01
さていよいよ二冊目の本を御覧に入れる、いや二冊目といふよりは寧ろ最後の本といつた方がよい! ありやうは、これも公《おほやけ》にするのは全く不本意なことなんで。実際、もういい加減に身の程を知つてもいい頃ぢや。実を言へば、そろそろ村でも、わしのことを哂笑《わら》ひだしをつたのぢや。その言ひ草が、ほいほい、老爺《ぢい》さんもすつかり耄《ぼ》けてしまつたよ。あの高齢《とし》をからげて、こんな子供だましみたいな物を拵らへて御恐悦なんだからなあ!と、かうぢや。まことに尤もな話で、もう疾《とつ》くに楽隠居でもして落ちついてゐるのがほんたうぢやて。ひよつとすると、親愛なる読者諸君は、わしがこんなことを言つてわざと老人《としより》ぶつてゐるのだとお思ひかも知れんが、どうしてどうして、口に一本の歯も無くなつた今日、何を好んで老人ぶることがあらう! この頃では何か柔かいものにでもあたれば、まあ、どうにか食へもするが、ちよつと固いものにでもぶつかつたら、てんで噛み切ることも出来ませんのぢや。兎も角、またこの本を一冊お目にかける! が、どうか頭《てん》からこきおろしたりはしないで頂き度い! 別れ際に悪口を浴びせるのは宜しくないことぢや、殊に何時また会へるやら知る由もない相手にむかつては尚更のことぢや。さて、この本では、ひとりフォマ・グリゴーリエッチを除けば、殆んど諸君にとつて新顔の話し手ばかりの物語を御披露する次第ぢや。あの、よほどの才子や莫斯科人の大部分にもちよつと呑みこみにくいやうな気障な言葉づかひで話をした、例の豌豆いろの長袗《カフターン》を著た貴公子先生からはもう、すつかり音沙汰がない。いつかみんなを相手に喧嘩をして以来、てんでわれわれの村へ寄りつかなくなつたのぢや。さうさう、あれはまだお話しなかつたかな? いや、とても滑稽な出来事がありましたのさ。去年の、なんでも夏頃のこと、さうぢや、ちやうどわしの名附日の祝ひの当日だつたと思ふが、うちへお客がぞろぞろやつて来たのぢや……(茲で一言申しあげておかねばならないのは、有難いことに、土地《ところ》の衆が忘れもせずにこの老人のわしをちやんと訪ねて呉れることなんで。わしが自分で名附日の憶えがあるやうになつてから、もう五十年からになるが、わしの年齢《とし》が正確に幾つなのか、それは当のわしも、うちの婆さんも、はつきりしたことは申しあげ兼ねる。何れにしても七十歳間近にはなる筈ぢや。ディカーニカの祭司ハルラムピイ師に訊けばわしの生年月日もわかるのぢやが、惜しいことに、もう五十年も前にこの人は亡くなつてしまつたのぢや。)それは扨、お客に来てくれた連中は、ザハール・キリーロ ヰ ッチ・チュホプペーニコだの、ステパン・イワーノ ヰッチ・クーロチカだの、タラス・イワーノ ヰッチ・スマチニェーニキイだの、陪審官のハルラムピイ・キリーロ ヰ ッチ・フロースタだのといつた面々でな、それから、まだある……ええと、名前をすつかり胴忘れしてしまつたが……オーシップ……オーシップと……、ええつ、ほんとにミルゴロドぢゆうに誰知らぬ者もない人物なのぢやが! それに、その男は話をするときに、いつも先づ、パチパチと指を鳴らしてから、両手を腰にかふ癖があるのぢやが……。いや、その男のことは、まあ、どうでもいい! またの時、いつか思ひ出せるぢやらう。ところで諸君にお馴染の、くだんの貴公子先生もポルタワからやつて来た。フォマ・グリゴーリエ ヰ ッチは勘定に入れるまでもない、この人はもう身内の者も同然なのぢやから。さて一同、大いに話がはずんだものぢや。(茲でまた一言お断りして置かねばならないのは、つひぞ我々の口の端に、取るに足らないやうな話題がのぼつた例しのないことで、元来わしは礼節に適つた、所謂、面白くて教訓《ため》になるやうな話がいつも好きなのぢや。)――で、その折には林檎の塩漬の仕方について話がはずんでゐたのぢや。宅《うち》の婆さんが、それには先づ前もつて林檎をよく洗ひ浄めて、次ぎに*濁麦酒《クワス》に浸けて、それから今度は云々といつた塩梅に、語り進めようとした時ぢや。『そんなことをして何になるものですか!』と、例のポルタワの先生め、豌豆いろの長袗《カフターン》の胸へ片手を突込んで、のつしのつしと歩調《あしどり》も重々しく部屋を歩きまはりながら、婆さんの話の腰を折りをつたのぢや。『それぢやあ、なんにもなりませんよ! 何よりも先づ第一に、水金鳳《きつりぶね》の葉を交互《たがひちがひ》に撒き込むことですよ、さうしてから初めてその……。』さあ、ひとつ読者諸子に伺つて見たいものぢやて、つひぞ何時か、林檎の中へ水金鳳《きつりぶね》の葉を撒き込むなどといふ話を、お聴きになつた例しがありますか、ひとつ公平な御意見を伺ひたいもので! なるほど、すぐりの葉とか、ぶたごやしとか、つめくさなどは入れもするぢやらうが、水金鳳《きつりぶね》なんちふ代物を漬け込むなどとは……いや、わしはてんでそんなことは聴いたこともありませんわい。もう、かういふことにかけては、うちの婆さん以上に詳しい人は先づないぢやらうて。さあ、ところでどうだらう! わしは態々この男をば一角《ひとかど》の人間なみに、そつと傍らへ引つぱり寄せてな、『これさ、マカール・ナザーロ ヰ ッチ、お前さんとしたことが、そんなことを言つて混ぜつ返しなさんなよ! お前さんは立派な御仁で、一度などは知事とひとつ卓子で食事をしたこともあると、御自分でも言つておいでぢやないか。ね、そんな変てこなことを言ふと人に笑はれますぜ、ほんとに!』と、かういつて注意してやつたものぢや。ところで、諸君は、これに対して彼がなんと答へたと思し召す? 何ひと言、返辞をするどころか! ただペッと床へ唾を吐くと同時に、帽子を掴んで、誰一人に向つて暇乞を述べるでも、会釈ひとつするでもなく、プイと戸外《そと》へ飛びだしてしまつたのぢや。ただ我々の耳には、馬車が鈴を鳴らしながら門の方へ出てゆく音が聞えただけぢや。馬車に乗ると、その儘たち去つてしまつたといふ訳でな。それが結局こちとらには仕合せといふものぢや! なあに、こちとらには、あんなお客に用はないぢやて! いや、まつたく世の中に名士つてえ奴くらゐ始末の悪いものはない。あの男の叔父とかが、なんでも警視か何かを勤めてゐたことがあるつてえのでな、それで先生、いやにお高くとまつてゐくさるのぢや。警視といへば世の中にこれほど偉いものはない高位高官だとでも思つてゐるのかい? お蔭さまで、警視なんかより、もつともつと偉いものが幾らでもありまさあね。いんにや、わしにはかういふ名士つてえ奴がどうも気に食はん。たとへばあのフォマ・グリゴーリエ ヰッチを御覧《ごらう》じろ、どれだけ有名な人といふでもないけれど、あの人をよく見ると、顔に何処となく、どつしりした威厳が具はつてをる――あの人が、なんでもない普通《なみ》の嗅煙草を嗅ぎ始める様子を見ても、自然と頭が下るやうな人徳といふものが窺はれるのぢや。会堂であの人が頌歌席に立つて讚美歌を唱ひ出すといふと、なんとも名状しがたい感動に打たれてしまふ! まるで、躯《からだ》ぢゆうがとろけてしまふやうな気持ぢや!……ところが、あの……いや、彼奴《あいつ》のことなんざあ、どうだつていい! 奴さん、自分の話が入らなくつちやあ、二進も三進もゆくまいと自惚れてをるのぢやらう。ところが、ちやんとこのとほり一冊の本にさへ纒まつたぢやごわせんかい。
濁麦酒《クワス》 ライ麦の麦芽を用ゐて醸造した一種の家庭飲料
で、ビールに似た軽い酒精分を含み、露西亜人の一般に愛飲するもの
さて、わしは慥か、この本の中へ自分自身の噺もさし加へるやうなお約束をしておいた筈ぢや。実際そのつもりでゐたのぢやが、わしの噺には少くともこんな本の三冊分くらゐの紙面が要るつてえことが分つたんでな。いつそ別冊にして発行しようかとも思つたけれど、また思ひ直しましたのぢや。わしはちやんと知つとる――諸君がこの老人を哂笑《わら》ひ出されるつてえことをな。いやもうそれは真平御免ぢや! では御機嫌よう! もう当分、或はもうこれつきり永久に、お目にはかかりますまい。それがどうしたといふのぢや? どだい諸君にとつては、わしなど初めつからこの世にゐなくつたつて同じことぢやないか。一年、二年と時の経つうちには――諸君のうち誰ひとりとして、後年この老蜜蜂飼ルードゥイ・パニコーのことなど、思ひ出したり悲しんだりして下さる方はあるまいて。
―一八三二年――
底本:「ディカーニカ近郷夜話 後篇」岩波文庫、岩波書店
1937(昭和12)年9月15日第1刷発行
1994(平成6)年10月6日第7刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※底本の中扉には「ディカーニカ近郷夜話 後篇」の表記の左下に「蜜蜂飼ルードゥイ・パニコー著はすところの物語集」と小書きされています。
※「*」は訳注記号です。底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付いています。
入力:oterudon
校正:伊藤時也
2009年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
コメント