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これは、ガデャーチからよくやつて来たステパン・イワーノ ヰ ッチ・クーロチカに聞いた物語《はなし》ぢやが、これには一つの故事来歴がついてゐる。ところで、元来このわしの記憶といふやつが、何ともはやお話にならぬ代物で、聞いたも聞かぬもとんとひとつでな。いはば、まるで篩《ふるひ》の中へ水をつぎこんだのと変りがないのぢや。我れながら、それを百も承知なので、わざわざ彼にその物語《はなし》を帳面へ書きつけておいて呉れるやうに頼んだ次第ぢや。――いや、どうか達者でゐて貰ひたいもので――あの先生わしには何時もじつに親切な男でな、筆をとるなり、さつそく書いておいて呉れたわい。わしはその帳面を小卓《こづくゑ》の押匣へしまつておいたのぢや。そら、諸君も御存じぢやらう、あの、戸口を入つた直ぐとつつきの隅にある小卓《こづくゑ》なんで……。いやはや、これはしたり、すつかり忘れてをつたが――諸君はまだ一度もわしの家へ来られたことがなかつたのぢやな。ところで、わしがもう三十年このかた連れ添ふうちの婆さんぢやが、恥をいへば目に一丁字もない女なんで。この婆さんがある時、何かの紙を下敷にして肉饅頭《ピロシュキ》を焼いてござるのぢや。時に親愛なる読者諸君、うちの婆さんときたら、その肉饅頭《ピロシュキ》を焼くのがめつぱふ上手なのぢや、あれくらゐ美味《うま》い肉饅頭《ピロシュキ》はどこへ行つても食へつこない。それはさて、何気なくその肉饅頭《ピロシュキ》の下敷にしてある紙を見ると――なにか文字が書いてある。へんに思ひあたる節があるので、小卓《こづくゑ》のところへ行つてしらべて見ると、どうぢやらう――くだんの帳面が半分くらゐの丁数になつてをるではないか! あとは残らず婆さんめ、肉饅頭《ピロシュキ》を焼くたんびに、引きちぎつては使つてしまひをつたのぢや! だが、どうしやうがあらう、まさかこの老齢《とし》で、掴みあひができるではなしさ! 去年のことぢやが、たまたまガデャーチをとほつたので、まだその市《まち》へさしかかる前に、この一件についてステパン・イワーノ※[#濁点付き片仮名ヰ、1-7-83]ッチをたづねることを忘れまいとて、わざわざ*忘れな結びをしておいたほどぢや。それだけならまだしも、市《まち》なかでくしやみが出たら、それをしほに必らずあの仁のことを想ひ出さうと、しかと我れと我が胸に約束しておいたのぢやが、それもこれも無駄ぢやつた。市をとほりながら、くしやみもしたし、ハンカチで鼻汁《はな》もかんだけれど肝腎のことはすつかり忘れてしまつてゐたのぢや。で、やつと気がついた頃は、市の関門を六|露里《ウェルスト》ばかりも距たつてゐた。どうもしかたがない。尻切蜻蛉のままで印刷にまはすことになつてしまつた。だが、この物語のさきがどうなるか、是非とも知りたいとお望みの方には、ひとつガデャーチへ出むいて、ステパン・イワーノヰッチに訊ねていただくまでのことぢや。あの仁は大悦びでこの物語を、恐らくは初めからしまひまで、お話しすることぢやらう。住ひは石造の教会堂のつい近所でな。あすこのとつつきに小さい横町があるが、その横町へ曲るとすぐ、二つめか三つめの門がそれぢや。あ、さうさう、それよりもよい目標《めじるし》は、庭に太い棒が立つてゐて、それに鶉がかけてあり、草いろの女袴《スカート》を穿いた、ふとつちよの女が出迎へる(ステパン・イワーノヰッチが独り者だといふことを御承知おき願ふのも妨げにはなるまい)と、それが彼の邸なのぢや。それとも市場で先生をつかまへることも出来る。奴さんはそこへ毎朝、九時までには必らず出かけて、自分の食膳を賑はす魚菜をみたてたり、アンティープ神父や、それから請負商の猶太人などと話し込んでゐるのが平素《いつも》のならはしなんでな。それにあんな派手な花模様のズボンを穿いたり、鬱金《うこん》の南京繻子で出来たフロックコートを著てゐる人間は、あの男のほかには一人もゐないから、すぐに見分けがつく。もう一つの目標《めじるし》は、歩く時にきまつて両腕をぐるぐる振りまはす癖のあることぢや。今は亡き彼地《あちら》の陪審官デニス・ペトローヰッチは、遠くから彼の姿を見かけると、『御覧なさい、御覧なさい、そら、あすこへ製粉場《こなひきば》の風車が歩いて来ますぜ! 』と、きまつてさう言つたものぢや。
忘れな結び 用事を忘れず思ひ出すよすがに、ハンカチに結びこぶを
作ること。
一 イワン・フョードロヰッチ・シュポーニカ
イワン・フョードロヰッチ・シュポーニカは、もう四年まへから軍職を退いて、所有農園《もちむら》のウイトゥレベニキに住んでゐる。彼がまだワニューシャと呼ばれた少年時代には、ガデャーチの郡立小学校へかよつてゐたが、特筆すべきことは、彼がきはめて品行方正な、ぬきんでて勤勉な児童だつたことで、露西亜文法の教師ニキーフォル・ティモフェーヰッチ・デェプリチャースティエは、いつも、受持児童が残らずシュポーニカのやうな勤勉家ばかりだつたら、自分は楓樹《かへで》の定規などを教室へ持つて来るには及ばぬのだがと、言ひ言ひしたものだ。いつも彼は、彼自身が告白したとほり、怠け者や悪戯つ児の手をその定規で打ち草臥《くたび》れてしまふ有様だつた。シュポーニカの筆記帳はいつもきれいで、いつぱいに罫がひいてあつて、どこを開いて見ても斑点《しみ》一つついてゐなかつた。彼はいつでもおとなしく席につくと、手を拱んで、じつと教師に目をそそぎ、決して、自分の前の席に坐つてゐる級友の背中へ紙片《かみきれ》をぶら下げるとか、腰掛に彫刻をするとか、それから、先生が来るまで目白押しをやるといふやうなことがなかつた。もし誰かが鵞筆《ペン》を削るのにナイフの要るやうな場合には、イワン・フョードロヰチが何時もナイフを用意してゐることがわかつてゐたので、取敢へず彼に借用を申し込んだものだ。するとイワン・フョードロヰッチは――いやそのころは単にワニューシャだつたが、――鼠色の制服の釦孔《ぼたんあな》にさげてゐた小さい革袋《ケース》からナイフを取り出して、但しペンを削るのにナイフの刄尖《はさき》をつかはないで欲しい、それにはちやんと、適当な刄の鈍い個所があるからと、断るのだつた。かうした美点は、あの粗羅紗の外套と痘瘡《あばた》だらけの顔を入口へにゆつと現はす前に昇降口でやる咳払ひ一つで、全教室を恐怖のどん底におとし入れる、拉典語の教師の注意をすら、忽ち彼の上へ牽きつけずにはおかなかつた。いつも教壇に二振りの枝笞を用意して、生徒の半数に膝立《ひざだち》の罰を喰はせる、この怖ろしい教師が、クラスのうちには遥かに良く出来る連中が沢山あつたにも拘らず、イワン・フョードロヰッチを指導委員《アウディートル》に任命した。さて、茲に彼の全生涯に影響を及ぼすに至つた一大事件の出来したことを見逃しにする訳にはゆかぬ。彼の指導に委ねられた生徒の一人が、或る学課がまるで出来なかつた時に、指導委員《アウディートル》を買収して採点簿に甲を入れさせようと思つて、バタを塗つた揚煎餅《ブリーン》を紙にくるんで教室へ持つて来たのだ。イワン・フョードロヰッチは公明な心の持主だつたが、をり悪しくその時はひどく空腹だつたため、この誘惑に打ち克つことが出来なかつた。彼は揚煎餅《ブリーン》を受け取ると、本を前に立てかけておいてムシャムシャやり出したが、ひどくそれに夢中になつてゐたものだから、不意に教室の中がまるで死んだやうにしいんと鎮まり返つたことにも気がつかなかつた。彼がハッと我れに返つた時には、すでに粗羅紗の外套の袖口からぬつと出た怖ろしい手が彼の耳を掴んで、教室の真中へ引きずり出してゐた。『揚煎餅《ブリーン》をこちらへお出し! お出しと言つたら、この碌でなしめ!』さう言ふなり、怖ろしい教師はバタつきの揚煎餅《ブリーン》を指で摘んで、窓から外へ投げ棄てた。そして運動場を駈け廻つてゐる児童たちに向つて、それを拾つちやならんぞと厳しく禁じておいてから、すぐにその場でイワン・フョードロヰッチの両手をいやといふほど鞭打つた。――いかさま揚煎餅《ブリーン》を受け取つたのはその手で、からだの他の部分には罪がないとでもいふのだらう。それは兎も角、このことがあつて以来、それでなくても生まれつき小胆な彼に、なほさら臆病風が染みこんでしまつたのだ。恐らくこの事件そのものが因を成して、後年、彼をして絶対に役所勤めに入らうといふ望みを起させなかつたものに違ひない――この経験から、誤魔化といふことの難かしさをつくづく悟つたがために。
彼が二学年に進級して、それまでの簡易釈義書や四則算の代りに、詳細釈義書だの、修身だの分数だのを習ひかかつた時には、年ももう満十五歳になつてゐた。だが、深く進めば進むほどいよいよ学課は煩瑣になるばかりだつたし、ちやうど、父の訃報にも接したりしたので、それからあと二年のあひだ在学してから、母の諒解を得て、P××歩兵聯隊へ入隊した。
このP××歩兵聯隊は、他の多くの歩兵聯隊が属してゐる類ひとは全く趣きを異にして、たいてい村落に駐屯してゐたにも拘らず、へたな騎兵聯隊などの及びもつかぬくらゐ、素晴らしく景気のいい聯隊であつた。大部分の士官が竜騎兵にも負けず凍火酒《ウィモロズキ》をあふり、猶太人の鬢髪《ペイス》を掴んでは引きずり廻した。中にはマヅルカを踊る者さへあつて、P××歩兵聯隊の聯隊長は社交の席で人と談話を交はすやうな場合には、いつも口癖のやうに、それを吹聴することを忘れなかつた。『自分の聯隊には、』と、彼はいつでも一言いつては腹を撫でながら、語るのだつた。『マヅルカを踊る者が沢山をりますぢや、いや実に沢山をりますぢや、非常に沢山!』このP××歩兵聯隊の発展ぶりを更によく読者に示すため、士官のうちに、途方もない賭博者《ばくちうち》で、軍服や軍帽から外套はおろか、下緒《さげを》から、まだその上に、どんな騎兵連の間を捜し廻つても到底見つかりさうにない下著の端に至るまで、すつかり賭けてしまふといつた、恐ろしい豪傑が二人もゐたことを、つけ加へておく。
かうした同僚にとりまかれてをりながら、イワン・フョードロヰッチの臆病さ加減には少しも変りがなかつた。彼は凍火酒《ウィモロズキ》を嗜まず、ただ午餐《ひるめし》と晩餐《ばんめし》の前に火酒《ウォツカ》を一杯やるだけで、マヅルカも踊らなければ、『銀行《バンク》 』もやらなかつたので、自然、いつも独りぼつちでゐる他はなかつた。そんな訳で、他の連中がそれぞれ土地の馬を雇つて小地主の家々へ出かけて行くやうな時にも、彼は自分の室にぽつねんと坐つて、ひとり、善良で、もの静かな気性に適つた所作に耽るのが常で、釦を磨いたり、占ひ本を読んだり、部屋の隅に鼠罠を仕掛けて見たりしたが、最後には、軍服を脱ぎ棄てて、寝台の上に横たはるのが落《おち》であつた。
その代り聯隊ぢゆうにイワン・フョードロヰッチくらゐ几帳面な者はなく、また自分の分隊の指揮が非常に良く行き届いてゐたので、中隊長はいつも彼を模範下士に選んだ。そんな次第で昇進もはやく、旗手の地位を贏ち得てから十一年たつて、少尉に任命された。
この間《かん》に母の亡くなつた知らせを受け取つたが、母の親身の妹で、彼の幼年時代に乾梨《ほしなし》や、非常に美味しい薬味麺麭などを持つて来たり、わざわざガデャーチへ送つて呉れたりまでしたので僅かに憶えてゐる叔母(この叔母は、母と仲違ひをしてゐたので、その後、イワン・フョードロヰッチは絶えて久しく会はなかつたが)――この叔母が、もちまへの親切気から、彼の小さい持村の管理を引き受けたといふことを、事の序でに手紙で彼の許へいつてよこした。
イワン・フョードロヰッチは、この叔母の行き届いた思慮分別を信じきつてゐたので、従前どほり引きつづき勤務につくことが出来た。他の者が彼の地位に在つたならば、これだけの官等を贏ち得ては、さぞかし思ひあがつたことであらうが、驕り高ぶるなどといふことは、まるで彼の与かり知らぬところで、少尉になつてからも、その昔、旗手の地位にあつた頃のイワン・フョードロヰッチといささかの変りもなかつた。この、彼にとつて特筆すべき出来ごとがあつてから四年の後、彼は聯隊と共に、マギリョフスカヤ県から大露西亜への行軍に出発しようとする間際になつて、次ぎのやうな手紙を受け取つた――
『拝啓、御許さま宛に肌着として毛糸の靴下五足と薄麻の襯衣四枚、お送り申しあげ候。なほ御相談申し上げ度き儀は、御承知の如く御許様にも最早重要なる官位を得られ候ことにもあり、且つ今ははや家事に携はるべき年配ともお成りなされ候こと故、このうへ軍隊に御奉公なさる筋はさらさら之無かるべく存じ候。妾ことも最早寄る年波にて御許さまに代りて家事万端のきりもりをするのにいたく難渋いたし居り候。なほ親しくお目もじ致し御許さまに申しあげ度きくさぐさの用件も之有り候へば、是非とも御帰省なさるべく申し入れ候。呉々も嬉しき嬉しきお目もじの叶ふことを念じて相待ち居り候。かしこ。
ワシリーサ・ツプチェヰスカ
愛甥イワン・フョードロヰッチどの
二伸、うちの畠に誠に珍らしい蕪が出来ました。蕪といふよりはいつそじやがいもに似た恰好をしてをりますよ。』
この手紙を受け取つてから一週間の後、イワン・フョードロヰッチは次ぎのやうな返事を書いた。
つひに、中尉に昇進して退職の許可を得たイワン・フョードロヰッチは、*マギリョーフからガデャーチまで四十留《ルーブリ》の約束で猶太人の馭者を傭つて、幌馬車の中に座を占めた。時あたかも樹々の小枝に新緑の若葉もなほ疎らに、大地のすべてが鮮やかにすがすがしい青草に蔽はれ初め、野辺の到る処に春の息吹の感じられる頃であつた。
マギリョーフ マギリョフスカヤ県の首都。ドニェープルに臨んだ河港。
二 道中
道中には、さして目覚しい出来ごともなかつた。彼はもう二週間あまり旅をつづけてゐた。恐らく、それよりずつと前にイワン・フョードロヰッチは村へ帰り著いてゐた筈であるが、信心ぶかい馭者の猶太人が土曜日ごとに安息日を守り、馬衣に身を包《くる》んで、一日ぢゆう祈祷に過したからである。しかしイワン・フョードロヰッチは、先刻も述べた通り、つひぞ退屈といふものを感じたことのない人物であつた。で、その暇に彼は鞄を開けて、下著を取り出し、ためつすがめつ、それが十分に洗濯が出来てをるか、きちんと畳まれてをるかと、検査をしたり、もはや肩章掛のない、新調の軍服についてゐる綿毛《わたげ》を、叮嚀に払ひ落したりして、再びその品々を極めて大切さうに片づけた。彼は書物を読むことは、概して好きでなかつた。時々占い本を覗いてゐるやうなことがあつても、それは、もう幾度も読んで目に馴れた文字を見るだけの楽しみからであつた。ちやうど都会人が、別に新らしい珍談を聴かうがためではなく、ただ其処でいつからとはなしに雑談に花を咲かす癖になつてゐる仲間の顔を見るために、毎日、倶楽部へ出かけて行くのと同然である。また格別社交的なもくろみがあるでもなく、ただ、ずらりと活字になつてゐる氏名を見るのがこの上もない楽しみで、甚く面白さうに職員録を繰返し繰返し、日に何度といふほど読み返す官吏にも似てゐる。『ああ、イワン・ガウリーロヰッチ何某《なにがし》か!…… 』こんな風にその官吏は独りでぼんやり繰返すのだ。『ああ! 此処に俺れも出てをるわい! ふうむ!…… 』かうして次ぎにも亦、再び同じ感歎詞を以つて、それを読み返すのである。
二週間の旅程を経て、イワン・フョードロヰッチは、ガデャーチの手前百露里足らずの地点にある一部落へ到着した。それは金曜日だつた。彼が猶太人とともに幌馬車で旅舎へ乗りつけた時には、もうとうに日は沈んでゐた。
その旅宿は、田舎の小さい村々に設けられてゐる他の旅宿と何ら異るところがなかつた。そこではきまつて、旅客に、駅馬か何ぞのやうに、乾草と燕麦とをひどく熱心に饗応《すす》めるけれど、もし、旅客があたりまへに、十人並の朝餐が摂りたかつたなら、彼は厭でも応でも食慾を次ぎの機会まで我慢するより他はなかつた。さういふことをよく承知してゐたから、イワン・フョードロヰッチは前以つて、二|連《つなぎ》の輪麺麭《ブーブリキ》と腸詰の用意をして来たので、かうした宿屋で決してきらしたことのない火酒《ウォツカ》を一杯だけ注文すると、たたきの床へ脚をしつかり埋め込んだ樫の食卓に向つてベンチに腰をおろして、夕餉をしたためにかかつた。
さうかうしてゐるところへ、馬車の轍の音がしたけれど、その馬車は長いこと内庭へ入つて来なかつた。甲高い声が、この居酒屋をやつてゐる老婆と罵りあつてゐた。『ぢやあ馬車を入れるけれど、』さういふ声がイワン・フョードロヰ ッチの耳に入つた。『その代り、お前んとこで、ただの一匹でも南京虫が俺を刺したが最後、擲りつけて呉れるぞ、誓つて擲りつけて呉れるぞ、このおいぼれ魔法使女《まほふづかひ》め! そして乾草の代は錏一文だつて払ふこつちやないぞ!』
一分ばかりの後、入口の戸があいて、紺のフロックコートを著こんだ、恐ろしくふとつた男が入つて来た、といふよりは這ひずり込んだと言つた方がよいかもしれない。彼の頭は短かい猪頸の上に泰然自若として鎮座してゐたが、そのまた頸が、彼の二重頤のために一層ふとく思はれた。この男は一見して、些々たることには決して心を労することなく、その全生活が坦々として油の上を辷るやうに滑らかに廻転してゆくといつた人物であることが頷かれた。
「いや、今晩は!」と、その男はイワン・フョードロヰッチを眺めて、挨拶した。
イワン・フョードロヰッチは無言のまま、会釈を返した。
「失礼ですが、どなた様でございましたかしら?」と、肥つた新来の客は言葉をつづけた。
かうした質問に依つて、イワン・フョードロヰッチは、是非なく席を立つて、聯隊長から物を尋ねられる時にいつもしたやうに、直立不動の姿勢を取つた。
「退職歩兵中尉イワン・フョードロフ・シュポーニカと申します。」さう彼は答へた。
「甚だ立入つたことをお尋ねいたしますが、どちらへお越しになるのでございますか?」
「自分の所有農園《もちむら》、ウイトゥレベニキへ帰りますので。」
「なに、ウイトゥレベニキですつて!」と、この無遠慮な質問者は叫び声をあげた。「いや、これはどうも、あなた、いや、これはどうも!」さう言ひながら彼は、まるで誰かが捉まへてゐて放さないのか、それとも人ごみの中を掻き分ける時のやうに、両手を振りまはしながら、こちらへ近づくと同時に、イワン・フョードロヰッチを抱きかかへて、まづ右の頬を、次ぎに左の頬を接吻した。イワン・フョードロヰッチにはこの接吻がひどく気持がよかつた。といふのは、この見知らぬ男の大きな頬が、彼の唇に柔かい座褥《クッション》の役目をしたからである。
「いやはや、これはどうも、あなた、どうかひとつお心易く願ひたいもので!」と肥大漢《ふとつちよ》は言葉をつづけた。「私もやはりガデャーチ郡の地主でして、然もあなたとはお隣り同士なんで。あなたのウイトゥレベニキ村からは、ほんの五露里も距れてをらぬホルトゥイシチェが私の持村で、姓名《なまへ》はグリゴーリイ・グリゴーリエヰッチ・ストルチェンコといひますんで。是非とも、是非とも、あなたがホルトゥイシチェへ御来遊下さらなきやあ承知いたしませんよ。今はちよつと急用でいそいでをりますが……。これあどうしたんだい?」と、肘に補布《つぎ》の当つた哥薩克風の長上衣を著た彼の従僕の少年が入つて来て、当惑さうな面持で、食卓の上へ包み物と木箱とを置くのにむかつて、柔和な声で言葉を掛けた。「何だいこれは、何だと?」さう言ひながら、グリゴーリイ・グリゴーリエヰッチの声はいつとはなしに段々荒くなつた。「俺がそれを此処へ持つて来いとお前にいひつけたのか、おい? それを此処へ持つて来いと言つたかといふのだよ、恥しらずめ! 俺は鶏を先きにあたためるやうにいひつけたぢやないか、悪党め! あつちへ行つてろつ!」彼は足を踏み鳴らしながら呶鳴りつけた。「待て、化物野郎! 罎の入つとる小函は何処にあるのだ? さて、イワン・フョードロヰッチ!」と、彼は盃に浸酒《ナストイカ》をなみなみとついで、言葉をつづけた。「どうか一つ、持薬がはりにおやりなすつて!」
「いや、実のところ、から駄目なんでして……もうやりましたので……。」イワン・フョードロヰッチは、しどろもどろに口ごもりながら、答へた。
「いや、そんなことを仰つしやるものぢやありませんよ、あなた!」と、地主は声を高めて言つた。「それあいけませんよ! 召し上つて下さるまでは此処を動きませんからね……。」
イワン・フョードロヰッチは、いなみ難きを見て取ると、まんざら悪くもなささうに、ぐつと一と息に呑み乾した。
「これは牝鶏《めんどり》なんでして、あなた。」と、肥つたグリゴーリイ・グリゴーリエヰッチは、木箱の中で丸焼の鶏をナイフで切り取りながら、語をついだ。「お断わりしておかなければなりませんが、宅のヤヴドーハといふ料理婦は時々ひどい大酒を喰《くら》ひまして、どうかすると、からからに焼き過ぎてしまふのです。おい、こら、小僧つ!」と、この時、哥薩克風の長上衣を著た少年が羽根蒲団と羽根枕とを運んで来たのに対つて、呶鳴つた。「俺の寝床は土間の真中に敷け! 気をつけて枕の下には乾草を高く積んでおくのだぞ! それから、この家の婆あの麻扱《あさこき》から苧屑を一掴み取つて来て、俺の耳の孔に詰めるのだ! お話しなければ分りませんが、あなた、私は一度、或る露西亜の酒場で左の耳の孔へあぶら虫に這ひ込まれた苦い体験から、夜ぶん耳の孔に栓をする習慣になりましてね。後で気がついたんですが、あの忌々しい大露西亜人どもは、あぶら虫の入つた玉菜汁《シチイ》さへ食ふんですよ。実にどうも、その時の気持といつたら、お話にも何にもなりませんでしたよ。耳の中がムヅムヅと擽つたくつて擽つたくつて……いやはや、癇癪玉が破裂しました! だが、私どもの村の、何でもないただの、さる老婆がすつかり癒して呉れましたよ。それがどうして癒したとお思ひになります? ほんの呪禁《まじなひ》ひと言ですよ。医者どものことを、どうお考へになりますか、あなた? 私の考へでは、彼奴らはただもう、我れ我れをごまかしたり、愚弄したりしをるだけなんで。何でもない老婆の方が、あんな医者どもよりは、二十倍も心得がありますよ。」
「いやまつたく、あなたのお言葉は至極御尤もです。どうかすると、その、実に……。」茲でイワン・フョードロヰッチは、続けて言ふべき適当な言葉が見出されないもののやうに口を噤んでしまつた。序でに、彼が概して口の軽い方ではなかつたことを申し添へておく必要がある。恐らくそれは例の弱気から来てゐるのだらう、が、或は又、もつと美しい言ひ現はし方をしようと思つたからかも知れない。
「ようく、乾草を振り捌くのだぞ!」と、グリゴーリイ・グリゴーリエヰ ッチは自分の従僕に対つて言つた。「この辺の乾草は実にひどいから、ひよつとすると、小枝などが混つてゐるかもしれんぞ。ぢやあ、あなた、お寝みなさいまし! 明朝はもうお目にかかれますまい。私は夜明け前に出発いたしますからね。明日は土曜のことで、あなたの猶太人は安息日を守りませうから何も早くお起きになることはありませんよ。どうか私のお願ひをお忘れにならないで下さい。ホルトゥイシチェへお出かけ下さらないと、ほんとに承知いたしませんよ。」
そこでグリゴーリイ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1-7-83]ッチの従僕が、主人のフロックコートと長靴を脱がせて寝衣に著かへさせた。するとグリゴーリイ・グリゴーリエヰッチは、いきなり寝床の上へごろりと横になつたが、それは、まるで厖大な羽根蒲団がもう一つの羽根蒲団の上へ重なつたやうな恰好であつた。
「えい、小僧つ! どこへ行くんだ、悪党! ここへ来て、掛蒲団を直すんだ! こら、やい、枕の下へ乾草を押し込めといつたら! どうだ、もう馬には水を飲ませたか? もつと乾草だ! ここんとこへ、この脇腹の下へだ! それから掛蒲団をよく直すんだ! さうさう、もう少し! あ、あーつ!……」
茲でグリゴーリイ・グリゴーリエヰッチは、もう二度ばかり溜息をつくと、直ぐさま部屋ぢゆうに轟ろき渡るやうなおつそろしい鼾をかき出したが、時々猛烈な鼻号を立てたものだから、寝棚に寝てゐた老婆が目を醒まして、不意にキョトキョトとあたりに目を配つたが、何事もないのを見ると、やれよかつたと安心して、再び睡りに落ちた。
翌朝、イワン・フョードロヰッチが目覚めた時には、肥大漢《ふとつちよ》の地主の姿はもうなかつた。これが彼の道中で遭遇した、たつた一つの、目覚ましい出来事だつた。それから三日目には自分の所有農園《もちむら》の間近に迫つてゐた。
やがて風車場が翼を振り振り見えはじめ、猶太人がその痩馬を鞭打つて丘の上へ登るにつれて下の方に柳の並木が姿を現はした時、イワン・フョードロヰ ッチは自分の胸が激しく鼓動しはじめるのを感じた。柳の木の間からは池が生々として明るい光りを放ち、すがすがしい息吹を吐いてゐた。曾て彼はそこで水浴《みづあび》をした。またこの池の中を、腕白仲間といつしよに、頸まで水につかりながら、蜊蛄《えび》を捜しまはつたこともある。幌馬車《キビートカ》が堰の上へあがると、イワン・フョードロヰッチの眼には、懐かしい茅葺きの古びた家や、いつか彼がこつそり登り登りした林檎や桜桃《さくらんばう》の樹が見えて来た。彼が邸内へ馬車を乗り入れると同時に、四方八方から、茶、黒、鼠、斑《ぶち》等の種々雑多な毛色の犬の群れが駈け寄つた。中には吠え立てながら馬の脚もとへ飛びこんで来るのもあり、また、車軸に脂の塗つてあるのを知つて、後ろへ廻るのもあつた。一匹の犬は台所の傍で、骨を押へて立つたまま、声を限りに吠え立てた。もう一匹の犬は、遠くから吠えながら、前へ出たり、後へ戻つたりして、切《しき》りに尻尾を振つた。その様子がいかにも、『どうです、見て下さい、何と私は立派な若者でせうが! 』 とでも言つてゐるやうだつた。汚れた襯衣《シャツ》を著た腕白どもが物珍らしさうに駈けて来た。十六匹の仔豚をつれて庭を徘徊してゐた牝豚は、探るやうな顔つきで鼻づらを上へあげて、いつもより声高にゲエゲエ唸つた。庭の地べたに、莚にひろげた小麦や稷や大麦が夥しく天日に乾してあつた。
イワン・フョードロヰッチはひどく夢中になつて、さうしたものに見惚れてゐたが、馭者台から降りたばかりの猶太人の腓《ふくらはぎ》に斑犬《ぶちいぬ》が噛みついた時、はじめて我れに返つた。炊事婦《すゐじをんな》と、下働女《したばたらき》と、それから毛織の下袴《ペチコート》を穿いた二人の女中から成る使用人の一隊が駈けよつて、『あれまあ、お邸の旦那様だよ!』 と、先づ一言おつたまげた声で叫んでから、叔母さんは女中のパラーシュカと、それから、時には作男や夜番の役目まで引きうける馭者のオメーリコを連れて、畠へ麦を蒔きつけに行つてゐると告げた。しかし、目ざとくも遠くから蓙掛《ござが》けの幌馬車《キビートカ》を見つけた叔母さんは、はやくも其処へ帰つて来てゐた。そしてイワン・フョードロヰッチは彼女が殆んど彼を両の手で持ちあげるやうにしたので、びつくりして、これが自分の老衰と病弱を訴へてよこした、あの当の叔母かしらと怪しんだ。
三 叔母
叔母のワシリーサ・カシュパーロヴナは、当時五十歳前後であつた。彼女は一度も良人を持つたことがなく、いつも、未婚の生活が自分にとつては何より大切だといふことを口癖にしてゐた。だが、私の憶えてゐるかぎりでは、彼女を嫁に世話しようとする者が一人もなかつたのだ。それは、男といふ男がみな、彼女の前へ出ると、妙に気おくれがして、彼女を口説くだけの勇気が出なかつたことに起因してゐる。 『とても、ワシリーサ・カシュパーロヴナの気性にはかなはん! 』さう未婚の男たちは言ふのだつたが、それは至極尤もなことであつた。ワシリーサ・カシュパーロヴナにかかつては、誰彼なしに、青菜に塩も同様だつたから。全くどうにも始末におへない酔つぱらひの粉屋の大将を、彼女は、男のやうなその手で、彼の房髪《チューブ》をひつ掴んで毎日々々引つぱりまはしたといふだけで、ほかにどういふ手段を用ゐたでもなしに、その男をば、人間といふよりは寧ろ黄金そのものとでも言ふべき優秀な人物に創りかへてしまつたものだ。彼女の背長《せたけ》はほとんど巨人のやうで、またそれに全くふさはしい肉つきと腕力とをそなへてゐた。天が彼女に、ふだんは焦茶いろの細かい襞《ひだ》をとつた婦人服《カポート》を身に著け、復活祭と自分の命名日《なづけび》には赤いカシミヤのショールを纒ふやうに運命づけたのは、大きなあやまりであつた。彼女にはむしろ、竜騎兵式の口髭と、長い騎兵靴とが何よりもふさはしかつたのだ。そのかはり、彼女のすることなすことは、一々その外貌にまつたく似つかはしく、舟を漕がせれば、どんな猟師もかなはないくらゐ巧みに櫂をあやつるし、野禽《とり》も射てば、草刈人夫も厳重に見張る。瓜畠の甜瓜の数は一つのこらず憶えてゐる。うちの堰堤《つつみ》の上をとほる荷馬車からは五|哥《カペイカ》づつの通行税を取る。木登りをして梨を揺り落す。油を売る懶け者の奉公人を、その怖ろしい手で打擲もするが、よく働らく者には、やはり同じいかつい手でウォツカを一杯もつて来てやる。彼女はほとんど同時に、小言もいへば絲も染める、台所へも飛んでゆく、濁麦酒《クワス》を拵らへる、蜂蜜のジャムを煮るで、まる一日ぢゆうかけ廻つて、何処ひとところとして顔出しをせぬ処がない。その結果、イワン・フョードロヰッチの、この小さな所有農園
もちむら》は、最近の人口調査によれば十八人の農奴から成り立つてゐたが、まつたく文字どほりに繁栄してゐた。そのうへ、かの女は熱烈に甥を愛するのあまり、彼のために営々辛苦して、零砕な金まで貯蓄してゐた。
故郷へ帰ると同時にイワン・フョードロヰッチの生活はがらりと一変して、それまでとは全く別個の軌道をとつて進んだ。恰かも彼は生まれながらにして十八人の農奴の村を監理するためにつくられてゐるかの観があつた。当の叔母も、まだ家政の全般に亘つては彼に手出をさせなかつたけれど、ゆくゆくはこの甥が申し分のない一家の主人《あるじ》になるに違ひないと信じてゐた。『あれは、まだまだ若い小僧つ子だもの! 』と、彼女はイワン・フョードロヰッチがもう四十の声をきくのに間もない歳であつたにも拘らず、いつも、かう言ひ言ひした――『 何ひとつ、あれにわかつてゐるものか! 』
だが、彼はいつも欠かさず、麦刈の人夫について野良へも出た。それがまた、彼の温良な魂に何ともいへぬ歓びを与へた。十挺から、それ以上もの、ピカピカ光る大鎌の一致した動き、整然と列になつて倒れる草の音、或は友に逢へるが如く喜ばしげに、或は別離の如く悲しげに、相間々々に歌ひ出される刈手の唄、静かな明朗な夕べ――それがまた、何といふ夕べだらう! 何と奔放で、すがすがしい大気だらう! その時、万象《ものみな》がよみがへる。曠野は赤みを帯び、青みを帯び、様々の色に照り映える。鶉や、鴇《のがん》や、鴎や、さては、螽蟖《きりぎりす》など無数の虫どもが、とりどりの声をあげて鳴き出し、はからずも渾然たる合奏をなして、何れもが束の間も休まうとしない。陽は落ちて地平の彼方に隠れる。おお! その爽やかさ、快よさ! 野良には、此処かしこに焚火の火が燃え、鍋がかけられて、それをとりかこんで髭もじやの刈手どもが坐つてゐる。水団《すゐとん》の湯気が漂ふ。たそがれの色は灰いろを帯びて来る……。さうした折、イワン・フョードロヰッチが、どんな好い気持になつたかは、口では言ひ表はすことも難かしいくらゐだ。彼は刈手たちの仲間いりをして大好物の水団を賞味するのも忘れて、じつとひとつ処に立ちつくしたまま、空の彼方に消えゆく鴎を見おくつたり、野良につらなる、刈り取られた麦の堆積《やま》を数へたりしてゐるのであつた。
程なく、イワン・フョードロヰッチは、到るところで偉い旦那だと取り沙汰されるやうになつた。叔母さんは自分の甥が自慢で自慢で堪らず、何かといへば彼のことを吹聴せずにはゐなかつた。或る日――それは、もう収穫《とりいれ》の終りころで、たしか七月の末のことだつた――ワシリーサ・カシュパーロヴナは、さもおほぎやうな顔つきで、イワン・フョードロッチの手を執りながら、もう永いあひだ気がかりになつてゐた或る用件について、今、相談がしたいと言つた。
「な、イワン・フョードロヰッチ、」さう彼女はきり出した。「知つてのとほり、お前さんの農園《むら》は十八人の農奴だけれど、それは人口調査の上のことで、実際はもつとずつと多くなつて、多分、二十四人には殖えてゐる筈だよ。でもそのことではありません。お前さん、あの、うちの耕地の彼方《むかふ》にある森を知つておいでだらう。そしてその森のむかふの、広い草地もおほかたは知つておいでだらう。あの草地は二十町歩足らずだが、草を毎年、百|留《ルーブリ》以上には売ることが出来るのだよ。噂のやうに騎兵聯隊がガデャーチに置かれることにでもなれば、もつともつとにもなるだらうよ。」
「ええ、それあ知つてゐますとも、叔母さん、とても素晴らしい、好い草ですよ。」
「その、草がとても好いつてことは妾だつて知つてゐますよ。でもお前さん、あの地所がみんな、事実上お前さんのものだつてことは御存じかえ? 何だつてそんなに眼を丸くしたりなどするのです? まあ、お聴き、イワン・フョードロ ヰッチ! お前さんはあの、ステパン・クジミッチを憶えておいでかえ? まあ、妾としたことが、憶えておいでかもないもんだ! お前さんはまだ、その頃は、あの人の名前もよう言はんくらゐ小さかつたんだもの。どうして憶えてなどゐるものか! さうさう、*降世斎節《フィリッポフキ》にはいる前の精進落に、妾がこちらへ来て、お前さんを抱きあげた時だつたよ、お前さんといつたら、すんでのことに妾の一帳羅を台なしにしてしまふ処だつたよ。でも好い塩梅にお前さんのお母さんのマトリョーナが抱き取つて呉れたので助かつたけれど。そんな、お前さんは穢ならしい赤ん坊だつたのさ!……だが、そんなことはどうでも好い。で、うちの村の地続きの土地はみんなあのホルトゥイシチェ村とひとくるめに、あのステパン・クジミッチの持物だつたんだよ。ところでお前さんに話さねばならないことは、そのステパン・クジミッチが、まだお前さんの生まれない前から、お前さんのお母さんのとこへちよくちよく通つたもので――尤もお前さんのお父さんの留守の時に限つてだよ。でも妾はそのことで彼女《あのひと》を咎めだてする気は更々ありません、――どうか後生安楽に成仏して貰ひ度いもんだ――彼女《あのひと》は始終、この妾に不実な仕打ばかりしたものだけれど、しかし、そんなことはどうだつていいが、兎も角、あのステパン・クジミッチが、今も妾がお前さんに話した、あの地所をお前さんに譲るといふ遺言をしたんだよ。ところが亡くなつたお前さんのお母さんといふ女《ひと》は、まあ此処だけの話だけれど、とても変人でね。悪魔に(神様、どうぞこの穢らはしい言葉をお赦し下さい!)だつて彼女《あのひと》の気心は分りやしない。どこへ、一体、その証文を隠してしまつたものか――それは神様より他には、誰にも分りつこないのさ。だが、これはてつきりあのグリゴーリイ・グリゴーリエヰッチ・ストルチェンコといふ、独身の古狸の手に握り潰されてゐるのに違ひないと、妾は睨んでゐます。あの太鼓腹の曲者が、遺産をすつかり横領してしまつたのだよ。あの男がその証文を隠してゐなかつたら、何だつて賭けますよ。」
降世斎節《フィリッポフキ》 降誕祭前の精進期、十一月十五日
より十二月二十五日(旧露暦)まで。
「叔母さん、それは僕が宿場で知合ひになつた、あのストルチェンコぢやありませんか?」さう言つて、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1-7-83]ッチは、自分の遭遇した一部始終を物語つた。
「それあ、あの人のことはよくは知らないよ!」と、少し考へてから叔母さんが答へた。「ひよつとしたら、そんなに悪い人間ではないのかもしれん。実際、あの人がこちらへ引移つて来てから、まだ半年にしかならないのだから、そんな僅かの間《ひま》に人柄を知るつてことは出来るものぢやないからね。何でも、あの人のお袋さんだといふお婆さんは、大層賢い女《ひと》だつてことだよ。人の話では胡瓜漬の名人ださうだ。それに、あすこのうちの女中は大変上手に段通を織るつてことだよ。で、お前さんの言ふやうに、あの人がそんなにちやほやするんだつたら、ひとつ出かけてみて御覧よ。ひよつとしたら古い罪人《とがにん》も良心に立ち返つて、もともと自分のでもない物は返してよこすかもしれないから。多分、半蓋馬車《ブリーチカ》に乗つて行けるだらうが、忌々しいことに腕白どもが後から後から釘を抜き取つてしまつたから、オメーリコにさう言つて、よく革を打ちつけさせんことには。」
「なあに、叔母さん。僕は叔母さんが鳥を射ちに行くとき乗つておいでになる、あの馬車で行きますよ。」
かういふことで、この話には鳧がついた。
四 午餐
イワン・フョードロヰッチがホルトゥイシチェ村へ乗り込んだのは、ちやうど午餐時《ひるめしどき》であつたが、地主の邸が間近になると彼は少しおぢけづいて来た。その家は間口が馬鹿に広くて、近所界隈の地主の家のやうに茅葺ではなく、板葺屋根であつた。邸内にある二棟の倉庫も同様に板葺で、門は樫材で出来てゐた。イワン・フョードロヰッチは、ちやうど、舞踏会に乗りつけた洒落者が、どちらを見ても自分より優れた服装をした客ばかりなのに、聊か面喰《めんくら》つたといつた形だつた。彼は敬意を表して倉の脇で馬車を停めると、そこからは歩いて玄関にかかつた。
「あつ、イワン・フョードロヰッチだ!」と、庭を歩いてゐたグリゴーリイ・グリゴーリエヰッチが喚き出した。彼はフロックを著てゐたが、ネクタイもチョツキもズボン釣りもつけてゐなかつた。それでも彼の肥つたからだには余程その服装がこたへるらしく、顔からは汗が玉をなして流れてゐた。
「どうなすつたんです。あなたは叔母さんに一と目会つておいてすぐ様こちらへいらして下さるといふお約束でしたのに、どうして今日までおいでにならなかつたんです?」かうした言葉に次いでイワン・フョードロヰッチの唇は、例のお馴染の座褥《クッション》に出会つた。
「どうも家事に追はれ勝ちでして……。今日はほんのちよつとお邪魔に上りました、実は少しその……。」
「ほんのちよつとですつて? そんなことは言はせませんよ。おい小僧つ!」さう肥つた主人が呶鳴ると、哥薩克風の長上衣をきた、いつかの少年が台所から駈け出して来た。「早くカシヤンにさう言つて門を閉めさせてしまへ――分つたか! しつかり閉め切つてしまへつて! そして早速この旦那の馬を軛《くびき》から外すんだ。さあ、どうか中へお入り下さい、此処ではとても暑くて、私の襯衣はもう、ぐつしよりなんです。」
イワン・フョードロヰッチは部屋へ通ると、もちまへの小胆にも拘らず、無駄に時間をつひやすことなく、てきぱき事を運ばうと、肚を決めた。
「叔母がその……私に申しますには、何でも亡くなられたステパン・クジミッチの御遺言書とかが、その……。」
この言葉にグリゴーリイ・グリゴーリエヰッチのだだつ広い顔がどんな不愉快な表情を現はしたかは、ちよつと形容に困るくらゐである。
「いや、とんと仰つしやることがよく聴えませんよ!」と、彼は答へた。「お断わりしておかなければなりませんが、私の左の耳へあぶら虫が這入りましてね、(あの碌でなしの大露西亜の髯もぢや先生たちと来たら、もう、家ん中ぢゆう、あぶら虫でうじやうじやさせてをりますからね)その気持の悪さ加減といつたら、とても筆紙に尽すことは出来ません。いやどうも、擽つたくつて擽つたくつて。しかし、さる老婆がごく簡単な方法で癒してくれましたよ……。」
「私がお話をいたしたいと思ひますのは……」と、イワン・フョードロヰ ッチはグリゴーリイ・グリゴーリエヰッチがわざと余所事に言ひ紛らさうとするのを見て、思ひ切つてそれを遮ぎつた。「ステパン・クジミッチの遺言の中に、その何です、贈与契約書とかがあつて……それが、この私に……。」
「いや分りました、叔母さんがあなたにそれを吹き込まれたのですね。それはまつたく根も葉もないことです! 伯父はどんな贈与契約もしませんでしたよ。尤も遺言の中に何かの証文のことは書いてありましたが、いつたいそれは何処にあるのです? 誰ひとりそれを提出しなかつたのです。かう申し上げるのも、真実あなたのお為めを思ふからですよ。誓つてそれは、根も葉もないことです!」
イワン・フョードロヰッチは、ひよつとしたら、実は叔母がそんな風に邪推をしたに過ぎないのかもしれないと思つて、口をつぐんだ。
「おや、母が妹たちといつしよにこちらへ参るやうです!」と、グリゴーリイ・グリゴーリエヰッチが言つた。「てつきり午餐の用意が出来たのです。さあ参りませう!」
そこで彼はイワン・フョードロヰッチの手を執つて一室へ招じ入れた。そこにはウォツカの罎と前菜《ザクースカ》の載つた卓子があつた。
丁度その時、まるきり珈琲沸しに頭巾をかぶせたやうな、背の低い老婆が二人の令嬢――一人は金髪《ブロンド》で一人は栗色髪《ブリュネット》の――と一緒に入つて来た。イワン・フョードロヰッチは物馴れた騎士《ナイト》のやうに、先づ最初に老婆の手に、次ぎに二人の令嬢の手に接吻した。
「お母さん、この方はお隣り村のイワン・フョードロヰッチ・シュポーニカさんですよ!」とグリゴーリイ・グリゴーリエヰッチが紹介した。
老婆はじつとイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1-7-83]ッチの顔を眺めた。或は、ただ眺めたやうに見えただけかもしれない。しかし、それはほんとに人の好ささうな顔つきで、あだかも、イワン・フョードロヰッチに『あなたは冬の用意に胡瓜をどれほどお漬けになりますか?』と訊いてでもゐるやうに思はれた。
「ウォツカは召上りましたかの?」と、老婆が訊ねた。
「お母さん、あなたはきつと寝惚けていらつしやるんですね。」と、グリゴーリイ・グリゴーリエヰッチが言つた。「お客さんに対つてウォツカを召上つたかなどとおたづねする人があるもんですか? あなたはおとりもちをして下さりさへすればいいんです。ウォツカを飲む飲まないはこつちのことです。イワン・フョードロヰッチ! どうぞ、ウォツカは矢車菊を浸けたのにしませうか、それとも、*トゥロヒーモフのにしませうか? どちらをお好みですか? おや、イワン・イワーノヰッチ、君はまた何だつて、そんな処に突つ立つてゐるんだね?」と、グリゴーリイ・グリゴーリエヰッチは後ろを振り返りながら声を掛けた。イワン・フョードロヰッチがそちらを見ると、イワン・イワーノヰッチはウォツカの方へ近づかうとしてゐるところだつた。その人は裾の長いフロックを著て、巨大な立衿の中へ頤をすつかり埋めてゐたので、その首はまるで馬車にでも乗つたやうに、衿の中に坐つてゐた。
トゥロフィーモフ 当時の火酒醸造所の名前。
イワン・イワーノヰッチはウォツカの傍へ近寄ると、先づ手を拭いて、さかづきを仔細に検査してから酒を注いで、ちよつと明りにすかして見て、一度にそのさかづきのウォツカを口の中へ流し込んだが、直ぐにはそれをのみくださないで、口中をよく洗ふやうにしてから、ゴクリと飲みくだして、平茸の塩漬を添へた麺麭で口直しをしてから、イワン・フョードロヰッチの方へ向き直つた。
「いや、失礼ですが、あなた様はイワン・フョードロヰッチではいらつしやいませんか、あのシュポーニカさんでは?」
「仰せの通りです。」と、イワン・フョードロヰッチが答へた。
「いやどうも、私が存じあげてゐた頃のあなたとは実にえらいお変り方で、いや実にどうも!」さう言つて、イワン・イワーノヰッチはなほも言葉をつづけた。「私はあなたがこんなくらゐでいらつしやつた頃のことを、よく存じてをりますよ!」さう言ひながら、彼は掌を床から二尺あまりの高さに上げて見せた。「お亡くなりになりました御尊父は――どうぞあの方に天国の恵みがありまするやうに!――実に稀に見る御仁でした。あの方のおつくりになるやうな西瓜や甜瓜は、たうてい今時、どこを捜し廻つても見つかりつこないほどの逸物でしたつけ。けふもこの家《うち》で、」と、彼はイワン・フョードロヰッチを傍へ引つぱつて行つて耳こすりをした。「屹度あなたに甜瓜をすすめますがね――それが、いやはや、どんな甜瓜でせう? 見るのも嫌になりますよ! ところで、どうでせう、御尊父のおつくりになつた西瓜と来たら、」さう言ひながら彼は荘重な顔つきをして、大木の幹でも抱へるやうに両腕を拡げた。「慥かにこれ位はありましたよ!」
「どうぞ食卓《テーブル》にお就きになつて下さい!」と、グリゴーリイ・グリゴーリエヰッチがイワン・フョードロヰッチの手を執つて言つた。
グリゴーリイ・グリゴーリエヰッチは、いつも自分の坐る食卓の一端に、恐ろしく大きなナフキンを胸に捲きつけて、席についた。その恰好が、まるで理髪店《とこや》の絵看板によくある図そつくりであつた。イワン・フョードロヰ ッチは顔を赧らめながら、指定された席に、二人の令嬢と差し向ひに坐つた。イワン・イワーノヰッチはすかさず彼の隣りに陣取つて、内心、自分の博識を見せびらかす相手の出来たことを悦んだ。
「おや、イワン・フョードロヰッチ、あなたはそんな尾部《クープリック》なんぞお取りになつて! これは七面鳥でございますよ!」と老婆は、イワン・フョードロヰッチの前へ、黒い補衣《つぎ》の当つた鼠いろの燕尾服を著た土臭い給仕が、料理の載つた皿を差し出した時、その方へ振り向いて言つた。「どうぞ背肉《スピンカ》をお取り下さいませ!」
「お母さん! 誰もあなたに余計な世話を焼いて下さいと頼みやしませんよ!」と、グリゴーリイ・グリゴーリエヰッチが咎めた。「お客様は何処を取つたらいいか、ちやんとお心得になつてをりますよ! イワン・フョードロヰッチ! 翼部《クルイリシコ》をお取り下さい。いや、そちらのを胎子《はらご》といつしよに! どうして又あなたはそれつぱかしお取りになつたんで? 股肉《ももにく》をお取り下さい! こら、何だつて貴様は皿を持つたままぼんやり口を開けてるのだ! おすすめしろ、悪党、膝をついて! 疾く申し上げるんだ、『 イワン・フョードロヰッチ、どうぞ股肉をお取り下さいまし 』 つて!」
「イワン・フョードロヰッチ、どうぞ股肉をお取り下さいまし!」さう、膝まづいて皿を捧げたまま、給仕が言つた。
「ふん、これが七面鳥か!」と、蔑むやうな顔つきでイワン・イワーノヰ ッチが、自分の隣人を顧みながら、小声で言つた。「これが七面鳥でなければならんものでせうかね? ほんとに、手前どもの七面鳥を御覧に入れたいもんで! まつたくの話が、一羽でこんなのの十羽分以上は脂肪《あぶら》がのつてゐますよ。ほんとになさらないかも知れませんが、そいつらが宅の庭を歩いてゐるのを見ますと、まつたく気味が悪いくらゐ――それほど脂肪《あぶら》がのつてゐるのですよ!……」
「嘘を吐《つ》き給へ、イワン・イワーノヰッチ!」その話を小耳にはさんで、グリゴーリイ・グリゴーリエヰッチが口を入れた。
「お話いたしますが」と、イワン・イワーノヰッチはまるでグリゴーリイ・グリゴーリエヰッチの言葉が聞えなかつたやうな振りをしながら、自分の隣人に同じ調子で語りつづけた。「去年、私が七面鳥をガデャーチへ持つて行きましたところ、一羽五十哥づつで引き取ると申しましたが、それでも売るのが惜しかつたくらゐですよ。」
「イワン・イワーノヰッチ! 君は、出鱈目を言つてるんだといつたら!」グリゴーリイ・グリゴーリエヰッチは、一層はつきり聞えるやうに、一語々々句切つて声を張りあげた。
しかし、イワン・イワーノヰッチは、まるで自分には関係のないことのやうな振りをしながら、同じ調子で言葉をつづけたが、それでも余ほど声を落して、「実際、惜しいと思ひましたよ、あなた。ガデャーチ郡の地主のうち一人だつて……。」
「イワン・イワーノヰッチ! 君は馬鹿だよ、それつきりのことさ。」と、グリゴーリイ・グリゴーリエヰッチは大声に呶鳴つた。「イワン・フョードロヰ ッチは、そんなこたあ何もかも、君より良く御存じなんで、君の法螺なんか信用されるもんか。」
茲でイワン・イワーノヰッチはすつかり機嫌を損じて口をつぐみ、見るのも気味が悪いといふほどには脂肪《あぶら》ののつてゐない、眼の前の七面鳥を平げにかかつた。
ナイフやスプーンや皿の音が、暫らくの間は談話に取つて代つたが、グリゴーリイ・グリゴーリエヰッチが仔羊の骨の髄をしやぶる音が何よりも騒々しかつた。
「時に、あれをお読みになりましたですか?」と、暫らくの間だまつてゐてから、例の馬車のやうな立衿からイワン・フョードロヰッチの方へ首を差し出しながら、イワン・イワーノヰッチが訊ねた。「あの*『コロベイニコフの聖地巡礼記 』といふ書物を? 実にどうも、素晴らしく面白い本ですねえ! 今時ああした書物はからつきし出ませんね。あれは何年の出版だつたか、つい見落したのが残念ですよ。」
コロベイニコフ 初め莫斯科の商人であつたが、一五八二年ヨハン 四世 ため、聖地アソスの山へ行き、一度帰国してから再び聖地巡拝に 赴のため、パレステ ィナから基督の霊柩模型を莫斯科へ携へ帰つ た。 (一五九三年)。彼 著書といはれる、浩瀚な『聖地巡礼記』は露西亜の 宗教 界に於 て非常に有名なものであつた。
イワン・フョードロヰッチは書物の話が出たなと思ふと、てれかくしに、せつせとソースを自分の皿へよそひ始めた。
「実に驚ろくべきではありませんか、下賤な町人の身を以つて聖地を残らず巡つたのですからね。実に三千露里以上ですよ! 三千露里以上! 彼がパレスチナやエルサレムに行くことが出来たのは、一に上帝の御恵みに他なりませんて。」
「では、何ですか、その人は、」と、エルサレムのことを、よく従卒から聞かされてゐたイワン・フョードロヰッチが言つた。「その、エルサレムへも行つたとおつしやるので?」
「何のお話ですか、イワン・フョードロヰッチ?」と、食卓の端からグリゴリイ]・グリゴーリエヰッチが口を挿んだ。
「私は、つまり、その、なんです、実にどうも、そんな遠い国々がこの世にあるのかと、さう申しただけなんです!」と、イワン・フョードロヰッチが言つた。彼はこんなに長い、むつかしい文句を一気に言つてしまつたことに心から満足してゐた。
「その男の言ふことなんぞ真《ま》に受けてはいけませんよ、イワン・フョードロヰッチ!」と、碌に相手のいふことも聴かないで、グリゴーリイ・グリゴーリエヰッチが言つた。「みんな、口から出まかせですよ!」
さうかうするうちに午餐は終つた。グリゴーリイ・グリゴーリエヰッチは、いつもの習慣《ならはし》で少し横になるために自室へ引きさがつた。で、お客は老主婦と二人の令嬢の案内で客間へ移つた。その部屋の卓子の上には、さつきウォツカを残しておいて食事に赴いた筈であつたのに、何かのからくりみたいに、今はそれにかはつて、あらゆる種類のジャムの皿や、西瓜だの、桜ん坊だの、胡瓜だのを鉢に盛つたのが、処せまくならべてあつた。
万事にグリゴーリイ・グリゴーリエヰッチのゐないことが目立つた。老主婦の口は一段と軽くなつて、誰も頼みもしないのに、自ら進んで、*パスチーラや乾梨の拵らへ方の秘訣をいろいろ打明けた。令嬢たちも談話の仲間いりをしたが、しかし二十五歳ぐらゐに見える姉娘より六つばかりも年下らしい、金髪の妹娘の方は沈黙がちであつた。
パスチーラ 果実や漿果を砂糖蜜で煮とかし、型に入れて半ば固めたもの。
だが、イワン・イワーノヰッチが誰よりもよく話したり、動きまはつたりした。今や誰も自分を貶したり混ぜつかへしたりする者のないことを確信した彼は、胡瓜に就いて論じたり、馬鈴薯の植ゑ方を説いたり、また昔は実に賢い人々があつた――たうてい今時の連中とは同日に談ずべくもない!――などと言ふかと思へば、日進月歩の勢ひでますます人智が進んで、実に巧妙極まる物が発明されるなどと感嘆する。一口に言へば、彼は心を浮き立たせるやうな雑談が何よりも好きで、しまひにはただ口にのぼすことの出来る限り矢鱈にしやべり散らすといつた類ひの人物であつた。話が厳粛敬虔な問題に触れる時には、イワン・イワー ヰッチは一語々々の後で頷いては溜息をつくのだつた。農作上のこととなると、例の馬車のやうな立衿から首をぬつともたげて、一と目みれば、梨入りの濁麦酒《クワス》はどうして造るべきか、甜瓜がどの位に大きいか、庭を駈けまはる鵞鳥がどんなにふとつてゐるかが、直ちに読み取られるやうな顔つきをして見せた。
もう日暮になつてから、やつと、イワン・フョードロヰッチは暇を告げることが出来た。もちまへのおとなしさにも似ず、泊つて行けと言つて、たつて引き止められたにも拘らず、彼は帰らうといふ初一念を貫いて、つひに帰途についたのであつた。
五 叔母の新らしい計画
「さあ、どうだつたえ? あの老悪党《ふるだぬき》の手から、首尾よく証文を引き出すことが出来たかえ?」と、イワン・フョードロヰッチの顔を見ると同時に、叔母さんはいきなりかう訊ねた。彼女は辛抱がしきれずに、もう幾時間も前から玄関へ出て甥の帰りを待ちあぐねてゐたが、たうとう我慢がならなくなつて、門前まで飛び出してきてゐたのだ。
「いいえ、それがねえ、叔母さん、」と、馬車を降りながらイワン・フョードロヰッチは答へた。「グリゴーリイ・グリゴーリエヰッチの手許には、そんな証文は無いのださうですよ!」
「それをお前さんは真に受けて来たのかえ? 嘘を吐いてるんだよ。あの碌でなしめ! いつか今度出会つたら、ほんとに、この手でひつぱたいて呉れるのに、ううん、屹度あいつの脂肪《あぶら》を絞つてやるよ! しかし、それより裁判にかけてでも取り戻せるものかどうか、ひとつ裁判所の書記に訊ねて見なくつちやあ……。だが、それは又その時のことだが、どうだつたえ、午餐《おひる》には御馳走があつたかえ?」
「素晴らしく……いや大したものでしたよ、叔母さん!」
「へえ、それでどんな料理が出たといふのだえ? 一つ話しておくれ、何でもあすこのお婆さんと来ては、台所の監督の名人だつてことだから。」
「酸乳皮《スメターナ》入りの酸乳煎餅《スヰールニキ》が出ましたよ、叔母さん。それから詰め物をした鳩をソースに浸けたのだの……。」
「梅を詰めた七面鳥は出なかつたかえ?」と、その料理にかけては自分が非常な名人であつただけに、叔母さんはさういつて訊ねたものだ。
「七面鳥も出ました!……それよりも、たいへん美しいお嬢さんがゐましたよ――グリゴーリイ・グリゴーリエヰッチの妹さんたちですが、中でも金髪の娘さんがきれいでした!」
「おや、おや!」さういつて叔母さんは、イワン・フョードロヰッチの顔をまじまじと見まもつた。イワン・フョードロヰッチはまつ赤になつて眼を伏せた。新らしい考へが忽ち叔母さんの頭に閃めいた。「さあ、それでどうしたといふのだえ?」と、彼女は好奇心に駆られながら、まくし立てるやうに訊ねた。「いつたい、その娘の眉はどんなだつたえ?」この叔母さんが女の美しさを口にする時には、いつも先づ眉のよしあしを第一にいふのが常であつたことを申し添へておく必要がある。
「その眉がですよ、叔母さん、あなたが常々お話になる、その、叔母さんのお若い頃の眉にそつくりなんですよ。そして顔ぢゆうに細かい雀斑《そばかす》があるんです。」
「おや、さうかえ!」と、別段お世辞にいつた心算《つもり》でもなかつたイワン・フョードロヰッチの、その註釈に満足して叔母さんが語をついだ。「それで、着物はどんなのを著てゐたえ? それあね、何といつたつて今時この妾の部屋着《カポート》のやうな丈夫な布《きれ》は、なかなか見つけようたつて見つかるものぢやないけれどさ。それは兎も角、お前さんはその娘に、その、何か、お話をおしだつたかえ?」
「と仰つしやるとつまり、何ですか……僕がその、ねえ叔母さん? その、ひよつと叔母さんは、もうそんな風に……。」
「何がどうしたとお言ひなんだえ? 別に不思議なことがあるものか? それが神様のお思召なのさ! 若しかしたらお前さんとその娘とは、前《さき》の世から一緒になるやうに定まつてゐたのかもしれないよ。」
「何だつて叔母さんはそんな風に仰つしやるのか、とんと僕には分りませんよ。それが、この僕といふものをちつとも御存じない証拠ですよ……。」
「そうら、もう腹を立ててるんだよ!」と、叔母さんは言つた。『ほんとにまだ、からつきしのねんねえだ! 』 と、彼女は心の中で呟やいた。 『何にも知らないんだよ! これは一つ、両人《ふたり》をいつしよにしてやらなきやならん。先づ第一に馴染みにしてやらなくつちやあ! 』
茲で叔母さんは、イワン・フョードロヰッチを一人のこしておいて、台所を覗きに立つて行つた。
だがこの時以来、彼女はひたすら一日も早く甥に妻帯させて、初孫の守をしたいものだと、ただ一途《づ》にそのことばかり考へるやうになつた。彼女の頭には、あれやこれやと、ただ婚礼の支度のことばかりが折り重なり、目立つて何彼の用事に前よりも一層せはしなく駈けまはるやうになつた。とはいへ、さうしたことが好都合に運ぶどころか、却つて、悪結果を来すばかりであつた。時々|麺麭菓子《ピロージュノエ》を(彼女は大抵それを料理女に委せておかなかつた)拵らへながら、彼女は我れを忘れて、傍に小さい孫が菓子をねだつてゐるやうに空想して、うつかり美味《おいし》さうな処をちぎつてはさし出すのであつた。ところがその都度、番犬が得たり賢しとその美味《おいし》い麺麭菓子をぱつくりくはへては、ガツガツ言ひながら食つてしまふので、その物音に初めて我れに返つた叔母さんはいつも火掻棒で犬を打つたものだ。そのうへに叔母さんは、自分の大好きな慰みを止めてしまつて、狩猟《かり》にも出かけなくなつた。稀《たま》に出かけることがあつても、鷓鴣と間違へて烏を射つたりした。そんなことは、前にはつひぞなかつたことである。
それから四日ばかり経つと、納屋から半蓋馬車《ブリーチカ》が庭へ曳き出された。馭者のオメーリコ――彼は時には作男であり、時には夜番でもあつた――が、朝早くから鉄槌《かなづち》でカンカンと革を打ちつけながら、あとからあとから車輪の脂を舐めに来る犬どもを引つきりなしに追ひ立てた。それは正しく、かのアダムが乗用した半蓋馬車《ブリーチカ》そのものであつたことを読者に予め御披露しておく必要がある。で、万一、誰かが、アダムの用ゐた馬車が他にあるやうなことを言つても、それは真赤な嘘で、てつきりその馬車は偽物でなければならぬ。茲に全く不可解な一事は、この馬車がノアの洪水からどうして助かつたかといふことであるが、恐らくノアの箱船には、特別な置場があつたものに違ひない。この半蓋馬車《ブリーチカ》の恰好を如実に読者諸子に描写して御覧に入れることの出来ないのは甚だ残念である。言ふまでもなく、ワシリーサ・カシュパーロヴナにはこの馬車の構造が非常に気に入つてゐて、いつもこの旧式な馬車が流行遅れとして葬り去られることを口惜しがつた。この半蓋馬車《ブリーチカ》の形は少し傾いてゐて、右側が左側より余ほど高かつたが、それがまた彼女にひどく気に入つてゐた。といふのは、彼女の言ひ草では、一方からは背長《せたけ》の小柄な人が、他方からは大柄な人が乗るのに都合が好いといふのであつた。然もその馬車の内部と来ては、小柄な人なら五人、この叔母さんのやうな大柄な人でも三人は、裕に坐ることが出来た。
正午《ひる》ころ、一通り馬車の手入れが終ると、オメーリコは厩から、半蓋馬車《ブリーチカ》よりは幾らか年齢《としは》の若い三頭の馬を曳き出して、その偉大なる馬車に繋いだ。イワン・フョードロヰッチが左側から、叔母さんが右側からそれに乗り込むと、馬車は動き出した。途中で出会つた百姓どもは、この立派な馬車を見ると、(叔母さんは滅多にこの馬車で出かけなかつたので)恭々しく立ち停つては、帽子を脱いで最敬礼をした。
二時間ばかりの後、馬車が玄関さきに停つた――いふまでもなくストルチェンコ家の玄関さきである。グリゴーリイ・グリゴーリエヰッチは不在だつた。老婆が二人の令嬢と共に客を食堂へ迎へ入れた。叔母さんはさつさと大股に進み寄るなり、非常に素早く片方の足をにゆつと前へ踏み出して、声高らかに次ぎのやうな挨拶をのべた。
「奥様、かうして直々お目通りをして御機嫌を伺ふことの出来ましたのを何より喜ばしく存じます。それに、先だつてはまた、甥めが、お手厚い御歓待に預りまして、有難うございました。イワン・フョードロヰッチはそれを大変自慢に致してをります。時に、奥様のお宅の蕎麦の出来栄は大層お見事でございますこと――こちらへ上ります道すがら拝見いたして参りましたよ。いつたい一町歩から束《そく》にしてどの位お収穫《とり》になりますか、ひとつ承はり度う存じますが。」
この挨拶に次いで、先づ一同の接吻が交はされた。客間に通つてから、老主婦は初めて口を切つた。
「蕎麦のことはいつかうに存じませんので。さういふことはグリゴーリイ・グリゴーリエヰッチに委せきりでございまして、もう妾は疾《とう》からその方のことには手出しをいたしません。それに出来もしないのですよ、もうこの年齢《とし》でございますから! 宅の蕎麦は以前は帯の辺までもございましたものですが、今時のことはどうですか、分つたものではありませんよ。尤も何によらず当節は良くなつた良くなつたと申してをるやうでございますけれど。」ここで老婆は溜息を一つついたが、誰か第三者がそこに居合はせたなら、この溜息の中に古い十八世紀の吐息を感得したことだらう。
「お宅様の女中さん方はまた、大層上手に段通をお織りだといふお話を承はつてをりますが。」と、ワシリーサ・カシュパーロヴナが言つた。それが老婆の最も感じ易い神経を刺戟して、この言葉に依つて、まるで蘇つたやうに元気づいた彼女は、単糸《ひとへいと》の染色から、撚糸《よりいと》の準備に至るまで、こと細かに物語つた。
談話は忽ち段通のことから胡瓜漬や乾梨のことに移つた。一言にしていへば、一時間と経たぬ間に、この二人の老婦人は、百年も前から懇意な仲であつたかの如く、盛んに話し込んでゐたのである。やがてワシリーサ・カシュパーロヴナは妙にひそひそと、小声でばかり話し出したので、イワン・フョードロヰッチは何ひとこと聞き取ることが出来なかつた。
「それでは一つお目にかけませうかな?」さう言つて、老主婦は立ちあがつた。
それに次いで令嬢たちとワシリーサ・カシュパーロヴナが座を立つた。そして一同は女中部屋をさしてぞろぞろと歩き出した。だが、叔母さんはイワン・フョードロヰッチに、後に残るやうにと目くばせをして、老婆に何やら小声で囁やいた。
すると老婆は金髪の令嬢の方を振り返つて、かう言つた。
「マーシェンカ! お前はお客さまと御一緒に此処に待つておいで、そしてお退屈だらうから何かお話のお相手でもしていらつしやい!」
金髪の令嬢は客間に残つて、長椅子に坐つた。イワン・フョードロヰッチは、さながら針の蓆に坐る思ひで椅子に就くと、まつ赤になつて眼を伏せた。しかし令嬢は、まるでそんなことは気にも止めないもののやうに、すました顔をして、長椅子に腰かけたまま、しきりに窓や壁を眺めたり、椅子の下をコソコソ駈け抜ける仔猫を見やつたりしてゐた。
イワン・フョードロヰッチはやや勇気を取り戻して、何か話しかけようと思つたけれど、まるでこちらへ来る途中、すつかり言葉といふものを落つことして来でもしたやうに、彼の頭には何一つ、話題を思ひつくことが出来なかつた。
沈黙が十五分くらゐも続いた。令嬢は依然として坐つてゐる。
やつとのことに、イワン・フョードロヰッチは勇を鼓して、半ば顫へ声で口を切つた。
「夏はどうも、たいへん蠅が多いですねえ、お嬢さん!」
「ほんとに大変なんですわ!」と、令嬢が答へた。「兄がわざわざ、母の古靴で蠅叩きを拵らへましたのですけれど、やつぱり、まだとても大変ですわ。」
これで会話は再び杜絶えてしまつて、イワン・フョードロヰッチには最早それ以上、どうにも言葉のいとぐちを見つけることが出来なかつた。
その中に老主婦が、叔母さんや栗色髪《ブリュネット》の令嬢と一緒に戻つて来てしまつた。それから、また暫らくおしやべりをしてから、ワシリーサ・カシュパーロヴナは、是非泊つて行つて貰ひ度いとみんなから引き止められたけれど、老主婦や令嬢たちに暇を告げた。老主婦や令嬢たちは玄関まで客を見送つて、馬車の中から顔をのぞけてゐる叔母さんとイワン・フョードロヰッチとに何時までも会釈を送つた。
「さあ、イワン・フョードロヰッチ、お前さんは、あのお嬢さんと二人きりで、どんなことをお話しだつたえ!」と、叔母さんが途々たづねた。
「たいへん気立ての優しい、上品な娘さんですねえ、あのマリヤ・グリゴーリエヴナは!」とイワン・フョードロヰッチが答へた。
「時にイワン・フョードロヰッチ、妾お前さんに真面目に話したいことがあるのだよ。お前さんもお蔭でもう三十八にもおなりだし、官等も決して恥かしくはないのだから、そろそろ子供のことを考へなきやなりません! 何は措いてもお嫁を迎へることにしないでは……。」
「何ですつて、叔母さん!」と、びつくりしてイワン・フョードロヰッチが叫んだ。「ヨ、嫁ですつて! 以つての外です。叔母さん、ほんとに後生です……。あなたはまつたくこの僕に恥をかかせなさるんです……。僕はこれまで、まだ一度も、妻を持つたことはないんです……。妻なんて、いつたいどうするものだか、まるきり知らないんです!」
「ぢきお分りだよ、イワン・フョードロヰッチ、お分りだとも。」と、叔母さんは笑ひながら言つた。そして心の内で、『しやうのない! まるでねんねえで、何にも知りやあしないのだよ! 』 と呟やいた。それから声に出して彼女はつづけた。「でね、イワン・フョードロヰッチ! お前さんには、あのマリヤ・グリゴーリエヴナがほんとに似合ひだよ、あれ以上の嫁を探さうたつて、見つかるこつちやありません。それにお前さんにはあの娘《こ》が大変に気に入つておいでだし。妾はもうそのことで、いろいろあのお婆さんと談し合つたんだよ。あのお婆さんも、お前さんを娘の婿にすることを、ひどく嬉しがつてるのだよ。しかし、あのグリゴーリイ・グリゴーリエヰッチが何と言ふか、それは分らないけれど、あの人のことは考へないことにしよう。ただ万一にも持参金を呉れないやうだつたら、その時こそ訴訟を起して彼奴《あいつ》を……。」
ちやうどその時、馬車は邸に近づき、年老いた痩馬は、己が厩の間近くなつたことを感づいて、急に活気づいた。
「いいかえ、オメーリコ! 馬には先づ、よく息を入れさせるんだよ。軛をはづして直ぐに水を飲ましちやいけないよ、癇が立つてをるから。それでさ、イワン・フョードロヰッチ」と、馬車を降りながら言葉をつづけた。「妾はお前さんに、ようく、このことを考へておいて貰ひ度いのですよ。妾はまだちよつと台所を覗いて来なきやなりません。ソローハに夕食を言ひつけることを忘れてゐたが、あのぼんやりが独りで気を利かせるやうなことは、ほつても無いからね。」
しかし、イワン・フョードロヰッチはまるで雷にでも撃たれたやうに立ち竦んでしまつた。なるほどマリヤ・グリゴーリエヴナは大変いい娘だ、しかし結婚!……それは彼には実に奇妙なことに思はれて、考へただけでもぞつとした。妻との同棲! さつぱり分らない! 自分の部屋に独りで落つくといふことも出来ず、年がら年ぢゆう、妻と鼻を突き合はせてゐなければならないなんて!……彼は考へれば考へるほど、その顔に、脂汗がにじみ出して来るのであつた。
いつもより早目に彼は寝床へ入つたが、どんなに眠らうとしても、寐つくことが出来なかつた。しかし、やがてのことに、待ちに待つた、あの万人に共通な慰藉である睡魔が彼を訪れた。だが何といふ奇妙な夢を見たことだらう! 彼は未だかつてこれほど辻褄の合はぬ夢を見たことがなかつた。見ると、ぐるりがガヤガヤとざはめき、グルグル廻つてをり、彼自身は力かぎり根かぎり一散に駈けてゐるのだ……。ところが、もうどうにも根がつづかなくなつてしまふ。と、突然、誰かが彼の耳をつかまへる。『おい、誰だ? 』 ―― 『あたしよ、あなたの妻よ! 』 さういふ声がざはめきの中から彼に答へた。そして不意に彼は夢から覚めた。と、今度はもう彼は妻帯してゐるのだが、彼等の家の中は実に奇妙なのだ。彼の部屋には一人用の寝台ではなく二人用の寝台があつて、椅子には妻がかけてゐる。彼には実に変てこで、どうして妻の傍へ行つたものか、何といつて彼女に話しかけたものか、さつぱり分らない。よく見ると、妻の顔が鵞鳥の顔をしてゐる。傍らを見ると、もう一人の妻がゐて、やつぱり鵞鳥の顔をしてゐる。また反対側を見ると、そこにも妻が立つてゐる。うしろを向くと、そこにも妻が一人ゐる。そこで彼はすつかりおびえあがつてしまひ、一目散に庭へ駈け出した。ところが、庭は蒸暑いので帽子を脱ぐと、帽子の中にも妻が一人坐つてゐる。汗がタラタラと顔を流れる。ハンカチを取り出さうとしてポケットへ手を突つ込むと、そのポケットの中にも妻がゐる。耳に詰めてあつた綿を取ると、そこにも妻が坐つてゐる……。そこで不意に、彼は片足でピョンとはねあがつた。すると、叔母さんが彼を見ながら、真面目くさつた顔つきで、 『さうさう、はねあがらなきや駄目だよ。今ぢや、お前さんはもう女房持ちだから。』といふ。彼が傍へ近寄つて見ると、叔母さんだと思つたのが、もう叔母さんではなく、鐘楼になつてゐる。そして気がつくと、誰かが彼を綱でその鐘楼へ釣りあげようとしてゐる。 『誰だ、俺を釣りあげようとしてるのは? 』 と、イワン・フョードロヰッチが情けない声で訴へた。 『あたしよ、あなたの妻よ、あなたは釣鐘だから、釣りあげるのよ! 』―― 『違ふよ、俺は釣鐘ぢやないよ、俺はイワン・フョードロ ヰッチだよ! 』と、彼が叫んだ。 『いや、君は釣鐘だよ。 』と、P××歩兵聯隊の聯隊長が、傍をとほりながら言つた。すると今度は不意に、妻といふものが全く人間ではなく、一種の毛織物になつてゐるのだ。彼はマギリョーフ市の或る商店へやつて行く。すると、 『 どういふ布地《きれぢ》が御入用でございますか? 』 と、商人が訊ねるのだ。 『妻をお持ちなさいませ、近頃、これが最新流行の織物でございますよ! 素晴らしく上等の布地《きれぢ》でございまして、皆さまがこれでフロックコートをお拵らへになりますので。 』 商人が尺を計つて、妻を断つ。イワン・フョードロヰッチはそれを、小腋に抱へて猶太人の裁縫師の店へ行く。 『 これあ駄目です。 』 と、猶太人が言ふのだ。 『これはくだらない布地《きれぢ》ですよ! こんな品でフロックなど拵らへる者はありませんよ……。 』
恐怖のあまり、正気を失つたやうになつて、イワン・フョードロヰッチは夢から醒めた。冷汗がタラタラと流れた。
朝になつて起きあがるなり、彼は占ひ本を開けて見た。その巻末には、珍らしく行き届いた書肆《ほんや》の親切で、簡単な夢占ひが附録につけてあつた。しかしその中にも、いつかう、さうした辻褄の合はぬ夢に該当するものは見当らなかつた。
それはさて、一方、叔母さんの頭の中には、全く新規な計画が成熟しつつあつた。それは次ぎの章を見てのお楽しみ ――一八三二年――
底本:「ディカーニカ近郷夜話 後篇」岩波文庫、岩波書店
1937(昭和12)年9月15日第1刷発行
1994(平成6)年10月6日第7刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※底本の中扉には「ディカーニカ近郷夜話 後篇」の表記の左下に「蜜蜂飼ルードゥイ・パニコー著はすところの物語集」と小書きされています。
※「*」は訳注記号です。底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付いています。
※「糸」と「絲」は新旧関係にあるので「糸」に書き替えるべきですが、底本で混在していましたので底本通りにしました。
入力:oterudon
校正:伊藤時也
2009年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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