ディカーニカ近郷夜話 後篇 VECHERA NA HUTORE BLIZ DIKANIKI 怖ろしき復讐 TRASHNAYA MESTI ニコライ・ゴーゴリ Nikolai Vasilievitch Gogoli 平井肇訳

03

      一

 キエフの街はづれで、わいわいと騒々しい物音が聞えてゐる。それは哥薩克の大尉、ゴロベーツィが、息子の婚礼の祝宴を張つてゐるのであつた。大尉の邸へは夥しい来客が詰めかけてゐた。昔は何かといへば鱈腹つめこんだものだ。鱈腹つめこむといふよりは、うんと飲んだものだ。うんと飲むといふよりは、羽目を外してドンチャン騒ぎをやつたものだ。ザポロージェ人のミキートカも栗毛の駒に跨がつて、七日七夜のあひだ、波蘭王麾下の貴族たちに血汐の酒の大盤振舞をやつたペレシュリャーイが原から、まつすぐに乗り込んで来た。また、大尉とは義兄弟の契りを結んでゐるダニーロ・ブルリバーシュも、ドニェープルの対岸の、山と山との峡《はざま》にある領地から若い妻のカテリーナと当歳の息子を伴れてやつて来た。客人たちはカテリーナ夫人の雪を欺くやうな顔や、独逸天鵞絨のやうに黒々とした彼女の眉毛や、凝つた上衣《スクニャア》や、浅葱《あさぎ》の古代絹の下袴《ペチコート》や、銀の踵鉄《そこがね》を打つた長靴の素晴らしさに度胆を抜かれたが、それにもまして、彼女の老父がいつしよに来なかつたことを奇異に思つた。その老人が、ドニェープルの対岸に住むやうになつたのは、やつとここ一年ほどのことで、それまでの二十一年間といふものは、全く行方不明になつてゐた。それがやうやく我が娘《こ》の許へ帰つて来た時には、娘はもう嫁入りをして、一人の男の子の母となつてゐた。その老人が来てゐたなら定めし様々の珍らしい物語をして聴かせたことだらう。まつたく、そんなに永らく異端の地で暮したものに、珍らしい話のない筈はない! あちらでは何もかもが異つてゐる。住民もまるで異へば、基督の会堂といふものもない……。だが、しかしその老人はやつて来なかつた。
 客の前へは、乾葡萄と梅の実の入つた混成酒《ワレヌーハ》や、大きな皿にのせた婚礼麺麭《コロワーイ》が運ばれた。楽師どもは暫し音楽をやめ、鐃※[#「金+拔のつくり」、第3水準1-93-6]《ツィンバルイ》や提琴や羯鼓をかたへに置いて、貨幣の焼き込んである婚礼麺麭《コロワーイ》の底を熱心に探つた。一方、新造や娘たちは刺繍《ぬひ》のある手布《ハンカチ》で口ばたを拭つて、再び自分たちの列から前へ進み出た。すると若者どもは両脇に手をかつて、誇りかにあたりへ眼を配りながら、まさに彼女たちを迎へて踊り出さうとした――丁度その時、新郎新婦を祝福するために老大尉が二つの聖像を捧げて現はれた。その二つの聖像は高徳の誉れ高い苦業僧*ワルフォロメイ聖者から授けられたものであつた。それには何らきらびやかな飾りもなく、金銀の燦やきとてはなかつたが、それを我が家に祠る者に対しては、如何なる悪霊も危害を加へることが出来なかつた。今しもその聖像を高くかざしながら、大尉が短かい祈祷をのべようとした、ちやうどその時……地べたに遊び戯れてゐた子供たちが、不意に怯えて、わつと泣き出した。それに次いで、群集がたじたじと後ずさりをしながら、怖れおののいて、一同のまんなかに立つてゐる一人の哥薩克を指さした。それがいつたい何人なのか、誰ひとり知る者がなかつた。だが先刻、哥薩克踊《カザチョーク》を一番、ものの見事に踊つてのけて、自分のぐるりの群衆に何か冗談口を叩いて哄笑を買つた男である。大尉が聖像をさしあげると同時に、突然その哥薩克の顔つきは一変して、鼻が見る見る伸びて一方へ曲り、それまで鳶いろであつた両の眼は俄かに緑いろに変じて、かつと飛びだし、唇はあをざめ、頤がブルブルふるへだすと、まるで矛のさきのやうにとんがり、口からは牙がにゆつと露はれ、頭には瘤が盛りあがつて、その哥薩克はまるで老人の姿に変つてしまつた。

    
ワルフォロメイ聖者 基督の十二使徒の一人、(バルトロマイ)。

「彼奴だ! 彼奴だ!」さういふ叫び声が、互ひにぴつたり躯《からだ》を擦り寄せるやうにした群衆のあひだから聞えた。
「*魔法使《コルドゥーン》がまた現はれたのだよ!」さう叫んで、母親たちは我が児の手をしかと掴んだ。
 大尉は厳かに威儀を正して前へ進み出ると、魔法使《コルドゥーン》の面前に聖像をかざしながら、凛然たる声で言ひ放つた。『消え失せい、悪魔《サタン》の姿め! ここは汝《うぬ》のをるべき場所ではないぞ!』すると怪しい老人は無念さうに呻いて、狼のやうに歯を噛みならしながら、姿を消した。

    
魔法使《コルドゥーン》 悪魔と交通して妖術を体得した人間。

 がやがやと、まるで暴風《あらし》の海のやうに、いろいろの取沙汰や論議が人々の間に持ちあがつた。
「いつたい、その魔法使《コルドゥーン》といふのは何だね?」と、若い連中や、これまでそんなものに出会つたことのない手あひが口々に訊ねた。
「災難が来るだよ!」と老人連は首を振りながら言つた。そして広い大尉邸の中では到るところ、そこここに、五人七人と屯して、人々がこの奇怪な魔法使《コルドゥーン》の物語に聴き入つた。だが、どの話もまちまちで、それに就いては誰ひとり確かなことを語り得るものがなかつた。
 庭へ蜜酒《ミョード》の桶や、幾樽もの希臘葡萄酒が持ち出された。一同は再び浮かれ出した。楽師たちはかまびすしく音楽を奏で、娘や新造や、派手な波蘭服《ジュパーン》を着た哥薩克たちは矢鱈無性に踊りまはつた。九十だの百だのといふ高齢の、よぼよぼした老爺たちまでが、あだには過さなかつた昔日の自慢話に花を咲かせながら、調子に乗つて踊り出した。うたげは深更までも続いたが、その酒宴は、今日みるやうな酒宴とは、てんで趣きを異にしてゐた。やがてお開きといふことになつたが、家へ帰るものはほんの僅かで、多くの者は居残つて、大尉の家の広い庭で夜を明かすことにした。哥薩克どもの大部分は勝手気儘に、腰掛の下へもぐつたり、床の上にころがつたり、馬の脇腹にすり寄つたり、家畜小屋に凭れたりして寝た。つまり酔ひ潰れた哥薩克はゆきあたりばつたりにところきらはず身を横たへて、キエフ全市に轟ろき渡るやうな大鼾きをかきだした始末である。

      

 下界が静かに仄明るくなつたと思ふと、山蔭から月が姿を現はした。恰かも高価なダマスクス産の雪白のモスリンを懸けたやうに、月光が山々の起伏したドニェープルの沿岸をつつむと、山蔭はひときは遠く松柏の森の方へ遠退いた。
 ドニェープルの中流に一艘の独木舟《まるきぶね》が浮かんでゐる。舳先には二人の小者が坐つてをる。彼等は黒い哥薩克帽を片下りにかぶつて、櫂の先きで、燧鉄《うちがね》から散る火花のやうな飛沫を四方へ跳ねあげてゐる。
 何故この哥薩克どもは歌を唄はないのだらう? 彼等はとうに加特力僧《クションヅ》どもがウクライナの地へ侵入して、哥薩克の民を加特力に改宗させつつあることも、二日にわたり、*塩水湖《サリョーノエ・オーゼロ》附近で韃靼の軍勢が干戈を交へたことも口にしなかつた。どうして彼等に歌を唄つたり、勇ましい軍談《いくさばなし》に花を咲かせたりすることが出来よう。彼等の主《しゆう》ダニーロは、じつと物思ひに沈み、その緋色のジュパーンの袖が独木舟の縁から下へ垂れて水をしやくつてをり、また彼等の女主人《をんなあるじ》カテリーナは静かにわが児を揺ぶりながら、良人の顔からじつと眼を放さずにゐるが、彼女の、表布《おもてぬの》をきせぬ粋《いき》な羅紗服《スクニャア》には灰色の塵のやうに水玉が跳ねかかつてゐる。
    
塩水湖《サリョーノエ・オーゼロ》 黒海沿岸の湖で、水に多量の塩
     
分を含むところから、この名がある。
 ドニェープルの只中から望む、高い山々や、広々とした草地や、緑の森の眺めはまことに美しい! その山は、山に見えない。それには山麓といふものがなく、下部《した》も、上部《うへ》と同じく嶮峻な峰であり、その上方にも下方にも高く空が展がつてゐる。丘の上にある森も、森ではない。それは森の大入道の尨毛の頭に生えた髪の毛だ。その首の下部《した》には頤鬚《あごひげ》が水に洗はれてをり、頤鬚《あごひげ》の下も、頭髪《かみのけ》の上も高い青空だ。また草原も、草原ではなく、それはまんまるな空の中腹をとりまく緑の帯で、上の空にも下の空にも、それぞれ月がかかつてゐる。
 ダニーロは辺りには眼もくれず、自分の若い妻をじつと眺めてゐた。「いとしい妻、カテリーナ、お前は何をふさぎ込んでゐるのだ?」
「まあ、ダニーロ、あたしふさぎ込んでなぞゐませんわ! あたしは、あの不思議な魔法使《コルドゥーン》の話にすつかり脅かされてしまひましたの。あれは生まれるとから、あんな怖ろしい姿をしてゐて……子供たちも幼い頃から一緒に遊ぶのを嫌つたといふではありませんか。ね、あなた、まあ何て怖い話でせう、彼にはしよつちゆう、人が自分を嘲けつてゐるやうに思へるらしいんですつてね。暗い夜、誰かに出会つたりすると、彼にはその人が大口をあき、歯を剥き出して嘲笑つてゐるやうに思はれるのですつて。そして翌る日には、屹度その人は死骸になつて発見されるのですつてね。あたしその話を聞いた時、ほんとに不思議な、怖ろしい思ひがいたしましたわ。」
 かう語りながら、カテリーナは手巾《ハンカチ》を取り出して、自分の腕に眠つてゐる我が子の顔を拭つた。その手巾には彼女の手づから紅い絹絲で木の葉と木実《このみ》が刺繍《ぬひと》つてあつた。
 ダニーロは何の応へもせず、一方の、遠く森のうしろから土塁が黒々とつづいて、その向ふに古い城塞の聳えてゐる闇の中へ眼を凝らしはじめた。と、彼の眉の上には三本の皺が一時に刻まれた。その手は雄々しい口髭を撫でてゐる。「魔法使《コルドゥーン》が、何もそれほど怖しいのではない。」と彼は呟やくのだつた。「奴がもし敵の間者《まはしもの》だつたら大変なのだ。いつたいどうして奴はこの辺をうろつく気になりをつたのだらう? 波蘭人どもが、われわれとザポロージェ人との連絡を断つために、砦《とりで》を築く計画を立ててをるといふ情報も入つてゐる。もしそれが事実であつたなら……。どこかに奴の巣窟があるといふ評判でも聞えたなら、おれがその魔窟を蹴散らして呉れるわ。あの魔法使《コルドゥーン》の古狸めを焼き殺して、鴉にもついばませることぢやないぞ。だが、奴は必らず金銀財宝を貯へてゐるに違ひない。そら、あの悪魔が巣くふところは彼処《あすこ》だ! 奴めが金銀を貯へてをるとすると……。もうぢき十字架の傍を通りすぎる筈だが――あれは墓場だ! あの下で奴の穢れた先祖どもが腐つてをるのだ。なんでも、彼奴の先祖は、どいつもこいつも僅かな端た銭のために、霊魂とぼろくそなジュパーン諸共、平気で、おのれを悪魔に売り渡したといふことだ。果して彼奴が黄金を貯へてをるとすれば、もはや一刻も猶予すべきではないぞ――戦争をしてもいつも儲かる時ばかりはないのだから……。」
「まあ、あなたが何を企らんでいらつしやるのか、あたし存じてをりますわ。魔法使《コルドゥーン》に会つたのが悪い辻占でしたわ。それにしても、あなたはまあ、そんなに深い溜息を吐《つ》いたり、嶮しい眼つきをなすつて、お眉が、ほんとに気むづかしさうに眼の上へ押しかぶさつてゐますわ!……」
「女子《をなご》は黙つてゐろ!」と、ダニーロはむつとして、「お前たちにかかづらはつたが最後、こちらまで女《あま》つ子にされてしまふ。おい、こら、煙草の火をかせ!」さういつて、彼は舵子《かこ》の一人に顔を向けた。と、その小者は自分の煙草の火をほじり出して、主人の煙管へ移した。「魔法使《コルドゥーン》でおれを嚇しをるのさ!」と、ダニーロは言葉をついだ。「われわれ哥薩克は、有難いことに、悪魔や加特力僧《クションヅ》などにびくともするもんぢやないて。いちいち女房どもの言ひなりになつてゐたらさぞかし好からうけれど、なあ、さうぢやないか。おれたちの女房といへば――煙管と、この業物《わざもの》の他にはない筈だ!」
 カテリーナは口を噤んで、まどろむ水面に瞳を落した。川風が水面に小波を立てて、ドニェープルの流れは、夜半に見る狼の毛並のやうに一面に銀色を帯びた。
 独木舟《まるきぶね》はカーヴをまがると、樹木の生ひ繁つた河岸に沿うて馳つた。その河岸には墓地が見えて、古びた十字架が一塊り林立してゐた。そこには*肝木《カリーナ》一本、青草一筋なく、ただ月のみが高い天上から十字架を照らしてゐるばかりであつた。

    
肝木《カリーナ》 忍冬科の落葉灌木。

「おい、聞えるだらう、あの呼び声が? 誰かおれたちに助けを求めてをる!」と、ダニーロが舵子の方を顧みて言つた。
「呼び声が聞えてをります。どうやらあちらの方かららしうございます。」と小者たちは異口同音に、墓地を指さしながら答へた。
 しかし、あたりは以前の静寂にかへつた。舟は方向を転じて、突出した陸地に沿うて迂囘しつつあつた。突然、舵子どもは櫂もつ手をさげ、息を殺して、じつと眼をみはつた。ダニーロもハッとばかり固唾をのんだ。怖れと寒けがゾッと哥薩克|男子《をのこ》の背筋を走つた。
 一つの墓のうへの十字架がゆらゆらと揺れたかと思ふ途端に、乾からびた死人が、墓の中からすうつと立ち上つたのだ。頤鬚が帯のあたりまでも垂れ、長く伸びた指の爪は、指そのものより揺かに[#「揺かに」はママ]長い。そろそろと彼は両手をさしあげた。と、彼の顔ぢゆうがぶるぶる顫へ出して、醜くひん曲つた。おそろしい苦痛を堪へ忍んでゐるらしい様子だ。『ああ息苦《くる》しい、息苦《くる》しい!
』さう、彼は人間らしくない奇怪な声で呻いた。その声は刃《やいば》のやうに人の胸を貫いた。が、不意に死人は地の下へ消え失せてしまつた。すると次ぎの十字架がゆらゆらと揺れだして、前のより、もつと怖ろしく、もつと背の高い死人が現はれた。全身が毛だらけで、頤鬚は膝までもとどき、骨のやうな爪は前のより更に長くのびてゐた。彼は一際もの凄い声で 『息苦《くる》しい! 』と叫ぶと、地下へ戻つて行つた。三番目の十字架が揺れ出して、三人目の死人が立ちあがつた。それはまるで骸骨だけが地上たかく突つ立つたもののやうに見えた。頤鬚は踵までもとどき、長く伸びた指の爪はまだ地中へ突きささつてゐた。彼はさながら月を掴まうとでもするやうに、怖ろしい勢ひで両手を高く差し上げると、その黄ばんだ骨を挽き切られでもするやうな、苦しげな叫び声をあげた……。
 カテリーナの腕に眠つてゐた幼子は、わつと泣き声をあげて眼をさました。彼女も思はずあつと叫んだ。舵子《かこ》はドニェープルの河なかへ帽子を取り落してしまつた。ダニーロもぶるつと身を顫はせた。
 だが、すべては忽ち跡形もなく消え失せた。しかし舵子どもは暫しのあひだ櫂を手に執らうともしなかつた。ブルリバーシュは、泣き叫ぶ幼子を抱きしめて怯えながらゆすぶつてゐる若い妻を、気づかはし気に眺めやり、彼女を胸もとへ引きよせて、その額に接吻した。
「怖がることはないよ、カテリーナ! 御覧、何もありやしないぢやないか!」さう彼は辺りを指さしながら言つた。「あれは魔法使《コルドゥーン》めが、自分の穢らはしい巣窟の在所《ありか》を知られまいとして、人を脅しをるのだよ。こんなことでビクビクするのは女《あま》つこばかりだ! さあ、坊やをこちらへおよこし!」
 かう言ふと同時にダニーロは我が子を抱きあげて、自分の唇へと近づけながら、「どうだ、イワン、坊やは魔法使《コルドゥーン》なんぞ怖くないだろ? 怖くないよ、お父ちやん、おれは哥薩克だものつて言ひな。さあ、もう泣くのは沢山! おうちへ帰るんだよ! お母ちやんが粥《カーシャ》を拵らへて呉れるよ、さうして揺籃《ゆりかご》の中へ坊やを寝かして、かう唄ふよ。

ねんねんよう、おころりよ!
坊やはよい子ぢや、寝んねしな!
大きくなつたら、よく遊び!
立派な哥薩克になつたなら、
悪い敵をば攻め伏せな!

「なあ、カテリーナ! どうもお前の阿父《おとつ》つあんは俺らと仲よく暮すのが、面白くないらしいぢやないか。帰つて来た時からして、妙に気難かしく、まるで何か怒つてゐるやうに刺々《とげとげ》してゐる……。何か不服なんだよ――それならなぜ戻つて来たんだらう? 哥薩克の自由のために乾杯することも快しとしないのだ! 孫を抱いて揺ぶらうともしない! はじめ俺は何もかも胸を割つて、あのひとに打明けるつもりだつたが、どうも気が進まなくて、口へ出かかつた言葉もひつ込んでしまつたのさ。いや、あのひとには哥薩克魂といふものがないのだ! 哥薩克魂といふものは、いつ、何処で、でくはしても、必らず互ひの胸から胸へ通じ合ふものだ! どうだ、皆の者、もうぢき陸だらう? よしよし、帽子は新らしいのをやるよ。ステツィコ、お主《ぬし》には金飾りのついた天鵞絨《びらうど》表のをやるぞ、それは俺が韃靼人から首もろともに※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]ぎ取つたやつだ。そ奴の武器《もののぐ》は何ひとつ残さず手に入れたが、ただ奴の魂だけは見のがして呉れたわい。さあ、舟を繋いだ! そうら、イワン、お家へ帰つたんだよ、それだのにお主は泣いてばかりをる! さあ、カテリーナ、坊やをおとり!」
 一同は舟を降りた。山峡《やまかひ》に藁葺きの屋根が見え出した。それがダニーロの父祖から伝はる屋敷である。屋敷の後ろに、もう一つ山があるが、それから先きは一望ただ野原で、百露里歩いても哥薩克ひとり見いだすことは出来ないのである。

      

 ダニーロの屋敷は、二つの山に挟まれてドニェープルの方へさがつてゐる谷あひにあつた。屋形は建《たち》が低く、家の外観は普通の哥薩克の住居と同じで、居間はただ一つきりであつたが、主人《あるじ》夫妻に、老婢と、選り抜きの郎党十人ばかりの者が身をおくだけの余地はあつた。四方の壁の上部には樫板の棚がずつと吊りわたしてある。その上にはところせまく、鉢だの、食物を入れる壺の類が並んでゐる。さういふ物のあひだには、銀製の台附洋杯だの、金を鏤ばめた酒杯などもあるが、それは、贈物として貰つたもの以外は、みな戦利品である。棚の少し下には高価な小銃や刀劔、拳銃、投槍の類が懸つてゐる。それらは韃靼人や土耳古人、波蘭人等から有無をいはさず分捕つた品で、従つてぼろぼろに刄がこぼれてゐる。さうした品々を眺めると、ダニーロにはまるで符牒でも見るやうに、自分が敵と渡り合つた時の有様が思ひ出されるのであつた。壁の裾には滑らかに削つた樫の腰掛が取りつけてあり、それに近く、寝棚《レジャンカ》の前には揺籃が、天井に打ちつけた環に、紐をとほして釣つてある。居間の床は全体が粘土の敲土《たたき》で、滑らかに塗り固めてある。ダニーロと妻とは腰掛の上に、老婢は寝棚《レジャンカ》に眠り、揺籃の中ではいたいけな幼子がすやすやと寝息をたて、床《ゆか》の上にはつはものどもが押しならんでごろ寝をしてゐる。だが、哥薩克にとつては寧ろ、自由な蒼穹《あをぞら》の下なる平地で寝る方が好ましい。柔かい羽根蒲団は彼等に用がない。新鮮な乾草を枕に、青草の上に長々と手足を伸ばすのだ。半夜めざめて星屑の散乱する高い大空を眺めながら、哥薩克|男子《をのこ》の骨の髄まで爽々しく浸みとほる冷たい夜気にブルッと身震ひを覚えるのが彼等には何より快いのだ、伸びをして、夢見心地で何か呟やきながら、彼等は一服喫ひつけてから、温かい皮裘《コジューフ》にひしと身をくるむのである。
 前日の歓楽の疲れから、ブルリバーシュが眼を醒ましたのはもうかなり遅かつた。彼は起きあがると片隅の腰掛に坐つて、新らしく交易した土耳古刀を磨きはじめた。一方、カテリーナは金絲で絹の手巾《ハンカチ》に刺繍《ぬひとり》をしにかかつた。
 そこへ突然、南蛮渡りの煙管を銜へて、むつつり渋面をした、カテリーナの父親が入つて来て、娘の傍へ近づきざま、昨夜《ゆうべ》はどうして、ああ帰りが遅かつたのだと厳しく詰問しはじめた。
「阿父《おとつ》つあん、そのことなら、カテリーナよりも、この私に訊ねて頂きませう! 女房ではなく、良人が責任を負ふ。それがわれわれのならはしですから、どうか悪く思はないで下さい!」と、自分の手は休めようともせずに、ダニーロが言つた。「どこかの異端の国では、多分そんなならはしはないかも知れませんがね。」
 いかつい舅の顔は赫つと朱をそそぎ、両の眼が怪しく閃《きら》めいた。「父親がわが娘《こ》の監督《みはり》をせずに誰がするのぢや!」と彼は口の中で呟やくやうに言つた。「ぢやあ、お主に訊くが、夜更までいつたい何処をうろついてをつたのぢや?」
「ああ、そのことなんで、お父《とつ》つあん! そのお訊ねに対する返辞なら、かう申し上げるだけで沢山でせう――あつしやあね、もう疾《とう》の昔からむつきの厄介にはなつてゐませんよ。馬の背に跨がる心得もあり、長い利劔《わざもの》を手にするすべも弁へ、まだその上に若干のたしなみもある……何をしようと、ひとに憚るところはありませんのさ!」
「さては、ダニーロ、お主は喧嘩を売る気だな! ひとの眼を盗む奴の肚には得て悪だくみがあるものぢや。」
「何とでも好きなやうに思ひなさるがいい。」と、ダニーロが言つた。「私には私の考へがある。お蔭で、一度もまだ後ろ暗いことをした覚えはない。常住、正教と祖国のために身を持して来たつもりだ。そんじよそこいらの悪党みたいに、われわれ正教徒が悪戦苦闘してゐる間ぢゆう、とてつもない処をうろつき廻つてゐて、いい程たつてから、だしぬけに、他人《ひと》の蒔いた麦を喰ひ潰しに戻つて来るやうな手合とは、チトわけが違ふのだ。そ奴らと来ては、改宗者よりも劣りで、神聖《あらたか》な神の教会を覗かうともしくさらぬ。そんな奴らこそ何処をうろつき
廻つてゐたのか、糾明せずばなるまいて。」
「えい、哥薩克! 知つてをるか……俺の射撃はあまり上手ではないが、百間以上はなれて心の臓を撃ち抜くことが出来るのぢやぞ。あまり香ばしい手の内でもないが、人のからだを粥に炊く輾麦より細かく截りきざむくらゐは、いと易いことぢや。」
「言ふにや及ぶ。」かう叫びざま、ダニーロは勇壮に長劔をかざして宙に十字を切つた。それはさながら、何のために劔を磨いてゐたかを、ちやんと知つてゐたといふ面持であつた。
「あなた!」と、良人の腕を抱《かか》へて、ぶらさがるやうにしながら、カテリーナが甲高く叫んだ。「まあ、とんでもない、あなたは誰に刄《やいば》を向けようとなさるのか、落ちついて、よく御覧なさいませ! 阿父さん、あなたもあなたです。その雪のやうな白髪にも恥ぢず、まるで無分別な若者か何ぞのやうに、とりのぼせておしまひになつて!」
「カテリーナ!」と、ダニーロは、けはしく叫んだ。「俺がさういふことを好かぬことは、お前も知つてをる筈だ。女は女だけのつとめを弁へてをればよい!」
 劔と劔とが物凄く鳴り響き、鉄と鉄とが切り結ばれて、二人の哥薩克は飛沫《しぶき》のやうな火花を身に浴びた。カテリーナは泣き泣き離舎《はなれや》へ逃れると、寝台へ身を投げて、切り結ぶ刄音を聞くまいとして耳を蔽うた。しかし、哥薩克同士の目ざましい渡りあひの物音は打ち消すべくもなかつた。彼女の胸は千々に砕け、カチあふ刄音に五体が顫いた。『いいえ、もうもう我慢が出来ない……ひよつとしたら、もう白い肌から紅い血潮がふき出してゐるかもしれないのに、どうして、こんな処でうつぷしてなどゐられよう!
』さう呟やいて、真蒼になつた彼女は息せき切つて母屋へ走り込んだ。
 二人の哥薩克は何れ劣らず、烈しく切り結んでゐた。どちらに優り劣りがあるでもなかつた。カテリーナの父親が打ち込むと見るや、ダニーロは身をかはし、ダニーロが攻勢に出るや、形相すさまじい舅は後|退《ずさ》りをして、再び互格に返る。双方とも苛立つて来る。サッと切り結んだ……あつ! 双方の刀身が唸りを立てて、そつぱうへけし飛んだ。
「まあ、よかつた!」さう口走つたカテリーナは、哥薩克たちが小銃を手にして向ひあつて立つた姿を見て、再び金切声をあげた。二人は燧石を改め、撃鉄をあげた。
 先づダニーロが火蓋をきつた――しかし弾はあたらなかつた。舅が狙ひを定めた……。彼は老齢で視力も若者のやうに確かではなかつたが、その手もとは微動だにしなかつた。引鉄がひかれて、轟然たる銃声が鳴り響いた……。ダニーロはたじたじと後へ退つた。紅《くれなゐ》の鮮血がジュパーンの左袖を真赤に染めた。
「いや!」と、彼が叫んだ。「これしきのことで俺はまゐりはせぬ。左手は主ではない、右手が頭目《アタマン》だ。あの壁に土耳古の拳銃が懸つてをる。まだこれまで、一度も俺の意に逆いたことのない奴だ。さあ壁から降りて来い、俺の古い仲間よ! そして俺に忠勤を示すのだ!」
 ダニーロは手を伸ばした。
「あなた!」おろおろ声でさう叫びざま、カテリーナは良人の手にすがつて、その足もとに身を投げた。「自分の身のためにお願ひするのではありません。あたしはどうせ破滅するだけのことです。妻が良人の後に生き残つて何になりませう。ドニェープルが、あの冷たいドニェープルがあたしの墓場になるだけのことです……。けれど、坊やのことを考へてやつて下さい。ダニーロ、坊やのことを! 誰がふしあはせなあの子を温めて呉れませう? 誰があの子に、黒馬《あを》の背に跨がつて疾駆したり、自由と信仰のために戦ふすべを、哥薩克らしい酒の呑み方を、遊蕩の味を、教へて呉れませう? 死んでおしまひ、坊や、死んでおしまひ! お前のお父さんはお前なんかどうなつてもいいのだつて! そら御覧、あんなにお父さんは顔を反けていらつしやるでしよ。ああ、今こそあなたといふ人がよく分りました! あなたは獣《けだもの》です。人間ではありません! あなたの胸には狼が棲み、こころには蛇蝎《へび》が巣くうてゐるのです! あたしは、あなたの胸にも一滴の慈悲があり、盤石のやうなそのおからだにも人間らしい情けが燃えてゐるのだと思つてをりましたの。あたしはまあ、何てたわいなく欺されてゐたことでせう。あなたにはそれが、さぞ可笑しいでせうよ。あの無信仰な波蘭人の獣たちが、あなたの息子を火焔のなかへ投げ込んだら、そして坊やが刄《やいば》や鉛の熱湯の下で泣き叫ぶのが聞えたら、あなたの骸骨は嬉しさのあまり、棺桶の中で踊りだすことでせうよ。ええ、ええ、あたし、あなたといふ方がよく分りました! 屹度あなたは、喜んで棺の中から立ちあがつて、坊やの下で燃え盛る火を、帽子であふぎ始めなさいますでせうよ!」
「待つて呉れ、カテリーナ! 愛《いと》しいイワンや、此処へおいで、お父さんが接吻してやらう! どうしてどうして、坊やの髪の毛一筋だつて他人《ひと》に触らせることではないぞ。坊やは祖国の栄誉のために大きくなるのだ、そして天鵞絨の帽子をかぶり、鋭い長劔《サーベル》を手にかざして、哥薩克の先頭に立ち、旋風のやうに疾駆するのだよ。阿父さん、どうかお手を出して下さい! 今度のことはきれいに忘れませう! あなたに対して不遜な態度に出たことは、お詫びします。どうです、お手を下さらないのですか?」とダニーロは、ひとつところに突つ立つたまま、その顔に怒りの色も和解の容子も表はさないカテリーナの父親にむかつて言つた。
「お父さん!」と、カテリーナも父親を抱擁して接吻しながら叫んだ。「そんなに頑《かたく》なにならずに、ダニーロを赦してやつて下さい。この先きお父さんを苦しめるやうなことは決してしないでせうから!」
「ただお主《ぬし》に免じて勘弁してやらう!」と、娘を接吻しながら、怪しい光りをその眼に漂はせながら父親が答へた。
 カテリーナは少し身震ひを感じた。その接吻といひ、その怪しげな眼の光りといひ、彼女には不可解なものに思はれたからである。彼女は卓子に肘をついた。その卓子の上では、何ら身に疚しいところもなく赦しを乞ふなど、哥薩克らしくもない、へまなことをしたものだと、返す返すも無念に思ひながら、ダニーロが傷ついた手に繃帯を巻いてゐた。

      

 夜は明けたが、陽の目も見えず、空は掻き曇つて、細かい霧雨が、野や森や、広漠たるドニェープルの上に降り灑いでゐた。カテリーナは眼を覚ましたが、心はむすぼれてゐた。眼も泣き腫し、全体に取り乱して、彼女は落つきを失つてゐた。
「まあ、あなた、いとしいあなた、あたし不思議な夢を見ましたの!」
「どんな夢を見たのだい、カテリーナ?」
「ほんとに変な夢ですの、ほんとに、まるで現つのやうにまざまざと、あの大尉《エサウル》のところで見たばけものが、実はあたしの父なんですの。でも、どうか、こんな馬鹿げた夢なんかほんとにしないで下さいな! 何だかあたし、そのひとの前に立つてゐたやうなんですの。怖ろしさに躯《からだ》ぢゆうをわなわな顫はせて、そのひとのいふ一言一句に身内の呻くやうな思ひをしながら。まあ、そのひとの言つたことをあなたがお聞きなすつたなら……。」
「どんなことを言つたといふのだい、カテリーナ?」
「かう言ふのです、
『カテリーナ、俺の顔をよく見るがよい。どうぢや、俺は美男ぢやらうが! 俺を醜男《ぶをとこ》だなどと、他人《ひと》はくだらぬことを言ひをる。けれど、俺はお前にとつて立派な良人になれるのぢや。そうれ見るがよい、この俺の眼つきを! 』――さう言つて、そのひとは火のやうな眼差をあたしに注ぎました。それであたし、あつと声を立てたら、眼が覚めましたの。」
「さうだ、夢はよく真実を語るものだ。それはさうとお前、山むかふが穏やかでないことを知つてをるか? またしても波蘭の奴らが、ちよいちよい隙を窺ひはじめをつたらしいぞ。ゴロベーツィが使ひをよこして、俺に夜は眠るなといつて来たが、彼の心配は無用だ。俺は、さう言はれるまでもなく、眠つちやあゐない。うちの郎党《わかもの》どもは、昨夜のうちに鹿砦を十二まで設けたのだ。今に波蘭の雑兵どもには鉛の梅干をふるまひ、貴族たちには棍棒を喰はせて、一舞ひ舞はせてくれるわい。」
「で、お父さんはそのことを知つてゐるでせうか?」
「その舅《おやぢ》さんが俺の頭痛の種だて! 俺は今だにあのひとの根性を突き止めることが出来ないのだ。どうせ外国では、いろんな罪を犯して来たことだらうが、ほんとに、何だつて、かれこれひと月にもなるのに、一度も堅気な哥薩克らしい陽気な顔を見せないのだらう? 蜜酒さへ嫌つて飲まないのだ! いいかえ、カテリーナ、俺が*ブレストの猶太人からぶんどつて来た蜜酒さへ飲まないんだよ。こら、若者!」と、ダニーロは叫んだ。「穴倉へ一走《ひとつぱし》り行つて、猶太の蜜酒を持つて来い! それに火酒《ウォツカ》も飲まないんだ! 変てこな話さ! 主、基督をすら、あのひとは信じてゐないらしいよ、カテリーナ。ううん? お前はいつたい、これをどう思ふ?」
    
ブレスト 正しくはブレスト・クヤフスキイと言ひ、波蘭ワルシャフ
     
スカヤ県下にある猶太人町。
「まあ、ダニーロ、あなたは何といふことをおつしやるのです!」
「だつて、をかしいぢやないか!」と、小者から土器の水呑を受け取りながら、ダニーロは言葉をついだ。「異端の加特力教徒でも、火酒に眼がないのだ。飲まないのは土耳古人だけさ。どうだ、ステツィコ、穴倉でしこたますすつて来をつたな、お主《ぬし》?」
「ほんのちよつぴり、塩梅を見ましただけで、旦那!」
「嘘をつけ、碌でなしめ! 貴様の髭に蠅が一杯たかつとるぢやないか! お主のその眼つきでは、どうやら半樽は空《から》にして来たらしいぞ。ええつ、哥薩克、哥薩克! 何といふ勇ましい国民だらう! 何でも吝まず仲間に分ける癖に、酒のこととなると意地ぎたないのだ。カテリーナ、俺もずゐぶん久《しば》らく酔ひ心地にならなかつたやうだな。え?」
「まあ、ほんに長いことですわ! まだ、昨日……。」
「ううん、心配するな、心配するな、一杯よりは呑まぬから! おや、土耳古の僧正《イグーメン》の御入来だよ!」と、彼は舅が身を屈めて戸口から入つて来るのを見て、忌々しさうに言つた。
「これは又どうしたことぢや、娘!」と、父親は帽子を脱いで、珍らしい宝石入りの長劔《サーベル》を釣つた帯皮を直しながら、言つた。「もうこんなに日が高いのに、お前の家では午餐《ひるめし》の支度も出来てをらんぢやないか。」
「午餐《おひる》の用意は出来てゐますよ、お父さん、すぐに出しますわ! これ、煮団子《ガルーシュキ》の壺を下しておいで!」とカテリーナは、木の器を拭いてゐる老婢に向つて、「いいえ、お待ち、あたしがおろした方がいいから。」と言葉をつづけた。「お前は若い者たちを呼んでお呉れ。」
 一同は車座になつて床に坐つた。聖像下《ポークト》に面して父親が、その左手にはダニーロが、右手にはカテリーナと、それに続いて十人の最も信任の厚い郎党が、青や黄のジュパーンを著て居流れた。
「わしはこの煮団子《ガルーシュキ》といふものを好かんのぢや!」と、父親は一と口食つて見てから、匙を下に置いて言つた。「味もそつけもないもんぢや!」
『へん、お前さんにやあ、猶太人の索麺《ラプシャ》が気に入るだらうて。』と、ダニーロは心の中で呟やいたが、口に出しては、「どうして阿父さんは煮団子《ガルーシュキ》を美味くないなどとおつしやるのです? うちのカテリーナは大総帥《ゲトマン》でも滅多に口にすることの出来ないやうな煮団子《ガルーシュキ》を拵らへるのですよ。どうしてどうして、難癖をつけるどころではありませんよ。これは正教徒の食物《たべもの》です! 聖者や使徒たちも、みんな煮団子《ガルーシュキ》を食つたのです。」
 父親は一言の応へもしなかつた。ダニーロも口を噤んだ。
 玉菜と杏子を詰めた豚の丸焼が出た。
「わしは豚は嫌ひぢや!」と、父親は匙で玉菜を掻き出すやうにしながら言つた。
「どうしてまた豚が嫌ひなんです?」と、ダニーロが言つた。「豚を食はないのは土耳古人と猶太人だけですよ。」
 父親は一層けはしく渋面をつくつた。
 老父は乳入りの*レミーシュカだけを食べて、火酒のかはりに、懐ろから何か黒い水のやうなものの入つた壜を取り出して呑んだ。
    
レミーシュカ 麦粉で作つた粥のやうなもの。

 午餐の後で、ぐつすり一と眠りしてダニーロが目を覚ましたのは、もう夕方だつた。彼は卓子に向つて、哥薩克の軍営へ送る報告を認ためにかかつた。カテリーナは寝棚《レジャンカ》に腰かけて、片足で揺籃をゆすりはじめた。ダニーロは坐つたまま、左の眼で運筆を見ながら、右の眼では窓の外に注意を払つてゐた。窓の外には、遠くの山々やドニェープルが、月光を受けて輝やいてをり、ドニェープルの彼方には森が青ずみ、上には晴れ渡つた夜空が仄かに見えてゐた。だが、ダニーロは、遥かなる空や青ずんだ森を嘆賞してゐるのではなかつた。彼は、突き出た岬に黒く浮かんだ古い城砦を眺めてゐたのである。彼の眼にはその城砦の狭い小窓からパッと灯りが映したやうに思はれた。だが、あたりはひつそりして何の変りもない。多分それは彼の気のせゐだつたのだらう。ただ下の方からドニェープルの騒音がぼんやり聞えるのと、束の間づつ喚び醒まされる波の音が次ぎ次ぎに三方から谺《こだま》して来るばかりである。ドニェープルは何ら狂奔することなく、老人のやうにくどくどと呟やいてゐるが、彼には見るもの聞くもの悉くが気に染まぬらしい。今や彼の周囲はすべてが変つてしまつた。ドニェープルはひそかに、沿岸の山や森や草原に怨恨をいだき、彼等に対する不平を黒海にむかつて訴へてゐるのである。
 と、洋々たるドニェープルの河面に、黒点のやうに一艘の小舟が浮かび出た。同時に、城砦で、またもや何かピカリと光つたやうだ。ダニーロはそつと口笛を鳴らした。するとその口笛に応じて忠実な小者が駈けつけた。
「ステツィコ、急いで、研ぎたての長劔《サーベル》と騎銃《ムシュケート》を持つて俺の後からついて来い!」
「お出かけ?」とカテリーナが訊ねた。
「ちよつと行つて来るよ、女房。あちこち一と通りみまはつて来にやならん、何処にも異状がないかどうか。」
「でも、あたしひとり残るのは怖ろしうございますわ。何だか眠気が催してなりませんけれど、また同じやうな夢を見たらどういたしませう? あたし、あれが夢だつたのか、現つだつたのか、それさへ疑はれてならないのですもの。」
「婆やがお前といつしよにゐるぢやないか、それに玄関や庭には郎党《わかもの》たちが寝てをるし!」
「婆やはもう寝《やす》んでしまひました。それに郎党《わかもの》たちも、なんだか頼りにはなりませんわ。ねえあなた、あたしを部屋の中へ閉ぢこめて、錠を下して鍵をちやんと持つてお出かけ下さいましな。さうすれば、幾らか怖くございませんから。そして郎党《わかもの》たちを戸口の前に寝《やす》ませておいて下さいまし。」
「どうなりと、好きなやうにするさ!」さう言ひながらダニーロは、騎銃の埃りを拭いて火皿へ火薬を注ぎ込んだ。
 忠実なステツィコは、早くも哥薩克の武装に身を固めて立つてゐた。ダニーロは毛皮の帽子をかぶると、窓を閉ぢて、扉に閂を插
し、錠を下しておいて、郎党どもの寐てゐる間を通つて、そつと邸を抜け出すなり、山の中へと忍び込んだ。
 空もおほかた晴れ渡つた。爽々しい夜風がそよそよとドニェープルの方から吹いて来る。遠くで鴎の声さへ聞えなかつたなら、万象《ものみな》が唖になつたのかとも思はれたであらう。ところが、ふと何かがさごそいふ物音が聞える……。ブルリバーシュは忠実な下僕といつしよに、そこに設けられた鹿砦を翳してゐる荊棘のしげみへそつと身を潜めた。誰か、赤いジュパーンを著た男が、腰には長劔を釣り、拳銃を二挺もつて山を降りて行く。
「親爺だな!」と、しげみの蔭からじつとそれを眺めながらダニーロが呟やいた。「今ごろ何の用で、何処へ行くのだらう? ステツィコ、油断なく、あの親爺の行く先を、よくよく二つの眼で見とどけろよ。」
 赤いジュパーンの男は河岸の端れまで行くと、突きでた岬の方へ曲つた。
「あ! あちらだ!」と、ダニーロが言つた。「どうだ、ステツィコ、てつきりあれは、洞窟《あな》の魔法使《コルドゥーン》のところへ忍んで行くやうだなあ?」
「はい、屹度さうです。ほかへ行くのではありませんよ、ダニーロの旦那! でなければ、あんな方角へ曲る筈がありません。だが、城砦《とりで》の辺で見えなくなりましたよ。」
「待て待て、先づここを出よう。そして後をつけて行くんだ。これには何か、いはくがあるぞ。見ろカテリーナ、俺が言つたらうが、お前のおやぢはまつすぐな人間ぢやないつて。彼のすることなすことが、正教徒とはうらはらだものなあ。」
 やがてダニーロと彼の忠実な下僕とは、突き出た河岸の上に姿を現はした。おや、もうそれも見えなくなつた。城砦《とりで》を囲んで永遠の眠りに沈んだやうな森が、二人を呑んでしまつたのだ。と、上の小窓がほんのりと明るくなつた。その下に佇んだ二人の哥薩克は、どうして攀ぢ登らうかと思案にくれた。門もなく、入口も見えぬ。中庭からは確かに入口がある筈だけれど、そこへ入るにはどうしたものか? 遠くから鎖の鳴る音と、犬の駈ける気配が聞える。
「俺は何をぐづぐづ考へてゐるのだ?」とダニーロが、その窓の前にある高い樫の樹を見あげながら言つた。「これ、お主はここに待つてゐろよ! 俺はこの樫の樹へのぼるのだ、ちやうど、まともにあの窓を覗きこむことが出来さうだから。」
 そこで彼は帯を解き、音のしないやうに長劔を下におろして、枝に手を掛けると、するすると木へ登つて行つた。窓はやはりまだ明るかつた。窓の間近の木の股に腰を据ゑ、片手で幹につかまつたまま、そつと覗くと、部屋の内には別に灯火《ともしび》があるわけではないのに、それでゐて明るい。壁には奇怪な符号が描いてあり、甲冑が懸けてある。それはどれもこれも、基督教徒や愛すべき瑞典人といふに及ばず、土耳古人もクリミヤ人も、波蘭人さへ用ゐない、まつたく異様な品である。天井の下を前後に蝙蝠がひらひらと飛翔して、その影が壁や扉や床にゆらゆらと落ちる。ふと、扉が音もなく開いた。誰か赤いジュパーンを纒つた人間が入つて来て、つかつかと白い卓布を掛けた卓子に近づいた。
※[#始め二重括弧、1-2-54]やつぱり親爺だ!※[#終わり二重括弧、1-2-55]ダニーロは少し首をすくめて、ぴつたりと幹に躯《からだ》をすり寄せた。
 しかし舅には、窓の外から人が覗いてゐようなどと心を配る余裕はなかつた。彼は陰気な、不機嫌さうな顔をして、いきなりその卓子から卓布を剥ぎ取つた――と、急に、音もなく部屋ぢゆうに透明な空いろの光りが漲《みなぎ》りわたつた。そして蒼ざめた前の金いろの光りはそれと融《と》けあはずに、ゆらゆらと、さながら青い海底へ沈むようにたゆたひながら、あたかも大理石の波紋のやうな層を形づくつた。そこで彼は卓子の上に一つの壺を置いて、その中へ何か、草のやうなものを投げ込んだ。
 ダニーロはじつとそれを見まもつたが、気がつくと、その男はもう、赤いジュパーンを著てゐるのではなく、そのかはりに土耳古人が穿いてゐるやうなだぶだぶの寛袴《シャロワールイ》を穿き、帯には拳銃を吊り、頭には一種異様な、一面に露西亜文字とも波蘭文字ともつかぬ文字で書き埋めた帽子を冠つてゐた。じつと顔を見つめてゐると、その顔の容子が変りだした。鼻がによきによきと伸びて口の上へ垂れ下り、口は見る見る耳の根もとまで裂け、牙が一本にゆつと露はれて一方へ曲つた。見れば、そこには、大尉の家の婚礼に姿を現はした、あの同じ魔法使《コルドゥーン》が立つてゐるのだつた。
『カテリーナ、お前の夢は正夢だつたぞ!
と、ダニーロ・ブルリバーシュは心に呟やいた。
 魔法使《コルドゥーン》が卓子のぐるりを歩きだすと、壁の上の符号がめまぐるしく変りはじめ、蝙蝠は上下左右に、一層はげしく翔び交はした。空色の光りはだんだん淡くなり、やがて消え失せてしまつたやうだ。すると部屋は再び微妙な薔薇色の光りに照らされた。微かな物音と共に不思議な光りが隅々まで漲つたと見る間に、突然その光りは消えて真暗になつた。ただ聞えるのは、静かな黄昏どきに、鏡のやうな水面を旋囘しながら、銀いろの柳の枝を水ぎはへ吹きなびかせて、サーッと吹き過ぎる夕風の音に似た騒音であつた。そしてダニーロには、その部屋の中で月が照り、星が運行して、青黒い空がほのかに明滅し、冷たい夜気が顔へ吹きつけて来るやうにさへ思はれた。それに次いでダニーロの眼には(茲で彼は、夢を見てゐるのではないかと、そつと自分の口髭に触つてみた)もはやその部屋の中が、天《そら》ではなくて、今度は我が家の寝室になつて見えだした。壁には彼の秘蔵の、韃靼や土耳古の長劔が懸り、壁沿ひには棚があり、棚には日常の食器や什器が載つてをり、卓子の上には麺麭と塩があつて、揺籃も釣られてゐる……ただ龕の中からは聖像のかはりに、見るも怖ろしい顔が覗いてをり、そして寝棚《レジャンカ》には……。だが濃い霧がすべてを蔽つて又もや真暗になつてしまつた。やがて再び不思議な物音につれて部屋ぢゆうが薔薇いろの光りに照らし出されると、又もや魔法使《コルドゥーン》が異様な頭巾をかぶり、身動き一つせずに立つてゐる。物音がだんだん激しくなるにつれて淡い薔薇いろの光りは一層あかるくなり、雲のやうに見える何か白いものが、家のまんなかにゆらゆらと動く――ダニーロにはそれが、雲のやうではなくて、女が立つてゐる姿に見えて来た。だが、その女の姿は何で出来てゐるのだらう、空気からでも出来てゐるのだらうか? 足が地についてゐるでもなく、物にもたれてゐるのでもない。また、その姿をとほして薔薇いろの光が透け、壁面に明滅する符号が見える。ふと、彼女はその透明な頭を動かしたやうだ。と、微かにその蒼白めた空色の眼は輝やきを帯び、髪が波うつて、ちやうど明るい灰色の霧のやうに両の肩へ垂れ、蒼白めた唇は、白く透きとほつた朝の空に仄かに紅い曙光がさしたやうに血の色を帯びて、眉がほんのりと黒く浮き出した……。あつ! それはカテリーナだ! だが、この時、ダニーロは五体を鎖で縛《いまし》められたやうに覚えて、物を言はうとしても、唇が動くだけで声は出なかつた。
 魔法使《コルドゥーン》はじつと微動だにせず、以前《もと》のところに立つてゐる。
「お前は何処にゐたのぢや?」と彼が訊ねると、その前に立つた女は顫へだした。
「ああ! 何のためにわたしを呼び出したのです?」と、小声で呻くやうに彼女は言つた。「わたし、ほんとに幸福《しあはせ》でした。わたしは生まれて十五年の月日をすごした土地《ところ》へ帰つてゐたのです。ああ、何てあすこは好いところでせう! わたしが幼いころ遊んだ、あの草地の青々として香りの高いこと! また、あの野の花も、わたしたちのお家も、畠も、ちつとも変つてゐない、ああ、優しいわたしのお母さんが、どんなにわたしを抱きしめたことでせう! お母さんの眼にはどんなに愛情が溢れてゐたことでせう! お母さんがどんなにわたしを可愛がり、唇や頬に接吻をして、歯の細かい櫛でわたしの亜麻いろの編髪《くみげ》をとかして呉れたことでせう! お父さん!」茲で彼女はじつと蒼白めた眼で魔法使を凝視した。「なぜお父さんはわたしのお母さんを殺したのです?」
 魔法使《コルドゥーン》は威猛高に、指をあげて威嚇した。
「俺がそんな話をしろと頼んだか?」
 すると透明な美女は顫へだした。
「お前のご主人は今どこにをるのぢや?」
「わたしの主人《あるじ》カテリーナは今、眠つてゐます。あたしそれをしほに、そつと抜け出して翔《と》んで来たのです。あたし永いことお母さんに会ひたいと思つてゐましたの。あたしは急に十五歳の少女になつて、小鳥のやうに身軽になりましたの。何のためにあたしを呼び出しなすつたの?」
「昨日わしが話したことは、皆おぼえてをるぢやらう?」と、やつと聞きとれる位の、低い声で魔法使が訊ねた。
「覚えてゐますとも、覚えてゐますとも。けれど、あんな怖ろしいことをすつかり忘れてしまへるものなら、あたし、どんなものだつて吝みはしませんわ。可哀さうなカテリーナ! 彼女《あのひと》は自分の魂が知つてをることの半分も知らないんだもの。」
あれはカテリーナの霊魂なんだな。と、ダニーロは思つた。しかし、それでもまだ、身動きひとつすることも出来なかつた。
「懺悔をなさいまし、お父さん! お父さんが人を殺すたんびに、死人が墓の中から立ち上るのを、怖ろしいとは思はないのですか?」
「またしても古いことを!」と、荒々しく魔法使が遮ぎつた。「俺はどこまでも、一旦かうと思ひたつたとほり、お前にさせずには措かんのぢや。今にカテリーナは、この俺を恋するやうになる!……」
「おお、お前は妖怪《ばけもの》だ、わたしのお父さんではない!」と、彼女は呻くやうに叫んだ。「いいえ、お前の思ひどほりになんぞなるものか。なるほど、お前は妖術の力で魂を呼び出して彼女《あのひと》を苦しめるけれど、神様だけが彼女《あのひと》を御意《みこころ》のままになし給ふことが出来るのです。いいえ、カテリーナの躯《からだ》にわたしが宿るかぎり、そんな神意に背いた破倫を犯させはしません。お父さん! 最後の審判の日は近づきましたよ! たとへあなたがわたしのお父さんでなくつても、わたしに、愛する真実《まこと》の良人をば裏切らせることは出来ません。たとへわたしの良人が不実で、わたしを愛さなかつたとしても、わたしは良人を裏切るやうなことは決していたしません。神さまは、誓ひを破り、操を棄てるやうな人間をお愛しにはなりませんから。」
 さういつて、彼女はその蒼白めた眼を、ダニーロがしやがんでをる窓の外へじつと注いで、身動きもせず立ちつくした……。
「お主は何処を見てをるのぢや? 誰がそこに見えるのぢや?」と、魔法使が喚いた。
 透明なカテリーナはブルブルと顫へた。だがその時、すでにダニーロは地上へ降りて、忠実なステツィコを伴《つ》れて、山路をさして急いでゐた。
怖ろしいことだ、怖ろしいことだ!彼は密かにかう呟やいて、哥薩克魂の内に一種の怯気を覚えながら、足ばやに邸の庭を通り過ぎた。そこでは、煙管を銜へて坐つてゐる見張番の他は、皆ぐつすりと郎党たちが熟睡《うまい》してゐた。
 空には一面に星が瞬いてゐた。

      

「まあ、ほんとに起して下すつて好かつたこと!」とカテリーナは襦袢《ソローチカ》の、刺繍をした袖口で眼を拭きながら、自分の目の前に立つてゐる良人を、足の爪先から頭のてつぺんまで、しげしげと眺めながら言つた。「どんなに怖ろしい夢を見てゐたことでせう! ほんとにあたし、この胸が苦しくつて! おお!……あたし、もう死んでしまふのかと思ひましたわ……。」
「どんな夢を見たのだい? こんな夢ではなかつたのかい?」さう言つて、ブルリバーシュは自分の見て来たことを妻に物語つた。
「まあ、あなた、どうして御存じになつてるのですか?」かう、吃驚してカテリーナが訊ねた。「けれど、あなたがお話しになつたことで、あたしに分らないことが沢山ございますわ。だつて、あたしのお父さんがお母さんを殺したなんてことは、夢に見ませんでしたわ。そして死人のことなども見ませんでしたわ。ええ、ダニーロ、あなたの今お話しになつたとほりではありませんでしたわ。でも、なんてあたしのお父さんは怖ろしい人でせう!」
「お前が夢で見なかつたことの多いのは不思議ぢやないよ。お前は自分の魂が知つてゐることの十分の一も知らないでゐるのだから。知つてるかい、お前の親爺さんが邪宗門だといふことを? まだ去年のこと、波蘭人といつしよにクリミヤを攻めた時(まだその頃、俺はあの不信な国民と提携してゐたのだ)ブラツキイ修道院の僧院長《イグーメン》が(それはお前、聖《けだか》い人だつたよ)俺に話したつけ、邪宗門の輩《やから》はなんぴとの魂でも呼び出す妖術を知つてゐるつて。それに魂といふものは人間が眠つてゐる間ぢゆう自在に翔びまはるもので、大天使といつしよに神の高御座《たかみくら》のぐるりまでも翔びまはるといふのだ。俺には最初からお前の親爺さんの顔が、どうも気に喰はなかつた。もしお前の父があんな人間だと分つてゐたら、お前となぞ結婚するんぢやなかつた。俺はお前を棄てても、邪宗門の一族などと縁組をして、自分の魂に罪障を重ねるのではなかつたのに。」
「ダニーロ!」と、カテリーナは袖で顔を蔽うて涕きながら言つた。「どうして、あなたに対してあたしに罪がありますの? あたしがあなたを裏切つたとでもいふのでせうか、いとしい方? 何ぞあなたが御立腹になるやうなことをいたしましたでせうか? つひぞ一度だつて、あなたに良くない仕へ方をしたことがありませうか? あなたが賑やかな宴会からいい御機嫌でお帰りになるやうな時でも、つひぞ不服らしい言葉ひとこときいたことがありませうか? あなたの胤の可愛い坊やまで生んだではございませんか?……」
「泣くな、カテリーナ、俺にはお前といふものがよく分つてゐる。どんなことがあつても、お前を見棄てるやうなことはない。罪は皆、お前の親爺にあるのだ。」
「いいえ、あのひとをあたしの親とは呼んで下さいますな! あれはあたしの父ではありません。神さまも照覧あれ、あたしはあの人といつさいの縁を断ちます、父と縁を切ります! あの人は外道の邪宗門です! あの人が死なうが生きようが、決してかまふことではありません。悪い毒草でも食べて苦しんでゐるやうなことがあつても、お水一杯やりはいたしません。あなたこそ、あたしの父ですわ!」

      

 ダニーロの家の深い地窖《つちむろ》に、三重に錠をおろして、鉄の鎖で固く縛められた魔法使《コルドゥーン》が幽閉されてゐる。はるか彼方、ドニェープルの流れに臨んだ彼の魔城が炎々と燃えて、古びた城壁のまはりを血のやうに赤い波が洗つてゐる。魔法使《コルドゥーン》がこの深い地窖《つちむろ》に投獄されたのは、妖術を使つたためでもなければ、その神意に反する所業のためでもない――それには自づから神の審判がある筈だから。彼が獄に投ぜられたのは、密かな裏切りのためだ。――正教の国、露西亜の仇敵と内通し、ウクライナの国民を加特力教徒に売り、正教の寺院を焼き払はうとしたかどに依つてである。魔法使《コルドゥーン》は陰鬱な顔をしてゐる。彼の頭には夜のやうに暗い思想が去来してゐるのだ。もう彼の命も旦夕に迫つて、明日を最後にこの世からおさらばなのだ。彼の死刑はいよいよ明日に迫つてゐる。彼を待つてゐる処刑は決して軽いものではない。たとへ生きながら釜茹でにされても、罪深い生皮を剥がれても、まだまだ、生やさしいことである。
 魔法使《コルドゥーン》は気難かしく頭べを垂れてゐる。或は、今や最期に直面して悔悟してゐるのかもしれない。しかし彼の罪業は神の赦すべくもない深いものだ。彼の頭の上には鉄格子の嵌つた小窓がある。鎖を曳きずりながら彼は、娘が外を通らないかと、伸びあがつて窓を覗いた。気立の柔しい、小鳩のやうにあどけない彼女も、この父親を不憫には思はないだらうか?……しかし、誰ひとり来なかつた。下には路がつづいてゐるけれど、そこを通る者はたれ一人なかつた。路の下にはドニェープルが波だつてゐる。無心の河は誰の悲しみにも関はりなく、滔々たる流れを運んでゐる。その単調な響きを聞くだけでも囚人の身には物憂かつた。
 すると誰か一人、路に姿を現はしたが――それは哥薩克だつた! 囚人は深い溜息をついた。再び人影はなかつた。やがてまたもや、誰かが遠くから路を降りて来る……青い波蘭婦人服《クントゥーシュ》をひらひらと翻しながら……頭には金色の舟型帽《カラーブリク》が輝やいてゐる……。彼女《あれ》だ! 魔法使《コルドゥーン》は窓ぎはへ犇と身を擦り寄せた。人影はもう間近へ近づいて来た……。
「カテリーナ! 娘や! 哀れんでおくれ、どうか慈悲を垂れておくれ!……」
 彼女は唖のやうにおし黙つたまま、聞くも忌はしげに、牢獄の方へは眼もくれず、さつさと行き過ぎて姿を消してしまつた。天地間には人の子ひとり影を見せず、ドニェープルの水音だけが哀愁をもつて胸に押し迫る。だが、その哀愁を魔法使《コルドゥーン》は知つてゐるだらうか?
 日が傾いて夕べになつた。太陽は沈み果てて影もない。もう晩だ。大気は爽々しく、どこかで牛が啼いてゐる。何処からともなく唄声の伝はつて来るのは、まさしく仕事がへりの人々が陽気に浮かれ興じてゐるのに違ひない。ドニェープルには小舟が一つ浮かんでゐる……。誰が囚人のことなど、かれこれと心にかけてゐよう? 空には銀いろの三日月が出た。ふと、反対の方角から誰か道を急いでやつて来る。暗いのでしかとは見分け難いが、それはカテリーナがひつ返して来たのであつた。
「娘や、一生の頼みぢや! 獰猛な狼の仔でも、自分の母には噛みつかぬものぢやよ。――な、これ娘や、せめて一と目、この罪障の深い父の方を見ておくれ!」
 カテリーナは耳に止めようともせず、歩《あし》を進めた。
「娘や、あの薄倖《ふしあはせ》なお母さんの菩提のためぢやよ!……」
 カテリーナは立ちどまつた。
「ここへ来て、わしの最後の言葉を聴いておくれ!」
「異端者のあなたが、何の用があつてあたしを呼ぶのです? あたしを娘だなどと言はないで下さい! あたし達のあひだにはもう何の血縁もありませんわ。薄倖《ふしあはせ》なあたしのお母さんなどを引合に出して、あたしにどうしろといふのです?」
「カテリーナや! もうわしの最期も近い。わしは、お前の亭主がわしを馬の尻尾に繋いで野に放つか、それとも、もつともつと怖ろしい刑罰を考へ出すかもしれないことは、百も承知なのぢや……。」
「でも、この世にあなたの罪業にふさはしいやうな刑罰があるでせうか? まあ、ゆつくりと待つていらつしやるがいいわ。あなたの命乞ひなど、誰ひとりいたしませんわ。」
「カテリーナ! わしには刑罰が怖ろしいのではない、あの世での苦悩が怖ろしいのぢや……。お前は清浄無垢なものぢやから、お前の霊魂は天国の神様のそばへ飛んでゆくことも出来ようけれど、異端者のわしの霊魂は無限地獄の業火に焼かれるばかりで、何時になつても、その火焔の消される時とてはなく、いよいよその火勢が増すばかりで、一滴の水もそそがれねば、一陣の風もそよがぬのぢや……。」
「でも、その刑罰を軽くしてさしあげる力は、あたしにはありませんもの。」さう言つて、カテリーナは背《そび》らを返した。
「カテリーナ! 待つておくれ、もう一と言いひたいことがある。お前はわしの霊魂を救つてくれることが出来るのぢや。お前はまだ神さまがどんなに慈悲深く、寛大であらせられるかを知らんのぢや。お前はあの使徒パウロが曾て罪深い身でありながら、つひに懺悔《くひあらた》めて立派な聖者になつた話を聞いてをるぢやらうが?」
「あなたの霊魂を救ふなんて、そんなことがあたしに出来るでせうか?」と、カテリーナが言つた。「あたしのやうなか弱いものにそんな大それたことが考へられませうか?」
「ただ此処から出ることさへ出来れば、わしは何もかもを棄ててしまふのぢや。わしは懺悔《くひあらた》めて洞窟へはいり、身には粗い毛衣《けごろも》を著け、夜昼の別ちなく神に祈りを捧げよう。肉食はもとより、魚食も断つよ! 寝る時も衣服《きもの》ひとつ下には敷くまい! ただひたすら神に祈るのぢや! そして、たとひ罪の百分の一も、神の慈悲によつて赦されなかつたら、頸から下を地に埋めて、石の壁に閉ぢこもつたまま、いつさい飲み食ひを断つて死ぬるのぢや。財産は残らず修道僧に進ぜて、四十日四十夜、わしのための菩提を弔つて貰ふのぢや。」
 カテリーナは思案に暮れた。
「たとへこの戸は開けられても、あたしにはその鎖を解くことは、とても出来ませんもの。」
「わしは鎖なぞ怖れはせぬのぢや。」と、彼が言つた。「お前はわしが手足を縛められてをると思ふのか? うんにや、わしは奴等の眼を晦まして手のかはりに枯枝をさしだしてやつたのぢや。そうれこの通りぢや、御覧、わしの躯《からだ》には鎖など、一筋としてかかつてゐないのぢや!」さう言ひながら彼は部屋のまんなかへ出た「わしは、この壁にしてからが、何の苦もなく、抜け出すことが出来るのぢやけれど、これはお前の亭主も知らぬことぢやが、この僧房の壁は、さるけだかい隠者が築いたもので、どんな邪《よこし》まな魔力を以つてしても、その聖者が自分の僧房をとざしたその同じ鍵でひらかぬかぎり、この中から囚人《めしうど》を外へ出すことは出来ぬのぢや。わしは自由の身になることができた暁には、このたとへがたない罪障に穢れた我が身のために、かういふ僧房を築くのぢや。」
「ではね、あたしあなたを出してあげませうけれど、もしや、あたしをお騙しなさるのでしたら?」さう言つて、カテリーナは扉の前に立ちどまつた。「懺悔《くひあらた》めるかはりに、また悪魔の兄弟におなりなさるやうだつたら?」
「うんにや、カテリーナ、わしはもう永くは生きられぬからだぢや。刑罰がなくとも、わしの最期はもう近いのぢや。そのわしが、更に我れと我が身を無限の業苦に落すやうな罪悪を重ねると思ふのか?」
 錠前の音が響いた。「さらばちや[#「さらばちや」はママ]! 神の御恵みがお前の上にあるやうに、娘や!」さう言ひながら、魔法使は娘に接吻した。
「わたしに触らないで下さい。話に聞いたこともないやうな重罪人、早くここを立ち去りなさい!……」と、カテリーナが言つた。
 しかし魔法使の姿は、もはやそこにはなかつた。
※[#始め二重括弧、1-2-54]あたしはあのひとを逃がしたのだ。※[#終わり二重括弧、1-2-55]彼女は今更のやうに驚愕して、きよときよとと四方の壁を見まはしながら呟やいた。※[#始め二重括弧、1-2-54]今となつては、良人に何と申し訳のしやうがあらう? あたしはもうおしまひだ! あたしはもう、生きながら墓に埋められるよりほかはないのだ!※[#終わり二重括弧、1-2-55]彼女はさめざめと涕きながら、囚人が坐つてゐた切株の上へくづをれるやうに身を伏せた。
でも、あたしは一つの霊魂を救つたのだわ。と、また小声で彼女は呟やいた。あたしは神意に適つた行ひをしたのよ。だけど、良人を……あたしは初めてあのひとを欺いたのだ。ああ、あのひとにむかつて嘘をいふのはどんなに怖ろしく、どんなに難かしいことだらう! あれ、誰か来るやうだ! あつ、あのひとだわ! 良人だわ!さう絶望的に口走るとともに、彼女は気を失つて地上に倒れてしまつた。

      

「わたくしでございますよ、お嬢さま! わたくしでございます、いとしいお嬢さま!」さういふ声が、やつと正気に返つたカテリーナの耳許で聞えて、彼女は目の前に老婢の姿を見出した。老婆は腰をかがめて、何か囁やくやうだつたが、痩せさらばうたその手をのばして、カテリーナに冷たい水をそそいだ。
「これ、何処なの?」カテリーナは起きあがつて、あたりを見まはしながら訊ねた。「前にはドニェープルが音を立ててゐるし、後ろには山が……。まあ、婆や、お前は、いつたい、どこへあたしを連れて来たのだえ?」
「わたくしはあなた様をお連れ申したのではございません、お運び申したのでございます。このわたくしの両腕で、あの息づまるやうな地窖《つちむろ》からお運び申したのでございます。そして、旦那さまがあなた様をお仕置になつてはと存じまして、扉にはちやんと錠をおろして置きましたよ。」
「それで、鍵は何処にあるの?」さう言ひながら、カテリーナは自分の帯の辺りへ眼を走らせて、「ここにはないやうぢやないの?」
「その鍵は、旦那さまが外して持つていらつしやいましたよ、ちよつと魔法使《コルドゥーン》を見て来ると仰つしやつて、お嬢さま。」
「まあ、魔法使を見て来るといつて?……ああ、婆や、もうあたしはおしまひだよ!」と、カテリーナは喚くやうに言つた。
「なあに、お嬢さま、神さまがわたくしどもをお憐み下さいますよ! ただ何んにも仰つしやいますな、誰も気のつくことではございませんから!」
 そこへ戻つて来たダニーロが、妻に近よりながら言つた。「逃げをつたぞ、あの呪はれた邪宗門めは! なあ、カテリーナ、奴は逃げをつたぞ!」
 ダニーロの両眼は火のやうに燃え、長劔は腰に当つてガチャガチャと鳴りながら震へた。カテリーナの顔は死人のやうに蒼ざめた。
「誰か、逃がしたのでせうか、あなた?」と、顫へながら彼女が言つた。
「逃がしたのだ、お前の言ふとほりだよ。だが、逃がした奴は悪魔に違ひないぞ。見ろ、奴のかはりに丸太が鎖に縛られてゐるのだ。だが、悪魔にもしろ、哥薩克の拳を怖れぬとは太々《ふてぶて》しい野郎だ! 万に一つ俺の配下の哥薩克で、ほんの心持だけでも、これに関係してをると分つたなら……俺はそ奴にどんな刑罰を加へてやつたらよいか、考へ出すことも出来ぬくらゐだ!」
「もしも、それが、あたしだつたら?……」と、うつかり口を辷らしたカテリーナは、びつくりして口を覆つた。
「万一、お前がそんなことを企らんだのなら、もはやお前は俺の妻ではないぞ。俺はお前を袋の中へとぢこめてドニェープルの真只中《まつただなか》へ投げこんでしまふのだ!……」
 カテリーナは、呼吸《いき》の根も止まり、頭髪《かみのけ》がそぞけだつやうに感じた。

      八

 国境の路にある酒場へ波蘭人が集まつて、もう二日も酒宴を開いてゐる。どうやら無頼の輩《やから》らしい。てつきり何処かへ入寇の目的で集まつたものだ。ある者は小銃を手にし、ある者は拍車の音を立て、また或る者は長劔をガチャガチャ鳴らしてゐる。首領どもは一杯機嫌で、自慢だらだら自分たちが立てた戦功を吹聴したり、正教徒を嘲けり、ウクライナの民をば自分たちの奴隷と呼びなして、勿体らしく口髭を捻つたり、傲慢らしくのけぞつて腰掛の上へ長々とからだを伸ばしたりしてゐる。その仲間に加特力僧《クションヅ》もひとり混つてゐるが、その風体が皆と同じで、正教の祭司などとはまるで似ても似つかず、一同とともに酒を呑み、浮かれ騒いで、その穢れた舌で淫らがましいことを喋り散らしてゐる。首領たちも奴僕と何ら選ぶところなく、破れた波蘭服《ジュパーン》の袖を後ろへ撥ね、あつぱれ剛の者を気取つて、さも分別顔に濶歩してゐる。骨牌を弄んでは、骨牌で鼻を打ち合ひ、ひとの女房は勝手に連れ込む。金切声、罵り合ひ!……首領どもはあらゆる狂態を演じ、いたづらの限りを尽して、猶太人の頤鬚を引つぱつたり、その異教徒の額に十字を描いたり、女たちに空砲を射ちかけたり、くだんの生臭坊主を相手に*クラコ※[#濁点付き片仮名ヰ、1-7-83]ャークを踊つたりしてゐる。未だかつて露西亜の国土にかくの如き汚辱を加へたものは、韃靼人にすらなかつた。恐らくは神が罪障を罰するため、かくの如き汚辱を忍ぶべく定め給うたのであらう! がやがや騒ぐ人声の中から、ドニェープルの対岸なるダニーロの屋敷や、その美しい妻の取沙汰をしてゐる話声が聞える……。かうした徒党の集まつたのは、いづれ善からぬ企らみがあつてのことに違ひない!
     
クラコ ヰャーク 波蘭の国粋的な舞踊。

      九

 ダニーロは居間で、卓子に肘杖をついて坐りながら、考へ込んでゐる。寝棚《レジャンカ》にはカテリーナが腰かけて歌を唄つてゐる。
「何だか妙クラコ ヰャーク 波蘭の国粋的な舞踊。に俺は気が滅入つてならん!」とダニーロが言つた。「それに頭が痛い、胸も疼く。何だかせつない! どうやら俺の死期も間近に迫つてゐるやうだ。」
『まあ、あたしの愛しい方! おつむをあたしにお凭《もた》せなさいまし! 何だつてあなたは、そんな不吉なことをお考へになるのです?
』かう、カテリーナは心のうちでは思つても、口にはそれと言ひ得なかつた。脛に傷もつ彼女は、良人から愛撫を受けるのも心苦しかつた。
「なあ、いいかえ、お前!」と、ダニーロは言葉をつづけた。「俺の亡きあとも、坊やを見棄てないで呉れよ。もしお前が彼《あれ》を見棄てるやうなことがあつたら、この世でもあの世でも、お前に神の恵みはないぞ。俺の骨も、じめじめした土の下で腐りながら、さぞかし辛いことだらうが、それにもまして、俺の霊魂は一層苦しむことだらう!」
「まあ、あなたとしたことが、何を仰つしやいますの? あなたはよく、あたし達のやうな弱い女をおからかひになるではありませんか? それだのに今度は御自分がか弱い女のやうなことを仰つしやいますのね。あなたはまだまだながく生き永らへて下さらなくてはなりませんわ。」
「いいや、カテリーナ、俺の魂には死の近づいたことが感じられるのだよ。世の中が何だか陰惨になつて来た。殺伐な時節がやつて来た。ああ! まざまざと昔の時代が胸に浮かぶ。だが、それも今は返らぬ夢だ! 我が軍の名誉であり光栄であつた、あの*コナシェーヰッチ老将もまだ健在だつたつけ! さながら俺の眼の前を哥薩克の聯隊が行進して行くやうだ! あの頃はほんとに黄金時代だつたよ、カテリーナ! 老総帥が黒馬《あを》に跨がつてゐる、その手には権標が輝やき、ぐるりには衛兵《セルデューク》の垣、四方にはザポロージェ人の赤い海が沸き立つてゐる。大総帥が口を開くと、全軍は水を打つたやうに鎮まつた。老将は我々に往昔の戦闘や、セーチのことを、想ひ出し想ひ出し物語りながら、啜り泣いたものだ。ほんとに、カテリーナ、俺たちがその頃、土耳古人どもと渡りあつた有様をお前が知つてゐたらなあ! 俺の頭には今なほ傷痕が残つてゐる。俺の体は四ヶ所も弾丸《たま》に射貫かれて、その傷のうちひとつとしてすつかり癒り切つたのはない。その当時どんなに俺たちが黄金を手に入れたことか! 哥薩克どもは宝石を帽子で掬つたものだ。どんな馬を――カテリーナ、お前がそれを知つてゐたらなあ――どんな馬を俺たちが掠奪したことか! ああ、もう俺には、あんな戦ひが出来ん! まだ、耄《ぼ》けもせず、躯《からだ》も壮健なのに、哥薩克の長劔は手から捥ぎ取られ、なすこともなく日を送つて、我れながら何のために生きてゐるのか分らないのだ。ウクライナには秩序がなくなつて、聯隊長や副司令がまるで犬のやうに、味方同士啀み合つてゐる。てんで衆を率ゐて先頭に立つ者がないのだ。こちらの貴族階級の者は皆、波蘭の風習を学び、見やう見真似で狡獪になり……*聯合教《ウニャ》を奉じて、霊魂を売り渡してしまつたのだ。猶太教が哀れな国民を圧迫してゐる。おお時よ! 時よ! 過ぎたる時代よ! 何処へ消え失せたのか、俺の時代は? こらつ、穴倉へ行つて蜜酒を一杯もつて来い! 俺は過ぎ去つた幸福と遠い昔の思ひ出に乾杯するのだ!」
    
コナシェー ヰッチサガイダーチヌイのこと。(前篇の註参照)
    
聯合教《ウニャ》 羅馬教会と希臘教会との妥協聯合せる教派のと。

「お客には何を喰はせてやりませう、旦那? 牧場の方角から波蘭の餓鬼どもが押し寄せて参りますが!」と、母家へ入るなりステツィコが言つた。
「奴等のやつて来るわけは分つとる。」と、ダニーロが席を立ちながら口走つた。「さあ皆の者馬に鞍を置け! 武具《もののぐ》をつけろ! 刀を抜け! 鉛の輾麦《わり》を忘れず用意しろよ。お客は鄭重に迎へなきやならんから!」
 だが、哥薩克たちが馬に跨がつて、まだ小銃に弾を装填《こめ》る暇もなく、波蘭軍は秋の落葉のやうに、山腹一面に群がり現はれた。
「や、鬱憤を晴らすには不足のない相手だぞ!」とダニーロは、黄金づくりの馬具を著けた駒に悠然と打ち跨がつて先頭に立つた大兵肥満の貴族どもを眺めながら、言つた。「どうやら、もう一度、おれたちが功績を立てる時が来たらしいぞ! 哥薩克魂よ、最後に心ゆくまで楽しめ! さあ者ども、うんと浮かれるがいいぞ、おれたちの祭りが来たのだ!」
 かくて山々は遊興と宴楽の巷と化した。劔が踊り、弾丸が唸り、馬が嘶きよろめく、雄叫びの声に気は遠くなり、硝煙に眼もくらんだ。両軍はごつちやに入り乱れてしまつた。しかし哥薩克は敵と味方を嗅ぎ分ける。弾丸がヒュツと音を立てるや、剽悍な騎士が馬背から転落する。長劔が一閃するや、胴をはなれた首が、とりとめもない言葉《こと》を口走りながら、地上に落ちる。
 しかし、ダニーロのかぶつた哥薩克帽の赤い頂きは群集の間に見えてゐる。青いジュパーンに黄金《きん》いろの帯をしめたのが眼を射る。旋風のやうに黒馬《あを》が鬣を振る。さながら飛鳥のやうに、彼はかしこここに姿を現はし、雄叫びの声もろとも、ダマスクス製の長劔を振つて、右に左に敵を斬り伏せ、薙ぎ倒す。斬つて斬つて斬りまくれ、哥薩克! あばれまはつて、敵をやつつけろ! 逸《はや》る心の思ひの儘に。だが、黄金の馬具やジュパーンに眼を奪はれるな! 黄金や宝石は足もとに踏みにじれ! 斬れ、哥薩克! 浮かれよ、哥薩克! だが後ろを振り返つて見るがいい、非道な波蘭人がもう家に火をかけて、驚ろき騒ぐ家畜を追ひ立てて行くではないか。それと見たダニーロが、旋風のやうに後へとつて返すと、瞬く間に、その赤い頂きの帽子が家の傍に現はれて、彼をとりまく敵の群れは、見る見る疎らになつた。
 一時《とき》二時《とき》、波蘭人と哥薩克とは交戦をつづけた。敵も味方も小勢になつた。しかしダニーロは辟易しなかつた。彼は長い槍で騎兵を鞍から突き落し、悍馬の蹄にかけて歩兵を踏み躙つた。やがて前庭は打ち払はれ、波蘭人は疾くも退散しはじめた。哥薩克どもは死者の著てゐる金色燦然たるジュパーンや高価な馬具を剥ぎ取つた。ダニーロは時を移さず追撃にかからうとして、味方を糾合するため眼をあげた……が、彼の顔は赫つと怒りの形相に変つた――彼の眼にカテリーナの父の姿が映つたのだ。奴は今しも山の頂きに立つて、小銃を擬して彼を狙つてゐる。ダニーロはそれに向つて真一文字に馬を駆つた……。ああ、哥薩克、お前は破滅に向つて突進してゆくのだ!……小銃が轟然と鳴り響いて、魔法使の姿は山の後ろへ隠れた。ただ、忠僕ステツィコの眼に、その赤い着物と奇妙な帽子がチラと見えただけである。ダニーロは馬上でよろめくとともに地上へ転落した。忠僕ステツィコは急いで主人の許へ駈けつけた。彼の主人は地上に身を伸ばし、明澄な両の眼を閉ざして横たはつてゐる。真赤な鮮血が胸もとから渾々と迸つてゐる。しかし彼は自分の忠僕に気がついたらしく、微かに瞼をあげると、その眼を輝やかして、「さらばぢや、ステツィコ! カテリーナに坊やを見棄てるなと言つて呉れい! お前たち、忠義な家来たちも彼《あれ》を見棄てないで呉れ!」さう言ひ終つて、彼は口を噤んだ。哥薩克魂がその由緒正しい五体から飛び去り、唇は蒼ざめて、彼は永遠の眠りについたのである。
 忠僕は泣き泣き、カテリーナにむかつて手を振つた。「こちらへおいでなさい、奥さま、旦那さまは御酒の加減で、こんな冷たい土の上へ酔ひ潰れておしまひになられました。これあ、もう、なかなかお目醒めにはなりませんよ!」
 カテリーナは驚愕のあまり、手を拍つとともに、藁束のやうに良人の屍《しかばね》の上へ倒れた。
「まあ、あなた! こんなところに、お眼を瞑つて倒れていらつしやるのがあなたでせうか? あたしの愛《いと》しい鷹、お起ちなさい、手を伸ばして下さい! 起きて下さい! せめて、もう一度あなたのカテリーナを御覧になつて下さい。ただ一言でもその唇を動かして物を仰つしやつて下さい!……でも、あなたは何にも仰つしやいませんわ、何にも、あたしの、さつぱりした旦那様! あなたのお顔はまるで黒海のやうに蒼白《あをざ》めてしまひ、あなたの心臓はぴつたり止まつてしまひましたわ! まあ、何だつてあなたはこんなに冷たいのです? あたしの熱い涙もあなたを温めることが出来ないのでせうか? どんなに大声でお呼びしても、あなたを呼び醒すことは出来ないのでせうか? これからは誰が、あなたの軍隊を率ゐてゆくでせう? 誰があなたの黒馬《あを》に跨がつて、大声叱呼しながら、哥薩克の陣頭に劔を振ふでせう? おお、哥薩克! お前たちの名誉と栄光は何処にあるのです? お前たちの名誉と栄光とは、今はもう両眼を閉ぢて冷たい土の上に横たはつてしまつた。あたしを埋めてお呉れ、この人といつしよに埋めてお呉れ! あたしの顔へ土を撒きかけてお呉れ! あたしの白い胸の上に、楓の十字架を立ててお呉れ! あたしには、今はもう美しさも要らなくなつてしまつた!」
 カテリーナは身もだえして泣き悲しんだ。その時、遥か彼方から土煙を蹴立てて、老大尉ゴロベーツィが救援のために駒を乗りつけた。

      十

 天気の和やかな折、自由になだらかに、森と山とのあひだを洋々として流れを運ぶドニェープルは実に素晴らしい。漣も立たねば、水音も聞えぬ。一と目見ただけでは、その雄大な広い流れは動いてゐるのか静止してゐるのか見分けがつかず、全体があたかも水晶の如く、又さながら碧い鏡の道の如く、緑なす下界を貫き、無量の広さと無限の長さに、うねうねと延び拡がつてゐる。さういふ時には、灼ける太陽も心地よげに中天から光芒の足をその冷たい水晶のやうな水に浸し、水際の森も楽しげに鮮やかな影像を水に落す。緑の巻毛をもつ森! それは野花と共に水面ちかく群がつて、身をこごめながら水中を覗きこみ、飽かずおのが朗らかな眸にながめ入り、ほほ笑みかけ、枝を頷かせては会釈する。しかし、彼等にはドニェープルの中流を見ることは出来ない。太陽と碧空の外には、そこを眺め得るものがない。ドニェープルの中流までは飛んで行く鳥も稀れだ。壮麗なること! 世界ひろしといへどもこの河に匹敵する河はまたとない。暖かい夏の夜、人も獣も鳥も、万象ことごとく眠りに落ちて、ひとり神のみ厳かに天と地とを見守り、その袍の袖を荘重にはためかす時、ドニェープルは奇しくも美はしい。その袍の袖から星が撒き散らされる。星々は地球の上で光りながら、すべてがパッとドニェープルに反映する。ドニェープルはそれを残らず己が暗黒の胸に抱懐する。そして天上にて消えぬかぎり、星影は一つとしてその抱擁から逃れることは出来ぬ。玉を連ねたやうに夥しく鴉の塒する黒い森や、遠い昔から崩れたままの山々が覆ひかぶさつて、せめて、その長い影でドニェープルを翳さうとするが、それも空しい努力だ! この世にドニェープルを覆ひ匿すことの出来るものはない。紺碧の色をたたへ、洋々と氾濫して、夜半も真昼も変りなく流れてやまず、目路のつづく限り、どこまでも河である。この河が嬌《あま》えて、夜寒にヒシと岸辺に寄り添ふ時、銀いろの波がたつて、恰かもダマスクス刀の焼刄のやうにきらめいて、青々としたドニェープルは再び眠りに落ちる。さうした時のドニェープルは世にもいみじく、この河に較ぶべき河はまたとない! 更にまた、山のやうな青い雨雲が空を走り、黒い森が樹々の根本までどよめき、樫の幹が破け、稲妻が雲間に乱れて一時に全世界を照らす時、ドニェープルは世にも凄まじい光景を呈する! 丘のやうな波濤が轟々と鳴つて山裾にぶつかり、閃光と怒号につれて後へ返し、悲鳴とともに遠のき消える。それはちやうど、老いたる哥薩克の母親が、わが子を軍営に見送りつつ、悲嘆の涙に沈む様にも似てゐる。――放恣で大胆な若者は黒馬《あを》に跨がり、腰に手を当てて、横かぶりにした帽子も勇ましく、駒を進めるのであるが、母は泣き泣きその後を慕つて、息子の鐙を掴み、馬銜に捉まり、取り縋つて、熱い涙を降りそそぐ。
 吠え狂ふ怒濤の間に間に、突堤の上に焼け残つた木株や石が異様に黒ずんで見えてゐる。そして一艘の小舟がもやはうとして、上下に揺れながら、ゴツンゴツンと岸にぶつかつてゐる。このやうに、ドニェープルが狂ひ立つてゐるさなかに、独木舟などを浮かべて漕ぎ出した、向ふ見ずの哥薩克はいつたい誰だらう? てつきりそいつは、ドニェープルが蠅でも呑むやうに人間を鵜呑にすることを知らぬのだらう。
 やうやく小舟が繋がれると、その中から魔法使が立ち現はれた。彼は不機嫌さうな面持をしてゐる。彼は、哥薩克たちが、亡き主ダニーロのために挙げた弔ひ合戦を忌々しく思つてゐるのだ。波蘭人の蒙つた損害は甚しかつた。あらゆる馬具《ばぐ》武具《もののぐ》に身を固めた四十四人の貴族が、三十三人の奴僕と共に斬り刻まれ、残りは馬ぐるみ捕虜になつて、韃靼人に売り渡されるため、護送されて行つた。
 魔法使《コルドゥーン》は焼けた切株のあひだの石段を降りて行つた。そこには地中ふかく穿たれた彼の地窖《あなぐら》があつた。彼はそつと、扉の音も密びやかに中へ入ると、布を掛けた卓子の上へ、一つの壺を置き、長い手を延ばして、何かえたいの知れぬ草をその中へ投げ入れた。そして、不思議な木の椀を手に持ち、唇を震はせて何やら呪文を唱へながら、水を掬つては、そそぎかけた。と、部屋の内にはパッと薔薇いろの光りがさして、その時の魔法使の顔は見るも物凄かつた。顔ぢゆうが真赤に上気して、ただ深い皺だけが黒く、眼はまるで火のやうに爛々と光つてゐた。無信仰な罪人め! もう疾《とう》に鬚は霜に蔽はれ、顔は皺だらけで、すつかり痩せさらばうた身を持ちながら、なほも神意に背いた悪計を企らみをるのだ。と、部屋のなかほどに白い雲がたちそめて、彼の顔には一種悦びに似た或るものが閃めいた。だが、どうしたのか突然、彼は口を開けたまま、身動きもせずに硬直してしまひ、頭髪《かみのけ》までが、針のやうに頭上で逆立つた。見れば、彼の眼の前の雲の中には、何人《なんぴと》か不思議な人の顔がぼんやり浮かび出てゐる。それはまつたく不意に現はれた招かれざる客であつた。その顔は時と共にだんだんくつきりと浮き出して、じつと彼に向つて両眼を凝らしてゐる。その顔貌《かほ》には、眉にも眼にも口許にも、何一つ魔法使には見覚えがない。生まれてこのかた初めて見る顔であつた。ちよつと見ただけでは、さして物凄いところもなかつたが、避け難い一種の恐怖が彼を襲つた。その不思議な見知らぬ顔は、雲の中から、やはりじつと彼を見詰めてゐる。やがて雲が消えると、その見知らぬ顔貌《かほ》は一際はつきりして、その鋭いまなざしを魔法使から離さなかつた。魔法使は白布のやうに蒼白《あをざ》めた。そして我にもなくけたたましい声をあげて絶叫すると同時に、彼は壺をはたきおとした……。と、すべてが消え失せてしまつた。

      十一

「さあ、気を鎮めるのぢや、のう、これ!」と、老大尉ゴロベーツィが言つた。「夢が当るといふことは、滅多にあるものではないから。」
「横におなりなさいましな、お姉さま!」と、若い嫁が言つた。「易者のお婆さんを呼びませうよ。そのひとにかかつては、どんな魔力も敵ひませんわ。きつと、あなたの怯えも落してくれますわ。」
「何も怖れることはありませんよ!」と、ゴロベーツィの息子も劔を握り緊めながら、言つた。「指一本ささせることぢやないから。」
 どんよりした陰鬱な眼で、カテリーナは皆んなの顔を眺めたが、直ぐには言ふべき言葉も知らなかつた。
「あたしは自分で破滅を招いたのです。囚人を逃がしたのは、あたしですもの!」と、やがて彼女は言つた。「あたしは彼《あれ》のことで心の休まる暇もないのです! もうはや十日も、あたしはこのキエフのあなた方のお側に参つてをりますけれど、悲しさはちつとも減りはしませんわ。人知れず坊やを育てて、仇討をさせようとも思ひました……。あの魔法使は、あたしの夢に、それはそれは怖ろしい姿で現はれました! どうか、あんな夢をあなた方が御覧なさらないやうに! あたしの胸はいまだに慄へてをりますわ。『カテリーナ、俺はお前がもし俺と夫婦にならなければ、お前の子供を斬り殺すぞ!
』さういつて彼は喚きましたの……。」
 そしてさめざめと泣きながら、彼女は揺籃に身を投げかけた。すると、びつくりした子供が小さい手をさしのべて、ワッと叫んだ。
 さうした話を聞くと、大尉の息子は赫つとなつて憤りに燃えた。
 大尉ゴロベーツィ自身もいきり立つた。
「何とでも、出来るものならやつて見ろ、呪はれた外道めが、ここへ来て、この老哥薩克の腕に力があるか無いか試して見るがよい。神様はちやんと見てござるのぢや。」と、彼は烱々たる両眼をあげて、叫んだ。「わしは逸はやく兄弟分のダニーロに手を貸さうとして駈けつけたのぢやが、是非もなや! もうその時すでに彼は、これまで多くの哥薩克どもが永遠の眠りに就いたあの同じ冷たい死の床に横たはつてゐたのぢや。そのかはり、彼のために激しい弔ひ合戦をやつた。そしてただの一人も波蘭の奴を生かしては返さなかつたのぢや。心を鎮めたがよい! わしと、わしの息子の眼の玉の黒いうちは、誰ひとりあんたを辱めることは出来んのぢや!」
 かう言ひ終つて老大尉は揺籃に近寄つた。すると幼児《をさなご》は大尉が革紐に吊つてゐた、銀象嵌入りの赤い煙管とピカピカ光る燧鉄《うちがね》の入つた巾着を見て、いたいけな両手をさしのべて、にこにこと笑つた。「親爺のあとつぎぢやのう!」と、老大尉は煙管を外してその手に持たせながら言つた。「まだ揺籃のなかにをる癖に、もう煙管をくはへることを考へとるのぢや!」
 カテリーナはホッと溜息をつきながら、揺籃をゆすりだした。その夜はみんないつしよに明かさうと申し合はせたが、暫らくすると一同は寝についた。カテリーナも眠りに落ちた。
 家の内も外もひつそりと静かだつた。ただ夜警の哥薩克が起きてゐるばかりだつた。突然、あつと叫んでカテリーナが眼を醒ました。それについで一同も眼をあいた。「坊やが殺されてゐる、坊やが斬り殺されて!」さう叫んで、彼女は揺籃へ飛びついて行つた……。一同は揺籃を取り囲んだ。そして、揺籃の中に息絶えた幼児を見出すと、恐怖のために化石したやうになつて、誰ひとり口を開かなかつた。この言ひやうのない残虐を、どう考へてよいか知る者はなかつた。

      十二

 ウクライナの国境から遠く波蘭を横ぎり、繁華な*レンベルグの市《まち》を越えて、高い連峯が列をなして走つてゐる。巌の聯鎖のやうに相重畳した山々は、左右へ土壌を撥ね出し、それを岩石層で打ち固めて、怒濤あれ狂ふ荒海の浸潤に備へてゐる。この岩石の聯鎖は、ワラチヤとトランシルバニヤを過ぎ、ガリシヤとハンガリヤの中間に至つて、蹄鉄状の大塊となつてゐる。このやうな山脈は我が露西亜には無い。たうてい一目では見渡すことも出来ず、その高い峯々には人跡未踏の高峯もある。その外観は寔に異様で、さながら狂暴な荒海が広い海浜から暴風《あらし》に乗つて押し寄せ、不様な海嘯となつて打ちあがり、石に化して、空中に不動の姿のまま残留したかとも思はれ、その色が灰いろを帯びて、白い山顛のみキラキラと天日に輝やく様よりすれば、大空から重厚な雨雲が落下して、地上に累々と積み重なつたものとも観られる。このカルパシヤ山脈にいたるまでは、なほ露西亜語を耳にすることが出来、山脈の彼方でも、処によつては、祖国の言葉に似た響きが聞かれるけれど、それから先きはもう、信仰も異り、言語も違ふ。その辺には、かなり稠密にハンガリヤ人が住み、彼等は哥薩克にも劣らず、馬を駆り、劔を持つて渡り合ひ、酒も呑む。そして馬具や立派なカフターンのためには吝げもなく衣嚢《かくし》の金貨をはたき出す。山と山とのあひだには大きな盆地や湖がある。その湖はさながら玻璃板の如く微動だにせず、鏡のやうに、丸禿の山顛や緑の森を映してゐる。
     
レンベルグ 墺太利領(現在は波蘭領)ガリシヤの首都。

 だが、この夜更に――星が輝やいてゐても、ゐなくても――恐ろしく巨大な黒馬の背に跨がつて歩を進めてゆくのは何者だらう! 途方もなく脊の高い騎士が、山の麓や湖の岸を、その巨大な馬と共に微動だにせぬ水面に影像を落しながら馳ける時、果しなく大きな陰影がおどろおどろしく山々を翳してゆく。鋳鉄《てつ》の小板《こざね》がキラキラと閃めき、長劔が鞍にあたつて音を立てる。兜が揺れあがり、口髭は黒ずみ、両眼は瞑られて、睫毛が伏さつてゐる――彼はまどろんだまま、夢うつつで手綱を握つてゐるのだ。そのうしろから、同じ馬の背に跨がつた一人の稚児が、やはり眠りながら、夢中に騎士の腰にしがみついてゐる。一体これは何者で、どこへ、何のために馬を進めてゐるのだらう? それを知る者はない。彼は既に一日ならず二日ならず、山また山を越えて進んでゐる。夜が明けて日が出ると、その姿は見えなくなる。ただ時たま、山の住民どもは、山腹に何か長い陰影《かげ》がチラチラ映るのに気づくけれど、空は晴れ渡つて、雨雲ひとつ無い。夜の帳が降りかかると、再びその姿は見えはじめ、湖面に影像を落して、その後ろには陰影が顫へながらついて行く。やがて彼は多くの山々を越えて、クリワン山の頂きへと攀ぢ登つた。カルパシヤ山脈のうちで、この峯ほど高い峯はなく、さながら王者の如く群山の上に聳え立つてゐる。その山顛で駒が足を停めると、騎士はひときは深い眠りに沈んだが、見る見る叢雲が降りて彼の姿をつつんでしまつた。

      十三

「しつ……静かに、婆や! そんなに敲いちや駄目、坊やが寐てるんだから。坊やは長いこと泣いてゐて、今やつと寐ついたんだから、これからあたし森へいくのよ、婆や! 何だつてお前そんなにあたしの顔をジロジロ見るのさ? お前は怖いよ。お前の眼からは鉄の釘抜がとび出してゐるわ……まあ、あんなに長い! そして火のやうに真赤に灼けてるわ! お前はてつきり妖女《ウェーヂマ》よ! ああ、お前が妖女《ウェーヂマ》なら、さつさと消えておしまひ! お前はあたしの坊やを浚つていくだらうから。あの大尉はなんて頓馬な人だらうねえ、彼《あのひと》は、あたしがこのキエフで面白い日々を送つてゐると思つてるんだわ。どうして面白いものか、うちのひとや坊やまでこつちへ来てゐて、誰が留守番をするのさ? あたし、そうつと、猫や犬にも気がつかぬくらゐ静かに出て来たんだよ。婆や、お前、若くなりたくはないかい? ちつとも難かしいことぢやないよ、ただね、踊りさへすればいいのさ。そら御覧よ、あたしが踊るから……。」カテリーナはこんなたわいもないことを口走ると、四方八方へ愚かしいまなざしを配りながら、腰に手をつがへて、もう踊りだした。甲高い声で唄を口ずさみながら、彼女はステップをふんだ。韻律もなく調子はづれに銀の踵鉄《そこがね》が鳴つた。編目《くみめ》の解けた黒髪が白い顔にパラパラと落ちかかつた。彼女は舞ひながら、まるで鳥のやうに小止みもなく手を振り、頭を揺つて、さながら力尽きて地上にばつたり倒れさうになるかと思へば、また下界から飛び去つてしまひさうにも見える。
 憂はしげにたたずんだ、年老いた乳母の深い頬の皺には、涙が溢れてゐた。忠実な郎党どもも、この女主人の狂態を眺めては痛く心を打たれずにはゐられなかつた。もう、すつかり困憊しつくしたカテリーナは、自分ではゴルリッツァを踊つてゐるつもりでも、懶《ものう》げにひとつところで足踏をしてゐるだけであつた。
「若い衆さん、そら、あたし頸飾を掛けてるでしよ!」と、やがて彼女は踊りをやめて言つた。「でも、あんた達には、ないのね!……うちのひとは何処にゐて?」彼女は不意に帯の間から土耳古製の短劔を取り出しながら叫んだ。「ああ、この刀では駄目よ。」かういふと同時に、涙をはらはらとこぼし、顔には悲哀の色を浮かべて、「あたしの父の心臓はとても深くて、こんな短劔では刺しとほすことも出来ないわ。それにあの人の心臓は鉄で出来てゐるの、あの妖女《ウェーヂマ》が地獄の火で打つてやつたのさ。どうしてお父さんは来ないんだらう? もう疾《とう》に殺される時なのに、それを知らないのかしら。こちらから出かけて行くのを、待つてるのかも……」かう、言ひ終へないで、彼女は妙な笑ひ声を立てた。「わたし、とても面白い物語《おはなし》を思ひ出したわ。あたし、良人《うちのひと》が埋められた時のことを思ひ出したの。だつて、彼《あのひと》は生きたままで埋められたのぢやなくつて……。なんて、をかしなことでせう!……さあ、お聴きなさい!」さう言つて、彼女は言葉を歌に代へて唄ひ出した。

血みどろの馬車が飛んでゆく。
馬車の中には弾丸《たま》に射ぬかれ、
劒で刺された哥薩克が横たはり、
右手に投槍を握つてゐる。
投槍からは血潮が滴たり、
血潮の川が流れてる。
川の上には篠懸があり、
篠懸の上で鴉が鳴く。
哥薩克を見送りながら母親も泣く。
泣くな、歎くな、母親よ!
お前の息子は嫁を取つた、
可愛い姫君を嫁に取つた。
美しい野原の地窖《つちあな》は、
扉もなければ窓もない。
歌はこれでおしまひ。
魚が蝦と踊つたとさ……
あたしを嫌ふ人の母さんは
顫へあがるがいい!

 こんな風に、彼女の歌にはあらゆる歌が混り合つてゐた。もう二日のあひだ、彼女は自分の家で寝起をしてゐたが、キエフのことを耳にするのを嫌ひ、祈祷もせず、人を避けて、朝から夜おそくまで暗い密林の中を彷徨してゐるのだつた。尖つた小枝が白い顔や肩を掻きむしり、風が髻《もとどり》の解けた髪を吹きさらして、秋の落葉が足の下でガサガサ鳴るが――彼女はあらぬ方を見据ゑてゐるのだ。夕映が消えて、まだ星も見えず、月もなく、森をとほるに怖い時刻で、樹々に身を擦り小枝を掻き分けながら、洗礼を受けずに死んだ子供たちが、泣いたり笑つたりして、道や広い蕁麻《いらくさ》の茂みの中を玉のやうに転がつてゆく。ドニェープルの波の間からは、身投げをして死んだ娘たちが、列をなして浮かび出る。青い髪はおどろに両の肩へふりかかり、滴くがぽたぽたとその長い髪をつたつて地上へ落ちる。処女《をとめ》は水に濡れて、まるで硝子の肌着を著けたやうに光つてゐる。唇には怪しげな微笑が宿り、頬は情熱に燃えて、両の眼が人の心をそそる……こんな娘から恋をしかけられ、接吻をされたなら……。早く逃げよ、洗礼を受けた人たち! 彼女の唇は氷で、寝床は冷たい水中だ。彼女は君を擽《くすぐ》つて河の中へ引き込むぞ。だが、カテリーナの眼には何も映らなかつたし、正気でない彼女には水精《ルサルカ》など怖くはなかつた。彼女は夜更まで、刀を握つたまま、父を捜して駈けまはつた。
 或る朝はやく、赤い波蘭服《ジュパーン》を著た、堂々たる恰幅の客が訪ねて来て、ダニーロの安否を問うた。一部始終を聴くと、彼は泣き腫した眼を袖で拭きながら、肩を窄《すぼ》めた。聞けば彼は、亡きブルリバーシュの戦友で、二人は共にクリミヤ人や土耳古人と戦つたとのこと。ダニーロがそんな果ない最期を遂げようとは夢にも思はなかつたといつて残念がるのだ。客はなほその他、さまざまなことを物語つてから、カテリーナに会ひたいと言ひ出した。
 カテリーナは初めのうち、その客のいふことを少しも耳に入れなかつたが、しまひには分別あり気に、客の話に聴き入つた。彼は、ダニーロと兄弟同様に暮したことや、一度などはクリミヤ人に追はれて、叢林《くさむら》の中へ二人で隠れてゐたことがあるなどと語つた……。カテリーナは、ただじつと聴き耳を立てながら、その男から眼を離さなかつた。
『奥さんは正気に返つたぞ!
と、彼女の顔を見ながら、郎党どもは心の中に思つた。 あの客人が奥さんを癒して呉れるに違ひない! 奥さんは、もうすつかり正気のやうに聴き入つてゐるではないか!
 そのうちに客は、嘗てダニーロが打ち明け話をした序でに彼に向つて、
『なあ、コプリャーン、若し神の御心で俺がこの世に亡き者となつた暁には、俺の女房をつれて行つて、自分の妻にするがよい…… 』と、そんなことまで言つたと物語つた。
 カテリーナの両の眼は鋭く、客の顔を突き刺すやうにそそがれた。「あつ!」と彼女は叫んだ。「これは彼奴《あいつ》だ! お父さんだ!」そして短刀を閃めかしながら客に躍りかかつて行つた。
 暫しのあひだ、その男はカテリーナの手から短刀を捥ぎ取らうとして争つたが、つひに奪ひ取ると共に、それを振りあげざま、無残なことをして退けた、父親が気の狂つた我が娘を刺し殺してしまつたのだ。
 仰天して哥薩克たちが一斉に飛びかかつて行かうとしたが、矢庭に駒の背に跨がつた魔法使は一目散に雲を霞と逃げ去せてしまつた。

      十四

 キエフの郊外に前代未聞の奇蹟が現はれた。貴族や哥薩克の隊長たちが駈けつけて、その不思議な現象に驚異の眼を瞠つた――といふのは、突然、遠く世界の端々までが手に取るやうに見え出したのである。遥かに*リマーンの砂洲が青ずんで見え、リマーンの彼方には黒海が波を湛へてゐる。また曾て一度行つたことのある人達には、クリミヤ半島が山のやうに海面から頭をもたげてゐるのや、*シワーシュの入江がそれと認められた。
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リマーンの砂洲 南部露西亜に於ける大河の河口にある砂洲または沼沢地の名称。
シワーシュの入江 クリミヤ半島の東岸にある細長い帯状の陸地に依つてアゾフ海より距てられた内海。
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「あれはいつたい何だね?」と、蝟集した群衆が、遥かかなたの空に仄かに見える、雲かとも見紛ふ、灰いろや雪白の峯々を指さしながら、老人連に訊ねた。
「あれはカルパシヤ山脈ぢや!」と、老人たちが答へた。「あの山の中には永世、雪が消えず、いつも雲のかかつてをる峯もあるのぢや。」
 この時、また新らしい奇蹟が起つた。その一番高い山にかかつてゐた雲が飛び散ると、その頂きに、騎士の甲冑に身を固めて馬上に跨がりながら瞑目してゐる人物の姿が現はれたのだ。然も、それがつい目と鼻の先に立つてゐるやうに、まざまざと見えるのである。
 その時、怖れと驚ろきに打たれた群衆のあひだから、一人の男が馬に乗つて飛び出すなり、妙にぐるりを見まはしながら、まるで誰か自分の後を追跡する者がありはせぬかと眼を配るやうにして、ひどく狼狽《うろた》へながら、根限《こんかぎ》り馬を駆り立てて走り出した。それは、くだんの魔法使だつた。何を彼はかくも周章てふためいたのであらうか? かの山の上の不思議な騎士を一目みると、驚ろくなかれ、それは彼が、何時か占ひを立ててゐた折、不意に彼の眼前に現はれた、あの見知らぬ人物と同じ顔であつた。どうして、その顔を見ると、かくも胸騒ぎがするのか、彼は我れながら理解することが出来ず、戦々兢々として四辺を見まはしながら、薄暮が迫つて、星の輝やき出す頃まで、ひたぶるに駒を駆り立てた。やうやくのことに馬首を廻らすと、恐らく、この奇怪な出来事を悪霊の力に依つて判じようと考へたのであらう、彼は我が家を指して帰途に就いた。やがて、途中にある支流の小川を飛び越えようとした時――全速力で駈けてゐた馬が不意に立ちどまつて、彼の方へ首を捩ぢむけると、奇態なことに、笑ひ声をあげた! そして白い歯並が闇の中で光つた。魔法使の頭髪《かみのけ》は逆立つた。彼は異様な声をあげて叫ぶとともに、前後不覚に泣きだした。そこで馬首をキエフの方角へ向けて、真一文字に駈けに駈けた。彼には万象《ものみな》が、八方から彼を捕へるために追つかけて来るやうに思はれた。暗い森の樹々が、さながら生けるものの如く、黒い鬚を垂れ、長い枝を伸ばして彼を絞め殺さうとし、星は彼の先きに立つて走りながら、万人にこの極悪人を指し示すかとも思はれ、路そのものまでが、彼の跡を追つて来るやうに思はれた。
 絶望した魔法使は、キエフの霊場をさして疾駆した。

      十五

 洞窟の中には、燈明《みあかし》を前に一人の隠者がぽつねんと、聖書から眼も離さずに坐つてゐた。彼がこの洞窟に蟄居してから、もう長い年月が経つた。彼は自分で木の棺を拵らへて、夜はそれを寝床にして寝てゐた。聖《けだか》い老翁は聖書を閉ぢて祈祷を始めた……。と、その時、異様な物凄い形相の男が不意に飛びこんで来た。聖《けだか》い隠者はそのやうな人間を見ると、初めは驚愕のあまり後退《あとずさ》りをした。その男は白楊の葉のやうに全身をわなわな顫はせてゐた。不気味な 流し目 をしてゐる両の眼からは、物凄い火花が散つた。その醜悪な顔を見ると、自づから魂が戦慄した。
「神父さま、祈つて下され、祈つて下され!」さう、絶望的にその男は叫んだ。「邪道に堕ちた霊魂のために祈つて下され!」そして彼は地に平伏《ひれふ》した。
 けだかい隠者は十字を切ると、聖書を取り上げて、それを繰りひろげたが、はつと色を失つて、後ろへ退《すさ》りながら、聖書を取り落してしまつた。「駄目ぢや、前代未聞の重罪人! お前にはみゆるしが無い! ここを立ち去れい! お前のために祈ることは出来ぬ!」
「駄目ぢやと?」罪人は、狂気のやうになつて叫んだ。
「あれを見よ、聖書の中の神聖な文字が血に染まつたではないか。つひぞこれまで、これほどの極悪人が世に現はれた例《ため》しはないのぢや!」
「神父さん! あんたは私をわらはれるのぢやな!」
「立ち去れ、呪はれたる極悪人! わしはお前を笑ひなどするのではない。ただ怖ろしいばかりぢや。お前に関はつた者に善いことはないのぢや!」
「いいや、いいや! あんたは笑つてをるのぢや、さうは言はさぬぞ……。このわしには、ちやんと見えるのぢや、汝《うぬ》が大口を開いて笑つてをるのが見える、それ、古びた歯並が仄白く見えてをるではないか!……」
 かくて、狂気のやうに躍りかかりざま、彼は神聖な隠者を殺害した。
 何ものかが苦しげに呻き声をあげた。そしてその呻きは野を越え、森を越えて、遠く伝はつて行つた。森の後ろから、長い爪の生えた手が伸びあがつた。そして、ぶるぶると顫へてから消え失せた。
 すると、彼はもはや恐怖も何も感じなかつた。彼の眼にはすべてのものが混乱して映つた。耳も頭も、まるで酒に酔つた時のやうにガンガンと鳴り、眼の前にある限りの物が、さながら蜘蛛の巣に包まれたやうに見えた。駒に跨がると彼は*カニョーフをさして真一文字に発足した。そこから*チェルカースイを経て、まつすぐにクリミヤの韃靼人の許へ赴かうと志したのだ。どうしてそんな気になつたのか、自分でも分らなかつた。彼はその日も、その次ぎの日も馬を走らせたが、行けども行けどもカニョーフの市《まち》はなかつた。路は確かに間違ひなくその路で、もう疾《とつ》くに見えなければならぬ筈のカニョーフの市《まち》が見えなかつた。遠くに、寺院の頂きが輝やき出した。しかしそれはカニョーフではなく、*シュームスクだつた。魔法使はまつたく別の方角へ進んでゐたことを知ると、愕然として色を失つた。彼は駒を返してキエフをさして走つた。すると二日目に一つの市《まち》が見えだした。しかしそれはキエフではなく、キエフからは、シュームスクより更に遠く、もはやハンガリヤに程遠からぬガリーチの市《まち》であつた。如何とも詮方なく、彼は再び駒を返したが、やはり正反対の方角へのみ進んでゐるやうに感じられた。魔法使の心中がどのやうであつたか、言ひ現はすことの出来る人は世界ぢゆうにひとりもないだらう。もし彼の胸中を去来するところのものを一目みた人には、もはや夜の眼も合はされず、笑顔ひとつすることも永久に無くなつたことだらう。それは毒念でも、恐怖でも、また兇悪な怨恨でもなかつた。それを名づくべき言葉はこの世に存在しない。彼はさながら五体を焼かれ焙られる思ひで、この全世界を馬の蹄にかけて踏みにじり、キエフからガリーチまでの土地を人畜もろとも掴み取つて黒海の只中に沈めてしまひ度いやうな気がした。けれど、それは邪念からさう思はれるのではなかつた。否、彼には自分ながら何のためとも合点がゆかなかつた。やがて、間近く眼前にカルパシヤ山脈が現はれ、クリワンの高峯が、まるで帽子でもかぶつたやうに灰いろの雲に蔽はれて聳え立つ姿を見たとき彼は全身をブルブルと顫はせた。ところが、馬は容赦なくぐんぐん駈けて、すでに山麓へとかかつた。と、叢雲がぱつと吹き払はれて、彼の目の前には、くだんの騎士が、いとも荘重に姿を現はした……。彼は馬を停めようとして激しく轡を曳き緊めたが、馬は異様な嘶き声をあげ、鬣《たてがみ》を逆立てて遮二無二、騎士を目がけて突進して行つた。すると、それまで身じろぎ一つしなかつた騎士が、その時むくむくと動き出すと同時に、かつと両眼を見開き、自分の方へ驀進して来る魔法使を眺めて笑ひ出した。それを見ると魔法使は全身が凍《い》てついてしまふやうに感じた。百雷のやうな哄笑が山々にこだまして、彼の胸を打ち、身内を震駭させた。彼は、まるで、誰か頑丈な人間が、自分の体内を歩きまはりながら、掛矢で心臓や脈管を打ちまくるやうに感じた……それほど怖ろしく、この笑ひ声が彼の内心に響いたのだ!
    
カニョーフ キエフスカヤ県カニョーフ郡の首都で、ドニェープルの
     
河港。
    
チェルカースイ キエフスカヤ県チェルカースイ郡の首都で、ドニェ       ープルの河港。

     シュームスク ウォルインスカヤ県下にある小都会。

 騎士はいかめしい手で魔法使をふん掴みざま、空中高くさしあげた。途端に魔法使の息の根は絶え果てたが、死んでから彼は両眼を見開いた。既に彼は死んで、その眼差はこの世のものではなかつた。生きてゐる者や、蘇つた者は、こんな怖ろしい眼つきをしない。彼は死んだ眼で四方を見まはした。するとキエフや、ガリシヤの土地や、カルパシヤの山地から、自分の顔に瓜二つの死人どもが、うようよと立ちあがるのが見えた。
 飽くまで色あをざめ、いづれ劣らず背のひよろ長い、骨張つた亡者どもが、この物凄い獲物を手にさしあげた騎士のまはりに立ちあがつた。騎士はもう一度カラカラと打ち笑ふと共に、獲物をば深淵めがけて投げ込んだ。するとすべての亡者たちがその深淵に飛び込んで、魔法使の屍に蝟集しながら、てんでに歯を剥いてそれに喰《くら》ひついた。もう一人、どれより背が高く、どれより物凄い死人は、地中から立ちあがらうとしても、いつかな立ちあがることが出来なかつた――それほど固く、彼は地に植ゑつけられてゐたのだ。もし彼が立ちあがつたならば、カルパシヤの山々もトランシルバニヤも土耳古の国土も顛覆したことだらう。わづかに彼が身じろぎをしただけで全世界は震動し、至るところで多くの人家が倒壊して、人々が圧死を遂げた。
 時々、カルパシヤの山々で、ちやうど数千の水車場が一時に水音を立てるやうな物凄い音が聞える――それはまだ誰ひとり怖れて覗いて見たこともない、底無しの深淵《ふち》で、亡者どもが一人の死人を噛み砕く音である。時々、世界ぢゆうが隅々まで揺れ動くことがある。すると学問のある人々は、海の近くに一つの山があつて、それが火を噴き、熱湯の川を流すためだなどと言ふ。しかし、ブルガリヤやガリシヤの国にあつて、その謂はれをよく心得てゐる老人《としより》たちの話では、それは地下でぐんぐんと生長した、くだんの巨大な死人が、どうかして起きあがらうとしては、大地を揺がすためだと言ふ。

      十六

 *グルーホフの市で、ひとりの年老いた琵琶法師《バンドゥリスト》をまん中に取りかこんだ群衆が、もう一時間もその盲人の奏でる琵琶《バンドゥーラ》に聴き入つてゐる。このやうに珍らしい歌を、これほど巧みに歌ふ琵琶師《バンドゥリスト》はつひぞこれまで見なかつた。はじめ彼はサガイダーチヌイだの、フメリニーツキイだのといつた、昔の大総帥《ゲトマン》の物語をうたつた。当時は今日に比べると、まるで時勢が違つてゐた。それは哥薩克軍の黄金時代で、彼等は敵を駒の蹄にかけて踏みにじり、何人からも絶えて侮りを受けるやうなことがなかつた。老人は陽気な歌をうたひながら、まるで眼の見える人のやうに、盲いたその両眼を動かして群衆を見まはした。そして弾爪《つめ》を嵌めた彼の指は、まるで蠅のやうに弦の上を走りまはつて、さながら弦がひとりでに鳴るかとも思はれる程であつた。ぐるりの人々は、老年《としより》は首を垂れ、若者は翁をじつと見つめながら、忍び音ひとつ立てず、息を殺して聴き惚れた。
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グルーホフ チェルニゴーフスカヤ県下グルーホフ郡の首都。
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「さて、」と、翁が言つた。「今度はひとつ、古い古い昔の物語を謡つてお聞かせいたしませう。」すると群衆は一層ひしひしと、互ひに擦りよるやうにした。盲人はうたひだした。

『トランシルバニヤ侯ステパン殿は、波蘭王を兼ね給ひしが、その家臣《いへのこ》にイワン、ペトゥローなる、二人の哥薩克ありけり。この両人はさながら真《まこと》の兄弟の如く睦みあひ、『やよイワン、何事に依らず、すべて二人で分ち合はん。二人のうちいづれかに喜びあらば、その喜びを互ひに分ち、いづれかに悲しみあらば、その悲しみを共にせん。一人が獲物を得たる時は、半ばを相手に分つべし。一人が敵に囚はれなば、財《たから》のすべてを売り払ひ、必らず友を身受せん。それも叶はぬ暁は共に囚虜の苦を嘗めん。』げにそのとほり両人は、何にもあれ、贏ち得し財《たから》を分ちあひ、掠めし牛馬を等分せり。
        ☆
『折しもあれステパン王は、土耳古と戦端を開きしが、激戦すでに三週に及べども、如何せん敵を駆逐すること能はざりき。それに引きかへ土耳古軍には、十人の手勢にてよく一聯隊の敵を斬り伏せるてふ、勇猛果敢の将軍《パシャ》ありき。さても、ステパン王宣して曰はく、もしもかの将軍をば、生きながらにもせよ、死屍にもせよ、今わが面前に引き来る勇士あらば、全軍に賜ふべき食禄を彼一人に与ふべしと。
『やよ兄弟、いでや将軍《パシャ》をば生捕らん! イワンがペトゥローにかく言ふや、直ちに二人の哥薩克は、おのおの志ざす方角へ、別れ別れに発足しけり。
        ☆
『ペトゥローがいまだ捕へようともせぬ暇に、疾くもイワンは敵将の頸に縄うち、王《きみ》の御前に引き立てけり。
『でかしたり、あつぱれなるぞ! 『』 』とステパン王は、いと打ち悦びて、彼ひとりに、全軍が賜はるに等しき扶持を与へ、尚そのうへに本人の、望みの土地の領主に封じ、欲《ねが》ひのままに家畜も与へ給ひけり。イワンは王よりの下され物を、すぐさまその場で二分して、友のペトゥローと分配せり。ペトゥローは恩賞の半ばは貰ひたれど、イワンが王より受けし如き、栄誉の分たれざりしことを、深くも心に恨みけり。
        ☆
『二人の騎士は主君より拝領なせし領土をさして、カルパシヤの山麓を、徐々《しづ/\》と駒を進めたり。イワンは後方《しりへ》にわが息《こ》をば、鞍に結びて乗せ行けり。はや黄昏の頃ほひなりしが、尚も先へと進み行く。稚児はすでに熟睡《うまい》して、イワンも微睡《まどろ》みはじめたり。やよ哥薩克よ、居眠るな、山路はいとも危険なり!……さはいへなべて哥薩克の、駒は道をば心得て、足を躓づき、踏み外す、憂へは更になかりけり。さて山峡に崕穴《がけ》ありて、底を極めし者もなく、この地上より天涯に達する程の奈落なり。しかも山路はその崕穴《がけ》の真上の縁を通ずるなり――二人ならばまだしもあれ、三人は並んで通り難し。今やまどろめる哥薩克を、乗せし駿馬は用心深く、その難所へとさしかかる。ペトゥローは並んで進みながらも、全身うずうずと顫きて、喜悦のために呼吸も塞がるほどなりき。やがて不意に振り向きざま、兄弟と誓ひし者を無慚にも、奈落の底へと突き落す。哀れや駒は哥薩克と、稚児もろともに深淵の、只中さして転び落つ。
        ☆
『されど咄嗟に哥薩克は、木の根にしかと捉まりしかば、駒のみ奈落へ落ち行けり。彼はわが息《こ》を肩に乗せ、辛くも上へ攀ぢ登り、まさに穴の縁へと辿りつき、眼をあげ見ればこはいかに、ペトゥローはきつと槍を構へ、ただ一と突きと待ちゐたり。
『南無三! 生みの兄弟《はらから》とも、思ふ友がこの我に、槍を向けるとは口惜しや!……あな、兄弟《はらから》よ、我が友よ! 宿世の縁とあるからは、たとへこの身はその槍の、錆と消えんも詮なけれ。されど童子は助けてたべ、いかでか無辜の幼な児に、さる非道なる最期をば、遂げしめるべき罪科《とが》あらん。 』されどペトゥローはあざ笑ひ、槍ひきしごきイワンをば、ただ一と突きに突きければ、哥薩克と稚児は翻筋斗うち、奈落の底へと転落せり。ペトゥローはすべての財宝を、わが身ひとりで横領なし、総督《パシャ》の如くに暮しけり。ペトゥローの牧場に見る如き、馬群を持つ者さらになく、緬羊《ひつじ》の類も誰にもまし、数おびただしく飼ひゐたり。かくしてペトゥローは世を去りぬ。
        ☆
『ペトゥロー死すや上帝は、彼とイワンの霊魂を裁きの廷に招《め》し給ひ、
『さてもこれなる人間《ひとのこ》は類ひ稀なる悪人なり。われは直ちに刑罰を、決せざればイワーニェよ! 汝みづから彼がため、欲《ねが》ひの刑を選ぶべし! 』かく宣まへばやや暫し、イワンは刑を打ち案じ、思案にくれてゐたりしが、やがて答へて申すやう、 実《げ》にやこれなる悪人は、いと大いなる害毒をわれに与へし痴者《しれもの》なり。ユダの如く友を裏切り、公明なるわが一門と、地上におけるわが子孫を絶やしたり。公明なる一門と、子孫を欠きし人間は、恰かも空しく地に落ちて、地中に滅びし麦粒の如く、絶えて芽生えることもなく――打ち棄てられしその種子に、心づくもの更になし。
        ☆
『神よ、然らばかく裁き給へ、残らず彼の子孫をば、地上に於いて不幸になし、最後の後裔《もの》を現世《うつしよ》にて、未だ曾て類ひなき極悪人たらしめて、彼の重ねる悪業の、一つ一つに先祖《さきおや》の亡霊どもが棺《ひつぎ》の中で安息を掻き乱され、娑婆では知られぬ苦悩を忍び、墓の中より起きあがる! されどユダなるペトゥローのみは、起きあがるべき力もなく、ためにひときは堪へ難き、業苦を嘗めて物狂ほしく、土を噛みつつ地の下で踠き狂ふに委すべし!
        ☆
『やがてそやつが悪業の、最後の時の到りなば、神よ、われをばかの深淵より曳き出し、駒の背に乗せ、いと高き山顛に立たせて、その悪人をわが許に導き給へかし。さすれば我はその山の、峯よりそやつを深淵の、底をめがけて投げ込まん。そのとき彼の先祖《さきおや》の亡霊どもが生前に、おのおの住みし土地《ところ》より、伸びあがり立ちあがり、各自の受けし苦しみの、返報としてその男の、屍《かばね》に飛びつき喰《くら》ひつき、裂きつちぎりつ永遠に、噛みつづけるに委すべし。その苦しみを眺めつつ我は心を慰めん。さあれ一人かのユダなる、ペトゥローのみは彼も亦、同じ屍に噛みつかんため、地下より起ちあがらんとしても叶はず、その骸骨は時と共に、いよいよ地中で成長し、それにつれて苦しみも、益々烈しくなりまさる。この苦しみこそ彼にとり、いと残忍なる苦しみならん。復讐せんとして復讐し得ざるほど、大いなる苦しみとてはあらざればなり。
        ☆
『さても怖ろしき刑罰を、案じたるよな人間《ひとのこ》よ! さらば望みに委すべし。されども汝も永久《とこしへ》に駒の背に乗りその峯に、残る覚悟を定むべし。しかも駒に跨がりて、彼処《かしこ》に佇む日の限り、汝にもまた天国の安息《やすらひ》なきを心せよ! 』かく宣まひし上帝の、言葉のままに実現せり。今に至るもカルパシヤの、峯に駒をば打ち立てて、不思議の騎士は底もなき、奈落の淵に亡霊が、あまた一つの屍《しかばね》を、噛みくだく有様と、今ひとつなる屍《しかばね》が、地中にありて次ぎ次ぎと、成長しつつ堪へ難き、苦痛に我れと我が骨を、噛みつつ大地をどよめかす、その有様を見まもるなり。……』

        ☆        ☆        ☆

 盲人はかく歌ひ終ると、やがて、また弦の調子を合はせて、今度は* 『ホマとエリョーマ だの、* 『スツクリャール・ストコーザ 』だのといつた、滑稽ものを歌ひだしたが……しかし群衆は、老も若きもおしなべて、なほも我れに返らうとはせず、頭べを垂れて、その怖ろしき昔の出来ごとを思ひ描きつつ、しばしその場に佇んだ。
    
『ホマとエリョーマ』 善良で馬鹿な二人の田舎者の滑稽な仕種を歌       ひ込んだ露西亜の古い民謡。
    
『スツクリャール・ストコーザ』 やはり滑稽な主題を持つ古い民
     謡。
                          
――一八三二年――

底本:「ディカーニカ近郷夜話 後篇」岩波文庫、岩波書店
   1937(昭和12)年9月15日第1刷発行
   1994(平成6)年10月6日第7刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※底本の中扉には「ディカーニカ近郷夜話 後篇」の表記の左下に「蜜蜂飼ルードゥイ・パニコー著はすところの物語集」と小書きされています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「*」は訳注記号です。底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付いています。
※底本の「*」は、訳注記号と重複するため、「☆」に代えて入力しました。
※「灯」と「燈」、「糸」と「絲」は新旧関係にあるので「灯」「糸」に書き替えるべきですが、底本で混在していましたので底本通りにしました。
入力:oterudon
校正:伊藤時也
2009年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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