の後衛だ、オステンドに到着した六千のイギリス兵をわしは捕虜にしてみせよう。」彼は豁達《かったつ》に口をきいた。三月一日上陸(訳者注 エルバ島よりフランスへの)の際、ジュアン湾の熱狂してる農夫を元帥にさし示しながら、「おいベルトラン、既にかしこに援兵がいる、」と叫んだ時のような活気を彼は再び示した。そして今六月十七日から十八日へかけた夜、彼はウェリントンをあざけっていた。「小癪な彼イギリス人に少し思い知らしてやろう、」とナポレオンは言った。雨は激しくなり、皇帝が語ってる間雷鳴はとどろいていた。
午前三時半に、彼の一つの空想は失われた。偵察につかわされた将校らは、敵が何らの運動もしていないことを報告した。何物も動いてはいなかった。陣営の一つの篝火《かがりび》も消されてはいなかった。イギリスの軍隊は眠っていた。地上は寂として音もなく、ただ空のみが荒れていた。四時に、一人の農夫が斥候騎兵によって彼の所へ連れられてきた。その農夫は、イギリスのある騎兵旅団が、たぶんヴィヴァイアンの旅団であろうが、最左翼としてオーアンの村に陣地を占めに行くのの案内者となったのである。五時に、二人のベルギーの脱走兵がきて彼に告げたところでは、彼らは自分の連隊からぬけ出してきたのであって、イギリス軍は戦いを期しているということだった。ナポレオンは叫んだ。「ますますよい[#「ますますよい」に傍点]。わしはあいつらを退けるよりも打ち敗ってやりたいのだ[#「わしはあいつらを退けるよりも打ち敗ってやりたいのだ」に傍点]。」
朝になって、プランスノアの道の曲がり角になってる土堤《どて》の上で、彼は泥の中に馬からおり立って、料理場のテーブルと百姓の椅子《いす》とをロッソンムの農家から持ってこさせ、一束のわらを下に敷いてそこに腰を掛け、テーブルの上に戦場の地図をひろげて、そしてスールトに言った、「みごとな将棋盤だ[#「みごとな将棋盤だ」に傍点]!」
夜来の雨のために、兵站部《へいたんぶ》はこね回された道路に足を取られて朝になってしか到着することができなかった。兵士らは眠りもせず物も食わずに雨にぬれていた。それでもナポレオンは快活にネーに叫んだ、「十中の九はわれわれのものだ[#「十中の九はわれわれのものだ」に傍点]。」八時に皇帝の食事が運ばれた。彼はそこに多くの将軍らを招いた。食事をしながら人々は、前々日ウェリントンがブラッセルのリチモンド公爵夫人の家の舞踏会に行っていたことを話した。すると、大司教めいた顔つきのあらあらしい武人であるスールトは言った、「舞踏会は今日だ[#「舞踏会は今日だ」に傍点]。」皇帝は、「ウェリントンも陛下のおいでを待ってるほどばかでもありますまい[#「ウェリントンも陛下のおいでを待ってるほどばかでもありますまい」に傍点]」と言うネーを揶揄《やゆ》した。その上揶揄は彼の平素《ふだん》のことであった。彼は好んで諧謔を弄した、とフルーリー・ド・シャブーロンは言っている。彼の性格の根本は快活な気分であった、とグールゴーは言っている。巧妙なというよりもむしろばかげた揶揄に彼は富んでいた、とバンジャマン・コンスタンは言っている。巨人のかかる快活は力説するの労に価するものである。その擲弾兵《てきだんへい》を「敵愾兵《てきがいへい》」と呼んだのも彼であった。彼は彼らの耳をつねり、その髯《ひげ》を引っ張った。皇帝はわれわれにいたずらばかりなされた[#「皇帝はわれわれにいたずらばかりなされた」に傍点]、というのは彼らの一人の言葉である。エルバ島よりフランスへの秘密な航海中、二月二十七日海上において、フランスの軍艦ゼフィールはナポレオンが隠れていたアンコンスタン号に出会って、ナポレオンの消息を尋ねると、エルバ島に彼がはやらした蜂《はち》のついた白と鶏頭色との帽章を当時なおその帽子につけていた皇帝は、笑いながらラッパを取って自分で答えた、「皇帝は丈夫だ[#「皇帝は丈夫だ」に傍点]。」そういう冗談をする者は、事変に驚かない。ナポレオンはワーテルローの朝食の間にしばしばその諧謔《かいぎゃく》を弄した。食事の後、彼は十五分ばかり考え込んだ。それから、二人の将軍はわら束の上に腰掛け、手にペンを持ち膝に紙をひろげた、そして皇帝は彼らに戦闘序列を書き取らせた。
九時に、梯隊《ていたい》をなし五列縦隊で行進していたフランス軍は展開して、師団は二列横隊となり、砲兵は旅団の間に置かれ、軍楽隊は太鼓の音とラッパの響きとで行進曲を奏して先頭に立ち、見渡す限り力強く広漠として勇み立ち、軍帽とサーベルと銃剣との海と化し去った。その時皇帝は興奮して二度くり返し叫んだ、「素敵! 素敵!」
九時から十時半までの間に、信じられないほどの早さではあるが、全軍は戦線につき、六線に並び、皇帝の言葉をかりれば「六個のVの形」を取った。戦線の前面が整って数瞬の後、混戦に先立つ動乱の初めの深い静寂の最中に、命令によってエルロンとレイユとロボーとの三軍団から抜かれ、ニヴェルの道のジュナップの道との交差点であるモン・サン・ジャンを砲撃して戦争を開始する役目を帯びていた十二|斤《きん》砲の三個砲兵中隊が、ついに展開するのを見て、皇帝はアクソーの肩をたたいて言った、「どうだ将軍、二十四人のきれいな娘が。」
モン・サン・ジャンの村を奪取すれば、直ちにそこに防寨《ぼうさい》を施すことに定められていた第一軍団の工兵中隊が前を通る時、戦いの結果に確信ある彼は微笑をもってそれを励ました。かく静穏な彼は、ただ尊大な憐憫《れんびん》の一語をもらした。すなわち、左手に、今日大きな墳墓があるあの場所に、灰色のみごとなスコットランド兵がそのりっぱな馬とともに集まっているのを見て、彼は言った、「惜しいものだ。」
それから彼は馬にまたがり、ロッソンムの前方に赴《おもむ》き、ジュナップからブラッセルへ通ずる道の右手にある小高い狭い芝地を観戦地として選んだ。それは戦闘中の彼の第二の佇立所《ちょりつじょ》であった。第三の佇立所は、午後七時ラ・ベル・アリアンスとラ・エー・サントとの中間のそれであって、恐るべき場所であった。現今なお存しているかなり高い丘であって、その後方には平地の斜面に近衛兵が集められていた。丘のまわりには、砲弾が道路の舗石《しきいし》の上にはねかえって、ナポレオンの所までも達した。ブリエンヌの時と同じく、彼の頭上には弾丸やビスカイヤン銃弾が鳴り響いた。彼の馬の足が立っていたほとんど同じ場所から、その後、腐食した砲弾や古い剣の刃や錆《さ》びついて形を失った銃弾などが拾い出された、錆びくれもの[#「錆びくれもの」に傍点]が。数年前のことだが、まだ火薬のはいったままの六十|斤《きん》破裂弾がそこから掘り出された。ただその信管は弾丸と平面にこわれていた。この最後の佇立所において、一人の軽騎兵の鞍《くら》にゆわいつけられ、霰弾《さんだん》の連発ごとに後ろを向いてその背後に身を隠そうとしている、驚怖し敵意をいだいてる田舎者《いなかもの》の案内者ラコストに向かって、皇帝は言った、「ばかめ! 恥辱だぞ、背中を打たれて死ぬつもりか。」今これらのことを物語っている著者自らも、その丘の柔かい斜面の砂を掘りながら、四十六年間の酸化のためにぼろぼろになった破裂弾の口金の残りと、彼の指の中にすいかずらの茎のように握りつぶされた古い鉄片の残りとを、見いだしたのである。
ナポレオンとウェリントンとの会戦の場所である種々の勾配《こうばい》をなした平地の起伏は、人の知るとおり、一八一五年六月十八日とは今日大いにそのありさまを異にしている。その災厄《さいやく》の場所から、すべて記念となるものを人々は奪い去ってしまって、実際の形態はそこなわれたのである。そしてその歴史も面目を失って、もはやそこに痕跡《こんせき》を認め難くなっている。その地に光栄を与えんために、人々はその地のありさまを変えてしまった。二年後にウェリントンは再びワーテルローを見て叫んだ、「私の戦場は形が変えられてしまった[#「私の戦場は形が変えられてしまった」に傍点]。」今日|獅子《しし》の像の立っている大きな土盛りのある場所には、その当時一つの丘があってニヴェルの道の方へは上れるくらいの傾斜で低くなっていたが、ジュナップの道路の方ではほとんど断崖《だんがい》をなしていた。その断崖の高さは、ジュナップからブラッセルへ行く道をはさんでる二つの大きな墳墓の丘の高さによって、今日なお測ることができる。その一つはイギリス兵の墓であって左手にあり、も一つはドイツ兵のであって右手にある。フランス兵の墓はない。フランスにとっては、その平原すべてが墓地である。高さ百五十尺周囲半マイルの塚を築くに使われた何千車という土のおかげで、今日モン・サン・ジャンの高地にはゆるやかな坂で上ってゆくことができる。しかし戦いの当時その高地は、ことにラ・エー・サントの方面において、きわめて険阻で上るに困難であった。その勾配はそこでは非常に急だったので、イギリスの砲兵隊は下の方に、戦闘の中心地である谷合の底にある百姓家を見ることができないほどだった。一八一五年六月十八日には、雨のためにその険しさはいっそう増し、泥濘《でいねい》のためにその登攀《とうはん》は、いっそう困難になり、単によじのぼるばかりでなく泥濘に足を取られまでした。高地の上に沿って、遠くから見たのでは気づかれない一種の溝《みぞ》が走っていた。
その溝はいったい何であったか? それを言ってみれば次のようなわけである。ブレーヌ・ラルーはベルギーの一つの村であり、オーアンもやはりその一つの村である。そして二つとも土地の起伏の間に隠れ、約一里半ばかりの道で相通じている。その道は高低不規則な平原を横切っていて、しばしば畝溝《あぜみぞ》のようになって丘の間をつきぬけているので、所々で峡谷をなしている。一八一五年にも今日と同じく、その道はジュナップの街道とニヴェルの街道との間でモン・サン・ジャンの高地の上を貫いていた。ただ、今日ではその平地の面と同じ高さになっているが、当時は凹《くぼ》い道であった。記念の塚を築くためにその両方の斜面は切り取られてしまったのである。その道は、今日もそうだが、昔も大部分は塹壕《ざんごう》の形をしていた。それも時としては約十二尺もあろうというほど深い塹壕であって、そのあまり急な斜面の土は驟雨《しゅうう》のために所々くずれ落ち、ことに冬にははなはだしかった。種々の事変までも生じた。ブレーヌ・ラルーの入り口の方では非常に狭かったので、一人の通行人が馬車に押しつぶされてしまったほどである。墓地のそばに立ってる石の十字架はそれを示すものであって、それによると、死者の名前はブラッセルの商人ベルナール・ド[#「ド」に傍点]・ブリー氏であり、その事変が起こったのは一六三七年二月である。(碑銘は次のとおりである――最善最大なる神へ、ここにおいてブラッセルの商人ベルナール・ド・ブリー氏は一六三七年二月○〔不明〕日不幸にも馬車にひき殺されぬ。)またその道はモン・サン・ジャンの高地の上ではきわめて深かったので、マティユー・ニケーズという百姓が一七八三年に土手くずれのため圧死したほどである。も一つの石の十字架にやはりそのことがしるしてあった。しかしその石はそこが開拓される時になくなってしまい、くつがえされた土台石だけが今日なお、ラ・エー・サントとモン・サン・ジャンの農家との間の道路の左手の芝生《しばふ》の坂の上に残って見えている。
戦いの日、モン・サン・ジャンの高地の縁にあって、断崖《だんがい》の上にある溝であり、地面の中に隠された轍《わだち》であり、何物もそれと気取《けど》らせる物のないその凹路《おうろ》は、少しも目につかなかったのである、言い換えれば恐るべきものだったのである。
八 皇帝案内者ラコストに問う
さてワーテルローの朝、ナポレオンは満足であった。
それも道理だった。彼によって立てられた作戦計画は、前に述べたとおり、実際驚嘆すべきものであった。
一度戦端が開かるるや、種々の変転はナポレオンの眼前に起こった。ウーゴモンの抵抗。ラ・エー・サントの頑強。ボーデュアンの戦死。戦闘力を失ったフォア。ソアイの旅団が粉砕された意外の城壁。爆発管も火薬|嚢《のう》も用意していなかったギーユミノーの不運な軽率。砲兵隊が泥濘《でいねい》に足を取られたこと。護衛のない十五門の砲がある凹路《おうろ》でアクスブリッジのために転覆されたこと。イギリス戦線に落下さした破裂弾も、雨のために湿った土の中にはいり込んで泥を爆発させるだけで、撥泥機と化し去ってしまって、効果の少なかったこと。ブレーヌ・ラルー方面のピレーの威嚇《いかく》運動が無効に終わったこと。十五個中隊の騎兵のほとんど全部が損失したこと。イギリス軍の右翼の動揺も少なく、左翼もあまり破れなかったこと。第一軍団の四個師団を梯隊にせずして密集さしたネーの意外なまちがい。そのために正面二百人あての二十七列の深さの密集部隊が霰弾《さんだん》を浴びせられたこと。その集団の中に恐るべき穴が砲弾によってあけられたこと。襲撃縦隊の隊伍のととのわなかったこと。その側面に突然現われた横射砲兵隊。危地に陥ったブールジョアとドンズローとデュリュット。撃退されたキオー。工芸大学校出の俊猛ヴィユー中尉が、ラ・エー・サントの門を斧《おの》で打ち破った時に、ジュナップからブラッセルへ行く道の曲がり角をさえぎってるイギリス軍の防寨から発した俯瞰《ふかん》銃火のために負傷したこと。マルコンネの師団が、歩兵と騎兵とに挾撃《きょうげき》され、麦畑の中でベストとパックからねらい撃ちにされ、ポンソンビーになぎ払われたこと。その七門の砲は進退窮まったこと。エルロン伯の攻撃に対してサックス・ワイマール大侯がフリシュモンとスモーアンとを維持したこと。第百五連隊の軍旗は奪われ、第四十五連隊の軍旗も奪われたこと。ワーヴルとプランスノアとの間の道を偵察していた三百人の軽騎兵の斥候遊動隊によって捕えられた、一人の黒服のプロシア驃騎兵。その捕虜の告げた不安な事がら。グルーシーの遅延。ウーゴモンの果樹園の中で一時間足らずのうちに殺された千五百人。なおそれより短時間の間にラ・エー・サント付近でたおれた千八百人。それらの激越な事変は戦陣の雲霧のごとくナポレオンの眼前を過ぎ去ったが、ほとんど彼の目を乱すことなく、その泰然自若たるおごそかな顔を少しも曇らせなかった。ナポレオンは戦闘を凝視することになれていた。彼は局部の悲痛なできごとを一々加算しはしなかった。個々の数字は、その総計たる勝利を与えさえするならば、さまで重大なことではなかった。その初端がいかに錯乱しようとも、彼はそれに驚きはしなかった。すべては自分の手中にあり、終局は自分のものであると、彼は信じていたのである。彼はすべてに超然たる自信を有していて、機を待つことを知っていた。そして天運を自己と同地位に置いていた。彼は運命に向かって言うかのようだった、「汝の勝手にもできないだろう。」
半ば光と影とのうちにあってナポレオンは、幸運のうちに保護され災厄《さいやく》を許されてるように感じていた。あらゆる事件は自分の不利をもたらさないということ、あるいはむしろ自分に加担してくれるということを、彼は知っていた、少なくとも知っていると信じていた。実に古代の不死身《ふじみ》にも等しいものを持っているということを。
しかしながら、過去にベレジナ、ライプチヒ、およびフォンテーヌブルーなどのことを有する以上は、ワーテルローとても安心はできないはずである。一つの人知れぬ顰蹙《ひんしゅく》が、天の奥に見えている。
ウェリントンが退却し出した時、ナポレオンはおどり上がった。彼は突然、モン・サン・ジャンの高地が引き払われ、イギリス軍の正面が姿を消したのを認めた。その敵軍は再び集合したのではあるが、とにかく姿を隠したのだった。皇帝は半ば鐙《よろい》の上に立ち上がった。勝利の輝きはその目に上った。
ウェリントンがソアーニュの森に圧迫され破られる。それはイギリスがフランスのために止《とど》めを刺されることであった。クレシー、ポアティエ、マルプラケ、ラミリーなどの敗戦の復讐《ふくしゅう》がなされることであった。マレンゴーの勇士([#ここから割り注]訳者注 ナポレオン[#ここで割り注終わり])がアザンクールの恥をそそぐことであった。
皇帝はその時、恐ろしいその変転を考えながら、最後に今一度双眼鏡をもって戦場の四方を見回した。後ろには銃を立てた近衛兵の一隊が、敬虔《けいけん》な目つきで下から彼を仰ぎ見ていた。彼は考えていた。傾斜を調べ、坂を注意し、木の茂みや、麦畑や、小道などをよく観測し、また一々|小藪《こやぶ》までも数えてるらしかった。二つの大道のイギリス軍の防寨《ぼうさい》を、二つの大きな鹿砦《ろくさい》を、彼はことにじっとながめた。一つはラ・エー・サントの上にジュナップから行く道にある防寨で、イギリスの全砲兵中から残って戦場の底を俯瞰《ふかん》してる二門の大砲で守られていた。も一つはニヴェルからゆく道にある防寨で、シャッセ旅団のオランダ兵の銃剣がひらめいていた。彼はその防寨の近くに、ブレーヌ・ラルーの方へゆく横道の角にある白塗りの聖ニコラの古い礼拝堂を認めた。彼は身をかがめて、案内者ラコストに小声で話しかけた。案内者は頭を横に振った。おそらく当てにはならないものであったろう。
皇帝はまた身を起こして考え込んだ。
ウェリントンは退却したのである。もはやその退却を壊滅に終わらせるだけの問題であった。
ナポレオンはにわかにふり向いて、戦勝の報告をさせるためパリーへ急使を全速力でつかわした。
ナポレオンは雷電をも発し得る天才の一人だった。
彼はいまやその雷電の一撃を見いだした。
彼はモン・サン・ジャンの高地を奪取することを、ミローの胸甲騎兵に命じた。
九 意外事
その数は三千五百、四分の一里の前面にひろがり、偉大な馬にまたがった巨人らであった。中隊にわかって二十六個、そして後方には援護として、ルフェーヴル・デヌーエットの師団、精鋭なる憲兵百六人、近衛軽騎兵千百九十七人、および近衛槍騎兵八百八十人が控えていた。彼らは装毛のない兜《かぶと》をかぶり、練鉄の胸甲をつけ、皮袋にはいった鞍馬《あんば》用ピストルと長剣とをつけていた。その朝九時に、ラッパが鳴り全楽隊が帝国の運護らなむ[#「帝国の運護らなむ」に傍点]を吹奏するにつれ、彼らが密集縦列をなしてやってき、その砲兵中隊の一個を側面にし他の一個を中央にして、ジュナップ街道とフリシュモンとの間に二列横隊に展開し、強力なる第二線の戦闘位置についた時、全軍は彼らの威風を嘆賞したものだった。その第二線はナポレオンがいかにも巧みに配置したもので、左側にはケレルマンの胸甲騎兵を有し、右端にはミローの胸甲騎兵を有し、いわば鉄の両翼をそなえたがようだった。
副官ベルナールは彼等に皇帝の命令を伝えた。ネーは剣を抜いて先頭に立った。偉大なる騎兵隊は動き出した。
恐るべき光景が現われた。
それらの騎兵は、剣を高く上げ、軍旗を風にひるがえし、ラッパを吹き鳴らし、師団ごとに縦列を作り、ただ一人のごとく同一な運動の下に整然として、城壁をつき破る青銅の撞角《とうかく》のごとくまっしぐらに、ラ・ベル・アリアンスの丘を駆けおり、既に幾多の兵士の倒れてる恐るべき窪地《くぼち》に飛び込み、戦雲のうちに姿を消したが、再びその影から出て、谷間の向こうに現われ、常に密集して、頭上に破裂する霰弾《さんだん》の雲をついて、モン・サン・ジャン高地の恐ろしい泥濘《でいねい》の急坂を駆け上って行った。猛烈に堂々と自若として駆け上っていった。小銃の音、大砲の響きの合間にその巨大なる馬蹄《ばてい》の響きは聞かれた。二個師団であって二個の縦列をなしていた、ヴァティエの師団は右に、ドロールの師団は左に。遠くからながむると、あたかも高地の頂の方へ巨大なる二個の鋼鉄の毒蛇《どくじゃ》がはい上がってゆくがようだった。それは一つの神変のごとくに戦場を横断していった。
かくのごとき光景は、重騎兵によってモスコヴァの大角面|堡《ほ》が占領された時いらい、かつて見られない所であった。ミュラーはもはやいなかったが、ネーは再びそこにいた。あたかもその集団は一つの怪物となりただ一つの魂を有してるがようだった。各中隊は環状をなした水蛭《みずびる》の群れのごとく波動しふくれ上がっていた。広漠たる戦雲の所々の断《き》れ目からその姿が見られた。甲冑《かっちゅう》と叫喚と剣との交錯、大砲とラッパの響きのうちに馬背のすさまじい跳躍、整然たる恐るべき騒擾《そうじょう》、その上に多頭蛇の鱗《うろこ》のごとき彼等の胸甲。
かかる物語はあたかも現今と異なる時代に属するかの観がある。これに似寄った光景はたしか古代のオルフェウスの叙事詩中に出ている。そこには、人面馬体をそなえてオリンポスの山を乗り越えた、不死身《ふじみ》の壮大なる恐るべきタイタン族、サントール、古《いにし》えのイパントロープ、すなわち神にして獣なるあの怪物のことが、語られている。
不思議にも同数であったが、二十六個大隊のイギリス兵がそれらの二十六個騎兵中隊を迎え撃たんとしていた。高地の頂の後ろに、掩蔽《えんぺい》された砲座の影に、イギリス歩兵は二個大隊ずつ十三の方陣を作り、第一線に七個方陣、第二線に六個方陣をそなえて二線に陣を立て、銃床を肩にあて、まさにきたらんとするものをねらい撃ちにせんとして、静かに鳴りをひそめて身動きもせずに待ち受けていた。彼らには胸甲騎兵の姿が見えず、胸甲騎兵にも彼らの姿が見えなかった。彼らはただ人馬の潮の駆け上がって来る響きに耳を澄ましていた。その三千騎のしだいに高まる響きを、大速歩の馬の交互に均斉した蹄《ひづめ》の音を、甲冑《かっちゅう》の鳴る音を、剣の響きを、そして一種の荒々しい大きな息吹《いぶ》きの音を聞いていた。恐るべき一瞬の静寂が来ると、次に忽然《こつぜん》として、剣を高くふりかざし、腕の長い一列が高地の頂に現われ、兜《かぶと》とラッパと軍旗と、それから灰色の髯《ひげ》をはやした三千の頭が「皇帝万歳!」を叫びながら現われた。すべてそれらの騎兵は今や高地の上に出現し、あたかも地震の襲いきたったがようだった。
と突然に、惨憺《さんたん》たる光景を呈した。イギリス軍の左方、フランス軍の方からいえば右方に当たって、胸甲騎兵の縦列の先頭は恐るべき叫びをあげて立ち上がった。方陣をも大砲をも殲滅《せんめつ》せんとする狂猛と疾駆とに駆られ熱狂して高地の頂点に達した胸甲騎兵は、彼らとイギリス兵との間に一つの溝《みぞ》を、一つの墓穴を見いだしたのである。それはオーアンからの凹路《おうろ》であった。
それこそ恐怖すべき瞬間だった。峡谷が、意外にも、馬の足下に断崖《だんがい》をなし、両断崖の間に二|尋《ひろ》の深さをなし、口を開いてそこに待ち受けていた。その中に第二列は第一列を突き落とし、第三列は第二列を突き落とした。馬は立ち上がり、後方におどり、仰向《あおむけ》に倒れ、空中に四足をはねまわし、騎兵を振り落とし押しつぶした。もはや退却の方法はない。全縦隊は既に発射された弾丸に等しかった。イギリス軍を粉砕せんための力は、かえってフランス軍を粉砕した。苛酷な峡谷は自ら満たさずんばやまない。人馬もろともそこにころげ込んで、互いに圧殺しながらその深淵のうちに一塊の肉片と化し去ってしまった。そしてその墓穴が生きたる人をもって満たされた時、その上を踏み越えて他の者は通りすぎた。デュボアの旅団のほとんど三分の一はその深淵のうちに落ちてしまった。
それが敗戦のはじまりであった。
土地の言い伝えによれば、もちろん誇張されてはいようが、二千の馬と千五百人の人とがオーアンの凹路《おうろ》の中に埋められたという。その数にはもとより、戦闘の翌日そこに投げ込まれた他の死骸《しがい》のすべてをも算入したものであろう。
ついでに一言しておくが、一時間以前に単独攻撃をしながらルネブールグ隊の軍旗を奪ったのは、かかる難関に遭遇したデュボアの旅団であった。
ナポレオンは、ミローの胸甲騎兵をしてその襲撃を行なわしめる前に、その土地をよく観測した。しかし凹路を認めることができなかった。それは高地の表面に一筋のしわをも見せていなかったのである。けれども、ニヴェルの街道との交差角を示している小さな白い礼拝堂から気づいて注意を呼び起こされ、彼は案内人のラコストに、おそらく障害物の有無についてであったろうが、何か聞きただした。案内人は否と答えたのである。一人の百姓の頭の一振りからナポレオンの破滅は生じきたったとも言い得るであろう。
その他の災いがなお続いて起こりきたることになった。
しかしナポレオンはその戦いに勝利を得ることが可能であったろうか? 吾人《ごじん》は否と答える。何ゆえに? 敵がウェリントンであったがためか、またはブリューヘルであったがためか? いや。それは実に神の意《こころ》であったからである。
ボナパルトがワーテルローの勝利者となる、それはもはや十九世紀の原則に合っていなかった。ナポレオンがもはや地位を占めることのできぬ他の多くの事実が生じかかっていた。ナポレオンに対して快からぬ世運の意志は既に疾《と》くに宣言されていた。
この巨人の倒るべき時機はきたっていた。
人類の運命のうちにおけるこの一人の過度の重さは、平衡を乱していた。この個人はおのれ一個で、一団の天下の衆人よりもいっそうの重みを有していた。ただ一個の頭の中へ過剰に集中された人類の全活力、一人の頭脳へ集められた全世界、もしそれが持続したならば文化の破滅をきたしたであろう。いまや乱すべからざる最高の公明は、考慮をめぐらすべき時機に立ち至っていた。物質上の秩序におけると同じく精神上の秩序においても規定の重力関係があって、その関係の基礎となるべき原則および要素は、おそらく不満の声を発していたであろう。煙る血潮、みちあふれた墳墓、涙にくれてる母親、それらは恐るべき論告者である。地にしてあまりに重き荷に苦しむ時には、神秘なる呻吟《しんぎん》の声が影のうちより発し、無限の深みにまでも達する。
ナポレオンは既に無窮なるもののうちにおいて告発され、その墜落は決定されていた。
彼は神のわずらいとなっていた。
ワーテルローは一個の戦闘ではない。それは世界の方向転換である。
十 モン・サン・ジャンの高地
峡谷と同時に砲列が現われた。
六十門の砲と十三の方陣とはねらい撃ちに胸甲騎兵らの上に雷火を浴びせかけた。勇猛なるドロール将車はそのイギリスの砲列に挙手の礼をしてみせた。
イギリスのすべての騎馬砲兵は、方陣の中に駆け込んでいた。胸甲騎兵らは足を止めるひまさえもなかった。凹路《おうろ》の災厄《さいやく》は彼らの大半を失わせたが、彼らの勇気を減じさせることはできなかった。彼らはその数を減ずればますます勇気を増す類《たぐい》の勇士であった。
ただヴァティエの縦隊のみがその災厄を受けたのだった。ネーはあたかも陥穽《かんせい》を予感したがごとくドロールの縦隊を左方にめぐらしたため、それは全部到着していた。
胸甲騎兵らはイギリスの方陣の上におどりかかった。
手綱をゆるめ、剣を口にくわえ、ピストルを手にして、全速力の突進、それが襲撃の様であった。
戦闘の中には、精神が人間を固めて兵士を立像たらしめ、全身の肉を花崗岩《かこうがん》たらしむるほどの瞬間がある。イギリスの軍隊は、狂猛に襲撃されながら、たじろぎもしなかった。
その時こそ、恐怖すべき光景になった。
イギリスの各方陣の全正面は同時に攻撃された。狂うがごとき旋風は彼らを取りまいた。しかしその冷然たる歩兵は何らの反応をも起こさなかった。第一列は膝を折り敷いて胸甲騎兵を銃剣の上に迎え、第二列は彼らに銃火を浴びせた。第二列の背後には砲兵が大砲に弾丸をこめ、方陣の前面は開き、霰弾《さんだん》の噴出をやり過ごし、そしてまた口を閉じた。胸甲騎兵らはそれに応ずるに蹂躙《じゅうりん》をもってした。彼らの偉大なる馬は立ち上がり、戦列をまたぎ越し、銃剣の上をおどり越え、そしてそれらの生きたる四壁のうちに巨大な体躯《たいく》を横たえた。砲弾は胸甲騎兵らの中に穴をあけ、胸甲騎兵らは方陣の中に穴をあけた。隊列は馬に粉砕されて形をなくした。銃剣は人馬の腹部を貫通した。かくておそらく他に見るを得ない異様な殺傷を現出した。方陣はその狂暴な騎兵によって破損されたが、崩壊せずに縮小した。無尽蔵の霰弾は攻撃軍のまんなかに破裂した。その戦闘の光景は凄惨《せいさん》をきわめた。方陣はもはや隊伍ではなくて噴火口であった。胸甲騎兵はもはや騎兵隊ではなくて暴風雨であった。各方陣は雲霧に襲われた火山であり、溶岩《ようがん》は雷電と争闘した。
右端の方陣は、掩蔽物《えんぺいぶつ》がなく最も露出していたので、衝突の初めに早くもほとんど全滅をきたした。それはハイランドの第七十五連隊でできていた。中央にあった風笛《ふうてき》の吹奏者は、周囲で戦友らが殲滅《せんめつ》される間に、故郷の森や湖水を思い浮かべた憂鬱《ゆううつ》な目を呆然《ぼうぜん》として伏せ、太鼓の上に腰をかけ、腕に風笛をかかえ、故郷の山間の歌を奏していた。それらのスコットランドの兵らは、あたかもギリシャ人らがアルゴスのことを思い起こしながら死んだように、ベン・ロジアンのことを思いながら死ぬのであった。一人の胸甲騎兵の剣は、風笛とそれを抱えてる腕とを打ち落とし、歌手を殺しながらその歌の音を止めさした。
胸甲騎兵らは峡谷の災害に数を減ぜられて、比較的少数でありながら、そこでほとんどイギリス軍の全部と渡り合った。しかし彼らはその数を補うに十人分の働きをもっていた。そのうちにハンノーヴル兵の数隊はたわみ初めた。ウェリントンはそれを見た、そして手中の騎兵を思いついた。もしナポレオンが同じ時に手中の歩兵を思いついていたならば、彼は勝利を得ていたであろう。その失念は彼の取り返しのつかぬ大過であった。
襲撃を加えていた胸甲騎兵らは、突然襲撃を被ったのを感じた。イギリス騎兵は彼らの背後に迫っていた。前には方陣があり、後ろにはソマーセットがあった。ソマーセットは千四百の近衛竜騎兵を率いていた。また彼は右にドイツの軽騎兵を指揮してるドルンベルグを有し、左にはベルギーのカラビーヌ騎兵を指揮してるトリップを有していた。胸甲騎兵は歩兵と騎兵とから前後左右より攻撃され、四方に敵対しなければならなかった。しかもそれが何であろう。彼らは旋風であった。その勇気は筆紙のつくし難いところとなった。
その上、彼らは背後にもたえず鳴り響く砲門を受けていた。それらの退くを知らぬ勇者の背後を傷つけんがためには、それまでにしなければならなかったのである。彼らの胸甲の一つは、ビスカイヤン銃弾で左の肩胛骨《けんこうこつ》あたりに穴を明けられたのが、いわゆるワーテルローの博物館という陳列品のうちに今日存している。
かくのごときフランスの勇士に対しては、かくのごときイギリス兵を要したのであった。
それはもはや混戦ではなかった。陰影であり、狂乱であり、精神と勇気との熱狂的な憤怒であり、稲妻のごとき剣の颶風《ぐふう》であった。たちまちにして千四百の近衛竜騎兵は八百になされてしまった。その中佐フーラーは戦死した。ネーはルフェーヴル・デヌーエットの槍騎兵と軽騎兵とを引きつれて駆けつけてきた。モン・サン・ジャンの高地は、奪取され、奪還され、また奪取された。胸甲騎兵は騎兵の方をすてて歩兵の方へ立ち直った。あるいはなおよく言えば、その恐るべき群集は互いにつかみ合って一団となっていたのである。方陣はなおささえていた。十二回の突撃がなされた。ネーはその乗馬を殺されること四回に及んだ。胸甲騎兵の半ばは高地の上にたおれた。その戦闘は二時間にわたった。
イギリス軍はそのためにはなはだしく動揺した。もし胸甲騎兵らが凹路《おうろ》の災厄《さいやく》のために最初の突撃力が弱められていなかったならば、彼らは敵の中央を撃破し勝利を決定していたろうとは万人の疑わないところである。その非凡なる騎兵は、タラヴェラおよびバダホースの戦いに臨んだことのあるクリントンをして色を失わしめた。四分の三まで打ち負かされたウェリントンすらも、さすがに賛嘆の声を発した。彼は半ば口のうちで言った、「天晴《あっぱれ》!」
胸甲騎兵らは、十三の方陣の中七つを殲滅《せんめつ》し、六十門の砲をあるいは奪取しあるいは破壊し、イギリスの連隊旗六個を奪って、それを三人の胸甲騎兵と三人の近衛軽騎兵とがラ・ベル・アリアンスの農家の前にいる皇帝のもとに運んで行った。
ウェリントンの地位は険悪になっていた。その異常な戦いは、あたかもたけり立った二人の手負いの勇士の間における決闘のようだった。互いに闘《たたか》いなお抵抗しながら、その血潮をすべて失いつつある。両者のいずれが第一に倒れるであろうか。
高地の闘争は引き続いた。
どのくらいまで胸甲騎兵らはつき進んでいたか? だれもそれを語ることはできないであろう。ただ確実なことといえば、戦いの翌日、モン・サン・ジャンの馬車の積み荷計量台の素建《すだて》の中に、すなわち、ニヴェルとジュナップとラ・ユルプとブラッセルとの四つの道が出会って交差している所に、一人の胸甲騎兵とその馬とのたおれてるのが発見されたことだった。その騎兵はイギリスの戦線を突破したのだった。その死骸《しがい》を引き起こした人々の一人は、現になおモン・サン・ジャンに住んでいる。彼の名はドアーズと言って、当時十八歳だったのである。
ウェリントンは運の傾いてきたのを感じた。危機は迫っていた。
胸甲騎兵らは敵の中央を突破し得なかったという意味では成功しなかった。その高地は皆の有であり、まただれの有でもなかった。そして要するに、大部分はなおイギリス軍の手中にあった。ウェリントンは村と一番高い平地とを有していた。ネーは高地の縁と斜面とをしか有していなかった。両方ともここを墳墓の地と根をおろしてるかのようだった。
しかしイギリス軍の衰弱はもはや回復すべからざるもののように見えた。その軍隊の出血は恐るべきものだった。左翼のケンプトは援兵を求めた。「一兵もない[#「一兵もない」に傍点]、そこで戦死せよ[#「そこで戦死せよ」に傍点]!」とウェリントンは答えた。それとほとんど同時に両軍の疲憊《ひはい》を語る珍しい一致であるが、ネーもナポレオンに歩兵を求めてきた。ナポレオンは叫んだ、「歩兵[#「歩兵」に傍点]! どこから手に入れてくれというのか[#「どこから手に入れてくれというのか」に傍点]、わしに歩兵をこしらえよとでもいうのか[#「わしに歩兵をこしらえよとでもいうのか」に傍点]?」
けれども、イギリス軍の方がいっそう悩んでいた。鉄の鎧《よろい》と鋼鉄の胸当てとをつけたその偉大な騎兵隊の狂猛な圧力は、歩兵を押しつぶした。軍旗のまわりに立っている数人の兵が、一個連隊の位置を示してるものもあった。そういう一隊はもはや大尉あるいは中尉によって指揮されてるのみだった。ラ・エー・サントにおいて既に痛手を被ってるアルテンの師団は、ほとんど全滅していた。ヴァン・クルーツェ旅団の勇敢なベルギー兵は、ニヴェルの道に沿った麦畑のうちに莫大《ばくだい》な死屍《しかばね》を横たえていた。一八一一年にはスペインにおいてフランス軍に交じってウェリントンと戦い、今一八一五年にはイギリス軍と結んでナポレオンと戦っていたオランダの擲弾兵《てきだんへい》らは、ほとんど生き残ったものがなかった。将校の損失はなおいちじるしかった。翌日自分の片脚を葬ったアクスブリッヂ卿は、もう膝を砕かれていた。その胸甲騎兵の戦闘においてフランス軍の方では、ドロール、レリティエ、コルベール、ドノプ、トラヴェール、およびブランカールらが戦闘力を失っていたのに対し、イギリス軍の方では、アルテンは負傷し、バーンは負傷し、デランシーは戦死し、ヴァン・メルレンは戦死し、オンプテーダは戦死し、ウェリントンの幕僚は大半戦死していた。かくしてその流血を比較する時には、イギリスの方がはなはだしかった。近衛歩兵の第二連隊は五人の中佐と四人の大尉と三人の旗手とを失っていた。歩兵第三十連隊の第一大隊は二十六人の将校と百十二人の兵卒とを失っていた。ハイランド兵第七十九連隊では、二十四人の将校が負傷し、十八人の将校が戦死し、四百五十人の兵士が戦死していた。クンベルランドのハンノーヴル驃騎兵《ひょうきへい》は、後に裁《さば》かれて罷免《ひめん》されることになった連隊長ハッケを頭として、全連隊が混戦の前に手綱をめぐらして、ソアーニュの森の中に逃げ込み、ブラッセルに至るまで壊走《かいそう》の余波を及ぼした。輜重車《しちょうしゃ》、弾薬車、行李車《こうりしゃ》、負傷兵をいっぱい積んだ車などは、フランス軍がそこに足場を得て森に近よって来るのを見て、先を争って森に逃げ込んだ。フランス騎兵になぎ払われたオランダ兵は、「あぶないぞ!」と叫んでいた。ヴェール・クークーからグレナンデルに至るまで、ブラッセルの方面へ約二里の距離にわたって、ただ一面に逃亡兵のみであった事は、今に生きてる実見者らの語るところである。その恐慌は非常なものであって、マリーヌにいたコンデ大侯とガンにいたルイ十八世とにまでもおよんだ。モン・サン・ジャンの農家のうちに建てられた野戦病院の背後に梯隊《ていたい》をなしていたわずかな予備隊と、左翼を防いでいたヴィヴァイアンとヴァンドルールとの二個旅団を除くのほか、ウェリントンはもはや騎兵を有しなかった。多くの砲門は破壊されて横たわっていた。それらの事実はシーボンによって告白されたところである。プリングルはその災滅を誇張して、イギリス・オランダの軍隊は三万四千になされたとまで言っている。鉄石大公ウェリントンはそれでもなお自若としていた、しかしその脣《くちびる》は青ざめていた。イギリスの参謀部に従って観戦していたオーストリアの軍事監ヴィンチェントとスペインの軍事監アラヴァとは、大公の敗北と思っていた。五時に、ウェリントンは時計を出してみた、そして次の憂鬱《ゆううつ》な言葉がつぶやかれるのが聞かれた、「ブリューヘルが来るか[#「ブリューヘルが来るか」に傍点]、夜が来るか[#「夜が来るか」に傍点]!」
ちょうどその頃であった、銃剣の遠い一線が、フリシュモンの方に当たって高地の上にひらめき出した。
ここにおいて、この巨大なる活劇に変転が起こった。
十一 ナポレオンに不運にしてブューローに幸運なる案内者
ナポレオンの痛ましい誤算は世の知るところである。いたずらに待ちあぐまれたグルーシーと、不意に現われきたったブリューヘル。生命《いのち》にあらで死がやってきたのである。
運命はかくのごとく流転する。世界の帝王の王座が待たれていたのに、セント・ヘレナが見えてきた。
ブリューヘルの副官ブューローの案内人となっていた牧者の少年が、森林から進出するのにプランスノアの下手《しもて》からよりもフリシュモンの上手《かみて》からすることを、もし彼に勧めていたならば、十九世紀の形勢はおそらく現今と異なっていたであろう。ナポレオンはワーテルローの戦いに勝ったであろう。プランスノアの下手《しもて》以外の道によって進んだならば、プロシア軍は到底砲兵を通すことのできない谷間に出て、ブューローは到着し得なかったであろう。
もし一時間も遅延していたなら、プロシアのムッフリング将軍も言ったごとく、ブリューヘルはもはやウェリントンがそこに支持してるのを見いださなかったであろう。「戦いは敗れていた」であろう。
もはやブューローが到着しなければならない時間であったことは、人の皆察するところである。その上彼はもうよほど遅延していたのである。彼はディオン・ル・モンに露営していたのであって、払暁《ふつぎょう》より出発していた。しかし道路は通行に困難をきわめ、各師団は泥濘《でいねい》の中に足を取られた。砲車は轍《わだち》の中に轂《こしき》の所までも没した。その上、ワーヴルの狭い橋でディール河を越さなければならなかった。そしてまたその橋に通ずる街路《まち》にはフランス軍が火を放っていた。砲兵の弾薬車と行李《こうり》車とは、焼けつつある軒並みの間を通ることができなくて、鎮火するまで待たなければならなかった。ブューローの前衛がまだシャペル・サン・ランベールに着かない前に、既に正午になっていた。
ワーテルローの戦いは、二時間早く初められていたならば、午後四時には終わっていたはずで、ブリューヘルは既にナポレオンによって勝利をあげられた戦場に到来することになったであろう。われわれ人間の眼界を逸するあの無窮なるものにのみ順応してる広大なる偶然事は、すべてかくのごときものである。
正午ごろ早くも皇帝は、望遠鏡をもってまっさきに、はるか地平線の一点にある物を認めて、それに注意を集めた。彼は言った、「彼方に雲らしいものが見えるが、どうも軍隊らしい。」それから彼はダルマシー公に尋ねた、「スールト、あのシャペル・サン・ランベールの方に見えるものを君は何と思う?」元帥は双眼鏡をその方へ向けて答えた、「四、五千の軍勢です、陛下。グルーシーに違いありません。」それはなお遠く靄《もや》の中にあって動かなかった。すべての幕僚の双眼鏡は皇帝のさし示すその「雲」を見きわめようとした。ある者は言った、「佇立《ちょりつ》してる縦隊である。」また多くの者は言った、「樹木である。」ただその雲はじっと動かないでいることだけは事実であった。皇帝はドモンの軽騎兵の一隊をさいて、その不明な一点の方へ偵察につかわした。
ブューローは実際動いていなかった。彼の前衛はきわめて薄弱であって、何事もなし得なかったのである。彼は本隊を待っていなければならなかった。そしてまた、戦線にはいる前に兵力を集中せよとの命令を受けていた。しかし五時に、ウェリントンの危険を見て取って、ブリューヘルはブューローに攻撃の命令を下し、次の著名な言葉を発した、「イギリス軍に息をつかせなければいけない。」
それから間もなく、ロスティン、ヒレル、ハッケ、リッセルらの各師団は、ロボーの軍団の前面に展開し、プロシアのウィルヘルム大侯の騎兵はパリスの森から現われ、プランスノアは火炎に包まれた。そしてプロシアの砲弾は、ナポレオンの背後に予備として控えていた近衛兵の列中まで雨とそそぎ初めた。
十二 近衛兵
その後のことは人の知るとおりである。第三の軍勢の突入、戦闘の壊裂、にわかにとどろく八十六門の砲、ブューローとともに到着したピルヒ一世、ブリューヘル自ら率いたツィーテンの騎兵、押し返されたフランス軍、オーアンの高地から掃蕩《そうとう》されたマルコンネ、パプロットから駆逐されたデュリュット、退却するドンズローとキオー、半側面より攻撃されたロボー、援護を失ったフランス各連隊の上に薄暮に落ちかかってきた新戦闘、攻勢を取って進んできたイギリス軍の全線、フランス軍のうちに開けられた大きな穴、互いに相助くるイギリスとプロシアとの霰弾《さんだん》、殲滅戦《せんめつせん》、正面の惨劇、側面の惨劇、その恐るべき崩壊の下に戦線に立つ近衛兵。
近衛兵らはまさに戦死の期の迫ってるのを感ずるや、「皇帝万歳!」を叫んだ。ついにその喊声《かんせい》にまで破裂した彼らの苦悶《くもん》ほど人を感動せしむるものは、およそ歴史を通じて存しない。
その日空は終日曇っていた。しかし突然その瞬間に、晩の八時であったが、地平線の雲が切れて、ニヴェルの道の楡《にれ》の木立ちを通して、没しゆく太陽の赤いものすごい広い光を地上に送った。その太陽もアウステルリッツにおいてはのぼるのが見られたのであったが。
近衛の各隊は、その終局のために各将軍によって指揮されていた。フリアン、ミシェル、ロゲー、アルレー、マレー、ポレー・ド・モルヴァン、皆そこにいた。鷲《わし》の大きな記章をつけた近衛|擲弾兵《てきだんへい》の高い帽子が、一様に列を正し粛々としておごそかに、その混戦の靄《もや》のうちに現われた時、敵軍すらもフランスに対する畏敬の念を覚えた。あたかも二十有余の戦勝は翼をひろげて戦場に入りきたったかの観があって、勝利者たる敵軍も敗者たる心地がして後ろに退《さが》った。しかしウェリントンは叫んだ、、近衛兵、正確にねらえ!」籬《まがき》の後ろに伏していたイギリス近衛兵の赤い連隊は立ち上がった。しのつくばかりの霰弾は、フランスの鷲の勇士のまわりに風にひるがえってる三色旗に雨注した。全軍は殺到し、無比の殺戮《さつりく》が初まった。皇帝の近衛兵らは、周囲に退却してゆく軍隊を、そして敗北の広漠たる動揺を、影のうちに感じた。皇帝万歳! の声が、逃げろ! の叫びに代わったのを、彼らは聞いた。そしてその逃亡を後ろにしながら、一歩ごとにますます雷撃を受け、ますます戦死しながら、前進を続けた。一人の逡巡《しゅんじゅん》する者もなく、一人の怯懦《きょうだ》な者もいなかった。その軍勢のうちにおいては、一兵卒といえども将軍と同じく英雄であった。自ら滅亡の淵《ふち》に身を投ずることを避けた者は一人もなかった。
熱狂したネーは、死に甘んずるの偉大さをもって、その颶風《ぐふう》のうちにあらゆる打撃に身をさらした。そこで彼の五度目の乗馬は倒れた。汗にまみれ、目は炎を発し、口角には泡《あわ》を立て、軍服のボタンは取れ、一方の肩章は敵の近衛騎兵の剣に打たれて半ば切れ、大鷲の記章は弾丸にへこみ、全身血にまみれ、泥にまみれ、天晴《あっぱれ》な武者振りをもって、手には折れた剣を握り、そして言った、「戦場においてフランスの元帥はいかなる死に様をするか[#「戦場においてフランスの元帥はいかなる死に様をするか」に傍点]、きたって見よ[#「きたって見よ」に傍点]!」しかしそれも甲斐《かい》なくして、彼は死ななかった。彼は獰猛《どうもう》であり、また憤激していた。彼はドルーエ・デルロンに問いを投げた、「君は死にに行かないのか、おい!」兵士らを一つかみにして粉砕しつつある砲弾のうちに彼は叫んだ、「そして俺にあたる弾丸はないのか! おお[#「おお」に傍点]、イギリスの砲弾は皆俺の腹の中にはいってこい!」不運なるネーよ、汝はフランスの弾丸に打たれんがために取り置かれていたのである!(訳者注 彼はナポレオンの転覆後王党のために銃殺されたのである)
十三 破滅
近衛兵の背後に起こった壊走は痛ましいものであった。
軍隊はにわかに四方から、ウーゴモン、ラ・エー・サント、パプロット、プランスノアなどから同時に退いてきた。裏切り者! という叫びに次いで、逃げろ! という叫びが起こった。壊乱する軍隊は雪崩《なだれ》のごときものである。すべてはたわみ、裂け、砕け、流れ、ころがり、倒れ、押し合い、先を争い、急転する。異常なる崩壊である。ネーは一馬を借りてその上に飛び乗り、帽子もなく、えり飾りもなく、剣もなく、ブラッセルからの道路をさえぎって、イギリス軍とフランス軍とを同時に食い止めた。彼は軍隊を押し止めんとつとめ、呼びかけ、怒号し、壊走《かいそう》のうちにつっ立った。しかし軍勢はあふれて彼をのり越えてゆく。兵士らは「ネー元帥万歳[#「ネー元帥万歳」に傍点]!」を叫びながら彼から逃げてゆく。デュリュットの二個連隊は驚駭《きょうがい》して右往左往し、ドイツ槍騎兵の剣とケンプト、ベスト、バック、ライラントの各旅団の銃火との間に、あたかもはね返されてるようだった。混戦の最悪なるものはすなわち壊走である。戦友も逃げんがためには互いに殺し合う。騎兵隊と歩兵隊とは互いにぶつかって砕け散乱する。戦いの大いなる泡《あわ》である。一端のロボーと他端のレイユとはともにその波のうちに押し流された。ナポレオンは近衛兵の残兵をもって城壁としようとしたが無効であった。彼はいたずらに手もとの騎兵数個中隊を最後の努力のうちに失ってしまった。キオーはヴィヴァイアンの前に退き、ケレルマンはヴァンデロイルの前に退き、ロボーはビューローの前に退き、モーランはピルヒの前に退き、ドモンとシュベルヴィックはプロシアのウィルヘルム大侯の前に退いた。皇帝の騎兵隊を率いて突撃したギイヨーは、イギリス竜騎兵の足下に倒れた。ナポレオンは逃走兵のうちを駆け回って、彼らに説き、促がし、威嚇《いかく》し、切願した。その朝皇帝万歳を叫んだすべての口は、今はただ茫然《ぼうぜん》とうち開いてるのみだった。彼らはほとんど皇帝をも見知らないがようだった。新たにやってきたプロシアの騎兵は、突進し、疾駆し、なぎ払い、切りまくり、粉砕し、殺戮《さつりく》し、殲滅《せんめつ》せんとした。馬は飛び出し、大砲はそこに残された。輜重兵《しちょうへい》らは弾薬車から馬をはずし、その馬を奪って逃走した。行李《こうり》車は四つの車輪を上にして転覆し、道をふさいだ。ためにまたそこで多くの虐殺を起こさした。人々は互いに押しつぶし、踏み蹂《にじ》り、死せる者をも生ける者をも乗り越して走った。腕と腕とはつかみ合った。狂気の群集は、道路を、小道を、橋を、平野を、丘を、谷を、森を満たし、四万の兵士の逃亡はそれをふさいだ。叫喚の声、絶望の声、麦畑の中に投げ込まれた背嚢《はいのう》と銃、わずかに剣によって切り開かれる通路、もはや戦友もなく将校もなく将軍もなく、ただ名状すべからざる恐怖のみだった。ツィーテンは思うがままにフランス軍をなぎ立てた。獅子《しし》は子鹿《こじか》と化していた。かくのごときがその逃走の光景であった。
ジュナップにおいて、立ち直り、対抗し、敵を阻止せんと、人々は努めた。ロボーは三百の兵を集めた。村の入り口には防寨《ぼうさい》が施された。しかしながら、プロシアの霰弾《さんだん》の第一の連発によって、全軍は再び敗走をはじめ、ロボーは捕虜になった。今日なお、ジュナップにはいる数分前の所、道の右側にある煉瓦《れんが》の破屋《あばらや》の古い破風《はふ》に、その霰弾の連発の跡が刻まれてるのが見られる。プロシア軍はジュナップに突入した。かくもすみやかに勝利を得たことに彼らは憤激していたに違いない。追撃は猛烈であった。ブリューヘルは敵を殲滅《せんめつ》するように命じた。ロゲーは、フランスの全|擲弾兵《てきだんへい》を死をもって威嚇して、各自に一人のプロシア兵の捕虜をつれきたらしめんとする、痛むべき実例を残していた。しかし今やブリューヘルはロゲーにもまさって残虐であった。年少近衛兵の将軍デュエームは、ジュナップのある宿屋の門口に追いつめられ、死の部下ともいうベき一軽騎兵に剣を差し出すと、軽騎兵はその剣を取ってその捕虜を刺した。戦勝は敗北者を虐殺することによって完成された。しかし吾人《ごじん》は歴史なるがゆえに、吾人をして処罰的に言わしむれば、老ブリューヘルは自らおのれの名を汚した。かくてその残虐は災害をなお大ならしめた。絶望的の壊走《かいそう》は、ジュナップを過ぎ、レ・カトル・ブラを過ぎ、ゴスリーを過ぎ、フラーヌを過ぎ、シャールロアを過ぎ、テュアンを過ぎ、そして国境に至ってようやく止まった。悲しいかな、いかなる者がそのように逃亡したのであるか? それは実にあの大陸軍《グランド・アルメ》であったのである。
有史いらい、かつて見なかった最高の勇武の、その惑乱、その恐慌、その滅落、それはゆえなくして起こったことであろうか? いや。上帝の巨大なる手の影はワーテルローの上に落とされていたのである。それは運命の一日であった。人間以上の力がその日を現出せしめたのであった。それゆえに、彼らの頭も恐怖のうちに屈したのである。それゆえに、彼らの偉大なる魂も剣をすてて降ったのである。全欧州を征服した人々も一敗地に塗《まみ》れて、何ら言葉を発する術《すべ》もなく、何らなすべき術《すべ》もなく、ただ影のうちに恐ろしきもののあるのを感じた。それは運命のしからしむるところであった[#「それは運命のしからしむるところであった」に傍点]。その日、人類の前景は変じた。ワーテルローは十九世紀の肱金《ひじがね》である。その偉人の消滅は、一大世紀の出現に必要であった。人の左右し得ざるある者がそれを支配した。英雄らの恐慌はそれで説明せらるる。ワーテルローの戦いのうちには、雲霧以上のものがあった。流星のごときものがあった。神が通過したもうたのである。
夜の幕のおりる頃、ジュナップの近くの野の中で、ベルナールとベルトランとは、考えにふけった荒々しい不気味な一人の男の外套の裾《すそ》をとらえて引き止めた。その男はそこまで壊走の波に押し流されてきて、馬から地上におり立ち、馬の手綱を小脇にはさみ、昏迷した目つきをして、ただ一人ワーテルローの方へ引き返さんとしていたのである。それはなお前進せんと試みてるナポレオンであった。崩壊した夢想をなお夢みてる偉大なる夢中遊行者であった。
十四 最後の方陣
近衛兵の数個の方陣は、流れの中の巌《いわお》のごとくに、壊走《かいそう》の中にふみ止まって、夜になるまで支持していた。夜はきたり、また死もきた。彼らはその二重の暗黒を待っていた。その包囲のうちに泰然と身を任した。各連隊は互いに孤立し、四方に寸断されてる全軍との連絡はなく、各自に最後を遂げていった。その最後の戦闘をなさんがために彼らは、あるいはロッソンムの高地の上に、あるいはモン・サン・ジャンの平地の中に、陣地を占めていた。見捨てられ、打ち敗られ、恐るべき様をしたそれら陰惨な方陣は、そこに驚くべき臨終を遂げた。ユルム、ヴァグラン、イエナ、フリーランは、そのうちで戦死を遂げた。
まだ薄明りの晩の九時ごろ、モン・サン・ジャンの高地の裾《すそ》に、なおその方陣の一つが残っていた。そのいたましい谷間のうちに、さきには胸甲騎兵らがよじのぼり今はイギリス兵の集団に満たされているその坂の麓《ふもと》に、勝ちほこった敵砲兵が集中する砲火の下に、弾丸の恐るべき雨注の下に、その方陣は戦っていた。それはまだ無名の一将校カンブロンヌによって指揮されていた。敵弾の斉発ごとに、方陣はその兵数を減じ、しかもなお応戦していた。絶えずその四壁を縮小しながら、霰弾《さんだん》に応答するに銃火をもってした。逃走兵らは息を切らして時々立ち止まりながら、しだいに弱りゆくその陰惨な雷鳴のごとき響きを、遠くからやみのうちに聞いたのだった。
その一隊がもはや一握りの兵数にすぎなくなった時、その軍旗がもはや一片のぼろにすぎなくなった時、弾丸《たま》を打ちつくした彼らの銃がもはや棒切れにすぎなくなった時、うずたかい死骸《しがい》の数がもはや生き残った集団よりも多くなった時、その荘厳なる瀕死《ひんし》の勇者のまわりにはある聖なる恐怖が勝利者らのうちに萌《きざ》して、イギリスの砲兵は息をつきながら沈黙した。がそれは一種の猶予にすぎなかった。それらの勇士のまわりには、幻影の蝟集《いしゅう》するがごとく、騎馬の兵士の影像、大砲の黒い半面、車輪や砲架を透かして見える白い空などが取り巻いていた。戦いの底の雲霧のうちに英雄らがいつも瞥見《べっけん》する死の巨大なる頭は、彼らの上に進み出て彼らを見つめていた。彼らは大砲の装弾せらるる音を薄明りの影のうちに聞くことができた。夜のうちに虎《とら》の目のごとくひらめく火繩《ひなわ》は、彼らの頭のまわりに円を描き、イギリスの砲列のすべての火繩桿《ひなわかん》は大砲に近づけられた。その時、感動してそれらの勇士の上に最後の一瞬を押し止めて、一人のイギリスの将軍は、ある者はそれをコルビールであったといい、ある者はメートランドであったといっているが、彼らに向かって叫んだ、「勇敢なるフランス兵ら、降伏せよ!」カンブロンヌは答えた、「糞《くそ》ッ!」
十五 カンブロンヌ
フランスの読者は作者から尊敬されることを欲するであろうから、おそらくフランス人がかつて発し得た最もりっぱな言葉を、ここにくり返してはいけないかも知れない。歴史中に崇高なものを立証することは禁制である。
しかし吾人《ごじん》は、危険と災禍を顧みずして、その禁制をも犯したいのである。
ゆえにあえて吾人《ごじん》は言う。それらの巨人らのうちに、なお一人のタイタン族が、カンブロンヌがいたのである。
あの言葉を発して、次に死する! それ以上に偉大なることがあろうか。なぜならば、死を欲することはすなわち実際に死することである、そして、砲撃されながらもなお彼は生き残ったとはいえ、それは彼の罪ではないのである。([#ここから割り注]訳者注 実際は彼はなお戦死せずして捕虜になった[#ここで割り注終わり])
ワーテルローの戦いに勝利を得た者は、敗北したナポレオンでもなく、四時に退却し五時に絶望に陥ったウェリントンでもなく、自ら戦闘に加わらなかったブリューヘルでもない。ワーテルローの戦いに勝利を得た者は、彼カンブロンヌである。
おのれを殺さんとする雷電をかくのごとき言葉で打ちひしぐことは、すなわち勝利を得ることである。
破滅に向かってその答えをなし、運命に向かってその言を発し、後にできる獅子《しし》像に対してそういう基礎を与え、前夜の雨やウーゴモンの陰険な城壁やオーアンの凹路《おうろ》やグルーシーの遅延やブリューヘルの到来などに対してその抗弁をなげつけ、墳墓のうちにあってあざわらい、あたかも人々の倒れたらん後にもなおつっ立ち、欧州列強同盟を二音のうちに溺《おぼ》らし、既にシーザーらに知られていたその厠《かわや》を諸国王にささげ([#ここから割り注]訳者注 糞ッ! の一語参考[#ここで割り注終わり])、フランスの光輝をそこに交じえながら最低の一語を最上の一語となし、肉食日火曜日をもって傲然《ごうぜん》とワーテルローの幕を閉じ、レオニダスに補うにラブレー([#ここから割り注]訳者注 十六世紀フランスの物語作者にして辛辣なる皮肉諷刺に秀ず[#ここで割り注終わり])をもってし、ほとんど口にし難い極端なる一言のうちにその勝利を約言し、陣地を失ってしかも歴史をかち得、その殺戮《さつりく》の後になお敵をあざわらうべきものたらしむる、それは実に広大なることではないか。
それは雷電に加えたる侮辱である。それはアイスキロスの壮大さにまで達する。
カンブロンヌの一語はある破裂を感じさせる。それは軽侮のための胸の破裂であり、充満せる苦悶《くもん》の爆発である。だれが勝利を得たか? ウェリントンか、いや、ブリューヘルなくんば彼は敗れていたのである。しからばブリューヘルか、いや。ウェリントンが初めに戦っていなかったならば、彼も終局を完《まっと》うすることはできなかったはずである。彼カンブロンヌ、その最終にきたった一人、その世に知られざる戦士、その全戦闘中の極微なる一人は、そこに一つの虚構があるのを、破滅のうちに二重ににがにがしい虚構があるのを感ずる。そして彼がその憤激に破裂する時、人々は彼に愚弄《ぐろう》を与える、生命を! いかにして激怒せざるを得るか?
彼らはそこにいる、欧州のすべての国王らが、幸福なる将軍らが、雷電をはためかすジュピテルらが。彼らは十万の勝ちほこった兵士を有している、そしてその十万の後方には更に百万の兵士を。火繩には火がつけられて大砲は口を開いている。彼らは足下に近衛軍と大陸軍とを踏みにじっている。彼らは既にナポレオンを粉砕したところである。そしてもはやカンブロンヌが一人残っているのみである。手向かうものとてはもはやその一個の蛆虫《うじむし》のみである。が彼は手向かう。そして彼は剣をさがすがごとくに一語をさがす。彼には生唾《なまつば》が湧く。そしてその生唾こそ彼の求むる一語である。その異常なしかも下らない勝利の前に、その優勝者なき勝利の前に、この絶望の男はすっくと立つ。彼はその雄大に圧倒さるるが、しかもその虚無をみる。そして彼はその上に痰《たん》を吐きかけるのみでは足れりとしない。数と力と物質との優勢の圧迫の下に、彼は心に一つの言葉を、糞《くそ》を見いだす。くり返して言う。それを叫び、それをなし、それを見いだすこと、それは実に勝利者となることである。
大審判の精神は、危急の瞬間にこの無名の男の中に入りきたった。あたかもルージュ・ド・リールがマルセイエーズ([#ここから割り注]訳者注 フランスの国歌[#ここで割り注終わり])を見いだしたがごとくに、高きより来る息吹《いぶ》きの幻によって、カンブロンヌはワーテルローの言葉を見いだした。聖なる颶風《ぐふう》の一息は飛びきたってその二人を貫通し、二人は慄然《りつぜん》と身を震わし、そして一人は最上の歌を歌い、一人は恐るべき叫びを発する。タイタンの軽侮のごときその一言を、カンブロンヌはただに帝国の名において全欧州に投げつけるのみではない。それではあまりに足りないであろう。彼はそれを革命の名において過去に投げつける。人はそれを聞いて、巨人の古い魂がカンブロンヌのうちにあるのを認める。語るはダントンであり怒号するはクレベルであるかのようである。
カンブロンヌの一言に、イギリス人の声は答えた、「打て!」砲列は火炎を発し、丘は震動し、それらのすべての青銅の口からは最後の恐ろしい霰弾《さんだん》の噴出がほとばしり、地平を出る月の光にほの白く見える広い煙はまき上がった。そして煙が散じた時には、そこにはもはや何物も残っていなかった。恐るべき残兵らは殲滅《せんめつ》されていた。近衛は全滅していた。生きたる角面|堡《ほ》の四壁はそこに横たわり、ただ死骸の間にそこここにあるうごめきがようやくに見らるるのみだった。かくのごとくして、ローマの軍団よりも偉大なフランスの近衛諸連隊は、雨と血潮とに湿った地上に、陰惨な麦畑の中に、モン・サン・ジャンにおいて消滅したのである。いまやその場所を、ニヴェルの郵便馬車を御しているジョゼフが、朝の四時に、口笛を吹きつつ愉快げに馬を鞭《むち》うって通るのである。
十六 指揮官へは何程の報酬を与うべきか
ワーテルローの戦いは一つの謎《なぞ》である。勝利者にとっても敗北者にとっても、それは等しく模糊《もこ》たるものである。ナポレオンにとっては、それは一つの恐慌であった。(終局を告げたる一戦、終了したる一日、救われたる誤れる方略、翌日のたしかなりし大成功、すべては恐慌をきたせる恐怖の一瞬によりて失われぬ。――ナポレオン、セント・ヘレナの口述。)そしてブリューヘルはそこに砲火を見たばかりであり、ウェリントンは少しも理解するところなかった。報告を見てみるがよい。作戦日誌は曖昧《あいまい》であり、記述は混乱をきわめている。後者は口の中でつぶやき、前者はどもっている。ジョミニーはワーテルローの戦いを四つの時間にわけている。ムッフリングはそれを三段の変化に区分している。シャラスのみがただ一人、ある点については吾人《ごじん》は彼と異なった見解を有しはするが、とにかく鋭い眼光をもって、聖なる運命と争う人間の才力のその破滅の特相をつかんでいる。他のすべての史家はある眩惑《げんわく》を感じ、その眩惑のうちに摸索している。実際それは、閃々《せんせん》たる一日、軍国の崩壊である。そして諸国王らが唖然《あぜん》たるまに、すべての王国をまき込み、武力の失墜と戦役の覆没とを導いた。
超人間的必然性の印せられたるその事変のうちには、人間の与える所は何もない。
ワーテルローをウェリントンより奪いブリューヘルより奪うことは、イギリスおよびドイツより何かを奪うことになるであろうか? いや。光輝あるイギリスもいかめしきドイツも、ワーテルローの問題においては取るに足りない。幸いなるかな、民衆は痛ましき剣戟《けんげき》の暴挙の外にあって偉大なることを得る。ドイツもイギリスもまたフランスも、剣の鞘《さや》のうちに保たれてはいない。ワーテルローがただいたずらなる剣の響きにすぎないその時代において、ドイツはブリューヘルの上にゲーテを有し、イギリスはウェリントンの上にバイロンを有する。広大なる思潮の洶湧《きょうよう》は十九世紀に固有のものであり、そしてその曙《あけぼの》のうちに、イギリスとドイツとは壮麗な光輝を有する。彼らはその思想するところによって壮大なのである。彼らが文化にもたらした一般水準の啓発高揚こそ、彼らが内包していたものである。彼ら自らが源であって、一つの事件が源ではない。十九世紀における彼らの強大は、その源をワーテルローに有するものではない。ある戦勝の後に急速なる生長を遂ぐるものは、ただ野蛮な民衆のみである。それは暴風雨のために溢漲《いっちょう》した水流の一時の浮誇にすぎない。開化せる民衆はことに現代においては一将帥の幸運不運によって地位を上下するものではない。人類のうちにおける該民衆の特有の重みは、単なる戦闘以上の何物かに由来するものである。幸いにも、その名誉、その威厳、その光明、その才能は、あの山師たる英雄や勝利者らが戦争と称する投機にかけることを得る骰子《さい》の目ではない。往々にして、戦勝を失いつつ進歩を得、光栄少なくして自由多く、太鼓が黙して理性が語ることがある。それは実に負くるが勝ちの勝負である。ゆえに、双方ともいずれについても冷ややかにワーテルローのことを語ろう。偶然のものは偶然に返し、神のものは神に返そう。かくして、およそワーテルローは何であるか? 一つの勝利であるか? いや。僥倖《ぎょうこう》なる骰子の目にすぎない。
ヨーロッパによって得られフランスによって払われたる骰子の賭金《かけきん》である。
そこに獅子《しし》の像を建てるまでになることは、わけもないことだったのである。
ワーテルローは、その上、史上最も不思議な会戦である。ナポレオンとウェリントン、彼らは互いに敵ではなくて、両極端である。対偶《アンチテーズ》を好む神も、かつてこれほどはなはだしい対照とこれほど異様な対置とをこさしめたことはない。一方には、精確、予測、幾何《きか》、用心、確実にされたる退却、節約されたる予備兵、執拗《しつよう》なる冷静、乱すべからざる方式、地形を利用したる戦術、各隊を平衡せしむる戦術、繩墨式《じょうぼくしき》の殺戮《さつりく》、時計を手にして規定されたる戦い、任意行動のいっさいの禁止、古い古典的の勇気、絶対の正整。他方には、直感、察知、軍事的驚異、超人的本能、炎の一瞥《いちべつ》、鷲《わし》のごとき目つきと雷電のごとき打撃とのいい知れぬある物、傲然《ごうぜん》たる慓悍《ひょうかん》さのうちにおける驚くべき技能、深奥なる魂のあらゆる不可思議、運命との連結、召喚されていわば服従を強いられたる川や野や森や丘、戦場を虐遇するまでに立ち至る専制者、戦略に交じえられたる天運を増大せしめつつしかも乱しつつそれに対する信念。ウェリントンは戦いのバレーム([#ここから割り注]訳者注 有名なる計算数学者[#ここで割り注終わり])であり、ナポレオンは戦いのミケランゼロであった。そしてこのたびは天才は計算に負かされたのである。
双方ともだれかを待っていたのである。それに成功したのは、正確なる計算家の方であった。ナポレオンはグルーシーを待っていたが、彼はこなかった。ウェリントンはブリューヘルを待っていたが、彼はやってきた。
ウェリントンは、讐《あだ》を返さんとして立った古典的戦法そのものである。ボナパルトはその光栄の初めにおいて、イタリーにて古典的戦法に邂逅《かいこう》し、みごとにそれをうち破った。年老いた鴟梟《ふくろう》は年若き鷹《たか》の前に逃走した。旧戦術はただに撃破されたのみでなく、また侮辱された。その二十六歳のコルシカの青年はいったい何者であったか? すべてをおのれの向こうに回しておのれの方には何もなく、糧食も弾薬も大砲も靴もなく、ほとんど軍隊もなく、大集団に対してわずかに一握りの兵員をもってし、同盟したる全欧州に向かって飛びかかり、そしてほとんど不可能のうちに絶対の勝利を占めたるその赫々《かくかく》たる初心者は、いったい何を意味したか? ほとんど息をもつかず、同じ一群の兵士より成る道具を手にして、アルヴィンツィーに加うるにボーリユーを覆《くつがえ》し、ボーリユーに加うるにウルムゼルを覆し、ウルムゼルに加うるにメラスを覆し、メラスに加うるにマックを覆して、相次いでドイツ皇帝の五軍を粉砕したその雷電のごとき狂人は、いったいどこから出てきたのか? 恒星の鉄面皮を有するその戦いの新参者は、いったい何者であったか? 陸軍のアカデミー派は、逃走しながら彼を破門した。かくて、新武断派に対する旧武断派の癒《いや》し難き遺恨、火炎の剣に対する正統のサーベルの医《いや》し難き遺恨、天才に対する定型者の医し難き遺恨が生まれた。そして一八一五年六月十八日、その遺恨は最後の一言を得た。ロディ、モンテベロ、モンテノッテ、マンチュア、マレンゴー、アルコラなどの下にそれは一語をしるした。ワーテルローと。多衆の喜ぶところの凡庸の勝利である。運命はその皮肉に同意したのである。衰運においてナポレオンは、おのれの前にこんどは年少ウルムゼルを見いだした。
実際一人のウルムゼルを得んには、ただウェリントンの頭髪を白く染めれば足りる。
ワーテルローは、第二流の将帥によって勝たれたる第一流の戦いである。
ワーテルローの戦いにおいて賞賛しなければならないものは、イギリスであり、イギリスの強靱《きょうじん》、イギリスの決意、イギリスの血である。イギリスがそこにおいて有したみごとなものは、もしかく言うことがイギリスにとって不快でないならば、それはイギリス自身である。その将帥にあらずしてその軍隊である。
不思議に忘恩なるウェリントンは、バサースト卿に贈った書簡のうちにおいて、彼の軍隊、一八一五年六月十八日に戦った軍隊は、「軽蔑《けいべつ》すべき軍隊」であったと述べている。ワーテルローの田野の下に埋もれているあの陰惨なるつみ重なった骸骨《がいこつ》どもは、それを何と思うであろうか?
イギリスはウェリントンに対してあまりに謙譲であった。ウェリントンをかく偉大ならしむることは、イギリスを微小ならしむることである。ウェリントンはただ普通の一英雄に過ぎない。あの灰色のスコットランド兵、あの近衛騎兵、あのメートランドおよびミッチェルの連隊、あのパックおよびケンプトの歩兵、あのポンソンビーおよびソマーセットの騎兵、霰弾《さんだん》の下に風笛を奏していたあのハイランド兵、あのライラントの大隊、エスリングおよびリヴォリの戦いいらいの老練なる軍勢に対抗したるあのほとんど銃の操法をも知らなかった全くの新参兵、彼らこそ偉大なのである。ウェリントンは頑固《がんこ》であり、そこに彼の価値はあった。そして吾人《ごじん》はそれをけなすものではない。しかし彼の歩兵や騎兵の些少《さしょう》といえども彼と同じく堅固だったのである。鉄石大公に恥じない鉄石兵士である。吾人は吾人のすべての賞揚を、イギリス兵士に、イギリス軍に、イギリス民衆に与える。もし戦勝記念標があるならば、それはイギリスのものである。ワーテルローの円柱塔にして、もし一人の顔貌の代わりに一民衆の像を雲間に高く上ぐるならば、それはいっそう正当なものとなるであろう。
しかしこの偉大なるイギリスは、吾人のここに述ぶるところのものを怒るであろう。彼はなお、かの一六八八年およびフランスの一七八九年の両革命後においても、封建的の幻を有している。彼はなお世襲制および階級制を信じている。強大と光栄とにおいて他にすぐれたるその民衆は、民衆としてでなく国民として自尊している。民衆でありながら、しかも好んで服従し、頭として一人の君主を戴《いただ》いている。労働者は甘んじて軽侮され、兵士は甘んじて鞭《むち》打たれる。人の記憶するごとく、インケルマンの戦いにおいて、一人の軍曹がたしかに全軍を救ったと思われることがあったが、彼はラグラン卿からその名を述べらるることができなかった。イギリスの陸軍階級制は、将校以下の者はいかなる英雄をも、これを報告中にしるすことを許さないのである。
さてワーテルローのごとき種類の会戦において、何物よりも特に吾人《ごじん》の感嘆するところのものは、偶然が示した驚くべき巧妙さである。夜の雨、ウーゴモンの城壁、オーアンの凹路《おうろ》、大砲の音をも耳にしなかったグルーシー、ナポレオンを欺いた案内者、ブューローを正当に導いた案内者、すべてそれらの異変はみごとに導き出されたのである。
なお全体としてこれを言えば、ワーテルローには戦いというよりむしろ殺戮《さつりく》があった。
ワーテルローは、あらゆる大戦のうちにおいて、兵士の数に比して最も狭小な正面を有する戦いである。ナポレオンは四分の三里の正面、ウェリントンは半里の正面、しかも双方とも各※[#二の字点、1-2-22]七万二千の兵士。その密集よりあの殺戮が到来した。
次の計算がなされ、次の比例が立てられた。兵員の損失――アウステルリッツにおいて、フランス軍百分の十四、ロシア軍百分の三十、オーストリヤ軍百分の四十四。ワグラムにおいて、フランス軍百分の十三、オーストリア軍百分の十四。モスコヴァにおいて、フランス軍百分の三十七、ロシア軍百分の四十四。バウツェンにおいて、フランス軍百分の十三、ロシア・プロシア軍百分の十四。ワーテルローにおいて、フランス軍百分の五十六、連合軍百分の三十一。ワーテルローについての合計、百分の四十一。十四万四千の兵士に、六万の戦死者。
ワーテルローの平野は今日、人間の虚心平気な踏み台たる地面に固有の平静さを保っている、そして他の平原と何ら異なった点を有しない。
けれども夜には、一種の幻の靄《もや》が立ち上る。もしだれか旅客にして、そこを漫歩し目を定め耳を澄まし、あのいたましきフィリッピの平原([#ここから割り注]訳者注 昔アントニウスとオクタヴィアヌスとがブルツスとカシウスとを敗ったマケドニアの平原[#ここで割り注終わり])に対するヴィルギリウスのごとくに黙想するならば、そこに起こった大破滅の幻覚にとらえらるるであろう。恐ろしき六月十八日の様はよみがえってき、人工の記念の丘は消え、何かのその獅子《しし》の像も消散し、戦場はまざまざと現われて来る。歩兵の列は平原のうちにうねり、狂うがごとく疾駆する騎兵の列は地平を過ぎる。心乱れたその瞑想《めいそう》の旅客は見る、サーベルのひらめきを、銃剣の火花を、破烈弾の火災を、雷電の驚くべき交錯《こうさく》を。また彼は聞く、墳墓の底の瀕死の喘《あえ》ぎのごとくに、幻の戦いの漠たる叫喊《きょうかん》の響きを。あの物影は擲弾兵《てきだんへい》、あの微光は胸甲騎兵、あの骸骨《がいこつ》はナポレオン、あの骸骨はウェリントン。それらはもはや幻ではあるが、しかもなお互いに衝突し戦っている。谿谷《けいこく》は赤くいろどられ樹木は震え、雲間にまで狂暴なものがひろがり、そして暗夜のうちに、モン・サン・ジャン、ウーゴモン、フリシュモン、パプロット、プランスノアなど、すべてそれらの凶暴な高地は茫乎《ぼうこ》と現われきたって、その上には、互いに殲滅《せんめつ》し合う幽鬼の旋風が荒れ狂っている。
十七 ワーテルローは祝すべきか
世には少しもワーテルローを憎まないきわめて敬すべき自由主義の一派がある。しかし吾人《ごじん》はその仲間ではない。吾人に取っては、ワーテルローは単に自由の惘然《ぼうぜん》自失した一時期を画するものに過ぎない。かくのごとき鷲よりかくのごとき卵が生れるとは、それこそ正しく意外事である。
ワーテルローは、これを問題の最高見地よりみるならば、ことさらに反革命的の勝利である。それはフランスに対抗するヨーロッパであり、パリーに対抗するペテルブルグとベルリンとウインとである。進取に対抗する現状維持《スタチュ・クオ》であり、一八一五年三月二十日を通じて攻撃されたる一七八九年七月十四日であり(訳者注 前者はナポレオンの)フランスの制御すべからざる騒乱に対する諸君主政体の戦闘準備である。既に二十六年前から爆発しているその広大な民衆を消滅し尽すこと、それがその夢想であった。それは、ブルンスウィック家、ナッソー家、ロマノフ家、ホーヘンツォルレルン家、ハプスブールグ家などと、ブールボン家との連衡である。しかしワーテルローはその背に神法をになっている。帝国が専制的であったがゆえに、それに代わった王国が事物の自然の反動として無理にも自由的でなければならなかったことは、真実である。そして勝利者らのいたく遺憾としたことではあったが、余儀ない立憲制がワーテルローから出てきたことも、真実である。革命は真に敗らるることのできないものだからである。そしてそれは天意的なもので絶対に決定的なものであるがゆえに、常に再現し来るからである。すなわち、ワーテルローの前においては、古き諸王位を覆《くつがえ》したボナパルトのうちに、そしてワーテルローの後においては、憲法に同意し服従したルイ十八世のうちに現われた。ボナパルトは平等を表明するに不平等を用いて、ナポリの王位に一御者を据え、スエーデンの王位に一軍曹を据えた。ルイ十八世はサン・トーアンにおいて人権尊重の宣言に署名した。もし革命の何たるやを解せんと欲するならば、それを「進歩」と呼んでみるがいい。そしてもし進歩の何たるやを解せんと欲するならば、それを「明日」と呼んでみるがいい。明日は必ずや明日の仕事をなす、しかもそれを既に今日よりなしている。明日は不思議にも常にその目的とするところに達する。一個の兵士にすぎなかったフォアをして一個の弁舌家たらしむるのに、明日はウェリントンを使用する。フォアはウーゴモンにて倒れ、再び演壇に立ち上がる(訳者注 彼はウーゴモンに負傷したがその後ナポレオンの没落後代議士として熱弁を振った)。かくのごとく進歩は振る舞う。その職工にとっては一つとしていたずらな道具はない。彼は常に一糸乱さず、アルプスをまたいだあの男を、またエリゼー小父《おじ》というあのよろめきつつゆく善良な老病者を([#ここから割り注]訳者注 ナポレオンとルイ十八世[#ここで割り注終わり])、自己の聖なる仕事に適合させる。彼は脚気病者をも征服者をも等しく利用する、外部には征服者を、内部には脚気病者を。ワーテルローは、剣による欧州諸王位の崩壊を突然止めさせながら、他の方面において革命の事業を継続させるの結果をしかきたさしめなかった。軍人の時代は去って、思想家の世となった。ワーテルローが引き止めんと欲した世紀は、その上をふみ越えて、自己の道を続けた。その不祥なる勝利は、自由のために打ち負かされた。
これを要するに、そしてまた確かに、ワーテルローにおいて勝利を得たところのもの、ウェリントンの背後にほほえんだところのもの、人の言うところではフランスの元帥杖をもこめてヨーロッパの元帥杖を彼にもたらしたところのもの、獅子《しし》の塚を築くために骸骨《がいこつ》の満ちた土の車を楽しげにひいたところのもの、その台石に一八一五年六月十八日という日付を揚々としるしたところのもの、壊走兵《かいそうへい》をなぎ払うブリューヘルを励ましたところのもの、モン・サン・ジャンの高地の上から獲物をねらうようにフランスの上にのしかかってきたところのもの、それは反革命であった。分割という破廉恥なる言葉をつぶやく反革命であった。しかもパリーに到着して彼は目近かに噴火口を見た。彼はその灰がおのれの足を焼くのを感じた。そして意見を変えた。彼は再び憲法という不完全な試みに立ち戻った。
吾人《ごじん》をして、ワーテルローの中に、ただワーテルローの中にあるもののみを見せしめよ。自ら求められたる自由はそこには少しもない。反革命は自ら欲せずして自由主義となった、とともにまた、それに相同じき現象によって、ナポレオンも自ら欲せずして革命家となった。一八一五年六月十八日、馬上のロベスピエールは落馬させられたのである。
十八 神法再び力を振るう
執政官制《ディクテーター》の終焉《しゅうえん》。ヨーロッパの全様式は瓦解《がかい》した。
帝国は、あたかも死滅しゆくローマ帝国のそれのごとき暗黒のうちに倒れた。暗黒時代におけるがごとく、人は再び深淵を見た。ただ一八一五年の暗黒時代は、これをその通称によって反革命と呼ぶべきであるが、息が短く直ちに息を切らして、間もなくやんでしまった。滅びた帝国は、うち明けて言えば、人々から泣かれた、しかも勇壮なる人々の目によって泣かれた。もし光栄にして剣の笏《しゃく》のうちに存するならば、帝国は光栄そのものであった。それは暴政の与え得るすべての光耀《こうよう》を地上にひろげた、陰惨なる光耀を、いな、なお言わん、暗黒なる光耀を。真の白日に比較すれば、それは夜である。しかもその夜の消滅は、日食のごとき印象を与えた。
ルイ十八世は再びパリーにはいった。七月八日の円舞踏は三月二十日の熱狂を消した。コルシカ人という言葉はベアルン人という言葉の対照となった。チュイルリー宮殿の丸屋根の旗は白旗となった。亡命者が王位にのぼった。ハルトウェルの樅《もみ》のテーブルは、ルイ十四世式の百合《ゆり》花模様の肱掛椅子《ひじかけいす》の前に据えられた。人々はブーヴィーヌやフォントノアなど([#ここから割り注]訳者注 昔フランス王によって得られた戦勝の地[#ここで割り注終わり])のことを昨日の事のように語り、アウステルリッツは既に老い朽ちてしまった。教会と王位とは、おごそかに親愛の情を結んだ。十九世紀の社会安寧の最も動かし難き一形式が、フランスおよび大陸の上に建てられた。ヨーロッパは白い帽章をつけた。トレスタイヨン([#ここから割り注]訳者注 過激王党の首領の一人[#ここで割り注終わり])は世に高名となった。オルセー河岸の兵営の正面に太陽を象《かたど》った石の光線のうちには、多頭制に劣らず[#「多頭制に劣らず」に傍点]の箴言《しんげん》が再び現われた。皇帝親衛兵のいた所には今は赤服の近衛兵がいた。カルーゼルの凱旋門《がいせんもん》は、卑劣に得られた戦勝の名前におおわれ、それらの新流行に困らされ、おそらくマレンゴーやアルコラの戦勝の名前に多少恥じてか、アングーレーム公の像によってわずかに難局をきりぬけた。一七九三年の恐るべき共同墓地となったマドレーヌの墓場は、ルイ十六世およびマリー・アントアネットの遺骨がその塵《ちり》にまみれていたので、いまや大理石や碧玉《へきぎょく》を着せられた。ヴァンセンヌの溝《みぞ》の中には一基の墓碑が地上に現われて、ナポレオンが帝冠をいただいた同じ月にアンガン公が銃殺されたのであることを、今更に思い起こさしめた。その死のまぢかで戴冠式《たいかんしき》をあげさした法王ピウス七世は、その即位を祝福したときのごとく平静にその転覆を祝福した。シェンブルンには、ローマ王と呼ぶのもはばかられるわずか四歳の小さな人影があった。そして、すべてそれらのことは成し遂げられ、それらの王は再び王位につき、全ヨーロッパの首長は籠の中に入れられ、旧制度は新制度となり、地上のあらゆる影と光とは、その地位を変えたのである。それはただある夏の日の午後、一人の牧人が森の中で一人のプロシア人に向かって、「こちらからおいでなさい、あちらからはだめです!」と言ったからである([#ここから割り注]訳者注 ワーテルローにおけるブューローの案内者のこと参照[#ここで割り注終わり])。
この一八一五年は、一種の悩ましい四月の月であった。不健康にして有毒な古い現実は、新しい装いをこらした。欺瞞《ぎまん》は一七八九年をめとり、神法は一つの憲法の下に隠れ、擬制は立憲となり、特権や妄信《もうしん》や底意は、胸に抱きしめられたる第十四条([#ここから割り注]訳者注 憲法第十四条――王は国家の最上首長にして、陸海軍を統率し、宣戦を布告し、平和、同盟、通商上の条約を締結し、官吏を任免し、法律の適用と国家の安寧とのために、必要なる規定および命令を発す[#ここで割り注終わり])とともに、自由主義で表面を糊塗《こと》した。それは蛇《へび》の脱皮であった。
人間はナポレオンによって同時に大きくされ、また小さくされていた。理想はその燦爛《さんらん》たる物質の世において、空想という妙な名前をもらっていた。未来を嘲弄《ちょうろう》したのは偉人の重大な軽率である。さはれ、砲弾にさらされながらその砲手を深く愛していた民衆らは彼をさがし求めた。どこに彼はいるか? 彼は何をなしているか? マレンゴーおよびワーテルローに臨んだ一人の老廃兵に向かって、ある通行人は言った、ナポレオンは死んだと。するとその兵士は叫んだ、「あの人が死んだと! 君はいったい、あの人をよく知ってるか?」人々の想像は転覆された彼を神に祭り上げていた。ヨーロッパの奥底はワーテルローの後に暗黒になった。ナポレオンの消滅によって、ある巨大な空虚が長く残されたのである。
諸国王らはその空虚の中に身を据えた。旧ヨーロッパはその機に乗じて復古した。神聖同盟《サント・アリアンス》は作られた。しかしワーテルローの災なる戦場はそれに先立ってベル・アリアンスと叫んだではないか(注]訳者注 ワーテルローの一地名であるが、またその文字は美しき同盟という意味を有する)。
この建て直されたる旧ヨーロッパに対峙《たいじ》し対抗して、一つの新しきフランスのひな形は描かれた。皇帝によって嘲弄《ちょうろう》された未来は現出しきたった。それは額《ひたい》に自由という星をつけていた。新しき時代の熱烈な目はその方へ向けられた。ただ不思議なことには、人々はその未来なる「自由」と、その過去なるナポレオンとに、同時に心を奪われた。敗北は敗者を大ならしめていたのである。転覆したボナパルトは、つっ立ってるナポレオンよりもいっそう高いように思われた。勝利を得た者らも恐れをいだいた。イギリスはハドソン・ロウをして彼の番をさせ、フランスはモンシュニュをして彼の様子をうかがわした。胸に組んだ彼の両腕は、諸王位の不安となった。アレキサンドル皇帝は彼を「予が不眠」と名づけた。かかる恐怖は、彼がおのれのうちに有していた広大なる革命よりきたったのである。それこそボナパルト式自由主義を説明するものであり、それを許さしむるところのものである。その幻影は旧世界に戦慄《せんりつ》を与えた。諸国王は、はるか水平線のかなたにセント・ヘレナの巌《いわお》を有して、不安げに国政を統《す》べた。
ナポレオンがロングウッドの住居において臨終の苦悶を閲《けみ》しつつある間に、ワーテルローの平野に倒れた六万の人々は静かに腐乱してゆき、彼らの平和のあるものは世界にひろがっていった。それをウイン会議は一八一五年の条約となし、それをヨーロッパは復古と名づけた。
ワーテルローがいかなるものであったかは、おおよそ右のとおりである。
しかしそれも無窮なるものに対しては何のかかわりがあろう? そのすべての暴風雨、そのすべての雲霧、その戦い、次にその平和、そのすべての影、それも広大なる日の輝きを一瞬たりとも乱すことはできなかった。その目の前においては、草の葉より葉へとはう油虫も、ノートル・ダーム寺院の塔の鐘楼より鐘楼へと飛ぶ鷲《わし》も、なんら選ぶところはないのである。
十九 戦場の夜
さて再びあの不運なる戦場に立ち戻ってみよう。実はそれがこの物語に必要なのである。
一八一五年六月十八日の夜は満月であった。その月の光は、ブリューヘルの獰猛《どうもう》な追撃に便宜を与え、逃走兵のゆくえを照らし出し、その不幸な集団を熱狂せるプロシア騎兵の蹂躙《じゅうりん》にまかせ、虐殺を助長せしめた。大破滅のうちには往々にして、かかる悲愴《ひそう》な夜の助けを伴うものである。
最後の砲撃がなされた後、モン・サン・ジャンの平原には人影もなかった。
イギリス軍はフランス軍の陣営を占領した。敗者の床に眠ることは戦勝の慣例的なしるしである。彼らはロッソンムの彼方に露営を張った。プロシア軍は壊走者《かいそうしゃ》の後を追って前進を続けた。ウェリントンはワーテルローの村に行って、バサースト卿への報告をしたためた。
かく汝働けども、そは汝自らのためにはあらずという格言(訳者注 他人の功を横取りする場合に言う)を、もし実際に適用し得るならば、それはまさしくこのワーテルローの村に対してであろう。ワーテルローの村はただ手をこまぬいていて、戦地をへだたる半里の所にあった。モン・サン・ジャンは砲撃され、ウーゴモンは焼かれ、パプロットは焼かれ、プランスノアは焼かれ、ラ・エー・サントは強襲され、ラ・ベル・アリアンスは二人の勝利者の抱擁するのを見た。しかしそれらの名前はほとんど世に知られないで、戦いに少しも働かなかったワーテルローがすべての名誉をになっている。
われわれは戦争に媚《こ》びる者ではない。機会あらばその真相を告げ知らしてやろうとする者である。戦争に恐るべき美の存することを、われわれは隠さずに述べてきた。しかしまた多少の醜悪も存することを認めなければならない。その最もはなはだしい醜悪の一つは、戦勝ののち直ちに死者のこうむる略奪である。戦いに次いで来る曙は常に、裸体の屍《かばね》の上に明けゆくものである。
そういうことをなす者はだれであるか。かく戦勝を汚す者はだれであるか。勝利のポケットの中に差し入れらるるそのひそやかな醜い手はいかなるものであるか。光栄の背後にひそんで仕事をなすそれらの掏摸《すり》は何者であるか。ある哲学者らは、なかんずくヴォルテールは、それはまさしく光栄をもたらしたその人々であると断言する。彼らは言う、それはその人々にほかならない、代わりの者はいないのである、立っている者らが、倒れてる者らを略奪するのである。昼間の英雄は、夜には吸血鬼となる。要するに、おのれの殺した死骸が所持するものを多少略奪することは、まさしく正当の権利であると。しかしながら、われわれはそれを信じない。月桂樹《げっけいじゅ》の枝を折り取ることと死人の靴を盗むこととは、同一人の手には不可能事であるようにわれわれは思う。
ただ一つ確かなことは、普通勝利者の後に盗人が来るということである。しかしながら、兵士は、ことに近代の兵士は、この問題の外に置きたいものである。
あらゆる軍隊は一つの尾を持っている。その者どもこそ、まさしく責むべきである。蝙蝠《こうもり》のごとき者ども、半ば盗賊であり半ば従僕である者ども、戦争と呼ばるる薄明りが産み出す各種の蝙蝠、少しも戦うことをしない軍服の案山子《かがし》、作病者、恐るべき跛者、時としては女房どもとともに小さな車にのって歩きながら酒を密売しそれをまた盗み歩くもぐり商人、将校らに案内者たらんと申し出る乞食《こじき》、風来者の従卒、かっさらい、それらの者どもを、行進中の軍隊は昔――われわれは現代のことを言ってるのではない――うしろに引き連れていた。専門語ではそれをうまくも「遅留兵」と呼んだものである。その者どもについての責任は、どの軍隊にもどの国民にもなかったのである。彼らはイタリー語を話してドイツ軍に従い、フランス語を話してイギリス軍に従うたぐいの奴らである。フェルヴァック侯爵が、むちゃなピカルディー語のために欺かれてフランス人だと思い込み、チェリゾラの勝利の夜、同じ戦場にて暗殺され略奪されたのも、かかる惨《みじ》めな奴《やつ》らの一人、フランス語を話すスペイン人の一遅留兵のためにであった。略奪から賤夫《せんぷ》が生まれる。敵によって糧を得よという賤《いや》しむべき格言は、この種の癩病《らいびょう》やみを作り出した。それをなおすにはただ厳酷な規律あるのみである。だが往々、およそ名実伴わぬ高名の人がいるものである。某々の将軍は実際えらいには違いないが、何ゆえにかくも人望があったのか、その理由がわからぬこともしばしばある。テューレンヌは略奪を許したので兵卒どもに賞揚された。悪事の黙許は親切の一部である。テューレンヌはパラティナの地を兵火と流血とにまみらしめたほど親切であった。軍隊の後方における略奪者の多寡《たか》はその司令官の苛酷《かこく》に反比例することは、人の見たところである。オーシュおよびマルソー両将軍には少しも遅留兵がなかった。ウェリントンにはそれが少ししかなかった。この点について、われわれは喜んで彼に公平なる賛辞を呈するものである。
それでもなお六月十八日から十九日へかけての夜、死人は続々略奪をこうむった。ウェリントンは厳格であった。現行を見い出したならば直ちに銃殺すべしとの命令を下した。しかし劫奪《ごうだつ》は執拗《しつよう》であった。戦場の片すみに銃火のひらめいてる間に盗人らは他の片すみにおいて略奪した。
月の光はその平原の上にものすごく落ちていた。
真夜中ごろ、オーアンの凹路《おうろ》の方に当たって、一人の男が徘徊《はいかい》していた、というよりも、むしろはい回っていた。その様子から見ると、前にその特質を述べておいたあの遅留兵の一人で、イギリス人でもなく、フランス人でもなく、農夫でもなく、兵士でもなく、人間というよりもむしろ死屍食い鬼であって、死人の臭いに誘われてき、窃盗《せっとう》をも勝利と心得、ワーテルローを荒らしにやってきたものらしかった。外套に似た広上衣をまとい、不安げなまた不敵な様子で、前方に進んだり後を振り向いたりしていた。いったいその男は何者であったか? おそらく昼よりも夜の方が彼については多くを知っていたであろう。彼は嚢《ふくろ》は持っていなかったが、まさしく上衣の下には大きなポケットがあったに違いない。時々彼は立ち止まって、だれかに見られてはしないかを見きわめるかのようにあたりの平原を見回し、突然身をかがめ、地面にある黙々として動かない何かをかき回し、それからまた立ち上がっては姿を隠した。その忍び行くさま、その態度、そのすばしこい不思議な手つきなどは、ノルマンディーの古い伝説にアルーと呼ばれてる廃墟《はいきょ》に住む薄暮の悪鬼を思わせるのだった。
ある種の夜の水鳥は、沼地の中でそのような姿をしていることがある。
もしその夜の靄《もや》をじっと透かし見たならば、ニヴェルの大道の上にモン・サン・ジャンからブレーヌ・ラルーへ行く道の角の所に立ってる一軒の破屋《あばらや》のうしろに隠れたようにして、瀝青《チャン》を塗った柳編みの屋根のついてる一種の従軍行商人の小さな車のようなものが止まっていて、轡《くつわ》をつけたまま蕁麻《いらくさ》を食ってる飢えたやせ馬がそれにつけられていて、その車の中には、そこに積んである箱や包みの上にすわっている女らしい人影があるのが、はるかに認め得られたであろう。おそらくその車と平野を徘徊《はいかい》してるあの男との間には、何かの関係があったかも知れない。
夜は澄み渡っていた。中天には一片の雲もない。地上は血潮で赤く染んでいようとも、関せず焉《えん》として月は白く澄んでいる。空の無関心がそこにある。平野のうちには、霰弾《さんだん》のために折られた樹木の枝がただ皮だけでぶら下がっていて、夜風に静かにゆらめいていた。微風が、ほとんど一つの息吹《いぶ》きが[#「息吹《いぶ》きが」は底本では「息吹《いぶき》きが」]、灌木《かんぼく》の茂みをそよがしていた。鬼の飛び去るのに似よった震えが、草むらの中にはあった。
イギリスの陣営の巡察や巡邏《じゅんら》の兵士らのゆききする足音が、ぼんやり遠くに聞こえていた。
ウーゴモンとラ・エー・サントとはなお燃えていた。一つは西に一つは東に二つの大きな火炎を上げ、地平線の丘陵の上に広く半円に広がってるイギリス軍の野営の火が、その間を糸のように連結していて、両端に紅宝玉をつけた紅玉《ルビー》の首環《くびわ》が広げられてるかのようだった。
われわれは既にオーアンの道の災害を述べておいた。幾多の勇士にとってその死はいかなるものであったろうか。それを思えば心もおびえざるを得ない。
もし何が恐るべきかと言えば、もし夢にもまさる現実があるとすれば、それはおそらくこういうことであろう。生き、太陽を見、雄々しい力は身にあふれ、健康と喜悦とを有し、勇ましく笑い、前途のまばゆきばかりの光栄に向かって突進し、胸には呼吸する肺を感じ、鼓動する心臓を感じ、推理し語り考え希《ねが》い愛する意志を感じ、母を持ち、妻を持ち、子供を持ち、光明を有し、そして突然に、声を立てる間もなく、またたくひまに、深淵のうちにおちいり、倒れ、ころがり、押しつぶし、押しつぶされ、麦の穂や花や木の葉や枝をながめ、しかも何物にもつかまることができず、今はサーベルも無益だと感じ、下には人間がおり、上には馬がおり、いたずらに身を脱せんとあがき、暗黒のうちに骨は打ち折られ、眼球の飛び出るほど踵《かかと》でけられ、狂うがごとく馬の蹄《ひづめ》にかじりつき、息はつまり、うなり、身をねじり、そこの下積みになっていて、そして自ら言う、「先刻まで私は生きていたのだ!」
その痛ましい災害の最期の苦悶が聞こえていたその場所も、今はすべてひっそりと静まり返っていた。凹路《おうろ》の断崖は、ぎっしり積み重ねられた馬と騎兵とでいっぱいになっていた。恐ろしいもつれであった。もはやそこには斜面もなかった。死骸はその凹路を平地と水平にし、枡《ます》にきれいにはかられた麦のようにその縁と平らになっていた。上部は死骸《しがい》の堆積《たいせき》、下の方は血潮の川。それが一八一五年六月十八日の夜におけるその道路のありさまであった。血はニヴェルの大道の上まで流れてきて、その大道をふさいでいる鹿柴《ろくさい》の前に大きな池をなしてあふれていた。その場所は今でもなお指摘することができる。しかし胸甲騎兵らを覆没したのは、読者の記憶するところであろうが、反対の方のジュナップの大道の方面においてであった。死骸《しがい》の積み重なった厚さは、凹路《おうろ》の深さに比例していた。凹路が浅くなっていて、ドロールの師団が通った中央の方面では、死骸の層も薄くなっていた。
前にちょっと描いておいたあの夜の徘徊者《はいかいしゃ》は、その方面へ行っていた。彼はその広大なる墳墓を方々さがし回った。じっとながめ回した。嫌悪《けんお》すべき死人検閲をでもするかのようにして通っていった。彼は足を血に浸して歩いていた。
突然、彼は立ち止まった。
彼の前数歩の所に、凹路の中に、死骸の堆積《たいせき》がつきている所に、それらの人と馬との折り重なった下から指を広げた一本の手が出ていて、月の光に照らされていた。
その手には何か光るものが指についていた。金の指輪であった。
男は身をかがめ、ちょっとそこにうずくまった。そして彼が再び身を起こした時は、差し出てる手にはもう指輪がなくなっていた。
男はきっぱり立ち上がったのではなかった。物におびえたようなすごい態度をして、死人の堆積の方に背を向け、ひざまずいたまま地平線をすかし見ながら、地についた両の食指に上体をもたして、頭だけを凹路の縁から出してうかがっていた。狼の四本足も、ある種の行ないには便宜なものである。
それから、彼は心を決して立ち上がった。
その時、彼はぎくりとした。うしろからだれかにつかまれてるようだった。
彼はふり向いて見た。それは先刻の開いていた手であって、指を閉じながら、彼の上衣の裾《すそ》をつかんでいた。
普通の人ならばこわがるところだった。がその男は笑い出した。
「なんだ、」と彼は言った、「死人じゃないか。憲兵よりはまだお化けの方がいいや。」
するうちにその手は力つきて彼を放した。人の努力も墓の中ではすぐに尽きるものである。
「ははあ、」と男は言った、「この死人め、まだ生きてるのかな。一つ見てやろう。」
彼は再び身をかがめ、死人の堆積《たいせき》をかき回し、邪魔になるものを押しのけ、その手をつかみ、その腕をとり、頭を引き上げ、身体を引き出し、そしてしばらくするうちに、もう生命のない、あるいは少なくとも気を失ってる一人の男を、凹路《おうろ》の影の方へ引きずって行った。それは一人の胸甲騎兵であって、将校であり、しかも相当の階級のものらしかった。大きな金の肩章が胸甲の下からのぞいていた。もう兜《かぶと》は失っていた。ひどいサーベルの傷が顔についていて、顔一面血だらけだった。しかし顔のほか、手足は無事らしかった、そして、もしここに仕合わせという語が使えるならば、仕合わせにも、多くの死骸が彼の上に丸屋根をこしらえたようなふうになっていて、押しつぶされることを免れていた。目はもう閉じていた。
彼はその胸甲の上に、レジオン・ドンヌールの銀の十字章をつけていた。
男はその勲章をもぎ取り、上衣の下の洞穴の底へ押し込んでしまった。
その後で、彼は将校の内ぶところを探ってみて、そこに時計を探りあてて、それを取り上げた。それからチョッキを探って、そこに金入れを見いだして、それを自分のポケットにねじ込んだ。
その死にかかった将校に男がそこまで手をかしてやった時、将校は目を開いた。
「ありがとう。」と彼は弱々しく言った。
男の取り扱い方の荒々しさと、夜の冷気と、自由に吸い込まれた空気とは、彼を瀕死《ひんし》の境から引き戻したのだった。
男は返事をしなかった。頭を上げた。人の足音が平原の中に聞こえていた、たぶん巡察の兵士が近づいて来るのであったろう。
将校は低くつぶやいた、その声のうちには死の苦しみがこもっていた。
「どちらが勝ったか?」
「イギリスの方です。」と男は答えた。
将校は言った。
「僕のポケットの中をさがしてみてくれ。金入れと時計があるはずだ。それをあげよう。」
もうそれは取られていたのである。
男は言われた通りのことをするまねをした、そして言った。
「何もありません。」
「だれか盗んだな。」と将校は言った。「残念だ。君にあげるんだったが。」
巡察兵の足音はしだいにはっきりしてきた。
「人がきます。」と男は立ち去ろうとするような身振りをして言った。
将校はようよう腕を持ち上げて男を引き止めた。
「君は僕の生命を救ってくれたのだ。何という名前だ?」
男は急いで低声に答えた。
「私はあなたと同じようにフランス軍についていた者です。もうお別れしなければなりません。もしつかまったら銃殺されるばかりです。私はあなたの生命を救ってあげた。あとは自分で何とかして下さい。」
「君の階級は何だ。」
「軍曹です。」
「名前は何というんだ。」
「テナルディエです。」
「僕はその名前を忘れまい。」と将校は言った。「そして君も僕の名前を覚えていてくれ。僕はポンメルシーというんだ。」
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第二編 軍艦オリオン
一 二四六〇一号より九四三〇号となる
ジャン・ヴァルジャンは再び捕えられていた。
その痛ましい詳細は、ここに長たらしく述べられない方を読者はかえって好むだろう。われわれはただ当時の新聞紙に掲げられた次の二つの小記事を写すに止めておこう。それはあの驚くべき事変がモントルイュ・スュール・メールに起こってから数カ月後のものである。
この二つの記事は、やや概括的なものである。人の記憶するとおり、その頃にはまだガゼット・デ・トリブュノー(法廷日報)はなかったのである。
第一の記事はドラポー・ブラン紙ので、一八二三年七月二十五日のものである。
――パ・ド・カレー郡において最近かなり異常な一事件が起こった。マドレーヌ氏と呼ばるる他県の一人の男が、その地方の古来の工業である黒擬玉《くろまがいだま》および黒ガラス玉の製造を、新しい製法によって数年来再興していた。彼はそれによって、自分の財産を作り、かつその地方を富ました。その功績のために彼は市長に選ばれていた。しかるに警察では、該マドレーヌ氏は実はジャン・ヴァルジャンという男であり、一七九六年|窃盗《せっとう》のために処刑された前科者で、かつ監視違反の者であることを発見した。かくて、ジャン・ヴァルジャンは再び徒刑場に投ぜられた。逮捕さるる前に彼は、ラフィット銀行に預けていた約五十万以上の金をうまく引き出したらしい形跡がある。もとよりその金は、彼が自分の商売によってきわめて正当に得たものとのことである。ジャン・ヴァルジャンがツーロンの徒刑場に投ぜられていらい、その金がどこに隠されているか発見せらるることはできなかった。
第二の記事はジュールナル・ド・パリー紙のであるが、前のよりやや詳しく、日付は同じである。
――ジャン・ヴァルジャンという一人の放免徒刑囚が、最近ヴァール県の重罪裁判所に出廷した。その前後の事情は人の注意をひくに足るものであった。その悪漢は巧みに警察の目をのがれ、名前を変え、北部のある小都市で市長となるまでに成功した。彼はその都市にかなり顕著な一商業を興したのであった。しかし検察官の不撓《ふとう》なる熱心のために、彼はついに仮面をはがれて逮捕された。一人の醜業婦の妾《めかけ》があったが、彼が逮捕さるるとき驚きのあまり死んだ。悪漢は異常な膂力《りょりょく》を有していて脱走することを得たが、脱走後三、四日にして、警察は再びパリーにおいて彼を捕えた。ちょうど首府からモンフェルメイュ村(セーヌ・エ・オアーズ県)へ通う小馬車に乗った時においてであった。しかし彼はその三、四日の自由な間に、ある著名な銀行に預けていた莫大な金額を手にすることを得た由である。その金額は約六、七十万フランだという。告訴状によれば、彼はその金をだれにも知られぬひそかな場所に隠匿したらしい、そして何ぴともそれを見いだすことはできなかったそうである。それはともかくとして、そのジャン・ヴァルジャンなる者は最近ヴァール県の重罪裁判に回された。約八年前、大道にて子供をおびやかし、その所持品を盗んだという罪名によってである。子供というのは、諸方を渡り歩くあの正直なる少年らの一人であって、フェルネーの総主教が不朽なる詩に歌ったごとく彼らは、
「サヴォアより年ごとに来る。
軽やかにその手は拭《ぬぐ》う
煤《すす》に満ちたる長き管を。」
その盗賊は自ら少しも弁護をしなかった。そして検事の巧妙流麗な弁論によって、その強盗には共犯者があったこと、およびジャン・ヴァルジャンは南部の盗賊団の一人であったことが、立証せられた。その結果、ジャン・ヴァルジャンは有罪を宣せられ、死刑の判決を受けた。犯人は上告することを拒んだ。しかし国王は無限の寛容をもって、その刑を減じて無期徒刑に変えられた。それでジャン・ヴァルジャンは、直ちにツーロンの徒刑場に送られた。
ジャン・ヴァルジャンがモントルイュ・スュール・メールにおいて宗教上の勤めを欠かさなかったことは、人々の記憶にあった。で、ある新聞は、なかんずくコンスティチュシオンネル紙のごときは、その換刑をもって僧侶派の勝利だとした。
ジャン・ヴァルジャンは徒刑場においてその番号が変わった。彼は九四三〇号と呼ばれた。
それからなお、再び立ち戻らないようにと、ここに次のことを付言しておきたい。すなわち、モントルイュ・スュール・メールの繁栄はマドレーヌ氏とともに消滅してしまった。惑乱と逡巡《しゅんじゅん》とのあの夜に彼が予見したことは、すべて事実となって現われた。彼がいなくなったことは、果して魂のなくなった[#「魂のなくなった」に傍点]に等しかった。彼の失墜後モントルイュ・スュール・メールには、大人物の転覆後に起こる利己的な分配が行なわれた。それは実に、人類の共同村において毎日ひそかに行なわれつつある栄華の必然の分割である。しかし史上にただ一回記載されたのは、単にあの有名なるアレキサンドル大王の歿後に起こったからである。将軍らが国王の冠を戴《いただ》き、小頭らが自ら工場主となる。羨望的な競争が現われて来る。いまやマドレーヌ氏の大きな工場は閉ざされ、その建物は荒廃に帰し、職工らは分散してしまった。ある者はその地を去り、ある者はその職業を去った。それ以来、すべては大となるよりもむしろ小となり、善を事とするよりもむしろ利得を事とするようになった。もはや中心となるものがなく、到る所に競争があり、いら立ちがあった。マドレーヌ氏はすべてを支配し導いていたが、一度彼が失墜するや、各人は私利にのみ汲々《きゅうきゅう》として、組織的精神は競争心と変じ、懇篤《こんとく》のふうは苛酷と変じ、すべての者に対する創立者の慈愛は各人相互の怨恨《えんこん》に変わった。マドレーヌ氏の結んだ糸目は乱れて切れてしまった。人々はその方法をごまかし、製品を粗悪にし、信用をなくした。販路はせばまり、注文は減少した。職工の賃金は低下し、工場は業をやめ、破産が到来した。もはや貧しい者らに対する助けもなくなってしまった。いっさいのものが消滅した。
国家の方でも、どこかに何ぴとかがいなくなったのを感じてきた。重罪裁判所がマドレーヌ氏とジャン・ヴァルジャンとは同一人であることを判定して徒刑場を肥してから、四年もたたないうちに、モントルイュ・スュール・メールの郡においては収税の費用が倍加した。そしてド・ヴィレール氏は、一八二七年二月にそのことを国会で述べている。
二 二行の悪魔の詩が読まるる場所
さて、話を進める前に、ちょうどその頃モンフェルメイュに起こった不思議な一事を少しく述べておきたい。それは検察官のある推測といくらか符合する点を有しているようでもある。
モンフェルメイュの地方には、ごく古くからのある迷信があった。パリー近くのその地方にかかる一般に信じられた迷信があることは、ちょうどシベリアに伽羅《きゃら》の名木があるように意外なことで、そのためにいっそう珍しがられ尊重されていた。人間はすべて珍しいものを尊重するものである。ところでモンフェルメイュの迷信というのは次のようなものであった。大昔から悪魔は宝を隠すために森を選んだということが人々に信じられている。夕暮れのころ、森の奥の方で、ある黒い男に出会うことがよくあるものだと、女たちは言っている。その男は、荷車引きか木こりのような顔つきをして、木靴をはき、麻の上衣とズボンとをつけているが、普通の帽子のかわりに頭の上に二本の大きな角があるので、それと見わけられるのだそうである。なるほどそういうものがあればよく見わけられるはずである。その男は普通はいつも穴を掘っている。そして彼に出会った場合には、三つの方法がある。第一は、彼に近寄って行って話しかけることである。すると実は一人の百姓にすぎないことがわかる。姿が黒く見えたのは夕暮れのせいであって、何も穴を掘っているのではなく牛の草を刈ってるのであり、角と思ったのも実は背中に負っている草|掻《か》きであって、その歯先が薄暮のために頭から出てるように見えたまでである。しかし彼に話しかけて家に帰ってくると、一週間たって死んでしまう。第二の方法は、その男を遠くからながめていて、彼が穴を掘りそれをまた埋めて立ち去ってゆくまで待っていて、それから穴の所へ早く走ってゆき、それを掘り返し、黒い男が隠したはずの「宝」を取って来ることである。しかしそうすると、一月たって死んでしまう。次に第三の方法は、その黒い男に話しかけもせず、見向きもせず、足にまかして逃げ出すことである。しかしそうすると、一年たって死んでしまう。
右の三つの方法とも皆それぞれ不幸をきたすのであるが、第二の方法は、たとい一カ月でも宝を所有することができるので、いくらか他のにまさるものだから、最も普通に取られる方法である。それでいかなる機会にも誘惑される大胆な男どもは、その黒い男の掘った穴をあばいて悪魔の宝を盗もうとしたことがしばしばあったそうである。しかしあまり大した仕事にもならないらしい。少なくとも、伝説の語るところによれば、またことに、トリフォンというまやかしのノルマンディーの悪僧が残している野蛮なラテン語の謎《なぞ》めいた詩の二句を信ずるなら、それはいっこうくだらない仕事らしい。そのトリフォンという牧師は、ルアンの近くのサン・ジョルジュ・ド・ボシェルヴィルの修道院に埋められたが、その墓からはただ蟇《かえる》が生じたのみだった。
が、とにかく人々は非常な努力をする。そういう穴は通例きわめて深い。汗を流し、かき回し、夜通し骨を折る。夜のうちにしてしまわなければならないのである。シャツは汗にぬれ、蝋燭《ろうそく》は燃え尽き、鶴嘴《つるはし》を痛め、そしてついに穴の底まで掘り進み、その「宝」に手をつけてみると、さて何が見つかろう、悪魔の宝などというものが何であろう。一枚の銅貨、時には銀貨、それから石くれ、骸骨《がいこつ》、血まみれの死体、あるいは紙入れの中の紙片のように四つにたたまれた幽霊、あるいは何にもないこともある。不遠慮な物好きな者らにトリフォンの詩が語ってきかせるようなものにすぎない。
彼は掘り薄暗き穴に隠すなり、
銅貨銀貨石片死骸|妖怪《ようかい》、あるいは無を。
今日ではなおそのほかに、あるいは弾丸と火薬箱や、あるいは手|垢《あか》のついた赤茶けた古いカルタなど、確かに悪魔どもの使ったらしい品物がそこに見いだされるだろう。トリフォンはこの終わりの二品をあげていない、彼は十二世紀の人なのである。そして悪魔も、ロージャー・ベーコンより前に火薬を発明し、シャール六世より前にカルタを発明するだけの知力を、持っていなかったものと見える。
その上、もしそれらのカルタを弄《もてあそ》ぼうものなら、すっかりうち負けて取られてしまう覚悟がいる。そしてまた箱の中の火薬には、鉄砲をその所有者の顔に向かって発射させる特性がある。
ところで、放免囚徒ジャン・ヴァルジャンが数日間の逃走の間にモンフェルメイュ付近をうろついたらしく検察官はにらんだのであるが、その時期の後間もなく、ブーラトリュエルというある年取った道路工夫が森の中で「おかしなふうをしている」のが、モンフェルメイュの村の人たちの目についた。ブーラトリュエルはかつて徒刑場にはいっていた者であるとその地方では信じられていた。彼は警察の監視の下に置かれていた、そしてどこにも仕事が見つからなかったので、政府の方でガンニーからランニーまでの横道の道路工夫として安い給料で使っていた。
ブーラトリュエルはその地方の人々から蔑視《べっし》されていた。彼はばか丁寧で、あまり身を卑下していて、だれにでもすぐに帽子を取っておじぎをし、憲兵らの前では震えながら愛想笑いをし、たぶん盗賊団の仲間にはいっているのだろうと人から言われており、夕方などは森陰にひそんで人を待伏せしていると疑われていた。ただ人間らしい取りえとしては、酒飲みであるということくらいであった。
人々の目についたのは次のようなことであった。
近頃いつもブーラトリュエルは、道路に砂利を敷いて手入れをする仕事をごく早めに切り上げ、鶴嘴《つるはし》を持って森の中にはいってゆくのだった。夕方など、最も人けの少ない伐木地や最も寂寞《せきばく》たる茂みの中などで、時々穴を掘ったりして何かさがし回ってるような彼に、出会うことがよくあった。そこを通りかかった女たちは、初めそれをベルゼブル([#ここから割り注]訳者注 新約聖書にある悪鬼の頭[#ここで割り注終わり])だとさえ思ったが、よく見るとブーラトリュエルであった。それでも彼女らは心が安まらなかった。しかるにブーラトリュエルはそういうふうに人に出会うことを非常にいやがってるらしかった。明らかに彼は人に見られるのを避けようとしていた、そして彼の仕業のうちに何か秘密があるのは明らかだった。
村ではいろいろなことが言われた。「きっと悪魔が現われたに違いない。ブーラトリュエルはそれを見てさがしているのだ。なるほどあの男なら魔王の金をまき上げるくらいのことはやりかねない。」ヴォルテール流の者らはつけ加えた。「ブーラトリュエルが悪魔を捕えるか、悪魔がブーラトリュエルを捕えるかだ。」年老いた女たちは幾度も十字を切った。
そのうちにブーラトリュエルは森の中の仕事をやめてしまった。彼は道路工夫の仕事をまた几帳面《きちょうめん》にやり出した。人々の噂《うわさ》も他のことに向いていった。
けれども中にはまだ好奇心をいだいていて、おそらくそれには、伝説の荒唐無稽《こうとうむけい》な宝物ではなく、悪魔の手形よりはもっとまじめな、もっと実際的な獲物があって、道路工夫はきっとその秘密を半ば嗅《か》ぎ出したのだろう、と思ってる者もあった。そして最も「気をやんでいた」者は、小学校の先生と飲食店の主人テナルディエとであった。テナルディエはだれとでも交わるのをきらわないで、ブーラトリュエルとも知り合いだった。
「あの男は徒刑場にいたことがあるはずだ。」とテナルディエは言った。「だからいったいどんな奴《やつ》がやってきたのか、どんな奴がやって来るか、わかったもんじゃない。」
ある晩小学校の先生が言うには、昔だったらブーラトリュエルが森の中で何をするつもりであったか官憲の方で調査したはずである、そしてあいつも何とかしゃべらなければならなかっただろう、必要によっては拷問にかけられることもあったろう、で結局ブーラトリュエルはたとえば水責めの拷問にはたえきれなくて白状したかも知れない。するとテナルディエは言った、「ひとつ酒責めにしてみましょうや。」
彼らは手段を講じて、その老道路工夫に酒を飲ました。しかしブーラトリュエルは酒をたくさん飲んで、口はあまりきかなかった。彼は大酒家の喉《のど》と裁判官の用心さとを、いかにも巧みにまたみごとな割合にあわせ用いた。けれどもしつこく問いただして、彼の口からもれた曖昧《あいまい》な二、三の言葉をいっしょに繋《つな》ぎ合わしてみて、結局テナルディエと先生とは次のことを探り得たと思った。
ブーラトリュエルはある朝、夜の明け方に、仕事に出かけて行くと、森の片すみの藪《やぶ》の下にくわと鶴嘴《つるはし》とを見い出して驚いたらしい。それはちょうど隠されたようにして[#「隠されたようにして」に傍点]置いてあった。けれども彼は、それをたぶん水くみ爺さんのシー・フールのくわと鶴嘴とであろうと思って、別に気にも留めなかったらしい。けれどもその日の夕方、彼はある大木の後ろに身を隠して先方の目をのがれながら、「全くその辺の者ではないが彼ブーラトリュエルがよく知ってる一人の男」が、道路から森の最も深い方へはいってゆくのを見たらしい。テナルディエはそれを翻訳して「徒刑場の仲間の一人[#「徒刑場の仲間の一人」に傍点]」だとした。ブーラトリュエルは頑固《がんこ》にその名前を言うことを拒んだのである。その男は、大きな箱かあるいは小さな鞄《かばん》みたような何か四角な包みを持っていた。ブーラトリュエルは驚いた。それでも「その男」の跡をつけてみようという考えを起こしはしたが、それも七、八分過ぎてからであったらしい。彼は機を失していた。男は既に木立ちの茂みへはいってしまい、あたりは夜になっていて、ブーラトリュエルは男を見つけることができなかった。そこで彼は森の入り口を番してみようと決心した。「月が出ていた。」二、三時間後に、ブーラトリュエルはその男が森から出て来るのを見た。しかしもう小さな鞄は持っていず、鶴嘴とくわを持っていた。ブーラトリュエルは男をやり過ごした。近づいてみようという考えは起こさなかった。なぜなら、彼はその男が自分よりも三倍も力がある上に鶴嘴を持っていることを考えたからである。もしその男が自分を見て取り、また自分から見て取られたことを知ったなら、きっと自分を打ち殺すかも知れないと思ったからである。二人の古い仲間がふいに出会った場合の感情としては恐ろしいことである。しかしそのくわと鶴嘴とは、ブーラトリュエルにとっては一道の光明であった。彼はその朝見た藪《やぶ》の所へ駆けて行った。するとそこにはもうくわも鶴嘴もなかった。それから見ると、男は森の中にはいり込み、鶴嘴で穴を掘り、箱を隠し、くわで穴を再び埋めたものと、彼は断定した。しかるにその箱は、人間の死体を入れるにはあまり小さかったので、金がはいっていたものであろう。それで彼は捜索をはじめた。彼は森の中を方々さがし回り尋ね歩いた。新しく土地が掘り返されたように見える所はどこでも掘ってみた。しかしすべてむだに終わった。
彼は何も「掘りあて」なかったのである。モンフェルメイュではもうだれもそのことを念頭に置かなかった。ただ二、三人の人のいいおしゃべりな女たちは言った。「ガンニーの道路工夫の爺さんがただでそんな大騒ぎをするものですか。きっと悪魔がきたのですよ。」
三 鉄槌の一撃に壊《こわ》るる足鎖の細工
同じ一八二三年の十月の末に、ツーロンの住民は、軍艦オリオン号が大暴風雨に会った後、損所を修理するために入港してくるのを見た。このオリオン号というのは、後にはブレストで練習艦として用いられたが、当時は地中海艦隊のうちに編入されていたものである。
その艦は、荒れた海のためにひどく損《いた》んでいたが、港にはいって来るとすこぶる偉観であった。どういう旗を掲げていたかは今記憶にないが、その旗のために港からは規定の十一発の礼砲が放たれ、その一発ごとに艦からも答礼砲が返されたため、つごう二十二発の大砲が発せられた。およそ大砲の連発のうちには種々な意味がこめられていたのである。王国および軍国の礼儀、騒然たる儀礼の交換、礼式の信号、海上と砲台との儀式、毎日すべての要塞《ようさい》および軍艦から迎えらるる日の出と日没、港の開始と閉塞、その他種々のものが。文明社会は、各地において毎二十四時間ごとに、無益な大砲を十五万発も発射している。一発を六フランとすれば、一日に九十万フランが、一年に三億フランが、煙となるわけである。そしてそれもただ一部の項目だけでそうである。その間に一方では、貧しい人々は飢えている。
一八二三年は、復古政府が「スペイン戦争時代」と呼んだ年である。
その戦争一つのうちには、多くの事変が含まっており、多くの特殊な事がらが混入していた。ブールボン家にとって重大な家系問題。フランス王家がマドリッドの王家を援助し保護して、いわゆる本家の勤めを尽したこと。北方の諸政府に隷属《れいぞく》服従していっそう煩雑《はんざつ》をきたした、フランスの国民的伝統への表面上の復帰。アングーレーム公が、自由派の空想的な虐政と争っていた宗教裁判所の実際的な古来からの虐政を、いつもの穏和な様子にも似ず堂々たる態度をもって抑制して、自由派の諸新聞からアンデュジャールの英雄[#「アンデュジャールの英雄」に傍点]と呼ばれたこと。サン・キュロット(反短ズボン派――過激共和党)がデスカミザドス[#「デスカミザドス」に傍点](反シャツ派)の名の下に復活して、有爵未亡人らに恐慌をきたさしめたこと。王政が無政府制と綽名《あだな》された進歩に対して障害となったこと。一七八九年の革命の理論が底深く浸潤せんとする途中で、にわかに中断されたこと。フランスの革命思想を親しく見た全欧州の警戒の声が世界中に響き渡っていったこと。総司令官フランス王子と相並んで、後にシャール・アルベールと言われたカリンニャン大侯が、義勇兵として擲弾兵《てきだんへい》の赤い絨毛《じゅうもう》の肩章をつけて、民衆を圧伏せんとする諸国王らの企てに加入したこと。帝国時代の兵士らは再び戦場についたが、八年間の休息の後をうけて既に老衰して元気なく、また白い帽章をつけていたこと。三十年前コプレンツにおいて白旗が打ち振られたように([#ここから割り注]訳者注 革命時代王党の亡命者らが一軍を編成したことを言う[#ここで割り注終わり])三色旗が勇壮なる一群のフランス人によって外国において打ち振られたこと。フランスの軍隊に混入した僧侶ら。銃剣によって抑圧された自由と新時代との精神。砲弾の下に屈伏された主義。その精神によってなしたところのものをその武器によって破壊するフランス。これに加うるに、売られたる敵の将帥らと、逡巡《しゅんじゅん》する兵士らと、数百万の金によって包囲された都市。あたかも不意を襲われて占領された火坑におけるがごとく、軍事上の危険の皆無としかも爆発の可能。流血も少なく、得られたる名誉も少なく、ある者には恥辱があり、何者にも光栄がなかったこと。かくのごときが実に、ルイ十四世の後裔《こうえい》たる諸大侯によってなされ、ナポレオンの下より輩出した諸将軍によって導かれたこの戦争の実状であった。この戦争はもはや、あの大戦役をもまたあの大政策をも思い起こさしめない悲しき運命を荷《にな》っていた。
軍事上の二、三の事蹟は真摯《しんし》なものであり、なかんずくトロカデロの占領はみごとな武勲であった。しかし畢竟《ひっきょう》するに、吾人《ごじん》はくり返して言うが、本戦争のラッパは亀裂のはいった音をしか出さなかった。その全体は曖昧模糊《あいまいもこ》としていた。その似而非《えせ》戦勝の名前を受くるに、フランスが困惑を感じたことは、史眼に照らして正当である。防御の任を帯びたスペインのある将軍らは、明らかにあまりにたやすく屈伏したらしい。その戦勝は見る人の心に買収の想像を起こさせる。勝利を得たというよりもむしろ将軍らを買い得たかの観がある。そして戦いに勝った兵士らは屈辱を負って国へ帰った。軍旗のひだのうちにフランス銀行[#「フランス銀行」に傍点]の文字を読み得る所には、戦争の光輝は薄らぐ。
サラゴサの城壁が頭上に恐ろしく倒れかかる下にあってなお泰然たるを得た一八〇八年の兵士らは、一八二三年には、諸|要塞《ようさい》のたやすい開城に対して眉をしかめ、パラフォス将軍([#ここから割り注]訳者注 一八〇八年にサラゴサを護ったスペインの勇将[#ここで割り注終わり])を惜しみはじめた。おのれの前にバレステロスを有するよりも、むしろロストプシンを有するを好むのがフランス人の気質である([#ここから割り注]訳者注 前者は当時の敵の将軍、後者はナポレオンのロシア侵入の時モスコーを焼き払ったロシアの将軍[#ここで割り注終わり])。
なおいっそう重大にしてここに力説するが適当である他の一見地より見るならば、この戦争は実に、フランスにおいて軍国的精神を傷つけながら、他方には民主的精神を激怒せしめたのである。それは一つの隷属を贏《か》[#「贏」は底本では「※[#「贏」の「貝」に代えて「果」、(二)-27-3]」]ち得んとする企図であった。この戦役においては、民主制の子孫たるフランス兵士の目的は、他人に課すべき軛《くびき》の獲得であった。忌むべき矛盾である。フランスは諸民衆を窒息せしめんがためにではなく、反対にそれを覚醒《かくせい》せしめんがために作られてるのである。一七九二年以後欧州のあらゆる革命は実はフランス革命の一分子である。自由の精神はフランスより放射している。それは太陽のごとく煌々《こうこう》たる事実である。そを見ざる者は盲者なり! とはボナパルト自身の言葉である。
一八二三年の戦争は、健気《けなげ》なるスペイン国民への加害であり、従って同時にフランス革命への加害であった。その恐るべき暴行を犯したところのものはフランスであった、しかもそれは暴力をもってであった。なぜなれば、独立戦争を外にしては、すべて軍隊がなすところのものは暴力をもってなされるものであるから。絶対服従という言葉はそれをさし示すものである。軍隊というものは、結合の不思議な傑作であって、多くの無力の合計より力が生じてくる。人道によってなされ、人道に対抗してなされ、人道をふみつけにしてなされる戦争なるものは、かくして初めて説明し得らるる。
ブールボン家の人々について言うならば、一八二三年の戦役は彼らにとっては致命的なものであった。彼らはこの戦いをもって成功であるとした。そして圧迫をもって一つの思想を屏息《へいそく》せしむることにいかなる危険があるかを少しも見なかった。浅慮なる彼らは謬見《びゅうけん》をいだいて、罪に対する非常なる鈍感をあたかも力の一要素ででもあるかのようにおのが館《やかた》のうちに導き入れた。待伏陰謀の精神は彼らの政策のうちにはいってきた。一八三〇年([#ここから割り注]訳者注 七月革命の年[#ここで割り注終わり])は一八二三年に芽を出した。スペイン戦争は彼らの評議会において、武力断行と神法に対する冒険とを弁護する論拠となった。フランスはスペインに専制君主[#「専制君主」に傍点]をうち立てながら、自国内に専制君主をよくうち立てるを得た。両者は兵士の服従を国民の同意と誤認するの恐るべき誤りに陥った。そのような安心は王位を失わせるに至るものである。毒樹の陰には眠るべからず、軍隊の影に隠れて眠るべからずである。
さてオリオン号に立ち戻ってみよう。
ちょうど総司令官大侯に指揮された軍隊が出動している間、一艦隊は地中海を游弋《ゆうよく》していた。そして前述のとおり、その艦隊に属していたオリオン号は荒海に損《いた》んでツーロン港に帰ってきたのである。
港のうちに現われる軍艦は、何かしら群集を引きつけ群集の心を奪うものである。なぜなら、それは一種の偉大さをもっているものであるから、そして群集は偉大なるものを好むものであるから。
戦闘艦は人間の脳力と自然の力との最も壮観なる争闘の一つである。
戦闘艦は最も重きものと最も軽きものとから同時に組み立てられている。なぜならばそれは、物質の三形体たる固体液体および気体に同時に対抗し、その三つと戦わなければならないからである。海底の岩石をつかむためには十一本の鉄の爪を有し、雲間の風をとらえるためには胡蝶《こちょう》よりも多くの翼と触角とを有している。その息は巨大なるラッパからのように百二十の砲門からいで、誇らかに雷電に対しても答え返す。大洋はその波濤《はとう》の恐るべき一律さのうちに彼を迷わさんとするけれども、彼はその心を、羅針盤《らしんばん》を有していて、それに助言されて常に北を教わる。暗夜にはその照燈が星の光を補う。かくして彼は、風に対しては索繩《なわ》と帆布とを有し、水に対しては木材を、岩に対しては鉄と銅と鉛とを、やみに対しては光を、広漠に対しては磁針を有している。
全体として一つの戦闘艦を形造っているその巨大なる構造のおおよその概念を得んと欲するならば、ブレストかツーロンの港の七階の高さほどもある屋根のついたドックの一つにはいってみれば十分であろう。そこでは建造中の船が、いわばガラスびんの中にでもはいっているように見える。あの巨大なる梁《はり》は帆桁《ほげた》である、あの目の届く限り長く地上に横たわっている大きな木の円柱は大檣《ほばしら》である。船艙《せんそう》の中の根本から雲間の梢《こずえ》までそれを測ってみると、長さ六十|尋《ひろ》を算し、根本の直径三尺に余る。イギリス船の大檣は、喫水線《きっすいせん》上二百十七尺の高さに及ぶものがある。昔の船は麻綱を使っていたが、今では鉄鎖を用いている。百門の砲を載せる船の鎖を積み重ねただけでも、高さ四尺長さ二十尺幅八尺の山ができる。そしてその船一隻を造るために何程の木材が必要であるかといえば、三千立方メートルにもおよぶのである。森が一つ海に浮かんでいるのにも等しい。
そしてしかも、読者はよく注意せらるるがいい、ここにいうのは四十年前の軍艦、一帆船のことについてである。当時まだ生まれ出たばかりであった蒸汽力はその後、軍艦と称せらるるこの怪物に新しい奇蹟をつけ加えたのである。現今においては、たとえば、スクリューのついた折衷式軍艦は、表面三千メートル平方の帆と二千五百馬力の釜《かま》とによって動かされる、驚くべき機械である([#ここから割り注]訳者注 原書の出版は一八六二年なることを読者は記憶せられたい[#ここで割り注終わり])。
それらの驚くべき新発見については言うも愚かなことであるが、クリストフ・コロンブスやルイテルの昔の船も、人間の偉大なる傑作の一つである。あたかも無限がその息吹《いぶ》きに無尽蔵であるがごとくにそれも力において無尽蔵であり、その帆には風を蔵し、広漠として窮まりなき波濤《はとう》のうちにも正確なる方向を失わず、浮かびつつかつ主宰するのである。
しかれども一度時きたらば、一陣の颶風《ぐふう》はその長さ六十尺の帆桁をもわら屑《くず》のごとくに砕き、烈風はその高さ四百尺のマストをも藺《い》のごとくに折り曲げ、その万斤の重さの錨《いかり》も鮫《さめ》の顎中の漁夫の釣り針のごとくに怒濤の口のうちにねじ曲げられ、その巨大な大砲の発する咆哮《ほうこう》も颶風のため哀れにいたずらに空虚と暗夜とのうちに運び去られ、その全威力と全威風も更に大なる威力と威風とのうちにのみ去られ終わるのである。
広大なる威力が展開されるたびごとに、ついにはそれも非常なる微弱さに終わりゆくべき運命であるにかかわらず、人間はいつも夢想にふけらせられる。かくして海港においては、それらの戦いと航海との驚くべき機械のまわりに、自らなぜかをもよく知らないで多くの好奇《ものずき》な人々が集まって来るのである。
で毎日朝から夕方まで、ツーロン港の海岸や埠頭《ふとう》や堤防などの上には、ひまな人々やパリーでいわゆるやじ馬など、オリオン号を見るよりほかに用のない多くの人がいっぱいになっていた。
オリオン号は既に長い前から損《いた》んでいた。方々への航海中に、貝殻の厚い層が喫水部《きっすいぶ》に付着して、速力の半ばを減じていた。で前年はドックにはいってその貝殻を除かれ、そしてまた海に出て行ったのである。しかしその掃除のために喫水部の釘が損じていた。バレアール島の沖では、船腹がゆるんで穴が開いた、そして当時船体の内部は鉄板でおおわれていなかったので、水が漏り初めた。そこへ激しい彼岸嵐に襲われて、左舷《さげん》の船嘴《せんし》と一舷窓とがこわれ、前檣《ぜんしょう》の索棒が損《いた》んだ。そしてそれらの損所のためにまたツーロン港にはいってきたのである。
オリオン号は造船|工廠《こうしょう》の近くに停泊していた。そしてなお艤装《ぎそう》したまま修繕されていた。船体は右舷では少しも損んでいなかった。しかしいつもやられるとおりに、張り板はそこここはがされていて、船内に空気を通す用に供されていた。
さてある日の朝、オリオン号をながめていた群集は一事変を目撃した。
船員らはちょうど帆を張っていた。すると、右舷の大三角帆の上端をとらえる役目の水夫が身体の平均を失った。彼はよろめいた。それを見て、造船工廠の海岸に集まっていた群集は叫び声を上げた。頭をまっさきにして水夫は帆桁をぐるりと回りながら、逆様に深海に向かって両手をひろげた。その途中で彼は下がっている綱を片手でつかみ、次に両手でつかんで、そこにうまくぶら下がった。海は彼の下に目を回すような深さにたたえていた。彼の墜落の勢いのために、綱はぶらんこのように激しく動揺した。水夫はその綱の一端に揺り動かされて、ちょうど石投げひもの先につけた石のようであった。
彼を助けにゆくには恐るべき危険を冒さなければならなかった。水夫らは皆新たに徴発されて働いてる沿岸の漁夫であって、あえてその危険を冒そうとする者は一人もなかった。そのうちに不運な水夫は弱ってきた。遠いので顔にその苦悩は認められなかったが、しだいに力弱ってゆくことは手足にそれと認められた。両腕は見るも恐ろしいほど引っ張られていた。再びよじ上ろうとする努力は、ぶら下がった綱の動揺をいたずらに増すばかりだった。彼は力を失うのを恐れて声も立てなかった。もはや彼が綱を離す瞬間を待つばかりだった。そして人々は彼が落ちてゆくのを見まいとして各瞬間ごとに顔をそむけた。綱の一端、一片の棒、一本の木の枝、それが生命それ自身であるような場合があるものである。そして、生あるものが熟した果実のようにそれから離れて落ちるのを見るのは、実に恐ろしいことである。
その時突然山|猫《ねこ》のような捷《はや》さで一人の男が船具をよじ上ってゆくのが見られた。その男は赤い着物を着ていた。徒刑囚である。緑の帽子をかぶっていた。無期徒刑囚である。檣櫓《しょうろ》の上に達すると、一陣の風がその帽子を吹き飛ばして、白髪の頭が見られた。青年ではない。
実際船の中で徒刑労役として働いていた一人の囚人が、その事変が起こるとすぐに当直士官の所へ駆けてゆき、船員らが躊躇《ちゅうちょ》し惑っている中に、すべての水夫らが震えしり込みしているうちに、彼はただ一人、生命を賭《と》して水夫を救いに行くことを許してくれるように士官に願った。士官の許しの首肯を見て、彼は足の鉄輪についていた鎖を鉄|槌《つち》の一撃でうちこわし、それから一筋の繩を持って、檣《ほばしら》の綱具のうちに上っていったのである。いかにたやすくその足鎖がこわれたかには、その瞬間だれも気がつかなかった。人々がそのことを思い浮かべたのはずっと後のことだった。
またたくまに彼は帆桁の上に達した。彼は数秒の間立ち止まって、帆桁を目で見計らってるらしかった。そのうちにも風は綱の先端の水夫を吹き動かしていて、見物している人々にはその数秒が数世紀の長い時間ほどにも思われた。ついに囚人は目を空に上げ、そして一歩ふみ出した。群集は息をついた。見ると、彼は帆桁の上を走っていった。その先端に達するや、彼は持っていた綱の端をそこにゆわえ、他の端を下にたらし、それから両手でその綱を伝っており初めた。ここにおいて人々の心痛は名状すべからざるものとなった。いまや深淵《しんえん》の上にぶらさがっているのは一人ではなく、二人となったのである。
いわば蜘蛛《くも》が蠅《はえ》を捕えにきたようなものであった。ただその場合、蜘蛛は死をでなく生を持ちきたったのである。数万の視線はその二人の上に据えられた。一言の叫びをも言葉をも発する者はなく、皆一様に身を竦《すく》めながら眉根《まゆね》を寄せていた。人々の口は呼吸をも押し止め、あたかも二人の不幸なる男を揺すっている風に少しの息をも加えまいと気づかってるかのようだった。
そのうちに囚人は水夫の近くに身を下げることができた。危うい時間であった。いま一分も遅ければ、その水夫は疲れ切って絶望し、深淵のうちに身を落とすところだった。囚人は一方の手で繩に身をささえながら、他方の手で水夫をその繩でしかと繋《つな》ぎとめた。見ると、ついに彼は帆桁の上にまたよじ上り、水夫を引き上げてしまった。彼はそこでちょっと力を回復させるために水夫を抱きとめ、それから彼を小腋《こわき》に抱え、帆桁の上を横木の所まで歩いてゆき、そこから更に檣櫓《しょうろ》までいって、そこで彼を仲間の人々の手に渡した。
その時群集は喝采《かっさい》した。老看守のうちには涙を流す者もいた。女たちは海岸の上で相抱いた。一種の感きわまった興奮した声で「あの男を許してやれ!」と異口同音《いくどうおん》に叫ぶのが聞こえた。
そのうちにも彼の方は、また労役に従事するために、義務として直ちにそこからおり初めた。早く下に着くために、彼は綱具のうちをすべりおり、それから下の帆桁の上を走り出した。人々の目は彼のあとを追った。ところがある瞬間に、人々ははっと恐れた。疲れたのかまたは目が回ったのか、彼はちょっと躊躇《ちゅうちょ》しそしてよろめいたようだった。と突然、群集は高い叫び声をあげた。囚人は海中に落ちたのである。
その墜落は危険であった。軍艦アルゼジラス号がちょうどオリオン号と相並んで停泊していた、そしてあわれな徒刑囚はその間に落ちたのだった。彼は両艦のいずれかの船底にまき込まれる恐れがあった。四人の男が急いでボートに飛び乗った。群集は彼らに声援した。心痛は人々の心のうちにまた新たになった。男は水面に浮き上がらなかった。あたかも石油|樽《だる》の中に落ち込んだがように、一波も立てずに海中に消え失せてしまった。人々は水中を探り、また潜《もぐ》ってみた。しかし無益であった。夕方まで捜索は続けられた。けれども死体さえも見つからなかった。
翌日、ツーロンの新聞は次の数行を掲げた。
一八二三年十一月十七日――昨日、オリオン号の甲板で労役に従事していた一囚徒は、一人の水夫を救助して帰り来る時、海中に墜落して溺死《できし》した。死体は発見されなかった。察するところ、造船工廠の先端の杭《くい》の間にからまったものであろう。その男の在監番号は九四三〇号で、ジャン・ヴァルジャンという名前である。
第三編 死者への約束の履行
一 モンフェルメイュの飲料水問題
モンフェルメイュは、リヴリーとシェルとの間に位し、ウールクとマルヌ両河をへだてている高台の南端にある。今日ではかなり大きな町で、一年中|白堊《はくあ》の別荘で飾られ、日曜日には花やかな市人で飾られるが、一八二三年には、まだ今日ほど多くの白塗りの家もなく、また満足げな市人もいなかった。それはただ森の中の一村落にすぎなかった。ただそこここに二三の近世ふうな別墅《べっしょ》などがあって、その堂々たる構えや、よじれた鉄欄のついてる露台や、閉ざされたまっ白な板戸の上に色ガラスの種々な緑色が浮いて見える長い窓などで、それと見分けられていた。それでもやはりモンフェルメイュは一つの村落にすぎなかった。引退した呉服商や別荘暮らしの人たちなども、まだこの地を見い出していなかったのである。それは平和なうるわしい場所であって、いずれへの往還にも当たっていなかった。豊富な気やすい田舎生活《いなかせいかつ》を安価で送ることができていた。ただ土地が高いので水が不自由であった。
かなり遠くまで水を取りに行かなければならなかった。ガンニーの方に面した村の一端では、森の中にある多くの美しい池から水をくんでいた。教会堂をとり囲んでシェルの方に面した他の一端では、シェルへ行く道の側に村から約十五分もかかる山腹にある小さな泉まで行かなければ、いっさい飲料水は得られなかった。
それでどの家でも、水を得ることはかなり骨の折れる仕事であった。大きな家、上流階級、テナルディエの飲食店もそのうちにはいるのであるが、それらの家では一桶《ひとおけ》について一リアールずつで水を買っていた。水くみを職業としているのは一人の老人であって、村の水くみの仕事で一日に八スーばかり得ていた。けれどもその老人は夏には七時まで、冬には五時までしか働かなかった。それで一度夜になると、一階の窓の戸がしまる頃になると、飲水を絶やした家では、自分でくみにゆくか、または水なしで我慢するかしなければならなかった。
おそらく読者も忘れないでいるに違いないあのあわれな娘、小さなコゼット、彼女が非常に恐れていたのはそのことであった。読者の思い起こすとおり、コゼットは二つのことでテナルディエの者らに有用であった。彼らは母親から金をしぼり取るとともに、また子供をこき使っていたのである。それで、前の数編に述べておいたような理由で、母親の方から全く金がこなくなった時にも、テナルディエの者らはコゼットを家に置いていた。彼女は下女の代わりにされていたのである。水の入用な時にそれをくみに走って行くのは、下女としての彼女であった。晩に泉の所まで行くことは考えても身震いがするほど恐れていた娘は、家の中に決して水を絶やさないように非常に注意していた。
一八二三年のクリスマスは、モンフェルメイュでは特ににぎやかだった。その冬の初めも至って温和で、まだ氷結もしなければ、雪も降らなかった。香具師《やし》らがパリーからやってきて、村長の許しで村の大きな通りに仮小屋を建て、また行商人の一隊も同じく許しを得て、教会堂の広場からブーランゼーの小路まで露店を建てつらねた。たぶん読者も記憶しているであろうが、そのブーランゼーの小路にテナルディエの飲食店はあったのである。そんなことで、宿屋や飲食店などはいっぱいになり、静かな田舎《いなか》は楽しくにぎやかに活気だった。なおまた忠実なる史家としてわれわれは、ここにつけ加えておかなければならない一事がある。すなわち広場の上に並んだ見世物のうちに、一つの動物小屋があった。その中で、身にはぼろをつけてどこからやってきたともわからないきたない道化者らが、この一八二三年にモンフェルメイュの百姓どもに、あの恐ろしいブラジルの禿鷹《はげたか》の標本を一つ見せていた。それは王室博物館にも一八四五年まではなかったもので、目には三色の記章がついてるものだった。博物学者はその鳥をカラカラ・ポリポルスと呼んでいると記憶する。それはアピシデの部門にはいるもので、禿鷹類に属するものである。村に引退しているボナパルト派の人のいい老兵士らが数人、その鳥を熱心にながめていた。その三色の記章の目は、この動物小屋のために、ありがたい神様の御手で特別になされた他に見られない図であると、道化者どもは説き立てていた。
そのクリスマスの晩に、テナルディエ飲食店の天井の低い広間の中では、馬方《うまかた》や行商人など数人の男が、四、五の燭台《しょくだい》のまわりに陣取って酒を飲んでいた。その広間はどこの居酒屋《いざかや》にも見られるようなもので、食卓、錫《すず》の瓶《かめ》、酒壜《さけびん》、それから酒を飲んでる男や、煙草《たばこ》をふかしてる男、中はうす暗くて、しかも騒然たる音を立てていた。けれども一八二三年という年には、特にいちじるしく市民階級《ブールジョア》の間に流行してきた二つの物があった。すなわち万華鏡《カレードスコープ》と木目模様《もくめもよう》のブリキのランプとである。この広間にもその二つがテーブルの上にのっていた。そしてテナルディエの上《かみ》さんは、明るく燃え立った火の前であぶられてる夕食のごちそうの番をしており、亭主の方は、客たちと酒を飲みながら政治を論じていた。
スペイン戦争やアングーレーム公を中心にした政治談のほかに、なお地方的の種々な事がらに関する談笑もあった。次のような言葉も聞かれた。
「ナンテールやスュレーヌの方では葡萄酒《ぶどうしゅ》がえらくできたぜ。十樽《じったる》くらいかと思ってると十二樽もあるんだ。圧搾器のために液汁《しる》が多く取れたんだ。――だが葡萄はまだ熟しちゃいなかったろうじゃねえか。――なにあちらじゃ、熟すまで置きゃしねえ。熟してから採ったんじゃあ葡萄酒は春になるとねばっちまわあ。――それじゃあ薄い葡萄酒だね。――そうとも、この辺にできるのよりもっと薄いや。とにかく葡萄は青いうちに採るに限るぜ。」
その他種々の話。
それからまた粉屋はこんなことを言っていた。
「俺《おれ》たちは袋の中のものに責任を負えるかい。たくさんの穀類がはいってるのを、一々より分けておられるものじゃねえ。ただ挽臼《ひきうす》の中につぎ込むばかりだ。どくむぎ、あたますき、なでしこむぎ、はとまめ、やはずえんどう、たいま、いぬすぎな、そのほかいろんなものがはいってやがるんだ。またばかに石の多い麦《やつ》があるのは言うまでもねえ。とりわけブルターニュ麦はひでえや。俺はブルターニュ麦をひくなあ全くごめんだ。釘《くぎ》のある梁《はり》を鋸《のこぎり》でひくのがいやだというが、もっといやなもんだ。そんな下等な麦で、どんな粉ができるもんか。それなのに粉の苦情ばかり言ってやがる。言う方が無理なんだ。粉が悪いったって何も俺たちのせいじゃねえんだ。」
窓と窓との中ほどのところには、一人の草刈り人夫が地主といっしょに食卓について、春になすべき牧場の仕事の賃金を相談されていたが、彼はこんなことを言っていた。
「草がぬれるなあ悪かありません。刈りよくなるだけでさあ。露はいいですよ、旦那《だんな》。だがそれはとにかく、あの草は、まだ若いんで刈りにくいですよ。柔らかいうちはどうも大鎌《おおかま》の下にしなってかないませんからね。」
その他種々。
コゼットはいつものとおり、料理場のテーブルの横木に、暖炉に近い所に腰掛けていた。彼女はぼろの着物を着て、素足のまま木靴をはき、そして炉の火の光でテナルディエの娘らのために、毛糸の靴足袋を編んでいた。一匹の小さな子猫が椅子《いす》の下で戯れていた。二人の子供のあざやかな笑い興ずる声が隣の室から聞こえていた。それはエポニーヌとアゼルマであった。
暖炉のすみには、一本の皮の鞭《むち》が釘《くぎ》に下がっていた。
時とすると、家のどこかにいるごく小さな子供の泣き声が、酒場の騒ぎの間に聞こえてきた。先年の冬テナルディエの上さんがもうけた男の児である。「どうしたんだろう、あまり寒いから子供ができたのかも知れない、」などと上さんは言っていた。もう今では三歳余りになっていた。彼女はその子供を育ててはいたが、少しもかわいがっていなかった。子供の激しい泣き声があまりうるさくなると、亭主は言った、「子供が泣いてる、行ってみてやれよ。」すると母親はいつも答えた、「構うもんですか! 私はくさくさしちまう。」そして顧みもされない子供は、暗やみの中に泣き続けるのだった。
二 二人に関する完稿
読者は本書において、テナルディエ夫婦についてはその横顔しか見ていない。が今や、二人のまわりを回って、前後左右からながむべき時となった。
亭主の方はちょうど五十の坂を越したばかりであった。女房の方は四十台になっていた。四十といえば男の五十に当たる。それで二人の間に年齢の不釣り合いはなかったわけである。
背が高く、金髪で、あから顔で、脂《あぶら》ぎって、肥満して、角張《かくば》って、ばかに大きく、そしてすばしこいテナルディエの上さんを、読者はたぶん彼女が初めて舞台に現われて以来記憶しているであろう。前に言っておいたとおり彼女は、市場をのさばり歩く野蛮な大女の仲間に属していた。家の中のことはすべて一人でやった、寝所をこしらえ、室《へや》を片付け、洗濯《せんたく》をし、料理をし、雨の日も天気の日も、何でも手当たりしだいにやってのけた。そして唯一の下女としてはコゼットがいた、象に使われてる一匹の小|鼠《ねずみ》みたいなコゼットが。彼女の声の響きには、家中のものが、窓ガラスも道具も人間もみな震え上がった。赤痣《あかあざ》で凸凹《でこぼこ》の大きい顔は、網杓子《あみじゃくし》に似ていた。髯《ひげ》まではえていた。まったく市場の人夫の理想的な型で、ただ女の着物を着てるだけであった。そのどなる声は素敵なものだった。胡桃《くるみ》をも一打にたたき割るといって自慢していた。小説を読んだので時とすると、その食人鬼のような姿の下から変に洒落《しゃれ》女の様子が現われて来ることがあったが、それがなかったら、女だと言ってもだれも本当にしなかったかも知れない。まず娼婦《しょうふ》が土方女に接木《つぎき》してできたというくらいのところだった。口をきいてるのを聞くと憲兵かとも思われ、酒を飲んでるところを見ると馬方《うまかた》かとも思われ、コゼットをこき使ってるところを見ると鬼婆《おにばば》とも思われるほどだった。休息してる時には、歯が一本口からのぞき出ていた。
亭主のテナルディエの方は、背の低い、やせた、色の青い、角張った、骨張った、微弱な、見たところ病気らしいが実はすこぶる頑健《がんけん》な男であった。彼のまやかしはまず第一にそういう身体つきから初まっていた。いつも用心深くにやにやしていて、ほとんどだれにでも丁寧であり、一文の銭をもくれてやらぬ乞食《こじき》にさえ丁寧であった。目つきは鼬《いたち》のようでいて、顔つきは文人のようなふうをしていた。ドリーユ師([#ここから割り注]訳者注 好んで双六などをやってる男を歌った詩人[#ここで割り注終わり])の描いた人物などに似通ったところが多かった。よく馬方などといっしょに酒を飲んで気取っていた。だれも彼を酔わせることはできなかった。いつも大きな煙管《きせる》で煙草《たばこ》をふかしていた。広い仕事着をつけて、その下に古い黒服を着込んでいた。文学に趣味があり、また唯物主義の味方である、と自称していた。何でも自分の説をささえるためにしばしば口にする二、三の名前があった。それはヴォルテールとレーナルとパルニーと、それから妙なことだが、聖アウグスチヌスとであった。自分は「一つの哲学」を持っていると断言していた。が少なくとも、非常なまやかし者で、尻学者《けつがくしゃ》であった。哲学者をもじって尻学者と称し得らるるくらいの男はざらにあるものである。また読者は記憶しているであろうが、彼は軍隊にはいっていたことがあると自称していた。彼がすこぶる大げさに吹聴するところによると、彼はワーテルローにおいて軽騎兵の第六とか第九とかの連隊の軍曹であって、プロシア驃騎兵《ひょうきへい》の一中隊に一人で立向かい、霰弾《さんだん》の雨下する中に、「重傷を負った一将軍」を身をもっておおい、その生命を救ったそうである。壁にかかっている真紅な看板と、「ワーテルローの軍曹の旅籠屋《はたごや》」というその地方の呼び名とは、それから由来したのである。彼は自由主義者で、古典派で、またボナパルト派であった。彼はシャン・ダジール([#ここから割り注]訳者注 フランスの追放者帰休兵らによって当時アメリカに建てられていた植民地[#ここで割り注終わり])に金を出していた。村人の話では、彼は牧師になるために学問をしたそうであった。
われわれの信ずるところによれば、彼はただ宿屋になるためにオランダで学問をしただけのことである。そして混合式の悪党である彼は、その変通性によって、フランドルではあるリール生まれのフランドル人となり、パリーではフランス人となり、ブラッセルではベルギー人となって、うまく二つの国境をまたいで歩いていた。彼のいわゆるワーテルローの武勇については、読者の既に知るとおりである。いうまでもなく彼はそれを誇張して話していたのである。変転、彷徨《ほうこう》、冒険、それが彼の一生のおもなでき事であった。内心の分裂は生活の不統一をきたす。宜《むべ》なるかな、一八一五年六月十八日の騒乱の時に当たってテナルディエは、あの酒保兼盗人の仲間にはいっていた。それら一群の者どもは前に述べたとおり、戦場をうろつき、ある者には酒を売りつけ、ある者からは所持品を略奪し、男も女も子供も一家族一つになって、変なびっこの車にのり、本能的に勝利軍の方へくっつき、進撃する軍隊のあとについて彷徨するのである。そういう戦争に参加して、自称するごとくいくらか「銭《ぜに》を儲《もう》け」て、それから彼はモンフェルメイュにきて飲食店を開いたのであった。
その銭《ぜに》なるものも、死骸をまいた畑から収穫時にうまく刈り取った、金入れ、時計、金の指輪、銀の十字勲章、などにすぎなくて、大した金高にもならなかった。そしてそれだけでは、飲食店になったその従軍商人を長くささえることはできなかったのである。
テナルディエの身振りのうちには何となく直線的なものがあって、きっぱりと口をきく時には軍人らしい趣となり、十字を切る時には神学校生徒らしい趣となった。話が上手で、学者と思われることもあった。けれども、小学校の先生は彼の「言葉尻《ことばじり》の訛《なま》り」に気がついた。彼は旅客への勘定書を書くことに妙を得ていた。けれども、なれた目で見ると往々つづりの誤りが見い出された。彼は狡猾《こうかつ》で、強欲で、なまけ者で、しかも利口であった。彼は下女どもをも軽蔑しなかった。そのために女房の方では下女を置かなくなった。この大女は至って嫉妬《しっと》深かった。彼女には、そのやせた黄色い小男がだれからでも惚《ほ》れられそうに思えたのである。
テナルディエは特に瞞着《まんちゃく》者で落ち着いた男であって、まあ穏やかな方の悪党であった。けれどもそれは最も性質《たち》のよくないやつである、なぜなら偽善が交じってくるからである。
かといって、テナルディエとても女房のように怒気を現わす場合がないわけではない。ただそれはきわめてまれであった。そしてそういう時には、彼は人間全体を憎んでるようだった。自分のうちに憎悪《ぞうお》の深い釜を持ってるようだった。絶えず復讐《ふくしゅう》の念をいだいていて、自分に落ちかかってきたことはすべて目の前のものの罪に帰し、生涯《しょうがい》の失意|破綻《はたん》災難のすべてを正当な不平のようにいつもだれにでもなげつけようとしているかのようだった。すべてのうっ積した感情が心のうちに起こってきて、口と目から沸き立って来るかのようだった。そして恐るべき様子になるのであった。そういう彼の激怒に出会った人こそ災難である!
その他種々な性質のほかにテナルディエはまた、注意深く、見通しがきき、場合によっては無口だったり饒舌《じょうぜつ》だったりして、いつもきわめて聡明《そうめい》だった。望遠鏡をのぞくになれた船乗りのような目つきを持っていた。彼は一種の政略家であった。
その飲食店に初めてやってきた者はだれでも、テナルディエの上《かみ》さんを見て、「あれがこの家の主人だな」と思うのだった。しかしそれはまちがっていた。いな、彼女は一家の主婦でさえもなかった。主人でありまた主婦であるのは、亭主の方であった。女房の方は仕事をした、そして亭主の方はその方針を定めた。彼は一種の目に見えない絶えざる磁石のような働きによってすべてを指導していた。一言で、また時には一つの手まねで、もう十分だった。怪物のような女房はそれに従った。女房はただなぜとなく、亭主を特殊な主権的な者のように感じていた。彼女は自己一流の徳操を持っていた。何かのことに「主人テナルディエ」と意見が合わぬことはあっても、いな、実際そういうことはあり得ないことではあったがまあそう仮定するとしても、彼女は決して何事に限らず人前で亭主をやりこめることをしなかったであろう。しばしば女がやりたがるあの過ち、法廷風な言葉でいわゆる「夫の尊厳を汚す」というような過ちを、彼女は決して「他人の前で」犯すことはしなかったであろう。彼らの同意はその結果悪事ばかりを産み出すものではあったが、テナルディエの女房が自分の夫に服従してる趣のうちには、ある静観的なものがあった。大声とでっぷりした肉体とを持っている山のような女は、小柄な専制君主の指一本の下に動いていた。それは、その低劣な可笑《おか》しな一面からのぞいてみたる普遍的な偉大な事実、精神に対する物質の尊敬、そのものであった。ある醜悪も、永遠の美という深淵のうちにその存在の理由を持っていることがあるものである。テナルディエのうちにはある不可解なものがあった。彼がその女房の上に絶対の力を有することは、そこからきたのである。ある時は、彼女は彼を燃えている蝋燭《ろうそく》のようにうちながめ、またある時は、彼を恐ろしい爪のように感じていた。
彼女は恐るべき動物で、自分の子供をしか愛せず、自分の夫をしか恐れていなかった。彼女はただ哺乳動物《ほにゅうどうぶつ》であるから母親になったまでである。その上、彼女の母親としての情愛もただ自分の女の児に対してだけで、いずれ後に述べるであろうが、男の児にまでは広がらなかった。それから亭主の方ではただ一つの考えしか持っていなかった。すなわち金持ちになるということ。
しかし彼はその点には成功しなかった。その偉大なる才能に足るだけの舞台がなかったのである。テナルディエはモンフェルメイュにおいて零落しつつあった。もし零落ということが無財産にも可能であるならば。これがスウィスかピレネー地方ででもあったら、この無一文の男も百万長者になったかも知れない。しかし宿屋の亭主では一向うだつがあがらない。
もとよりここでは、宿屋の亭主[#「宿屋の亭主」に傍点]という言葉は狭い意味に使ったのであって、全般にわたってのことではない。
この一八二三年には、テナルディエは督促の激しい千五百フランばかりの債務を負っていて、それに心を悩ましていた。
いかに運命に酷遇されようともテナルディエは、最もよく、最も深く、また最も近代的に、ある一事を了解していた。一事というのはすなわち、野蛮人のうちでは一つの徳義であり、文明人のうちでは一つの商品である、あの歓待ということであった。それからまた彼は巧みな密猟者で、小銃の上手なことは評判になっていた。彼は一種の冷ややかな静かな笑い方を持っていたが、その笑いがまた特に危険なものであった。
宿屋の主人としての彼の意見は、時として稲妻のように口からほとばしり出た。彼は専門的な金言を持っていて、それを女房の頭にたたきこんでいた。ある日彼は低い声で激しく彼女に言った。「宿屋の主人たる者がなすべきことは、つぎのようなことだ。やってきた者にはだれにでも、食物と休息と燈火《あかり》と火ときたない毛布と女中と蚤《のみ》と世辞笑いとを売りつけることだ。通りがかりの者を引きとどめ、小さい財布ならそれをはたかせ、大きい財布ならうまく軽くしてやり、一家族の旅客なら丁寧に泊めてやり、男からつかみ取り、女からむしり取り、子供からはぎ取ることだ。あけた窓、しめた窓、暖炉のすみ、肱掛椅子《ひじかけいす》、普通《なみ》の椅子、床几《しょうぎ》、腰掛け、羽蒲団《はねぶとん》、綿蒲団、藁蒲団《わらぶとん》、何にでもきまった金をかけておくことだ。鏡に映《うつ》った影でも、それがどれだけ鏡をすりへらすかを見ておいて、ちゃんと金をかけておくことだ。そのほかどんな下らないものにも、客に金を払わせ、客の犬が食う蠅《はえ》の代までも出させることだ!」
この夫婦は、狡猾と熱中とがいっしょに結婚したようなものだった。忌むべき恐ろしい一対であった。
亭主の方が種々計画をめぐらしてる間に、女房の方では、目の前にいるわけでもない債権者のことなんかは考えず、昨日のことも明日のことも気にかけず、ただ現在のことばかりに熱中して日を暮らしていた。
そういうのが二人の人物であった。コゼットは彼らの間にあって、二重の圧迫を受け、臼《うす》に挽《ひ》かれると同時に釘《くぎ》抜きではさまれてる者のようなありさまだった。夫婦の者は各自異なったやり方を持っていた。コゼットはぶたれた、それは女房の方のであった。コゼットは冬も素足で歩いた、それは亭主の方のであった。
コゼットは、梯子段《はしごだん》を上りおりし、洗濯《せんたく》をし、ふき掃除《そうじ》をし、駆けまわり飛びまわり、息を切らし、重い荷物を動かし、虚弱な身体にもかかわらず荒らい仕事をしていた。少しの慈悲もかけられなかった。残忍な主婦と非道な主人とであった。テナルディエの飲食店はあたかも蜘蛛《くも》の巣のようなもので、コゼットはそれにからまって震えていた。理想的な迫害は、その奸悪《かんあく》な家庭によって実現されていた。あたかも蜘蛛に仕えてる蠅のようなありさまだった。
あわれな娘は、何事をも忍んで黙っていた。
世の少女にして未だ小さく裸のままなる人生の曙《あけぼの》より、かくのごとくにして大人のうちに置かるる時、神の膝《ひざ》を離れたばかりの彼女らの心のうちには、およそいかなることが起こるであろうか。
三 人には酒を要し馬には水を要す
四人の新しい旅客が到着していた。
コゼットは悲しげに物を考えていた。彼女はまだ八歳にしかなっていなかったが、種々な苦しい目に会ったので、あたかも年取った女のような痛ましい様子で考えにふけるのだった。
彼女の眼瞼《まぶた》は、テナルディエの上《かみ》さんに打たれたので黒くなっていた。そのために上さんは時々こんなことを言っていた、「目の上に汚点《しみ》なんかこしらえてさ、何て醜い児だろう!」
コゼットは考えていた、もう夜になっている、まっくらな夜になっている、ふいにやってきたお客の室《へや》の水差しやびんには間に合わせに水を入れなければならないし、水槽《みずぶね》にはもう水がなくなってしまっている。
ただ少し彼女が安堵《あんど》したことには、テナルディエの家ではだれもあまり水を飲まなかった。喉《のど》の渇《かわ》いた人たちがいないというわけでもなかったが、その渇きは水甕《みずがめ》よりもむしろ酒びんをほしがるような類《たぐ》いのものだった。酒杯の並んでる中で一杯の水を求める者は、皆の人から野蛮人と見なされる恐れがあったのである。けれどもコゼットが身を震わすような時もあった。テナルディエの上さんは竈《かまど》の上に煮立ってるスープ鍋《なべ》の蓋《ふた》を取って見、それからコップを手にして、急いで水槽の所へ行った。彼女はその差口《さしぐち》を回した。娘は頭をもたげて彼女の様子をじっと見守っていた。少しの水がたらたらと差し口から流れて、コップに半分ばかりたまった。「おや、」と彼女は言った、「もう水がない!」それから彼女はちょっと口をつぐんだ。娘は息もつかなかった。
「いいさ、」と上さんは半分ばかりになったコップを見ながら言った、「これで間に合うだろう。」
でコゼットはまた仕事にかかった。けれども十五、六分ばかりの間は、心臓が大きな毬《まり》のようになって胸の中に踊ってるような気がした。
そういうふうにして過ぎ去っていく時間を数えながら、彼女は早く明日の朝になればいいがと思っていた。
酒を飲んでいた一人の男が、時々表をながめては大きな声を出した。「釜の中みてえにまっくらだ!」あるいはまた、「今ごろ提灯《ちょうちん》なしに外を歩けるなあ猫《ねこ》ぐらいのもんだ!」それを聞いてコゼットは震えた。
突然、この宿屋に泊まってる行商人の一人がはいってきた、そして荒々しい声で言った。
「私の馬には水をくれなかったんだな。」
「やってありますとも。」とテナルディエの上さんは言った。
「いやお上さん、やってないんだ。」と商人はまた言った。
コゼットはテーブルの下から出てきた。
「いえやりましたよ!」と彼女は言った。「馬は飲みましたよ。桶《おけ》一杯みんな飲みましたよ。この私が水を持っていって、馬に口をききながらやったんですもの。」
それは本当ではなかった。コゼットは嘘《うそ》を言っていた。
「この女郎《めろう》、拳《こぶし》ぐれえなちっぽけなくせに、山のような大きな嘘《うそ》をつきやがる。」と商人は叫んだ。「馬は水を飲んでいないんだ、鼻ったらしめ! 水を飲んでいない時には息を吹く癖があるんだ。俺はよく知ってるんだ。」
コゼットは言い張った。そして心配のために声をからして聞きとれないくらいの声でつけ加えた。
「そして大変よく飲んだんですよ。」
「なんだって、」と商人は怒って言った、「そんなことがあるもんか。俺の馬に水をやるんだ。ぐずぐず言うない!」
コゼットはまたテーブルの下にはいりこんだ。
「ほんとにそうですとも。」とテナルディエの上さんは言った。「馬に水をやってないなら、やらなければいけません。」
それから彼女はまわりを見回した。
「そしてまた、あの畜生めどこへ行った?」
彼女は身をかがめて、テーブルの向こうの端に、酒を飲んでる人たちのほとんど足の下にうずくまってるコゼットを見つけだした。
「出てこないか。」と上さんは叫んだ。
コゼットは隠れていたその穴から出てきた。上さんは言った。
「この碌《ろく》でなしめ、馬に水をおやりったら。」
「でもお上さん、」とコゼットは弱々しく言った、「水がありませんもの。」
上さんは表の戸を押し開いた。
「ではくみに行ってくるさ!」
コゼットは頭をたれた、そして暖炉のすみに行って、からの桶《おけ》を取り上げた。
その桶は彼女の身体よりも大きく、中にすわっても楽なくらいであった。
上さんは竈《かまど》の所へ戻り、スープ鍋の中のものを木の匙《さじ》でしゃくって、味をみながら、ぶつぶつ言っていた。
「水は泉に行けばいくらでもある。あんな性の悪い児ったらありはしない。ああこの玉葱《たまねぎ》はよせばよかった。」
それから彼女は引き出しの中をかき回した。そこには貨幣だの胡椒《こしょう》だの大蒜《にんにく》だのがはいっていた。
「ちょいと、おたふく、」と彼女はつけ加えた、「帰りにパン屋で大きいパンを一つ買っておいで。そら、十五スーだよ。」
コゼットは胸掛けの横に小さなポケットを一つ持っていた。彼女は物も言わずにその銀貨を取って、ポケットの中に入れた。
それから彼女は、手に桶を下げ、開いている戸を前にして、じっと立っていた。だれか助けにきてくれる人を待ってるがようだった。
「行っといでったら!」とテナルディエの上さんは叫んだ。
コゼットは出て行った。戸は閉ざされた。
四 人形の登場
露店の列が教会堂の所からテナルディエの宿屋の所までひろがっていたことは読者の記憶するところであろう。町の人たちがやがて夜中の弥撒《ミサ》のためにそこを通るので、それらの露店は、紙でこしらえた漏斗形の台の中にともされた蝋燭《ろうそく》の光で明るく照らされていた、そして、その時テナルディエの家の食卓についていたモンフェルメイュの小学校の先生が言ったとおり、「幻燈のようなありさま」を呈していた。その代わり、空には一点の星影も見えなかった。
それらの露店の一番端のものは、ちょうどテナルディエの家の入り口と向かい合いに建てられていて、金ぴかのものやガラスのものやブリキ製のきれいなものなどで輝いてる玩具屋《おもちゃや》だった。その玩具棚の一番前の棚には、白い布《きれ》のふとんの上に高さ二尺もあろうという大きな人形が一つすえられていた。人形は薔薇色《ばらいろ》の紗《しゃ》の着物を着、頭には金色の麦の穂をつけ、本物の髪毛がついていて、目には琺瑯《ほうろう》が入れてあった。通りがかりの十歳以下の子供は、その珍しい人形にびっくりして終日その前に引きつけられていたが、それを子供に買ってやるだけ金を持ったぜいたくな母親は、モンフェルメイュにはいなかったのである。エポニーヌとアゼルマとは何時間もそれに見とれていた、そしてまた実際コゼットまでがそっとそれをのぞきに行ったほどである。
桶《おけ》を手に持って外に出たコゼットは、非常に陰うつでかつがっかりしていたけれど、それでもその素敵な人形の方へ目をあげないではおられなかった。彼女はその人形を自ら奥様[#「奥様」に傍点]と呼んでいた。あわれな彼女はその前に化石したように立ち止まった。彼女はその時までそれをまぢかに見たことがなかったのである。彼女にはその店全体が、宮殿のように思えた。そして人形はもう一つの人形ではなくて幻影であった。それは喜悦と光耀《こうよう》と富貴と幸福とであって、陰惨な冷たい辛苦のうちに深く閉ざされていたこの不幸なる少女にとっては、夢のような光彩のうちに浮かんで見えた。コゼットは子供らしい無邪気なまた悲しい知恵をしぼって、自分と人形とを距《へだ》てている深淵を測ってみた。女王かまた少なくとも王女でなければあのような「もの」を手にすることはできまいと思った。彼女はその薔薇色《ばらいろ》のきれいな着物やそのなめらかな美しい髪毛をながめた、そして考えた、「あの人形はどんなにか仕合わせだろう!」彼女はその幻のような露店から目を離すことができなかった。見れば見るほどそれに眩惑《げんわく》された。あたかも楽園を見るような気がした。その大きい人形の後ろには幾つも他の人形があって、それが妖精《ようせい》や精霊のように思われた。店の奥を行ききしている商人は、何だか天の父ででもあるかのように思われた。
そして心を奪われてるうちに、彼女はすべてを忘れ、言いつかった用事までも忘れてしまっていた。と突然、テナルディエの上さんの荒々しい声が彼女を現実の世界に呼びさました。「おや、ばか娘、まだ行かなかったのか。待っといで、私が出ていくから。そこで何をしてたんだ。このお化けめ、おゆきったら!」
上さんはちらと外をのぞいて、心を奪われて立ってるコゼットの姿を見つけたのだった。
コゼットは桶《おけ》を持って、できるだけ大急ぎで逃げ出した。
五 少女ただ一人
テナルディエの宿屋は村のうちで教会堂に近い方の部分にあったので、コゼットはシェルに面した方の森の中の泉に水をくみに行かなければならなかった。
彼女はもう他の店は一軒ものぞいて見なかった。そしてブーランゼーの小路から教会堂の近くまで行く間は、露店の燈火《あかり》が道を照らしていたが、やがて一番終わりの店の燈火も見えなくなってしまった。あわれな娘は暗やみのうちにあって、その中をつき進んだ。ある一種の恐怖にとらえられていたので、歩きながら桶《おけ》の柄を力限り動かしていた。それから出る音が彼女の道連れであった。
進めば進むほどやみはますます濃くなっていった。道には一人の人もいなかった。がただ一人の女に出会った。その女は彼女の通りすぎるのを見てふり返り、立ち止まって口の中でつぶやいた。「いったいあの子はどこへ行くんだろう? まるで化け物のようだが。」そのうちに女はそれがコゼットであることに気づいた。「まあ、」と女は言った、「雲雀娘《ひばりむすめ》だったのか!」
そのようにしてコゼットは、シェルの方に面したモンフェルメイュの村はずれの曲がりくねった人気《ひとけ》のない小路の入り乱れた中を通って行った。そして道の両側に人家やまたは壁だけでもある間は、かなり元気に進んでいった。時々彼女は、鎧戸《よろいど》のすき間から蝋燭《ろうそく》の光がもれるのを見た。それは光明であり生命であって、そこには人がいたのである。彼女はそれに安堵《あんど》することができた。けれども、先へ行くに従って彼女の歩みはほとんど機械的に遅くなっていった。最後の人家の角を通り過ぎた時、コゼットは立ち止まった。最後の露店の所からそこまで行くのも、既に困難なことだったが、今やその最後の人家から先へ行くことは、ほとんど不可能だった。彼女は桶《おけ》を地面に置き、髪の中に手を差し入れて、静かに頭をかき初めた。怖《お》じ恐れて決断に迷ってる子供によく見る態度である。もうそこはモンフェルメイュの村ではなく、野の中だった。暗い寂しいひろがりが彼女の前にあった。彼女はその暗黒を絶望の目で見やった。そこには一つの人影もなく、獣の姿があり、またおそらく化け物の姿もあった。彼女はじっと透かし見た。草の中を歩き回る獣の足音が聞こえた。樹木の間をうろついてる化け物の姿がはっきり見えた。その時彼女はまた桶の柄《え》を手に取り上げた。恐怖は彼女を大胆になしたのである。「かまやしない!」と彼女は言った、「水はなかったと言ってやろう。」そして彼女は覚悟して、またモンフェルメイュの村の中に戻って行った。
百歩ばかり引き返すと、彼女はまた立ち止まって、頭をかき初めた。こんどはテナルディエの上《かみ》さんの姿が見えてきた。その恐ろしい姿は、山犬のような口をして、目は怒りに燃え立っていた。娘は自分の前と後ろとを悲しい目つきで見やった。どうしたらいいだろう? どうなるだろう? どちらへ行ったものだろう? 前にはテナルディエの上さんの姿があり、後ろには夜と森とのいろんな化け物がいた。がついに彼女はテナルディエの上さんの姿の前から後にしざった。彼女はまた泉へ行く道を取って、走り出した。走りながら、モンフェルメイュの村を出て、走りながら森の中にはいり、もう何にもながめず、何にも耳を貸さなかった。息が切れた時ようやく走るのをやめたが、なお続けて進んだ。無我夢中でただ前へと進んでいった。
走りながらも彼女は泣きたくなっていた。
森の夜の震えが全く彼女をとり囲んでしまった。彼女はもう何にも考えなかった。何にも見なかった。広漠たる夜がその少女に顔を面していた。一方はいっさいの影、一方は眇《びょう》たる一原子にすぎなかった。
森の縁から泉まではわずか七八分の距離であった。コゼットはしばしば昼間通ったことがあるので、その道をよく知っていた。で不思議にも道に迷いはしなかった。本能の一部が残っていて、彼女を漠然《ばくぜん》と導いたのである。その間彼女は、右にも左にも目を向けなかった、木の枝の間や藪《やぶ》の中に何かが出てきはしないかと恐れたので。そして彼女は泉の所へ達した。
それは赤土交じりの地面に水で掘られた深さ二尺ばかりの天然の狭い水たまりであった。まわりには苔《こけ》がはえ、アンリ四世のえり飾りと呼ばるる長い縞《しま》のある草が茂り、また幾つかの大きな石が舗《し》いてあった。一条の水が、静かなささやかな音を立ててそこから流れ出ていた。
コゼットは息をつく間も待たなかった。まっくらだったけれど、彼女はその泉にはきなれていたのである。いつも身のささえにする泉の上にさし出た若い樫《かし》の木を、暗やみのうちに左手で探って、その一本の枝を見つけ、それにつかまって身をかがめ、桶《おけ》を水の中につけた。その時彼女は非常に気がたかぶっていて、平素の三倍も力が出ていた。しかるにそうして身をかがめてるうちに、胸掛けのポケットの中のものを泉に落としたのは気がつかなかった。十五スー銀貨は水の中に落ちた。コゼットはそれを見もしなければ、その落ちる音をも耳にしなかった。彼女はほとんど一杯になった桶を引き上げて、それを草の上に置いた。
それをしてしまうと、彼女はすっかり疲れ切ったのを感じた。すぐにも立ち去りたかったけれど、桶に水をくむことにあまり骨折ったので、もう一歩も踏み出す力がなかった。仕方なしにそこにすわってしまった。草の上に身を落として、そのままじっとうずくまった。
彼女は目を閉じた。それからまた目を開いた。なぜか自分でもわからなかったが、他に仕様もなかったのである。
彼女のそばには、桶の中に揺られてる水が輪を描いて、それがブリキの蛇《へび》のように見えていた。
頭の上には煙の壁のような広い黒雲が空をおおうていた。暗やみの陰惨な面が漠然《ばくぜん》と娘の上におおいかぶさっていた。
木星は彼方《かなた》の空に沈みゆこうとしていた。
娘は途方にくれた目をあげて、名も知らぬその大きな星をながめ、そして恐ろしくなった。実際その遊星は、その時地平線のごく近くにあって、たなびいた深い靄《もや》を透かしてみると、恐ろしい赤い色に見えていた。そしてまた変に赤く染められた靄は、その星をいっそう大きく見せていた。ちょうどまっかな傷口のようなさまだった。
寒い風が平野の上を渡っていた。森はまっくらで木の葉のそよぎもなく、夏の間の漠然たるさわやかな明るみもなかった。大きな枝が恐ろしくつき出ていた。やせた変な形の藪《やぶ》が木立ちの薄い所で音を立てていた。高い叢《くさむら》は北風の下に針のようにうごめいていた。蕁麻《いらぐさ》はよじれ合って、餌食《えじき》を求めている爪をそなえた長い腕のようだった。枯れた雑草が風に吹かれてすみやかにわきを飛んでいったが、何か追っかけてくるものを恐れて逃げてゆくがようだった。どこを見ても、ただ広漠《こうばく》たる痛ましいありさまだった。
暗黒は人の心を惑わすものである。人には光が必要である。だれでも昼に相反するものの中に身を投ずる者は、心をしめつけられる思いがする。目に暗黒を見る時、精神は惑わしを見る。日食のうち、夜のうち、文目《あやめ》もわかたぬ暗がりのうちには、最も強い人々にとってさえ不安がある。夜ただ一人森の中を歩いて戦慄《せんりつ》しない者はない。影と木立ち、二つの恐ろしい密層。現実の幻がそのおぼろなる深みのうちに現われてくる。想像にも及ばないものが、スペクトルのごとき明るさで数歩前の所に浮き出してくる。眠れる花の悪夢のごときある漠然《ばくぜん》たる捕捉すべからざるものが、空間のうちにあるいは自分の頭のうちに浮かんでくるのが見える。地平線には恐ろしい姿のものがいる。まっ黒な大きい空洞《くうどう》の気が胸にはいってくる。自分の後ろが恐ろしくなってふり返りたくなる。夜の空虚、荒々しい姿になった事物、進むに従って消散する黙々たる物の横顔、髪をふり乱したようなまっくらなもの、いら立った叢《くさむら》、青白い水たまり、滅亡と悲愁との反映、沈黙の広大な墓場、実際にいるかも知れない見も知らぬ変化《へんげ》、傾いている不思議な木の枝、恐ろしい樹木の胴体、震えている長い雑草の茎、そういうものに対してはだれも身を護る術がない。いかに大胆なる者も、身を震わさぬ者はなく、苦悩の身に迫るのを覚えない者はない。あたかも自分の心が影ととけ合ってるかのように、人はある嫌悪《けんお》すべきものを感ずる。そしてかく心の底まで暗黒に浸されることは、ことに子供にとっては名状すべからざる陰惨の気を与うるものである。
森は天の黙示である。そして小さな霊魂の翼の羽ばたきも、その奇怪な森の円天井の下にあっては、臨終の苦悶《くもん》の音を発する。
何を感じているのかコゼットは自分でもよくわからなかったが、ただ自然の広大な暗黒からつかまれてるような気がした。彼女をとらえているものはもはや単に恐怖のみではなかった。恐怖よりもなお恐ろしい何かであった。彼女は震え上がった。彼女を心の底まで凍らしたその戦慄はいかに異常なものであったか、それを言い現わすには言葉も到底および難い。彼女の目は凶暴になっていた。彼女は翌日もきっと、また同じ頃にそこに戻ってこないではおれないだろうというような気がしていた。
その時一種の本能から、その訳のわからないしかし恐ろしい不思議な状態からのがれるために、彼女は大きい声で、一、二、三、四、と十まで数え初めた。そしてそれが終わるとまた初めからくり返した。そのために彼女はようやく周囲の事がらの本当のありさまを感ずることができた。水をくむ時にぬらした手に寒さを感じた。彼女は立ち上がった。するとまた恐ろしくなってきた。おさえることのできない自然の恐怖の念がまた襲ってきた。彼女はもうただ一つの考えきり持たなかった。逃げ出すこと。森を通りぬけ、野を横ぎり、人家のある所まで、窓のある所まで、火のともった蝋燭《ろうそく》のある所まで、足にまかして逃げのびること。前にある桶《おけ》が彼女の目についた。彼女は非常にテナルディエの上さんを恐《こわ》がっていたので、水の桶をすてて逃げ出すことはなしかねた。彼女は両手に桶の柄をつかんだ。そしてようやくのことでそれを持ち上げた。
そのようにして彼女は十歩余り進んだが、桶は水がいっぱいで重かったので、それをまた地面におろさなければならなかった。彼女はちょっと息をついた。それからまた桶を持ち上げて、再び歩き出したが、こんどは前よりも少し長く歩いた。けれどもやはり立ち止まらなければならなかった。しばらく休んだ後にまた歩き出した。前の方に身をかがめて、頭をたれて、老人のようにして歩いた。桶の重さは、彼女のやせた腕を引っぱり硬《こわ》ばらした。鉄の柄は、彼女の小さなぬれた手を麻痺《まひ》させ凍えさしてしまった。時々彼女は立ち止まらなければならなかった。そして立ち止まるたびごとに、桶からこぼれる冷たい水は彼女の露《あら》わな脛《はぎ》の上に流れた。そしてそれも、森の奥で、夜中に、冬に、人の目を遠く離れた所においてだった。そして彼女はわずか八歳の子供だった。その悲しいありさまをながめていたのは、その時ただ神のみであった。
そしてまたきっと彼女の母も、ああ!
なぜかなれば、墳墓の中で死者の目を開かしめるようなことも世にはあるものである。
彼女は一種の痛ましい嗄《しわが》れた音を立てて息をしていた。すすりなきがこみ上げてきて喉《のど》がつまりそうだった。けれど泣くこともなし得なかった。それほど彼女は、遠くにいてもテナルディエの上さんを恐《こわ》がっていた。テナルディエの上さんがいつも目の前にいるように考えるのは、彼女の習慣となっていた。
彼女はそんなふうで道をはかどることができなかった。彼女は少しずつ進んでいた。立ち止まる時間を少なくし、そのあいだあいだをできるだけ長く歩こうと、いくらつとめてもだめだった。こんなふうではモンフェルメイュまで戻るには一時間以上もかかるだろう、そしてテナルディエの上さんに打たれるだろう、と考えては心を痛めた。そしてその心痛は、夜ただ一人で森の中にいるという恐怖の情に交じっていた。もうすっかり疲れ切っていたのに、まだ森から出てもいなかった。そして、かねて見知っている古い栗《くり》の木のそばまできた時、よく休むために最後に一度少し長く立ち止まった。それから全力をよび起こして、桶を取り、元気を出して歩きだした。けれども絶望的なあわれな少女は、思わず声を立てないではおれなかった。「おう神様! 神様!」
その時、彼女はにわかに桶《おけ》が少しも重くないのを感じた。非常に大きいように思われた一つの手が、桶の柄をつかんで勢いよくそれを持ち上げたのだった。彼女は頭を上げた。まっすぐにつき立った黒い大きな姿が、暗やみの中を彼女と並んで歩いていた。それは彼女の後ろからやってきた一人の男で、その近づいて来る足音を彼女は少しも耳にしなかったのである。男は一言も口をきかないで、彼女の持っている桶《おけ》の柄に手をかけていた。
人生のいかなるできごとにも相応ずる本能もある。少女は別に恐怖を感じなかった。
六 ブーラトリュエルの明敏を証するもの
一八二三年のその同じクリスマスの日の午後、パリーのオピタル大通りの最も寂しい所を、かなり長い間一人の男がうろついていた。その男は住宅をさがしてるような様子であって、サン・マルソー郭外のその荒廃した片すみにある最も質素な人家の前に好んで足を止めてるようだった。
果してその男が、その寂しい町に部屋を一つ借りたことは、後に述べるとしよう。
その男は、服装《みなり》から見ても人柄から見ても、高等|乞食《こじき》とでも称し得るような型《タイプ》をそなえていた、すなわち非常な見窄《みすぼ》らしさとともにまた非常な清潔さを。そういう一致はあまり見られないものであって、きわめて貧しい者に対する敬意ときわめてりっぱな者に対する敬意と、二重の敬意を心ある人々に起こさせるものである。彼はごく古いがよくブラシをかけた丸い帽子をかぶり、粗末な石黄色の布地《きれじ》のすっかり糸目まですり切れてしまったフロック型の上衣をつけていた。その当時黄色の服はちっとも変ではなかったのである。ごく古い型のポケット付きのチョッキ、膝《ひざ》の所は灰色になってる黒い短ズボン、黒い毛糸の靴下、銅の留め金がついてる厚皮の短靴。何だか亡命の旅から帰ってきた良家の古い家庭教師といった姿である。そのまっ白な髪や、しわよった額《ひたい》や、青白い脣《くちびる》や、生の疲れと倦怠《けんたい》とが現われてる顔つきなどを見ると、もう六十歳のずっと上であるように思われた。けれども、ゆっくりではあるがしっかりした歩き方や、あらゆる動作に現われてる特別な元気などを見ると、五十歳にもなっていないかとさえ思われた。顔のしわは程よくついていて、注意して見る者にはいい感じを与えるようだった。脣《くちびる》は妙な襞《ひだ》をこしらえて引きしまっていて、厳酷そうであったが、実は謙譲であった。その目つきの奥には、何ともいえない悲しげな清澄さがあった。左手には、ハンカチでくくった小さな包みを持ち、右手には、どこかの籬《まがき》からでも切り取ってきたような杖らしいものをついていた。その杖は多少念入りにこしらえられていて、あまりぶかっこうなほどではなかった。節はみなうまく利用されていて、珊瑚《さんご》まがいの赤蝋《せきろう》の杖頭がついていた。一本の棒にすぎなかったが、ちょっと見たところはりっぱなステッキのようだった。
その大通りは人通りの少ない所で、ことに冬はそうだった。けれどもその男は、別に目立つほどでもないが、通行人を求めるよりもむしろ避けてるようであった。
そのころ国王ルイ十八世は、ほとんど毎日のようにショアジー・ル・ロアに行っていた。そこは彼の好きな遊歩地の一つであった。たいていいつも二時ごろには、国王の馬車と騎馬の行列とが大駆けでオピタル大通りを通るのが見られた。
それは、その辺に住む貧しい人々にとっては懐中時計や柱時計の代用をしていた。彼らは言った、「もう二時になる、チュイルリー宮殿へお帰りだから。」
そして駆けつけて来る者もあれば、そこに立ち並ぶ者もあった。なぜなら、国王の通御は常に人を騒がせるものであるから。その上、ルイ十八世の出入は、パリーの町々にある影響を与えていた。その通過はすみやかではあったが、しかし堂々たるものであった。不具の王は馬の大駆けを好んでいた。自ら歩くことはできなかったが、走ることが好きだった。躄《いざり》なる彼は、好んで馬を急速に駆けさした。抜剣のうちに護《まも》られて、落ち着いたいかめしい顔をして通っていった。戸口には大きな百合《ゆり》の茎が描かれすっかり金箔《きんぱく》をかぶせられた、彼のどっしりした四輪箱馬車は、騒がしい音を立てて走った。ちらと見るまにもうそれは通りすぎていた。馬車の奥の右のすみに、白繻子《しろじゅす》でできてるボタンじめの褥《しとね》の上に、しっかりした大きな赤ら顔、王鳥式に新しく白粉《おしろい》をぬった額、高慢ないかつい鋭い目、文人のような微笑、市民服の上にゆらめいている綯総《よりふさ》の二つの大きな肩章、トアゾン・ドール章とサン・ルイ勲章とレジオン・ドンヌール勲章とサン・テスプリ騎士団の銀章、大きな腹、大きな青綬章、そういうものが見られた。それが王であった。パリーの外では、白い鳥の羽のついた帽子を、イギリスふうの大きなゲートルを巻いた膝頭《ひざがしら》にのせていたが、市内にはいってくると、その帽子を頭にかぶり、会釈もあまりしなかった。彼は冷然と人民をながめ、人民の方でも冷然と彼を見上げた。彼が初めてサン・マルソーの方面に姿を見せた時、彼の成功といってはただ、その郭外の一人の男が次の言葉を仲間に言ったことばかりだった。「あの大きな男がこんどの政府だよ。」
ところで、その国王がいつもきまって同じ時刻に通ることは、今ではオピタル大通りの毎日の事件となっていた。
黄色いフロックを着てうろついてたあの男は、明らかにその辺の者ではなく、またたぶんパリーの者でもなかったろう。なぜなら、彼はこの国王通御のことを少しも知っていなかったから。二時に、銀モールをつけた近衛騎兵の一隊に取り巻かれた王の馬車が、サルペートリエール救済院の角を曲がってその大通りに現われた時、彼は驚いたようで、ほとんど恐れをさえいだいたように見えた。ちょうどその歩道には彼のほかだれもいなかった。彼は急いである家壁の角《かど》に身を避けた。それでも彼はアヴレ公の目をのがれることができなかった。アヴレ公はその日護衛の騎兵の隊長として、王と向かい合って馬車の中にすわっていた。彼は陛下に言った、「向こうにあまり人相のよくない男がいます。」国王の通路を警戒していた警官らも同じくその男を認めた。そのうちの一人は彼を追跡せよとの命令を受けた。しかし男は、その郭外の寂しい小路のうちに身を隠した。そして日の光が薄らぎかけていたので、警官は彼の姿を見失ってしまった。そのことは、国務大臣で警視総監のアングレー伯爵へその日の夕方差し出された報告のうちに書いてあった。
黄色いフロックの男は、警官をまいてしまった時、足を早めたが、もう追跡されてはいないことを確かめるためにたびたびふり返ってながめた。四時十五分に、すなわち全く日が暮れた時に、彼はポルト・サン・マルタン劇場の前を通った。その日の芝居は二人の囚人[#「二人の囚人」に傍点]というのであった。劇場の反照燈に照らされたその看板が彼の目を引いた。彼は早く歩いていたにもかかわらず、立ち止まってそれを読んだ。それからじきに彼はプランシェットの袋町にゆき、プラ・デタンという家にはいって行った。当時そこにランニー行きの馬車の立て場があった。馬車は四時半に出発することになっていた。馬はもうつけられており、旅客らは御者に呼ばれて、馬車の高い鉄のはしごを大急ぎで登っていた。
男は尋ねた。
「席がありますか。」
「一つあります。私のそばの御者台の所ですが。」と御者は言った。
「それを願いましょう。」
「お乗りなさい。」
けれども出かける前に、御者はその客の賤《いや》しいみなりと小さな荷物とをじろりと見やって、金を先に払わした。
「ランニーまでですか。」と御者は尋ねた。
「そうです。」と男は答えた。
彼はランニーまでの馬車賃を払った。
一同は出発した。市門を出た時、御者は話をしようとしたが、男は一、二言の短い答えを返すだけであった。御者は仕方なしに、口笛吹いたり馬をしかり飛ばしたりした。
御者は外套《がいとう》に身を包んだ。非常に寒かった。けれども男はそれを気にもしていないようだった。そのようにしてグールネーを過ぎ、ヌイイー・スュール・マルヌを過ぎた。
晩の六時頃にはシェルに着いた。御者は馬を休ませるために、国立修道院の古い建物のうちにあった駅宿の前で馬車を止めた。
「私はここでおりる。」と男は言った。
彼は包みと杖とを取って、馬車から飛びおりた。
間もなく彼の姿は見えなくなった。
彼は宿屋にはいったのではなかった。
数分後に馬車がまたランニーに向かって進み出した時、彼の姿はシェルの大通りにも見えなかった。
御者は馬車の中の乗客たちの方へふり向いて言った。
「今の男はこの辺の者じゃありませんよ。私は見たこともないから。一スーの金もなさそうな様子だったが、金のことなんかは考えてもいないと見える。ランニーまでの金を払っておきながらシェルまできておりてしまった。もうすっかり夜で、家はみなしまってるのに、あの男は宿屋にはいりもせず、また姿も見えません。地の中へでももぐり込んだんでしょう。」
が男は地の中へもぐり込んだのではなかった。彼はやみの中を急いでシェルの大通りを大またに歩いてゆき、それから教会堂の所まで行く前に左へ曲がって、モンフェルメイュに通ずる村道を進んで行った。あたかもその辺の地理には明るく、また前にもきたことがあるもののようだった。
彼は足早にその村道を歩いて行った。ガンニーからランニーへ行く古い並木道との交差点まで達した時、数人の通行人がやって来る足音が聞こえた。彼はすばやく溝《みぞ》の中に身を隠して、その人たちが遠ざかるのを待った。がもとよりそんな用心はほとんど無用なことだった。前に述べておいたとおり、まっくらな十二月の夜だったのである。空にはかろうじて二、三の星影が見えるきりだった。
ちょうどその辺から丘へのぼり道になっていた。男はモンフェルメイュへ行く道にははいらなかった。右へ曲がって、野を横ぎり、大またに森の中へはいって行った。
森の中まで来ると、彼は足をゆるめて、一歩一歩進みながら樹木を一々注意深くながめはじめた。ただ彼一人が知っている秘密な道をさがして、それをたどってるかのようであった。時としては、道に迷ったようで心を決しかねて立ち止まることもあった。ついに彼はようように道を探って、あるうち開けた所に達した。そこにはほの白い大きな石がつみ重ねてあった。彼は勢いよくそれらの石の方へ進んでゆき、あたかも検閲するかのように夜の靄《もや》を透かして注意深くそれらを調べた。植物の疣《いぼ》である瘤《こぶ》がいっぱいできてる一本の大木が、その石の山から数歩の所にあった。男はその木の所へ行って、その幹の皮を手でなで回した。ちょうどその疣を一々見調べて数えようとしてるがようだった。
それは秦皮《とねりこ》の木であったが、それと向き合って一本の栗の木が立っていた。皮がはがれたために弱っていて、繃帯《ほうたい》として亜鉛の板が打ち付けてあった。男は爪先で伸び上がって、その亜鉛の板にさわってみた。
それから彼は、その木と石の山との間の地面をしばらく足で踏んでみた。あたかも土地が新しく掘り返されはしなかったかを確かめてるようだった。
それがすむと、彼は方向を定めて森の中を歩き出した。
コゼットが出会ったのはすなわちその男であった。
茂みの中をモンフェルメイュの方へ進んでいくと、彼は小さな人影を認めたのだった。その人影はため息をつきながら動いていて、ある荷物を地面に置いてはまたそれを取り上げ、そしてまた進み初めるのだった。近寄ってみると、大きな水桶《みずおけ》を持ったごく小さな子供であることがわかった。すると男は子供の所へ行って、無言のまま桶の柄を持ってやったのである。
七 コゼット暗中に未知の人と並ぶ
前に言ったとおり、コゼットはこわがらなかった。
男は彼女に言葉をかけた。重々しい低音であった。
「これはお前さんにはあまり重すぎるようだね。」
コゼットは頭をあげて、そして答えた。
「ええ。」
「貸してごらんな。」と男は言った。「私が持っていってあげよう。」
コゼットは桶《おけ》を離した。男は彼女と並んで歩き出した。
「なるほどずいぶん重い。」と彼は口の中で言った。それからつけ加えた。
「お前さんはいくつになる?」
「八つ。」
「そしてこんなものを持って遠くからきたのかね。」
「森の中の泉から。」
「そしてこれから行く所は遠いのかね。」
「ここから十五分ばかり。」
男はちょっと口をつぐんだが、やがてふいに言った。
「でお母さんがいないんだね。」
「知りません。」と子供は答えた。
男が何か言おうとする間もなく彼女はつけ加えた。
「いないんでしょう。ほかの人はみなお母さんを持ってるけれど、私は持っていないの。」
そしてちょっと黙ったあとで、彼女はまた言った。
「私には一度もお母さんはなかったようなの。」
男は立ち止まって、桶《おけ》を地面におろし、身をかがめて、子供の両肩に手を置き、暗やみの中にその姿をながめその顔を見ようとした。
コゼットのやせた弱々しい顔が、空の薄ら明りの中にぼんやり浮き出して見えた。
「お前さんは何という名前だい。」と男は言った。
「コゼット。」
男はあたかも電気に打たれたようであった。彼はなお彼女をよく見、それから両手をその肩からはずし、桶を取り、そして歩き出した。
間もなく彼は尋ねた。
「お前さんはどこに住んでるんだい。」
「モンフェルメイュよ、おじさんは知ってるかどうか……」
「これからそこへ行くんだね。」
「ええ。」
彼はなおちょっと言葉を切ったが、また言い出した。
「いったいだれが今時分森の中まで水をくみにやらしたんだい。」
「テナルディエのお上《かみ》さんなの。」
男はまた尋ねた。できるだけ平気な声を装おうとしてるらしかったが、それでも不思議な震えがその中にこもっていた。
「テナルディエのお上さんというのは何をしてるんだい。」
「うちのお上さんよ。」と子供は言った。「宿屋をやってるの。」
「宿屋?」と男は言った。「では私は今晩そこへ行って泊まろう。案内しておくれ。」
「そこへ行ってるのよ。」と子供は言った。
男はかなり早く歩いた。がコゼットはたやすくついて行った。もう疲れも感じなかった。時々彼女は目をあげて、言い難い一種の安心と信頼とで彼を見上げた。かつて彼女は神というものに心を向けることも祈りをすることも教わっていなかった。けれども今、希望と喜悦とに似た何かを心のうちに感じ、天の方へさし上ってゆく何かを心のうちに感じた。
数分過ぎ去った。男は言った。
「テナルディエの上さんのうちには女中はいないのかね。」
「いません。」
「お前さん一人なのか。」
「ええ。」
それからまた言葉が途切れた。コゼットは口を開いた。
「でも娘は二人あります。」
「何という娘だい。」
「ポニーヌとゼルマっていうの。」
テナルディエの上さんが好きな小説的な二人の名前を、彼女はそんなふうにつづめて呼んでいたのである。
「ポニーヌとゼルマというのは、どういう人たちだい。」
「テナルディエのお上さんのお嬢さんなの。まあその娘よ。」
「そして何をしてる、その人たちは。」
「そりゃあいろいろなものを持ってるの、」と子供は言った、「美しい人形やら、金《きん》のついたものやら、いろいろなものがあるの。遊んでおもしろがってるの。」
「一日中?」
「ええ」
「そしてお前さんは?」
「私は、働いてるの。」
「一日中?」
子供は大きな目をあげた。夜で見えはしなかったが、それには涙が宿っていた。子供は静かに答えた。
「そうよ。」
ちょっと黙った後に彼女は言い続けた。
「時々は、用がすんでから、いいって言われる時には、私も遊ぶことがあるの。」
「どうして遊ぶ?」
「勝手なことをして。何でもさしてくれます。けれど私は玩具《おもちゃ》をあまり持っていないの。ポニーヌとゼルマは私に人形を貸してくれません。私はただ鉛の小さな剣を一つ持ってるきりなの、これくらいの長さの。」
子供は自分の小指を出して見せた。
「切れないんだろう。」
「切れるわ、」と子供は言った、「菜っ葉だの蠅《はえ》の頭なんか切れるわ。」
二人は村に達した。コゼットは見知らぬ男を案内して通りを歩いていった。彼らはパン屋の前を通った。けれどもコゼットは買ってゆくべきパンのことを忘れていた。男はもういろいろなことを尋ねるのをやめて、陰鬱《いんうつ》に黙り込んでいた。それでも教会堂の所を通りすぎて、露天の店が並んでるのを見ると、コゼットに尋ねた。
「おや、市場だね。」
「いいえ、クリスマスよ。」
彼らが宿屋に近づいた時、コゼットはおずおずと男の腕につかまった。
「小父《おじ》さん。」
「なんだい?」
「家の近くにきました。」
「それで?」
「これから私に桶《おけ》を持たして下さいな。」
「なぜ?」
「ほかの人に桶を持ってもらってるのが見つかると、お上さんに打たれるから。」
男は彼女に桶を渡した。それからすぐに二人は、宿屋の戸口の所にきた。
八 貧富不明の男を泊むる不快
コゼットはわれ知らず、玩具屋《おもちゃや》の店に並べてある大きな人形の方をじろりとながめた。それから家の戸をたたいた。戸は開かれて、テナルディエの上さんが手に蝋燭《ろうそく》を持って出てきた。
「ああお前か、この乞食娘《こじきむすめ》が! 何だってこんなに長くかかったんだ。どっかで遊んでいたんだろう。」
「お上さん、」とコゼットは身体じゅう震え上がって言った、「あの方が泊めてもらいたいってきています。」
上さんは、宿屋の主人がいつでもするように、邪慳《じゃけん》な顔つきをすぐに和らげた。そして新来の客の方をむさぼるようにながめた。
「あなたですか。」と彼女は言った。
「さようです。」と男は答えながら、帽子に手をあてた。
金のある旅客はそんな丁寧なことはしないものである。その身振りをながめ、またその男の服装と荷物とを見て取って、テナルディエの上さんの愛想顔はまた慳貪《けんどん》になった。彼女は冷ややかに言った。
「おはいりなさい、お爺《じい》さん。」
「お爺さん」は中にはいった。上さんはまたじろりと彼の姿をながめ、すっかりすり切れたフロックと破れかかった帽子とに特に目をとめ、それから、頭をつんとあげ鼻頭にしわを寄せ、まばたきをして、亭主の意向をさぐった。亭主はやはり馬方らといっしょに飲んでいたが、ちらと人さし指を動かしてそれに答えた。そういう場合、それはふくらした脣とともに、「一文なしだ」という意味であった。それを見て上さんは叫んだ。
「お前さん、大変お気の毒だが、室《へや》があいてませんよ。」
「どこでもいいから泊めて下さい、」と男は言った、「物置きでも、廐《うまや》でもよろしいです。一室分の代は払いますから。」
「四十スーですよ。」
「四十スー。承知しました。」
「そんならよござんす。」
「四十スーだと!」と一人の馬方が上さんに低くささやいた。「普通は二十スーじゃないか。」
「あの男には四十スーだよ。」と上さんは同じく低く答えた。「それより安くちゃ貧乏人は泊められない。」
「そのとおりだ。」と亭主も静かに口を添えた。「あんな男を泊めると沽券《こけん》を落とすからね。」
その間に男は、腰掛けの上に包みと杖とを置き、一つのテーブルに向かって席についた。コゼットは急いでそこに葡萄酒《ぶどうしゅ》の瓶《びん》と杯とを並べた。水桶《みずおけ》を言いつけた商人はそれを自分で馬の所へ持って行った。コゼットはまた料理場のテーブルの下のいつもの場所にもどって、編み物を初めた。
男は杯にぶどう酒を注いで脣を浸したかと思うと、すぐに異様な注意でコゼットをながめだした。
コゼットは醜くかった。しかし、楽しい生活をしていたら恐らくきれいだったかも知れない。その小さな陰鬱《いんうつ》な顔つきは既に前に述べておいた。がなお言えば、彼女はやせて青ざめていた。もうすぐ八歳になろうとするのに、ようやく六歳ぐらいにしか見えなかった。くぼんで一種の深い影をたたえている大きな目は、多くの涙を流したためにほとんどその光を失っていた。脣《くちびる》のすみには、囚人や重病人などに見らるるような不断の苦しみからきた曲線ができていた。両手は、母親がかつて推察したとおり「凍傷にくずれて」いた。その時ちょうど彼女を照らしていた火のために、骨立った角々《かどかど》が浮き出して、やせてるのが特に目立っていた。いつも寒さに震えていたので、両膝をきっちり押しつけ合う癖がついていた。着物は破れ裂けて、夏にはかわいそうに思われ、冬には恐ろしく思われた。身につけているのは、穴のあいた麻布ばかりで、一片の毛織りの布もなかった。所々に肌《はだ》がのぞいていて、そのどこにも青い斑点《はんてん》や黒い斑点が見えていた。それはテナルディエの上さんに打たれた跡であった。露《あら》わな両脛《りょうすね》は赤くかじかんでほっそりしていた。鎖骨の上が深くくぼんでいるのを見ると、かわいそうで涙がこぼれるほどだった。彼女の全身、その歩き方、その態度、声の調子、一言いっては息を引く様、その目つき、その沈黙、そのちょっとした身振り、それらはただ一つの思いを現わし示していた、すなわち恐怖を。
恐怖の念が彼女の全身に現われていた。いわばそれにおおわれてるがようだった。恐怖のために彼女は、両|肱《ひじ》を腰につけ、踵《かかと》を裾着《すそぎ》の下に引っ込ませ、できるだけ小さくちぢこまり、ようやく生きるだけの息をついていた。そしてその恐怖の様子はほとんど彼女の身体の癖となっていて、いつも同じようで、ただその度がしだいに高まってゆくだけであった。その瞳《ひとみ》の底には驚いたような影があって、恐怖の念が見えていた。
そういう恐怖の念が強くコゼットを支配していたので、彼女は今帰ってきて、着物がぬれていたにもかかわらず、火の所へ行ってそれをかわかそうともせず、そのまま黙って仕事を初めたのだった。
八歳のその小娘の目つきは、普通はいかにも陰鬱《いんうつ》で、時にはいかにも悲壮であって、どうかすると、白痴かあるいは悪魔にでもなるのではないかと思われるほどだった。
前に言ったとおり、彼女はかつて祈祷《きとう》の何たるやを知らず、またかつて教会堂に足をふみ入れたこともなかった。「どうしてそんな閑《ひま》があるものか、」とテナルディエの上さんは言っていた。
黄色いフロックの男は、コゼットから目を離さなかった。
突然テナルディエの上さんは叫んだ。
「そうそう、パンは?」
コゼットは、お上さんが高い声を出す時にいつもするように、すぐにテーブルの下から出てきた。
彼女はすっかりパンのことを忘れていた。それで、絶えずおびえてる子供特有の方便を持ち出して、嘘《うそ》を言った。
「お上さん、パン屋はしまっていましたの。」
「戸をたたけばいいじゃないか。」
「たたきました。」
「そして?」
「だれもあけてくれません。」
「本当か嘘《うそ》か明日《あした》になればわかるさ。」と上さんは言った。
「もし嘘だったらひどい目にあわしてやる。それから十五スーの銀貨をお返し。」
コゼットは胸掛けのポケットに手を差し入れて、まっさおになった。十五スー銀貨はそこにはいっていなかった。
「これ! 私の言うことが聞こえないのか。」と上さんは言った。
コゼットはポケットを裏返した、が何もなかった。あの金はいったいどうなったのであろう? 不幸な娘は口をきくこともできなかった。石のように固くなってしまった。
「お前はあの十五スー銀貨をなくしたのかい。」と上さんは声を荒らげた。「それとも盗むつもりか。」
それとともに彼女は、暖炉の所に下っている鞭《むち》の方へ腕を伸ばした。
その恐ろしい身振りを見て、コゼットは初めてようやく叫んだ。
「ごめんなさい、お上さん、お上さん、もうしませんから。」
上さんは鞭を取りおろした。
その間に黄色いフロックの男は、だれも気付かぬうちにチョッキの隠しの中を探った。もとより他の旅客らは、酒を飲んだりカルタをしたりして、ほかのことにはいっさい注意を向けていなかったのである。
コゼットはもだえて暖炉のすみに縮こまり、半ば露わな小さな手足を引っ込めて隠そうとした。上さんは鞭の手を上げた。
「ちょっと、お上さん。」と男は言った。「先ほどその娘さんの胸掛けのポケットから何か落ちてころがってきましたよ。たぶんそれじゃありませんか。」
と同時に彼は身をかがめて、床《ゆか》の上をさがすようなふうをした。
「それ、ここにありました。」と彼は身を起こしながら言った。
そして彼は一片の銀貨を上さんに差し出した。
「そう、これです。」と彼女は言った。
実はそれではなかったのである。それは二十スー銀貨だった。けれども上さんはそれで得《とく》をすると思った。彼女は銀貨をポケットに入れて、ただ恐ろしい目つきを娘の上に投げて言った。「またこんなことをすると承知しないよ。」
コゼットは、上さんのいわゆる「彼女の巣」の中に戻った。そして見知らないその旅客をじっと見つめた彼女の大きい目には、これまでかつてなかったような表情が浮かんできた。それはまだ無邪気な驚きの情にすぎなかったが、あっけにとられた一種の信頼の情が交じっていた。
「ところで、夕御飯はどうします。」と上さんは旅客に尋ねた。
彼は答えなかった。深く何かに思いふけってるようだった。
「いったい何という男だろう。」と上さんは口の中でつぶやいた。「ひどい貧乏人と見える。夕食の代も持っていない。宿銭だけでも払えるかしら。でもまあよく床に落ちてた金を盗もうとしなかったものだ。」
そのうちに一つの扉《とびら》があいて、エポニーヌとアゼルマとがはいってきた。
二人とも全くきれいな小娘であった。田舎娘《いなかむすめ》というよりもむしろ町娘と言いたいくらいで、かわいらしかった。一人は艶々《つやつや》と栗色の髪を束ね、一人は長く編んだ髪を背中に下げて、二人とも活発で、身ぎれいで、肥って、生々《いきいき》として、丈夫そうで、見る目も心地よいほどだった。暖かそうに着込んでいたが、そのたくさん重ねた着物も、母親の手ぎわで着付けの美をそこなわないようにされていた。冬の装いも春のすがすがしさを消さないようにつくろってあった。二人は光り輝いていた。その上二人は自由気ままだった。その服装《みなり》や、快活さや、騒ぎ回ってる様子のうちには、皆から大事に奉られてる様が現われていた。二人がはいってきた時テナルディエの上さんは、鍾愛《しょうあい》の情に満ちたわざと小言を言うような調子で言った、「ああお前たちもここに来たのかえ!」
それから一人ずつ膝《ひざ》に引き寄せて、髪の毛をなでつけてやり、リボンを結び直してやり、そして母親特有の優しい仕方で手を離して言った。「ほんとにふしだらな人たちだね。」
二人は暖炉のすみに行ってすわった。人形を一つ持っていて、それを膝の上にひねくり回しながら、うれしそうにささやき合っていた。時々コゼットは編み物から目を上げて、二人が遊んでるのを悲しそうな様子でながめた。
エポニーヌとアゼルマとはコゼットの方へは目もくれなかった。コゼットは二人にとっては犬も同様だった。それから三人の小娘は、皆の年齢を合わしても二十四にしかならなかったが、既に大人の社会のありさまをすべて現わしていた。一方に羨望《せんぼう》と、他方に軽蔑と。
テナルディエの娘の人形は、もうよほど色あせ古ぼけて方々こわれてはいたが、それでもなおコゼットにはりっぱなもののように思われた。彼女は人形というものを、すべての子供によくわかる言い方をすれば本当の人形[#「本当の人形」に傍点]というものを、生まれてまだ一度も持ったことがなかったのである。
室《へや》の中を行ったり来たりしていたテナルディエの上さんは、コゼットがぼんやりして仕事もしないで、二人の娘の遊ぶのを見入っているのを、ふと見て取った。
「ああこれ!」と彼女は叫んだ。「それで仕事をしてるのか。覚えておいで、鞭《むち》で打ってでも働かしてやるから。」
見なれぬ旅客は、椅子《いす》にすわったまま上さんの方へふり向いた。
「お上さん、」と彼はおずおずしたようなふうで、ほほえみながら言った、「まあ遊ばしておやりなさい。」
もしそういうことが、夕食の時に一片の焼き肉を食い二本のぶどう酒を傾け、ひどい貧乏人の様子をしていない旅客から言われたのであったら、一つの命令と同様な力になったかも知れない。けれども、そんな帽子をかぶった男が希望を申し出たり、そんなフロックを着た男が意志を表白したりすることは、テナルディエの上さんには許すべからざることのように思えたのだった。彼女は慳貪《けんどん》に言葉を返した。
「仕事をさせないわけにはいきません。物を食べますからね。何もさせないで食わしておくことはできませんよ。」
「いったい何をこしらえさしてるのですか。」と男はやさしい声で言った。その調子は、彼の乞食《こじき》のような服装と人夫のような肩幅とに妙な対照をなしていた。
上さんは答えてやった。
「靴下ですよ。私の娘どもの靴下です。もうたいてい無くなってしまって、間もなく跣足《はだし》にならなくてはならないところですからね。」
男はコゼットのまっかになってるかわいそうな足をながめた、そして言った。
「どれくらいかかったらあの娘はその靴下を仕上げますか。」
「まだ三四日はたっぷりかかるでしょうよ、なまけものだから。」
「そしてその一足の靴下ができ上がったらいくらくらいになるんです。」
上さんは軽蔑の目でじろりと男を見た。
「安くみても三十スーくらいですね。」
「ではそれを五フランで売ってくれませんか。」と男は言った。
「なんだ!」とそれをきいていた一人の馬方が太い笑いを立てながら叫んだ、「五フランだと。べらぼうな、鉄砲玉五つだと!」
亭主のテナルディエももう口を出すべき時だと思った。
「よろしゅうござんす。そういうことがしてみたいんなら、その靴下一足を、五フランで差し上げましょう。お客のおっしゃることはことわるわけにいきませんからな。」
「すぐに金を払って頂きましょう。」と上さんはいつもの簡単確実なやり方で言った。
「ではその靴下を買いますよ。」と男は答えた。そしてポケットから五フランの貨幣を取り出してテーブルの上に置きながら、つけ加えて言った。「代を払いますよ。」
それから彼はコゼットの方へ向いた。
「もうお前さんの仕事は私のものだ。勝手にお遊びよ。」
馬方は五フランの貨幣に驚いて、杯をすててやって行った。
「いやほんとだ!」と彼はその貨幣をしらべながら叫んだ。「本物の大きいやつだ、贋造《にせ》じゃないや。」
テナルディエはそこに近づいていって、黙ってその金をポケットに納めた。
上さんは一言もなかった。彼女は脣《くちびる》をかんで、顔には憎悪《ぞうお》の表情を浮べた。
でもコゼットは震えていた。そして思いきって尋ねてみた。
「お上さん、本当ですか。遊んでもいいんですか。」
「お遊び!」と上さんは恐ろしい声で言った。
「ありがとうございます、お上さん。」とコゼットは言った。
そして口ではテナルディエの上さんに礼を言いながら、彼女の小さな心は旅客に礼を言っていた。
テナルディエはまた酒をのみ初めた。女房は彼の耳にささやいた。
「あの黄色い着物の男はいったい何者でしょう。」
「わしは大金持ちがあんなフロックを着てるのを見たことがある。」とテナルディエはおごそかに答えた。
コゼットは編み物をそこにほうり出した。けれどもその場所からは出てこなかった。コゼットはいつもできるだけ身を動かさないようにしていた。彼女は自分の後ろの箱から、古いぼろと小さな鉛の剣とを取り出した。
エポニーヌとアゼルマとは、あたりに起こったことに少しの注意も払っていなかった。二人はちょうどきわめて大事なことを初めたところだった。猫《ねこ》をとらえたのである。人形は下にほうり出してしまっていた。そして年上の方のエポニーヌは、猫が泣きもがくのもかまわずに、赤や青の布《きれ》やぼろでそれに着物をきせようとしていた。その大変なむずかしい仕事をやりながら、妹に子供特有のやさしいみごとな言葉で話しかけていた。そういう言葉の優しさは胡蝶《こちょう》の真の輝きにも似たもので、つかもうとすれば遠くに逃げ去るものである。
「ねえ、この人形の方があれよりよっぽどおもしろいわよ。動いたり、泣いたりして、あたたかいのよ。ねえ、これで遊びましょう。これは私の小さな娘よ。私は奥様よ。私があなたの所へ行くと、あなたがこの娘を見るの。そのうちあなたは髯《ひげ》を見つけてびっくりするのよ。それからあなたは、耳を見つけ出し、こんどはまた尾《しっぽ》を見つけ出して、びっくりするのよ。そしてあなたは私に言うの、あらまあ! って。すると私が言うの、ええ奥さん、これが私の小さな娘ですよ、今時の小さな娘はみんなこうですよ。」
アゼルマは感心してエポニーヌの言葉を聞いていた。
一方では酒を飲んでいた連中が、卑猥《ひわい》な歌を歌い出して、家が揺れるほど笑い興じていた。テナルディエは彼らをおだて、彼らに調子を合わしていた。
小鳥が何ででも巣をこしらえてしまうように、子供はどんなものをも人形にしてしまうものである。エポニーヌとアゼルマとが猫に着物をきせてる間に、コゼットの方では剣に着物を着せていた。それをしてしまうと彼女はそれを腕に抱えて、寝つかせるために静かに歌を歌った。
人形は女の児が一番欲しがるものの一つで、また同時にその最もかわいい本能を示すものの一つである。世話をやき、下衣を着せ、飾り立て、着物を着せ、また着物をぬがしたり着せたりし、言いきかせたり、少しは小言《こごと》を言ったり、揺《ゆす》り、かわいがり、寝せつけ、そしてそれを生きてるもののように考える、それらのことのうちに女の未来が含まれている。夢想したりしゃべったりしながら、小さな衣装や産着《うぶぎ》を作りながら、小さな長衣や胴着や下着をこしらえながら、子供は若い娘になり、若い娘は大きな娘となり、大きな娘は人妻となるのである。そして最初に産む子供は、最後の人形となるのである。
人形を持たない小娘は、子供のない婦人と同じく不幸で、また同じく不自然なものである。
だから、コゼットは剣を人形となしていた。
テナルディエの上さんは、黄色い着物の男[#「黄色い着物の男」に傍点]に近寄ってみた。「家《うち》の人の言うとおりだ、」と彼女は考えた、「これはラフィットさんかも知れない。金持ちのうちにはおかしい人もあるものだから。」
彼女はその男のテーブルの所へ行って肱《ひじ》をかけた。
「旦那《だんな》……」と彼女は言った。
その旦那という言葉に、男はふり向いた。上さんはそれまで彼を、お前さん[#「お前さん」に傍点]とかお爺さん]とか呼んでいたのだった。
「あの、旦那、」と彼女はやさしそうな様子をして言った。その様子は彼女の邪慳《じゃけん》な様子よりもなおいっそう嫌味《いやみ》なものであった。「私はあの児を遊ばしてやりたいのですよ。決してそれを不承知ではありません。一度くらいはよろしいんですとも、旦那が御親切に言って下さいますから。でもあの児は何にも持たないのです。仕事をさせないわけには参りませんのです。」
「それではあなたの児ではないのですか、あの娘は。」と男は尋ねた。
「いいえどうしまして旦那。あのようにして慈善のために引き取ってやってる貧乏な児です。ばかな児なんですよ。頭の中には水でもはいっているんでしょう。御覧のとおり大きな頭をしています。私どももできるだけのことはしてやってるのですが、何分にも私どもは貧乏ですからね。いくら国もとの方へ手紙を出しましても、もう六月《むつき》というもの返事もありません。きっと母親も死んだに違いありません。」
「ああ!」と男は言って、何か考えに沈み込んでしまった。
「その母親というのも大した者ではありません。」と上さんはつけ加えた。「子供を捨てていったくらいなんですから。」
そういう会話の間、コゼットは自分のことを話されてるのだとある本能から感じたらしく、テナルディエの上さんから目を離さなかった。彼女はぼんやりきいていた、そして時々二、三言聞き取っていた。
そのうちに酒を飲んでいた連中はたいてい酔っ払って、以前にも増した陽気さで下等な歌をくり返し歌っていた。聖母や小児イエスなどが出て来る道化た卑猥《ひわい》な歌だった。テナルディエの上さんまでが、その仲間に加わって笑い騒いだ。コゼットは例のテーブルの下で火を見つめていた。その目には火が赤くうつっていた。彼女はそれから自分がこしらえた赤ん坊をまた揺《ゆす》り初めた。そうしながら低い声で歌っていた。「お母さん死んだ、お母さん死んだ、お母さん死んだ!」
黄色い着物の「大金持ち」は、上さんがまたうるさく勧めるので、ついに食事を取ることにした。
「何を差し上げましょう。」
「パンとチーズ。」と男は言った。
「なんだ、これはてっきり乞食《こじき》に違いない。」と上さんはまた考えた。
酔っ払いの連中はなお歌を続けており、テーブルの下の娘もまた自分の歌を歌っていた。
とにわかにコゼットは歌をやめた。テナルディエの娘たちの人形が、猫のためにほうり出されて、料理場のテーブルから数歩の所にころがってるのを、彼女はふり返って認めたのだった。
すると彼女は、自分の心を十分満たさなかったその着物をきせた剣をすてて、静かに室《へや》の中を見回した。テナルディエの上さんは亭主に何か小声で話しながら金を数えていた。エポニーヌとアゼルマとは猫を玩具《おもちゃ》にしていた。旅客らは食ったり飲んだり歌ったりしていた。だれもこちらを見てる者はなかった。彼女はその機をのがさなかった。膝と手とでテーブルの下からはい出して、だれも見ていないことをも一度確かめて、それから急に人形の所まではっていってそれをつかんだ。そしてすぐに自分の場所に戻り、そこにすわって身動きもしないで、ただ腕に抱いた人形を自分の影に隠そうとするように身をかがめた。本当の人形を持って遊ぶという幸福はめったに知らないことだったので、彼女は今快楽ともいえるほど非常な喜びを感じたのだった。
だれも彼女を見てる者はなかった、ただ粗末な食物をゆるゆると食べてるあの旅客のほかは。
コゼットの喜びはおよそ十五分間ばかり続いた。
けれども、非常に注意はしていたものの、コゼットは人形の片足が出ていること[#「出ていること」に傍点]に気づかなかった、そして暖炉の火がその足をはっきり照らし出してることに。影の所から出てるその薔薇色《ばらいろ》の輝いた足が、突然アゼルマの目についた。彼女はエポニーヌに言った。「あら! 姉さん!」
二人の娘は遊びをやめて呆然《ぼうぜん》とした。コゼットが大胆にも人形を取っている!
エポニーヌは立ち上がって、猫を持ったまま母親の所へ行って、その裾を引っ張った。
「うるさいね!」と母親は言った。「どうしようというんだよ。」
「お母さん、まあごらんよ!」と子供は言った。
そして彼女はコゼットをさし示した。
コゼットの方は人形を持ってることに有頂天《うちょうてん》になって、もう何にも見も聞きもしなかった。
テナルディエの上さんの顔には特殊な表情が浮かんだ。それはこの世の恐ろしさと下らなさとがいっしょになった表情で、いわゆる毒婦と称する型の表情だった。
こんどは、自尊心が傷けられたので彼女の憤怒はいっそう激しくなった。コゼットはあらゆる制限を越えていたのである。「お嬢さんたち」の人形に手をつけていたのである。
一人の百姓が皇子の大青綬章《だいせいじゅしょう》に手をつけた所を見るロシア女帝の顔も、おそらくそれと等しいありさまを呈するかも知れなかった。
彼女は憤怒にかれた声をしぼって叫んだ。
「コゼット!」
コゼットは大地が足の下で震動したかのように震え上がった。そしてふり返った。
「コゼット!」と上さんはくり返した。
コゼットは人形を取り、恭敬と絶望との様子でそれを静かに下に置いた。それからなお人形から目を離さないで、両手を組み合わした。そしてそれくらいの年頃の子供には言うも恐ろしいことではあるが、その両手をねじり合わした。それから、その日の種々な恐ろしいこと、森の中に行ったことや、水の一杯な桶《おけ》の重かったことや、金をなくしたことや、鞭《むち》をつきつけられたことや、テナルディエの上さんの口から聞いた恐ろしい言葉など、そんなことに会ってもまだ出てこなかったものが今彼女から出てきた、すなわち涙が。彼女はすすり泣きを初めた。
その間にあの旅客は立ち上がっていた。
「どうしたのです。」と彼は上さんに言った。
「わかりませんか。」と上さんは言って、コゼットの足下に横たわってる罪証物件を指で差し示した。
「で、あれがどうしたのです。」と男は言った。
「あの乞食娘《こじきむすめ》が、家の子供の人形に手をつけたんです。」と上さんは答えた。
「それでこんな騒ぎですか!」と男は言った。「あの児が人形で遊んだのがどうしたというんです。」
「あのきたない手で触《さわ》ったんです、」と上さんは言い続けた、「あの身震いが出るほどきたない手で。」
するとコゼットは更に激しくすすり泣いた。
「静かにしないか!」と上さんは叫んだ。
男はまっすぐに表の戸口の方へゆき、それを開いて出て行った。
彼が出て行くと、上さんはその間に乗じて、テーブルの下のコゼットをひどくけりつけた。そのため娘は大声を上げた。
戸はまた開かれた。素敵な人形を両手にかかえて男はそこに現われた。その人形のことは前に言っておいたとおりで、村の子供たちが朝からながめ入っていたものである。男は人形をコゼットの前にすえて言った。
「さあ、これがお前さんのだ。」
彼はここにきて一時間以上にもなるが、その間何やら考えこみながらも、あの玩具屋《おもちゃや》の店がランプや蝋燭《ろうそく》の光でまぶしいほどに照らされて、その宿屋のガラス戸越しにイリュミネーションのように見えているのを、ぼんやり見て取っていたものと思われる。
コゼットは目を上げた。男が人形を持って自分の方へやって来るのを、太陽が近づいて来るのを見るようにしてながめた。これがお前さんのだ[#「これがお前さんのだ」に傍点]という異常な言葉を彼女は聞いた。彼女はその男をながめ、人形をながめ、それからそろそろと後退《あとしざ》りをして、テーブルの下の壁のすみに深く隠れてしまった。
彼女はもう泣きもしなければ、声も立てなかった。じっと息までもつめてるような様子だった。
テナルディエの上さんと、エポニーヌとアゼルマとは、みなそこに立ちすくんでしまった。酒を飲んでた連中までもその手を休めた。室《へや》の中は厳粛な沈黙に満たされた。
上さんは石のようになって黙ったまま、また推測をはじめた。「この爺《じい》さんはいったい何者だろう。貧乏人かしら、大金持ちかしら。きっとその両方かも知れない、と言えばまあ泥坊だが。」
亭主のテナルディエの顔には、意味ありげなしわが寄った。強い本能がその全獣力をもって現われる時に人間の顔の上に寄ってくるしわである。亭主は人形と旅客とをかわるがわる見比べた。彼はあたかも金袋でもかぎ出したかのようにその男をかぎ分けてるようだった。もっともそれはほんの一瞬の間であった。彼は女房の方へ近づいて、低くささやいた。
「あの品は少なくとも三十フランはする。ばかなまねをしちゃいけねえ。あの男の前に膝を下げろよ。」
下等な性質と無邪気な性質とはただ一つの共通点を持っている。すなわち、直ちに掌《たなごころ》を返すがごとき点を。
「さあコゼットや。」とテナルディエの上さんはやさしくしたつもりの声で言った。けれどもそれは意地悪女の酸《す》っぱい蜜《みつ》から成ってる声だった。「人形をいただかないのかい。」
コゼットは思いきって穴から出てきた。
「コゼット、」とテナルディエも甘やかすような声で言った、「旦那《だんな》が人形を下さるんだ。いただけよ。その人形はお前んだ。」
コゼットは一種の驚駭《きょうがい》の情をもって、そのみごとな人形をながめた。その顔はなお涙にまみれていたが、その目は曙《あけぼの》の空のように、喜悦の言い難い輝きに満ちてきた。その時彼女は、「娘よお前はフランスの皇后さまだ、」と突然言われでもしたような感情を覚えていた。
もしその人形にさわりでもしたら、そこから雷《かみなり》でも飛び出しはすまいか、というような気持が彼女はした。
それはある点まで実際のことだった。なぜなら、もしそうしたらテナルディエの上さんが自分をしかりつけはすまいか、また自分を打ちはすまいか、と彼女は考えたのである。
けれども人形に引きつけられる力の方が強かった。彼女はついにその方へ寄って行った。そして上さんの方へふり向いて、こわごわつぶやいた。
「よろしいんでしょうか、お上さん。」
その時の彼女の同時に絶望と恐怖と歓喜とのこもった様子は、いかなる文字をもってしても書き現わすことはできないものだった。
「いいとも!」と上さんは言った。「お前んだよ。旦那がお前に下さるんだから。」
「本当なの、小父《おじ》さん。」とコゼットは言った。「本当なの、私んですか、この奥様は。」
男の目には涙があふれてるらしかった。彼は感情の高潮に達していて、涙を流さないために口もきけないような状態にあるかと思われた。彼はただコゼットにうなずいてみせて、その「奥様」の手をコゼットの小さな手に握らしてやった。
コゼットは急に手を引っ込めた、あたかも奥様の手が彼女の手を焼いたかのように。そして床《ゆか》の上を見つめた。なおその時彼女がひどく舌をつき出したことをも、われわれはつけ加えざるを得ない。それから彼女は突然向き直って、ひしと人形をつかんだ。
「私はこれにカトリーヌという名をつけよう。」と彼女は言った。
コゼットのぼろの着物が、人形のリボンと薔薇色《ばらいろ》のぱっとしたモスリンとに並んで押しつけられてるのはすこぶる異様な様であった。
「お上さん、」と彼女はまた言った、「これを椅子《いす》の上に置いてもようございますか。」
「ああいいよ。」と上さんは答えた。
こんどはエポニーヌとアゼルマとがコゼットをうらやましそうに見ていた。
コゼットはカトリーヌを椅子の上に置いた。それから自分はその前の地面《じべた》にすわって、じっと見入っている様子で黙ったまま身動きもしなかった。
「さあお遊び、コゼット。」と男は言った。
「ええ遊んでるのよ。」と娘は答えた。
天からコゼットの所へつかわされた者のような、その見ず知らずの不思議な男を、テナルディエの上さんはそのとき世に最も憎むべき者のように思った。けれども自分をおさえなければならなかった。彼女は何事にも夫をまねようとしていたので、仮面をかぶることにはよくなれていたが、それでもその時の感情にはほとんどたえ難いものがあった。彼女は急いで自分の娘たちを寝床に追いやった。それからコゼットをも寝かそうとその黄色い着物の男に許可[#「許可」に傍点]を願った。今日は大変疲れていますから[#「今日は大変疲れていますから」に傍点]などと母親らしい様子でつけ加えた。でコゼットは、両腕にカトリーヌを抱いて寝に行った。
上さんは時々、室《へや》の向こうの端の亭主の所へ行った。心を安めるために[#「心を安めるために」に傍点]と自ら言っていた。彼女は亭主とちょっと言葉をかわした。それは大声に言えないだけいっそういら立ったものだった。
「あの糞爺《くそじじい》め! どういう腹なんだろう。ここにやってきて私どもの邪魔をするなんて! あの小さな餓鬼を遊ばしたがったり、人形をやったり、それも、四十スーの値打ちもない犬女郎《いぬめろう》に四十フランもする人形をやったりしてさ! も少ししたら、ベリーの御妃《おきさき》にでも言うように、陛下なんて言い出すかも知れない。正気の沙汰《さた》か、気が狂ったのか、あの変な老耄《おいぼれ》めが。」
「なぜかって、わかってるじゃないか。」とテナルディエは答え返した。「なあに、それが奴《やつ》にはおもしろいんだ! お前にはあの児が働くのがおもしろいように、奴にはあの児が遊ぶのがおもしろいのさ。それはあの男の権利だ。客となりゃあ、金さえ出せば何でも勝手にできるんだからな。あの爺《じい》さんが慈善家だったとしても、それがお前にどうしたというわけはないじゃねえか。もしばか者だったとしたところで、お前に関係したことじゃねえ。何もお前が口を出すことはねえや。向こうには金があるんだからな。」
亭主としての言葉、宿屋の主人としての理論、それはいずれも抗弁を許さないところのものであった。
男はテーブルの上に肱《ひじ》をついて、また何か考え込んだような様子をしていた。商人や馬方などすべての他の旅客らは、少し遠くに身をさけて、もう歌も歌わなかった。彼らは一種の畏敬《いけい》の念をもって男を遠くからながめていた。あんな見すぼらしい着物をつけながら、平気で大きい貨幣をポケットから引き出し、木靴《きぐつ》をはいた小婢《こおんな》に大きな人形を奢《おご》ってやるその男は、確かに素敵なまた恐ろしい爺《じい》さんに違いなかった。
かくて数時間すぎ去った。夜半の弥撒《ミサ》もとなえられ、夜食も終わり、酒飲みの連中も立ち去ってしまい、酒場の戸も閉ざされ、その天井の低い広間にも人がいなくなり、火も消えてしまったが、不思議な男はなお同じ席に同じ姿勢でじっとしていた。時々彼は身をもたしてる肱《ひじ》を右左と変えていた。ただそれだけであった。コゼットが去ってからはもう一言も口をきかなかった。
テナルディエ夫婦だけが、作法と好奇心とからその広間に残っていた。「夜通しあんなふうにしているつもりかしら、」と女房はつぶやいた。午前の二時が鳴った時、彼女はついに閉口して亭主に言った。「私はもう寝ますよ。好きなようになさるがいいわ。」亭主は片すみのテーブルにすわって、蝋燭《ろうそく》をつけ、クーリエ・フランセー紙を読み初めた。
そういうふうにして一時間余りたった。あっぱれな亭主は少なくとも三度くらいはくり返してクーリエ・フランセー紙をその日付けから印刷者の名前まで読み返したが、男は身を動かそうともしなかった。
テナルディエは身体を動かし、咳《せき》をし、唾《つば》を吐き、鼻をかみ、椅子《いす》をがたがたいわしたが、それでも男は身動きもしなかった。「眠ってるのかしら、」とテナルディエは考えた。が男は眠ってるのではなかった。しかし何物も彼の心を呼びさますことはできなかった。
ついにテナルディエは帽子をぬぎ、静かに近寄ってゆき、思い切って彼に言ってみた。
「旦那《だんな》、お休みになりませんか。」
寝ませんか[#「寝ませんか」に傍点]という言葉でも彼にはじゅうぶんな親しいものに思われたかも知れなかった。という言葉にはぜいたくの気味があって、敬意が含まれてるのだった。それらの言葉は翌朝の勘定書の数字を大きくする不思議な驚くべき性質を持っているのである。寝る[#「寝る」に傍点]室《へや》が二十スーなら、休む室は二十フランするのである。
「やあ、なるほど。」と男は言った。「廐《うまや》はどこにありますか。」
「旦那、」とテナルディエは微笑を浮かべて言った、「御案内いたしましょう。」
亭主は蝋燭《ろうそく》をとり、男は包みと杖とを取った。そして亭主は彼を二階の室に導いた。特別にりっぱな室で、マホガニー製の家具が備えてあり、船型寝台と赤いキャラコの帷《とばり》とがついていた。
「これはいったい何ですか。」と旅客は言った。
「私どもの結婚の時の室でございます。」と主人は言った。「今では私ども二人は他の室に寝るようにしています。一年に三四度しかだれもはいらないのです。」
「私には廐でも同じだったのに。」と男は無造作に言った。
テナルディエはそのあまり愛想のない言葉を耳にしなかったようなふうをした。
彼は暖炉の上に出てる新しい二本の蝋燭に火をともした。炉の中にはかなりよく火が燃えていた。
暖炉棚の上にはガラス器の中に、銀糸とオレンジの花とのついた女の帽子が一つあった。
「そしてこれは、何ですか。」と男は言った。
「旦那《だんな》、それは家内が結婚の時の帽子でございます。」とテナルディエは答えた。
旅客はそれをながめたが、「ではあの怪物にも処女の時代があったのかな、」とでもいうような目つきだった。
だがテナルディエは嘘《うそ》を言ったのである。その家を借りて飲食店にしようとした時から、室《へや》は今のとおりであった。彼はそれらの家具やオレンジの花の中古の帽子などを買い取った。それによって「自分の配偶者」には優雅な光がそうことになり、そうしておけばこの家もイギリス人のいわゆるりっぱな体面をそなえることになると、彼は考えたのであった。
旅客がふり返った時には、亭主はもうそこにいなかった。テナルディエは翌朝うまく金をしぼり取ってやるつもりのその男には不遠慮な親しい待遇をしないがいいと思って、あいさつもせずにひそかに逃げ出してしまったのである。
亭主は自分の室に退いた。女房は床《とこ》についていたが、眠ってはいなかった。亭主の足音が聞こえた時彼女はふり向いて言った。
「私|明日《あした》になったらコゼットをたたき出してしまいますよ。」
テナルディエは冷ややかに答えた。
「そうか。」
彼らはその他の言葉をかわさなかった。やがて蝋燭《ろうそく》は消された。
旅客の方では、室の片すみに杖と包みとを置いた。亭主が出て行くと、肱掛椅子《ひじかけいす》にすわってしばらく考え込んだ。それから靴をぬぎ、蝋燭の一本を手に取り一本を吹き消し、扉《とびら》を押し開き、何かをさがすようなふうであたりに目を配りながら室を出て行った。廊下を通って階段の所へ達した。そこで、子供の息のようなきわめて静かな小さな音を耳にした。その音に引かれて彼は、階段の下に作られてる――というよりもむしろ階段でできてる一種の三角形の押し入れみたいな所へやってきた。それは階段の下のすき間にすぎなかった。そこに、古かごや古びんなどの間に、ほこりや蜘蛛《くも》の巣などの中に、一つの寝床があった。もっとも寝床と言っても、穴があいて中の藁《わら》が見えている蒲団《ふとん》と、下まで見通せるほど穴だらけの掛け物とにすぎなかった。敷き布もなかった。そして、それだけのものが床石《ゆかいし》の上にじかに置かれていた。その寝床の中に、コゼットが眠っていた。
男はそこに近づいて、彼女をながめた。
コゼットは深く眠っていた。着物もきたままだった。冬には、なるべく寒くないように着物もぬがないで眠るのであった。
彼女はしっかと人形を抱きしめていた。人形の大きく開かれた目はやみの中に光っていた。時々彼女は目をさましかかってるように大きなため息をもらしては、ほとんど痙攣的《けいれんてき》に人形を腕に抱きしめた。寝床のそばにはただ片方の木靴《きぐつ》があった。
コゼットの寝てる物置きのそばに一つの扉《とびら》が開いたままになっていて、そこからかなり広い薄暗い室《へや》が見えていた。男はそこにはいって行った。奥の方に、一つのガラス戸を通して、一対の小さなまっ白な寝床が見えていた。アゼルマとエポニーヌとの寝床であった。その向こうに柳の枝でできた帷《とばり》なしの揺籃《ゆりかご》が半ば見えていた。中には、その晩、始終泣き通しにしていた小さい男の児が眠っていた。
男はその室がテナルディエ夫婦の寝てる室に続いていることを察した。そして引き返そうとした時、彼の目はそこの暖炉の上に落ちた。それはよく宿屋に見受けられる大きなやつで、火がある時でもきまってごくわずかであって、見ても寒そうに思われるものだった。今その暖炉には、火もなければ灰さえもなかった。けれども男の注意を引くものがそこにあった。それはかわいらしいかっこうの大小二つの子供靴だった。クリスマスの晩暖炉の中に履物《はきもの》を置いておいて、親切なお爺《じい》さんがりっぱな贈物を持ってきてくれるのを暗やみのうちに待つという、あのおもしろい古くからの子供の習慣を、彼はその時思い出した。エポニーヌとアゼルマとはそのことを忘れないで、めいめい自分の靴を片方ずつ暖炉の中に置いていたのである。
男は身をかがめてのぞいてみた。
親切なお爺さんは、すなわち母親は、既にやってきたと見えて、両方の靴の中にはそれぞれ、新しいりっぱな十スー銀貨が光っていた。
男は立ち上がって去ろうとした。その時彼は、炉の奥の方の暗いすみっこの影に、も一つ何かがあるのを認めた。よく見るとそれは木靴だった。ぶかっこうな醜い木靴で、半ばこわれかかっていて、かわいた泥と灰とにまみれていた。コゼットの木靴だった。コゼットはいくらだまされても決して気を落とさない子供心のいじらしい信頼で、暖炉の中に自分も木靴を置いたのであった。
絶望のほかは何事も知らなかった子供のうちにもなお残っているその希望こそ、崇高なまた優しいものではないか。
その木靴の中には何にもはいっていなかった。
男は胴着の中をさぐり、身をかがめ、コゼットの木靴の中にルイ金貨を一つ入れた。
それから彼は抜き足して自分の室《へや》へ戻った。
九 テナルディエの策略
翌朝少なくとも夜明けより二時間ぐらい前に、テナルディエは酒場の天井の低い広間で蝋燭《ろうそく》の傍《わき》にすわって、手にペンを執り、黄色いフロックの旅客への請求書をしたためていた。
女房はそばに立ちながら半ば彼の上に身をかがめて、ペンの跡をたどっていた。彼らは一言も言葉をかわさなかった。一方は、深く考え込んでおり、一方は、人の頭から驚くべきものが出現してくるのを見るおりのあの敬虔《けいけん》な嘆賞の念に満たされていた。家の中にはただ一つの物音がしていた。それは雲雀娘《ひばりむすめ》が階段を掃除する音だった。
およそ十五分もたってから、いくらかの添削をした後、テナルディエは次の傑作をこしらえ上げた。
一号室様への請求書
一、夕食 三フラン
一、室代 十フラン
一、蝋燭代 五フラン
一、炭代 四フラン
一、雑用 一フラン
合計 二十三フラン
右の書き付けのうち雑用というのはまちがって難用[#「難用」に傍点]と書いてあった。
「二十三フラン!」と女房は多少|躊躇《ちゅうちょ》の色を浮かべながら感心して叫んだ。
あらゆる大芸術家のように、テナルディエはそれでもなお満足してはいなかった。
「なあに!」と彼は言った。
それはあたかも、ウイン会議においてフランスの賠償金額を定めてるカスルリーグのような調子だった。
「なるほどそうね。それぐらいは相当さ。」と女房は自分の娘たちの面前で男がコゼットに人形を与えたことを考えながらつぶやいた。「それで当たりまえよ。けれどあまり多すぎるようね。払うまいとしやしないかしら。」
テナルディエは冷ややかに笑った。そして言った。
「いや払うよ。」
その笑いは、信頼と権威とを明示するものだった。そんなふうにして言われることはきっとそのとおりになるに違いなかった。で女房も言い張らなかった。彼女はテーブルを並べはじめ、亭主は室《へや》の中をあちこち歩き回った。ややあって彼はまたつけ加えて言った。
「こっちは千五百フランの借りがあるんだからな。」
彼は暖炉のすみに行って腰をかけ、両足をあたたかい灰の上に差し出して考え込んだ。
「ねえ、」と女房は言った、「今日はどうあってもコゼットをたたき出しますよ、よござんすか。あの畜生め! 人形を持ってる所を見ると、私はむかむかしてくる。彼奴《あいつ》をこれから一日でも家に置いとくくらいなら、ルイ十八世のお妃《きさき》にでもなった方がまだましだ。」
テナルディエはパイプに火をつけ、煙を吹きながらそれに答えた。
「お前から勘定書をあの男に渡してくれ。」
そして彼は室《へや》から出て行った。
彼が出てゆくや否や、旅客がはいってきた。
テナルディエはすぐに客の後ろにまた現われて、女房にだけ見えるようにして半分開いた扉《とびら》の所にじっと立ち止まった。
黄色い着物の旅客は、杖と包みとを手に持っていた。
「まあこんなにお早く!」と上さんは言った。「もうお発《た》ちですか。」
そう言いながら彼女は、具合悪そうに勘定書を両手のうちにひねくって、爪《つめ》で折り目をつけていた。その冷酷な顔には、珍しく卑怯《ひきょう》と懸念との影が見えていた。
どう見ても「貧乏人」としか思われない男にそんな書き付けを出すことが、彼女には何だか不安に思われたのである。
旅客は何かに心を奪われてぼんやりしてるようだった。彼は答えた。
「ええ、もう発ちます。」
「旦那《だんな》は、」と上さんは言った、「モンフェルメイュに用がおありではないんですか?」
「いや、ただ通りかかったのです。それだけです。……そして、」と彼はつけ加えた、「勘定は?」
上さんは何とも答えないで、折り畳んだ書き付けを彼に差し出した。
男はそれをひろげてながめた。しかし明らかに彼の注意は他の方へ向いてるらしかった。
「お上さん、」と彼は言った、「この土地では繁昌《はんじょう》しますかね。」
「どうにか旦那《だんな》。」と上さんは答えながら、男が別に何とも言わないのでぼんやりしてしまった。
彼女は悲しそうな嘆くような調子で続けて言った。
「どうも、不景気でございますよ。それにこの辺にはお金持ちがあまりありませんのです。田舎《いなか》なもんですからねえ。時々は旦那のような金のある慈悲深い方がおいで下さいませんではね。入費《いりめ》も多うございますし、まああの小娘を食わしておくのだってたいていではございません。」
「どの娘ですか。」
「あの、御存じの小娘でございますよ、コゼットという。この辺では皆さんにアルーエット([#ここから割り注]訳者注 ひばり娘の意[#ここで割り注終わり])と言われていますが。」
「ああなるほど。」と男は言った。
上さんは続けた。
「百姓ってなんてばかなんでございましょう、そんな綽名《あだな》なんかをつけて。あの児は雲雀《ひばり》というよりか蝙蝠《こうもり》によけい似ていますのに。ねえ旦那、私どもは人様に慈善をお願いすることなんかいたしませんが、自分で慈善をするだけの力はございません。一向もうけはありませんのに、出すことばかり多いんで。営業税、消費税、戸の税、窓の税、付加税なんて! 政府から大変な金を取られますからねえ。それに私には自分の娘どもがいるんですから、他人の子供を育てなければならないというわけもありませんのです。」
男はつとめて平気を装って口を開いたが、その声はなお震えを帯びていた。
「ではその厄介者を連れていってあげましょうか。」
「だれを、コゼットでございますか。」
「そうです。」
上さんの赤い激しい顔は醜い喜びの表情に輝いた。
「まあ旦那《だんな》、御親切な旦那! あれを引き受けて、引き取って、連れてって、持ってって下さいまし、砂糖づけにして、松露煮にして、飲むなり食うなりして下さいまし。まあ恵みぶかい聖母様、天の神様、何てありがたいことでございましょう。」
「ではそうしましょう。」
「本当ですか、連れてって下さいますか。」
「連れてゆきます。」
「あのすぐに?」
「すぐにです。呼んで下さい。」
「コゼット!」と上さんは叫んだ。
「ですが、」と男は言った、「勘定は払わなければなりません。いくらですか。」
彼は勘定書を一目見たが、驚きの様子をおさえることはできなかった。
「二十三フラン!」
彼は上さんをながめて、また繰り返した。
「二十三フラン!」
そう繰り返した言葉の調子のうちには、一方に驚きと他方には疑惑がこもっていた。
ちょっと間《ま》があったので上さんはその打撃に応ずることができた。彼女はしかと答えた。
「さようでございます。二十三フランです。」
男はテーブルの上に五フランの貨幣を五つ置いた。
「娘をつれておいでなさい。」と彼は言った。
その時テナルディエは室《へや》のまんなかに出てきて、そして言った。
「旦那《だんな》の勘定は二十六スーでいい。」
「二十六スー!」と女房は叫んだ。
「室代が二十スー、」とテナルディエは冷ややかに言った、「そして夕食が六スー。娘のことについては少し旦那に話がある。席をはずしてくれ。」
女房はその意外な知恵のひらめきを見てすっかり参ってしまった。千両役者が舞台に現われたような気がした。そして一言も返さないで、室から出て行った。
二人だけになると、テナルディエは客に椅子をすすめた。客は腰をおろした。テナルディエは立っていた。そして彼の顔は、人の好《よ》さそうな質朴らしい特殊な表情を浮かべた。
「旦那、」と彼は言った、「まあお聞き下さい。私はまったくあの児がかわいいんです。」
男は彼をじっと見つめた。
「どの児です?」
テナルディエは続けて言った。
「妙なもんですよ、心をひかれるなんて。おや、この金はどうしました。まあこれはお納め下さい。で私はその娘がかわいいんでしてね。」
「いったいだれのことです。」と男は尋ねた。
「なに、うちのコゼットですよ。旦那《だんな》はあれを連れてってやろうとおっしゃるんでしょう。そこで、正直なところを申し上げると、まあ旦那がりっぱな方だというのと同じくらい本当のことを申せばですな、実は私はそれに不同意なんです。あの児がいないと物足りませんでね。ごく小さい時分から育てましたんでね。それは金もかかりますし、よくないところもありますし、私どもに金はありませんし、実際のところ、あれの病気にはただ一度で四百フラン余りの薬代も払ったことがありますが、神様のためと思えば少しぐらいはしてやらなければなりません。父親も母親もありませんので、私が手一つで育て上げました。私とてあの児に食わせ、また自分で食うだけのパンは持っております。実際私はあの児を大事にしています。まあ人情が出てきたんですな。私はばか者で、一向理屈はわかりません。がただかわいいんです。家内は活発な方ですが、やはりかわいがっています。ごらんのとおり、自分たちの児のようにしています。あれが家の中でしゃべくってるのが楽しみでして。」
男はなお彼をじっとながめていた。彼は続けた。
「失礼ではございますが旦那、通りがかりの人に自分の児をこうして渡してしまう者もありますまい。私の申すところも、もっともでございましょう。そこで、旦那はお金持ちで、お見受けしたところごくりっぱな方で、それがあの児のためになるかどうかなどと申すのではありませんが、それでもよく事情はわかっていませんではね。おわかりでもありましょうが、まああれをやるとしまして、かりに私情を犠牲にしますとしてもですな、あれがどこへ行くかぐらいは知りたいではありませんか。見失いたかあありませんよ。どこにいるかぐらいは知っていて、時々は会いにも行きましょうし、またあの児も、育て親があって自分を見ていてくれてるということを知るというわけです。世間にはずいぶん思いがけないことも起こりますからね。私は旦那《だんな》の名前さえ存じませんし、あれを連れてゆかれますとしたら、あああのアルーエットはいったいどこへ行ったんだろうと、私はただ嘆息するほかはありませんからね。何かちょっとした書き物でも、まあいわば通行券なりと、それを拝見して置きたいと思いますが。」
男はいわば相手の本心の底までも貫くような目つきでじっと彼をながめながら、おごそかな確乎《かっこ》たる調子で答えた。
「テナルディエ君、パリーから五里くらい離れるのに通行券を持ってくる者はいません。コゼットを連れて行くと言ったら連れてゆくだけのことです、それだけです。私の名前も、私の住所も、またコゼットがどこへ行くかも、君に知らせる必要はありません。私はあの児を生涯《しょうがい》再び君に会わせまいというつもりです。私はあの児の繩《なわ》を解いてやって、逃がそうというのです。それでどうですか。承知ですかそれとも不承知ですか。」
悪魔や妖鬼《ようき》などが何かのしるしで自分よりまさった神のいることを知るように、テナルディエは相手がなかなか手ごわいことをさとった。それはほとんど直覚だった。彼はそれを明確|怜悧《れいり》な機敏さでさとった。前夜、馬方らと酒をのみながら、煙草《たばこ》をふかしながら、卑猥《ひわい》な歌を歌いながら、彼は猫のように覘《うかが》い数学家のように研究して、始終その見なれぬ男を観察していたのである。彼は同時に自分のためと楽しみと本能とから男を窺《うかが》い、あたかも金で頼まれたかのように偵察《ていさつ》していたのである。そしてその黄色い上衣の男の一挙手一投足はことごとく彼の目をのがれなかった。男がコゼットに対する興味を明らかに示さない前から、テナルディエは既にそのことを見破っていた。その老人の奥深い目つきが絶えずコゼットの方へ向けらるるのを見て取っていた。何ゆえにそう興味を持つのだろう? いったい何者だろう? 金入れにはいっぱい金を持ちながら、何ゆえにああ見すぼらしい服装《なり》をしているのだろう? そういう問題を彼は自ら提出しながら、解決ができず、いら立っていた。彼はそのことを夜通し考えた。あの男はコゼットの父親であるわけはない。では祖父ででもあろうか? それならばなぜすぐに名乗らないのであろうか? 権利がある者は、すぐにそれを示すはずである。あの男は明らかにコゼットに対しては何らの権利も持っていないに違いない。するといったい何者だろう? テナルディエはどう推測していいかわからなくなってしまった。彼はすべてを垣間見《かいまみ》たが、ついに何物もはっきり見付け得なかった。とはいうものの、その男にあれこれとしゃべり立てながら、これには何か秘密があるし、男は身分を隠したがっているのだなと思って、彼は自分の強味を感じた。ところが男の明晰《めいせき》確乎《かっこ》たる返答に出会って、その不思議な男はただ不思議なばかりで何らとらうべきところがないのを見た時、彼は自分の弱味を感じた。彼は少しもそういうことを予期していなかった。彼の推測はことごとく破れてしまった。彼はあらゆる考えを集中してみた。そして一瞬間、考慮をめぐらした。彼は一見して前後の事情を判断し得るような人物であった。で今や単刀直入に事を運ぶべき場合であると考えた。他人の目にはわからなくともそれと察し得らるる危急な場合に大将軍らが決行することを、彼はついに断行した。彼は砲門を隠した幕をにわかに引き払った。
「旦那《だんな》、」と彼は言った、「私は千五百フランいただきたいんです。」
男は脇《わき》のポケットから黒皮の古い紙入れを出し、それを開き、紙幣を三枚引き出して、テーブルの上に置いた。それから、その紙幣の上を大きな親指で押さえて、亭主に言った。
「コゼットをお呼びなさい。」
さてそういうことが行なわれてる間に、コゼットは何をしていたか?
その朝コゼットは目をさますと、木靴の所へ走って行った。彼女はそこに金貨を見いだした。それはナポレオン金貨ではなく、王政復古のごく新しい二十フラン金貨であって、表には月桂冠《げっけいかん》の代わりに、プロシア式の小さな辮髪《べんぱつ》が刻んであった。コゼットは目がくらむような気がした。彼女の運命は彼女を眩惑し初めた。彼女は金貨がどういうものであるか知らなかった。まだ一度も金貨を見たことがなかった。彼女はそれを盗みでもしたように急いでポケットの中に隠した。けれどもまさしく自分のものであることを感じていた。だれがそれを自分にくれたかをも察していた。一種の恐ろしさに満ちた喜びを感じていた。彼女は満足であった。がことに惘然《ぼうぜん》としていた。かくもりっぱな美しい品々は、現実のものとは思えなかった。人形は彼女をこわがらせ、金貨は彼女をこわがらした。彼女はそれらの驚くべきものの前に何となく身を震わした。ただあの見知らぬ男だけが彼女をこわがらせなかった。いな、かえって彼女の心を落ち着けさした。既に前夜から、驚きのうちにまた眠りのうちに、彼女はその小さな子供心にも、年取った貧乏な悲しげな様子をしながら金持ちで慈悲深いその男のことを、考えまわしていた。その老人に森の中で出会ってから、すべてが一変したように彼女には思われた。空飛ぶ一羽の小さな燕《つばめ》よりもなお不仕合わせなコゼットは、母の影に翼の下に身を隠すということがどんなものであるか、かつて知らなかった。五年この方、すなわち彼女の記憶にある限りにおいて、あわれな小娘の彼女はたえず震えおののいていた。いつも不幸の鋭い寒風の下に裸でさらされていた。ところが今、彼女は身に着物をまとったような心地がした。以前は彼女の心は凍えていたが、今は暖くなっていた。彼女はもうテナルディエの上さんをそう恐れはしなかった。もうただ一人ではなかった。だれかがそこにいてくれた。
彼女はきまった朝の仕事に急いで取りかかった。自分の身につけてるルイ金貨の方へ、前夜十五スー銀貨を落とした同じ胸掛けのポケットにはいってるルイ金貨の方へ、しきりに気を取られた。彼女はあえてそれに手は触れなかった。けれども、五分間もじっとそれのことを考えてることがあった、あえて言わなければならないが、舌をだらりと出したまま。階段を掃除《そうじ》しながらも、手を休めてそこにじっとたたずみ、箒《ほうき》のこともまた何もかも世の中のことを忘れてしまって、自分のポケットの底に輝いてるその星を心で見つめた。
そういうふうにして考え込んでる時だった。テナルディエの上さんが彼女の所へやってきた。
亭主の言いつけで彼女はコゼットをさがしにきたのであった。不思議にも彼女は打ちもしなければどなりつけもしなかった。
「コゼット、」と彼女はほとんどやさしく言った、「すぐにおいで。」
間もなくコゼットは天井の低い広間にはいってきた。
見知らぬ男は、携えていた包みを取り上げて、それを解いた。中には、小さな毛織りの長衣、胸掛け、綿麻の下着、裾着、肩掛け、毛糸の靴下、靴、すべて八歳の小娘に要するいっさいの衣装がはいっていた。みな色は黒であった。
「さあお前、」と男は言った、「これを持って行ってすぐに着ておいでなさい。」
日が出ようとする頃、戸をあけ初めたモンフェルメイュの人々は、見すぼらしい服装《なり》をした老人が、腕に薔薇色《ばらいろ》の大きな人形を抱えた喪服の小娘の手を引いて、パリー通りを歩いてゆくのを見た。彼らはリヴリーの方へ進んで行った。
それはあの旅客とコゼットであった。
だれもその男を知ってる者はなかった。またコゼットも今はぼろを着ていなかったので、多くの者はそれと気づかなかった。
コゼットはそこを立ち去りつつあった。だれとともに? 自分でもそれを知らなかった。どこへ向かって? 自分でもそれを知らなかった。ただ彼女の知っていたことは、今や自分はテナルディエの飲食店をあとにしているということのみだった。だれも彼女に別れを告げようとするものもいなかった。また彼女もだれに別れを告げようとも思わなかった。憎み憎まれたその家から彼女は出て行った。
あわれなやさしき娘よ、その心はこれまでただ圧迫をのみ受けていたのである!
コゼットは大きな目を開いて、大空をうちながめながらしっかりした足取りで歩いていた。彼女は新しい胸掛けのポケットにルイ金貨を入れていた。時々身をかがめてはちらとそれをのぞき込み、それから老人を見上げた。彼女はあたかも神様の近くにでもいるような心地がした。
十 最善を求むる者は時に最悪に会う
テナルディエの女房はいつものとおり亭主のなすままに任しておいた。彼女は何か大事を予期していた。男とコゼットとが立ち去った時、テナルディエは十五分余りもじっとしていたが、やがて女房をわきに呼んで、千五百フランを見せた。
「それだけですか!」と彼女は言った。
二人が家を持っていらい、彼女が亭主の仕事に批評がましい口を出したのは、それが初めてだった。
それはみごとに的に当たった。
「なるほど、お前の言うとおりだ。」と亭主は言った。「ばかをやった。帽子を取ってくれ。」
彼は三枚の紙幣を折ってポケットにつっ込み、大急ぎで出て行った。しかし彼は方向をまちがえて、初め右の方へ行った。それから近所の者に尋ねて本当の方向を知った。アルーエットと男とはリヴリーの方へ行くのが見られたそうである。彼はその言葉に従い、独語しながら大またに進んで行った。
「あの男は黄色い着物を着てるがまさしく大金持ちだ。俺はばかだった。初めに二十スー出し、それから五フラン、それから五十フラン、それから千五百フラン、それも無造作に出してしまった。一万五千フランでも出したかも知れない。だが追っつけるだろう。」
それからまた、子供のために前から用意してきた着物の包み、それが不思議だった。それには何か秘密があるに相違なかった。秘密をつかんでおいて手放すということがあるものではない。金持ちの秘密は金を含んだ海綿と同じだ[#「同じだ」は底本では「同じた」]。それをしぼってやらなければいけない。そういう考えが彼の脳裏に渦巻いた。「俺《おれ》はばかだった、」と彼は独語した。
モンフェルメイュを出て、リヴリーへ行く道が曲がってる所まで行くと、その先は高原の上に続いているのが遠くまで見渡される。で彼はそこまで行ったら、男と娘との姿が見えるものと考えた。それで目の届く限り見渡してみたが、何にも見えなかった。彼はまた人に尋ねてみた。そうこうするうちに時間を失っていた。通りがかりの人々の言葉では、彼がさがしてる男と子供とはガンニーに面した森の方へ行ったということだった。彼はその方向へ急いだ。
二人は彼より先に出かけていた。しかし子供の足は遅い。そして彼は早く歩いていた。その上その辺の地理に彼は詳しかった。
突然彼は立ち止まって、額をたたいた。あたかも大事なことを忘れていて引き返そうとしてる者のようだった。
「銃を持って来るんだった!」と彼は思った。
テナルディエは二重の性格を持ってる男だった。そういう男はしばしば、だれも気づかぬうちに人々の間を通りぬけ、まただれにも認められずに姿を隠してしまうものである。なぜなら、そのただ一方面だけをしか見せないようにできているから。多くの者は、そういうふうにして半ば影に潜んで生活するようになっている。平和な普通の場合にはテナルディエは、正直な商人、善良な市民――である、とは言えないが――となるに足るだけのものを持っていた。と同時にまたある場合になると、底の性質をもたげさせるようなある事件が起こると、悪党たるに足るだけのものを持っていた。彼は底に怪物を蔵した商人であった。彼が生活してる家の片すみには、悪魔が時々うずくまって、自分が作ったその醜い傑作の前に思いにふけったに違いない。
ちょっと躊躇《ちゅうちょ》した後、彼は考えた。
「ええ、ぐずぐずしてるうちには逃げてしまう!」
そして彼はまっすぐに大急ぎで進んでいった。あたかも鷓鴣《しゃこ》の群れをかぎつけた狐《きつね》のように敏捷《びんしょう》に、ほとんど確信があるような様子で。
果して、池の所を通りすぎ、ベルヴュー並み木道の右手にある広い粗林を斜めに横ぎって、シェル修道院の昔の水道の覆《おお》いとなってほとんど丘を取り巻いてる芝生《しばふ》の小道まで達した時、彼は一つの帽子が藪《やぶ》の上から見えてるのを認めた。彼がいろんな憶測をなげかけた帽子で、あの男の帽子だった。藪は低かった。テナルディエは男とコゼットがそこにすわってるのを見て取った。コゼットの方は小さいので見えなかったが、人形の頭が見えていた。
テナルディエの見当はまちがわなかった。男は実際そこにすわってコゼットを少し休ましていたのである。テナルディエは藪をまわって、追いかけてきたその二人の目の前に突然現われた。
「ごめん下さい。」と彼は息を切らしながら言った。
「ここに旦那《だんな》の千五百フランを持って参りました。」
そう言いながら彼は、三枚の紙幣を男の前に差し出した。
男は目をあげた。
「それはいったいどういうわけですか。」
テナルディエは丁寧に返事をした。
「旦那、コゼットを返していただきたいと申すのです。」
コゼットは身を震わして、男にひしと寄りすがった。
男はテナルディエの目の中をのぞき込みながら、一語一語ゆっくりと答えた。
「君がコゼットを、返してもらいたいのですと?」
「はい旦那《だんな》、返していただきましょう。こういうわけなんです。私はよく考えてみました。実際私は旦那に娘をお渡しする権利はありませんのです。私は正直な人間ですからな。この娘は私のものではなく、その母親のものです。私にこの娘を預けたのは母親ですから、母親にだけしか渡すことはできません。母親は死んでるではないかと旦那はおっしゃるでしょう。ごもっともです。で私はこの場合、この人に子供を渡してくれといったような、何か母親の署名した書き付けを持って参った人にしか、子供を渡すことはできませんのです。明瞭《めいりょう》なことなんです。」
男は何とも答えないでポケットの中を探った。テナルディエは紙幣のはいってる紙入れがまた出てくるのを見た。
テナルディエはうれしさにぞっとした。
「うまいぞ!」と彼は考えた、「一つ談判をしてやろう。俺を買収するつもりだな。」
紙入れを開く前に、旅客はあたりを見まわした。まったく寂寞《せきばく》たる場所だった。森の中にも谷合いにも一つの人影も見えなかった。男は紙入れを開いた。そして中から、テナルディエが待っていた一つかみの紙幣ではなく、一枚の小さな紙片を取り出した。男はそれを開いて、テナルディエの前につきつけて言った。
「道理《もっとも》です。これを読んでもらいましょう。」
テナルディエは紙片を取り上げて読んだ。
モントルイュ・スュール・メールにて、一八二三年三月二十五日
テナルディエ殿
この人へコゼットを御渡し下されたく候
種々の入費は皆支払うべく候
謹《つつし》みてご挨拶《あいさつ》申し上げ候
ファンティーヌ
「君はこの署名を覚えていましょうね。」と男は言った。
それはいかにもファンティーヌの署名だった。テナルディエはそれを認めた。
もう何ら抗弁の余地はなかった。彼は二重の激しい憤懣《ふんまん》の情を感じた、望んでいた買収をあきらめなければならない憤懣と、取りひしがれた憤懣と。男は続けて言った。
「その書き付けは娘を渡したしるしとして納めておいてかまいません。」
テナルディエは整然と引きさがった。
「この署名は巧みに似せてある。」と彼は口の中でつぶやいた。「まあ仕方がない。」
それから彼は絶望的な努力を試みた。
「旦那《だんな》、」と彼は言った、「よろしゅうござんす。あなたがその人ですから。しかし『種々の入費』を払っていただかなければなりません。だいぶの金額《たか》になります。」
男はすっくと立ち上がった。そしてすり切れた袖《そで》についてる塵《ちり》を指先で払いながら言った。
「テナルディエ君、この正月に母親は百二十フラン君に借りがあると言ってました。ところが君は二月に五百フランの覚え書きを送ってきて、二月の末に三百フランと三月の初めに三百フラン受け取っている。その時から九カ月たっているので、約束どおり月に十五フランとして百三十五フランになるわけです。ところが君は前に百フランよけいに受け取っているから、残りの金は三十五フランになるわけです。それに対して先刻私は千五百フラン払ってあげた。」
テナルディエの気持ちは、ちょうど狼《おおかみ》が係蹄《わな》にかかってその鉄の歯で押さえつけられた時のようなものだった。
「この畜生、何者だろう?」と彼は考えた。
その時彼は狼と同様のことをした。彼は飛び上がった。大胆な態度は前に一度成功したのだった。
「名前もわからない旦那《だんな》、」とこんどは丁寧なやり方をすてて決然と彼は言った、「私はコゼットを連れて帰るまでです。さもなければ三千フランいただきましょう。」
男は静かに言った。
「さあおいで、コゼット。」
彼は左手にコゼットの手を取り、右手で地に置いていた杖を拾い上げた。
テナルディエはその杖がいかにも大きいことと、あたりが寂寞《せきばく》としてることを認めた。
二人が立ち去ってゆく時、男の前かがみがちな広い肩とその大きな拳《こぶし》とを、テナルディエはながめた。
それから彼の目は、自分自身を顧みて、自分の細い腕とやせた手との上に落ちた。「俺《おれ》は実際ばかだった、」と彼は考えた、「銃も持たずにさ。猟にきたわけなのに!」
それでも彼はなお獲物を逃がそうとしなかった。
「どこへ行くか見届けてやれ。」と彼は言った。そして遠くから二人の跡をつけ初めた。彼の手には二つのものが残っていた、ファンティーヌの署名した紙片のにがにがしさと、千五百フランの多少の慰謝と。
男はコゼットを連れて、リヴリーとボンディーの方へ行った。頭をたれゆるやかに足を運んで、何か考え続けてるような、また悲しげな様子だった。冬のために森は透かし見らるるようになっていたので、テナルディエはかなり後ろの方に遠くにいたがなお二人の姿を見失わなかった。時々男はふり返って、跡をつけられてはしないかをながめた。突然彼はテナルディエを見つけた。彼はにわかにコゼットとともに深い木立ちの中にはいった。そして二人の姿は見えなくなってしまった。「悪魔め!」とテナルディエは言った。そして足を早めた。
木立ちが込んでいたので、彼は二人に近寄らなければならなかった。男は最も茂みの深い所に達した時、ふり返ってみた。テナルディエは木の枝の間に姿を隠そうとしたがだめだった。男の目につかざるを得なかった。男は不安な一瞥《いちべつ》を彼に与え、それから頭を振って、また歩き出した。テナルディエはまたその跡をつけた。そして彼らは二、三百歩ばかり進んだ。と突然、男はまたふり向いた。彼はテナルディエを認めた。そしてこんどはきわめてすごい顔をしてじっとにらめた。でテナルディエも、それ以上行ったとて「無益」であると考えた。彼はあとへ引き返した。
十一 九四三〇号再び現われコゼットその籤《くじ》を引く
ジャン・ヴァルジャンは死んだのではなかった。
海へ落ちた時、いな、むしろ自ら海に身を投じた時、彼は前に述べたとおり鎖から解かれていた。彼は水中をくぐって停泊中のある船の下まで泳ぎついた。一艘《いっそう》の小舟がその船につないであった。彼は晩まで小舟の中に隠れていることができた。夜になって再び泳ぎ出し、ブロン岬《みさき》から程遠からぬ海岸に達した。金は持っていたので、着物を手に入れることができた。バラギエの付近に一軒の居酒屋があって、その当時脱獄囚のために着物を売っていた。非常に儲《もう》かる商売だそうである。それからジャン・ヴァルジャンは、法律の目と社会の掟《おきて》とをのがれんとするすべての悲しい脱走人らがなすとおり、人知れぬ曲がりくねった道程を取った。ボーセの近くのプラドーに最初の隠れ場所を見い出した。それから上アルプ県にはいって、ブリアンソンの近くのグラン・ヴィヤールの方面へ進んだ。探り探りの不安な逃走で、分かれ道などは全く不明な土竜《もぐら》の穴のような道程だった。後になって彼の逃走の跡は多少見い出された、すなわち、エーン県ではシヴリユーの土地、両ピレネー県ではシャヴァイユ村の近くのグランジュ・ド・ドーメクと言われているアコンの片すみ、それからペリグーの付近ではシャペル・ゴナゲー区のブリュニー。そして最後にパリーにはいった。それから彼がモンフェルメイュへきたのは読者の既に見たところである。
パリーへきてからの第一の仕事は、七、八歳の小娘のために喪服を購《あがな》うことであり、次に住居を求めることであった。それが済んで、彼はモンフェルメイュへ赴《おもむ》いた。
読者の知るとおり、彼はこの前の逃走の時すでに、モンフェルメイュかまたはその付近にひそかな旅をしたのだった。官憲もそのことはうすうす知っていた。
けれども今や彼は死んだと思われていた。そのために彼をおおい隠してるやみはいっそう深くなっていた。パリーで彼は、自分のことを掲載してる新聞を一つ手に入れた。彼はそれで安心を覚え、あたかも実際に死んだような平和を覚えた。
テナルディエ夫婦の爪牙《そうが》からコゼットを救い出した日の夕方、ジャン・ヴァルジャンは再びパリーにはいった。夕暮れの頃コゼットとともにモンソーの市門からはいった。その市門の所で幌馬車《ほろばしゃ》に乗り、天文台の前の広場まで行った。そこで馬車をおりて、御者に金を払い、コゼットの手を引いて、二人で暗夜の中をウールシーヌとグラシエールの両郭に隣している人気のない街路を通って、オピタル大通りの方へ進んで行った。
コゼットにとっては、その日は感動の多い異様な一日であった。寂しい飲食店で買ったパンとチーズとを籬《まがき》の影で食べたこともあった。たびたび馬車を代えたり、しばらくは徒歩で行ったりした。彼女は少しも不平をこぼさなかった。けれどもだいぶ疲れていた。歩きながらしだいに彼女が手を引っぱるようになるので、ジャン・ヴァルジャンもそれに気がついた。彼はコゼットを背中におぶった。コゼットは人形のカトリーヌを手に持ったまま、頭をジャン・ヴァルジャンの肩につけて、そのまま眠ってしまった。
[#改ページ]
第四編 ゴルボー屋敷
一 ゴルボー氏
今から四十年ばかり前のことである。一人でぶらりと歩き回って、サルペートリエールの奥深い裏通りへはいって行き、大通りをイタリー市門の方まで進んで行くと、ついにもうパリーの町も尽きたと思われるような一郭に達するのであった。そこは、通行人があるところを見ると僻地《へきち》でもなく、人家や街路があるところを見ると田舎でもなく、田舎の街道のように通りには轍《わだち》の跡があり、草が茂っているところを見ると町でもなく、人家がごく高いところを見ると村でもなかった。ではいったいどういう所なのか? 人が住んではいるがだれの姿も見えない場所であり、ひっそりとしてはいるがやはりだれかがいる場所であった。それは大都市の一並み木街であり、パリーの一街路ではあるが、夜は森の中よりもいっそう恐ろしく、昼は墓場よりもいっそう陰気だった。
それはマルシェ・オー・シュヴォー(馬市場)という古い一郭であった。
その馬市場のこわれかかった四つの壁の向こうまで進んでゆき、プティー・パンキエ街をたどり、高い壁で囲まれた菜園を右手に過ぎ、大きな海狸《うみだぬき》の巣に似たタン皮の束が立ってる牧場の所を通り、木片や鋸屑《のこぎりくず》や鉋屑《かんなくず》などが山となってその上には大きな犬がほえており、また木材がいっぱい並べてある庭の所を通り、しめきったまっ黒な小門がついていて春には花を開く苔《こけ》でおおわれてる長い低いこわれかけた壁の所を通り、貼札を禁ず[#「貼札を禁ず」に傍点]と大きい字が書いてある朽ちはてたきたない土蔵の壁の所を通ってゆくと、ついにヴィーニュ・サン・マルセル街の角《かど》まで行けるのであった。その辺はあまり人に知られてない所だった。そこにある一つの工場のそばには、両方の庭にはさまれて、当時一軒の破屋があった。それは外から見ると百姓家くらいの小ささだったが、実際は大会堂ほどの大きさをしていた。側面の切阿《きりづま》で通りに面していて、そのために外観の狭小をきたしているのだった。ほとんど家の全体は通りから隠れていた。ただ戸口と一つの窓とが見えるきりだった。
その破屋は二階建てだった。
それをよくながめる時、第一に不思議な点は、戸口は単なる破屋の戸口らしい粗末なものにすぎないのに、窓の方は、それがもし荒ら石の壁の中にあけられてるのでなく切り石の中にでもこしらえられてたら、りっぱな邸宅の窓としても恥ずかしからぬほどのものだった。
戸口はただ腐食した木の板でできていて、その板はいい加減に四角に割った薪《まき》のような横木で無造作に止めてあった。戸口はすぐに急な階段に続いていた。階段は段が高く、白塗りで泥と塵《ちり》とにまみれ、戸口と同じ幅になっていて、表の通りから見ると、梯子《はしご》のようにまっすぐに上っていって二つの壁の間に暗がりに消えていた。戸口がついてるぶざまな壁口の上の方は、狭い薄板で張られ、その薄板のまんなかに三角形の小窓があけられていて、戸口がしめらるる時には軒窓ともなり小窓口ともなっていた。戸口の内側には、インキに浸した二筆《ふたふで》で五二という数字が書いてあり、薄板の上方には同じ筆で五〇という数字が書きなぐってあった。全くどちらが本当かわからなかった。いったい何番地なのか? 戸口の上からは五十番地と言うし、戸口の中からは反対して、いや五十二番地だと言う。三角形の小窓には、塵にまみれた何かのぼろが旗のように掛かっていた。
窓は大きくて、高さも十分であり、鎧戸《よろいど》もあり大きな窓ガラスの框《かまち》もついていた。ただそれらの大きなガラスには種々な割れ目があって、器用に紙で張って隠してあるので、またかえって目立っていた。鎧戸は留め金がはずれぐらぐらしてるので、家の者を保護するというよりもむしろ下を通る人々に不安を与えていた。日よけの横木が所々取れていて、そこには板が縦に無造作に打ち付けてあった。それで初めは鎧戸だったものが、ついには板戸となったありさまである。
時勢遅れのようなその戸口とこわれてはいるが相当なその窓とがかく同じ家に見えることは、ちょうど不似合いな二人の乞食《こじき》を見るようなもので、二人はいっしょに並んで歩いてはいるが、同じようなぼろのうちにも各異った顔つきをしていて、一人は元来の乞食であるが、一人は元一個の紳士であったらしく思えるようなものだった。
階段は建物の一部に通じていて、そこはきわめて広く、ちょうど納屋を住宅にしたもののようだった。建物の中には腸のように廊下が続いていて、それから左右に種々な大きさの部屋らしいものがあったが、それもようやく住まえるだけのもので、部屋というよりむしろ小屋といった形である。それらの室《へや》は周囲の空地に面していた。そしてどれも皆薄暗く、荒々しく、ほの白く、陰鬱《いんうつ》で、墓場のようだった。すき間が屋根にあったり扉《とびら》にあったりするので、それを通して冷たい光線が落ちてきたり凍るような寒風が吹き込んできたりした。そのどうにか住宅らしい建物のうちでおもしろいみごとな一つの点は、蜘蛛《くも》の巣の大きいことであった。
入り口の戸の左手に、大通りに面して身長くらいの高さの所に、塗りつぶした軒窓が一つあって、四角なくぼみをこしらえて、通りがかりの子供らが投げ込んでいった石がいっぱいはいっていた。
この建物の一部は近頃こわされてしまった。けれども今日なお残ってるものを見ても、昔のありさまが察せられる。その全部の建物は、まだほとんど百年の上にはなるまい。百年といえば、教会堂ではまだ青年であるが、人家ではもう老年である。人間の住居は人の短命にあやかり、神の住居は神の永生にあやかるものらしい。
郵便配達夫はその破屋を、五十・五十二番地と呼んでいた。けれどもその一郭では、ゴルボー屋敷という名前で知られていた。
この呼び名の由来は次のとおりである。
本草学者が雑草を集めるように種々な逸話をかき集め、記憶のうちに下らない日付を針で止めることばかりをやってる些事《さじ》収集家らは、前世紀一七七〇年頃、コルボーにルナールというシャートレー裁判所付きの二人の検事が、パリーにいたことを知っているはずである。ラ・フォンテーヌの物語にある烏《からす》(コルボー)と狐《きつね》(ルナール)との名前である。いかにも法曹界《ほうそうかい》の冷笑《ひやかし》の種となるに適していた。そして間もなく、変なもじりの詩句が、法廷の廊下にひろがっていった。
コルボー先生は記録に棲《と》まりて、
差し押さえ物件を啣《くわ》えていたりぬ。
ルナール先生はにおいに惹《ひ》かれて、
次のごとくに話をしかけぬ。
「やあ今日は!」……云々《うんぬん》。
(訳者注 ラ・フォンテーヌの物語の初めを参考までに書き下 ―― 烏先生は木の上にとまって、くちばしにチーズをくわえていた。
狐先生はそのにおいに惹かれて、こんな言葉を彼にかけた。「やあ今日は……云々」
二人の律義《りちぎ》な法律家は、そういう冷評を苦にし、自分の後ろからどっと起こる笑声に少なからず威厳を傷つけられて、名前を変えようと決心し、ついに思い切って国王に請願した。ちょうど一方には法王の特派公使と他方にはラ・ローシュ・エーモン枢機官とが、二人ともうやうやしくひざまずき、陛下の御前において、床から起きてきた御|寵愛《ちょうあい》のデュ・パリー夫人のあらわな両足に各自上靴をおはかせ申したその日に、請願書は国王ルイ十五世に差し出された。笑っていられた国王はそれをみてなお笑われて、心地よく二人の司教の方から二人の検事の方へ向かわれ、その二人の法官の名前をある程度まで許してやられた。で国王の允許《いんきょ》をもって、コルボー氏は名前に濁点を付してゴルボーと名乗ることができた。またルナール氏の方は、プの字を頭につけて、プルナールと名乗ることができたが、前者ほど仕合わせでなかったというのは、第二の名前も第一のとほとんど似たりよったりだったからである。
ところでその辺の言い伝えによれば、そのゴルボー氏がオピタル大通り五十・五十二番地の破屋の所有者であったそうである。あのりっぱな窓をこしらえさしたのも彼自身であったとか。
そういうわけでその破屋は、ゴルボー屋敷という名前をもらっていた。
五十・五十二番地の家のすぐ前には、オピタル大通りの並み木の間に半ば枯れかかった大きな楡《にれ》の木が一本立っていた。家のほとんど正面に、ゴブラン市門の街路が開けていた。その街路には当時人家もなく、舗石《しきいし》もなく、季節によって緑になったり泥をかぶったりする醜い樹木が植えられていて、パリーの外郭の壁にまっすぐに通じていた。硫酸の匂《にお》いがそばの工場の屋根から息をついて吹き出ていた。
市門はすぐ近かった。一八二三年には外郭の壁もまだ残っていた。
その市門は人の心に痛ましい幻を与えるものであった。それはビセートルへ行く道であった。帝政および王政復古の時代に死刑囚らが刑執行の日に、パリーへはいってきたのは、そこからであった。一八二九年ごろにあのいわゆる「フォンテーヌブルー市門」の殺人事件が行なわれたのも、そこにおいてであった。それは実際不思議な事件で、官憲もその犯人らを発見することができず、全く不明に終わった惨劇で、ついに解決を得なかった恐ろしい謎《なぞ》であった。それから数歩進むと、あの不吉なクルールバルブ街になって、そこではあたかもメロドラマの中に見るようにユルバックがイヴリーの羊飼い女を雷鳴のうちに刺し殺したのであった。なお数歩進むと、サン・ジャック市門の所の頭を切られたいやな楡の木立ちの所に達する。あの博愛者らが断頭台を隠すに用いた所であり、死刑の前にたじろぎながら堂々とそれを廃することも、厳としてそれを継続することもあえてできなかった商人や市民などの階級の、陋劣《ろうれつ》不名誉なる刑場であった。
今より三十七年前に、常に恐ろしいほとんど宿命的なそのサン・ジャックの広場を外にして、この陰うつなオピタル大通りのうちでの最も陰鬱《いんうつ》な所といえば、五十・五十二番地の破屋のある今日でもあまり人の好まぬその一|隅《ぐう》であった。
町家はその後約二十五年も後にならなければそこには建て初められなかった。当時そこはきわめて陰惨な場所であった。前に述べたような惨劇を思い起こさせる上に、丸屋根の見えるサルペートリエール救済院とすぐ柵《さく》が近くにあるピセートル救済院との間にはさまってることが感ぜられた、すなわち女の狂人と男の狂人との間にあることが。目の届く限りただ、屠牛《とぎゅう》場や市の外壁や、所々に兵営や僧院に見るような工場の正面などがあるばかりだった。どちらを見ても、板小屋や白堊《はくあ》塗り、喪布のような古い黒壁や経帷子《きょうかたびら》のような新しい白壁。どちらをながめても、平行した並木、直線的な築塀、平面的な建物、冷ややかな長い線とわびしい直角。土地の高低もなければ、建築の彩《あや》もなく、一つの襞《ひだ》さえもない。全景が氷のようで規則的で醜くかった。およそ均斉《シンメトリー》ほど人の心をしめつけるものはない。均斉はすなわち倦怠《けんたい》であり、倦怠はすなわち悲愁の根本である。絶望は欠伸《あくび》をする。苦悩の地獄よりもなお恐るべきものがあるとするならば、それはまさしく倦怠の地獄であろう。もしそういう地獄が実際に存在するものであるならば、このオピタル大通りの一片はまさにその通路であったろう。
けれども、夜の幕がおりてくるころになると、明るみが消え去ってゆくころになると、ことに冬には、夕暮れの寒風が楡《にれ》の最後の霜枯れ葉を吹き払うころになると、そしてあるいはやみが深く星の光もない時、あるいは月光と風とが雲のすき間から落ちてくる時、このオピタル大通りはにわかに恐ろしい趣に変わるのであった。物の直線的な輪郭は、やみのうちに沈み込み姿を隠して、あたかも無限の一片のように思われてくる。そこを通る者は、無数の惨劇の言い伝えを思い出さないわけにはゆかなくなる。多くの犯罪が行なわれたその土地の寂寞《せきばく》さのうちには、何か恐ろしいものがこもっている。やみの中には係蹄《わな》が張られてるような感じがする。漠然《ばくぜん》たる形の物影がみな怪しいように思われる。並み木の間に見える長い四角な空隙《くうげき》が墓穴のように感ぜられる。昼間は醜く、夕方はものわびしいが、夜は陰惨となる。
夏の夕方などは、楡《にれ》の木の下に、雨に朽ちた腰掛けの上にすわってる婆さんなどがあちこちに見られた。それらの婆さんたちはよく人に施しを求めていた。
なおその一郭は、古く寂れてるというよりもむしろ廃《すた》れ切ったようなありさまではあったが、その当時からしだいに面目が変わりつつあった。既にその頃から、その変化を見んとする者は急がなければならなかった。日々に全体のうちのどこかが消滅しつつあった。今日はもとよりもう二十年も前から、オルレアン鉄道の発車場がその古い場末の横に設けられて、そこに働きかけていた。首府のはずれのどこかに、ある鉄道の始点が設けらるる時には、その場末の一区は死滅して一つの市街が生まれるものである。民衆の大中心地たる都市のまわりにおいては、それらの強大なる機械の響きに、石炭を食い火を吐き出すそれらの驚くべき文明の馬の息吹きに、生命の芽に満ちた土地は震え動いて口を開き、人間の古い住居をのみつくし、新しいものを吐き出すがように見える。古い家はくずれ落ち、新しい家がそびえてくる。
オルレアン鉄道の停車場がサルペートリエールの一角に侵入していらい、サン・ヴィクトルの濠《ほり》や植物園などに沿っている古い狭い街路は、駅馬車や辻馬車《つじばしゃ》や乗合い馬車などの群れが毎日三、四回激しく往来するために震え動き、いつしか両側の人家は左右にけ飛ばされてしまった。全く事実でありながら言うだにおかしな事がらが世にはあるものである。大都市においては太陽は南向きの人家を産み出し大きくなしてゆくということが真実であるごとくに、頻繁《ひんぱん》なる馬車の往来は街路を広くするということも確かな事実である。そしてそこには今や新生命の徴候が明らかに見えている。その田舎《いなか》ふうな古い一郭のうちに、最も寂然《せきぜん》たる片すみに、まだ通行人さえもないような所にさえ、舗石《しきいし》が見られ、歩道の区画もしだいにはい伸びようとしている。ある朝、一八四五年七月のある記憶すべき朝、瀝青《チャン》のいっぱいはいった黒い釜《かま》がけむってるのがそこに突然見られた。その日こそ、文明はそのルールシーヌ街に到着し、パリーはそのサン・マルソー郭外まではいってきたと、初めて言うことができたのであった。
二 梟《ふくろう》と鶯《うぐいす》との巣
ジャン・ヴァルジャンが足を止めたのはゴルボー屋敷の前であった。野生の鳥のように、最も寂しい場所を彼は自分の巣に選んだのである。
彼はチョッキの中を探って、一種の合鍵《あいかぎ》を取り出し、戸口を開き、中にはいり、それから注意して戸口をしめ、コゼットを負ったまま階段を上って行った。
階段を上りきって、彼はポケットからも一つの鍵を取り出し、それでまた別の扉《とびら》を開いた。彼がはいってすぐにまたしめきったその室《へや》は、かなり広い一種の屋根部屋みたいなありさまをしていて、床に敷かれた一枚のふとんと一つのテーブルと数個の椅子《いす》とが備えてあった。ストーヴが一つ片すみにあって、火が燃されて燠《おき》が見えていた。表通りの街燈が、その貧しい室のうちにぼんやりした明るみを投じていた。奥の方に別室があって、たたみ寝台が置いてあった。ジャン・ヴァルジャンは子供をその寝台の上に抱えていって、目をさまさないようにそっとおろした。
彼は燧《ひうち》を打ち合わして、蝋燭《ろうそく》をともした。そういうものはみな前もってテーブルの上に用意されていたのである。そして彼は前夜のようにコゼットの顔をながめはじめた。その目つきには喜びの情があふれて、親切と情愛との表われは今にもはち切れそうであった。小娘の方は極端な強さか極端な弱さかにのみ属する心許した静安さをもって、だれといっしょにいるのかも知らないで熟睡し、どこにいるのかも知らないで眠り続けていた。
ジャン・ヴァルジャンは身をかがめて、子供の手に脣《くちびる》をあてた。
九カ月前には、永《なが》の眠りについたその母親の手に彼は脣を当てたのであった。
その時と同じような悲しい痛切な敬虔《けいけん》な感情が、今彼の心にいっぱいになった。
彼はコゼットの寝台のそばにひざまずいた。
もうすっかり夜が明け放れても、子供はまだ眠っていた。十二月の太陽の青白い光が、そのわびしい室《へや》の窓ガラスを通して、影と光との長い筋を天井に落としていた。その時突然、重く荷を積んだ荷車が大通りのまんなかを通って、その破屋を暴風雨《あらし》が襲ってきたかのように揺り動かし、土台から屋根まで震動さした。
「はい、お上さん、」とコゼットはびくりと目をさまして叫んだ、「ただいま、ただいま!」
そして彼女は、まだ眠たさに瞼《まぶた》も半ば閉じたままで、寝台から飛びおり、壁のすみの方へ手を差し出した。
「ああ、どうしよう、箒《ほうき》は!」と彼女は言った。
その時彼女は初めてすっかり目を開いた、そしてジャン・ヴァルジャンの微笑《ほほえ》んでる顔を見た。
「ああ、そうだった!」と彼女は言った。「お早う。」
子供は天性、身自ら幸福と喜悦であるから、すぐに親しく喜悦と幸福とを受け入れるものである。
コゼットは寝台の下にある人形のカトリーヌを見つけ、それを取り上げた。そして遊びながら、ジャン・ヴァルジャンへいろいろなことを尋ねた。――ここはどこであるか? パリーとは大きな町であるか? テナルディエの上さんのいる所から遠いのか? もどってゆかないでもよいのか? その他いろいろなことを。それからふいに彼女は叫んだ。「ほんとにここはきれいだこと!」
実は見すぼらしい小屋同様であったが、彼女はそこで身の自由を感じたのだった。
「掃除《そうじ》をしましょうか。」とついに彼女は言った。
「お遊び。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
そういうふうにして一日は過ぎた。コゼットは別に何にも詮索《せんさく》しようともせず、その人形と老人との間にあってただもう無性にうれしかった。
三 二つの不幸集まって幸福を作る
翌日の明け方、ジャン・ヴァルジャンはまたコゼットの寝台のそばにいた。彼はそこで身動きもしないで待っていて、コゼットが目をさますのを見守った。
ある新しいものが彼の魂の中にはいってきていた。
ジャン・ヴァルジャンはかつて何者をも愛したことがなかった。二十五年前から彼は世に孤立していた。彼はかつて、父たり、愛人たり、夫たり、友たることがなかった。徒刑場における彼は、険悪で、陰鬱《いんうつ》、純潔で、無学で、剽悍《ひょうかん》であった。その老囚徒の心は少しもわるずれていなかった。頭に残っている姉と姉の子供たちのことも、漠然《ばくぜん》として杳《はる》かで、ついには全く消えうせてしまった。彼はその人々を見いださんためにあらゆる手段をつくしたが、どうしても見いだすことができなくて、ついには忘れてしまった。人間の性質というものはそうしたものである。その他の青春時代のやさしい情緒も、もしそういうものがあったとしても、深淵《しんえん》のうちに消滅してしまっていた。
しかるに、コゼットを見た時、コゼットを取り上げ連れ出し救い出した時、彼は自分の臓腑《はらわた》が動き出すのを感じた。彼のうちにあった情熱と愛情とはすべて目ざめて、その子供の方へ飛びついていった。彼は子供が眠ってる寝台の近くに寄っていって、喜びの情に震えていた。彼は母親のようなある内心の熱望を感じた、そしてそれが何であるかを自ら知らなかった。愛し初むる心の大なる不思議な動きこそは、きわめて理解し難いまたやさしいものなのである。
年老いたるあわれな初々《ういうい》しい心よ!
ただ、彼は五十五歳でありコゼットは八歳であったから、彼が生涯《しょうがい》のうちに持ち得たすべての情愛は、一種の言うべからざる輝きのうちに溶け込んでしまった。
それは彼が出会った第二の白光であった。あのミリエル司教は彼の心の地平線に徳の曙《あけぼの》をもたらし、コゼットはそこに愛の曙をもたらした。
初めの数日はその恍惚《こうこつ》のうちに過ぎ去った。
コゼットの方でもまた、自ら知らずして別人となってしまった。あわれなる幼き者よ! 母に別れた時はまだごく小さかったので、もう母のことは頭に少しも残っていなかった。何にでもからみつく葡萄《ぶどう》の若芽のような子供の通性として、彼女も愛しようとしたことがあった。しかしそれはうまくゆかなかった。皆が彼女を排斥した、テナルディエ夫婦も、その子供たちも、また他の子供たちも。で彼女は犬を愛したが、それも死んでしまった。それからはもう、何物も彼女を好む物はなく、だれも彼女を好む者はいなかった。語るも悲しいことではあるが、そして前に述べておいたことではあるが、彼女は八歳にして既に冷ややかな心を持っていた。それは彼女の罪ではなかった。彼女に欠けているのは愛の能力では決してなかった。悲しいかな、それは愛する機会であった。それゆえ初めての日からして、彼女のうちのすべての感じと考えとは、そのお爺《じい》さんを愛し初めたのだった。彼女はかつて知らなかった気持を覚えた、花が開くような一種の心地を。
お爺さんはもう彼女には年老いてるとも貧しいとも思えなかった。彼女の目にはジャン・ヴァルジャンは美しかった、ちょうどその物置きのような室《へや》がきれいと思われたように。
それは曙《あけぼの》と幼年と青春と喜悦との作用である。そして新たな土地と生活も多少それを助ける。陋屋《ろうおく》の上に映ずる美しき幸福の影ほど快いものはない。人はみな楽しい幻の室を生涯《しょうがい》に一度は持つものである。
自然は五十年の歳月のへだたりをもって、ジャン・ヴァルジャンとコゼットとの間に深い溝渠《みぞ》を置いていた。しかし運命はその溝渠を埋めてしまった。年齢において異なり不幸において相似たる二つの根こぎにされた生涯は、運命のためににわかに一つ所に持ちきたされ、不可抗の力をもって結合させられた。そして両者は互いに補い合った。コゼットの本能は父をさがし求め、ジャン・ヴァルジャンの本能は一つの子供をさがし求めていた。互いに出会うことは、互いに見いだすことであった。彼らの二つの手が相触れた神秘な瞬間に、はやその二つは蝋着《ろうちゃく》してしまった。それら二つの魂が相見《まみ》えた時、両者は互いに求め合っていたものであることを感じて、互いに堅く抱き合ってしまった。
最も深い絶対的な意味において、言わば墳墓の壁によってすべてのものからへだてられて、ジャン・ヴァルジャンは鰥夫《やもめ》であり、コゼットは孤児であった。そしてそういう境涯《きょうがい》のために、天国的にジャン・ヴァルジャンはコゼットの父となった。
実際シェルの森の中で、やみの中にジャン・ヴァルジャンの手がコゼットの手を執ったとき、コゼットの受けた神秘な印象は、一つの幻影ではなくて現実であった。その子供の運命のうちにその男がはいってきたことは、神の出現であった。
それにまた、ジャン・ヴァルジャンは隠れ家《が》をよく選んでいた。彼はほとんど欠くるところなき安全さでそこにいることができた。
彼がコゼットとともに住んだ別室付きの室《へや》は、大通りに面した窓のついてる室だった。その窓はこの家のただ一つのものだったから、前からも横からも隣人に見らるる恐れは少しもなかった。
この五十・五十二番地の建物の一階は、荒廃した小屋同様で、八百屋《やおや》などの物置きになっていて、二階とは何らの交渉もなかった。二階と一階とをへだてる床《ゆか》には、引き戸も階段もなく、その破屋の横隔膜のような観があった。二階には前に言ったとおり、多くの室と数個の屋根部屋とがあったが、ただその一つに一人の婆さんが住んでるのみだった。その婆さんがジャン・ヴァルジャンにいっさいの用をしてくれた。そのほかにはだれも住んでいなかった。
婆さんは借家主という名義であったが、実は門番の役目をしてるにすぎなかった。クリスマスの日に、ジャン・ヴァルジャンに住居《すまい》を貸してくれたのはその婆さんだった。まだ年金は持ってるが、スペインの公債に手を出して失敗したので、孫娘とともに住みに来るのだと、ジャン・ヴァルジャンは婆さんに言っておいた。彼は六カ月分の前払いをして、前に述べた通りの道具を両室に備えるように婆さんに頼んでおいた。その晩暖炉に火をたき、二人が来る準備をすっかりしてくれたのは、その婆さんだった。
数週間過ぎ去っていった。二人は惨《みじ》めな室《へや》の中に楽しい生活をしていた。
夜明けごろからもう、コゼットは笑い戯れ歌っていた。子供というものは小鳥と同じく朝の歌を持っている。
時とするとジャン・ヴァルジャンはコゼットの皸《ひび》のきれたまっかな小さい手を取って、それに脣《くちびる》をつけることもあった。あわれな子供は、いつも打たれることばかりになれていたので、その意味がわからずに、恥ずかしがって手を引っ込めた。
また時には、コゼットはまじめになって、自分の小さな黒服をながめることもあった。彼女はもうぼろではなく、喪服を着ていた。彼女は悲惨から出て普通の生活にはいっていた。
ジャン・ヴァルジャンは彼女に読み方を教え初めた。彼はそうして子供につづりを言わせながら、自分が徒刑場で読み方を学んだのは悪事をなさんがための考えからであったことを時々思い出した。その考えは今では子供に読み方を教えることに変わっていた。そしてその老囚徒は天使のような思い沈んだ微笑をもらした。
そこに彼は、天の配慮を感じ、人間以上の何かの意志を感じ、我を忘れて瞑想《めいそう》にふけるのであった。善き考えも悪き考えと同じく、その深い淵《ふち》を持っているものである。
コゼットに読み方を教えること、また彼女を遊ばせること、そこにほとんどジャン・ヴァルジャンの全生活があった。それからまた彼は、母親のことを語ってきかせ、神に祈りをさした。
コゼットは彼をお父さん[#「お父さん」に傍点]と呼んでいた。それより他の名を知らなかった。
コゼットが人形に着物をきせたりぬがしたりするのをながめ、また彼女が歌いさざめくのに耳を傾けて、彼は幾時間もじっとしていた。その時からして、人生は興味に満ちたもののように思われ、人間は善良で正しいもののように感ぜられて、もはや心のうちで何人《なにびと》をもとがめず、また子供に愛せられてる今となっては、ごく老年になるまで生き長らえるに及ばないという理由は何ら認められなかった。あたかも麗しい光明によって輝かされるがようにコゼットによって輝かされる未来を、彼は自分に見いだしていた。およそいかなる善人といえども、全く私心を有しない者はない。彼も時としては、コゼットが美しくはなるまいと考えて一種の満足を感じていた。
これは一個の私見にすぎないが、しかしわれわれは考うるところをすべてここに言ってしまいたい。すなわちコゼットを愛し初めた頃のジャン・ヴァルジャンの状態を見てみるに、なお正しい道を続けて進むのにその支持者が必要でなかったかどうかは、疑わしいところである。彼は人間の悪意と社会の悲惨とを新たなる方面より目に見たのであった。もちろんそれは不完全でただ事実の一面観にすぎないものではあったが。そしてファンティーヌのうちに概略された女の運命と、ジャヴェルのうちに具現された公権とを、目に見たのであった。彼は徒刑場に戻った、それもこのたびは善をなしたがために。彼は新たなる苦しみを飲んだ。嫌悪《けんお》と疲労とにまたとらえられた。司教の記憶さえも、後にまた勝利を得て輝きだしはするが、とにかく一時は曇りかけることもあった。実際その聖《きよ》き記憶もついには弱くなってきた。恐らくジャン・ヴァルジャンは、落胆して再び堕落せんとする瀬戸ぎわにあったのかも知れない。しかるに彼は愛を知って、再び強くなった。ああ彼もまたほとんどコゼットと同じくよろめいていたのである。が彼はコゼットを保護するとともに、コゼットは彼を強固にした。彼によって、彼女は人生のうちに進むことができた。そして彼女によって、彼は徳の道を続けることができた。彼は少女の柱であった、そして少女は彼の杖《つえ》であった。実に運命の均衡の測るべからざる犯すべからざる神秘さよ!
四 借家主の見て取りしもの
ジャン・ヴァルジャンは用心して昼間は決して外へ出なかった。そして毎日夕方に一、二時間散歩した。時には一人で、多くはコゼットとともに、その大通りの最も寂しい横町を選び、また夜になると教会堂にはいったりして。彼は一番近いサン・メダール会堂によく行った。コゼットは連れて行かれない時は婆さんといっしょに留守をした。けれども老人といっしょに出かけるのを彼女は喜んでいた。人形のカトリーヌと楽しく差し向かいでいるよりも、老人といっしょに一時間の散歩をする方を好んでいた。老人は彼女の手を引いて、歩きながらいろいろおもしろいことを話してくれた。
コゼットはごく快活な子になった。
婆さんは部屋を整えたり料理をしたり、食物を買いに行ったりした。
彼らはいつも少しの火は絶やさなかったが、ごく困まってる人のように、質素に暮らしていた。ジャン・ヴァルジャンは室《へや》の道具をも初めのままにしておいた。ただコゼットの私室へ行くガラスのはまった扉《とびら》を、すっかり板の扉に変えたばかりだった。
彼はやはりいつも、黄色いフロックと黒いズボンと古い帽子とを身につけていた。往来では貧乏人としか見えなかった。親切な女たちがふり向いて一スー銅貨をくれることもあった。ジャン・ヴァルジャンはその銅貨を受け取って、低く身をかがめた。また時には、慈悲を求めてる不幸な者に出会うこともあった。そういう時、彼はふり返ってだれか見てる者はないかをながめ、そっとそれに近寄り、その手に貨幣を、たいてい銀貨を、握らしてやって、足早に立ち去った。それは彼に不利なことだった。その一郭では、施しをする乞食[#「施しをする乞食」に傍点]という名前で彼は知られるようになった。
借家主の婆さんは、至って無愛想で、近所の者のことを鵜《う》の目|鷹《たか》の目で探り回るような女だったが、ひそかにジャン・ヴァルジャンの様子をも探っていた。少し耳が遠くて、またそのために饒舌《おしゃべり》だった。歯は抜け落ちてしまって、ただ上と下とに一本ずつ残っていたが、それを始終かみ合わしていた。彼女はいろんなことをコゼットに尋ねた。しかしコゼットは、モンフェルメイュからきたのだということのほかは、何にも知らず、何にも語るものがなかった。婆さんは気をつけてると、ある朝ジャン・ヴァルジャンがどうも変な様子をして家の中の人の住んでいない部屋の一つにはいっていくのを見つけた。彼女は古猫のような足つきであとをつけて行って、身を隠しながら、向かい合わせの扉のすき間から彼をうかがうことができた。ジャン・ヴァルジャンはもちろん用心に用心をしたゆえか、その扉に背を向けていた。見ていると、彼はポケットの中を探って小箱と鋏《はさみ》と糸とを取り出し、それからフロックの裾の裏をほどきはじめ、その口から黄色っぽい一片の紙を引き出して、それをひろげた。婆さんはそれが千フランの紙幣であるのを認めてぞっとした。千フランの紙幣を見たのはそれが生まれて二度目か三度目だった。彼女は恐れて逃げて行った。
しばらくたって、ジャン・ヴァルジャンは婆さんの所へ行き、千フランの紙幣を細かいのに換えに行ってくれと頼んだ。そしてこれは昨日受け取った半期分の年金だとつけ加えた。婆さんは考えた。「どこで受け取ったんだろう。あの人は晩の六時にしか出かけなかった、そして国庫はそんな頃開いてるはずはない。」婆さんは紙幣を両替えに行きながら、種々想像をめぐらした。そうしてその千フランの紙幣は、いろいろな尾鰭《おひれ》をつけられて、ヴィーニュ・サン・マルセル街のお上さんたちの間に、びっくりした盛んな噂《うわさ》をまきちらした。
その後ある日のこと、ジャン・ヴァルジャンはチョッキ一枚になって、廊下で薪《まき》を鋸《のこぎり》ひきしていた。婆さんは室《へや》の中で片付けものをしていた。彼女はただ一人だった。コゼットは薪が鋸にひかるるのを見とれていた。婆さんは釘《くぎ》に掛かってるフロックを見て、しらべてみた。裏は元どおり縫いつけられていた。婆さんは注意深くそれに触《さわ》ってみた。そして裾と袖《そで》付けとの中に、紙の厚みが感ぜられるように思った。きっと千フラン紙幣がたくさんはいっていたのであろう。
婆さんはそのほか、ポケットの中に種々なものがはいってるのを認めた。前に見た針や鋏《はさみ》や糸ばかりでなく、大きな紙入れ、非常に大きいナイフ、それから怪しむべきことには、種々な色の多くの鬘《かつら》、フロックのどのポケットもみな、何か意外のでき事に対する用意の品がいっぱいはいってるようだった。
破屋の人たちは、かくて冬の終わり頃に達した。
五 床に落ちた五フラン銀貨の響き
サン・メダール教会堂の近くに一人の貧しい男がいた。彼はいつもそこの廃《すた》れた共同井戸の縁にうずくまっていたが、ジャン・ヴァルジャンはよく彼に施しをしてやった。その前を通る時は、たいてい幾スーかの金を恵んでいた。時には言葉をかけることもあった。うらやむ者たちはその乞食《こじき》を警察の者[#「警察の者」に傍点]だと言っていた。それはもう七十五歳にもなる年取った寺男で、絶えず口の中で祈祷《きとう》の文句を繰り返していた。
ある晩、コゼットを連れないで一人でそこを通った時ジャン・ヴァルジャンは、その乞食がいつもの場所に、今ついたばかりの街燈の下にいるのを認めた。その男は例のとおり、何か祈祷をしているようなふうで身をかがめていた。ジャン・ヴァルジャンはそこに歩み寄って、いつもの施与《ほどこし》を手に握らしてやった。乞食は突然目を上げて、じっとジャン・ヴァルジャンの顔を見つめ、それから急に頭をたれた。その動作は電光のようだった。ジャン・ヴァルジャンはぞっと身を震わした。街燈の光でちらと見たその顔は、老寺男の平和な信心深い顔ではなくて、恐ろしい見知り越しの顔であるように思えた。突然暗やみの中で虎《とら》と顔を合わしたような感じがした。彼は思わず縮み上がって石のようになり、息をすることも口をきくこともできず、そこにいることもまた逃げ出すこともできず、その乞食をじっと見守った。乞食はぼろぼろの頭巾《ずきん》をかぶった頭をたれて、もう彼がそこにいることをも知らないがようだった。その異常な瞬間に、ジャン・ヴァルジャンが一言をも発しなかったのは、本能のため、おそらく自己防衛の隠れた本能のためだったであろう。乞食《こじき》はいつもと同じような身体《からだ》つきをし、同じようなぼろをまとい、同じような様子をしていた。「いやいや……」とジャン・ヴァルジャンは言った、「俺は気が狂ったんだ。夢を見たんだ。あり得べからざることだ!」そして彼はひどく心を乱されて家に帰った。
ちらと見たその顔がジャヴェルの顔であったとは、ほとんど自分自身にさえ彼は言い得なかった。
その夜、彼はそのことを考えふけりながら、今一度顔を上げさせるために男に何か尋ねてみればよかったと思った。
翌日夕暮れに、彼はまたそこへ行った。乞食《こじき》はいつもの所にいた。「どうだね、爺《じい》さん、」とジャン・ヴァルジャンは彼に銅貨をやりながら思い切って言ってみた。乞食は顔を上げた、そして悲しい声で答えた。「ありがとうございます、親切な旦那様《だんなさま》。」それはまさしく老寺男であった。
ジャン・ヴァルジャンはすっかり安心を覚えた。彼は笑い出した。「ジャヴェルだなんて、何を見違えたんだろう、」と彼は考えた、「俺ももう目がぼけてきたのかな。」そして彼はそのことをもう考えなかった。
それから数日後のこと、晩の八時ごろであったろう。ジャン・ヴァルジャンは室《へや》の中にいて、大きな声でコゼットに綴《つづ》りを読ましていた。その時彼は、家の戸口があいてまたしまるのを聞いた。それが彼には異様に感ぜられた。彼といっしょにその家に住んでいたただ一人の婆さんは、蝋燭《ろうそく》を倹約するためにいつも夜になるとすぐに寝るのだった。ジャン・ヴァルジャンは手まねでコゼットを黙らした。だれかが階段を上ってくる音が聞こえた。あるいは婆さんが加減が悪くて薬屋にでも行ったのかも知れない。ジャン・ヴァルジャンは耳を傾けた。足音は重々しく男のような響きだった。しかし婆さんは大きな靴《くつ》をはいてるし、年取った女の足音は男の足音によく似てるものである。それでもジャン・ヴァルジャンは蝋燭《ろうそく》を吹き消した。
彼は低い声で「そーっと寝床におはいり」とささやいて、コゼットを寝かしにやった。そして彼がコゼットの額に脣《くちびる》をあてた間に、足音は止まってしまった。ジャン・ヴァルジャンは黙って身動きもせず、背を扉《とびら》の方へ向け、そのままじっと椅子《いす》に腰掛けて、暗やみのうちに息を凝らした。かなりしばらくたっても何の音も聞こえないので、彼は音のしないように向きを変えた。そして室《へや》の入り口の扉の方へ目を上げると、鍵穴《かぎあな》から光が見えた。それが扉と壁とに仕切られた暗黒のうちに、不吉な星のように見えていた。確かにそこには、だれかが手に蝋燭を持ち聞き耳を立てているのだった。
数分過ぎて、光は立ち去った。が何の足音も聞こえなかった。それでみると、扉の所へきて立ち聞きしていた男は、靴を脱いでたに違いなかった。
ジャン・ヴァルジャンは着物を着たまま寝床に身を投じた。そして終夜目を閉じることができなかった。
夜明け頃、疲れたのでうとうとしていると、廊下の奥にある屋根部屋の扉が開いて軋《きし》ったので目をさました。それから前夜階段を上ってきたのと同じ男の足音が聞こえた。足音はだんだん近づいてきた。彼は寝室から飛びおりて、鍵穴に目をおし当てた。穴はかなり大きかったので、前夜家の中にはいり込んできて扉の所で立ち聞きした其奴《そいつ》が通ってゆく所を、見て取ってやろうと思ったのである。果してそれは男であった。しかしこんどは別に立ち止まりもせずに室の前を通りすぎてしまった。廊下の中はまだ薄暗かったので、その顔はよく見分けられなかった。しかし男が階段の所まで行った時、外から差し込む一条の光が影絵のようにその姿を浮き出さした。ジャン・ヴァルジャンはそれを後ろからすっかり見て取った。背の高い男で、長いフロックを着、腕の下には太い杖を持っていた。それはジャヴェルの恐ろしい後ろ姿のようだった。
ジャン・ヴァルジャンは大通りに面する窓からも一度その男を見ることができるのだった。しかしそれには窓を開かなければならなかった。彼はそれをあえてなし得なかった。
明らかにその男は、鍵《かぎ》を持っていて自分の家にでもはいるようにはいってきたのだった。だれがその鍵を与えたのであろう? いったいどういう訳なのであろう?
朝の七時に、婆さんが室《へや》を片付けにきた時、ジャン・ヴァルジャンは鋭い目つきでじろりと彼女をながめたが、何にも尋ねはしなかった。婆さんはいつものとおりの様子であった。
掃除《そうじ》をしながら婆さんは彼に言った。
「旦那《だんな》は大方、夜中にだれかはいってきたのを聞かれたでしょう。」
彼女ほどの老年にとっては、そしてその大通りでは、晩の八時といえばもうまっくらな夜である。
「なるほど、そうでした。」と彼はきわめて自然らしい調子で答えた。「いったいどういう人です。」
「新しく部屋を借りた人ですよ、この家の中に。」と婆さんは言った。
「そして名前は?」
「よくは存じませんが、デュモンとかドーモンとか、何でもそんな名前でしたよ。」
「そしてどういう人です、そのデュモンさんというのは。」
婆さんは鼬《いたち》のような小さな目で彼を見上げて、そして答えた。
「年金を持ってる方ですよ、旦那《だんな》のように。」
彼女はたぶん別に何の考えもなくそう言ったのであろうが、ジャン・ヴァルジャンはそれにある意味がこもってるように感じた。
婆さんが行ってしまった時、彼は引き出しの中に入れていた百フランの貨幣を包み、それをポケットに入れた。そうするのにも金の音が他に聞こえないようにとよほど注意はしたが、五フランの銀貨が一つ手からすべり落ちて、床の上に大きな音を立ててころがった。
夕靄《ゆうもや》のおりる頃、彼はおりていって、大通りを注意深くあちこち見回した。だれも見えなかった。街路には全く人影が絶えてるように思われた。もっとも並み木の後ろに隠れようとすれば隠れることはできたのである。
彼はまた上っていった。
「おいで。」と彼はコゼットに言った。
彼はコゼットの手を取り、そして二人は出て行った。
[#改ページ]
第五編 暗がりの追跡に無言の一組
一 計略の稲妻形
読者がこれから読まんとするページのために、またずっと後になって読者が出会うページのために、ここにある注意をしておく必要がある。
本書の著者が、心ならずも自分のことをここに言えば、パリーを離れていることすでに数年におよんでいる(訳者注 ユーゴーが国外に亡命してることを言う)。そして著者が去っていらいパリーはしだいに趣を変えてきた。著者には多少不明な新しい町になってきた。けれども著者がパリーを愛することは、ここにわざわざ言うまでもないことである。パリーは著者の精神の故郷である。ただ種々の破壊再築を経たので、著者の青年時代のパリー、著者が自分の記憶のうちに大切に持って行ったあのパリーは、今では昔のパリーとなっている。けれどもどうか、そのパリーが今なお存在するかのように語ることを許していただきたい。著者が読者を導いて、「かくかくの街路にはかくかくの家がある」という所にも、今日ではもはやそういう街路も家もないことがあるかも知れない。もし読者が労をいとわないならば、それを調べてみらるるもよいだろう。著者の方では、新しいパリーを知らないので、眼前に昔のパリーを浮かべつつなつかしい幻のままに筆をすすめてゆくことにする。故国にあった時に目撃したもののいくらかを後に残すことを思い、すべてが消えうせはしなかったと思うことは、著者にとってうれしいことである。故国のうちに起臥《きが》してる間は、その街路も自分に無関係なものであり、その窓も屋根も戸口もつまらぬものであり、その壁も没交渉なものであり、その樹木もありふれたものであり、自分がはいりもしないその家は何の役にも立たないものであり、踏み歩くその舗石《しきいし》は単なる石くれであると、人は思うものである。けれども後に至ってもはや故国に身を置かない時には、その街路がとうとくなり、その屋根や窓や戸口が惜しくなり、その壁がほしくなり、その樹木がなつかしくなり、はいりもしなかったその家を毎日訪れ、その舗石の中には自分の内臓や血潮や心を残してきたのであることを、人は感ずるものである。もはや見られぬそれらの場合、おそらく永久に再び見ることのないそれらの場所、しかも心のうちにだきしめているそれらの場所、それは一種のうれわしい魅力を帯び、夢幻の憂愁をもって浮かんでき、目に見得る聖地のごとき趣を呈し、言わばフランスそれ自身の形となるのである。そして人はそれらを愛し、そのあるがままのありしがままの姿を思い浮かべ、それに固執してその何物をも変ずることを欲しない。なぜならば人は、母の面影に対するがごとく祖国の姿に執着するものであるから。
それゆえに、過去のこととして語るのを許していただきたい。それから次に、そのことを注意しておかるるよう読者に願って、そして物語の筆を続けよう。
さてジャン・ヴァルジャンは、すぐにオピタル大通りを離れて、裏通りのうちに進み入り、できるだけ曲がりくねった方向を取り、追跡されていはしないかを確かめるために、時々急にもときた方へ戻ったりした。
そのやり方は、狩り立てられた鹿《しか》がよくやることである。足跡が残るような場所では、種々の利益があるがなかんずく、逆行路によって狩人《かりゅうど》や犬を欺くの利益がある。猟犬をもってする狩りの方で逆逃げ[#「逆逃げ」に傍点]と称するところのものがすなわちそれである。
ちょうど満月の夜であった。しかしジャン・ヴァルジャンはそのために少しも困まりはしなかった。まだ地平線に近い月は、影と光との大きな帯で街路を二つにくぎっていた。ジャン・ヴァルジャンは人家や壁に沿って影のうちに身を潜め、光の方を透かし見ることができた。影の方を見ることができなかったことを、彼はあまり念頭に置いていなかったらしい。ポリヴォー街に続く寂しい小路を進みながら、確かにだれも後ろからついて来る者はないと思った。
コゼットは何も尋ねずに歩いていた。世に出て最初からの六年間の苦しみは、彼女の性質のうちにある受動的なものを注ぎ込んでしまっていた。その上、これはわれわれが何度もこれから認めることであるが、彼女は自分でもよく知らないうちに、数奇な運命とその老人の不思議な様子とになれてしまっていた。それからまた彼女は、その老人といっしょにさえいれば自分は安全だと思っていた。
ジャン・ヴァルジャン自身も、コゼットと同じく、実はどの方面へ今進んでるかを知らなかった。コゼットが彼に身を託しているように、彼は神に身を託していた。彼もまた、自分より偉大な何者かの手にすがってるような気がしていた。だれか目に見えない者が自分を導いていてくれるように感じていた。それに彼は、何らはっきりした考えも、何らの計画も考案も持ってはいなかった。あの男がジャヴェルであったかどうかも確かでなければ、またジャヴェルであったにしろ、自分がジャン・ヴァルジャンであることを知ってたかどうかも、確かでなかった。彼は仮面をかぶっていたではないか、彼は死んだと信じられていたではないか。けれども確かに、数日来変なことが起こっていた。彼にはもうそれで十分であった。もうゴルボー屋敷へは帰るまいと彼は決心していた。あたかも巣窟《そうくつ》から狩り出された獣のように、永住し得る場所を見いだすまで一時身を隠す穴をさがしていた。
ジャン・ヴァルジャンはムーフタールの一郭のうちにある種々な入り組んだ小路を歩き回った。その辺は中世紀の規律をまだ保って消燈規定の下にあるかのように、もうすっかり寝静まってしまっていた。彼は賢い策略をもって、サンシエ街やコポー街を、バトアール・サン・ヴィクトル街やブュイ・レルミット街を、いろんなふうにあわせ用いた。そのあたりにはいくらか木賃宿もあったが、適当なのが見当たらないので中にはいってもみなかった。よしだれか自分の跡をつけていた者があったにしても、もうその男をまいてしまったに違いないと信じていた。
サン・テティエンヌ・デュ・モン教会堂で十一時が鳴った時、ポントアーズ街十四番地にある警察派出所の前を彼は通った。それから間もなく彼は、前に述べたような一種の本能からふり返ってみた。その時、派出所の軒燈のために照らし出された三人の男の姿がはっきり見えた。彼らはかなり近く彼のあとをつけていて、街路の影の方のその軒燈の下を次々に通って行った。その一人は派出所の門のなかへはいって行った。けれど先頭に立ってる男は明らかに疑わしいと彼には思えた。
「早くおいで。」と彼はコゼットに言った。そして急いでポントアーズ街を離れた。
彼は円形を描いて、もう遅いのでしまってるパトリアルシュの通路を回り、エペ・ド・ボア街からアルバレート街へと進み、ポスト街へはいり込んだ。
そこに一つの四つ辻《つじ》があった。今日ロラン中学のある所で、ヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ街が交差してる所である。
(言うまでもなく、このヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ街――新サント・ジュヌヴィエーヴ街――は古い街路であって、またポスト街――郵便街――の方は十年に一度も郵便馬車さえ通ったことのないくらい寂しい街路である。ポスト街は十三世紀に瀬戸物屋などが住んでいた所で、その本当の名前はポー街――壺街《つぼがい》――というのである。)
月はその四つ辻に強い光を投げていた。ジャン・ヴァルジャンはそこのある戸口に身を潜めた。もしあの男らが自分のあとをまだつけているのなら、その明るみを通る時にきっとよく見えるに違いない、と推測したのだった。
果して、三分とたたないうちに、彼らの姿が現われた。四人になっていた。皆背の高い男で、長い褐色のフロックを着て、丸い帽子をかぶり、手には太い杖を持っていた。その大きな身体と大きな拳《こぶし》とは、暗やみの中のすごい歩き方とともに気味悪いものであった。四個の怪物が市人に化けたようなありさまだった。
彼らは四つ辻のまんなかに立ち止まって、何か相談するように一群になった。決心のつかぬ様子をしていた。彼らの首領とも思える一人の男がふり返って、ジャン・ヴァルジャンがはいりこんだ方向を右手で強くさし示した。も一人の男は頑強《がんきょう》に反対の方向をさし示したらしかった。第一の男が向き直った瞬間に、月の光がその顔をすっかり照らし出した。ジャン・ヴァルジャンは十分にジャヴェルの顔を認めた。
二 幸運なるオーステルリッツ橋の荷車
ジャン・ヴァルジャンにとっては、もはや疑う余地はなかった。しかし幸いにも四人の男の方にはまだ疑念があった。彼は四人が躊躇《ちゅうちょ》してるのを利用した。彼らには損失の時間だったが、彼には儲《もう》けの時間だった。彼は潜んでいた戸口から出て、ポスト街を植物園の方へ進んでいった。コゼットは疲れてきた。彼はコゼットを両腕にとり上げて、抱いて歩いた。一人の通行人もなく、月夜のために街燈もともされていなかった。
彼は足を早めた。
数歩進むと、瀬戸物屋ゴブレの店の所に達した。その家の前面には、次のような古い文句が月の光ではっきり読まれた。
ゴブレ息子《むすこ》の工場はここじゃ。
甕《かめ》、壜《びん》、花瓶《かびん》、管、煉瓦《れんが》、
何でも望んでおいでなされ。
お望みしだいに売りますじゃ。
彼はクレー街を後ろにして、次にサン・ヴィクトルの泉の所を通り、植物園に沿って低い街路を進み、そして川岸まで達した。そこで彼はふり返ってみた。川岸にも街路にも人影はなかった。自分の後ろにはだれもいなかった。彼は息をついた。
彼はオーステルリッツ橋にさしかかった。
当時はなお橋銭の制度があった。
彼は番人の所へ行って一スー渡した。
「二スーだよ。」と橋番の老人は言った。「歩けるくらいの子供を抱いていなさるから、二人分払いなさい。」
彼はそこを通って手掛かりを残しはすまいかと心配しながら金を払った。逃げるには潜み行くようにしなければいけないものである。
ちょうどその時一台の大きな荷車が、彼と同じくセーヌ川を右岸の方へ渡っていた。それは彼に利益だった。彼はその荷車の影に隠れて橋を通ることができた。
橋の中ほどにきた時、コゼットは足が麻痺《しびれ》たから歩きたいと言った。彼はコゼットを下におろして、またその手を引いた。
橋を渡り終えると、前方に少し右手に当たって建築材置き場が見えた。彼はそこへ進んで行った。そこまで行くには、月に照らされたうち開けた場所をかなり歩かねばならなかった。が彼は躊躇《ちゅうちょ》しなかった。追っかけてきてた者らは確かに道を迷って、自分はもう危険の外に脱していると、彼は信じていた。まださがされてはいるだろうが、もうあとをつけられてはすまい。
小さな街路、シュマン・ヴェール・サン・タントアーヌ街が、壁に囲まれた二つの建築材置き場の間に通じていた。その街路は狭く薄暗くて、特に彼のために作られてるかのようだった。彼はそれにはいり込みながら、後ろをふり返ってながめた。
そこから彼は、オーステルリッツ橋をすっかり見通すことができた。
四個の人影が橋にさしかかってるところだった。
それらの人影は植物園を背にして、右岸の方へこようとしていた。
その四つの人影こそ、あの四人の男であった。
ジャン・ヴァルジャンは再び捕えられた獣のように身を震わした。
ただ一つの希望が残っていた。すなわち自分がコゼットの手を引いて月に照らされた空地《あきち》を通った時には、たぶん四人の男はまだ橋にさしかかっていず、自分の姿を認めなかったであろう。
果してそうだとすれば、前にある小路にはいり込み、建築材置き場か野菜畑か畑地か建物のない空地かに出て、逃げのびることもできるに違いない。
今はそのひっそりした小路に身を託すことができるように彼には思えた。彼はその中に進んでいった。
三 一七二七年のパリーの地図
三百歩ばかり行った時、ジャン・ヴァルジャンは街路の分岐点に達した。いずれも斜めに右と左との二筋に分かれていた。彼の前にはちょうどYの二本の枝のような通りがあった。いずれを選ぶべきか?
彼は躊躇《ちゅうちょ》しなかった、右を選んだ。
なぜか?
左の枝は郭外の方へ、言い換えれば人の住んでる場所の方へ通じていたが、右の枝は田舎の方へ、言い換えれば人のいない場所の方へ通じていたからである。
けれども二人はもう早く歩いてはいなかった。コゼットの足はジャン・ヴァルジャンの歩みをおくらしていた。
彼はまたコゼットを抱き上げた。コゼットは彼の肩の上に頭をつけて、一言も口をきかなかった。
彼は時々ふり返ってはながめた。やはり注意して街路の薄暗い方をたどった。街路は後ろにまっすぐに見えていた。最初二、三度ふり返った時には何にも見えず、ただひっそりとしていたので、少し安心して歩行を続けた。それからまたしばらくしてふり返ってみると、今自分が通ってきたばかりの街路に、遠くやみの中に何か動いてるものが目についたような気がした。
彼はただ前方へ、歩いて行ったというよりむしろ突進して行った。ある横丁を見付けて、そこから逃げ出し、も一度あとをくらますつもりだった。
彼は一つの壁に行き当たった。
けれどもその壁は行き止まりにはなっていなかった。それは、今彼が歩いてきた街路に続いてる横通りの壁だった。
そこでまた彼は心を決めなければならなかった、右へ行くか、左へ行くかに。
彼は右の方をながめた。小路は小屋や物置きなどの建物の間に細長く続いていて、その向こうは行き止まりになっていた。その袋町の底もはっきり見えていた、大きな白い壁が。
彼は左の方をながめた。そちらの小路は開けていた。そして約二百歩ばかり向こうには、その小路が通じてる街路が見えていた。安全なのはその方であった。
彼はその小路の向こうに見えてる街路に出ようと思って、左へ曲がろうとした。その時、彼が出ようとしてる街路とその小路との落ち合ってる角《かど》の所に、じっとして動かない黒い立像のようなものが見えた。
それはだれか一人の男で、明らかにそこに見張りにやってきて、通路をふさいで待っていたのである。
ジャン・ヴァルジャンはあとにさがった。
ジャン・ヴァルジャンがいたパリーのその一地点は、サン・タントアーヌ郭外とラーペの一郭との間であって、その後の工事のために今は全くありさまが変わってる場所の一つである。ある者はそれを醜化だと言い、ある者はそれを面目一新だと言うが、とにかく変わってしまった。畑地や建築材置き場や古い建物はもうなくなってしまっている。今日ではそこに、新しい大通りがあり、演芸場や曲芸場や競馬場があり、停車場があり、マザスの監獄がある。その懲罰機関までそなえて、なるほど進歩である。
翰林院《かんりんいん》を四国院[#「四国院」に傍点]と呼びオペラ・コミック座をフェードー座と呼び続ける伝統本位の普通の俗語では、ジャン・ヴァルジャンがたどりついたその場所は、半世紀前まではプティーと呼ばれていた。サン・ジャック門、パリー門、セルジャン門、ポルシュロン、ガリオート、セレスタン、カプュサン、マイュ、ブールブ、アルブル・ド・クラコヴィー、プティート・ポローニュ、プティー・ピクプュス、そういうのが新しいパリーのうちに残ってる古いパリーの名前である。民衆の記憶はそれらの過去の残物の上に漂っている。
それにプティー・ピクプュスは、単に輪郭ばかりでほとんど形をそなえたこともなかったので、スペインの町の修道院みたいな面影を持っていた。道路には舗石《しきいし》もよく敷いてなく、街路には人家もまばらであった。これから述べる二、三の街路を除いては、すべて壁ばかりで寂寞《せきばく》たるものだった。商店もなければ、馬も通らなかった。ようやく所々に窓から蝋燭《ろうそく》の光が見えてるのみで、燈火《あかり》はすべて十時には消されてしまった。庭園に修道院に建築材置き場に野菜畑、所々には低い家、それから人家と同じ高さの大きな壁。
前世紀におけるその一郭はまずそんなありさまだった。それが革命のために既にひどくそこなわれた。共和政府の市土木課のために、破壊され貫かれ穴をあけられた。塵芥《じんかい》貯蔵所まで設けられていた。そして今から三十年前には、新しい建物のために、その一郭はほとんど塗りつぶされてしまった。今日ではもうまったくその姿がなくなってしまっている。今日ではどの地図にもその跡さえ止めていない。しかしそのプティー・ピクプュスの一郭は、一七二七年の地図にはかなり明らかに示されていた。すなわち、パリーのプラートル街と向き合ったサン・ジャック街のドゥニー・ティエリー書店と、リオンのプリュダンスのメルシエール街のジャン・ジラン書店と、両方から発売せられた地図にはのっていた。プティー・ピクプュスの一郭のうちでわれわれが街路のY形と呼んだところのものは、シュマン・ヴェール・サン・タントアーヌ街の二つの枝からできていて、左の方のをピクプュス小路といい、右の方のをポロンソー街と言っていた。Yの二本の枝はその頂がいわば一つの棒で結ばれていた。その棒をドロア・ムュール街と言っていた。ポロンソー街はそこで終わっていたが、ピクプュス小路は先まで通じていて、ルノアール市場の方へ上っていた。セーヌ川からやってきて、ポロンソー街の端まで来ると、ドロア・ムュール街が左手に当たり、それが直角に折れ曲がってるので、その街路の壁がまっ正面に見え、右手には、その街路の一片が延びていて、そこは出口がなく、ジャンロー袋町と呼ばれていた。
ジャン・ヴァルジャンがいたのは、その所であった。
前に言ったとおり、ドロア・ムュール街とピクプュス小路との出会った角に見張りをしてる黒い人影を認めた時、彼はあとにさがった。何ら疑う余地はなかった。彼はその男から待ち伏せされていたのである。
どうしたらいいか?
もうあとに引き返すだけの時間はなかった。先刻後方遠く影の中に何か動くものが見えたのは、確かにジャヴェルとその手下の者であることは疑いなかった。ジャヴェルはもう既に、ジャン・ヴァルジャンが通りすぎたその街路の入り口にきてるに違いなかった。前後の事情から察してみると、ジャヴェルはその迷宮小路の地理をよく心得ていて、手下の一人を出口の見張りにつかわすだけの注意をとったものと見える。それらの推測は的確な形をとって、突然の風に一握りのほこりがまい上がるように、ジャン・ヴァルジャンの痛ましい脳裏ににわかに渦巻き上がった。彼はジャンロー袋町をのぞいてみた。そこは行き止まりになっている。彼はピクプュス小路をのぞいてみた。そこには見張りの男がいる。月の光に白く輝いてる舗道の上に黒く浮き出してるその忌まわしい姿を彼は見た。前に進めば、その男の手に落ちる。後ろに退けば、ジャヴェルの手中に身を投ずることになる。ジャン・ヴァルジャンは徐々にはさまってくる網のうちにとらえられてるような気がした。彼は絶望して天を仰いだ。
四 逃走の暗中模索
次のことをよく理解せんには、ドロア・ムュール街の正確な観念を得ておかなければならない、そして特に、ポロンソー街からドロア・ムュール街へはいってゆく左手の角《かど》をよく知っておかなければならない。ドロア・ムュールの小路は、ピクプュス小路に出るまで、右側にはほとんどすべて貧しい外見の人家が並んでいた。左側には何軒にも分かれてるいかめしい線の長屋が建っていて、ピクプュス小路に近づくに従って一階二階としだいに高くなっていた。それでその長屋は、ピクプュス小路の方ではきわめて高くなっていたが、ポロンソー街の方ではかなり低かった。そして前に言ったその角の所では、ただ一つの壁だけの高さにまで低まっていた。その壁はきっかり街路に接していなくて、ごく引っ込んだ一断面をなしていたので、ポロンソー街とドロア・ムュール街と両方から見る者があっても、その二つの角にさえぎられて見えないようになっていた。
その切り取られた断面の両方の角から出ると、ポロンソー街の方では、四十九番地という表札のある一軒の人家まで壁が続いており、ドロア・ムュール街の方では、壁はずっと短くて、前に言った薄暗い長屋の所まで行っていて、その切阿《きりづま》を切り取り、そうして街路にまた新たな引っ込んだ角をこしらえていた。その切阿は陰気なありさまをしていて、ただ一つの窓、なおよく言えばトタン板を被《き》せた二枚の雨戸きりついていないで、それも常にしめられていた。
われわれがここに描いてるこの場所のありさまは、厳密に正確であって、この一郭に昔住んだことのある者の頭には、必ずやごくはっきりした記憶を呼び起こすであろう。
壁の切り取られた断面は、その全部が一種の大きな見すぼらしい門みたいになっていた。それは縦に多くの板をよせ集めたぶかっこうなもので、上の方の板は下の方のものより広く、皆横に打ちつけた長い鉄の箍《たが》で止めてあった。その横の方に、普通の大きさの正門があって、こしらえられてから明らかに五十年とはたっていないらしかった。
一本の菩提樹《ぼだいじゅ》の木がその切り取られた壁の断面の上から枝をひろげており、またポロンソー街の方では壁の上に蔦《つた》がいっぱい絡《から》みついていた。
さし迫った危険のうちにあることを感じたジャン・ヴァルジャンは、その薄暗い長屋が何となく人気なくひっそりしているのに心ひかれた。彼は急にその長屋を見回した。もしその中にはいることができたらたぶん助かるだろうと思った。彼はまずそういう考えと希望とを得た。
ドロア・ムュール街に面するその建物の正面の中ほどには、鉛の古い漏斗形《ろうとがた》の鉢《はち》がどの階の窓にもついていた。そして中央の管から分かれてその鉢の各へ通じてる種々な管の枝が、建物の正面に木の枝のように浮き出ていた。そのたくさんの節を持った管の枝は、昔の農家の正面によじれからんでる刈り込まれた古いぶどうの蔓《つる》をまねたものであった。
ブリキや鉄などの枝のついたそのおかしな壁果樹が、最初にジャン・ヴァルジャンの目にとまった。彼はコゼットを車除石に背をもたしてすわらせ、黙っているように命じて、それから管が地面についてる所へ走っていった。たぶんそこから登って家の中にはいり込む方法があるだろうと思ったのである。しかし管は古くなっていて役に立たず、ほとんど壁から離れてぐらぐらになっていた。その上静まり返った建物の窓はどれも皆、屋根裏の窓でさえ、大きな鉄の格子《こうし》がはまっていた。それからまた、月の光はその正面にいっぱいさしていて、そこを乗り越えようとすれば、街路の端で見張りをしてる男に見付かる恐れがあった。それからまたコゼットをどうすればいいか? 四階の高さの家までどうして彼女を引き上げられよう。
彼は管についてよじのぼる考えをやめて、ポロンソー街の方へ戻るために壁に身を寄せてはってきた。
コゼットを残しておいた壁の断面の所まできた時、そこはだれからも見られないことに彼は気づいた。前に説明したとおり、そこはどちらから見ても見えないようになっていた。その上そこは影になっていた。そしてそこに二つの門があった。あるいはそれを押しあけられるかも知れなかった。壁の上から菩提樹《ぼだいじゅ》の木と蔦《つた》とが見えてるところをみると、中は明らかに庭になってるらしかった。樹木にはまだ葉は出ていなかったが、少なくともそこに身を隠して夜が明けるまで潜んでることができるかも知れなかった。
時は過ぎ去ってゆく。早くしなければならなかった。
彼は大門にさわってみた、そしてすぐに、その戸は内外両方からしめ切ってあることを知った。
彼はなお多くの希望をいだいて、も一つの大きな門に近づいていった。それは恐ろしく老い朽ちていて、大きいのでいっそう弱そうで、板は腐っており、三つしかない鉄の箍《たが》は錆《さ》びきっていた。その錆び朽ちた戸を押し破ることはできそうに思えた。
ところがよく見ると、それは実は門ではなかった。肱金《ひじがね》も蝶番《ちょうつがい》も錠前もまんなかの合わせ目もなかった。鉄の箍は一方から他方へ続けざまにうちつけてあった。板の裂け目から彼は、いい加減にセメントで固めた素石や切り石をのぞき見ることができた。今から十年前まではなお、そこを通る者はそれらのものを見ることができたのである。その戸みたいなものはただ壁の上につけられた木の覆《おお》いにすぎないことを、彼は狼狽《ろうばい》しながらも自ら認めざるを得なかった。板を引きはがすことは何でもなかったが、その先には更に壁があるのだった。
五 ガス燈にては不可能のこと
その時調子を取った重い響きが向こうに聞こえてきた。ジャン・ヴァルジャンはその街路のすみから少しのぞき出してみた。七、八人の兵士が列をなして、ポロンソー街に現われてきたところだった。銃剣の光るのが見えた。それが彼の方へやってきつつあった。
その兵士らはジャヴェルの高い姿を先に立てて、徐々に注意して進んできた。しばしば立ち止まった。明らかに彼らは、壁のすみや戸や路地の入り口などをしらべつつやって来るのだった。
それはジャヴェルが道で出会って助力を求めた巡邏《じゅんら》の兵士らであったろう。その推測はまちがいなかった。
ジャヴェルの手下の二人が、その列のうちに加わっていた。
彼らの歩調と時々立ち止まる時間とをはかってみると、ジャン・ヴァルジャンがいる所までやって来るには十五分ばかりはかかりそうだった。それは実に恐ろしい時間であった。三度口を開いた恐ろしい懸崖《けんがい》からジャン・ヴァルジャンはわずか十数分を距《へだ》てているのみだった。そしてこんどの徒刑場は単なる徒刑場のみではなく、コゼットをも永久に失うことであった。すなわち墳墓の中におけるような生活をしなければならなくなるのであった。
もはや逃げ道はただ一つきりしかなかった。
ジャン・ヴァルジャンはいわば二つの袋を持ってるとも言える特質をそなえていた。一つの袋には聖者の考えがはいっており、も一つの袋には囚徒の恐るべき才能がはいっていた。彼は場合に応じていずれかの袋を探るのであった。
種々の技能があったうちでも、特にツーロン徒刑場をしばしば脱走した経験から彼は、読者の記憶するとおり、登攀《とうはん》の妙技に長じていた。梯子《はしご》もなく、鎹《かすがい》もなく、ただ筋力だけで、首と肩と腰と膝《ひざ》とで身をささえて、石のわずかな突起につかまって、壁のまっすぐな角《かど》を、場合によっては七階くらいの高さまでもよじのぼることができた。二十年ばかり前、パリーのコンシエルジュリー監獄の中庭の壁のすみを囚徒バトモールが乗り越えて、その壁を有名になし恐ろしくなしたあの技能である。
ジャン・ヴァルジャンは菩提樹《ぼだいじゅ》の枝がさし出てる壁の高さを目分量で計った。約十八尺ばかりの高さだった。その壁が大きな長屋の建物の切阿《きりづま》と出会ってる角の所には、下の方に三角形の大きな築塀《ついべい》がついていた。おそらくその至って便利な引っ込んだ場所に、いわゆる通行人と称する用便人らを立たせないためのものであったらしい。そういうふうに壁のすみをふさいだものはパリーにいくらもあった。
その築塀は高さ五尺ばかりだった。その頂から壁の上までよじ上るべき場所は、十四尺に満たないほどだった。
壁の上には平たい石があるのみで、何の覆《おお》いもついていなかった。
ただ困まるのはコゼットだった。コゼットの方は壁を乗り越すことができなかった。では彼女を捨ててしまうか? ジャン・ヴァルジャンはそんなことは夢にも考えなかった。といって連れてのぼることは不可能だった。その異常な登攀《とうはん》をやるには自分一人で全力をつくさなければならなかった。少しの荷があっても、重力の中心を失って下に落ちるにきまっていた。
そこで一筋の繩《なわ》が必要になってきた。ジャン・ヴァルジャンはそれを持っていなかった。ポロンソー街のそのま夜中に、どこに繩が得られよう。もしその時にジャン・ヴァルジャンが一王国を有していたとしたら、確かに彼はそれをも一条の繩のために惜しみはしなかったろう。
あらゆる危急な場合にはそのひらめきがあるもので、あるいは人を盲目にし、あるいは人の目を開かせる。
ジャン・ヴァルジャンの絶望した目は、ふとジャンロー袋町の街燈の柱に落ちた。
その当時、パリーの街路にはまだガス燈がなかった。夜になるとそこここに立てられてる反照燈をつけるのであったが、それは町の一方から他方へ引っ張られて柱の※[#「木+吶のつくり」、第3水準1-85-54]眼《ほぞあな》にはめられてる一本の綱で、上げられたりおろされたりするのであった。その綱が巻かれる軸は、ランプの下の小さな鉄の箱の中にはめこんであって、箱の鍵《かぎ》は点燈夫が持っており、また綱の方はある高さまで金属を被《き》せてまもってあった。
ジャン・ヴァルジャンは命がけの勢いで、街路を一飛びに飛び越し、袋町にはいり、ナイフの先で、小さな箱の閂子《かんぬき》をはずし、そしてすぐにコゼットの所へ戻ってきた。彼は一筋の綱を手にしていた。あらゆる手段を見いだすそれらの陰惨な人々は、運命と争うおり、急速に仕事をやってのけるものである。
前に説明したとおり、その夜街燈はともされていなかった。ジャンロー袋町のランプももとよりほかのと同じく消えていた。でそのそばを通っても、ランプが普通の所についていないことに目をとめる者はなかったろう。
そのうちにも、その時と場所と暗やみと、ジャン・ヴァルジャンが夢中になってることと、その異様な態度やあちらこちら飛び回ってることなどは、しだいにコゼットを不安ならしめていた。ほかの子供だったらもうよほど前から大声に泣き出していたろう。がコゼットはただジャン・ヴァルジャンのフロックの裾につかまっていた。しだいに近づいてくる巡邏《じゅんら》の兵士らの足音は、ますますはっきり聞こえていた。
「お父さん、」とコゼットは低く言った、「あたしこわい。向こうから来るのはだれなの?」
「しッ! テナルディエの上《かみ》さんだよ。」と不幸な男は答えた。
コゼットは身を震わした。彼はつけ加えた。
「黙っておいで。私《わたし》のするままにしておいで。声を出したり、泣いたりすると、テナルディエの上さんが待ち受けてるよ。お前を取り戻しにきてるんだよ。」
それから、別に急ぎもせず、しかしすべてを一度でやってのけるようにして、しっかりした簡単な正確さで、それも巡邏とジャヴェルとが刻一刻に押し寄せつつある危急なおりなのでいっそう驚くべきことではあったが、彼は自分のえり飾りをはずし、それをコゼットの両腋《りょうわき》の下に身体を痛めないように注意して結わえ、海員たちが燕結《つばめむす》びと称する結び方でその襟飾《えりかざ》りを綱の一端に結わえ、綱の他の一端を口にくわえ、靴と靴足袋とをぬいで壁の向こうに投げ込み、築塀《ついべい》の上にのぼり、そして壁と切阿《きりづま》との角をよじのぼりはじめたが、あたかも踵《かかと》と肱《ひじ》とを梯子《はしご》にかけてるかと思われるほど確実自在なものだった。半分時とたたないうちに彼は壁の上にはい上がった。
コゼットは呆気《あっけ》にとられて一言も口をきかずに彼を見守っていた。ジャン・ヴァルジャンの言いつけと、テナルディエの上さんという名前とが、彼女を氷のように冷たく縮み上がらしていた。
たちまち彼女は、ジャン・ヴァルジャンが声を低めながら自分に呼びかけてるのを聞いた。
「壁に背を向けなさい。」
彼女はそのとおりにした。
「口をきいてはいけないよ、こわがってはいけないよ。」とジャン・ヴァルジャンはまた言った。
そして彼女は地面から引き上げられるのを感じた。
自ら気がつかないうちに彼女は壁の上にきていた。
ジャン・ヴァルジャンは彼女をとらえて背にかつぎ、その小さな両手を左の手で押さえ、腹ばいになって、壁の上を切り取られた断面の所までやって行った。そこには彼の推察どおり、一つの小屋があって、木の塀《へい》の上から屋根がさし出て、ゆるやかな勾配《こうばい》をなして地面に近くたれていて、菩提樹《ぼだいじゅ》の木とすれすれになっていた。
仕合わせなことだった。というのは、壁はその内部の方では外の街路の方よりもずっと高くなっていた。ジャン・ヴァルジャンは自分の下の方ごく深くに地面を見とめた。
彼が屋根の斜面の所へ達して、壁の頂から離れようとした時に、激しい音が巡邏《じゅんら》のやってきたことを示した。ジャヴェルの雷のような声が聞こえた。
「袋町をさがしてみい! ドロア・ムュール街にもピクプュス小路にも見張りがついてる。きっと袋町のうちにいるに違いない!」
兵士らはジャンロー袋町のうちにはいり込んで行った。
ジャン・ヴァルジャンはコゼットを負いながら屋根をすべりおり、菩提樹に取りついて地面に飛びおりた。恐怖のためか元気を出したのか、コゼットは息をも潜めていた。両手には少し擦過傷《すりきず》がついていた。
六 謎《なぞ》のはじめ
ジャン・ヴァルジャンがはいった所は、ごく広い異様なありさまをした一種の庭であった。特に冬にそして夜分にながめるためにこしらえられたかと思われるほど寂しい庭であった。長方形をなしていて、奥には大きな白楊樹《はこやなぎ》の並んだ通路があり、すみずみにはかなり高い木立ちがあり、まんなかはうち開けた空地になっていて、一本のごく大きな樹木、大きな藪《やぶ》のように込み合って曲がりくねった数本の果樹、四角な野菜畑、月の光に輝いてる瓜畑《うりばたけ》の鐘形覆《しょうけいおお》い、古い水溜《みずだめ》などが、それと見えていた。所々に石の腰掛けがあったが、苔《こけ》に黒くなってるようだった。道にはほの暗い小さな灌木《かんぼく》が立ち並んでまっすぐに通じていた。庭の半ばは雑草が生《お》い茂り、残りは青い苔《こけ》におおわれていた。
ジャン・ヴァルジャンのそばには、彼が屋根を伝っておりてきた小屋があり、薪《まき》がつみ重ねてあり、その後ろに壁にくっついて石の立像が一つあった。石像の欠け損じた顔は変な形の仮面のようになって、暗やみのうちにぼんやり見えていた。
小屋はもう荒廃してしまっていて、壁の落ちた幾つかの室《へや》が認められ、その一つはいっぱい物がつまっていて物置きに使われてるらしかった。
ピクプュス小路の方まで折れ曲がっているドロア・ムュール街の大きな建物は、直角をなした二つの正面で庭を囲んでいた。その内側の正面は、外部の正面よりいっそう陰気であった。窓には鉄格子《てつこうし》がはまっていて、燈火の影さえさしてはいなかった。上方の窓には監獄に見るように目隠しがついていた。その一方の正面の影は他の正面の上に落ち、更に庭に落ちて、広い黒布をひろげたようなありさまをしていた。
そのほかには一軒の家も見当たらなかった。庭の奥は靄《もや》と夜とのうちに見えなくなっていた。けれども二、三の壁がぼんやり見分けられて、その交錯してる所を見ると向こうにはなお耕作地があるらしく、またポロンソー街の低い屋根並みも見分けられた。
その庭はまったく想像にもおよばないほど荒涼たるものだった。人影一つなかったのは夜ふけのこととて当然ではあるが、しかしまっ昼間でさえ人の歩く所ではなさそうなありさまだった。
ジャン・ヴァルジャンの第一の注意は、靴を拾ってはき、それからコゼットとともに物置きの中にはいりこむことだった。逃走者はいかによく身を隠してもそれで十分とは思わないものである。コゼットの方もテナルディエの上さんのことをまだ考えていて、彼と同じくできるだけ身を潜めようとしていた。
コゼットは震えながら彼にすがりついていた。聞こえるものとては、袋町や街路をさがし回ってる巡邏《じゅんら》の騒がしい足音、石にぶつかる銃床尾の音、配置の探偵《たんてい》に呼びかけるジャヴェルの声、よく聞き取れないその言葉のののしり声。
十五分ばかりもたつと、その騒がしい怒号の響きもしだいに遠くなってゆくように思えた。ジャン・ヴァルジャンは息を凝らしていた。
彼はそっとコゼットの口に手をあてていた。
けれども彼が隠れていたその場所は、不思議なほど寂然《せきぜん》と静まり返っていて、すぐそばの恐ろしい激しい騒ぎも、何ら不安の影を投じてこなかった。あたかもそれらの壁は、聖書にあるあの聾者《ろうしゃ》の石ででも造られてるかのようであった。
突然、その深い静謐《せいひつ》のうちに、新しい音響が起こった。天来の聖《きよ》い名状すべからざる響きで、前の音が恐ろしかったのに比べて実に歓《よろこ》ばしい響きであった。暗やみのうちから伝わって来る賛美歌で、夜の暗い恐ろしい静寂のうちにおける祈祷《きとう》と和声との光耀《こうよう》であった。女の声、それも童貞女の濁りない音調と少女の無邪気な音調とがいっしょにもつれ合った声、地上のものとも思われぬ声、赤児の耳になお残っており臨終の人の耳に既に響いているあの声にも似寄ったもの。その歌声は庭にそびえている薄暗い建物からもれて来るのだった。悪魔の騒がしい声が遠ざかって、天使の合唱が影のうちに近づいてくるかのようだった。
コゼットとジャン・ヴァルジャンとはひざまずいた。
二人はそれが何であるかを知らず、自分らがどこにいるかを知らなかった。しかし彼らは二人とも、その老人も子供も、その改悛者《かいしゅんしゃ》も罪なき者も、ひざまずかなければならないように感じたのであった。
それらの声は不思議にも、その建物の寂しさを少しも消さなかった。人なき住居《すまい》のうちにおける超自然的な歌であった。
それらの声が歌っている間、ジャン・ヴァルジャンはもう何事も考えなかった。彼はもはや暗夜を見ず、青空をながめていた。人のみな心のうちに有しているあの昇天の翼が開くのを、彼ははっきり感ずるような心地がした。
歌はやんだ。おそらくそれは長く続いたのかも知れなかったが、ジャン・ヴァルジャンにはどれくらいだったかわからなかった。恍惚《こうこつ》たる時間は常に一瞬間としか思えないものである。
すべては再び沈黙のうちに返った。もう街路にも庭の中にも、何物もなかった。脅かすものも心を安めるものも、すべて消え失せてしまった。壁の頂にはえてる少しの枯れ草を風が吹いて、静かな悲しげな小さな音を立てていた。
七 謎《なぞ》の続き
夜の北風が吹き初めていた。それでみるともう夜中の一時か二時の頃に違いなかった。かわいそうにコゼットは何とも口をきかなかった。ジャン・ヴァルジャンは彼女がそばの地面にすわって自分の上に頭をもたしているので、もう眠ってるのかと思った。彼は身体をかがめてその顔をのぞいた。彼女は目を大きく開いていて何か考えてるようなふうだった。彼は痛ましく感じた。
彼女はまだ震えていた。
「眠くはないかね。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
「ひどく寒いの。」と彼女は答えた。
それからややあって彼女は言った。
「まだ向こうにいるの?」
「だれが?」とジャン・ヴァルジャンはきいた。
「テナルディエのお上さんが。」
ジャン・ヴァルジャンはもうコゼットを黙らせるためにとった手段のことなんか忘れていた。
「ああ、お上さんならもう行ってしまったよ。」と彼は言った。「もうこわがるものはない。」
子供は重荷が胸から取り去られたようにため息をついた。
地面は湿っていた。物置きは四方が開いていて、寒い風は一刻ごとに鋭くなっていた。老人は上衣をぬいで、それをコゼットにまとってやった。
「これで少しは暖いかね。」と彼は言った。
「ええ、お父さん。」
「ではちょっと待っておいで。すぐに戻ってくるから。」
彼はその廃屋から出て、もっといい隠れ場所をさがしながら、大きな建物に沿って歩き出した。幾つも戸口はあったが、どれもしまっていた。一階の窓にはみな格子《こうし》がついていた。
建物の内側の曲がり角《かど》を通り過ぎると、アーチ形の窓が幾つもある所に出た。光がさしていた。彼は爪先《つまさき》で伸び上がって、一つの窓からのぞいてみた。それらの窓はみなかなり広い一つの広間についていて、広間の中は大きな石が舗《し》いてあり、迫持揃《せりもちぞろい》と柱とで仕切られ、ただ一つの小さな光と大きな影とのほか、何も見分けられなかった。その光は、片すみにともされてる一つの有明《ありあけ》から来るのだった。広間の中はひっそりとして、何も動くものはなかった。けれどもじっと見ていると、床石の上に、喪布におおわれた人間の形らしいものが、ぼんやり見えるようだった。それはうつ向きになって、床石に顔をつけ、腕を十字に組み、死んだようにじっとして動かなかった。床の上に引きずっている蛇《へび》のようなもので、そのすごい形のものには首に繩《なわ》がついてるようにも思われた。
広間のうちは薄ら明りに浮かび上がってくる一種の靄《もや》が立ちこめて、いっそう恐ろしい趣になっていた。
ジャン・ヴァルジャンがその後しばしば言ったことであるが、彼は生涯《しょうがい》に幾度か陰惨な光景に出会ったけれども、その薄暗い場所でま夜中にのぞき見た謎《なぞ》のような人の姿が、何とも言えない不可解な神秘を行なってるありさまほどぞっとする恐ろしいものは、かつて見たことがなかった。それはたぶん死んでるのかも知れないと想像するのは恐ろしいことだったが、あるいは生きてるのかも知れないと考えるのはなおさら恐ろしいことだった。
彼は勇気を鼓して額を窓ガラスに押し当て、それが動きはしないかをうかがった。だいぶ長い間そうしてうかがっていたが、横たわってるその形は少しも動かなかった。と突然名状し難い恐怖を感じて、彼は逃げ出した。後ろもふり返り得ないで物置きの方へ駆け出した。もしふり向いたら、後ろにはきっとその形が腕を振りながら大またに追いかけてくるのが見えるに違いないような気がした。
彼は息を切らして小屋の所へ帰ってきた。足もまっすぐには立てなかった。腰には冷や汗が流れていた。
いま自分はどこにいるのであろう。パリーのまんなかにこんな墓場のようなものがあろうとは、だれが想像し得られよう。この不思議な家は何だろう。夜の神秘に満ちた建物、天使のような声でやみの中に人の心を招く家、しかも近づいてゆくと突然に現わるるその恐るべき光景、輝かしい天国の門が開けるかと思うと、恐ろしい墓場の門が開いてくる。そしてそれはまさしく現実の建物である、街路の方には番地がしるしてある一軒の家である。夢ではないのだ。しかし彼は容易にそう信ずることができなかった。
寒気、心配、不安、その夜の種々な激情、そのために彼は実際熱をも発していた。そしてあらゆる考えが頭のうちには入り乱れていた。
彼はコゼットに近寄った。コゼットは眠っていた。
八 謎《なぞ》はますます深くなる
コゼットは一つの石に頭をもたして、そこに眠ってしまっていた。
彼はそのそばにすわって、彼女をながめ初めた。そして彼女をながめてるうちにしだいに心が落ち着いてきて、頭の自由を回復した。彼は次の真実を、今後の自分の生活の基をはっきりと認めた、すなわち、コゼットがいる間は、コゼットをそばに有している間は、自分の求むるところのものはすべて彼女のためのみであり、自分の恐れるところのものもすべて彼女のためのみであるということを。彼は彼女に着せるために上衣をぬいでいたが、ひどく寒いとも感じてはいなかったのである。
しかるに、そういう瞑想《めいそう》にふけっているうちに、少し前から変な物音が彼の耳に達していた。ちょうど鈴を振ってるような音だった。それが庭の中に聞こえていた。弱くはあるが、はっきりと聞き取れた。夜牧場で家畜の首についてる鈴から起こるかすかな小音楽にも似寄っていた。
その音をきいて、ジャン・ヴァルジャンはふり返った。
よく見ると、庭の中にだれか人がいた。
一人の男らしい人影が、瓜畑《うりばたけ》の幾つもの鐘形覆《しょうけいおお》いの間を、規則正しく立ち上がったりかがんだり立ち止まったりして歩いていた。ちょうど何かを地面に引きずってるかまたはひろげてるようだった。その男は跛者《びっこ》らしかった。
ジャン・ヴァルジャンは身を震わした。不運な者らが絶えずやるような身震いであった。すべてに敵意がありすべてが疑わしいように彼らは思うものである。人の目につきやすいからといっては昼間をきらい、不意に襲われやすいからといっては夜をきらうのである。ジャン・ヴァルジャンは、先刻は庭に人影のないのを見ておののき、今は庭にだれかいるのを見ておののいた。
彼は夢幻的恐怖から現実的恐怖へと陥っていった。考えてみると、ジャヴェルと探偵《たんてい》の者らはおそらくまだ立ち去っていないだろう、彼らは必ずや通りに見張りの者を残していったろう、あの男が自分を庭のうちに見いだしたら、泥坊と叫んで彼らの手に自分を渡してしまうだろう。彼は眠ってるコゼットを静かに腕に抱いて、物置きの一番奥のすみに、廃《すた》れた古い家具のつみ重なっている向こうに、そっと連れていった。コゼットは身動きもしなかった。
そこから彼は、瓜畑の中にいる男の様子をうかがった。不思議なことには、鈴の音はその男の動作につれて起こっていた。男が近づくと鈴の音も近づき、男が遠くなると鈴の音も遠くなり、男が急な動作をするとそれにつれて顫音《せんおん》が聞こえ、男が立ち止まると鈴の音もやんだ。明らかに鈴はその男についてるらしかった。してみると、それはいったい何を意味するのであろう。羊か牛ででもあるように鈴を下げてるその男は、いったい何者であろう。
そんな疑問をくり返しながら、彼はコゼットの手にさわってみた。その手は冷えきっていた。
「ああこれは!」と彼は言った。
彼は低い声で呼んだ。
「コゼット!」
コゼットは目を開かなかった。
彼は激しく揺すってみた。
彼女は目をさまさなかった。
「死んだのかしら!」と彼は言った。そして頭から足先まで震えながら立ち上がった。
最も恐ろしい考えが混乱して彼の頭を通りすぎた。おぞましい想像が一隊の地獄の神のように襲いきたって、頭脳の壁に激しく押し寄せることもあるものである。愛する人々の身の上に関する場合には、用心深い人の心もあらゆる狂気じみたことを考え出すものである。睡眠も寒い夜戸外においては生命にかかわることがあるのを彼は思い出した。
コゼットはまっさおになって、彼の足元の地面にぐったり横たわって、身動きもしなかった。
彼は耳をあててその呼吸をきいてみた。
息はまだあった。しかしそれもきわめてかすかで、すぐにも止まりそうに思えた。
どうして彼女をあたためるか、どうして彼女をさまさせるか? その一事より以外のことはすべて彼の頭から消えてしまった。彼は我を忘れて小屋の外に飛び出した。
十五分とたたないうちにコゼットを寝床に寝かして火のそばに置いてやることは、是非ともしなければならないことだった。
九 鈴をつけた男
ジャン・ヴァルジャンは庭にいる男の方へまっすぐに進んで行った。彼はチョッキの隠しにはいっていた貨幣の包みを手に握っていた。
男は顔を下に向けて、彼がやって来るのを知らなかった。大股《おおまた》に飛んで行ってジャン・ヴァルジャンはすぐ彼の所へ達した。
ジャン・ヴァルジャンはそのそばに行って叫んだ。
「百フラン!」
男はびくりとして目を上げた。
「百フランあげる、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「もし今夜私を泊めてくれるなら!」
月の光はジャン・ヴァルジャンの狼狽《ろうばい》した顔をまともに照らしていた。
「おや、あなたですか、マドレーヌさん!」と男は言った。
そんな夜ふけに、不思議な場所で、その見も知らぬ男から、マドレーヌという名をふいに言われたので、ジャン・ヴァルジャンは思わずあとにさがった。
彼は何でも予期してはいたが、そのことばかりは全く思いがけないことだった。彼にそう言った男は腰の曲がった跛の老人で、ほぼ百姓のような着物をきて、左の膝《ひざ》に皮の膝当てをつけ、そこにかなり大きな鈴をぶら下げていた。その顔は影になっていて見分けられなかった。
そのうちに老人は帽子をぬいで、震えながら叫んだ。
「まあ、マドレーヌさん、どうしてここへきなすった? いったいどこからおはいりなすった? 天から降ってでもきなすったかね。そうそう、あなたが降ってきなさるなら、天からに違いない。そしてまたその様子は! 襟飾《えりかざ》りも、帽子も、上衣も着ていなさらない。知らない人だったら魂消《たまげ》てしまいますよ。まあこの節は聖者たちも何と妙なことをなさることやら。だがまあどうしてここへおはいりなすったかね。」
その言葉は引き続いて出てきた。田舎者《いなかもの》の早口で少しも不安を与うるものではなかった。ただ質朴な正直さと呆然《ぼうぜん》自失との入り交じった調子だった。
「君はだれですか、そしてこれはどういう家ですか。」とジャン・ヴァルジャンは尋ねた。
「まあ何ということだ!」と老人は叫んだ。「私はあなたからここに入れてもらった男で、この家はあなたが私を入れて下さった所ですよ。ええ私がおわかりになりませんかな。」
「わからない。」とジャン・ヴァルジャンは言った。「どうして君は私を知ってるんです。」
「あなたは私の生命《いのち》を助けて下さった。」と男は言った。
男は向きを変えた。月の光が彼の横顔を照らし出した。そしてジャン・ヴァルジャンはフォーシュルヴァン老人を見て取った。
「ああ、君だったか。」とジャン・ヴァルジャンは言った。「なるほど思い出した。」
「それで安堵《あんど》しましたよ!」と老人は恨むような調子で言った。
「そしてここで何をしてるんです。」とジャン・ヴァルジャンは尋ねた。
「なあに、瓜《うり》を囲ってやってるんですよ。」
ジャン・ヴァルジャンが近寄ってきた時、フォーシュルヴァン老人は実際手に防寒菰《ぼうかんこも》のはじを持っていて、それを瓜畑《うりばたけ》の上にひろげてるところだった。彼は一時間ばかり前から庭に出ていて、既に多くの菰をひろげてしまっていた。ジャン・ヴァルジャンが物置きの中からながめた彼の変な動作は、そういうことをしてるためだった。
彼は続けて言った。
「私は考えたんですよ。月はいいし、霜はおりるだろう、どれひとつ瓜に外套《がいとう》をきせてやろうかって。」そして彼はジャン・ヴァルジャンを見て高く笑いながらつけ加えた。「あなたにもそうしてあげなければいけませんかな。だがいったいどうしてここにきなすったかね。」
ジャン・ヴァルジャンは、今自分はこの男から知られている、少なくともマドレーヌという名前で知られている、ということを感じて、こんどは用心してしか話を進めなかった。彼は種々なことを尋ねてみた。不思議にも役割が変わってしまったかのようだった。今や尋ねかけるのは闖入者《ちんにゅうしゃ》なる彼の方であった。
「いったい君が膝《ひざ》につけてる鈴は何かね。」
「これですか、」とフォーシュルヴァンは答えた、「これは人がよけるようにつけてるんですよ。」
「なんだって、人がよけるように?」
フォーシュルヴァン老人は妙な瞬《まばたき》をした。
「なにね、この家には女ばかりきりいないんです。大勢の若い娘さんたちですよ。私と顔を合わすのが険呑《けんのん》だと見えましてね、鈴で知らしてやるんですよ。私が行くと、皆逃げていきます。」
「これはどういう家かね。」
「ええ! 御存じでしょうがね。」
「いや、知らないんだ。」
「私をここの庭番に世話して下すってながら!」
「まあ何にも知らないものとして教えてくれ。」
「それじゃあね、プティー・ピクプュスの修道院ですよ。」
ジャン・ヴァルジャンは思い出した。偶然にも、言い換えれば天意によって、彼はまさしくサン・タントアーヌ街区のその修道院に投げ込まれたのだった。そこには、車から落ちて不具になったフォーシュルヴァン老人が、彼の推薦で二年前から雇われていた。ジャン・ヴァルジャンは独語《ひとりごと》のように繰り返した。
「プティー・ピクプュスの修道院!」
「そうですよ。だがいったい、」とフォーシュルヴァンは言った、「マドレーヌさん、あなたはどうしてここにおはいりなすったかね。あなたは聖者には違いないが、それでも男なんで、そしてここには男はいっさい入れないんですがね。」
「君もここにいるじゃないか。」
「私だけですよ。」
「それにしても私はここに置いてもらわなければならないんだ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
「それはどうも!」とフォーシュルヴァンは叫んだ。
ジャン・ヴァルジャンは老人に近寄って、重々しい声で彼に言った。
「フォーシュルヴァン爺《じい》さん、私は君の生命《いのち》を助けたんだ。」
「それはもう私から最初に申したことですよ。」とフォーシュルヴァンは答えた。
「それでは、昔私が君にしてやったとおりのことを、今日は君が私のためにしてくれることができるのだ。」
フォーシュルヴァンはそのしわよった震える手のうちにジャン・ヴァルジャンの頑丈《がんじょう》な両手を握りしめ、口もきけないようにしばらく無言で立っていた。そしてついに叫んだ。
「おう、少しでも御恩報じができれば、それは神様のお引き合わせです。私があなたの生命を助ける! ああ市長さん、何なりとこの爺におっしゃって下さい!」
美しい喜びが、その老人の姿を一変さしたようだった。その顔からは光がさしてるかのように思われた。
「いったい何をせよとおっしゃるんですかね。」と彼は言った。
「それは今に言う。だが君は室《へや》を持ってるかね。」
「向こうに一軒建ての小屋を持っています。こわれた元の修道院の後ろで、だれの目にもかからぬ引っ込んだ所ですよ。室は三つあります。」
なるほどその小屋は、廃屋の後ろに隠れていて、だれの目にもつかないようになっているので、ジャン・ヴァルジャンは気づかなかったのである。
「よろしい。」ジャン・ヴァルジャンは言った。「では君に二つの頼みがある。」
「何ですな、市長さん。」
「第一には、君が私の身上について知ってることをだれにも言わないということ。第二には、これ以上何も聞きただそうとしないこと。」
「よろしいですとも。私はあなたが決して間違ったことはなさらぬのを知っていますし、あなたはいつも正しい信仰の方だったのを知っています。それからまた、私をここに入れて下すったのもあなたです。あなたのお考えのままです。私は何でもします。」
「それでいい。では私といっしょにきてくれ。子供を連れに行くんだから。」
「へえ、子供がおりますか!」とフォーシュルヴァンは言った。
彼はそれ以上一言も言わなかった。そして犬が主人の後ろに従うようにジャン・ヴァルジャンのあとについていった。
それから三十分とたたないうちに、コゼットは盛んな火に当たってまた血色がよくなり、老庭番の寝床の中に眠っていた。ジャン・ヴァルジャンは元どおり襟飾《えりかざ》りをつけ上衣を着ていた。壁越しに投げ込まれた帽子も見つけて拾ってきた。ジャン・ヴァルジャンが上衣を引っ掛けている間に、フォーシュルヴァンがはずした鈴のついた膝当《ひざあ》ては、もう負いかごのそばの釘《くぎ》に掛けられて壁を飾っていた。二人の男はテーブルに肱《ひじ》をついて火にあたった。テーブルの上にはフォーシュルヴァンの手で、チーズの一切れと黒パンとぶどう酒の一びんとコップ二つとが並べられていた。そして老人はジャン・ヴァルジャンの膝に手を置いて言っていた。
「ああ、マドレーヌさん、あなたは私がすぐにはわかりませんでしたな。あなたは人の生命《いのち》を助けておいて、その人を忘れてしまいなさる。それはよろしくありません。助けられた者は皆あなたを覚えています。があなたは、まあ恩知らずですな!」
十 ジャヴェルの失敗の理由
今までいわばその裏面を見てきたとも言える以上のでき事は、きわめて簡単な事情の下に起こったのである。
ジャン・ヴァルジャンが、ファンティーヌの死んでいる寝台のそばでジャヴェルに捕えられたその日の夜、モントルイュ・スュール・メールの市の牢屋《ろうや》を脱走した時、警察の方では、その脱走囚徒はパリーの方へ走ったに違いないと想像した。パリーは実にすべてをのみつくす大きな渦巻きで、一度そこに陥ればすべてのものが、海の渦巻きに吸わるるごとく世の渦巻《うずま》きの中に姿を消してしまう。いかなる大森林といえども、人を隠すことその大群集に及ぶものはない。各種の逃亡人はそのことを知っている。彼らはあたかも呑噬《どんぜい》の淵《ふち》に身を投ずるがごとくにパリーへ行く。そこには彼らをかばってくれる深淵《しんえん》がある。警察の方でもそれを知っていて、他で取り逃がした者をいつもパリーでさがすのである。で警察はモントルイュー・スュール・メールの前市長をもそこでさがした。ジャヴェルはその捜索の便宜のためにパリーへ呼ばれた。果して彼は、ジャン・ヴァルジャンの捕縛に多大の力となった。彼の熱心と知力とはそのおりに、アングレー伯の下に警視総監秘書をしていたシャブーイエ氏の認むるところとなった。その上シャブーイエ氏は前からジャヴェルに目をかけてやっていたので、モントルイュ・スュール・メールの警視から彼をパリー警察付きに抜擢《ばってき》した。パリーで彼は各方面に働いて、かかる職務について言うのはいささか変ではあるが、はなはだ名誉ある技量を示した。
彼はもうジャン・ヴァルジャンのことは忘れていた。絶えず獲物をあさっているそれらの猟犬は、今日の狼《おおかみ》のために昨日の狼を忘れるものである。ところが一八二三年十二月のある日ジャヴェルは一つの新聞を読んだ。彼は平素は少しも新聞なんか読まなかったのであるが、王党だったので、「総司令官大公」のバイヨンヌへの凱旋《がいせん》の詳細を知りたいと思ったのである。そしてその記事をおもしろく読み終わった時、ページの下の方にある一つの名前が、ジャン・ヴァルジャンという名前が、彼の注意をひいた。新聞の伝えるところによると、囚徒ジャン・ヴァルジャンは死んだというのであって、しかもその事件は明瞭な文句をもって書かれていたので、ジャヴェルも何ら疑念を起こさなかった。彼はただ一言言った、「うまくいった[#「うまくいった」に傍点]。」それから彼は新聞を投げすてて、再びそのことを念頭にしなかった。
それからしばらくたって次のことが起こった。モンフェルメイュ村において不思議な事情の下に行なわれたという子供|誘拐《ゆうかい》に関し、セーヌ・エ・オアーズ県からパリーの警視庁へ警察事項の報告が到来した。報告によれば、その地のある旅館主へ母親が託していった七、八歳の少女が、一人の見知らぬ男から盗まれたというのである。少女の呼び名はコゼットといい、ファンティーヌという女の児であって、ファンティーヌは病院で死んでいたが、それがいつのことで、どこであったかは不明だというのである。その報告がジャヴェルの目に触れた。そして彼は考え初めた。
ファンティーヌという名前を彼はよく知っていた。ジャン・ヴァルジャンがその子供を連れ戻しに行くために三日の猶予を乞《こ》うて失笑せしめたことを、彼は思い出した。ジャン・ヴァルジャンがパリーでモンフェルメイュ行きの馬車に乗った所を捕えられたことを、彼は思い起こした。またある事情を考え合わしてみると、ジャン・ヴァルジャンがその馬車に乗ったのは二度目のことであって、既に彼は前日、その村には姿を現わさなかったが、その付近に、第一回の旅をしたのであることが想像されていた。彼はそのモンフェルメイュの田舎に何をしに行ったのか? それはついに不明に終わっていた。しかし今やジャヴェルはそれを了解した。ファンティーヌの娘がそこにいたのである。ジャン・ヴァルジャンはその娘をさがしに行ったのである。しかるにこんどはその娘がある見知らぬ男から盗まれたという。いったいその見知らぬ男とはだれだったのか? ジャン・ヴァルジャンであったろうか。しかしジャン・ヴァルジャンは死んでいた。――ジャヴェルはだれにも何とも言わずに、プランセット袋町のプラ・デタンの駅馬車に乗り、モンフェルメイュに行ってみた。
そこで彼は大なる光明を得るつもりだったが、かえって大なる暗やみを得た。
最初のうちテナルディエ夫婦は、憤慨して盛んにしゃべり回った。アルーエットがいなくなったことは村中の評判となった。すぐに種々な噂《うわさ》が立てられた。そして結局、子供が盗まれたということに帰着した。それでついに警察の報告となったのである。そのうちに、初めの憤懣《ふんまん》の情が過ぎ去ると、テナルディエはそのみごとな本能によってすぐに目を開いた。検察官をわずらわすのは決して自分の利益にはならない、それからまた、コゼット誘拐《ゆうかい》に関する苦情は、その第一の結果として、自分一身と自分の多くの後ろ暗い仕事の上に法官の慧眼《けいがん》を向けさせることになるだろう。梟《ふくろう》がきらう第一のことは、蝋燭《ろうそく》の光をさしつけられることである。それにまず、受け取った千五百フランのことをどうして言い開いたらよいか。で彼はにわかに考え直して、女房の口をもつぐませ、盗まれた子供[#「盗まれた子供」に傍点]のことを言われるとびっくりしたような様子をした。自分には何にもわからないのだ。もとより大事な娘があんなに早く「持ってゆかれた」ことを初めは苦情も言った。愛情の上からせめてもう二、三日は引きとどめても置きたかった。けれども娘を連れにきたのは、その「お祖父《じい》さん」で至って当然なことだった。彼はそのお祖父さんということをつけ加えたので、結果は至ってよかった。ジャヴェルがモンフェルメイュにきてぶっつかったのはそういう話であった。お祖父さんという一語はジャン・ヴァルジャンなる者を消滅さしたのである。
それでもジャヴェルは、測深錘《おもり》のように二、三の質問をテナルディエの話のうちに投げ込んでみた。「そのお祖父さんというのはどんな人で、何という名前だったか?」それに対してテナルディエは無造作に答えた。「金持ちの百姓です。通行券も見ました。何でもギーヨーム・ランベールという名だったと思います。」
ランベールというのは正直者らしい信用できそうな名前だった。ジャヴェルはパリーへ帰ってきた。
「あのジャン・ヴァルジャンはまさしく死んでいる。」と彼は自ら言った。「俺《おれ》はばかをみた。」
彼はまたその事がらを忘れ初めた。ところが一八二四年の三月になって、サン・メダール教区内に住んでいて「施しをする乞食《こじき》」と綽名《あだな》されてる不思議な男のことを、彼は耳にした。人の話によれば、その男は年金を持っており、本当の名前はだれにもわからず、八歳ばかりの少女と二人きりで暮らしてる由で、また少女の方も、モンフェルメイュからきたというだけで、その他は何一つ知っていないそうだった。モンフェルメイュ! その名がいつも出て来るので、ジャヴェルは耳をそばだてた。そしてまた、その男からいつも施しを受けている元寺男で今は間諜《かんちょう》になってる乞食《こじき》の爺《じい》さんが、更にやや詳しい話をもたらした。「その年金所有者はきわめて不愛想である、晩にしか外に出ない、だれにも話しかけない、時々貧しい者に言葉をかけるきりである。人を身近によせつけない。なお、きたならしい黄色い古フロックを着ているが、それには紙幣がいっぱい縫い込まれていて数百万の値打ちがある。」その最後の点が強くジャヴェルの好奇心をそそった。それで、その不思議な年金所有者をひそかに間近く見るために、彼はある日、間諜《かんちょう》の老寺男が毎晩うずくまって祈祷《きとう》の文句を鼻声でくり返しながら人をうかがってる場所と、その古ぼけたぼろとを借りうけた。
果してその「怪しい男」は、姿を変えたジャヴェルの方へやってきて施しをした。その瞬間にジャヴェルは顔を上げた。そして、ジャン・ヴァルジャンがジャヴェルの面影を認めて慄然《りつぜん》としたのと同じ気持ちを、ジャン・ヴァルジャンの面影を認めたジャヴェルも感じた。
けれども暗がりのことではあるし、あるいは見違いかも知れなかった。ジャン・ヴァルジャンの死は公然のこととなっていた。疑問が、重大な疑問が、ジャヴェルの頭に残された。細心なジャヴェルは、疑問のままその男の首に手をかけることをしなかった。
彼はその男のあとをゴルボー屋敷までつけて行って、それから「婆さん」に口を開かせようとした。それは別に困難なことではなかった。婆さんは彼に、百万フランの裏のついたフロックのことは本当だと断言し、千フラン紙幣の話をした。彼女はそれを実際見たのだ! 手を触れたのだ! でジャヴェルは一室を借りた。その晩からすぐにはいり込んだ。彼はその不思議な借家人の声の調子を聞き取ろうと思って、扉の所で立ち聞きをした。けれどもジャン・ヴァルジャンは鍵穴《かぎあな》から蝋燭《ろうそく》の光を見て取って、口をつぐんで探偵《たんてい》の鋒先《ほこさき》をくじいた。
翌日ジャン・ヴァルジャンは立ちのいた。しかし彼が床に落とした五フラン銀貨の響きは婆さんの注意をひいた。婆さんは金の音をきいて、彼がそこを去るつもりでいるんだと考え、急いでジャヴェルに知らした。夜になってジャン・ヴァルジャンが出かけた時、ジャヴェルは二人の手下とともに大通りの並み木の陰に待ちうけていた。
ジャヴェルは警視庁に助力を求めたのだが、捕縛しようと思ってる男の名前は明かさなかった。彼はそれを自分だけの秘密にしておいた。それには三つの理由があった。第一、少しでも不注意なことをすればジャン・ヴァルジャンに警戒の念を与えるかも知れなかった。第二、死んだと言われている脱走老囚徒、法廷の記録によって最も危険なる種類の悪人[#「最も危険なる種類の悪人」に傍点]と前から定められている罪人、それを取り押さえることは非常な成功であって、パリー警察の古参の者らがジャヴェルのような新参者にそれを任しておくはずはなく、彼は自分の囚人が他人の手に奪われはしないかを恐れた。第三、ジャヴェルは一人の芸術家で、人に意外の感を与えることを好んだ。前から噂《うわさ》の高い新奇な味を失った成功を彼は好まなかった。暗い所で傑作を仕上げて、それから突然それを明るみに持ち出すことを欲したのである。
ジャヴェルはジャン・ヴァルジャンのあとをつけて、木から木へ、街路のすみからすみを伝って、瞬時もその姿を見失わなかった。ジャン・ヴァルジャンがもう大丈夫だと思った時でさえ、ジャヴェルの目は彼の上にすえられていた。
なぜジャヴェルはすぐにジャン・ヴァルジャンを取り押さえなかったか? それはまだ疑問があったからである。
ここに記憶すべきは、当時警察は意のままの行動を取り得なかったことである。言論の自由のために妨げられていたのである。専断な捕縛は新聞に摘発されて議会の問題とまでなったことがあるので、警視庁の方では臆病になっていた。個人の自由を害することは重大な問題だった。警官らは見当を誤ることを恐れていた。総監は責任を彼ら自身に負わしていた。錯誤はすなわち免職をきたすのだった。次のような小記事が二十種の新聞に掲載されたとしたら、パリーのうちにいかなる反響を起こすだろうかを想像してみるがいい。「昨日、年金を有する尊重すべき白髪の老紳士が、八歳の孫を連れて散歩しつつあった際、脱走囚徒として捕縛されて留置場へ収監せられた。」
その上になお繰り返して言えば、ジャヴェルには細心なところがあった。自分の内心の注意が総監の注意に加えられたわけである。彼は実際疑念をいだいていた。
ジャン・ヴァルジャンは彼の方へ背を向けて、暗やみの中を歩いていた。
悲しみ、不安、心配、落胆、夜中に逃げ出してコゼットと自分との隠れ家をパリーのうちに当てもなくさがさねばならないという新たな不幸、子供の歩調に自分の歩調を合わせねばならぬ必要、すべてそれらのことは、知らず知らずジャン・ヴァルジャンの歩き方を変化させ彼の様子に老衰の趣を加えていたので、ジャヴェルのうちに具現していた警察も見当を誤るほどで、また実際見当を誤ったのである。あまりそばに寄ってゆくことのできない事情、亡命老家庭教師のようなその服装、彼を娘の祖父だと断言したテナルディエの言葉、また徒刑場で死んだとされている定説、それらのことはなおいっそうジャヴェルの脳裏の疑念を深めていた。
ある時には、突然出て行って身元証明の書類を求めてみようかとも彼は考えた。しかし、もしジャン・ヴァルジャンでなかったとしたら、あるいは年金所有の正直な老人でなかったとしたら、おそらくその男は、他の能力を隠すために特に施与をしているのであって、パリーの種々の隠密な悪事のあやのうちに深く賢く立ち交じっている悪漢であり、危険な仲間の首領であり、奸知《かんち》にたけた老人であるに違いない。手下や仲間の者があり、予備の住居があり、きっとその中に逃げ込むに違いない。方々の街路をぐるぐる回ってるところを見ても、尋常のじいさんとは思われない。あまり早く手を下すことは、「黄金の卵を生む牝鶏《めんどり》を殺す」のと同じである。しばらく待ったとて何の不都合があろう。もう取り逃がすことはないとジャヴェルは信じきっていた。
それで彼はやや迷って、その謎《なぞ》のような人物に種々の疑問をかけながら、なおあとをつけていった。
ところがかなり時期おくれてではあったが、ポントアーズ街を通りかかった時、ある居酒屋からさしていた明るい光によって、彼はまさしくジャン・ヴァルジャンの姿を見て取った。
世には最も深い喜びにおどり上がる者が二つある。自分の子にめぐり会った母親と、餌食《えじき》に再会した虎《とら》とである。ジャヴェルはそういう深い喜びにおどり上がった。
彼は恐るべき囚徒ジャン・ヴァルジャンの姿を確実に見て取るや、自分の方は三人にすぎないことを気づいた。そして、ポントアーズ街の警察派出所に助力を求めた。刺《とげ》ある棒をつかむ者はまず手袋をはめる。
その間の遅延と、警官らと相談するためにロランの四つ辻《つじ》に立ち止まった時間とで、彼は危うく獲物の足跡を見失いかけた。けれども、ジャン・ヴァルジャンは追跡者を川でへだてようとするに違いないと、彼はすぐに推察した。あたかも猟犬が鼻を地につけて道をかぎわけるように、彼は頭を傾けて考えた。そしてまっすぐな本能の力によって、すぐにオーステルリッツ橋の方へ行った。橋番へ一言尋ねてみて事実をとらえた。「小さい娘を連れた男を見なかったか。」「その男に二スー払わしてやりましたよ、」と橋番は答えた。橋の上にさしかかると、ちょうどジャン・ヴァルジャンがコゼットの手を引いて月に照らされた空地《あきち》を通るのが、川の向こう側に見えた。そしてシュマン・ヴェール・サン・タントアーヌ街へはいってゆく姿も見えた。彼はそこに罠《わな》を張ったようになってるあつらえ向きのジャンロー袋町のことを考え、ピクプュス小路へ通ずるドロア・ムュール街のただ一つの出口のことを考えた。猟人らの言うように彼は取り巻いた。その出口を見張るために警官の一人を他の道から急いでつかわした。造兵廠《ぞうへいしょう》の屯所《とんしょ》にもどる一隊の巡邏兵《じゅんらへい》が通ったので、それを頼んで引きつれた。そういうカルタ遊びには兵士は切札《きりふだ》なのである。その上、野猪《いのしし》をやっつけるには猟人の知力と猟犬の力とを要するのが原則である。それだけの準備をしておけば、もうジャン・ヴァルジャンも袋の鼠《ねずみ》で、右へ行けばジャンローの行き止まりであり、左へ行けば手下の警官がおり、後ろには自分が控えている、そう思ってジャヴェルはかぎ煙草を一服した。
それから彼は狩り出しにかかった。それは残虐な狂喜の時間であった。彼は獲物を進むままにさしておいた。もう自分の手中のものであることを知っていた。しかし捕獲の時間をできるだけ長引かしたかった。自分の捕えたものがなお自由に動き回ってるのを見ることがおもしろかった。巣にかかった蠅《はえ》の飛ぶのを見て喜ぶ蜘蛛《くも》のような目つきで、また捕えた鼠《ねずみ》を走らして喜ぶ猫《ねこ》のような目つきで、彼は獲物をうかがっていた。獲物をつかむ爪牙《そうが》は奇怪な快感を持っている。それはつかんだ獲物の盲目的な運動を感ずることである。そのなぶり殺しはいかにおもしろいことであるか!
ジャヴェルは楽しんでいた。網の目は堅固に結んであった。彼は成功を信じていた。今はもう手を握りしめることだけであった。
彼の方には大丈夫な手下がついているので、ジャン・ヴァルジャンがいかに勇気あり力あり死にもの狂いになったとて、抵抗しようなどとは思いもよらぬことだった。
ジャヴェルは徐々に進んで行った。あたかも盗人のポケットを一々探るように、その街路のすみずみを隈《くま》なく探りながら進んだ。
ところがその蜘蛛《くも》の巣のまんなかまで行くと、そこにはもう蠅《はえ》はかかっていなかった。
彼の憤激は察するに余りある。
彼はドロア・ムュール街とピクプュス小路との角《かど》を番していた警官に尋ねてみた。警官は泰然自若としてその場所に立っていたが、あの男が通るのは見かけもしなかったのである。
時としては鹿《しか》もその包まれた頭をふりもぎることがある、言いかえれば、一群の猟犬に追いつめられても逃げてしまうことがある。そういう時には最も老巧な猟人といえども一言もない。デュヴィヴィエやリニヴィールやデプレスのごとき名人でさえ、いかんともすることができない。そういう失敗のおりにアルトンジュは叫んだのである、「あれは鹿ではない、魔法使いだ。」
ジャヴェルも同様な嘆声をもらしたかも知れない。
彼は落胆の余り一時は絶望と狂暴とに駆られたほどであった。
確かに、ナポレオンはロシアの戦いに違算をし、アレクサンデルはインドの戦いに違算をし、シーザーはアフリカの戦いに違算をし、キルスはシチアの戦いに違算をし、そして、ジャヴェルはこのジャン・ヴァルジャンに対する戦いに違算をした。おそらくその前徒刑囚を認定するに躊躇《ちゅうちょ》したのが誤りであったろう。一目見ただけで彼には十分ではなかったろうか。それからまた、ゴルボー屋敷でごく簡単に捕縛しなかったのが誤りだった。ポントアーズ街で確実にそれと認めた時すぐに逮捕しなかったのが誤りだった。ロラン四つ辻《つじ》の月光の中で助力の者らと相談をしたのが誤りだった。もちろん種々の意見は助けになる、そして信用の置ける犬どもの意見を尋ねてそれを知るのはいいことである。しかし狼《おおかみ》だの囚人などという落ち着かない動物を狩り立てる場合には、猟人たる者は注意の上にも注意をしなければいけない。ジャヴェルは一群の猟犬に方向を教えることばかり注意して、獲物に様子を気取られ逃げられてしまった。それからことに、オーステルリッツ橋で足跡を見いだすや、そういう男を一筋の糸の先につけてばかげた他愛ない戯れなどをしたのが誤りだった。彼は自分の力を過信して、獅子《しし》に向って鼠《ねずみ》に対するような戯れをし得ると思った。同時にまた彼は自分の力をあまり過小視して、援兵を引きつれることが必要だと思った。その用心こそ破綻《はたん》の基で、そのために大切な時間を失ったのである。ジャヴェルは以上の種々な違算をした。しかしそれでもなお、世に最も賢明確実な探偵《たんてい》の一人たることを失わない。最も深い意味において彼は、狩猟にいわゆる賢い犬[#「賢い犬」に傍点]であった。しかしおよそ完全なるものは何があろうぞ。
偉大なる戦略家といえども策を誤ることがある。
大失策も、大きな綱のように、多くの小片から成り立ってることがしばしばである。錨綱《いかりづな》をもこれを一筋一筋の糸に分かち、大事をもこれを小さな成分成分に分かつ時には、その一つ一つを切ってゆくことは容易であって、なんだこれだけのものか! という感じを与える。しかるにそれを組み合わせ、それをいっしょにねじ合わせると、巨大なものができ上がる。かくして、アッチラは東方マルキアヌス皇帝と西方バレンチニアヌス皇帝との間に躊躇《ちゅうちょ》し、ハンニバルはカプュアに足を止め、ダントンはアルシ・スュール・オーブに眠ったのである。
それはともかくとして、ジャン・ヴァルジャンが自分の手中からもれたことを知った時にも、ジャヴェルは錯乱しはしなかった。網を破って逃げたその囚徒はまだ遠くに行ってるはずはないと信じて、彼は番人を置き、罠《わな》と伏兵とを設け、終夜その一郭を狩り立てた。第一に彼の目についたものは、綱を切られて街燈が乱れてることであった。それは大切な手がかりだった。しかしそのために彼はかえって誤られて、すべての捜索をジャンロー袋町の方へそらした。その袋町にはかなり低い壁が幾つもあって、庭に接しており、庭の囲いは広い荒地に接していた。ジャン・ヴァルジャンは確かにそこから逃げ出したに違いないと思われた。そして実際、彼もも少しジャンロー袋町のうちにはいり込んで行ったら、きっとそのとおりにして、ついに]捕えられたであろう。ジャヴェルはそれらの庭と荒地とを、針でもさがすように隈《くま》なく探索した。
夜が明くるにおよんで、彼は怜悧《れいり》な二人の手下を残して見張りをさせ、あたかも盗人に捕えられた間諜《かんちょう》のように恥じ入って、警視庁へ引き上げた。
第六編 プティー・ピクプュス
一 ピクプュス小路六十二番地
ピクプュス小路六十二番地にある正門は、約半世紀以前には最も普通なものであった。その門はいつも人の心を誘うように半ば開かれていて、さほど陰気でない二つのものがそこから見えていた、すなわち、葡萄蔓《ぶどうづる》のからみついた壁に取り巻かれてる中庭と、ぶらついてる門番の顔とが。奥の壁の上方には大きな樹木が見えていた。太陽の光が中庭を輝やかし、酒の気が門番の顔を輝やかしてる時には、このピクプュス小路六十二番地の前を通る者は、快い感銘を受けざるを得なかった。しかもそこは読者が既に瞥見《べっけん》したとおり実は陰鬱《いんうつ》な場所であった。
入り口はほほえんでいた。しかし中は祈っており泣いていた。
うまく策略をめぐらして――それは容易なことではないが――門番の所を通りすぎて――それには例の胡麻よ開け[#「胡麻よ開け」に傍点]! の合い言葉([#ここから割り注]訳者注 アラビアのアリー・ババの物語参照[#ここで割り注終わり])を知らなければならないのでほとんど不可能のことではあるが――それから、一度に二人とは通れないくらいの壁の間の狭い階段に通じてる右手の小さな玄関にはいり、その階段の暗褐色《あんかっしょく》の下壁と淡黄色の壁色とを気味悪がらず上ってゆき、階段の広段を二度過ぎると、二階の廊下に出るのであった。そこは黄色い塗り壁と暗褐色《あんかっしょく》の腰板とで深い静けさを作っていた。階段と廊下とは二つのりっぱな窓から明りがとってあった。廊下は折れ曲がって、先の方は薄暗くなっていた。その角《かど》を曲がって数歩行くと、一つの扉《とびら》があった。扉はしめ切ってないだけにいっそう不思議な感を与えていた。扉を押し開いてはいると、約六尺ばかりの四角な小さな室《へや》に出られた。室には下に石が敷いてあり、よく洗われていて、清潔で、冷ややかで、青い花のついた一巻十五スーの南京紙が壁に張ってあった。鈍いほの白い光が左手の大きな窓からはいっていた。窓は室と同じ幅で、小さなガラスがいくつもはまっていた。室の中には見回してもだれもいなかった。耳を澄ましても足音もしなければ人声もしなかった。壁には何も掛かってはいず、家具も備えてなく、椅子一つさえ置いてなかった。
なおよく見回すと、扉と向き合った壁に一尺ばかりの四角な穴があった。真っ黒な節くれ立って丈夫な鉄の棒が縦横にはまっていて、小さなガラス枠《わく》、というよりもむしろ対角線の長さ一寸五分ばかりの網目をこしらえていた。壁に張ってある南京紙《なんきんし》の小さな花模様が、その鉄格子《てつごうし》に静かに整然と接していたが、それでも花模様のなごやかな様子は少しも乱されてはいなかった。鉄格子の目からはどんな小さな生物もあえて出はいりできそうにも思えなかった。何だか物体の出入を許さないような趣があった。しかし目ならば、すなわち精神ならば、自由に出入を許すらしかった。また恐らくそういうつもりでこしらえられたのであろう。鉄格子の少し先にブリキ板が壁にはめ込んであって、泡匙の穴よりもっと小さな穴が無数にあけられていた。そのブリキ板の下の方には、郵便箱の口にそっくりの穴が開いていた。呼び鈴のついた平ひもが、鉄格子口の右の方に下がっていた。
そのひもを動かすと、鈴が鳴って、びっくりするほどすぐそばに人の声がする。
「どなたですか?」とその声は尋ねる。
それは静かな女の声で、あまり静かなので悲しげに響くほどだった。
そこでなお、魔法的な合い言葉を一つ知っていなければならなかった。もしそれを知らないと、声は黙ってしまって、壁の向こうには墓場のすごい暗黒がたたえてるかと思われるほどひっそりしてしまうのである。
もしその合い言葉を知っていると、向こうの声が答える。
「右の方へおはいりなさい。」
窓と向い合って右手の方に、ガラスのはまった天窓がついてる灰色塗りのガラス戸があった。※[#「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37]《かきがね》をあげて扉《とびら》を開き、中にはいると、まだ格子戸《こうしど》がおろされず大ランプがともされてない劇場の箱桟敷《はこさじき》にはいったのと同じ印象を受けるのだった。それは実際一種の劇場の桟敷で、ガラス戸から弱い明るみがほのかにさしており、二つの古椅子《ふるいす》と編み目の解けた一枚の蓆《こも》とが狭い中に置いてあり、肱《ひじ》の高さの前の口には黒木の板がついていた。そしてまた格子もあったが、ただそれだけはオペラ座のように金ぴかの木の格子ではなく、握り拳《こぶし》のような漆喰《しっくい》で壁に止めてある恐ろしい鉄格子だった。
ややあって、その窖《あなぐら》のような薄明りに目がなれてきて、格子の向こうを透かして見ようとしても、五、六寸より先は見えなかった。五、六寸先に、茶っぽい黄色に塗られた横木で固められてる黒い板戸の垣《かき》があった。薄い長片をなしてるそれらの板戸はきっかり合わさっていて、格子の幅だけを全部おおい隠していた。それはいつも立て切ってあった。
しばらくすると、その板戸の後ろから呼びかけてくる声が聞こえる。
「私はここにおります。何の御用でございますか。」
それはかわいい女の声、時とすると愛する女の声であった。けれどもだれの姿も見えなかった。息の音さえもほとんど聞こえなかった。墳墓のような仕切りを通して話しかける天の声かとも思われるのだった。
もし先方の望みどおりの身分の人である時には、そういう身分の人はきわめてまれではあるが、正面に板戸の狭い一枚が開いて、その天啓は本体の出現となるのであった。格子《こうし》の向こうに、更に板戸の向こうに、格子の目からようやくに一つの顔が見えてくる。それもただ脣《くちびる》と※[#「丿+臣+頁」、第4水準2-92-28]《あご》とだけで、残りは黒い面紗《かおぎぬ》におおわれている。それから黒い胸当てと、黒い衣に包まれたぼんやりした姿とが見て取られる。その顔が話しかけてるのであった。しかしこちらを見もしなければ、また決して微笑《ほほえ》みもしなかった。
後ろからさして来る明るみは、向こうの姿を白く見せ、こちらの姿を向こうに黒く見せるようにしつらえてあった。その明るみは一つの象徴《シンボル》であった。
そのうちに目は、前に開かれた窓口から、すべての人の目に閉ざされてるその場所の中へ熱心にのぞき込んでゆく。ある朦朧《もうろう》とした深さが黒服の女の姿を包んでいる。目はその朦朧とした中をさがし求めて、出現した女のまわりにあるものを見きわめようとする。すると間もなく、実は何も見ていなかったことに気づくのであった。見ていたものは、夜であり、空虚であり、暗黒であり、墓地の空気に交じった冬の靄《もや》であり、恐るべき一種の平安さであり、何ものをも呼吸《いき》の音《ね》をさえも聞き得ない静謐《せいひつ》であり、何物をも幻の姿をさえも見得ない暗黒であった。
見ていたところのものは、修道院の内部だったのである。
それは実に、常住礼拝[#「常住礼拝」に傍点]のベルナール派修道女の修道院と言われる陰惨厳格なる家の内部だったのである。今いるその室《へや》は、応接室だった。先刻初めに話しかけてくれたあの声は、受付の女の声だった。彼女は壁の向こうに、四角な穴のそばに、二重の面をかぶったように鉄の格子《こうし》とたくさんの穴のあるブリキ板とにへだてられて、黙って身動きもしないでいつもすわってるのだった。
表の方に窓が一つあって、修道院の内部の方には窓がなかったので、格子のついたその室は薄暗い後ろ明りだった。その聖《きよ》い場所の中にあるものは、何物も俗人の目から見られてはいけなかった。
けれども、その影の向こうには何かがあったのである。一つの光明があったのである。その死の影の中には一つの生命があったのである。その女修道院は最も世人を避けたものではあったけれども、われわれはこれからその中にはいり込み、読者をもその中に導いて、まだかつていかなる物語作者も見たことのないものを、従ってまだかつて語られたことのないものを、度を越えない範囲において語ってみようと思う。
二 マルタン・ヴェルガの末院
ずっと以前から引き続いて一八二四年までなおピクプュス小路にあったその修道院は、マルタン・ヴェルガの分派であるベルナール派修道女らのものであった。
従ってそれらのベルナール派修道女らは、ベルナール派修道士らのごとくクレールヴォーへ属してるのではなく、ベネディクト派修道士らのごとくシトーに属していた。いい換えれば、彼女らは聖ベルナールへではなく、聖ベネディクトへ帰依してるのであった。
少しく古文書を読んだことのある者はだれでも知ってるとおり、一四二五年にマルタン・ヴェルガは、ベルナール派修道女とベネディクト派修道女とのために一つの修道会を興し、本院をサラマンカに置き、支院をアルカラに立てた。
その修道会は、欧州の各カトリック教国内に末院を立てていた。
かく一派を他派につぎ合わしたものは、ローマ教会においては珍しいものではない。ここに言う聖ベネディクトの一派だけを取ってみても、それに関係のあるものは、マルタン・ヴェルガの分派のほかになお四つの修道会があった。イタリーにモンテ・カシノとパデュアのサンタ・ジォスティナとの二つ、フランスにクリュニーとサン・モールとの二つ。それからまた九つの宗派があった、すなわち、ヴァロンブロザ、グラモン、セレスタン団、カマルデュール団、シャルトルー団、ユミリエ団、オリヴァトール団、シルヴェストラン団、およびシトー。なぜならシトーもまた、他の宗派の基でありながら、聖ベネディクトに対しては一つの分枝にすぎなかったのである。シトー派は、一〇九八年にラングル教区のモレーム修道院長であった聖ロベールから起こったものである。しかるに、あのスビアコの沙漠《さばく》に隠退していた悪魔が(実際年老いていたので、隠者となったのかも知れない)古《いにしえ》のアポロンの寺院の住居から、当時十七歳の聖ベネディクトに追い払われたのは、五二九年のことであった。
いつも跣足《はだし》で歩いて首に柳籠《やなぎかご》をつけ決してすわることをしないカルメル山の修道女らの規則に次いで、最も厳格な規則は、マルタン・ヴェルガのベルナール・ベネディクト修道女らのそれである。彼女らは黒い着物をつけて、胸当てをしているが、その胸は聖ベネディクトの特別な命によって、※[#「丿+臣+頁」、第4水準2-92-28]《あご》の所まで上せてある。広袖《ひろそで》のセルの上衣、毛糸の大きな面紗《かおぎぬ》、胸の上に四角に截《た》たれてまできてる胸当て、目の所まで下ってる頭被、そういうのが彼女らの服装である。すべて黒であるがただ頭被だけは白である。修練女は同じ着物のまっ白なのをつけている。誓願修道女はなおそのほかに大念珠を脇《わき》につけている。
マルタン・ヴェルガのベルナール・ベネディクト修道女らは、いわゆるサン・サクルマンの女たちというベネディクト修道女らのように、常住礼拝を実行するのである。後者は今世紀の初めに、タンプルに一つとヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ街に一つとの二つの建物をパリーに持っていた。けれどもここに述べるプティー・ピクプュスのベルナール・ベネディクトの女たちは、ヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ街やタンプルなどの修道院にはいってるサン・サクルマンの女たちとは、全く別な一派であった。規則にも多くの違いがあり、服装にも多くの違いがあった。前者は黒い胸当てをつけていた。後者は白の胸当てをつけた上になお、鍍金《めっき》の銀か鍍金の銅かの高さ三寸ばかりの聖体を胸につけていた。前者はその聖体をつけていなかった。常住礼拝は両者共通であったが、それでも両者は全く別々のものだった。サン・サクルマンの女たちとマルタン・ヴェルガの女たちとの間の似たところは、ただ常住礼拝を実行してるという点のみだった。あたかも、フィリップ・ド・ネリによってフロレンスに建てられたイタリーのオラトアール派と、ピエール・ド・ベリュールによってパリーに建てられたフランスのオラトアール派とが、イエス・キリストの降誕と生涯《しょうがい》と死と聖母とに関するすべての神秘の研究崇拝において似寄っていながら、なお非常に違っていて、時としては敵とまでなるのと同じであった。フィリップ・ド・ネリは一個の聖者のみであり、ベリュールは枢機官であったから、パリーのオラトアール派はいつも上位を主張していた。
さてマルタン・ヴェルガのスペインふうの厳重な規則に立ち戻ってみよう。
この分院のベルナール・ベネディクト修道女らは、一年中少しの粗食しか取らず、四旬節および彼女らに特別な他の多くの日に断食をし、毎日寸眠の後に午前の一時から三時まで起き上がって日課の祈祷書《きとうしょ》をよみ朝の祈祷を歌い、四季ともに藁《わら》のふとんの上にセルの毛布にくるまって寝、決して湯にはいらず、決して火をたかず、毎金曜日には苦行をし、沈黙の規定を守り、ごく短い休息の間にしか口をきかず、十字架|闡揚《せんよう》記念日である九月十四日から復活祭まで六カ月の間荒毛のシャツを着る。その六カ月間というのは一つの軽減であって、規則には一年中となっている。けれども、荒毛のシャツは夏の炎熱にはとうていたえられないものであって、熱病や神経痛などを起こすことがあったので、その使用に少し制限を加えねばならなかったのである。しかしその軽減をもってしても、修道女らが九月十四日にそのシャツを着る時には、三、四日は熱を出すのが常である。服従、困窮、貞節、囲壁中の永住、それが彼女らの誓いであって、またそれは規則によっていっそう重くなされている。
修道院長は、集会で発言権を有するので声の母[#「声の母」に傍点]と言われる長老らによって、三年間の期限で選挙される。院長は二度の再選を受け得るのみであって、そのために一院長の最長年限は九年となるのである。
彼女らは決して男の祭司の姿を見ない。男の祭司はいつも、七尺の高さに張られてるセルの幕で隠されている。説教の時に、その礼拝堂の中に男の説教師がいる時には、彼女らは面紗《かおぎぬ》を顔の上に引き下げる。それからいつも低い声で話し、目を伏せ頭をたれて歩かなければならない。その修道院の中に自由にはいり得るただ一人の男性は、教区の長の大司教ばかりである。
否そのほかにも一人いる。すなわち庭番である。けれどもそれは常に老人であって、また絶えず庭に一人きりでいるために、そして修道女らがそれと知って避けるようにするために、膝《ひざ》に一つの鈴がつけられている。
彼女らは絶対的盲従をもって院長の命に服する。それはあらゆる克己をもってする聖典的服従である。すなわち、キリストの声に対するがごとく[#「キリストの声に対するがごとく」に傍点]、その身振りその最初の合い図において[#「その身振りその最初の合い図において」に傍点]、直ちに幸福と堅忍とある盲従とをもって[#「直ちに幸福と堅忍とある盲従とをもって」に傍点]、職人の手のうちにある[#「職人の手のうちにある」に傍点]鑪《ろ》のごとく[#「のごとく」に傍点]、であり、またいかなるものも特別なる許しあるに非ざればこれを読みもしくは書くことを得ざるなり、である。
彼女らは各自順番に、彼女らのいわゆる贖罪をなす。贖罪《しょくざい》というのは、あらゆる悪、あらゆる過失、あらゆる放肆《ほうし》、あらゆる違犯、あらゆる不正、あらゆる罪悪、すべて地上において犯さるるものに対する祈りである。午後の四時から午前の四時まで、あるいは午前の四時から午後の四時まで、引き続いて十二時間の間、贖罪を行なう修道女は両手を合わせ、繩を首にかけ、聖体の前に石の上にひざまずいている。疲労にたえなくなる時には、腕を十字に組み顔を床《ゆか》につけて、腹ばいに平伏する。それが唯一の緩和である。そういう姿勢で、世のあらゆる罪人のために彼女は祈る。それは実に荘厳とも言えるほどに偉大である。
かかることが、上に大|蝋燭《ろうそく》の一本ともっている柱の前で行なわれる時、全く区別なくあるいは贖罪をなすとも言われあるいは柱に就《つ》くとも言われる。けれども第二の言い方は、苦行と卑下との意味を多く含んでいるので、修道女らが謙譲の心からして好んで口にするところのものである。
贖罪をなすことは、全心をこめた一つの勤めである。柱に就いた修道女は、背後に雷が落ちようともふり返りもしない。
そのほかになお、聖体の前には常にひざまずいている修道女が一人いる。その時間は一時間としてある。彼女らは上番する兵士のように規律正しく交代する。そこに常住礼拝がある。
院長や長老たちは、たいていきまって特に重々しい響きの名前を持っている。それは聖者や殉教者らに関連した名前ではないが、イエス・キリストの生涯《しょうがい》の各時期に関連したもので、たとえば、ナティヴィテ長老(降誕)、コンセプシオン長老(受胎)、プレザンタシオン長老(奉献)、パッシオン長老(受難)などのように。けれども、聖者にちなんだ名前も禁じられてるのではない。
修道女らに会う時には、ただその口だけしか見られない。皆黄色い歯をしている。決して楊枝《ようじ》はこの修道院に入れられない。歯を磨くことは滅落の淵に臨むことである。
彼女らは何物に対しても私のという言葉を使わない。自分のものというのは何もなく、また何物にも執着してはいけないのである。彼女らはすべてを私どものという。私どもの面紗《かおぎぬ》、私どもの念珠。自分の着ているシャツのことでも私どものシャツと言うに違いない。時としては、祈祷《きとう》書だの遺物だの聖牌《せいはい》だの何かちょっとしたものに愛着することがある。けれどもそれに愛着し初めたことを気づいた時には、直ちにそれを捨てなければならない。彼女らは聖テレサの言葉を記憶していた。ある貴婦人が聖テレサの修道会にはいる時に、「私がごく大事にしています聖書を家に取りにやることを許して下さいませ、」と言った時、聖テレサは答えた。「あああなたは何かを大事にしていらっしゃるのですか。それならば私どもの仲間におはいり下さいますな。」
閉じこもること、そして自分の所を持ち自分の室を持つこと、それはすべての者に禁じられている。彼女らはうち開いた分房にはいっている。互いに出会う時には、一人が言う「祭壇の聖体に頌讃《しょうさん》と礼拝とがありまするよう。」すると、も一人は答える、「永遠に。」また一人が他の者の分房を訪れる時にも、同じようなあいさつをする。扉《とびら》に人の手が触れると、向こうから急いで言われるやさしい声が聞こえる、「永遠に!」。あらゆる実際的仕事と同じく、それも習慣のために機械的になっている。そして一人がかなり長い「祭壇の聖体に頌讃と礼拝とがありまするよう」を言ってしまわぬうちに、も一人のが「永遠に」を言うことも時々ある。
訪問会の修道女の間では、訪れて来る者は「アヴェ・マリア」と言い、訪れを受ける者は「グラティア・プレナ」と言う(訳者注 両者合して、めでたしマリアよ恵まるる者よ云々の祈祷)。それが彼女らの「今日は」であって、実際「恵まれたる」今日はである。
各時間には、修道院の会堂の時の鐘に加えて三つ補助の鐘が鳴らされる。それを合い図にして、院長も、声の母も、誓願女も、助修道女も、修練女も、志願女も、一様に話をやめ仕事をやめ考えをやめて、皆同時にきまりの祈りを言う。たとえば五時であると「五時にまたそれぞれの時間に、祭壇の聖体に頌讃と礼拝とがありまするよう!」八時であると「八時にまたそれぞれの時間に云々。」そういうふうに各時間に従って言うのである。
自分の考えをやめて常に神を思わせるのを目的としたこの習慣は、他の多くの修道会にもある。ただその言葉は種々違っている。たとえばアンファン・ゼジュ会では言う、「ただ今の時間にまたそれぞれの時間に、イエスの愛は私の心をあたため下さいまするよう[#「イエスの愛は私の心をあたため下さいまするよう」に傍点]!」
今より五十年前にプティー・ピクプュスの修道院にいたマルタン・ヴェルガのベネディクト・ベルナールの修道女らは、重々しい聖詩唱歌の調子で、純粋な平音楽で、そしていつも勤めの間引き続いたいっぱいの声で、すべての祭式を歌っていた。弥撒《ミサ》の書に星印がある所では、ちょっと歌をやめて「イエス・マリアヨセフ」と低音に言う。死人の祭式には、女声の最低の音で歌うので、いかにも悲痛な効果をきたす。
プティー・ピクプュスの修道女らは、会員の墓として主祭壇の下に窖《あなぐら》を持っていた。けれども彼女らのいわゆる政府は、その窖へ柩《ひつぎ》を入れることを禁じていた。それゆえ死ぬ時には寺から出て行かねばならないので、彼女らはそれを苦にし、罪悪のようにそれを恐れていた。
彼女らは、それもつまらぬ慰安ではあるが、昔彼女らの会の所有地であった古いヴォージラールの墓地に、一定の時間に一定の片すみに埋められることを許されていた。
木曜日に彼女らは、日曜日と同じに大弥撒や夕祷《ゆうとう》やいろんな祭式を聞くようになっている。なおその他に、教会が昔フランスにふりまき今日でもスペインやイタリーにふりまいてるあらゆる小さな祭典で、世間の人のほとんど知らぬようなものまで、彼女らは注意深く実行する。また彼女らが礼拝堂に列する間の時間は非常に長いものである。その祈祷の数と時間とについては、ここに彼女らの一人の無邪気な言葉を引用したら最もよくわかるだろう。「志願女の祈祷は恐ろしいもので、修練女の祈祷はなお大変なもので、誓願女の祈祷はいっそう大変なものです。」
一週に一度集会が催される。院長が会長となり、声の母たちがそれに立ち会う。各修道女は順次に石の上に行ってひざまずき、その週間のうちに犯した過失や罪を皆の前で高い声で懺悔《ざんげ》する。各懺悔の後に声の母たちは相談をして、公然と苦業を課する。
少し重い過失は皆それを高声の懺悔に取っておくが、なおそのほかに軽い過失に対しては、彼女らのいわゆる報罪というのがある。報罪をなすには、祭式の間院長の前に腹ばいに平伏して、いつもわれらの母と呼ばれるその院長が、自分の椅子《いす》の板を軽くたたいて、もう立ち上がってもよいと知らせるまでそうしていなければならない。ごく些細《ささい》なことにも報罪をなすのである。コップをこわしたこと、面紗《かおぎぬ》を破いたこと、ふと祭式に数秒おくれたこと、会堂でちょっと音符をまちがえたことなど、それだけでも報罪をしなければならない。報罪は全く自発的のもので罪ある者自ら自分を裁《さば》き自分にそれを課するのである(報罪の coulpe と罪ある者の coupable は同じ語原である)。祭典の日や日曜には、四人の歌唱の母たちが、四つの譜面台のついてる大きな机の前で祭式を歌う。ある日一人の歌唱の長老が、エッケ(ここに)の語で初まってる賛歌を、エッケの代わりにド、シ、ソという三つの音符を大声に言って、その不注意のために祭式の間じゅう報罪を受けたことがある。その過失を特に大きくしたわけは、会衆がそれを笑ったからであった。
修道女が応接室に呼ばれる時には、それがたとい院長であろうと、前に述べたとおり、口だけしか見えないように面紗《かおぎぬ》を顔の上に引き下げる。
院長だけが他人に言葉を交じうることを許されている。他の者はごく近親の者にしか会うことができなくて、それもまたきわめてまれにしか許されない。もしふいに俗世の者がやってきて、俗世において知り合いであったかまたは愛したかした一人の修道女に会うことを求める時には種々の交渉が必要である。それが女である場合には、時としては許可されることもある。修道女はやってきて板戸越しに話をする。板戸は母かまたは姉妹にしか開かれない。男には決して面会を許されないのは言うまでもないことである。
上のようなのがすなわち、マルタン・ヴェルガによっていっそうおごそかにされた聖ベネディクトの規則である。
それらの修道女は、他の会派の人たちが往々あるように、快活で健やかで顔色がいいなどということは決してない。彼女らは青白くまた重々しい。一八二五年から一八三〇年までのうちに、狂人になった者が三人ある。
三 謹厳
この会にはいった女は、少なくとも二年間は、多くは四年間、志願女であって、それからまた四年間は修練女の地位にとどまる。最後の誓願が、二十三、四年たたないうちになさるることはきわめてまれである。マルタン・ヴェルガのベルナール・ベネディクト修道会は、決して寡婦を加入せしめない。
彼女らは各自の分房の中で多くのひそかな苦業を行なう。それは決して人に語ってはいけないものである。
修練女が誓願式を行なう日には、皆で最も美しい服をつけてやり、白薔薇《しろばら》の帽をかぶらせ、髪をつや出しして束ねてやり、それから彼女は平伏する。皆は彼女の上に大きな黒い面紗《かおぎぬ》を広げて、死者の祭式を歌う。その時修道女らは二列に分かれる。一つの列は彼女のすぐそばを通って、「われらの姉妹は死せり[#「われらの姉妹は死せり」に傍点]」と悲しい調子で言い、他の列は激しい声で、「イエス・キリストに生きぬ」と答える。
本書の物語が起こった頃には、一つの寄宿舎がこの修道院に付属していた。大体金持ちの貴族の若い娘らの寄宿舎であって、そのうちには、サント・オーレール嬢やベリサン嬢や、タルボーというカトリックで有名な名前を持ってるイギリス娘などがいた。それらの若い娘らは、四方を壁に護《まも》られて修道女らから育てられ、俗世と時勢とを恐れつつ大きくなっていた。その一人はある日こんなことを言った、「街路の舗石を見ますと、頭から足先まで震えます。」彼女らは青い服をつけ、白い帽子をかぶり、鍍金《めっき》銀か銅かの聖霊メダルを胸につけていた。大祭典の日には、特に聖マルタの日には、修道女の服装をして、終日聖ベネディクトの祭式と勤行《ごんぎょう》とをなすことが、非常な恩恵としてまた最上の幸福として許されていた。初めのうちは、修道女らがその黒服を彼女らに貸し与えていた。けれどもそれは神を涜《けが》すように思われたので、院長の禁ずるところとなった。その貸与は修練女にしか許されなかった。注意すべきことには、それらの仮装は修道院の中でひそかな布教心によって特に許され奨励されたものであって、聖衣に対するある予備趣味を娘らに与えるためのものだったが、寄宿生らにとっては現実の幸福であり実際の楽しみであった。彼女らはごく単純にそれを喜んでいた。それは新奇なものであって[#「それは新奇なものであって」に傍点]、彼女らの心を変えさした[#「彼女らの心を変えさした」に傍点]。子供心のいかにも無邪気な理由ではないか。それにしても、手に灌水器《かんすいき》を持ち、譜面机の前に四人ずつ立って、数時間歌を歌うという幸福は、われわれ俗人の容易に理解し難いものである。
生徒らは苦業を除いて修道院のすべての勤めを守っていた。中には、世に還《かえ》って結婚した数年後まで、だれかが扉《とびら》をたたくたびごとに急いで「永遠に[#「永遠に」に傍点]」と言う習慣を脱し得なかったような、そういう女もいた。修道女らのように、寄宿生らも近親の者に応接室でしか会えなかった。母親でさえ、彼女らを抱擁することは許されなかった。いかに厳格な規律が守られていたかは次のことを見てもわかる。ある日一人の若い寄宿生は、三歳の妹を連れた母親から訪れてこられた。彼女は泣いた。なぜなら、妹を抱擁したくてたまらなかったがそれもできなかったからである。せめて子供に格子《こうし》から手を出さしてそれに脣《くちびる》をつけることだけは許してもらえるように願った。がそれもほとんどしかるようにして拒絶された。
四 快活
それらの若い娘らは、それでもなおこの荘重な家のうちに多くのおもしろい思い出を残していった。
ある時には、この修道生活のうちに子供心がほとばしり出ることもあった。休憩の鐘が鳴る。扉《とびら》はいっぱいに開かれる。鳥は言っている「うれしいこと、娘さんたちが来る!」喪布のように十字の道がついてるその庭には、突然青春の気が満ちあふれる。輝かしい顔、白い額、楽しい光に満ちた潔《きよ》い目、あらゆる曙《あけぼの》がその暗黒の中にひらめく。賛美歌の後、鐘の鳴った後、鈴の鳴らされた後、喪鐘の後、祭式の後、そこに突然|蜜蜂《みつばち》の羽音よりもなおやさしい娘らの声がわき上がってくる。喜びの巣は開かれて、各自に蜜をもたらしてくる。嬉戯《きぎ》し、呼びかわし、いっしょにかたまり、走り出す。きれいなまっ白な小さな歯並みの脣《くちびる》が方々でさえずる。遠くから面紗《かおぎぬ》がそれらの笑いを監視し、影がそれらの輝きをにらんでいるが、それにもかまわず皆輝き皆笑う。四方の陰鬱《いんうつ》な壁もしばしは光り輝く。壁はそれら多くの喜悦を反映してほのかに白み、それらのやさしい蜜蜂の群れをながめている。それはあたかも喪中に降り注ぐ薔薇《ばら》の花である。娘らは修道女の眼前で嬉戯する。森厳なる目つきも無邪気をわずらわすことはできない。それらの娘によっていかめしい時間の間にも無邪気な一瞬が現われる。小さい者は飛び、大きい者は踊る。この修道院のうちにあっては、嬉戯《きぎ》に天国が交じっている。それらの咲き誇ったみずみずしい魂ほど喜ばしくまた尊いものはない。ホメロスもペローとともにここに微笑《ほほえ》むであろう。この暗黒の庭のうちには、あらゆる老婆の顔のしわをも伸ばすまでに青春と健康と騒ぎと叫びと忘我と快活と幸福とがあって、叙事詩中の老婆も物語中の老婆も、宮廷のそれも茅屋《ぼうおく》のそれも、ヘクーバから鵞鳥婆《がちょうばあ》さんまで([#ここから割り注]訳者注 イリヤッドと千一夜物語の中の老婆[#ここで割り注終わり])をほほえませるものである。
常に多くの優美を持ちうっとりとした微笑を人に起こさせるあの子供の言葉[#「子供の言葉」に傍点]は、おそらく他の所でよりも多くこの家の中で発せられる。この陰気な四壁の中で、五歳の女の児がある日叫んだのである。「お母様[#「お母様」に傍点]、私はもう九年と十月きりここにいないでいいと大きい方がおっしゃいましたのよ[#「私はもう九年と十月きりここにいないでいいと大きい方がおっしゃいましたのよ」に傍点]。ほんとにうれしいこと[#「ほんとにうれしいこと」に傍点]!」
次の記憶すべき対話が行なわれたのもここである。
声の母――なぜあなたは泣いています。
子供(六歳、泣きながら)――私はアリクスさんにフランスの歴史を知っていると申しましたの。するとアリクスさんは私がそれを知らないとおっしゃるんですもの、知っていますのに。
アリクス(大きい児、九歳)――いいえ、お知りになりませんわ。
声の母――なぜです?
アリクス――どこでも御本を開いて、中に書いてあることを尋ねてごらん遊ばせ、答えてあげますから、っておっしゃいましたの?
――そして?
――お答えなさらなかったのです。
――であなたは何を尋ねました。
――おっしゃったとおりにある所を開きました。そして目についた第一番目の問いを尋ねました。
――どういう問いでした?
――それからどうなったか、っていうのでした。
また、ある寄宿生の持ってる多少美食家の鸚鵡《おうむ》について、次の深い観察がなされたのもここである。
「かわいいこと! 大人のようにジャミパンの上皮だけを食べてるわ!」
七歳の娘の手で忘れないためにあらかじめ書き止められた次の罪の告白が拾われたのも、この修道院の舗石《しきいし》の上においてである。
天の父よ、私は貪欲《どんよく》でありましたことを自ら咎《とが》めまする。
天の父よ、私は姦淫《かんいん》でありましたことを自ら咎めまする。
天の父よ、私は男の方へ目を上げましたことを自ら咎めまする。
四、五歳の青い目の子供が聞いた次の話が、六歳の薔薇色《ばらいろ》の口から即席に作られたのも、この庭の芝生《しばふ》の上においてである。
「三羽の小さな鶏が、花のたくさん咲いた国を持っていました。鶏は花を摘んで隠しに入れました。それから葉を摘んで玩具《おもちゃ》の中に入れました。その国に一匹の狼《おおかみ》がおりました。森がたくさんありました。狼《おおかみ》は森の中にいました。そして狼は小さな鶏たちを食べてしまいました。」
それからなお次のような詩も作られたのである。
棒で一つたたきました。
猫《ねこ》をたたいたのはポリシネルでした。
そのため善《よ》いことは起こらず悪いことが起こりました。
そこで奥様がポリシネルを牢屋《ろうや》に入れました。
修道院で引き取って慈善のために育てていた一人の捨て児の口から、次のようなやさしいまた痛ましい言葉が発せられたのも、ここにおいてである。彼女は他の子供たちが母親のことを話すのをきいて、片すみでつぶやいたのである。
「私が生まれた時はお母様はいらっしゃらなかった[#「私が生まれた時はお母様はいらっしゃらなかった」に傍点]。」
いつも鍵《かぎ》の束を持って廊下を歩き回ってる肥った受付の女が一人いた。アガト修道女という名前であった。十歳から上の大姉さま[#「大姉さま」に傍点]たちは、彼女のことをアガトクレス([#ここから割り注]訳者注 シラキューズの暴君[#ここで割り注終わり])と呼んでいた。
食堂は長方形の大きな室で、迫持※[#「宛+りっとう」、第4水準2-3-26]形《せりもちくりがた》のついた庭と同じ高さの大歩廊から明りがはいるのみで、薄暗くじめじめしていて、子供らが言ってるとおりに、虫がいっぱいいた。周囲から虫が集まってきていた。それで寄宿生らの間では、そのすみずみに特別なおもしろい名前をつけていた。蜘蛛《くも》の隅《すみ》、青虫の隅、草鞋虫《わらじむし》の隅、蟋蟀《こおろぎ》の隅などがあった。蟋蟀の隅は料理場のそばで、ごくとうとばれていた。他の隅《すみ》ほどそこは寒くなかった。それらの名前は食堂から寄宿舎の方まで持ってこられて、昔のマザランの四国民大学のように、それで区別されていた。各生徒は食事の時にすわる食堂のすみずみに従って、四国民の何れか一つに属していた。ある日大司教が巡視にきて、ちょうど見回っていた室《へや》に、みごとな金髪を持った顔色の美しいきれいな小娘がはいって来るのを見て、自分のそばにいるみずみずしい頬《ほお》をした美しい褐色《かっしょく》の髪の寄宿生に尋ねた。
「あの子は何ですか。」
「蜘蛛《くも》でございます。」
「なあに! ではあちらのは?」
「蟋蟀《こおろぎ》でございます。」
「では向こうのは?」
「青虫でございます。」
「なるほど、そしてお前さんは?」
「私は草鞋虫《わらじむし》でございます。」
この種の家にはそれぞれ特殊なことがあるものである。十九世紀の初めにはエクーアン市もまた、ほとんど尊い影のうちに少女らが育ってゆく優しい厳重な場所の一つであった。エクーアンでは、聖体祭の行列に並ぶのに、処女派と花派とを区別していた。それからまた「天蓋派《てんがいは》」と「香炉派」というのもあって、前者は天蓋のひもを持ち、後者は聖体の香をたくのだった。花はまさしく花派の受け持ちだった。四人の「処女」が一番先に進んだ。その晴れの日の朝になると、しばしば寝室でこんなふうに尋ねる声が聞かれた。
「どなたが処女でございましょう。」
カンパン夫人は七歳の「妹」が十六歳の「姉」に言った次の言葉を引用している。その時妹の方は行列の後ろの方にいたが、姉の方は行列の先頭にいたのである。「あなたは処女でございますわね。私は処女でございませんのよ。」
五 気晴らし
食堂の扉《とびら》の上の方に、人をまっすぐに天国に導くためのものであって純白なる主の祈りと称せらるる次の祈祷《きとう》が、黒い大字で書かれていた。
「いみじき純白なる主の祈り、神自ら作りたまい、神自ら唱えたまい、神自ら天国に置きたまいしもの。夕に床に就《つ》かんとする時、三人の天使わが床に寝《やす》みいたり。一人は裾《すそ》に二人は枕辺《まくらべ》にありて、中央に聖母マリアありぬ。マリアわれに曰《のたま》いけるは、寝《い》ねよ、ためろうなかれと。恵み深き神はわが父、恵み深き聖母はわが母、三人の使徒はわが兄弟、三人の童貞女《おとめ》はわが姉妹。神の産衣《うぶぎ》にわが身体は包まれてあり、聖マルグリットの十字はわが胸に書かれたり。聖母は神を嘆きて野に出で、聖ヨハネに会いぬ。聖ヨハネよいずこよりきたれるか? われはアヴェ・サルスよりきたりぬ。さらば爾《なんじ》は神を見ざりしか? 神は十字の木の上に居たまいぬ、足をたれ手を釘《つ》けられ、白き荊棘《いばら》の小さき冠を頭にかぶりて居たまいぬ。夕に之を三度唱え朝にこれを三度唱うる者は、終《つい》に天国に至らん。」
この特殊な祈祷は一八二七年には、三度重ねて塗られた胡粉《ごふん》のために壁から消えてしまっていた。当時の若い娘らも今はもはや年老いて、それを忘れてしまっていることだろう。
壁に釘付《くぎづ》けにされた大きな十字架像が、食堂の装飾を補っていた。食堂のただ一つの扉《とびら》は前に述べたと思うが、庭の方に開いていた。木の腰掛けが両側についてる狭いテーブルが二つ、食堂の一方から他の端まで二列の長い平行線に置かれていた。壁は白く、テーブルは黒かった。それらの二つの喪色のみが、修道院に許される唯一の色彩である。食事は粗末なもので、子供の食べるものでさえ厳重だった。肉と野菜を交ぜたものかまたは塩|肴《さかな》かの一皿、それでさえ御馳走《ごちそう》だった。そして寄宿生だけのその簡単な常食も、実は例外なものだった。子供らは週番の長老の監視の下に黙って食事をした。もしだれか規則に反して口を開こうものなら、長老は木の書物を開いたり閉じたりして大きな音を立てた。けれどもそういう沈黙は、十字架像の足下に設けてある小さな机の講壇で聖者らの伝記が大声に読まれることで、いくらか助かるのだった。それを読む者は、その週の当番の大きい生徒であった。むき出しのテーブルの上に所々陶器の鉢《はち》が置いてあって、その中で生徒らは自ら自分の皿や食器を洗った。時とすると、堅い肉やいたんだ肴など食い残しのものをそれに投げ込むこともあった。そうするといつも罰せられた。それらの鉢は水盤[#「水盤」に傍点]と言われていた。
沈黙を破って口をきいた者は「舌の苦業」をなすのであった。床《ゆか》になすのであって、すなわち舗石《しきいし》をなめるのである。あらゆる喜悦の最後のものたる埃《ほこり》は、薔薇《ばら》のあわれな小さな花弁にして囀《さえず》りの罪を犯したものを、懲らしむるの役目を帯びていたのである。
修道院のうちには、ただ一部だけ印刷されていて読むことを禁じられてる書物が一つあった。それは聖ベネディクトの規則の本である。俗人の目がのぞいてはいけない奥殿である。われらの規則《おきて》あるいはに傍点]制度《さだめ》を他国の人に通ぜんとする者あらざるべし。
寄宿生らはある日ようやくにしてその書物を盗み出した。そして皆で熱心に読み初めた。けれども見つけられることを恐れては急にそれを閉じたりして、何度も途中でとぎらした。生徒らはその非常な冒険からただつまらない楽しみを得たのみだった。若い男の子の罪に関するよく意味のわからない数ページが「一番おもしろかった」くらいのものである。
生徒らはやせた数本の果樹の立ち並んだ庭の道の中で遊んだ。監視がきびしく罰が重かったにもかかわらず、果樹が風に揺られるような時には、青い林檎《りんご》や腐った杏子《あんず》や虫の食った梨《なし》などを、ひそかに拾い取ることがあった。ここに私は、今自分の目の前にある一つの手紙に語らしてみよう。この手紙は、今日ではパリーの最も優美な婦人の一人たる某公爵夫人が、以前そこの寄宿生であった時、二十五年前に書いたものである。私は原文どおりに書き写してみよう。――「梨や林檎をできる限り隠しておきます。夕食をする前に面紗《かおぎぬ》を寝床に置きに行く時、枕の下にそっと押し込んでおき、晩になって寝床の中で食べます。もしそれができない時は、厠《かわや》の中で食べます。」――そういうことが彼女らの最も強い楽しみであった。
ある時、それもやはり大司教がこの修道院を訪れた時のことであったが、有名なモンモランシー家に多少縁故のあるブーシャール嬢という若い娘が、一日の休暇を大司教に願ってみるから賭《かけ》をしようと言い出した。かくも厳格な会派ではそれは異常なことだった。賭は成り立った。そして賭に加わった者一人として、そんなことができようとは思っていなかった。ところがいよいよその時になって、大司教が寄宿生らの前を通る時に、仲間の者が名状すべからざるほど恐れてるなかをブーシャール嬢は列から離れて、そして言った。「閣下、一日休みを下さいませ。」ブーシャール嬢は背が高く生々《いきいき》とした姿でこの上もなくかわいい薔薇色《ばらいろ》の顔つきをしていた。大司教のケラン氏はほほえんで言った。「一日とはまたどうしてです。三日でもいいでしょう。三日休みを上げましょう。」院長も差し出る力はなかった、大司教が言われたことであるから。修道院にとっては困まることであったが、寄宿舎にとっては愉快なことだった。その印象は想像してみてもわかるだろう。
このむずかしい修道院にも、外部の情熱の生活、芝居や小説めいたことまでが、いくらかはいり込むくらいの壁のすき間はあった。それを証明するために、次の確かな事実を一つ持ち出して簡単に述べてみよう。もとよりその事実は、本書の物語とは何らの関係もなく何らの連絡もないものである。それを語るのもただこの修道院のありさまを読者の頭によく映ぜしめんがためにほかならない。
そこで、この時代に、一人の不思議な女が修道院にいた。修道女ではなかったが、皆にごく尊敬されていて、アルベルティーヌ夫人と言われていた。多少気が変であること、世間には死んだことになってること、その二つを除いてはだれも彼女の身の上を知ってる者はなかった。またそれだけの話のうちには、あるりっぱな結婚のために必要な財産を整理するためだという意味があるんだとも、人は言っていた。
彼女は三十歳になるかならずで、髪は褐色《かっしょく》で、かなりの美貌《びぼう》で、大きな黒い目でぼんやり物をながめた。そしてほんとに見てるのかどうか疑わしかった。足で歩くというよりもむしろすべり歩いてるというありさまだった。決して口はきかなかった。息をしてるかさえよくはわからなかった。その小鼻は最期の息を引き取ったあとのように狭まって蒼白《そうはく》だった。その手に触れると雪に触れるかのような感じがした。幽霊的な不思議な優美さをそなえていた。彼女がはいってくると皆寒さを感じた。ある日、彼女が通るのを見て一人の修道女が言った。「あの人は死んでることになってるそうですよ。」すると、も一人のが答えた。「もう本当に死んでるのかも知れませんわ。」
アルベルティーヌ夫人については、種々な話があった。彼女は寄宿生らの絶えざる好奇心の的であった。礼拝堂に丸窓[#「丸窓」に傍点]と言われる一つの座席があった。一つの丸い壁口、すなわち一つの丸窓のついたその座席に、いつもアルベルティーヌ夫人はすわって祭式に列した。彼女はたいていそこに一人ですわっていた。なぜなら、二階にあるその座席からは男の説教師や祭司などが見えるからだった。男の牧師を見ることは修道女らには禁じられていたのである。ある日演壇には、高位の若い牧師が立っていた。それはローアン公爵であって、貴族院議員であり、またレオン大侯と言っていた一八一五年には近衛騎兵の将校をしてたことがあり、後に枢機官となりブザンソンの大司教となって一八三〇年に死んだ人である。そのローアン氏が初めてプティー・ピクプュスの修道院で説教をした時のことであった。アルベルティーヌ夫人は、平素は全く身動きもしないで深い落ち着きをもって説教や祭式に列するのだったが、その日ローアン氏を見るや半ば身を起こして、礼拝堂のひっそりした中で大声に言った「まあ[#「まあ」に傍点]、オーギュスト[#「オーギュスト」に傍点]!」会衆はみな驚いてふり返り、その説教師も目を上げて見た。しかしアルベルティーヌ夫人はもう不動の姿に返っていた。外部の世界の息吹《いぶ》き、生命の輝き、その一つが一瞬間、火も消えて凍りついてる彼女の顔の上を通ったのである、そして次にまたすべては消え失せ、狂女はまた死骸《しがい》となってしまった。
けれども右の二語は、修道院の中で口をきき得るすべての人たちの噂《うわさ》の種となった。そのまあオーギュストという言葉のうちには、いかに多くのことがこもっていたことか、いかに多くの秘密がもらされたことか。ローアン氏の名は実際オーギュストであった。ローアン氏を知ってるところを見ると、アルベルティーヌ夫人はごく上流の社会からきたに違いなかった。かくも高貴な人をあれほど親しく呼ぶところを見ると、彼女もまた上流の社会の高い地位にあったに違いなかった。またローアン氏の「呼び名」を知ってるところを見ると、彼女は彼とある関係が、あるいは親戚関係かも知れないが、しかし確かに密接な関係があるに違いなかった。
ショアズールとセランという二人の至って厳格な公爵夫人が、しばしばこの会を訪れてきた。きっと上流婦人の特権ではいって来るのであろうが、それをまた寄宿舎では非常に恐れていた。二人の老夫人が通る時には、あわれな若い娘らは皆震え上がって目を伏せていた。
ローアン氏はまた自ら知らずして、寄宿生らの注意の的となっていた。その頃彼は、司教職につく前にまず、パリー大司教の大助祭となっていた。そしてプティー・ピクプュスの修道女らの礼拝堂の祭式を唱えにやって来ることは、彼の仕事の一つとなっていた。若い幽閉の女らはだれも、セルの幕が掛かってるために彼の姿を見ることはできなかったけれど、彼はやや細いやさしい声を持っていたので、彼女らはそれをやがて聞き覚えて、他の者の声と聞き分けることができるようになった。彼は近衛《このえ》にはいっていたことがあるし、それからまた人の言うところによると、非常なおめかしやで、美しい栗色《くりいろ》の髪を頭のまわりにみごとに縮らしているそうであるし、広い黒いりっぱなバンドをしめており、その教服は世に最も優雅にたたれているそうである。そして彼は十六、七歳の娘のあらゆる想像の的となっていた。
何ら外部の物音は、修道院の中まで達してこなかった。けれどもある年、笛の音が聞こえてきた。それは一事件だった。当時の寄宿生らは今もなおそれを思い起こすだろう。
それはだれかが付近で奏する笛の音であった。今日ではもう遠く忘られている一つの歌曲をいつも奏していた。「わがゼチュルベよ、わが魂の上にきたり臨め。」そして日に二三回もそれが聞こえた。
若い娘たちは数時間それに聞きほれてることがあった。声の母たちは狼狽《ろうばい》した。神経は過敏になって、むやみと罰が課せられた。そういうことが数カ月続いた。寄宿生らは皆多少その見知らぬ音楽家に心を動かしていた。各自に自分をゼチュルベと夢想していた。笛の音はドロア・ムュール街の方から響いていた。笛をあれほど美妙に奏しているその「青年」、自ら気づかずにこれらすべての娘の魂を同時に奏しているその「青年」、彼の姿をたとい一瞬間でもながむることができ、垣間《かいま》見ることができ、瞥見《べっけん》することができるならば、彼女らはすべてを捨てて顧みず、すべてを冒し、すべてを試みたであろう。中には通用門からぬけ出して、ドロア・ムュール街に臨んだ四階の方まで上ってゆき、高窓からのぞこうとした者もあった。けれども、見ることはできなかった。そのうちの一人は、頭の上に手を差し伸ばして窓の格子《こうし》から外に出し、白いハンカチを打ち振りまでした。またもっと大胆なまねをした者が二人あった。彼女らは屋根の上までよじのぼり、危険を冒して、ついに首尾よく「青年」を見ることができた。ところがそれは、零落した盲目の老亡命者であって、屋根裏の部屋で退屈まぎれに笛を吹いてるのだった。
六 小修道院
このプティー・ピクプュスの構内には、全く異なった三つの建物があった。修道女らが住んでいる大きな修道院、生徒らが泊まっている寄宿舎、それから小修道院[#「修道院」に傍点]と言われていたところのもの。小修道院は庭のついた一連の長屋で、各種の会派のあらゆる老修道女らがいっしょに住んでいて、革命のために破壊された修道生活の名残《なご》りのものであった。黒や灰色や白やあらゆる色の混合であって、あらゆる組合あらゆる種類のものの会合であった。もしこういう言葉の組み合わせが許されるならば、雑色修道院とも呼び得べきものであった。
既に帝政の頃から、革命のために散乱して途方にくれてるあわれな修道女らは、ベネディクト・ベルナール派の建物のうちに身を置くことを許されたのである。政府は彼女らにも少しの年金を与えた。プティー・ピクプュスの女たちは前から年金を喜んで受けていたのである。それは実におかしな混合体で、各自に自派の規則を守っていた。時とすると寄宿舎の生徒らは、大休みとして、彼女らを訪問することが許された。若い生徒らが、サン・バジル長老やサント・スコラスティック長老やジャコブ長老などのことを特に覚えていたのは、この訪問の結果である。
それらの避難修道女のうちの一人は、ほとんど自分の家に帰ってきたような観があった。それはサント・オール派の修道女で、その一派からただ一人生き残っていた者である。サント・オール派の昔の修道院は、十八世紀の初めには、後にマルタン・ヴェルガのベネディクト修道女らのものとなったプティー・ピクプュスの家にあったのである。この聖《きよ》き童貞女はごく貧しくて、自派のりっぱな服、緋《ひ》色の肩衣のついた白の長衣を、ふだんに着られなかったので、それを大事そうに小さな像に着せておいた。彼女はその像を慇懃《いんぎん》に人に見せていたが、死ぬ時にそれを建物に遺贈した。かくて一八二四年には、このサント・オール派のものは一人の修道女きり残っていなかったが、今日ではもう一つの人形きり残っていない。
それらのりっぱな長老たちのほかに、たとえばアルベルティーヌ夫人のような世俗の老女も数人、小修道院に隠退することを院長から許されていた。その中には、ボーフォール・ドープール夫人だの、デュフレーヌ侯爵夫人などもいた。また一人の女は、身分が少しもわからなくて、鼻をかむ時に恐ろしい音を立てることだけ知られていた。寄宿舎の生徒らは彼女をヴァカルミニ夫人([#ここから割り注]訳者注 とどろき夫人の意[#ここで割り注終わり])と呼んでいた。
一八二〇年か二一年ごろ、アントレピードという小さな定期|編纂物《へんさんぶつ》を当時編集していたジャンリー夫人が、プティー・ピクプュスの修道院の一室にはいりたいと願ってきた。オルレアン公の推薦があった。蜂《はち》の巣をつっついたような騒ぎになった。声の母たちは震え上がった。ジャンリー夫人は小説を書いたことがあったのである。けれども、自分はだれよりも小説をきらう者であると彼女は公言した。そしてまた自分は熱烈な信仰の境地に到達したのだと言った。神の助けと、またオルレアン公の助けとによって、彼女はそこにはいることができた。ところが七、八カ月たつと、庭に木陰がないという理由で出て行ってしまった。修道女らは大喜びをした。老年ではあったが彼女は、なお竪琴《ハープ》をいつも弾じていて、それもきわめて巧みに弾じた。
出て行く時彼女は自分の分房に痕《あと》を残していった。ジャンリー夫人は迷信家でまたラテン語学者であった。その二つのことは彼女の人がらにかなりいい趣を添えた。彼女が金銭や宝石などを入れていた分房の小さな引き出しの内部に、次の五行のラテン語の詩がはりつけてあるのが今から数年前まで残っていた。それは黄色い紙に赤インキで彼女が自らしたためたもので、彼女に言わせると盗人を恐がらせる威力を持ってるものだそうである。
値異なる三つの身体、十字架の枝にかかる、
ディスマス、ジェスマス、中央にイエス・キリスト。
ディスマスは高きを求め、あわれジェスマスは低きを求む。
願わくは神よ、われらの生命《いのち》と財とを護《まも》りたまえ
この詩を誦《しょう》する者は、その財を盗まるることなからむ。
六世紀頃のラテン語のその詩は、あのカルヴェールの丘でキリストとともに十字架につけられた二人の盗賊の名が、一般に信ぜられてるようにディマスおよびジェスタスと言うのであるか、あるいはこの詩のとおりディスマスおよびジェスマスというのであるかについて、問題をひき起こした。この詩の方の名前は、十八世紀にジェスタス子爵が自分はある悪党の後裔《こうえい》であると言った主張を裏切るものだった。それからまたこの詩にあるとせられた有利なまじないの威力は、オスピタリエ派の女らの信仰の一個条となっている。
ここの会堂は、大きい方の修道院と寄宿舎とを切り離すようなふうに建てられていたが、もとより寄宿舎と大きい修道院と小修道院とに共通のものであった。それからまた、街路に開いている検疫所みたいな一種の入り口から、一般の人もはいることが許されていた。けれども修道院の中に住んでる人たちには、決して外部の人の顔が見えないようにしつらえてあった。その会堂の歌唱の間《ま》は、ある大きな手につかまれてるようで、普通の会堂に見るように祭壇の続きとはなっていないで、祭司の右手の方に一種の広間あるいは一種の薄暗い窖《あなぐら》をなすようなふうに折れ曲がっていた。またその広間は、前に述べたとおり高さ七尺の幕で閉ざされていた。幕の陰に木の椅子《いす》の上に、歌唱の修道女らは左に寄宿生らは右に、助修道女や修練女らは奥に控えていた。それだけのことを想像しても、聖務に列するプティー・ピクプュスの修道女らのありさまは多少わかるであろう。歌唱の間と呼ばるるその窖は、一つの廊下で修道院に通じていた。会堂内の明りは庭から採られていた。規則上沈黙を守らなければならないような祭式に修道女らが列する時は、立てたりねかしたりする椅子の腰木がぶつかる音で、一般の人はようやく彼女らの列席を知るのであった。
七 影の中の数人の映像
一八一九年から二五年まで六年の間、プティー・ピクプュスの修道院長は、教名をイノサント長老というブルムール嬢であった。聖ベネディクト会の聖者伝[#「聖ベネディクト会の聖者伝」に傍点]の著者であるマルグリット・ド・ブルムールの家の出であった。院長に再選されたのである。六十歳ばかりの背の低いふとった女で、前に引用した一寄宿生の手紙の言葉によれば「破甕《やれがめ》のような声を出す」女だった。けれどすぐれた婦人で、修道院中でただ一人快活な女であって、そのために人から敬愛されていた。
イノサント長老は、会の大立者だった先祖のマルグリットの気質を受け継いでいた。文才があり、博識で、学者で、鑑識家で、歴史を愛好し、ラテン語を学んでおり、ギリシャ語をつめ込んでおり、ヘブライ語に達者で、ベネディクト修道女というよりもむしろベネディクト修道士と言ったふうな型《タイプ》だった。
副修道院長は、シヌレス長老と言って、ほとんど盲目なスペイン人の老修道女だった。
声の母たちのうちで重立ったのは次のような人たちだった。会計係りのサント・オノリーヌ長老、修練女長のサント・ジェルトリュード長老、副長のサント・アンジュ長老、御納室係りのアンノンシアシオン長老、修道院中でただ一人の意地悪で看護係りのサン・トーギュスタン長老、なお次には、みごとな声を持ったまだ若いサント・メチルド長老(ゴーヴァン嬢)、フィーユ・ディユー修道院やジゾールとマンニーとの間にあるトレゾール修道院にいたことのあるデ・ザンジュ長老(ド・ルーエ嬢)、サン・ジョゼフ長老(ド・コゴリュード嬢)、サント・アデライド長老(ドーヴェルネー嬢)、ミゼリコルド長老(苦業にたえ得なかったシファント嬢)、コンパッシオン長老(規則に反して六十歳ではいってきたきわめて金持ちのド・ラ・ミルティエール嬢)、プロヴィダンス長老(ド・ローディニエール嬢)、一八四七年に院長になったプレザンタシオン長老(ド・シガンザ嬢)、それからまた、気狂《きちが》いになったサント・セリーニュ長老(彫刻家セラッキの妹)、気狂いになったサント・シャンタル長老(ド・スューゾン嬢)。
それからなお、最も美しい人たちの一人には、二十三歳の美人があった。ブールボン島の生まれで、ローズ騎士の後裔《こうえい》で、俗世ではローズ嬢と言われ、修道院ではアッソンプシオン長老と言われていた。
サント・メチルド長老は、歌と歌唱隊とを統べる役目を持っていて、好んで寄宿生を採用した。採用される者は、普通は一音階すなわち七人であって、声と身体とのよく整った十歳から十六歳までの者で、小さい者から大きい者と年齢の順に並べられて、立ちながら歌わせられた。それを見ると、若い娘らでできた野笛のようなありさまで、パン神の天使らでできてる生きた笛のような観があった。
寄宿生らに最も好かれていた助修道女には次のような人々がいた。サント・ウーフラジー姉《し》、サント・マルグリット姉、まだ幼いサント・マルト姉、いつも皆を笑わせる長い鼻を持ったサン・ミシェル姉。
修道女らは皆幼い生徒らにやさしかった。彼女らが厳格であるのは、ただ自分自身に対してのみだった。火がたかれるのはただ寄宿舎の方だけだった。それから食物も、修道院の方に比べると寄宿舎の方が上等だった。その上に生徒らは種々な世話を受けた。ただ、生徒が修道女のそばを通って話しかけてみても、修道女は決して返事をしなかった。
そういう沈黙の規律は次のような結果をきたしていた。すなわち、修道院中において、言葉は人間から奪われて無生物に与えられていた。あるいは会堂の鐘が口をきき、あるいは庭番の鈴が口をきいた。受付の女のそばに置かれていて家中に響き渡る大きな音の出る鐘は、その種々の音で、一種の音響電信のような仕方で、しなければならない実際的の仕事を知らせたり、必要に応じて某々の人を応接室に呼んだりした。各人および各仕事は、皆それぞれきまった音を持っていた。修道院長は一つと一つ、副院長は一つと二つ。六つと五つは課業。それで生徒らは決して教室にはいるということを言わないで、六つと五つに行くと言っていた。四つと四つはジャンリー夫人の音であった。その音はごくしばしば聞かれた。好意を持たない者らはそれを四つの悪魔[#「四つの悪魔」に傍点]と言っていた([#ここから割り注]訳者注 四つの悪魔とは大騒ぎという意味にもなる[#ここで割り注終わり])。十と九つは大事件の合い図だった。大事件というのは壁の門[#「壁の門」に傍点]の開くことであって、その鋲《びょう》のいっぱいついた恐ろしい鉄の扉《とびら》は大司教の前にしか決して開かれなかったのである。
大司教と庭番とのほかは、前に言ったとおり、男はだれも修道院の内部にははいられなかった。けれど寄宿生らはその他に二人の男を見たことがあった。一人はバネス師という年老いた醜い教誨師《きょうかいし》であって、それを皆は会堂の歌唱の間《ま》で格子《こうし》越しに見ることを許されていた。も一人は図画の教師のアンシオー氏で、前に数行引用した一寄宿生の手紙の中ではアンシオ[#「アンシオ」に傍点]氏と呼ばれていて、恐ろしい[#「恐ろしい」に傍点]佝僂《せむし》の老人[#「の老人」に傍点]だと書かれている。
男の人選がすべていかにうまく行なわれてるかは、これでわかるであろう。
そういうのがこの不思議な家のありさまであった。
八 心の次に石
精神的の方面を大略述べた後に、その物質的方面の象《すがた》を少しく指摘することはむだではないだろう。また既に読者にはそれが多少わかってるはずである。
プティー・ピクプュス・サン・タントアーヌの修道院は、ポロンソー街とドロア・ムュール街とピクプュス小路と、今はつぶれているが古い地図にはオーマレー街とのっていた小路とが、互いに交差して切り取った広い四角形のほとんど全部を占めていた。四つの街路はその四角形を溝《みぞ》のように取り巻いていた。修道院は数個の建物と一つの庭とから成っていた。中心の建物はこれを全体として見れば、雑多な様式をつみ重ねたもので、上から見おろせば、地上に倒した絞首台とほとんど同じ形になっていた。絞首台の大柱は、ピクプュス小路とポロンソー街との中に含まるるドロア・ムュール街の辺全体を占めており、その腕木は、鉄格子《てつごうし》のある灰色の高いいかめしい正面であって、ピクプュス小路を見おろしていた。六十二番地という標札のある正門はその端になっていた。この正面の約中央に、ほこりと灰とに白くなった穹窿形《きゅうりゅうけい》の低い古門があって、蜘蛛《くも》が巣を張っており、開かれるのはただ日曜日ごとに一、二時間と、修道女の柩《ひつぎ》が修道院から出るまれな場合だけだった。それが会堂への一般人の入り口であった。絞首台の肱《ひじ》に当たる所に、祭式の行なわれる四角な広間があって、それを修道女らは特別室[#「特別室」に傍点]と呼んでいた。大柱に当たる所に、長老やその他の修道女の分房と修練女の室とがあった。腕木に当たる所に、料理場と食堂とがあって、それと背中合わせに大歩廊と会堂とがあった。六十二番地の門をはいると、閉ざされてるオーマレー小路の角《かど》に寄宿舎があって、それは外からは見えなかった。四角形の残りの部分は庭になっていて、庭の地面にポロンソー街の地面よりもずっと低かった。そのために壁は外部よりも内側の方がはるかに高かった。庭は軽く中高になっていて、中央に一つの築山《つきやま》があり、その上に円錐形をなして梢《こずえ》のとがったりっぱな樅《もみ》の木が一本あって、ちょうど円楯《まるたて》の槍受《やりう》けの丸い中心から溝《みぞ》が出てるように、そこから四つの大径が出ていた。そして八つの小径が各大径の間に二つずつ通っていた。それで庭がもし円形だったら、道の幾何学的配置の図形は、ちょうど輪の上に十字形が置かれたようなありさまになったに違いない。道はみな庭の不規則な壁の所まで達しているので、その長さは一様でなかった。道の両側にはすぐりの木が立ち並んでいた。庭の奥には、大きな白楊樹の並んだ一筋の道が、ドロア・ムュール街の角にある古い修道院の廃屋から、オーマレー小路の角《かど》にある小修道院まで通じていた。小修道院の前方には、小庭と言われてるものがあった。それらの全体に加うるに、一つの中庭、中部の住家がこしらえてる種々な角、監獄の壁、ポロンソー街の向こう側にあって近くにずっと見渡せる黒い長い屋根並みの一列、などをもってする時には、今から四十五年前のプティー・ピクプュスのベルナール修道女らの住居のありさまが、だいたいわかるであろう。この聖《きよ》い住居はまさしく、十四世紀から十六世紀へかけて有名だった一万一千の悪魔の庭球場と呼ばれるテニスコートの跡に、建てられていたのである。
なおそれらの街路は、パリーのうちでは最も古いものだった。ドロア・ムュールとかオーマレーとかいう名前はきわめて古いものである。がそういう名前を持ってる街路はなおずっと古いものである。オーマレー小路はもとモーグー小路と言われていた。そしてドロア・ムュール街(訳者注 垂直壁街の意)はエグランティエ街(訳者注 野薔薇街の意)と言われていた、それは人が石を切る前に神は花を咲かせられたからである。
九 僧衣に包まれし一世紀
われわれはプティー・ピクプュスの古《いにしえ》のありさまを詳しく述べているのであるから、そして既にこの秘密な隠れ家《が》の窓を一つ開いて中をのぞいたことであるから、なおここにも一つ枝葉の点を述べることを許していただきたい。これは本書の内容とは没交渉のものではあるけれども、この修道院が独特な点を有することを了解せんがためには、きわめて特異な有効なものである。
小修道院に、フォントヴローの修道院からやってきた百歳ばかりの女が一人いた。彼女は革命以前には上流社会の人だった。ルイ十四世の下に掌璽官《しょうじかん》だったミロメニル氏のことや、親しく知っていたというあるデュプラーという議長夫人のことなぞを、いつもよく話していた。あらゆる場合に右の二つの名前を持ち出すことは、彼女の楽しみでもあり見栄《みえ》でもあった。またフォントヴローの修道院に関して種々大げさなことを話していた、フォントヴローは大都市であるとか、修道院の中に多くの街路があるとかいうようなことを。
彼女にはピカルディーのなまりがあった。寄宿生らはそれをおもしろがっていた。毎年彼女はおごそかに誓願をくり返した。そして誓言をなす時にはいつも牧師にこう言った。「サン・フランソア閣下はそれをサン・ジュリアン閣下にささげたまい、サン・ジュリアン閣下はそれをサン・ウーゼーブ閣下にささげたまい、サン・ウーゼーブ閣下はそれをサン・プロコープ閣下にささげたまい、云々云々、そして私はそれを、わが父よ、なんじにささげまする。」それで寄宿生らは、頭巾《ずきん》の下で([#ここから割り注]訳者注 ひそかに[#ここで割り注終わり])ではないが、面紗《かおぎぬ》の下で笑うのであった。かわいい小さな忍び笑いであって、いつも声の母たちの眉《まゆ》をしかめさした。
またある時は、この百歳の女は種々な話をしてきかした。私が若い頃にはベルナール修道士たちは近衛兵にも決してひけを取らなかった[#「私が若い頃にはベルナール修道士たちは近衛兵にも決してひけを取らなかった」に傍点]、というようなことを言った。そういう口をきくのは一世紀で、しかも十八世紀だったのである。またシャンパーニュとブールゴーニュとの四つの葡萄酒《ぶどうしゅ》の風習のことも話した。革命以前には、ある高貴の人、たとえばフランス元帥だの、大侯だの、枢密院公爵だの、そういう人々がシャンパーニュやブールゴーニュのある町を通らるる時には、その町の団体の者がごきげん伺いにまかり出て、四種の葡萄酒をついだ四つの銀の盞《さかずき》を献ずるのであった。第一の盞には猿《さる》の葡萄酒という銘が刻んであり、第二のには獅子《しし》の葡萄酒、第三のには羊の葡萄酒、第四のには豚の葡萄酒という銘が刻んであった。その四つの銘は酩酊《めいてい》の四段階を示したものであった。第一段の酩酊は人を愉快になし、第二段は人を怒りっぽくなし、第三段は人を遅鈍になし、第四段は人を愚昧《ぐまい》にする。
彼女は何か一つの秘密な物を引き出しの中に入れて、鍵《かぎ》をかってごく大事にしまっていた。フォントヴローの規則はそういうことを禁じなかったのである。彼女はその品をだれにも見せようとしなかった。自分でそれをながめようとする時には、室《へや》に閉じこもって、それも規則に許されていたので、そして人の目にふれないようにした。もし廊下に足音が聞こえると、その年取った手でできるだけ大急ぎで引き出しをしめた。そのことを言い出そうものなら、ごくおしゃべりな彼女も口をつぐんでしまった。いかにものずきな者も彼女の沈黙にはどうすることもできず、いかに執拗《しつよう》な者も彼女の頑固《がんこ》にはどうすることもできなかった。かくてその不思議な品物は、修道院中のひまで退屈しきってる人たちの問題の的となった。百歳の老婆の宝となってるそのとうとい秘密な物は、いったいどういうものだろう。きっと何かの聖書かも知れない、またとない何かの念珠かも知れない。折り紙のついた何かの遺品かも知れない。人々はあれかこれかと推測に迷った。そのあわれな老婆が死ぬと、人々はあられもなく大急ぎで引き出しの所にかけつけて、それを開いてみた。するとその品物は、祭典の聖皿のように三重の布《きれ》に包まれていた。大きな注射器を持った薬局生たちに追われて飛び去ってゆく愛の神たちの絵があるファエンツァの皿であった。追跡者の方は種々な渋面をしたり種々なおかしな姿勢をしていた。かわいい小さな愛の神たちの一人は、既に注射器で貫かれていた。彼は身をもがき小さな翼を動かしてなお飛ぼうとしていたが、道化者の方は悪魔のような笑いを浮かべていた。絵の意味は、腹痛にうち負けた愛というのである。その皿は至って珍しいもので、たぶんモリエールにあの喜劇の思いつきを一つ与えるの光栄を有したことであろう。一八四五年の九月にはなお残っていた。ボーマルシェー大通りのある古物商の店に売り物に出ていた。
このお婆さんは、外部からの訪問を受けるのを好まなかった。応接室があまり陰気だから、と彼女は言っていた。
十 常住礼拝の起原
おおよそのありさまを前に述べておいたこの墓場のような応接室は、全く独特なもので、他の修道院においてもこれほど厳重には作られていなかった。実際これとは別な会派に属するものであるが、タンプル街の修道院においては特に、黒い板戸は褐色《かっしょく》の幕に代えられていた。そして床《ゆか》には木が舗《し》いてあった。窓わくには白モスリンの布がやさしくかぶせてあり、壁には種々な額縁がかかっていて、面紗《かおぎぬ》をかぶらないベネディクト修道女の肖像が一つ、花束の絵が数個、それからまたトルコ人の顔までがあった。
タンブル街の修道院の庭には、有名な七葉樹があった。それはフランス第一の美しい大きなものとされていた。十八世紀の人たちは、王国のすべての七葉樹の父[#「王国のすべての七葉樹の父」に傍点]であると言って評判していた。
前に言ったとおりこのタンプルの修道院には、シトーから出てきたベネディクト修道女とは全く別なものではあるが、やはり常住礼拝をしているベネディクト修道女らがいた。この常住礼拝の一派はそう古いものではなく、二百年以上にさかのぼるものではない。一六四九年に、パリーの二つの会堂サン・スュルピスとサン・ジャン・アン・グレーヴとで、数日へだてて、聖サクラメントがけがされた。あまり例のない恐ろしい冒涜《ぼうとく》で、全市をわき立たせたものだった。サン・ジェルマン・デ・プレの修道院長大助祭はその全聖職者に命じて荘厳な行列をなさしめ、そこで法王の特使が祭式を上げた。けれどもその贖罪《しょくざい》の祭式をも、二人のりっぱな婦人、ブーク侯爵夫人であるクールタン夫人とシャトーヴィユー伯爵夫人とは、なお足りないように思った。「祭壇のきわめておごそかなる秘蹟」に対してなされた冒涜は、たとい一時的のものではあったとしても、二人の聖《きよ》い魂から去らないで、ある童貞女らの修道院において「常住礼拝」をしなければ贖《あがな》われるものではないように思われた。それで一人は一六五二年に、一人は一六五三年に、ベネディクト修道女でサン・サクルマンという教名を持ってるカトリーヌ・ド・バール長老に莫大《ばくだい》な金額を寄贈して、その敬虔《けいけん》な目的のために聖ベネディクト派の一修道院を設立させようとした。その設立に対する第一の許可は、サン・ジェルマンの修道院長メース氏によってカトリーヌ・ド・バール長老へ交付された。「現金六千フランにして年三百フランの定期納金を有せざる娘は入会せしめざるの規約において」であった。サン・ジェルマンの修道院長の後に、国王は特許の宸翰《しんかん》を下した。そして修道院長の許可状と国王の宸翰との全体は会計院と議政府とにおいて一六五四年に認可された。
以上が、パリーのサン・サクルマンの常任礼拝ベネディクト修道女会が設立された起原であり、また法律上に認可された経過である。その最初の修道院は、カセット街に、ブークおよびシャトーヴィユー両夫人の金によって「新しく建て」られた。
この会派はかくのごとくして、いわゆるシトーのベネディクト修道女会とは別なものであった。これはサン・ジェルマン・デ・プレの修道院長から起こったもので、サクレ・クールの修道女会がセジュー派の管長から起こされ、シャリテの修道女会がラザール派の管長から起こされたのと同じである。
われわれがその内部を述べてきたあのプティー・ピクプュスのベルナール修道女会も同じく、このサン・サクルマン派とは全く別なものであった。一六五七年に、法王アレキサンドル七世は特別の宸翰《しんかん》をもって、サン・サクルマンのベネディクト修道女らのように常住礼拝を行なうことを、プティー・ピクプュスのベルナール修道女らにも許可した。しかし両派は依然として別なものであった。
十一 プティー・ピクプュスの終わり
王政復古の初め頃から、プティー・ピクプュスの修道院は衰微してきた。十八世紀の後には、すべての宗教的団体とともに一般に秩序の終滅をきたしたのであって、これもその一部分にすぎなかった。静観は祈祷《きとう》とともに人間に必要なものの一つである。しかし革命の手に触れられたすべてのものと同じく、静観もやがてその形を変じて、社会の進歩をはばむことから脱して、かえってそれを助けるものとなるだろう。
プティー・ピクプュスの家に住む者は、にわかにその数を減じてきた。一八四〇年には、小修道院はなくなり、寄宿舎もなくなっていた。年老いた女らも、若い娘らも、もはやそこにいなかった。老いたる者は死に、若き者は立ちのいていた。彼女らは飛び去りぬ[#「彼女らは飛び去りぬ」に傍点]。
常住礼拝の規則は、人に怖気《おじけ》を震わせるほど苛酷《かこく》なものである。帰依する者は少なくなり、新たにはいって来る者はなくなった。一八四五年には、なお多少の助修道女らが散在していた。しかし歌唱の修道女はもはや一人もいなかった。今から四十年前には、修道女の数は約百人ばかりだった。十五年前には、もはや二十八人に過ぎなかった。そして今日は幾人になってることであろう? 一八四七年には、院長はまだ若い人だった。これは選挙の範囲がせばまったしるしである。院長は四十歳にもなっていなかった。また人員の減少につれて労苦は増してくる。各人の仕事はますます激しいものとなってくる。聖ベネディクトの重い規則をになうべき肩も、やがては前にかがんだ痛ましいもののみ十指を屈するにすぎなくなることが見えていた。しかもその重荷は絶対的のものであって、それをになうべき人員の多少にかかわらず常に同一なのである。それは人を圧迫し人を押しつぶす。かくて修道女らは死んでいった。本書の著者がなおパリーにいた頃、死んだ者が二人まである。一人は二十五歳で、一人は二十三歳だった。二十三歳の彼女は、おそらくユリア・アルピヌラのようにこう言ったであろう。「二十三年を生きて今妾《わらわ》ここに横たわる」修道院が若い娘の教育をよしたのも、かかる衰微のゆえにである。
この異常な未知の薄暗い家の前を通るや、われわれはその中にはいってみざるを得なかったのである。あるいは何人《なにびと》かのためになるべきを思ってわれわれがジャン・ヴァルジャンの憂うつな物語をなすのに耳を傾けてくれる人々、われわれのあとに従ってきてくれる人々を、その中に導かざるを得なかったのである。今日ではいかにも新奇に見える古い常習に満ちたこの修道院の内部に、われわれは既に一瞥《いちべつ》を与えた。それは実に閉ざされたる庭である。禁園である。この不思議な場所のことを、詳細にしかも敬意をもって、少なくとも敬意と詳細とが相一致し得る限りにおいて、われわれは述べきたった。われわれはその全部を理解することはできないが、しかしその何物をも軽侮しはしない。死刑執行人を神聖視するまでに至ったジョゼフ・ド・メーストルの賛嘆と、十字架像をあざ笑うまでに至ったヴォルテールの冷笑と、両者からわれわれは同じ距離に立つ者である。
ヴォルテールの没論理、という一語をついでに加えよう。なぜならば、ヴォルテールはカラス(訳者注 十八世紀フランスの商人で寃罪を受けて残酷な死刑に処せられた人、ヴォルテールは彼を熱心に弁護したのである)を弁護したと同様に、キリストをも弁護すべきはずだったからである。超人間的な化身説を否定する人々の前にも、十字架像は何を示すのであるか。殺害された賢者の姿をではないか。
十九世紀において、宗教的観念は危機を閲している。人はある種のことを学んでいない。けれども、一を学ばずとも他を学びさえするならば、それも別にさしつかえはない。ただ人の心のうちに空虚を存してはいけない。またある種の破壊がなされている。ただ、破壊の後に建設がきさえするならば、それも至極いいことである。
まずそれまでは、もはや存在しない事物をも研究しようではないか。それを知ることは必要である、それを避けんがためにでも。過去の偽物は偽名を取って好んで未来と自称する。この幽霊は、過去は、しばしばその通行券を偽造する。われわれはその詭計《きけい》を見破ろうではないか。疑念をはさもうではないか。過去は迷信という顔を持ち、虚偽という仮面をかぶる。その顔を摘発し、その仮面を引きはごうではないか。
修道院については、複雑なる問題が起こってくる。文明の問題は修道院をしりぞけ、自由の問題は修道院を保護する。
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第七編 余談
一 抽象的観念としての修道院
本書は一つのドラマであって、その第一の人物は無窮なる者である。
人間は第二の人物である。
かかるがゆえに、途中に一修道院を見いだすや、吾人はその中にはいってみざるを得なかった。何ゆえかなれば、修道院というものは、東洋と西洋とを問わず、古代と近代とを問わず、偶像教と仏教とマホメット教とキリスト教とを問わず、皆それに固有のものであって、人間によって無窮なるものの上に適用された幻燈器械の一つだからである。
今はある何かの観念を過度に敷衍《ふえん》すべき折りではない。けれども、絶対に遠慮と制限とを守り、かつ憤懣《ふんまん》の情を覚えながらも、吾人は一言せざるを得ない。すなわち、人間のうちに無窮なるものを見いだす時は、たといそれが正当につかまれていると否とを問わず、吾人は常に尊敬の念に打たれる。ユダヤの会堂やマホメットの教堂やインドの寺院や黒人の聖堂などのうちにも、擯斥《ひんせき》すべき醜悪なる一面と賛嘆すべき荘厳なる一面とが存する。人間という壁の上への神の反映こそ、いかに人を静観せしめ、いかに深き夢想のうちに陥らしむることか!
二 歴史的事実としての修道院
歴史、理性、および真理の見地よりすれば、修道院制はしりぞけらるべきものである。
一国のうちに数多の修道院がある時には、それは交通の障害となり、邪魔な建物となり、活動の中心たるべき所に怠惰の中心を出現するに至る。修道組合が大なる社会組織に対する関係は、あたかも寄生木《やどりぎ》の樫《かし》の木におけるがごとく、疣《いぼ》の人体におけるがごときものである。その繁栄と肥満とは、国の衰弱となる。修道院の制度は、文明の初期においては有益であって、精神的のものによって獣性を減殺するに役立つのであるが、しかし民衆の活動力には悪い結果を及ぼすものである。なおまた、その制度が弛緩《しかん》して退廃期に入る時には、それでもやはり範例となるがゆえに、その純潔なる時代において有益であったと同じ理由によって、かえって有害なるものとなる。
修道院内にこもるには、特殊な時期があった。修道院生活は、近代文明の初期の教育には有効であったが、文明の成長には妨げとなったし、その発展には有害なものとなっている。制度としてまた人間に対する教養の方式として修道院は、十世紀には有益なものであったが、十五世紀には問題にすべきものとなったし、十九世紀には排斥すべきものとなっている。修道院制の病根は、二つのみごとなる国民、数世紀の間欧州の光明たりしイタリーとその光輝たりしスペインとを、ほとんどその骨までしゃぶりつくした。そして現代においてこの二国民がようやくその病根から平癒《へいゆ》し初めたのは一七八九年(訳者注 フランス大革命)の勇健なる衛生法のお陰によってである。
なお十九世紀の初めにイタリーやオーストリアやスペインなどに残っていた修道院は、ことに古い女修道院は、中世の最も薄暗い投影の一つである。その内部は、それらの修道院の内部は、あらゆる恐怖すべきものの交差点である。本来のカトリックの修道院内部は、死の暗黒なる輝きに充《み》ち満ちている。
スペインの修道院は特に陰惨である。そこでは、暗黒のうちにつっ立って、靄《もや》のこめた穹窿《きゅうりゅう》の下に、影のためにおぼろな丸天井の下に、大会堂のように高く、バベルの塔のようにおごそかな祭壇がそびえている。大きな白い十字架像がやみのうちに鎖に下がっている。黒檀《こくたん》の台の上に大きな象牙のキリスト像が裸のまま並んでいる。血にまみれてるというよりも血を流してるような趣である。恐ろしいがしかし荘厳な趣である。両肱《りょうひじ》は骨立ち、両膝《りょうひざ》は皮膜があらわで、傷口からは肉が見えており、銀の荊棘《いばら》の冠をかぶり、金の釘《くぎ》でつけられ、額には紅玉《ルビー》の血がしたたり、目には金剛石《ダイヤ》の涙が宿っている。その金剛石と紅玉とはぬれてるようで、その下の影の中に面紗《かおぎぬ》をかぶった人たちを泣かせる。彼女らは鉄のついた鞭《むち》と毛帯とで脇腹を傷つけ、柳蓆《やなぎこも》で胸を押しつぶし、祈祷のために膝の皮をすりむいている。めとりし者と自らを想像してる女ども、天使と自らを想像してる幽霊ども。それらの女は考えているのか、否。欲しているのか、否。愛しているのか、否。生きているのか、否。その神経は骨となり、その骨は石となっている。その面紗は編まれたる暗夜である。面紗の下のその呼吸は、言い知れぬ悲壮なる死の息にも似寄っている。一個の悪鬼たる院長が、彼女らをきよめ彼女らを恐怖さしている。生々しい無垢《むく》がそこにある。かくのごときすなわちスペインの古い修道院のありさまである。恐るべき帰依の巣窟《そうくつ》、童貞女らの洞穴《どうけつ》、残忍の場所である。
カトリック教のスペインは、ローマ自身よりももっとローマ的であった。スペインの修道院は、特にカトリック教的なものであった。そしてあたかもトルコ宮殿のごときものであった。大司教すなわち天のキスラル・アガは、神にささげられた魂の宮殿を閉鎖し監視していた。修道女は宮女であり、牧師は宦官《かんがん》であった。信仰熱き女らは、夢のうちに選まれてキリストを所有している。夜になると、その裸体の美しい青年は十字架からおりてきて、分房の歓喜の的となった。十字架につけられし彼を皇帝《サルタン》として守っている奥深い皇后《サルタナ》は、あらゆる現世の楽しみから高い壁でへだてられていた。外界に向ける一瞥《いちべつ》も既に不貞となるのであった。寂滅牢[#「寂滅牢」に傍点]([#ここから割り注]訳者注 修道院において罪人を死に至るまで幽閉する地牢[#ここで割り注終わり])は皮の袋の代わりとなっていた。東方において海に投ずるところのものを、西洋にては地下に投じていた。しかしいずれにおいても、投ぜられた女らは腕をねじ合わして苦しんだ。一方には波濤《はとう》があり、一方には墓穴があった。一つは溺死《できし》、一つは埋没。おぞましき類似である。
今日、過去に味方する者らは、これらのことを否定し得ずして、それを微笑にまぎらさんとつとめた。歴史の摘発を止め、哲学の注釈を弱め、あらゆる不利な事実やいやな問題を省略せんがために、不思議な便利な方法を流行さした。大言壮語の題目[#「大言壮語の題目」に傍点]だと巧みなる者らはいう。大言壮語だとその尻馬《しりうま》に乗った者らは繰り返す。かくて、ジャン・ジャック・ルーソーも壮語家となり、ディドローも壮語家となり、カラスやラバールやシルヴァン([#ここから割り注]訳者注 皆寃罪のために極刑に処せられし人[#ここで割り注終わり])などを弁護するヴォルテールも壮語家となる。また最近だれかがかかることまで言った、タキツスは一つの壮語家であり、ネロ皇帝はその犠牲である、そして「このあわれなるホロフェルネス」(ネロ)こそまさしく同情すべきであると。
しかしながら事実は曲げ難いものであり、頑強《がんきょう》なるものである。ブラッセルから八里ばかりの所、だれにもわかる中世のひな形のある所、すなわちヴィレルの修道院において、その中庭の牧場の中央に終身囚の穴と、ディール川の岸に半ばは地下に半ばは水の下になってる四つの石|牢《ろう》とを、本書の著者は親しく見たのである。それこそまさしく寂滅牢[#「寂滅牢」に傍点]の跡である。それらの地牢の各には、一つの鉄の扉《とびら》のなごりと、一つの厠《かわや》と、格子《こうし》のはまった一つの軒窓とが残っている。その軒窓は、外部では川の水面上二尺の所になっており、内部では地上六尺の所になっている。四尺の厚さの川水が壁の外を流れているわけである。地面はいつも湿っている。寂滅牢[#「寂滅牢」に傍点]にはいった者は、その湿った地面の上に寝ていたのである。地牢のうちの一つには、壁にはめ込んである鉄鎖の一片が残っている。またあるものの中には、四枚の花崗岩《かこうがん》でできてる四角な箱のようなものが見られる。それは中に寝るにはあまりに短く、中に立つにはあまりに低い。昔その中に人を入れて上から石の蓋《ふた》をしたものである。それが残っている。目で見、手でさわることができる。それらの寂滅牢[#「寂滅牢」に傍点]、それらの地牢、それらの鉄の扉の肱金《ひじがね》、それらの鉄鎖、川の水がすれすれに流されているその高い軒窓、墓穴のように花崗岩の蓋がされて中の者に死者と生者との違いがあるのみのその石の箱、泥深いその地面、その厠《かわや》の穴、水のしたたるその壁、それらを云々することが何で大言壮語家であるか!
三 いかなる条件にて過去を尊重すべきか
スペインまたはチベットにあったような修道院制度は、文明にとっては一種の結核である。それは生命の根を断つ。一言にして言えば人口を減ずる。閉居であり、去勢である。ヨーロッパにおいては天の罰であった。それに加うるに、しばしば人の本心に対してなされた暴行、強制的な加入、修道院生活に立脚する封建制、家庭の冗員を修道院のうちに送り込む父兄、前に述べたような残虐、寂滅牢、緘黙《かんもく》、閉鎖されたる頭脳、永久誓願の牢獄に入れられたる多くの不幸なる知力、僧服の着用、魂の生きながらの埋没。かくて、国民的衰退に加うるに個人の苦悩。それを思う時にはいかなる人も、人間の発明になった二つの経帷子《きょうかたびら》たるその道服と面紗《かおぎぬ》との前に、必ずや戦慄《せんりつ》を覚ゆるであろう。
けれども、ある方面にはそしてある場所には、哲学や世の進歩にかかわらず、修道院的精神は十九世紀のさなかに残存している、そして禁慾主義のおかしな再興が今や文明社会を驚かしている。古き制度のなお永続せんとする頑固《がんこ》さは、臭き油のなお人の頭髪につけられんことを求むる頑強さにも似、腐った魚肉のなお食せられんことを求むる主張にも似、子供の衣服のなお大人にまとわれんことを求むる執拗《しつよう》さにも似、埋もれる死骸《しがい》のなお生きたる人々を抱擁しに戻りきたらんとする情愛にも似ている。
恩知らずめ、天気の悪い時には汝を保護してやったではないか、それなのになぜもうわれを欲しないのか、と衣服は言う。われは海の底からやってきたのだ、と魚肉は言う。かつてわれは薔薇《ばら》だったのだ、と香油は言う。われは汝を愛したのだ、と死骸は言う。そしてわれは汝を文明に導いてやったのだ、と修道院は言う。
それらに対してはただ一つの答えがあるばかりである、なるほど昔は、と。
死亡したる事物の無限の延長を夢想し、木乃伊《ミイラ》によって人類の統治せらるるを夢想すること、退廃したる信条を復興すること、遺物|櫃《ひつ》に再び金箔《きんぱく》をきせること、修道院を再び塗り立てること、遺骨|匣《ばこ》を再び祝福すること、迷信を再び興すこと、狂言を再び盛んにすること、灌水器《かんすいき》と剣とに再び柄をすげること、修道院制と軍国主義とを再び建てること、寄食者の増加によって社会の幸福を信ずること、現在に過去を押し付けること、それは実に常規を逸したことと思われるではないか。けれど世にはかかる理論を主張する者がある。それらの理論家は、もとより才人であって、きわめて簡単な方法を持っていて、社会の秩序、天の正義、道徳、家庭、祖先崇拝、古き権威、神聖なる伝統、正法、宗教、などと彼らが称するところの塗料を過去の上に塗る。そして彼らは叫び回る。「いざ、善良なる人々よ、これを執れ。」そういう理論は、古人の間によく知られたものであった。ローマの卜占者《ぼくせんしゃ》らはそれを実行していた。彼らは黒牛に白堊《はくあ》を塗りつけて言った、「この牛は白である。」それこそ白塗りの[#「白塗りの」に傍点]牛である。
吾人は、過去がただ死者たることを自認しさえするならば、過去をも部分的にはこれを尊び全体としてはこれをいたわってやるであろう。しかしもし生者たることを欲するならば、これを攻撃しこれを殺さんとつとむるであろう。
迷信、頑迷《がんめい》、欺瞞《ぎまん》、偏見など、それらの悪霊は、悪霊でありながらもなお生命に執着し、その妖気《ようき》の中に歯と爪とを持っている。それらに対して白兵戦を演じ、戦闘を開き、しかも間断なき戦闘をなさなければならない。なぜならば、亡霊らと絶えざる戦いをなすことは、定められたる人類の運命の一つだからである。しかしながら影は、その喉《のど》をつかみ難くうち倒し難いものである。
十九世紀のさなかに、フランスに、一修道院があるとすれば、それは日に向かってる梟《ふくろう》の学校に過ぎない。一七八九年と一八三〇年と一八四八年との三度の革命を経た都市の中央に禁慾主義を実行しながら、パリーのうちにローマを建てながら、一修道生活があるとすれば、それは時代錯誤である。普通の時にあっては、時代錯誤を解放させ消滅さするには、それができ上がった年号を呼ばすればそれで足りる。しかしながら今は普通の時ではない。
戦おうではないか。
戦おうではないか、しかしまた敵をよく弁別しようではないか。真理の特性は、決して過度ならずということである。真理は何ら誇張の必要を持っていない。破壊すべきものもあり、また単に光に照らして研究すべきものもある。好意あるまじめなる審査、それはいかに力強いことであるか。光の十分にある所には、炎を持ち行くことをやめようではないか。
ゆえに、十九世紀の世にあって吾人は、一般的の問題として、またあらゆる民衆のうちにおいて、アジアとヨーロッパとを問わず、インドとトルコとを問わず、禁慾的閉居に反対する者である。修道院を説くは沼沢を説くに等しい。その腐敗性は明らかであり、その澱《よど》みは不健全であり、その毒気は民衆に熱を病ましめ民衆を衰弱せしむる。その数が増せばやがてエジプトの災厄となる。インド托鉢僧《たくはつそう》、仏教僧、マホメット教行者、ギリシャ修道者、マホメット教隠者、シャム仏僧、マホメット教僧侶、彼らが増加して蛆虫《うじむし》のごとく群がってる国を考える時、吾人は身震いせざるを得ない。
かく言っても、宗教的問題はなお残っている。その問題は、神秘的なほとんど恐るべき方面を有している。ここに吾人をしてそれを凝視することを許していただきたい。
四 原則の見地より見たる修道院
多くの人が相集まって共同の家に住む。それはいかなる権利によってであるか? 団結の権利によってである。
彼らはその家に閉じこもる。いかなる権利によってか? おのれの戸を開きもしくは閉ざすは各人の任意であるという権利によって。
彼らは外出をしない。いかなる権利によってか? 自家にこもるのを権利をも含みたる行ききするの権利によって。
そこで、家の中で、彼らは何をなすか?
彼らは低い声で話している。目を伏せている。働いている。世間を、町を、肉欲を、快楽を、虚栄を、傲慢《ごうまん》を、利益を、すべて見捨てている。荒い毛か麻かの着物をつけている。一人としていかなるものをも所有権によって所有していない。そこにはいれば、富んでいた者も貧しくなる。おのれの持っているものは、これを皆の者に与える。貴族と言われ紳士と言われ王侯と言われていた者も、百姓であった者と同等になる。分房はだれのも同一である。皆同じ剃髪《ていはつ》式を受け、同じ道服をつけ、同じ黒パンを食し、同じ藁《わら》の寝床の上に眠り、同じ灰の上に死んでゆく。同じ行衣を背につけ、同じ繩《なわ》を腰にしめている。もしはだしで歩くことが規則ならば、みなはだしで歩く。もしそこに一人の王侯がいるとしても、もはや他の者らと等しく一つの影にすぎない。もはや何らの称号もない。姓さえも消えてしまっている。彼らは呼び名だけしか持っていない。皆平等な洗礼名の下に頭をたれている。彼らは肉親の家庭を解除して、その会派のうちに精神的の家庭を立てている。彼らの親戚はただすべての人である。彼らは貧しい人々を助け、病める人々を看護する。彼らはおのれが服従すべき人を自ら選む。互いに彼らは「わが兄弟姉妹」と呼ぶ。
かく言えば人は私をさえぎって叫ぶであろう、「しかしそれは理想の修道院だ!」
しかしそれを考察するには、ただそれがあり得べきものでさえあればいい。
かくて私は前編において、一つの修道院のことを敬意をこめた調子で語ったのである。そして中世を外にし、アジアを外にし、歴史的政治的問題を差し控え、純然たる哲学的見地に立ち、攻撃的論議の道具を捨てて、修道生活は絶対に自発的なもので同意をしか含んでいないという条件において、注意深い真剣さとある点に関しては謙遜なる真剣さとをもって、修道会をなお続けて考察していってみよう。一つの組合がある所には自治区があり、一の自治区がある所には権利がある。修道院も平等と友愛という規範から生じたものである。ああいかに自由とは大なるものであるか、そしていかに光輝ある変容であることか! 修道院を共和国に変容せしむるためには、ただ自由ということで足りる。
なお言葉を進めてみよう。
あの四方の壁の背後にいるそれらの男や女は、荒布をまとい、みな平等で、互いに兄弟姉妹と呼んでいる。それはよろしい。しかし彼らはなお他の事をもなすか?
しかり。
何を?
彼らは影を見つめ、ひざまずき、手を合わしている。
それはいったいいかなる意味であるか?
五 祈祷《きとう》
彼らは祈る。
だれを?
神を。
神を祈る、この語は何を意味するか?
われわれの外部にある無窮なるものがあるのではあるまいか? その無窮なるものは、単一のものであり恒久不易なるものではあるまいか。無窮なるがゆえに、また、もし実体が欠くればその点で限られたるものとなるがゆえに、それは必然に実体的のものではあるまいか、そして、無窮なるがゆえに、また、もし霊が欠くればその点で限られたるものとなるがゆえに、それは必然に霊的のものではあるまいか。われわれは自身に存在の観念しか与え得ないが、その無窮なるものはわれわれのうちに本質の観念を覚《さま》させるのではあるまいか。言葉を換えて言えば、それはわれわれの対称たる絶対ではないだろうか。
われわれの外部に無窮なるものがあると同時に、われわれの内部にも無窮なるものがないだろうか。その二つの無窮なるものが(何という恐るべき複数であるか!)互いに重なり合ってるのではないだろうか。第二の無窮なるものは、いわば第一のものの下層ではないだろうか。それは第一のものの鏡であり、反映であり、反響であり、第一の深淵《しんえん》と同中心の深淵ではないだろうか。この第二の無窮なるものもまた霊的のものではあるまいか。それは考え愛し意欲するのではあるまいか。もし二つの無窮なるものが霊的のものであるならば、その各は一つの意欲的本体を有し、そして上なるものに一つの自我があるとともに、下なるものにも一つの自我があるに違いない。この下なる自我がすなわち人の魂であり、上なる自我がすなわち神である。
思念によって、下なる無窮のものを上なる無窮のものと接触させること、それを称して祈るという。
人の精神から何物をも取り去らないようにしようではないか。除去することは悪いことである。ただ改革し進化させなければいけない。人間のある種の能力は、未知なるものの方へ向けられている、すなわち、思想と夢想と祈祷《きとう》とが。未知なるものは一つの大洋である。人の本心とは何か? それは未知なるものに対する羅針盤《らしんばん》である。思想、夢想、祈祷、そこにこそ大なる神秘的光輝がある。それらを尊敬しようではないか。人の魂のおごそかなるそれらの発光はどこへ向かって進むか。それは影へ向かってである。換言すれば光明へ向かってである。
民主主義の偉大さは、何物をも否定しないことであり、人類の何物をも否認しないことである。人間の権利の側に、少なくともその横手に、魂の権利がある。
狂言を押しつぶし、無窮なるものを跪拝《きはい》すること、それが法則である。創造の木の下にひれ伏し星辰《せいしん》に満ちたその広大なる枝葉をうち眺めることのみに、止まらないようにしようではないか。われわれは一つの義務を持っている。人の魂を培《つちか》い、奇蹟に対抗して神秘を護《まも》り、不可解を尊んで不条理を排し、説明し難いものについてはただ必要なるもののみを許容し、信仰を健全にし、宗教の上より迷信を除くこと、すなわち神より害虫を駆除することである。
六 祈祷《きとう》の絶対善
祈祷の方法は、ただそれがまじめでさえあるならばすべてよろしい。汝の書物を伏せよ、そして無窮なるもののうちにあれ。
吾人の知るところによれば、無窮なるものを否定する一つの哲学がある。また病理学上一つの哲学となし得るもので太陽を否定するのがある。その哲学を盲目と称する。
われわれに欠けたる一知覚を真理の基となすことは、盲者の虚勢である。
おもしろいことには、神を見る哲学に対して、その手探りの哲学は、優者らしいあわれむような尊大な態度を取る。あたかも土竜《もぐらもち》が叫ぶがような声を出す、「奴《やつ》らの太陽ときたら気の毒なものだ!」
吾人の知るところによれば、有名な強力な無神論者らが世にはいる。彼らは自分自らの力によって真の方へつれ戻されて、根本では確かな無神論者ではない。彼らにとってはただ定義の問題だけである。そして彼らは偉大なる精神の者らであるから神を信じはしないにしても、多くの場合にかえって神を証明している。
吾人は彼らの哲学を厳正に弁別しながらも、彼らの精神のうちに哲学者があることを慶するものである。
なお言を進めよう。
同じくみごとなる一事は、言葉をもって満足するの容易さである。多少濃霧に感染している北方の一形而上学派は、力という語を意志という語で置き換えて、それで人間の悟性のうちに一革命をきたすものと信じた。
植物は生長する、と言う代わりに、植物は意欲する、と言うことも、万有は意欲するということをそれにつけ加えるならばなるほど意味深いことであろう。なぜならばそれから次のことが出て来るであろうから。すなわち、植物は意欲す、ゆえに植物は一つの自我を有す、万有は意欲す、ゆえに万有は一つの神を有す。
この学派と反対であって、何物をも先入主的にしりぞけない吾人に言わしむれば、この派の容認する植物のうちにある意志は、この派の否定する万有のうちにある意志よりも、いっそう容認し難いもののように思われる。
無窮なるものの意志を、換言すれば神を否定することは、無窮なるものを否定するのでなければでき得ないことである。これは前に論証したところである。
無窮なるものの否定は、直ちに虚無主義に陥ってゆく。すべては「人の精神の一概念」となってしまう。
虚無主義に対しては議論は不可能である。なぜなれば、合理的な虚無主義者は、相手の者が存在しているかを疑い、また自分自身が存在していることをも確信してはいないからである。
彼の見地よりすれば、彼自身も彼自身に対しては「自分の精神の一概念」にすぎない、ということになり得る。
ただ彼は一事を気づかないでいる、精神という言葉を発することによって、否定したすべてのものを一括して自ら肯定しているということを。
要するに、否という一語にすべてを到達せしむる哲学によっては、何らの思索の道も開かれない。
「否」という一語に対しては、ただ「しかり」という一つの答えがあるのみである。
虚無主義は領域を有しない。
虚無なるものは存しない。零《ゼロ》は存しない。すべては何かである。無は何物でもない。
人はパンによってよりもなお多く肯定によって生きている。
見ることと示すこと、それだけでも十分ではない。哲学は一つのエネルギーでなければならない。人間を進化せしむることをその目的とし結果として有しなければならない。ソクラテスはアダムのうちにはいってマルクス・アウレリウスを製造しなければならない。換言すれば、至福の人間から知恵の人間を生まれさせなければならない。エデンの園をリセオムの園に変えなければならない。学問は一つの興奮剤でなければならない。享楽するということ、それはいかにつまらない目的であり、いかに弱々しい野心であるか。禽獣《きんじゅう》のみが享楽する。思考すること、そこにこそ人の魂の真の勝利がある。人々の飢渇に思想を差し出し、すべての者に強壮剤として神の観念を与え、彼らのうちに本心と学問とを親和せしめ、その神秘なる面接によって彼らを正しき人たらしむること、それが真の哲学の使命である。倫理は多くの真理の開花である。静観することはやがて行動することになる。絶対的なるものは実際的なるものでなければならない。理想なるものは、人の精神にとっては呼吸し飲み食し得るものでなければならない。「取れよ、これこそわが肉、これこそわが血なり、」というの権利を有するものは、実に理想である。知恵は一つの神聖なる聖体拝受《コンミュニオン》である。かかる条件においてこそ、知恵は単に無益なる好学心たることを止めて、人類組合の唯一にして最高なる方法とはなるのである。そしてかかる条件においてこそ、知恵は哲学より宗教へまで上りゆくのである。
哲学というものは、神秘を自由にながめんがために、そして好奇心を満足させるに便利なというだけの、あの神秘の上に建てられたる単なる張り出し建築のみであってはならない。
吾人は、おのれの思想の詳説はこれを他の機会に譲って、ここにはただ一言を述べるに止めよう。すなわち、信仰と愛という原動力たる二つの力なしには、人間を出発点として考えることもできず、進歩を目的として考えることもできないと。
進歩は目的である。理想はその典型である。
理想とは何であるか。それは神である。
理想、絶対、完全、無窮、皆同一意義の言葉である。
七 非難のうちになすべき注意
歴史と哲学とは、永久のそしてまた同時に単純なる義務を有している。すなわち、司教カイアファス、法官ドラコ、立法者トリマルキオン、皇帝チベリウス、などと戦うことである(訳者注 キリストを定罪せしめしユダヤの僧侶、酷薄なるアテネの法官、苛酷なるローマの立法官、残忍なるローマ皇帝)。それは明瞭《めいりょう》で直截《ちょくせつ》で公明であって、何らの疑雲をも起こさせないことである。しかしながら、隔離生活の権利は、その障害と弊害とをもってしてもなお、確認され許容されんことを欲するものである。修道生活は人間の一問題である。
修道院、その誤謬《ごびゅう》のしかも無垢《むく》の場所、謬迷《びゅうめい》のしかも善良なる意志の場所、無知のしかも献身の場所、苦難のしかも殉教の場所、それについて語る時には、ほとんど常に然《しか》りと否とを言わざるを得ない。
修道院、それは一つの矛盾である。その目的は至福、その方法は犠牲。修道院は実に、結果として極度の自己棄却を持つ極度の自我主義である。
君臨せんがために王位を捨つる、それが修道院制の箴言《しんげん》であるように思われる。
修道院のうちにおいては、人は享楽せんがために苦業する。死を書き入れた手形を振り出す。天の光明を地上のやみに振り換える。修道院のうちにおいては、天国を相続するの前金として地獄が受け入れられている。
面紗《かおぎぬ》や道服などの着用は、永遠をもって報いられる自殺である。
かくのごとき問題を取り扱うには、嘲笑《ちょうしょう》はその場所を得ないように吾人には思われる。善も悪も、すべてが真剣なのである。
正しき人も眉《まゆ》をしかめることはある、しかし決して悪意ある微笑はもらさない。吾人は憤怒を知っている、しかし悪念を知らないものである。
八 信仰、法則
なお数言を試みたい。
教会が策略に満たさるる時、吾人はそれを非難し、求道者が利欲に貪婪《どんらん》なる時、吾人はそれを侮蔑《ぶべつ》する。しかし吾人は常に考える人を皆尊敬する。
吾人はひざまずく者を祝する。
一つの信仰、それこそ人間にとって必要なるものである。何をも信ぜざる者は不幸なるかな!
人は沈思しているゆえに無為であるとは言えない。目に見ゆる労役があり、また目に見えぬ労役がある。
静観することは耕作することであり、思考することは行動することである。組み合わしたる両腕も働き、合掌したる両手も仕事をなす。目を天に向けることも一つの仕事である。
タレスは四年間静坐していた。そして彼は哲学を築いた。
吾人に言わしむれば、修道者も閑人ではなく、隠遁者も無為の人ではない。
影を思うことは、一つのまじめなる仕事である。
墳墓に対する絶えざる思念は生ける者に適したものであることを、前に述べた事がらと撞着《どうちゃく》なしに吾人は信ずるのである。この点については、牧師と哲学者とは一致する。死ななければならない[#「死ななければならない」に傍点]。トラップの修道院長は、ホラチウスに言葉を合わせる。
自己の生活に墳墓の現前を多少交じえること、それは賢者の法則である、そしてまた苦行者の法則である。この関係においては、苦行者と賢者とは一堂に会する。
物質的の生成がある。吾人はそれを欲する。また精神的の偉大さがある。吾人はそれに執着する。
考えなき躁急《そうきゅう》な精神は言う。
「神秘の傍に並んで動かないそれらの人々が何になるか。何の役に立つか。いったい何を為しているのか?」
悲しいかな、吾人を取り巻き吾人を待ち受けている暗黒を前において、広大なる寂滅の手が吾人をいかになすかを知らないで、吾人はただ答えよう。「それらの人々の魂がなす仕事ほど崇高なものはおそらくないであろう。」そしてなお吾人はつけ加えよう。「おそらくそれ以上に有益なる仕事はないであろう。」
決して祈祷《きとう》をしない人々のために、常に祈祷をする人がまさしく必要である。
吾人の見るところでは、すべて問題は、祈祷に交じえられたる思想の量にある。
祈祷するライプニッツ、それこそ偉大なものである。礼拝するヴォルテール、それこそみごとなものである。ヴォルテールは(訳者補 この堂を)神に建てぬ。
吾人はもろもろの宗教には反対であるが、真の一つの宗教の味方である。
吾人は説教の惨《みじ》めさを信ずるものであり、祈祷の崇厳さを信ずるものである。
その上、今吾人が過ぎつつあるこの瞬間において、仕合わせにも十九世紀に跡を印しないであろうこの瞬間において、また、多くの現代人が享楽的な道徳を奉じ一時的な不完全な物質的事物をのみ念頭にしている中にあって、なお多くの人は下げた額と高くもたげぬ魂とを持っているこの時において、自ら俗世をのがれる者は皆吾人には尊むべき者のように思われる。修道院生活は一つの脱俗である。犠牲は誤った道を進もうともやはり犠牲たることは一である。厳酷なる誤謬を義務として取ること、そこには一種の偉大さがある。
それ自身について言えば、理想的に言えば、そしてすべての外部を公平に見きわめるまで真理のまわりを回らんがために言えば、修道院は、ことに女の修道院は――なぜならば、現社会において最も苦しむものは女であり、そしてこの修道院への遁世《とんせい》のうちには一の抗議が潜んでいるからして――女の修道院は、確かにある荘厳さを有している。
前に多少の輪郭を示しておいた厳格|陰鬱《いんうつ》なる修道生活、それは生命ではない、なぜならば自由ではないから。それは墳墓ではない、なぜならば完成ではないから。それは不思議なる一つの場所である。高山の頂から見るように人はそこから、一方には現世の深淵《しんえん》をながめ、他方には彼世の深淵をながめる。それは二つの世界を分かってる狭い霧深い一つの境界で、両世界のために明るくされるとともにまた暗くされ、生の弱い光と死の茫漠《ぼうばく》たる光とが入り交じっている。それは墳墓の薄明である。
それらの女の信ずるところを信じてはいないがしかし彼女らのごとく信仰によって生きている吾人をして言わしむれば、吾人は一種の宗教的なやさしい恐怖の情なしには、羨望《せんぼう》の念に満ちた一種の憐憫《れんびん》の情なしには、彼女らをながむることができないのである。震え戦《おのの》きながらしかも信じ切っているそれらの身をささげたる女性、謙遜なるしかも尊大なるそれらの魂、既に閉ざされたる現世と未だ開かれざる天との間に待ちながら、あえて神秘の縁に住み、目に見えざる光明の方へ顔を向け、唯一の幸福としてはその光明のある場所を知っていると考えることであり、深淵と未知とを待ち望み、揺るぎなき暗黒の上に目を定め、ひざまずき、我を忘れ、震え戦き、永遠の深き息吹《いぶ》きによって時々に半ば援《たす》け起こされるそれらの女性よ。
[#改ページ]
第八編 墓地は与えらるるものを受納す
一 修道院へはいる手段
ジャン・ヴァルジャンがフォーシュルヴァンのいわゆる「天から落ち」こんできたのは、前述のような家の中へであった。
彼はポロンソー街の角《かど》をなしてる庭の壁を乗り越えたのだった。ま夜中に彼が聞いた天使たちの賛美歌は、修道女らが歌う朝の祈りであった。彼が暗闇《くらやみ》のうちにのぞき見た広間は、礼拝堂であった。彼が床《ゆか》の上に横たわってるのを見た幽霊は、贖罪《しょくざい》をなしてる修道女であった。彼がいぶかり驚いた音をたててた鈴は、フォーシュルヴァン爺《じい》さんの膝についてる庭番の鈴であった。
コゼットを寝かすと、前に言ったとおりジャン・ヴァルジャンとフォーシュルヴァンとは、一杯の葡萄酒《ぶどうしゅ》と一片のチーズとを、よく燃える薪《まき》の火にあたりながら味わった。それから、その小屋の中にあるただ一つの寝台にはコゼットが寝ていたので、彼らはそれぞれ藁束《わらたば》の上に横になった。目をふさぐ前にジャン・ヴァルジャンは言った、「これから私はここに置いてもらわなくてはならない。」その言葉が、終夜フォーシュルヴァンの頭の中から去らなかった。
実を言えば、二人とも眠れはしなかったのである。
ジャン・ヴァルジャンは、見破られてジャヴェルから跡をつけられてることを感じていて、もしパリーの中へ出ていったら自分とコゼットとの破滅をきたすということがわかっていた。新たに吹きつけてきた一陣の風によってその修道院に投げ込まれたことであるから、もはやそこに止まろうという一つの考えしか持っていなかった。しかるに、彼のような地位にある不幸な者にとっては、その修道院は同時に最も危険なまた最も安全な場所だった。最も危険だというのは、いかなる男もそこへははいることができないので、もし見付かったら現行犯となり、しかもジャン・ヴァルジャンにとってはその修道院から牢獄まではただ一歩を余すのみだったからである。最も安全だというのは、もしそこに許されて止まることができたら、だれからもさがしにこられる憂いがなかったからである。不可能の場所に住むこと、それが安全の策であった。
フォーシュルヴァンの方では、しきりに頭を悩ましていた。彼はまず、少しも訳がわからぬことを自ら認めた。あの高い壁にかこまれているのに、どうしてマドレーヌ氏がはいってきたのだろう。この修道院の壁は乗り越せるものではない。それにどうして子供を連れてはいってきたのだろう。腕に子供をかかえてつき立った壁を攀《よじ》登れるものではない。またあの子供は何者だろう。二人はいったいどこからきたのだろう。フォーシュルヴァンはその修道院にはいっていらい、モントルイュ・スュール・メールのことについては何の噂《うわさ》も聞かず、そこに起こったことを少しも知っていなかった。と言って、マドレーヌ氏の様子は事情を尋ねるのも気の毒なほどだった。その上フォーシュルヴァンは自ら言った、「聖者に何かと尋ねるものではない。」マドレーヌ氏は彼の目から見れば、まだりっぱな人であった。ただ、ジャン・ヴァルジャンの口からもれた数語によって、庭番は次のことが推察できるように思った。すなわち、マドレーヌ氏はおそらくこの困難な時勢のために破産に陥ったのであろう、そして債権者どもから追い回されてるのであろう、あるいはまた、何か政治上の事件に関係して、身を隠そうとしてるのかも知れない。そしてこの考えはフォーシュルヴァンの気に入った。彼は北方の多くの農民と同じく、古くからのボナパルト派だったからである。身を隠そうとして、マドレーヌ氏はこの修道院を避難所と定めたのであろう、そして彼がここにとどまりたいというのは当然なことである。けれども、フォーシュルヴァンが絶えず思い出して頭を悩ました不可解なことは、マドレーヌ氏が庭の中にいたこと、しかも子供といっしょにいたことであった。フォーシュルヴァンは二人を目で見、二人を手でさわり、二人に話しかけたのだが、それでもなお夢のような気がしていた。その不可解事は、今や彼の小屋の中まではいり込んできた。彼は種々想像をめぐらしてみた。そしてただ「マドレーヌ氏は自分の生命の親である」ということきり何もはっきりしたことはわからなかった。けれどもその確かな一事で十分だった。それで彼は心を定めた。彼はひそかに考えた、「こんどは自分の番だ。」そして心のうちでつけ加えた、「私を引き出すため車の下にはいり込むのにマドレーヌ氏は種々考えてみはしなかったんだ。」彼はマドレーヌ氏を助けようと決心した。
それでもなお彼は、いろいろと自問自答した。「私にあれだけのことをしてくれたが、もし盗人だったとしても助けるべきものだろうか? やはり同じことだ。もし人殺しだったとしても助けるべきものだろうか? やはり同じことだ。聖者だからというので助けるべきだろうか? やはり同じことだ。」
しかし彼を修道院にとどめるというのは、いかに困難な問題であったか! それでもほとんど夢にみるようなその仕事の前にも、フォーシュルヴァンはたじろぎはしなかった。ピカルディーのあわれな一百姓である彼は、献身と善意とまたこんどは任侠《にんきょう》な目的のためにめぐらされる古い田舎者《いなかもの》の多少の知恵とのほか、何らの梯子《はしご》も持たずに、修道院の難関と聖ベネディクトの規則の荒い懸崖《けんがい》とを、乗り越してみようと企てたのである。フォーシュルヴァン爺《じい》さんは生涯《しょうがい》の間利己主義者であったが、晩年になると跛者にはなるし身体はきかなくなるし、もう世間に何の興味もなくなり、恩を感ずることが楽しくなり、また何かいい行ないをなすべき場合に出会うと、あたかも、かつて味わったこともない上等の一杯の葡萄酒《ぶどうしゅ》に死ぬ間ぎわになって手を触れて、それを貪《むさぼ》り飲む人のように、そこに飛びついてゆくのであった。その上、修道院の中で既に数年間呼吸してきた空気は、彼の個性を滅却さして、ついに何らかのいい行ないをせざるを得ないようにしてしまったのである。
で彼は決心をした、マドレーヌ氏に身をささげようと。
われわれは今彼をピカルディーのあわれな百姓[#「ピカルディーのあわれな百姓」に傍点]と呼んだ。この形容詞は正当なものではあるが、しかしそれだけでは不十分である。この物語もここまで進んでくると、フォーシュルヴァン爺さんの人がらを少しく述べることも有益になってくる。いったい彼は百姓であったが、公証人書記をしていたことがあった。そのために、彼の知恵には多少の訴訟癖が加わり、彼の素朴さには多少の洞察力《どうさつりょく》が加わった。ところが種々な理由で仕事に失敗して、公証人書記から荷車屋となり人夫とまでなり下がった。けれども、必要だと思えば馬をののしったり鞭《むち》を食わしたりしてはいたものの、なお彼のうちには公証人書記の性質が残っていた。彼は生まれながらの機知を持っていた。仮名づかいをも知っていた。田舎には珍しいほど話も上手だった。他の百姓どもは彼のことを、「あの男は旦那方のような言葉つきをする」と言っていた。フォーシュルヴァンは実際、十八世紀の煩雑《はんざつ》軽薄な言葉でいわゆる半都会人半田舎者[#「半都会人半田舎者」に傍点]というあの階級、お邸《やしき》から百姓家の方までひろがっていって平民どもの取って置きのたとえ言葉となってるものでいわゆる半平民半市民[#「半平民半市民」に傍点]、胡椒《こしょう》と塩[#「と塩」に傍点]というあの階級、それに属していたのである。彼は運命にひどく苦しめられ弱らされており、すり切れたあわれな老耄《おいぼれ》の魂とはなっていたけれども、まだやはりきびきびした自発的な人間であった。これは人を決して悪人となさない尊い性質である。彼は欠点や悪徳も持ってはいたが、それは表面的なものだった。要するに彼の人相は、よく見るとはなはだ愛すべきものであった。その年老いた顔には、悪質か愚昧《ぐまい》かを示すあの上額のいやな皺《しわ》は少しもついていなかった。
夜明け頃に、フォーシュルヴァンは途方もない夢をみて目をさました。見ると、マドレーヌ氏は藁束《わらたば》の上にすわって、眠ってるコゼットをながめていた。フォーシュルヴァンは半身を起こして言った。
「さて、あなたは今ここにいなさるが、どうして改めてはいる工夫をしたものでしょうかな。」
その言葉は一言にして事情を言い尽したもので、ジャン・ヴァルジャンを夢想から呼びさました。
二人の老人は相談をはじめた。
「まず、」とフォーシュルヴァンは言った、「この室から外に出ないようにしなければいけません。子供もあなたも二人とも。一足でも庭に出たら、もうおしまいです。」
「なるほど。」
「マドレーヌさん、」とフォーシュルヴァンはまた言った、「あなたはいい時に、というのは悪い時においででした。一人の修道女がひどく病気なんです。それでこちらはあまり注意されていませんでしょう。もう死にかかってるのかもわかりません。四十時間の祈祷《きとう》がされています。家中が大騒ぎをしています。皆その方に気を取られています。死にかかってる人は聖者なんです。いや実はここではみな聖者です。あの人たちと私との違いと言えばただ、あの人たちは私どもの部屋と言うのに、私は私の小屋と言うくらいのものです。死にかかると祈祷がありますし、死ぬとまた祈祷があるんです。で今日《きょう》だけはまずここにいて安心でしょうが、明日《あす》のところはわかりませんよ。」
「だが、」とジャン・ヴァルジャンは注意した、「この小屋は壁の陰になってるし、あの廃《すた》れた家に隠されてるし、木立ちもあるので、修道院から見えはすまい。」
「そのうえ修道女たちはここへは決してやってきません。」
「それで?」とジャン・ヴァルジャンは言った。
それで? というその疑問の調子は、「ここに隠れていることができるだろう」という意味だった。フォーシュルヴァンはその疑問の調子に答えた。
「それでも娘たちがいます。」
「娘たちというのは?」とジャン・ヴァルジャンは尋ねた。
フォーシュルヴァンがそれを説明するために口を開いた時に、鐘が一つ鳴った。
「修道女が死にました。」と彼は言った。「あれが喪の鐘です。」
そして彼はジャン・ヴァルジャンに耳を澄ますように合い図をした。
鐘はまた一つ鳴った。
「マドレーヌさん、喪の鐘です。一分おきに鳴って、身体が会堂から運び出されるまで二十四時間続きます。……ところで、それが遊戯をします。休みの間に毬《まり》でも一つころがってこようものなら、禁じられてはいますが、皆ここへやってきます。この辺をやたらにさがし回るんです。その天の使いたちは、それはいたずらな悪魔ですよ。」
「だれのことだ?」とジャン・ヴァルジャンは尋ねた。
「娘たちですよ。あなたはすぐに見つかるでしょうよ。娘たちは大きな声を出します、まあ男の人が! って。ですが今日は大丈夫です。今日は休みがありません。一日中|祈祷《きとう》があるはずです。鐘が聞こえるでしょう。私が申したとおり一分に一つずつです。喪の鐘です。」
「わかった、フォーシュルヴァンさん。寄宿者の生徒たちがいるんだね。」
そしてジャン・ヴァルジャンはひそかに考えた。
「コゼットの教育もこれでできるだろう。」
フォーシュルヴァンは力をこめて言った。
「そうです、娘たちがいるんですよ。あなたのまわりに騒ぎ出します。駆けていきます。ここでは、男がいることは疫病神《やくびょうがみ》がいるようなものです。ごらんのとおり、猛獣かなんぞのように私の膝《ひざ》にもこうして鈴をつけておくんです。」
ジャン・ヴァルジャンはますます深く考え込んだ。「この修道院のおかげでわれわれは助かるだろう」とつぶやいた。それから彼は声をあげた。
「そうだ、困難なのはここにとどまることだ。」
「いえ、」とフォーシュルヴァンは言った、「出ることが困難なんです。」
ジャン・ヴァルジャンは全身の血が心臓に集まってくるように感じた。
「出るのが?」
「そうですよ、マドレーヌさん、ここにはいるにはまず出なければなりません。」
そして、喪の鐘がまた一つ鳴るのを待って、フォーシュルヴァンは続けた。
「こんなふうでここにいるわけにはいきません。どこからきなすったかというのが問題になりますよ。私はあなたを知ってますから、天から落ちてきたでよろしいですが、修道女たちにとっては、門からはいってこなければいけませんからな。」
その時突然、別な鐘のかなり複雑な音が聞こえた。
「あああれは、」とフォーシュルヴァンは言った、「声の母たちを呼ぶ鐘です。集会へ行くんです。だれかが死ぬと、いつも集会があります。今の人は夜明けに死にました。死ぬのはたいてい夜明けなんです。がとにかくあなたは、はいってきた所から出て行くわけにはいきませんか。これはこと更お尋ねするわけではありませんよ、ただはいってきた所から出て行くわけには?」
ジャン・ヴァルジャンは青くなった。あの恐ろしい街路へまた出て行くことは、考えただけでもぞっとした。虎《とら》がいっぱいいる森から出て、やっと外にのがれたかと思うと、またそこにはいってゆけと勧められたようなものだった。まだその一郭には警察の者らがうようよしている、警官は見張りをしているし、番兵は至る所に立っているし、恐ろしい拳《こぶし》は彼の襟首《えりくび》をねらっているし、ジャヴェルもおそらく四つ辻《つじ》の片すみに待ち受けているだろう、そうジャン・ヴァルジャンは想像していた。
「それはできない!」と彼は言った。「フォーシュルヴァン爺《じい》さん、まあ私は天から落ちてきたとしておいてもらいたい。」
「ええ私はそう思ってます、そう思ってますとも。」とフォーシュルヴァンは言った。「そんなことはおっしゃらなくともよろしいですよ。神様はあなたをそばでよく見ようと思って手に取り上げて、それからまた下へおろされたのでしょう。ただあなたを男の修道院の中へおろそうとして、まちがえられたんです。それ、また鐘が鳴ります。門番へ合い図の鐘です。門番は役所へ行って、検死の医者をよこすように頼むんです。それは人が死んだ時にきまってやることです。修道女たちは医者が来るのをあまり好《す》きません。医者という者は少しも信仰のないものですから。医者は面紗《かおぎぬ》をはずしたり、時とすると他の所までめくります。それにしてもこんどは大変早く医者を呼びますが、どうしたんでしょう。あああなたのお児さんはまだ眠っていますね。何とおっしゃるんですか。」
「コゼット。」
「あなたの娘さんですか。まあ言わば、あなたはその祖父《おじい》さんとでも?」
「そうだ。」
「娘さんの方は、ここから出るのはわけはありません。中庭に私の通用門があるんです。たたけば門番があけてくれます。負いかごを背負って娘さんを中に入れて、そして出ます。フォーシュルヴァン爺《じい》さんが負いかごをかついで出かける、ちっとも不思議なことじゃありません。娘さんには静かにしてるように言っといて下さればよろしいです。上に覆《おお》いをしておきます。シュマン・ヴェール街に果物屋《くだものや》をしてる婆さんで私がよく知ってる者がありますから、いつでもそこに預けることにしましょう。聾でして、小さな寝床も一つあります。私の姪《めい》だが、明日《あした》まで預っていてくれ、と耳にどなってやりましょう。そしてまた娘さんはあなたといっしょにここにはいってくるようにしたらいいでしょう。私はあなたがたがここにはいれるように工夫します。ぜひともそうします。ですが、どうしてまずあなたは出たものでしょう。」
ジャン・ヴァルジャンは頭を振った。
「私は人に見られてはいけないのだ。それが一番大事な点だ、フォーシュルヴァンさん。コゼットのようにかごにはいって覆《おお》いをして出られる方法はないものだろうか。」
フォーシュルヴァンは左手の中指で耳朶《みみたぶ》をかいた。非常に困まったことを示す動作だった。
その時第三の鐘が鳴って頭を他に向けさした。
「あれは検死の医者をいよいよ迎いにゆく合い図です。」とフォーシュルヴァンは言った。「医者は死人を見てから、死んでいる、よろしい、と言うんです。天国への通行券に医者が署名しますと、葬儀屋が棺をよこします。長老だと長老たちが、普通の修道女だと修道女たちが、死体を棺に納めます。それから私が釘《くぎ》を打つんです。それは庭番の仕事の一つになっています。庭番は墓掘り人の用までするんです。棺は会堂の低い室に入れられます。室は、往来に続いていまして、検死の医者のほかはだれも男ははいることができません。もっとも人夫どもだの私などは人数のうちにははいりませんからな。私が棺に釘を打つのはその室の中でです。そして人夫どもが棺を取りにきて、馬に鞭《むち》をあてて行ってしまいます。そういうふうにして天国に行くんですよ、空《から》の箱を持ってきて、それに何かを入れて持って行くんです。そういうのが葬式です。デ[#「デ」に傍点]・プロフォンディス[#「プロフォンディス」に傍点]です。」([#ここから割り注]訳者注 深き淵よりわれは主よなんじを呼ばわりぬ、という死者の祈りの句[#ここで割り注終わり])
ま横から低くさしてくる太陽の光が、コゼットの顔に当たっていた。眠っている彼女は、ぼんやりと口を少し開いていて、光を吸ってる天使のようだった。ジャン・ヴァルジャンはその顔をながめはじめていた。彼はもうフォーシュルヴァンの言うことに耳を傾けていなかった。
耳を傾けられていないことは口をつぐむ理由とはならない。善良な老庭番は、静かにくどくどと話を続けた。
「墓穴はヴォージラールの墓地に掘るんです。何でもその墓地はまもなく廃止になるということです。古い墓地でして、規定外のものだとか、規則に合わないとかで、取り払われるんだそうです。困まったものですよ。至って便利ですがね。そこには私の知ってる者が一人います。メティエンヌ爺《じい》さんと言って、墓掘りです。ここの修道女たちは特別に許されていまして、夜になってからその墓地に運ばれるんです。彼女たちのために特別な市庁の許可があるんです。ですがまあ昨日から何といろいろなことが起こったことでしょう! クリュシフィクシオン長老は死なれるし、それにマドレーヌさんまでが……。」
「葬られたのだね。」とジャン・ヴァルジャンは悲しげにほほえんで言った。
フォーシュルヴァンはその言葉じりを取り上げた。
「なるほど、すっかりここにはいってしまわれたら、全く葬られたことになりますな。」
四番目の鐘の音が響いてきた。フォーシュルヴァンは急に鈴のついた膝当《ひざあて》を釘《くぎ》から取りおろして、それを膝《ひざ》にはめた。
「こんどは私の番です。院長さんが私を呼んでいます。どれ一走り行ってきます。マドレーヌさん、ここを動いてはいけませんよ。待っていて下さい。何かまた工夫もつきましょうから。腹がすきましたら、あすこに葡萄酒《ぶどうしゅ》もパンもチーズもありますよ。」
そして彼は小屋を出ながら言った、「ただ今参ります、ただ今!」
ジャン・ヴァルジャンは彼の姿を見送った。彼はその跛の足でできる限り急いで、横目で瓜畑《うりばたけ》の方を見ながら庭を横ぎって行った。
それから十分とたたないうちに、フォーシュルヴァン爺《じい》さんは鈴の音で修道女らを追い散らしながら進んでいって、一つの扉《とびら》を軽くたたいた。静かな声が中から答えた、「永遠に[#「永遠に」に傍点]、永遠に[#「永遠に」に傍点]、」すなわち「おはいり[#「おはいり」に傍点]」と。
その扉は、用のある時庭番を呼ぶことになってる応接室の扉だった。その応接室は集会の室《へや》に続いていた。修道院長は室の中にあるただ一つの椅子《いす》に腰掛けて、フォーシュルヴァンを待っていた。
二 難局に立てるフォーシュルヴァン
急迫した場合にいらだったしかも沈痛な様子をするのは、ある種の性格の人やある種の職業の人には常のことであるが、ことに牧師や修道者にはそうである。フォーシュルヴァンがはいってきた時、そういう二種の懸念の様子は院長の顔つきの上に現われていた。普通ならば、その学者であって愛嬌《あいきょう》のあるブルムール嬢すなわちイノサント長老は、至って快活な人だったのである。
庭番はおずおずしたおじぎをして、室の入り口に立ち止まった。院長はその大念珠を爪繰《つまぐ》っていたが、目を上げて言った。
「ああフォーヴァン爺さんですか。」
その省略名が修道院でも使われていた。
フォーシュルヴァンはまたおじぎをした。
「フォーヴァン爺《じい》さん、お前を呼んだのは私《わたし》ですよ。」
「それで私《わたくし》は参りました。」
「お前に話があります。」
「私の方でもちょうど、」とフォーシュルヴァンは内心に恐れながらも思い切って言った、「長老様に少々申し上げたいことがございます。」
院長は彼をじっと見た。
「ああ何か私の耳に入れたいことがあるんですか。」
「お願いがございますので。」
「では、話してごらんなさい。」
もと公証人書記をやった朴訥《ぼくとつ》なフォーシュルヴァンは、物に動じない百姓とでも言うべき人物だった。一種の巧妙な無知というものは一つの力である。だれもそれに用心をしないで、かえってそれにいたされる。修道院に住むようになってから二年以上の間、フォーシュルヴァンは会衆の間にはなはだうまく立ちまわった。いつも一人で、庭の仕事を片付けながら、彼はただ好奇の目を見張ることばかりをしていた。行き来する面紗《かおぎぬ》をかけた女たちから遠くに離れていたので、彼はほとんど自分の前には影が動き回るのを見るだけだった。けれども注意と烱眼《けいがん》とをもって、彼はついにそれらの幽霊に肉を与え、それらの生きながらの死人をよみがえらすに至った。彼はあたかも、聾のために目が鋭くなった人のようだし、また盲目のために耳が鋭くなった人のようだった。彼は種々な鐘の音の意味を解くにつとめて、それに成功し、そしてついにその謎《なぞ》のような沈黙の修道院の内部をことごとく知ってしまった。スフィンクスはそのあらゆる秘密を彼の耳にしゃべってしまった。ところがフォーシュルヴァンはすべてを知りながら、すべてを隠していた。そこに彼の技巧があった。修道院の者はみな彼をばかだと思っていた。それは宗教においては大なる価値となる。声の母たちはフォーシュルヴァンを重宝がった。彼は珍しいほど無口だった。それで人々の信用を得た。その上彼はきちょうめんであって、また果樹や野菜などのためのはっきりした用事のほかは外出しなかった。そういう慎重な行ないが彼のためになった。それでも彼は二人の男にいろいろなことをしゃべらした。修道院では門番に、そして彼は応接室の種々なことを知った。墓地では墓掘り人に、そして彼は墓場の種々なことを知った。そのようにして彼は、修道女たちのことに関して二重の知識を得た、一つはその生について、一つはその死について。しかし彼は何一つ利用しなかった。会衆は彼を大事にした。年取って、跛者で、何事にも盲目で、また耳も少し遠いらしいので、これ以上都合のいいことはなかった。彼に代わるべき者はほとんどないと皆思っていた。
爺《じい》さんは、自分がよく思われてることを知ってるので安心して、修道院長様の面前で、かなりごたごたしたしかもきわめて意味の深いおしゃべりを田舎言葉《いなかことば》でやり出した。彼はくどくどと、老年であること、身体がよくきかないこと、以前より二倍も骨が折れること、仕事もしだいに多くなること、庭の広いこと、たとえば昨夜のように月のいい晩には瓜畑《うりばたけ》の上に蓆《こも》をかぶせてやらなければならなかったりして夜明かしをすること、いろいろ並べ立ててからついに言い出した。自分には一人の弟がある――(院長はちょっと身を動かした)――けれどもう年取っている(院長はまた身を動かしたが、それは安心の身振りだった)――もし許されるなら、弟にきてもらっていっしょに住んで助けてもらいたい。弟はすぐれた園丁である。弟は自分よりははるかに会衆の役に立つに違いない。――もしまた、弟が許されないようなことになると、それより年上である自分の方は、全く弱り切ってしまってるので、仕事にたえられなくて、非常に残念ではあるが、暇を頂かなければならないかも知れない。――弟には小さな娘が一人あるので、それを連れて来るだろう。そしたらここで神様のもとに育てられて、あるいは後に一人の修道女とならないとも限らない。
彼がそういう話をしてしまった時に、院長は大念珠を爪繰《つまぐ》るのをやめて、そして言った。
「今から晩までのうちに、丈夫な鉄の棒を一本手にいれることができるでしょうか。」
「なにになさるのでございますか。」
「物を持ち上げるためです。」
「承知いたしました、長老様。」とフォーシュルヴァンは答えた。
院長はその他には一言も言わずに、立ち上がって、隣の室にはいって行った。そこは集会の室《へや》で、たぶん声の母たちが集まっていたのであろう。フォーシュルヴァンは一人取り残された。
三 イノサント長老
約十五分ばかり過ぎた。修道院長は戻ってきて、椅子《いす》にまた腰掛けた。
二人とも何かに頭を満たされてるようだった。今ここに、二人の間にかわされた対話をできる限りそのまま速記してみよう。
「フォーヴァン爺《じい》さん。」
「長老様。」
「お前は礼拝堂を知っていますね。」
「礼拝堂に私は、弥撒《ミサ》や祭式を聞きます自分の小さな席を持っております。」
「それから用のために歌唱の間《ま》へはいったこともありますね。」
「二、三度ございます。」
「あそこの石を一枚上げるのです。」
「あの重い石でございますか。」
「祭壇のわきにある舗石《しきいし》です。」
「窖《あなぐら》をふさいでるあの石でございますか。」
「そう。」
「そういうことをいたすにも、二人いた方が便利でございますよ。」
「男のように強いあのアッサンシオン長老がお前に手伝って下さるでしょう」
「女の方《かた》と男とは別でございます。」
「お前の手助けといっては、ここには女一人きりおりません。だれでもできる限りのことをするよりほかはありません。マビーヨン師は聖ベルナールの四百十七篇を書かれ、メルロヌス・ホルスティウスはその三百六十七篇しか書かれなかったからといって、私はメルロヌス・ホルスティウスを軽蔑しはしません。」
「さようでございますとも。」
「自分自分の力に応じて働くことが尊いのです。修道院は工場ではありません。」
「そして女は男ではございません。私の弟は強い男でございます。」
「それから槓桿《てこ》を一つ用意しておきますように。」
「あのような扉《とびら》に合う鍵《かぎ》といっては槓桿《てこ》のほかにはありません。」
「石には鉄の輪がついています。」
「槓桿をそれに通しましょう。」
「そして石は軸の上に回るようにしてあります。」
「それはけっこうでございます。窖《あなぐら》を開きましょう。」
「そして四人の歌唱の長老たちが立会って下されます。」
「そして窖をあけましてからは?」
「またしめなければなりません。」
「それだけでございますか。」
「いいえ。」
「何でもお言いつけ下さい、長老様。」
「フォーヴァンや、私たちはお前を信用しています。」
「私は何でもいたします。」
「そして何事も黙っていますね。」
「はい、長老様。」
「窖をあけましたらね……。」
「またしめます。」
「でもその前に……。」
「何でございますか、長老様。」
「その中に何か入れるのです。」
ちょっと沈黙が続いた。院長は躊躇《ちゅうちょ》するように下脣《したくちびる》をとがらしたが、やがて言い出した。
「フォーヴァン爺《じい》さん。」
「長老様?」
「お前は今朝一人の長老が亡《な》くなられたのを知っていましょうね。」
「存じません。」
「では鐘を聞きませんでしたか。」
「庭の奥までは何にも聞こえません。」
「ほんとうに?」
「自分の鐘の音もよく聞こえないくらいでございますから。」
「長老は夜の明け方に亡くなられました。」
「それに今朝は、風の向きが私の方へではございませんでしたから。」
「クリュシフィクシオン長老です。聖《きよ》いお方でした。」
院長は口をつぐんで、心のうちで祈祷《きとう》をとなえるかのようにちょっと脣を動かした。そしてまた言った。
「三年前ですが、クリュシフィクシオン長老の祈っていられる所を見たばかりで、一人のジャンセニスト派の人が、ベテューヌ夫人が、正教徒になられたことがあります。」
「ああ長老様、今初めて私は喪の鐘が耳にはいりました。」
「長老たちが、会堂に続いている死人の室《へや》へ運ばれたのです。」
「わかりました。」
「お前のほかにはだれも男はその室にはいることはできませんし、はいってはならないのです。よく考えてごらん。ありがたいことです、死人の室へ男がはいるのは。」
「もっとたび/\!」
「なに?」
「もっとたび/\!」
「何を言うのです。」
「もっとたび/\と申すのでございます。」
「何よりももっとたび/\というのです?」
「長老様、何かよりももっとたび/\と申すのではございません。ただもっとたび/\と申すのでございます。」
「お前の言うことはわかりませんね。なぜもっとたび/\と言うのですか。」
「長老様のように申そうと思ってでございます。」
「けれど私はもっとたび/\などとは言いませんでしたよ。」
「おっしゃりはしませんでした。けれども私は、長老様のおっしゃるとおりに申そうと思って、そう申したのでございます。」
その時九時の鐘が鳴った。
「朝の九時にまたそれぞれの時間に、祭壇の聖体に頌讃《しょうさん》と礼拝とがありまするよう。」と院長は唱えた。
「アーメン。」とフォーシュルヴァンは言った。
ちょうどよく時間が鳴ったのである。それは「もっとたび/\」を短く切り上げてくれた。もしその鐘が鳴らなかったら、おそらくいつまでたっても、院長とフォーシュルヴァンとはその迷語をかたづけることができなかったであろう。
フォーシュルヴァンは額をふいた。
院長はまた、何か祈祷《きとう》らしいことを心の中でちょっとつぶやいて、それから口を開いた。
「クリュシフィクシオン長老は、生前多くの人を本当の信仰に導かれました。亡《な》くなられてからは、きっと奇蹟を行なわれるでしょう。」
「行なわれるでございましょうとも!」とフォーシュルヴァンは言葉を合わせて、再び失策をすまいとつとめながら答えた。
「フォーヴァン爺《じい》さん、この組合の人たちは皆クリュシフィクシオン長老において祝福されました。もとより、ベリュール枢機官のように聖弥撒《ミサ》を唱えながら死に、または、いまこの供物をいたしまする[#「いまこの供物をいたしまする」に傍点]と唱えながら神様のもとへ魂をお返しすることは、だれにでも許されていることではありません。けれども、それほどの幸福にまでは達せられなくとも、クリュシフィクシオン長老は、いたって尊い臨終をなされました。最期《さいご》まで気を失わないでいられました。初めは私たちに話しかけていられましたが、後には天使たちに話しかけていられました。そして私たちに最後の希望を申されました。お前も、いま少し信仰があって、あの方《かた》の部屋にはいることができていたら、お前の足に触れてそれをおなおし下すったろうものにね。あの方はほほえまれました。神様のうちによみがえられたのだと、みな思いました。御臨終は、まったく天国へでも行かれるようでありましたよ。」
フォーシュルヴァンはそれが祭文が終わったのだと思って言った。
「アーメン。」
「フォーヴァン爺《じい》さん、死んだ方のお望みは果してあげなければいけません。」
院長は念珠を少し爪繰《つまぐ》った。フォーシュルヴァンは黙っていた。院長は言い進んだ。
「私はこのことについて、教えの道に身をささげてりっぱな効果を上げられている多くの聖職の方々に相談したのです。」
「長老様、庭の中よりここの方がよく喪の鐘が聞こえます。」
「その上、あの方はただ亡くなった人というよりも、聖者と申し上げたいお方です。」
「あなた様のように、長老様。」
「あの方はこの二十年というもの柩《ひつぎ》の中におやすみになりました、私どもの聖なる父ピウス七世の特別のお許しで。」
「あの冠を授けられた方でございましょう、皇……ブオナパルトに。」
フォーシュルヴァンのような、りこうな者としては、そういう思い出はまずいことだった。ただ仕合わせにも院長は自分の考えばかりに没頭して、それを耳にしなかった。彼女は続けて言った。
「フォーヴァン爺《じい》さん。」
「長老様?」
「カパドキアの大司教ディオドロス聖者は、地の虫けらという意味のアカロス[#「アカロス」に傍点]という、ただ一字を墓石に彫るようにと望まれました、そしてそのとおりにされました。そうではありませんか。」
「はい、長老様。」
「アクイラの修道院長メツォーカネ上人は、絞首台の下に埋めらるるように望まれました。そして、それもそのとおりにされました。」
「さようでございます。」
「チベル河口にあるポールの司教テレンチウス聖者は、通る人々が墓に唾《つば》をかけて行くようにと、親殺しの墓につける標《しるし》を自分の墓石にも彫るように望まれました。そしてそれもそのとおりにされました。死んだ方のお望みには従わなければなりません。」
「さようになりますように。」
「フランスのローシュ・アベイユの近くでお生まれなされたベルナール・ギドニスは、スペインのチュイの司教であられましたけれど、またカスティーユの王様のおぼしめしもありましたけれど、その身体はお望みどおりにフランスのリモージュのドミニック派の会堂に運ばれました。それは嘘《うそ》だとは申せないでしょう。」
「申せませんとも、長老様。」
「その事実はプランタヴィ・ド・ラ・フォスによって証明されています。」
また沈黙のうちに念珠が少し爪繰《つまぐ》られた。院長は言った。
「フォーヴァン爺《じい》さん、クリュシフィクシオン長老は、二十年の間寝ていられた柩《ひつぎ》の中に葬られなければなりません。」
「当然のことでございます。」
「それはただお眠りを続けられることです。」
「それで私はそのお柩に釘《くぎ》を打つのでございましょう?」
「ええ。」
「そして葬儀屋の棺はやめにするのでございましょう?」
「そのとおりです。」
「私は組合の方々《かたがた》の御命令どおりに何でもいたします。」
「四人の歌唱の長老たちがお手伝いして下されます。」
「柩に釘を打つのにでございますか。お手伝いはいりません。」
「いいえ。柩をおろすのに。」
「どこへおろします?」
「窖《あなぐら》の中へです。」
「どの窖でございますか。」
「祭壇の下の。」
フォーシュルヴァンはぞっとした。
「祭壇の下の窖。」
「祭壇の下の。」
「けれども……。」
「鉄の棒があるでしょう。」
「ございます。けれども……。」
「お前は鉄の輪に棒を差し入れてその石を起こすのです。」
「けれども……。」
「死んだ方のお望みには従わなければなりません。礼拝堂の祭壇の下の窖《あなぐら》の中へ葬られること、汚れた土地の中へ行かないこと、生きてる間祈りをしていた場所に死んでもとどまりたいこと、それがクリュシフィクシオン長老の最後の御希望でありました。あの方はそれを私どもに願われました、云いかえれば、おいいつけなさいました。」
「けれども、それは禁じられてあります。」
「人間によって禁じられていますが、神によって命ぜられているのです。」
「もし知れましたら?」
「私たちはお前を信じています。」
「おお私は、この壁の石と同様口外はいたしません。」
「集会が催されています。私は声の母たちになお相談したのですが、皆評議の上で、クリュシフィクシオン長老は御希望どおりにその柩《ひつぎ》に納めて祭壇の下に葬ることに、きまったのです。まあ考えてごらん、もしここで奇蹟が行なわれたらどうでしょう! 組合のものにとっては何という神の栄光でしょう! 奇蹟というものは墓から現われて来るものです。」
「けれども、長老様、もし衛生係りの役人が……。」
「聖ベネディクト二世は、墓の事でコンスタンチヌス・ポゴナチウス皇帝と争われました。」
「それでも警察の人が……。」
「コンスタンス皇帝の時に、ゴールにはいってこられた七人のドイツの王様の一人であったコノデメールは、宗門の規定で葬られること、すなわち祭壇の下に葬られることを、修道士たちの権利として特に認可されました。」
「けれども警視庁の検察官が……。」
「世俗のことは十字架に対しては何でもありません。シャルトルーズ派の十一番目の会長であったマルタンは次の箴言《しんげん》をその派に与えられました。世の変転を通じて十字架は立つなり[#「世の変転を通じて十字架は立つなり」に傍点]。」
「アーメン。」とフォーシュルヴァンは終わりのラテン語に対して言った。彼はラテン語を聞くごとに、いつもそうしてごまかすのだった。
長く沈黙を守っていた者にとっては、だれか一人聞き手があればそれで足りるものである。ある時、ジムナストラスという修辞学の教師が牢獄から出たが、多くの両刀論法や三段論法などが全身にいっぱいつまっていて、立ち木に出会うとたちまちその前に立ち止まり、それに弁論をしかけ、それを説服するために大変な努力をしたという話がある。修道院長は、平素は厳格な緘黙《かんもく》の規則に縛られていたので、言葉の袋がはちきれそうにいっぱいふくらんでいた。それで立ち上がって、水門を切って放ったがように滔々《とうとう》と弁じ立てた。
「私は右にベネディクトと左にベルナールとを味方に持っています。ベルナールといえば、クレールヴォーの最初の修道院長でありました。ブールゴーニュのフォンテーヌは、彼を生んだ祝福された土地です。父をテスランといい、母をアレートと申しました。彼はクレールヴォーに至るまでにまずシトーに止まっていました。シャーロン・スュール・ソーヌの司教ギーヨーム・ド・シャンポーから修道院長の位を授かりました。彼に導かれた修練士が七百人ありまして、彼の建てた修道院が百六十あります。一一四〇年にはサンスの会議でアベーラールを説き伏せ、また、ピエール・ド・ブリュイやその弟子のアンリや、その他アポストリックといわれていた邪教徒の一種を説き伏せました。それから、アルノー・ド・ブレスをうちひしぎ、ユダヤ人|殺戮者《さつりくしゃ》のラウール修道士をうち破り、一一四八年にはランスの会議を統べ、ポアティエの司教ジルベール・ド・ラ・ポレーを罪し、エオン・ド・レトアールを罪し、諸侯の軋轢《あつれき》をやめさせ、ルイ・ル・ジューヌ王の目を開かせ、法王ウーゼニウス三世に助言し、タンプル騎士団を整え、十字軍を説き回り、生涯《しょうがい》に二百五十の奇蹟を行ない、一日に三十九の奇蹟を行なったこともあります。それからベネディクトと言えば、モンテ・カシノの総主教であり、神聖修道院の基を定めた第二の人であり、西方のバジリオスであります([#ここから割り注]訳者注 四世紀ギリシャ教会の神父にしてキリスト教修道院の創設者[#ここで割り注終わり])。彼の派からは、四十人の法王がいで、二百人の枢機官がいで、五十人の総主教と、千六百人の大司教と、四千六百人の司教と、四人の皇帝と、十二人の皇后と、四十六人の国王と、四十一人の王妃と、三千六百人の列聖者とが出ました。一四〇〇年来、連綿と続いています。一方に聖ベルナール、他方に衛生の役人、一方に聖ベネディクト、他方に風紀監督官! 国家や、風紀や、葬儀や、規則や、行政や、そんなものを私たちは一々知ってるものですか。まあどんなふうに私たちが扱われてるかを見たら、だれだって憤慨するでしょう。私たちには、自分の塵《ちり》をイエス・キリストにささげるの権利さえも許されていません。衛生などは革命が発明したものです。神が警察に属するようになったのです。そういうのが今の時代です。おだまりなさい、フォーヴァン!」
フォーシュルヴァンはその折檻《せっかん》の下にあって、気が気でなかった。修道院長は続けた。
「埋葬地に対する修道院の権利は、だれにもわかりきったことです。それを否定するのは、狂信者か迷いの者かばかりです。私たちは今恐ろしい混乱の時代に生きています。人は皆、知るべきことを知らず、知るべからざることを知っています。皆汚れており、信仰を失っています。至大なる聖ベルナールと、十三世紀のある坊さんで、いわゆるポーヴル・カトリックのベルナールといわれた人とを、皆混同してしまってるような時代です。また、ルイ十六世の断頭台とイエス・キリストの十字架とをいっしょにするほど神を恐れない者もいます。ルイ十六世は一人の国王にすぎなかったのです。ただ神にのみ心を向くべきです。そうすればもはや、正しい人も不正な人もなくなります。今の人はヴォルテールという名前を知って、セザール・ド・ブュスという名前を知りません。けれどもセザール・ド・ブュスは至福を得た人で、ヴォルテールは不幸な人です。この前の大司教ペリゴール枢機官は、シャール・ド・ゴンドランがベリュールのあとを継ぎ、フランソア・ブールゴアンがゴンドランのあとを継ぎ、ジャン・フランソア・スノールがブールゴアンのあとを継ぎ、サント・マルト長老がジャン・フランソア・スノールのあとを継いだこと、そういうことも知らなかったのです。人がコトン長老の名前を知ってるのは、オラトアール派の創立に力を尽した三人のうちの一人であったからではなく、新教派の国王アンリ四世のために自分の名を提供して誓言の材料に供したからです。サン・フランソア・ド・サールが世俗の人に好まれるのは、カルタ遊びにごまかしをしたからです。それにまた人は宗教を攻撃します。それもただ、悪い牧師たちがいたからです。ガプの司教サジテールがアンブロンの司教サローヌの兄弟であり、二人ともモンモルの衣鉢《いはつ》を継いだからです。しかし、そういうことも結局どれだけの影響がありましょう。そういうことがあってもやはり、マルタン・ド・トゥールは聖者でありまして、自分のマントの半分を貧しい人に与えたではありませんか。人は聖者たちを迫害します。人は真実に対しては目をふさぎます。暗黒が普通のこととなっています。が、盲目な獣こそ最も猛悪な獣です。だれもまじめに地獄のことを考えていないのです。何という恥知らずの人民どもでしょう! 国王の名によってということは今日、革命の名によってという意味になっています。もう人は、生者に負うところのものも知らず、死者に負うところのものも知りません。聖者のように死ぬことは禁じられています。墳墓は俗事となっています。これは恐ろしいことです。法王聖レオ二世は、特別な宸翰《しんかん》を二つ書かれました、一つはピエール・ノテールに、一つはヴィジゴートの王に。それは、死者に関する問題について、太守の権力と皇帝の主権とに反抗し、それをしりぞけんためのものでした。シャーロンの司教ゴーティエは、その問題についてブールゴーニュ公オトンに対抗されました。昔の役人はその点については同意しました。昔は私たちは、世事に関しても勢力を持っていました。この会派の会長シトーの修道院長は、ブールゴーニュの議会の世襲の評議員でありました。私たちは私たちの死者について欲するとおりに行なうのです。聖ベネディクトは五四三年三月二十一日土曜日にイタリーのモンテ・カシノで死なれましたが、そのお身体は、フランスのサン・ブノア・スュール・ロアールといわれるフルーリー修道院にあるではありませんか。これは確かな事実です。私は邪道の聖歌者を忌み、修道院長をきらい、信徒を憎むのですが、だれでも私が言ったことに反対を唱える者をなおいっそう軽蔑するでしょう。アルヌール・ヴィオンやガブリエル・ブュスランやトリテームやモーロリキュスやリュク・ダシュリー師などの書いたものを読めばわかることです。」
院長は息をついた。それからフォーシュルヴァンの方へ向いて言った。
「フォーヴァン爺《じい》さん、わかりましたか。」
「わかりました、長老様。」
「お前をあてにしてよいでしょうね。」
「御命令どおりにいたします。」
「そうです。」
「私はこの修道院に身をささげています。」
「ではそうきめます。お前は柩《ひつぎ》の蓋《ふた》をするのです。修道女たちがそれを礼拝堂に持ってゆきます。死の祭式を唱えます。それからみな修道院の方へ帰ります。夜の十一時から十二時までの間に、お前は鉄の棒を持って来るのですよ。万事ごく秘密に行なうのです。礼拝堂の中には四人の歌唱の長老とアッサンシオン長老とお前とのほかはだれもいませんでしょう。」
「それと柱に就《つ》かれてる修道女が。」
「それは決してふり向きません。」
「けれども音は聞くでございましょう。」
「いいえ聞こうとはしますまい。それに、修道院の中で知れることも、世間には知れません。」
またちょっと言葉がとぎれた。院長は続けた。
「お前はその鈴をはずすがよい。柱に就いてる修道女にお前のきたことを知らせるには及ばないから。」
「長老様。」
「なに? フォーヴァン爺《じい》さん。」
「検死のお医者はもうこられましたか。」
「今日の四時にこられるでしょう。お医者を呼びにゆく鐘はもう鳴らされました。お前はそれを少しもききませんでしたか。」
「自分の鐘の音ばかりにしか注意しておりませんので。」
「それでよいのです、フォーヴァン爺さん。」
「長老様、少なくとも六尺くらいの槓桿《てこ》がいりますでしょう。」
「どこから持ってきます?」
「鉄格子《てつごうし》のある所には必ず鉄の棒がございます。庭のすみにも鉄の切れが山ほどございます。」
「十二時より四五十分前がよい。忘れてはなりませんよ。」
「長老様?」
「何です?」
「まだほかにこんな御用がございましたら、ちょうど私の弟が強い力を持っておりますので。トルコ人のように強うございます。」
「できるだけ早くやらなければいけませんよ。」
「そう早くはできませんのです。私は身体がよくききません。それで一人の手助けがいるのでございます。第一跛者でございます。」
「跛者なのは罪ではありません。天のお恵みかも知れません。にせの法王グレゴリウスと戦ってベネディクト八世を立てられた皇帝ハインリッヒ二世も、聖者と跛者という二つの綽名《あだな》を持っていられます。」
「二つの外套《がいとう》は悪くはございません。」とフォーシュルヴァンはつぶやいた。彼の耳は実際いくらか聞き違いをすることがあった。
「フォーヴァン爺《じい》さん、一時間くらいはかかるつもりでいます。それくらいはみておかなければなりますまい。十一時には鉄の棒を持って、主祭壇の所へきますようにね。十二時には祭式が初まります。それより十五分くらい前にはすっかり済ましておかなければなりません。」
「何事でも組合の方々のためには一生懸命にいたします。確かにいたします。私は柩《ひつぎ》に釘《くぎ》を打ちます。十一時きっかりに礼拝堂へ参ります。歌唱の長老たちとアブサンシオン長老とがきていられるのでございますな。なるべくなら男二人の方がよろしゅうございますが、なにかまいません。槓桿《てこ》を持って参ります。窖《あなぐら》を開きまして、柩をおろしまして、そしてまた窖を閉じます。そういたせば何の跡も残りますまい。政府も気づきはしますまい。長老様、それですっかりよろしいんでございますな。」
「いいえ。」
「まだ何かございますか。」
「空《から》の棺が残っています。」
それでちょっと行き止まった。フォーシュルヴァンは考え込んだ。院長も考え込んだ。
「フォーヴァン爺さん、棺をどうしたらいいでしょうかね。」
「それは地の中へ埋めましょう。」
「空《から》のままで?」
また沈黙が落ちてきた。フォーシュルヴァンは左の手で、困難な問題を解決したかのような身振りをした。
「長老様、私が会堂の低い室《へや》で棺に釘《くぎ》を打つのでございます。そして私のほかにはだれもそこへははいれません。そして私が棺に喪布を掛けるのでございましょう。」
「そうです。けれども人夫たちは、それを車にのせ、そしてまた墓穴の中にそれをおろすので、中に何もはいっていないことに気づくでしょう。」
「なるほど、畜……」とフォーシュルヴァンは叫んだ。
院長は十字を切って、じっと庭番の顔をながめた。生《しょう》という、あとの一語は彼の喉《のど》につかえて出なかった。
彼は急いで、その悪い言葉を忘れさすために一つの方法を考えついた。
「長老様、私は棺の中に土を入れて置きましょう。そういたせば人がはいっているようになりますでしょう。」
「なるほどね。土は人間と同じものです。ではそうしてお前はからの棺を処分してくれますね。」
「お引き受けいたします。」
その時まで心配そうで曇っていた修道院長の顔は、再び晴れ晴れとなった。彼女は庭番に、上役が下級の者をさがらする時のような合い図をした。フォーシュルヴァンは扉《とびら》の方へさがって行った。彼がまさに出ようとする時、院長は静かに声を高めて言った。
「フォーヴァン爺《じい》さん、私はお前を満足に思いますよ。あした葬式がすんだら、お前の弟を連れておいでなさい。そして、その娘も連れて来るように言っておやりなさい。」
四 ジャン・ヴァルジャンとアウスティン・カスティーレホーの記事
跛者の急ぎ足は片目の者の色目と同じで、中々目的物に届かないものである。その上、フォーシュルヴァンはまったく途方にくれていた。彼は庭のすみの小屋に帰りつくまでに、かれこれ十五分もかかった。コゼットはもう目をさましていた。ジャン・ヴァルジャンは彼女を火のそばにすわらしていた。フォーシュルヴァンがはいってきた時、ジャン・ヴァルジャンは壁にかかってる庭番の負《お》い籠《かご》をコゼットに示しながら言っていた。
「よく私の言うことをお聞き、コゼット。私たちはこの家から出なければなりません。けれどもまた帰ってきて、楽しく暮らせるんです。ここのお爺《じい》さんが、お前をあの中に入れてかついで行ってくれます。そしてあるお上《かみ》さんの家で私を待っているんですよ。私がすぐに連れにやってきます。とりわけ、テナルディエの上《かみ》さんにつかまりたくないから、よく言うことを聞いて、何にも言ってはいけませんよ。」
コゼットはまじめな様子でうなずいた。
フォーシュルヴァンが扉《とびら》を開く音に、ジャン・ヴァルジャンはふり返った。
「どうだったね?」
「すっかりうまくいきました、もう何も残っていません。」とフォーシュルヴァンは言った。「私はあなたがはいれるように許可を受けてきました。しかしあなたを入れる前に、あなたを出さなければなりません。困まるのはそのことです。娘さんの方はわけはありません。」
「お前さんが連れ出してくれるんだね。」
「黙っていてくれましょうね。」
「それは受け合うよ。」
「ですがあなたの方は? マドレーヌさん。」
そして心配しきってちょっと口をつぐんだ後、フォーシュルヴァンは叫んだ。
「どうか、はいってこられた所から出ていって下さい。」
ジャン・ヴァルジャンは最初そう言われた時と同じように、ただ一言答えた。「できない。」
フォーシュルヴァンはジャン・ヴァルジャンに向かってというより、むしろ独語するようにつぶやいた。
「も一つ困まったことがある。土を入れるとは言ったが、ただ身体の代わりに土を入れたんでは、どうも本物と思えないだろう。うまくはゆくまい。ぐらぐらして、動くだろう。人夫どもは感づくだろう。ねえマドレーヌさん、政府に気づかれるでしょうな。」
ジャン・ヴァルジャンは彼の顔をまともにじっとながめた、そして気でも狂ったんではないかと思った。
フォーシュルヴァンはまた言った。
「どうして畜《ちく》……あなたは出られますか。明日までにはやってしまわなければなりません。明日あなたを連れてくることになっています。院長さんはあなたを待っているんです。」
その時フォーシュルヴァンは、ジャン・ヴァルジャンがはいることを許されたのは、自分が組合のために尽す仕事の報酬であることを、説明してきかした。葬儀に参与するのは自分の職務の一つであること、自分は棺に釘《くぎ》を打ち墓地で墓掘り人に立ち会わねばならぬこと。今朝死んだ修道女は、長い間寝床にしていた柩《ひつぎ》に納めてもらいたいと願い、礼拝堂の祭壇の下にある窖《あなぐら》のうちに葬ってもらいたいと願ったこと。それは警察の規則で禁じられてることだが、何事もこばめないほどの聖《きよ》い修道女の願いであったこと。修道院長と声の母たちとは相談して、死者の希望どおりにしてやろうときめたこと。政府に対しては済まないが仕方ないこと。自分が室の中で柩に釘を打ち、礼拝堂の中で石の蓋《ふた》を起こし、窖の中に死人をおろすのであること。そしてそのお礼として、弟を庭番に姪《めい》を寄宿生に、二人とも家に入れることを院長が許したこと。弟というのはマドレーヌ氏であり姪というのはコゼットであること。明晩墓地で表面上の埋葬をした後、弟をつれて来るようにと、院長が彼に言ったこと。しかしマドレーヌ氏は外に出ていなければ、外から連れ込むことができないこと。そこに第一の困難があること。それからまた第二の困難があること、すなわち空棺が。
「その空棺とは何かね。」とジャン・ヴァルジャンは尋ねた。
フォーシュルヴァンは答えた。
「役所の棺ですよ。」
「どういう棺で、またどういう役所かね。」
「修道女が死にますと、役所の医者がきて、修道女が死んだと言うんです。すると政府から棺を送ってきます。そして翌日、その棺を墓地に運ぶために、車と人夫とをよこします。ところが人夫がやってきて棺を持ち上げてみると、中には何もはいっていないということになるんです。」
「何か入れたらいいだろう。」
「死人をですか。そんなものはありません。」
「いいや。」
「では何を入れます。」
「生きた人をさ。」
「どんな人をですか。」
「私をさ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
腰掛けていたフォーシュルヴァンは、自分の椅子《いす》の下に爆烈弾が破裂したかのように飛び上がった。
「あなたを!」
「なぜいけないんだ。」
ジャン・ヴァルジャンは冬空の中の光のように珍しくほほえんだ。
「ねえ、クリュシフィクシオン長老が死なれたとお前さんが言った時、私はつけ加えて言ったではないか、そしてマドレーヌさんも葬られたと。それはこのことなんだよ。」
「あああなたは笑っていらっしゃる。本気でおっしゃってはいなさらないんですね。」
「本気だとも、ここから出なければならないんだろう。」
「そうですよ。」
「私にもまた負《お》い籠《かご》と覆いとを見つけてくれと、言ったじゃないか。」
「それで?」
「その籠《かご》は樅《もみ》の板でできていて、覆《おお》いは黒いラシャなんだ。」
「いや第一それは白いラシャですよ。修道女たちは白くして葬られるんです。」
「では白いラシャにするさ。」
「あなたは、マドレーヌさん、ほんとに変わった人です。」
まるで徒刑場の荒々しい大胆な策略ででもあるようなそんな考案が、あたりの平穏な事物から浮かんできて、彼のいわゆる「修道院の杓子定規《しゃくしじょうぎ》」の中に入り込んでくるのを見ることは、フォーシュルヴァンにとってはいかにも意外で、サン・ドゥニ街の溝《みぞ》の中に鴎《かもめ》が魚をあさってるのを見つけた通行人にも似た驚きの情を、感じたのである。
ジャン・ヴァルジャンは続けて言った。
「人に見つからずにここから出ることが要件なんだ。その一つの方法さ。しかしまず私に様子を知らしてくれ。いったいどういうぐあいにされるのかね。その棺はどこにあるのかね。」
「空《から》の方ですか。」
「そうだ。」
「死人の室《へや》と呼ばれてます下の室です。二つの台の上にのっていまして、とむらいのラシャがかぶせてあります。」
「棺の長さはどれくらいある?」
「六尺ばかりです。」
「その死人の室というのはどういう所だ?」
「一階にある室《へや》で、庭の方に格子窓《こうしまど》がありますが、それは外から板戸でしめてあります。戸口が二つありまして、一つは修道院に、一つは会堂に続いています。」
「会堂というのは?」
「表に続いてる会堂で、だれでもはいれる会堂です。」
「君はその死人の室の二つの戸口の鍵《かぎ》を持ってるかね。」
「いいえ。私はただ修道院へ続いてる戸口の鍵きり持っていません。会堂へ続いてる方の鍵は門番が持っています。」
「門番はいつその戸口を開くのかね。」
「棺を取りにきた人夫どもを通させる時だけしか開きません。棺が出てゆくと、戸はまたしまるんです。」
「棺に釘《くぎ》を打つのはだれだね。」
「私です。」
「棺にラシャをかけるのは?」
「私です。」
「君一人だけで?」
「警察の医者のほかは、だれも死人の室にはいることはできません。壁にもちゃんと書いてあります。」
「今晩、修道院の人たちが寝静まったころ、私をその室に隠してもらえまいかね。」
「それはできません。けれどその死人の室に続いてる小さな暗い物置きにならあなたを隠しておけます。そこは私の埋葬の道具を入れて置く所で、私がその番人で鍵《かぎ》を持っています。」
「明日何時ごろ棺車は棺を迎えに来るのかね。」
「午後の三時ごろです。埋葬はヴォージラールの墓地で行なわれますが、日が暮れる少し前です。すぐ近くじゃありません。」
「では私は君の道具部屋に、夜と朝の間隠れていよう。それから食物は? 腹がすくだろう。」
「私が何か持っていってあげましょう。」
「君は二時には、私を棺の中に釘《くぎ》づけにしにやって来るんだね。」
フォーシュルヴァンはしり込みして、指の節を鳴らした。
「それはどうも、できませんな。」
「なに、金槌《かなづち》を取って板に四五本釘を打つだけだ。」
繰り返して言うが、フォーシュルヴァンにとって異常なことも、ジャン・ヴァルジャンにとっては何でもないことだった。ジャン・ヴァルジャンは最も危険な瀬戸ぎわをも幾度か通ってきたのである。だれでも監獄にはいったことのある者は、脱走の場所の広狭に応じて身を縮めるの術を知っている。病人が生きるか死ぬかの危機にとらわれてるように、囚人も逃走の念にとらわれている。脱走は回復である。回復せんがためには人は何事をも辞せない。行李《こうり》のような四角なものの中に釘づけにされて運び出され、長い間箱の中に生きており、空気もない所に空気を見い出し、幾時間もの間呼吸を倹約し、死なないくらいに息をつめる、そんなことはジャン・ヴァルジャンの恐ろしい能力の一つだった。
そのうえ、棺の中に生きた人間を入れること、囚徒のやるようなその手段は、また皇帝の手段だった。アウスティン・カスティーレホーという牧師の書いたものによれば、それはカール大帝の用いた方法だった。彼は退位の後、最後に、も一度プロンベスという婦人に会わんために、棺の中に彼女を入れて、自分のはいってるユステの修道院を出入さしたということである。
フォーシュルヴァンは少し心を落ち着けて叫んだ。
「それでも、どうして息ができましょう。」
「息はできるだろう。」
「あの箱の中で! 私なんか思っただけで息がつまるようです。」
「きりがあるだろう。口のあたりに方々小さな穴をあけておいてくれ、そしてまた上の板も、あまりきっかりしまらないように釘《くぎ》を打ってもらおう。」
「よろしゅうござんす。そしてもし咳《せき》が出たり、嚔《くしゃみ》が出たりしましたら。」
「一心に逃げようとする者は、咳や嚔はしないものだ。」
そしてジャン・ヴァルジャンはつけ加えた。
「フォーシュルヴァンさん、決心しなければならないんだ、ここでつかまるか、棺車で出るか、二つに一つを。」
少し開きかけてる扉《とびら》の間に猫《ねこ》が止まって躊躇《ちゅうちょ》する癖のあるのを、だれでも認めることがあるだろう。早くおはいりよ! とだれでも言わない者はあるまい。それと同じく人間のうちにも、前に一事件が半ば口を開いている時、運命のため突然その口が閉ざされて身をつぶされる危険をも顧みずに、二つの決断の間に迷ってたたずむ傾向を持った人がいるものである。あまりに用心深い者は、猫のようであるにかかわらず、また猫のようであるがために、時とすると大胆な者よりかえって多くの危険に身をさらすに至る。フォーシュルヴァンはそういう狐疑的《こぎてき》な性質であった。けれどもジャン・ヴァルジャンの冷静は、ついに彼を納得さした。彼はつぶやいた。
「実のところ、ほかに方法もありませんからな。」
ジャン・ヴァルジャンは言った。
「ただ心配なのは、墓地でどういうことになるかだ。」
「そのことなら私が心得ています。」とフォーシュルヴァンは叫んだ。「棺から出ることをあなたが受け合いなさるなら、あなたを墓穴から引き出すことは私が受け合います。墓掘りの男は、私の知ってる者のうちでの大酒飲みです。メティエンヌ爺《じい》さんといって、もう老耄《おいぼれ》です。その墓掘りは墓穴の中に死人を入れますが、私は彼を自分のポケットの中にまるめ込んでやります。こういうふうにいたしましょう。薄暗くなる前に、墓地の門がしまる四五十分前に、向こうに行きつくでしょう。棺車は墓穴の所まで進んでゆきます。私がついてゆきます。私の仕事ですから、ポケットの中に金槌《かなづち》と鑿《たがね》と釘抜《くぎぬ》きとを入れて置きます。棺車が止まって、人夫どもがあなたの棺を繩でゆわえて、穴におろします。牧師が祈祷《きとう》をとなえ、十字を切り、聖水をまき、そして行ってしまいます。私はメティエンヌ爺さんと二人きりになります。まったく私とは懇意なんです。彼は酔っぱらってるか、いないか、どちらかです。もし酔っぱらっていなかったら、言ってやりましょう、ボン・コアンの家がしまらないうちに一杯引っかけてこようや。私は彼を引っ張っていって酔っぱらわせます。メティエンヌ爺さんを酔っぱらわすには造作はありません。いつでもいいかげん酔っていますから。私は彼をテーブルの下に寝かし、墓地にはいる札を取り上げてしまって、一人で帰ってきます。そうすればもう私一人きりいないというわけになるんです。もし彼が初めから酔っぱらっていたら言ってやります。もう帰っていいや、私がお前の分もしてやるから。そう言えば彼は帰っていきます。そして私はあなたを穴から引き出してあげましょう。」
ジャン・ヴァルジャンは彼に手を差し出した。フォーシュルヴァンはいかにも質朴な田舎者《いなかもの》の感動をもって急いでそれを握りしめた。
「それできまった、フォーシュルヴァンさん。万事うまくゆくだろう。」
「何かくい違いさえしなければ。」とフォーシュルヴァンは考えた。「もし大変なことにでもなったら!」
五 大酒のみにては不死の霊薬たらず
翌日太陽が西に傾いたころ、メーヌ大通りのまばらな行ききの者は、頭蓋骨《ずがいこつ》や脛骨《けいこつ》や涙などの描いてある古風な棺車の通行に対して、みな帽子をぬいだ。棺車の中には、白いラシャに覆われた柩《ひつぎ》があって、両腕をひろげた大きな死人のような黒い太い十字架が上に横たえてあった。喪布を張った幌馬車《ほろばしゃ》が一つそのあとに続いて、白い法衣を着た一人の牧師と、赤い帽子をかぶった歌唱の一人の子供とが乗ってるのが見えた。黒い袖口《そでぐち》のついた鼠色《ねずみいろ》の制服を着ている二人の葬儀人夫が、棺車の左右に従っていた。その後ろに、労働者のような服装をした跛者の老人がついていた。その行列はヴォージラールの墓地の方へ進んでいった。
老人のポケットから、金槌《かなづち》の柄や鋭利な鑿《たがね》の刃や釘抜《くぎぬ》きの二つの角などがはみ出ていた。
ヴォージラールの墓地は、パリーの墓地のうちで例外のものとなっていた。それは特別の用に供されていて、したがって正門と中門とがあり、その一郭で古い言葉を守ってる老人どもはそれを、騎馬門と徒歩門《かちもん》と呼んでいた。前に述べたとおり、プティー・ピクプュスのベルナール・ベネディクト修道女らは、昔彼女らの組合の所有地だったその墓地の特別な片隅《かたすみ》に夕方埋葬さるることが許されていた。それで墓掘り人らは、夏には日暮れに冬には夜に墓地の仕事を持っていたので、特殊な規則が設けられていた。パリーの墓地の門は、当時、日没と共にとざされることになっていて、それが市の制度の一つとなっていたので、ヴォージラールの墓地もそれに従っていた。騎馬門と徒歩門とはその鉄格子《てつごうし》が続いていて、そばに一つの小屋があった。ペロンネという建築者が建てたもので、墓地の門番が住んでいた。でそれらの鉄格子の門は、癈兵院の丸屋根の向こうに太陽が沈む時に必ずしめられた。もしその時墓地の中におくれた墓掘り人がいても、葬儀係りの役人から交付された墓掘り人の札によって出ることができた。郵便箱のようなものが、門番の窓の板戸の中についていた。墓掘り人がその箱の中に自分の札を投げ込むと、門番はその音をきいて、綱を引き、徒歩門を開いてくれた。もし札を持っていない時には、墓掘り人は自分の名を名乗ると、もう床《とこ》について眠ってることがよくある門番は、起きてきて、顔をよく見定めて、それから鍵《かぎ》で門を開いてくれた。そして墓掘り人は出られたが、十五フランの罰金を払わねばならなかった。
このヴォージラールの墓地は、規則外のその特殊な点で、取り締まり上の統一を乱していた。そして一八三〇年後、間もなく廃せられてしまった。東の墓地といわれるモンパルナスの墓地がそのあとを継いで、それからまたその墓地に半ば属していた有名な居酒屋をも承《う》け継いだ。その居酒屋の上には木瓜《ぼけ》の実を描いた板が出ていて、ボン・コアン屋(上等木瓜屋)という看板で、酒場の食卓と墓石との間を仕切っていた。
ヴォージラールの墓地は、しおれた墓地ともいえるような趣があって、もう衰微していた。苔《こけ》がいっぱいはえて、花はなくなっていた。中流人はそこに埋めらるることをあまり好まなかった。貧民のような気がしたからである。ペール・ラシェーズの墓地の方は上等だった。ペール・ラシェーズに埋まることは、マホガニーの道具を備えるようなもので、高雅に思われたのである。ヴォージラールの墓地はものさびた場所で、フランス式の古い庭園のようなふうに木が植わっていた。まっすぐな道、黄楊樹、柏《かしわ》、柊《ひいらぎ》、水松《いちい》の古木の下の古墳、高い雑草。夕方などはいかにも物寂しく、きわめてわびしい物の輪郭が見られた。
白いラシャと黒い十字架との棺車がヴォージラールの墓地の並み木道にさしかかってきた時、太陽はまだ没していなかった。棺車の後に従ってる跛者の老人は、フォーシュルヴァンにほかならなかった。
祭壇の下の窖《あなぐら》へクリュシフィクシオン長老を葬ること、コゼットを連れ出すこと、ジャン・ヴァルジャンを死人の室《へや》に導くこと、それらはみな無事に行なわれて、何の故障も起こらなかった。
ついでに一言するが、修道院の祭壇の下にクリュシフィクシオン長老を葬ったことは、われわれに言わすればきわめて軽微な罪にすぎない。それは一種の務めともいうべきたぐいの過ちである。修道女らは何らの不安なしにばかりでなく、また本心の満足をもってそれを行なったのである。修道院にとっては、「政府」と称するところのものは権威に対する一干渉にすぎず、常に議論の余地ある干渉にすぎない。第一は教規である。法典などはどうでもよろしい。人間よ、欲するままに法律を定むるがよい、しかしそれは汝ら自身のためにのみとどめよ。シーザーへの貢物《みつぎもの》は、常に神への貢物の残りに過ぎない。王侯といえども教義の前には何らの力をも持たないのである。
フォーシュルヴァンは跛を引きながら、いたって満足げに棺車のあとについていった。彼の二つの秘密、彼の二重の策略、一つは修道女らとはかったこと、他はマドレーヌ氏とはかったこと、一つは修道院のためのもの、他は修道院に反するもの、その二つは同時に成功したのである。ジャン・ヴァルジャンの落ち着きは、周囲の者をも巻き込むほど力強いものだった。フォーシュルヴァンはもう成功を疑わなかった。残りの仕事は何でもないものだった。人のいい肥《ふと》っ面《つら》の墓掘り爺《じい》メティエンヌを、彼はこの二年ばかりの間に十ぺんくらいは酔っぱらわしたことがあった。彼はメティエンヌをもてあそび、掌中にまるめこみ、自分の欲するままに取り扱った。メティエンヌの頭はいつもフォーシュルヴァンのかぶせる帽子のとおりになった。それで今フォーシュルヴァンはまったく安心しきっていた。
墓地へ通ずる並み木道に行列がさしかかった時、うれしげなフォーシュルヴァンは棺車をながめ、大きな両手をもみ合わせながら半ば口の中で言った。
「なんという狂言だ!」
突然棺車は止まった。門のところについたのである。埋葬認可書を示さなければならなかった。葬儀人は墓地の門番に会った。その相談はたいてい一、二分の手間をとるのだったが、その間に、一人の見なれない男がやってきて、棺車のうしろにフォーシュルヴァンと並んだ。労働者らしい男で、大きなポケットのついた上衣を着て、小脇《こわき》に鶴嘴《つるはし》を持っていた。
フォーシュルヴァンはその見知らぬ男をながめた。
「お前さんは何だね。」と彼は尋ねた。
男は答えた。
「墓掘りだよ。」
胸のまんなかを大砲の弾《たま》で貫かれてなお生きてる者があるとしたら、おそらくその時のフォーシュルヴァンのような顔つきをするだろう。
「墓掘り人だと!」
「そうだ。」
「お前さんが!」
「俺《おれ》がよ。」
「墓掘り人はメティエンヌ爺《じい》さんだ。」
「そうだった。」
「なに、そうだったって?」
「爺さんは死んだよ。」
フォーシュルヴァンは何でも期待してはいたが、これはまた意外で、墓掘り人が死のうなどとは思いもよらなかった。しかしそれはほんとうである。墓掘り人だからとて死なないとは限らない。他人の墓穴を掘ることによって人はまた自分の墓穴をも掘る。
フォーシュルヴァンはぽかんとしてしまった。ようやくにして、これだけのことを口ごもった。
「そんなことがあるだろうか。」
「そうなんだよ。」
「だが、」と彼は弱々しく言った、「墓掘り人はメティエンヌ爺《じい》さんだがな。」
「ナポレオンの後にはルイ十八世が出で、メティエンヌの後にはグリビエが出る。おい、俺《おれ》の名はグリビエというんだ。」
フォーシュルヴァンはまっさおになって、そのグリビエをながめた。
背の高いやせた色の青い男で、まったく葬儀にふさわしい男だった。あたかも医者に失敗して墓掘り人となった形だった。
フォーシュルヴァンは笑い出した。
「ああ、何て変なことが起こるもんかな! メティエンヌ爺さんが死んだって! メティエンヌじいさんは死んだが、小ちゃなルノアール爺さんは生きてる。お前さんは小ちゃなルノアール爺さんを知ってるかね。一杯六スーのまっかな葡萄酒《やつ》がはいってる壜《びん》だよ。スュレーヌの壜だ。ほんとうによ、パリーの本物のスュレーヌだ。ああメティエンヌ爺さんが死んだって。かわいそうなことをした。おもしろい爺さんだったよ。だがお前さんも、おもしろい人だね。おいそうじゃないかい。一杯飲みにゆこうじゃないかね、これからすぐに。」
男は答えた。「俺は学問をしたんだ。第四級まで卒《お》えたんだ。酒は飲まない。」
棺車は動き出して、墓地の大きな道を進んでいった。
フォーシュルヴァンは足をゆるめた。その跛は、今では不具のためよりも心配のための方が多かった。
墓掘り人は彼の先に立って歩いていた。
フォーシュルヴァンは、も一度その待ち設けないグリビエの様子をながめた。
若いが非常に老《ふ》けて見え、やせてはいるがごく強い、そういう種類の男だった。
「おい。」とフォーシュルヴァンは叫んだ。
男はふり返った。
「私は修道院の墓掘り人だよ。」
「仲間だね。」と男は言った。
学問はないがごく機敏なフォーシュルヴァンは、話の上手な恐るべき相手であることを見てとった。
彼はつぶやいた。
「それではメティエンヌ爺《じい》さんは死んだんだね。」
男は答えた。
「そうだとも。神様はその満期の手帳をくってみられたんだ。するとメティエンヌ爺さんの番だった。で爺さんは死んだのさ。」
フォーシュルヴァンは機械的にくり返した。
「神様が……。」
「神様だ。」と男はきっぱり言い放った。「哲学者に言わせると永劫《えいごう》の父で、ジャコバン党に言わせると最高の存在だ。」
「ひとつ近づきになろうじゃないかね。」とフォーシュルヴァンはつぶやいた。
「もう近づきになってるよ。君は田舎者《いなかもの》で、俺《おれ》はパリーっ児だ。」
「だがいっしょに酌《く》みかわさないうちはへだてが取れないからな。杯をあける者は心を打ち明けるというものだ。いっしょに飲みにこないかね。断わるもんじゃないよ。」
「仕事が先だ。」
これはとうていだめだ、とフォーシュルヴァンは考えた。
修道女らの埋まる片すみにゆく小道にはいるには、もう数回車輪が回るだけだった。
墓掘り人は言った。
「おい君、俺《おれ》は七人の子供を養わなけりゃならないんだ。奴《やつ》らが食わなけりゃならないからして、俺は酒を飲んじゃおれないんだ。」
そして彼は、まじめな男が名句を吐く時のような満足さでつけ加えた。
「子供らの空腹は俺の渇《かわ》きの敵さ。」
棺車は一群の糸杉の木立ちを回って、大きな道を去り、小道をたどり、荒地にはいり、茂みの中に進んでいった。それはもうすぐに埋葬地に着くことを示すものだった。フォーシュルヴァンは足をゆるめた。しかし棺車の進みを遅らすことはできなかった。幸いにも地面は柔らかで、かつ冬の雨にぬれていたので、車の輪にからんでその進みを重くした。
彼は墓掘り人に近寄った。
「アルジャントゥイュの素敵な酒があるんだがな。」とフォーシュルヴァンはつぶやいた。
「君、」と男は言った、「俺はいったい墓掘り人なんかになる身分ではないんだ。親父《おやじ》は幼年学校の門衛だった。そして俺に文学をやらせようとした。ところが運が悪かった。親父は相場で損をした。そこで俺は文人たることをやめなければならなかったんだ。それでもまだ代書人はしてるよ。」
「ではお前さんは墓掘り人ではないんだね。」とフォーシュルヴァンは言った。弱くはあったがその一枝を頼りとしてつかまえたのである。
「両方できないことはないさ。兼任してるんだ。」
フォーシュルヴァンはその終わりの一語がわからなかった。
「飲みにゆこうじゃないか。」と彼は言った。
ここに一言注意しておく必要がある。フォーシュルヴァンは気が気ではなかったが、とにかく酒を飲もうと言い出したのである。しかしだれが金を払うかという一点については、はっきりさしてはいなかった。いつもはフォーシュルヴァンが言い出して、メティエンヌ爺《じい》さんが金を払った。一杯やろうという提議は、新しい墓掘り人がきたという新たな事情から自然に出て来ることで、当然のことではあったが、しかし老庭番は、下心《したごころ》なしにでもなかったが、いわゆるラブレーの十五分間(訳者注 飲食の払いをしなければならない不愉快な時)をあいまいにしておいた。ひどく心配はしていたが、進んで金を払おうという気にはなっていなかった。
墓掘り人は優者らしい微笑を浮かべながら言い進んだ。
「食わなければならないからね。それで俺はメティエンヌ爺さんのあとを引き受けたのさ。まあ一通り学問をすれば、もう哲学者だ。手の働きをしてる上に俺は頭の働きをもしてるんだ。セーヴル街の市場に代書人の店を持っている。君はパラプリュイの市場を知ってるかね。クロア・ルージュの料理女どもは皆俺の所へ頼みに来る。俺はその色男どもへ贈る手紙を書いてやるんだ。朝にはやさしい恋文を書き、夕になれば墓穴を掘る。ねえ、そういうのが世の中さ。」
棺車は進んでいた。フォーシュルヴァンは心痛の頂上に達して四方を見回した。汗の大きな玉が額から流れた。
「だが、」と墓掘り人はなお続けた、「二人の主人には仕えることができないものだ。俺《おれ》もペンと鶴嘴《つるはし》といずれかを選ぶべきだ。鶴嘴は物を書く手を痛めるからね。」
棺車は止まった。
歌唱の子供が喪の馬車からおり、次に牧師もおりた。
棺車の小さな前の車輪の一つは、うずたかい土の上に少し上がっていた。その向こうに口を開いてる墓穴が見えていた。
「なんて狂言だ!」とフォーシュルヴァンは唖然《あぜん》としてくり返した。
六 四枚の板の中
棺の中にいたのはだれであるか? 読者の知るとおり、ジャン・ヴァルジャンであった。
ジャン・ヴァルジャンはその中で生きておれるだけの準備をしておいた、そしてわずかに呼吸をしていた。
本心の安静がいかにその他のいっさいのものの安静をもたらすかは、実に不思議なほどである。ジャン・ヴァルジャンが考えた計画は、前日来着々としてつごうよく進んでいた。そして彼はフォーシュルヴァンと同じくメティエンヌ爺《じい》さんを当《あて》にしていた。彼は最後の成功を疑わなかった。これほど危険な状態でしかもこれほど完全な安心は、かつて見られないことだった。
柩《ひつぎ》の四方の板からは、恐ろしい平安の気が発していた。死人の休息に似たある物が、ジャン・ヴァルジャンの落ち着きのうちにはいって来るかのようだった。
棺の底から彼は、死と戯れてる恐るべき芝居の各部分をたどることができ、また実際たどっていた。
フォーシュルヴァンが上の板に釘《くぎ》を打ち終わってから間もなく、ジャン・ヴァルジャンは持ち出されるのを感じ、次に馬車で運ばれるのを感じた。動揺の少なくなったことで、舗石《しきいし》から堅い地面へ出たことを、すなわち街路を通りすぎて大通りにさしかかったことを感じた。重々しい響きで、オーステルリッツ橋を渡ったことを察した。初めちょっと止まったことで、墓地にはいったことを知った。二度目に止まった時、もう墓穴だなと彼は思った。
突然人の手が棺をとらえたことを彼は感じた。それから棺板の上をこするがさがさした音を感じた。棺を穴の中におろすためにまわりを繩《なわ》でゆわえてるのだと彼は察した。
それから彼は目が廻るような気がした。
たぶん人夫どもと墓掘り人とが棺をぐらつかして足より頭を先にしておろしたのであろう。そして程なくまた水平になって動かなくなった時、彼は初めてすっかり我に返ることができた。穴の底に達したのである。
彼はさすがに一種の戦慄《せんりつ》を覚えた。
冷ややかでおごそかな一つの声が上の方で起こった。自分にわからないラテン語の言葉が、その一語一語とらえらるるくらいゆっくりと響いて来るのを彼は聞いた。
「塵《ちり》のうちに眠る者ら、やがて目ざむるに至らん[#「やがて目ざむるに至らん」に傍点]、ある者は永遠の生命に、またある者は汚辱に。常に[#「常に」(訳者補 まことを)見んがためなればなり。」
一つの子供の声が言った。
「深き淵より。(訳者補 主よ我は爾を呼ばわりぬ)」
重々しい声がまた初めた。
「主よ彼に永遠の休息《やすらい》を与えたまえ。」
子供の声が答えた。
「恒《つね》なる光は彼に輝かんことを。」
その時彼は身をおおうている板の上に、雨だれのような静かな音を聞いた。たぶんそれは聖水だったのだろう。
彼は考えた。「もうすぐに終わるだろう。も少しの辛抱だ。牧師が立ち去る、フォーシュルヴァンはメティエンヌを飲みに引っ張ってゆく、自分は一人になる。それからフォーシュルヴァンが一人で帰ってくる。そして自分は穴から出る。も少しの間だ。」
重々しい声が言った。
「安らかに憩《いこ》わんことを。」
そして子供の声が言った。
「アーメン。」
ジャン・ヴァルジャンは耳をそばだてながら、人の足音らしいものが遠ざかってゆくのを知った。
「皆立ち去ってゆくのだな。」と彼は考えた。「もう自分一人だ。」
するとたちまち頭の上に、雷が落ちたかと思われるような音が聞こえた。
それは一すくいの土が棺の上に落ちた音だった。
次にまた一すくいの土が落ちてきた。
彼が息をしていた穴の一つは、そのためにふさがってしまった。
第三の士が落ちてきた。
次に第四の土が。
いかに強い男にとっても、それはあまりにもひどすぎた。ジャン・ヴァルジャンは気を失った。
七 札をなくすなという言葉の起原
ジャン・ヴァルジャンがはいっていた棺の上の方では次のようなことが起こったのである。
棺車が立ち去った時、そして牧師と歌唱の子供とがまた馬車に乗って帰って行った時、墓掘り人から目を離さなかったフォーシュルヴァンは、墓掘り人が身をかがめて、うずたかい土の中にまっすぐにつきさしてある※《くわ》を手に取るのを見た。
その時フォーシュルヴァンは最後の決心をした。
彼は墓穴と墓掘り人との間につっ立ち、両腕を組んで、そして言った。
「金は私《わし》が払う。」
墓掘り人は驚いて彼をながめ、そして答えた。
「何のことだよ?」
フォーシュルヴァンは繰り返した。
「金は私が払う。」
「何さ?」
「酒だよ。」
「何の酒だ?」
「アルジャントゥイュだ。」
「アルジャントゥイュってどこにあるんだ。」
「ボン・コアンの家《うち》にある。」
「なんだばかにするない!」と墓掘り人は言った。
そして彼は一すくいの土を棺の上にほうり込んだ。
棺はうつろな音を返した。フォーシュルヴァンはよろめいて、自分も墓穴の中にころげ落ちそうな気がした。喉《のど》をしめられたようなしわがれ声を交じえて彼は叫んだ。
「おい、ボン・コアンの戸がしまらないうちにさ!」
墓掘り人はまた※《くわ》で土をすくった。フォーシュルヴァンは言い続けた。
「私が払う。」
そして彼は墓掘り人の腕をつかんだ。
「まあきいてくれ。私は修道院の墓掘りだ。お前さんの手助けにきてるんだ。仕事は晩にすればいい。まあ一杯飲みに行ってからにしようじゃないか。」
そう言いながらも、絶望的にしつこく言い張りながらも、彼は悲しい考えを心のうちに浮かべていた。「そして酒は飲むとしても、果して酔っ払うかしら?」
「なあに、」と墓掘り人は言った、「どうしても飲もうというんなら、飲んでもいいさ。飲もうよ。だが仕事のあとだ、前はいけない。」
そして彼は※《くわ》を動かした。フォーシュルヴァンはそれを引き止めた。
「六スーのアルジャントゥイュだよ。」
「またか、」と墓掘り人は言った、「鐘撞《かねつ》きみたいな奴《やつ》だな。いつも同じことばかりぐずってやがる。いいかげんにしろよ。」
そして彼は第二の一すくいをほうり込んだ。
フォーシュルヴァンはもう自分で自分の言ってることがわからないほどになっていた。
「まあ一杯やりにこいったら、」と彼は叫んだ、「金は私が払うんだから。」
「赤ん坊を寝かしてからさ。」と墓掘り人は言った。
彼は第三の一すくいをほうり込んだ。
それから彼はまた※を土の中に突き入れてつけ加えた。
「おい今夜は冷えるぞ。何もかぶせないでゆくと、死骸が泣き出して追っかけて来るぜ。」
その時墓掘り人は※で土をすくいながら身をかがめた、そして上衣のポケットの口が大きく開いた。
フォーシュルヴァンの茫然《ぼうぜん》とした目つきは機械的にその中に止まって、そこにすえられた。
太陽はまだ地平線の向こうに落ちていなかった。そしてまだかなり明るかったので、その口を開いたポケットの底に何やら白いものが見て取られた。
ピカルディーの田舎者《いなかもの》の目が有し得るすべての輝きが、フォーシュルヴァンの瞳《ひとみ》をよぎった。ある考えが彼に浮かんできたのである。
墓掘り人が※《くわ》で土をすくうのに一心になって気づかないうちに、彼はうしろからそのポケットの中に手を差し入れて、底にある白いものを引き出した。
墓掘り人は第四の一すくいの土を墓穴の中に送った。
彼が第五にまた一すくいするためふり返った時、フォーシュルヴァンは落ち着き払ってその顔をながめ、そして言った。
「時にお前さんは、札を持ってるかね。」
墓掘り人はちょっと手を休めた。
「何の札だ?」
「日が入りかかってるよ。」
「いいさ、おはいんなさいとして置くさ。」
「墓地の門がしまるよ。」
「だから?」
「札は持ってるかと言うんだ。」
「ああ俺《おれ》の札か!」と墓掘り人は言った。
そしてポケットをさぐった。
一つのポケットをさぐって、またも一つのをさぐった。それからズボンの内隠しを、一方をさがし一方を裏返した。
「ないぞ。」と彼は言った。「札がない。忘れてきたのかな。」
「十五フランの罰金だ。」とフォーシュルヴァンは言った。
墓掘り人は草色になった。青白い男が更に青くなると、草色になるものだ。
「何ということだ!」と彼は叫んだ。「十五フランの罰金!」
「五フラン銀貨三つだ。」とフォーシュルヴァンは言った。
墓掘り人は※《くわ》を取り落とした。
こんどこそはフォーシュルヴァンの番になった。
「なにお前さん、」とフォーシュルヴァンは言った、「そう心配することはないさ。首でもくくって墓を肥やそうというわけじゃあるまいしね。十五フランは十五フランだ。それにまた払わないですむ方法もあるさ。お前さんは新参だが、私は古狸《ふるだぬき》だ。何もかもよく承知してるよ。うまいことを教えてやろう。ただこれだけはどうにもならない、日が入りかかってることだけは。向こうの丸屋根に落ちかかってる。もう五分とたたないうちに墓地はしまるだろう。」
「そうだ。」と墓掘り人は答えた。
「これから五分間では、この墓穴をいっぱいにするだけの時間はない、ずいぶん深い穴だからな。そして門がしまらないうちに出るだけの時間はない。」
「そのとおりだ。」
「そうすれば十五フランの罰金だ。」
「十五フラン。」
「だがまだ時間はある……。いったいお前さんはどこに住んでるんだ。」
「市門のすぐそばだ。ここから十五分ぐらいかかる。ヴォージラール街八十九番地だ。」
「急げばすぐに門を出るだけの時間はある。」
「そうだ。」
「門を出たら、家に駆けて行って、札を持って帰って来るさ。墓地の門番があけてくれる。札さえあれば、一文も払わなくてすむ。そして死骸《しがい》を埋めればいいわけだ。死骸が逃げ出さないように、その間私が番をしていてあげよう。」
「それで俺《おれ》は助かる。」
「早く行けよ。」とフォーシュルヴァンは言った。
墓掘り人は夢中に感謝して、彼の手を取って振り動かし、そして駆け出していった。
墓掘り人が茂みの中に見えなくなると、フォーシュルヴァンはその足音が聞こえなくなるまで耳をすまし、それから墓穴の方へ身をかがめて、低い声で言った。
「マドレーヌさん!」
何の答えもなかった。
フォーシュルヴァンはぞっとした。彼は墓穴の中におりるというよりも、むしろころげ込んで、棺の頭の方に身をなげかけ、そして叫んだ。
「そこにおいでですか。」
棺の中はひっそりとしていた。
フォーシュルヴァンは震え上がって息もつけなかったが、それでも鋭利な鑿《たがね》と金槌《かなづち》とを取って、上の板をはねのけた。ジャン・ヴァルジャンの顔がほの暗い中に見えたが、目は閉じ、色は青ざめていた。
フォーシュルヴァンの髪の毛は逆立った。彼はまっすぐに立ち上がり、それから穴の壁にもたれかかり、気を失って棺の上に倒れんばかりになった。彼はじっとジャン・ヴァルジャンをながめた。
ジャン・ヴァルジャンは色を失って身動きもしないで、そこに横たわっていた。
フォーシュルヴァンは息ばかりのような弱い声でつぶやいた。
「死んでいなさる!」
それから立ち直って、両の拳《こぶし》が肩に激しくぶっつかったほど急に両腕を組んで、叫んだ。
「助けてあげたのがこんなことに!」
そしてあわれな老人はむせび泣きながら、独語をはじめた。独語は自然のうちにないものだと思うのは誤りである、心の激しい動乱はしばしば高い声で語り出す。
「メティエンヌ爺《じい》さんが悪いんだ。あの爺《じじい》め、なぜ死んだんだ。思いも寄らない時にくたばるなんてことがあるものか。マドレーヌさんを殺したのは奴《やつ》だ。マドレーヌさん! ああ棺の中にはいっていなさる。もう逝《い》ってしまわれた。もうだめだ。――いったいこれは何て訳のわからないことだ。ああ、どうしよう! 死んでしまわれた! ところであの娘さん、あれをどうしたもんだろう。果物屋《くだものや》の上《かみ》さんは何と言うだろう。こんな方がこんなふうに死なれる、そんなことがあるもんだろうか。私の車の下に身を投げ入れて下さった時のことを思うと! マドレーヌさん、マドレーヌさん! 息がつまったんだ。私の言ったとおりだ。私の言うことを聞きなさらなかったからだ。まあ何という悪戯《いたずら》だ! 死になすった、あのりっぱな方が、善人のうちでも一番善人の方が! そしてあの娘さん! 第一私はもうあそこへは帰られん。ここにこのままいよう。こんなことをしでかしてさ! 年寄りが二人いてこんなばかをやるって法があるもんか。だが第一、あの方はどうして修道院の中へはいりなすったんだろう。それがそもそも事の初まりだ。あんなことはするもんじゃない。マドレーヌさん、マドレーヌさん、マドレーヌさん、マドレーヌ、マドレーヌ様、市長様! 私の言うことも聞こえないんだ。さあ何とかして下さらなけりゃ!」
そして彼は髪の毛をかきむしった。
遠く木立ちの中に、物のきしる鋭い音が聞こえた。墓地の鉄門がしまる音だった。
フォーシュルヴァンはジャン・ヴァルジャンの上に身をかがめた。そして突然、彼ははね上がって、墓穴の中でできるだけあとにしざった。ジャン・ヴァルジャンは目を開いて、彼をじっと見つめていた。
死を見るのは恐ろしいことであるが、蘇生を見るのも同じくらい恐ろしいことである。フォーシュルヴァンはその極度の感動に、度を失い、荒々しくなり、まっさおになり、石のようになって、生者に対してるのか死人に対してるのかも自らわからず、自分の方を見つめてるジャン・ヴァルジャンの顔を見入った。
「私は眠ってしまった。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
そして彼は半身を起こした。
フォーシュルヴァンはひざまずいた。
「あああ! ほんとにたまげてしまった。」
それから彼は立ち上がって叫んだ。
「ありがたい! マドレーヌさん。」
ジャン・ヴァルジャンは気絶していたにすぎなかった。外の空気が彼をさましたのである。
喜悦は恐怖の裏である。フォーシュルヴァンはジャン・ヴァルジャンと同じくらいに我に返るのには骨が折れた。
「死になすったのではなかったんだな! ほんとにあなたは人が悪い。生き返ってきなさるようにどんなにか呼んだんですよ。あなたが目を閉じていなさるのを見て、ああ息がつまったんだなと思いましたよ。私はほんとに気が気でなかった。まったくの気違いになりそうでしたよ。ビセートルの癲狂院《てんきょういん》にでも入れられたかも知れませんよ。あなたが死なれたら、私はどうなると思います? そしてあなたの娘さんは! 果物屋《くだものや》の上さんは訳がわからなくなるでしょう。子供を預けておいて、そして祖父《おじい》さんが死んでしまう。まあなんて話なんでしょう。ほんとになんてことでしょう。ああ、あなたは生きていなさる! ほんとにありがたいことだ。」
「私は寒い。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
その一言でフォーシュルヴァンはすっかり現実に呼び戻された。事情は切迫していた。二人の者は我に返ってからも、なぜともわからず心が乱れていた。そして彼らのうちには、その陰惨な場所のためにある言い知れぬ感情が起こっていた。
「早くここを出ましょう。」とフォーシュルヴァンは叫んだ。
彼はポケットの中をさぐって、用意していた壜《びん》を取り出した。
「だがまあ一口おやりなさい。」と彼は言った。
外気に次いでその壜《びん》がすべてをよくなした。ジャン・ヴァルジャンは火酒を一口のんで、すっかり元気になった。
彼は棺から出た。そしてフォーシュルヴァンに手伝って再びその蓋《ふた》を打ちつけた。
二、三分後には、二人とも墓穴の外に出ていた。
それにまたフォーシュルヴァンも落ち着いていた。彼はゆっくり構えた。墓地はしまっている。墓掘り人グリビエが来る気づかいはない。その「新参者」は家にいて札をさがし回ってる。そして札はフォーシュルヴァンのポケットの中にあるから、家で見つかるわけはない。札がなければ墓地の中に戻って来ることはできないのだ。
フォーシュルヴァンは※《くわ》を取り、ジャン・ヴァルジャンは鶴嘴《つるはし》を取り、二人して空棺を埋めた。
墓穴がいっぱいになった時、フォーシュルヴァンはジャン・ヴァルジャンに言った。
「さあ行きましょう。私は※を持ちますから、あなたは鶴嘴をお持ちなさい。」
日は暮れていた。
ジャン・ヴァルジャンは動き回ったり歩いたりするのに少し苦しかった。棺の中で彼は身体を硬《こわ》ばらし、いくらか死体のようになっていた。その四枚の板の中で、死の関節不随にとらわれていた。いわば墓の中から脱け出さなければならなかった。
「あなたはしびれていなさる。」とフォーシュルヴァンは言った。「それに私まで跛者ときています。そうでなけりゃもっと早く歩けますがな。」
「なあに、」とジャン・ヴァルジャンは答えた、「少しゆけば私の足はよくなるよ。」
彼らは棺車の通った道から立ち去っていった。しまった鉄門と門番の小屋との前まできた時、墓掘り人の札を手に持っていたフォーシュルヴァンは、その札を箱の中に投げ込んだ。すると門番は綱を引き、門が開き、二人は外に出た。
「すっかりうまくいった!」とフォーシュルヴァンは言った。「あなたの考えは実にえらいもんだ、マドレーヌさん。」
彼らはヴォージラールの市門を、ごく平気で通りすぎた。墓地の付近では、※《くわ》と鶴嘴《つるはし》とはいずれも通行券と同様である。
ヴォージラール街には人影もなかった。
「マドレーヌさん、」とフォーシュルヴァンは歩きながら人家の方を見上げて言った、「あなたは私より目がいい。八十七番地というのを見て下さい。」
「ちょうどここがそうだよ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
「往来にはだれもいません。」とフォーシュルヴァンは言った。「鶴嘴を私に下さい、そしてちょっと待っていて下さい。」
フォーシュルヴァンは八十七番地の家にはいってゆき、いつも貧乏のために屋根裏にばかり行く本能から、ずっと上まで上っていって、ある屋根部屋の扉《とびら》を暗闇《くらやみ》の中にたたいた。中からだれか答えた。
「おはいり。」
それはグリビエの声だった。
フォーシュルヴァンは扉を押し開いた。墓掘り人の住居は、あわれな人たちの住居にいつも見るように、道具がなくてしかも取り散らかした屋根裏だった。荷造り用の箱みたいなものが――おそらく棺かも知れないが――戸棚《とだな》の代わりになっており、バタの壺《つぼ》が水桶《みずおけ》の代わりとなり、一枚の藁蒲団《わらぶとん》が寝床となり、床板《ゆかいた》がそのまま椅子《いす》ともテーブルともなっていた。片すみには、古い一片の絨毯《じゅうたん》のぼろの上に、やせた一人の女と大勢の子供とが一かたまりになっていた。そのあわれな部屋の中には、すべてかき回された跡が残っていて、一挙に地震でもきたようなありさまだった。物の蓋《ふた》は取りのけられ、ぼろはまき散らされ、壜《びん》はこわされ、母親は泣いた様子であり、子供らはたぶんなぐられたのであろう。すべて、いら立ち熱中した穿鑿《せんさく》の跡が見えていた。言うまでもなく、墓掘り人は狂気のようになって札をさがし回り、そして女房から壜に至るまで室の中のあらゆるものに紛失の責を負わしたのである。彼はもう自暴自棄の様子をしていた。
しかしフォーシュルヴァンは早く事件の結末ばかりを急いでいて、成功のその悲しい半面を目にも止めなかった。
彼は中にはいって言った。
「お前さんの鶴嘴《つるはし》と※[#「金+産の旧字体」、第3水準1-93-37]《くわ》を持ってきたよ。」
グリビエは呆然《ぼうぜん》として彼をながめた。
「ああ君か。」
「そして明日《あす》の朝、墓地の門番の所へ行ってみなさい、お前さんの札があるから。」
彼は※[#「金+産の旧字体」、第3水準1-93-37]と鶴嘴とを下に置いた。
「いったいどうしたと言うんだ。」とグリビエは尋ねた。
「なあに、お前さんはポケットから札を落としたのさ。お前さんが行ってしまってから、地面に落ちてるのを私は見つけたんだ。死骸《しがい》は埋めるし、墓穴はいっぱいにするし、お前さんの仕事はすっかりしておいた。札は門番が返してくれるだろう。十五フラン払わんでもいいよ。わかったかね。」
「そいつあありがたい!」とおどり上がってグリビエは叫んだ。「こんどは、俺《おれ》が酒の代を払うよ。」(訳者注 章題の札をなくすなとは狼狽するなという意味にもなる)
八 審問の及第
それから一時間の後、まっくらな夜の中を、二人の男と一人の子供とが、ピクプュス小路の六十二番地に現われた。年取った方の男が槌《つち》を取り上げて、呼鐘をたたいた。
その三人は、フォーシュルヴァンとジャン・ヴァルジャンとコゼットであった。
二人の老人は、前日フォーシュルヴァンがコゼットを預けておいたシュマン・ヴェール街の果物屋《くだものや》へ行って、コゼットを連れてきたのである。その二十四時間の間を、コゼットは訳がわからず、黙って震えながら過ごした。恐れおののいて、涙さえも出なかった。物も食べなければ、眠りもしなかった。正直なお上さんはいろいろ尋ねてみたが、ただいつも同じような陰鬱《いんうつ》な目つきで見返されるだけで、何の答えも得られなかった。コゼットは二日間に見たり聞いたりしたことについては、何一つもらさなかった。今は大事な場合であることを彼女は察していた。「おとなしくして」いなければならないと深く感じていた。恐怖に駆られている小さい者の耳に、一種特別の調子で言われた「何にも言ってはいけない」という短い言葉の絶大な力は、だれしもみな経験したところであろう。恐怖は一つの沈黙である。その上、子供ほどよく秘密を守る者はない。
けれどもただ、その悲しい二十四時間がすぎ去って、再びジャン・ヴァルジャンの姿を見た時、彼女は非常な喜びの声を上げたので、もし考え深い者がそれを聞いたら、ある深淵《しんえん》から出てきたものであることを察知したかも知れない。
フォーシュルヴァンは修道院の者で、通行の合い言葉を知っていた。それによってどの扉《とびら》も開かれた。
そういうふうにして、出てまたはいるという二重の困難な問題は解決された。
前から旨を含められていた門番は、中庭から外庭に通ずる小さな通用門をあけてくれた。その門は今から二十年前までなお、正門と向かい合った中庭の奥の壁の中に、街路から見えていた。門番は三人をその門から導き入れた。そこから彼らは、前日フォーシュルヴァンが院長の命令を受けた特別の中の応接室にはいっていった。
院長は手に大念珠を持って、彼らを待っていた。一人の声の母が、面紗《かおぎぬ》を深く引き下げて、そのそばに立っていた。かすかな蝋燭《ろうそく》の火が一つともっていて、ほとんど申しわけだけに応接室を照らしていた。
修道院長はジャン・ヴァルジャンの様子を検閲した。目を伏せて見調べるくらいよくわかることはないとみえる。
それから彼女は彼に尋ねた。
「弟というのはお前ですか。」
「はい長老様。」とフォーシュルヴァンが答えた。
「何という名前ですか。」
フォーシュルヴァンが答えた。
「ユルティム・フォーシュルヴァンと申します。」
彼は実際、既に死んではいたがユルティムという弟を持っていた。
「生まれはどこですか。」
フォーシュルヴァンが答えた。
「アミアンの近くのピキニーでございます。」
「年は?」
フォーシュルヴァンが答えた。
「五十歳でございます。」
「職業は?」
フォーシュルヴァンが答えた。
「園丁でございます。」
「りっぱなキリスト信者ですか。」
フォーシュルヴァンが答えた。
「家族の者残らずがそうでございます。」
「この娘はお前のですか。」
フォーシュルヴァンが答えた。
「はい長老様。」
「お前がその父親ですか。」
フォーシュルヴァンが答えた。
「祖父でございます。」
声の母は院長に低い声で言った。
「りっぱに答えますね。」
ジャン・ヴァルジャンはひとことも口をきかなかったのである。
院長は注意深くコゼットをながめた。そして声の母に低い声で言った。
「醜い娘になるでしょう。」
二人の長老は、応接室の隅《すみ》でしばらくごく低い声で話し合った。それから院長はふり向いて言った。
「フォーヴァン爺《じい》さん、鈴のついた膝当《ひざあて》をも一つこしらえなさい。これから二ついりますからね。」
果してその翌日、庭には二つの鈴の音が聞こえた。修道女たちは我慢しきれないで、面紗《かおぎぬ》の一端を上げてみた。見ると庭の奥の木立ちの下に、フォーシュルヴァンとも一人、二人の男が並んで地を耘《うな》っていた。一大事件だった。緘黙《かんもく》の規則も破られて、互いにささやきかわした。「庭番の手伝いですよ。」
声の母たちは言い添えた。「フォーヴァン爺さんの弟です。」
実際ジャン・ヴァルジャンは正規に任用されたのである。彼は皮の膝当と鈴とをつけていた。それいらい彼は公の身となった。名をユルティム・フォーシュルヴァンと言っていた。
そういうふうにはいることを許さるるに至った最も有力な決定的な原因は、「醜い娘になるでしょう[#「醜い娘になるでしょう」に傍点]」というコゼットに対する院長の観察だった。
そういう予言をした院長は、すぐにコゼットを好きになって、給費生として彼女を寄宿舎に入れてくれた。
これはいかにも当然なことである。修道院では鏡は決して用いられないとは言え、女は自分の顔について自覚を持ってるものである。ところで、自分をきれいだと思ってる娘は、容易に修道女などになるものではない。帰依の心は多くは美貌《びぼう》と反比例するものであるから、美しい娘よりも醜い娘の方が望ましい。したがって醜い娘が非常に好まれるに至るのである。
さてこの事件は善良なフォーシュルヴァン老人の男を上げた。彼は三重の成功を博した。ジャン・ヴァルジャンに対しては、救ってかくまってやり、墓掘り人グリビエに対しては、罰金を免れさしてもらったと思わせ、修道院に対しては、祭壇の下にクリュシフィクシオン長老の柩《ひつぎ》を納めて、シーザーの目をくぐり神を満足さしてやった。プティー・ピクプュスには死体のはいった棺があり、ヴォージラールの墓地には空《から》の棺があることになった。公規はそのためにはなはだしく乱されたには相違ないが、それに気づきはしなかった。修道院の方では、フォーシュルヴァンに対する感謝の念は大なるものだった。フォーシュルヴァンは最良の下僕《しもべ》となり、最も大切な庭番となった。大司教が次回にやってきた時、院長は少しの懺悔《ざんげ》とまた少しの自慢とをもって、閣下にそのことを物語った。修道院を出る時大司教は、王弟の聴罪師であって後にランスの大司教となり枢機官となったド・ラティル氏に、ないしょで感心の調子でそのことをささやいた。フォーシュルヴァンに対する称賛はしだいに広まっていって、ついにローマにまで伝わった。われわれも実際一つの書簡を見たことがある。それは当時位に上っていた法王レオ十二世が、親戚の者でパリーの特派公使閣下で彼と同じくデルラ・ジェンガという名前の者に送ったものである。その中には次の数行があった。「パリーのある修道院にすぐれた庭番がいるらしい。実に聖者であって、名をフォーシュルヴァンというそうである。」けれどもそういう成功は、小屋の中のフォーシュルヴァンの耳にはまったく達しなかった。彼は相変わらず接木《つぎき》をしたり、草を取ったり、瓜畑《うりばたけ》に覆《おお》いをしてやったりして、自分のすぐれたことや聖《きよ》いことは少しも知らなかった。彼は自分の光栄については夢にも気づかなかった。あたかもダーハムやサレーの牛が、絵入りロンドン・ニュースに写真を掲げられ、有角家畜共進会において賞金を得たる牛[#「有角家畜共進会において賞金を得たる牛」に傍点]と記入されながら、それを少しも知らないのと同じだった。
九 隠棲《いんせい》
コゼットは修道院でもなお沈黙を守っていた。
コゼットはごく自然に、自分をジャン・ヴァルジャンの娘であると思い込んでいた。その上彼女は何事も知らないので何も言うことはできなかった。またよし知っていたところで、おそらく何も言わなかったであろう。前に注意しておいたとおり、不幸ほど子供を無口になすものはない。コゼットは非常に苦しんできたので、何事でも恐れていた、口をきくことや息をすることさえも恐れていた。一言口をきいたために自分の上に恐ろしい雪崩《なだれ》を招いたこともしばしばあった。そしてジャン・ヴァルジャンに引き取られてからようやく安心しだしたに過ぎなかった。彼女はじきに修道院になれてきた。ただ人形のカトリーヌを惜しんだが、あえて口に出しては言わなかった。けれども、一度彼女はジャン・ヴァルジャンに言った。「お父さん、こうなるとわかってたら、あれを持って来るんだった。」
コゼットは修道院の寄宿生になるについて、そこの生徒服を着なければならなかった。ジャン・ヴァルジャンは彼女が脱ぎ捨てた着物をもらうことができた。それはテナルディエの飲食店を出る時彼が着せてやったあの喪服だった。まだそういたんではいなかった。ジャン・ヴァルジャンはその着物や毛糸の靴下や靴にまで、たくさんの樟脳《しょうのう》や修道院にいくらもある各種の香料などをふりかけて、どうにか手に入れた小さな鞄《かばん》の中に納めた。そしてそれを寝台のそばの椅子《いす》の上に置いて、いつもその鍵《かぎ》を身につけていた。コゼットはある日彼に尋ねた。「お父さん、あんなにいいにおいのするあの箱は、ほんとに何なの?」
フォーシュルヴァン爺《じい》さんは、前に述べてきたとおりの自ら知らない光栄のほかに、なおいろいろその善行の報いを得た。第一には、心に喜びを感じていた。次には、仕事が二つに分けられるのでよほど楽になった。最後に、彼は非常に煙草《たばこ》が好きだったが、マドレーヌ氏がいるために、以前よりは三倍も多く吸うことができ、しかもマドレーヌ氏が金を払ってくれるので非常にうまく味わうことができた。
修道女らは少しもユルティムという名前を使わず、ジャン・ヴァルジャンをいつもも一人のフォーヴァンと呼んでいた。
もしその聖《きよ》い処女たちが、多少なりとジャヴェルのような目を持っていたならば、何か庭の手入れのために用達にゆくような場合に外に出かけるのは、年取って身体がきかなくて跛者である兄のフォーシュルヴァンの方であって、決して弟の方でないことを、ついには気づくに至ったであろう。しかし、あるいは絶えず神の方へばかり目を向けていて、他のことをさぐる暇がなかったのか、あるいはお互いの身の上にのみ目をつけることに特に忙しかったのか、いずれにしても彼女らはそのことに何らの注意も払わなかった。
その上、いつも黙っていて引っ込んでいたことは、ジャン・ヴァルジャンにはいいことだった。ジャヴェルはその一郭を一カ月以上も見張っていたのである。
その修道院は、ジャン・ヴァルジャンにとっては深淵《しんえん》にとりまかれた小島のようなものだった。その四壁の中だけが以後彼の世界だった。そこで彼は、気をさわやかにするくらいにはじゅうぶん空を見ることができ、心を楽しませるくらいにはじゅうぶんコゼットを見ることができた。
きわめて穏やかな生活が再び彼に初まった。
彼はフォーシュルヴァン老人とともに庭の奥の小屋に住んでいた。その陋屋《ろうおく》は土蔵造りであって、一八四五年にはなお残っていたが、読者の既に知るとおり、三つの室《へや》から成っていて、どの室もみな裸のままの露《あら》わな壁があるばかりだった。その一番いい室は、ジャン・ヴァルジャンがこばむにもかかわらず、マドレーヌ氏へとしてフォーシュルヴァンがむりに与えてしまった。その室の壁には、膝当《ひざあて》と負籠《おいかご》とをかける二つの釘《くぎ》のほかに、飾りとして一七九三年の王家の紙幣が、暖炉の上の方に壁にはってあった。その模写は次のとおりである。(訳者注 図中の文字も念のために訳出す)
[#王家の紙幣の図、図省略]
[#ここから紙幣の文字の訳文]
国王の名において
十リーヴル兌換券
軍需品代として交付す
平和確立とともに償還す
第三部 第一〇三九〇号
ストフレー
正教王党軍(欄外に)
[#ここで訳文終わり]
このヴァンデアン党(訳者注 王党の一派にしてストフレーはその将軍)の紙幣は、この前の庭番が壁に鋲《びょう》で留めたものだった。彼はもと王党のものであって、修道院で死に、その後にフォーシュルヴァンがきたのだった。
ジャン・ヴァルジャンは毎日庭で働き、大変役に立った。彼は昔枝切り人だったので、今また喜んで園丁になったのである。読者はたぶん思い起こすであろうが、彼は栽培に関するあらゆる方法と奥義とに通じていた。彼はそれを役立たした。果樹園のほとんどすべての樹木は野生のままだったが、彼はそれに接芽《つぎめ》してりっぱな果実をならした。
コゼットは毎日一時間ずつ彼のそばで過ごすことを許されていた。修道女らは陰気であり、彼は親切であったから、子供の彼女は両方を比べてみて彼をなつかしんでいた。きまった時間がくると、彼女は小屋の方へ走ってきた。そして彼女がはいって来ると、その破家《あばらや》も楽園となるのだった。ジャン・ヴァルジャンも喜びに輝き、コゼットに与える幸福によってまた自分の幸福も増してくるのを感じた。人に与える喜悦こそは微妙なもので、すべての反映のように弱まりゆくどころか、かえっていっそう強い輝きをもってまた自分に返ってくるものである。休憩の時間になると、コゼットが遊び駆け回るのをジャン・ヴァルジャンは遠くからながめた、そして他の子供らの笑い声のうちにも彼女の笑い声を聞き分けることができた。
というのは、今ではもうコゼットも笑い戯れるようになっていた。
それとともに、コゼットの顔つきもある点まで変わってきた。陰鬱《いんうつ》な影もその顔から消えうせた。笑いは太陽のようなもので、人の顔から冬を追い払うものである。
コゼットはやはりまだきれいではなかったが、それでもきわめてかわいくなってきた。そのやさしい幼い声でもっともらしい口をきいていた。
休憩が終わって、コゼットがまた向こうにはいってゆく時、ジャン・ヴァルジャンはその教室の窓をながめ、また夜になると、立ち上がってその寝室の窓をながめた。
もとより神は自己の道を進む。修道院はコゼットがしたように、ジャン・ヴァルジャンのうちにまかれたミリエル司教の仕事を維持し完成していった。およそ徳の一面が傲慢《ごうまん》に接することは確かである。そこに悪魔の渡した橋がある。ジャン・ヴァルジャンはおそらく自ら知らずしてその方面に、その橋に、かなり近づいていた。その時天は彼をプティー・ピクプュスの修道院に投じたのである。自分を司教にだけ比較していた間は、彼は自分の足りないのを知って謙譲であった。しかし最近になって、彼は自分を一般の人に比べはじめて、傲慢の念がきざしかかっていた。おそらくついには、漸次と人を憎む心に戻ってしまうかもわからなかったのである。
しかるに修道院はその坂の上に彼を引き止めた。
修道院は彼が見た第二の幽囚の場所であった。青年時代に、彼にとっては人生の初めに当たる時代に、そしてその後またつい最近に、彼はも一つの幽囚の場所を見たのだった。恐るべき場所、戦慄《せんりつ》すべき場所であった。そしてその苛酷《かこく》さは、裁判の不正と法律の罪悪とであるようにいつも彼には思えたのである。ところが今や彼は、徒刑場の次に修道院を見た。そしてかつては徒刑場の中にあったことを思い、今はいわば修道院の傍観者であることを思って、その両者を頭のうちで不安ながらも対照さしてみた。
時としては耡《すき》の柄を杖にたのみながら、底なき夢想の螺旋《らせん》を徐々に下ってゆくこともあった。
彼は昔の仲間を思い起こした。彼らはいかにみじめな者らであったか。夜明けに起き上がって夜まで働いていた。眠ることもろくろくできなかった。畳寝台《たたみねだい》の上に寝かされ、許されてるものはただ厚さ二寸のふとんだけで、室は大寒の候にだけしかあたためられていなかった。恐ろしい赤い獄衣を着ていた。ただ恩典としては、酷暑の折りに麻のズボンをつけ、酷寒の折りに毛織の短衣を背中に引っ掛けることだけだった。「労役」に行く時のほかは、酒も飲めず肉も食えなかった。もはや名前も持たず、ただ番号でばかり呼ばれ、言わば数字に化せられてしまって、目を伏せ、声を低め、髪を短く刈られ、棍棒《こんぼう》の下に、汚辱のうちに、彼らは生きていたのである。
それから彼の考えは、眼前の人々の上に戻ってきた。
それらの人々もまた、髪を短く刈られ、目を伏せ、声を低め、汚辱のうちにではないが、世間の嘲笑《ちょうしょう》のうちに、背中を棍棒によって傷つけらるることはないが、肩を苦業のために引き裂いて、生きていたのである。彼らに取ってもまた、世俗の名前はなくなっていた。おごそかな呼び名の下にしか彼らはもはや存在していなかった。決して肉を食わず、決して酒を飲まなかった。晩まで食物を取らないでいることもしばしばだった。赤い上衣は着ていないが、毛織の黒い法衣をつけ、夏は重く冬は軽いその着のままで、何物をも脱ぎ何物をも重ぬることができなかった。季節によってあるいは麻の服を着、あるいは毛の外套《がいとう》をまとう手段はもとよりなかった。毎年六カ月の間セルのシャツを着て、熱を出す者もあった。酷寒の候のみあたためる広間にではないが、決して火をたくことのない分房に住んでいた。厚さ二寸のふとんにではないが、藁《わら》の蒲団《ふとん》に寝ていた。それからよく眠ることもできなかった。毎夜、終日の労苦の後、まだ疲労の休まらぬうちに、眠ってまだ身体もよくあたたまらない頃に、目をさまし、起き上がり、凍るような暗い礼拝堂に行って、石の上に両膝《りょうひざ》をついて祈祷《きとう》するのであった。
またある日には、それらの人々は各自順番に、十二時間引き続いて、床石《ゆかいし》の上にひざまずき、あるいは顔を床につけ腕を十字に組んで平伏しなければならなかった。
彼方《あちら》は男たちであった。此方《こちら》は女たちであった。
その男らは何をしてきたのであったか? 窃盗を働き、暴行を行ない、略奪し、殺害し、謀殺したのである。盗賊、詐欺師、毒殺者、放火人、殺害者、大逆人らであった。そしてその女らは何をしてきたのであったか? 何もしたのではなかった。
一方には、強盗、密売、詐欺、暴行、猥褻《わいせつ》、殺人、あらゆる種類の冒涜《ぼうとく》、あらゆる種類の加害。そして他方には、潔白のただ一事。
完全なる潔白! 徳によってなお地上に結ばれ、聖《きよ》さによって既に天に結ばれて、ほとんどある神秘なる昇天の域にまで高められたるもの。
一方においては、声を潜めて互いに罪悪を語り合い、他方においては、高い声で過失を懺悔《ざんげ》する。そしてしかも、いかなる罪悪であり、またいかなる過失であることか!
一方には毒気、他方には言うべからざる香気。一方には、世の視線をへだてられ大砲の下に閉じこめられて徐々に患者を食い荒しつつある精神的疫病。他方には、同じ竈《かまど》の中のすべての魂の清浄なる焔。彼方には暗黒、此方には影。しかも明るみに満ちた影であり、光輝に満ちた明るみである。
いずれも奴隷制度《どれいせいど》の場所。しかし前者には、解放の可能、常に見えている法律上の限界、そしてまた脱走。後者には、終身。そして唯一の希望としては、未来の遠き末端にあって、人が死と称するあの自由の輝き。
前者にあっては、人々は鎖によってつながれてるのみであり、後者にあっては、人々は自分の信仰によってつながれている。
前者から出て来るものは何であるか? 大なる呪詛《じゅそ》、切歯、憎悪、自暴自棄の悪念、人類の団結に対する憤怒の叫び、天に対する嘲笑。
後者からは何が出て来るか? 天の恵みと愛。
しかも、かくも似寄りまたかくも異なれるそれら二つの場所において、かくも相違せる二種の人々は、同じ一事をなしているのである、すなわち贖罪《しょくざい》を。
ジャン・ヴァルジャンは、第一の人々の贖罪、個人的贖罪、自分自身のための贖罪を、よく了解していた。しかし第二の人々の贖罪、何らの難点もなく何らの汚点もない婦人らの贖罪を、了解しなかった。そして彼は一種の戦慄《せんりつ》をもって自ら尋ねた。「何についての贖罪であるか? いかなる贖罪であるか?」
一つの声が彼の内心で答えた。「人間の仁慈のうちで最も神聖なるもの、すなわち他人のための贖罪である。」
ここにはすべて私見的理論を差し控えよう。われわれはただ叙述者に過ぎない。われわれはジャン・ヴァルジャンの立脚地に身を置き、彼の印象を紹介するに止めよう。
自我脱却の崇高なる頂、およそあり得べき最高なる徳の峰を、彼は眼前にながめた。人々にその罪を許し彼らに代わってそれを贖《あがな》うの潔白。自ら罪を犯さない魂によって、つまずける魂を罪より免れしめんがために、甘んじて受けられたる奉仕と呵責《かしゃく》と苦業。神に対する愛のうちに巻き込まれたる人類愛、しかも明らかに区別されて常に哀願せる人類愛。罰せられたる者のごとき惨《みじ》めさと報いられたる者のごときほほえみとを持てるやさしき弱き女性ら。
そして彼は、自らあえて不平をいだいたことがあったのを思い出した。
しばしば真夜中に起き上がって彼は、苛酷なる重荷を負える潔白なる婦人らの感謝の歌に耳を傾けた。そして、正当に罰せられたる人々が天に向かって声を上ぐるのはただ呪《のろ》わんがためのみであったことを思い、惨《みじ》めにも自分もまた神に対してこぶしを差し向けたことを思って、全身の血が凍る思いをした。
特に心を刺す一事で、あたかも親しく天のささやく告戒を聞いたかのように彼を深く夢想に沈めさした一事があった。すなわち、壁を乗り越したこと、墻壁《しょうへき》を脱したこと、生命をもとして冒険を演じたこと、困難な苦しい登攀《とはん》をやったこと、かつて他の贖罪《しょくざい》の場所から脱せんがためになしたのと同様なあらゆる努力、それを彼はこの贖罪の場所にはいらんがためになしたのであった。それは彼の運命の象徴であったのであろうか。
この家もまた一つの牢獄であった。そして彼がのがれてきたも一つの住居と痛ましくもごく似寄っていた。それでも彼は両者同じようだとは決して思わなかった。
彼は再び鉄門と閂《かんぬき》と鉄格子とを見た。しかもそれらはだれを守衛するためであったか? 天使たちをであった。
かつて虎《とら》のまわりにめぐらされてるのを見た高い壁が、今は羊のまわりにめぐらされてるのを、彼は再び見た。
それは贖罪の場所であって、懲罰の場所ではなかった。でもその場所は、より厳格であり、より陰鬱《いんうつ》であり、より無慈悲であった。童貞女らは囚人らよりもいっそうひどく身をかがめていた。寒いきびしい風、彼の青春の時代を凍らしてしまったあの風は、鉄格子《てつごうし》と手錠とで禿鷹《はげたか》の幽閉されてる墓穴の中を吹き過ぎていたが、なおいっそう酷烈悲壮なる朔風《きたかぜ》は、これらの鳩《はと》のはいってるかごの中を吹いていた。
何ゆえに?
それらのことを考える時に、彼のうちにあったすべてのものは、その崇厳なる神秘の前に消散してしまった。
かかる瞑想《めいそう》のうちに、傲慢《ごうまん》の念は消えうせた。彼はあらゆる方面から自分を検覈《けんかく》してみた。彼は身の微弱なるを感じて、幾度か涙を流した。最近六カ月の間に彼の生涯《しょうがい》のうちに入りきたったすべてのものは、あの司教の聖なる命令の方へ彼を導いていった、コゼットは愛によって、修道院は謙譲によって。
時として夕方、薄暮のころ、庭に人影もなくなったおり、礼拝堂に沿ってる道のまんなかに、はいってきたあの夜にのぞき込んだ窓の前に、贖罪《しょくざい》をなしてるあの修道女が平伏し祈祷《きとう》していた覚えの場所の方へ向いて、じっとひざまずいている彼の姿が見られた。そのようにしてあの修道女の前にひざまずきながら、彼は祈念をこらしていたのである。
彼は直接に神の前には、あえてひざまずき得なかったかのようである。
彼を取り巻いていたいっさいのもの、その平和なる庭、そのかおり高き草花、楽しい叫び声を上げるその子供ら、まじめな単純なその婦人ら、黙々たるその修道院、それらは徐々に彼のうちにしみ込んできた。そしてしだいに、その修道院のような沈黙と、その花のような香《かお》りと、その庭のような平和と、その婦人らのような単純さと、その子供らのような喜悦とで、彼の心は作らるるに至った。それからまた彼は、生涯の二つの危機に際して相次いで自分を迎え取ってくれたものは、二つの神の住居であったことを考えた。第一のものは、すべての戸がとざされ人間社会から拒まれた時に彼を迎えてくれ、第二のものは、人間社会から再び追跡され徒刑場が再び口を開いた時に彼を迎えてくれた。第一のものがなかったならば、彼は再び罪悪のうちに陥っていたであろう。また第二のものがなかったならば、彼は再び苦難のうちに陥っていたであろう。
彼の全心は感謝のうちに溶け去り、そして彼はますます愛の念を深くした。
幾年かがかくして過ぎ去った。コゼットもしだいに生長していた。
底本:「レ・ミゼラブル(一)」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年4月16日改版第1刷発行
「レ・ミゼラブル(二)」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年4月16日改版第1刷発行
※誤植の確認に「レ・ミゼラブル(二)」岩波文庫、岩波書店1960(昭和35)年12月20日第15刷、「レ・ミゼラブル(三)」岩波文庫、岩波書店1959(昭和34)年12月10日第14刷を用いました。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年1月15日作成
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