06
ぢやあ、もつとわしの祖父の話を聴かせろと仰つしやるんで?――よろしいとも、お伽になることなら、なんの、否むどころではありませんよ。ああ、何ごとも昔のこと、昔のこと! 遠い遠い、年代や月日のほども聢とはわかりかねる大昔にこの世にあつた話を聴く時の、嬉しさ娯しさといつたら! ましてやそれが、祖父とか曾祖父といつた自分の身内の者の登場してくる話ででもあらうものなら、それこそ――自分が曾祖父の魂のなかへ潜りこむか、それとも曾祖父の霊が自分の中へ忍び入るかして、まるで自分自身に経験したことのやうな思ひがされるものぢやて。それが嘘だつたら、大殉教者ワルワーラ尼の讃仰歌を唱へるとき、わしが窒息してしまふやうに手を振つて呪禁《まじな》つて下すつてもよい……。いや、わしには何より娘つ子や新造が苦手なんでしてな、あの手合に見つかつたが最期、『フォマ・グリゴーリエヰッチ! フォマ・グリゴーリエヰ ッチ! ようつてば、なんか怖いお話をして下さいつたら? ようつてば! ようつてば!……』つてんで、ねだること、ねだること……。決して聴かせるのを吝むわけではないが、晩に寝床へ入つてからあの連中がいつたいどんなことになるかを考へて頂きたい。どれもこれも蒲団の下でまるで瘧《おこり》でもわづらつてをるかのやうにガタガタ震へて、まだその上に、自分の毛皮外套のなかへ頭を突つこみかねないことを、ちやんとわしは知つてゐるのぢや。鼠が壺をバリバリ引つ掻くとか、自身で火掻棒につまづくとかすると――さあ大変だ! 魂は踵のなかへ飛びこんでしまふのぢや。ところが、あくる日になると、もうけろりとして、又してもうるさく附き纏つて来る。そこでまた改めて何か怖ろしい話をして聴かせるより他に手はないといふことになるのぢや。それは扨て、あなた方にはどんな話をお聴かせしたものかな? どうも、おいそれとは頭へ浮かんで来ませんぢやて……。おお、さうぢや、今は亡きわしの祖父が妖女《ウェーヂマ》と『*阿房《ドゥラチキー》 』 の勝負をやらかした話を一つ聴かせませう。ただし、前もつてお断わりしておきますが、どうか、中途で話の腰を折らないやうにお願ひいたしたい。でないと、とんでもない不味《まづ》いものが出来あがつてしまひますからな。さて、亡きわしの祖父は、その頃の普通《なみ》の哥薩克とは、てんで異《ちが》つてをりました。彼はスラブ語の綴りから、正教会用語の略語標の置き方まで、ちやんと心得てゐたものぢや。祭日に使徒行伝でも読ませようものなら、今どきのそんじよそこいらの祭司の息子などは裸足で逃げ出してしまふくらゐ。御承知の通りその頃といへば、*バトゥーリンぢゆうから読み書きの出来る手合をすつかり狩り集めて来たところで、帽子でと言ひたいところだが、なんの、片手で残らず掬ひとつてしまふことが出来たくらゐなんでな。それだから、祖父に出あふと誰彼の別なく慇懃に挨拶をしたのも至極尤もな話ぢやて。
阿房《ドゥールニャ》 『馬鹿《ドゥラチキー》』ともいふ、骨牌戯の一種。
バトゥーリン チェルニゴフ県コノトープ郡下の小都会で、往時、総帥《ゲトマン》の居住したところ。
さて或る時のこと、*大総帥《ゲトマン》が何事か国書をもつて女帝の闕下へ奏上しようと思ひ立つたのぢや。そこで当時の聯隊書記で――さあ困つたぞ、なんとかいふ名前ぢやつたて…… ヰスクリャークでもなし、モトゥーゾチカでもなし、ゴロプツェクでもなし……なんでも、そのしちむつかしい名前は、はなから変てこな音ではじまつてゐたことだけは知つてをるが――その聯隊書記が祖父を呼びつけて、大総帥から女帝陛下への国書捧呈の使者として、彼が任命されたことを伝達したのぢや。祖父は元来、仕度に手間どることが大嫌ひぢやつたから、早速その上書を帽子の裏へ縫ひこんで、馬を曳つぱり出すと、女房とそれから、祖父自身の呼び方に従へば、二匹の仔豚――その中の一匹がかくいふやつがれの生みの親父であつた筈なのぢやが――に接吻しておいて、まるで五十人からの若者が往来の真中で*九柱戯《カーシャ》でもおつぱじめたかと思はれるやうな、おつそろしい土けぶりを蹴立てて出発したものぢや。で、翌る朝の、まだ四番鶏も唄はぬ未明に、祖父はもう*コノトープへ差しかかつてをつた。ちやうどその時には定期市《ヤールマルカ》が立つてゐて、往来といふ往来には目も眩むほど人|群《だか》りがしてゐたが、しかしまだ早朝のこととて、何れも地べたに寝はだかつて夢路を辿つてゐた。一匹の牝牛のそばには鷽《うそ》のやうに真赤な鼻の、放埒な若者が寝そべつてゐた。そのむかうには、磁石や、藍玉や、散弾や、輪麺麭《ブーブリキ》といつた品々を持つた女商人がグウグウ鼾をかいてゐた。馬車の下にはジプシイが横たはつてをり、魚を積んだ車のうへには車力が寝てゐた。帯や手套《てぶくろ》を持つた髭もぢやの大露西亜人が道の真中に両脚を投げ出してゐた……。どれもこれも定期市《ヤールマルカ》にはつきものの賤しい小商人どもばかりぢや。祖父はちよつと立ちどまつて、しげしげと眺めたものぢや。さうかうするうちに、天幕の中がおひおひざわつきだしてな、猶太人の女どもが水筒をガチャガチャいはせはじめ、そこここから煙の輪がたちのぼつて、温たかい揚饅頭の匂ひが野営ぢゆうに漂ひ流れた。祖父はふと、燧鉄《うちがね》も煙草も用意をせずに出かけて来たことを思ひ出して、市場の中をぶらぶら歩き出した。ところが、ものの二十歩も進んだかと思ふと、ばつたりザポロージェ人に出会つた。放埒な遊び人であることはその顔を見れば一目で分る! 燃えるやうな緋の寛袴《シャロワールイ》に*ジュパーンをまとひ、派手な花模様の帯をしめて、腰には長劔《サーベル》と、踵までもとどく銅の鎖の先につけた煙管《パイプ》を吊つてゐる――てつきり、ザポロージェ人なのぢや! ザポロージェ人といへば、実に素晴らしいものでな! 立ちあがつてシャンと躯《からだ》を伸ばすと、雄々しい口髭を捻つて、靴の踵鉄《そこがね》の音も勇ましく踊りだしたものぢや! そのまた踊り方といつたら、両脚がまるで、女の手に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]される紡錘《つむ》そつくりで、旋風のやうな迅さでバンドゥーラの絃《いと》を掻き鳴らすかと思ふと、直ぐさまその手を腰につがへて、しやがみ踊りに移る、歌をうたふ――心もそぞろに浮き立つばかりぢや……ところが今ではもう時勢が変つて、さうしたザポロージェ人の姿も滅多には見られなくなつたが、それはさて、偶然に落ち合つた二人は、一と言二た言ことばを交はしただけで、もう十年の知己のやうに親しくなつてしまつたのぢや。次ぎつぎと矢鱈に話がはずんだものだから、祖父はすつかり自分の旅の用向きも忘れてしまつてな、二人は早速、大精進期前の婚礼そこのけの、飲めや唄への大酒宴をおつぱじめたものぢや。だが、たうとう終ひには、壺を叩きわつたり、人だかりの中へ銭《ぜに》をばら撒いたりすることにも、退屈をするのは当然で、それに定期市《ヤールマルカ》がいつまで立つてゐるものでもなし。そこで、この新らしい友達同士はさきざき別れ別れになることを惜んで、道中を共にすることにしたのぢや。彼等が相携へて野中の道にさしかかつたのは、もう遠に夕暮ちかい頃だつた。陽《ひ》は沈んで、その代り空のところどころに赤味を帯びた夕映《ゆふやけ》の条《しま》が輝やいてゐた。野づらには、ちやうど眉の黒い粋《いき》な新造が著る晴著の下着《プラフタ》の縞柄みたいに、畠がつらなつてゐた。さて、件《くだん》のザポロージェ人だが、これが恐ろしく口軽に喋りまくるので、祖父と、それからもうひとり同行に加はつてゐた呑み仲間とは、もしやこの男には悪魔が乗りうつつてゐるのではないかしらと怪しんだくらゐだつた。いつたい、どこで修業して来たものか、その話があまりにも珍妙なため、祖父は何度となく、可笑しさに腸《はらわた》のよれるのを、脇腹を押へてこらへなければならなかつた。だが、先へ進むに従つて野原がだんだん暗くなると、それにつれて、この達者な饒舌家のはなしが、ひどく支離滅裂になつて来た。たうとうしまひには、すつかり口を噤んでしまつて、このわれわれの話し手は、ほんの些細な物音にも、妙にビクビクするやうになつた。
総帥《ゲトマン》 小露西亜カザック軍の最高の首領で、カザックの中から選ばれてその任に就いたもの。総帥選挙制は、一五九〇年に始まり、一七六四年にエカテリーナ二世に依つて禁止されるまで継続した。
九柱戯《カーシャ》 ホッケーまたはクロッケットに類する運動競技の一種。
コノトープ チェルニゴフ県コノトープ郡の首都。
ジュパーン 波蘭から伝はつた長上衣の一種で、ウクライナ人、殊にカザックの晴著として用ゐられたもの。
「おやおや、兄弟! 冗談でなしに瞼《まぶた》が重くなつたと見えるな。もうそろそろ我が家へ帰つて煖炉《ペチカ》の上へ這ひあがりたくなつたのぢやらう!」
「あんた方には、何も包み匿しすることあない。」さういつて、不意にその男は振りかへりざま、二人の顔をじつと見つめたものだ。「実はわしの魂はとつくの昔に悪魔に売りわたしてあるのぢやよ。」
「これは奇態なことを聞くもんぢや! 生涯に一度も、悪魔に関りあはんやうな者があるかしらん? さういふ時にやあ、よく言ふやうに羽目をはづした底抜け騒ぎをするに限るのさ。」
「それがさ、御両人! 羽目をはづして騒ぎもしようが、その、今夜が、悪魔と約束した期限なんでね! ねえ、おい、兄弟!」と、彼は二人の手をたたいて言つた。「お願ひだ、どうか、おいらを渡さないで呉れ! 今夜ひと晩だけ眠らないで、張り番をして呉れないか! 生涯、恩に著るだよ!」
どうして、そのやうな不仕合せな人間を助けずにおかれよう? 祖父は、万に一つでも自分の基督教徒としての魂を悪魔の鼻づらに嗅がせるやうなことがあつたなら、この脳天の*房髪《チューブ》を斬り取られても文句はないと、きつぱり言ひ放つた。
房髪《チューブ》 脳天に剃り残した一つまみの房毛で、カザックの標章としたもの。
哥薩克の一行はもつと先きへ進む筈であつたが、空が一面に黒い幕ででも蔽はれたやうな真暗な夜となり、野原はまるで羊皮の外套でも頭からすつぽり被せられたやうな真の闇に塞されてしまつた。やつと遠くの方に一つ小さな灯影がかすかに見え出すと、馬どもは畜舎の近づいたのを感づいてか、耳を立てて暗やみに眼を瞠りながら道を急ぎだした。灯影が一行を迎へにこちらへ近づいて来るやうにさへ思はれた。やがて哥薩克たちの眼前に一軒の酒場が現はれたが、それはまるで、招ばれて行つた賑やかな洗礼祝ひから戻らうとしてゐる百姓女の恰好よろしく、今にも一方へ倒れさうになつてゐた。その時分の酒場と来ては、今どきのそれとは、てんで較べものにもなんにもなつたものぢやない。のうのうと手足を伸ばしたり、*ゴルリッツアやゴパックを踊るなどといふ訳にいかなかつたのは勿論のこと、頭へ酔がのぼつて、足が自然に手習ひをしはじめても、横になつて休む場所もないといふ始末だつた。内庭は荷馬車が一杯で、立錐の余地もなく、納屋のわきや、秣槽《まぐさをけ》のなかや、玄関などには、からだをくの字型に曲げたり、ふんぞり返つたりした、いぎたない連中が、まるで蟒《うはばみ》のやうな大鼾をかいてゐた。ひとり酒場の亭主だけは油燈《カガニェツツ》の前で、荷馬車ひきどもが酒を何升何合飲み乾したかといふ目標《めじるし》を棒切れに刻みつけてゐた。祖父は三人前として二升ばかり酒を注文して、納屋へ陣取つたものだ。三人は並んで、ごろりと横になつた。祖父がふと振りかへつて見ると、二人の仲間はもう死んだやうにぐつすり寐こんでゐる。祖父はいつしよに泊つた、くだんのもう一人の哥薩克を起して、さつきザポロージェ人と約束したことを思ひ出させた。その男は半身を起して眼を擦《こす》つただけで再び寐こんでしまつた。どうも仕方がない。一人きりで見張りをしなければならぬことになつた。どうにかして眠気を払ひのけようものと、祖父は荷馬車を片つぱしから残らず見て※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つたり、馬のところへ行つて見たり、煙草を燻らしたりしてから、再びもとのところへ戻つて、仲間の傍らに坐りこんだ。あたりはしいんと静まりかへつて、蠅の羽音ひとつ聞えぬ。ふと彼の眼には、すぐ隣りの荷馬車の蔭から何か灰色のものが角を出したやうに思はれた……。それと同時に、両の眼がひとりでに細くなつて今にも閉ざされさうになる。それで彼はひつきりなしに、拳しで眼をこすつたり、飲みあましの火酒《ウォツカ》を眼にさしたりしなければならなかつた。しかし、少し眼がはつきりして来るとともに、変化《へんげ》の影は消え失せた。ところが、又しばらくすると、荷馬車の蔭から妖怪が姿を現はす……。祖父は根かぎり眼を瞠《みは》つてゐたが、呪はしい睡魔が、執念く彼の眼の前の物象《もの》を曇らせてしまつた。両手のおぼえがなくなり、首ががつくり前へさがると、激しい睡気に襲はれた彼は、まるで正体もなく、その場へぶつ倒れてしまつた。長いあひだ祖父はぐつすり寐込んでゐた。その坊主頭にじかじかと朝日が照りつけた時、彼はやつと正気づいて跳ね起きた。二度ばかり伸びをして、背筋をポリポリ掻きながら、ふと見れば、荷馬車の数が昨夜ほど多くは残つてゐない。馬車ひき連中は夜明け前に発つてしまつたものと見える。我れに返つて、さて仲間はと見ると、くだんの哥薩克は傍らに寝てゐるが、ザポロージェ人の姿が見えぬ。問ひ糺して見ても誰ひとり知つてゐる者がない。ただその場に外套がひとつ残つてゐるきりだ。祖父は恐怖と疑念に捉へられた。馬はどうかと、行つて見れば、自分の馬もザポロージェ人の馬もゐない! これは一体どうしたことだらう? なるほど、ザポロージェ人は悪霊の手に浚つて行かれたにしても、馬は一体どうしたといふのだらう? とつおいつ思案にくれた挙句、祖父はかういふ結論に達した――悪魔の奴はてつきり徒歩《かち》でやつて来をつたのにちがひない、ところが地獄までは決して近い道程《みちのり》ではないから、さてはおれの馬まで失敬してゆきをつたのだらう、と。彼は哥薩克の誓ひを守りおほせなかつたことが返すがへすも残念だつた。※[#始め二重括弧、1-2-54]まあいいさ、※[#終わり二重括弧、1-2-55]と、彼は考へた。※[#始め二重括弧、1-2-54]どうも仕方がない、徒歩で出かけることにしよう。ひよつと途中で定期市《ヤールマルカ》がへりの博労にでも出会つたら、また、なんとかして馬を買ふことぢや。※[#終わり二重括弧、1-2-55]で、彼は帽子をかぶらうとしたが、その帽子が見当らぬ。考へて見ると、昨日あのザポロージェ人と、ちよつと帽子の取り換へつこをしたままになつてゐたのだ。祖父は、ぢだんだ踏んで口惜しがつた。何から何まで悪魔の手にしてやられてしまつたのだ! ほいほい大総帥《ゲトマン》からの恩賞も水の泡だ! 女帝への上書が飛んでもないものの手に渡つてしまつたのだ! ここで祖父はくそみそに悪魔を罵つたから、さぞかし、悪魔の奴、地獄で何度も嚔《くさ》めをしたことだらう。だが、いくら悪態をついてみたところで今更なんの役に立つ筈もなく、祖父が何べん項《うなじ》を掻いても好い分別は浮かばなかつた。はて、どうしたものだらう? そこで結局、他人の智慧を借りることにした。ちやうどそのとき酒場にゐあはせた、堅気な人たちや、馬車ひきや、ちよつと立ち寄つただけの客などを集めて、かくかくの次第でまことに困つたことが出来《しゆつたい》してしまつたと、一部始終を打ち明けた。馬車ひきどもは棒を頤杖について、しきりに首を傾げながら長いあひだ考へてゐたが、この基督教国で大総帥《ゲトマン》からの上書を悪魔がかつ浚つて行つたなどといふ面妖な話は、つひぞこれまで聞いたこともないと言つた。他の連中はまた、悪魔と大露西亜人《モスカーリ》にかつぱらはれたものは決して二度と再び手に戻ることがないとつけ加へた。ただひとり酒場の亭主だけは、なんにも言わずに部屋の隅に坐つてゐた。祖父はそこで亭主の方へ近寄つた。総じて人が口を噤んでゐるのは、いい分別を持つてゐる証拠だ。ただ、この亭主はあまり口の軽い方でなかつたから、祖父が五|留《ルーブリ》金貨を一つ衣嚢《かくし》からつまみ出さなかつたものなら、彼はなんの得るところもなく、いつまでも亭主の前に棒だちに立ちつくしたに過ぎなかつただらう。
ゴルリッツア 小露西亜の代表的な舞踊の一種。
「それぢやあ、その上書をどうして見つけたものか、ひとつお前さんに教へて進ぜやんせう。」と、亭主は祖父を傍らへ呼んで言つた。祖父はほつと胸をなでおろした。「わつしは、一と目でお前さんが歴乎とした哥薩克で、決して意気地なしでねえことを見抜きましたわい。そうら見なされ! この酒場からほんの僅かゆくと、道が右手へをれて森の中へ入つてをる。野原がうつすら暗くなる頃、仕度をととのへて出かけなさるのぢや。あの森の中にはジプシイが住んでをつて、妖女《ウェーヂマ》が火掻棒に跨がつて空を翔けまはるやうな晩に限つて、巣窟《あな》から出てきて、鉄を煉《う》つのぢや。だが、そのジプシイ共が実際どんな生業《しやうばい》をしてをるのか、そんなことは知らなくともよい。森の中でやたらにトンカントンカンと音がする筈ぢやが、その音の聞えて来る方角へは行かぬことぢや。そのうちに焼け残りの立木のそばを過《よ》ぎる小径へひよつこり出るから、その小径についてずんずん先きへゆきなされ……。さうすると、やたらに茨の棘《とげ》がひつかかり出して、道は深い榛《はしばみ》の叢みの中へはいるが、それでもかまはず、さきへさきへと行かつしやれ。すると小さな小川の縁へ出るだから、そこで初めて足をとめなさるのぢや。用のある相手にそこで会はつしやるぢやらう。それから衣嚢《かくし》の中から、そもそも衣嚢《かくし》といふものが作られてをる由緒いはれの本尊仏を取り出すことを忘れなさるなよ……。そのお宝といふやつを好くことには、悪魔も人間もとんと変りがないのぢやから。」これだけ言つておいて、酒場の亭主は帳場の中へ入つてしまふと、もうそれ以上は一と言も口をきかなかつた。
祖父は胆つ玉の小さい十把一紮げの人間ではなかつた。或る時など、狼に出喰はすと、いきなりその尻尾を掴んで、生捕にしたものぢや。また哥薩克の群がる中を彼が拳しを振りまはしながら通ると、一同はまるで梨の実のやうに大地へ叩き伏せられてしまつたものぢや。とはいふものの、夜が更けて、いよいよその森の中へ足を踏みこんだ時には、さすがの祖父も肌寒い思ひがしたさうぢや。空には星影一つ見えなかつた。まるで酒窖《さかぐら》の中のやうに真暗で、物の文目《あやめ》も分らなかつた。ただ頭上はるかの梢を吹き渡る冷たい夜風の音が聞えるばかりで、樹々はあたかも酔ひしれた哥薩克の頭のやうに、だらしなく揺れながら、管を巻くやうな葉ずれの音を立ててゐる……。不意にぞうつとするやうな寒けがして、祖父は思はず羊皮の外套を心に浮かべたさうぢやが、そのとき突然、まるで掛矢の百挺も打ちおろしたかと思はれるやうな凄い物音が森ぢゆうに響き渡つて、頭の中がガーンと鳴り出したほどぢやつたといふ。それと同時に一瞬、雷光《いなづま》のやうに森中がパッと照らし出されたのぢや。咄嗟に祖父は細い灌木のあひだを縫ふやうに走つてゐる小径を見てとつた。それから焼け残つた立木もあり、茨の叢《やぶ》もある! 聴かされたとほり寸分の違ひもない。なるほど酒場の亭主め嘘はつかなかつたわい。だが、刺のあるくさむらを押し分けて通り抜けるのは、なかなか楽な仕事ではなかつた。なんともはや、こんなに痛く手足をひつかく刺や枝といふものには生まれて初めてお目にかかる次第で。殆んど一と足ごとに祖父は悲鳴をあげたものぢや。しかし先きへ進むにつれて、だんだんあたりがひらけ、木立が疎らになつて、これまで祖父が波蘭《ポーランド》の彼方《むかふ》でも、つひぞ見たことのないやうな、恐ろしくひろびろとしたところへ出た。木立のあひだから、まるで磨ぎすました鋼鉄のやうな、黒々とした小川の流れが見える。祖父はあたりを見まはしながら、しばらくその岸に立ちつくした。むかふ岸に火が燃えてゐる。それが今にも消えさうに見えるかと思ふと、またパッと燃えたつて、哥薩克の手に捉まへられた波蘭の貴族のやうにブルブル顫へてゐる川の波に反映するのだ。おや橋がある! ※[#始め二重括弧、1-2-54]さあ、ここを渡るのは悪魔の乗つた二輪馬車より他《ほか》にはあるまいて。※[#終わり二重括弧、1-2-55]だが、祖父は大胆にも歩を進めた。そして、人が一服やらうとして嗅煙草入を取り出すのよりてつとり早く、むかふ岸へ渡つてゐた。見れば焚火をかこんでゐるのは一群れの妖怪で、そのみつともいい御面相といつたら、これが他《ほか》の場合だつたら、何を犠牲にしたつて、こんな化物とちかづきになるのは真平だつたらう。しかし、今は是が非でもわたりをつけなくちやならない。そこで祖父は、妖怪どもに向つて馬鹿叮嚀に腰をかがめて、『今晩は、皆の衆!』と挨拶をした。ところが、会釈ひとつ返す奴でもあらうことか、黙りこくつて坐つたまま、何かしら怪しげなものを、しきりに火の中へふり撒いてばかりゐくさる。一つ空いてる場所があつたので、祖父は遠慮会釈なしにそこへ坐りこんだ。だが、その御面相の綺麗な妖怪どもは、依然として黙りこくつてゐる。祖父も何ひとこと言はぬ。一同は長いあひだ、無言のままで坐りとほした。祖父はもうそろそろ退屈になつてしまつた。そこで衣嚢《かくし》をまさぐつて煙管を取り出しながら、あたりを一とわたり見まはしたが、どいつ一匹こちらに注意をしてゐる奴もない。『さてなんぢや、皆の衆、甚だもつて申しかねることぢやが、その、いはばなんぢやて、(祖父は酸いも甘いも噛みわけた苦労人で、駄弁を弄してバツをあはせる術《て》もよく心得てゐたので、たとへ皇帝《ツァーリ》の前へ出ても決して戸惑ひするやうなことは万々なかつた)いはばその、甚だ勝手なことを申すやうぢやが、どうか悪く思はんで頂きたい――かうしてわしは煙管《パイプ》を持つてをるにはをるけれど、生憎と、これに、その、火をつけるべき物の持ちあはせがないのぢやが。』こんな風に持ちかけてみても、やはりなんの手応へもない。ただ醜面《しこづら》の一匹が、真赤に火のついた、燃えさしの木切れを取りあげて、まともに祖父の眉間へ突きつけたので、もし彼が体《たい》をかはさなかつたものなら、恐らく永久に片方の眼玉におさらばを告げなければならなかつたことだらう。空しく時刻《とき》のうつるのを見て、つひに彼は、この悪魔の身内がこちらの言ひ分を聴き入れようが入れまいが、兎にも角にも用件を切り出すより他はなかつた。と、醜面《しこづら》の化物たちが耳を鼔てて手をさしだした。祖父はその意を悟つて、持ちあはせの銭を残らず掴み出して、犬にでも呉れてやるやうに、それを一同のまんなかへ投げだした。彼が銭を投げ出すや否や、眼の前の化物どもはごつた返しに入り乱れ、大地がぐらぐらと揺れ動いて、てつきり、これは地獄へ陥ちてしまつたのではないかと思はれるくらゐ――祖父は語るべき言葉も知らなかつたほどである。『ほい、これあ叶はん! 』けろけろとあたりを見まはしながら祖父は嘆声をもらした。なんといふ妖怪《ばけもの》どもだらう! どいつもこいつも見られた面《つら》ぢやない。おつそろしい数の妖女《ウェーヂマ》が、まるで降誕祭の頃に降る雪のやうに、うじやうじやと集《たか》つて、それが定期市《ヤールマルカ》へ出かけた令嬢方《パンノチカ》そこのけに、デカデカと飾り立てて粧しこんでゐる。そして、そこにゐるほどの妖女《ウェーヂマ》といふ妖女《ウェーヂマ》が残らず、酔つぱらつたやうな恰好で、珍妙な悪魔の踊りををどつてゐるのだ。その又、おつそろしく埃りを立てをることと言つたら! 一と目、その悪魔の身内どもが空高く宙を翔ける有様を見たならば、洗礼を受けた基督教徒は思はず顫へあがつたことだらう。また、犬のやうな鼻面の悪魔どもが、独逸人そつくりの細い脚で立つて、尻尾をくるくる振りまはしながら、ちやうど、若い衆が美しい娘にするやうに、妖女《ウェーヂマ》たちをとりまいてじやらついたり、楽師どもが太鼓を打つやうに、われとわが頬を打ち、角笛を吹くやうに鼻を鳴らしなどするのを見ては、すべてのおそろしさも打ち忘れてプッと噴飯《ふきだ》さずにはゐられなかつた。祖父の姿を見つけると、そいつらが犇々とこちらへ押しよせて来るのだ。豚のやうな、犬のやうな、山羊のやうな、鴇《のがん》のやうな、馬のやうな、様々の鼻面が、いちどきにぬつと頸をのばして、祖父の顔をペロペロと舐めまはしたものだ。その穢ならしさに祖父はペッと唾を吐いた。だが結局、彼は一同につかまへられて、長さがコノトープからバトゥーリンまでの道程ほどもある大食卓にむかつて席につかせられた。※[#始め二重括弧、1-2-54]うん、これあまんざらでもないぞ。※[#終わり二重括弧、1-2-55]祖父は、食卓のうへに並べられた豚肉や腸詰や、それから玉菜《キャベツ》と一緒に微塵切りにした玉葱や、その他さまざまの美味《うま》さうな御馳走を見ると、心ひそかに呟やいた。 『なるほど、魔性の悪党どもが精進を守るわけはあるまいて。 』 ところで御承知おき願はねばならぬことは、この祖父といふのがまた、至つて健啖家で、何かにのきらひなく、むしやむしや頬張る機会を逃す人ではなかつたことぢや。頗るつきの喰らひ抜けと来てゐたので、碌々はなしにも身を入れず、刻んだ豚脂《ベーコン》の入つた鉢と燻豚《ハム》とを引き寄せると、百姓が乾草を掻きよせる熊手とあまり大きさの違はないやうな肉叉《フォーク》をとりあげて、それでもつて一番重たさうな一と片《きれ》を突き刺した。それに麺麭を一毮り取りそへて、やをら、口へ持つていつたつもりだつたが、はて面妖な、それは自分の直ぐ脇にゐた奴の口へ入つてゐた。そしてすぐ耳もとで、どいつだか、ガツガツと、食卓ぢゆうに響きわたるやうな歯音を立てながら、口を動かしてゐるけはひが聞えるばかり。祖父の口へは何一つ入つちやゐない。そこで今度はまた別の片《きれ》を取りあげたが、ちよつと唇に触つたと思つただけで、自分の咽喉へは通らなかつた。三度目もやはり同じやうにわきへ外《そ》れてしまつた。赫つと腹を立てた祖父は、怖ろしさも、自分が何者の手中に落ちてゐるかも忘れて、妖女《ウェーヂマ》どもに喰つてかかつた。『いつたい全体、汝《うぬ》たちヘロデの後裔《ちすぢ》どもめは、このおれを嘲弄してけつかるのか! たつた今、おれの哥薩克帽を返してよこせばよし、さもないと汝《うぬ》たちの豚面を項《うなじ》の方へ向けて捩ぢまげて呉れるぞ!』その言葉の終るのも待たずに、すべての妖怪どもは歯を剥き出して、祖父の魂がぞつと慄へあがつたほど、物凄い笑ひ声をあげた。
「よござんす!」と妖女《ウェーヂマ》の一人が金切声で叫んだ。それは仲間のうちのどいつより、きたない面をしてゐたから、多分、一番|年長《としかさ》のやつに違ひないと祖父は考へた。「帽子は返してあげるけれど、その前に妾たちと三度だけ 『阿房《ドゥールニャ》 』の手合せをしてからでなきや駄目だよ。」
さてなんとしたものだらう? 哥薩克ともある者が女《あま》つこどもの仲間へ入つて 『阿房《ドゥールニャ》 』 をやるなんて! 祖父は飽くまで潔よしとしなかつたけれど、たうとうしまひに勝負をすることにきめた。そこで骨牌《トランプ》が持ち出されたが、それは、祭司の娘が未来の花聟を占ふ時ぐらゐにしか用ゐないやうな、手垢だらけの薄ぎたない札だつた。
「さあ、よろしいかね!」と、例の妖女《ウェーヂマ》が再び吠えるやうに言つた。「もしお前さんが一度でも勝負に勝てば、帽子はお前さんに返してあげるけれど、三度ともつづけて負けたら、お気の毒だが帽子だけではなしに、お前さんの命もいつしよに、こちらへ貰ひますよ!」
「札を配りやあがれ、耄碌婆あめ! なんとでも、なるやうになるのぢや。」
そこで骨牌が配られた。祖父は自分の札を手に取つたが――まつたく見るのも厭な、悪い手だ。まるで切札なんか一枚もなく、やつと並札《なみ》の十が上々で、揃札《くつつき》ひとつないのに、妖女《ウェーヂマ》の方では後からあとから二二一《ピャチェリク》ばかり揃へやがる。たうとう負けになつてしまつた! 祖父が負けといふことにきまると同時に、四方八方から馬のやうな、犬のやうな、豚のやうな、さまざまな鳴き声で妖怪どもが 『阿房《ドゥーレン》、阿房《ドゥーレン》、阿房《ドゥーレン》! 』 とほざき立てた。
「ええつ、汝《うぬ》たち悪魔のみうちめ、とつとと消え失せやがればいいに!」指をあてて耳に蓋をしながら、祖父が呶鳴つた。そして心の中で※[#始め二重括弧、1-2-54]さては妖女《ウェーヂマ》め、いかさまをしをつたな、ぢやあ今度はひとつ俺が配つてやらう※[#終わり二重括弧、1-2-55]と考へた。そこで彼は牌を配つて、切札を宣告した。自分の牌を見ると、素晴らしい手で、切札もある。最初のうちはこのうへもない上々の首尾で勝負が進んだ。ところが妖女《ウェーヂマ》め、又もや王牌《キング》入の二二一《ピャチェリク》をならべをつた! 祖父の手は切札ぞろひと来てゐる! 碌々思案もせずに、祖父は王牌《キング》の髭面に素早く切札を叩きつけた。
「おつと、どつこい! それあ哥薩克らしくないやり方だよ! いつたいお前さん、なにで切りなさるのぢや?」
「なにで切るとはなんぢや? いはずと知れた、切札で切つたのぢや!」
「ひよつとしたら、お前さんがたの方ではそれが切札なのかもしれないが、妾たちの方では、さうぢやないんだよ!」
見れば、なるほどそれは普通《ただ》の牌だ。奇態なこともあるものだ! 今度も負けになつてしまつた。そして妖怪どもは又しても声を張りあげて 『阿房《ドゥーレン》! 阿房《ドゥーレン》! 』 と喚き立てた。それがために卓子がガタビシ揺れて、骨牌の札が卓子の上で躍りあがつた。祖父は躍起になつて、いよいよ最後の、三囘目の札を配つた。勝負は再び順調に進んだ。妖女《ウェーヂマ》が又しても二二一《ピャチェリク》を揃へた。祖父はそれを殺しておいて、堆牌《やま》から札を取ると、それがどれもこれも切札ばかりだ。「切札!」と叫んで彼は、その札が笊《ざる》のやうに反りかへつたほど力まかせに卓子へ叩きつけた。相手は何にも言はずに普通牌《なみふだ》の八をその上へ重ねて置いた。
「いつたい何で殺さうつてんだ、この古狸め?」
妖女《ウェーヂマ》は自分の置いた牌《ふだ》を取りあげた。と、その下にあるのは普通牌《なみふだ》の六だつた。
「ちえつ、悪魔め、誤魔化しやあがつて!」さう言つて祖父は腹立ちまぎれに、拳を振りあげて、力まかせに卓子をたたきつけた。だが、まだしも仕合はせなことには、妖女《ウェーヂマ》の手が余り香ばしくなくて、祖父の手に今度はお誂へむきな揃札《くつつき》が出来た。そこで堆牌《やま》から札をめくりにかかつたが、いやもう我慢も出来ないやうな、碌でもないものばかり起きてくるので、祖父はがつかりしてしまつた。ところが堆牌《やま》がすつかりになつてしまつた。彼は、もうかうなれば破れかぶれだとばかりに、六の普通牌《なみふだ》を打つた。と、妖女《ウェーヂマ》がそれを受け取つた。
「おやおや! これあ又、いつたいどうしたといふのぢや? うへつ! なんだかこれあ、少しをかしいぞ!」
そこで祖父は自分の牌《ふだ》をそつと卓子の下へ匿して十字を切つた。と、どうだらう、持牌《もちふだ》は切札の|A牌《ポイント》に王牌《キング》に兵牌《ジャツク》で、彼が前《さき》に打つたのは六ではなくて后牌《クヰーン》だつたのだ。
「ええ、なるほどおれは馬鹿ぢやつたわい! 切札の王牌《キング》! どうぢや! 取つたか? 猫の後裔《すゑ》め! |A牌《ポイント》はいらんか? |A牌《ポイント》! 兵牌《ジャツク》! ……」
物凄い雷霆が鳴りはためいた。妖女《ウェーヂマ》はぢだんだ踏んだ。すると、どこからともなく、まともに祖父の顔をめがけて帽子が飛んで来た。
「いんにや、これだけぢやあ足りないぞ!」と、俄かに活気づいた祖父は、帽子をかぶりながら、喚いた。「おれの駿馬を即刻この場へ出しをればよし、さもなければおれは、たとへこの穢らはしい場所で雷に撃たれやうとどうしようと、汝《うぬ》たちに対つてあらたかな十字架で十字を切らずには措かぬぞ!」
そして今にも彼が手をあげようとした時、不意にすさまじい物音がして、祖父の面前へ骸骨の馬が現はれた。
「そら、これがお前さんの馬だよ!」
それを見ると、哀れな祖父は、たわいない稚な子のやうに、おいおいと声をあげて泣き出した。古馴染の愛馬に対する憐愍の情に堪へなかつたのぢや!『どんな馬でも一頭、手前たちの巣窟《あな》から選り出してくれえ!』悪魔が長い鞭を一と振りすると、電光石火の早技《はやわざ》で一頭の馬が祖父を背に乗せてパッと跳ねあがつた。同時に祖父は飛鳥のやうに上空へと舞ひあがつた。
だが、途中でその馬が、制する声も手綱さばきも聴かばこそ、崩穴《がけ》や沼地のうへを飛び越え跳ね越えする時には、祖父は生きた心地もなかつたといふ。到るところ、話に聞いただけでも、ぞつとするやうな難所ばかりを通つた。ふと、足もとを見ると、更に驚ろいた。そこは絶壁だ! 怖ろしい懸崖だ! 然も魔性の生物は一向お構ひなしに、まともに飛び下りるのだ。祖父はしつかり身を支へようとしたが、間にあはなかつた。彼のからだは木の株や土くれの上を翻筋斗《もんどり》うつて、まつさかさまに断崖を転げ落ちて行つた。そして谷底に達すると共に、いやといふほど地面へ叩きつけられたため、祖父はハタと息の根が停つてしまつたやうに思つた。少くともその刹那、自分がいつたいどうなつたのか、まるで記憶《おぼえ》がなかつたといふ。やうやく正気に返つてあたりを見まはした時には、もう夜が明けはなれてをり、あたりの様子にどうやら見憶えがあるやうに思つたのも道理、祖父は他ならぬ我が家の屋の棟に投げ出されてゐたのぢや。
地面へ降り立つと、祖父は十字を切つた。なんといふ悪魔の所業ぢやらう! 飛んでもない、なんといふ不思議な目に遭つたことぢやらう! 両の手を見れば、すつかり血だらけ、水を張つた桶を覗いて見れば、顔も同じやうに血だらけなのぢや。子供たちを吃驚させるでもないと思つて、丁寧に顔や手を洗つて、祖父はこつそり家のなかへ入つていつたが、見ると、こちらへ背を向けて後ずさりをしながら子供たちが、怖ろしさうにむかふを指さして『あれ! あれ! お母《つか》さんが、きちがひみたいに踊つてるよ!』といふ。なるほど、見れば、麻梳《あさこき》を前にして、紡錘《つむ》を握つた女房が、ぼうつとして腰掛に坐つたまま、踊つてをるのぢや。祖父はそつとその手を掴んで、妻を揺りさました。『これ、今帰つたぞ! お前どうかしやせんのかい?』祖父のつれあひは長いあひだ、眼を瞠つたまま、きよとんとしてゐたが、やつと良人の姿に気がつくと、煖炉《ペチカ》が家のなかぢゆうを歩きまはつて鋤や壺や盥を戸外《そと》へ追ひ出しただの……なんだのと、さつぱり辻褄のあはぬ夢を見てゐたのだと話した。『なあに、』と、祖父が言つた。『お前は夢に見ただけぢやが、おらは現つで酷い目に会つたわい。一度この家《うち》の祓ひをせにやなるまいが、今は愚図々々しちやゐられんのぢや。』さう言つて、祖父はちよつと休んだだけで、馬の都合をつけると、今度こそ夜を日についで、決して道草などは食はずに、目的地へと直行して、国書を親しく女帝の闕下に捧呈したのぢや。宮中で目撃した様々の奇らしい事柄は、その後久しいあひだ、祖父の語り草となつた。彼が参内した御所の棟の高かつたことといへば、普通の家を十《とを》も上へ積みあげても、まだ足りないほどだつたこと、御座所はここかとうかがつたが違つてゐる、次ぎの間かと思つたがそこでもない、三番目も四番目もまださうでなかつたが、やつと五番目の御間へとほると、金色燦然たる宝冠を戴き、真新《まつさら》な鼠色の長上衣《スヰートカ》に、赤い長靴を履かれた女帝が、御座所で黄金いろの煮団子《ガルーシュカ》を召しあがつておいでになつたこと、女帝が侍臣に命じて帽子に入るだけの*青紙幣《シーニッツア》を彼につかはされたこと等々……枚挙に暇もないくらゐ! だが、自分が悪魔を相手に演じた、くだんの一幕については、祖父はけろりと忘れてしまつて、もし誰かがその話を持ち出すやうなことがあつても、てんでそんなことには関係がないやうな顔をして、いつかな、口をあかなかつたので、その一部始終を話させるのは並大抵のことではなかつた。それはさて、そのことのあつた後、さつそく、家を祓ひ潔めなかつた神罰でもあらうか、毎年きまつて、その同じころになると、不思議なことに、つれあひが自然《ひとりで》に踊りだすのぢやつた。何をしてゐても、むずむずと脚が勝手に動き出して、どうしても、すぐさま、しやがみ踊りをおつ始めずにはゐられないのぢやつた。
青紙幣《シーニッツア》 五|留《ルーブリ》紙幣の異名。
――一八三一年――
底本:「ディカーニカ近郷夜話 前篇」岩波文庫、岩波書店
1937(昭和12)年7月30日第1刷発行
1994(平成6)年10月6日第8刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※底本の中扉には「ディカーニカ近郷夜話 前篇」の表記の左下に「蜜蜂飼ルードゥイ・パニコー著はすところの物語集」と小書きされています。
※「*」は訳注記号です。底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付いています。
※「灯」と「燈」は新旧関係にあるので「灯」に書き替えるべきですが、底本で混在していましたので底本通りにしました。
入力:oterudon
校正:伊藤時也
2009年8月6日作成
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