ジャン・クリストフ JEAN-CHRISTOPHE 後記 ロマン・ローラン Romain Rolland 豊島与志雄訳

訳者

 改訳の筆を擱《お》くに当たって、私は最初読者になした約束を果たさなければならない。すなわち、ロマン・ローラン全集版の「ジャン・クリストフ」についている作者の緒言の翻訳である。
 この全集決定版は、私が改訳に使用した改訂版とは、一冊につき数か所、文意に関係ない程度において、字句の微細な差異がある。しかしそれはおもに文章上のことであって、またあるところなどは、改訂版のほうが妥当とさえも思える。それゆえ私は、作者の気息がもっとも直接に通じてるものとして改訂版を、改訳の台本に選んだ。
 それはとにかく、両版はほとんどまったく同一のものであるが、旧版とはずいぶん異なっている。表現の変更などは言うまでもなく、個々の事象にたいする批判の是正さえも多少認めらるる。それで私は、言うまでもないことではあるが、旧訳を廃棄する旨をつけ加えておく。
 さて、以下は前述の作者の緒言である。

       緒言

 ジャン・クリストフは将《まさ》に三十年を閲《けみ》せんとしている。彼の友であり彼を慈《いつくし》み、普通のとおり彼よりいっそう炯眼《けいがん》である一人の作家が、彼のつつましい揺籃《ようらん》をのぞきこんで、汝《なんじ》は十二、三人の昵懇《じっこん》者の範囲外にふみ出すことはなかろうと予言したときから、彼はずいぶん道を進んだ。縦横に世界を遊歴して、現在ではほとんどあらゆる国語で語っている。彼がその旅から種々雑多な服装をしてもどってくるとき、彼の父親のほうは、それもまた三十年来世界の各通路でひどく足をすりへらしているが、時とすると彼を見分けかねることもある。そこで、父親たる私の両腕に抱かれていたころのごく小さな彼はどういう者であったか、また彼はいかなる情況のもとで世に生まれ出ることを求めたかを、ここに回想してみたいのである。

 ジャン・クリストフのことを、私は二十年間以上も考えていたのである。最初の観念は、一八九〇年の春ローマにおいて浮かんだ。最後の言葉は、一九一二年六月に書かれた。作品全体は右の期間以外にまたがる。私が見出した草案には、まだパリーの高等師範学校の学生だったころの一八八八年のものもある。
 最初の十年間(一八九〇―一九〇〇)は、おもむろな孵化《ふか》であり、内的夢想であって、私は眼を開いてそれに身を任せながらも、他の仕事を実現した、すなわち、大革命に関する最初の四つの戯曲(七月十四日、ダントン狼、理性の勝利)、「信仰の悲劇」(聖王ルイ、アエルト)、民衆劇論]、その他。私にとってクリストフは、外部には見えない第二の生活であって、そこで私は、自分のもっとも深い自己と接触を保っていた。一九〇〇年の終わりまで私は、ある社会的連係によって、パリーの「広場の市《いち》」につながれていて、そこではクリストフと同様に、ひどく異邦人の感じがした。女が胎児を宿すように私が自分のうちに宿していたジャン・クリストフは、私にとっては、犯すべからざる避難所であり、「静安の島」であって、荒立った海の中でただ私だけがそこに行けるのだった。私はそこに、将来の戦闘のためにひそかに自分の力を蓄積しておいた。
 一九〇〇年後、私はまったく自由な身となり、自分自身と自分の夢想と自分の魂の軍隊とだけを伴《とも》として、荒波の上に決然と突進していった。
 最初の呼号は、一九〇一年八月暴風雨のある夜、シュウィツのアルプス山の上から発せられた。そのことを、私は今日までかつて公表しなかった。それでも幾多の未知の読者は、私の作品の囲壁に沿って鳴り渡るその反響に気づいてくれた。人の思想の中のもっとも深奥なものは、高声に表白されてるところのものではけっしてない。ジャン・クリストフの眼つきに接しただけですでに、世界に散在してる未見の友人らは、この作品の源泉たる悲壮な友愛、この勇壮な気力の河流が出てきた豊饒《ほうじょう》な絶望を、感じてくれたのである。

 山間の暴風雨の夜、電光のはためく下、雷鳴と風との荒々しい唸《うな》りの中で、私は考える、死せる人々のことを、死ぬべき人々のことを、また、空虚に包まれ、死滅の中に回転し、やがては死ぬべき、この地上全体のことを。そしてすべて命数限りあるものに、私はこの命数限りある書物をささげる。本書はこう言いたがっている。「同胞たちよ、たがいに近寄ろうではないか。われわれを隔ててるもののことを忘れようではないか。われわれをいっしょにしてる共通の悲惨のことだけを考えようではないか。敵もなく悪人もなく、ただ惨《みじ》めな人々があるばかりだ。そして永続し得る唯一の幸福は、たがいに理解しあい愛しあうこと――知力に愛――生の前と後との二つの深淵《しんえん》の間でわれわれの闇夜《やみよ》をてらしてくれる唯一の光明だ。」
 すべて命数限りあるものに――すべてを平等ならしめ平和ならしむる死に――生の無数の小川が流れこむ未知の海に、私は自分の作品と自己とをささげる。
  一九〇一年八月モルシャッハにて

 いよいよこの作品の製作にとりかかるずっと前から、多くの主要な事件や人物は草案されていた。クリストフは一八九〇年以来、グラチアは一八九七年より、燃ゆる荊のアンナの姿は全部一九〇二年に、オリヴィエとアントアネットは一九〇一年から一九〇二年に、クリストフの死は一九〇三年(曙の最初のところが書かれる一か月前)。「今日、一九〇三年三月二十日、いよいよジャン・クリストフを書き始める、」と私がしるしたときには、私は麦の穂束をこしらえるのに、穂をよりわけ締めつけるだけでよかったのである。
 それゆえ、私が成り行きしだいに無計画にジャン・クリストフの中にふみこんだと想像する、浅見な批評家の説が、いかに不当なものであるかは明らかであろう。私は早くから、堅固な構成にたいする欲求と愛着とを、フランス流で古典的で師範学校的である教育から得てきたし、血液の中にもそれをもっていた。私はブルゴーニュの建築狂の古い種族なのである。一つの作品に手をつけるときには、土台を固めず主要な線を引かずにはおかないだろう。最初の数語が紙上に投げ出される前に、頭の中で全体的に組み上げられた作品としては、ジャン・クリストフ以上のものは他にない。一九〇三年三月二十日のその日には、私の草稿(一)の中では全編の区分も決定していた。私は明らかに十の部分――十巻――を予見していたし、実現したのとほとんど同じくらいに、線も量も割合も定めておいた。

 (一) ジャン・クリストフに関する原草稿、覚え書や雑記の類はすべて、二綴《つづ》りにして、ストックホルムのスウェーデン学会のノーベル文庫に、一九二〇年私の手で納められている。ただアントアネットの原稿は例外で、それは故郷ニヴェールの地に贈られた。(私はそれを一九二八年、ニヴェールのニエーヴル県立文庫に寄託した。)

 それらの十巻を書き上げるには約十年間を要した(二)。スイスのジュラ山中のフローブュール・スュール・オルタンで――後に、燃ゆる荊の傷ついたジャン・クリストフが、樅《もみ》と ぶ橅《そ》との悲壮な闘争の近くに潜伏することになった、あの土地で――一九〇三年七月七日に執筆を始めて、マジュール湖岸のバヴェノで、一九一二年六月二日に完結した(三)。その大部分は、パリーの塋窟《カタコンブ》の上手のぐらぐらした小さな家――モンパルナス大通り一六二番地――で書かれたのであって、その家は、一方では、重々しい馬車や都会のたえざるどよめきに揺られていたが、他の一方には、饒舌《じょうぜつ》な雀《すずめ》や喉《のど》を鳴らす山鳩《やまばと》や美声の鶫《つぐみ》が群がってる古木のある、古い修道院の庭の、日の照り渡った静寂さがたたえていた。そのころ私は、孤独な困窮な生活をしていて、友人もあまりなく、自分でこしらえ出す楽しみ以外の楽しみを知らず、教師の務めや論説執筆や歴史の勉強など、堪えがたいほどの仕事をになっていた。糊口《ここう》の労苦に追われて、クリストフのためには日に一時間しか割《さ》けなかったし、それさえ無理なことがしばしばだった。しかしその十年間、一日としてクリストフに面接しない日はなかった。クリストフは口をきいてくれないでもよかった。彼はそこにいた。著者は彼の影と対語をするのである(四)。そして聖クリストフの顔が著者をながめてくれる。著者は聖クリストフの顔から眼を離さない……。

    いかなる日もクリストフの顔をながめよ、
    その日汝は悪しき死を死せざるべし(五)。

  (二) ジャン・クリストフは最初、シャール・ペギー主宰のカイエ・ド・ラ・キャンゼーヌの十七冊となって、一九〇四年二月から一九一二年十月までに刊行され、つぎに、オランドルフ書店から十冊にして刊行された。前者の版にある或る数章はその後削除された。(ことに、反抗の中で、クリストフの青年時代のドイツの詩に関する小論。)
(三) 各巻の製作年月はつぎのとおりである。
     曙と朝、一九〇三年七月――十月。
     青年、一九〇四年七月――十月。
     反抗、一九〇五年七月――一九〇六年春。
     アントアネット、一九〇六年八月――十月末。
     広場の市[#「広場の市」に傍点]、一九〇七年六月――八月末。
     家の中、一九〇七年八月未――一九〇八年九月。
     女友達、一九〇九年六月――九月初め。
     燃ゆる荊、一九一〇年七月末――一九一一年七月。(ある重大事とトルストイ伝の執筆とのために中断。)
     新しき日、一九一一年七月未――一九一二年六月。
(四) 広場の市の巻頭には、「著者とその影との対話、」すなわちロマン・ローランとジャン・クリストフとの対話がある。しかし両者のいずれが「影」であるかは疑問のうちに(故意に)残されている。
(五) この銘は、中世の教会堂(そしてことにパリーのノートル・ダーム寺院)の脇間の入り口に、聖クリストフの像の台石に刻まれてるものであるが、著者によって象徴的に採用されて、カイエ・ド・ラ・キャンゼーヌの原版の各冊の終わりにつけられていた。

 パリーにおいて無関心なあるいは皮肉な沈黙にかこまれながら、私をしてこの広範な散文詩に着手せしめ、それを最後までやりとげさしたところの、母線的観念の幾つかを、ここに披瀝《ひれき》してみたい。この散文詩は、実際的障害を少しも考慮せずして書かれたものであり、フランスの文学界に認められてるあらゆる慣例を断然破棄したものである。成功などは私にとってどうでもよいことだった。成功などは問題ではなかった。内心の命令に従うことが問題であった。
 長い物語の中途に、ジャン・クリストフのための自分のノートの中に、私は一九〇八年十二月のつぎの文句を見出す。
「私は文学の作品を書くのではない。信仰の作品を書くのである。」
 人は信ずる場合には、結果を懸念せずに行動する。勝利か敗北かは問うところでない。「なすべきことをなせ!」
 私がジャン・クリストフの中で負担した義務は、フランスにおける道徳的および社会的崩壊の時期にあって、灰の下に眠ってる魂の火を覚醒させることであった。そしてそのためにはまず、積もり重なってる灰と塵芥《じんかい》とを清掃することだった。空気と日光とを壟断《ろうだん》してる広場の市[#「広場の市」に傍点]に、あらゆる犠牲を覚悟しあらゆる汚行をしりぞける勇敢な魂の小団を、対立させることだった。私はそれらの魂を、彼らの主長となるべき一英雄の指呼のままにその周囲に集めたかった。そしてその主長を得るためには、それを創造しなければならなかった。
 私はその主長について二つの肝心な条件を要求した。
 一――自由な明晰《めいせき》な真摯《しんし》な眼、ヴォルテールや百科全書派《アンシクロペジスト》らが、当時の社会の滑稽《こっけい》と罪悪とを素朴《そぼく》な視力によって諷刺《ふうし》させんがために、パリーにやって来さした、あの自然人たち――あの「ヒューロン人」たち――のような眼。私は現今のヨーロッパを見てそして批判せんがために、そういう観測所――率直な両眼を必要とした。
 二――見てそして批判することは、出発点にすぎない。そのつぎは行動である。何を考えようと、なんであろうと、あえてそうするのでなければいけない。――あえて言うべし。あえて行動すべし。十八世紀の「素朴人」をもってしても、嘲笑《ちょうしょう》するには足りる。しかし今日の力戦のためにはそれはあまりに虚弱である。英雄が必要である。英雄たれ!
 ジャン・クリストフの初めのほうと同じころに出たベートーヴェン伝の緒言の中で、私は「英雄」の定義を与えておいた。私は英雄という呼称を、「思想あるいは力によって打ち勝った人々に拒む。ただ心情によって偉大だった人々だけを、私は英雄と呼ぶ。」「心情」という言葉の意味を布衍《ふえん》すれば、それは単に感性の範囲内に属するものではなくて、内部生活の広大な領域を意味するのである。その領域を支配してその根原的な諸力に拠《よ》って立つ英雄こそ、敵の世界に対抗し得るのである。
 自分の英雄について私がいだいた最初の考えの中では、ベートーヴェンが自然にそのモデルとして浮かんできた。なぜなら、近代の社会では、そして西欧の諸民族の中では、ベートーヴェンこそは、広大な内心の領土の主君たる創造的能力に、万人の同胞たる心情の能力を結合せしめた、異例な芸術家の一人であるから。
 しかしながら、ジャン・クリストフのうちにベートーヴェンの肖像を認めることは、差し控えてもらいたい。クリストフはベートーヴェンではない。彼は一個の新しいベートーヴェンであり、ベートーヴェン型の英雄ではあるが、しかし自律的なものであり、異なった世界に、われわれ現代の世界に投げ出されたものである。ボンの音楽家との経歴の類似は、第一巻曙の中のクリストフの家庭的特質にとどまる。私が作品の初めにそれらの類似を取り入れたのは、主人公のベートーヴェン的系統を肯定せんがためであり、西欧ライン地方の過去の中にその根を張らせんがためであった。私は彼の最初の幼年時代の日々を、古いドイツの――古いヨーロッパの――空気で包んだ。しかしその樹木が一度地上に伸び出せば、それを取り囲むものは現代である。そして彼自身も、徹頭徹尾われわれのうちの一人――西欧の一つの戦役から他の戦役へ、一八七〇年より一九一四年へ進む、その時代の勇壮な代表者である。
 彼がそこで生長した世界は、その後に展開した恐るべき事変のために粉砕され混乱されたとは言え、柏《かしわ》の木クリストフはなおつっ立ってると充分に信ぜらるる。嵐《あらし》のために若干の枝は吹き折られたが、幹は揺るがなかった。世界の各地からそこに避難所を求めに来る小鳥によって、日ごとにそれが証明される。もっとも顕著な事柄は、そしてこの作品をこしらえるおりの私の期待をはるかに越ゆることであるが、ジャン・クリストフはもはやいずれの国においても他国人ではないということである。あらゆる遠隔地方から、あらゆる異民族から、シナから、日本から、インドから、アメリカ諸国から、ヨーロッパのあらゆる民衆から、多くの人々が私のもとへ言いに来た。「ジャン・クリストフは私たちのものだ。彼は私のものだ。彼は私の兄弟だ。彼は私だ……。」
 そしてそのことは、私の信念の真実だったことを、私の努力が目的に達したことを、私に証明してくれた。というのは、創作の頭初において、私はこう書いておいた(一八九三年十月)。
「人類の一致、それがいかなる多様な形態のもとに現われようとも、常にそれを示すこと。それこそ、科学のそれと同様に芸術の第一の目標でなければならない。それがジャン・クリストフにの目標である。」
 ジャン・クリストフのために選まれた芸術的形式と文体とについて、多少の考慮を私は披瀝《ひれき》すべきであろう。なぜなら両者は、私がこの作品とその目標とについていだいていた意想に密接な関係を有するから。けれども私は、自分の美学的見解についての一般的論説の中で、いっそう長くそれを取り扱うつもりでいる。私の美学的見解は、現代フランス人の大多数のそれとはまったく異なる。
 ただここでは、一言いっておけば足りるであろう。すなわち、ジャン・クリストフの文体は(それによって私の作品の全体は誤った批判を受けがちであるが、)「カイエ・ド・ラ・キャンゼーヌ」叢書《そうしょ》刊行の初めのころ、私の全努力と戦友ペギーの全努力とを鼓舞してくれた主要観念によって、指導されたものである。その観念は、ゼラチン的な時代と環境とにたいする反動から、われわれが極端にそうであったとおりに、粗暴な雄々しいしかも清教徒的なもので、だいたいつぎのようなものであった。
「直截《ちょくせつ》に語れ。脂粉と嬌飾《きょうしょく》とをなくして語れ。理解されるように語れ。一群の精緻《せいち》な人々からではなく、多数の人々から、もっとも単純な人々から、もっとも微々たる人々から、理解されることだ。そしてあまりによく理解されることを、けっして恐るるな。影もなく覆面もなく、明瞭《めいりょう》に確実に、必要によっては重々しく、語れよ。そのためにいっそうしっかりと地面に接してさえおれば、その他はどうでもよろしい。そしてよりよく思想を打ち込むために、同じ語を繰り返すことが有効であるならば、繰り返し、打ち込み、他の語を捜すな。一語たりとも無駄《むだ》になすな。言葉は行動であらんことを!」
 これは、現代の美学主義に対抗して、今日でもなお私が主張してる原則である。行動を欲し行動をになってるある種の作品に、私はそれをやはり適用する。しかしあらゆる作品にではない。真に読むことを知ってる者は、ジャン・クリストフと歓喜せる魂との間の、職分や技術や調和や諧調《かいちょう》の本質的な差異を見てとるだろう。リリューリやコラ・ブルーニョン[#「ブルーニョン」に傍点]のように、律動や音色や和音のまったく別な演技と結合とを要求する実質をもってる作品については、言うまでもないことである。
 それになお、ジャン・クリストフの中においてさえ、あらゆる巻が同じ厳密さで最初の要求に応じてはいない。初めの戦闘の清教主義は、かつて旅の終わり[#「旅の終わり」に傍点]、燃ゆる荊、新しき日)と題されていた第三部になると、ゆるんできている。主人公の上におりてきた年齢からくる和らぎをもってして、作品の音楽はいっそう複雑になり色合いに富んでいる。しかし頑固《がんこ》な意見はそれに注意を配らずに、全作品について、全生涯《しょうがい》について、同じ一つの批判――あるいは黒のあるいは白の批判――で満足している。

 私のノートの綴《と》じ込みの中に、ジャン・クリストフに傍点]の裏面を説明する豊富な記述が、やがては見出されることだろう。とくに、広場の市および家の中に記載されてる現代社会に関する事柄について。しかしそのことを語るにはまだ時期が早い(六)。

  (六) このことについて私は、作中の人物と実在の人物とを同視しないように、読者に注意しておかなければならない。ジャン・クリストフはモデル小説ではない。しばしば現実の事件や個人を目がけてることはあっても、ただ一つの肖像をも――過去のも現在のも――含んではいない。しかしながら、記載されてるすべての人物はおのずから、創作の働きのなかで溶解され変形されたる、実人生の多くの経験や思い出によって養われている。したがって、現代の多数の著名な人々が、私の諷刺の中に自分の姿を認めるようなことになり、私にたいして深い憎悪をいだくようなことになった。その結果は、一九一四年戦役中、私の乱戦を超えての機会に、あるいはそれを口実に、現われたのだった。

 けれども、初めの計画に予定されながら実現されなかった一部分のことを述べるのは、おそらく興味あることかもしれない。それは女友達と燃ゆる荊との間に置かれるはずだった一巻で、その主題は革命であった。
 それはソヴィエット社会主義共和国連邦における現在の勝利ある革命ではない。あの当時(一九〇〇年より一九一四年の間)革命は打ち負かされていた。しかし今日の勝利者らをこしらえたものは昨日の敗者らである。
 私のノートの中には、除去されたその一巻のかなりつき進んだ草案がある。そこには、フランスとドイツとから放逐されてロンドンに逃亡し、各国からの亡命者や被追放者の群れに立ち交じってるクリストフがいた。彼はそれらの首領らの一人と親交を結んだ。それはマッチニ(七)あるいはレーニンのような素質を有する精神的偉人であった。この強力な煽動《せんどう》者は、その知力と信念と性格とによって、ヨーロッパのあらゆる革命運動の指導的頭脳となっていた。そしてクリストフは、ドイツとポーランドとに突発したそれらの運動の一つに、積極的に参加したのである。それらの事変や暴動や戦闘や革命各派の記述は、この巻の大部分を占めていて、最後に革命は抑圧され、クリストフは逃亡して、幾多の危険の後に、スイスに落ちのびた。そこでは情熱が彼を待ち受けていて、そして燃ゆる荊となるのである。

  (七) 私は当時マッチニ伝の準備をしていて、それは私の「英雄伝」の中にはいるはずになっていた。数年間かかって記録をとっていた。ここに述べるには不穏当な種々の理由から、私はその計画を中止したのである。

 私はまた、一世代のこの長い詩劇への結論として、人生の偉大な闘士が朗らかにはいりこむべき、一種の「自然交響曲」を――「海の静寂(八)」ではなく、「大地の静寂」を――計画していた。

(八) ゲーテの名高い詩の表題の意味で、それはベートーヴェンによって作曲されている。


 私はこう書いている。「これらの人間的叙事詩に、革命劇にたいして企図してるのと同様な一つの結末(九)を与えたい欲求に、私はいつも立ちもどってくる。すなわち、あらゆる情熱も憎悪も自然の平和の中に融《と》け合う。無窮の空間の静寂が人間の擾乱《じょうらん》を取り囲んでいる。人間の擾乱は、水中に投ぜられた小石のようにその中に没する。」

(九)「革命劇」への結末はその後書かれた。それは獅子座の流星群[#「獅子座の流星群」に傍点]である。

 常に一致についての考えである。人間相互の間の一致、人間と宇宙との一致……。
「抱擁し合え、無数の人々よ! 全世界へのこの接吻《せっぷん》!」(一〇)
(一〇) シルレルの言葉。ベートーヴェンによって、第九交響曲の喜びの歌の中に作曲されている。

 私はそれよりもむしろ、ジャン・クリストフの最後に、「愛と憎との厳《おごそ》かな結合たる諧調《かいちょう》」(一一)を、進みつつある行動の胸中におけるその力強い平衡を、選んだのである。なぜなら、その最後は一つの終末ではなくて、一つの宿駅だからである。ジャン・クリストフに傍点]はけっして終わりはしない。ジャン・クリストフの死そのものは、律動の一瞬にすぎないし、永遠の大なる息吹《いぶ》きの息の間《ま》にすぎない……。
「他日われは新たなる戦いのためによみがえるであろう……。」(一二)

(一一)ジャン・クリストフの最後の場面参照。
(一二)瀕死《ひんし》のジャン・クリストフの最後の言葉。


 かくして、ジャン・クリストフはなお新時代の仲間となる。彼はたとい幾度死のうとも、常によみがえり、常に戦うだろう。「いずれの国の人にてもあれ、闘い、苦しみ――ついには勝つべき――あらゆる自由なる男女」の同胞で、彼はあり、またあるだろう。

 一九三一年復活祭 ヴィルヌーヴ・デュ・レマンにて
                          ロマン・ローラン

底本:「ジャン・クリストフ(四)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年9月16日改版第1刷発行
※(一)~(一二)は注釈番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように付いています。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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