03
家のなかにゐるのは退屈だ。
ああ、誰か外へつれだしてお呉れ
娘つ子があそび戯れ
若い衆がうろつきまはる
賑かな賑かなところへと!
――古伝説より――
一
小露西亜の夏の日の夢心地と、その絢爛《きらびやか》さ! 鳩羽いろをした果しない蒼空が、エロチックな穹窿となつて大地の上に身をかがめ、眼に見えぬ腕に佳人を抱きしめながら、うつつをぬかしてまどろむかとも思はれる、静けさと酷熱の中に燃える日盛りの、この堪へがたい暑さ! 空には散り雲ひとつなく、野づらには人声ひとつ聞えず、万象はさながら寂滅したかの如く、ただ頭上たかく天際にをののく雲雀の唄のみが、銀鈴を振るやうに大気のきざはしを通つて、愛慾に溺れた大地へ伝はり流れるのと、稀れに鴎の叫びか、甲高い鶉の鳴き声が、曠野にこだまするばかり。檞の木立はものうげに、無心に、まるで当所《あてど》なきさすらひ人のやうに、高く雲間に聳えたち、まぶしい陽の光りが絵のやうな青葉のかたまりを赫つと炎え立たせると、その下蔭の葉面《はづら》には闇夜のやうな暗影《かげ》が落ちて、ただ強い風のまにまに黄金いろの斑紋がぱらぱらと撒りかかる。恰好のいい向日葵《ひまはり》のいつぱい咲き乱れた菜園の上には、翠玉石《エメラルド》いろ、黄玉石《トッパーズ》いろ、青玉石《サファイヤ》いろ等、色さまざまな、微細な羽虫が翔び交ひ、野づらには灰いろの乾草の堆積《やま》や黄金いろの麦束が、野営を布いたやうに、果しもなく遠近《をちこち》に散らばつてゐる。枝もたわわに実のなつた桜桃《さくらんばう》や、梅や、林檎や、梨。空と、その澄みきつた鏡である河――誇りかに盛りあがつた緑の額縁に嵌まつてゐる河……なんと小露西亜の夏は、情慾と逸楽に充ちあふれてゐることだらう!
ええと、一千八百……一千八百……さうだ、なんでも今から三十年ほど前の、暑い八月の、丁度かうした壮麗な輝やかしい或る夏の日のこと、小都会ソロチンツイの町から十露里ばかり手前の街道筋は、をちこちのあらゆる農村から定期市《ヤールマルカ》を目ざして急ぐ人波で埋まつてゐた。朝まだきから、塩や魚を積んだ荷車の列が蜿蜒として際限もなく続いてゐた。上から乾草をかぶせられた壺の山が、幽閉と暗黒に退屈しきつたとでもいふやうに、もぞもぞと蠢めき、またところどころ、荷車のうへに高く押し立てられた枠《わく》のあひだからは、けばけばしい模様を描いた丼や擂鉢の類が自慢さうに顔をのぞけては、はで好きな連中の物欲しさうな眼差《まなざし》を牽きつけてゐた。道ゆく人々の多くは、さうした高価な品の持主である、背の高い陶器師《すゑものし》が、自分の商品の後ろからのろのろしたあしどりで歩みながら、絶えず、伊達者《だてしや》で蓮葉な陶器どもに、いやがる乾草をかぶせかぶせするのを、羨ましさうに眺めやつた。
一方、少し離れて、麦の袋や苧や麻布や、その他いろんな自家製《うちでき》の品を満載した荷車を、へとへとに疲れた去勢牛に曳かせながら、その後ろから小ざつぱりした麻布《あさ》の襯衣《ルバーシュカ》に、汚れた麻布《あさ》の*寛袴《シャロワールイ》を穿いた持主がのつそりのつそり歩いてゐた。彼は、その浅黒い顔から玉をなして流れ、あまつさへ長い泥鰌髭のさきからぽたぽた滴り落ちる汗を、ものうげな手つきで拭き拭き歩をはこんでゐるが、その髭は、幾千年このかた美醜の別ちなくあらゆる人の子をば招かれもせぬのに訪づれる、あの容赦なき調髪師の手で髪白粉《かみおしろい》をふりかけられてゐた。それと並んで、おとなしさうな、年とつた一頭の牝馬が荷車に繋がれてポカポカ歩いてゆく。行きずりの人、とりわけ、たいていな若者が、この百姓と行き交ふ度ごとに必らず帽子をとつた。だが、それはこの親爺の白毛髭のせゐでもなければ、その勿体ぶつたあしどりのせゐでもない。さうした敬意の払はれる理由が知りたければ、眼を少し上へあげさへすればよい。荷車の上には丸顔の美しい娘がひとり坐つてゐた。黒いなだらかな三日月眉は澄みきつた栗色の眼の上にもたげられ、薔薇いろの唇には屈託のない微笑が浮かび、頭べにまとはれた赤や青のリボンは、長い編髪《くみがみ》や野花の小束と共に、彼女の蠱惑的な頭べの上に、華やかな王冠のやうに落ちついてゐた。何もかもが彼女の心を惹きつけるらしく、あらゆるものが彼女には珍らしく、目あたらしさうで……その美しい二つの眸は絶え間なく、次ぎから次ぎへと馳せうつつた。どうしてまた夢中にならずにゐられよう! 初めての定期市《ヤールマルカ》ゆきなのに! 十八娘の生まれて初めての定期市《ヤールマルカ》ゆきなのに!……しかし、彼女がどんなに父親にせがんで同行を納得させたかは、行き交ふ人々のうち誰ひとり知つてゐる者がない。もつとも父親は、根性まがりの継母さへゐなかつたら、二つ返辞で聴き入れたことだらうが、彼はまるで、永年のあひだこき使はれた挙句のはてに、お払ひ箱になるために、現に曳かれてゆく耄碌馬《まうろくうま》の手綱を自分が掴んでゐると同様に、すつかりその後添の女房の手で尻尾を押へられてしまつてゐたのだ。そのやかましやの女房《かみさん》といふのは……。しかしわれわれはその女房《かみさん》が現在この荷馬車のてつぺんに乗つかつてゐることをつい胴忘れしてゐた。その女房《かみさん》は、ちやうど、貂の毛皮のやうに、色こそ赤いが、一面に植毛の施こされた、しやれた青い毛織の短衣《コフタ》の下に、将棋盤みたいな市松模様の、立派な毛織下着《プラフタ》を着こみ、更紗模様の頭巾帽《アチーポック》をかぶつてゐる。それが彼女のでつぷりした赤ら顔に一種独特のいかつさを添へて、何かかうひどく不気味で異様な風貌に見えたので、誰しも愕ろきの眼を、急いで陽気な娘の顔へと移さずにはゐられなかつた。
寛袴《シャロワールイ》 土耳古風の寛闊なズボンで、我が国の山袴、
かるさんに類するもの。
この一行の行手には早くも*プショール河が見えだして、まだ遠くから、清涼な河風がもう頬を撫でて、それが堪へがたい酷暑の後でひとしほと身に浸みるやうであつた。無造作にばら撒かれたやうに、草地の上に突つ立つた黒筐柳《くろはこやなぎ》や白樺や白楊などの、明暗の青葉を通して、冷気を帯びた、火のやうな閃光がキラキラ輝やきだすと、美女のやうな流れが白銀《しろがね》の胸廓を燦然と露はして、その上には樹々の青葉が捲毛のやうに艶《いろ》めかしく垂れてゐた。まばゆいばかりに美しい額や、百合の花かとも見まがふ両の肩や、波うつて垂れてゐる亜麻いろの頭髪《かみ》にかざされた大理石のやうな頸をば妬ましげにうつす鏡の前で、恍惚として驕りあがつた放恣な美女が、果《はて》しない気紛れにその衣裳を次ぎ次ぎと取り棄てては著換へるやうに、この河は殆んど年ごとに、四辺の容子を変へ、新らしい水路を選んで、さまざまな目新らしい景色で己れを装ほふのである。幾列にもならんだ磨粉場《こなひきば》の水車が幅の広い河波を掬ひあげては、それを飛沫に砕き、水煙をあげて、苦もなく跳ね飛ばしながら、あたりを聾するばかりの騒音を立ててゐた。われらの馴染みの一行を乗せた荷馬車は、ちやうどこの時、橋に差しかかつて、彼等の眼前には、限りなく麗はしく、さながら無色透明な玻璃板のやうな、雄大な流れが展開したのである。空や、緑と青の森や、人々や、皿小鉢を積んだ荷馬車や、水車場――さうしたすべてのものが逆さまになつて、藍いろの美はしい深淵にうつつて、沈みもせずに、足を空ざまにして立つたり、歩いたりしてゐる。くだんの美人はこの絶景に見とれて、途々根気よく頬ばつてゐた向日葵《ひまはり》の種の殻を吐きだすことも打ち忘れてぼんやりと考へこんでしまつた。と、そのとき、不意に『おんや、娘つ子だよ!』といふ声が彼女の耳を驚ろかした。振りかへつて見ると、橋のうへに一群《ひとむれ》の若者がたたずんでゐて、その中でいちばん垢ぬけのしたみなりで、白い*長上衣《スヰートカ》に、鼠いろの羊毛皮《アストラハン》の帽子をかぶつた若者が、両手を腰につがへたまま傍若無人に、通り過ぎようとする一行を眺めてゐた。ゆくりなくも、その日焦のした、とはいへ愉悦に充ちあふれた顔と、こちらをじつと、見すかさうとでもしてゐさうな、燃えるやうな眼にぶつかると、さつきの声は屹度この人の声だつたなと思つて、彼女ははつと顔を伏せた。『素つ晴らしい娘つ子だぞ!』と、その白い長上衣《スヰートカ》の若者は、娘から眼もはなさずに言葉をつづけた。『彼女《あのこ》を接吻することが出来さへしたら、おれあ身代ありつたけ投げだしたつて構やしねえぞ。だが、前には悪魔が坐つてやがる!』どつといふ笑ひ声が四方から起つた。しかし、この思ひがけない挨拶は、のつそりのつそり歩を進めてゐる亭主の、粧《めか》したてたその配偶《つれあひ》には、あんまり嬉しくなかつた。女房《かみさん》の赤い頬は火のやうに赫つと燃え立つて、取つておきの悪罵がこの不届きな若者の頭から浴せかけられた。
プショール河 ドニェープルの一支流。
スヰートカ 小露西亜人の用ゐる長上衣で、上から腰に帯を緊める。
「何だい、この碌でなしの出来そこない野郎め、咽喉でも詰まらせてくたばつてしまやがれ! 汝《てめえ》の親爺のど頭に壺でもぶつかりやあいい。氷に滑つてころびくさるがいいんだ、忌々しい外道めが! 地獄へおちて鬼に髯でも焼かれやあがれ、くそつ!」
「どうだい、あの毒づくことは!」と、若者は女房《かみさん》の顔に眼をみはりながら、思ひがけなく手厳しい矢継ばやの応酬にいささか辟易した形で、「あの海千山千の妖女《ウェーヂマ》の舌は、あんなことを言つて、あれでちつとも痛くはならねえのかなあ!」
「なに、海千山千だと!……」さう言つて、年増の別嬪は喰つてかかつた。「この罰あたりめが! 顔でも洗つて出直して来やあがれ! しやうのない破落戸《ごろつき》野郎め! 汝《てめえ》のお袋を見たことはないが、どうせ碌でなしに違ひない。親爺も碌でなしなら、叔母も碌でなしにきまつてるだ! くそつ、海千山千なんて吐かしやあがつて!……何だい、まだ乳臭い二歳野郎の癖に……。」
その時、荷馬車がちやうど橋を渡りきつてしまつたので、その言葉尻はもう聞き取れなかつたが、若者はそれなり鳧をつけてしまふのが業腹《ごふはら》だつたと見えて、よくも考へないで咄嗟に泥土をひと塊りつかみあげるなり、それを女房《かみさん》のうしろから投げつけた。それがまた思ひがけなく、うまく命中して、新らしい更紗の頭巾帽《アチーポック》がすつかり泥だらけになつたので、無茶な乱暴者たちの哄笑はまたひとしほ大きくなつた。肥つちよのめかしやは赫つといきりたつたが、しかし荷馬車はその時もうよほど遠く距たつてゐたので、女房《かみさん》はその腹癒に罪もない継娘や、のそのそ歩いてゐる亭主に当り散らした。だが亭主の方は、かうした悶著《もんちやく》にはもう疾の昔から馴れつこになつてゐたので、依怙地に黙りこくつて、いきり立つ女房の取りのぼせた言葉にはまるで取り合はなかつた。それでも女房《かみさん》の性懲りもない舌の根は、彼等が目ざして来た市《まち》の近くの、古馴染で教父《なづけおや》に当つてゐるツイブーリャといふ哥薩克の家へ到着するまで、ぶつぶつと小やみもなく口の中で呟やきどほしだつた。この家の人々と久しぶりに対面して、暫らくその不快な出来ごとを頭から払ひのけた一行は、定期市《ヤールマルカ》の取沙汰などをしながら、長い道中の後でひと休みした。
二
いつたいこの定期市《ヤールマルカ》に何ひとつ無いといふ品があるだらうか! 車輪《くるま》に硝子に樹脂《タール》に煙草、帯革、玉葱、そのほか百姓道具が一式……これでは財布に三十両あつても、市《いち》の品ひと通り買ふことは出来まい。
――小露西亜喜劇より――
諸君は多分、どこかで滝のおちる音を遠くから聞かれたことがあるだらう、あたりは轟々たる水音に震駭されて、不思議な、はつきりしない響きの交錯が旋風のやうに身に迫るのを。実にかの全群集が一つの厖大な怪物となり、その胴体のすべてを以つて広場や狭い街々を蠢きつつ、叫び、鳴り、はためく田舎の定期市《ヤールマルカ》の渦巻のなかで、一瞬間われわれを捉へるのは、その同じ感じではなからうか? 喧騒と怒号、牛や羊や豚の啼き声――それらのすべてが混淆して一つの調子外れな音響となるのだ。去勢牛、袋詰、乾草、ジプシイ、皿小鉢、百姓女、薬味麺麭、帽子――すべてがけばけばしく、五彩燦爛として、乱脈に、うようよと累なりあひ、入り乱れて、ぱつと眼の前へ押し迫る。声とりどりの話声が互ひに消しあつて、この音響の洪水からは一語として拾ひあげられ、救ひだされる言葉はなく、一句として明瞭に発せられる叫びはなく、ただ商人《あきんど》どもの手を拍つ音が市場の四方八方から聞えるだけである。荷車が毀され、鉄金具が鳴り、地面へ投げられる板がばたんばたんと轟ろいて、眩暈《めまひ》を起した頭には方角も何も分らなくなつてしまふのだ。くだんの旅の百姓は、もう長いこと、娘といつしよに、さうした人波のなかに揉まれてゐた。彼は、こちらの荷車に近よるかと思へば、あちらの荷車に手をかけて、いちいち値段を当つて見るのだつた。さうしてゐるあひだにも肚のなかでは、売りさばきに持つて来た十袋の麦と老耄れた牝馬を中心に、とつおいつ思案にかき暮れてゐるのだつた。ところが娘の顔つきでは、麦粉や小麦を積んだ荷車のあひだを潜るやうにしてあちこちと歩き廻るのは余《あんま》りうれしくないらしかつた。彼女は、布張りの日除けの下に美々しく吊りさげられた赤いリボンだの、耳環だの、錫や銅の十字架だの、古銭の頸飾だのの方へ行きたかつたのだ。しかし、こちらにも彼女の眼を牽きつけるものはいくらでもあつた。彼女をこの上もなく笑はせたのは、ジプシイと百姓とが、痛さに悲鳴をあげながら互ひに手を敲きあつてゐるのや、酔つぱらひの猶太人が女の尻を膝で小突くのや、女の市場商人が啀《いが》みあひながら、罵る相手に蝲蛄《ざりがに》をつかんで投げつけてゐるのや、大露西亜人《モスカーリ》が片手で自分の山羊髯をしごきながら、片手で……。ところが彼女は不意に、誰かが自分の刺繍《ぬひ》の襦袢《ソローチカ》の袖をひつぱるのに気がついた。振りかへつて見ると、そこには例の白い長上衣《スヰートカ》を着た、眼もとのすずしい若者が突つ立つてゐた。彼女はぎくりとした。同時に、今までどんな歓びにもどんな悲しみにも、つひぞ覚えたことのないほど、胸がわくわくと躍りだした。それがまた彼女にはなんともいへぬ好い心持で、いつたい自分はどうしたといふのか、さつぱり理由《わけ》がわからなかつた。
「怖がらなくつてもいいよ、ね、怖がらなくつてもさ!」若者は娘の手をとつて、小声で言つた。「別に俺《おい》らは、お前《めえ》にいんねんをつけようといふんぢやねえからさ!」
『多分、あんたが、別段あたしに悪い言ひがかりをするのでないことは、ほんたうだらうよ。』さう美人は胸のなかで思つた。 『でも変だわ……屹度この人は悪魔よ! だつて、あたし自分でちやんと、いけないとわかつてゐながら……どうしてもこの人から手を引つ込めることが出来ないんだもの。 』
ふと父親は娘を振りかへつて、何か言はうとしたが、その時、片方から 『 小麦 』 といふ声が聞えた。その魔術的な一語を耳にするとともに、父親は知らず知らず、大声で話しあつてゐる二人の商人《あきんど》のそばへ、ふらふらと近よつて行つて、その方へ気をとられてしまつた彼の注意は、もはや何物を以つてしても引き戻す術がなかつた。さて、その商人どもが語りあつてゐた小麦の話といふのは、かうだ。
三
見ろやい、豪気な若い衆ぢやねえか? あんなのあ、まつたく珍らしいや、火酒《シウーハ》を麦酒《ブラーガ》のやうにがぶがぶやりをるぜ!
――*コトゥリャレフスキイ『エニェイーダ』より――
コトゥリャレフスキイ イワン・ペトッローヰッチ(1769―1838)ゴーゴリ以前の小露西亜の代表的な作家で小露西亜文学の一時期を画せし人。
「ぢやあお前《めえ》さんは、なんだね、おらたちの小麦がとても旨く捌けねえと思ひなさるだね?」と何処か小さな町からでもやつて来たらしい、風来の町人といつた容子の、樹脂《タール》で汚れて脂じんだ縞の寛袴《シャロワールイ》を穿いた男が、もう一人の、ところどころに補布《つぎ》の当つた青い長上衣《スヰートカ》を著た、お額《でこ》に大きな瘤のある男に向つて言つた。
「何も考へるがものあねえだよ、おいらあ、なんだて、万に一つもこちとらの小麦が、たとひ一升ぽつきりでも捌けようものなら、この木に縄をかけて、降誕祭まへに屋根にぶらさげる腸詰みてえに、首をおつ縊つて見せるだよ。」
「人を誤魔化さうつたつて駄目なことよ! それだつて、おいら達より他にやあ、からつきし持ちこんだ者あ無《ね》えでねえか。」さう、縞の寛袴《シャロワールイ》を穿いた男が反駁した。
『ふん、勝手に好きなことをほざきあつてろだ、』と、この二人の卸売商人の会話を一言半句も聞き漏さずにゐた、くだんの美女の父親は肚のなかで呟やいた。 『ところが、おいらのとこにやあ十袋から持ち合せがあるだに。 』
「やつぱり、なんだなあ、悪魔の手のかかつた場所ぢやあ、飢《かつ》ゑた*モスカーリから搾り出すほどの儲けもあるこつてねえだて。」と、額に瘤のある男が意味ありげに言つた。
モスカーリ 小露西亜人が大露西亜人のことを侮蔑的によぶ呼称。
「悪魔の手つちふと、それあいつたいなんだね?」さう縞の寛袴《シャロワールイ》を穿いた男が聞き咎めた。
「世間でよりより噂さにのぼつてることを聞かねえだかね?」と、額に瘤のある男がじろりと相手の顔へ不機嫌さうな流※[#「目+丐」、40-2]《ながしめ》をくれながら、つづけた。
「はあて!」
「はあてだと、まつたくそれこそ、はあてだて! ちえつ、あの委員の畜生めが、旦那衆のうちで梅酒を呑みくさつた後で口を拭くことも出来なくなりやあがればいいんだ、こねえな、金輪際、小麦ひとつぶ捌けつこねえ、忌々しい土地を市場にきめやあがつて。そうら、あの壊れかかつた納屋が見えるだろ? ほら、あすこの山の麓《ねき》のさ。(茲で、ものずきな、くだんの美人の父親は、まるで注意のかたまりにでもなつたやうに、一層間近く二人のそばへにじり寄つた。)あの納屋のなかで、時々、悪魔がわるさをしをるので、一度だつてここの定期市《ヤールマルカ》に災難がなくて済んだためしがねえのさ。昨夜《ゆんべ》おそく、郡書記が通りすがりに、ひよいと見るてえと、空気窓《かざまど》から豚の鼻づらが戸外《そと》をのぞいて、ゲエゲエ呻つたちふだよ。それで奴さん、頭から冷水でもぶつかけられたやうに、ぞうつとしたちふこつた。またしても、あの 『]赤い長上衣《スヰートカ》 』 がとびだすに違《ちげ》えねえだよ!」
「その 『赤い長上衣《スヰートカ》 』つてえなあ、いつたいなんだね?」
ここで、われらの注意ぶかい聴き手の髪の毛は逆立つた。ぎよつとして彼が後ろを振りかへると、自分の娘が一人の若者と互ひに抱きあふやうにして、この世の中にどんな長上衣《スヰートカ》があらうと、てんでそんなもののことは念頭にもおかず、何か恋のささやきを交はしながら、静かにたたずんでゐた。それを見ると親爺は恐怖の念も忘れて、又もとの暢気さに立ちかへつた。
「おやおや、おい、若えの! お前《めえ》よつぽど、じやらつきの名人らしいな! おいらなんざあ、婚礼のあと四日目になつて、やつと、死んだ嬶あのフヴェーシカを抱きよせることが出来たもんだ、それも、介添役の教父《クーム》が口ぞへをして呉れたればこそだ。」
若者は即座に、愛人の父親を御しやすしと見てとると、胸中ひそかに、如何にして彼を懐柔すべきかについて、思案を凝らしはじめた。
「お父《とつ》つあん、お前《めえ》さんはおいらを知りなさるめえが、おいらはひと目でお前《めえ》さんがわかつただよ。」
「それあ、わかりもしただらうがね。」
「なんなら名前から渾名《あだな》から、何から何まで、ひとつ言つて見せようか。お前《めえ》さんの名前はソローピイ・チェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1-7-83]ークつていひなさるんだらう。」
「うん、そのソローピイ・チェレヰークはおらだよ。」
「まあ、よつく見ておくれよ、このおいらが分らねえのかなあ?」
「うんにや、どうも見憶えがねえだよ。さう言つちやあなんだが、生涯のあひだに会つて来た人間の面相を、いちいち憶えてなんぞゐられるこつてねえからなあ!」
「しやうがねえなあ、ゴロプペンコの忰を憶えてをつて貰へねえやうぢやあ!」
「そんなら、お前《めえ》は、あのオフリームの息子けえ?」
「でなくつて誰だといひなさるだね? 悪魔ででもなきやあ、その当人にきまつてらあな。」
そこで、ふたりは帽子をかなぐりすてて、接吻をしはじめたが、われらのゴロプペンコの忰は早速その場でこの新らしい友を攻め落さうと決心した。
「ところで、ソローピイのお父《とつ》つあん、そうらね、このとほり、おいらとお前さんの娘さんとあ、お互ひに好いた同士になつて、もう一生涯、離れようにも離れられねえ仲になつちやつたんだがね。」
「そいぢやあ、何かい、パラースカ、」と、笑ひながら娘の方へ向きなほつて、チェレヰークが言つた。「ほんとに、もう何かい、その、なんだ……よく言ふ、ひとつ草を喰《は》まうつちふやつか! どうぢや? 手を拍つことにするだか? うん、よかつぺえ、それぢやあ、ほやほやの花聟どん、お祝ひに一杯やらかすことにすべいか!」
そこで三人は打ちそろつて、名の通つた市場の料理店へ入つて行つた――それは猶太女の出してゐる天幕店で、そこにはいろんな形の罎に入つた、あらゆる種類、あらゆる年代の酒が夥しくずらりと並んでゐた。
「やあ、いけるいける! それでこそおいらの気に入るわい!」チェレヰークは、未来の花聟が火酒をなみなみとついだ三合の余もはいる大コップを顔の筋ひとつ動かさずに、ぐつと一息に呑みほしざま、それを粉微塵に叩きわつたのを、やや酩酊してどろんとした眼で眺めながら、言つた。「どうだい、パラースカ? えれい花聟を目つけてやつたぞ! ほうら、見ろやい、なんちふ見事な呑みつぷりだか!……」
やがて彼は娘をつれて、げらげら笑ひながら、よろめく足どりで自分の荷馬車の方へ戻つて行つたが、当の若者は、小間物を並べた店々――その中にはポルタワ県下でも名高い二つの市《まち》、*ガデャーチやミルゴロドから来た商人も混つてゐたが、――それを軒並にひやかしながら、聟引出物として舅や、そのほか然るべき人々に贈るために、洒落れた銅金具つきの、木製のパイプだの、赤い縁に沿うて花模様をおいた手巾《ハンカチ》だの、さては帽子だのを、丹念に探してまはつた。
ガデャーチ ポルタワ県下の同名の郡の首都で、プショール河に臨んだ
小都会。
四
たとひ癪でも男としては
女の前へ出たからにや、
世辞の一つも言ふが徳……。
――コトゥリャレフスキイ『エニェイーダ』より――
「おい、おつかあ、おらあな、娘の聟を目つけて来ただぞ!」
「まあ、この人つたら、けふび聟さがしどころの騒ぎかい! 馬鹿々々しい! ほんとにお前さんつたら、よくよくの因果でいつもさうなんだよ! どこの国にけふび、正気の沙汰で聟さがしなんぞに夢中になつてる人があるものか? そんなことより、ちつとでも早く、麦を売り捌く分別でもしたらどんなもんだね。その上でこそ好い花聟も目つかるつてもんだよ! どうせ、また襤褸にくるまつた乞食野郎かなんかだらう、屹度。」
「へ、お生憎さまだて! どんなえれえ若者だか、ひとめお眼にかけてえもんだ! 長上衣《スヰートカ》だけでもお前《めえ》の短衣《コフタ》と赤革の靴より高価《たか》かんべえ。それよりも、火酒《シウーハ》の呑みつぷりの見事さと来た日にやあ!……おらあ臍の緒を切つてこのかた、顔の筋ひとつ動かさねえで三合の余もある火酒をひと息に呑みほすやうな若者を見たなあ、初めてだよ!」
「あれだよ、この人には、ただもう、呑助か破落戸《ごろつき》でさへありやあ性に合ふんだからね。てつきり、そいつはあの橋の上でいやに妾たちに絡んで来やがつた、あのやくざ者に違ひないよ、でなかつたら、どんなものでも賭けるよ。今まで出喰はさなかつたのが口惜《くや》しいくらゐさ、ほんとに思ひ知らせてやるんだつたのに。」
「何だと、ヒーヴリャ、たとへその男であつたにもしろさ、別にやくざ者つてえわけあねえでねえか?」
「ちえつ! やくざ者つてえわけがないなんて! まあこの人は、なんて頓馬なおたんちんだらう! 呆れてしまふぢやないか! あれがやくざ者でないなんて! お前さんは一体、あの磨粉場《こなひきば》のそばを通る時に、その間の抜けた眼を何処にくつつけてゐたんだね? ほんとにこの人つたら、現在目の前で、その嗅煙草だらけの汚ならしい鼻の先でさ、自分の女房が赤恥を掻かされても平気の平左なんだからね。」
「それかといつて、おいらにやあ、あの男に一点、非の打ちどころがあるやうにも思へねえからよ。何処へ出しても恥かしくねえ立派な若い衆さ! ただちよつとばかり、お前《めえ》のおたふくづらに泥糞を塗りこくつただけのこつてねえか。」
「ええつ、ほんとにお前さんつていふ人は、ああ言へばかう、かう言へばああと、へらず口ばつかり叩いてさ! それあ、いつたいなんといふこつたね? つひぞこれまでにないことぢやないか? あ、わかつたよ、おほかた何ひとつ商なひもしない癖に、もうどつかで喰ひ酔つて来たんだらう?」
この時、チェレヰークはわれながら余計なことを言つたと気がつくと同時に、屹度いきり立つた女房が、瞋恚の爪を剥いて、いきなり頭髪《かみのけ》をひつ掴みに飛びかかつて来るだらうと思つて、咄嗟に両の腕で頭をかかへた。
『どうなと勝手にしやがれ!』と、彼は猛々しく武者振りついて来る女房を避けながら、心の中で呟やいた。 『どうといふ理由《わけ》もねえのに、立派な男を断わらにやなんねえだ。ああ、神様! なんだつて、罪深いわしどもにこんな不仕合せを下さるだね? この世の中はこのとほり碌でもねえものだらけなのに、まだその上に、あなた様は嬶あなんてものをお創造《つくり》になつただ! 』
五
をれるなすずかけ、お前は嫩い。
しよげるな哥薩克、お前も若い!
――小露西亜の小唄――
白い長上衣《スヰートカ》を著た若者は、自分の荷馬車の傍に坐つたまま、がやがやとざわめく周囲《ぐるり》の人波をぼんやり眺めてゐた。おだやかに午前と午後を照らしをへて疲れはてた太陽は地平の彼方に沈んで、まさに暮れなんとする日は蠱惑的に、鮮やかな紅《くれなゐ》の色をおびた。白い大小の天幕小舎の頂きがほんのりと焔のやうな薔薇いろの光りを受けてまばゆく輝やいてゐた。かさねて立てかけられた夥しい窓枠の硝子が反射し、酒場の卓子のうへに置かれた青い酒罎やさかづきは火のやうな色にかはり、甜瓜《まくはうり》や西瓜や南瓜の堆積《やま》が、さながら黄金《きん》と赤銅の鋳物のやうに見えた。がやがやいふ人声もめつきり少くなり、低くなつて、女商人や、百姓や、ジプシイも今はしやべり疲れて、その舌まはりものろく、懶げであつた。あちこちに焚火の火がちらついて、水団の煮える香ばしい湯気が、ひつそりした通路を流れた。
「何をふさぎこんでるだね、グルイツィコ?」と、背のひよろ長い、日焦けのしたジプシイがわれらの若者の肩を叩いて叫んだ。「どうだね、二十|留《ルーブリ》で去勢牛《きんぬき》を手ばなしちやあ!」
「手前つちときたら、一にも去勢牛《きんぬき》、二にも去勢牛《きんぬき》だ。手前たちやあ、なんかといへば慾得一点ばりで、堅気な人間を誤魔化したり、ぺてんに懸けたりばかりしてやがるんだ。」
「ちえつ、馬鹿々々しい! まつたく冗談でなしにお前《めえ》さんどうかしてるよ。自分で花嫁を取りきめておきながら、今更それを後悔してるんぢやないかね?」
「ううん、おいらはそんな人間たあ訳が違ふ。約束を反古にするやうなことはしねえさ。一旦とりきめたこたあ金輪際、変改《へんがへ》するやうなこたあしねえよ。だが、あのチェレヰークのおやぢには良心つてものがねえんだ、半文がとこもねえんだ。約束はしても、気が変るんだ……。だが、あのおやぢを責めることも出来ねえさ、奴さんは馬鹿で、あれつきりの人間だからなあ。何もかもあの古狸の仕業さ、けふおいらがみんなと一緒に橋のうへでさんざ弥次りとばしてやつた、あの妖女《ウェーヂマ》の仕業なのさ! ちえつ、ほんとに、このおいらが皇帝《ツァーリ》か、それとも偉え大名ででもあつたら、先づ何を措いても、おめおめと女の尻にしかれてるやうな痴者《しれもの》は一人のこらず死刑にしてやるんだが……。」
「ぢやあ、おいらが骨折つて、チェレヰークにパラースカを手ばなすことを納得させたら、お前さん去勢牛《きんぬき》を二十|留《ルーブリ》で譲るだかね?」
グルイツィコは胡散臭さうに相手の顔を眺めた。浅黒いジプシイの顔には邪《よこし》まで、毒々しくて野卑で、それと同時に横柄な面魂が浮かんでゐた。それをひとめ見た者には、この男の奇怪な心底には只ならぬ魂胆がふつふつと煮えたぎつてゐて、それに対する地上の報いはただ絞首台あるのみだといふことが立ちどころに頷かれた。鼻と尖つた頤とのあひだへすつかり陥《お》ちこんで、絶えず毒々しい薄笑ひを浮かべてゐる口許、火のやうにキラキラ光る金壺まなこ、かはるがはる始終その顔にあらはれる、さまざまな謀計や策略の閃めき――すべてさうしたものが、現にそのとき彼の著けてゐたやうな、一種独特な奇態な服装を要求したかとも思はれた。ちよつとでもさはつたなら、ぼろぼろにくだけてしまひさうな、暗褐色の長上衣《カフターン》、両の肩へ垂れ下つてゐる苧屑のやうな長い黒髪、日焦けのした素足にぢかにはいた半靴――さうしたものがすべて彼の身について、その人柄を形づくつてゐるやうに見えた。
「それが嘘でさへなければ、二十|留《ルーブリ》はおろか、十五|留《ルーブリ》でだつて売つてやらあ!」と、なほも相手の肚をさぐるやうな眼つきで、その顔を見つめながら若者は答へた。
「え、十五|留《ルーブリ》で? ようがす! だが、くれぐれも忘れなさんなよ、きつと十五|留《ルーブリ》ですぜ! ぢやあ手附にこの五留札《あをざつ》を一枚あづけときやせう!」
「よからう、だが、約束をたがへたらどうする?」
「約束をたがへたら、手附はお前さんのものさ!」
「ようし! ぢやあ手拍ちとしよう!」
「よし来た!」
六
ほい、飛んでもないこつた、うちのロマーンが帰つて来ましたよ。これあまた青紫斑《あざ》をこしらへられなきやあなるまいが、ホモさん、あんたにもちと具合が悪いわねえ。
――小露西亜喜劇の中より――
「こつちへいらつしやいな、アファナーシイ・イワーノヰッチ! ほら、ここが垣根の低いところだから、足をおかけなさいまし。なに、心配することはありませんよ、うちのお馬鹿さんは大露西亜人《モスカーリ》に何かちよろまかされやしないかと思つて、ここの教父《おやぢ》といつしよに夜どほし荷馬車の見張りに行つてますからさ。」
チェレヰークの雷女房《かみなりにようばう》はかういつて、垣根のそばにぴつたり身を寄せておどおどしてゐる祭司の息子をやさしく元気づけた。男はいきなり籬のうへに立ち上ると、物凄い、のつぽの妖怪よろしくの体《てい》で、さてどこへ飛びおりたものかと、目くばりをしながら、暫らくのあひだためらつてゐたが、やがてのことにバサつと音をたてて曠草《ブリヤン》のなかへ落つこちてしまつた。
「まあ大変! お怪我はなさらなかつたの、もしや頸の骨でも挫きはなさいませんでして?」さう、ヒーヴリャは気づかはしさうにしやべり立てた。
「しつ! なに大丈夫ですよ、大丈夫ですよ、ハヴローニヤ・ニキーフォロヴナ!」と、やをら立ちあがりながら祭司の息子は、痛さうに、囁やくやうな声で答へた。「ただ、蕁麻《いらくさ》に刺されただけですよ、あの亡くなつた祭司長の言ひぐさではないが、この毒蛇《まむし》みたいな草にね。」
「さあ家《うち》のなかへはいりませう、誰もゐやしませんわ。あたしはまたねえ、アファナーシイ・イワーノヰッチ、あなたがお腫物《でき》か腹痛《はらいた》で、おかげんでも悪かつたのぢやないかと、お案じしてゐたんですよ。だつて、あんまりお見えにならないんですもの。で、その後おかはりはありませんの? あなたのお父さんはこの頃ぢゆう随分たくさん、いろいろと収入《みいり》がおありなさるつてことですわねえ!」
「いやなに、ほんの些細なものですよ、ハヴローニヤ・ニキーフォロヴナ。うちの親爺は精進期《ポスト》のあひだぢゆうに春蒔麦なら十五袋、稷《きび》の四袋、白麺麭の百個ぐらゐも貰ひましたかねえ。鶏も勘定をしたら、ものの五十羽とはありますまいし、玉子はおほかた腐つてるといふ始末ですよ。しかし、正直なはなし、ほんとに喜ばしい贈物といへば、ハヴローニヤ・ニキーフォロヴナ、ただあなたから頂くものの他にはありませんからね!」さう言つて祭司の息子は、甘つたるい眼つきで女を眺めながら、間近く擦りよつた。
「さあ、これがあなたに差しあげるあたしの贈物なんですよ、アファナーシイ・イワーノヰッチ!」さう言ひながら女は、卓子の上へ皿小鉢を出したり、さもうつかり外れてゐたといはんばかりに、上着の釦を掛けたりして、「肉入団子《ワレーニキ》に、小麦粉の煮団子《ガルーシュキ》に、それから*パムプーシェチキと、*トヴチェーニチキと!」
パムプーシェチキ 捏粉を煮た一種の食物。
トヴチェーニチキ 捏粉に肉を包んで油揚にしたもの。
「それあもう、これを、どんな御婦人がたより上手なお手際でおつくりになつたつてえことは、賭をしてもかまひませんよ!」さう言ひながら、祭司の息子は片手でトヴチェーニチキを取りあげ、片手で肉入団子《ワレーニキ》を引きよせた。「しかし、ハヴローニヤ・ニキーフォロヴナ、わたしの胸はどんなパムプーシェチキやガルーシュキにも増してもつともつとおいしい御馳走が頂きたくつてギュウギュウいつてるのですよ。」
「さあ、このほかにどんな食べものがお望みなのか、あたしにはちよつと分りかねますわ、アファナーシイ・イワーノヰッチ!」この肥つちよの別嬪は、いかにも腑に落ちないといつた容子《ふり》をして、さう答へた。
「あなたの愛情《おなさけ》にきまつてるぢやありませんか、ハヴローニヤ・ニキーフォロヴナ!」かう囁やくやうに言ふと、祭司の息子は片手に肉入団子《ワレーニキ》を持つたまま、片手でがつしりした女のからだを抱きよせた。
「まあ、思ひがけない、何を仰つしやることやら、アファナーシイ・イワーノ ヰッチ!」さう面映げにヒーヴリャは眼を伏せて答へた。「ひよつとしたら、まだそのうへに接吻をなさるつもりなんでしよ!」
「それについて、これは自分自身のことですけれど思ひきつて白状しますがね、」と、祭司の息子が言葉をついだ。「あれはたしか、まだ神学校の寄宿にゐた頃のことなんですよ、今もまざまざと憶えてゐますが……。」
この時ふと、戸外《そと》で犬の吠える声と、門を叩く音が聞えた。ヒーヴリャは急いで駈けだして行つたが、すぐに真蒼《まつさを》な顔で引つ返して来た。
「まあ、アファナーシイ・イワーノヰッチ、大変なことになりましたよ。おほぜいの人が門を叩いてゐますの、それに確か、この家の教父《おやぢ》の声もするやうなんですの……。」
とたんに祭司の忰は肉入団子《ワレーニキ》を咽喉《のど》につまらせてしまつた……。彼の両の眼は、たつたいま幽霊のお見舞を受けたといはんばかりに、かつと剥きだしになつた。
「はやく、此処へあがつて下さい!」狼狽《うろた》へたヒーヴリャは、天井のすぐ下のところに二本の横梁《よこぎ》で支へられて、そのうへにいろんながらくた道具がいつぱい載せてある棚板を指さしながら叫んだ。
咄嗟の危急がわれらの主人公に勇気を与へた。彼ははつと我れにかへると同時にペチカの寝棚《レヂャンカ》へ飛びあがり、そこから用心しいしい棚板の上へ攀ぢのぼつた。一方ヒーヴリャは、なほも烈しく、やつきになつて扉《と》を打ちたたく音に急きたてられて、前後の弁へもなく門の方へ駈け出して行つた。
七
さあこれが奇々怪々な話なんでな、皆の衆!
――小露西亜喜劇より――
市場では奇怪な事件が持ちあがつた。といふのは、何処か荷物のあひだから 『 『』 赤い長上衣《スヰートカ》 』 が飛び出したといふ取沙汰でもちきりなのだ。輪麺麭《ブーブリキ》を売つてゐる婆さんのいふところでは、豚に化けた悪魔が、何か捜しものでもするやうに、ひつきりなしに荷馬車といふ荷馬車を片つぱしから覗きまはつてゐるのを見かけたとのことだ。この噂は忽ちのうちに、もうひつそりと鎮まつた野営の隅々にまでひろまり、その輪麺麭《ブーブリキ》売りの婆さんといへば、酒売り女の天幕とならんで屋台店を出してゐて、朝から晩まで用もないのにコクリコクリお辞儀をしたり、ふらつく足でまるで自分の甘い商売物そつくりの形を描いて歩くやうな女ではあつたけれど、人々はその話だけは信用しない方が罪悪だとすら考へた。搗てて加へて、例の郡書記が壊れかかつた納屋で見たといふ怪異が、尾鰭をつけてそれに結びつけられたため、夜に入ると共に人々は互ひにからだを擦りよせるやうにした。平和は破られ、怖ろしさのために夜の眼も合はぬといつたていたらく、そこで気の弱い連中だの、泊るべき家のある手合はそれぞれ引きあげることにした。チェレヰークも、教父《クーム》や娘とともに御多分にもれずその仲間だつたが、強つて彼等といつしよに家へつれて行つて泊めてくれとせがむ連中を同道して、さては激しく門を打ち叩いてわれらのヒーヴリャを周章狼狽させた次第である。教父《クーム》はもう少々きこしめしてゐた。それは彼が荷馬車を曳いたまま二度も前庭《には》を行きすぎてから、やうやく自分の家を見つけたことからみてもわかる。客人たちも、みんなもう、ひどく上機嫌で、遠慮会釈もなく主人より先きに家のなかへづかづかと入りこんだものである。チェレヰークの女房《かみさん》は、一同が家の隅々を穿鑿しだした時には、まつたく針の蓙に坐つてゐる思ひだつた。
「姐《あね》さん、どうしただね!」教父《クーム》は家のなかへ入るなり声をかけた。「お前さんまだ瘧《おこり》をふるつてるだかね?」
「ええ、なんだか加減が悪いもんで。」さう答へながら、ヒーヴリャは不安らしく天井の下の棚へ眼をやつた。
「おい、おつかあ、あすこの馬車から水筒を持つて来てくんなよ!」さう、教父《クーム》はいつしよに戻つて来た自分の女房に呍ひつけた。「皆の衆といつしよに一杯やるだよ。あの忌々しい婆あどもめが、他人《ひと》にも話されねえくらゐおらたちを嚇かしやあがつただからなあ。まつたく、皆の衆、おらたちはくだらねえことで引きあげて来たもんぢやねえかね!」と、彼は土器の水呑みでグビグビやりながら語をついだ。「屹度あの婆あどもは、後でおらたちを嘲笑《わら》つてゐくさるだよ、でなかつたら、この場へ新らしい帽子を賭けてもええだ。よしんばまた、真実それが悪魔だつたにもしろだよ――悪魔がいつたいなんだい? そやつのどたまへ唾でもひつかけてやるさ! たつた今、現在この場へ、たとへばこのおいらの眼の前へ、奴が姿を現はしたとしてもだよ、おいらがもし、そやつの鼻のさきへ馬鹿握《ドゥーリャ》を突きつけて呉れなかつたら、おいらは犬畜生だと言はれても文句はねえだよ!」
「それぢやあ、なんだつてお前さんは、急に顔いろを変へたりしただね?」と、お客の一人で、誰よりも頭だけぐらゐづぬけて背が高くて、いつも自分を勇者に見せよう見せようと心がけてゐる男が叫び出した。
「なに、おいらが?……勝手にしろい! 何を寐とぼけてゐるだ?」
客たちはにやりと笑つた。口達者な勇者の顔にも北叟笑みが浮かんだ。
「なあに、この人だつて、今はもう青い顔なんぞするもんか!」と、他の一人が混ぜつかへした。「罌粟《けし》の花みてえな真紅な頬ぺたをしてるでねえか。これぢやあこの人の名前は、ツイブーリャ(玉葱)ではなくて、ブーリャク(赤蕪)か、それとも、こねえに人を嚇かしやあがつた、あの『 『』 赤い長上衣《スヰートカ》 』とでも言つた方がよかんべいに。」
水筒が卓子の上をひとまはりすると、お客一同は前にもましてひときは陽気になつた。この時、もう疾うから、その 『赤い長上衣《スヰートカ》』のことで気をもみとほしで、束の間もその穿鑿ずきな心に落ちつきの得られなかつたチェレヰ ークが、教父《クーム》のそばへにじり寄つた。
「後生だからひとつ聴かせてくんなよ、兄弟! おらがいくら頼んでも、その忌々しい『 長上衣《スヰートカ》』 の由来を聞かせてくれねえんだよ。」
「おおさのう! どうもその話を、よる夜なか話すのあ、ちつとべえ具合がよくねえだが、それでもお前や皆の衆の慰みになるちふことなら、(かう言ひながら、彼はお客の方へ向きなほつて)それにお客人たちも、どうやらお前《めえ》とおなじやうに、その妖怪《ばけもの》のはなしを聴きたがつてござるやうでもあるだから、ぢやあ、構ふことはねえや。ひとつ聴きなされ、かうなんだよ!」
そこで彼はちよつと肩を掻いて、着物の裾で顔を拭いてから、両手を卓子の上へのせて、やをら語りだした。
「何でもある時のこと、どういふ罪でか、そこんとこあ、からつきし分らねえだが、一匹の悪魔めが焦熱地獄からお払ひ箱になつたちふだのう……。」
「馬鹿なことを、兄弟!」と、チェレヰークがそれを遮ぎつた。「どうしてそねえなことが出来るだよ、悪魔を地獄から追んだすなんてことがさ?」
「どうもかうもねえだよ、教父《とつ》つあん? 追んだしたものあ追ん出しただ、百姓が家《うち》んなかから犬を追んだすとおんなじによ。おほかたその悪魔の野郎は、なんぞ善いことをしようつてな出来心を起しをつたのかもしんねえだよ、それで出て行けつちふことになつたのぢやらうのう。ところがその可哀さうな悪魔にやあ、どうにも地獄が恋しうて恋しうて、首でも縊りかねねえほどふさぎこんでしまつただよ。だが、どうにもしやうがねえだ! そこで憂さばらしに酒を喰《くら》ひはじめをつたものさ。そうら、お前も見た、あの山蔭の納屋さ、今だにあの傍《わき》を通るにやあ、あらたかな十字架で、前もつて魔よけをしてからでなきやあ、誰ひとり近よる者もねえ、あの納屋を棲家にしをつてな、その悪魔の野郎め、若えもののなかにだつて滅多にやねえやうな、えれえ放蕩をおつぱじめたものだよ。もうなんぞといへば、朝から晩まで酒場に神輿《みこし》を据ゑてゐくさつたちふことだ!……」
ここでまたしても、むつかしやのチェレヰークが語り手を遮ぎつた。
「兄弟、阿房なことを言ふもんでねえだ! 悪魔を酒場のなかへ入れる馬鹿が何処の国にあるだ? 都合のいいことにやあね、悪魔の手足にはちやんと鈎爪がついてるだよ、それに頭にやあ角が生えてるでねえか。」
「ところが、どうして、そこに抜《ぬか》りはねえつてことよ、ちやんと奴さん帽子をかぶり、手袋をはめてゐくさつただもの。どうして見わけがつくもんけえ! 飲んだの飲まねえのといつて、たうとうしめえにやあ、持つてゐただけ、きれいさつぱりと、残らずはたいてしまやあがつただよ。長げえあひだ信用しとつた酒場の亭主も、やがてのことに信用しなくなつてのう。とどのつまり悪魔の奴め、自分の身に著けてゐた赤い長上衣《スヰートカ》をば、せいぜい値段の三が一そこそこで、その当時ソロチンツイの定期市に酒場を出してゐた猶太人のとこへ飲代《のみしろ》の抵当《かた》におくやうな羽目になつただよ。抵当《かた》において、さて猶太人に向つて、『 いいかえ猶太《ジュウ》、おいらはかつきり一年たつたら、この長上衣《スヰートカ》を請け出しに来るだから、それまでちやんとしまつといて呉んろよ! 』 ――さう言つておいて掻き消すやうに姿を隠してしまつただ。猶太人がよくよくその長上衣《スヰートカ》を見るてえと、生地はとてもとてもミルゴロド界隈で手に入るやうな代物ではなく、そのまた赤い緋の色がまるで燃えたつやうで、じつと見つめちやあゐられねえくらゐ! ところが猶太人め、期限になるまで待つてをるのが惜しくなつただのう。畜生め鬢髪《ペーシキ》を撫で撫で、さる旅の旦那衆にそれをうまく押しつけて、五*チェルヲーネツはたつぷりせしめやあがつただよ。約束の日限なんぞ、猶奴《ジュウ》の野郎すつかり忘れ果ててしまつてゐただ。ところが、ある日の夕方のこと、一人の男が入えつて来て、 『さあ、猶奴《ジュウ》、おいらの長上衣《スヰートカ》を返してもらはう! 』つて言ふだよ。猶奴《ジュウ》め最初《はな》はまつたく見憶えがなかつただが、よくよく見ればくだんの男なので、てんから思ひもよらぬといつた顔つきをしやあがつて、 『それあまた、どんな長上衣《スヰートカ》のことですかね? 手前どもには長上衣《スヰートカ》なんてものあ一つもありましねえだ! てんでお前さまの長上衣《スヰートカ》なんて知りましねえだよ! 』 と、空とぼけて見せをつたものさ。するてえと、男はフイと出て行つてしまつただよ。ところが、やんがて夜になつて、猶奴《ジュウ》のやつが自分の荒《あば》ら家《や》の戸を閉めきつて、長持の中の銭を一とほり勘定し終つてから、上掛けをかぶつて、猶太流に祈祷をはじめをつたと思ひなされ――何か物音がするだよ……ひよいと見ると――窓といふ窓から、豚の鼻づらがうちん中を覗き込んでるでねえか……。」
チェルヲーネツ 彼得一世時代に制定された金貨の単位。
この時ほんとに、何かはつきりはしないが、とても豚の啼き声に似た音が聞えた。一座の者ははつと顔いろを変へた……。語り手の面上には冷汗の玉が吹き出した。
「なんだろ?」と、胆をつぶしたチェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1-7-83]ークが口をはさんだ。
「なんでもねえだよ!……」さう答へながら、教父《クーム》はからだぢゆうをガタガタ顫はせてゐる。
「ええつ!」客の一人がさう口走つた。
「お前さんがいつただんべ?」
「いんにや!」
「いつたい誰が鼻を鳴らしただ?……」
「馬鹿々々しいつたら、何をおれたちやあ大騒ぎしてるだ! ビクつくこたあ、なんにもありやしねえやな!」
それでも、一同はびくびくして、あたりを見まはしたり、部屋の隅々へ眼をくばつたりしはじめた。ヒーヴリャはまるで生きた心地もなかつた。「まあ、ほんとにお前さんたちは女《あま》つ子《こ》だよ、まるで女つ子だよ!」と、彼女は大声をあげて喚いた。「お前さんたちが男一匹で、哥薩克の働らきが出来ようなんて、とても思ひもよらないよ! お前さんたちにやあ、紡錘《つむ》を持つて糸車のまへに坐るくらゐが分相応だよ! あれあ屹度、何だよ、誰かがお屁《なら》をしたのか……それとも誰かのお尻の下で腰掛が鳴つただけのことさ。それだのに、みんな狂人《きちがひ》みたいに跳びあがるなんて!」
この言葉にわれらの勇士たちは気恥かしくなつて、強ひて空元気をつけた。そこで教父は水筒から一口あふつて、またもや続きを話しはじめた。「ところで、その猶奴《ジュウ》は気を失つてしまつただよ。だが、豚どもは竹馬みたいにひよろ長い脚で窓を跨いで中へ入えると、いきなり、三本縒《より》の革鞭を振りあげて、あの横梁《よこぎ》よりも高く猶奴《ジュウ》が跳ねあがつたくれえ、こつぴどく野郎を擲りつけて正気に戻しただ。するてえと、猶奴《ジュウ》のやつめ、這ひつくばつて何もかも白状してしまつただよ……。だが、長上衣《スヰートカ》をさつそく取り返すつてえ訳にやあ行かなかつただ。なんでも道中でその旦那衆からジプシイが長上衣《スヰートカ》を盗んで、それを女商人に売りつけをつただ。そのまた女商人がそれを持つてこのソロチンツイの定期市《ヤールマルカ》へやつて来たちふ訳だが、それ以来、その女商人の商品《しな》がさつぱり捌《は》けなくなつてしまつただよ。だもんで女商人はひどくそれを不思議に思つただが、やがてそれが何もかも、てつきりその赤い長上衣《スヰートカ》のせゐだと気がついただ。成程さういへば、それを著るてえと妙にからだが緊めつけられるやうな気がするだよ。そこで前後の考へもなく、いきなりそれを火のなかへおつ抛りこんだだが、その魔性の着物は燃えもしねえだ!……※[#始め二重括弧、1-2-54]ええ、こりや飛んでもねえ悪魔のお土産だ!※[#終わり二重括弧、1-2-55]つてんでな、女商人はいろいろと思案にくれた挙句、バタを売りに来てゐた或る百姓の荷馬車へそれをこつそり押しこんだだよ。頓馬な百姓め、ほくほくもので悦に入りをつただが、売りもののバタはからつきし、値踏みひとつする者もねえ始末さ。※[#始め二重括弧、1-2-54]ええ、忌々しい、この長上衣《スヰートカ》は悪魔の手からわたつたものに違えねえ!※[#終わり二重括弧、1-2-55]さう言ひざま、斧を取つて、それをばズタズタに截りきざんでしまつただよ。ところがどうだ、その一切れ一切れが寄りあつまつて、またぞろもとのやうに、ちやんとした長上衣《スヰートカ》になるでねえか! そこで今度は十字を切つて、もう一度それを斧で断ちきつて、その切れつぱしを、どこここなしに撒きちらしておいて行つてしまつただよ。その時からこつち、毎年、定期市《ヤールマルカ》の時分になるてえと、きまつて豚の仮面《めん》をかぶつた悪魔めが、広場々々をほつつきまはつて、鼻を鳴らしながら、自分の長上衣《スヰートカ》の切れつぱしを拾ひあつめて歩くつてえだ。なんでも、今ぢやあ、もう左の袖口だけが目つからねえばつかりだつてえこんだ。それからこつち、誰ひとり怖気をふるつて近寄らねえもんで、ここに定期市《ヤールマルカ》が立たねえやうになつてから、かれこれもう十年にもなるべえ。だのに、その悪魔めが、今度はあの委員の野郎を抱きこみやあがつて……」
かう言ひかけた言葉の半ばが語り手の唇のうへで消えてしまつた――窓が騒々しく打ち叩かれて、硝子が唸りを立ててけし飛んだ。そして物凄い醜面《しこづら》が、そこからにゆつとばかりに中を覗きこんで、まるで※[#始め二重括弧、1-2-54]皆の衆、いつたいここで何をしてゐなさるだね?※[#終わり二重括弧、1-2-55]とでも訊ねるやうに、じろじろと眺めまはした。
八
……犬のやうに尻尾を巻き、カインのやうにわななきながら、鼻の孔
から鼻水《みづ》をたらした。
――コトゥリャレフスキイ『エニェイーダ』より――
家のなかにゐた者はみんな恐怖に打たれてしまつた。教父《クーム》は口をぽかんとあけたまま、まるで化石したやうにからだを硬ばらせてしまつた。両の眼は今にも飛び出しさうなくらゐ、かつと見開かれ、指をひろげた両手は宙に浮いたままビクとも動かなかつた。例の長身《のつぽ》の勇士が、驚愕のあまり天井へ跳ねあがつて、横梁《よこぎ》を頭で小突き上げたため、棚板が外れて、ガラガラつと物凄い音を立てざま、祭司の息子が地面《した》へ転げ落ちてきた。
「ひやあつ!」と絶望的にわめいて一人の男は、怖ろしさのあまり腰掛の上へ打つ伏しになつて、両手と両足でそれにしがみついた。
「助けてくれえつ!」さう喚いて他の一人は、頭から外套をひつかぶつた。
再度の驚愕でやうやく我れに返つた教父は、わなわなと顫へながら女房の裾のしたへ潜《もぐ》りこんだ。長身《のつぽ》の勇士は狭い焚口から無理やりに煖炉《ペチカ》のなかへ這ひこむなり、自分で焚口の扉を閉めてしまつた。チェレ ヰークはといふと、まるで熱湯でもぶつかけられたもののやうに、帽子の代りに甕を頭にかぶつて、戸口へ駈け出すなり、狂人《きちがひ》のやうに、ろくろく足もとも見ずに往来をひた走りに走つたが、やうやく疲労のために駈ける足の速力がゆるんで来た。彼の心臓はまるで磨粉場《こなひきば》の臼のやうに激しくうち、汗が玉をなして流れた。疲れはてて、今にも地面へぶつ倒れさうになつた時、ふと彼の耳に、誰か後ろから追つてくるらしい跫音が聞えた……。彼の息の根はとまつてしまつた……。
「悪魔だ! 悪魔だ!」と、彼は気を失ひながらも精いつぱいに叫んだが、一瞬の後には、知覚を失つて地上へぶつ倒れてしまつた。
「悪魔だ! 悪魔だ!」さういふ声が彼の後ろの方でも聞えた。そして彼は何ものかがけたたましく自分に襲ひかかつたやうにだけは感じたが、ここで彼の記憶の糸はとぎれて、窮屈な棺桶のなかの不気味な佳人のやうにおし黙り、そのままビクとも動かずに路の真中にのびてしまつた。
九
前から見ればともかくも、
後ろ姿は、あれ、鬼だ!
――民話の中より――
「なあ、ウラース!」と、往来に寝てゐた連中の一人が、真夜なかに頭をもちあげて言つた。「おいらの近くで誰だか、悪魔だあつて叫んだでねえか!」
「おらになんの関係があるだ?」傍に寝てゐたジプシイが、伸びをしながら呟やいた。「よしんば、洗ひざらひ身うちの者の名を呼んだにしてからがさ!」
「だけんど、なんだか咽喉を緊めつけられるやうな声だつたでねえか!」
「人が寝言に何をいふか知れたもんでねえつてことよ!」
「それあともかく、ちよつと見て来るだけでも見て来てやらにやあ。おめえ一つ火を燧《う》つてくんなよ!」
片方のジプシイはぶつくさ言ひながら立ちあがつて、二度ばかり稲妻のやうな火花を浴びると、口をとんがらして火口《ほくち》を吹いてゐたが、やがてカガニェーツ――それは陶器のかけらに羊の脂をたたへたもので、小露西亜では普通一般の燈火である――を手にして、道を照らしながら歩き出した。
「ちよつと待つた! ここになんだかうづくまつてるだよ。燈火《あかり》をこつちい見せろよ!」
この時、また幾人かの連中が彼等に加はつた。
「何がうづくまつてるだよ、ウラース?」
「なんでも人間が二人らしいだが、一人が上に乗つかつて、一人が下になつてるだ。はあてな、どつちが悪魔だか、見当がつかねえだよ!」
「そいで、上に乗つてるなあ、なんだい?」
「女《ばば》あだ!」
「そいぢやあ、そいつがてつきり悪魔だんべや!」
どつと一時に哄笑が往還に轟ろきわたつた。
「女《ばば》あが人の上に乗つかつてるからにやあ、この女《ばば》あめ、てつきり人を乗りまはす術《て》を知つてるにちげえねえだよ!」と、輪になつてゐた群衆の中の一人が言つた。
「おい、みんな見ろやい!」と、別の一人が甕の破片《われ》を手に取りあげながら言つた。その甕の残りの半分だけがチェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1-7-83]ークの頭に被さつてゐるのだつた。「なんちふ帽子《しやつぽ》をこの大将はかぶつてやあがるんだい!」
騒ぎの音と笑ひ声が大きくなつたため、それまで気を失つてゐたソローピイとその女房は息を吹き返したが、さつきの驚愕からまだ醒めきらぬ二人は、長いあひだ、きよとんとした眼でおどおどと、浅黒いジプシイたちの顔を見つめてゐた。ほの暗く、顫へながら燃える灯火《あかり》に照らし出されたジプシイたちの顔は、夜ふけの闇のなかに、さながら陰惨な地底の水蒸気につつまれた奇怪な魑魅魍魎のつどひかとも思はれるのであつた。
十
桑原々々!
悪魔のそそのかしだ。
――小露西亜喜劇より――
すがすがしい朝風が目覚めたばかりのソロチンツイの上を吹きわたつた。どの煙突からも煙の渦が日の出を迎へにたちのぼつた。市場はがやがやとざわめき出した。羊や馬が嘶きはじめ、鵞鳥や女商人の喚き声が再び市場ぢゆうにひろがつた――そして不気味な夜明け前にあんなに人々を怯えあがらせた、くだんの『赤い長上衣《スヰートカ》』の怖ろしい取沙汰も黎明《しののめ》の光りと共に消え失せた。
欠びをしたり、伸びをしたりしながら、チェレヰークは教父の家の藁葺の納屋で、去勢牛だの麦粉や小麦の袋のあひだにはさまつて、うつらうつらと夢路をたどつてゐた。が、その快い夢見心地から目醒めようなどとは、てんで思ひもかけぬもののやうであつた。ところが不意に、よく耳馴れて、あたかも彼が密かに懶惰に耽る自分の家の楽しい煖炉棚《レジャンカ》か、それともわが家の敷居からものの十歩《とあし》とは離れてゐない、遠縁の者の開いてゐる居酒屋とおなじぐらゐ、彼に馴染の声が耳にはいつた。
「いい加減にお起きよ、お前さん、お起きつたらさ!」と、その耳もとで嗄がれ声を張りあげながら、優しい奥方が力いつぱい、彼の手をひつぱつた。
チェレヰークは返辞をする代りに頬ぺたを膨らまして、両手で太鼓を打つ真似ごとをおつぱじめた。
「きちがひ!」と叫んで、女房は、あやふく自分の顔をひつぱたきさうな亭主の手から身を退いた。
チェレヰークは起きあがると、ちよつと眼をこすつて、あたりを見まはした。
「なあ、おつかあ、正真正銘、嘘いつはりのねえ話だが、おめえのその御面相が太鼓に見えてさ、おいらがその太鼓で朝の時刻《とき》を打たにやあなんねえことになつてよ、そうら、あの教父の話した、ぺてん師を豚面どもが何したとおんなじやうに、その……。」
「もうたくさんだよ、そんな阿呆ぐちを叩くのはよしとくれ! さあさあ、早く牝馬を売りに行くんだよ。ほんとに、いい笑はれもんだよ、定期市《ヤールマルカ》へ出かけて来て、苧麻ひと握りよう売らないなんて……。」
「だつてさ、おつかあ!」と、ソローピイがすぐにその口尻をうけて言つた。「屹度、おいらをみんなが笑はあな。」
「さあさあ、おいでなさいつたら! あんなことはなくたつて、どうせお前さんは笑はれものなのさ!」
「だつて、おめえ、おいらがまだ顔も洗つてゐねえことは分つてゐべえ。」さういひながらもチェレヰークは、欠びをしたり、背中をボリボリ掻いたりして、さうしてゐる間だけでも怠ける時間を引きのばさうとするのであつた。
「おやおや、とんでもない時に、清潔《きれい》ずきな気まぐれを起したもんだよ! つひぞお前さんが顔なんか洗つたためしがありますかね? そら、手拭をあげますよ、これでその御面相を撫でまはしておけばいいでしよ。」
かう言つて彼女は何か巻きかためたものを手に取つたが――ぎよつとして、それから手を振りはなした。それ『赤い長上衣《スヰートカ》の袖口 』 だつたのだ!
「さつさと出かけて行つて、商売をしていらつしやいつたらさ!」と、自分の亭主が怖ろしさのあまり腰を抜かして、歯をガタガタ鳴らしてゐるのを見ると、彼女はやつと気を取りなほして言つた。
『もう商売《あきなひ》もあがつたりだんべえ! 』 かうひとりごとを言ひながら、彼は牝馬の手綱をほどいて広場へ曳きだした。 『ほんに、さういへば、この忌々しい定期市《ヤールマルカ》へ出かける時だつて、何だか牛の死骸でも背負はされたやうな重つ苦しい気持がしただて。それに去勢牛《きんぬき》どもめが二度ばかり家の方へ後もどりをしかけやがつた。それから、どうも今になつて考げえて見ると、おいらは月曜日に家を出たやうだぞ。なるほど、それがそもそもよくなかつただ!……忌々しい、性懲りもねえ悪魔の野郎めが、片つぽうくれえ袖口がなくつたつてよかりさうなもんだに、しやうもねえ、なんの罪科《つみとが》もない人間を騒がせやあがるだ。仮りにおいらがその悪魔だとしたら――あつ、鶴亀々々!――そんな碌でもない襤褸つきれなんぞ探しに、よる夜なかうろつきまはるなんて馬鹿な真似をするかしらんて? 』
この時、われらのチェレヰークの推理の糸は突然、ふとい頓狂な声のために断ちきられた。彼の眼の前には背の高いジプシイが突つ立つてゐた。
「いつたい何を売りなさるだね、お前《めえ》さんは?」
売り手は口をつぐんだまま、相手を、足の爪先から頭の天辺まで、じろりと眺めただけで、歩みを止めようともせず、手綱をしつかり手ばなさないやうにしながら、落ちつきはらつた顔つきで、かう答へたものだ。
「おいらが何を売るだか、自分の眼で見たらよかんべえ!」
「革紐を売りなさるだかね?」と、ジプシイは、チェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1-7-83]ークの握つてゐる手綱を見ながら訊ねた。
「さうさな、牝馬が革紐に似とるやうなら革紐としておくべえか。」
「それでも、をかしいやね、お前《めえ》さん、それにやあ、どうやら麦藁ばつかり食はせなすつたと見えるだね?」
「麦藁ばつかり食はせたと?」
茲でチェレヰークは手飼ひの牝馬を突きつけて、この恥知らずな誹謗者の鼻をあかせてくれようものと、手綱をぐつと曳かうとしたが、しかし意外にも手応へがなくて、彼の手ははずみを喰つて頤へぶつかつた。見れば、手にあるのは断ち切られた手綱だけで、しかもその手綱には――おお怖ろしや、彼の髪の毛は一時に逆立つた!――『 赤い長上衣《スヰートカ》 』 の袖口のきれつぱしが結びつけてあるではないか!……ぺつと唾を吐いて、急いで十字を切ると共に、両手を泳ぐやうに振りながら、その思ひもかけぬ土産物から逃れようとして、彼は一目散に駈け出したが、その速いこと速いこと、血気の若者そこ退けといつた歩調《あしなみ》で忽ち群集のあひだへ姿を消してしまつた。
十一
わが麦のことで他人に打たれる。
――諺――
「とつ捉まへろ! そいつをとつ捉まへろ!」と数人の若者が狭い町はづれで呶鳴つた。そして気がつくと、チェレヰークは不意に頑丈な手で取り押へられてゐた。
「こいつを縛りあげるんだ! てつきりこいつめが、堅気な人間の牝馬を盗みやあがつたんだよ。」
「とんでもねえ! なんだつておいらを縛るだね?」
「あべこべにこいつの方から訊いてやがらあ! それぢやあ、なんだつて手前は、この定期市《ヤールマルカ》へやつて来てゐる百姓のチェレヰークの牝馬を盗みやあがつたんだ?」
「お前さんがたは気でも狂つただかね、若い衆たち! どこの国にわれとわが物を盗む阿呆があるだ?」
「古い手だよ! 古い手だよ! ぢやあ、なんだつて手前はまるで自分の踵へ悪魔が追ひつきかかりでもしたやうに、矢鱈無性に逃げ出しやあがつたんだ?」
「逃げもせにやあなるめえて、悪魔の着物が……。」
「ええ、こいつめ! その手でおいらを誤魔化さうたつて駄目だぞ。待つてろ、今に委員から二度と再びそんなペテンで人を驚かせないやうに、きつと成敗があるから。」
「とつ捉まへろ! そいつをとつ捉まへるんだ!」さういふ叫び声が反対がはの町端れであがつた。「そうら、そこへ逃げてゆくぞ!」
やがて、我がチェレヰークの眼前へ、後ろ手にいましめられて、数名の若者に引つ立てられた、見るも痛ましい教父《クーム》の姿が現はれた。
「稀代《けつたい》なこともあるものさ!」と、そのなかの一人が言つた。「この、ひと目で泥棒だと分る悪党の言ひ草を聴いてくれ。どうして狂人《きちがひ》みてえに突つ走つたんだと訊ねると、その答へがかうだ――『嗅煙草を喫はうと思つて衣嚢《かくし》へ手を突つこんだら、嗅煙草入の代りに、悪魔の『長上衣《スヰートカ》 』 のきれつぱしが出てきて、そいつが赤い焔をあげて燃えあがつたから、後をも見ずに駈けだしたんだ』とさ!」
「おやおや! さては、こ奴ら二人は、てつきりひとつ穴の狐に違えねえぞ! 両方いつしよに繋いでおくことにしよう。」
十二
『なんで、あなた方はかう私を責めなさるんで?
『どうしてこんなにいぢめなさるんで? 』と哀れな彼が言つた。
『何をそんなにこの私をからかひなさるんで?
『ええ何を、何を? 』さういつて、ぼろぼろと苦い涙をこぼしながら、手を
いた。
――*アルテモフスキイ・グラーク『旦那と犬』より――
アルテモフスキイ・グラーク ピョートル・ペトローヰ (1791―1853)小露西亜の詩人。
「ひよつと、どうかして、お前《めえ》、ほんとになんぞちよろまかしたんぢやあねえかい?」かう、教父と一緒に繋がれて、藁葺き小舎の中で横になつたまま、チェレヰークが訊ねた。
「お前《めえ》までがそんなことを言ふのかい、兄弟? お袋の眼を盗んで、酸乳脂《スメターナ》をつけた肉入団子《ワレーニキ》を摘んだことよりほかに――それもおいらが十歳《とうを》ぐれえの時の話だが――それよりほかに、つひぞ他人《ひと》さまの物に手をかけたことがあつたら、この手足が干からびてしまつてもええだよ。」
「ぢやあ、なんだつておれたちあこんな酷い目に会ふだね? お前はまだしものことよ、ともかく他人《ひと》の物を盗つたつちふ言ひがかりを受けとるだから。ところが、おいらくれえ不仕合せな者があるだらうか、われとわが牝馬を盗んだなんちふ性《たち》の悪い言ひがかりをされてさ? 屹度これあ、なんでも前《さき》の世からの因果で、こんな不運な憂目を見ることだべえなあ!」
「情けねえことぢや、まつたくみじめな、頼りない身の上ぢやよ!」
かういつて教父同士は、めそめそと啜りあげて泣きだした。
「これあまた、どうしたといふだね、ソローピイのお父《とつ》つあん?」と、ちやうどその時そこへ入つて来た、グルイツィコが声をかけた。「いつたい、どいつがお前さんを縛つたんだね?」
「あつ! ゴロプペンコだ、ゴロプペンコだ!」と、ソローピイは嬉しさのあまり叫び出した。「おい、兄弟《きやうでい》、これが、そら、お前に話したあの当人だよ。それあ見ものだぞ! お前の頭よりでつかいくれえのコップを、おらの眼のまへで顔ひとつ顰めねえで呑み乾しただもの。それが嘘だつたら、この場でおいらに天罰が降る筈だ!」
「ぢやあ、兄弟《きやうでい》、なんだつて、お前はそねえな素晴らしい若い衆に恥いかかしただ?」
「この態《ざま》あ見てくんな。」さう、チェレヰークはグルイツィコの方へ向きなほつて言葉をつづけた。「てつきり、お前に恥いかかした罰《ばち》が当つただよ。どうか勘弁してくんな! どこまでもおらはお前の肩さ持ちたかつただが……。けんど、どうしやうがあるだ? 婆あの肚のなかには悪魔が巣くうてゐるだもん。」
「そんなことあ、おいら、根に持つてやしねえだよ、ソローピイのお父《とつ》つあん! なんなら躯《からだ》を自由にしてあげるぜ!」
そこで彼は見張りの若者たちにめくばせをした。すると彼等は逸速くいましめの縄を解きにかかつた。
「そのかはり、ちやんと婚礼の運びにして貰はうぜ! さうして*ゴパックでまる一年も足の痛えほど、うんと一つ騒ぐことにさ!」
ゴパック ウクライナ農民の間に行はれる代表的な舞踏の一種。
「願つたり叶つたりだよ!」ソローピイはぽんと手を叩いて答へた。「ああ、ほんとに今おいらはいい気持だ、まるで人買ひがうちの婆あを引つ浚つて行つて呉れでもしたやうにさ! なあに、かれこれ考へるこたあねえだよ! 善からうが悪からうが構ふこつてねえだ――けふぢゆうに婚礼を挙げつちまやあ、なんてつたつて後の祭りだあな!」
「ぢやあ、屹度だぜ、ソローピイのお父《とつ》つあん。一時間もしたらお前さんとこへ行くだからね。まあ、急いで帰りなすつた方がいいぜ。あつちでお前《めえ》さんの牝馬や小麦の買ひ手が待つてる筈だからさ!」
「なんだと、牝馬が見つかつたちふだか?」
「見つかつたとも!」
去り行くグルイツィコの後ろ姿を見送りながら、チェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1-7-83]ークは、あまりの嬉しさにしばし棒だちになつてたたずんでゐた。
「どうだね、グルイツィコ、おいらがりうりうの細工はまづかつたかね?」さう、くだんの背の高いジプシイが、途を急ぐ若者に向つて声をかけた。「去勢牛《きんぬき》はもうおいらのものだらう?」
「手前《てめえ》のもんだよ! 手前《てめえ》のもんだよ!」
十三
何も怖がることはない、
赤い上靴はいたなら、
可愛いお前のその足で
踏んづけさんせ仇きをば
お前の靴の踵鉄《そこがね》が
鳴りひびくほど!
その敵が
鳴りをしづめてしまふほど!
――婚礼唄――
ひとり家《うち》の中に坐つたまま、パラースカはその美しい頤に肘杖をついて、物思ひに沈んでゐた。さまざまな空想が亜麻いろの頭のぐるりを旋※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してゐた。時々、ほのかな微笑が不意に、その紅いろの唇に浮かんで、何やら喜ばしい思ひが黒い眉をもたげるのであつたが、時にはまた憂への雲がそれを鳶色の澄んだ眼の上へおしさげた。
『もしや、あのひとの言ふやうな上々の首尾にいかなかつたら、どうしようかしら? 』 彼女は何かしら疑念の色を浮かべながら、かう呟やいた。 『もしや、あたしをお嫁にやつてくれなかつたら、どうしよう? もしか……。ううん、そんなことつてあるものか! 義母《おつか》さんだつて自分の好きな真似をしてるんだもの、あたしだつて、かうと思ひ立つたことをして退けて悪いわけはない筈よ。強情のはりつくらなら負けやしないわ。あのひと、ほんとに好男子《いいをとこ》だわ! あのひとの黒い眸が、なんて美しく輝やくことだらう! あのひとの口からもれる『可愛いパラーシュ!』つていふ言葉の優しさ! あのひとには、あの白い長上衣《スヰートカ》がとてもよく似あふわ! 帯がもう少し派手だつたら、もつと好いんだけれど!……いいわ、今にあたしたちがほんとに新らしく家を持つやうになりさへすれば、あたしが織つてあげるから。まあ、思つただけでもぞくぞくするわ! 』 さう言いながらも彼女は、市《いち》で自分に買つた、赤い紙で縁を貼つた小さな鏡を懐ろから取りだすと、秘やかな悦びをもつてそれを覗きこんだものだ。 『さうなつたら、あたし、どこで義母《おつか》さんにでつくはさうが、間違つても挨拶なんかしてやらないから。どんなに猛らうが狂はうがかまやしない。さうだとも、ねえ義母《おつか》さん、いくらあんただつて、もう自分の継娘をひつぱたいたりなんか出来ないことよ! あたしや、砂が石の上で芽をふくことがあつたつて、樫の木が枝垂柳のやうに水ん中へお辞儀をつくことがあつたつて、決してあんたの前へ頭はさげないことよ! あら、さうさう忘れてゐたわ……頭巾帽《アチーポック》をかぶつて見なきやあ、義母《おつか》さんのでも、どうにかあたしに間にあふかしら? 』
そこで彼女は鏡を両手で持つたまま立ちあがると、俯むいてそれを覗きこみながら、ころびはしないかと危ぶむやうな、おつかなびつくりの歩調《あしどり》で、床ではなく、昨夜あの祭司の息子が真逆様にころげ落ちた、くだんの板の取りつけられた天井や、壺の並べてある棚を眼下に見おろしながら、部屋のなかを歩きまはるのであつた。
『ほんとに、あたしつたら、まるで赤ん坊だわ。 』さう、笑ひながら彼女は呟やいた。 『足を踏みだすのが怖いなんて! 』
やがて彼女は足拍子を取りはじめると――だんだん大胆になつて、たうとう終ひには左手を鏡からはなして腰にあて、靴の踵鉄《そこがね》の音も高らかに、鏡を片手で前にささへたまま、好きな自分の唄を口吟《くちずさ》みながら踊りだした。
青い青い蔓雁来《つるにちにち》は
低くさがつて床になれ!
眉毛の黒い、好いひとは
こつちいちよいとお寄んなさい!
青い青い蔓雁来《つるにちにち》は
もつとさがつて床になれ!
眉毛の黒い、好いひとは
もつとこつちいお寄んなさい!
ちやうどその時、チェレヰークが戸口へ近よつたが、わが娘《こ》が鏡を覗きながら、しきりに踊つてゐるのを見て、その場に足を停めた。つひぞない娘の気紛れに噴きだしながら、暫らくはそれに見惚れてゐたが、すつかり夢中になつてゐる娘はなんの気もつかぬらしい様子だつた。ところが、懐かしい歌の調べを耳にするとチェレヰークの胸の血がさわぎだして、やをら誇りかに両手を腰につがへて前へ進み出るなり、彼は前後を忘れてしやがみ踊りをおつ始めたものだ。その時、からからといふ教父の高笑ひが二人をぎよつと震ひあがらせた。
「いや、結構々々、こんなところで親爺と娘が婚礼の前祝ひをやらかしてゐるだな! さあ、早く来るだよ、聟殿がござつただから。」
この最後のひと言にパラースカは、自分の頭に束ねられたリボンの色よりも濃く、頬を赧らめたが、暢気な父親もやうやく自分の帰宅した用件を思ひだした。
「さあ、娘、急いで出かけるだよ! ヒーヴリャの奴め、おいらが牝馬を売つたら、大喜びで飛んで行きをつただよ。」さう言ひながらも、彼は不安さうにあたりを見まはした。「下着《プラフタ》だの、いろんな布地だのをしこたま買ひこむつもりで駈け出して行きをつただから、彼女《あれ》の戻つて来ねえうちに、何もかも鳧をつけてしまはにやなんねえだよ!」
パラースカは家の閾を跨ぐがはやいか、自分のからだが白い長上衣《スヰートカ》を著た若者の腕に抱きすくめられたのを感じた。彼はおほぜいの人だかりといつしよに、往来《おもて》で彼女を待ち受けてゐたのであつた。
「主よ、祝福を垂れ給へ!」と、チェレヰークが二人の頭の上に手を置いて言つた。「この二人が、とも白髪の末まで、幾ひさしく添ひとげまするやうに!」
この時、群衆の中にざわめきが起つた。
「どうしてどうして、滅多にそんなことをさせて堪るもんか!」かう、ソローピイの配偶者《つれあひ》が躍起になつて喚きたてたが、群らがる人々がげらげら笑ひながら、後ろへ後ろへと彼女を押し戻した。
「逆せあがるでねえだよ、逆せあがるでねえだよ! おつかあ!」とチェレ ヰ ークは、頑丈なジプシイが二人がかりで女房の両腕を押へてゐるのを見て、いやに落ちつき払つて言ふのだつた。
「いつたん出来てしまつたこたあ、どうもしやうがねえだよ。変改《へんがへ》するつてことあ、おら大嫌えだで!」
「いけないつたら、いけないよ! そんな勝手な真似をさせてなるもんか!」と、ヒーヴリャはなほも喚き立てたが、誰ひとりそれに取りあふものはなかつた。幾組もの男女が新郎新婦をとりかこんで、二人のぐるりに蟻の這ひ出る隙もない舞踏の壁を作つてしまつた。
粗羅紗の長上衣を著て長い捩《ねぢ》れた泥鰌髭をはやした楽師が弓《きゆう》を一触するや、一同の者が否応なしに、一斉に調子をそろへて踊り出す、その光景を眺めては、なんとも形容しがたい一種不可解な感に打たれざるを得なかつた。恐らく生涯に一度もその気むづかしい顔に笑ひを浮かべたことのなささうな連中までが、足拍子を取つたり、肩をゆすぶるのであつた。誰も彼もがゆらゆらと揺れながら、踊りまはつた。しかし、古ぼけた顔に墓場のやうなそつけなさを表はした老婆たちが、若い、喜々として笑ひ興ずる、元気溌剌たる人々のあひだに揉まれてゐる有様を一瞥したなら、更に奇妙で一層合点のゆかぬ思ひが心の奥底に湧きたつたであらう。まことにたわいもない老婆たちだ! 子供らしい喜びもなければ、同感の閃めきもなく、ただ酒の力がまるで魂のない自動人形を操る機械師のやうに、彼女たちに人間らしい動作を強ひてゐるだけで、ふらふらと酔ひしれた頭を振り動かしながら、新郎新婦の方へは眼を向けようともせず、ただ浮かれさわぐ群衆のあとについて踊つてゐるだけであつた。
やがて、轟ろきと、笑ひと、歌声とがだんだん静かになつていつた。茫漠たる虚空の中に、はつきりしない響きをぼかし、消して、いつか弓《きゆう》の音も跡絶えてしまつた。まだ、どこかで遠い海洋《うみ》の呟やきにも似た足拍子の音だけは聞えてゐたが、間もなく一切の万象《ものみな》が空寂の底に沈んでしまつた。
ちやうどこのやうに、歓びといふ美しくて移り気な訪客がわれわれの許を飛び去つたあとではただ侘しい音だけが過ぎ去つた歓楽を物語るのではなからうか? 音そのものが既におのれの反響《こだま》のなかに悲哀と寂莫の声を聴きながら、奇しくもそれに耳傾けてゐる。不羈奔放な、荒ぶる青春の遊び友だちが一人また一人と次ぎ次ぎに世を去つて、つひにはただひとり彼等の仲間を置き去りにするのも、ちやうどこれと同じではなからうか? 取り残された者は寂しい? ひしひしと胸せまり、悲しみに心はふさがれても、如何とも慰めよう術もない。
――一八三〇年――
底本:「ディカーニカ近郷夜話 前篇」岩波文庫、岩波書店
1937(昭和12)年7月30日第1刷発行
1994(平成6)年10月6日第8刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※底本の中扉には「ディカーニカ近郷夜話 前篇」の表記の左下に「蜜蜂飼ルードゥイ・パニコー著はすところの物語集」と小書きされています。
※題名の「ソロチンツイ」に、底本では「ポルタワ県ミルゴロド郡下の町。ゴーゴリの生まれたところ。」という訳注が付けられています。
※副題の「定期市」に、底本は「ヤールマルカ」とルビをふっています。
※「*」は訳注記号です。底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付いています。
※「灯」と「燈」は新旧関係にあるので「灯」に書き替えるべきですが、底本で混在していましたので底本通りにしました。
入力:oterudon
校正:伊藤時也
2009年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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